マルコによる福音書
マルコによる福音書
2023年9月19日 マルコによる福音書2-3章 司祭 藤原健久
本日は、マルコによる福音書(以下、マルコ、と表記)の、第2章と3章を読んでいきたいと思います。
+「体の麻痺した人」、新共同訳や以前の聖書では「中風の人」となっていました。「らい病」→「重い皮膚病」→「規定の病」のように、より内容を正確に翻訳しようとしたのだと思います。
+1-2節。イエス様の評判が、すごい勢いで広がっていることを表します。1章でも表現されていたことで、マルコの特徴的な表現の一つです。
+3節。多分、「戸板」のようなものを担架代わりにして運んできたのだと思います。
+4節。当時の家の構造については、別紙プリントを参照。屋根は枝を敷き詰めていたらしく、屋根に穴を開けるのは、そんなに難しいことではない。それでも、他人の家の屋根に勝手に穴を開けるのは、当時でもびっくりすることだったでしょう。
+5節。面白いのは、イエス様がこの4人の行動を見て「信仰」だと判断されたこと。信仰は、心の中だけでなく、具体的な動きも含むもの。
+「子よ、あなたの罪は赦される。」イエス様はこの言葉を、自分で判断して、自分の責任で語られました。これこそが、イエス様の「権威」でした(1:22参照)。
*アニメ「め組の大悟」(消防レスキュー隊員が主人公)の一場面。火災現場で要救助者を助け出す。その人に掛けた第一声が、私の予想した「大丈夫ですか?」ではなく、「もう、大丈夫ですよ!」厳密に言うと、本当に大丈夫かどうかは、その場では判断できない。けれども「大丈夫ですよ!」と語り掛けることで、要救助者も励まされ、レスキュー隊員も「必ず助けるぞ!」と力を出す。イエス様の言葉は、そのようなものだったのではないか。
+6節。律法学者の言葉は、意地悪で、ひねくれているように感じます。ここで私たちがすべきことは、病気が早く治るようにとお祈りすることであり、病人に励ましの言葉を掛けることです。それを彼らは、水を指すような発言をします。これは、「宗教の悪い点」と言えるでしょう。イエス様の「権威」が、自らの宗教の「権威」を脅かすように感じ、病人の癒しよりも、自分たちの「権威」の方を優先している言葉です。
+8-12節。それに対してイエス様が、批判されます。9節の言葉は、機知に富んだ言葉です。「難しい理屈よりも、苦しんでいる人を励ます方が、はるかに大切だろう!」と、宗教の本質に立ち返らせる言葉です。そして、相手が言い返せないような形で反論されます。それが、実際に病気を治すことでした。これは、もう一つの「権威」:具体的な働きをもたらすもの、でした。
+この箇所は「権威」について、1:21-28と同じ課題を扱っている箇所だと言うことができるでしょう。
+13節。湖のほとり。イエス様は、ガリラヤ地方の町や村と、湖のほとりとを、行ったり来たりしておられるように感じます。2:1ではカファルナウムという村におられました。
+14-15節。「収税所」「徴税人」。ここで集めているのは、ローマ帝国に払う「人頭税」です。自分たちのお金が、自分たちの福利厚生のためには用いられずに、異邦人であるローマ帝国のために用いられるので、ユダヤの人々はこの税金を嫌っていました。そして、徴税人は、ローマから課せられた税金に、自分のための金額を上乗せして徴収していました。時には暴力的な形で徴収することもあったことでしょう。ですので、徴税人は人々から忌み嫌われる職業でした。ルカの「ザアカイさん」の物語は、このあたりのことを表現しています。
+14節。レビがすぐにイエス様に従ったのも、そのような、忌み嫌われる職業と言う背景もあったでしょう。
+16節。ファリサイ派。ユダヤ人の中の、信徒運動。安息日の規定を中心とした、律法を生活に適用しようとする。名前の由来は「分離された者」。この世の世俗的な価値観や生き方から、自らを「分離」し、律法を守ろうとした。歴史的には、旧約聖書続編の「マカバイ記Ⅰ,Ⅱ」、「ユディト記」の時代に、ユダヤの国がヘレニズム化(ギリシア化。多神教がベースになったギリシア文化を強制されたり、自ら積極的に受け入れようとすること)していく中で、ユダヤ教徒として純粋に生きるために、ギリシア文化を排除し、律法を生活の中心に据えようとした。
+17節。イエス様の機知にとんだ言葉。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という、「歎異抄」の中の親鸞の言葉にも通じる。一般的にはその逆で、「悪人すら救われるのだから、善人は必ず救われる」と思っている。けれども、仏様は、悪人(悪い人、というよりは、自分で自分を救えない弱い人)を優先的に救おうとされる。力の強い善人をも救われるのだから、仏様の慈悲が向けられた悪人が救われないはずがない、という教え。イエス様も、このような逆転の発想や、弱い人、小さくされた人への思いやりに富んでいた。
+18節。断食については、レビ記16:29-31が根拠になっていると思います。「贖いの日」に「身を慎む」というのが断食を指す。「贖い」とは、自分の罪を懺悔すること。ですので、「断食」は、懺悔の一つのかたち。けれどもヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、その意味を忘れ、または軽視し、形式的に「断食」を守ることを重視したのだろう。
+19節。「イエス様:救い主と共にいるこの時は、待ちに待った喜びの時なのだ。だから懺悔の断食は必要ない。」
+20節。「けれどもいずれ自分(イエス様)の十字架の時が来る。その時には、断食したくなるだろう。」
+21-22節。新しい布は、洗濯すると縮んでしまう。だから、古い布と縫い合わせると、古い布が破れてしまう。当時のぶどう酒は、どぶろくやマッコリのような、軽く発泡するお酒だった。新しい皮は柔らかくて、ガスが出ても伸びて、対応できるが、古い皮は、堅くなっているので破れてしまう。イエス様の教えは新しい教えなので、古い価値観ではなく、新たな気持ちで耳を傾けなければならない。
+安息日の根拠は2つあります。
1)出エジプト記20:11。神様は6日間で世界を創り、7日目に休まれた。だから私たちは、神様の想像の物語を覚え、神様にお祈りするために、安息日を守る。
2)申命記5:14-15。ユダヤの人々は、かつてエジプトで奴隷だった。厳しく辛い労働を強いられていた。そのことを忘れないように、労働者や奴隷、家畜を週に1日、ちゃんと休ませなさい。
安息日はもともと大切な律法ですが、バビロニアによって神殿が破壊されてからは、より大切な規定として守られました。(1マカベア2:32~。戦争中でも安息日を守ったために、敵によって全滅させられた。)
イエス様は、安息日の「規定」ではなく、その「意味」に立ち返るように、みんなに教えられたと言えます。
+23節。お腹が空いた時には、他人の畑であっても、ちょっとだけ失敬するのは、律法でも赦されていました(ルツ記の「落穂ひろい」等はその典型。貧困者救済のため。)それを「労働だ、安息日違反だ」というのは、心の狭い考えであって、常識的ではない。
+25節。それに対してイエス様は、「お前らアホか」と頭ごなしに否定するのではなく、相手が得意とする聖書を用いて反論している。
+27節。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。」これは、常識的な目から見たら、当たり前のこと。宗教にカンチコチンに頑なになって、自らの偏った信仰で目が曇ると、この当たり前の事が分からなくなる。
+28節。「だから、人の子は安息日の主でもある。」これも、当たり前の話から派生した当たり前の事でありながら、それでもさすがに、とてもラディカルな発言。「人の子」は、ここでは「人間」として良い。「安息日」という、「神様が決めた」とされる規定を、人間が完全に自由に扱っていい、とする宣言。宗教的規制にがんじがらめにされた人間を自由にする発言でありながら、ここまではっきりと発言すると、既成の宗教的権威を完全に否定してしまう。
+1節。「会堂」:礼拝堂、公民館、学校等、様々な機能を持つ施設。各集落にあった。
+2節。「人々はイエスを訴えようと思って。」自分たちの目的のために、病人を利用しようとしている。病人を前にしてすべきことは、その人の病気が早く治るように、手当てし、祈り、励ますこと。それを、自分のために利用するのは、人間の最も醜い姿の一つ。
+4-5節。イエス様は、そのような人々に、激しく怒られた。ここでも、イエス様の本来の「権威」(正しいことを自分の責任で語る)と、もう一つの「権威」(実際に奇跡的な力を発動する)を表し、醜い欲望を持つ人々が全く反論できないようにした。
+6節。勝負に負けた人々は、反省しない。懺悔しない。それどころか、イエス様を殺そうと企てる。このようなことは、現実に良くある。罪深い現実。「ヘロデ党」:ガリラヤ地方を治めていたヘロデ・アンティパスを支えるグループだろう。体制派なので、本来はファリサイ派とは相いれない(ファリサイ派は、異邦人であるローマ帝国の支配下にある現体制を批判し、律法に純粋であろうとしている)。そのような両者が手を組もうとしている。罪深い人々が、罪深い目的のために手を組む。今、この時にも、この世界で起こっている出来事。
+小見出しの下に、並行箇所が記されていない。マルコ独自の箇所。内容から見て、マルコが、今までのイエス様の活動をまとめた「まとめの句」。その内容は*人々が非常に盛り上がっている。*その盛り上がりは、イエス様の思いとはズレている(「押しつぶされないように」とあって、イエス様と群衆の間に緊張関係があることが分かる。)*悪霊に沈黙を命じている(メシアの沈黙)。以上のように、マルコの特徴がそのまま出ている。
+7節。「ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドン」聖書の後ろの地図で確認してほしい。広範囲にわたっているのが分かる。「ユダヤ、エルサレム」以外は、殆どが「外国」。イエス様の影響力の広さが分かる。
+13節。「山」神様と出会う場所、と思われていた。(モーセが十戒を受け取ったのも山。マタイでは、イエス様が人々に重要な教えを宣べられたのも山。「山上の説教」)
+「使徒」意味は「遣わされた者」。その目的を、マルコは3つ挙げている。(1)イエスの側に置く。(2)宣教に遣わす。(3)悪霊を追い出す権能を持たせる。マタイでは(3)だけ、ルカには、目的が書かれていない。マタイ、ルカの方がマルコより後に書かれたので、使徒の存在は「自明のもの」となっていたのかもしれない。それに対してマルコは、元々が使徒の権威に対して批判的なので、使徒に「条件付け」をしているとも考えられる。これだけの条件を満たしていないと使徒ではない、反対に、これだけのことをしていれば、12人以外でも使徒である、等。
+マタイ、マルコ、ルカには、12人のリストがある。ただし、名前は一致しない。「タダイ」は、ルカでは「ヤコブの子ユダ」になっている。ヨハネには12人のリストはない。また、福音書には登場しないナタナエルが、使徒のような立場で登場する。使徒言行録には12人のリストがある。(別紙プリント参照。)また、「手紙」で、パウロは12人は入っていない自分やバルナバを「使徒」と主張している。それは、「復活のイエス様に会ったことがあり、説教苦的に宣教活動をしているから」というのが理由となっている。(1コリント9章、ガラテヤ1章、「牧会書簡」)
+「12」という数字には意味がある。旧約聖書に記される「12部族」のように、世界全体を表している。「世界全体に広がるキリスト教会をまとめる、12人の使徒」というのは、イメージとして良い。それだけに、「12使徒」としてまとめられたのは、イエス様の昇天後、教会が形成されていく中でではないか、と個人的には考えている。イエス様がおられる時は、12人に限らず、様々な弟子が、手段の中でも中心的な「使徒」として奉仕していたのだろう。
+少し長いが、3:20-35で、一つのまとまりとなっている。そして「サンドイッチ構造」になっている。
+「サンドイッチ構造」二つの物語を、一つにまとめるための手法の一つ。一つの物語を二つに分けて、その間に別の物語を挟み込む。これは、時間的に同じと言うだけでなく、別の重要な意味がある。それは、「この二つの物語が、本質的に同じ意味を持っている」ということ。
+今回は、20-21節と、31-35節が、両端となって、22-30節を挟み込んでいる。その意味は「(イエスの家族も含めて)人々は、イエスを誤解し、誤解に基づいてイエスを攻撃している」と言うもの。
+20-21節、31-35節。イエスの家族が、イエスに会いに来た。それは「イエスのことを心配している」という思いやりからではない。「気が変になっている」と思い「取り抑えに来た」のだから、実力行使も辞さない構え。だから、「お母様と兄弟姉妹方が外であなたを捜しておられます」というのも、「こんな手間をかけさせて」というイエスへの批判の思いが込められている。だから、33-35節のイエス様の言葉も、自分の家族への批判の言葉となる。普通に読んでも、「血のつながりより信仰のつながり」を優先する言葉だし、もう少し突っ込んで読むと、自分の家族を否定し、絶縁する言葉にも読める。
+22-30節。「悪霊に取りつかれている」という批判に対して、機知にとんだ返答をしている。イエス様の返答こそが「当たり前」の意見であり、律法学者の言葉は、説得力を持つように見せて、実は、イエス様に濡れ衣を着せて、攻撃しようとするもの。早くも、「なりふり構わず」イエスを滅ぼそうとしている。
+28-29節。元々は、別の形で伝えられてきて、後に、この箇所に挿入されたのだろう。歯切れよく力強い言葉だが、解釈が難しい。28節の「人の子」は、「人間」の意味。だから、「人間は何をしても赦される」という意味で、ここで想定されているのは、ユダヤ教の律法主義だろう。「安息日」規定を初めとして、様々な規定で人々をがんじがらめにする律法から、人々を自由にする言葉。だから既成のユダヤ教の権威に対する批判、または否定と言える。29節は、「聖霊を冒涜してはいけない」という教えとなる。「聖霊教」なんて宗教はないから、ここでは、「聖霊を受けたイエスを冒涜してはならない」という意味になるだろう。そうなると、28節と29節を合わせると、「ユダヤ教から離れてキリスト教に乗り換えなさい」という意味にしかならない。それはあまりに浅はかな教えだし、第一、権威に対して人一倍批判的なイエス様が、そんなことを言うはずがない。そううするとここでは「聖霊」をより深い意味に捉えるべきだろう。それは「イエス様だけでなく、私たちみんなも聖霊を受けている」というもの。そうすると28-29節は、「あらゆるものを批判してもよいが、自分の存在そのもの、自分が愛されてこの世界に存在している、と言うことだけは否定してはならない」という、「自分を大切にして、生きていきなさい」というメッセージになる。私はこれが最もふさわしい解釈ではないかと考えている。
+28節。「良く言っておく。」とても、イエス様らしい、イエス様に特徴的な言葉。元々の言葉は、「アーメン、私は言う」。「アーメン」は、当時も今も、誰かほかの人のお祈りを聞いて、お祈りの最後に「アーメン」と唱えて、賛同の意志を表すもの。それをイエス様は、最初に「アーメン」と言う。しかもその内容は、他の人の祈りではなく、自分の言葉。最初に「アーメン」ということで、他人の賛同を求めず(必要とせず)、自分の言葉に「アーメン」ということで、自分の意志を曲げるつもりはないことを示す。「自分の言葉が神様の意志である」という強い確信がないと語れない言葉。というか、普通の人が絶対に言ってはいけない言葉。イエス様しか語れない。この姿勢が、ユダヤ教当局者たちにとっては「独善的」で、「自分を神とし、真の神を冒涜する言葉」に聞こえたのだろう。
+1節以降の「たとえ」、10節以降の「たとえを話す理由」、13節以降の「説明」となっているが、これは、3:20-35のような「サンドイッチ構造」ではありません。多分、1-9節が先にあり、それ以降が後から付け加えられたと考えられます。
+まとめて読むとそれなりの感じになるのだが、分けて読むと、全く違う解釈になり得る。ここでは、分けて読んだ時の解釈を考えたい。
+ユダヤの国では、雨季を挟んで冬と夏に種まきがあったらしい。作物は、冬は、小麦、大麦、粟、レンズ豆、等。夏:ひよこ豆、米、瓜等。
+種を蒔く人は、両手を大きく広げて蒔いていた。だから、耕された畑から飛び出して、あぜ道や他の空き地に飛び散ってしまう種もあった。イエス様は、皆が良く知っている光景を用いて教えを宣べた。
+この話だけ読んでいて、印象に残るのは、最後の大きく育つ種の話。「飛び散って上手く育たなかった種の事も気になるが、それよりもはるかに多くの種が、大きく大きく育っている。神の国も、その成就に向けて大きくなっている。世の中の様々な出来事が気になり、絶望的な気持ちになることもあるが、そんな私たちのネガティブな気持ちを越えて、神の国は確実に大きくなっている」という希望のメッセージになる。
