聖書外典偽典をザクっと読む
聖書外典偽典をザクっと読む
新約聖書、旧約聖書を、信徒、求道者の皆さんと共に、「ザクっと読む」ために、小さなプリントを作りました。皆さんのためというより、自分の勉強のためでした。勉強すればするほど、いかに自分が聖書を理解していないかが分かりました。
皆さんと旧約聖書を「ザクっと」読んだ後に、旧約聖書続編についてもまとめました。旧約聖書続編は、自分の手元の聖書には入っているのに、恥ずかしながら殆ど読んだことがありませんでした。初めて学ぶかのように、勉強しました。正直言いますと、「続編と言うだけあって、ちょっと変わった、『眉唾もの』の書物だろう」と、不遜な先入観を持っていました。実際に聖書を開き、注解書の助けも借りながら読み進めますと、私の先入観が、全くの間違いであることを痛感しました。一つ一つの書物が、著者と読者の信仰によって記され、読み継がれてきたことが、ひしひしと感じられました。
旧約聖書続編のプリントをまとめ終わり、次は「聖書外典偽典」に取り組むことにしました。こちらは、旧約聖書続編以上に、何も知らない分野です。聖書正典に採用されなかったとはいえ、今まで伝えられてきているので、きっと、多くの信仰者によって支えられてきた書物なのでしょう。勉強することで、その信仰に触れていきたいと考えています。
幸い、日本語に翻訳され、まとめられたものがあります。偉大な先生方の研究成果を読ませていただき、自分なりのメモを作るつもりでまとめたいと思います。
今のところ、何らの勉強会を行う予定もありません。自分が自主的にまとめただけです。それでも誰かのお役に立てれば幸いです。
翻訳本を中心に、他の書物やインターネットで調べた者を参考に、まとめました。本文の抜粋の部分には、引用した書物と翻訳者の先生のお名前を記しました。抜粋のあとの「+」が付けられた文章は、私の解説です。
浅学菲才の身ゆえ、不十分な部分や間違いも多くあると思います。お許しください。皆様からのご指導のほど、よろしくお願いしいたします。
*後に「70人訳」と呼ばれる、ギリシア語訳旧約聖書の起源について書かれた書。翻訳に至る経緯と、それに付随する記事で構成されている。
*内容。大きく分けて5部で構成されている。
1)「律法」翻訳計画の発議、使節派遣の準備等。
+アレクサンドリアの王室図書館には何十万もの書物が収められているが、ユダヤ教の「律法」が欠けている。その理由は独自の言語で記されているからで、翻訳が必要。
2)ユダヤ・エルサレム等見聞記。
+当時のエルサレムの様子が、「旅行記」のように詳しく、生き生きと記されている。
3)大祭司による翻訳者選択。彼の律法解釈。
+12部族から各6名選出された。計72人。
4)王の饗宴。謁見の席での質疑応答。
+「論語」のように、現実的な質疑応答が為される。統治者における行動倫理、規範から、信仰へと、議論が導かれる。
5)翻訳の実施と完成。翻訳者の帰還。
+最も中心的なテーマであるはずなのに、随分とあっさりと記されている。「実は聖書の翻訳は、中心的なテーマではない」という説すらある。
*本文中では、作者は、紀元前3世紀のエジプト王に仕えた異邦人アリステアスが、その兄弟フィロクラテスに宛てた手紙となっている。実際は、紀元前2世紀に、アレクサンドリアで、一人のギリシア的教養を身に着けたユダヤ人によって、コイネー・ギリシア語で書かれた。(コイネー・ギリシア語は、当時、国際的に用いられていたギリシア語。新約聖書もこの言語で記されている。)本文中では「手紙」だとされているが、実際は、書簡の形態を模した文学。このような形態は、ギリシア・ローマ期に数多くみられると言われる。現在、11-16世紀にわたる20以上の写本によって伝わっている。
*書かれた目的は、ヘレニズム社会において、ユダヤ教の律法がギリシアの知恵に勝ることを主張すること。ユダヤ人にもギリシア人にも読まれるために書かれた。
*1章立て。1-322節。翻訳本で約55頁。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典3 旧約偽典Ⅰ』1975年、教文館、左近淑氏訳より。
さて、私どもの質問に対して、彼(大祭司エレアザル)が明らかにしたことをかいつまんでお話しすることは価値あることです。なぜなら、多くの人が律法の中の食肉と飲み物、あるいは、不潔と考えられる防物に関する規定に多少とも奇妙な感じを持っていると思うからです。想像はひとたびのことであるのに、ある者が食うに汚れていると考えられ、ある者は触っても汚れると考えられるのはなぜか、と私どもが質問しますと――なぜなら、律法は多くのことに綿密な規定をしていますが、これらの点にも綿密ですので――、こう答え始めました。
彼は言いました。「貴下は生活態度と交遊とがどんな結果を生むかご存じである。つまり、悪い者と交われば、人は堕落し、全生涯を悲惨なものにする。しかし、知者、賢者とともに生きるなら、無知を逃れ、その生活を正すことができる。それゆえ、我らの律法賦与者(モーセのこと)はまず敬虔と義について命じられ、それを逐一、禁令のみならず命令によって解説し、その害と罪悪とによって神によって示される罰を明らかにしたのである。…それは、他の人々にではなく、ただただ、真実の神を崇拝する者にのみふさわしい。他の者は食い、飲み、着るだけの人間である。なぜなら、彼らの意向全体がこれらに頼り切っているからである。しかし、わが国民にとっては、これらは無にも等しい。全生涯を通じて熟考するのは、自分たちにとっては神の主権である。だから、何物にも汚されず、悪しき者と交わり、曲がることのないように、我々の四囲を、食物、飲み物、触るもの、聞くもの、見るものに関する潔めの律法で囲んだのである。…我々の食する鳥類は、どれも馴らしたもので、食餌として、穀粒、豆類をやり、すぐれて清潔である。…しかし、禁制の鳥類については、野生で肉を食い、己の持つ力により他を苦しめ、前述の家禽を残酷に食用に供することを、貴下はご存じであろう。そして、ただこれらのみならず、小羊、小山羊をも荒らし、さらには人間までも、死者、生者の別なく、傷つけるのである。それゆえ、彼は『汚れたもの』と呼ぶことによって、自分たちのために律法を制定されている人々が、心から義をなし、己の力に頼って何人も苦しめず、何ものも決して奪わず、正しいことに従って自分の生を導かねばならぬことの印としたのである。ちょうど、前述の家禽が地に育つ種々の豆類を暗い、同類を苦しめて絶滅させることのないように、である。…それゆえ、食物や、潔からざるもの、這うもの、野獣について言われていることはすべて、義と人間相互間の正しい行為に関係するものなのである。」
(140-169)
+旧約聖書では、説明なく守ることを求められる「律法」の規定について、合理的理由を提示する。ギリシア的な知的環境の中では、このような説明が必要になったか。時代に応じ、適格に解釈し、適応させていくものなのだろう。
さて、3日後、デメトリオスは彼らを連れて、7スタディアに及ぶ防波堤を通って島に達し、橋を渡って北築に赴き、海岸の素晴らしい、実に閑静な所に建てられたある家で会合をしました。彼は、必要なものは全て十分に整えられているが故に、翻訳の仕事を完成してもらいたい、と人々に願望しました。そこで、彼らは互いの翻訳を比較することにより、いちいち一致させ、完成をはかったのです。そして一致したところはデメトリオスの監督のもとで適宜転写されました。会合は第9時まで続きました。その後は身体に気を付け、仕事を離れました。彼らの欲するものはすべて十分に与えられました。その上、デロテオスは毎日王に対して用意されるものと同じものを人々にも用意しました。なぜなら、それが王から彼に命じられていたからです。彼らは毎日早朝に宮廷に伺候し、王に挨拶して後、自分たちの所に退出しました。全ユダヤ人の慣習に従って、彼らは海で手を洗い、神に祈願してから、読むことと各節の翻訳に専念しました。私は、何のために祈る時手を洗うのか、との点を質問しました。すると彼らは、「何の悪もなさぬ、とのしrしにです。何故なら、全ての活動は両手を使ってなされるからであり、美しく敬虔な仕方で全てのものを義と真理にもたらすように、です」と説明しました。既に申したように、彼らは静寂と明るさを楽しむ場所に毎日集まり、仕事をいたしました。このような次第で、翻訳の仕事は、あたかも予め目論まれていたかのように、72日で完了しました。(301-307)
+72人が72日かけて翻訳したのが、「70人訳聖書」との、伝説がある。
*第1,2マカベア書(以下「第1」「第2」と表記)の続編、ではない。(「第2」が「第1」の続編ではないのと同じように。)
*中心的な内容は、「第2」6:18-7:42に記されている、祭司エレアザル、および7人の息子と母親の殉教物語を取り上げ、その内容を膨らませ、哲学的に解説している。
*「私はこれから敬虔な理性は情念を支配するか否か、というすぐれて哲学的な議論を展開しようと思う」(1:1)から始まる。情念を、人間の欲望等(生きるために必要な、自分の身を守ろうとする行動等も含む)と捉え、理性を神への信仰を含むものとして、信仰こそが何よりも優る、と言うことを説明しようとしている。
*著者は、ギリシア哲学を非常に良く学び、理解したユダヤ人。ギリシア哲学的な考え方を用いて、ユダヤ教の信仰を示そうとしている。
*紀元後20-54年の間に、殉教者の墓があったアレクサンドリアで、殉教者の記念礼拝等で語られた説教が基になっていると思われる。ギリシア語で書かれた。
*ギリシア語聖書(70人訳)に、収録されている。マカベア書は、第1,2が「旧約聖書続編」として扱われ、第3,4は、「外典、偽典」として扱われている。なぜそのような区別になったかは、現在勉強中(藤原が)。
*かつては、「ユダヤ戦記」などを書いたユダヤ人歴史家ヨセフスの作品と思われていた。題名は「第4マカベア書」の他、「至高なる理性について」、「思慮深き理性について」、「マカベア殉教者讃」などとも呼ばれていた。ユダヤ教ではあまり取り上げられず、反対に古代キリスト教では好んで用いられていた。キリスト教会の説教に大きな影響を与えた。
*内容。
1)仮設。理性は情念を支配する。(1章)
2)ヨセフからダビデまで、旧約の人びとの例を見る。(2-3章)
3)祭司エレアザル、および7人の息子と母親の殉教物語をもとに、主題について説明する。(4-18章)
*翻訳本で約40頁。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典3 旧約偽典Ⅰ』1975年、教文館、土岐健治氏訳より。
さて理性が情念を支配するか否か、ということを我々は探究しているのであるが、所でいったい理性とはなんであるか、情念とは何であるか、また情念にはどれほどの種類があるのか、理性は果たしてそれらすべてを支配するものであるか、そういったことを考えてみよう。そもそも理性とは知恵ある生活を選び取り、しかもそのことの正しい説明ができる精神である。しかるに知恵とは神と人との事柄およびその原因を知る知識である。この知識は律法に関する教養(パイディア)のことであり、これを通して我々は畏敬の念をもって神の事柄を学び、有益な仕方で人の事柄を学ぶのである。ところで思慮、正義、勇気、節制が知恵の現れであった。これらすべての内で思慮こそがもっとも力あるものであって、まさしくこの思慮によって、理性は情念を支配するのである。情念の内では快楽と苦痛とがもっとも包括的である。これらはおのおの肉体と霊魂の両者に関して存在する。…(1:13-20)
+信仰について、「理性」というギリシア哲学的な言葉を用いて説明する。ただしここでは、「理性」は、旧約聖書の信仰の現れである「知恵」を含むものとしている。ギリシア哲学とユダヤ教信仰が、融合していると言えようか。
彼がこう言うと、槍持ちたちは彼を刑車の方へ連れて行って、そこに注意深く大の字に縛りつけ、背骨を外して火責めにした。そして尖ったくしを焼いて背中に近づけ、わき腹に突き刺して彼の内臓を焼き尽くした。彼は拷問を受けながら言った。「聖なる闘いよ、我々兄弟は信仰のゆえにこの闘いへと呼び出され、苦難の訓練に遭ったが負けなかった。王よ、それは敬虔な知識は何ものにも負けることはないからである。私もまた、優れた徳を身にまとい、私の兄弟たちと共に死のうとしている。拷問の考案者よ、真実に神を敬う者たちの敵よ、私も力強い復讐者をあなたに向けて呼び出そう。我々6人の若者があなたの支配を打ち倒したのだ。我々の理性を変えることも、汚れた肉を無理やり食べさせることもできなかったということは、とりもなおさずあなたの(勢力の)終焉を意味するのではないだろうか。あなたの火は我々には熱くなく、石矢は少しも怖くなく、あなたの力は無力である。なぜならば我々の護衛兵は王の護衛兵ではなく、神の律法の護衛兵だからである。それゆえにこそ我々の理性は不敗なのである。」(11:17-27)
+第6番目の息子の殉教場面。これを、「第2」の同場面と比較する。「この者の後、彼らは第6の物を連れてきた。彼は今にも死にゆく状況で言った。『空しい思い違いをするな。我々は、自分たちの神に対して罪を犯して、自分たちのせいでこんな目に遭っているのであり、驚くべきことが起きたのだ。神と争おうとしておいて、お前は無傷でいられるなどと思うな。』」(第2マカバイ書〔聖書協会共同訳〕7:18-19)第4マカベア書は、「第2」より分量が増えている。拷問の様子が詳しくなり、息子の言葉が長くなっている。その内容は、「第2」では、王への復讐で終わっている所が、「理性の勝利」で終わっている。ギリシア哲学の言葉を用いて、ユダヤ教信仰を説明しようとしている。
*シビュラとは、古代地中海世界において、大きな影響力を持っていた巫女で、紀元前7世紀頃を起源とし、歴史上10名いるとされている。彼女たちの託宣をまとめたものが「シビュラの書」で、かつて古代ローマのユピテル神殿に納められ、国家のための占いに用いられていたが、紀元前83年の火災で焼失、その後、各地の神託をまとめた新たな「シビュラの書」がまとめられ、アポロン神殿に納められたが、紀元後408年に焼失した。
*聖書外典偽典としての「シビュラの託宣」は、上記の「シビュラの書」とは全くの別物で、また上記のシビュラが書いたものでもない。ユダヤ教またキリスト教の宣教のために、シビュラの名を借り、シビュラが書いたかのように記した、偽書である。
*12巻の文書と、数個の断片がある。内容は、未来の出来事を預言し(ただし、既に起きたことを予め預言したかのように記す「事後予言」)、信仰者を苦しめるギリシアやローマ帝国などへの裁きを告げ、真の神への信仰を促す、黙示文学。ただし、ギリシア神話からの援用や、他にはないほどの激しい表現など、「シビュラ」らしさを表現している。
*書かれた時期や場所は様々で、統一的な内容はない。またユダヤ教色が強いものと、キリスト教色が強いものに、またそれらが混ざったものに分かれている。(ユダヤ教的:3-5巻、11,12,14巻、断片。キリスト教的:6-8巻、混合:1,2,13巻)。書かれた時期は、早いもので紀元前140年頃、最も遅いものは紀元後150年頃、書かれた場所は、アジア、エジプト、シリア、近東など。
