主の平和。いかがお過ごしですか。
本年2月以降、複数の場所で、有志の方々によって「旧約聖書を(ザクっと)読む会」が開催されています。これは、旧約聖書を、みんなで声を出して読むことで、心身ともに元気になっていこう、という趣旨で始められたものです。
私は様々な集いが行われることや、聖書が広く読まれることを求めていましたので、この会の発足をとても嬉しく思っていますし、またその運営にご奉仕したいと考えています。
私が参加できる集いと、スケジュールの都合で参加できない集いがありますが、いずれも皆さん楽しく聖書を読み、学びと交わりを深めておられます。
残念ながら、感染症流行の状況の中、1、2回集いを行った段階で休止しています。早く感染症が収束し、集いを再開できることを願っています。
この度、予想外の事態に、デスクワークする時間ができましたので、私なりに資料をまとめてみました。これは、会の趣旨に沿って、皆さんが聖書を楽しく読むのに、少しだけサポートするために、最低限の解説と、抜粋して読みやすいように目安となる箇所を挙げたものです。浅学菲才の身ですので、不十分な部分や間違っている箇所もあると思いますが、容赦いただければ幸いです。また、第1日曜日に教会で行われる集いでは、吉村和馬さんが解説してくださいます。その際にはこの資料はあくまで参考程度にしてくださり、吉村さんの解説と資料に従って集いを進めてください。
「外出自粛」の状況の中で、皆様におかれましても、ご自宅で過ごされる時間がいつもより多めにあることと思います。ちょっとだけでもこの資料を眺めてくださり、聖書への関心を少しでも高めていただければ、うれしいです。
必要な方がおられましたら、お送りします。どうぞお知らせください。
皆様に、神様のお守り、お恵みが豊かにありますようお祈りしております。
感染症で苦しんでいる方々に、神様の癒しと慰めを、お祈りしましょう。
2020年4月20日 司祭 ミカエル藤原健久
《創世記の内容》
大きく二つの物語に分けられる。
【1、人類の歴史の始まり】
天地創造:
第1の天地創造・1章-2:3(6日間で世界を創って、7日目に安息)
第2の天地創造:2:4-5章(エデンの園、アダムとエバ、蛇の誘惑、カインとアベル)
ノアの箱舟:6-10章
バベルの塔:11章
【2、ユダヤ民族の始まり】
アブラハム物語(民族としてのユダヤ人の始祖)12章―21章
イサク物語(アブラハムの息子)22章―26章
ヤコブ物語(イサクの息子)27章―36章
ヨセフ物語(ヤコブ:イスラエルの息子)37章―50章
*言うまでもなく、旧約聖書の最初の書。世界の始まりの場面から記されている。ここから始まり、新約聖書に続き、ヨハネの黙示録で、「世界の終わり」の場面が記される。旧約聖書と新約聖書で、世界の始まりから終わりまで記されていることになる。
*大変面白く、読みやすい。ルネサンス絵画や小説、映画など、西欧文化の基礎になっている。どこかで耳にした物語も多く、とっつきやすい。全編、じっくり読んでも飽きない。
*全人類の起源に関する書と見ていいだろう。「ユダヤ人だけ」「キリスト教徒だけ」の物語ではなく、人間が普遍的に持っている様々なもの(愛や優しさなどの良いものから、欲望や暴力などの罪深いものまで)を赤裸々に表現している。
*「これが原因でこうなった」と説明するよりも、「今の現状を遡るとこういう原因があった」と、人間を把握するための書ととらえた方が良いだろう。たとえば、「アダムとエバが知恵の実を食べたから、人類は罪人となった」というよりかは、「私たちが、どうしても罪深い思いと行いをしてしまうのは、最初の人類にまでさかのぼる出来事だった」と捉えるように。
*読んでみて強く感じるのは、神様の存在感の大きさ。人類の営みの全ては、神様とのかかわりの中で存在している、ということ。人類は、偶然発生したのでも、好き勝手に進化したのでもなく、神様の明確な意思があって、今生きている。人類を孤独から救う物語。
《作者は?書かれた時期は?》
*作者は不明。複数の人物(グループ)によって書かれた。(たとえば、神様の名前を「神」と書いている部分と、「主」と書いている部分がある。)それぞれ別個に書かれて伝えられたものが、編集されたと考えられる。
*ある程度長い時間をかけて、多くの人の手を経て書かれた文章が、最終的に、バビロニア捕囚期(紀元前587―538年の約50年間)に編集されたものと思われる。民族の危機の時期に、信仰を後代に伝える必要性を感じたか。
《輪読箇所の例》
【1:1-2:3 第1の天地創造】
*6日間にどのような順番で創造されたか、整理して考えてみる。最初は混沌、第1日は時間の始まり、太陽が第4日に創造されたのは、「天動説」だからこそ。現代の理解であれば、地球より先に太陽の誕生を考える。それ以外は、現代科学と矛盾がない。「6日間の創造」は「24時間×6」を意味しない。人間的な時間感覚ではなく、「すべては神様が創られたもので、すべてのものには必然性と意味がある」という宗教的真理を表現しようとしている。
【2:4-25 第2の天地創造】
*第一のものより素朴な物語。神様がより人間的に表現されている。第2の物語が、ユダヤに元々伝わる物語だと言われる。第1のものは、バビロニア捕囚期に外国の影響を受けて創られたものと言われている。アダムが先に創造されその後に女が創られるのは、「男尊女卑」ではなく、「人間は一人では生きていけない」と言うことを表現したもの。だから最初のアダムは両性具有だった、という伝承もある。
【3章 蛇の誘惑、新たな生き方】
*後に「原罪」と言われるが、そうだろうか。純粋無垢で生まれ、様々な考えを持ち、親の保護を離れ自立し、厳しい環境の中で労働し、家族を養うのは、人間として不可避の行動ではないか。「人間はいつまでも子どものままではいられない。苦しい生活の中で、必ず神様が共に居てくださる」ということを言わんとした文章ではないか。
【12章 アブラハムの旅立ち】
*神様からの召命に応えて生きるのが信仰者の道。先が見えない不安な旅でも、「私はあなたを大いなる国民にする」と約束される。神様の約束を信頼するかどうかが信仰。神様に選ばれた民の使命は、「人類の祝福の源」となること。自分たちが正しく生きることで、人類が祝福される。それほど自らの使命は大きく、重い。
*創世記を含め「律法」、モーセが作者と言う伝承から「モーセ五書」と呼ばれる。
*新約聖書にも「律法」の言葉は良く出てくるが、信仰生活の中心となるもの。そのため、禁止事項等を列挙した「法律集」のような部分がかなり多くあるが(読むのが辛い箇所)、出エジプト記の前半部分は、モーセの誕生ーエジプトからの脱出までを描いた「物語」。物語も含めたものが「律法」、聖書的な感性を感じる(奇跡などの物語を含めたものが「福音」という、イエス様の教えとなる)。
*十戒が2回記述されている。内容を確認しておくことは、クリスチャンにとっても重要。
*出エジプト:紀元前13世紀ごろか
《各書の名前の由来》
*ヘブライ語聖書では、各書は最初の単語を書名とする。ギリシア語に翻訳された旧約聖書(70人訳)には、それぞれの内容を表す書名がついている。「出エジプト記」は、「エジプトから脱出した」からで、内容そのままの書名。その後は、シナイ半島を40年間旅をして、カナン地方に入植する、という話。各書はそれぞれの個性を表現して付けられた。
*レビ記…「レビ」は1部族の一つ。特殊な部族で、専ら宗教的な役目をおこなう(民数記3:1-13)。土地は持たず(逃れの町は別〔民数記35章〕)、他の部族が養う。レビ記には、レビ族が扱うような宗教的規定が多く記されているため、その名が付いた。
*民数記…冒頭に、各部族の人口調査の記録が記されている。民の数を数えている、と言うところから、この名が付いた。
*申命記…「第2の律法」の意味。(「申」には、「重ねる」という意味があり、「重ねて語られた命令」という意味が書名。)律法全体を、再度まとめたような内容から。列王記22-23章に、エルサレム神殿の修理中に律法の書が見つかり、それを元にヨシヤ王が改革を行ったとある(紀元前622年)。この書は、イエス様の時代まで続くユダヤ教の伝統の大きな源泉となった。
《輪読のための目安に》藤原が個人的に考える重要度。◎→〇→無印
〇【出エジプト記2:1-15:モーセの生い立ち】
*ユダヤ人の両親より生まれ、エジプト人として育ち、しかしユダヤ人としてのアイデンティティーを持つ。続く
◎【出エジプト記3章:モーセの召命】
*続き。そしてユダヤ人に戻ったのがモーセの召命と言えるだろう。
*この箇所は、重要な箇所が満載!「燃える柴」…神様は天から地上に降りてきてくださる。現場におられる神。「私は…彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」…民衆の苦しみに心から共感し、彼らと共に歩む神。「私はある。私はあるという者だ。」…神様は、言葉の概念によって本質が規定されたりする方ではない。まず存在し、人を救う、動的な存在。「私は必ずあなたと共に居る。」…同伴者である神様。
*これらの神様の表現は、旧約聖書全体を貫き、イエス様へと継承される。
◎【出エジプト記12:21-36:主の過ぎ越し】
*ユダヤ教最大の祭り:過ぎ越しの祭りの元になった出来事。モーセがエジプトにもたらした最後にして最大の災い。
*イエス様の十字架は過ぎ越しの祭りの頃に行われた。イエス様の十字架の死は、過ぎ越しの子羊として捉えられている。
〇【出エジプト記14章:芦の海の奇跡】
*海が割れるという、あれ。映画「十戒」のクライマックス。
〇【出エジプト記16:12-26:マナ】
*神様のパン、マナ。クッキー「マンナ」のパッケージには、由来が書かれている。
*民数記11章にも、マナについて記されている。
◎【出エジプト記20:1-17:十戒(1)】
*律法の中心の一つと捉えて良いほどの、重要な教え。信仰的、倫理的な戒めが、簡潔にまとめられている。ユダヤ教-キリスト教の信仰的中心の一つとなっている。
