聖公会とは
2020,5,6 司祭ミカエル藤原健久
《聖公会、と言われると…。正直な姿》
*一番の特徴は、「プロテスタントとカトリックの中間のような教会」。
「宗教改革を経験した」という点では「プロテスタント」、
「伝統を大切にしている」という点では「カトリック」。
*それぞれの点を大切にしているから、それぞれの気持ちも良く分かる。
だから、カトリックとプロテスタントの橋渡しをする「ブリッジ・チャーチ」=「橋渡し教会」と言う面もある。
*信仰生活と共に、社会生活も大切にする。「良き信徒は良き社会人」のような感覚。お祈りと共に、理性や常識感覚も大切にする。
*多分、日本の中で、一番ゆるい教会。「生ぬるい」「中途半端」とか言われて、自分でも「そうかなぁ」と思うときもあるけど、あまり熱心になりすぎて周囲とトラブルを起こすのもどうかなぁと感じる。
*それでもやっぱり「クリスチャンだから」、ちょっとぐらいは周りに優しく、困っている人を助けるようなこともしてみたいと考えている。
*聖書は持っているけど、自主的に読んだことはない、と言う人が、結構いる。
《他の教会では…》
*「聖書は毎日読んでます。今まで何度も通読しました。ボロボロになったので、何冊も買い替えました」というのが当然という教会もある。
*「毎週、礼拝に行くのが当たり前。よっぽどのことがない限り、礼拝を休むなんてありえない。」「毎週、できれば毎日、ミサ(聖餐式)のパンを食べなければならない。そうでないと、下手したら地獄に落ちる。」と考えている人が殆どと言う教会もある。
*「キリスト教が正しくて、他の宗教は間違っている。神社のお祭りや、お寺の法事に行ってはダメ。お葬式でも、キリスト教以外なら、できれば参加しない方が良い。」という考えの人が多い教会もある。
*「献金は、自分の収入の10分の一が基本。できればもっと献金する方が良い」と教育している教会もある。
*エレキギターやドラムで演奏し、みんな手拍子しながら賛美歌を歌う教会もある。楽器は一切使わず、アカペラですべてを歌う教会もある。椅子が無くて立ったままの教会、パイプ椅子の教会、個人の家で礼拝を行う教会もある。
*お祈りはすべて、自分の言葉で祈る教会がある。礼拝の内容を全て暗記して、何も見ずにみんなと声を合わせてお祈りする教会もある。
*説教が毎回1時間ほどあり、信徒は聖書とノートを開け、メモを取りながら説教を聞く教会もある。
*牧師さんが背広にネクタイという、信徒と変わらない服装で礼拝している教会もある。
……などなど、いろんな教会がある。私たちが日頃行っている聖公会の礼拝や信仰生活は、あくまで一つの姿であり、聖公会の「個性」。どの教会も、すべて「個性」がある。みんな同じキリスト教だけど、互いの「個性」は尊重すべき。自分の「個性」はどのようなもので、どこから来ていて、どうするのが良いかを考えるのは大切。
【「聖公会」とは?】
*英語で言うと、「Anglican Church」または「Episcopal Church」。
「Anglican」は、「英国教会」の意味。→「英国教会の流れを汲む教会」
「Episcopal」は、「主教制」の意味。→「主教制を採る教会」
世界全体の聖公会諸教会の交わりを、「Anglican Comunion」と呼ぶ。
(世界の多くで「Anglican」を使っている。「Episcopal」は、米国聖公会等が使っている。)
*漢字で書くと、「聖公会」。これは、「使徒信経」の最後の言葉、(口語では「聖なる公会」)から引用。意味は、「Holy Catholic Church」、「聖なる公同の教会」。直接は「Anglican Church」「Episcopal Church」と関係のない言葉だが、結果的に聖公会の信仰を表す言葉となっている。すべての教会は、普遍的(Catholic・公同的)な教会。ローマにおける普遍的教会が「ローマ・カトリック教会」。英国には、英国における普遍的な教会があり、それが「Anglican Church」。その流れを汲んでおり、日本における普遍的な教会の一つが「日本聖公会」。「聖公会」と言う言葉は、漢字文化圏で用いられている。(日本聖公会、大韓聖公会、台湾聖公会、香港聖公会など)。「日本聖公会」を英語で表現すると、「Holy Catholic Church in Japan」などになるが、正式な表記は「Nippon Sei Ko Kai」(略記NSKK)。
