ローマの信徒への手紙
ローマの信徒への手紙
司祭 ミカエル 藤原健久
*手紙:「ローマ」から「ユダ」までは「手紙」と呼ばれる箇所。新約聖書の3分の1強の分量。
*元々は本当に手紙。教会の信徒が指導者に質問や相談をし、それに対しての返事。質問の答えや指示だけでなく、信仰のメッセージも含まれる。受け取った教会でみんなに読まれ、他の教会でも回覧され、書き写され、聖書に含まれるようになった。
*パウロは「ローマ」から「ヘブライ」までを書いたとされている。真筆も、名前だけの文書もある。
*配置は、まずパウロ文書をまとめ、他の文書が続く。書かれた順番ではなく、分量や内容の重要さで配置されている。
*「マルコ」では、物語を中心に学んだ。今回は「ローマ」で、キリスト教の「教え」のようなものを学びたい。
*「ローマ」は、紀元50年頃、コリントで書かれたとされている。
*1節「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」に、意味の違いはない。前後の単語の文字の配置で使い分けているらしい。
*「使徒として召され」:パウロの自意識。「私は…使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。…他の人々にとって私は使徒でなくても、あなたがたには使徒です。」(1コリント9章)。パウロが「使徒」であるかは、実は難しい問題。「使徒」と言えば「12人」。この意味は「イエス様の生前中からの弟子。」パウロは、「復活したイエス様と出会い、復活を人々に宣教している」者が「使徒」だとしている。その意味では、最も使徒にふさわしいのは、女性の弟子たち。
*「神の福音のために選び出されたパウロ」:ここから「福音」が重要になってくる。
*3-7節によると、「福音」とは、「御子に関するもの」:イエス様は「神の子」であるという信仰を表す。「肉によればダビデの子孫」:旧約聖書からの信仰を引き継ぐもの。「霊によれば…復活」:復活を宣教するもの(ここでは「十字架と復活」という表現ではない)。「神の子と定められました。」:神の子、は、「生まれ」の問題だけではなく、「復活」にも依る。「主イエス・キリスト」:この一言で信仰告白「イエスは、私の主であり、キリストである。」この信仰を広げる。「御名を広めて」:名前はその人の全存在を表す。イエス様の教えと生き様を広める。「全ての異邦人を…」:福音は、ユダヤ人だけでなく全ての人に向けられたもの(ユダヤ人であるパウロにとっては180度の転換)。
*「私たちの父である神と、主イエス・キリストから…」クリスチャンである私たちにとっては全く普通の表現だが、ユダヤ人にとって、また他の人にとっても、神様と並んで「イエス」という「人間」(または人間だった神様、のようなもの)が祝福の基となるというのは、とても驚くべきもの。これは、宣べ伝える者にとっても、驚きと、そしてこの上ない喜びを伴う宣言だったことだろう。「具体的に知り、交わった、愛する人を、神と呼べる幸せ」を感じる。
*ローマは、言うまでもなく、ローマ帝国の首都。この頃、紀元1-2世紀は、ローマ帝国が最も栄えていた時期だそうだ。ローマの教会は、パウロが宣教師形成したものではない。パウロはまだ訪れたことがない。訪問の希望を記す。
*8節「感謝」:自分の働きではなく、ローマの信徒たちの信仰が世界に知れ渡っていることを感謝している。この感謝の思いは「獄中書簡」(エフェソ、フィリピなど)まで引き継がれる。
*9節「あなた方の事を絶えず思い起こし」:「牧会者」としてのパウロ。まず、その人のことを祈るところから牧会は始まる。
*11-12節「分け与え、力づけ…励まし合う」:「宣教・牧会」というものの姿。一方的に「与える、教える」ものではない。「共に生きる、歩む」ための道のりが「説教、牧会」。
*13節「きょうだい」:「仲間」の意味で用いられる時には、この様なひらがな表現。実際に血縁関係にある者には「兄弟」と表現する、みたいだ。
*14-15「ギリシア人にも…」:ローマの人々を「都会だから」と特別扱いしない。宣教は全ての人へ。
*「福音を恥としません。」:福音が「恥」となる現実がある。信仰による迫害、不利益。これは、現代の日本にも当てはまる。「恥としない」信仰が、今の私たちにも求められる。
*「福音は…信じる者すべてに救いをもたらす神の力」:福音は、人と人との分裂を乗り越える力を持つ。すべての人を救うもの。逆に見ると、全ての者を救うものこそ福音。ならば、ある人々が得をする一方的な主張や、敵意や分裂をもたらすものは、決して福音ではない。
*「神の義」「正しい者」:福音の一つの特徴は「正義」。真の「正義」は、全ての人を救う。
*18-23節「不義」:「正義」の対極にあるものとしての「不義」。「不義」は、神の「怒り」を巻き起こす。何が「正義」で何が「不義」かを判断するのは難しい。「正義」の基準は、社会によって様々。例えばユダヤ人なら「律法」が基準になるのだろう。けれども「ローマ」は、律法に依拠しない異邦人に向けて書かれている。そこでパウロは「彼らに明らか」として、「被造物を通してはっきりと認められる」とする。「普遍的な価値基準がある」とする「自然法」のような考えなのだろう。だから人々は「神を知りながら…感謝することもせず」空しいことをしているとする。具体的には「神の栄子を…像と取り換えた」つまり偶像崇拝を指す。
*私が学生の時「グローバル化の中で、私たちがしっかりと持っておかなければならないのは、国際的な価値基準であり、それが人権感覚、人権意識である」と聞いたことがある。「本当にそうだ」という思いを持ちながら、「西洋の意識が普遍ではない」と言い切るアジアの大国などを見ると、難しいと思う。sくなくとも理論的には難しい。パウロの理屈は時々強引。
*24節~:偶像崇拝には「神殿娼婦」などがあったとのこと(創世記38:12~にも同じような記事がある)。「偶像崇拝」という「不義」を表現するため「不実な性行為」を挙げる。そこから「恥ずべき情欲」として、同性の性行為を挙げる。28節以降の「不正、邪悪、貪欲」などの「不義」のリストには、みんなが納得するだろう。けれども「同性の性行為」をそれらに並ぶものとして記載することには疑問が残る。
*「性」について語るのは難しい。プライベートなことだし、かなり自分の内奥から出てくる欲望に関することだし、恥ずかしい。「性」は、通常の状態では語れない、特別なものという意識が生まれる。
*今、世界のキリスト教界、特に世界の聖公会で、最も議論され、分裂の危機までもたらしているのが「性」の問題。各自が考える必要がある。
*「性の多様性」が本格的に語られたのは、ほんの数年前。「性的志向は生まれついてのもの」という認識は、近年ようやく根付いてきたように思う。私が現場に出てからでも「同性愛」は「放逸な行為」と言われていた(「ローマ帝国の時代などで、堕落した文化の中に『男色』があった」【この発言が男性中心】)。また、教役者会で、「性の多様性」を本格的に学び出した頃に、ある年配の教役者が「性的志向は良いけれど、性行為は良くない」といった発言をしていた。
*そういう意味では、パウロも「時代の子」という側面は隠せない。「福音」という、社会の常識を「超越」する信仰を持ちながら、当時の社会の思想や「常識」から完全に自由にはなれない。
*私たちの社会でも、ほんの数年前まで、様々な立場の人々に対する無配慮な、または差別的な発言や表記がされていた(別紙参照)。
*パウロの記述を「聖書だから」と無批判に「鵜呑み」にすることはできないし、またパウロを「差別主義者」だと完全否定するのも、フェアではない。聖書として敬いつつ、冷静な判断と研究を行い続けなければならない。
*【口述筆記】パウロの手紙の多くは「口述筆記」と思われる。机に向かって書き記すのではなく、自由に語っている言葉を仲間に書いてもらっている。だから、勢いがあるが、その分、理論的に矛盾したり、話の流れがあっちこっちしたり、妙に熱が入ったりしている。そのことも考慮に入れながら、読んでいく必要がある。
*「裁き」とは?…分かったような、分からないような言葉。この難しさは、聖書の中でも徐々に意味が変わってきたからではないか、と思ってしまう。
*出エジプト記18:13-20「モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。」モーセの忙しさを、しゅうとのエトロは注意し、千人隊長から十人隊長までを任命し、民の裁きを委任するようにアドバイスする。この時の裁きは次の通り。モーセ曰く「彼らの間に何か事件が起こると、私の所に来ますので、私はそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです。」この時点での「裁き」は「神の掟と指示」という絶対的な基準に従って、具体的なトラブルを処理すること。
*しかし、イエス様は言われる。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイ7:1-2)ここには「神様の掟」は現れない。自分の基準で相手の誤りを指摘し罰することが「裁き」とされる。当然、各自の基準は違うので、自分も相手の基準で裁かれ得る。だからそうならないようにするには、自分の基準を絶対化しない(相手を裁かない)ことで、相手の基準も絶対化させないことを勧められる。
*モーセの裁きが「刑事」で、イエス様の裁きが「民事」のような、そんな違いか?