*15巻まである写本もあるのだが、9,10,15巻は、他の巻と完全に重複している。実質的には12巻。
*様々な写本の中から校訂され、16世紀に最初の8巻が出版された。19世紀に他の写本が発見され、12巻分すべてが発行された。
*ヨセフスが書作の中で引用しているが、それ以外のユダヤ教文書には、全く引用されていない。それに対してキリスト教側では、アウグスティヌスなど多くの指導者が本書を引用している。ユダヤ教側の無関心は、キリスト教側の関心の高さに対する反発とも言われている。
*マカバイ戦争の勝利から、異教徒へのユダヤ教宣教の意欲が高まったことにより、書かれ出したと思われる。その後も様々な状況の中で、異教徒への宣教のため書かれ続けた。ただし、キリスト教が他宗教よりも優位な立場に立つようになり、書かれなくなり、用いられなくなった。
*西方教会でも東方教会でも広く用いられ、「聖書外典偽典」と位置づけられることはあっても、「正典」とされたことはなかった。
*3-5章と、1-3の断片で、翻訳本で約50頁。読みづらい箇所も多く、長く感じる。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典3 旧約偽典Ⅰ』1975年、教文館、柴田有氏訳より。
しかし、大いなる神のおびやかしが極みに達する時、彼はかつてこれをもって人々を恐れさせたがそれは、アッシリアの地で人々が塔を作った時であり、人々は皆一つの言葉であって、星の輝く天に昇りたいと思ったのである。そこでただちに不死なるお方は、風によって大きな力を加えられた。するとたちまち風が大きな塔を頭から投げ倒し、人々の間で相互に争いを引き起こした。このゆえに人々はその町にバビロンという名を付けたのである。その後、塔が倒れ、人々の言葉はあらゆる種類に分かれたので、全地は人間たちの分かれ立つ国々で満ちた。当時は、洪水が最初の代の人びとを襲った時からして第十代の人間の時代であった。そしてクロノスとティタンとイアペトスすなわちガイアとウラノスの最も優れた子らが治めた。人びとが名付けてガイアとウラノスと呼んだのは、彼らが言葉を持った人間どもの最初の者たちだからである。……ティタンたちとクロノスの全てのやからが死に果てた。それから時が廻ってエジプトの王国が起こった。それからペルシア、メディア、エチオピア、またアッシリア、バビロン、それからマケドニア、再びエジプト、そしてローマ。(3巻97-161)
+バベルの塔の物語から、ギリシア神話の物語に入り、そしてエジプトの場面へと帰ってくる。聖書の歴史観と異教の世界観とを自由に行き来する。異教徒にユダヤ教の信仰を伝える手段としての表現なのだろう。
私ははるかな、アッシリアのバビロンの城壁を、気が狂ったように離れ、ギリシアに遣わされた火として、これらの神の怒りの原因を、全ての死すべき者たちに予言する。かくして私が人間の謎を予言するためである。ギリシア中で人々が私を他国の女だと言い、エリュトライ生まれの恥知らずな女だと言う。また彼らは、私がキルケを母とし、グノストスを父とするシビュラであり…嘘つきであると言うだろう。しかし全てのことが起こる時、その時、あなた方は私に言及し、もはやだれも、大いなる神の予言者である私を、狂った者とは言わないだろう。なぜなら神は、かつて私の父祖たちに明かされたことを私に明かされたのではないのだから。最初に起こったことすべてを、神は私に語り尽くし、また後に起こる全てを、神は心の内に置かれた。それは私が、やがてあることを、かつてあったことを、死ぬべき者たちに予言し、語るためである。と言うのは、世界が洪水で洗われた時、ただ一人の者だけが善しとされ、木を切って作った船の中に残され、世界がまた満たされるために、獣と鳥と一緒に水の上を漂っていたからである。私は彼の子の嫁であり、彼の血から作られた。その彼に最初のことは起こったのである。(そして今)全ての終わりのことは示された。そこで、私の口から出たこれらすべての事が真実に語られたものであるように!(3巻809-829)
+自らを、俗に思われている「シビュラ」ではなく、ノアの子孫と呼ぶ。異教的なシビュラが聖書の系譜に連なる者となる。しかし、聖書の表現には無いほどの激しさと、恐ろしさがある。文中の「!」は、翻訳者、柴田有氏が、原文の勢いを伝えるため工夫された表現。キリスト教指導者たちは、本書を引用して、シビュラを聖書の預言者たちに並ぶ存在に位置付けた。システィーナ礼拝堂には、ミケランジェロによって、12人の預言者と共に描かれている。
しかし、裂けてひそみとなっているイタリヤの地から炬火(きょか)が放たれ、広い天に達し、多くの町々を焼き、多くの人々を滅ぼし、大量のくすぶる灰が大空を焦がし、また火の粉が紅土のように天から降る時、その時に、人々は天にいます神の怒りを知る。なぜなら彼らは敬虔な人々の、罪なきやからを滅ぼすからである。またその時、引き起こされた戦いと闘争と、ローマの逃亡者とは西に到る。彼は長い槍を取り、無数の者たちとともにエウフラテスをわたる。(4巻130-139)
+紀元後79年に起こったヴェスヴィオス火山の噴火と、それによるポンペイの埋没を示している。これは、「事後予言」と思われる。人びとに良く知られた事件を用いることで、「予言」の信ぴょう性を高め、「神の意志」を伝えようとしているのであろう。
*「第2エノク書」また「エノクの奥義の書」とも呼ばれることがある。(「第1エノク書」は「エチオピア語エノク書」)。
*成立過程は謎に包まれている。創世記に記された、エノクについての短い記述から生まれてきた、「エノク伝承」とでも言うべきものが、かなり古くから存在していただろう。アレクサンドリアのユダヤ人が、紀元1世紀ごろに本書をまとめたと思われる。
*「エチオピアエノク書」と「スラブ語エノク書」は、共通する内容やテーマも多いが、個々の内容はかなり異なっている。この両者は共通の「エノク伝承」までさかのぼりつつも、別個の過程を経て成立したと思われる。内容的に、前者は神の厳しい面を強調しているのに対して、後者は、弱者保護など神の慈しみを強調している。その点で、前者が「旧約的」、後者が「新約的」と見ることもできる。
*ギリシア語の原本をスラブ語に翻訳したことは確実だろう。ギリシア語版の原本としてヘブライ語版があったという説もあるが、分からない。
*内容は以下の通り。
第1章 義人エノクのもとに二人の天使が現れる。
第2章 エノク、息子たちに後のことを託す。
第3章 エノク、第一天に上げられる。雪と氷と露の貯蔵庫。
第4章 第二天、主に背いた天使たち。
第5章 第三天、天国と地獄のありさま。
第6章 第四天、太陽と月の運行。
第7章 第五天、エグリゴリ(警備の天使たち)。
第8章 第六天、大天使たち。
第9章 第七天、主の尊顔を拝し、主のみ言葉をたまわる。
第10章 エノク、大天使ヴレヴェイルの口述を書きとる。
第11章 主、エノクに天地創造の経過を語られる。
第13章 エノク、地上に戻って、息子たちに天上で見たこと聞いたことを語る。
第14章 エノク、民の長老たちを呼ぶ。
第15章 エノク、長老たちに語る。
第16章 民が集まってエノクに敬意を表す。
第17章 エノク、民に語る。
第18章 エノク、再び天に上げられる。
第20章 エノクの息子たち、祭壇を築く。
第21章 エノクの息子メトセラ、祭司に選ばれる。
第22章 メトセラの死。レメクの子ニルが祭司に選ばれる。
第23章 ニルの妻ソフォニム、死の直前に解任する。メルキゼデクの誕生、メルキゼデク、天に上げられる。
*第12章と19章は、明らかに後代の挿入なので、本文より外す。異本では第24章があるものもあるが、これも後代の挿入。
*翻訳本で約35頁。各章が短く、テンポ良く読める。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典3 旧約偽典Ⅰ』1975年、教文館、森安達也氏訳より。
そこから私は義人たちの天国に昇った。そこで祝福された場所を見た。あらゆる被造物は祝福されており、あらゆる人は喜びと楽しさと無限の光と永遠の生命の内に暮らしている。そのとき私が口に出したことを、わが子よ、汝らに言おう。「幸いなのは主の名をおそれる者、また常に主の面前に仕え、生命の捧げものである贈り物をなして、生涯を生きて死ぬ者。幸いなのは正しい裁きをなし、裸の人に衣服を着せ、飢えた人にパンを与える者。幸いなのは孤児とやもめ女に正しい裁きを行い、不正を被ったあらゆる人を助ける者。幸いなのは変化の道から身をそらし、正しい道を行く者。幸いなのは正義の種を蒔く者、その人は七倍に刈り入れるであろうから。幸いなのは隣人に真理を語れるように真理を持つ者。幸いなのは唇に慈悲と柔和さを持つ者。幸いなのは主の御業を理解し、それをほめたたえ、御業から造り主を知るであろう者。」(第13章)
+「幸いなのは主の名をおそれる者」、この表現は、旧約の知恵文学の流れを汲んでいる。「幸いなのは孤児とやもめ女に正しい裁きを行い…」も同様だが、イエスの「幸いなるかな、貧しい人」の教えに近いような気がする。本書では、神の厳しさよりも慈しみが強調されているように思える。新約に通じるものか。
そしてエノクが息子たちと民の長老たちに語り終えたときに、主がエノクをお呼びになるのを全ての民と隣人たちが耳にした。彼らは相談して言った。「行ってエノクに挨拶しよう」。そこで2000人もの人々が集まり、エノクと息子たちと民の長老が居た場所のアズハンまでやってきた。そしてエノクに挨拶して言った。「永遠の王である主に祝福された方よ、今や汝の民を祝福してください。そして主の顔前で私たちをたたえてください。なぜなら、主は私たちの罪を取り除く者として汝をお選びになったのですから。」エノクは人々に答えていった。「…だから、今や我が子よ、汝らの心をあらゆる不正、主の嫌悪されるすべての事から守りなさい。主の顔前を歩み、一人の主に仕え、主の御前にあらゆる捧げものをもたらしなさい。天を仰ぎ見ればそこに主がおられる。なぜなら天をお造りになったのは主だからである。地と海を眺め、地下のものに思いをよせるなら、そこにも主はおられる。なぜなら万物をお造りになったのは主だからである。またあらゆる物事は主のお顔から隠れることはできないであろう。長い忍耐と柔和さと汝らの苦悩の痛みの内に、この苦しみの世を脱しなさい。」エノクが人々に語っていた時に、主は地上に闇を送られた。そして闇となり、闇はエノクと共に立っていた人々を覆った。すると天使たちが急ぎ来て、エノクを連れ去り、上の天にあげた。主は彼を迎え、永遠にご自身の顔前に置かれた。すると地上から闇が引き、光となり、人々は目が見えて、エノクがいかにして上げられたかが分かった。そこで彼らは神をたたえ、各人の家に帰った。(第16-18章)
+創世記には「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(5:24)としか記されていない物語を、詳しく語る。同じく死を経ずに天に昇ったエリヤよりも、キリストの昇天の場面の方が似ている。やはり本書は「新約的」か。
*ユダヤ教の信仰者にとって、最も大切なのは、律法である。律法には聖書にに記された「書かれた」律法だけではなく、「口伝」の律法もある。紀元前5世紀から紀元後2世紀までの口伝律法がまとめられたのが「ミシュナ」。これに、2~300年後に書かれたミシュナの注解である「ゲマラ」を合わせたものが「タルムード」である。ユダヤ教の信仰者は聖書とタルムードを通して、それぞれの時代の日常生活において、律法に基づいた生活を正しく行おうとしている。
*本書は「ミシュナ」の一書。他の書と同様、紀元後2世紀にまとめられたと考えられる。ただ、他の書とは、内容も形式も違う。他の書は、律法を実践するための教えや教訓的な説話が記されていいるが、本書は70人ほどの律法学者たちの名前を挙げ、彼らの教えを短く紹介している。いわば箴言集であり、「箴言」「シラ書」のような知恵文学の書とも言えるが、本書独自の特色を持つ。
*多くの場合、本書は、ミシュナ第4部の第9書に配置されるが、タルムードによっては、場所が異なっていたり、ゲマラが欠いていたり、または全く欠落していたりする。
*書名「ピルケ・アボス」は、「父祖たちの章」の意味。主にファリサイ派の宗教的父祖たちの言葉をまとめたものなので、この署名が付いた。
*内容
第1章 モーセへの律法授与からエルサレム陥落時代までの伝承。
第2章 ヨハナン・ベン・ザッカイとその弟子たちの言葉。神殿崩壊後の時代における宗教的指導者たち。
第3、4章 約40人の律法学者の言葉。時代や各人のつながり(師弟関係など)はバラバラで、明確な基準に基づいて選ばれたとは思えない。
第5章 10,7,4,3の数字による類別に従って倫理的な観点から、人間と世界を洞察している。
*翻訳本で約20頁。律法学者たちの言葉が短く、テンポよく記されているため読みやすい。現実的な教えが多く、分かりやすい。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典3 旧約偽典Ⅰ』1975年、教文館、石川耕一郎氏訳より。
モーセはシナイ(で神)から律法をうけ、これをヨシュアに伝え、ヨシュアは長老たちに、長老たちは預言者たちに、預言者たちはこれを大会堂の人々に伝えた。彼らは三つのことを語った。慎重に物事を判断しなさい。多くの弟子を興しなさい。律法に垣根を設けなさい。義人シメオンは大会堂の残りの者の一人である。彼は言う。この世は三つのものの上に立っている。律法と祭儀と慈愛あふるる行為の上に。ソコの人アンティゴノスは義人シメオンからけた。彼は言う。賞与を得るために主人に仕える僕のようになってはならない。賞与をあてにしないで使える僕のようになりなさい。天を恐れる心があなた方の上にあるように。(第1章1-3)
+本書の冒頭部分。このような形で律法学者たちの言葉を短く伝える。「大会堂」とは、大きな建物のことではなく、律法学者たちの集まりのこと。「天」は神を指す。ユダヤ教文学では、聖書の引用以外では「神」の名前を慎重に扱い、多くの場合、他の表現を用いている。
ラビ・ハナニヤ・ベン・トラドヨンは言う。二人の者が席を同じくし、しかも両者の間に律法の言葉が話題に上らないときには、見よ、これはあざける者の座である。「あざける者の座に座らない」と(聖書に)言われている。しかし二人の者が同席し、両者の間に律法の言葉が話題になる時には、両者の間には遍在者(編者注・神)がおられる。…ラビ・シメオンは言う。一つの食卓で会食する三人が、食卓越しに律法の言葉を口にしないならば、死者にささげたいけにえを食するようなものである。…一方、一つの食卓で会食する三人が食卓で律法の言葉を口にするならば、存在者にして賛美を受ける者(編者注・神)の食卓から食するようなものである。(第3章2)
+キリストの「二人または三人が、私の名によって集まっている所には、私もその中に居るのです。」(マタイ18:20)を思い起こす。ここでは、信仰者が、律法を話題にするかどうかが、神の臨在を分けるものとなる。現実的な信仰態度を求めている。