*前半部分が、神様と人との関係、後半部分が、人と人との関係。
*聖書のどの箇所であれ、精読するときに、十戒を頭に置いておくと理解がしやすい。
*十戒の中の安息日については、下記の箇所も参照。
【出エジプト記23:12-13:安息日】他にもレビ23:3、申命記5:12-15、
*安息日は、「休んでいい日」ではなく、「休まなくてはならない日」「決して働いてはいけない日」。厳しい戒め。
*イエス様がユダヤ人たちから批判され、十字架の元となったことの一つも、安息日に奇跡を行ったという「安息日違反」容疑。病気の人を癒す、ということすらも「労働」と見なされて、批判(処罰)された。
*出エジプト記20:22以降は、ひたすら様々な規定について記されている。読むのが大変つらい箇所。その中でも、比較的、物語としての性質が強く、またその後のユダヤ教-キリスト教に大きな影響を与えた箇所をいくつか記す。
〇【出エジプト記32章:金の小牛】
*ユダヤ人の背信。神様から離れ、別の神を作る。民の背信に対する神の怒りはすさまじい。血の粛清も躊躇しない。
*日本の文化からでは理解できないほどの激しさ。まさに「一神教」の恐ろしさ。しかし、彼らの生きている環境を思えば、一人でも離反者が出れば民が全滅するほどの厳しい自然環境、政治的環境。一神教の元に民をまとめるしか、生き延びる術はなかった。
*「多神教の日本の方が穏やか」とも言えない。「村八分」という言葉に象徴される、日本の「ムラ社会」も、あまり変わりない。両者とも、生き延びるために民の結束を図り、そこから離反する者は排除する、という点で同じ。「律法」という形で言語化しない分だけ、日本社会の方が「部外者」に対して冷酷と言えるだろう。
【レビ記13章:皮膚病の規定】
*かつて「らい」と呼ばれていたもの。ただし、現在言うところの「ハンセン病」とは限らない(たとえば「家のらい」=壁についたカビ)。そのため、現在では「重い皮膚病」などと訳される。
*重い皮膚病を患った者は、村から追い出され、村はずれに患者の共同体を作り、そこで生きるしかなかった。新約聖書には、イエス様が彼らを癒す物語が多く記されている。
【民数記6:1-21:ナジル人】
*民数記では、12部族の事を順に記した後、ナジル人について記す。彼らは特別な請願を立てた者で、神様から特別に祝福される。士師記に登場するサムソンは怪力という形で、洗礼者ヨハネは偉大な預言者と言う形で、神様からの賜物を表している(ルカ1:15)。
【民数記13-14章:カナン偵察と、民の反抗】
*後のモーセの後継者、ヨシュアを中心に、神様が約束されたカナンの土地の偵察に入る。40日後、彼らは帰還し、進撃を提言する。しかし民は怯えて反抗する。このことは神様の意に沿わないことであり、神様は民を粛清しようとするが、モーセになだめられる。しかし、ペナルティとして、40年間荒れ野を旅することを民に課した。その間に、反抗した時に大人であった者が全て死に、新しい世代のみが約束された土地に入植するようにした。*モーセ5書の後、「ヨシュア記」へと続く物語。
【民数記22-24章:バラクとバラム】【民数記27:12-23:モーセの後継者ヨシュアの任命】
〇【申命記5:1-21:十戒(2)】
*出エジプト記の十戒に比べると、安息日についての記述が、長く、詳しい。
*安息日には2つの意味がある。1つは、神様が6日間で世界を創造し7日目に休まれたことを覚える、というもの。これは、神様の救いの御業に思いを馳せ、感謝と使命感を深く心に覚えるという、祈りの課題。2つ目は、自分が休むだけでなく、家族、奴隷、家畜などを休ませる日。これは、自分たちもかつて奴隷であったことを思い起こし、働く者に過重な労働を貸してはならないという、福祉的、社会正義の課題。
【申命記34章:モーセの死】
*モーセ5書の締めくくり。
*「誰も彼が葬られた場所を知らない。」…ここから、「死んでいない」という伝説が生まれた。聖書の中の死んでいない人々。エノク…天に挙げられる。エリヤ…火の戦車で天へ。そしてモーセと、イエス様。
*ヨシュア記からエステル記までは「歴史」と呼ばれる部分。国の形成、発展、滅亡、再起までを記す。
*パレスチナ地方への入植、定住の物語。まだ「国」はできていない。
*日常的には部族ごとに自治生活を行い、外敵の侵入等の緊急時には、士師が現れて統一した軍事行動を行う。
*このような、自治的な部族連合体が、聖書的には理想的な政治形態だったと言われるが(神は王制を嫌う)、しかし外敵の強大化に対して軍事力、経済力が脆弱、また士師記の最後には、倫理観、道徳感の低下が記されている。
*パレスチナ入植、紀元前13世紀前半
*士師の時代:紀元前12世紀末-11世紀
《パレスチナ地方への入植》
*神様からの約束
+創世記12:1-3「主はアブラハムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。』」アブラハムへの約束。新たな民族誕生の約束。
+創世記15:18-21「その日、主はアブラハムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスにいたるまで、カナン人……エブス人の土地を与える。』」土地所有の約束。
+創世記17:8「私は、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。私は彼らの神となる。」入植地は、前もって神様から約束された土地。「父と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)
+この土地所得の約束が、ヨシュア記において成就したと、聖書は見ている。
+土地所得の約束という宗教的確信を、現代の我々がどうとらえるか。「現代でも有効」か、「過去の出来事」か、「比喩的表現」か、「事実としてではなく、その意味を得よ」か。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネ4:21)キリスト教では、具体的な土地にこだわらない姿勢。
《輪読のための目安に》
【ヨシュア記1:1-9 モーセの後継者ヨシュア】
*超偉大な指導者モーセの後を継いだのがヨシュア。その使命は、当初から土地所有に係るもの。
【ヨシュア記2:1-13 エリコを探る。】
*遊女ラハブが、パレスチナ入植の大きな鍵となった。ヘブライ11:31、ヤコブ2:25にも記述がある。
【ヨシュア記6章 エリコの占領】ゴスペルの有名なナンバーで「ジェリコの戦い」がある。それほど有名な物語。エリコの城壁が奇跡的な形で崩れた。力で押し切った、というよりも、ラハブの協力のように、イスラエルの民への協調者、協力者が内部から出たのだろう。「エジプトで奴隷であった民」に協力したのは、奴隷や遊女のような、社会の中で苦しむ人々であったのかもしれない。
*その後の戦いでは、現地住民を、徹底的に虐殺している。また、内部的にも、敵対する者は歯向かう者だけでなく、「徹底的に虐殺しない者」への徹底した粛清が行われる。現代の我々からすると、倫理的に受け入れられない記述。
*「バビロニア捕囚からの反省→主から離れて偶像崇拝をした罪→偶像崇拝はカナンの土地の宗教、文化を継承しているもの→他民族は徹底的に排除しなければならない」というう思想によって、編集されたのかもしれない。エジプトからの逃亡奴隷であるイスラエルの民が、大虐殺を行えるほどの軍事力は持ち合わせておらず、聖書は大げさに記述した、野かもしれない。けれども、「旧約聖書の危うさ」はこの辺りにある。排他性、攻撃性、狭量さなどは、新約聖書の「愛」によって止揚されなければならない。「新約聖書を先に読み、新約聖書の価値観で旧約聖書を読む」ことの大切さがここにある。
*ヨシュア記は、1-12章がパレスチナ占領の記録、13-22章が各部族への土地の分配の記録。23-24章がヨシュアの死。
【士師記2:6-23 主に背く世代が興る】士師記の一つの流れが、コンパクトにまとめられている。指導者(ヨシュア)が死ぬ→主を知らない新しい世代が興り、主から離れ偶像崇拝を行う。→外敵から攻撃され、危機に陥る。→神様は士師を起こし、戦いに勝たせる。→平和が戻る。→再び偶像崇拝をし…、の繰り返し。
*士師:「さばきつかさ」。通常は一人の民として生活。外敵が現れたときに、臨時のリーダーとして民を率いて戦う。戦いが終われば、再び一人の民に戻る。そのまま、リーダーとして政治、司法のを司ることもある。
*有名な士師たち。
+女預言者デボラ 4、5章
+ギデオン 6―8章 「酒ぶねの中で麦を打つ。」敵に奪われるのを恐れて。弱い者。「私の一族はマナセの中も最も貧弱なものです。それに私は家族の中で一番年下の者です。」(6:15)その後、偉大な士師となる。
+サムソン 13―16章 怪力サムソン!ナジル人。デリラとの関係!とてもドラマティックな物語。
*「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」(18:1)緩やかな部族連合体は、本来は信仰共同体としての理想的な姿であるはずだった。けれども、政治的な混乱や倫理的、道徳的衰退など、この形態の限界が見えてきた。17-21章には、随分と混乱した民の姿が記されている。士師記の最後は次の言葉で締めくくられている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(21:25)
*ルツ記:4章立の短い物語。大変美しい物語。「神様の救いは、人間の思いを超えた形で行われる」という、聖書の思想を表している。マタイによる福音書の冒頭にも、記されている(1:5)。時間が許せば、是非、じっくりと読み合わせたい。
+主人公ルツはモアブの女性。つまりは異邦人。最後は彼女の子孫からダビデが生まれる。「血統主義」のユダヤ信仰共同体において、揺るがせない、奇しき救済史。選民思想を持つ聖書が、自らの内にそれを打ち砕く思想を持つ。この面白さ!ダイナミックさ!