*イエス様の教えが、最も劇的な形で表されているのが、ヨハネ7:53-8:11「私もあなたを罪に定めない」の物語。ここには「姦通」という、「律法:神様の掟」に背いた「裁き」よりも、互いの基準を相対化する方が優先されている。これによって、イエス様の愛の倫理においては、人間同士の「裁き」は成り立たなくなる。
*なので最終的には、こうなる。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:21)「赦し」が、キリスト教倫理の中心となる。
*これには、「罪深い人間が、神様の絶対的な掟を、神様の代わりに執行することは、本質的に不可能」という、謙虚な認識があるのだろう。
*1-11節。「裁くあなたも同じことをしているからです。」基本的には「人のふり見て我が振り直せ」の考え方。「他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。」これも「天に唾する」の考え方。もちろん「自分は同じことはしていない。そんなひどいことはしない」と言うのは事実。だから、程度の問題。ただ問題は、その「程度」をどこまで広げられるか。どこまでが「同じ人間」で、どこからが「違う人間」になるのか。最近の、社会における非寛容な雰囲気を考えると、今は随分と「程度」が狭くなったように感じる。
*「絶対的な神」の前では、「不完全な存在」である人間は、すべて「同じ罪人」になる。神様の前では「程度」は果てしなく広がる。「神は人を分け隔てなさいません。」(11節)
*「神の裁き」の前では「人間の裁き」は相対的なものになり、その上「同じ罪人」なので、「人が人を裁く」というのは、神様の領域を侵す「罪」となり得る。
*なので人間ができる事は、神様のなさることに倣って、「罪を犯した(と見なされる)人を、慈しみをもって、悔い改めに導く」こと。その際に必要なのが、「慈愛と忍耐と寛容」。具体的で、すぐに実践できる。
*「罪」とは何か?:「裁き」が相対的なので、「罪」も相対的にある。ここでの記述によると、「耐え忍んで善を行う」者と、「利己心に駆られて不義に従う」者が登場する。「利己心」などの、倫理的なものを用いて「罪」を説明している。
*12-16節:「律法」が登場するが、その役割は随分と小さい。「律法を聞く…ではなく…行う者が義とされる。」実践のみが評価される。「自然に行えば」「心に記されている」と、律法の個別の命令には拘泥しない姿勢を見せている。
*ただし、「律法の命じる所」というように、律法の中心的命題が、その文字を超えたところにあることを想定している。これを、「律法の精神」とでも呼ぼうか。これが重要になる。
*律法の精神:イエス様が示す。「神と人とを愛する。」マルコ12:28-34等。
*「あなたはユダヤ人と名乗り」と、突然「ユダヤ人」が登場する。「ローマの信徒への手紙」なので、対象は「異邦人」のはず。また、パウロは未だローマには言っておらず、読者にはまだ会っていない。これは、実際のユダヤ人に語り掛けているのではなく、今後の論旨の展開のため、架空の議論の相手として「ユダヤ人」を想定しているのではないか。
*ではなぜ、ユダヤ人を登場させる必要があるのか。それは、救いについての議論を発展させるためるために、「律法」のより積極的な役割が必要だからではないか。
*この箇所でも、前の箇所と同様、「実践のみが大切」としている。ただ、「律法を実践していないユダヤ人」への告発が強調されている。それは、ユダヤ人批判を目的とするのではなく、「律法の持つ本来の正しさ」を強調するため。「律法」を徐々に積極的に扱ってゆく。
*24節:イザヤ52:5から。バビロニア捕囚での苦しみと、やがて来る救い主の希望を語る。
*「ユダヤ人の優れた点は何か。」それを「神の言葉を委ねられた」ことにある、とする。これは、歴史を指しているのだろ。旧約聖書に記されているように、ユダヤ人は神様との歴史的かかわりを持っている。これは重要。歴史から切り離された宗教(に限らず)は、力が弱い。「全ての宗教を混ぜ合わせた」ような宗教は、マンガやファンタジーのような印象を受ける。「律法」は、歴史の中で現わされた。
*そしてその歴史の中で現わされたのは、「律法は正しい教え」というもの。それは正にそう。「十戒」(出エジプト20:1-17)に異を唱える者は居ないだろう。ただ、今までその正しい律法を、完全に実践した者が居ないことも確か。歴史の中で、人の罪深さがあらわにされたが、それを「律法が正しくない」根拠に用いることはできないし、人の罪深い歴史を無くすこともできない。
*14節:詩編51:6より。自分の罪を悔い改め、神様が自分の罪を清めてくれることを願った歌。
*歴史に証された律法との関りの中で、歴史を超えた救いを示す。今まで論じてきた、「実践のみが大事」と、「律法は正しい」とを組み合わせ、「正しい実践をすることで、律法が示した救いを得ることができる」とする。その「救い」は、2章が示したような「自然法」的な、歴史を超えた(それゆえに、あまり力のない)普遍的なものではなく、歴史の中で力強く示された神様の救い。
*この箇所では、「正しい」律法を前にしては、全ての人が罪人であることを示す。2章では、倫理的に正しい行動をすれば救われるかのような表現だったのが、ここでは「全てが罪人」となる。「罪」に対する判断基準が厳しくなっている。それは「救い」が、それまでの理解よりも深く、力強くなっているから。
*10節から:詩編14および53・愚か者の神様に対する理解の浅さを批判し、真の神様の前には、全ての人が罪人であることを示す。最終的には神様への賛美となる。
*「今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現わされました。」歴史に現わされた律法によって、歴史を超えた救いが示される。歴史にとらわれるなら、先祖代々のユダヤ人のみが救いの可能性を得る。けれども、歴史を超えるので、誰でも、救いを得ることができる。その手段は、イエス・キリストへの信仰。「倫理的」な救いではなく「神様」を介在した救いであるので、ここで初めて「信仰」が問われる。(単なる倫理的な救い【あえて言うなら「平穏無事な生活」レベル?】なら信仰は不要。より深く、より力強い救いだからこそ、信仰が必要)
*以上から、「信仰によって救われた者」でも、正しい実践は必要だし、旧約聖書の学びも必要となる。
*「信仰義認」と呼ばれるものは、上記の通り、心の中だけでなく、実践を伴うもの。
*「信仰:神様に信頼して歩みを起こすこと」と訳した本多哲郎神父の考えは、正に妥当。ローマの信徒への手紙を読んでから、改めて福音書を読むと、イエス様の言葉が新たな力を得て迫ってくる。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失うものは、それを救うのである。」(マルコ8:34-35)
*覚悟していたことではあるのだが、やっぱり文章が難しく、頭がついて行きにくくなってきた。ここからは、随時整理していきながら進めたい。
*本田哲郎神父の翻訳を大いに参照する。本田神父は、日本のフランシスコ会管区長だった人。また、聖書学者。ある意味、キリスト教エリートだったが、仲間が活動している釜ヶ崎(大阪西成区)の労働者たちとの出会いから、自分が「解放される」経験をし、そこから釜ヶ崎に住み、聖書を読み直している。著書「小さくされた者の側に立つ神」という表題にあるように、聖書の神様は一貫して抑圧されている者の側に立ち、彼らの解放のために働いておられる、とする。その解放のメッセージが「福音」であるとする。
*専門用語のような聖書の言葉を、「解放」の視点から翻訳し直している。「悔い改め」を「低みに立って見なおし」として、「抑圧されている人々の視点から物事を見る」と言う意味としている、ように。(マルコ1:14「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」→「時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音を信じて歩みを起こせ。」)
*福音書を始め、新約聖書の多くの文書を翻訳している。それらは、ギリシア語、ヘブライ語の原語まで遡り、聖書本来の意味を明らかにして、それにふさわしい日本語にしている。全般的に分かりやすい。
*本田神父によると、「ローマ」は、「救いが全ての人(ユダヤ人だけでなく)に及ぶ仕組みについて、分かりやすく、丁寧に説き明かしてくれる書」とのこと。だからこれから、「神様の救いは全ての人に」と言うテーマを頭に置きながら、「ローマ」を読んでいきたい。
*内容をまとめると、「アブラハムは、行いではなく、信仰によって義とされた。それは、彼が割礼を受ける前だった。だから、割礼を受けていない者も、信仰によって義とされる。」というもの。
*「信仰義認」と言われるが、つまりは「信じる者は救われる」というものだろう?「義と認められる」とは何か。「義認」は、難しい専門用語になっている。
*「正義」の問題は難しい。人によって、国や地域や文化によって、「正義」の基準が変わる。また「正しい」と「認め」られた所で、それが何の救いか?とも思えてしまう。
*本田神父の訳だと、「義」は「解放」。出エジプト記3章にもあるように、「人間一人一人をかけがえなく大切に思われる神が、不当にも誰かが抑圧されているのを見て、いたたまれずに行動を起こして、解放される」ことが「義」。
*確かに「解放」は救い。差別や暴力、困窮などの社会的抑圧からは、即座に解放されるべき。
*また個人的にも「解放」されたい。その字の通り、重荷から解き放たれたい。「こんな自分で良いんだ。」「この生き方で良いんだ」と思って生きていきたい。
*反対に「罪」を、本田神父は「はずれた道」と訳す。
*私たちは「犯罪:罪を犯す」のように、「罪」を「自分でも悪いことと分かっていること」と捉え、犯罪人には罰を与え、反省を促す。
*けれども聖書の「罪」は、本人も、周囲の者も、自覚のないもの。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。」(3:9)パウロはその原因を人類の始祖アダムにしているので、誰も逃れ得ない。人類は自覚なく「はずれた道」を歩んでいる。歩めば歩むほど、神様から遠ざかっていく。人間は神様からすっかり離れ去ってしまって、神様との「絶縁関係」に落ち込んでいる。
*「罪」の自覚がないので、人間には自分で罪を反省し、償うことができない。それを、再び神様と接点が持てる状態にしてくださったのが、イエス様の十字架だ、とパウロは主張する。
*また、人類が歩んでいる道が「はずれている」ことを気づかせてくれるのが「律法」だとしている。
*これも分かる。私たちは、「地球温暖化」などの環境汚染を思うと、「今までのやり方はどこかが間違っていて、このままいくと、地球は滅びてしまう」という危機感を抱いている。また、個人的にも、「このままで良いのだろうか」と、疑問や危機感を抱きながら仕事などをしていることもある。
*この「はずれた道」を修正してもらって、「このまま進んで行けば良いんだ」という確信を持てれば、私たちはとても嬉しいだろう。まさに「解放」だ。
*また、これは藤原の考えだが、本文中の「割礼」を、私たちの「洗礼」に置き換えたら、理解しやすいのでは?「洗礼」は、「救われるために必要」だとされているが、けれども私たちは、「救われるために」洗礼を受けたのではないのではないか。何らかの形で「救い」を感じ、その喜びを表すために洗礼を受けたのではないか。
*私たちの信仰に影響を与えた先輩諸氏は、「バリバリに頑張った」人だったか?自分はその人の「業績」に感動したのか?それよりも、「優しくて、思いやりがある」人に感動し、その人の自己肯定感(「こんな自分で良いんだよ。自分を受け入れてあげて」)や、自己充足感(「生きていて良かった。神様を信じてよかった」)に影響を受けたのでは?