*組織としては、主教制を採っているため、主教の統括する「教区」(Diocese)が基本となる。教区内に数十の「教会」(Parish)があり、主教の監督の元、司祭、執事が牧師、牧師補として勤務する。教区がいくつか集まり「管区」(Province)を形成する。管区の代表は首座主教と呼ばれ、主教たちの中から選ばれる。多くの場合、一つの国に一つの管区だが、範囲が広大であったり、信徒が多い場合には、一つの国に複数の管区が存在する。現在、世界中に、約40の管区と8000万人ほどの信徒がいる(プロテスタントと言われるグループの中では最大規模)。世界全体の管区の交わりを「Anglican Comunion」と呼び、英国教会のカンタベリー大主教を中心に交わりを保っている。カンタベリー大主教は、世界中の聖公会で尊重し、信仰的に指導を仰ぐ存在だが、教会政治上の権限はない(カンタベリー教区以外では)。実際の権限を持つのは、あくまで主教であり、人事や教会政治、信仰的指導等を、管轄する教区内で行う。首座主教も、管区内の教区(自分が管轄する教区以外)において権限はない。10年に一度、世界中の主教たちが集まって「ランベス会議」を行う。但し、この会議での決定も、主教が受け入れない限り権限を持たない。
(ローマ・カトリック教会は、バチカンを中心とした組織であり、ローマ教皇が世界中の教会の全ての権限を持っている。プロテスタントの多くの教会は「各個教会主義」であり、各教会の牧師または教会委員会が全ての権限を持っている。〔招聘性の教会の場合、牧師の任免は教会委員会が決定する〕。)
【聖公会の歴史】
まずはキリスト教の歴史から。
イエス様は、当然のことながらユダヤ生まれ、ユダヤ育ちのユダヤ人。最初のキリスト教は、ユダヤの国で生まれた。そこからクリスチャンたちが、使命に燃えて、世界中に宣教していった。新約聖書には、ローマ帝国の中心であるローマまで広がっていったことが記されている。そのうちキリスト教はローマ帝国全体に広がっていった。最初は迫害されていたが、四世紀には皇帝により公認され、ローマ帝国の国教にまでなった。そのうち国は、東西に分かれ、教会も東西それぞれで発展してゆく。東の中心はコンスタンチノープル(現トルコのイスタンブール)、西の中心はローマ。それぞれの文化や政治状況に合わせて、教会も、礼拝の仕方や考え方に違いが出てくる。そして、とうとう、11世紀に東西の教会は分離する。東は東方正教会(Eastern Orthodox Chrch:「東方の正統な教会」)、西はローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church:「ローマを中心とした普遍的(公同的)な教会」)と呼ぶ。東方正教会は、現在までそのまま続いている。ローマ・カトリック教会からは、16世紀の宗教改革から、多くのプロテスタント教会が生まれ、ローマ・カトリック教会から分離した。
*《英国のキリスト教》
6世紀末にオーガスチン(カンタベリーのオーガスチン)が英国宣教開始。ローマ教皇に命じられ、バチカンから派遣された。しかし到着してみると、既にキリスト教が存在していた!かつてのキリスト教迫害期に大陸から逃げてきたクリスチャンたちが、英国にキリスト教を根付かせた。それは、ヨーロッパ先住民族であるケルト人の文化や伝統と結びついたキリスト教。「調和」や「永遠」を重んじた。美しく細かい装飾で彩られた祈祷書や、十字架に円型が合わさったケルト十字などにそれが表れている。後に、話し合いでローマ・カトリック教会の様式に合わせるようになったが、「英国には、ローマが来る前から独自の信仰形態があった」というのが、英国のクリスチャンたちの誇りとなっていった。
*《宗教改革》
ルネサンス(文芸復興)における古典研究、中世封建制の弱体化による国王の権力集中、国家意識の増大による、国境を超えた組織としてのローマ・カトリック教会への反発などから、16世紀に宗教改革(Reformation)が起こる。ドイツではルター、スイスではツヴィングリ、カルヴァンらによって進められた宗教改革の波は、ヨーロッパ全体に広がった。英国では、大陸より少し遅れて始まった。英国王ヘンリー8世の離婚問題に端を発し、ローマ・カトリック教会から離脱し、聖書の英語訳、祈祷書の編集、英語による礼拝、等を行い、国王を最高統治者とした「国教会」を形成した。ヘンリー8世の後、エドワード6世はよりプロテスタント的改革を進め、メアリー女王の時にはローマ・カトリックに復帰し改革派を弾圧し、そしてエリザベス1世の時に、カトリックとプロテスタントの中間である「中道」(Via Media)の立場を明らかにし、現在まで続く聖公会の基礎を確立した。