人には4つの型がある。私の物は私の物、あなたの物はあなたの物、という人は普通人である。…私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、これはアム・ハアレツ(編者注・貧しい人々)の人々である。私の物はあなたの物、あなたの物はあなたの物、これは敬虔な者である。私の物は私の物、あなたの物も私の物、これは悪人である。(第5章10)
+いくつかの数字をテーマにして、教えを宣べる。ユーモアも感じる教えだが、最終的に、敬虔な人と悪人との違いが明らかにされ、正しい生き方が示される。
*書かれた背景…紀元前3世紀後半より、外国勢力ギリシアからの軍事的政治的脅威により、ユダヤ社会にそれまでとは異質な宗教、文化が浸透してきた。ユダヤ人の中には仕方なく、また積極的にギリシア的なものを受け入れる者が、少なからず出てきた。それに対して、様々な形で先祖伝来の宗教を熱心に信じ、宗教的実践を厳格に行おうとする人々が出てきた。それらの一つが、イエス様の時代にも活躍していたファリサイ派であり、また、人里離れた死海のほとりで共同生活を行い、「死海文書」を残したエッセネ派(その中の一つのグループがクムラン教団)である。ヨベル書は、彼らによって書かれ、伝えられたと思われる。
*内容…「あなたは安息の年を7回、すなわち7年を7度数えなさい。…あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。」(レビ記25:8-10)ヨベルとは全ての負債が免除され、労働や耕作が休止され、人も土地も家畜もすべてに安息が与えられる年。
+世界の初めから出エジプトまでの歴史は、「ヨベル:49年」を一つの単位とした、「49ヨベル」で構成されている。以上の歴史観で、創世記と出エジプト記12章(エジプト脱出)までの物語を採録する。
+モーセがシナイ山で神様から律法を授かった時、天使から今までの歴史を聞く、という体裁で書かれている。
+特徴は、1年364日の「太陽暦」に、厳格に基づいていること。364日は1週7日×52週となる。こうすることによって、年間の祝祭日の曜日は固定化され、安息日との関係も固定化され、どの年でも混乱することなく律法、祭儀を行うことができる。
*紀元前2世紀前半に、ファリサイ派、またはエッセネ派の人びとによって書かれたと思われる。原典はヘブライ語で、それがギリシア語に訳され(現在は紛失)、それがエチオピア語(全文)、ラテン語(1/4)に訳され、現代まで伝えられた。
+死海文書に写本の断片が残され、、ダマスコ文書にも引用されている。他の外典偽典にも引用され、エッセネ派を中心に、広く用いられていた。中世のユダヤ教文書にも用いられており、また今日でも、エチオピア国内のユダヤ人(ベタ・イスラエル)では、正典同様に用いられ、ヨベル書に強く影響を受けた祭儀が行われている。
*50章立て。それぞれの章に20節前後。翻訳本で約120頁。ボリュームがある。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典4 旧約偽典Ⅱ』1975年、教文館、村岡崇光氏訳より。
主はモーセに言われた。「…律法と証言(あかし)と7年期間とヨベル期間に(はじまって)私が降りてきて彼らとともに永遠に住むまでの過去と未来にわたる全歴史の区分について、今日この山で、私が君に知らせることを君は書き留めるのだ。」
(1:22-26)
掟の日の合計は52週となり、これで完全に1年となる。このように天の板に刻まれ、規定されており、これを1年たりともずらしてはならない。君はイスラエルの子らに、364日というこの数で年を守るように命ぜよ。これで1年は完全なのであって、その日と祭の時を乱してはならない。すべては証言(あかし)のとおりにその範囲内に巡ってくるべきで、日をやり過ごしたり、祭りをふいにしてはならない。しかし、もし彼らが彼の掟にもとり、そのとおりに行わないならば、彼らはすべての時を狂わせ、年はこの(順序)からずれ、その順序を乱すことになろう。イスラエルの全ての子らは年の道を忘れて、これを見出せず、朔日も祭日も忘れ、年の順序をいっさい謝るであろう。私は知っているのだ。(だから)これから君に知らせよう。これは私の頭で考えだしたことではなく、このように私の前に本に書いてあるのだ。また、時代区分が天の板に書いてあり、彼らが私の契約の祭日を忘れて、彼らの迷いに従い、無知に従って異教徒たちの祭日を採用することのないようにしてある。月を細かく観察しようとする者が出て来るであろう。なぜならこれ(月)は時を乱し、年々10日ずつ早く巡るからである。このゆえに証言(あかし)の日を狂わせて忌み日にしてしまい、祭日を汚れた日にし、全てを混乱させ、聖日が汚れた日に、汚れた日が聖日になるというような年が巡ってくるであろう。彼らは月と安息日と祭日とヨベルを誤つである。このゆえに私は彼らに証言するように君に命じかつ証言する。君の死後、君の子らは暦を狂わせ、1年を364日と限定せず、そのゆえに朔日も安息日も祭日も誤ち、なんでも肉を血のついたまま食べるようになるであろう。
(6:30-38)
*「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5:24)聖書の中で数少ない「死んでいない人」エノク。創世記の中のごく短い記述が、その後多くの人々の想像力をかき立てた。エノクの名を用い、人類の罪について、過去から未来に至る人類の救済史について、死後の世界や世界の果てについて、深く考察し、表現し、またヨベル書同様暦や天文について記述している。物語に一貫性は無いように見えるが、時間、空間を含めた世界全体を説明しようとしている書と言える。
*エノクはノアの曽祖父に当たる。それもあってか、人類の罪についての考察を、大洪水に至る天使と人との交わり(ネフィリム・巨人伝説)に求める。また、他の書には無い数多くの天使の名前が記されていたり、鳥や動物などの名前を用いて、国々等を説明し、世界の終わりについて説明しようとする黙示録的表現が為されたりしている。
*最終的には、苦難の中にあって、正しく生きることを読者に勧める。ギリシャ勢力等からの迫害、後にはローマ帝国からの迫害等が背景にあったのだろう。
*「アダムから数えて7代目に当たるエノクも、彼らについてこう預言しました。『見よ、主は数知れない聖なる者たちを引き連れて来られる。それは、全ての人を裁くため、また不信心な生き方をした者たちの全ての不信心な行い、および、不信心な罪人が主に対して口にした全ての暴言について皆を責めるためである。』」(新約聖書・ユダの手紙14-15節)これは、本書1:9からの引用である。数多くの外典偽典の中でも、最も大きな影響を、初期キリスト教に与えた書と言えるだろう。
*ヨベル書同様、死海文書中に多くの写本の断片が発見された。クムラン教団の中で大切に用いられていた。また暦法については、ヨベル書同様1年364日の太陽暦が説明されている。
*紀元前3世紀ごろから紀元後3世紀(!)に、複数の人びとによって書かれた文書がまとめられたもの。アラム語で書かれ(ただし、紀元後に書かれたものはギリシア語で、クリスチャンによって記されたと思われる)、8世紀ごろにエチオピア語に訳された。全文はエチオピア語で伝えられ、他にも部分的にギリシア語訳やラテン語訳が残されている。死海文書中に、ヘブライ語、アラム語の断片がある。また部分的に内容の異なる者も、複数ある。エチオピア正教では、正典として用いられている。
*内容について。以下のように分けられる。
1)大洪水(ノアの方舟物語)の原因となった天使たちの堕落に関する物語。
2)エノクが天使の案内で天国や地獄を巡る物語。
3)世界史的な意味での終末に関する物語。
4)天文学や暦法に関する話。
5)宇宙の誕生からこの世の終末までの歴史。
6)エノクが子孫に語った訓戒。…天国や地獄、最後の審判などについて知ったエノクが、子孫のために正しく生きることを勧めている。この中に、世界の誕生から終末までを10週に分けて語る部分もある。
*107章立て。これだけ聞くと大長編だが、1節しかない章もあり、ボリュームとしてはヨベル書とほぼ同じ。翻訳本で約120頁。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典4 旧約偽典Ⅱ』1975年、教文館、村岡崇光氏訳より。
そこから私は別な所へ行ったが、彼は、西方に大きな、高い、堅い岩から成る山を見せた。その中に、深くて、幅が広く、平坦な窪地、4つの場所があった。あまり滑らかで、ころころ転がりそうだった。覗くには深く、暗かった。その時、私に付いていた聖なるみ使いの一人ラファエルが、私に向かって口をきった。「この窪地は、霊魂、死者の魂が集まってくるようにと、彼らのために造られたのです。全ての人間の魂はここに戻ってきます。かれは、彼らを住まわせるためにしつらえた場所であり、彼らの裁きの日まで、彼らに定められた時まで(そこに留まる)。定められた時は、彼らの大いなる裁きの日、遠い先のことである。」私はまた死んだ人の子らの霊魂を見た。彼らの声は天に達して、告発していた。その時私は、私に付いていたみ使いラファエルに尋ねた。「こんなに天に向けてその声を発し、告発し続けているこの魂は誰のものなのですか。」彼は私に答えて言った。「この魂は兄のカインに殺害されたアベルから出ているものです。彼は彼(兄)の子孫が地の面から滅び、彼の子孫が人間の子孫の中から姿を消すまで告発し続けているのです。」そこで私はその時、彼について、また全ての者の裁きについて尋ねてみた。「なぜ(これらの窪地は)一つ一つ区切ってあるのですか。」彼は私に答えて言った。「この3つ(の区切り・窪地)は死者の霊魂をより分けるためのもので、同様に、義人の魂も別にしてあり、これはその上に光がきらきらする水の泉である。」同様に、罪人が死んで地中に埋められる時のために、区切りができている。彼らは在世中、裁きに遭わなかった。ここに、大きな悲痛の中に、彼らの魂は別にして隔てられ、大いなる裁きと刑罰の日を迎える。呪いを発する者には悲痛が永遠に(ふりかかり)、彼らの魂には復讐が(ふりかかる)。彼は彼らをここに永久につないでおかれるであろう。もしそれが永遠の昔からだったとすれば、同様に、告発している者、罪人の時代に殺されたような場合、その殺害について(証拠を)見せようという人のためにも仕切りができている。同様にして、義人ではなく、罪人であったもの、悪行をさんざんに働いた者の魂にも仕切りが作られている。彼らは悪党どもといっしょに、悪党並みの扱いを受けるであろう。裁きの日に殺されることもなく、ここから連れ出してもらえない。その時私は栄光の主をほめたたえて言った。「我が主、栄光と義の主はほむべきかな。すべてを永久に治めたもうお方。」(22章)
+死後の世界について、具体的に詳しく説明している。義人から罪人まで、それぞれの行状に応じた場所が用意してある。聖書ではほとんど説明されない、けれどもみんなが気にしていることを、大胆に説明している。
…そこでエノクは書物に基づいて語り始めて言った。「私は、裁きと義がまだ引き続き行われつつあった第1週に7番目に生まれた。私の後に、第2週に甚だしい悪が起こり、欺瞞が芽生え、最初の滅亡が訪れ、(ある)者は救われ、この、滅亡ののち暴逆がはびこり、罪人に対して法(おきて)が定められるであろう。そののち第3週に、その終わりごろ正義の裁きの木となる人が一人選ばれ、彼の子孫は以後永遠に義の木となる。そののち第4週に、その終わりごろ聖人と義人たちの幻が現れ、続く世代のための法と囲いが定められる。そののち、第5週に、その終わりごろ栄光の家と王国が建てられて永遠に至るであろう。そののち、第6週に、その(時代)に生きる人は皆盲人になり、全ての者の心は知恵を忘れる。そのとき一人の人が起こり、その終わりごろ、王国の家は火に焼け崩れ、選ばれた根につながる全ての者は散らされるであろう。そののち、第7週に、背教の時代が起こり、その所業は多岐にわたるが、その所業はいずれも背教的である。…そののち、別の週、義の第8(週)が巡ってきて、それに剣が手渡され、不法を行う者どもに対して正義の裁きが行われるであろう。また罪人たちは義人たちの手に引き渡されるであろう。その終わりごろ、彼らはその義のゆえに住居(すまい)を獲得し、永久に残る、豪華な、大王のための家が建つであろう。そののち、第9週に、正義の裁きが全世界に啓示され、悪人どもの一切の所業は全地から姿を消し、世界は滅亡すべく記録され、全ての人が公正の道を仰ぎ見るであろう。そののち、第10週の第7期に、大いなる、永遠の裁きが行われ、彼は天使たちに罰を下されるであろう。先の天は姿を消して過ぎ去り、新しい天が現れ、天の全ての力は世界を7倍の明るさで照らすであろう。そののち数多くの、無数の週が永遠に巡ってきて、善と義が行われ、その時を境として、罪が人の口の端に上ることは永久にないであろう。」(93:3-91〔続〕:1-17)
+世界の歴史を10週に分けて見る。第1週・天地創造。エノク誕生。第2週・大洪水(ノアの方舟)。第3週・アブラハムがイスラエル民族の祖として選ばれる。第4週・モーセの時代。律法が作られる。第5週・ダビデ、ソロモン王の時代。王国の繁栄。第6週・預言者エリヤの時代。王国の分裂、衰退。第7週・バビロニア捕囚からこの書の著者の時代(紀元前1世紀ごろ)。背教の時代とされる。第8週・不法な者たちに裁きが行われる時代。第9週・正義の裁きが全世界に啓示される。第10週・最後の審判。
*旧約聖書の詩編は「ダビデ作」との伝承がある。紀元前1世紀に書かれた本書は、既にダビデは使われているので、「ソロモン作」としたのかもしれない。もちろんソロモンの作ではない。ただ、緊迫感のある状況の中で書かれたものだけに、「黙示文学」「知恵文学」のような緊張感はある。「知恵文学」の多くは、「ソロモン作」の伝承を持つ。
*本書の背景には、以下のような政治状況がある。紀元前1世紀に王、また大祭司としてユダヤを治めていたハスモン王朝の後継者争いの混乱をついて、ローマ帝国のポンペイウスがエルサレムに入城し、多くのユダヤ人を殺戮し、神殿に進入した(紀元前63年)。大祭司職はハスモン家が取り戻すが、ユダヤの実権はイドマヤ人アンティパルに移り、後にその子ヘロデ(大王)がユダヤを統治する。ポンペイウスはローマ帝国内の勢力争いに破れ、暗殺される(紀元前48年)。
*内容はファリサイ派的である。具体的には、自らを敬虔な者とし、罪人の滅びを願い、貧者と富者、義人と不義の人、といった二分法を好み、苦難を神の懲らしめとして耐え、メシアを待望する、このような思想的特徴がある。また、ダビデの末裔ではないハスモン王朝を批判している。本書は「ファリサイ派の詩編」と呼ばれたこともある。
*18編立て。2,8,17編は上述のような政治的色合いが濃い。それ以外は、旧約聖書の詩編と同じく、様々なテーマで詩が記されている。各編の冒頭部分の「小見出し」のようなものは、以下の通り。1編:なし、2編:詩歌・エルサレム、3編:詩歌・義人、4編:対話・人におもねる者に対して、5編:詩歌、6編:希望をもって、7編:復帰、8編:聖歌隊指揮者のために、9編:咎め、10編:賛美歌、11編:期待、12編:律法違反者の言葉、13編:詩歌・義人の慰め、14編:賛美歌、15編:詩歌・ふしをつけて、16編:詩歌・聖者の支え、17編:詩歌・ふしをつけて・王、18編:詩歌・再び主の「油を注がれた者」。2,8,17編は一人の作者によって書かれ、他の編は複数の人々によって書かれたと言われている。翻訳本で約40頁。