*私たちにとっての「救い」は、「世界滅亡を前に、何とかして生き残りたい」というようなものではない。
*3節・本田訳「アブラハムは神に信頼して歩みを起こした。神はこれを認めて、彼を解放された。」(創世記15:6)そのようなアブラハムが、私たち全ての先祖である。
*13節「世界の相続人になる。」創世記17章・神がアブラハムに語り掛けた最初の言葉。「あなたを多くの国民の父とする。…私はあなたと…契約を立てる。…カナンの全土を…所有地として与える。」神様との契約。現在でもこれを、(現在の)イスラエルが、パレスチナ全土を(暴力的に)支配することの、根拠としている(のだろう)。パウロこれを、ユダヤ人に対する限られた地域の支配権ではなく、全人類に与えられた約束とした。それは、17節の創世記の言葉を根拠にアブラハムを全人類の先祖とし、アブラハムの生き方に見られるように信仰のみが必要だ、ということを根拠とした。
*17節「無から有を呼び出される。」→本田訳「無に等しいとされている者に使命を与えて存在感を持たせてくださる」
*アブラハムに与えられた神様の救いは、私たちにも与えられる、ということを、力強く説く。
*アブラハムと同じ信仰(アブラハムと同じように、神様に信頼して歩みを起こす)を持つ私たちは、アブラハムと同じように救いを得る。
*また、アブラハムと同じ神様を信じている私たちは、アブラハムと同じ救いを得る。(アブラハムの神様も、イエス様を復活させた神様も、同じ神様、という論法。)
*ここでイエス様が登場する。5章から、「クリスチャンとして」の説明が始まる。
*25節、本田訳。「イエスは、私たちの過ちのために売り渡され、私たちの解放のために死から立ち上がられた方だからです。」専門用語ではない、分かりやすく、力強い文章となっている。
*今回も、本田哲郎神父(フランシスコ会、釜ヶ崎で活動)訳を、大いに参考にさせていただく。
*今までパウロは、律法とかアブラハムとかを用いて、論を展開していた。そして4勝の最後に、満を持してイエス様が登場する。
*5章全体を読んでみて、「神様の救いの、めちゃくちゃな大きさ」を語っているように思う。それは多分に、パウロの経験から導き出したものなのだろう。
*そしてその背景には、「イエス様とは何者か」という問いと、それに対する必死な取り組み、そして出された結論のありがたさ、があるように思う。
*6節「実にキリストは、私たちがまだ、ひ弱かった時、ふさわしい機会をとらえて、信仰を持たない私たちのたえに死んでくださったのです。」(本田)
*基本的には、「イエス様が、私たちのために死んでくださったから、私たちは救われた」というのが、パウロの論の基本になっていると思う。
*これは、私たちにとって危機なじみのある教えであり、キリスト教の根本教義のように理解している。
*これどもこれは、特にパウロにとって強く重要な考えなのかもしれない。
*私たちが学んできた福音書には、イエス様の十字架の悲惨さが十分に記され、そこから、復活の喜びが強調されている。
*毎週、聖餐式で唱える「ニケア信経」には、「私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ」とあり、それ以上の説明はない。
*パウロのこの考えは、多分に、パウロ個人の経験と、思索から来ているように思う。
*パウロは元々熱心なユダヤ教徒で、キリスト教を激しく攻撃していた。その理由は、「イエスは自分を神の子と主張し、また安息日にも奇跡を行う、許しがたい律法の違反者」というものだっただろう。「イエスが国家に対する反逆者として十字架で処刑された」という情報も、当然知っていただろう。ユダヤ教エリートで、行動力も抜群の彼は、イエス様のことも、キリスト教のことも、十分に研究した上で、十分な確信をもって、キリスト教を迫害していたのだろう。
*その彼が、天からの光を浴びて、イエス様に出会う。パウロは光の中から語り掛ける声の主に「主よ、あなたはどなたですか」と問いかける。「主よ」の呼びかけには、相手が神様であることを確信してる。そして「私は、あなたが迫害しているイエスである」との声を聞く。
*「許されない反逆者として殺されたイエス」と「光の中におられる神様のイエス様」とが、同じ者である、ということを経験したパウロは、激しく葛藤しただろう。三日間目が見えず食べることもできなかったことがその葛藤を現し、その後、みんなが驚く熱心なクリスチャンになったことに、三日間の間に、彼なりの結論を得たことがわかる。
*その結論が、「イエスは神の子であり、彼の死は、人類を救うためだ」というものだったのだろう。実際に体験し、死ぬほど悩んだ末に得た結論なので、その確信具合は固く、決して揺るがないものになったのだろう。
+1節「神との間に平和を得ています。」:「ここで《平和》は、心の平安や外界との調和ではなく、神との正しい関係を言う。この関係は、人間の罪によって断たれていたものであり、ユダヤ人たちが律法遵守によって回復しようとし、逆に得ることができなかったものである。それゆえ、ここではユダヤ人の不安と恐れの生に対比させて、信じる者の平和の生が主張されている。」(新共同訳新約聖書注解)
+「平和」は、ヘブライ語で「シャローム」(ギリシア語で「エイレイネー」)。旧約聖書よりずっと、「完全な平和」を指す。「誰一人こぼれることなく、みんなが幸せな状態」が、聖書の平和。パウロは、神様との間にそのような「平和」があるという。それは、自分を完全に受け入れてもらった状態。赦されないほど罪深い自分が、そのままで、神様に受け入れられ、新たな人生を、悔い改めと愛の奉仕で生きていくことができる、という確信を表現したものではないか。これもパウロの経験から来ているのだろう。
+3-4節「私たちは弾圧のさなかにも誇りを持ち続けています。弾圧はめげずに立つ力を発揮させ、めげずに立つことは手堅い歩みを、手堅い歩みは『確かさ』を引き出すと知ってるからです。」(本田):「苦難、忍耐、品格、希望」ともすれば「専門用語」になってしまいがち。今までも翻訳によって異なる言葉になっていた。より身近で力強い言葉による理解が必要。
*10節「敵であった時でさえ」:「私たちがまだ神と敵対していた時に」…「サタン」は「神に逆らう者」。そしてこれが「罪」:「はずれた道」。人類みんなが「罪」の中に居る。それが、多くの宗教の前提条件で、だから「悔い改めて救いを得よ」とか「目覚めて悟りを得よ」とかなる。
*まだ、人類全員が罪の中にいる状態で、イエス様が死んでくださって、神との和解が与えられている。だから、全ての人が救われるのだ、というのが、パウロの主張。
*ただ、実際は、どれほど「救われているよ」と言われても、各自がそれを受け入れない限り、救いの実感や安心、解放感は得られない。結局は個人の問題になるし、宣教、伝道の必要性はここにある。
+11節「それだけではありません。和解を得させてくださった主であるイエス・キリストのおかげで、神と一体のものにならせていただいていることを、わたしたちは誇ることができるのです。」(本田)…「神と一体」という部分を、他の翻訳で見てみると、「神を喜ぶのである。」(口語訳)、「神と親しい間柄にさせていただいたからです。」(フランシスコ会訳)。きっとなかなか訳出が難しい単語なのだろう。これも、パウロの経験から来ているのだろう。罪深い自分が、神様と一体になったことを実感できるほど嬉しい経験をした、ということを、広く伝えようとしたのだろう。
*15節「しかし、律法違反の度合いとカリスマ(好意に満ちた神からの力)の度合いが、同じだというのではありません。ひとりの人の違反によって多数の人が死ぬようになったのであれば、ひとりの人イエス・キリストによって多数の人にもたらされた神のご好意、すなわち好意の贈り物は、それをはるかに凌ぐものです。」」(本田)…とにかく、神様の救いが、めちゃくちゃ大きいことを、声を大にして言っている。これもパウロの経験から来ている実感だろう。
*「罪」と「恵み」は相関関係にあるが、イコールではない。だから、「アダム」と「イエス」は、理論上相関関係にあるが、重みは「イエス」の方がはるかに重い。理屈から言うと、「ひとりの人イエスによる救い」のために「ひとりの人アダムの罪」が必要なのかもしれないが、私には、あくまで理屈のためにアダムが持ち出されてきたように思えてならない。旧約聖書を読んでいても、「アダムによって引き起こされた原罪」なんて、ほぼ出てこないように思う。「先祖による偶像崇拝によるバビロン捕囚」が、旧約聖書の救いの理屈の起点になっているように思う。
*とにかくパウロは、「全ての人が救われるんだよ!希望をもって生きるんだよ!」と、人類に大声で叫んでいるように感じる。
*5章は、全体として、救いの喜びに満ち溢れているように思う。そして、このことは、現在の私たちの世界に、とても必要な気がする。
*今、世界は「分断」が進んでいる、という。自分の利益を声高に主張することを是とし、自分たち以外のグループを激しく攻撃し、「支えあい」「助け合い」の声は小さくなり、「愛」は迫害されている。なんで、こんな世界になってしまったのだろうか。
*背景には、多くの人々の不満がある。「自分たちは不遇な目に遭っている」という思いがあり、そこから「他の人(例えば社会的マイノリティーの人々)が特別に優遇され、自分たちよりも良い目をみている」という主張になる。ただ、これらの多くは誤った認識。フェイクニュース。そして、「そのような人々は排斥されるべき。彼らを攻撃していい」となり、激しい言説や暴力になる。
*そのような中では、「自分たちを優遇してくれる指導者」が「良いリーダー」であり、高じると「救い主」になる。なんと、「イエス・キリスト」とかけ離れていることか。真の救い主の対極の姿である。
*けれども、実際のところ、私たちを含めて、「自分にとって都合のいい指導者を求めるという誘惑」に打ち勝つことは容易ではない。「自分にとって都合がよければ、その指導者が他者に対して攻撃していても大目に見る」ということを、私たちはしがち。
*確かに「苦しい生活」というのは事実なのだろう。けれどもそこで、「他者を攻撃する」というのと、「人の苦しみを理解し、助け合う」というのと、どちらが倫理的に優れているのか。
*「衣食足りて礼節を知る」「貧すれば鈍する」というのは、人間の正直な姿を現した言葉なのだろう。ただこの言葉でも、「礼節:品位」は語られても、暴力を正当化はしていない。今の状況は、とても酷いのだろう。
*本田訳では、「品格」は「手堅い歩み」となっていた。「衣食が足りない」時には、「手堅い歩み」が損なわれ、「一足飛びに解決を求める」ようになるのかもしれない。苦し生活の中でも、手堅く、じっくりと歩めば、愛の道を歩むことができるのではないか。
*「生活が苦しいから」と言って、暴力が肯定されるわけはなく、また、生活の苦しさが必ずしも暴力的な状況に導かれるわけでもない。愛の道を歩みたい。
*6章は、5章で力強く主張した、「神様の救いの、めちゃくちゃな大きさ」を、引き続き主張する。ただそれを、より詳しく説明するために、「あちらとこちら」というような、二つのものの対比を出している。。
*そのため、少し理屈っぽいというか、難しい印象を持つ。
