熊本明治地震で活躍した学者

熊本明治地震で活躍した学者

(小藤文次郎,関谷清景,長岡半太郎)


明治22(1889)年7月28日,熊本地方を震源とするM6.3の直下型地震が現熊本市域を襲った.(注 市町村合併後の政令都市に当たる)

金峰山(西区)山麓の被害が著しかったため,一ノ岳の金峰山が噴火するとの噂が立ち,市内は混乱をきわめた.

九州日々新聞によると,「熊本全市は今にも火石の下に埋まる」という奇怪な風説が流伝したため,8月3,4両日は人力車や荷車を雇って山鹿,宇土,甲佐,八代付近まで避難する人達で交通が混乱した.熊本市民の三分の二程度が一時的に近接町村に避難したと書かれている.そのため,各往還は隙間のない状態になった.熊本震災日記(水島貫之)には「大道更に寸隙もなかりし」と書いている.そのため,車馬代が大幅に高騰した.人力車の場合,宇土町へは1円50銭,山鹿町へは3円(午前は50銭,午後には5円出しても行けなかったという),荷車1台は八代まで7円に高騰した.時に乗じて金儲けするため,噴火説を意図的に流布する者まで現れた.注)米10kgの価格は50銭前後,巡査の初任給8円

金峰山 標高665mの一ノ岳を中心とする二重式火山,熊ノ岳(二ノ岳),三ノ岳,荒尾山などの外輪山の総称


混乱が収まったのは,地質専門家が来熊し,現地実査後の八月五日頃である.

八月一日に熊本に入った理科大学教授理学博士小藤文次郎氏の果たした役割は顕著であった.氏は農商務省の嘱託を受け地質調査のため,大分県へ出張し,当時臼杵の温泉に滞在中であった.熊本の被災を聞き,4日後には来熊している.東京から派遣された役人よりずっと早く熊本に入り,金峰山カルデラを調査し,一の岳(金峰山)噴火の可能性を否定した.


「熊本明治震災日記」には次のように書かれている.以下褐色文字は原文

去る29日櫻井地理局長より実況取調べの為め,馬場属を派遣せらるるとの返電ありし由を聞しより市内の人民は其来熊を待つや病患者かねどこにありて医の来るを待と同一なる有様なりしが理科大学教授理学博士小藤文次郎氏は農商務省の嘱託を受け地質調査として大分県へ出張し当時臼杵の温泉に滞在中今回の地震に遭遇せられ熊本県下震災の甚しきを伝聞し其模様取調の為め同地出発急行して本日夜に入り来着せられたり前に述るがごとく30日に京地出発を報せし馬場属の着熊は今一両日の後にあるべしと指折り算へて一日千秋の思ひをなし待居りたる市民にして忽然小藤博士の来熊を聞きし歓声は家々戸毎に喧ひすしき程なりき同氏は当夜下通町山本屋に投宿せられたり.


7月30日 県庁の臨時第一号報告は,金峰山で見られるような被害個所は他県にはなく,その筋に調査を依頼,精確なことは追って示すという内容.

熊本縣臨時第一報告(表記 カタカナ,旧漢字)

去廿八日以来の地震に付ては種々取調尚九州各県へも照会を遂ぐ候處何れも多少の震動は有之趣に候得共本県金峯山最寄の如き裂け地等多き場所は無之付ては至急其筋へ調査方請求致置候に付追て精確の義可相示候得共一応為心得此旨広告す

明治二十二年七月三十日 熊本県


7月31日 真夏でもあり,腐敗,汚物等に起因する食中毒の注意を喚起

熊本縣臨時第二報告

去る廿八日以来の地震に付道傍空地等に避け居るもの少なからず候處夫が為め日光にさらされ雨露にうたれ又は裸体にて臥し不塾若くは腐敗に傾きたる物を食し汚濁せし水を飲む等のこと之ありては健康を害するの恐れ有之に付屋外に在るものは日光雨露を防ぐの装置をなし且一般に飲食物には特に能く注意すへし此旨広告す

明治二十二年七月三十一日 熊本県


8月4日 小藤博士の報告では,二の岳周辺を注意すべきと指摘した.

熊本縣臨時第三報告

小藤理学博士来県に付地震の原因調査を託し昨三日より実査に着手せしに本日出張警部通報によれは二の嶽最寄少しく怪しむへきの形跡あり尤今俄に破裂するの見込にはあらざるも終に破裂せさるを保し難しと言ぬ依て該最寄村落人民に立除きを命するの場合あるを計り難くに付今其準備をなせり猶確たる報告を得更に広告すへし