*預言者サムエルが、最初の王サウル、次の王ダビデに油を注ぎ、王とする。
*統一国家の形成。激動の時代。「少年ダビデがペリシテ兵ゴリアテをやっつける!」等、外敵とのたえざる戦いと、内紛。最終的にはサウルとダビデの内乱のような状態へ。
*ダビデは「理想の王」とされる。軍事的王、琴を奏でる芸術家、そして何よりも堅い信仰の宗教的指導者。ただし聖書は、ダビデの悪事も赤裸々に綴る。
*預言者サムエル:1040年ごろ登場、サウル:1030頃-1010年頃、ダビデ:1010頃―970頃、
《内容早見表》
上 1:1-7:17 サムエルについて
8:11-15:35 サウルについて
16:1-31:13 ダビデについて
下 1:1-10:49 ダビデの勝利
11:1-20:26 ダビデの罪
21:1-24:25 その他の物語
《王制を巡る葛藤》
*士師記の最後は次の言葉で締めくくられている。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(21:25)部族連合体であるイスラエル共同体は、必要に応じて士師を立てていたが、それでは外敵との軍事的先頭にも、内部的な政治的まとまりにも、限界が来ていた。周辺諸国を見ても、王制による統一国家への移行が不可避であった。
*しかし、イスラエルの伝統的な信仰では、神様が直接民を治めているので、人間の王による統治は、信仰と対立するものと捉えられた。
+出エジプト記15:18「主は代々限りなく統べ治められる。」
+申命記33:5「主はエシュルン(イスラエル)の王として臨まれる。」
*サムエル記上には、王制に対して批判的な文章と、好意的な文章が併記されている。
+批判的…8:1-22,10:17-27,11:12-12:25
「主はサムエルに言われた。『…彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上に私が王として君臨することを退けたのだ。』」(8:7)
8:10-18には、王制によって、どのように民衆が圧迫されるかが記されている。これは現代でも、国家というものを考えるうえで極めて有用。「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。」(8:17)
+好意的…9:1-10:16、11:1-11
「主はサムエルの耳にこう告げておかれた。『…あなたは彼に油を注ぎ、私の民イスラエルの指導者とせよ。この男が私の民をペリシテ人から救う。』」(9:15-16)
《輪読のための目安に》
【上1:1-20 サムエルの誕生】
*子どもに恵まれなかったハンナに子どもが授かる。アブラハムの妻サラ、イエス様の母マリア等とつながる。1:11「頭にかみそりを当てない。」…士師サムソンと同様。ナジル人の誓願(民数記6:1-21、士師記13:5、洗礼者ヨハネ・ルカ1:15)
【上3:1-10 少年サムエルへの主の呼びかけ】
*可愛い子どもがお祈りして、上から光が指している、あの有名な絵の場面。
【上8章 民、王を求める。】
*王制への批判的な文書。王制の持つ抑圧的な機能が記される。現代でも有用。
【上9:1-10:1 サウル、油を注がれて王となる。】
*サウルが王となったのは、誰に知られず、こっそりと。状況も、身分も、人間的な考えでは全く必然性のない。神様の救いの御業は、人間の思いを超えて行われる。
*「油を注ぐ」のが、王に任じる印。その後、この行為はとても大きな意味を持つ。「救い主」=「メシア」=「キリスト」の意味は「油を注がれた者」。
+神様はダビデの子孫がとこしえに王座に就くと約束された。「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」(下7:16)
↓
+しかし、バビロニアによるエルサレム陥落によって、ダビデ血縁による王家途絶。「彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し…」(列王記下25:7)
↓
+預言者たちが、ダビデの末裔である新しい王について語り始める。「その日、その時、私はダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公正と正義をもってこの国を治める。」(エレミヤ書33:15)
↓
+キリスト教では、その新しい王こそがイエスだと主張する。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」(使徒言行録2:30)「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマの信徒への手紙1:3-4)
【上16章 ダビデ、油を注がれて王となる。】
*サウルは神様によって王位から退けられる。理由は、1)預言者でもないのにいけにえを捧げたから(上13:8-15)、2)アマレク人との戦いで、敵を全滅させなかったから(上15章)。どちらも、現代日本に住む我々には理解しがたい理由。いずれにせよ、神はサウルを見捨て、新たな王を選ぶ。
*ここに、ダビデの属性が詰まっている。羊飼い、美男子、事を奏でる(詩編の作者との伝承)。
【上17章 ダビデとゴリアト】
*物語として抜群に面白い。映画「偽牧師」で、チャップリンがパントマイムでお話している。
【上20章 ダビデとヨナタン】*美しい友情物語。
【上25:1 サムエルの死】*1節であっさりと描写。
【上31章 サウル、ヨナタンの死】*これもあっさりめ。
【下1章 ダビデ、サウルの死を知る。】*ただ、これを伝えた者への処置がひどすぎ。
【下2:1-7 ダビデ、ユダの王となる。】*油を注がれる。サムエルによって油を注がれた出来事は、予告的なものか。
【下5:1-5 ダビデ、イスラエルとユダの王となる。】*北部イスラエル、南部ユダであろう。「ダビデは30歳で王となり、40年間王位にあった。7年6か月の間ヘブロンでユダを、33年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した。」
【下11-12章 ウリヤの妻バト・シェバ、ダビデの罪、息子の死、ソロモンの誕生】
*ダビデの大きな罪。その後の内部の混乱、息子の反逆につながる。「剣はとこしえにあなたの家から去らないだろう。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」(下12:10)
*マタイによる福音書の冒頭にも記されている。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ…」(1:6)。神様の救いの奇しき御業!
【下24章 ダビデの人口調査】
*最後のエピソード。王による人口調査は、神様は必要な人員を必ず備える、という信仰が薄れている証拠。その他へ神様から酷い罰を受ける。「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」(歴代誌上21:1)
*イエス様が生まれたのは、ヨセフとマリアの旅の途中。その旅はローマ皇帝による人口調査が原因。臨月の妊婦まで旅をするぐらいだから、どれほど強制的になされたかが分かる。ユダヤの人々にとっては、異邦人による、人口調査と言う、とてもじゃないが信仰的に承認しかねる出来事に、強制的に巻き込まれた屈辱的なできごとであったことが分かる。
*ダビデの死は、次の書物である列王記の冒頭。
ジョシュア・レイノルズ 『幼きサムエル』1776年 ファーブル美術館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%A8%E3%83%AB
*第3代王ソロモンの時代、国は最も反映する。エルサレム神殿建立。シバの女王の訪問。ソロモンの死後、国は2つに分裂。北王国イスラエルと南王国ユダ。外敵との戦いと内紛、また南北の争いを繰り返す。ソロモンの後、南北それぞれの王が誰に引き継がれ、その王が何をしたかを記す。特に王の信仰を問う。
*最終的に北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダはバビロニアに滅ぼされ、指導者たちはバビロニアに連行され捕囚とされる。
*バビロニアがペルシアに滅ぼされ、ペルシア王キュロスによって、捕囚民の帰国が許される。祭司・書記官エズラ、王の献酌官ネヘミヤにより、神殿再建活動。その際、サマリア人とトラブル。その後、イエス様の時代までユダヤ人とサマリア人は敵対する。
*上記の全期間を通じ、多数の預言者が活躍。
*列王記:王国の歴史。王の変遷物語。歴代誌:もう一つの通史。神殿の歴史と儀式、南王国ユダ王の変遷を記録。
*ソロモン:970頃―931年、王国分裂:931年、北王国滅亡:722年、エルサレム陥落、バビロン捕囚:586年、捕囚民の帰還:539年、神殿再建(第2神殿):520-515年。
《「バビロニア捕囚」が全ての中心!》
*列王記は、王国の歴史書である。だから、過去を振り返って書いている。書かれ始めたのは、王国が存続していた時期だろうが、それらの資料をまとめて、編集したのは、王国が終わった後、つまり、バビロニア捕囚の時期。だから、この書物は、「バビロニア捕囚からの視点」でまとめられてる。
*バビロニア捕囚からの視点、とは「なぜ我々はこんな目に遭ったのか?」というもの。バビロニア捕囚は、自分たちのアイデンティティーが壊れるほどの大きな出来事。これからどうやって生きていけば良いのか分からなくなるような出来事(日本の敗戦時に近いのではないか)。「神様に選ばれ、とこしえの繁栄を約束された民」である自分たちが、なぜこんな目に遭ったのか?神様の計画が失敗したのか?いっぱい悩んで、さんざん考えた結果、導き出された答えが、「自分たちが神様の律法に従わなかったから。」バビロニア捕囚は、そのための神様からの罰であり、これから律法をしっかりと守れば再び国を再建できる、と考え、信仰生活を刷新した。
*そのため列王記は、「偶像崇拝絶対拒否」と「エルサレム中心主義」で貫かれている。どれほど政治的、経済的に有能な王でも、偶像崇拝していれば「悪い王」だし、反対に、政治的に無能で、道徳的に悪いことをしていても、エルサレム神殿でちゃんとお祈りしていれば「良い王」となる。(ダビデやソロモンの評価も、この視点を外せば、全く変わったものとなる可能性がある。)
*歴代誌は、バビロニア捕囚から帰還してから編集された。そのため、この書物の目的は、「民を励ます」こと。意気消沈した民を元気づけて、みんなで国を再建する!そのため、列王記とは課題意識も変わってくる。列王記では「何故こんな目に遭ったのか」という理由を探していたが、歴代誌では「今でも我々は神の民なのか」という、アイデンティティー探しが重要になる。そのため、冒頭に長い系図を記して、現在の民がアダムにつながり、そして神様につながることを記し、歴史的に重要なダビデ王を、より「偉大な王」として記して、ダビデにつながる自分たちという自信を高める。(そのため、バト・シェバのエピソードなど、ダビデの罪については記さない。)また大いなる神殿につながる南王国を中心に記し、北王国についてはあまり触れない。
*エズラ記、ネヘミヤ記は、エルサレム再建の物語。再建には様々な苦労があった。内部的には、律法の徹底。律法を厳密に解釈し、「血統主義」を徹底することとし、外国人を排除した。外国人と結婚したユダヤ人には、離縁させた。外部的には、サマリア人との確執がある。サマリア人は、北イスラエル王国が滅ぼされた時、アッシリアによって強制的に移住させられたきた人々(列王記下17:24-41)。彼らはユダヤ人になるべく、文化や宗教も継承しようとしたが、どうしても変容してしまう。ユダヤ人がバビロニアから帰還した時、喜んでエルサレム再建に参加しようとするが、ユダヤ人から拒否される(ユダヤ人はサマリア人を、血統主義の視点から「外国人」と見なして拒否した)。「可愛さ余って憎さ百倍」で、サマリア人はユダヤ人を攻撃し、両者の反目は決定的となる。
*この行き過ぎた「血統主義」や、「サマリア人との反目」は、イエス様の時代まで続く。
《「神殿」とは…》
*「神殿」と言えば、「エルサレム神殿」だが、かつては多くの聖所があって、そこでいけにえとお祈りが捧げられていた。広大な国土で、様々な部族がそれぞれの土地で生活しているのだから、ある意味、当然のこと。
*エルサレム神殿と他の聖所との違いは、「契約の箱」の有無。契約の箱には、モーセが神様から授かった石板が収められている。これは、言うまでもなく律法の根本と言えるもの。律法中心主義の立場をとると、必然的にエルサレム中心主義になり、他の聖所は、律法に反したものとして、拒否すべきものとなる。
*だから列王記では、一貫して、北イスラエル王国の王には否定的な評価が与えられている。(エルサレムは、南王国ユダの首都)。
*歴史は、視点によって評価が全く変わる。為政者が教育に介入するときに、真っ先に口を出すのが、歴史教育。注意!