*自分で問題提起をして、自分で反論して、自分で説明するような、そんなもどかしさを感じる。
*それに加えて、「一旦救われたのだから、もう誘惑に負けないように、自制しなくてはならない」というような、説教臭さも感じる。
*ただ、パウロがひたすら主張したいのは、「みんな救われるんだ!救われるのは大きな喜びなんだ!」ということ。これも、自分の経験から来ているので、力強い言葉になる。
*パウロは、正反対の2つのものを出して、それらを対比させることで、神様の救いを説明しようとする。+恵み⇔罪(1節)、キリストの死⇔キリストの復活(4節)、+(私たちは)キリストと共に死に⇔キリストと共に復活する(8節)、+自分に死に⇔キリストにあって生きる(11節)。
*そして、これらの起点になるのが、「罪に対して死んだ私たち」(2節)。自分たちは、一旦死んだのだから、その正反対の命を受ける、というもの。
*そのことを、象徴的、信仰的に表しているのが、洗礼。「私たちは、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。…私たちも新しい命に生きるためです。」(3-4節)。
*「あなたたちはクリスチャンになる時、洗礼を受けただろう。その洗礼は、実はイエス様の死を表すものなんだ。そしてイエス様が十字架の死の後復活されたように、洗礼を受けた私たちは、新しい、永遠の命を、すでに受けているんだよ」と、パウロは私たちに教えている。
*正反対の2つのものを対比させながら、けれども、それらは同じ重さのものではない。
*「キリストは、もはや死ぬことがない」(9節)「死」と「命」は、対等な関係ではなく、「命」の方がはるかに重い。
*キリストの死は、人間の罪と共に、一度きりのものであり、キリストの命は、神と共に、永遠にある。(10節)。
*だから私たちも、一度、罪に対して死んだのなら、今度は永遠に神様の命を生きるようになっているのだ。(11節)
*「私たちは救われている。それも、めちゃくちゃ大きな恵みで救われているんだ」ということを、パウロは言いたいのだろう。
+7節:本田訳「自分に死んだ人は、はずれた道から解放されています。」6章に何度も出てくる「死」は、漫然とした死ではなく、「自分に死ぬ」こと。自分の欲望や罪に死んだ者は、キリストの命を生きる。
*一旦手を切った罪(一度、罪に死ぬ)に、再び巻き込まれないように、自制することを求める。
*パウロと洗礼:パウロは、神様の救いの恵みを説明するのに、洗礼を用いた。それは単なる説明のためではなく、自分の体験から出た、信仰的な確信なのだろう。
*「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」(使徒言行録9:18-19)。パウロの劇的な回心である、あの三日間の後、最初にしたのは、洗礼を受けることだった。目からうろこ(過去の自分に死ぬ)→洗礼→元気を取り戻す(新しい命を受ける)、という流れだったのだろう。パウロの新しい命は、洗礼から始まった。
*洗礼は、自分がイエス様のものになるという、個人的な信仰表現であるとともに、キリスト教会のメンバーの一人になる、という、共同体的な行為。それらは矛盾することなく一致する。「私はあなたが迫害しているイエスである。」(使徒言行録9:5)。パウロは、イエス様故人を迫害したことはない(多分、パウロは生前のイエス様に出会っていない)。パウロが迫害したのは教会(具体的には教会の信徒)である。イエス様の言葉は、イエス様と、教会共同体が一つであることを示している。
*それは、パウロの言葉遣いでも表現されているように思う。3節「キリストにあずかる洗礼」の原語での表現は、「キリストへと洗礼される。」これは、自分がキリストとつながるという、個人的な宗教体験を表現しているのだろう。8節「キリストと共に生きる」は、「みんなで一緒にキリストと歩む」という共同体的信仰生活を表現しているのだろう。
*祈祷書と洗礼:私たちの祈祷書には、洗礼の意味が詳しく記されている。それは、6:12-14のように、信仰生活をしっかりと整えていくことを、私たちに教えている。
*最初の「勧め」で、司式者は志願者に「水と霊によって新しく生まれる」と、個人的な新生について教える。そしてその直後に、会衆の祈りの中で「キリストの群れの中に入れ、共にみ国を継ぐ者とならせてください」と、共同体として共に歩むことが表現されている。
*また「誓約」の中では、司式者と志願者の間で、+サタンとの闘い、+自分の罪深さとの闘い、+キリストにより頼むこと、+キリストを模範として生涯を送ること、が誓われる。洗礼を受けて救われる、ということは、同時に、救われたものに相応しく、自分の生き方を整えることでもある。
*15節と1節は似ている。正反対の生き方を示して、議論を吹っ掛け、「当然そんなことはないだろう」と悪い生き方を否定し、正しい生き方を勧める。「理屈ではあり得ても、実際にはない」ということを示す。「病気に治った時の喜びを感じるため、何度も病気にかかろう、とはならないでしょ?一旦病気が治ったら、もう病気にかからないように、健康に気を付け、予防するようになるでしょ?信仰もそれと同じことです」みたいな説明をする。
*「奴隷」とかいう言葉は衝撃的だが、多分、パウロの思いを最も表現しやすい言葉なのだろう。「罪の奴隷」と「義の奴隷」とは、正反対のものを対比させているように見えながら、実は重みが全く違う。両方とも、相手に対して自由に生きることができるが、「罪の奴隷」は、「死」に向かって歩んでおり、何をしても恥ずかしく、何か違法行為をしているような思いがあり、「このままでは自分が滅んでしまう」と分かっていながら、そのことには目を背け、自分の自身が持てず、絶えず苦しい。それに対して「義の奴隷」は、今は不十分な状態であっても、これから良い方向に進んでいくと分かっており、希望があり、誇らしく、少しずつでも自信が持てていく。
*この状態は、何らかの「依存症」に近いような気がする。吾妻ひでお著「失踪日記2 アル中病棟」には、アルコール依存症の様子が、当事者の口から語られている。体調が崩れ、生活が乱れ、このままではいけないと思いながら、自分ではどうすることもできず、入院によって、ようやく立ち止まる。病院での生活も苦しいが、少しずつ体調が回復することが感じられ、社会復帰に向けて励む。
*ただ、依存症の治療で大切なのは、「二度としない」こと。どれほど禁酒していても、いったん飲酒してしまうと、「元の木阿弥」となってしまう。だからどんなに苦しくても、2度と誘惑に負けないように、一日一日を励まなければならない。
*多分、人間の罪深い欲望は、「依存症」に似ているのだろう。どれほどやっても、満足することはなく、このままでは滅んでしまうかもしれないと思いながらも、なかなか自分では止められない。
*キリストへの信仰によって、欲望という「依存症」を止めることができたなら、もう二度と、誘惑に負けないようにしなくてはならない。
*キリストへの信仰によって、欲望に打ち勝つのは喜び。その喜びを忘れず、誘惑に負けないように、日々の生活を整えなくてはならない。
*7章は、「律法からの解放」がテーマなのではないかと思う。パウロは丁寧に説明してくれえ居るのだが、難しい。「律法」「罪」「肉」「霊」など、キーワードがたくさんあり、論理的な、哲学的な、神学的な、と思われるような展開が為される。けれどもこれらも、パウロの個人的な経験が大きく影響しているのではないか?そのことを思いながら、読んでいきたい。
*「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されました。その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えるようになったのです。」(6節)。このことを言いたいのだろう。熱心(過ぎる)ユダヤ教徒(原理主義者、自己絶対主義者、排外主義者)としてクリスチャンを迫害していた生活から、復活のイエス様に出会い、すべての人を愛する生活に変わったパウロの、素直な思いであり、経験から導き出される確信であろう。
*ここでは「死」をキーワードに、論を展開する。『夫婦に関する律法は、夫が死ねば解放される(妻目線:妻の方が律法によって束縛されていた)→「死」は、いままでの関係性を切るもの。→私たちも「死」によって律法との関係を切ることができる。→「自分が死ぬ」ことによって、律法の縛りから解放される』。
*ただ、この「死」の使い方は唐突。6章のように、「キリストの十字架の死による復活への希望」ではなく、「罪の生活の行きつく先としての死」でもない。この直前である6章の最後に「死」という言葉が出てきたので、それに引きずられたのではないか。
+4節「あなたたちもキリストの体の一部なのですから、律法に対して自分を死なせなさい。」6節「しかし今や、私たちは自分に死んで…」本田訳では、主体的に自分で自分に死ぬ、となっている。協会共同訳では、「既に死んでいる」ように訳されている。信徒の生き方を勧める場面としては、本田訳の方が適しているのかもしれない。
+6節「古い文字」ではなく「新しい霊」に。…パウロの時代、「旧約聖書」はあっても「新約聖書」はなかった。パウロは、ユダヤ人の生活すべての強力な規範である「旧約聖書」ではなく、伝聞と、教会での礼拝と、自分の祈りの中でだけ出会う、霊的存在である「イエス」を、自分の生き方の中心とした。それは、まだ教義が確定しておらず、だれにも証明してもらえない、不定形な、ある意味不安定なもの。それは、よほど生き生きとしたものであり、未来に向けて希望を持つものでないと。私たちは「新約聖書」を持ち、その中でイエス様と出会っている。私たちにとって「新約聖書」が「古い文字」になっていはいないだろうか。文字で書かれた聖書を飛び出して、生き生きとした例のイエス様にであるか。自分の信仰生活を問いたい。
*律法は規範なので、私たちの生き方の「正邪」を判断するものとなる。ただそれによって、私たちは「罪」を自覚し、自分がどれほど罪深い存在であるかに気づき、そこから抜け出せなくなる。
*このような論旨だと思う。分かるような分からんような。
*具体的に考えてみると、「傲慢さ」かもしれない。「律法」という素晴らしい教えに出会い、自分を正そうとする人は、時に、傲慢になって、律法を守らない(守りえない)人を裁くことがある。そのさばきが暴力的であったりして、神様の教えに適わない(つまり、律法から見て「悪」)場合、その人は「正しい教えによって、悪を行った」となろう。
*福音書によく出てくる「ファリサイ派」は、「分離する者」という意味。世俗の価値観から自分を分離し、律法に基づいて正しい生活を送ろうとした。ただ、福音書にもあるように、彼らは具体的には傲慢になり、小さくされた人々を裁き、迫害する者となった。
*宗教だけでなく、そのようなことは良く起こる。心しなければならない。
*ただ面白いのは、パウロは「律法=悪」としてしまわないこと。ユダヤ教からキリスト教に改宗したのだから、ユダヤ教を攻撃しても不思議ではない。現に、律法をはじめとする旧約聖書の教えを「悪」として否定するキリスト教のグループ(後に「異端」とされたが)もあった。