*いくつかのギリシア語の写本と、シリア語の写本が残っている。元々ヘブライ語で書かれたと思われるが、原文は見つかっていない。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典5 旧約偽典Ⅲ』1976年、教文館、後藤光一郎氏訳より。
(「/」は、原文における改行位置。)
苦しみのきわみに主に向かって、/ 罪びとが襲来した時神に向かって、私は叫んだ。/ ふいに私の前で闘いの叫びが聞こえた。/ (私は思った)「あの方は私に耳を傾けてくださるだろう。私は義に満たされていたからだ。」/ 私はここの中で考えた。私は義に満たされていた。/ 私は栄え、子宝に恵まれていたからだ。/ 子どもらの富は全地にひろがり、/ 名声は地の果てに及んだ。/ 彼らは高められて星になり、/ こう言った。「星は決して落ちないだろう。」/ 彼らはおのれの幸運をよいことに高ぶり、/ 少しも理解がなかった。/ 彼らの罪は隠されており/ 私ですら知らなかった。/ その無法は彼らに先立つ異邦の民を凌ぎ、/ 不敬にも主の聖所をけがした。(第1編)
+ローマ人と言う「罪人」への滅びを願いながら、彼らの暴力の原因が、自分の高慢にあることを述べる。旧約聖書でも、バビロニア捕囚の原因を自分たちの背信の罪に置き、神様に懺悔しているが、本書では、悔い改めよりも、目の前の異邦人への敵愾心の方が優っているように感じられる。
私の耳は差し迫る戦いの物音を、/ 殺戮、せん滅を響かせるラッパの音を、/ すさまじい大雨のような、/ 砂漠をわたる激しい熱風のような、大群衆のどよめきを聞いた。/ そこで私は心(の中)で思った。/ 「神はいったいどこで彼らを裁くのだろうか」。/ 私は物音が聖所の町エルサレムへ向かうのを聞いた。/ 私はそれを聞き腰くだけになり、膝は弛み、/ 心臓は恐れおののき、骨は亜麻のように乱れ動いた。/ 私は思った。「彼らは正義にのっとりおのれの道を正すがいい。」/ 私は天地創造以来の神の裁きを総覧して、/ 永劫の昔から神の裁定が正しいことを知った。神は彼らの罪を白日に曝し、/ 全地は神の正しい裁きを知ったのだ。/ (すなわち)彼らの律法違犯は地中深く隠蔽されたが、(神の)怒りを触発した。(8編1-9)
+ローマ帝国による激しい暴力は、神からの裁きであり、その原因は、ユダヤ人の背信とみる。しかし、この「律法違犯」のユダヤ人の中に、作者は自分(たち)を含めない。「ファリサイ派」の名前の由来は、律法のために自分たちを他の民から「分離する」所から。
私の魂がまどろみ、ほんのわずかの間主を疎んじたとき、/ 私は神を遠く離れて滅びの眠りに陥り、/ 私の命はほんの少しの間死へ注ぎ込まれ、/ 罪人と共に冥府の門の近くまで行った。/ 私の魂が主なるイスラエルの神を離れてさまよったとき、/ もしや主がとわの憐れみにより私を助けてくださらなかったら!/ 彼は馬追いのとげ棒よろしく私をこづいて、御自分の目覚めた状態に追い込んだ。/ 私の救い主、助け主はいつも私を生かしてくださった。/ 神よ、私はあなたに感謝します。あなたは私を助け、救い出し、/ 罪人と一緒に私を滅ぼさなかったからです。(16編1-5)
+ここでの「罪人」は、ローマ帝国ではなく、ハスモン家の人々を指す。同じユダヤ人でも、ダビデの末裔ではない王は認められない。ましてや、異邦人は受け入れられなかっただろ。ヘロデ大王は、異邦人の血を引く。イエス様の時代のユダヤは混乱していたであろう。
*本書と第4エズラ書(エズラ記〔ラテン語〕の3-14章)は同じ時期に書かれ、新約聖書・ヨハネの黙示録と合わせて、「紀元第1世紀末の三大黙示録」と呼ばれている。
*その存在は約1200年間忘れられていて、19世紀半ばに、ミラノの図書館に所蔵されていた旧約シリア語聖書(6世紀のものと思われる)の中から、全文が発見された。ただし、本書の最後の部分、78-87章の「バルクの手紙」は、多くのシリア語旧約聖書写本に収められていた。
*ギリシア語からシリア語に翻訳されたことは確実だが、ギリシア語以前の言語がヘブライ語(またはアラム語)であったかどうかは、諸説ある。ギリシア語訳の断片は発見されているが、ヘブライ語訳の文書は発見されていない。
*内容は、バルクの見た幻や、神から受けた黙示が、7部に分けて記されている。バルクは預言者エレミヤの書記であり、エルサレムの滅亡-バビロニア捕囚を経験した者。その苦しみの表現を通して、紀元70年にローマ帝国によってエルサレムが滅ぼされ、苦難と絶望の内にあるユダヤ人に、メシア時代の到来を告げ、慰めと希望を与えようとしている。第4エズラ書に比べると、若干楽観的。
*律法厳守、勧善懲悪、復活・来世、終末の信仰などから、ファリサイ派のユダヤ人によってパレスチナで書かれたのだろう。紀元132-135年のバル・コクバの乱は知らないようなので、紀元70年のエルサレム滅亡からこの時期までの間に書かれたのだろう。
*バルクの名を冠した文書としては、本書の他に、旧約聖書続編の「バルク書」がある。この書との関係で、本書は「第2バルク書」と呼ばれることもある。他には、「ギリシア語バルク黙示録」(別名・第3バルク書)、「バルクの言葉の残部」(第4バルク書)、「グノーシス派のバルク書」、「ラテン語のバルク書」などがある。
*内容概観
【第1部:1-12章】バルクへの啓示。イスラエルに残る2部族の犯した罪の故に、都は滅ぼされる。
【第2部:13-20章】バルクの疑問。神への問いかけ。神の返答。
【第3部:21-34章】バルクの祈りと、神の約束。今の世の滅びと新しい世の誕生。メシアの出現。
【第4部:35-46章】バルクの見た幻。バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマの四大帝国が滅ぼされ、メシアが世を治め、律法を守る民が残される。
【第5部:47-52章】バルクが黙示を受ける。終末の患難。復活後の姿。
【第6部:53-76章】バルクの見た幻。天から黒い水と白い水が、交互に6回ずつ、計12回降ってくる。これは、世界の歴史を示したもの。
【第7部:77-87章】バルクはエルサレムに残る民に依頼され、バビロンにある2部族半とユーフラテス川の彼方にある9部族半に宛てて手紙を記す。安息日をはじめ律法を守ることを命じる。
*普通に読むと、やはり、長くて難しい印象を持つ。7部に分けて読んでいくと、整理がつき、内容も理解しやすくなった。翻訳本で約75頁。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典5 旧約偽典Ⅲ』1976年、教文館、村岡崇光氏訳より。
ユダの王エコニヤが25歳の時のことであった。主の言葉がネリヤの子バルクに臨み、彼(主)は彼に言われた。「この民が私に対して行っていること、後に残ったこの二部族が(今は)捕囚の身となった十部族以上に行った悪事を君はつぶさに見た。前の部族はその王たちに迫られて罪したのだったが、この二(部族)は罪するように彼らの方からその王たちに迫り、強いてきた。このゆえに、見よ、私はこの都とその住民の上に災いをもたらす。これ(都)は一時、私の前から姿を消すであろう。私はこの民を異教徒たちの間に散らして、異教徒たちに益するところあらしめよう。私の民は懲らしめを受け、かつての繁栄を懐かしむ時が来るであろう。」…主は私に言われた。「この都は一時(敵に)渡され、民はしばらく懲らしめられるが、世界は忘れ去られることはない。それとも、もしやこれが『私は掌に君を彫り込んだ』と私が言ったところのあの都だとでも思うのか。君たちの間に今建っているこの建物は私の前に姿を現しているそれ、楽園を作ることを私が思い定めた時から、あらかじめここに備えられてあるそれではない。…敵がシオンをこぼち、エルサレムに火をかけているのではなく、彼らは審判者のためにかりそめのお役目をいいつかっている(にすぎない)ことを君は自分の目で見るであろう。君は行って私が君に言ったことを全て行うのだ。」
(1章、4章1-3、5章3-4)
+エルサレムの滅び。けれどもこの都はかりそめの物。目には見えない真の永遠の都がある。エルサレムを攻撃するローマ帝国は、必ず厳しい裁きを受ける。ユダヤ人への慰めと規模のメッセージを、黙示的に語る。
私は幻を見た。するとどうであろう、海から一条の巨大な雲が立ち昇っている。私はそれ(雲)を眺めていたが、それは白い水と黒い(水)に充ちていて、その水の中には様々な色があった。大きな稲妻のような外観をしたものがその(雲の)頂上に見えた。私はその雲が大急ぎで駆け過ぎるのを見たが、(やがて)それは全地に影を落とした。そののち、その雲はそれ自身の中に含んでいた水を地上に降らせ始めた。私はそれ(雲)から落下するその水の姿が一様ではないことを見てとった。最初は黒くて多量、(これが)しばらく(続いた)。過ぎには水は澄み切っていたが、多量ではないのを私は見た。その後また黒(い水)を私は見た。その後また澄み切ったもの、その後黒いもの、また澄み切ったもの。これが12回に及んだが、毎回黒い水が澄み切った(水)より量が多かった。最後には雲は黒い水を降らせたが、これはそれ以前のどの水よりもどす黒く、それには火が混ざっていて、この水は降った先々で破壊と破滅をもたらした。その後私は前に雲の頂上に見たあの稲妻を見たが、それはこれ(雲)をしっかりととらえ、地上に引きずり下ろしていた。所でその稲妻は全地を照らそうと煌々と輝き、最後の水が降って来て破壊した場所を修復した。それは全地を手におさめてこれを統べた。その後私は、12の川が海から上ってきてその稲妻を取り巻き、これに伺候しているのを見た。私は怖くなって目を覚ました。
(53章)
+今までの世界の歴史と、これからの世界の姿が、黒い水で表現された不義の時代と、白い澄み切った水で表現された義の時代で表現される。不義と義の各時代は、交互に現れる。黒い水から始まる。(1)アダムの堕罪と天使たちの堕罪。(2)律法に従順なアブラハムとその子孫、(3)エジプトにおける異教の感化、(4)モーセ律法の授与とその継承、(5)士師時代の異教的習慣、(6)ダビデ、ソロモンによる神殿建築、平和と知恵、祭儀の徹底、(7)ヤラベアムの罪とその後の堕落の歴史、(8)ヒゼキヤ王の誠実によってエルサレムが救われる、(9)マナセ時代の不義、(10)ヨシア王の宗教改革、(11)現在のシオンの悲惨、(12)エルサレムの再興。このあと「それ以前のどの水よりもどす黒」い水が降るのが、最後の患難の時代。最後に澄み切った水がもう一度降る。それがメシア時代である。苦難は長く、何度も訪れるが、必ず最後は神様の救いが訪れる。
*「ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。…ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前の父イスラエルに耳を傾けよ。」(創世記49:1-2)創世記49:1-28に、ヤコブが12人の息子たち一人一人に語った遺言が記されている。本書は、この12人の族長たちが自分の子孫に遺言を語ったとされるものであり、その形式も、内容も、創世記の記述に似ている。
*分量は創世記のものよりはるかに多く、創世記の記述を膨らませ、独自の記事を入れ、それぞれの教訓を加えていると言えよう。但し12人の中には、創世記のものとほとんど共通点の無いものもある。
*様々なエピソードについては聖書の記述に基づいているが、そこから導き出される教訓は、一般的、普遍的なもの。以下にそのテーマを記す。
ルベン:思慮。シメオン:嫉妬。レビ:傲慢、ユダ:金、姦淫。イッサカル:純心さ。ゼブルン:慈悲。ダン:怒り。ナフタリ:本性の真。ガド:憎しみ。アセル:善悪。ヨセフ:貞節。ベニヤミン:純粋な思い。
*作者と年代については、諸説あって定まっていない。
1)マカバイ家(ハスモン王朝)を正当化するような記述(ヨハネ・ヒルカノスのように祭司が王を兼ねる。ルベン6:10-12、シメオン5:5)があるので、紀元前100-130年頃。
2)内容が禁欲的、敬虔主義的であり、また死海写本が発見されたクムランの洞窟に、多くの写本が残っていることから、クムラン教団によって紀元前100年頃に書かれた。
3)キリスト教的加筆(「それは異邦人の救い主」ダン6:9)や、キリスト教的内容(「全ての人を照らすために与えられた律法の光」レビ14:4cfヨハネ1:9)が散見されることから、キリスト教徒によって紀元2-3世紀に書かれた。
…どれも決定的な説ではない。
*もともと、一般的な教訓が記された「遺訓」があり、ユダヤの民衆に広く受け入れられており、それに、複数のグループが加筆、修正し、後に編集されたものと考えられるだろう。ただし、上記3つのグループは、基本的に相容れない性質の集団であることから、なぜそれらのグループで書かれた文書が一つにまとめられたのかも分からない。今後の研究に期待する。
*もともと、ヘブライ語、またはアラム語で書かれ、様々な言語に翻訳されたと感がれる。現在ギリシア語、アルメニア語、スラブ語の写本が残っており、また死海写本の中に、ヘブライ語、アラム語の写本の断片が残っている。
*翻訳本で訳130ページ。読みやすいが、12人それぞれの文書が10章前後で長い印象を持つ。
*本文の抜粋:『聖書外典偽典5 旧約偽典Ⅲ』1976年、教文館、笈川博一宇氏、土岐健治宇氏共訳より。
さあ、子どもたちよ、私の言葉に耳を傾けて、迷いと嫉妬の霊に気をつけよ。嫉妬は人の心全体を支配し、食べさせも、飲ませも、善行をさせることもないからである。かえって、嫉妬している者を殺すように誘う。嫉妬されている者は常に栄え、一方、嫉妬している者はおちぶれる。私は二年の間、神を恐れて自分の魂を断食で痛めt桁。そして初めて嫉妬からの解放は、神の恐れによって可能なのを悟った。もし人が主に逃れるなら、悪しき霊はその人を去り、心が明るくなるからである。そうなれば嫉妬していた人に共感を覚えるようになり、その人を好いている人々と同感するようになる。こうして嫉妬から解かれるのである。
(シメオン3:1-6)
+聖書のエピソードから、一般的、普遍的な教訓が導き出される。預言書、黙示書のような、民の罪を問い悔い改めを迫るような暗く、重苦しいようなことはない。前向きに生きていく明るさを感じる。民衆はこれらの教えに親しみ、従おうとしていたことだろう。
私はまた最初のような幻を見た。私に話しかける七人の白い着物を着た人たちを見た。「立って祭司職の衣、義の冠、知の胸当て、真理の長衣、信仰の板、頭のはちまき、預言のエポデを身につけよ。」そして一人一人がそれらを一つずつ持ってきて私に着せて、言った。「今よりお前は永遠に主の祭司となれ。お前と全ての子孫が」。…「だからイスラエルの全ての善き物は、お前とお前の子孫のものとなる。お前たちは目に良いすべての食べ物を食べ、主の正餐はお前の子孫の取り分となる。大祭司、裁き司、書記が、お前の子孫から出る。そして聖所は彼らの口によって守護される。」目が覚めて、これが最初の夢に似ているのに気が付いた。このことを自分の旨に納め、地の表にいるどの人間にも言わなかった。