*私たちは、「ユダヤ教」「神殿」と言うと、あまり装飾物がなく、あっさりしているものを思い浮かべる。現代のユダヤ教シナゴーグや、イスラム教モスク、またはキリスト教プロテスタント教会のように。けれども聖書をよく読むと、バビロン捕囚より前は、装飾的にも、礼拝的にも、信仰的にももっとごちゃごちゃしていたことが分かる。多分それが「素朴」な形だったのだろう。
*エステル記は、「歴史書」というより、「歴史小説」。歴史上の事実を改変している場面も多いが、大変面白く、美しい物語。「プリム祭」という現在まで続くユダヤ教の祭りの起源を記したもの。「神」という言葉を用いない特殊な書。しかし、神様の存在は感じる。
*内容早見表
列王記 上1:2-2:46 ダビデの最期とソロモンの即位
上3:1-11:43 ソロモンの治世
上12:1-22:54 王国の分裂
下1:1-8:15 預言者エリヤ
下8:16-17:41 ユダとイスラエルの王たち。イスラエルの最期
下18:1-25:30 ユダの最期。エルサレム陥落。バビロニア捕囚。
歴代誌 上1:1-9:34 アダムから捕囚まで
上9:35-29:30 神殿の基礎を築いたダビデ
下1:1-9:31 神殿建設
下10:1-28:27 分裂王国時代
下29:1-36:23 王国の最期
他は省略。
《輪読の目安に》
【列王記上3章 ソロモンの知恵】
*有名な「ソロモンの知恵」。賢いと言えばソロモン。ファンタジー小説等でも、よく登場。「箴言」は、人生の知恵について書かれた格言集だから、ソロモンが作者と言う伝承がある。(琴を弾くダビデが、歌を集めた「詩編」の作者と言われるように。)
*16-28節の物語は、聖書版「大岡裁き」。分かりやすく、面白い。
*ただ、よく読むと、ソロモンからそれ以降の多くの課題が見えてくる。ソロモンはエジプトの王女と結婚した。それによって、外国の文化や、他の宗教の影響を強く受けることになった。「聖なる高台」とは、かつて様々な場所にあった聖所。元来はその土地由来の異教の聖所。また多くの異母兄弟による権力争いも油断ならない(1-2章)。これらの課題はその後ずっと続き、最終的には王国滅亡の要因ともなる。
【列王記上8章 神殿の奉献】
*神殿は、ユダヤ人の信仰生活の中心。きわめて重要な施設。けれども、本来的に矛盾する存在。神様は全知全能、全地に遍在し、一か所に留めておくことはできない。神様を表す最も適切なものは「幕屋」(=テント)。神の民と共に移動し、民に神の臨在を知らせ、民の祈りを聴く。「私は…天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。…なぜ私のためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。」(サムエル記下7:6-7)。神様は神殿には否定的。神殿建築を提案したダビデに対して、ダビデには建築させず、その子に建築を許すと告げる。
【列王記上11:26-12章 王国の分裂】
*ソロモンの死後、ソロモンの部下であったヤロブアムが反旗を翻す。ソロモンの子レハブアムの失政もあり、王国は南北に分裂する。北イスラエル王国には10部族、南ユダ王国にはダビデ王家であるユダ族のみの1部族。(合計12部族だが、レビ族は含まれない。)
*ヤロブアムはエルサレムに匹敵する聖所としてベテルとダンを聖所とし、金の小牛(!)を安置した。これは、列王記の「律法中心主義」からすると罪となる。そのため、北王国は根本的に「律法に反した罪深い国家」とみなされる。
【列王記上18章 エリヤとバアルの預言者】
*預言者エリヤの物語。エリヤは預言者の典型的な存在。「神の言葉を預かる」者として、正義と真理のみを伝える。必然的に現状批判、政権批判となる。当時の王アハブはフェニキアの王女イゼベルと結婚し、バアル信仰を採り入れる。列王記では「最も悪い王」と見なされる。「オムリの子アハブは彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行った。」(16:30)エリヤの姿勢はその後多くの預言者に引き継がれた。その伝統は洗礼者ヨハネにいたる。
【列王記下2章 エリヤ、天に上げられる。エリシャの継承】死ななかった人の一人。
【列王記下17章 北イスラエル王国の滅亡、サマリア人】
【列王記下22-23章 ユダの王ヨシヤの宗教改革】*神殿修理の工事中、律法の書を発見。ヨシヤはこの書に基づき、律法中心主義の改革を行う。この時発見されたのが、申命記の一部とされている。「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち返った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。」(23:25)
【列王記下25章 南ユダ王国の滅亡。エルサレム陥落。バビロン捕囚。】「民のうち都に残っていた他の者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。」(25:11-12)
【歴代誌上28-29章 神殿建築を積極的にリードするダビデ】
*列王記に比べると、神殿建築におけるダビデの役割がとても大きい。神殿建築に対する消極的な面は、ほとんど鳴りをひそめている。自信たっぷりのスーパーヒーローとしてのダビデ像。
【歴代誌下30章 過越祭】
*エルサレム神殿における過越祭。その様子は、イエス様の時代にまで通じるものでは。イエス様の十字架は、この時期に行われた。過越祭の時期の興奮状態が分かる。
【歴代誌下36:11-23 バビロン捕囚と70年後の解放】
*列王記と比べ、エルサレム陥落の様子は完結に描かれている。そして、列王記と違い、ペルシア王キュロスによる解放まで描かれている。
【エズラ記9:6-15 エズラの祈り】
*エルサレム再建を前にして、神様に懺悔の祈りを捧げる。美しく真摯な祈りだが、律法厳守があまりに強く、過激な外国人排斥へと動いていく。
【ネヘミヤ記8:1-12 モーセの律法の朗読】
*エルサレム再建の途上で、エズラは民の前で律法を朗読する。既に聖書の言葉を理解できない民が増えていたため、翻訳しながら朗読した。人々は、涙を流して喜んだ。何にも憚らず、神様の教えを聞くことの喜び。
【エステル記 9:20-28 プリムは運命の祭り】
*プリム祭の由来について記されている。この由来は毎年民に語られて行くのだろう。
*スタディバイブルの解説より。「プリム祭は毎年アダル月の14日と15日に祝われている(原稿の暦では3月1日ころ)。プリム祭は今日でも世界中のユダヤ人が祝うにぎやかな祭りである。断食して準備し、プリム祭当日には会堂でエステル記が朗読され、子どもたちはハマン(*注、物語中の悪者)という言葉が口にされるたびになりもので音を出してはやし立てることになっている。」
*ヨブ記から雅歌までは「文学」または「諸書」と呼ばれる。歴史的制約から離れ、普遍的なテーマを描く。
*ヨブ記は、人間の苦難に真正面から取り組む。「何故人間は苦しむのか?」このテーマに対して、真に聖書的な答えをする。
*詩編は、ユダヤの人々の長年にわたる生活の中で歌われてきた歌の言葉。ユダヤ教―キリスト教の歴史の中で、教派問わず、常に礼拝で用いられてきた。
*かつてはダビデが書いたとされていた。琴を弾く芸術家としてのダビデのイメージが用いられた。
内容目安表
ヨブ記 1:1-2:13 始まりの物語
3:1-31:40 ヨブと3人の友人との論争
32:1-37:24 4人目の友人、エリフが語る。
38:1-42:6 神様が直接応えられる。
42:7-17 物語の結末
詩編…実は5巻にまとめられる。新共同訳の前の口語訳には記載がある。
1-41編:第1巻 42-72編:第2巻 73-89編:第3巻
90-106編:第4巻 107-150編:第5巻
《輪読の目安に》
【ヨブ記1-2章 物語の始まり】
*ヨブの正しさは非の打ちどころがない。天上では議会が開かれ、サタンも参加。議長は神様(創世記冒頭で、神様が一人称複数形で語られるのは、この天上の議会の考えがあるからだ、という説がある)。サタンはここでは、悪の化身ではなく、神様の僕の一人。但し意地が悪い。サタンと神様とのやり取りによって、ヨブに苦難が与えられる。いうなれば、「神様の気まぐれ」による苦難。
*「そんなのおかしい!神様はズルい!」というのは読者だけ。ヨブを含む登場人物は知らない。天上の議会で、自分の運命がどのように扱われているかは知る由もない。だから当事者たちにとって、自分の身に降りかかる苦しみは、「理由の分からない、不条理な苦しみ」。そして我々が経験する苦しみも同様。「あいつが悪い」「社会、政治が悪い」「自分が悪い」などと言ってはみるが、実は本質から遠く、「タイミングが悪い」「運が悪い」と言ってみても、慰められない。結局、苦しみは不条理。
*1-2章の物語は、3章以降に何も影響を及ぼさない。ヨブ記のテーマは「不条理な苦しみ」。ヨブと3人の友人は、苦しみの「理由」を探すが、結末は「理由」を超えたところに発生する。
*三人の友人は「見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやってきた。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。」(2:11-13)友人たちは、苦しむヨブに対して、まず沈黙し、1週間彼の傍に寄り添った。「この1週間がヨブにとって最大の慰めだった」という人もいる。「同情」とは「共に苦しむ」こと。安易な慰めの言葉や、ましてや無思慮な理由付け、苦しむ者を責めるような言葉は、害にこそなれ慰めにはならない。我々にも、普遍的に通じること。
【ヨブ記3-5章 ヨブの嘆き、友人との論争】
*ヨブの主張:人生は苦しいことが多すぎる。何故神は楽しみを与え、取り上げるのか。神様は正しくない。私は間違っていない、神に異議申し立てをしたい。神様は隠れるな!。
*友人たちの主張:苦しみには原因がある。きっと知らない間に何か罪を犯したから罰を受けているのだ。個人の苦しみなど、実は大したことない。神様に文句を言うのはダメ。
*…このような論争が、手を変え品を変え繰り返される。大変詩的な文章。
*「人間に苦難を与える神は正しいのか」が、神学的な一つのテーマとなる。「神義論」。
【ヨブ記32-33章 エリフの主張】
*4人目の友人、エリフが主張を始める。ただ、あまり論理的に進展しているとも思えない。ただ、信仰の力強さは感じる。
【ヨブ記38章 神様の言葉】
*満を持して神様登場。直接語り掛けられる。きわめて興味深いのは、「何故苦しむのか」という質問には、一切答えていないこと。神様の言葉の内容は、「この世界は神様によって創られ、治められている」というもので、そこから感じられるのは、神様の絶対的な存在感。「私はある、私はあるという者だ。」(出エジプト記)を思い出させる。
*この神様の言葉によって、ヨブは慰められる。どのような論理によっても、理由付けによっても決して納得できなかったヨブが、神様の存在感を前に救われる。