*パウロのこの姿勢は、やはり、誠実な聖書研究によるものだろう。誠実に聖書を学ぶと、やはり、律法は正しい。けれども、「律法を守る人による悪」は存在する。そうすると問題は、運用の仕方。「正しい律法」と「正しくない運用」。どうしても人間の傲慢さが頭をもたげてくるなら、「律法」という「やり方」では救われない。そのようにパウロは考えていたのかも。
*「私は、自分が何をしでかすか、分かりません。」(15節)「というのは、それをやってしまうのは、私ではなく、私の内に定着している、はずれた道だということになります。」(17節、本田)
*ここには、かつてクリスチャンを迫害していた自分の姿が映し出されているのでは。
*律法は、正しい神様の教えであり、すべての人を救うもの。→それゆえに、律法の違反は、すべての人を傷つけるものであり、許されない。→だから、人間であるイエスを神としているクリスチャンは許されず、迫害せねばならない。
*その結果、「全ての人を救うために、クリスチャンを迫害する」ということになる。この矛盾。
*だれよりも真剣に律法を信じ、律法の従ってきたパウロだから、自分の中の、この矛盾の深刻さに気付くことができたのだろう。
*この箇所は、「理屈」ではなく、パウロの「叫び」のようなものを感じる。
*「正しい律法―正しくない運用」、「正しい信仰―間違った生き方」のような、二律背反を、パウロは突き詰める。その結果、自分自身が分裂するほどの、内面の危機を覚える。
*「適切なことを行いたいと思う自分に、私は律法を見ます。」(21節、本田)パウロは決して人間を、無価値なものとは見ない。自分の中に、律法を反映させる、輝くような良い部分があることを覚える。しかし同時に、自分の中に、どうしようもない罪深い部分があることを覚える。「善をなそうと思う自分に、いつも悪が存在する。」(21節)。
*「心の法則」―「罪の法則」(23節)。本田神父は、パウロが人間を「肉」と「霊」の二つの側面があるとしている、として、それぞれを「感覚の人」「霊の人」と翻訳している。
*「パウロは人を、自然界の生き物の一つとして見る場合に『肉:サルクス』と呼び、その同じ人間が神(の霊)と対話できる存在である存在であるという視点から見る時、『霊:プネウマ』と呼んでいるようです。すなわち、人は自分の五感を用いて、自己保存の本能に支えられて、自然の生を営むもの(肉)でありながらも、同時に、五感だけでは感知しえない超自然の世界にもまたがって生きる存在(霊)であることを示唆します。したがって、『肉』を『感覚の人』、『霊』を『霊の人』と言い換えてみました。パウロは、私たちが『感覚の人』としての自分と『霊の人』としての自分の両面に気づいて、『霊の人』の側面を優先させるような生き方をしてほしいと訴えているのです。」(本田神父)。
*パウロは、そして私たちは、自らの内面の二律背反に苦しむ。しかしとうとう、それらが統合されるときが来た。それがイエス様への信仰を得る時である。
*「しかし、主であるイエス・キリストを通して、神に感謝します。感覚の人としては、はずれた道の法に奉仕してはいても、判断の視座においては、神の律法に奉仕する立場にあるからです。」(本田)。
*「はずれた道:罪」から逃れられない自分を否定することなく、それでも、律法を通して表された神様の愛を生きることができる道を、イエス様が現わしてくださったのである。
*それまで、様々な課題を見つめてきたパウロが、ここで、明らかな救いを示す。葛藤や迷いを乗り越えてきただけあって、その救いは力強く、何があっても揺らがない。言葉も美しく、み言葉が光り輝いているような印象を受ける。
*「肉」と「霊」という二つの言葉で表されていたように、自分の内には、二重の規範がある。それは多分事実。そしてそれらは今まで、「二律背反」として働いていたが、今や「内なる恵み」となる。
*どうしようもなく「肉」の生活をしていても、その中で「霊」の生き方をすることができる。
*「肉」と「霊」の壁を乗り越えるのは、「イエス・キリスト」によるもの。
*「しかし、今はもう、キリスト・イエスと一体となって生きる人は、有罪とされることはありません。」(1節、本田訳)。イエス様と共に生きることで、内なる二重性は、相互の対立の乗り越え和解し、「愛」に向かう一本道となる。
*「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。」(6節)具体的なものに置き換えてみよう。確かに「欲望、依存、傲慢」等の行き着く先は「死」で表されるような、分裂や差別や争いになるだろう。それに対し「愛、和解、一致」などは、理解や協力や平和に行き着くだろう。自分の内にある「肉」の思いは、具体的で、決して軽んじてはいけないものである。「肉の思いは神に敵対し」。私たちの内にある欲望などは、神に真っ向から敵対するものでありうる。しっかりと「懺悔」する必要がある。
+4節「律法が示す解放を実現させるためでした。(本田)」…その反面、私たちの内にある愛も、具体的で軽んじるものではない。私たちが行う愛は、どんなにちっぽけなものであっても、神様が目指しておられる平和:「神の国」の実現に貢献するものとなる。
*「あなたたちは、神の霊が自分に宿っている限り、感覚の人として生きるのではなく、霊の人として生きるはずです。」(本田)。
*「キリストと一体になる」を「神の霊が自分に宿る」と表現しなおす。どちらも、私たちにとっては大変ありがたい言葉であり、「福音」と言える。どうしようもなく罪深い自分なのに、それでも自分の内に神様の霊が宿って下さり、イエス様が共に歩んでくださる。これは、自分の努力によるのではなく、神様からの恵み。神様の救いを思うとき、私たちはいつも、それが神様から与えられた恵みであることを再認識し、謙虚に生きることを心に思う。
*一生懸命、懺悔の祈りをすると、「100パーセント、自分の内面がきれいにならなければ、新しい生き方を始めることはできないのではないか」と思ってしまい、そして、そんな完全な「自己洗浄」をすることができない自分の無力さにいたたまれなくなる。
*けれども、神様は、私たちをそのままで、…正確に言うと「これから自分を清くしようと思いながら、まだほとんど出来ておらず、自分が不完全なままで」私たちを救ってくださる。
*「私たちは、そのままの自分で、愛を行なうことができる。」考えてみれば当たり前のことだが、実はすごい神様の恵み。
*仏教の「即身成仏」に通じるものがある。「即身成仏」は、「私たちが好みを持ちながらに居て、仏になる。死んでからではなく、今生きているうちに、仏になる」ということ。それを提唱した空海は、「現実を肯定し、現世における肉体のままでも、それが仏であると考えました。また、人は内に仏性を備えているが、凡夫は様々な迷いの雲に覆い隠されている状態であると説きました。」空海は、そのための修行として「三密」を唱えた。それは「身(行動)、口(言葉)、意(心)」で仏に向かうこと。(お寺では、手で印を組み、真言を唱え、曼荼羅の仏を思い浮かべて、黙想する)。私たちの信仰では、「祈り、み言葉、愛の奉仕」が「三密」になろうか。
+10節「キリストがあなたちの内におられるなら、体の面では、はずれた道のせいで死んだものとなってはいても、霊の面では、解放のおかげで生きるものとなります。」(本田)…死ぬべき者でも、生きるものとなる。まさに「即身成仏」。
*パウロは私たちに、「私たちの内に神様の霊があり、イエス様がいつも共に歩んでくださる」と、自分に対する認識を新たにさせ、そして、「だからこそ、新たに生きていきなさい」と、愛の行動を促す。
*「神の霊に自分を合わせていく人はみな、神の子どもです。」(14節、本田)私たちは愛を行なう。ただ注意しなければならないのは、その「愛」は、あくまでも「神様の愛」だということ。どれほど自分では「愛」と思っていても、それが反対にその人を苦しめるものとなる危険は、いつもある。(どれほど「その人のため」と、自分では思っていても、「ストーカー」、「教育虐待」などは、本当の「愛」ではない。)
*いくら「神様の霊が自分の内に」と思っていても、それがすぐ、私たちの行動につながるものではない。私たちは謙虚に、神様のみ旨を探り、神様が喜ばれる愛は何かということを考えなければならない。そのために必要なのは、聖書の学びであり、祈り。そして愛の行動に移る。私たちの「三密」。
*大変美しい言葉がつづられている。聖書の中でも珠玉の言葉。ただ読むだけで、心に迫ってくる。言葉に出して唱えれば、より深い思いを得るのかも。
*これらの中で「自分の好きな言葉」を選んで、みんなと分かち合いをしても良いのかもしれない。それぞれ、素晴らしい言葉を選び出すだろう。
*18節は、聖書協会共同訳では、後ろのまとまりの最初の言葉となっており、本田訳では、前のまとまりの最後の言葉となっている。どちらでも解釈できるのであろう。
*「将来」:まさに来たりつつある未来。単に「先にある時間」ではなく、「今」とつながっている。主観的な思いと結びつく。「希望」と結びつきやすい。
*将来への希望:未来への待望は、「今の私たち」を肯定する。現状の不完全さを、忌避しなくなる。「今はまだできていないが、未来にはきっとできる。今はまだ、途中の通過点。不完全であっても仕方ない」というように。
*「見た上で確信するというのは、確信ではありません。…まだ見ていないことを確信しているのであれば、低みからめげずに立ち続けて、それを待ち受けるものです。」(25節、本田)完全な救いは、未来の事なので、今はまだ見ることができない。つまり、救いは、今、私たちが見ているものよりも、ずっと素晴らしいものなんだ、ということができる。ならば、今見ているものが、どれほどひどいものであっても、私たちは希望を持ち続けることができる。「地獄」のなかでも、一筋の光の糸をみることができる。
+「被造物は、神の子どもたちが現れ出るのを、期待をこめて待ち受けています。」(19節、本田)…「環境問題」「地球温暖化」などを思っても、子のみ言葉は納得できる。
*「執り成し」(26節)。間に立って、祈ること。「肉」である人間と、「霊」である神様との間を取り持ってくださる。それが「神の霊」であり、イエス様。「執り成し」は、「代わりに願ってくださる」(本田)、つまり「代祷」。私たちは、単に口で「~のために」祈るだけではなく、「苦しみ人と神様との間に立って執り成すんだ」という思いで祈りたい。
*「執り成し」をする人に必要なのは、両方の思いが分かること。イエス様が私たちの「執り成し主」であるのは、イエス様が「神であり人である」から。
+26節「神の霊も私たちの弱さを共に担ってくださいます。」(本田)…神様は「弱い人」(本田流に言うと、「小さくされた人々」)にこそ、特別な使命を与えてくださる。それは、「弱い人」は、イエス様と、より一体になりやすく、愛を行なう器になりやすいから。
*力強い信仰の宣言が続く。「キリスト・イエスは、私たちのために死んでくださった方、というよりも立ち上がられた(復活した)方、神の右に居てくださる方、私たちに代わって願い事をしてくださる方なのです。」(34節、本田)
*畳みかけるように、信仰の言葉を続ける。これは神様への賛美。パウロの気持ちの高ぶりを感じる。