(レビ8:1-19)
+本書ではレビとユダに、特別な敬意が払われている。この二つの部族から救い主が生まれることが期待されているのだろう。それはレビ:宗教的、ユダ:ダビデ王家と言う政治的、それぞれの指導力を兼ね備えた救い主なのだろう。ユダヤ教の信仰で待ち望み、キリスト教の信仰でイエスによって成就されたとされる、救い主待望の信仰の表現なのだろ。新約の雰囲気を色濃く感じさせる書である。
*「ナグ・ハマディ文書」…エジプト、ナイル川河口から1000キロメートルほど南下したところに、ナグ・ハマディという村がある。1945年、ある農夫が地面に埋められた素焼きの壺を発見した。割ってみると、13冊のコプト語(古代エジプト語)で書かれたパピルス写本が入っていた。これらを、ナグ・ハマディ文書と呼ぶ。写本には50以上の文書が記されていた。この中に、以前から存在は知られていながらそれまで発見されていなかった文書が発見された。「トマスによる福音書」である。
*「グノーシス主義」…トマスによる福音書を含むこれらの文書は、グノーシス主義の文書だった。グノーシス主義とは、ヘレニズム時代に世界各地に存在した思想の一つ。究極の存在である「至高者」と、本来の自分とが一つであると認識(ギリシア語でグノーシス)することによって救われる、とするもの。キリスト教に限らず、様々な宗教、思想でグノーシス的思考展開が為された。この思想は神話を持つが、それは概ね次の通り。初めに上界に至高者(「父:パーテル」、「霊:プネウマ」などと呼ばれる)がいた。至高者は女性的属性(「知恵:ソフィア」などと呼ばれる)と対をなしていた。女性的属性は中間界に降り、様々な神的存在を産む。その長たる形成者(デーミウールゴスと呼ばれる)は、下界と人間を形成する。形成者は、至高者の存在を知らず、自分を万物の主と誇示し、人間と下界の全てを自分の支配下に置く。人間は「無知」の状態に置かれ、自力では自分の本質に気付くことができない。そこで至高者は下界に自分の子を送り、人間たちに人間の本質を告げさせる。これにより人間は、自分の本質についての正しい認識を得、子と共に上界に昇り、至高者と一体化する。これが救いである。
*この世界を否定的に捉え、この世界を超えるより上位の世界を目指す。社会の権威や権力者たちを相対化し、富や物質や肉体を否定的に捉え、禁欲的な考え方や行動をとる。社会の中で苦しい状態に置かれている人々の中で、同時多発的に、自然に発生した考え方。
*キリスト教グノーシス主義の場合、創造主である神(三位一体論における「父なる神」)を「形成者」として捉え、イエス・キリストを、至高者から遣わされた子と捉える。そのため、聖書や聖職者を含めた教会の権威を相対化し、イエスの人間としての働きを軽視する(肉体と肉体の働きを否定的に捉える)。十字架による贖罪や救済を否定する、または無視する傾向を持つ。
*トマスによる福音書以外にも、キリスト教グノーシス主義の文書は多くある。また、地上の諸権威に対して否定的、相対的であるため、キリスト教以外の文書に対しても受け入れる傾向がある。(ナグ・ハマディ文書には、キリスト教以外の文書も多く含まれている。)
*読んでみた感想…今まで知らなかった「グノーシス主義」の文書と聞いて、確かに若干の違和感は感じた。けれども、あまり細かく読まない限りは、他の(正典の)福音書と、大きく変わるとは感じられなかった。この福音書の作者は、確かにグノーシス主義の思想を表現するために書いたのだろうが、同時に、イエス・キリストによって多くの人々が救われることを願って書いたのだろう。この福音書の読者は、多少、他の福音書とは違う印象を受けながらも、自分を慰め、励まし、救ってくれるイエス様に出会った気持ちになったのではないか。
*紀元後2世紀後半に書かれた。元々はシリア語で書かれ、ギリシア語に訳されたものが、コプト語に翻訳されたのだろう。114の語録によって構成されている。ほとんどすべて、イエスの語った言葉であり、イエスの行動はほとんど記されていない。もちろん、イエスの十字架、復活についても全く記されていない。それぞれの語録が1~数十行。1~数節に分けられている。分量としては決して長くなく、すぐに読み終える。
*本文の抜粋:「トマスによる福音書」1994年、講談社学術文庫、荒井献氏訳より。
イエスが言った。「私はこの世のただ中に立った。そして、彼らに肉において現れ出た。私は彼らが皆酔いしれているのを見出した。私は彼らの中に一人も渇ける者を見出さなかった。そして、私の魂は人の子らのために苦痛を受けた。なぜなら、彼らは彼らの心の中で盲目であり、見ることがないからである。彼らは空(から)でこの世に来、再び空でこの世から出ようとしているからである。しかし今、彼らは確かに酔いしれている。彼らが彼らの酒を振り切った時に、その時に彼らは悔い改めるであろう。」(語録28)
+「酔っている」のは「無知」の状態であり、目を覚まして正しい「認識」を持つことを求めている。「空で…来て、…出る」は、「私は裸で母の体を出た」(ヨブ記)を思い起こす。しかし、ヨブ記ではこれは謙虚さの表現だったのが、本書では無知の表現となる。「正しい認識こそが救い」というグノーシス主義の考えを表現している。
人々がイエスに金(貨)を示し、そして彼に言った。「カイザルの人々が私たちから貢を要求します。」彼が彼らに言った。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。そして、私のものは私に返しなさい。」(語録100)
+正典の福音書で聞きなれた言葉に、最後の一言が入るだけで、意味が全く変わる。正典では、この言葉は、政治的権威と宗教的権威を分かつもの、または、政治的権威に侵されない自由な信仰の態度を表わすものだが、本書では、政治的権威も宗教的権威も相対化し、すべては「私」つまり「私であるイエスがもたらした、正しい認識」によって救われることが示される。
イエスは授乳された小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った。「この授乳された小さな者たちは、御国に入る人びとのようなものだ」。彼らは彼に言った。「私たちが小さければ、御国に入るのでしょうか」。イエスが彼らに言った。「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、〔御国に〕入るであろう」(語録22)
+「一人:単独者」には二つの意味がある。一つは、自立した者。この世界にあって、他の権威や権力に依存するのではなく、自立して歩んでゆく者。もう一つは、統合された者。内と外、上と下、男と女が、統合されて一つとなった者。もちろんそれは、この世界ではありえない。これができるのは、この世界をこえたところ、つまり、私たちのいる下界、中間界を超えて、至高者のいる上界に行ったときに実現する。人間は正しい認識を得て、神(聖書で証されている神)を越え、至高者と一体になる時、救われるという、グノーシス主義の救済論を現す言葉。私たちの信仰からすると異質な考え方。しかし、この地上での生活があまりに苦しく、絶望にあえいでいる人にとっては、「この世界が全てではない。この世界を超えた世界がある」と考えるだけでも救いになるのかもしれない。グノーシス主義の思想は、荒唐無稽なものと言えるが、既存の宗教や思想では救われない人を、どのようにすれば救えるのか、と言う課題に、一生懸命取り組んだ結果生まれたものと、言えるのかもしれない。
イエスが言った。過ぎ行く者となりなさい。(語録42)
+この地上にある者は全て、本質的なものではない。だから、深入りせず、通り過ぎるような者でありなさい、という教え。北インドの町ファテブル・シークリー(世界遺産に登録されている遺跡)の城門アーチに、次のような言葉が刻まれている。「マリアの息子、イエスは言った。『この世は橋である。渡っていきなさい。しかしそこに住み家を建ててはならない。一日だけを望む者は、永遠を望むかもしれない。しかし、世界は一時間だけ耐えられる。祈りの中でその時を過ごせ。世(橋)の残りは目に見えないからだ。』」
*ナグ・ハマディ文書の第3写本と、1896年にベルリン博物館が入手した写本(通称・ベルリン写本)に入っている。内容は、復活のイエス・キリストが弟子たちに現れ、質疑応答を交わす、というもの。キリスト教的な場面設定、人物を用いてグノーシス神話を説明するもの。
*ナグ・ハマディ文書においては、本書の直前に「エウグノストス」と言う文書が配置されている。エウグノストスという一人の教師が弟子たちに送った手紙、という体裁の文書。キリスト教文書ではないが、内容は、本書に類似している。(この「エウグノストス」の文書は、ナグ・ハマディ文書写本5にも収められている。)そこから、先に、一般的グノーシス文書(非キリスト教文書)である「エウグノストス」があり、それをキリスト教的に改変して本書が作り出されたと考えられる。目的は、非キリスト教グノーシス主義者をキリスト教グノーシスに引き込むためだと考えられる。
*成立は、最も早ければ1世紀末から2世紀初頭、最も遅ければ4世紀初頭。オクシリンコス・パピルス(20世紀初頭に中部エジプトのオクシリンコスで発見された数千点にも及ぶパピルス断片群)のなかに、並行するギリシア語断片があるため、ギリシア語で書かれ、コプト語に翻訳されたと考えられる。
*イエス様や弟子たちは登場しながら、語られる内容は「哲学的」のように感じられる。難しそうな単語や聞いたことのない世界観が語られる。現実離れしたような、ファンタジーのような議論に感じられる。賢い人は知的な議論に、そうでない人は禁欲的な部分に、救いを求めようとしたのだろうか。翻訳本で30ページ強、それほど長いようには感じない。
*本文の抜粋:「新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄」2022年、岩波文庫、小林稔氏訳より。
イエス・キリストの知恵。
彼が死んでいる人々の中から復活させられて後(も)、彼の12人の弟子たちは7人の女性たちとともに彼に師事し(続けていて)、ガリラヤに、喜びの託宣と呼び慣わされている山の方に来たのだが、彼らが意図度に集まった時、(その時彼らは)万物の元にある現実と経綸と聖なる摂理と(諸)権威の(圧倒的な)力について、また救い主が聖なる経綸の秘儀の内に彼らに行っているあらゆる業について途方に暮れていたのだが、(そのとき)救い主が現れた、彼の以前の姿ではなく不可視の霊において。で、彼の似姿は光の大いなる天使のようであった。その型を話すことはできない。死んでゆくものである肉は誰も将来それを自分のために受けることができず、清くて完全な肉(だけ)が、ガリラヤで「オリーブの」と呼び慣わされている山で彼が教えたようにして(できるの)である。
そして、彼は言った。「平安があなたがたに。私のものである平安を私はあなたがたに与える」。彼らは皆、驚き、そして恐れた。救い主は笑って彼らに言った。「あなたがたは何について考え、途方に暮れているのか。あなた方が探し求めているのは何なのか」。フィリピが言った。「万物と経綸の実体は何ですか」。救い主が彼らに言った。「私はあなたがたに知らせたい。地に生まれた人が皆、宇宙の開闢以来、今に至るまで、いるのは塵の中だということを。彼らは神を、それが誰であるか、それは何に似ているのかと求めてはいるのだが、その方を見つけてはいない」。(§1~§2冒頭)
+復活の時、オリーブ山で12人の弟子に現れ言葉を交わすイエス。場面設定と登場人物は、正典の福音書と同じでありながら、イエスは「不可視の霊」であり、この世界は「塵」であり、「誰も神を見つけていない」というグノーシス的な主張を行う。「正典聖書に記された出来事の奥に、隠された真理がある」ということを主張したいのだろうか。
*ナグ・ハマディ文書第7写本に納められている。保存状態は良く大変美しい紙面だが、内容は「壊れている」と言うか、伝承の質が悪く、解読が困難。元来ギリシア語で書かれ、コプト語に翻訳された。ギリシア語をそのまま音写した部分が多い。
*「ペトロの黙示録」という題名の付いた文書は、複数存在している。本書は他の書とは関係なく、他の書物に引用されたり紹介されたりすることもない。
*ペトロが見た幻という形で記されている。十字架の前夜におけるイエスとペトロとの会話、イエスの逮捕と十字架の幻が記されている。肉体を否定し、十字架によって霊が肉体から解放されたとする。「正統」教会を、真理を悟らず、死者をあがめる間違ったものとして批判する。また、他の「異端」と言われるグループへの批判もあるのかもしれない。
*2世紀後半から3世紀半ばに書かれた。執筆場所などは分からない。
*翻訳本で約14ページ。長くない。(正典)聖書の箇所も思い出しやすく、本書との対比も分かりやすい、読みやすく面白い。
*本文の抜粋:「新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄」2022年、岩波文庫、筒井賢治氏訳より。
彼がこのように言ったとき、私には、彼が彼らによって捕らえられたように見えた。そこで私は言った。「私は何を見ているのでしょうか、主よ。捕まえられているのは、あなた自身なのですか。あなたが私にすがりついているのですか。また、十字架の側で喜んで笑っているのは誰ですか。彼らが両手両足を釘で打っているのは、別の誰かなのですか」。救い主は私に言った。「あなたが見ている、十字架の傍らで喜んで笑っている人物は、活けるイエスである。しかし両手と両足を釘で撃たれているのは、彼の肉的な部分、すなわち『代価』である。彼(活けるイエス)の模倣物として成ったものを彼らは辱めているのである。しかし、彼と私を見なさい。」(§25-26)
+十字架につけられたのは、イエスの肉だけであって、それは本質ではない。イエスの本質は霊であって、十字架によって肉体から解放された。…これを、「キリスト仮現論」という。肉体を否定的にとり、霊の肉体からの解放を救いとする。グノーシスの典型的な考え方。これをキリスト教的に考えると、救いには十字架が必要であり、イエスは十字架につけられたことを喜んでいる。イエスを十字架につけるために貢献したユダ(裏切り)やペトロ(知らないと言う)は、正しい奉仕をした、と言うことになる。救いについての考えが、全く逆転する。
*ナグ・ハマディ文書の第2、第3、第4写本と、ベルリン写本に収められている。これらには2系統の伝承があり、第2、第3写本には、第4、ベルリン写本にはない大挿入記事がある。そのため前者を「長写本」、後者を「短写本」と呼ぶこともある。
*4つもの写本が伝わるグノーシス主義文書は、他にはない。その上、第2、第3、第4写本では、巻頭文書として収められている。その事実だけでも、この書物がグノーシス主義者たちの中で、どれほど重要視されていたかが分かる。グノーシス主義の考え方を示す基礎文書、「要綱」のようなものとされていたのだろう。