*ヨブの苦しみは「孤独」だったのかもしれない。自分以外にこの苦しみを決して理解してもらえない孤独、自分の存在はあまりに小さく、世界の片隅で誰にも知られずこと切れるのではないかと言う孤独、自分に素材意義はないのではないかと言う孤独。それらを全て包括してその身に引き受ける神様の存在によって、この孤独は癒されたのでは。
【ヨブ記42:7-16 物語の結末】
*だから、「この箇所は不要だ」と主張する人もいる。この箇所は、ヨブが以前の繁栄を回復した、という、ハッピーエンドの部分。けれどもその前までで明らかなように、神様の救いと、物質的繁栄とは、直接的には結びつかない。文章としても、この箇所と、1-2章を省略しても、成り立つ。
【詩編1編】*各巻の冒頭と巻末を見てみたい。まず第1編。神に従う道は救いへ続き、神から離れる道は滅びにつながる。これは、詩編全体を、いや聖書全体を貫く信仰的テーマなのかもしれない。
【詩編41編】「幸いな者」は、「主に従う者」であるが、ここで具体的に「弱い者に思いやりのある人」となる。そしてそのような人が必然的に苦難に遭うこと、けれども神様の救いは決してその人から去ることはないことが告白される。「災いなる人」を挙げるより、愛が優先されている。「アーメン、アーメン」は、各巻末に記されている言葉。1巻の巻末は、その前に「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに」とある。
【詩編42,43編】元々、この2編は一つの詩だったと考えられている。苦難を表す詩。「マスキール」は、「教訓詩」の意味。43:5には、苦難と神への賛美が表裏一体のものとして記されている。私たちの信仰生活の不思議さ。
【詩編72編】新王の即位式で歌われた詩編だろう。王の権威は、貧しい人を救うところにある。巻末は「主なる神をたたえよ。イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方を。栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ。栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン」
【詩編73編】なぜ悪人は栄え、神に従う者は苦しまなければならないのか。「ヨブ記」にも通じる苦難への叫び。けれども神に近くあることで、苦難の内にも恵みを得る、という確信を得る。
【詩編89編】救い主の待望。しかしエルサレムは陥落し、バビロニアに捕囚された(39-46節)。神様の救いを叫び求める。巻末は「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。」
【詩編90編】エルサレム神殿破壊以後の歌。悲しみと苦しみ。その中で、必ず喜びの日がやってくるとの確信。
【詩編106編】イスラエルの歴史を顧み、いかに神様から背いてきた歩みであったかに気づく。自分たちが切に望むのは、富や繁栄ではなく、共に集い神様を賛美することだけ。巻末は、「イスラエルの神、主をたたえよ。世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。アーメン、アーメン。」
【詩編107編】「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。」「主に感謝せよ。主は慈しみ深く、人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。」このやり取りが繰り返される。苦難の中でも神様の救いを確信し、待ち望む。
【詩編150編】144編から、「ハレルヤ、主を賛美せよ」のテーマが繰り返される。巻末は「息あるものはこぞって、主を賛美せよ。ハレルヤ。」スタディバイブルの開設から。「楽器の演奏に聖歌隊の声が加わり、その賛美にすべての生き物が参与してゆく。創造主であり、すべての王である神は、全被造世界の賛美を受けるにふさわしい方である。詩編を貫くこの主題をこれ以上によく表す方法はないであろう。」
*これらの3つの書物は、すべて「ソロモン作」と伝えられている。「知恵の人ソロモン」が書くにふさわしいものと見なされたのだろう。
*箴言は格言集。漢字訳の「箴」は「針」の意味。だから「警告の書」という意味になるが、ヘブライ語では「比較する」「類似する」の意味で、「模範、モデル」の意味。
*コヘレトの言葉は、「一切は空しい」という言葉で始まる異色の書。
*雅歌は恋愛の歌。人間と神との信仰を暗喩しているとされているが、文章としては、そのまま恋愛の書。「雅歌」も漢字訳の言葉。ヘブライ語の意味は「歌の中の歌」(英語訳では、この意味になっている。)
*ユダヤ教では、「旧約聖書」(この名称そのものがキリスト教のもの)を、律法:トーラー、預言書:ネヴィイーム、諸書:ケトヴィームの3部に分け、頭文字をとって「タナハ」と呼ぶ。諸書の中に巻物:メギロースと呼ばれる5書があり、それらはそれぞれユダヤ教の5大祭りで朗読される。雅歌:過越の祭、ルツ記:七週の祭、哀歌:アブの月の9日の断食、コヘレトの言葉:仮庵の祭、エステル記:くじの祭(プリム祭)。聖書は礼拝で読まれることで受け継がれてきた。
《「知恵」》
*聖書の中で、「箴言」「コヘレトの言葉」、それに旧約聖書続編の「知恵の書」「シラ書」は「知恵文学」と呼ばれ、この類型に「雅歌」も加えることがある。
*知恵は、人間が正しく生きるうえで必要な知識や指針。理屈ではなく実践の中で得た経験や知識を普遍的なレベルまで高めたもの。
*聖書では、知恵が擬人化されている。それほどまで、重要なものになっている。
*宗教的熱情や民族的意識よりも、常識的、普遍的。だから「格言」や「処世訓」とも言えるが、目的が「世の中をうまく渡っていくため」というよりも、「正しい人生を送るため」とでもいうべきもの。より普遍的な価値を求め、それは神様への信仰と結びついてゆく。
*「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言1:7)「知恵は人間にとって尽きることのない宝であり、それを手に入れた者は、知恵の教えがもたらす賜物を通して、神に引き合わされ、神の友とされる。」(知恵の書7:14)
*「詩編は祈りを教え、知恵文学は常識を教える」という人もいる。
《「空」を語るコヘレトの言葉》
*すべては空しい」から始まる文書。虚無的、懐疑的、諦めムード、に、仏教文書かと思わせる雰囲気があり、神への不信感が感じ取れるあたりは、「全能の神とのかかわり」こそが救いの基礎である聖書にあっては極めて異質。時に「異端的」とまで呼ばれる文書。
*ただ、このような姿勢は、聖書の根本的な性質を反映しているとも言える。聖書は理論の書ではなく実践の書。きわめて強い、神の存在感を基礎に据え、神と人間とのかかわりを、赤裸々に記したのが聖書。現実社会の中で、汗と泥にまみれもがいている人間が、その現実の中に神の姿を探索し自分の人生に意味を見出そうと奮闘している、その記録。
*「このような厳しい現実の中にも、必ず神はおられる」「こんなに頑張ってい生きているのだから、神様は必ず自分に報いてくださる」というのが聖書の基本的なメッセージ。けれども、どれほど頑張っても報われない時もあるし、神を全く見出せないと思うようなひどい現実もある。そのような中では「因果応報」は架空のものであり、「信ずる者は救われる」というメッセージは何も心に響かない。
*安易な救いのメッセージに頼らず、不条理な世界に徹底的に直面し、そこから真実の言葉を語ろうと模索している書物といえる。
*聖書の他の文書と同じく、「理論」の書ではない。理論的な道筋が順序立てて記されているのではなく、章を重ねるごとに理論が深まっているのでもない。様々な思いが、行きつ戻りつしているのが本書。(このあたりが、仏教文書との違いかもしれない。)
《輪読の目安に》
【箴言1章 序、父の諭し、知恵の勧め】
*知恵を得るとはどういうことか、が繰り返し記されている。「腹八分目は医者いらず」みたいな処世訓はあまり出てこない。「すべてを尽くして神を愛し、自分のようにとなり人を愛せ」というような、信仰に基づいた正義、公正、愛を勧めるものが多い。
【コヘレトの言葉1章】
*「なんという空しさ、すべては空しい」で始まる。「何もしたくない」などの虚無感、無力感と言うよりか、不条理な世界に対する疑義のようなものだろう。
【コヘレトの言葉3:1-8】
*「何事にも時がある」。この箇所を読んで、どのような印象を持つか、比較してみると面白いかもしれない。「頑張って作っても、壊されるときがくる。空しい」ととるか、「良い時も悪い時もあって、世界はバランスが取れている」ととるか。
【コヘレトの言葉12章】
*「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ。」典型的な知恵となろう。最後に作者はこう語る。「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」
【雅歌1章】
*思わず赤面してしまうほどの、ストレートな愛の歌。これが「神様と人間との関係を暗喩するもの」なのだとするならば、聖書の信仰理解はかなり日本人的引っ込み思案とは違うようだ。
*新共同訳には、小見出しが付いているので、理解しやすい。「合唱」などがあるように、オペラのように恋愛の舞台を見ているような感じがする。ただし、原文にはもちろん小見出しはついていない。解釈はかなり広くできるのだろう。
2018,9,15 日本聖公会京都聖マリア教会 司祭 藤原健久
書名について:「伝道の書」1955年・口語訳、「コヘレトの言葉」1987年・新共同訳
コヘレト…著者の名前とされている。
ヘブライ語で、「集まる」「集会を開く」「集会」「会衆」等。ギリシア語に翻訳された際、エクレーシアステース:「集会で語る者」→「説教者」→「伝道者」
本文中に「ダビデの子」「イスラエルの王」とあるが、そのような記録はないし、内容的にも不必要。「文学的虚構」。
B.C.3世紀ごろ、パレスチナで成立か。
聖書の中でも異質な存在。ユダヤ教の中で、正典に入れるかどうかで議論があった。
旧約聖書が伝統的に主張してきた秩序ある世界の存在を信じない。“人間の良い業が良い結果をもたらし、悪い業が悪い結果をもたらすような「行為と結果の連関」は幻想ではないか。”
ヨブ記と本書の前提:“道徳律を保証するような正義に基づく神の世界統治は信じがたい。この世界はあまりにも不可解なことが多すぎる。”
「空」
本書冒頭部分
《口語訳》
ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。…
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言い尽くすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することはない。
《新共同訳》
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
