藤崎八旛宮

藤崎八旛宮

藤崎八籏宮例大祭がやってきた.熊本には「随兵寒合(ずいびょうがんや)」という言葉があって藤崎八旛宮秋の例大祭を境に暑さが和らぎ,朝晩が冷え込んでくると言われている(注 八籏宮と書くのは当社だけ,大きな「はた」を意味する).

肥後国誌には,「藤崎」は「藤鞭」に由来すると記されている.

「当社鎮座の日,勅使持る處の藤枝を三つに折て三所に埋み,神霊若し威格あらは必す奇瑞あらんと此所に挟たる藤鞭,即ち枝葉を生す.故に名けて藤崎と云.其藤今に存す」(注 奇瑞:めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象)

古い文書では,藤崎八籏宮を「藤崎」とだけ記述したものもあり,熊本の歴史のあちこちに登場する.藤原元輔は,肥後太守として在国の時(寛和2年 986年正月),子の日の遊びの際に,「藤崎の軒の岩ほに生る松今幾千代の子の日すくさむ」と詠んでいる(注「すくす」は「月日を送る」,「過ごす」の意).江戸時代初期の渡邊玄察日記(拾集物語)でも「藤崎」とだけ記している.絵本明治太平記では,明治9年の神風連の乱で「熊本の暴徒藤崎に会す」とある.

藤崎八籏宮は,西南の役では天守閣の火災に巻込まれ社殿は焼失し,明治17年に飽田郡宮内村藤崎台から現在地へ移った.江戸時代家臣団の奉仕で維持してきた藤崎八籏宮の祭礼は,明治維新後は町方に移ったが,第二次大戦後はGHQにより一時中止されたこともあった.さらに,1970年代になり,「祭りの名称」や「掛け声」が問題になり,外部の過剰反応に市民は苦慮し,「掛け声」の変更を余儀なくされたが,伝承された「呼び方」は心の中で生き続けているというのが現状である.

武神を祀る勅願社

藤崎八旛宮は,承平5年(935年)に九州鎮護のために朱雀天皇によって創建された勅願社(ちょくがんしゃ)である.勅命を奉じた神社としては,北岡神社と同時期である.当時は内乱が激しく,朝廷は武神の分霊を迎えた社を各地に祀り平定を祈願した.肥後国誌には,平将門追討の勅願と書かれている.藤崎八籏宮は九州五所別宮の一つで,石清水八幡の武神を分霊としている.社地の選定にあたっては、九州の中心にあり,国府が置かれていた肥後の熊本城内の茶臼山が選ばれた.創始以来,藤崎八籏宮はたちまち信仰を集め,肥後一国の宗廟の位置を固めた.社殿の修造などは勅命より国司,国守があたったことから,その権威のほどがしのばれる.明治維新以降は,神社を等級化する制度(社格制度)により県社に指定され、のちには国弊小社に昇格し,熊本市域の総鎮守として信仰を集めている.

中世の造営

火災,大風等の際,天皇の宣旨により造営,修復が行われている(藤崎宮文書,社記など).しかし,乱世の世になると,院宣,国宣によっても放置されることが多くなっている.

後一条帝(寛弘5年9月11日 (1008.10.12)ー長元9年4月17日 (1036.5.15))万寿年間 (1024-1027) に炎上,創建当時に復元

後冷泉帝(万寿2年8月3日 (1025.8.28)ー治暦4年4月19日 (1068.5.22))康平年中(康平 (1058-1064) の暴風

崇徳帝(元永2年5月28日 (1119.7.7)ー長寛2年8月26日 (1164.9.14))長承年中 (1132-1134) の大風

後堀河帝(建暦2年2月18日 (1212.3.22.)ー天福2年8月6日 (1234.8.31))暴風 寛喜2年 (1230) 8月8日

後深草帝,建長年中(1249-1256) 炎上 寛喜の例に従い造営

伏見帝,正応年中(1288-1282) 風破 建長の例に従い修造

後二条帝 嘉元年中(1303-1305) 大風 前例に従い修造

花園帝 延慶2年(1309) 炎上 正和文保から後醍醐帝(1318-1339)まで仮殿

南朝後正平12年 (1357年) 7月15日(後光厳帝,延文2年)暴風により正殿破損..

菊池武光が社殿の造営等を依頼されている.詳しい内容が肥後国誌に記載されている.

後円融帝 慶安年中(1368-1374) 炎上,康応(1389年2月9日~1390年3月26日)年始に及び造挙

後土御門帝 文明(1469-1486),長享(1487-1488)年中 菊池重朝造営

後柏原帝(寛正5年10月20日 (1464.11.19)ー大永6年4月7日 (1526.5.18))大永2年 (1522年),隈本城主鹿子木親員が造営を行っている.

加藤清正は,肥後南北に別れて小西行長と確執を深めている頃,100石を寄進し,戦勝祈願等を行っている.

江戸時代になると,初代藩主細川忠利は宮田村(100石)や普請費用(銀300枚)を寄進したり,造営を行っている.その後の歴代藩主も定期的に社参し,将軍の病気,疫病流行,旱魃,飢饉に際し祈願を命じたりしている.阿蘇神宮と同レベルの処遇だったといっても過言ではない.

飾馬の奉納を断った家臣

飾馬の奉納は家臣団の奉仕であり,熊本藩年表稿には藤崎神事に馬を出さなかった事実が氏名入りで記載されている. 元の資料は「御奉行所日記抄出」と記載されている.長岡監物の三男米田甚内是員の場合,7月2日の項に,「部屋住のまま家老に列す」と書かれている.

寛文10(1670)綱利,7月 米田甚内・藤崎神事の馬を出すことを断わる.8月に有吉大蔵・長岡半右衛門も同様

寛文11(1671)綱利,8月 藤崎神事に長岡与八郎馬を出さず

「馬を出さなった理由」はわからないが,「御奉行所日記」に書かれているわけだから捨て置けない問題であったのだろう.

なお,家老田甚内については,以下の記述がある.

延宝3(1675)綱利 9月2日 家老米田甚内乱気につき上知,12月10日死亡、継絶

米田甚内は家老になって5年後,乱心し29歳で死亡している.知行地は没収され,無嗣断絶している.

御神宝と神仏習合

藤崎八旛宮の御神宝は「木造僧形八幡神坐像」,「木造女神坐像」であり,とちらも国指定重要文化財(熊本市サイト)となっている.男神像は僧形、女神像は前髪の宝冠に阿弥如来像が描かれている.神社の御神宝が僧形であるのは大変珍しく,周囲には寺があり社僧が存在したと書かれている.藤崎宮の特色は,日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された神仏習合(しんぶつしゅうごう)である.

文部省編 日本国宝全集. 第59輯(昭和2年)

神幸行列

藤崎八籏宮例大祭は,熊本市の年中行事の中で最大級のもので,秋の風物詩として伝統を誇っている.今年は9月13日~21日に行われている.この間,多彩な行事がくり広げられ,奉納される(別稿参考資料).中でも圧巻は20日(昔は15日だった)の神幸祭で,新町藤崎台の御旅所まで神幸行列が続く.藤崎宮の祭りが別名「随兵祭り」と言われるのは,この神幸行列の「随兵」に由来する.随兵とは,随兵行列の三役(随兵頭・長柄頭・御幸奉行)によって構成され,百騎の甲胄武者とこれを指揮する随兵頭,50本の長柄槍に続く長柄頭,御幸奉行による武者行列である.肥後国誌に記載されている規模をそのまま踏襲している.