*復活したイエスが、昇天の前に、ヤコブの兄弟使徒ヨハネに現れ、救いの奥義を語る、と言う内容。「アポクリュフォン」とは「秘密の書、奥義書」と言う意味。イエスは、グノーシス主義の思想を、理路整然と、丁寧に語る。ここまで首尾一貫して、徹頭徹尾、過不足なくグノーシス主義の思想を伝えている書は、他にはない。
*ギリシア語で書かれ、コプト語に訳されたと考えられる。元々、キリスト教徒は関係のない文書として書かれ、後にキリストや使徒の登場する場面を挿入するなどしてキリスト教化したと考えられる。元々の文書が書かれたのは、紀元2世紀前半より以前。元々の作者は、旧約聖書を思想的背景とし、かつギリシア哲学にも対応しているので、ヘレニズム・ユダヤ教徒と考えられる。著作地は、エジプトが考えられるが、正確には分からない。
*翻訳本で約55ページ。長い文書だが、内容が理路整然としているため、読むのは、さほど辛くない。
*本文の抜粋:「新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄」2022年、岩波文庫、大貫隆氏訳より。
すると、かの人間が、彼の中に在る光の影のゆえに現れてきた。そして彼の思考は彼を造った者たちすべてよりも高まった。彼らは、驚いて天を見上げると、彼の思考が高くなっているのを見た。そこで彼らは全諸力の群れおよび全天使の群れと協議した。彼らは人土と水を取った。彼らはそれらを互いに、また、火の四つの風と混ぜ合わせた。彼らは互いに打ち合い、大いなる震動を巻き起こした。そして彼らは彼を死の影の中に連れ込んだ。それは土と水を火と風から再び造り出すためであった。とはすなわち、物質――これは暗闇の無知のことである――と欲望と模索の霊から。これこそ身体のこしらえ物の洞窟であり、人間の上に強盗たちが着せ付けたもの、忘却の鎖である。そしてこれが死ぬのが常の人間となったのである。これが最初に下降してきたものであり、最初の分裂である。しかしやがて彼の中に在ることになる光のエピノイア、彼女が彼の思考を呼び覚ますであろう。
(§58、第2写本20頁28行-21頁16行)
+この箇所に訳者が付けた小見出しは「肉体の牢獄」。肉体、物質を否定的に捕らえている。これらのグノーシス主義文書を見ると、「正典」聖書が、いかに神様が造られた物質の世界を大切に捉え、重視していたかがわかる。「正典」福音書で、十字架と復活の場面にあれだけのページを割いているのは、イエス様の肉体の存在を、大変重視していることの表れと言えるだろう。「エピノイア」とは、肉体の中に拘禁された人を覚醒させるために働く女性的救済者。ここにも、肉体と精神を対立的に捉える考え方が現れる。「正典」聖書では、旧約聖書以来、「肉体と精神の両方があってこその人間」と考えている。
*ナグ・ハマディ文書の第3写本と第4写本に収められている。元来ギリシア語で記されていた者がコプト語に翻訳された。ギリシア語の本文は発見されていない。第3写本の本文は、保存状態が良く(欠落している箇所が少ない)、内容は余り良くない(ギリシア語をそのまま音訳し、意味不明の部分が多い)。第4写本の本文は、保存状態は悪く(欠落箇所が多い)、内容は良い(几帳面にコプト語に翻訳している)。内容の違いは、翻訳の違いであって、同じギリシア語文書から翻訳していると考えられるので、相互補完しながら本文を推察することができる。両方とも、冒頭部分が欠落している。第4写本の本文は、最後が欠落している。
*「エジプト人の福音書」という書名は、第3写本に含まれる、写字生による後記に記されているため、慣習的に用いられている。しかし内容的には、エジプトと関連する所はほとんど見られない。それよりも、最終部分(多くの写本の場合、この箇所に署名が記されている)に記された、「大いなる見えざる霊の聖なる書」の方が、本書の内容を的確に表現していると考えられる。なお、使徒後教父であるアレクサンドリアのクレメンス等が引用している「エジプト人の福音書」は、全く別の文書である。区別するため、便宜上本書を「エジプト人の福音書(コプト語写本)」、別の文書の方を、「エジプト人の福音書(ギリシア語写本)」と記す。書かれた時期、場所等は不明。
*内容は、序文、本文、賛美(洗礼式文)、後記、写字生による後記、表題、である。本文は、大きく二つに分けられる。前半が、「大いなる見えざる霊」を出発点として様々な存在が次々に生まれてくるという、世界の成立を記したもの。後半が、セツの種族の誕生、および彼の救済活動を記したもの。本書は、グノーシス主義の中でも「セツ派」に属する文書と言える。
*「セツ派」…グノーシス主義の主流のグループの一つ。アダムとエバの第3子であるセツ(新共同訳ではセト)を救済の中心に据えるグループ。「再びアダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。」(創世記4:25)「アダムは130歳になった時、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。」(創世記5:3)アベルは殺され、カインは放浪したため、セツが事実上の長男となった。また、創世記5章の記述は、神様が人間を造った時の表現と同じものが用いられ、セツが特別な存在であることが示されている。そこから、ユダヤ教の伝統はセツの物語にかなりの肉付けをするようになったらしい。セツ派は、セツを人類の救済のために重要な存在であると位置づけた。例えば、本書の中では、セツは救済者であり、イエスはセツが変化した存在であり、自分たちをセツの子孫と位置付けている。セツ派については、数名のキリスト教教父たちが報告しているが、それぞれの内容の食い違いが大きく、セツ派の具体的な実態はよく分からない。ナグ・ハマディ文書の中でも、10文書ほどが、セツ派の文書と言われている(ナグ・ハマディ文書の全体が約50文書なので、高い割合)。なお、エジプト古来からの神である「セト」神は、コプト語で綴りも同じであるため、ある時期以降、両者の混淆が起きている(本書では混淆は認められない)。
*本文の抜粋:「新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄」2022年、岩波文庫、筒井賢治氏訳より。
その時大いなるセツは遣わされた。四つの大いなる光によって、アウトゲネース【自ら生まれた者】とプレローマ【充満】全体の意志において、大いなる見えざる霊、五つの封印、プレーローマ全体の贈り物と賛成を通して。彼は先に述べた三つの到来を通り抜けた。(すなわち)洪水、大火災、アルコーン【支配者】たちと諸力と諸権威の裁きを。迷わされた彼女(種族)を救うために。世の和解によって、(そして)洗礼によって、(すなわち)大いなるセツが、聖なる者たちが聖霊を通して生まれるために、処女によって自らのためにひそかに準備しておいた、ロゴスによって生まれた体を通して(行われる洗礼によって)、(そして)隠された見えざるシンボルによって、(そして)世と世の和解によって、(そして)世と十三のアイコーン【時、時代】の神との拒否によって、(また)聖なる者たちと言い表せない者たち、不滅のふところ、(そして)プロノイアと共に最初に存在した父の大いなる光に呼びかけることによって。そして彼は彼女を通して天を超越する聖なる洗礼を定めた。不滅の、ロゴス【言葉】から生まれた者、活けるイエス、大いなるセツが着た者を通して。そして彼は十三のアイコーンの諸力を釘付けにし、導き入れられる者たちと追い出される者たちとを彼によって定めた。彼らを彼はこの真理の武器で、打ち破られることのない不滅の力で武装させた。
(第3写本、62頁24行-64頁9行)
+【 】は、筆者の挿入。グノーシス用語。それぞれは通常用いられるギリシア語だが、グノーシス思想の中では、別の意味合いや役割を持ったり、擬人化されたりする。壮大な神話を説明するのに、手持ちの用語では足りず、既存の言葉を援用しているように見える。
+「活けるイエス」を「大いなるセツが着た者」と表現している。本書にあっては、イエスはセツの化身となっている。救いの中心はセツになっている。自分たちはセツの子孫であって、セツが自分たちを救ってくれる、という信仰形態。元々、非キリスト教文書として書かれ、後に、キリスト教化された、とも言われている。
*1970年代、エジプト中部のミニヤー県において、一冊の写本:「チャコス写本」が発見された。但し発見者も発見地も、正確には特定されていない。写本は仲買人や美術書の手を経て転々とし、数奇な運命をたどって、2006年以降に公開、公刊された。
*「歴史の闇に封印された『禁断の書』」、「キリスト教史を揺るがす衝撃の発見。」「世界中で大論争を巻き起こした異端の“聖書”」(以上、『原典 ユダの福音書』日経ナショナル ジオグラフィック社刊の、帯の煽り文句)ここまで大したものではない。
*2世紀のキリスト教教父が、その著書のなかで、「異端」の書として紹介している。その存在や、大まかな内容は、ずっと知られていた。グノーシス主義の書であり、セツ派の文書と言える。「イエスが、受難する三日前、八日の間イスカリオテのユダと語った、告知の隠された言葉。」(§1 序言)この冒頭部にあるように、受難の前のイエスが弟子たち、とくにユダと、救いについて語り合う、という内容になっている。至高者による宇宙と様々な存在の創造、というグノーシス的神話がイエスの口から語られる。特に本書では、グノーシス的に、「汚れた肉体」からイエスは十字架によって解放され、そのために奉仕したのがユダだ、と、ユダに高い評価を与える。(「正典」聖書と正反対の評価をするのは、グノーシス文書にはよくある。)
*スキャンダルのように強調されがちな「イエスが笑った」という表現も、本書に限ったものではなく、グノーシス文書に散見される。本書が含まれている「チャコス写本」には、4つの文書が収められているが、本書を除く3書は、ほぼ「ナグ・ハマディ文書」に収められている文書と同じもの。本書もグノーシス文書の一つとして位置づけられる。
*翻訳本で約20頁。イエスとユダ、他の弟子たちの姿が、生き生きと描写されているので、読みやすく面白い。
*本文の抜粋:「新約聖書外典 ナグ・ハマディ文書抄」2022年、岩波文庫、荒井献氏訳より。
ユダはイエスに〔言った〕、「あなたが誰か、どこから来たのか、私は知っています。あなたはバルベーロー【第1の人間】の不死なるアイオーン【時、時代】から来たのです。そして私には、あなたを遣わした方の名を口に出す価値がありません」。しかしイエスは、彼(ユダ)が何か高められたことを考えているのを知って、彼に言った。「他の者から離れなさい。そうすれば、私はあなたに王国の秘儀を話そう。あなたはそこに行くことはできるが、ひどく嘆くことになるであろう。誰かがあなたにとって代わるであろうから。十二〔人の弟子たち〕が彼らの神と共に再び完全となるために」。そして、ユダが彼に言った、「あなたはいつ私にそのようなことを話してくれるのですか。また、〔いつ〕光の大いなる日が〔あの〕世代のために明けるのでしょうか」。しかし、彼がこう言うと、イエスは彼を離れて行った。
(§4、35頁15行-36頁10行)
+何よりも、正しいことを「知る:グノーシス」が、救い。「正統」教会を批判し、「正しい知識は隠されている」という主張を行う。
【イエスがユダに言う。】「しかし、あなたは彼ら(弟子たち)すべてを超えるであろう。なぜなら、あなたは(真の)私を担っている人間(肉体)を犠牲にするであろうから。…(中略)…見よ、あなたにすべてが語られた。目を上げなさい。そして、雲とその中にある光を、またそれを取り巻く光を見るように。そして、導く星があなたの星なのだ。」そして、彼(イエス)は目を上げて、光り輝く雲を見つめた。そして彼は、その中に入っていった。地上に立っていた者たちは、雲の中から出てくる声を聞いた、…(中略)…そして、彼らの祭司長たちはつぶやいた。彼(イエス)が祈りのために部屋に入ったからである。しかし、幾人かの律法学者たちが、彼を祈りの間に捕らえようとして見張っていた。彼らは民を恐れていたからで、彼はイエスの民によって預言者と見なされていたからである。そして彼らは、ユダのもとに行き、彼に言った、「あなたはここで何をしているのか。あなたはイエスの弟子だ」。そして彼は、彼らの望み通りに彼らに答えた。そしてユダは、お金を受け取り、彼を彼らに引き渡した。ユダの福音書
(§18-20、56頁-58頁25行)
+本書の巻末部分。ユダは、イエスの魂を閉じ込めている肉体から、イエスを解放するために、イエスを律法学者たちに「引き渡す」。これは「裏切った」のではない。肉体から解放されたイエスは、光り輝く雲の中に入っていく。ユダは、イエスを解放した立役者として高い評価を受ける。
+「ユダによる福音書」ではなく、「ユダの福音書」と記されているのが特徴的。「ユダが伝えた」あるいは「ユダが実行した」福音を意味しているのだろう。
*ナグ・ハマディ文書第2写本の第3文書として収められている。グノーシス主義、ヴァレンチヌス派の文書と考えられる。
*「抜粋集」…本書はイエスの教えの抜粋集となっている。ただ、同じく抜粋集である「トマスによる福音書」と比べても、まとまりや思想的傾向がつかみにくく、何のためにまとめられたのか、想定しにくい。ただ、それでも、それぞれの文章を、いくつかのテーマによってまとめようとしたり、また、長い文書は後半にまとめたり、と読者を想定した配慮が感じられる。不特定多数の読者ではなく、気心の知れた仲間内で使われることを意図した訓言集なのだろう。
*成立年代は、ヴァレンチヌス派がかなりの程度展開した2世紀後半から、ナグ・ハマディ文書が作成された4世紀前半までの時期としか言いようがない。成立場所、著者、共に不明。文書の末尾に「フィリポによる福音書」と書かれているため、この書名で呼ばれている。ただし、本文中にフィリポの名前が出てくるのは1箇所のみ。しかもそれは作者を示すものではない。
*グノーシス主義の文書なので、難しい用語や独特の理屈等が出てくるのだが、同時に「正統派」教会の思想ともさほど離れていない教えも記されている。全体的に、「人々を救おう」という思いが感じられ、読んでいて穏やかな気持ちになる。翻訳本で約60頁。内容は127のセクションに分けられている。比較的読みやすい。
*ヴァレンチヌス派…グノーシス主義の主要な思想グループ。2世紀に活躍したヴァレンチヌスが提唱し、プトレマイオス等に受け継がれ、4世紀ごろまで活動した。思想内容は、人間の空虚な世界に対して「充実:プレーローマ」の世界を設定し、その世界を対になる30のアイオーン(「時」「時代」の意味だが、ここでは擬人化された神的存在を指す)によって成り立つとする。アイオーンの中で最も下位のソフィア(「知恵」の意味だが、ここでは神的存在)は、プレーローマの世界から追放される。ソフィアはデミウルゴスという創造神を造り、デミウルゴスは人間の住む世界を造る。ソフィアの対のアイオーンであったキリストは、洗礼の際に人間イエスと一つとなった。デミウルゴスは、ソフィアも、プレーローマを造った至高神をも知らず、自分を唯一の存在と考え、人間を厳しく支配する。イエスと一体になったキリストは、人々を救うため、人々に正しいグノーシス(認識)を伝える。人間は「霊的な人」「精神的な人」「肉の人」に分かれる。「霊的な人」は、グノーシスによってプレーローマに入れる人、「精神的な人」は普通のクリスチャンで、デミウルゴスの造った世界で生きるしかない。「肉の人」は永遠の滅びに至る。ヴァレンチヌス派の人々は、この世界を「悪」と考えるため、禁欲的になり、社会秩序や物理的なものにも拘泥しなくなる。他の社会と違い、女性が社会や宗教教団の中で重要な役割を担ったり、結婚等をあまり推奨しなくなったりする。