*《海外宣教の時代》
農業の発達、産業革命、新たな海外航路の開発、帝国主義的海外進出などが進んだ近代、人文科学の分野では自然科学が発展し、それに伴いキリスト教界では合理主義的な神学が広がった。同時に、それに反対する感情的、原理主義的な信仰運動も盛んになった。18世紀にアメリカで大覚醒(The Great Awaking/Revival)が起き、熱狂的なプロテスタント運動が盛んになった。そのような動きや人々を「福音主義」と呼ぶようになった。宗教心の高揚に伴い、伝道意欲も高まり、プロテスタント各派は伝道協会を作り、熱心に国内外に伝道した。英国聖公会では福音主義的なCMS(Church Misionary Society:英国教会宣教協会)、カトリック的性格の強いSPG(Society for Propagation of the Gospel in Foreign Parts:海外福音宣教協会)が誕生し、また米国聖公会も海外伝道組織を作り、世界各地に宣教師を派遣した。
*《日本聖公会の形成》
聖公会と日本との出会いは、ベッテルハイムの琉球伝道、聖公会信徒のペリー、ハリスらの来日などがあるが、本格的な宣教活動は、1859年に、ウイリアムズたちの来日から始まる。ウイリアムズは米国聖公会より派遣され、長崎に数年滞在して、日本語の習得、祈祷書の翻訳などの準備を行い、米国に一時帰国して主教に按手され、再来日して大阪、川口居留地から宣教を始めた。その後、東京に転居し、多くの教会と共に、立教などの教育、福祉、医療施設も設立してゆく。宣教師は米国だけでなく英国のCMS、SPG、また後にはカナダ聖公会からも派遣され、日本各地で宣教する。1887年に第1回総会を行い、日本聖公会を形成した。現在11教区、教会数約300、信徒数(現在堅信受領者)約2万人。京都教区は、富山から和歌山まで2府6県(大阪府は岸和田のみ)にまたがり、教会数約40、教役者数約30、信徒数約1500人。
【聖公会の性格】
「英国で国教会だった」というのが、聖公会を特徴づけているように思う。
他のプロテスタント教会は、基本的には、「考え方、信仰の持ち方」によって集まる。けれども、聖公会は「国教会」なので、「英国国民が、分裂することなく、みんなでお祈りできる」というのが最優先。
なので、できるだけ幅広く、みんなが合意できるように教会を整える必要があった。
そこから次のような性格が生まれてきた。
*《保守も革新も》
保守派の人も、革新派の人も、分裂することなく同じ「聖公会」に属することが大事。
聖公会は教義上も、実際にも、保守と革新が共存する。
+〔教義上では、「伝統」と「改革」を併せ持つ〕
「伝統」としては、古い立派な礼拝堂や、きらびやかな祭服をそのまま使い続けていることもあるが、最も大切なのは「職制」。聖職者のあり方が、最も伝統を表しているとされる。聖公会は「主教:Bishop」「司祭:Priest」「執事:Deacon」の「三聖職位」を、初期の教会から受け継がれてきた伝統として、大切に守り続けている。同じ制度を持っているのは、ローマ・カトリック教会、東方正教会など。プロテスタント教会の多くは「万人祭司制」を採り、「信徒も牧師も神様の前に同じ立場。信徒全員が祭司(司祭)として人類のためにお祈りをし、世界平和のために奉仕する。牧師はあくまで信徒の奉仕の働きの一つ。」という考え方をする。ただし、もちろんキリスト教の伝統は「職制」だけではなく、様々な在り方で守られる。「三聖職位」を持っていない教会も、違う形でキリスト教の伝統を守っている。
「革新」としては、宗教改革の時から大切にされているプロテスタント的な信仰を守っていること。たとえば、「聖書中心主義」…人間の救いにとって聖書は完全。だから聖書に記されていないことは強制されない。「信仰義認」…人間は信仰によってのみ救われる。献金の額や、社会的評価、体力知力によって救われるのではない。等々。
+〔実際に、様々な人が、聖公会にいる〕
例えば、「ハイ・チャーチ」と呼ばれる保守的な人々も居れば(宣教団体ではSPG)、「ロー・チャーチ」と呼ばれる福音主義的な人々も居る(同じくCMS)。その中間的な人々(「ブロード・チャーチ」とも呼ぶ)も居る(同じく米国聖公会など)。派手な祭服を身に着け、お香を焚き、聖水を撒く牧師も、もっとあっさりとした格好の牧師もいる。パイプオルガンで重厚な奏楽をする教会も、エレキギターやドラムセットで演奏する教会もある。政治的に保守的な人も革新的な人もいる。