*「神が味方なら。:神が私たちの側(がわ)に立ってくださるのなら。」神様が共に居てくださる、ということの確信が、この信仰告白の源になっている。
*「弾圧か、行き詰まりか、迫害か…」(35節、本田)自分たちが受ける苦難も、リストアップし、畳みかけるように列挙する。これも、苦難の大きさを強調する。それだけ大きな苦難にも、決して負けることが無い、という信仰の宣言。
*「主であるキリスト・イエスが身をもって示された、私たちを大切にしてくださる神から、私たちを引き離すことはできないということです。」(39節、本田)。引き離すことができないほど一体化された自分とキリスト。自分の内にキリストがおられるのを、実感し、またパウロが今まで受けてきた苦難の中で、このことを実感してきた。
*キリストと共にある、それがパウロの、そして私たちの信仰の源になる。
*今まで、「救われる喜び」を高らかに語っていたが、ここにきて「救われないかもしれない人々」への悲しみ、苦悩を語る。「一方を救い、一方を救えない神は正しいのか」という疑問と神様への批判。この議論は、抽象的には成立しうる。しかし、具体的な状況の中では成立しない。その具体的なものが、「苦しむ者への共感」。これが、「神の義」の根本。
*神様に選ばれるのは、私たちの救い。しかし「選民思想」は危険。おごりと暴力を生みやすい。選びの対象を「民族」や「国家」に固定化し、他の者を排除する。「苦しむ者こそ神様に選ばれる」と言うとき、その危険は免れる。「苦しむ者の救い」に関わるには「共感と愛」が必要。そしてこれらは、本質的に「奪う」ものではなく「与える」もの。自らの身を犠牲にして、成就させようとするもの。そのことを具体的な形で示したのがイエス様。イエス様の生き方に倣うとき、神様の救いに導かれる。
*9章全体で「神様の主権」が、大きく取り上げられている。「神様は全ての決定権を持っている。それに対して人間は無力なつまらないものであり、神様の決定に対して何らの抵抗もできない」という論旨。その論理展開を見てゆく。
*本田訳の小見出しのように、ユダヤ人は、神様の選びを勘違いして、救いから漏れてしまった。そのことを、パウロは悲しく思い、同情する。ここに、「クリスチャン」と「ユダヤ人」の両方の特性を持つからこそできる、パウロの「執り成し」の祈りを感じる。
*「イスラエル」を「クリスチャン」に置き換えると、私たちにとって切実に感じられる論理になる。私たちは「割礼」や「洗礼」などの、外的な目に見えるものによって救われるのではなく、あくまで各自の「信仰」によって救われる。つまり、「自覚的、自律的」信仰が、救いの元になる。これは、私たちが常識的に考え、自らへの戒めとするもの。
*けれども読み進めていくと、私たち「信仰」ではなく、神様の「約束」が救いの元になる、という奇異な論理にぶち当たる。
*この段階で、「神様の主権」が、「人間の自由意志」より優先される、という論理になる。
+7,9,13節、旧約聖書を引用して、神様の「約束」が救いの歴史を展開してきたことを説明する。それを聞いて私たちは少し驚くが、クリスマスの時でも、天使ガブリエルがおとめマリアに、神様の「約束」を告げたことを思い出す。神様の「約束」は、一方的に宣言されるだけでなく、それを聞く我々人間の「応答」があってこそ、展開される。「私は主の仕え女です。お言葉通り、この身になりますように。」
*神様の「約束」が人間の「自由意思」に優先する。この、驚きと反発を感じるような論理は、その「約束」が、「苦しむ者こそ優先的に救われる」となった時、矛盾なく成立するものとなる。
*15,17節で、神様の「約束」の内容が「苦しむ者の優先」であったことを、読者の思い起こさせる。今まで何気なく読んでいた聖書の記述が、鮮やかによみがえる。パウロの聖書の読み込みは、ただ事ではない。
*18節「神は御自身が憐れもうとするものを憐み、かたくなにしようとする者をかたくなにされるのです。」人の救いも滅びも、神様次第となり、人間の意志や努力が入り込む隙間がない。「救いは神によってあらかじめ決められている。」このような考え方を「予定論」と言うこともできる。これは「神様の主権」を強調する聖書から導き出された論理でありながら、けれども同時に聖書は「人間の主体的な信仰」も強調する。解説本などには「この両者のバランスが大切」とも書かれている。
*このような「予定論」を、真空のような抽象的な場で考えると、むなしさを感じる。「予定論で、誰が救われるの?」とも感じてしまう。けれどもここに「苦しむ者の選び」が加わると、途端にこの論理は具体的な、生き生きとしたものになる。行動原理が明確化され、「神の主権」と「人間の自由意志」とのバランスもすぐにとれるようになる。
*残る課題は「苦しむ者の選び」は正しいのか?というもの。では、逆に考えて、神様が「苦しむ者の選び」を否定したらどうなるか、ということを考えたい。途端に「神様は不正だ」ということになる。信仰的な「正義、公平、愛」は、「苦しむ者の優先的な救い」から生まれる。。
+18節。「憐み」と「かたくな」。これは「救われる者とそうでない者」を生み出すことになるのでは。神様は、全ての人を救うのではないのか?そのような疑問も出てくるだろう。けれども、具体的には、「苦しむ者を優先的に助けるのか」という命題を前にしたとき、人は生き方の選択をせざるを得ない。「裁き」は、実は、私たちが自分で選んだ生き方から生まれるのかもしれない。
*「なぜ神は人を責められるのか。誰が逆らえようか。」つまりは「神は正しくない、不公平だ」という主張。これは、「ヨブ記」にも共通する疑問。この議論は抽象的な場では有効だが、具体的な場では成り立たない。「苦しむ者の優先」を選び取るかどうかで、救いが決まる。つまりは、自分の選択の問題となり、その責任を神様に負わせることはできない。
*21節以下の「陶工と粘土」のたとえ話は、「神様の主権」の絶対性と「人間の力」のつまらなさを示す。しかし実は、神様の力は、「裁きの保留」に用いられている。小さくされた人々を苦しめている人々、また、現状を放置して、結果的に抑圧に加担している人への裁きは、直ちになされるべきものなのだが、神様が、その自由な決定権を用いて、保留してくださっているのだ、ということ。「神様の偉大さ」は「憐み」になる。
*「残りの者」が、救いをもたらす。それをパウロは、旧約聖書の深堀りを通して、人々に示す。社会の大多数の人々が、弱い人々を抑圧する社会体制を容認している中で、たとえごくわずかであっても(「残りの」というのは、少数者であることを指しているのだろう)「苦しむ者の優先」を実行する人々がいる。その人々は、ユダヤ人からも異邦人からも現れる。民族などは関係なく、神様の意思を実行するかどうかが、問われる。
*本来、神様の救いから排除されているはずの異邦人が神の義を得、神様から選ばれたはずのユダヤ人が救いに達しない。この逆説的な出来事は、単に理屈ではなく、パウロの経験から出たものであろう。イエス様の福音を、旧約聖書を用いてユダヤ人に説明しても通じず、旧約聖書の素養のない異邦人は受け入れた。この「不思議さ」を説明したものではないか。
*神様の意志である「苦しむ者の優先」を直視せず、自分たちの基準(安息日などの規定を形式的に守ることなど)で救われようとしても、無理で無意味。神様の意思を、素直に受け入れることが必要。
*神の意志と、律法の本来の意図とが、矛盾せずに一つになったのが、イエス・キリスト。イエス様を信じ、イエス様の愛の生き方に従い、生きることで、私たちは救われる。
*イエス様の「福音」に対して、素直な態度で生きることが大切なのだろう。
*「救われる喜び」を確認し、「救われないかもしれない人々」への悲しみ、苦悩を覚え、そして私たちは「宣教者」へと召されていく。パウロは繰り返し「信仰」つまり「信頼して歩みを起こす」ことを、私たちに説く。私たちはいつまでも「受ける側」ではいられない。神様の恵みを頂いている私たちは、それを伝える者となる。
*喜びも、苦悩も知るからこそ、私たちは「健全に」宣教することができるのだろう。「キリスト教はすべてに勝った」と、独善的に他者を屈服させるのを志向するのではなく、また、「全ては懺悔だ」と、まず人々に劣等感を呼び起こし、それを緩和するものとしての「救い」提示するのでもない。ましてや、現実を遊離して「信じる者は救われる」と、言葉面だけで語るのでもない。この世界にしっかりと足を付け、人々の様々な姿をしっかりと直視し、その中で働いておられる神様の救いの御手を探し求め、それを人々と共に、希望をもって分かち合う、そのような宣教を、私たちはするのである。
(今回、作業をしているときに、手元に協会共同訳がなかったため、新共同訳をベースとして用いています。本田訳は、今まで通り用います。)
*この部分は、9章の最後の部分からの続き。10章の文章量の短さと、11章の長さを考えると、9-10章をひとまとまりにした方が良かったのかもしれない。ただ、内容的には9章と10章で違いがあり、9章を経たからこそ、10章という新たな展開を得ることができた、ということもできるだろう。
*2節「正しい認識に基づくものではありません。」―(本田訳)「あるがままを認めようとしないのです。」「あるがまま」とは、神様が実際になさっておられる、この地上での救いの状況。そしてそれは「貧しい者、弱い者が優先的に選ばれる」というもの。このことに目をそらして、別の方法で救いを探しても、無理だし無意味。
*戦争、災害などの時、「今、現に苦しんでいる人への救援」をなおざりにしたままで「復興」を語りだしても、空しいし、聞いている方は怒りを感じる。反対に、ボランティア活動や反戦デモに参加したり、チャリティー活動や苦しむ人びとを覚える特別な礼拝などに関わると、自分自身が生き生きとしてくる。やはり神様は実際に、苦しむ人々を優先しておられる。それが世界の「ありのまま」の姿。
*いよいよ具体的な宣教へと、パウロは私たちを促す。
*5節「掟を守る人は掟によって生きる。」―(本田)「律法の掟を実践する人は、そのことによって命を得る。」律法も、排除の論理としてではなく、「苦しむ者を救済する掟」として実践するならば、それによって救われる。
*6節「信仰による義」―(本田)「信頼して歩みを起こす解放」も、「歩みを起こす」つまり「実践」によって救われる。
*6,7節「誰が天に上るか…誰が地の底に降るか…」このあたり、少しややこしい。テーマは「救いは誰かが他所から持ってきてくれるものではない。自分で動き出すところから始まる」というものだと思う。旧約聖書の引用(申命記30章)は、そのような主旨。ただこれに、「キリストを引き降ろす…引き上げる…」とか言うからややこしい。
*これは私たちに「『他人任せ』の態度は、信仰の本質にかかわる、大きな問題なんだ」と伝えたいために、私たちの信仰の中心であるイエス様を出してきたのだろう。「救いを『他人任せ』にするということは、イエス様を、この世から天国や地獄などの『他所』に追い出すことなんだよ」ということなのだろう。