+9節「聞く耳のある者は聞きなさい。」何やらカッコいいフレーズ。けれども意味は今一つ良く分からない。並行記事以外では次にこの言葉が用いられている。
(1)マタイ11:15…洗礼者ヨハネについての評価。
(2)マタイ13:45…「毒麦」のたとえ。
(3)マルコ4:23…「灯」のたとえ。
(4)ルカ14:35…「塩気のなくなった塩」のたとえ。
+(1)については、人によって評価が分かれる出来事。(2)-(4)はたとえ話。そして、これらのたとえ話は、聖書に記されている解釈が正しいかどうか分からない、または解釈が分からない、というようなもの。だからこの言葉は「正しいかどうか分からないから、各自で判断して」という意味かもしれない。
+「たとえ話」と「説明」とをつなぐために挿入された。
+10-11節。12人だけでなく、周りの人も一緒に居た。12人だけだと批判してしまうが、それ以外の民衆が加わると、肯定的な評価にもなる。
+12節。イザヤ6:9-10からの引用。後述の33-34節と比べると、この聖句が加わったために、意味合いが変わってくるような気がする。この箇所は、イザヤの預言者としての召命の箇所。なので、たとえ話を話すことも含めたイエス様の活動が、(イザヤのような)預言活動の一つであり、(イザヤのように)いずれ苦難に遭う、ということを示そうとする。
+この箇所が加わることで、たとえ話の内容は、「神の国が大きくなる」ということから、「人間の態度について」に内容が変わる。根本的に変わるので、この箇所は後から付け加えられたもの(イエス様が直接語られたのではないもの)と考えられるだろう。
+普通に読むと、14節「種を蒔く人」がキリスト教宣教者。15節以降の4種類の人は、キリスト教のメッセージを聞いた人々。解釈は、メッセージを聞く側に立って、「素直な心でメッセージを聞いて、良く理解して、立派な信者になりましょう。」(我々の一般的な解釈。)または、宣教者側に立って「なかなか人々に受け入れられなくても、最後にはたくさんの人が信じてくれるから、諦めずに宣教しなさい。」
+これが、イエス様の語られた時とリアルタイムのものと考えるなら、19節に代表される「欲望に絡まれる人々」がファリサイ派や律法学者などの権力者、20節が一般庶民で、「偉そうにしている権力者が神様の教えを理解していない。あなたたちこそが、最も豊かに神様の教えを理解しているんですよ」という励ましのメッセージになる。
+これを、初代教会の時代に書かれたものとするなら、17節が迫害のためにキリスト教信仰を棄てた人々、20節が、迫害に耐えて信仰を保持している信徒たちで、一般信徒を励ますメッセージになる。それと同時に、19節が、エルサレムの教会で権力を握っている「使徒」たちを表し、痛烈な「使徒:初代教会指導者・権力者」批判のメッセージになる。私個人としては、この解釈が一番の推し。
+マルコでは一つにまとまっている文章だが、他の文書を見るとこの箇所が、面白いくらいバラバラに伝わっている・伝わってきたことが分かる。
21節がマタイ5:15(積極的に宣教せよ)、ルカ11:33(目は体の灯)、
22節が、マタイ10:26(悪事は必ずバレる)、ルカ12:2(偽善に気をつけろ)、
24節が、マタイ7:2(人を裁くな)、ルカ6:38(人を裁くな)、
25節が、マタイ25:29(タラントのたとえ)、ルカ(ムナのたとえ)〔マタイ、ルカ共、同じ内容:神様からの賜物を無駄にするな〕
に対応している。
+これが一つの典型的な例だが、伝えられたメッセージが、必ずしもその意味や解釈も含めて伝承されたとは限らない。編集者の意図によって、編集され、独自の意味が付与されることがある。「元々のメッセージはどのようなものか」と「どのような意図で編集されたか」が、聖書研究の基本的な二つの視点。
+21-25節では、灯を「持って来る」「置く」また「聞く」秤で「量る」など、人間の「行為」が問題になっている。4章冒頭の「神の国は大きくなっている」という希望的、楽観的メッセージとは違い、13-20節のように、信仰者の行為を問う、倫理的、黙示録的(イザという時どうするか)メッセージになる。
+解釈としては、22節のように「隠されているものが明らかになる時が来る」を基本として、21節のように「隠れずに積極的に宣教しろ」、22,24節のように、自分の生き方を振り返り、悔い改め、25節のように、裁きを警告する。以上のようなメッセージになる。
+4:1-9のように、「神の国は大きくなっている」というメッセージ。そのうえ、「人間がどうやっていようと、神の国は勝手に大きくなる」と、希望のメッセージはより強くなっている。
+元来は28節前半までだったと考えられる。それが、今の形に編集される時に、28節後半以降が追加されたと考えられる。追加により、この物語は信仰者の態度の問題となり、28節後半で、信仰が成長する(キャリアが大事)、29節で裁きがある、という教えとなる。警告と批判のメッセージとなり、その矛先は、「使徒」たちに向いているのかもしれない。
+これも上記と同様。からし種は、成長すると、平均1.5メートル、大きいものだと3メートルになるらしい。それは大きい!
+マタイとルカに並行箇所があり、そちらには、「パン種のたとえ」も並記してある。こちらも「イースト入りのパン生地が自然に膨らむように、神の国は大きくなる」という教え。ルカの方が古い形態を伝えていると言われる。ルカとマルコを比較すると、マルコの方がからし種の小ささを強調している。「すごく小さな者から、すごく大きなものが生まれる」という対比によって、神の国の実現の驚きと喜びを伝える。
+もともとは33節のみと考えられる。34節が加わることで、「弟子たちと共に、使徒もたとえの説明を聞いていたはずなのに、イエス様の教えを理解していなかった」という、使徒批判になる。
+ここまでの部分を、俯瞰してみると、次のように考えられる。
(1)元来の形(イエス様が語られたものにより近い形)は、1-9節、26-28節(前半)、30-32節、そしてまとめとして33節。このメッセージは「神の国は大きくなっている。」イエス様の最初のメッセージである「神の国は近づいた」としっかりつながっているメッセージ。
(2)現在の形。これは、(1)のメッセージに加えて、人間の関与(信仰的、倫理的、終末論的メッセージ)が含まれる。そして、イエスの苦難、使徒批判も加えられる。
+我々におなじみの物語。「イエス様をしっかりと信じていたら、嵐のような苦難に遭っても、必ず乗り越えられる」というメッセージになろう。
+マタイ、ルカに比べると、マルコが一番詳しい。マルコにのみ記されている箇所を挙げると、「群衆を後に残し」「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」「波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった」「艫の方で」「だまれ。静まれ」「弟子たちは非常に恐れて」等。
+またマタイ、ルカと表現が違うところを挙げると、38節・マルコ「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか。」(マタイ・ルカ「このままでは死んでしまいます。」)40節・マルコ「まだ信仰がないのか。」(マタイ「信仰の薄い者たちよ。」ルカ「あなた方の信仰はどこにあるのか。」)
+これらの違いによって、
○イエス様と使徒たちとの対立構造が強められている。(喧嘩しているみたいな会話。)
○使徒たちへの批判を強めている。(群衆から離れて、使徒たちだけを叱っている。)
○描写が細かいことで、「イエス様の言葉だけでなく、行動の全てが福音だ」というマルコとの主張を伝えている。
ように感じられる。
+大変面白い物語。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)で最も長い物語。
ただ、物語の面白さが主題なのではなく、「信仰」が主題。伝えられた物語を、マルコが加筆修正し、マルコの主張を伝えるものとなった。
+イエス様が、初めて異邦人の地に足を踏み入れる話。マルコにとって「異邦人の救い」は大変大きいテーマ。(3:8〔異邦人の地から群衆が集まる。〕、7:24〔シリア・フェニキアの女の信仰〕、13:10〔終末に、福音が全ての民族に伝えられる。〕、14:9〔福音が世界中に伝わる〕、15:39〔イエス様の十字架を証ししたローマ兵〕)
+ゲラサは、ガリラヤ湖から55キロ離れている。物語的に不自然。マタイは「ガダラ」に書き換えた。それでも10キロ。マルコは「デカポリス地方」(5:10、7:31)という表現で、ゲラサ人の居住地域がガリラヤ湖畔まで及ぶ、と理解していたのかもしれない。
+マタイ、ルカと比べて、マルコが最も詳しい。マルコにのみ記されているのは、「昼も夜も叫び続け、自傷していた」「汚れた霊、この人から出ていけ(直接話法での表現)」「(豚が)2000匹ほど」「また、あなたを憐れんでくださったことを、知らせなさい」「デカポリス地方に言い広めた」。物語をより詳しく説明する箇所。「イエス様の生き様が福音」、「イエス様の具体的な姿が、(エルサレムではなく、辺境の)ガリラヤ湖周辺で、民衆によって語り伝えられている」というマルコの主張を伝えるものと思える。
+2節、「墓場」:洞窟や、岩に穿った穴を用いる。大切な場所でありながら、汚れた場所、というイメージがある。不用意に近づかないため、白く塗っておくこともあったらしい(「白く塗った墓」)。
+9節「レギオン」:古代ローマ帝国の一軍団。約4200人から6000人の兵士で構成。
+19節。奇跡の後、人々に伝えるようにと命じるのは、この箇所だけ。多くは秘密にすることを命じる(メシアの秘密)。他の物語との違いは、イエス様の行動が、人々によって、ネガティブに評価されている。他の物語とちょうど逆の展開。それもあってか、事後の指示も、ちょうど逆になった。
+もともとの物語は、19節で終わっていたと思われる。(他の奇跡物語だと、事後のイエス様の言葉で終わる。)だから、20節はマルコによる追加と考えられ、そこに、マルコの伝えたいことが記されている。
○イエスに従いたいと願い、また人々にイエス様の憐れみを宣教した。これらの行動は、信仰の現れ。この奇跡は、イエス様の超人的な力で一方的になされたのではなく、この人の信仰に呼応して行われた。
○デカポリス地方という、異邦人の地において、この人が最初の宣教者となった。それは12人の使徒たちよりも先に宣教したということ。暗に、使徒批判。(物語が、1節で「一行は」と記し、使徒たちが同行していることを示しながら、奇跡はイエス様のみで行われている。)
《5:21-43 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女》
+感動的な物語。遠藤周作は「イエスの生涯」で、背中に触れた女性の指先から、彼女の苦しみを敏感に感じ取り、彼女に寄り添うイエスの姿を、感動的に記している。
+蘇生物語は、奇跡の中でも決して多くない。(ルカ7:10「やもめの息子」、ヨハネ11:1「ラザロ」)最大の奇跡と言えるだろう。
+典型的な「サンドイッチ型」。ヤイロの娘と父親の物語が、出血の女性の物語を挟んでいる。共通するのは、(1)苦しむ女性が癒される。(2)信仰(出血の女性、娘の父親)に呼応して奇跡が起きる。(3)12年間という時間の長さ。教えとしては、「神様は必ず、苦しむ人の信仰を顧みてくださる。たとえ長い時間がかかっても、諦めるな」というものになろうか。
+マタイ、ルカに比べて、マルコが一番長くて詳しい。マルコにのみ記されているのは「向こう岸、湖のほとり」「私の幼い娘が死にそうです…」「かえって悪くなる一方」「攻めて、この方の衣…」「病苦から解放されたこと…」「それなのに『私に触れたのは誰か』と…」「イエスは触れた女を見つけようと…」「病苦から解放されて、達者でいなさい」「タリタ・クム」「12歳にもなっていたからである」「少女に食べ物を与えるようにと言われた。」登場人物の言葉を、直接話法で記す。臨場感を高め、人物の描写を深める。他も、物語をより詳し句、深いものにしている。
+21節:ガリラヤ中心というマルコの考えの反映か。
+22節「会堂長」:聖職者ではない。公民館的機能を持つ会堂(シナゴーグ)の責任者。会堂は、ファリサイ派の信仰の拠点となるもの。(もう一つの拠点は、エルサレムの神殿)。一般信徒。地域の顔役。
+23節「イエスの足元にひれ伏して」:すでにファリサイ派とイエス様との関係は、最悪なものとなっている。(「イエスを殺そう」3:6)そのような中で、この様な行動をとるのは、娘を癒す最後の望みとして、イエス様に必死にお願いしているから。この行動そのものが、彼の「信仰」と捉えることができる。イエス様は彼の「信仰」に応える。
+25節「出血の止まらない女」:婦人科系の病気。レビ15:25に、この様な症状の女性は「汚れている」とされ、人々との交わりから遠ざけられると規定されている。病気の辛さ、経済的な苦しみだけでなく、宗教的な苦しみ、地域の交わりにおける孤立の状態に置かれている。
+27-28節。イエス様の頃に触れる行為そのものが、彼女の「信仰」と見なされる。イエス様は彼女に信仰に応えられる。
+30-34節:イエス様は必死になって女性を探す。そして声をかけ、祝福する。それは、彼女にとって遠ざけられていた交わりの回復。彼女にとっての「癒し」は、「体の回復」だけではない。すべての回復。
+38-40節。泣いていた人々は、イエス様を嘲笑った。それにより、彼らが本心で泣いているのではないことが明らかになる。「なぜ泣き騒ぐのか」(マタイ「あちらへ行きなさい」ルカ「泣かなくてもよい」)マルコの表現が、一番攻撃的。人々の欺瞞を告発する。
+41節、「タリタ・クム」:当時、イエス様や他のユダヤの人々が日常会話で使っていたアラム語。アラム語が記されているのは、福音書ではマルコだけ。「現実のイエス様の姿に最も近い」というマルコの主張の表れかもしれない。また、イエス様の生き生きとした姿は、ガリラヤにこそ伝わっている、というマルコの主張もあるのだろう。
+42節「人々は…驚いた。」マタイ、ルカでは、驚いたのは両親。ここでは人々の欺瞞を告発し、両親(特に父親)の信仰を示すために、この様にしたのだろう。
*確かに自分の幼少時を知られている人々の中で、仕事をするのは難しそう。「先生」としての尊敬を得るのは困難だろう。自分の出身教会の牧師になるのは、しんどそうだ。出身教会で牧師をしたことのある主教に聞くと、「そんなことはない」とのこと。そう言われればそうかもしれない。牧師の仕事は、尊敬を得ることではなく、人々を愛し、共に生きる事。幼少期のことは関係ない。そうすると、この箇所は、単に「生まれ故郷だから」というものではなく、「不信仰」のゆえに、イエス様が活動できない、という物語となる、やはり、「信仰」の物語。
+1節:小見出しには「ナザレ」とあるが、本文には「故郷」とだけ記されている。マタイ、ルカではクリスマス物語があるので、既に「ナザレ」の名が出ているが、マルコはイエス様が成人してからの記述。知らなかったのか、わざと書かなかったのか。
+2-3節:イエス様のお話を聞いた人々の反応は、途中で変わる。前半の驚きは、他の奇跡に出会った人々と同じ。しかし後半は、全くイエス様を受け入れようとせず、否定しようとする。前半は、イエス様が自分たちは全く違う尊い存在であることを認めている。後半は、イエス様の今までの生活や家族の状況を上げて、イエス様を自分たちと同じ存在(仲間)にしようとしている。それは、親しさを表すためではなく、イエス様の尊さを否定するため。その原因は、妬みか、漠然とした憎しみか、自分と比べた時の我が身のみじめさか。人間の感情として分かる気はする。週刊誌のゴシップや、近所の人への陰口、等々。ネガティブな感情は昔も今も変わらない。
+3節「つまづいた。」スカンダリゾー(ギリシア語)。「信仰からの離反」「信仰の拒否」を意味する。4:17「種を蒔く人のたとえ」で、苦難や迫害を受けるて信仰から離れた人に、「つまづいた」の言葉が用いられている。この場合の意味は、「(信仰から)身を引く、落伍する」。
+5-6節「できなかった。」マタイ、ルカではイエス様が自主的に、あまり奇跡をしなかった、という表現になっているが、ここでは、できない、と書かれている。その原因は、イエス様が驚くほどの、人々の不信仰。奇跡は、信仰によって為される。(だからここで癒された僅かな病人は、他の多数の人々と違って信仰を持っていたのだろう。)
+6節後半:故郷の人々の不信仰によって、奇跡を行えなかったことが契機となり、イエス様は宣教の足を延ばされ、次の節で使徒たちを派遣する。「スキャンダル(スカンダリゾーとつながる言葉)からの頑張り」みたいな感じ?