いろんな人が居る、多様な人が居る方が良い、それが聖公会の考え方。
*《祈祷書を使う》
ただし、それだとバラバラになってしまう。必要最低限の共通項が必要。それが「祈祷書:The Book of Common Prayer」。ここには、毎日の礼拝から日曜日の聖餐式、洗礼式からお葬式、聖職按手式から礼拝堂聖別式まで、私たちが人生で経験するすべての礼拝が記されている。
「祈祷書」には、牧師や会衆が唱えるべきお祈りの言葉と、「使用説明書」のように、礼拝の仕方を説明する但し書き(「ルブリック」。小さな文字で印刷されている)が印刷うされている。
「祈祷書」の特徴は、「細かい説明はしない」という点。行うべきお祈りの仕方ははっきりと示すけれども、それがどんな意味があって、どのように考えなければならないのか、と言う点は、全く記さない。だから、解釈は各自の自由。保守的に解釈しようと、革新的に解釈しようと自由。また、「祈祷書」に書いてあること以外は、何をしても自由。お祈りを重々しく唱えようが、歌おうが、踊ろうが、また自由祈祷を付け加えようが、聖歌を何曲歌おうが、自由。
聖公会では、「祈祷書」に基づいて礼拝しなければならないが、「祈祷書」に書かれていること以外は、何も強制されない。
「祈祷書」の存在は、聖公会の大きな特色。「祈祷書」を持っているのは、聖公会だけ。聖餐式の様式が殆ど同じローマ・カトリック教会の場合、礼拝に応じた式文がそれぞれあり、「祈祷書」のように一冊にまとまってはいない。プロテスタント教会の場合、多くの教会が、「自由祈祷」でお祈りするため、特別な場合以外は、文章に定められていない。
*《地域性》
「国教会」の時代には、国内のどの町や村にも教会があって、地域住民はすべて教会の信徒だった。だから、教会の仕事は、礼拝の事だけでなく、信徒一人一人の日常生活についても気を配り、支えていかなければならなかった。
聖公会は、地域性を大事にしようとする教会。信徒の信仰上の課題だけでなく、地域の課題も大事にしよとする。「開かれた教会」と言う言葉は、地域の課題を共に担おうとする意識の表れ。
教会だけでなく、幼稚園、保育園、学校、病院、福祉施設などを運営するのも、同じ意識から。単なる「収益事業」ではない。「広い意味での宣教活動」として施設を運営している。
*《「紳士淑女」らしく?「常識」を大切に》
英国のテレビドラマや映画、小説などには、「紳士、淑女」が良く出てくる。落ち着いて上品で、課題に直面しても感情的にならず、短絡的な判断をするのではなく、過去の伝統や経験を参考にし、冷静な判断を下す。聖公会にもそのようなイメージがある。だから、聖公会では「常識感覚」も大事にされる。宗教的な面だけでなく、社会生活も大切にし、良き信徒であるとともに、善き社会人であろうとし、何らかの権威に依存するのではなく、一人一人が自立して歩んでいくことを大事にしている。
*《聖職者の権威と会議の重要性》
そういう意味では、何らかの力を「絶対化」することを、聖公会は嫌う。
聖公会は、主教が教区の統治者であり、多くの権威を持つ。けれども同時に、みんなで話し合う会議も大切にされる。教区の場合それが「教区会」である。主教は教区会の議長になり、議員の話し合いを促す。最終的な権威は主教にあるが、主教は教区会の決議を無視してはならない、というのが聖公会の伝統。いわば「トップダウン」と「ボトムアップ」を併用するのが、聖公会。この二重のやり方は、最も時間が掛かるが、最も確実で、真理に近い、というのが聖公会の考え方。ちなみに主教は教区会の選挙で選ばれる。
【祈祷書を読む】
1頁~、教会暦: 信仰のカレンダー。日常生活を、信仰的に整える。太陽暦である降誕日と、太陰暦である復活日を中心に暦が作られている。降臨節から始まり、降誕節、大斎節、復活節、聖霊降臨後の節へと続く。イエス様のご生涯と弟子たちの働きを思い起こし、それらを通して示された神様の救いのご計画の内に、私たちは今生きていることを覚える。
511頁~、聖書日課、詩編: 毎日の礼拝と、主日の礼拝で読むべき聖書の箇所がまとめられている。聖餐式聖書日課は3年周期、年間聖書日課・詩編は2年周期。年間聖書日課・詩編は、1年間で旧新約聖書、詩編が通読されるように選ばれている。聖公会の信仰生活は、「聖書を読み、祈る」ということが基本になっている。