+8節「御言葉はあなたの近くにあり」―(本田)「神を現わす出来事はあなたの身近にある」本田神父の翻訳からは、大きな示唆を受ける。ことに「御言葉」を「神を現わす出来事」と訳すとは!当時は「新約聖書」は存在しなかった。記憶、伝聞、そして祈りや愛の実践の中で、人々はイエス様に出会った。身近にある様々な出来事を通して、人々はイエス様の救いの御業を読み取ろうとした。「それを通して神様の救いを読み取る物」、まさしくそれは聖書である。「私たちの身の周りの出来事が聖書だ」というテーゼを掲げてみると、私たちの認識が変わるような気がする。
+12節。信仰による救いは「やってみる」ことから。愛の実践に、国や民族の区別はない。一人一人が召されている。
*この箇所は、私たちにではなく、これから私たちが出会う人々の目線から書かれている。
*私たちは既に「宣べ伝える人」になっている。いつまでも「受ける側」にとどまるのではなく、「与える側」:「神様の恵みを与える:宣教する者」になっていく。
*本田神父は、「信仰」を「身をもって歩みを起こす」ことと呼んだが、この言葉はそのまま「宣教」に当てはまる。「信仰」と「宣教」は本質的に同じなのかもしれない。
*「宣教」とは「信じた事柄を人々に伝える」事ではなくて「信じたことを、生きざまで伝えていくこと」なのかもしれない。「宣教」と「信仰」は分離されない。
+15節。「なんと美しい事か」…「宣教」とは、単なる義務や「課題」ではない。神様からの恵み。「宣教できる恵み」「宣教者に召される恵み」。恵みに満ちた人の姿は美しい。
*「主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか。」―(本田)「主よ、私たちが五感で感知したことに、私たちの誰が信頼して歩みを起こしましたか。」(イザヤ53:1)どれほど、神様からの恵みであっても、宣教がいつも上手くいくとは限らないし、上手く行かなければ悲しい。
*「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」―(本田)「それでもやはり、信頼して歩みを起こすのは、五感で感知することによってであり、五感で感知するとは、キリストの出来事から感知するということです。」上手くいかない状況でも、やはり、宣教していかなければならない。
*その、上手くいかない相手は、ユダヤ人たち。19,20節の旧約聖書の引用は、ユダヤ人たちへの宣教の不振と、反対に異邦人への宣教が活発になっていることを説明しているのだろう。
*「信仰とは、やってみること。そのことに国や民族の区別はなく、個々人が問われる」と分かっていても、やはり心に残る。肉による同胞たちを救いたい、という思いを抱く。
*私たちも、信仰による喜びを得、信仰は個々人の自由、と分かっていても、「クリスチャンは日本人の1パーセント」などのニュースに心を曇らせたりする。
*9-10章で、救われる喜びと、人々への思いを確認し、「宣教者」としての思いを整えていこうとする。11章で語られるのは、「宣教が上手くいかない現状」ではないか。それは、ユダヤ人への宣教の不振。パウロの思いとしては、旧約聖書の素養があり、真の神をすでに知っているユダヤ人こそが、旧約聖書が約束している救い主の実現であるイエス・キリストを、真っ先に信じるはずだった。けれども、現実は、多くのユダヤ人から拒否され、反対に、当初想定していなかった異邦人が、福音を受け入れた。この現状をどのように捉えたら良いのか。パウロは葛藤しただろう。その中で、この現状を前向きにとらえた、その考え、思いを、11章に記したのではないか。
*宣教の不振は、われわれ日本人クリスチャンは、痛感している。自分が、喜びをもって、また自然な形で信じている神様を、周囲の多くの人々が信じていない現状を、どのようにとらえればいいのか。各自が、それぞれの形で落とし所を見つけているとは思うが、それでもどこかにやるせない思いがあるだろう。パウロの思いを見つめてみたい。
*「神はご自分の民を退けられたのであろうか。」ユダヤ人への宣教の不振は、神様がユダヤ人を見捨てたからなのか。これはある意味、単純な考え。困難な状況にある人々を、「神様からの罰」と考えることと、あまり変わりない。(それにしても面白いのは、通常、「困難」な人とは、社会的、経済的困窮にある人を指す。この場合、困難なのは、ユダヤ人よりもパウロやクリスチャンたち。けれどもパウロにとっては、真の救い主を信じられない方が、「困窮者」。パウロの固くて重い信仰を感じる)。
*パウロはそのような「ざまあみろ」的な考えには陥らない。(「ざまあみろ」的考えは、相手への暗い恨みと、自分への歪んだ優越感を産む。つまり、あまり「健全」な考え方ではない。)
*パウロは旧約聖書の中から、現状を理解するヒントを得ようとする。そして得た答えが、「彼らは、現状から抜け出せない『かたくなさ』の中に居る(特段、新たな罪を犯したわけではない)。」というもの。
*8節は、申命記29:3からの引用。これはモアブの地でモーセが人々に語った言葉。民族の歴史を振り返り、出エジプトの時に、神様は救いの奇跡を行ってくださったのに、神様は人々の心をかたくなにした。けれどもそんなかたくなな彼らも、最終的に約束の地を得た、という文脈の中で語られた。
*9-10節は、詩編69:23-24からの引用。迫害によって苦しんでいる人が、神様に助けを祈り求める。その時の願いの一つが、「相手をかたくなにすること」だった。神様はその祈りを受けて、時に人々をかたくなにする、とパウロは理解したのだろう。
*また、イエス様を信じている者も、思い上がって傲慢になってはならない。クリスチャンたちがイエス様を信じるようになったのは、自分の力や努力によるのではなく、あくまで神様からの恵み:「ご好意」(本田)によるのである。
*3-4節は、列王記19章からの引用。これは、預言者エリヤが迫害され、「(偶像)バアルを信じる王や偽預言者たちに囲まれ、真の神様を信じるのは自分一人になって、今にも殺されそうになっている」と嘆きの祈りを捧げていた時に、神様が応えた言葉。この少数の「残された人々」によってエリヤは助けられ、真の神様への信仰は残った。どのような困難な時代にも、少数の「残された人々」は存在する。それはあくまで神様が残して下さった人々。そしてそれが、我々クリスチャンなんだ。我々は神様のご好意によって選ばれ残されたもので、自分の力ではない。傲慢になっていはいけない、とパウロはくぎを刺す。
*以上のパウロの考え方は、一言で言うと、「全ては神様のご計画」ということになろうか。それはそれで、課題もあるとは思うが、「恨みを残さず、前向きに生きる」という点では意義がある。「日本ではクリスチャンが1パーセント」という現状に、それぞれ、それなりに複雑な思いを持っていると思う。「これは宣教を十分に行っていないからだ」とか「日本の社会が罪深いからだ」とか「日本人の99パーセントは、迷信深く、罪深い」とか、批判することは簡単にできる。そして「我々こそが正しい信仰を持っている」と思いあがってみたところで、仕方ない。「聖書にも、少数の人が信じると書かれているし、クリスチャンであるのは本人の力ではなく神様の恵みとも書いてある」として、とにもかくにも現状を受け入れ、穏やかに人と付き合う方が、前向きなのかもしれない。
*「かたくなになる」これは、神様への信仰においても重要な課題なのだが、私たちの生き方そのものの課題でもある。
*現代社会においては、他者の痛みへの鈍感とも考えられる。
「ナチスが最初、共産主義者を攻撃した時、私は声を上げなかった。私は共産主義者ではなかったから。
ナチスがユダヤ人を連行していったとき、私は声を上げなかった。私はユダヤ人ではなかったから。
そして、ナチスが私を攻撃した時、私のために声を上げる者は誰一人残っていなかった。
もうその時には、すべてがあまりに遅すぎた。」
これは、反ナチス運動をしていた牧師、マルチン・ニーメラーが、戦後すぐに残した言葉だとされている。他者の痛みに鈍感で、何の行動も起こさない時、いずれは自分自身が苦しい目に遭う、ということを教えてくれる言葉であろう。 「かたくなであってはいけない」というのは、声を大にして語らなければならないものなのだろう。
*「本来そうであるべきなのに、そうではない現実」は、単に「思ったようにならない」以上の思いとなる。その思いは単に「残念」ではなく「罪深く、許しがたい」とまでなる。
*「本来、正しい信仰に進むべきなのに、そうでないユダヤ人」「唯一の正しい教えなのに信じない日本人」これらの「宗教的」課題は、まだ「心の問題」として片づけることができるかもしれない。
*「終戦後、恒久平和を誓ったのに、自衛隊を持ち、アメリカの戦争を支援する日本」、「日本復帰後、本土並みに米軍基地が撤去されるはずなのに、維持され、その上自衛隊基地まで増えた沖縄」、「福島県の人々が大変な目に遭い、国のエネルギー政策を大きく転換すべきなのに、維持され、重みが増し加わろうとしている原発」、「身分制度はなくなったはずなのに、今だい残る部落差別」このような「社会的、政治的」課題は、非常に深刻なものとなる。
*パウロにとっては、宣教の問題も、決して「各自の心の問題」として片づけられるものではなかっただろう。もっと深刻な課題と受け止めていただろう。その中において、前向きに、穏やかな受け止めと表現を行うパウロに、彼の得た信仰理解の大きさ、深さを感じる。
*「彼らの過ちによって世俗の民に救いがおよび、彼ら自身にねたみを起こさせる結果となったのです。」(本田)。パウロは、ユダヤ人たちを「ざまーみろ」と馬鹿にし、おしまい、とはならない。「災い転じて福となす」のように、ユダヤ人の不信仰は、より広い信仰の幸いに転化したのだ、と説く。ユダヤ人の不信仰は、異邦人の信仰を招き、そしてユダヤ人に救いへの願いを高めさせた。ユダヤ人が不信仰にとどまっている現状は、ユダヤ人がより広く救われるための準備の時だと、捉えて、祈っている(「その幾人かでも救いたい。」)。
*これはなかなか難しい。ロシアやイスラエルやアメリカの言動を見て、彼らに罰が与えられ、滅びてしまうことを、こっそり願ってしまうことはないだろうか。そこから、より深い救いを想定することを諦めることが無いだろうか。
*神学校のころ、実習などで様々な学びをし、様々な地を訪れた。沖縄、韓国、アイヌの人々。歴史的に大変苦しい目に遭った人々。そしてその加害者は、私たち日本人であったりする。申し訳ない気持ちになる。「かわいそう」などの、皮相的かつ無責任な言動や思いは許されなくなる。ただ、これらの人々について学び、語り合うと、彼らから民族意識や鋭い歴史認識を伺い、そして彼らには誇りがあることを感じる。転じて自分を見つめなおすと、「日本人」には、「お金」しかなく、誇りなど持ち合わせていないことに気づく。暴力や経済関係などの、この世の価値観が重視する世界以外のところに、大切なものがあることに、気づく。
*「神が自然なままの枝を容赦されなかったのえあれば、あなたを容赦しないはずはないのです。」
*古い宗教的伝統を持つユダヤ人の不信仰を、歴史の浅い異邦人があざけってはならない、と説く。「思いあがるな」という厳しい言葉で。