*宣教するのが、教会の本質。そして宣教は、「故郷」という「自分にとって住み慣れた場所(安全地帯)を出てゆく」ことを伴う。再確認せねば。
+7節「二人ずつ」:ユダヤの伝統(トビトはラファエルと旅をする)だし、安全面等からも現実的。
+8-9節:「何も持っていくな」というのは、「必要なものは旅先で必ず備えられる」という、神様への信仰の故。ルカ10:1-の指示の方が、厳しい。「履物ははくように」:マタイ、ルカでは、履物も自分で用意できない。「下着」は、私たちの「肌着」ではなく、外套の下に着るワンピース状の服。「2枚着る」のは「贅沢」とされていたらしい。そうでなくても、予備の服を着こんで旅に出るのは、あまりに心配しすぎかと。
+10-11節:イエス様の指示は、宣教する教えの内容や人々を勧誘するためのテクニック等ではなく、「受け入れてもらった家にとどまれ」、「受け入れられなかったら出発せよ」というもの。イエス様は宣教に関して、次の2点を重視していたのかもしれない。「共生」受け入れてもらった家の人々と、仲良く暮らす。(「とどまれ」というのは「良い境遇を求めてフラフラ渡り歩くな」という意味もあったそうだ。)そして「受け入れてもらう:無理強いしない。」イエス様の奇跡が、信仰によって受け入れられることによって為されるように、宣教も、人々から受け入れられなければ、不可能。
+「足の塵を払い落とす。」:ルカ10:11に「(現地で付いた塵を)あなた方に返す」とある。「今後、ここがどうなっても、自分には責任がない」という意味。これは言い換えると、人々から受け入れられて宣教を継続するならば、宣教者はその地に対して責任がる、ということ。預言者の責任を受け継ぐもの。エゼキエル3:18-19に、預言者が悪人に悔い改めを説かずにその人が滅んだら、その責任を預言者に問う、という神様からの言葉がある。
+12-13節:使徒たちの活動内容は、イエス様の活動と同じ。宣教者とは、イエス様に従う者。塗油による治療は、福音書の中ではここだけ。ヤコブの手紙に、塗油を勧める箇所がある。
*大変残虐な物語。この物語も、マルコが最も詳しく記している。17節以下は、大変ドラマティックに、起承転結がはっきりと、過不足なく十分に、まとめられている。ガリラヤの民衆が語り伝えた物語を、マルコが殆どそのまま採録したものなのかもしれない。ただ、単なる「ゴシップ記事」にしないために、14-15節を加え、イエス様に関わりのある物語=信仰についての物語にしている。そして14-15節と、17節以下をつなぐために、16節が配置されている。
*大変ひどい、「暗黒」のような状態。為政者であるヘロデは、自分で重要なことを決定しない、無責任で優柔不断(この態度は、イエス様を十字架につけたピラトの態度にも通じる)。また、自分の親族の踊りの報酬として、一人の人間を殺すという、著しき人命軽視。尊敬していた預言者ヨハネの命をもこのように扱うのだから、一般民衆の命は極めて軽く扱われていたのだろう。人々の苦しみは、想像するに難くない。
*この暗黒の原因は、信仰の不在。この物語の登場人物に、信仰を持つ者は居ない。ヘロデはヨハネの教えを喜んで聞いていたというが、最終的な行動を見ると、彼の態度は、信仰ではない。信仰が無くなると、ここまで暗黒になる、という例のように思える。
*この暗黒の状態は、次の「5000人に食べ物を与える」物語で、光に変わる。光の原因は、イエス様の信仰である。
+14節「ヘロデ王」:正確には「王」ではなく「領主」。マタイとルカには「領主ヘロデ」とあり、こちらが正解。ルカ3章冒頭には、当時の政治状況が詳しく書かれており「ヘロデがガリラヤの領主」と記されている。マルコはユダヤの状況に詳しくない?
+22節「ヘロディアの娘」:名前はサロメ。聖書には書いてない。歴史的事実から分かる名前。「踊りを踊り、ヘロデとその客を喜ばせた。」:その場に居たのは「重臣や将校、地域の有力者」、つまり全て男性。男性を喜ばす踊り、つまりエロティックなものだったのではないかと思われる。宮廷内でそのような催しがされるとは、国が非常に退廃していたことを示している。
+29節「ヨハネの弟子」:ヨハネは「ヨハネ教団」とも言うべきグループを作っていた。マタイ11:2では、弟子たちをイエスのもとに遣わし、ヨハネ1:35では、イエスの一番弟子が、元々ヨハネの弟子であったことになっている。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ(14節)」という人々の言葉にあるように、ヨハネの死後もしばらくはこのグループは存在したと思われる。「ヨハネ教団」と「キリスト教会」は、緊張感のある関係で、時には対立していたと思われる。(「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」マルコ2:18)「ヨハネ教団」の教義は、ヨハネは「光」であり「メシア」だというもの。(「彼は光ではなく、光を証しするために来た。」ヨハネ1:8←ヨハネ教団の主張を否定している。「私はメシアではない。」ヨハネ1:20←ヨハネに語らせている。)死海文書を残したいわゆる「クムラン教団」とは、荒れ野での禁欲的な生活、洗礼を行うなど、共通点も多いので、深いつながりが想定される。「ヨハネ教団」はその後、歴史から姿を消した。
*それまでの暗黒の物語と、対極的に、光の物語、救いの物語となっている。この光の原因は、イエス様が「飼い主の居ない羊のような有様」の群衆を「深く憐れむ」所から始まった。身体の麻痺した人を運んできた4人の人々の行動を「信仰」と呼んだように、イエス様のこの思いとその後の行動は、イエス様の信仰。イエス様の信仰が、光をもたらした。
*この物語の最後は「人々は皆、食べて満腹した。」その場に居たすべての人が、喜びにあふれた。これは、正に「シャローム」:真の平和である。この物語は、平和とはどのようなものかを具体的に見せてくれるものであり、神の国の先取りであり、最大の奇跡である。
*この物語は、聖餐式の原形の一つとされている。古代の教会には、祭壇に5つのパンと2匹の魚が描かれたものがあるらしい。「最後の晩餐」だけでなく、この物語も聖餐式につながると思えば、聖餐式のイメージが広がる。
+この物語は、ヨハネを含めた4福音書に共通する物語。そのようなものは多くない。教会がかなり大事にした物語。5000人(以上)の人々を、5つのパンと2匹の魚で満腹させた、という点は共通するが、異なる点も多い。
+マタイ:ヨハネの死が起点。イエスは病人の癒しのみを行う。←最も単純な構成。
+ルカ:使徒たちが宣教旅行から帰ってきたことが起点。「ベトサイダ」の地名を明記。イエスは教えと癒しを行う。使徒がイエスに文句を言う。「50人ずつ座らせろ」と、直接話法で発言。←マルコと同じ構成。全体的にはマルコより簡潔。部分的にはマルコより詳しい。
+ヨハネ:イエスの癒しの奇跡を見た群衆が起点。山に登る。「200デナリ」と発言。少年がパンと魚を持っていた。「大麦」のパン。イエスは群衆の空腹を癒すために奇跡を行う(他では、時間が遅くなったので、奇跡を行った)。
+30-31節:イエスは宣教旅行で疲れたであろう使徒たちを労う。珍しい言動。
+34節「憐れむ」:「はらわたがよじれる」という意味。人の苦しみに心底共感する。「同情:コンパッション」→「コン」:共に、「パッション」:受難。「共に苦しむ・共苦」。
+37節「私たちが200デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか。」:4福音書の中で、最も語気が荒い。イエスに対して反抗的、対立的な使徒たち。
+40節「100人、50人ずつ」:小グループに分けた。食材は、グループごとに配られ、グループの中で分けられた。メンバーの顔を見ながら、その人の体調、年齢等に応じて配っていったのだろ。食材は人々の手を何度も回って、配られた。この奇跡は「人の手が行った奇跡」。
+この奇跡の特徴は、「イエスが奇跡を行ったことを(使徒以外は)誰も知らない」というもの。だからイエスも口封じをされない。イエスと知らず、人の手で、行われた奇跡。これも「最大の奇跡」と言える。
+「シャローム」と「パックス」:どちらも「平和」。「シャローム」は、「全ての人が、一人残らず幸せな状態。」完全な平和。「パックス」は、「戦いの無い状態。」多くの場合、強大な軍事力による押さえつけや、軍事、政治、経済的バランスによって為される。また多くの場合、「大多数」の幸せのために、「少数者」のしわ寄せがくる。「シャローム」は理想的で、「パックス」は現実的。私たちは、まず「パックス」の実現を求め、最終的には「シャローム」の実現を目指す。
*45節。「弟子たちを強いて船に乗せ」:イエスは弟子を訓練しようとしている。
*46-47節。祈りながら、イエスは弟子たちを見守る。
*48節。「そばを通り過ぎようとされた。」弟子たちの元へ来たのではなく、弟子たちに行くべき方向を示そうとしている。
*49節。「幽霊だと思い、叫び声をあげた。」イエスが期待しているほど、弟子たちは成熟していない。訓練に耐え得ない。
*50節。「イエスを見ておびえた。」イエスを正しく見ていない。
*51節。「イエスが舟に乗りこまれると、嵐は静まった。」イエスが共にいると、危機は去り、安全になる。
*教えとしては、嵐や逆風を、読者の逆境と考え、また弟子たちの怯えや嵐が静まったことを、読者の内面の状態を考え、「苦しい時でも、イエスを正しく信じれば、恐れは去り、正しい方向に導いていただける」となるだろう。
*教えを整理すると。①イエスを正しく見つめれば恐れは無くなる。②イエスは我々に、我々が歩むべき正しい方向に導いてくださる。③イエスが共に居れば、我々は助けられる。
*並行箇所をみると、マタイ(ペトロは湖の上を歩こうとしたが、イエスから目を話して沈みかけた。イエスが舟に乗ると、嵐は静まった。)は、①と③を強調。ヨハネ(イエスを迎え入れようとしていたら、向こう岸に着いた。)は②を強調していると言えるだろう。ルカには並行箇所がない。ルカは、同じような物語が複数回出てくると、一つにまとめる傾向がある。この箇所に似ているのは、「突風をしずめる」(嵐の舟の中でイエスが寝ていたが、イエスの一喝で嵐が静まった。マルコだと4:35-)。この箇所で強調されているのは②だろう。
*52節。マルコの特徴。使徒批判。「パンのことを理解せず」はこの後、何度か出てくる。
*ゲネサレト:ガリラヤ湖北西部の平野。カファルナウムが含まれる。
*基本的には、マルコのまとめの句。並行箇所はマタイにもある。マルコの方が長い。マルコにだけある箇所。53節「舟をつないだ」(具体的な様子を描写。)55節「地方全体を走り回り。」(マタイは、「地方全体」を「付近」としていて、イエスの評判がとても広い範囲で広がっている。)56節「村でも町でも里でも……広場に寝かせ」(イエスの評判の高さ。広場でないと集まれないほど、多くの人がイエスに従う)。
*「現在」と「伝統」とのせめぎあいは、いつの時代にもある。特に、本質的に保守的な性格を持つ「宗教」は、「伝統が命」という面がある。「伝統」に固執するあまり、本来の「教え」や「使命」がなおざりにされたり、「現代社会」とのずれが大きくなり、人々にアピールできなくなってしまうこともある。ましてや「人権」に関わる場合には、「伝統」に固執することそのものが、疑問に感じられる時がある。私たちは、「伝統」を大切にしながらも、それが「福音」に合致しているか、絶えず検証しなければならない。
*ユダヤ教は、聖書以外に「ミシュナ」「タルムード」と言われる、聖書の解説、また、信仰生活の手引きを大切にしている。新約聖書のせいで、まるで悪いものであるかのような印象を与えられるが、ユダヤ教徒にとっては、変化が激しく複雑な現代社会における具体的な手引きとして、とても大切にされている。神様からのお恵みのように扱っている。
*1節。ファリサイ派と律法学者たち。彼らは既にイエス様と敵対関係にある。何とかしてイエス様を陥れたい。そのため、イエス様と弟子たちの生活に何か落ち度がないか探すが、なかなか見つからず、ようやく見つけたのが「手を洗わない」こと。「重箱の隅をつつく」、「針小棒大」な告発。
*6-7節。それに対して、イエス様も、大げさに反論している。「難くせ」に「難くせ」で返しているかのような論争。ただ、イエス様の反論の中に、ファリサイ派たちの態度としてどうしても看過できないものがあったのだろう。それが「正しさ」の問題。
*15節。「人から出て来るもの、これが人を汚す。」正に正論。けれども世の中では、すぐに忘れ去られる。マタイの並行箇所では「手を洗わずに食事をしても、人が汚れることはない」(マタイ15章)と、問題を「人の汚れ」つまり、聖書の律法の規定のことにしている。しかしマルコは「これらの悪はみな中から出てきて、人を汚すのである」としており、律法を離れた人間の悪の本質を問題としている。つまり「律法に違反するのが悪なのではなく、人を傷つけることが悪なのである」という、極めて正論であることを、私たちに確認してくれている。
*3-4節。具体的な説明だが、この規定は旧約聖書には記されていない。「伝統」に基づくもの。またマタイの並行記事には記されていない。マルコの読者は、ユダヤ人の信仰生活について詳しくない外国人の可能性がある。
*11-12節。「コルバン」。これも旧約聖書には記述がない。
*登場する女性は、「ティルスの地方」の人で、「ギリシア人」「シリア・フェニキアの生まれ」という、「非ユダヤ人」であることが非常に強調されている人。「正しい信仰は、ユダヤ人であるかどうかには関係ない。正しい信仰を持つ人の祈りは、神様が叶えてくださる」という教えを、私たちに伝えてくれるもの。
*うがった見方になるかもしれないが、物語として「イエス様が、この異邦人の女性に言い負かされた」とも読める。体格の良いユダヤ人男性であり「奇跡を行う者」として立場も上であるイエス様が、異邦の地で暮らす立場の弱い女性に言い負かされて、女性の望むままに奇跡を行なって上げた、とも読めて、ほほえましいと言おうか、「クスリ」とおかしくなってしまうような、「可愛さ」を感じることもできる。
*ただ、「言い負かされた」感は、マタイの並行箇所の方が強調されている。イエス様は女性の願いを何度も拒否し、冷たい(意地悪な)態度を取っているのに、最後には女性の信仰を褒めている。マルコの方は、「言い負かされた」だけでなく、女性の「異邦人度」を上げ(マタイでは「カナンの女」)ることで、「信仰は、ユダヤ人の大切にする律法に基づくのではなく、律法を知らない異邦人も持つことのできる、普遍的なものである」ということも言いたいのかもしれない。また、冒頭に「誰にも知られたくないと思っておられたが、人々に気付かれてしまった」と記したように、マルコ全体のテーマである「イエスの評判が急速に高まった」「イエスは人々に秘密にさせた」ということも、強調したかったのかもしれない。
《7:31-37 耳が聞こえず舌の回らない人を癒す。》
*マルコにしかない記事。また「エッファタ」は、マルコにしかないアラム語の表現の一つ。イエス様が実際に用いたアラム語を記すことで、癒しの物語がより力強く、より身近に感じる。
*当時も今も、障害があることで社会から受ける不利益や差別は、決して小さくない。また冒頭で、異邦人の地を経てガリラヤ湖に帰ってきたことを記している。もしかしたら、イエス様に癒されたこの人は、異邦人の地に住む人だったのかもしれない。障害があることと、異邦人の地に住むことで、社会の中で阻害されていること、「小さくさせられている」ことを強調しているのかもしれない。
*「エッファタ:開け!」という言葉は、それを聞いた人々にとって、とても印象の深い言葉だっただろう。この言葉は、単にこの人の耳と口を開かせただけでなく、この人を阻害し差別していたこの社会に、愛の風の通る「風穴」を開けるものだったのかもしれない。
*33節。イエス様の行為を、具体的に思い浮かべてみると、彼との間の身体的距離が非常に近いことを感じる。「思い皮膚病(規定の病)」ほどではなかったにせよ、人々との接触がある程度限られていただろう。その人と、これだけ近く接したこと、そのことが奇跡を起こしたのかもしれない。