18頁~、朝夕の礼拝: 聖公会の礼拝は、平日に朝夕2回の礼拝を行い、主日に聖餐式(またはみ言葉の礼拝)を行う、と言うのが基本。修道院で1日に7~8回行われていた礼拝を2回にまとめ、全ての人が行うようにしたもの。
106頁~、諸祈祷、感謝: 様々な課題に応じて、具体的に祈るためのもの。大変よく使う。
159頁~、聖餐式: 聖公会では、聖餐式と洗礼の2つが、救いに必要な「サクラメント」とされている。聖餐式は、前半が「み言葉の部」、後半が「聖餐の部」とされており、どちらも大切。
聖餐式に「ニケヤ信経」が、朝夕の礼拝に「使徒信経」が記されている。この二つが、信仰の最低限の教えをまとめたもの。この二つはキリスト教が東西に分裂する以前に採択されたものなので、すべての教会が受け入れられるもの。聖公会ではこの二つよりほかに、拘束力のある教えはない。
258頁~、教会問答: 聖公会の教えを、問答形式でまとめたもの。これにも細かい説明はなく、解釈は自由。
268頁~、入信の式: 洗礼式は、聖餐式と共にサクラメント。洗礼と堅信は、元来一つの礼拝の中で行われていた。通常の礼拝の中で行われることを前提としている。洗礼は、個人的な者だけでなく、教会という共同体全体で祈り、受け入れ、共に歩むものだという理解。
426頁~、聖職按手式: それぞれの礼拝の中で、三聖職位の役割が記されている。主教は全体を「監督」する、司祭は教会の「長老」として、礼拝を行い、信徒を守り導く。執事は、この社会の中で特に貧しい人々の「執事」として仕える。これらの働きは、教会全体の業だが、それを目に見える形で示しているのが、聖職者の存在。
660頁~、詩編: 「祈祷書」の詩編は、聖公会が独自に翻訳したもの。礼拝で用いるために翻訳したので、他の翻訳よりも唱えやすい。
【現在の聖公会】
聖公会は「プロテスタントとカトリックの中間」のような教会で、両者の「橋渡し」をする教会との自負がある。その通り、教会再一致運動(Ecumenical Movemennt)では、多くの聖公会聖職者、信徒が中心的な働きをしてきた。また、教会だけでなく、社会の中でも様々な壁を乗り越え、人々をつなぐ橋渡しをしようと、様々な社会奉仕活動も行ってきた。南アフリカでアパルトヘイト撤廃のために働いてきたツツ大主教や、中国のプロテスタント教会をまとめている丁主教(現在、中国に聖公会独自の教派はない)などが有名。
聖公会内部としては、性的マイノリティーをどうとらえるかが大きな課題。具体的には、性的マイノリティーを公言している人々を聖職者に按手してよいかどうかで、世界の聖公会を分裂させるほどの議論になっている。
欧米では信徒が減少している。アフリカでは急激に増えているらしい。
「宣教の5指標」「教会の5要素」などで、聖公会としての使命を再確認している。教会内部だけでなく、世界全体が愛と平和で満たされるために祈り、奉仕するのが、聖公会の使命。
トランプ大統領と、聖書の教え
2025,2,23マリア会 藤原健久
先日「アプレンティス~ドナルド・トランプの創り方」という映画を見てきました。トランプ氏の青年時代の物語で、いわば大統領の「前日譚」のようなお話でした。なかなか刺激的な内容でした。破産寸前の不動産会社に勤めるトランプ青年は、事業家として成功したいという野心を持っていました。ある日、辣腕弁護士と出会い、彼に気に入られ、「師匠」と仰ぐようになりました。そこで、彼からこの世界で成功するための「3つのルール」を教わります。
*トランプ大統領の「3つのルール」
(1)攻撃、攻撃、攻撃あるのみ。(2)何一つ認めるな。全否定で押し切れ。(3)勝利宣言せよ、決して負けを認めるな。
私はこれを聞いて「なるほど」と思いました。今のトランプ大統領の言動が、どこから来ているのかが、少し理解できたような気がしました。
この「3つのルール」は、基本的には、聖書の教えと真っ向から反対するものです。
(1)マタイ5:44「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」イエス様は攻撃ではなく愛を教えられました。
(2)ルカ15:20-21「放蕩息子のたとえ」では、悔い改めを教えています。自分が間違っていると気づいたら、私たちは自分の過ちを認め、悔い改めなければなりません。神様は悔い改める者を赦し、愛の御手で受け止めてくださいます。
(3)エレミヤ6:14「彼らは平和がないのに、『平和、平和』という。」私たちも、神の国を信じ、最後には必ず愛が勝つことを確信しています。けれども、自分の欲望に基づくものは、どれほど「勝利」を宣言しても、偽の「勝利」でしかありません。