明治二十二年八月四日 熊本縣


8月5日 小藤博士は,鳴動,小震に止まり大事に至らないとの報告

熊本縣臨時第四報告

地震の原因調査の為め出張中の小藤理学博士より左の通知を得たり原文の儘之れを広告す

明治二十二年八月五日 熊本縣

當維摩の地下不穏は西山山?の西北部に存するがごとく想像す然れ共其不穏たる単に鳴動小震に止り大事に及ぶべき徴候を見す

八月四日午後十時 玉名郡小天村滞在 小藤文次郎

富岡敬明 殿


熊本縣臨時第五報告 噴火の兆候はないとの報告

小藤理学博士帰熊に付調査の模様を聞に今暁第四号報告の通目下破裂の兆候なし此旨広告す

明治二十二年八月五日 熊本縣


29日に櫻井地理局長から電報を以て通知のあった内務省地理局属馬場信倫氏は一名の従者を連れ,5日午前九時長崎より来着.来熊の遅延は,内務省気象台員として長崎及び対州厳原の測候所へ出張の途中,急遽予定を変更して長崎から来熊したためであった.6日には金峰山の近傍を調査し,一連の巡視終了後九州日々新聞に,「謹て市民諸氏に乞ふ」と題した一文を寄せている.その中で,金峰山の噴火の危険はないことを説明し,最後に「徒らに車屋の懐ろを肥し賜ふな」と書いている.


8月8日 調査に長岡半太郎氏が参加

理科大学物理学講師理学士長岡半太郎氏は當地地震に就き研究の為め一己人の資格にて今夕来熊ありし


8月9日 理学士長岡半太郎氏が来熊し,9日から西山地方の調査を開始.関谷教授が病気療養中のため,ひとり早く来熊して下調べを開始している.

帝国理科大学生長岡半太郎氏は近々当地へ出張さるべき関谷博士に随行さるへき筈なりしを一刻もはやく現場を見たきものと先立て来熊され本日より日々西山に向け出張さるる筈のよし云々(海西日報)

8月11日 理科大学教授関谷清景教授が当地に来着している.氏は肺病に罹り当時熱海で療養していたが,帝国大学の命で震災調査のため来熊した.明治21年7月15日噴火した磐梯山を調査した有名な学者であり,小藤博士が来県した際直ちに電報で来臨を要請し,県も強く要望した.


8月14日 第五高等中学校教頭は関谷氏の機器を使って西山を調査

第五高等中学校教頭西村貞氏外三四名の教諭は兼て関谷氏より借用依頼ありし器械を携へ本日西山へ趣きたり


8月15日

内務省技師補佐金田猶太郎氏地質調査の為め且今回當縣地震実査をも兼ね本日長崎より到着せられたり


8月17日 長岡理学士は,熊本以北の都市の状況を調査した後,故郷の大村へ赴き帰京した.

長岡理学士には今回の震動の多くは北方にある模様あるより実査の為め本日当地出発柳川佐賀を経て氏の故郷大村へ趣き格別の異状なければそれより直ちに帰京の途に就かるるより云々(海西日報)


小藤博士は,8月いっぱい精力的に西山の実地調査を実施し,金峰山噴火の可能性はないことを市民に示し,長崎,佐賀,久留米などを経て帰京した.

熊本地震は地震学会が1880年に発足してからはじめて都市を襲ったものであったため,学会も力を入れたものと思われる.小藤博士は地震の四日後に熊本に入り,直ちに,前年噴火した磐梯山の調査を行った関谷教授に来熊を依頼している.小藤博士は二年後の1891年濃尾地震の際には,発生から約2週間後に現地入りして調査を行い,後にその結果から断層地震説を発表している.関谷教授は病気療養中にも関わらず,機器を携えて来熊し,実地調査を行った.その後の活躍が期待されていたが,7年後に肺病のため40歳で病没した.

長岡半太郎氏(当時24歳)は,個人の資格で熊本地震の調査に参加し,両教授を助けている.後に物理学者として多くの業績を残し,1937年に初代文化勲章を受章,昭和14(1939)年にはノーベル賞委員会に湯川秀樹を推薦したことで知られている.


関連コラム

熊本明治震災当日の様子

明治22年熊本地震(液状化の事実)

明治22年熊本震災_市街地の被害


資料

小藤文次郎 - Wikipedia

安政3年3月4日〔1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年 〕3月8日)

関谷清景 - Wikipedia

安政元年12月11日(1855年1月28日) - 明治29 年(1896年)1月8日)

明治時代に,地震観測網の必要性を提唱するなど,現代地震学の基礎を作り上げた.日本初の地震学の教授.磐梯山噴火の際には,現地アンケート調査を実施した.

長岡半太郎 - Wikipedia

1865年8月19日(慶応元年6月28日) - 1950年(昭和25年)12月11日)

土星型原子モデルを提唱.東京帝国大学教授として多数の弟子を指導,初代大阪帝国大学総長,帝国学士院院長などの要職も歴任.1937年(昭和12年),初代文化勲章受章.正三位勲一等旭日大綬章追贈.

東京帝国大学教授を定年退職したあとも理化学研究所主任研究員として研究を続ける一方で,次の要職を歴任した.

• 1931年-1934年 初代大阪帝国大学総長.• 1934年-1947年 貴族院議員(帝国学士院会員議員).• 1939年-1947年 日本学術振興会理事長.• 1939年-1948年 第13代帝国学士院院長

1937年に初代文化勲章を受章.

1939年(昭和14年),スウェーデンのノーベル賞委員会に湯川秀樹への授賞を推薦した.第二次世界大戦を挟んだ10年後の1949年(昭和24年)に実現し,湯川は中間子理論が認められて日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞した.