*37節「素晴らしい」人々の評価は、「障害を癒した」という「(身体的、物理的)結果」にばかり集中している。けれども本当は、イエス様がここまで近く接したこと、この人に身も心も集中してくれたこと(群衆から連れ出し祈ってくれた)、そしてこの人のために、真剣に祈ってくれたこと(「天を仰いで呻き」)このことに、癒しの本質があるのではないか。最も大切なことを見落としてはならない。
*「5000人に食べ物を与える」(6:30-44)と、そっくりなお話。多分、「一つの共通の伝承から二つの物語が別々に形成されて伝えられたもの」(注解書から)と考えられる。同じような部分と違う部分がある。「5000人」のあらすじは、+弟子たちが宣教から帰ってきて、+休もうとしたら群衆が集まり、+群衆の寂しそうな姿をイエス様が憐れんで色々教えて、+日が暮れて弟子たちが解散を提案し、+イエス様が「食事を用意しろ」と命じ、+パン5つと魚2匹があり、+群衆を50-100人のグループに分け、+お祈りして配り、+満腹した残りが12籠。こちらの、物語の方が、詳しく書かれ、ドラマティック。
*ルカは「同じ物語がダブっている」と見なして、こちらの物語を削除して「5000人」だけにした。マルコも「ダブっている」という意識はあっただろう。(弟子たちが、今回も同じように困ったり、驚いたりしているのは、「5000人」の物語を経験していないから。そのことを分かったうえで載せている。)
*マルコは、単に物語を時系列に二つ掲載するだけではなく、二つあることで、イエス様の奇跡の意味が、より深く分かる、と考えている。
+2節「三日」…4000人もの人々が人里離れた所で、3日間も、何をしていたのだろうか?聖書に答えは書いてない。想像(または、妄想)が広がる。
+8節「余ったパン切れ」…この時点で「魚」には触れていない。7節も、取って加えたような印象を与える。「パン」という言葉で、イエス様の教えを伝えたい。
+8節「籠」…「5000人」の時の「籠」よりも、こちらの方が大きい。「5000人」の「籠」は「コフィノス」。食物を運ぶための、枝編みのかご。「4000人」の「籠」は「スピュリス」。食物を運ぶための、布製のかご。人間が入れるほど大きく、後にパウロがこの籠に入り、壁から吊り降ろされて、迫害から逃亡した。(使徒9:25)
*「しるし」:「セーメイオン」。ここでの「しるし」は、キリスト教専門用語みたいなもの。私たちにはピンとこない。調べてみると、…
(1)目じるし…ユダがイエス様を裏切る時、ローマ兵への目じるしとして、キスをした。それがイエス様を他の人と見分ける「しるし」。
(2)大きな出来事の兆候。…マルコ13:4では、天変地異や大戦争などが、終末の「しるし」とされる。
(3)イエス様の奇跡…これは専ら「ヨハネによる福音書」で用いられる。カナでの婚礼で、水をぶどう酒に変えた奇跡を、「最初のしるし」(ヨハネ2:11)と表現する。
*我々の感覚では「証拠」か?ファリサイ派がイエス様に「お前が救い主だという証拠を見せろ」と言い、イエス様は「この手のものに、証拠なんかあり得ないんだ」と返した。とても分かりやすい。あくまで信仰の問題。物質的、客観的な「証拠」で信仰が創られるのではない。(空中から物体が現われた、誰かが空中に浮かんだ、ということで信じる、というのは浅い信仰理解。たとえ、何ら物質的な奇跡や、自分に得することが起きなくても、見えない希望を信じ、見えない愛の心を実践するのが深い信仰。ダニエルの3人の仲間の試練。「神は…火の燃える炉の中から…救い出してくださいます。たとえそうでなくても、…私たちはあなたの神々に仕えることは…いたしません。」(ダニエル3:17-18))
*マタイの並行箇所では、「ヨナのしるしのほか、与えられない」と語られている。(マタイ12:39)これは、ヨナが3日間魚の腹の中にいた物語を指して、十字架から3日目にイエス様が復活されたことの「しるし」としている。マルコにはそれがない。「信仰に物質的証拠や保証は一切ない」と、徹底しているように感じられる。
*ここで「5000人」と「4000人」の物語が対比され、それによって信仰を伝えようとしている。
*「5000人で、5つのパンで、余りが12籠」と、「4000人で、7つのパンで、あまりが七籠」。ここからどのような教えを読み解くか。答えが書いてない。各自で考えるしかない。「物質的には困難な時の方が、神様の力は強く働く」とか、「イエス様は、その時々にふさわしい奇跡を行ってくださる」とか。
*ただし、ここでイエス様が弟子たちを叱る言葉は、長くてキツイ。ここまで言わなくても良いのでは、と感じるほど(マタイでは、もっと簡潔)。マルコに特徴的な「使徒批判」が現れているのだろう。
*「パン種」は、「膨らむもの」というイメージがある。また、「腐らせるもの」というイメージもある。マタイでは「ファリサイ派、サドカイ派の教え」と解釈した。マルコは説明せず「まだ悟らないのか」で区切っている。各自の解釈が必要。
*典型的な奇跡物語。ただ、特徴的なのは、「だんだん」病気が癒されること。面白く、リアルな感じがする。
*直前の物語で、イエス様の叱責で、使徒たちの無理解を強調した。その直後に「だんだん」癒される物語を置くことで、「使徒たちもだんだん分かってくるかも」と言いたいのかもしれない。
+26節「村に入ってはならない」…「メシアの秘密」の典型。ただその後イエス様は「その人を家に帰された。」なかなか理解が難しい(その人の家は、村の外にあった?)このあたりの矛盾を、マルコはあまり気にしない。
*ペトロがイエス様を「メシア」と告白し、その直後にイエス様から「退けサタン!」と厳しく叱られる。毎年説教で聞く物語。「謙虚さ」とか「十字架を理解しろ」とか「愛の実践が大切」とか言われるけど、今一つ良く分からない。
*マタイとルカに並行箇所。マルコも含め、全部、イエス様がご自分の評判を尋ね、答えるのは「弟子たち」。その中で「あなたはメシアです」というのは、ペトロだけ。これをペトロの「情熱」ととるか「おっちょこちょい」ととるか、その他の解釈をするか。
*ただ、マタイはペトロの答えの後、「あなたは幸いだ。あなたはペトロ、この岩の絵に教会を建てて、天国の鍵を与える」と、ペトロをめちゃくちゃに高く評価する。その後、イエス様から叱られるから、「上げて下げる」が激しい。ルカは、この時には評価も何もしないが、この後の物語で「ペトロがイエス様をいさめて、イエス様から滅茶苦茶叱られる」という記事を載せない。マルコは、ペトロを評価せず、その後こっぴどく叱る。ここにも、「使徒批判」が見られる。
+29節「あなた方は私を何者だと言うのか。」…これがイエス様の問いかけの特徴か?周りの評判や一般的な評価ではなく、「あなたはどう思うか?」実存論的と呼ばれる問い。
*2:20「花婿が取り去られる日が来る。」3:6ファリサイ派とヘロデ派が、どうやってイエスを殺そうかと相談する。…これらで既に、イエス様の悲劇的な死が予告されている。ここでは、「そのことをはっきりとお話になった。」(8:32)
*とても「信仰的に深いのだろうなー」と感じられる箇所。「十字架を背負って従う。」「自分の命を失うものはそれを得る。」「私の言葉を恥じる」とか、「深そうな」言葉が満載。それだけに、解釈はいくつもできる。もしかしたら、理屈を練って何かを解釈するよりも、言葉の力強さに圧倒され、黙想の中で自分の歩むべき道を探究するのが、良いのかもしれない。
+32,33節。ペトロが「いさめ」、イエス様が「叱る」。…両方、大変キツイ単語が使われているのだそう。ペトロとイエス様が、怒鳴りあっているような情景を表現しているのだそうだ。
+32節、ペトロがイエス様を「いさめる」…「縁起でもないことを言わないでください」みたいな感じか。「死の予告」を「不吉なもの」と感じる気持ちはよくわかる。ただペトロは、イエス様の予告の内「三日の後に復活する」を聞き逃している。
+33節「サタン」…「神様に逆らう者」の意味。
+35節「自分の命を救おうとする者はそれを失うが、…命を失うものはそれを救うのである。」…ここでは「命」が2種類ある。肉体の命と、もう一つ別の命。
+9章1節。マタイ、ルカでは、同じ章に入っている。「神の国…を見るまでは、決して死なない者がいる。」…この言葉が、今、この時に、私たちにも語られている、と本気で信じるなら?
*聖書の「章」は13世紀、「節」は15世紀に付けられたと言われている。原文にはない。マルコでは19章につながるものとして1節があるが、マタイ、ルカでは、その前の章に付くものとしている。確かに、後の物語につけることもできるが、マタイ、ルカをみても、やはり、前の部分に付くものだろう。
*分かるような、分からないような内容。ルカでは「神の国の到来」、マタイでは、それに加えて「イエスの再臨」、マルコは「神の国」をより強烈にしている。いずれにせよ、「終末」時の話。
*「ここにいる人の中で…というものが居る」というように、ある一部の人だけが選ばれる、というように受け取れる。しかし、その前後に、誰かの特別な信仰や、神様の特別な選択、などの表現はない。その直前の内容は、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」というように、実践的な信仰生活を勧めるもの。「終末時の選びは、特別なもののように思われているかもしれないが、実際は、日々の具体的な信仰によるもので、誰もが選ばれることができる」という教えかもしれない。
*ヨハネ20:22「イエスは言われた。『私の来る時まで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。』それで、この弟子は死なないという噂が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。…」この箇所は、前述の内容を良く表しているように思う。
*イエス様の「変容貌」と言われる箇所。教会暦においても、重要な出来事。(8月6日は「主イエス変容の日」。また大斎節前主日には、同様の箇所が朗読される。)福音書の物語としても、イエス様の宣教の生涯における、ちょうど真ん中辺りに位置する出来事で、いうならば「折り返し点」。とても重要な出来事として捉えている。
*イエス様の栄光に輝く姿は、「復活」の先取り。「イエス様は必ず復活される。しかしその前に十字架がある」ということを示すもの。(十字架を覚える「大斎節」の直前に当たる「大斎節前主日」にこの箇所を朗読するのは、真に理に適っている。)「十字架の先に復活があることを覚える。」「苦難の中にも希望を持つ」ということを私たちに教えてくれる。
*また、栄光の姿の姿の後には、「イエスだけが彼らと一緒におられた」:いつも通りのイエス様の姿。そのイエス様を指して「これに聞け」との神様の声。超現実的なものに惑わされず、日々の信仰生活を大切にすることを教える。
*「六日の後」…マルコでは、正確な日付を記すことが少ない。この出来事がどれほど重要か、ということを示すために、記したのかもしれない。
*ペトロ、ヤコブ、ヨハネ…イエス様が行動するとき、この3人がよく同行する。実質的な「使徒」。
*「衣は真っ白に輝いた。」…尋常じゃない姿。マタイ、ルカでは顔の変化も記す。旧約聖書で、モーセが神と会い、十戒を受け取った時、モーセの顔が輝いていたことを意識しているのかもしれない(出エジプト34:29)。
*イエス様の復活の場面で、天使は白い衣を着ていた。「墓の中に入ると、白い衣を着た若者は右手に座っているのが見えたので…」(16:5)。白い衣を着たイエス様は、復活の姿の先取り。
*「エリヤ、モーセ」…エリヤは「預言者」の代表、モーセは「律法」を表す。キリスト教徒が言うところの「旧約聖書」は、ユダヤ教徒は「タナハ」と呼ぶ。「トーラー:律法」、「ネビイーム:預言者」、「ケトビーム:諸書」の頭文字。この二人は、旧約聖書全体を表している。この二人がイエス様と語り合う、といことは、旧約聖書に記された神様の救いは、イエス様を通して表される、ということを示している。
*ルカによる福音書では、この三人の会話の内容は、「エルサレムで遂げようとしている最後」つまり「十字架」の事だ、としている(ルカ9:31)。マルコでは、会話の内容は記さないが、直後に「死者の中からの復活」と語っているので、やはり十字架の事だと思われる。
*ルカには、9節以下の部分はなく、マタイには10節の部分がない。10節の部分は弟子たちの無理解を示している。
*エリヤを洗礼者ヨハネと同定することで、信仰が日常の生活に直接結びつくようになる。聖書と日常を「それはそれ、これはこれ」とするのではなく、結びつけていくことが大切。マタイは、イエス様が誕生した時の、ヘロデによる幼児虐殺を、預言者エレミヤの「ラマの嘆き」と結びつけ、信仰の問題とした(マタイ2:18)。「ラマの嘆き」は、今も世界中で続いている。
*印象に残る癒しの物語。マタイとルカにもあるが、マルコが一番詳しい。マタイは「からし種一粒ほどの信仰があれば…」と語り、ルカは「なんと不信仰で歪んだ時代なのか」と語るように、これが「信仰」の問題であることが明記される。
*この物語の特徴は、癒しを「弟子たちができなかった」ことと、それをイエス様がめちゃくちゃ怒られたこと(マルコはよく使徒を起こるが、今回は、マタイもルカも、めちゃくちゃ怒っている)。これは弟子たちが、「本来、しなければならないことをしていない」ことをイエス様が叱っておられる。そして「しなければならないこと」を、マタイとマルコでは「祈り」としている。そうすると、ここで言う「祈り」は、超現実的な奇跡を求める行為や個人の超能力等ではなく、誰もができて、誰もがしなければならない事、…人の痛みに共感し、自分にできる奉仕(まさに「手当」)を誠実にすること、を含んでいるのだろう。私たちが求められているのは、この様な「祈り」。
*イエス様が現場に行くと、弟子たちと人々は「議論」しており、イエス様の姿を見て「非常に驚」いた。責任論や神学的な議論をしていたのかもしれないが、その間、苦しむ息子は置いてきぼり。そして議論に更けている自分たちを「良し」と思っていないから、悪戯している時に親に見つかったかのように「驚く」。そのような彼らを、イエス様はこっぴどく怒る。
*「信じます。信仰の無い私をお助けください。」…信仰の無い人が信じる。論理的には矛盾しそうなことが、現実には起こっている。私たちの信仰は、何か出来上がったものではなく、これから始めていくこと。「信頼」はいつも、その時がスタート。
*8:31-に続いて、二度目の予告。前回はペトロがたしなめて、イエス様に叱られた。イエス様の死と復活は、軽々しく捉えてはいけないもの。残るは、恐怖のみ。「怖くて尋ねられなかった。」イエス様に訊くこともできない。結果として、イエス様の受難から目を背け、忌避することになった。
*「人々の手に渡される(パラディドナイ)」…「引き渡される」という単語が、イエス様の受難のキーワード(「主イエスは、引き渡される夜…」1コリント11:23)。マルコでも十字架の場面で多用される。自分の意志が顧みられず、まるで物のように人々の間で扱われること、それが人間にとっての苦難。
*「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」…教会が子どもを受け入れる根拠の一つ。子どもを受け入れることは、神様を受け入れ神様から受け入れられること。キリスト教の倫理は、信仰における救いの問題となる。
*「一番先になりたい者は、すべての人の後になり…」…福音においては、この世の秩序が逆転する。社会的、肉体的、経済的な「強さ」ではなく、神様とのつながりが救いの全て。そして神様は、人間社会の中で軽視されている人々にこそ、強いつながりを持たれる。「幸いなるかな、貧しい人」と同様の信仰。
*「弟子たちは黙っていた。」…「誰が偉いか」を議論することが、イエス様の福音に反する、ということを分かっていながら、自分の欲望に負けて議論していた。「悪いと知りながらやる」者として、弟子たちを批判している。
*現実的な包容力。続く42節以降は、これに反して、非現実的なほど厳しい。この対比に、私たちは戸惑う。