確かに「3つのルール」では、誰かとの「勝負」には勝つかもしれません。けれども、それで誰が幸せになるのでしょうか。そこに「救い」はあるのでしょうか。最後には「私」しか残りません。(映画では「アメリカという国と、民主主義を守る」と言っていますが、みんなで相談して決めるという民主主義の大原則を無視しているので、これは、口先だけのものです。)どこにも寄る辺ない「私」は、孤独で、不安定です。トランプ大統領の施策が、「どこへ行くのか分からない」ように不安定なのは、この辺りに理由があるのかもしれません。
このように、聖書に反しているトランプ大統領ですが、それでも、アメリカのキリスト教会が大きな支持基盤だと言われています。それはなぜでしょう。
*危うい聖書理解…攻撃的なキリスト教会
トランプ大統領を支持しているのは、「キリスト教原理主義」「宗教右派」の教会だと言われています。これは、主にプロテスタント教会の一部です。彼らの特徴は「聖書を字義通り信じる」です。ですので、旧約聖書に記されている記事に基づいて、同性愛や進化論を否定したりします。(私たちを含めて、多くの教会は、個人の考えは別として、全体としては、近代科学の経過を受け入れ、聖書を必ずしも字義通りにではなく、その信仰的「意味」を見出し、信仰生活に活かそうとしています。)
ただ問題は、「何を信じているか」ではありません。それは個人の自由です。「自分たちと反対の人たちを攻撃する」のが問題なのです。攻撃的な言動に出る人たちは、もはや「原理主義」者ですらなく、「自己絶対主義」、「排外主義」者と言えるでしょう。
「他の考えの人々に勝つ」という考えが、トランプ大統領と共鳴するのでしょう。
けれどもこの危うさは、私たちも含め、すべてのキリスト教徒が持っているのです。
*「一神教」とは何か…きちんと理解し、深く信じる。
キリスト教は、言うまでもなく「一神教」です。私たちが信じているのは「唯一の神」です。そしてそこから私たちは、「他の神様なんて存在しない。他の宗教は間違っている」と考えてしまいがちです。けれどもそれは、聖書の教える「一神教」とは、少し外れているのです。
「十戒」に「あなたには、私をおいて他に神があってはならない」とあります(出エジプト20:4)。この「あなたには」が大切です。他にどんな神々があろうとも、また無かろうとも、私たちにとっての神様は、聖書が証しする神様だけなんだ、という戒めなのです。
旧約聖書の中だけでも、神様に対するとらえ方が変化しているのが分かります。最初はアダムとエバだけの神様から、アブラハムの部族の神へ、モーセを通してイスラエル民族の神から、ダビデなどを通して国家の神へ、そしてバビロニア捕囚を経て世界の神へ。
「どうして私がこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(ヨナ書4:11)ここには他宗教の民でさえも守り、治めておられる神様の姿が見られます。
また、新約聖書に次のように記されています。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神に帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しているのです。」(1コリント8:5-6)ここには「一神教」の深い意味が記されています。どんなに多くの宗教があろうとも、全ては唯一の神様が治めておられるので、他宗教を攻撃することで、自分たちの教えを明らかにする必要はないのです。
「一神教」の教えは、深く信じれば信じるほど、他宗教に寛容になるのだと思います。
*イエス様の教え…愛こそすべて。小さくされた人々と共に。
「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)
イエス様は「勝利」ではなく「愛」を教えられます。何かに勝つとすれば、それは他者ではなく、自分の心の中にある誘惑に打ち勝つのです。世界の苦しんでいる人々と共に歩み、全ての人が幸せな世界である「平和」を求めます。
クリスチャンの大原則は「神は愛」(1ヨハネ4:16)です。
聖書の読み方、楽しみ方
2025年3月23日マリア会 藤原健久
「聖書は持っているけど読んだことが無い」という人が珍しくない聖公会。決して安い本じゃないから読まないともったいない。
【聖書を読むときの心得】
1、読むのが良い…「何かある」