コヘレトは言う。
なんという空しさ、なんという空しさ、すべてはむなしい。
太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。…
何もかも、もの憂い。
語りつくすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。
「いっさいは空」「すべては空しい」から始まる文書。虚無的、懐疑的、諦めムード、 に、仏教文書かと思わせる雰囲気があり、神への不信感が感じ取れるあたりは、「全能の神とのかかわり」こそが救いの基礎である聖書にあっては極めて異質。時に「異端的」とまで呼ばれる文書。
ただ、このような姿勢は、聖書の根本的な性質を反映しているとも言える。聖書は理論の書ではなく実践の書。きわめて強い、神の存在感を基礎に据え、神と人間とのかかわりを、赤裸々に記したのが聖書。現実社会の中で、汗と泥にまみれもがいている人間が、その現実の中に神の姿を探索し自分の人生に意味を見出そうと奮闘している、その記録。
「このような厳しい現実の中にも、必ず神はおられる」「こんなに頑張ってい生きているのだから、神様は必ず自分に報いてくださる」というのが聖書の基本的なメッセージ。けれども、どれほど頑張っても報われない時もあるし、神を全く見出せないと思うようなひどい現実もある。そのような中では「因果応報」は架空のものであり、「信ずる者は救われる」というメッセージは何も心に響かない。
安易な救いのメッセージに頼らず、不条理な世界に徹底的に直面し、そこから真実の言葉を語ろうと模索している書物といえる。
聖書の他の文書と同じく、「理論」の書ではない。理論的な道筋が順序立てて記されているのではなく、章を重ねるごとに理論が深まっているのでもない。様々な思いが、行きつ戻りつしているのが本書。(このあたりが、仏教文書との違いかもしれない。)
何が「空」か。何が「むなしい」のか。
本書での表現:同じことの繰り返し・苦労して開発したものが正当に継承されない(社会は進歩しない)、快楽、学問や思想・信仰、人生が短いこと、正義が貫かれないこと、不公平なこと、等々。
ヘブライ語「ヘベル」:「息」「蒸気」→時間的に「過ぎ去ること」「はかなさ」、実存的に「無価値さ」「空虚」「空しさ」「不条理」
旧約聖書で73回用いられている、うち38回が本書。
「空しさの空しさ」→「空の空」。「なんという空しさ」→右も左も「空しさばかり」
「むなしい偶像」:「偶像」とは、人間が作ったものが、間違って神として扱われ、その結果人が不幸になる。(必ずしも「他宗教」を指さない。現代日本ならさしずめ「金」が最大の偶像)偶像のむなしさ:実在しない物を実在するかのように思い、振り回される。決して人を不幸にすることはない…という「空しさ」
「空しい」と「空」
同じ「ヘベル」を、違う形で訳した。「空しい」…否定的表現として。「空」…断定的な名詞として。「空」:人生を満たさないもの。(お金も快楽も「空」だ。:お金も快楽も、私の人生を満たして幸せにしてくれる存在ではない。)「いっさいは空である」:この世界は、自分の人生を満たすかのように見えて、その実決して見たさないようなもので満ちている。空でないものを見出すには、ぼんやりしているのではなく、特別な目で見なければならない。
「空」ではなく「非空」を探し求めなければならない。
「空」ではないもの。
本書では、空しさを嘆く多くの文書に紛れて、「空」ではないもの、「非空」へと導いてくれるヒントが、散在している。
3:1- 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時…」
神様が様々な時をお定めになった。人間はその中で懸命に生きるだけでよい。「人生、いい時もあれば、悪い時もあるサ!」
4:9- 「一人よりも二人が良い。共に労苦すれば、その報いは大きい。」
温かい人の交わり。
5:1- 「焦って口を開き、心せいて神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」
神の前で謙虚であれ。人間は思い通りにはいかない。→人間の能力には限界がある。→神の力の偉大さがより実感される→人間の価値観では「不幸」と思えるような状況の中に、人間の思いもしないような神様の救いの計画があるのかもしれない→自分を「不幸」と断定するのは時期尚早。
7:1- 「死ぬ日は生まれる日に勝る…悩みは笑いに勝る…」
「不幸」な状況のほうが良い。その方がより「真理」に近づくことができる。
9:7- 「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻とともに楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。」
愛する人との交わり。
12:1 「青春の日々にこそ。お前の創造主に心を留めよ。」(新共同訳)「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」(口語訳)
最終的には、やはり、神とともに歩むことが人生の幸せ。若いうちから神を知り、神への素朴かつ強い信頼感を持つべき。
そして本書の最後は次の言葉で締めくくられる。
12:13- 「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう。」
仏教の「空」と
ブリタニカ国際大百科事典小項目辞典より
仏教用語。すべての存在は,直接原因,間接原因によって成立したもので,存在にはその本質となるべきものがないと説き,これを空という。この思想は特に般若経典に多く説かれ,また,ナーガールジュナ (龍樹,150頃~250頃) によって体系化された。彼によると,この世のすべてのものは,本質的に空である (真諦) が,それを相対的な日常的立場からは存在とみる (俗諦) 。彼の思想は,その弟子アーリヤデーバ (提婆) に継承され,やがて中国,日本に伝えられ,三論宗となった。
「空」は、心理的な「空しさ」ではなく、世界に対する根本的な認識。
仏教は基本的に「唯心論」。心で正しく認識すれば(=悟る)救われる。
ただしそれにより、「物質的なものに頼らない」文化が発達した。財産を捨てる出家、体を痛めつける修行など。また戦乱、飢饉、貧しさなどから、この世の空しさ、空虚さを実感するようになった。
そのような人々の心象風景と、大乗仏教の「空」という言葉が結びついて、世間一般での「空:むなしさ」というイメージが定着してきたのだろうと思う。
仏教の「空」と、聖書の「空」とは、基本的には全く違う。
同じ「苦難、困難」に対して、仏教的アプローチは、様々な認識を試すことで、自分の心を平静に保ち、冷静に事に当たるというもの。それに対して聖書的アプローチは、絶対的存在である神様が助けてくれることを信じ、歯を食いしばって困難を乗り越える、というもの。
宗教的救いの目標が違う。それは、「仏像」と「十字架像」との違いに明らか。(それぞれ、信仰者の目標となっている。)
仏教的:「冷静に」、聖書的:「ガッツで」
けれども本当の「救い」は、その中間にあるのは明らか。
またそれぞれの宗教も、独自色一色で塗り固められているのではなく、自らの中に、様々な教えを包含している。それは、ときに自己矛盾していても、である。(旧約聖書の中に本書があるように。仏教の中に、禅宗も、浄土系も、密教もあるように。)
様々な宗教への敬意と学びが必要不可欠。
*これ以降は「預言」と呼ばれる部分。
*預言者には、時期と場所と言う背景がある。各預言者ごとに、バビロニア捕囚の(前)かその最(中)か、その(後)か、そして(北)王国イスラエルで活躍したのか、(南)王国ユダで活躍したのか、または(バ)ビロニアで活動したのかを記したい。
*イザヤ書は分量も多く、またキリストの出現を預言したと解釈されることがあるため、キリスト教としては非常に重きを置く預言書。
*時期によって3つに分けられる。
*第1イザヤ、1-39章。(前)(南)
*第2イザヤ、40-55章、(中)(バ)
*第3イザヤ、55-66章、(後)(南)
《預言者》
*預言者の存在が、聖書の大きな特徴だろう。「よげんしゃ」の「よ」は、「天気予報」の「予」ではなく、「銀行預金」の「預」。神様の言葉を「預かって」人々に語るのが使命。そのため、未来の事を語ることもあるが、多くは現状に対する批判を行う。罪深い人間が営む社会は、いつも神様の示す正義や愛から離れようとするもの。その社会の現状を批判し、為政者に神様の思いに帰るよう修正を迫るのが預言者。なので、本来的に権力者から迫害される。また、ほとんど組織を作ることがなく個人で活動する。「孤独」と「迫害」が預言者に付き物。そのような預言者の系譜は、モーセから始まり、エリヤ、サムエルなどにつながり、イザヤ、エレミヤなどを通って、洗礼者ヨハネにいたる。
*聖書の描く社会は、民衆と、為政者、そして預言者によって構成されているといっても過言ではないだろう。どれが抜けても、社会は成り立たない。「教会の預言者的使命」というのは、聖書の預言者のような、社会の現状に対し批判する使命を指す。この使命を教会は忘れてはならない。
*「イスラエルにおいて本来的な預言者と言われる人々は、神から直接の召命を受けて、権力の支配に対峙しつつ、抑圧された人々を解放し、その自由と平和を擁護するという、きわめて具体的な使命ないし課題を与えられて登場する人々であった。」(木田献一氏。「新共同訳旧約聖書注解Ⅱ」)
《イザヤ書とは》
*旧約聖書の「預言書」の冒頭に置かれており、極めて重要な書物。キリスト教からすると、イエス様の誕生を予告したとされる「メシア預言」が記されているため、きわめて重要。福音書で25回、パウロ書簡で27回を含め、新約聖書全体で65回引用されている。
*イザヤの名前の意味は「主は救う」。
*イザヤ書は、時期によって3つの部分に分けられる。
《三つのイザヤ書》
*第1イザヤ(1-39章)。紀元前739年から700年頃に活動。アッシリア帝国が興隆し、イスラエルを圧倒しつつあった。アッシリアへの対応を巡り北王国イスラエルと南王国ユダとが混乱、対立する。紀元前722年に北王国イスラエルはアッシリアにより滅亡。南王国ユダはアッシリアに対して反逆し、アッシリアはエルサレムを包囲し、ユダの滅亡寸前まで行く。ユダの王に、アッシリアを恐れておもねることなく、中立を保て、と預言する。
*第2イザヤ(40-55章)。バビロニア捕囚(紀元前597―539年)の末期から帰還直後まで活動。長年にわたる捕囚で意気消沈している民を、慰め、励ます。新たな救い主登場を予告する預言も行った。
*第3イザヤ(56-66章)。紀元前539年、ペルシア王キュロスはバビロニアを打倒。バビロニア捕囚解放。ユダに帰還し、エルサレム神殿を再建する頃に活動。515年、エルサレム神殿(第2神殿。ソロモンが作ったのが第1神殿。イエス様の時代の神殿は、ヘロデ大王によって壮麗な姿に改修された第3神殿)完成。捕囚解放、故郷帰還によっても、約束された救いが成就しない。そのような状況の中で、預言者は必ず救いが成就し、すべての人が救いに預かる希望を語る。