*「キリストに属する者」…明らかに「クリスチャン」を指すだろう。そしてこのことが意識されるのは、イエス様の昇天後、初期の教会でのこと。イエス様の居ない中、まだまだ内部も固まっておらず、外部からの迫害も厳しくなっていた初期の教会において、どうしても必要なことが、この箇所とその次に記されているのかもしれない。外部の人を拒絶するのではなく、共通する部分を見つけて連帯すること、権力を巡って内部闘争をするのではなく、教会内の「小さい者」を大切にし、誰も排除しない教会形成をすること、そうしないと教会は生き残れない、という危機感があったのだろう。
*「キリスト教では離婚を禁止していますよ。その根拠は、聖書のこの箇所ですよ。」と、結婚式の準備等で説明する。けれども、この説明は空しい。確かに離婚せずに済めばそれに越したことはない。だから離婚する人も、好きでするわけではない。どうしようもない事情があるから離婚する。つまり離婚は、現実の問題。それを、宗教の教えで正邪を判断しようとしても、仕方がない。
*「離婚は許されるか」という問いには、「現実だから仕方がない。誰が許すという問題ではない」というのが答え。ただ今回は、ファリサイ派の人々が律法を持ち出したので、イエス様も聖書を用いて答えている。
+2節「イエスを試そうとしたのである。」…誠実な問いかけではない。イエス様に答えにくい質問をし、攻撃しようとするもの。
+3,4節「離縁状」…申命記24:1以降。「ある人が妻をめとり、…彼女に離縁状を渡し…」離婚の権利は、男性にだけ認められている。すでに律法自体が男性中心で、女性差別。この律法を用いて論議すること自体、女性差別。
+6-8節「神は人を男と女に…」…イエス様は、創造物語を用いる。創世記には2種類の創造物語がある。1章と2章以下。1章は「人を男と女に創った。」2章は「アダムを先に創り、次にエバを創った。」あえて言うなら1章の方が男女平等。「男女の関係は平等であり、互いへの愛のみによって結ばれる。」これを律法の規定よりも優先させた。
+9節「人は離してはならない。」…ここでの「人」は、「男性」になろう。女性の意志や人権を無視して行う離婚の残酷さ、暴力性を告発する言葉になろう。
+11,12節…そのまま読むと「離婚してもいいが、再婚してはいけない」ということになる。そんなバカげた教えはない。申命記24:4に、一旦離婚した妻と復縁してはいけない、という規定がある。その理由は他の男性との再婚によって「彼女が汚された」から。申命記の律法の規定をそのまま実行するなら、多少大げさになるが「再婚すると罪」となる。イエス様が言いたいのは、女性差別の律法の暴力性。「律法ではなく愛をもって人を見ろ」という教えになろう。
+マタイ19:1~が、並行箇所。マタイはマルコの意図を十分理解して、改変した。その結果、ファリサイ派の人々に「人が妻と別れてはならない理由がそのようなものなら、結婚しない方がましです」と言わしめている。男女平等の教えに従うことのしんどさ。男性中心の社会でぬくぬくと生きてきた者にとっては、イエス様の教えは厳しくメリットの無いものになる。福音の厳しさ。
*「子ども叱るな来た道だもの。年寄り叱るな行く道だもの。」子どもを受け入れるのは難しい。可愛さで受け入れられるのは、自分の子どもか、自分に関係のない子ども。こちらのコントロールが効かず、耳障り目障りな言動を行う子どもを受け入れるのは至難の業。
*「子どものように神の国を受け入れる?」子どもが神の国を受け入れているのであろうか?何やら子どもを理想化していないか?田川建三の翻訳「神の国を子どもを受け入れるようにして受け入れるのでない者は、そこに入ることはできない。」これならよく分かる。神の国も、こちらのコントロールが効かず、こちらの欲得、損得に寄与しない。子どもを受け入れるのが難しいように、神の国とは、実は、受け入れるのが難しいものなのだ、と教えている。
+13節「叱る」…既に9:37で、子ども受け入れる教えを、弟子たちは聞いている。それなのに、再び同じようなことをしている。弟子の無理解。9:37とこの箇所とは、重複するようにも思われる。そのためか、ルカでは並行箇所で「乳飲み子たち」と表現している。「同じような箇所は一方を削除する」傾向があるルカなので、より違う表現にしたか。
+14節「憤り」…とても激しい表現。マタイ、ルカでは用いられていない。子どもたち(その家族)を叱った弟子たちを、厳しく批判する。使徒批判。子どもを叱ることは、単に「子どもを指導する」以上の、根源的な過ちであることを教える。子どもの権利確保がいまだに不十分であり、子どもへの虐待が絶えない私たちの社会の現状において、深く受け止めなければならない。
+16節「抱き上げ」…家族は子どもに触れてほしいとイエス様のもとに来た。イエス様は触れる以上のことをなさった。子どもを大事にするのは、家族のリクエストに応えることではなく、神様の主体的な行動。
*「ペトロがイエスに、『このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』と言い出した。」…マルコは「使徒批判」が厳しい。だから、ペトロのこの発言も、「的外れ」「勘違い」の発言と考えた方が良い。ペトロはイエス様の発言を、「金持ちだから神の国に入るのが難しい」と捉えた。イエス様は、「全ての人にとって難しい」と言いたかった。金持ちは金持ちなりに、何も持たない者は何も持たない者なりに、神の国に入ることは難しい。ユダヤ人、異邦人、男性、女性、権力者、庶民、それぞれがそれぞれの理由で、神の国に入ることが難しい。今、私たちは、「クリスチャンは、クリスチャンだからこそ、神の国に入ることが難しい」という命題を立て、真剣に取り組まなければならない。
+17節「走り寄り、ひざまずいて」…彼の熱心さを指す。マタイ、ルカの並行箇所にはない。今まで、イエス様を陥れるために論争を挑んできた者が多かったが、ここでは、誠実に、真摯に、イエス様に教えを乞う。
+18節「なぜ私を『善い』と呼ぶのか。」…ある意味で、青年の要求を拒絶する言葉。青年は「イエス様のようになりたい」と思ってきたのか。イエス様は「神様に直接従え」と言う。これは私たちにとって厳しくもあり、解放てきでもある言葉。「どれだけ頑張ってもイエス様のようにはなれない」という厳しさと、「そうではなく、自分らしく神様に従え」という個性尊重の意味があるのでは。
+21節「慈しんで」…「愛して」という意味。マタイ、ルカにはない。深い交わりを表現。イエス様は、誠実な青年に、誠実に教えようとしている。「持ち物を売り払い、施す」、というのは、「金持ち」の彼にとっての方法。普遍的な方法ではなく、違う人には違う方法がある。
+23-25節「金持ちが…難しい」…仏教的出家観を持つ私たちにとっては、驚くべきことではない。ユダヤの人々にとっては、財産は神様の祝福の印(ヨブ記でさえもそう)。
+29-30節…ペトロの言うように、全てを捨てることも神の国に入る一つの方法。そのことはイエス様も否定しない。
+31節「後にいる…者が先に」…けれどもこの言葉で、全てをひっくり返される。「あなたの考えていることは、全てひっくり返される」とでもいう意味か。
*1回目:8:31~。ペトロはイエス様をいさめ、イエス様から「サタン」と叱られる。2回目:9:30~。「弟子たちはその言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」そして3回目。「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」弟子たちは、どんどん恐ろしくなる。最初は「イエス様はいずれこの世の王様になる」くらいに思っていたのが、どんどん自分たちの考えとは違うことが明らかになり、もはや想像もつかなくなってくる。
+32節「エルサレムに上る」…今までガリラヤ地方で活動されていたイエス様が、エルサレムを目指す。先頭に立つ姿を見て、弟子たちは恐れる。「エルサレムに上る」とは、戦国時代に「京に上る」ようなものか。「王様になりに行く」べき道のりだが、その考えはイエス様に否定されている。見通しの付かない不安だけが胸に沸く。
+33,34節…イエス様の説明は、1,2回目より詳しい。けれども不安になる。「三日目の復活」は、希望よりも、より不安をかき立てる言葉だったのかもしれない。
*めちゃくちゃ分かりやすい教え。奉仕こそが権威の源泉。これは、この世の価値観では導き出せない。「人の子」つまり、イエス様がそのようになさったから、同じようにする。そこで得られるのは、この世の富ではなく、イエス様の命。仕えることによって、イエス様に近くなる。「イエス様に近くなりたい」と本気で思っているかどうかが問われる。
+35節…マタイ並行箇所では、ヤコブとヨハネの母親がイエス様にお願いする。その方が納得できる。直前の箇所で、弟子たちは恐ろしくて、イエス様に何も尋ねられなくなっている。マルコではあえて本人たちに尋ねさせる形にして、弟子たちの無理解:使徒批判を強めているのかもしれない。
+36-39節…同じ言葉を使っていても、意味が通じないことがある。弟子たちにとって「栄光」とはこの世の富、権力。「杯」「洗礼」は、そのための試練程度のもの。イエス様の言う「栄光」は、十字架の後の復活(死の後の命)、「杯」「洗礼」は、苦難と肉体の死を指す。このギャップはあまりに大きい。
+40節「定められた人々」…神の国は、いつも私たちの思いを超えるもの。こちらでコントロールできないもの。
+41節「腹を立て」…これは、10:14「憤る」と同じ言葉。つまり非常に激しく怒った。「誤解を諭す」のではなく、「抜け駆けを怒る」。他の弟子たちも、二人と同じ穴のムジナ。
*エルサレムに入る直前の物語。盲人が何度も叫び、イエスの呼びかけに喜び躍り上がり、癒されるとイエス様に従う。盲人も、また彼を止めようとする群衆も、かなり高揚しているように感じられる。エルサレムに向かう一行は、大きな不安や恐れと共に、それと反対の期待や興奮も抱えていたのだろう。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉には、病が癒された喜びだけでなく、群衆のあふれ出るエネルギーを制御しかねているイエス様の姿を感じることはできないか。
+46節「バルティマイ」…具体的な人名が出るのは珍しい。初代のキリスト教会の有力なメンバーになったのかもしれない。
+47節「ダビデの子」…マルコでは珍しい表現。エルサレムに向かう興奮を感じる。
+49節「安心しなさい」…バルティマイにとっては、イエス様に呼びかけられた時点で、最大の喜びに達している。実は肉体の癒しよりも、イエス様との交わりの方が、癒しの本質なのかもしれない。
+52節「行きなさい」…珍しく、奇跡のあとで口止めをされない。口止めは、エルサレムに行くまでの措置だったのか。それとも、バルティマイの興奮を、イエス様も止められなくなっていたのか。
*今まで、イエス様と弟子たちは、ガリラヤ周辺で活動し、10章で移動してきた。11章でいよいよエルサレムに入る。
*「ガリラヤVSエルサレム」というわけではないが、この二つの場所(地域)は、明確に意味付けがされている。
*11章から最後までざっと目を通して分かるのは、エルサレムでは、「癒しの奇跡」が一切行われていない、ということ。唯一の奇跡は「いちじくの木枯らす」であり、これは「癒し」とは対照的な、いわば「呪い」。
*エルサレムは、「批判」されるべき所(特に神殿)であり、律法学者や祭司長たちと「論争」するところであり、イエス様が十字架で「受難」される場所。
*エルサレムでの日々を数えてみると、たった6日間。初日(11:1-)エルサレムに入る。二日目(11:12-)神殿から商人を追い出す、等。3日目(11:20-)律法学者たちと論争。4日目(14:1-)ベタニヤで香油を注がれる。5日目(14:12-)最後の晩餐。逮捕。6日目(15:1-)十字架。そして受難の三日目に復活(16:1-)
*復活前主日(しゅろの主日)が、復活日の一週間前に行われるのは、イエス様の生涯の追体験として理に適っている。しゅろの主日の礼拝が、「イエス様を大歓迎したエルサレムの人々が、その舌の根も乾かぬうちに『十字架につけろ』と叫んでイエス様を受難に追いやったことを覚える」ことも、僅か6日間という短い日々を思うと、理に適っている。
*人々によって歓迎されてエルサレムに入るイエス様。けれども、歓迎の声の裏に、既にイエス様の受難への道が動き出していた。
*ルカの並行箇所では、イエス様がエルサレムの滅亡を予見して泣く、という場面がある。(ルカ19:41-44)
+2節・子ろば…イエス様の、ロバの調達についての指示が、とても具体的。弟子たちの知らないイエス様の人脈があったのだろう。最後の晩餐の時も、支持者がいることをうかがわせる記述がある。(14:13-)
+7節・子ろばに乗って…ザカリヤ書9:9-10の記述の実現。平和の王が来られる。ロバは農耕用。それに対して馬は軍事用。ただし、小型のロバは斜面でも移動できるため、山間部等のゲリラ戦にも使える。当時のユダヤ人向け。
+8節・上着や枝を道に敷く…「レッドカーペット」のようなものか。派の付いた枝を、小さい旗のように振って歓迎するのかと思ったら、共観福音書にはそのヨナ記事が無かった。ヨハネ12:13に「なつめやしの枝を持って迎えに出た」とあり、これが、しゅろの主日の礼拝に活かされているのだろう。
+9節・ホサナ…「我らに救いを」という意味。この場面の雰囲気としては「万歳!」のような感じの言葉か。
+11節・ベタニヤへ…エルサレムに入って、一旦、外に出るのはマルコだけ。マルコにとっては、エルサレムは、滞在するにはあまりに危険な場所を考えたか。
*「呪う」は、最もイエス様に似合わない行為。そこにはイチジクへの恨みとは別の、象徴的な意味があるだろう。ミカ7:1-10に、実らないイチジクにたとえられた、堕落した人々への裁きの言葉がある。この状況をエルサレムに当てはめて、エルサレムへの裁きを預言したものなのだろう。
*マルコだけ、この物語を、12-14節、20-26節に分けて、「神殿から…」の物語と、「サンドイッチ構造」にしている。これは、堕落した人々への批判を、特に、神殿批判に当てはめるためだろう。
+12節・翌日…エルサレム滞在2日目。
+10節・イチジクの季節ではなかった…イチジクは、6月と8-9月の二回、実が取れるらしい。ただし、3月には小枝の先に小さなコブができて、これは食べられるらしい。イエス様はこれを取ろうとしたのかもしれない。
*「神殿で商売をしてはいけない」という教えだけではない。「神殿その物を否定」するぐらいの、極めて厳しい神殿批判。「両替」も「鳩を売る」野茂、神殿の維持のために必要。(献金のためには、世俗のお金を神殿用のお金に両替しなければならないし、遠隔地からの巡礼者にとっては、地元からいけにえの動物を持参するのは非現実的。)それらの商人を追い出すということは、神殿の否定。だから祭司長たちは、「どのようにしてイエスを殺そうか」と相談する。
*マタイでは、境内に障害者がやってきたと記す(マタイ21:14)神殿には障害者は入れなかった。イエス様はそのような差別体質を打ち破った。ルカでは、その前に、エルサレムの滅亡の予見がある。この出来事は、神殿の否定、または、神殿の滅亡の予告のようになっている。
+17節…「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ56:1-8)公正と正義を通して、来るべき日に得rさレムが回復されることよ預言している。
*全体として見ると、「信じて実行すれば、実現する」というメッセージになろう。マルコは、25節を追加する。「罪の赦し」は、エルサレムの回復のために必要なもの、と救いのメッセージを追加したのかもしれない。イザヤが「公正と正義」を求めたように。
+20節・朝早く…エルサレム滞在3日目。