やっぱりクリスチャンだから、聖書を読むのが良いです。ただ、読みだすとすぐに「難しい、つまらない」と感じてしまいます。聖書は小説とは違い、エンターテイメント性はありません。けれども、それでも頑張って読み進めると、「何か」があります。それは時に、自分の人生を左右するほどのものだったりします。
2,何度も読む…「読めば読むほど」
これまた小説ではないので、最後まで読んだところで「落ち」があるわけではありません。反対に、一度読んだだけでは、ほとんど分かりません。何度も読むことで、前回呼んだ時には分からなかったことが分かったり、自分が年齢を重ねたことで分かることがあります。
3,分からなければ読み飛ばす。…「どうせ分からない。」
2000年以上前に、荒涼とした厳しい自然に囲まれて、外国との戦いや国家の滅亡に直面しながら書かれた聖書を、高度に技術・経済発展した日本に住む私たちが、理解できる訳がありません。まさに「隔世」の書物です。ですので、読んでいて分からない箇所に出くわしたら、あまり長く立ち止まらず、読み飛ばして、次の箇所に進むのが良いです。そうして読んでいくと、いつか、自分の心に響く箇所に出会います。
4,あまり真面目に読まない。…「『聖書』と『生活』行ったり来たり。」
聖書だけ読んでいてはいけません。没入しすぎて現実感覚を失ってはいけません。聖書の物語を無理やり現実に適用してみたり、「クリスチャンは何をやっても赦される」などと考えてはいけません。常識感覚や現実感覚をもって聖書を読みましょう。「こんな事ひどい!」「これは嬉しいね」という「普通の感覚」で聖書を読むことは、とても大切です。「一日〇時間以上聖書を読まない」などの、テレビやゲームの取り決めのようなものも良いかもしれません(そこまで熱心に読む人がいれば、の話ですが)。
【聖書の読み方】
(1)理想的…毎日、順番に、全部読む。
1日7ページ、1週間で約50ページ、毎日読むと、1年間で旧新約(続編含む)聖書を通読できます。
理想的ですけれど、なかなかしんどいです。
2つの読み方が考えられます。
読み方1)新約聖書から読む
今から読み始めるのなら、ぜひ、新約聖書から読んでいきましょう。新約聖書を読み終えたら、旧約聖書に移る、という順番で。
旧約聖書には、好戦的であったり残酷であったりする表現が少なからずあります。これらは、イエス様の愛の教えを背景にして理解しないと、誤解してしまう危険があります。まず、新約聖書で、愛の教えを学んでから、それを支えてくれるものとして、旧約聖書を読むのが良いでしょう。
読み方2)日本聖公会「日課表」に沿って読む。
聖公会では、毎日「朝の礼拝、夕の礼拝」を行うことが推奨されています。それぞれの礼拝で、「第1日課、第2日課」として、旧約聖書と新約聖書が読まれます。この日課表は、1年間で旧約聖書が1回、新約聖書が2回通読できるようになっています。聖書を完全に網羅しているわけではありませんが、ほぼ読み通すことができます。日課表は、祈祷書に載っていますが、聖公会手帳や別冊で抜粋を見ることもできます。
(2)トピックで読む。
毎日、短く聖書を取り上げてくれるようなものもあります。
例えば藤原司祭のYouTube礼拝、そのメール配信。
そのもとになっているのは、テゼ共同体の「昼の祈り」の日課表です。(Taize Communityのホームページでダウンロードできます。)
また、「一日一章」のように、毎日のメッセージを集めた本もあります。(渡辺和子シスターとか、マザー・テレサの言葉等)
また、キリスト教系の書店で「アパルーム」「デボーション」などのパンフレットも売っています。
それらの短い聖書の箇所を、心にとめて、一日を過ごします。
(3)み言葉を持ち運ぶ。
礼拝で用いた「聖書日課」のプリントを、カバンやポケットに入れて、ちらちら眺めて、1週間、み言葉を黙想するのも良いです。藤原の説教準備は、胸ポケットに入れた聖書のプリントを、どこででも、時間のある時に眺めて、黙想することです。
また、とても小さな聖書も販売されています。
「いつでもどこでも聖書を読む」というのも、とてもいいことです。
【聖書の、深~い楽しみ方】
聖書は、そのまま読むだけでも十分楽しめるのですが(なかなか楽しくならないかもしれませんが、読んでいくと、いつかは楽しくなるのです)、少し視点ややり方を工夫すると、より深く楽しめます。
以下は、藤原が説教を準備するときのやり方でもあります。
*「心に残る一言」を探す。
読んでいて、心に残った箇所を探して、その一言について、思いめぐらします。「これはどんな意味なのか」とか「なぜ自分はこの一言が心に残ったのか」などを考えていくと、聖書に深く入っていくような気になります。