*「接ぎ木」で表現されるものを、何か他のものでたとえられないか、考えてみた。たとえば、革命による政権交代について。暴力による抑圧で民衆を苦しめてきた王権を、平等などの理想をもって倒した共産主義政権や民衆が、短時間に自分たちも暴力による抑圧を行うことが、しばしばある。結局「支配者」が変わっただけで、「暴力」が残る。「長い伝統のある政権でも間違いを犯せば倒れる。ましてや土台の弱い新しい政権は、少しでも間違ったらすぐに倒れる。思いあがらず、理想を確認し、誠実に運営しなければならない」ということになろうか。例えば日本では、非自民党政権が長続きしない、という政治的状況がある。
*「思い上がり、あざけり、憎しみ」等を斥け、愛と理想と前向きさに私たちを導こうとするパウロ。
*26-27節は、イザヤ59:20-21と27:9から引用されている。前者は、バビロニア捕囚後、イスラエル再建に取り組みながら、不義な人々の不正と暴力となかなか再建が進まない中で語られた預言。必ずいずれ、正しいリーダーの元にみんなが信仰に立ち戻る日が来ると説く。後者は、バビロニアによる破壊の到来を預言しながら、同時に回復される日が来ることを説く。どちらも、現状は困難だが、必ず回復する日が来る、との預言。それはいいかえると、この苦難はあくまで一時的なものだ、というもの。
*パウロは、この不信仰の源である「頑なさ」も一時的なもので、必ず信仰に立ち返る日が来ると説く。この「頑なさ」は一時的な者なんだ、と。
*今の世界は、やはりどこか(しかも管理重要な部分)が間違っていると思う。けれども、それはあくまで一時的なものだ。必ず平和な世界が到来する。
*パウロは「頑なさをも救いのために用いる神様の神秘」を説くが、最も重要なのは、その現状の中に「神秘」を見出そうとすることではないか。「現実」は、様々な角度から見つめることができる。「悪い」と思われる現状の中にも「良い」ものを見出すことができる。それは、「現実」の問題ではなく、「見つめる人」の「物の見方」の問題。この「物の見方」も、我々の「信仰」の一つではないか。
*パウロの手紙の特徴は、最初に「教義」を記し、後半に「具体的な展開」を記すこと。多くの場合「教義」は難しく「具体的」は分かりやすい。教義は11章で終わる。次の行からは、分かりやすい「具体的な展開」が始まる。その一区切りの部分で、パウロは大変美しい感謝の言葉を記す。困難な現実の中で、すべてのものは「感謝」に収束する。現実は、私たちが日ごろ思っている以上に、素晴らしい神様の神秘で満ちている。私たちの信仰は、「感謝」へと向かっていく。
*パウロの手紙の特徴は、前半部分で、「教え」ともいうべき、大切な神学を記し、そして後半に、その具体的な展開、つまり教えに基づいた「日常生活」を語る。この後半部分の方が、分かりやすく、また、短く、口にしやすい「標語」のようなものが多い。キリスト教のカードなどで書かれているのは、この部分のものが多く、逆に言うと、大切な「教え」が軽んじられている傾向がある。
*「ローマ」の場合、今までの教えは「対立を乗り越える」というものが多かったように思う。ユダヤ人‐異邦人の対立、また緊張関係を乗り越える術をパウロは説いてきた。対立を乗り越え、共にキリストの愛を生きるための「日常生活」が、12章以降に語られる。
*「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」パウロはまず、私たちの信仰生活の中心である「礼拝」を語る。そして礼拝は、単に聖堂で厳かに行うものだけでなく、日常の行動によって示すものだと、私たちに教えてくれる。
*「礼拝」という言葉は、新約聖書の中でここでしか用いられていない(らしい)。藤原の神学生時代に、先輩がこの一言を深く掘り下げて、論文を書いていた。その先輩は、神学校の実習の中で、社会的課題の現場に行き、そこで「礼拝」を感じ、この聖句が思い浮かんだそう。実習先は教会でも、祈りの場でもなく、社会の現場の真っただ中で、人々が懸命に生きている場。パウロの言いたい「礼拝」に、先輩も確実に出会ってたのだろう。
*本田神父は、「献げなさい」を「互いに差し出すようにしてください」と訳す。礼拝は、神様にだけ献げるものではなく、互いに仕え合うものなのだろう。
*3節以降、「自分を課題に評価せず」「慎み深く」「多くの部分」「一つの体」等は、教会だけでなく、私たちの社会の在り方にとって、示唆に富んでいる。例えば国政選挙の結果でもそう。確かに選挙は候補者、政党同士の「戦い」であろう。しかし、選挙は民主主義の根幹であって、単なる「勝負」ではない。与党も野党も、それぞれ「異なった賜物」を持つものであり、それらが協力して、「一つの体」である国政を運営していく。選挙に「勝った」者が、「負けた」者を「数の力」でねじ伏せていくのは、本来の在り方ではないし、国民はそのような姿を望んでいない。パウロのビジョンの秀逸さを思う。
*本田神父訳の面白さ。(【 】内が本田訳)「賜物」:【カリスマ】、「信仰に応じて」:【信頼して歩みを起こす度合いに応じて】、「奉仕」:【介添え】、「教える」:【ときあかす】、「勧める」:【相談を受ける】、「施しをする」:【分配をする】、「指導する」:【統率する】、「事前を行う」:【苦しみを共感してものを分かち合う】。本田神父の訳は「互いに仕え合う」という意味を明らかにしてくれているように思う。。
*「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」正に、キャッチーな「標語」。分かりやすく、使いやすく、その示唆するところも大きい(藤原もよく使う)。けれどもこの言葉は、続く「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。【小さくされた仲間たちと歩みを共にするのです。】」という言葉と一つとなってこそ、より大きく強い言葉となり、パウロの本来の思いを現わすものになるのではないか。
*9-13節【人を大切にすることに、裏表はありません。あなたたちは、威圧的なことを毛嫌いし、人に親身にかかわることにこだわりなさい。互いに仲間としての思いをだいじにし、尊敬をこめて相手を自分の指導者と思いなさい。緊急なことを前にしたなら躊躇することなく、霊に燃えて、主に徹底して仕えるのです。救いを確信して喜びを忘れず、弾圧にはめげずに立ち続け、祈りをもって期待し続けなさい。「聖なる者」たちの乏しさを仲間として分け合い、「よそ者」へのもてなしに真剣に努めなさい。】
*本田神父の訳には、現実の力強さがある。きっと、神父が出会った労働者の顔を思い浮かべながら、翻訳したのだろう。私たちも聖書のみ言葉を、自分の現実に引き寄せて読んでいきたい。「よそ者へのもてなし」という言葉には、私たちの身近な、この地域にルーツを持たない人々、難民の人々(日本は国際的に、難民の認定、受け入れが極端に少ない)への対応など、具体的な問いかけが秘められている。
*「聖なる者」という言葉は、当時の、エルサレムに住むユダヤ人クリスチャンを指すことが多い。彼らの中には、キリストの再来がすぐに起きると考え、仕事を辞め、財産を処分して教会に献金し、共同生活を送る者もあった。しかし再臨はなかなか行われず、生活に困窮する者もいた。また、ユダヤ戦争(紀元60年代半ばから数年間)で混乱し、苦しんでいた。パウロは、「異邦人の使徒」として、異邦人クリスチャンたちに、彼らへの献金を勧め、たびたびエルサレムに届けていた。パウロは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの、対立を超えた和解の道の一つとして、この活動を大切にしていた。(ローマ15:25~7、1コリント16:1、2コリント9:1~、コロサイ1:4)。
*「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」本書の最大の問題個所。
*神様は王制を警告するほど、人間に権威が集中することを否定された。イエス様の生き方は「反権威」ともいうべきもので、そのために十字架につけられた。パウロは宗教的、政治的両方の権力者によって迫害された。新約聖書には「反権力」の空気は色濃く漂っている。
*本書13章にあるように、世の「権威」を、無批判に「神に由来する」として、信徒たちに無条件に「従いなさい」と言うのは、何やら違和感を感じる。
*確かにパウロは、対立よりも和解を説き、「違い」を「個性」と受け止め、一つとなるように、いわば「融和」を説く。
*けれども本書3章では「正しい者は一人もいない」と、人間の権威を相対化している。また12:14で「迫害するものへの祝福」を説くが、これは、信仰的、倫理的に上位の行動としてであって、「屈従」「忍従」ではなく、ましてや「心から従う」というようなものではない。
*パウロの経験上、これ以上の被害を受けないために、「迫害する者に逆らうな」というのなら環あるが、それ以上の積極的な服従には違和感がある。
*最後に残された可能性は、「翻訳のミス」?では、本田神父訳を見てみたい。
*13:1-7【人は皆、すぐれた権威には従うべきです。実に、神の下にあるのではければ、それは権威ではありません。神の下にあってこそ、権威として命令を出せるものだからです。そういうことですから、権威に逆らう者は、神が命じることに背いたことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになるのです。あなたたちが人に親身にかかわっているかぐり、指導者たちは恐ろしいそんざいではありません。ただ、あなたたちが人に不当な仕打ちをしているのなら、別です。あなたちは権威を畏れずに暮らしたいと願っています。それなら、人に親身にかかわりなさい。そすれば権威からの評価をいただけます。神の介添え役を果たす人こそ権威があり、あなたが人に親身にかかわるよう促すものです。ですから、あなたが人に不当な仕打ちをしているなら、恐れなさい。権威者阿いたずらに懐剣を帯びているのではないからです。神の介添え役を果たす人こそ権威があり、人に不当な仕打ちをする者には、怒りを込めて報復するものです。だからと言って、神の怒りを逃れるために従う、というだけではなく、心で判断した上で従うことが必要です。そういうことで、あなたたちも負担金を納めているはずです。神に奉仕する人たちこそ権威があり、彼らはその役割を果たそうと励むものです。あなたちは誰に対しても、借りは返しなさい。負担金を納めるべき人には負担金を納め、税金を払うべき人には税金を払い、恐れを持つべき人には恐れを持ち、敬うべき人は敬ってください。】
*「借りがあってはなりません。」…「貸し:負債を免除する」が「赦す」ということの意味。愛の教えは同時に「赦し」の教え。
*「あなたちは、今がチャンスだと知りなさい。今はもう、眠りから覚める時です。」この「チャンス」が、聖書の「終末論」の特徴。新しい救いの時が近づいている。夜が朝になるように、世界が新たになってゆく。そのことに希望をおき、前向きに生きてゆくのが「終末論」。「今ある世界が滅びてしまうから、恐ろしいよ!」と脅すのは、聖書の教えではない。
*「救いが近づいている。だからこそ…」この後に、私たちはどんな言葉を入れるのだろう。パウロは「光の武具を着けて、闇の行いを避ける」つまり「より品位をもって、人を愛する」ということになろう。「世界の終わり」は、私たちを愛の行いに導き、より豊かな日常生活をもたらし、世界を平和に近づけるものになるのだろう。