*ここから、論争に入る。律法学者たちの目的は、イエス様を殺すこと。最終的到達地が定まっている論争は、誠実なものではない。ヨハネの洗礼についての議論においては、洗礼そのものについて、誠実に評価していなかったことが、独白によって明らかになる。彼らはヨハネを否定し、死に追いやった。彼らは「ヨハネの洗礼は、神からのものだと分かっていたが、ヨハネの行う体制批判で、自分たちの権威が脅かされることと、王(領主)からの不興を買うことを恐れて、ヨハネを否定した」というのが正直な所だろう。このような不誠実な態度は、我々の世界にはあまりに多く、慣れ切ってしまい、私達自身、問題意識を持たなくなってしまっている。イエス様はいつも、私たちの魂を震え起こさせる。
*11章から引き続いて、エルサレムでの論争。イエス様を陥れようと論争を吹っ掛ける人々と、それに対抗するイエス様。厳しく、苦しい論争が続く。
*イザヤ5:1-「私は歌おう、私の愛する者のために、ぶどう畑の愛の歌を。」所有者が丁寧に世話をしたのに、酸っぱい実しか実らせなかったぶどう畑。畑は壊され、荒れるに任される…。所有者が神様、ぶどう畑がユダヤ人。この預言を思い浮かべるが、内容的にはズレる。所有者が神様なのは共通するが、ユダヤ人の民は、こちらでは農夫。神様の庇護より外れる、という結末も同じ。
*神様のユダヤ人に対する救いの歴史と今後を語る。まず神様は丁寧に世界を造る:天地創造。人類に「世界を世話するように」との使命を与える(創世記1章、人類が創造された時「全てを支配せよ:世界の執事たれ」)。使命の確認(および、罪深い人類の矯正)のために預言者が送られる。預言者は迫害される。そして、イエス様がこれから殺されるだろう。
*田川健三は「大土地所有制度の中で、奴隷のような扱いを受けて苦しむ農民が、自らの生存のために起こした反乱:革命を、『人類の罪のたとえ』として悪いものと扱うイエスは、この件に関してはブルジョアジーのごとく正しい判断力を失っている」というが、そこまでの話ではないように思う。どこかで実際にあったかもしれない出来事を基に、神様の救いを説明しただけであろう。
*たとえ話の中で、農地の主人も、農夫も、現実離れした判断をしている。僕を何人も殺されているのに、何の護衛もつけず実子を送る主人。主人の子どもを殺せば農地が自分のものとなると思っている農夫。ここには主人:神様が、とんでもないほどの愛情で私たちを愛して下さっている、ということと、人類が、現実を見失うほど罪深い思いにとらわれている、という、重要な事実を私たちに伝えている。
*10-11節の詩が、何を指すのか。「建設中に捨てられた石が、『別の』建物の定礎石になった」という意味なので、「新しい救いの秩序が始まる」という意味なのだろう(ユダヤ人中心から、イエス様を信じることによる救いへの移行)。マタイ、ルカでは「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が落ちてきた者は、押しつぶされる」とあって、イエス様を迫害したことによる裁きが記される。これは、紀元70年のユダヤ戦争による国家滅亡、神殿破壊を目の当たりにしたからこそ書き加えたのかもしれない。(マルコは、70年より前に書かれた。)
*別紙のマンガを参照。とても上手にまとめられている。
*この論争の答えは、「税金と、信仰とは、別問題」で済む話。確かに信仰は生活に結びつくべきだが、身の危険も伴う重大な判断を、個人の信仰で判断させるべきではない。これはあくまで政治によって判断されるべきもの。
*これも、別紙マンガ参照。マンガは19-20世紀の中央アジアが舞台になっている。このような結婚制度を「レビレート婚」と言うが、広く行われていたらしい。
*この制度については、財産の保持、家名の継続などの理由が考えられるだろうが、全く考慮されていないのが、女性の思い。「恋愛結婚」など考えられなかった時代かもしれないが、それでも、この様な結婚は、この女性の心身に大きな傷を与えることが、容易に想像できる。
*マタイ、ルカにも並行記事があるが、マルコに特徴的なのは、イエス様の「怒り」。「あなた方は大変な思い違いをしている」というイエス様の言葉で物語が終わっている。「一人の女性の苦しみを放っておいたままで、宗教論議に明け暮れるのは、再度、女性を傷つけているのと同じだ!」と怒っておられるのだろう。マタイ、ルカでは「もはや質問する者はなかった」という言葉で締められており、この物語が「論争」の話だとされている。マルコは「社会・人々の罪と裁き」の話になっている。
*「復活とは何か」という、本質的な議題。私たちも興味津々。この箇所から復活について探ってみると…(1)「めとることも嫁ぐこともない」:復活とは、この世の秩序の延長、継続ではない。(2)「天のみ使いのようになるのだ」:天使とは…神様に直接会える。神様の近くで仕える。神様によって使命が与えられる。その分「自由意志」はない。いろんなことができる(飛んだり、歌ったり、戦ったり…)…うーん、良く分からない。(3)「死者が復活することについては…神は…生きている者の神なのだ」:死者が、生きている者の幸せのために働く。人の存在は死によって無になるのではなく、今生きている人の幸せのために、力になる。…結局「復活」について、分かったような、分からないような。
*イエス様を陥れようとする不誠実な論争とは違い、この律法学者は誠実に質問する。イエス様は、誠実な質問には誠実に返される。
*「律法の中で何が最も大切か」というのは、かなり突っ込んだ質問。答えの幅が広い分、何を答えるかで、その人の考えがかなり判明する。同じ質問を、聖書の登場人物たちに投げかけたと想像すると、「安息日」「血統」「神殿」「一神教」などの答えが出てくるだろう。イエス様の答えは、それらよりも「愛」を優先させる。その結果イエス様は「律法違反」「安息日違反」「神様を冒涜した」などの罪状で、十字架に追いやられた。「愛」を全うするのは、命を掛けた大きな生き方であることが分かる。
*マタイは、イエス様の答えだけで終わっている。やはり「論争」の話とされている。マルコはイエス様の答えへの律法学者からの応答があり、イエス様はそれに対して一定の評価をされている。ただイエス様の最後の言葉は「神の国から遠くない」であって、「神の国にたどり着いた」ではない。律法学者の返答では不十分。
*何が不十分かというと「実践」。神様の愛を理解し、それを実践することが大切。ルカの並行箇所は「善きサマリア人のたとえ」。正にそのことが語られている。
*「神よ…ダビデの子を王に立ててください。…エルサレムを踏みにじり破壊するもろもろの民からそれを清めるため。」以上は旧約聖書偽典『ソロモンの詩編』17章から。この書は紀元前1世紀ごろに書かれた。旧約聖書の中にも、ダビデへの期待が記されているが、「ダビデの子孫が救い主となる」という信仰(もしくは民間伝承)が確立したのは、この頃なのかもしれない。(この書についての詳しい解説は、教会ホームページ「聖書研究会」資料を見てください。)
*イエス様は、詩編110編を用いて、持論を展開される。「主(1)は、私(2)の主(3)に…」この「主(1)」は、「主なる神様」、「私(2)」は「ダビデ」、「主(3)」は、「メシア」だ、としている。でも、これは少し無理がある。この解釈は「詩編」が全てダビデによって書かれた、という前提によって成り立つもの。そして私たちは、「詩編」がそういうものではない、ということを、既に知っている。「詩編」は、長い時の流れの中で、多くの人々が歌った歌を、まとめたものである。サラっと読めばそういう印象を受けるし、逆に「ダビデの作だ」と考えて読むと、矛盾したり、ダビデの時代と合わないものが多く出てくる。
*現代の解釈では、詩編110編は、王が即位するときに祭司が歌った詩で、解釈としては、「主(1)」は、「主なる神様」、「私(2)」は「祭司」、「主(3)」は、「新しい王」となる。イエス様の時代でも、そんな解釈だったのではないか?
*だからイエス様の解釈は、無理があり、「力技」。それでも、イエス様がそこまでして主張したかったことがあった。それは、「メシアは、また神様の救いは、血統によらない」ということ。これは、救いの核心の一つ。
*イエス様の「力技」は、ちょくちょくある。(マルコ2:25-等)。また、パウロもそんなことをよくする。聖書では「嘘も方便」という考え方が強いようだ。
*いちいち心に突き刺さる言葉。内容が「ごもっとも」。特に「やもめの家を食い物にする」という箇所は、抑圧と搾取の構造の中に宗教者が居ることを示す。そのほかは、基本的には倫理的な問題。「品性」の問題とも言える。ただし、社会現象的には、宗教者はこのような行動をしている。このような行動が「是」となるか「非」となるかは、当人の「心」の問題になろう。ちゃんと祈ろうとしているか、人を助けようとしているか、真剣に救いを求め、真理をみんなに伝えようとしているか。神と人を「愛」しているか、が、これらの行動を「是」とするのだろう。
*大体、何も作らず何も売らない「宗教」を「生業」とすること自身に、矛盾があるのかもしれない。「報酬」が「費用対効果」を指すのなら、宗教者が行った「効果」は何なのか、真剣に考えなければならない。「宗教」は「奉仕」であるべきだと考えるのなら、「生業」は別に持ち、宗教行為はすべて「ボランティア」とすべき。(イスラム教やユダヤ教は、基本的にはそのようになっていると聞く。)そうでないと、どこまでも宗教者は信者の「上前をはねる」ようになってしまう。ただ、それはどの業種にも同じような側面はあって、では正当な労働とは何か、と突き詰めていくと、農業などの「第一次産業」にたどり着くように思う。
*マタイ、ルカの並行箇所あり。マタイは、大変長いページを割いて、宗教者たちの偽善を「リストアップ」している。「そこまで恨みがあるか?!」と思うほど。旧約的背景が強いマタイからこそか。ルカは、基本的にはマルコと同じ。
*直前の箇所の続きとして、「律法学者の偽善」と対比されるものとしての「やもめの誠実な信仰」。
*仏教説話に「長者の万灯より貧者の一燈」がある。布施はその量よりも、そこに込められた思いが大切、というもの。この物語と同じ。
*有難いお話でありながら、これも「搾取」の手段となり得る危険がある。「貧しい者からも、根こそぎ奪い取る」ということになってはならない。この物語は、信徒の側から語るのと、教団側から語るのでは、効果や目的が180度変わる。
*教団側から考える時には、「この貧しいやもめの献金に、どのようにして応えるか」と自らに問うことが必要不可欠。仏教説話では、お釈迦様の有難い説教に感謝して一燈を捧げたとなっている。物質的、金銭的には何も返せない宗教教団は、その分、何を返すのか、真剣に考えなければならない。
*「1クァドランス」は、64分の1デナリオンだそうだ。150円ほどか。
*13章全体が、イエス様の説教で占められている。「イエス様の生き様そのものが福音」という考えのマルコは、マタイの「山上の説教」のような、説教集をまとめていない。4章の「たとえ話集」と共に、マルコで数少ない説教集の部分。
*紀元70年頃にユダヤ戦争が起こり、エルサレムは荒廃し、国は亡びる。マルコはその直前の60年頃に書かれた。戦争前夜の緊張感と不安が感じられる。「黙示録」として、「終末:世の終わり」について語られる。「終末」とは「神様の思いが具体化した『神の国』の実現する、希望の時(主の祈りの『み国が来ますように』)」とは言うが、今は「戦争」につながるものとして、正に、「世の終わり:この世界の滅亡」のような、不安と恐怖を感じさせるものとなる。戦争の恐ろしさと苦しみは、理念ではなく現実。戦争を前にして恐怖におののくのは当然。
*14章から本格的に、イエス様の受難の場面になる。13章はその直前なので、この説教は、イエス様の「遺言」ともいえる。そう考えると、自分の「遺言」として「自分のこと」ではなく「世界の終わり」について語るのは、興味深いと言える。
*時間の流れからすると、「イエス様の受難(30年頃)」→「エルサレム滅亡(70年頃)」となり、そして13章の最後には、「人の子は再び来る」と語る。そうすると、大きなメッセージとして、「あなた方は、私を失い、世界の終わりを体験し、苦しむ。けれども、私は再び来る。あなた方を一人にさせない、孤独にさせない」という希望を語るものになる。この後に語られるイエス様の受難が、決して絶望をもたらすものではない、ということを明らかにするメッセージとなるのだろう。
*ヘロデ大王が再建した神殿(ソロモンが創った第1神殿、バビロニアからの帰還後に再建した第2神殿に続き、境内を含んで大改装した第3神殿)は、遠くローマにまで名が響くほどの壮麗なものだった。石造りの巨大な建築物は、永遠に存続するものに見えただろう。イエス様は、この建物が、完全に破壊されることを予告される。
*マタイ、ルカと違い、マルコでは弟子たちが神殿を称賛する様子を記す。ここにも「使徒の無理解。使徒批判」があるのだろう。
*終末の徴は、大きく分けて4つ。(1)3-8a節。人心の乱れ。流言飛語。民族、国の対立。(2)8b節。天変地異。(3)9-11節。使徒、信徒、正しい人たちが迫害を受ける。(4)12節。内部分裂、対立。具体的である。
*今の私たちの世界は、正にこの状況にあると思う。日本が、今、以前のように裕福ではなく、様々な課題が山積し、不安の中にあることを、「有難い」とも思う。もし、「恵まれた」状態だったなら、イエス様のメッセージは私たちの心に響かなかっただろう。13章は、「今、私たちに語られたメッセージ」として、受け取らなければ。
*マルコは、ユダヤ戦争の前に書かれた。だからこれは「まだ見ぬ未来の予告」となる。ただ丁寧に読んでいくと、具体的な年号や人名が記されている訳ではなく、用いられている言葉も、旧約聖書からの伝統に元ずく表現出会ったりするので、「超能力で未来を垣間見た」と考える必要はない。現代の私たちが、「温暖化がこのまま進むと、地球が滅びる」と考えられるように。
*ただ、上記の(3)(4)は、既に行われていたのだろう。イエス様の昇天後、弟子たちは迫害を受けている。(使徒言行録4章・使徒が議会で取り調べ。5章・使徒たちへの迫害。7章・ステファノの殉教)
*3節・オリーブ山。マタイ、ルカでは、イエス様が祈る場所になっている。マルコでは、神殿に向かう場所。終末への緊迫感が高い。
*「取りに戻ってはならない。」津波の時には、アナウンサーがこのように叫んでいる。「妊娠中、子育て中の女性」「冬」の苦しみ。災害や戦争などの災厄の時には、実感する。今、私たちにリアルに感じられる言葉。
*イエス様の第一声は「逃げろ!」。どちらかと言うと「立ち向かえ」のようなガッツのある教えが多いように思うのだが、そのようなイエス様でさえ「逃げろ」としか言いようがない、危険な状態。個人の尽力ではどうしようもない苦しみの時。「今までなく…今後も決してないほどの苦難。」
*このような苦しみを、何か超常現象のように想像する必要はない。この現代にあっても、目を背けるような戦争の現実や、災害で生活の場を失い、飢え、寒さに震え、援助も十分ではない人々の姿を見る時、私たちは言を失い、あえて語れるのは「こんなひどいことがあっても良いのか」というような呻きだけ。「今後も決してないような苦難」が、何度も押し寄せ、身と魂を苦しめているのが、現実。
*そのような中で、どのような救いがあるのか。イエス様は言われる。「祈りなさい。」「選ばれた人。」「苦しみを縮める。」イエス様は、何とかして人々を慰め、絶望から救おうとされる。「気を付けていなさい。」「前もって言っておく。」という言葉も、戒めではなく、苦しみの極限にある人々への慰めの言葉として語られたのだろう。
*14節「荒廃をもたらす憎むべきもの…」これは、ダニエル9:27、1マカバイ1:54に記された、シリアのアンティオコス・エピファネスが紀元前170年頃に行った、神殿の凌辱、人々の虐殺、街の破壊を指している。マタイでは「預言者ダニエルの語った…」ルカでは「エルサレムが軍隊に囲まれる…」。マルコは「読者は悟れ」と語り、少しぼやかす。これは、ユダヤ戦争がまだ起こっていないから、具体的なことを明言できないことを示しているのではないか。