*難解な用語が多く、神話も荒唐無稽で、この様な思想から、どのように人々を救済しようとしたのか想定しにくいが、考えてみれば、日本社会の中での仏教も、特殊な用語や壮大かつ難しい思想体系を持ちながら、人々の生活に根付いている。宗教者や思想家以外の人々でも、超越的救済者への信仰や、実行可能な瞑想、日常生活に引き寄せた教義などで、信仰生活を送っている。きっとヴァレンチヌス派も、同じような形で人々に受け入れられ、人々を救っていたのだろう。
*本文の抜粋:「ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書」1998年、岩波書店、大貫隆氏訳より。
私としては、それ(肉)は「甦らないだろう」という他の者たちをも非難する。もしそうであれば、二つの立場のどちらも誤っていることになる。君はこう言っている。「肉は甦らないだろう」と。しかし、(それならば)私に言ってみてくれ。一体何が甦るのかを。そうすれば我々は君を尊敬するだろう。君は言う、「言が肉の中にある。そして、肉の内なるこの別なる光がそれである」と。(だが)この別なるものは肉の内なることば(ロゴス)のことなのである。なぜなら、君は何を語るのであれ、肉を離れては何一つ語れないからである。この肉にあって甦ることが必要である。なぜなら、あらゆるものがその(肉)の内にあるのだから。
(§23c、写本57頁9-19行)
+グノーシス主義は、認識(グノーシス)が救いに不可欠だとする。また、この世界は下級の神である「創造主」に造られた物として、「悪」だと捉える。また、肉体は仮現のものとして実態を持たないとしている。だが、そのような考え方にも幅があるようだ。上記の言葉には、肉体を価値あるものとしている(ただし、言:ロゴスを含むものとして。普通の肉体ではない)。グノーシス主義者であるヴァレンチヌスは、説教や自説の説明に、「正典」聖書を用いていたという。そのこともあって、民衆は、彼の教説と「正統派」との違いが分からなかったという。民衆を救いたい、という思いが大きい時、思想の壁は自然と越えられるものかもしれない。
誰であれ、何か確固たるものの一つを見ることはできない。もしその人がそれらのもの(確固たるもの)と同じようにならなければ。しかし、人間が世界の内にある限りは、これとは(事情が)違う。彼(自身)は太陽ではないにもかかわらず、太陽を見るし、天や地やその他すべての物を、彼自身はそれらの物ではないにもかかわらず、見るのである。(しかし)真理の下では正にその(=前述の)通りである。(すなわち)、きみはあの場所(別の世界)の何かを見た。そして、それらのものとなったのである。君は霊を見た。そして霊となった。君はキリスト〔を見〕た。そしてキリストとなった。君は〔父〕を見た。そして父となるだろう。こういうわけで、君は確かに〔この場所では〕あらゆるものを見ている。しかし、君自身を〔見てい〕ない。だが、あ〔の場所〕(別の世界)では君は君自身を見る。なぜなら、君が見るもの、〔それに〕君は(なる)であろうから。(§44、写本61頁20-35行)
+ここで言われているのは、人間が住む現実界の上位にある世界であるプレーローマでのことであろう。そこでは主体客体の区別は無くなり、一体となる。「見た物になる」というのは、そういうことだろう。「霊を見ると霊になり、キリストを見るとキリストになる」などと聞くと、とても奇異に思う。けれども、どの宗教でも「神秘主義」は、信仰者が信仰の対象である神と一体化することを言う。神と一体化する神秘体験は言葉にしがたく、努力して表現しても、奇異な印象を与えるものになる。そしてキリスト教「正統派」にも、神秘主義はある。実は「異端」と呼ばれるものと「正統」とされているものとの違いは、私たちが思っているよりも小さなものかもしれない。
*「シモン・ペトロが彼らに言った。『マリハム(マリア)は私たちのもとから去った方が良い。女たちは命に値しないからである。』イエスが言った。『見よ、私は彼女を(天の王国へ)導くだろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る活ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天の王国に入るであろうから。』」(トマスによる福音書、語録114)
*マグダラのマリアを、イエスが最も愛し、イエスのことを最も良く理解していた使徒として描く。「正統派」キリスト教理解と逆の主張をするのは、グノーシス主義ではよくある。(イスカリオテのユダが、十字架によってイエスを肉体から解放した者と評価されるように。)私見だが、その理由をいくつか考えてみよう。+グノーシス主義者たちは、自分たちこそが正しいクリスチャンだと主張し、「正統派」教会を、悪の世界(悪の創造者によって造られた世界)にある教会として認めなかった。そのため、「正統派」教会で重視されていたペトロを批判し、「使徒」から外されていた女性であるマリアに、最も重要な地位を与えた。+グノーシス主義者は、基本的に物質世界を否定的に捉え、この世界の制度や価値観を批判的に捉える。彼らの間では、女性も政治、経済、また宗教的にも指導者となった。そのような教会では、女性の弟子たち、特にマグダラのマリアが重視された。+グノーシス主義では、認識によって、現実世界からより高次の世界に進むことを救いとする。その世界では、物質世界での区別や違いは無くなる。男性と女性は一体化し、真の人間となる。女性であるマリアが正しい認識を持つことが、このことを最も強くアピールする。これらの理由の中に、「マリヤによる福音書」が書かれた理由があるかもしれないし、ないかもしれない。
*グノーシス主義文書だが、ナグ・ハマディ文書に収められたものではない。19世紀にエジプトで発見され、後にベルリンの博物館に収められた、いわゆる「ベルリン写本」に収められている。この写本には4つの文書が収められており、本書以外の3書は、ナグ・ハマディ文書にも収められている。「ベルリン写本」は傷みが激しく、最初の6頁と11-14頁は紛失している。最初の6頁が「マリアによる福音書」の冒頭部分であるなら、本書は「ベルリン写本」の第1文書となる。
*本書の他に、パピルス断片である「ライランド・パピルス」462に、本書の最後2割ほどとほぼ同じ文書が、ギリシア語で記されている。原文はギリシア語で記され、コプト語に翻訳されたと考えられる。
*翻訳本で約7ページ。短い。マリアや他の使徒たちの姿が、感情も含めて分かりやすく表現され、読みやすい。
*本文の抜粋:「ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書」1998年、岩波書店、小林稔氏訳より。
…それでは〔物質〕は〔解消され〕ようとしているのでしょうか。それともそうではないのでしょうか。」救い主が言った。「いかなる本性も、いかなるつくり物も、いかなる被造物も、存在しているのは彼らの互いの内に(組み合わせられて)であり、それら(個々)のものそれ自体が再び解消されようとしているのは、それらの根へとである。なぜなら物質の本性が解消し果てるはその本性のもの、それだけへとだからである。自らの内に聞く耳のある者には聞かせよ。」ペトロが彼に言った、「あなたはすべてのことを私たちに告げて下さいました。もう一つのことを私たちに言って下さい。世の罪とは何ですか。」救い主が言った、「罪というものは存在しない。本性を真似たこと、(例えば)姦淫をあなた方が行なうと、(これが)罪と呼ば〈れる〉(が、存在するのは)その罪を犯す人、(つまり)あなたがたなのである。このゆえにこそ、(つまり)そ(の本性)の根のところへと(本性)を立て直そうとして、あなたがたの領域に、いかなる本性のもののところへも善い方が来たのである。」(7頁1-19行)
+「すべての被造物は解体される。」「罪は存在せず、罪を行う人の心の問題である。」これらの主張は、一見したところ奇異に感じられる。しかし、「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:1)「口から出てくるものは、心から出てくるので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出てくるからである。これが人を汚す。」(マタイ15:18-20)などと、何が違うのであろうか。「正統派」だろうと「グノーシス主義」だろうと、イエス様は、目の前の物質や出来事に流されてしまうのではなく、その奥にあるものに、私たちの思いを導く。「異端」といわれるものを学ぶほどに、「正統」との違いが分からなくなる。
【イエスは言われた。】「それで、あなたがたは行って、王国の福音を宣べなさい。」…すると彼らは悲しみ、大いに泣いた、「人の子の王国の福音を宣べるために異邦人のところに行く(といっても)、われわれはどのようにすればいいのか。もし彼らがあの方を容赦しなかったとすれば、この我々を容赦することなどどうしてありえよう」と言って。そのとき、マリヤが立って、彼ら皆に言葉を送った。彼女は自分の兄弟たちに言った、「泣かないでください。悲しんだり、疑ったりしないで下さい。というのも彼の恵みが(今後も)しっかりとあなた方と共にあり、あなた方を護ってくれるのですから。それよりもむしろ、彼の偉大さを讃えるべきです、彼が私たちを準備し、私たちを『人間』として下さったのですから。」…【マリヤはペトロに問われて、イエスがマリヤに語った、隠された救いの教えを伝える。】…すると、アンドレアスが応えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなた方の言(いたいと思)うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから。」ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らの尋ねた。「(まさかと思うが、)彼が我々に隠れて一人の女性と、(しかも)公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、我々自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。(救い主)が彼女を選ん〈だ〉というのは、我々以上になのか」。そのとき、〈マ〉リヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で(考え出)したことと、あるいは私が嘘をついている(とすればそれ)は救い主についてだと考えておられるからには」。レビが答えて、ペトロに言った。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ている(と)。あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女にふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえに我々よりも彼女を愛したのだ。むしろ、我々は恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼が我々に命じたそのやり方で、自分のために(完全なる人間)を生み出すべきであり、福音を宣べるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく」。〔8文字欠落〕したとき、彼らは〔告げるため〕、また宣べるために行き始めた。マリヤによる福音書(写本8頁20行-19頁5行。)
+「イエスが『マリア』と言われると、彼女は振りむいて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。」(ヨハネ20:16)最も早くイエスの復活に出会うという栄誉ある役割を得たのは、女性の弟子だった。しかし、他の使徒たちは彼女たちの証言を信じなかった。「まだ悟らないのか。」(マルコ8:21)弟子たちの無理解は、「正典」福音書でも赤裸々に報告されている。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ26:13)しかし教会は、彼女の名前を後世に伝えなかった。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:42)しかし教会は、教会にとって必要なみ言葉の奉仕(聖職者制度)を、女性から取り上げ、男性の専有物とした。イエス様から愛された女性たちが、男性中心主義の教会から虐げられた時、女性たちは何を信じたら良いのか。教会が身を置く男性優位の社会を否定し、性別を超えたところに真の人間があるという理解のもとに、「正統派」とは違う教会を作り上げざるを得ないのではないか。「グノーシス主義」は、この世界で不条理な苦しみにあえぐ人々が、必然的にたどり着く、救いの教えの一つなのかもしれない。
*ナグ・ハマディ文書第1写本の第3文書として収められている。第12写本第2文書にも収められているが、こちらの方は保存状態が極めて悪く、殆ど断片状態になっている。両者ともコプト語ではあるが、違う方言で記されている。原本はギリシア語であったことが想定され、コプト語のそれぞれの方言に翻訳されたと思われる。
*表題は記されていない。「真理の福音」という書名は、文書の最初の書き出しから採られた、慣例的な書名。内容は、イエスの生涯を記した「福音書」ではなく、「説教」。あえて言うなら、イエスによる救いの教えを表している、と言う点で「福音」と表現できる。エイレナイオスが2世紀に著した「異端反駁」の中に、グノーシス・ヴァレンチヌス派の文書として「真理の福音書」を紹介しているが、それが本書と同一の物かどうかは分からない。
*内容の特徴としては、ヴァレンチヌス派の文書としては、単純化・抽象化されており、複雑な教えを整理している、という点である。また、「正統派」教会のキリスト理解に比較的近い。(イエスは肉体を取り、人類の救いのために十字架につけられた、等。ただし、全く同一ではなく、「仮現論」〔実際はキリストは肉体を持たず、幻のような存在だった、とする考え方〕的な傾向は持っている。)これは、本書が「説教」であることが原因だろう。人々に、教えをより分かりやすく説明し、力強く語り掛けるために、整理したのだろう。
*読んだ印象としては、単純化したとは言えそれでもまだ複雑で、理解するのが難しい。それでも「説教」として、聴いている人々(文中で何度も「あなた方」と呼びかけている)に力強く語り掛け、彼らを救おうとする熱意を感じる。