*「自分がその中にいる。」「現代だったらどうなのか」と考えながら読む。
自分が聖書の物語に立ち会っていたら、何を見て、どう感じているのかを考えながら読んだり、「これは、現代だったら何になるのか」と考えながら読むのも面白いです。
例えば、カナの婚礼で、水を運んだ召使が自分だったら、どう感じていたか、とか。
また例えば、イエス様の十字架を「冤罪」と呼ぶだけでも、ずいぶん印象が変わったりします。
このようなことをしていると、2000年前の出来事が、ぐっと近くなります。
*「いつもとは違う視点、常識とは違う考え方」で聖書を読む。
これはなかなか上級者向け。
日頃、自分が考えている聖書の理解や、「普通だったこう解釈するよね」というような読み方に、一旦、疑問の目を向けてみることで、より違う(深い)読み方ができます。
例えば、こんな風に
《いつもの読み方》+イエス様は神様。+私たちは、迷える無力な罪人。+神様の言うことには文句を言わず従う
これを
《ちょっと違う読み方》+イエス様の人間的な面を目を向ける。+私たちのできることを見つけ出す。そこに神様の力がどのようにかかわっているか。+神様の言うことを鵜呑みにせずに、立ち止まって考えてみる。
例えば
「5000人の養い」の物語。《いつもの読み方》だと「わずかな食材を、イエス様は祈りの力で増やしてくださり、5000人もの人を養ってくださった。イエス様の偉大さを賛美しよう」となる。これが《ちょっと違う読み方》だと「わずかな食材を見た人々は、みんなに行き渡るように慎重に分けた。もしかしたら持参していた食材をこっそり混ぜた人もいるかもしれない。その結果、みんなが満腹した。この奇跡は人の手が起こしたもので、イエス様は私たちが自ら愛の奉仕を行うことができるように、促してくださる」となる。面白いでしょ?
*「十字架と復活」の視点で考えてみる。
神学生の頃、「説教には、十字架と復活が入っていなければならない」という先輩がいました。それ以来、私は、説教の準備をするとき、必ず「十字架と復活」を意識しています。すると、それまで考えていた聖書の意味がすっかり変わってしまう時もあります。
ルカ6:37「人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
この箇所も《いつもの読み方》だと、「人に良いことをしなさい」という倫理的な解釈になりがちです。
それを、十字架と復活の視点で読み返すと、「イエス様は、裁かれ、罪人だと決めつけられて、十字架につけられた。けれどもイエス様は復活された後、人々を赦された。私たちもピラトと同じ罪人。懺悔し、イエス様の赦しに感謝し、互いに愛し合っていきたい」となる。
以上、聖書の読み方、楽しみ方について、私なりにまとめてみました。
とにかく、「まず読んでみる」事が肝要です。
聖書と共に信仰生活を歩んでゆきたいです。
しゅろの十字架について
2025年4月6日 マリア会 藤原健久
【扱い方】
復活前主日(しゅろの主日)に教会で配られ、礼拝で用いられる。大切に保管して、翌年の大斎始日(灰の水曜日。2026年は2月18日)までに、教会に返却する。1年経った棕櫚の十字架は、燃やされ、灰となり、「大斎始日礼拝」で、参加者の額に十字架の形に塗られる。
【意味】
「…どうか、このしゅろの枝を主の勝利のしるしとしてください。主の御名によってこれをかざす私たちが、御子を王としてほめたたえ、御子に従い、永遠の命に至ることができますように、」(復活前主日の礼拝式文から)私たちは、棕櫚の十字架を見つめながら黙想するとき、イエス様の十字架を思い、復活の救いの確信を新たにする。
【効用】
祈祷書や聖書にはさんだり、壁に貼り付けたりして、ちらちらと目にすることで、お祈りがより熱心に行えるようになります。また、カバンなどに入れて持ち運ぶことで、神さまのお守りが、より強くなります。…なんて書くと、少し胡散臭く感じられるかもしれません。私たちは、「物」に依存したりしません。でも…
「プロテスタントは、熱心に信仰するあまり、『モノ』を軽視しすぎたり、敬遠しすぎたりしている。目に見える物があることで、安心したり、信仰が強められることもある。我々の信仰を妨げない範囲で、『モノ』を活用しても良いのではないか。」と言う人もいます。
しゅろの十字架を、「お守り」のように扱っても、悪くないように思います。(「バチ」も当たらないでしょう。)