*18節「冬」:「寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜」(創世記8:22)。ユダヤの国でも冬は寒い。1月にはエルサレムで4度ほどまで冷え込むらしい。また季節は、雨季と乾季の二季で、冬は雨季に当たる。「恵みの雨」だが、時には大雨もあり、行動が制限されることもあるらしい。マタイでは並行箇所で、「冬や安息日」としている。
*天変地異。しかも、現実には起こりそうもない超絶的な様子。この「小黙示録」のクライマックス。現実離れした宗教的ビジョンの中に、現実離れした宗教的救世主が現れる。そこで、現実離れしたメッセージや超越的な救い、宗教虚団への帰依を語るのかと思えば、語られたのは、「選ばれた者を四方から呼び集める。」傷つき、四散した人々が再び終結するビジョン。これは、苦しみからの回復であり、現代の私たちの言う所の「復興」。イエス様のメッセージは、決して現実の人間の世界から遊離しない。
*今まで語ってきた「世界の終わり」が実行される日時を、明示しない。「植物を見て季節を感じるように、社会の動きを見て、心構えをしなさい」という現実的な教え。まだ戦争が起きていないマルコが、仕方なくごまかした、と言うならまだしも、既に経験したマタイ、ルカも、それを踏襲している。(宗教的権威付けをするなら、『○○年○○月に実現する』と言った方が良い。既に分かっているのだから。)これも、人々を現実から遊離させず、しっかりと地に足を付けて日常生活を送らせるため。
*そして「小黙示録」のまとめであり、最後の教えが、「目を覚ましていなさい」となる。これも現実的。
*これは、信徒への厳しい「戒め」ではない。「必ず私はあなたたちの元に戻ってくるから、希望をもって待っていなさい」というメッセージ。イエス様は、ただひたすら人々を慰められる。
*マタイ、ルカでは、「既に起きた出来事」を「事後予告」として語っている。それでも、マルコとほとんど同じ表現を用いているが、その中にも現実を経験したことを感じられる表現も散見される。マタイ24:15「聖なる場所に立つ」(マルコでは「立ってはならない所」。神殿の凌辱を明記。)24:25-26「メシアは荒れ野に。」「奥の部屋に」(実際に荒れ野で終結した反乱勢力や、暗躍する人々があったのかも)24:37「ノアの時」(戦争の後の町の荒廃は、洪水ですべてを押し流されたような状態だったのかもしれない。ガザでの地上作戦は、そのようなものだと聞く。朝鮮戦争の38度線付近、東京や大阪の大空襲、広島、長崎の爆心地など。)24:40「二人いれば、一人は取られ」(全く同じ状況に居る人々が、全くの偶然に【侵略者の胸先三寸で】連行される。朝鮮半島で、日本軍が、トラックで走って、手当たり次第に連行し、労働力として日本に連れてきたことがあるそうだ)24:44「人の子は思いがけない時に来る」(いつも戦争は、庶民にとって、突然やって来るもの)ルカ21:24「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる異邦人のもとへ連れて行かれる。異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる。」
*そして、マタイとルカは、まとめとして「忠実な僕と悪い僕」を記す。マルコでは、終末は「目の前まで来ている、緊迫したもの」。マタイ、ルカは「戦争は来たが、これは終末ではなかった。我々はまだ、終末を待たなければならない」として、日常的な信仰生活の大切さを教えるものとして、このメッセージを記す。
*そして、彼らが戦争を通して知った人間の姿。マタイ24:12「多くの人の愛が冷える」24:30「地上のすべての部族は悲しみ」残るのは、悲しみ。
*14章より、イエス様の受難物語に入る。全体で16章の内、2章分が受難物語。これを多いととるかどうかは各自の感覚だが、「外典、偽典」とされる「グノーシス」の諸文書には、受難はほとんど記されていない。そのことを思うと、「正典」聖書が、いかにイエス様の受難を重要視していたかが分かる。
*今までは、「この聖書の箇所がどのような意味を持つか」が大切だったように思う。これからは、「出来事その物に目を向ける」事が重要になる。酷い状況から目を背けず、人間の罪深さにしっかりと目を向ける。
*三つに区切られるこの物語は、実は「サンドイッチ構造」担っているとのこと。確かに2節から10節につながるのが自然(ルカではそのようになっている。)この構造では、サンドイッチする物語とされる物語が、実は同じない世を指していることを示す。それは、ここでは、イエス様の「死」。単に、家っ様を歓迎し、疲れを癒したいと思って香油を注いだ行為が、イエス様の解説によって「死の備え」となる。
*1節「二日前」:原文の読み方によって「二日前」とも「祭が翌日に迫っている日」とも、解釈できるらしい。ややこしい。ルカでは「祭りが近づいてきた」という表現にしている。
*2節「祭りの間はやめておこう」:とこら実際は、過越祭の真っ最中にイエス様の十字架が行われた。解説の本では、「イエス様の受難は、あくまで神様の計画であって、人間によって為されたものではないことを示すため」としている。
*9節「記念として語り伝えられるだろう。」:だが、この女性の名前はつ歌わっていない。後にヨハネでは「ベタニヤのマリア」、後の伝承では「マグダラのマリア」が行ったとされている。信仰を証しした女性の名前が伝承の中で忘れ去られる。このことを、フェミニスト神学で取り上げた研究がある(らしい。「彼女を記念して」)。
*辞書によると、過越しの祭は次のように祝われているらしい。ニサンの月の3日に、台所から酵母を除去。14日の夕刻から食事。祝福の祈り。第一の杯のぶど酒を飲み、手を洗い、祈り、苦菜に調味料を付け家族に食べさせ、「苦しみのパン」と呼ばれる「種なしパン」と小羊の肉を取り上げ祈る。第2の杯のぶどう酒を注ぎ、年長者に祭りの意味を尋ね、家長が祭りや食物の意味を説明し、杯を取り、祈ってから飲み、手を洗って祝祷。詩編を隊、苦菜、パン、小羊の肉を食べ、取り分けて置いたパンを人々に与え、第三の杯にぶどう酒を注ぎ、飲む。それから扉を開き、第四の杯をあげ、詩編を歌って、終わる。
*場所は自宅、司式は家長。祈りながら特別な食事をする。(ご近所のシナゴーグでは、近年、過越しの祭りに300名ほど集まるらしい。)
*もともとは、春分の祭り。大麦の収穫時期に祝われた「除酵祭」(収穫が忙しくてパンを発酵させる時間がない)と、牧畜文化から生まれた「過越し祭」(小羊の血を家の門に塗ったりする)が、一つとなり、「出エジプト」の出来事を記念する祭りになった。
*12節「除酵祭の第一日」:エルサレム滞在5日目(4日目は1節で表現)。
*13節「水がめを運んでいる男」:イエス様の協力者がエルサレムに居たのだろう。男性は「革袋」で水を運んでいたらしい。女性が用いる水がめを使う男性は目立った?何か事情があったのかもしれない。
*15節「2階の広間」:屋上に軽い建材で部屋を作ることがあったらしい(列王記下4:10)。
*20節「一緒に鉢に食べ物を浸している者」:とても親しい関係を表す。「同じ釜の飯を食った仲」。
*21節「災いあれ」:イエス様にしては厳しくキツイ表現。十字架を前にした苦しみを表現?「グノーシス」が、十字架の苦悩を軽視していることに対して、イエス様が如何に苦しまれたか、を表現している?どちらにせよ、sくなくとも、イエス様の人間としての正直な姿を見る。
*聖餐式の元になっている。イエス様の語られた言葉を「聖餐制定語」と呼ぶ(礼拝学界隈では)。1コリントにも「制定語」があり、祈祷書はそちらを用いている。
*上記の、「過越しの食事」の中で行われた。通常の「過越しの食事」に、全く通常ではない「イエス様の晩餐」が加わった。弟子たちにとっては、突然の出来事で、面食らい、その意味を理解することができなかっただろう。
*22,24節「肉、血」:「血肉」と言う言葉があるように、普通だと「人間」を指す。このパンとぶどう酒が、イエス様の全存在を指す、というように。それでも意味が分からない。「血」は、契約を指す(出エジプト24:8)。「イエス様がご自分の血で、神様と私たちとの新しい契約を結んでくださった」という信仰を表す言葉が「新約」。だから「旧約」と言う言葉はキリスト教独自のもの。私は「体と血」を、「イエス様の生き方と苦難」と説明している。
*「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」けれどもすぐに、「知らない」と言った。ただ、ペトロはみんなを代表しただけ。「皆の者も同じように言った。」そしてみんなも逃げて行った。誰も申し開きはできない。自らの罪深さを見つめざるを得ない。
*28節「私は復活した後…」:これは、キーワード。後からの追加かもしれない。けれども、今までの予告でも、復活が語られ、そしてその言葉弟子はを着に掛けなかった。「復活」の一言ですべては変わる。たとえ、苦しみは消えなくても、希望は生まれる。
*「私は死ぬほど苦しい。」「過ぎ去らせてください。」「アッバ父よ!」イエス様の、赤裸々な祈り。「ここに座っていなさい。」一緒に居てほしいと、弟子たちに助けを求める。けれども寝てしまう弟子たち。一人で苦しむイエス様。
*41節「三度目に」:3回祈る、というのは、祈りの切実さを表し、また神様もそれにこたえてくださる。(「…私は三度主に願いました。所が主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。」2コリント12:8-9)イエス様の祈りへの神様の答えは、変わらぬ十字架のさだめだった。
*イエス様への暴力が具体的に動き出す。イエス様は言う。「聖書の言葉が実現するためである。」ゲッセマネの祈りで得た答えなのかもしれない。
*44節「接吻」:「聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい。」(ローマ16:16)これは、軽いキス。この時、ユダがしたのは、真心からの情熱的なキス。愛する者同士が行うキスを、裏切るために用いた。
*マルコにしかない記事。内容は、誇れるようなものではない。罪深く、みっともない話。私はこの若者が、この福音書の作者ではないかと考えている。自分の罪深さを懺悔し、その罪が復活されたイエス様によって赦された恵みをもって、この福音書を書いた。
*「最高法院」:ヘブライ語で「サンヒドリン」と言う。大祭司を議長とする71名から構成されていた。旧約の時代にその兆しを見ることができるが、正式に創設されたのは、旧約から新約の間の時代と考えられる。聖書にはその姿をたびたび見ることができ、使徒言行録で使徒たちを尋問したり、ステパノを取り調べたり、パウロに教義を確認したりするのが、これ。イエス様の裁判は、祭司や貴族が中心と思われるが、パウロの時には、ファリサイ派やサドカイ派で意見が割れたとも記されている。のちの時代には、「政治的」「宗教的」の2種類があったとも考えられている。エルサレムが破壊された後も、離散の地で、5世紀ごろまで存続した。
*通常は神殿の一室で審議された。今回は大祭司の館で行われた。しかも時間は夜中。正規の儀かいと言えるかどうか分からない。死刑判決には3分の1ほどの同意が必要とされた。イエス様の裁判は、「結論ありき」のものであり、「偽証」など、なりふり構わぬ不正が行われている。最後のイエス様の言葉も果たして「冒涜」と断言できるものかどうか分からない。マタイでは「それはあなたが言っていることだ」、ルカでは「私がそうだとは、あなたがたが言っている」として、決定的な発言ではないことを示している。どう見ても、不正な裁判による「冤罪」。
*情景が目に浮かぶような場面。中庭まで侵入していったペトロの勇気も、見つかった時の焦りも、「つい」イエス様を知らないと言ってしまったことも、その気持ちはよく分かる。ペトロの言動は、私たちの言動。ペトロを通して、私たちの罪深さが明らかにされる。
*71節「呪いの言葉さえ口にしながら」:「もし、真実を言わないならば呪われても良い」という意味。「針千本飲ます」。徹底した否定に変わりない。
*イエス様の十字架の場面。すべてを通して、イエス様が「神の子」であることを示そうとしている。
*1節「夜が明けるとすぐ」:14:53から続いていた最高法院が、「ペトロの否認」という出来事を挟んで、夜明けまで継続していたのだろう。ルカでは、最高法院は夜が明けてから始まっている。ルカの方が現実的な気もするが、マルコのように夜中から始めるのも、イエスを陥れるために虎視眈々と準備をしていた祭司長たちの邪悪さが示されていて、どちらが事実だったのかは分からない。
*2節「お前がユダヤ人の王なのか」:ピラトとのやり取り。最高法院でのやり取りと同様、「それはあなたが言っていることだ」というイエス様の答えは、イエスなのかノーなのか分かりにくい、あいまいなもの。ただ、マルコにとってはこのやり取りが重要。イエス様は「ユダヤ人の王」として、もしくは「ユダヤ人の王」と人々に思われた状態で、殺された、と言うことを示したい。
*3-5節「イエスはもう何もお答えにならなかった。」:2節ではイエス様は答えている。このままの流れだと、ピラトとやり取りしていたイエス様が、急に黙り込んだように見える。本当は、2節のやり取りは、必ずしも最初になされたのではなく、総督官邸のどこかでなされた(最高法院でのやり取りが、取り調べの最後になされたように)。けれどもマルコが「ユダヤ人の王」と言う言葉を強調したくて、このように編集した、と考えられる。
*32節では、「イスラエルの王」という言葉がある。きっと、意味合いが違う。「ユダヤ人の王」は、政治用語。ローマ帝国の管理下にある状態でのこの言葉をは、ローマへの反逆、反乱の指導者を指す。「イスラエルの王」は、宗教用語。宗教的な救い主としてユダヤ人を救うことを期待される言葉。イエス様は、この二つの「王」の名を冠せられ、そしてその双方において否定され、殺された。逆説的に、政治的(現実的)にも、宗教的にも、人々を救うメシアであったことを表現している。
*ピラト:「買収、暴行、略奪、虐待、挑発、裁判手続きなしの絶え間ない処刑、意のままの最もひどい残虐行為は日常茶飯事であった。」(フィロン『使節』ヘロデ・アグリッパが皇帝カリグラに送った手紙)ピラトはユダヤ人に対する愛を一切持ち合わせていない、大変ひどい統治者だったようだ。皇帝崇拝を表現する貨幣を発行したり、同様のデザインの軍旗を神殿に持ち込み、ユダヤ人の宗教感情を逆撫でし、挑発している。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた。」(ルカ13:1)彼の残虐さを、聖書記者も知っていた。そのような彼を、イエスの無罪を信じ、何とか釈放しようと尽力する善人(のようなもの)に表現したのは、迫害の危険を感じた初代教会が、ローマ帝国に対して少しでもすり寄ろうとしたのか、それとも、ちょうどそのころ反ユダヤ主義の上司が失脚して窮地に追い込まれたピラトが、何とか自己保身を図ろうとしたのか、事実は分からない。
*祭りの時に恩赦を出したという記録は、聖書以外には残っていない。だから事実は分からない。バラバは、マタイでは「バラバ・イエス」となっており、「聖書の中のイエス」の一人となっている。「バラバ」の名前の意味は「父の息子(バル・アッバ)」(バルは息子の意味。かつて私が言っていた「ベン」は違いました。すみません。「ベンジャミン(ベニヤミン)」の略称、愛称かもしれません。)
*イエス様の受難では、「人々の罪、イエス様の孤独」が特に強調されている。ここでは人々はイエス様を「十字架につけろ」と叫んでいる(つい数日前は「万歳」と言っていたのに。)祭司長たちは嘘をつきイエス様を陥れ、ピラトは人の命に関わることなのに優柔不断で日和見、兵士たちは具体的な暴力を残虐に行う。そして、何も言わず、何も抵抗しない(できない)イエス様。
*15節「鞭打ってから」:むち打ちは非常に残酷な刑。柱などに縛られ、骨や金属の付いた皮の鞭で打たれる。
*「兵士」はローマ帝国下で募集された兵士。傭兵のようなものか。ピラトの管轄下。「部隊」はローマの歩兵隊。レギオンの十分の一。200-600人。
*16節「総督官邸の中に」:それまでの裁判は外で行われていた。遠山の金さんの「お白洲」のようなもの?
