MOPACの問題点ー反応の再現

(allyl thiocyanateの [3,3]-転位,半経験的分子軌道計算の限界,存在性)

アブラナ科野菜に含まれるイソチオシアネート類ついては以前紹介した

もっとも知られているのは,マスタードやワサビなどの辛味成分であるアリルイソチオシアネート (Allyl isothiocyanate, AITC) である.

AITCは,塩化アリルとチオシアン酸カリウムの反応によって合成され,広い用途に使用されている.

反応式は一般に以下のように書かれているが,

CH2=CHCH2Cl + KSCN → CH2=CHCH2NCS + KCl

実際は二段階の反応である.

CH2=CHCH2Cl + KSCN → CH2=CHCH2SCN + KCl

CH2=CHCH2SCN → CH2=CHCH2NCS

蒸留する時の熱で allyl thiocyanate から 熱力学的に安定な allyl isothiocyanateへ転位する.

本反応がイオン反応であるか,あるいは協奏反応であるかについては種々の議論がなされたが,3-methylallyl-体から 1-methylallyl-型の転位体のみが得られることなどから,遊離イオンやイオン対を経由するイオン的な反応ではなく,協奏反応であるとの見解が一般的になった.

CH3-CH2=CHCH2SCN → CH2=CHCH (CH3) NCS

その後,Woodward-Hoffmann則や福井兼一博士のフロンティア軌道論が登場すると,周辺環状反応の一つである [3,3]-sigmatropy 反応であり,反応機構的には Cope 転位や Claisen 反応等と同類の反応として整理された.その遷移状態は電荷の偏りがなく,反応に関与する電子は環状に非局在化しているため,下図に示すように描かれる.

イオン的な反応の場合

この種の反応は溶媒の極性の影響を受けないため,その遷移状態構造は分子軌道計算で算出可能である.そのため,活性化エネルギーの実験値(温度を変えて反応速度を測定する)と比較して,反応障壁の再現性チェックに用いられている.

私は O-allyli S-methyl dithiocarbonate とallyl thiocyanate の [3,3]-sigmatropy 反応を半経験的分子軌道計算プログラムの改訂版が発表される度に,その検証のために使用している.その理由は,半経験的分子軌道計算プログラムは炭素以外の原子を含む分子の再現性にやや劣る傾向があるからである.d軌道については一部の手法を除き考慮されていない.その代わりにパラメータを調整して実測値を再現するように工夫されているが,こちらを立てればあちらでは辻褄が合わないといったことが起こる.

半経験的分子軌道計算による予測

Allyl thiocyanate 程度の分子なら,パソコンで1秒以下で構造の最適化計算ができる.環状遷移状態も容易に探しだすことができるので,おそらく上記の協奏反応であることは確実だが,残念なことに「転位反応は起こらない」という矛盾した予測になってしまう.すなわち,転位前の thiocyanate の方が安定というわけである.AM1, MNDO, RM1, PM3, PM6, PM7の全てにおいて同じ結果であった. 注)遷移状態であることは振動計算で証明できる.

非経験的分子軌道計算,密度汎関数法による予測

比較のために,非経験的分子軌道計算を行ってみた.もっとも低級な STO-3G を除き,転移反応が起こることが予測できた.転位体の方がずっと安定であることが分かる.1998年のノーベル賞の対象になった密度汎関数法 (B3LYP/6-31G*) では,転位すると,12 kcal/mol 程安定化すると予測した.

今回例示したような簡単な自然界の転位反応について,最新の半経験的分子軌道計算でも相対的な安定性を予測できなかった.計算化学を用いて反応機構を解明しようとすると,まずこのような問題にぶつかってしまう.限界を感じて諦めてしまう人が多いが,真髄を極めようとすると半経験的分子軌道計算より何百倍,何千倍も時間を必要とする非経験的分子軌道計算を実行できるハードウエア環境とソフトウエアが必要になる.

投稿論文で,偶に見掛ける半経験的分子軌道計算による化学反応の再現実験?はサクセスストーリーの一部でしかない.今回のような事例は論文にならないので,埋もれてしまっていることが多い.このような場合は,半経験的分子軌道計算法 (MOPAC) の改善を行っている James Stewart 先生に報告すると,検討項目のリストに入れておいてくれる.最近,MOPACのパラメータの改善は,実測値の代わりに非経験的分子軌道法や密度汎関数法の計算結果を参照にしているので,大いに役に立つはずである.

半経験的分子軌道計算の存在性

今回のように,反応を再現できないケースもあるので,MOPACは必要ないかというとそうではない.現在は,非経験的分子軌道計算の入力構造データを得るための予備的な計算手段として重宝されていると言っても過言ではない.一昔前の力場計算(MM)の位置付けと似ているが,MMとは比べものにならないほど適用できる化合物の範囲が広い.さらに,非経験的分子軌道計算では大きすぎる生体高分子(小さいタンパク質等)の分子軌道計算に際し,遠距離の原子間相互作用をカットオフする手法を用いて計算時間を大幅に短縮する計算法が実用化されている.さらに,フロンティア軌道論でHOMO, LUMOのエネルギーや位相等を知るには半経験的分子軌道計算で充分である.

資料

Stewart Computational Chemistry - MOPAC Home Page

PM6に関する論文 (PDF) リンク切れ

MOZYME 大きな分子のSCF計算を高速化するためLMO法を用いる手法.最近のMOPACにはキーワードとして組み込まれている.

半経験的分子軌道計算法の問題点(メモ) リンク切れ