*成立は、2世紀から4世紀の間、原本のギリシア語文書は3世紀までに書かれただろう。場所はエジプトと考えられる。
*翻訳本で約30頁。比較的読みやすい。
*本文の抜粋:「ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書」1998年、岩波書店、荒井献氏訳より。
…万物は彼らがそこから出たものを求めていた――そして彼らは把握し得ざる者、考え得ざる者、あらゆる思考に勝る者の内にあった――ので、父に対する無知が不安と恐怖となった。そして不安が霧のように濃くなったために、誰も見ることができなかった。それゆえに。プラネー(迷い)が力を得た。彼女は自分の物質に働きかけたが、真理を知らなかったので、虚しかった。彼女はつくり物に取りかかり、力をもって美しく真理の代替物を作成した。…これが(人々によって)求められる者(イエス・キリスト)の福音である。これが完全なる者たちに啓示〈され〉た。父の憐れみ、隠された秘儀、イエス・キリストによって。彼は、忘却によって暗闇にある人びとを照らした。彼は彼らを照らした。彼は(彼らに)道を与えた。この道が、彼が彼らに与えた真理なのである。…それゆえに、プラネーは彼に対して怒り、彼を迫害し、彼を圧迫し、彼を滅ぼした。彼は気に釘付けにされ、父の知識の果実となった。しかしそれは、食べられたから、滅びをもたらすことはなかった。むしろそれを食べた人々に発見によって喜ぶ(機会を)与えた。彼は彼らを自らの内に発見し、彼らは彼を自らの内に発見したのである。…(§2-7)
+自分がどこから来て、どこに帰るのか。これは私たちが人生を考える時の、永遠のテーマだろう。グノーシス派は、それを神話の形で表現する。多くの場合、その物語は複雑で、そこから「救い」を見出すのに難しさを感じる。本書は、私たちが慣れ親しんだ、イエス・キリストによる十字架による救いを示してくれるので、理解しやすくなる。ただ、イエスの十字架を、知識の実を食べることになぞらえ、それを聖書とは逆の評価にするところ(聖書では、知識の実を食べると死んでしまうが、本書ではそれによって救われる)あたりは、グノーシス文書らしい表現。
…彼は牧者であって、迷い出なかった99匹の羊を放置した。彼は出て行き、迷い出た1匹の羊を探した。彼は、それを見出したとき、喜んだ。なぜなら、99は左手にある数であり、その手はその数を持っている。しかし、1が見いだされると、数全体(100)は右(手)に移るからである。…彼は安息日にも羊のために働いた。…それは、あなたたちが心の中で知るためである、――あなたたち、心の知識の子らよ――安息日とは何かということを。…それは完全だからである。そこで、あなたたちは心から語りなさい。あなたたちは完全な日であり、あなたたちの中に、沈むことのない光が住まうことを。真理を求める人々と共に真理について語りなさい。また、彼らのプラネー(迷い)の内に罪を犯した人々のために認識(について)語りなさい。躓いた人々の足を堅くし、病気の人々にあなたたちの手を伸ばしなさい。飢えた人々を養い、疲れた人々に安息を与え、起き上がろうとする人々を起こし、眠る人びとの目を覚ましなさい。…あなたたちは、父の意志(おもい)を行いなさい。あなたたちは、父から出た者なのだから。(§26-27。写本31-33頁)
+グノーシス派では、「左手」が悪い方、「右手」が良い方と表現されたいたのだそうだ。そして、古代オリエントでは、99までは左手で、100以上は右手で数えられる習慣があったという。著者は、その習慣を「たとえ」に用いて、「99匹と1匹の羊」のたとえを語る。ここには、難しい教えを身近なものを用いてより分かりやすく説明する、という「たとえ」の原則がそのまま活かされている。また、複雑な教えを、現実の信仰生活に適用するためにどうしたら良いかを、具体的に示している。これは、私たちが日頃学んでいる愛の教えと、全く変わりない。グノーシスの教えは、難しい理屈をこねくり回す「知能ゲーム」ではなく、私たちみんなが救われるべき道を探る「信仰生活」なのだ。「どこからきてどこへ行くか」という難しい問題は、神様の愛を行うことで神様の元に帰るという、真に正しい結論に導かれた。グノーシスの教えによって、心の慰めを得て、愛の生活を送った信仰者たちが、確かに居たのである。
*「三部の教え」は、ナグ・ハマディ文書第1写本に最後の文書、第5文書として収められている。ナグ・ハマディ文書中、最大の文書。もともとギリシア語で記され、コプト語に翻訳されたと考えられている。写本の作成は紀元4世紀後半、ギリシア語の原文は、紀元3世紀末から4世紀初めに書かれたと考えられる。保存状態は非常に良好であるが、ギリシア語からコプト語への翻訳が稚拙であり、翻訳者がギリシア語の意味や構文を十分に理解せずに翻訳しているように思われる。意味の理解が困難な部分が、本文中に散見している。
*本書の書名は、本文中には記されていない。「三部の教え」の名称は、20世紀に刊行された印刷本に、便宜的に付された名称である。しかし、実際に本文が、特徴的な記号によって明確に3つの部分に分けられており、内容を的確に表現する名称となっている。
*内容は3部構成となっている。第1部は、超越的なプレーローマ世界の生成の次第を、第2部は、人間の創造の次第を、第3部は、地上に存在する3種類の人間種族の終末的運命を、論述している。文書の形態は「論文」、世界の構造を、様々な「3分割」によって説明しようとする。至高神が作った世界は3つに分けられ、創造された人間も3つに分けられ、それぞれの内一つも3つに分けられ、整理され、説明される。
*グノーシス文書「フローラへの手紙」から(太田俊寛氏訳)。「…したがって、これらの文句から、全体として、律法は三つの部分に分割されるということが明らかに示された。というのは、我々はそこにモーセ自身に属する律法、長老たちに属する律法、神自身に属する律法を見出したからである。…神自身の律法をなす箇所には、さらに三つの下位区分へと分割される。…」(「フローラへの手紙」は、2世紀に活躍したキリスト教教父エイレナイオスの著書に、「異端」の文書として紹介されたもの。ナグ・ハマディ文書が発見されるまで、我々が読むことのできるグノーシス文書は、このほかにはほとんどなかった。)
*「フローラの手紙」では、律法を三つに分け、更にその一つを三つに分割した。グノーシスの思想では、物事を三分割して説明することが流行っていたのかもしれない。
*グノーシス主義の中の、ヴァレンチヌス派の文書と考えられる。前掲の「フィリポによる福音書」にあるような世界観を持つ。(この世界観の「ソフィア」を「ロゴス」と置き換えれば、ほぼ「三部の教え」の神話の骨子となる。)ただし、同じヴァレンチヌス派文書の「トマスによる福音書」と違い、至高神の対となる女性的属性は存在しない。至高神は「唯一」の存在と、冒頭に明記される。その意味では「正統派」キリスト教神学に近い。またキリストの「受肉」や「受難」も主張する。これも「正統派」に近い。しかし、「至高神」と「創造神」を区別したり、キリストは「受肉、受難」で人類を救うが、その本質は「苦難を受けることのない存在」なのだと主張したり、グノーシス的特徴も持つ。本書は、グノーシス文書の中でも比較的後期に作られ、「正統派」に近づきつつも、グノーシス派としての特徴を色濃く持つ文書、と言えよう。
*翻訳本で約100頁、また内容も難しく、読んでいて極めて長く感じられる。
*グノーシス派と私たちの信仰。…「三部の教え」は「論文」として、きわめて明快に世界を分析し、我々に世界の構造を説明してくれている。私たちが日常的に手にする「聖書」は、ここまで明快に説明してくれるものではない。論理的な分析は不十分である。(たとえば、創世記の冒頭では、世界は混沌であり、神は混沌に秩序を与える形で世界を創造するのだが、では、その「混沌の世界」は誰が造ったのか、と言う疑問には、何も答えていない。)その意味では、グノーシス文書による明快な説明は、私たちの長年の疑問に、論理的な答えを与えてくれるものであり、「かゆい所に手が届く」文書だということができよう。けれども、「論理的に説明がつく」ということは、そのままで、私たちの「救い」となるものだろうか。私たちの信仰の特徴の一つは、神様との「人格的な交わり」であろう。神は私たちに語り掛け、私たちも神に語り掛ける。神は人間と同じように感情を表現し、人間は神の感情に対し、時には恐れ、時には慰められ、時には感謝する。そのような、神との人格的な交わりによって、私たちは、無機質に見えるような世界の中に温かな交わりを感じ、孤独に苦しむ時に見えない支えを感じ、不安におびえる時に導きの手の温もりを感じるのではないだろうか。確かに私たちが信じる「神」は、グノーシス派の論理によれば「不完全」で「不十分」なものなのかもしれない。けれども私たちが社会生活の中で交わる人間も、「完全」で「十分」な存在だから愛するわけではない。「不十分」な人間同士が補い合うからこそ温かい交わりが生まれ、「不完全」な人間であっても自分にとっては最愛の存在なのである。論理的な完全さが、私たちを救う訳ではない。グノーシス派の信仰共同体でも、事情は大きくは変わらないだろう。論理的整合性だけでなく、交わりの温かさによって救いを感じていたのだろう。それには、グノーシス文書だけでは不十分だったのかもしれない。「正統派」の文書も併用し、神との人格的交わりの教えを補っていたのかもしれない。
*本文の抜粋:「ナグ・ハマディ文書Ⅱ福音書」1998年、岩波書店、大貫隆氏訳より。
彼は彼自身の他にはまだ何も存在するに至っていない時から、すでに存在した。父は数字の一のように唯一である。なぜなら、彼は最初の者であり、彼だけがただ一人在る者だからである。とは言え、彼は独居者のような仕方で一人なのではない。そうでなければ、どうして彼は「父」であり得ようか。なぜなら、どのような「父」にも、もう一つの名前、つまり「子」がついてまわるものだからだ。しかし、ただ一人唯一なる者、すなわち、ただ一人の父は、幹と枝と実をそなえた根のような仕方で存在するのである。彼についてはこう言われる。――彼は本来の父であり、誰も彼を真似たり、変えたりすることはできないと。このゆえに彼は本来の意味での一者なのであり、神なのである。なぜなら、彼にとって神、あるいは父である者は誰もいないからである。彼は生まれざる者であり、彼を生んだ者、あるいは彼を造った者が他にいるわけではないからである。
すなわち、誰かの父である者、あるいは誰かを造った者には、さらに彼自身の父、ありは造った者が存在するのである。確かにそのような者が、彼によって生じた者、あるいは彼が造り出した者にとっての父あるいは造り主となることは可能である。しかし、そのような者は(われわれの言う)本来の意味での父でも神でもない。なぜなら、そのような者には〔彼を生み〕出した者〔と〕彼を造り出した〔者〕がいるからである。したがって、他の誰もそれを生み出したことがない者とは、本来の意味での父と神ただ一人のことなのである。万物を生み出し、造り出したのは彼である。彼には初めも終わりもない。(§2、写本51-52頁)
+第一部の冒頭部分である。旧約聖書、創世記冒頭、「初めに、神は天地を創造された。」この箇所を徹底的に深堀りすると、このような文章になるのかもしれない。「彼には初めも終わりもない。」歯切れのいい言葉でありながらも、この言葉が具体的には何を意味するのかが、分からない。しかし、それはそれで良いのかもしれない。高度な宗教教育を受けたわけではない一般の人々であっても、「色即是空、空即是色」などの高度な教義を、それなりに身近なものとして生活の中に位置づけることもある。グノーシス派の一般信徒の、そのようにして教義を受け入れていたのかもしれない。
最初の人間の魂について、われわれが次のように説明するのは適切なことである。すなわち、それは霊的なロゴスからきているのだが、造物神はそれを自分自身に属するものと考えているのである。なぜなら、それは、呼吸する者が口からそうするように、彼(造物神)を通してきているからである。造物神はまた、彼の本質からいくつかの魂を下方に向かって送り出した。なぜなら、彼もまた、父の像から生じてきた者として、生み出す力を持っているからである。左の者たちも、いわば彼ら自身の固有の人間たちを生み出した。なぜなら、彼らもまた存〈在〉の模写を持っているからである。
霊的本質は唯一のものであり、単一な似像である。〔そして、〕その病は〔多様〕なかたち〔へと〕限定を受けたことである。それに対して心魂的な本質(について言えば)、その限定は二重である。なぜなら、それはいと高き方に対する認識と告白を有する一方で、(思いあがった)考えへの傾きのゆえに、悪にも傾斜しているからである。また、物質的本質(について言えば)、その行く先は様々であり、多くのかたちをしている。その病は種々のかたちで生じてきた。(§52、写本105-106頁)
+第2部の一部分。人間の魂を「霊的」「心魂的」「物質的」の3つに分類する。真ん中の「心魂的」が、善い方へも悪い方へも転びうる部分で、我々が日頃「精進」しようとしている部分と言えよう。創世記の楽園に生えている3種類の木が、それらに対応するという説明もしている。「霊的」は「生命の木」、「心魂的」が「善悪を知る木」、「物質的」が「その他の木」。聖書を深堀し、隠喩的にとらえて、自らの協議を展開する傾向が、グノーシス派にはあるのかもしれない。
さて、霊的種族はあらゆる点で完全な救いを受けるであろう。反対に、物質的種族は、彼(救い主)に逆らった者として、あらゆる仕方で滅びるであろう。また、心魂的種族は、生み出された時に中央に在って、その置かれ方も善なるものと悪しきものへ二重の定めを受けているので、見棄てられる方へか、あるいは完全に善なるものの方へか、ただちにその定められた脱出をする。
(すなわち)ロゴスがいと高き方を想起し、救いを求めて祈ったときに、彼の思考の先在の範型に従って生み出した者たち、この者たちには〔直〕ちに救いがある。彼らはこの救いの観念(ロゴスがプレーローマを想起した観念)のゆ〔えに〕、完全に救われるであろう。天使であれ、人類であれ、この(種族の)者たちが彼(ロゴス)によって生み出されてきた次第は、彼(ロゴス)自身が生み出されてきた次第に、似ている。彼らも、自分たちよりも高い方が存在するという告白と、その方に向かっての祈りと、探求の度合いに応じて、彼らを生み出した者たちの救いに与るであろう。なぜなら、彼らは善き秩序からの者たちであるから。この者たちは、これから起こるべき吸う食い主の到来とすでに起きた彼の出現を告知する務めに定められた。天使であれ、人間であれ、この者たちへの(告知の)努めに派遣された時、事実彼らは彼らの存在の本質を受領したのである。
反対に、覇権を求める思いから生じてきた者たち、すなわち、彼(救い主)に逆らった者たち――彼らは、その思いが生み出した者たちである――の襲撃から生じてきた者たちは、混乱の中にあるゆえに、ただちにその終わりを迎えるであろう。
(§65-67、写本119-120頁)
+第3部の一部分。人間を3種類に分類し、その終末的な運命について教える。ここでも真ん中の「心魂的」な者たちが、善と悪とのはざまに置かれている。これが私たちの正直な姿。