*活動の時代を考えても、一人の人物とは考えられない。複数の人物、またはグループによって語られ、記された言葉が編集されたもの。
《輪読の目安に》
【1:1-20 ユダの審判】
*恐るべき預言。容赦なし。背信を厳しく指摘し、即座に悔い改めを迫る。不誠実な者の祈りは聞かれない(!)。祈るよりも政治の実行を先行せよ。見せかけの「繁栄」に惑わされず、人々の「罪」を問う。この恐ろしさこそ「預言」。
【2:1-5 終末の平和】
*それと同時に、目の前の「恐怖」に絶望せず、神様の「平和」を力強く宣言する。この希望こそ「預言」。(A年、降臨節第1主日に朗読される。)
【6章 召命】
*預言者は神様から召し出される。召命のメッセージは、あくまで個人に語られる。召命の力強さが、預言者活動の力強さの源となる。(C年、三位一体主日に朗読される。)
【7:1-17 インマヌエル預言】
*イエス様誕生の予告とされるもの。(A年、降臨節第4主日に朗読される。)
【40:1-11 帰還の約束】
*第2イザヤ冒頭。「慰めよ。」優しいメッセージ。神様は決して民から離れず、共に歩んでくださることを、いつくしみ深く語る。(ヘンデル「メサイヤ」でも登場。)
【42:1-9 主の僕の召命】
*第2イザヤは、苦難の僕の姿を記す。イエス様の十字架を示すものとされる。(復活前月曜日に朗読される。)
【52:13-53章 主の僕の苦難と死】
*復活前主日(棕櫚の主日)、聖金曜日(受苦日)に朗読される。それにふさわしい箇所。
当時、イエス様と同じよううに、民のために苦難に遭った人がいたのかもしれない。
【56:1-8 異邦人の救い】
*バビロニア捕囚から解放され、新たに再建されるユダヤ国家は、すべての人を受け入れ、すべての人の平和の源となるべきだ。(A年、特定15で朗読される。)
【61章 貧しい者への福音】
*神様の救いは、民族の枠を超える。すべての人に平和を与える。貧しい者に優先的に救いの御手を掲げる神様。ルカ4:16-19で、イエス様がご自分の使命を示すのに、朗読された。
*エルサレム陥落を預言し、目の当たりにした預言者。「悲しみの預言者」と言われる。
*(前)(南)、627-586・エルサレム陥落の少し後まで活動。
*哀歌は、滅亡したエルサレムの悲惨な様子を描いた書。
《エレミヤの生涯・苦難だらけ》
*紀元前627年に活動開始。20歳に満たない若者。王や人々に、外敵の脅威と、それに対するために神様への悔い改めを説く。
*南王国ユダ最後の5人の王の時代に活動。最初のヨシヤ王は、申命記に基づき厳格な宗教改革を行う。エレミヤはそれを支持。聖所をエルサレムに集中するために地方聖所を廃止する政策が、エレミヤの出身地の祭司たちの怒りを買い、暗殺を謀られる。
*3人目のヨヤキム王はエジプトの後ろ盾で即位。反バビロニア政策。エレミヤはバビロニアを、ユダを悔い改めさせるために神様から遣わされた国、と捉え、バビロニアとの融和策を主張。その結果、王や人々からの無理解と迫害を受ける。
*紀元前597年、バビロニア侵攻。エルサレム陥落。第1回目のバビロン捕囚。再度の侵攻を避けるためバビロニアに従うことを主張したエレミヤは、「裏切者」とみなされ、獄に入れられる。
*紀元前586年、再度バビロニア侵攻。エルサレム陥落。バビロニア捕囚。南王国ユダ滅亡。エレミヤはユダに残留し、残された人々を助けようとするが、混乱の中で、意に反してエジプトへの避難に同行させられる。エジプトで客死したと思われる。
*一貫してユダを愛し、愛したユダから迫害され、自分の意に反すること巻き込まれてきた生涯。
*預言の内容は、バビロニア捕囚まではユダの滅びの危機と悔い改め。エルサレムが陥落しバビロニア捕囚が始まってからは、将来ユダは必ず回復し、神様と新しい契約を結ぶ、という希望。
《哀歌とは》
*エルサレムの苦難を記した、5つの独立した詩を集めたもの。ユダヤ教ではアブの月の9日の断食で朗読される。これは、神殿が破壊されたことを覚える日。
*かつてはエレミヤが作者だとみなされていた。
*悲しみだけではなく、希望も語られる。真ん中の第3章(3つ目の詩)で、希望が語られ、それが哀歌全体の中心と見なされる。
*内容早見表 第1の哀歌(1章) 孤独なエルサレム
第2の哀歌(2章) 神が敵のようである
第3の哀歌(3章) まだ希望がある
第4の哀歌(4章) エルサレムへの裁き
第5の哀歌(5章) 憐れみを求める祈り
(スタディバイブルの解説から)
《輪読の目安に》
【エレミヤ書1:4-19 エレミヤの召命】
*預言者の召命記事。神様から選ばれる(本人は嫌がっている)。語る内容が示される。それはとても厳しい内容。預言者が迫害を受けることと、どのような迫害の中にあっても神様が必ず共に居てくださることの約束。「アーモンド(シャーケード)と見張っている(ショーケード)」のような比喩、暗喩や象徴を用いるのは、エレミヤの預言の特徴。
【エレミヤ書7:1-8:3 神殿での預言】
*エレミヤは祭司の子、本来ならば親の後を継ぎ祭司となって、神殿で民のために奉仕すべき者。そのエレミヤが、神殿において、「不義と背信を犯している民の祈りは聞かれない」と預言する辛さ!
【エレミヤ書19章 砕かれた壺】
*エレミヤは人々の前で壺を砕き、ユダの滅亡の比喩とする。神様が配信のユダを滅ぼされると。エレミヤの預言には、このような象徴的な行動が多い。
【エレミヤ書20:7-18 エレミヤの告白】
*苦しみの告白。神様の言葉を語り、神様からの使命に忠実に生きたがためにもたらされる迫害。自分の生まれた日をも呪うほどの苦しみ。「ヨブ記」に通じる苦しみの告白と悩み。A年、特定7で朗読される。
【エレミヤ書23:1-8 ユダの回復】
*神様は新しい王を立て、新しい国の歩みを始めさせてくださる。希望に満ちた預言。C年、降臨節前主日で朗読される。この主日は教会の暦で最後の日。いよいよ新しい年が始まるという希望の日。まさにふさわしい箇所。
【哀歌3章 希望の歌】
*「深い穴の底から、主よ、私は御名を呼びます。」(55節)余りに重苦しい文章。民の受けた苦しみの大きさと悲惨さ。その苦しみの奥底から、わずかに光希望の光。その光は乏しいものだが、人々に明日を生きる力を与える。
*エゼキエル:(中)(バ)、592~。祭司の子孫。
*ダニエル:文学的要素が強い。物語の設定としては(中)(バ)、バビロニアで重用されたユダヤ人の物語。
《バビロニア捕囚》
*詩編137編
「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、私たちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。私たちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから。私たちをあざける民が、楽しもうとして『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから。どうして歌うことができようか。主のための歌を、異教の地で。…娘バビロンよ、破壊者よ。いかに幸いなことか。お前が私たちにした仕打ちをお前に返す者。お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は。」
*捕囚の地で受けた差別、屈辱的な扱いを忘れない。バビロニアの滅びを願わずにはいられない、深い恨み。呪いの言葉。…バビロニア捕囚の渦中にある人びとは、このような負の状況にいたのだろう。怒り、悲しみ、反省、無力感、虚脱感、それらに苛まれていたことだろう。
*その中でエゼキエルは幻を見、ユダヤの人々に神様の言葉を語り、ダニエルはバビロニア政権の中心でユダヤ人として信仰を通した。負のスパイラルに巻き込まれず、自分独自の生き方を貫いた人々と言えるだろう。
《エゼキエルの幻》
*ダニエル書の特徴は、すべて主語が「私」であること。自分が見た主観的な幻、自分が聞いた神様のみ言葉が中心になっている。余りに幻想的な表現もあり、また現実とはかけ離れている幻(エルサレム神殿の様子は、実際のものとは違う)もあり、読者は戸惑いを感じる。
*エゼキエルは祭司の子。本来なら神殿で祈りの奉仕をすべき者。しかし、神殿から遠く離れた地で捕囚となっている。彼は預言者として、他の預言者と同様、ユダヤの人々に、主なる神様への信仰を勧め、偶像崇拝を禁じ、倫理的に正しい生活へと導く。彼独特の預言は、「神様の栄光が神殿を離れる」という幻。
*彼の活動時期は、第1回バビロニア捕囚直後から第2回捕囚(エルサレム神殿の破壊)までの間に集中する。第1回でバビロニアに連れてこられ、エルサレム陥落を警告した。
*希望の預言もする。神殿を離れた神様の栄光は、再び神殿に戻ってくるという幻。
《ダニエル物語》
*前半は物語。ダニエルと他の青年たちが、バビロニア王によって重用される。彼らは政権に仕えながらも、自分たちの信仰を守る。「ライオンの穴に落とされる。」「燃え盛る火の中を歩む」など、有名な物語が多い。
*後半は、ダニエルが見た幻。悪の王が栄えるが、大天使ミカエルによって滅ぼされる。終わりの時には、正しい者は永遠の命を得、悪い者は滅ぶ。バビロニア、ペルシアなど、実際の国の名前も出てくるが、内容はそうではない。もっと違う国の事、もしくは久遠の未来の出来事を示そうとしている。それらには象徴的な表現や、そのまま読んでも意味不明な表現が多数用いられている。まさに、暗号を用いて示そうとしている。これぞ「黙示」。
*物語の設定はバビロニア、ペルシアの時代だが、実際には、紀元前2世紀のシリアによる支配を表していると考えられる。アンティオコス4世エピファネスは政治的にも宗教的にも過酷な支配をし、ユダヤの人々はバビロニア捕囚に負けずとも劣らない苦難を経験した。旧約聖書続編のマカバイ記Ⅰ,Ⅱはその時期の物語。ダニエル書はその時期に、人々を励まし力づけるために書かれたものと考えられる。
*ダニエル書はヘブライ語だけでなく、一部アラム語で書かれている。
《輪読の目安に》
【エゼキエル書1:1―3:15 エゼキエルの召命】
*目もくらむような幻想的な幻。宝石のような地面と空の間を、奇々怪々な生き物が飛び回る。その中で力強く響き渡る神様の声。「人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる。」同様のメッセージを、パウロは受けた。その3日後、彼の生き方は180度変わった。神様の召命の言葉は、人の人生を全く変える。
【エゼキエル書4-5章 エルサレム包囲のしるし】
*エルサレムの模型の周りに土の土塁を作る。バビロニア捕囚の年数と同じ数の日数を寝て過ごす。民の苦難を予告するため糞で焼いたパンを食べる。これらを衆目の中で行う。正に「異常」な振る舞い。預言の象徴的行為は、人々の目を引きながら、人々から決して受け入れられない行動によって示される。
【エゼキエル書8-11章 エルサレムの堕落、神の栄光が去る】
*エゼキエルが祭司の子で、エルサレムから遠く離れたバビロニアに居るからこそ見る幻。神殿が偶像崇拝の拠点となり、神様が臨在される場である神殿から神様の栄光が去る。人々の背信とその結果である苦難が、象徴的な幻で示される。