*1980年代、南米では軍事独裁政権が人々を抑圧し、民主化運動を支援した教会も迫害されていた。ある司祭は、軍に逮捕され、式服を着せられチャージブルを着せられて、ミサをしているような格好で、拷問を受け、後に精神に異常をきたした。残虐な行為は現在でも行われている。
*21節「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」:この3人とも、後に教会の主要なメンバーになったのだろう。だからほぼ何の説明もなく名前が記されている。畑からの帰り(もしくは田舎から出てきたところ)で、ローマ兵に無理やり十字架を担がされる。庶民の苦難に理由はなく、迫害する者の気まぐれ、残酷な偶然によって苦難を受ける。
*23節「没薬を混ぜたぶどう酒」:あまり効果はなかったようだが、麻酔剤として鎮静の効果を狙ったもの。「麦の酒は滅びようとする者に、ぶどう酒は苦い思いをかみしめる者に与えなさい。飲めば貧しさも忘れ、労苦も思い出さなくて済むでしょう。」(箴言31:6-7)この聖句の成就と見たかどうかは分からないが、この場面を見た者はこの聖句を思い出しただろう。
*十字架は、刑場に縦木が設置されており、受刑者が横木を担いで刑場に向かう。
*午前9時に十字架につけられ、正午に空が暗くなり、午後3時に絶命する。3時間ごとに区切られている。そのような礼拝があったのかもしれない。(聖公会で最も長いのは、多分3時間礼拝。十字架上の七聖語の黙想が中心の礼拝。)
*全ての人がイエス様を攻撃し、誰一人イエス様を守る者、同情する者は居ない。ルカのように一緒に十字架につけられた人の信仰告白はなく、ヨハネのように愛する弟子と母親との交わりもない。沿道の人々との会話もない。イエス様は全くの孤独。
*34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」アラム語。マルコにのみ、イエス様が使っていたアラム語が記されている(『タリタ、クム』『エッファタ』)
*35節「そら、エリヤを呼んでいる。」:「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか。」(9:11)メシアの先駆者としてエリヤが来臨するという期待があった。エリヤは聖書の中でも数少ない、肉体の死を経ずに天に昇った者。伝説的、神話的人物。
*36節「海綿に酢を含ませて葦の棒につけてイエスに飲ませ」:酸いぶどう酒(オクソク)は、水と酢と卵を混ぜた飲み物で、兵士が元気を回復するために飲む。マタイでは、イエス様に酢を飲ませる人と、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言う人とは、別人物。その場合、巣を飲ませようとした人は、イエス様を元気づけようとする人になる。ある意味同情的。けれどもマルコでは同一人物。その場合、この酢は「気付け薬」のようなものになり、気絶しようとしているイエス様の目を覚まして、苦しみをより増す行為となる。人々の罪とイエス様の孤独が、より強調される。
*女たちは、十字架を見守っていた。男の弟子たちは、全て逃げた。
*39節「まことに、この人は神の子だった。」:何を見て「神の子」と実感したのだろうか。発言者はローマ兵。ユダヤ教の素養はないので、「旧約聖書の成就」という考えはなく、普遍的な人間的感情だろう。この場にあるのは、人々のイエス様への容赦ない攻撃と、無抵抗なイエス様の姿。これはよくある場面。体力のある受刑者なら、恨み言や反論、不正を訴える声も挙げられようが、体力のない者だと、無言のままだっただろう。イエス様にだけあったのは、神様への呼びかけと、神様へのまなざしだったのかもしれない。十字架の時、イエス様は誰とも喋らない。もしかしたら誰の姿も見ていなかったのかもしれない。ただ最後まで、神様には語り掛けていた。それが、「なぜ私を見捨てたのか」というものであったとしても、神様に直接語り掛けていた。ローマ兵はそこに、イエス様が持つ神様との絶対的な関係性と、神様の絶対的な存在感を感じたのかもしれない。
*「神の子」:「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」(1:11)これはイエス様が活動を始めた時、洗礼の場面での神様の言葉。イエス様の生涯は「神の子」という宣言で始まり、終わった。神様の声は、イエス様に向かって語られた。ローマ兵も「イエスに向かって立っていた」(39節)なので、死後のイエス様の耳に聞こえていた。「神の子」で貫かれた生涯だった。
*37節「大声を出して」:その内容は記されていない。最後の謎。
*43節「アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き」:今、「ローマへの反逆罪」で死刑になった人の遺体を引き取る、と言うのは、大変危険な行為。「思い切」らないとできない。
*44節「もう死んでしまったのかと不思議に思い」:通常、十字架刑は2-3日で絶命する。元大工で30歳ほどの、最も体力のある人物が、数時間で絶命したことは不思議な事。十字架に至るまでのイエス様の精神的、肉体的苦しみが死期を早めたと思われる。
*「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。」(ヨハネ19:34-35)これは、「心臓破裂」の状態らしい。十字架の苦しみがどれほど大きなものだったかを思う。
*イエス様の復活の場面。「十字架と復活」は、キリスト教信仰の中心であり根本であり前提。けれども私たちは、それを十分に理解できていない。「幽霊みたいに甦った」のか「宗教的権威付けのための宣伝」なのか「イエス様の生前の意思を受け継ぐ者が現れたことを表現している」のか、それとも、それ以外なのか。
*復活は、不可思議であり、非合理的であり、説明のつかないもの。では「復活はない」と言ってみたらどうなるか。それも、嘘のように思える。感情的に考えて、「復活」を黙想すると、温かい気持ち、嬉しい気持ち、優しい気持ちになる。私たちが考えるより、穏やかな感情、生き方の中で、復活が為されるのかもしれない。
*だとすると、復活は、一回限りのものではなく、何度も何度も私たちに押し寄せてくるものなのかもしれない。私たちの人生の中で、「これが復活かもしれない」「今、復活に出会ったような気がする」というようなものが、いくつもあるのかもしれない。
*「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなた方の信仰も無駄になります。」(1コリント15:14)と、宣教に命を掛けた、あのパウロが言っている。「パウロの働きは偉大だけれど、彼の言うことは嘘」とはならない。私たちも、「復活」にしっかりと向き合わなければならない。
*イエス様を葬った墓の中にいた若者の言葉から、「復活」について考えたい。
+「驚くことはない。」復活は、日常生活の中で出会い、味わうもの。
+「十字架につけられたナザレのイエス」復活は、十字架とカップリングされているもの。また復活は、イエス様の地上の生涯と結びついているもの。
+「ここにはおられない。ごらんなさい。」イエス様は、墓にはおられない。既に新しい局面に入っておられる。過去、現在ではなく、未来に復活はある。
+「弟子たちとペトロに告げなさい。」逃げてしまった弟子たちに、復活の知らせを届ける。和解。壊れてしまった絆を、新たにつなぐ。
+「先にガリラヤに行かれる。」イエス様の生涯においては、ガリラヤで民衆を癒し、交わり、エルサレムで権力者と論争し、十字架につけられた。復活は、人々との愛の交わりの中にある。
+「かねて言われていたように。」復活は、イエス様の言葉の成就。また、イエス様より以前の、旧約の言葉の成就。長年人々が待ち望んでいたものの成就。
+「お目にかかれる。」私たち一人一人が、イエス様と再会する。又は出会う。
*1節「安息日が終わると」土曜日の夕刻以降に、弟子たちは香油を買い求めた。
*「サロメ」洗礼者ヨハネを死に追いやったあの彼女ではない。
*2節「週の初めの日」日曜日。「安息日」は、主に土曜日(金曜日夕刻~土曜日夕刻)。日曜日はどこまでも「主が復活された日」だから、キリスト教では「主日」と呼んで大切にする。
*4節「目を上げて」墓が、小高い所にあったか?同時に、イエス様の十字架に沈んだ心を抱えた弟子が、復活を前に、心も上向きにされたことを示唆しているのかもしれない。
*5節「白い衣を着た若者」いかにも天使の姿だが、そうは書かれていない。正体は不明。
*5節「ひどく驚いた。」8節「恐ろしかったからである。」神様に出会うのは、畏れを伴う。旧約聖書では、「神を直接見ると命を落とす」という記述がある。命を落とすほど恐ろしいのが、神様との出会い。
*8節「恐ろしかったからである。」ここで終わっている。突然の終了のように感じる。ただ、「外典、偽典」の中には、唐突に終わるものが多い。現代の私たちほど、違和感はなかったのかも知れない。突然の終わりによって、「余韻」が生まれるのかもしれない。復活したイエス様が、私たちの日常生活の中におられる、と感じたのかもしれない。
*とは言え、後の読者にとっては「余韻」で片づけられるものではなかったのだろう。5世紀以降の写本には、「結び」が追加されたものが多い。それらは、並行箇所のメモにもあるように、他の福音書と共通している物語が多い。
*9節~「マグダラのマリアに現れる。」イエス様の復活に最初に出会ったのは、女性の弟子。男性中心の社会の中で異彩を放つ。けれども、教会は、すぐに男性中心になった。
*12節~「二人の弟子に現れる。」ルカの「エマオの途上」を思い出させる。
*14節~「弟子たちを派遣する。」マタイの「宣教命令」を思い出させる。
*19節~「天に上げられる。」使徒言行録の「昇天」の場面を思い出させる。
*「イエスご自身も、彼らを通して…福音の言葉を広められた。」イエス様が、私もに居てくださることを、端的に表現した言葉。個人的に大好き。
《「復活」とは何か。》
*ある辞典には、「復活の証拠」として、以下の諸点を挙げている。
1)弟子たちが、失望のどん底から立ち上がった。十字架を前に逃げ出した弟子たちが、殉教をも恐れず愛の福音を宣べ伝える者となった。
2)「イエスの墓が空だった」については、キリスト教に反対するユダヤ教ですら主張している。(弟子たちがイエスの死体を盗み出した、と触れ回っている、とマタイ28:15に記されている。反対に「ここがイエスの墓だ」と言う意見は、現代の考古学的意見以外には無い。)
3)「復活されたイエスに出会った」という意見が多数。特にパウロは、1コリント15章で、復活されたイエス様が多くの弟子たちに現れたことと、そして自分にも現れたことを、記している。自分で経験したことだから、力強く証言している。
4)日曜日を「主日」として守ることが、異邦人クリスチャンだけでなく、今までずっと「安息日」を守り続けてきたユダヤ人クリスチャンにおいても行われてきたこと。これは、日曜日を「イエス様が復活された日」として大事にしていたから。
*復活が「ゾンビ」のような「死体の蘇生」ではないことは明らか。少なくとも「ゾンビ」は嬉しくないし、希望にも、信仰にもならない。
*聖書を読んでいると、様々な「復活」の姿を見る。ある時は「壁をすり抜ける」ように「幽霊」のような物質を超える姿に。ある時は「一緒に魚を食べる」ように、肉体を持った姿に。ある時は、一緒に歩いていても気づかないほど、生前とは全く違う姿に。ある時は「何百人の人に同時に現れる」という、b釣り法則を超えた姿に。
*ただ、どの記述を見ても、イエス様の「復活」は、全て、人類にとっての「希望」「喜び」「新たな生きる力」「信仰」。どうも、物理的、科学的「証明」にはあまり関心がなく、私たち一人一人にとってどういう意味があるかという「実存論的」なあり方を示しているように思う。
*「復活」のヒントになるような作品。
「生ましめんかな」こわれたビルディングの地下室の夜だった。原子爆弾の負傷者たちは、ローソク一本ないくらい地下室をうずめて、いっぱいだった。生臭い血の匂い、死臭。その中から不思議な声が聞こえてきた。「赤ん坊が生まれる」というのだ。この地獄の底のような地下室で、今、若い女が産気づいているのだ。マッチ一本ない暗がりでどうしたら良いのだろう。人々は自分の痛みを忘れて気遣った。と、「私が産婆です。私が産ませましょう」と言ったのは、さっきまでうめいていた重傷者だ。かくて暗がりの地獄の底で新しい生命は生まれた。かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。生ましめんかな、生ましめんかな、己が命捨つとも。(栗林貞子)
「酋長シアトルのメッセージ」大気は人にとって貴いものである。なぜなら、すべてのものは、一つの息を呼吸しているのだから。獣、木、人、みんな同じ息を分かち合っている。…我々の先祖にその最初の息を与えた風は、又、最後に吐く息を受け取ってくれる。そして、風は我々の子にもまた、生命の息吹を与えてくれるにちがいない。(『生命の織物…先住民族の知恵』女子パウロ会)
*自分の生命が、自分一人だけのものではなく、誰かにつなっがてゆく。誰かを生かしてゆく。そのことが、自分の幸せになる。
*今、この世界が、とても悪いものであったとしても、生命のつながりに、新たな希望を見出すことができる。
*このあたりに、「復活」の神秘に出会うヒントがないだろうか。