【エゼキエル書34章 イスラエルの牧者】
*イスラエルの指導者たちに対し、民を守り養うという義務を全うしていないと裁きの預言。そして、神様が直接救ってくださるという預言。「私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」(11節)救いの希望が示される。(C年、降臨節前主日で朗読。)
【エゼキエル書43:1-9 主の顕現】
*未来に新たな神殿が建てられ、主の栄光が到来する。イスラエル回復の預言が、エゼキエル独特の「神殿の幻」を通して語られる。
【ダニエル書3:1-30 燃え盛る炉に投げ込まれた3人】
*困難な中にあっても信仰を守ることの大切さを、物語で表現する。この時に3人が歌った歌が、後に、旧約聖書続編「ダニエル書補遺 アザルヤの祈りと3人の若者の賛歌」にまとめられる。聖公会では、祈祷書に「万物の歌」として収め、「朝の礼拝」で用いている。
【ダニエル書5章 壁に字を書く指の幻】
【ダニエル書6章 獅子の洞窟に投げ込まれたダニエル】
*有名で、面白い、けれども少し暗く、奇怪な印象を与える物語が多く記されている。他にも旧約聖書続編に「ダニエル書補遺」として「スザンナ」「ベルと竜」がある。
【ダニエル書12章 終わりの幻】
*黙示文学。世の終わりについての幻。今日、明日に実現することとは思われず、遠い未来に、多分自分の生涯よりも先に、実現することを感じさせる幻。個人の努力や、国家の踏ん張りぐらいではどうしようもない苦難の現実を前にしたときには、ただひたすら忍耐して、遠い未来の救いを待ち望むしかないのかもしれない。そしてそれを希望として、子々孫々に語り継がなければならないのかもしれない。
*ホセア書からマラキ書までを「12小預言書」とも呼ぶ。
+以下、バビロニア捕囚の(前)か(後)か最(中)か、活躍した場所が、(北)王国イスラエルか(南)王国ユダか(バ)ビロニアか、を記す。
1*ホセア:(前)(北)紀元前8世紀。 2*ヨエル:(後)(南)紀元前4世紀
3*アモス:(前)(北)紀元前8世紀 4*オバテヤ:(後)(南)紀元前5世紀
5*ヨナ書:物語。文学的要素が強い。設定としては紀元前8世紀、アッシリアの首都に向けた旅。
6*ミカ:(前)(南)紀元前8世紀
《スタディバイブル巻末付録から》
【預言者】 【活躍した時代】 【中心的主題】
+ホセア:北王国滅亡期(BC740~721?):憐みの神、愛の神。真心をもて神に帰れ。バアル神批判
+ヨエル:バビロン捕囚後(BC400頃):恐るべき主の日。審判と祝福の日。
+アモス:ヤロブアムⅡ全盛期(BC750頃):北王国の宗教的堕落に対する「厳かなる神」の審判。
+オバデヤ:捕囚の前後:神のエドムへの審判、怒りの集中。エドム憎悪の歌。
+ヨナ:ヤロブアムⅡ全盛期(BC750頃):全世界の神への信仰。当時の民族主義的思考への警告。
+ミカ:イザヤとほぼ同時代。:南王国の支配階級への裁き。「公義」「へりくだり」「いつくしみ」。
《輪読の目安に》
【ホセア書1:2-9 ホセアの妻と子】
*預言者ホセアは、自分の結婚と子を授かる出来事を通して預言する。(預言者は、どうしてそこまで身を挺して預言するのか?!)偶像崇拝の象徴であるバアル神信仰を批判した上で、それでも愛して下さる真心の紙差を示す。
【ホセア書2:16-25 イスラエルの救いの日】
*「バアル」の名が「主人」と言う意味であることが明らかに。真の神様は「夫」。偶像崇拝は人を支配し依存させ、真の信仰は人を自立させる。B年、顕現後第8主日に朗読される。この日の福音書はマルコ2:18-22。救い主が人々の前に現れたことと、その教えは新しいものである。預言者は、民の罪を告発し、罪深い国家の滅亡を預言するが、同時に真の救い主の登場と、新しい救いの時代の到来を予告する。
【ヨエル書1章 イナゴによる荒廃】
*徹底した荒廃。神様の罰の恐ろしさ。恐るべき日は「主の日」と呼ばれ、具体的な日時は示されない。新約聖書にも受け継がれる「終末論」につながるものではないか。
【ヨエル書3章 神の霊の降臨】
*預言者は恐ろしい裁きと共に、救いの希望を語る。神様の霊が降臨し、人々が救いの希望を持つ日が来ると預言する。C年、聖霊降臨日に朗読される。
【アモス書7:10-8:14 アモスの召命、不正を裁く預言】
*アモス以前にも預言者はいたが、まとまった形で記述されたのは、アモス書が最初だと言われている。
*アモスの時代、国は経済的には非常に反映していた。しかしその陰で、民の中の格差は広がり、信仰、倫理は堕落していた。同じ仲間である民を「貧しい者を靴一足の値で買い取ろう」と言うほどの、人権軽視の風潮があった。神様は厳しく裁かれる。
*アモスはエレミヤやエゼキエルのような祭司の家の出ではなく、農夫。自分の意志でなく、神様からの召命によって、全く畑違いの仕事をするようになった。預言者の苦労。
*B年、特定10、B年、特定23に朗読される。
【ヨナ書2章 ヨナの救出】
*ヨナ書は、短くまとまり、それでいて、起承転結、ユーモア(笑い)、そして落ちまで、抜群の物語(「キリスト教と笑い」という本では、ヨナ書が大きく扱われていた)。
*単に面白いだけでなく、「神様の救いはユダヤ民族だけでなく、世界中のすべての人に及ぶ」という深い思想を教える。これは、新約聖書へとつながってゆく重要な思想。
*これは、進化してゆく思想。世界観が広がらないと生まれない。経済的、政治的な人的交流は、時代と共に広がる。家族だけ、部族だけ、民族だけ、国家だけ、それが国家間の交流に広がる。それと共に思想も広がり、信仰も広がってゆく。(ただし、一方的に広がってゆくだけでなく、行きつ戻りつする。時には極端な反動や、経済的衰退による縮小もある。「グローバリズム」、「自国中心主義」、「感染症による国境封鎖」など、近年耳にするいくつかの言葉でさえも、そのことを示す。)
*2章は、ピノキオにも用いられる。またイエス様は、ヨナが「三日三晩」魚の腹にいたことを挙げて、十字架と復活のしるしとした。
【ミカ書4:1-8 終わりの日の約束】
*ミカはアッシリアの興隆、北王国イスラエルの滅亡、そしてバビロニアの興隆、南王国ユダの滅亡の期間に活動した。外敵の脅威を警告し、偶像崇拝を排し、真の神様への悔い改めを説いた。
*恐ろしい裁きと共に、未来の希望も預言した。「終わりの日」に訪れる平和は、武器を農具に変えるもの(「すべての武器を楽器に変えよう」と唱える喜納昌吉氏に通じるものがある)。理想的な平和のヴィジョンを示す。C年、復活節第3主日に朗読。
【ミカ書5章】キリスト教徒はこの箇所を、イエス様誕生の予告ととった(マタイ2章)。B年、降臨節第4主日に朗読。
*ホセア書からマラキ書までを「12小預言書」とも呼ぶ。
+以下、バビロニア捕囚の(前)か(後)か最(中)か、活躍した場所が、(北)王国イスラエルか(南)王国ユダか(バ)ビロニアか、を記す。
7*ナホム:(前)(南)紀元前7世紀 8*ハバクク:(前)(南)紀元前7世紀
9*ゼファニヤ:(前)(南)紀元前7世紀 10*ハガイ:(後)(南)紀元前6世紀
11*ゼカリヤ:(後)(南)紀元前6世紀 12*マラキ:(後)(南)紀元前5世紀
《スタディバイブル巻末付録から》
【預言者】 【活躍した時代】 【中心的主題】
+ナホム:ニネベ陥落の頃(BC650頃):ニネベ陥落預言。神のアッシリアに対する審判。
+ハバクク:ヨヤキム王時代(BC600頃):神義論、信仰義認。
+ゼファニヤ:ヨシュア王宗教改革(注・BC622)以前:主の日の到来、世界的審判の強調。
+ハガイ:捕囚後、ダレイオス王の頃:神殿再建のすすめ。イスラエルの栄光の回復。
+ゼカリヤ:ハガイと同時代:神殿再建。終末の勝利と祝福。主の日、メシヤ預言(第2ゼカリヤ)。
+マラキ:ゼカリヤ後エズラ・ネヘミヤ以前:離婚の禁止。宗教儀式の厳守とその精神の尊重。
《輪読の目安に》
【ホセア書3章 ニネベの陥落】
*ニネベはアッシリア帝国の首都。アッシリアは722年に北王国イスラエルを攻め滅ぼした。663年にはエジプトの首都テーベを攻略し、古代中東最強の国家となった。中東諸国にとって最大の脅威であり、日常的に彼らを苦しめる存在だった。ホセアは情け容赦なくニネベへの裁きの言葉を預言する。612年、アッシリアはバビロニアとメディアの連合軍により滅亡させられる。
【ハバクク書1:1-2:4 預言者の嘆き、主の答え】
*ハバククが確信したのは、バビロニアは神様から遣わされてユダに裁きを行う、というもの。そしてこの確信が預言者を苦しめる。なぜこれほど残虐で凶悪なカルデア人(バビロニア人)が神様の使いなのか。それに対する答えは、「神に従う人は信仰によって生きる。」必ず、信仰によって救われる。現実の状況に神様の意志を探り、真剣にそれに取り組む預言者。C年、特定22で朗読。
【ゼファニヤ書1章 主の怒りの日】
*ゼファニヤは王家の人間。政権中枢部に居て、国家の中心が、偶像崇拝に汚れているのを憂う。このままでは主の怒りと裁きが行われる「主の憤りの日」がやってくる、と警告する。その後、ヨシア王は申命記を基に、神殿から偶像崇拝を一掃し、国を律法に従って改革した。しかし死後、再び人々は偶像崇拝を行う。そののち、バビロニアにより滅ぼされた。A年、特定28で朗読。
【ハガイ書1章 神殿再建の呼びかけ】
*ダレイオス王はペルシャの王。第2年は紀元前520年。539年にペルシア王キュロスによってバビロニア捕囚からの期間が許されて、約20年後。しかし、エルサレム神殿の再建は未だなされていなかった。神殿はまだできていないのに、個人的に「板で張った家」(日本と違い期の少ないユダヤの国では板は大変高級なもの)を建てる者も出てきた。みんなの信仰生活を支える神殿よりも故人の欲を先行させる風潮。これは信仰の堕落。これが干ばつの原因であり、人々は苦しんでいる。
【ゼカリヤ書14:1-9 エルサレムの救いと浄化】
*ザカリヤはハガイと同時代の人。同じように神殿の再建を唱える。但し表現は、単刀直入なハガイと違い、幻によって語る。他の預言者同様、滅びの警告と共に、救いの希望を語る。「主はすべてを治める王となられる。」いずれ来る「主の日」に来られる「真の王」。イエス・キリスト到来に近づいてくるように思われる。C年、降臨節第1主日に朗読。教会暦最初の日にふさわしい箇所。
【マラキ書13:13-24 正しい者と神に逆らう者】
*バビロニア捕囚から帰還し、神殿を再建しても、思っていたような自由と繁栄は帰ってこない。大国の支配は続き(ペルシア→ギリシア→ローマ)、生活は苦しいまま。神様への信仰は意味がないのではないか、律法を守ったり礼拝を行っても仕方ないのではないか、という思いが広がる中で語られた預言。礼拝を正しく行うことで、神様との愛の関係が回復されると説く。裁きが行われ正義が実現する「その日」の約束。「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」救い主イエス様が来られる備えとしての洗礼者ヨハネの登場。いよいよ新約の時代に入る。C年、特定28で朗読。