草枕絵物語

草枕絵物語

「草枕」に書かれている那古井の里(天水町小天)における漱石自身の体験の背景については,「新屋敷に住んでいた頃の漱石」で説明した.

「草枕」の那古井は架空の地名で,今の天水町小天である.作中の前田家別邸は「那古井の宿」,前田家は「志保田家」,案山子が「老隠居」,次女ツナが「那美さん」として登場する.なお,NHK朝の連続ドラマ「花子とアン」の主人公の友人である蓮子(白蓮)のお姑さん(宮崎鎚)は,前田案山子の次女ツナの妹である.

ところで,来年は夏目漱石没後100年,生誕150年にあたる.地元紙では「草枕」の連載が始まった.スマホ時代の若者は,その気になれば「青空文庫」等で「Web版 草枕」を読むことができる.しかし,あらためて読んでみると,巻末脚注付きの全集物でないと読むのに苦労する.

注)脚注が作品横断的であり,別の作品の解説を参照する必要がある.

最近,国会図書館のライブラリを見ていたら,偶然「草枕絵物語」があることを知った.昭和初期に漫画家の岡本一平の作品をまとめた「一平全集」の中に「坊ちゃん絵物語」と一緒に収載されている.20ページ程度に挿し絵入りで書かれているが.筋の有る「坊ちゃん」と比べると,「草枕」は筋の展開や事件の終始がないため,絵物語にするのは無理があったようだ.「人情」の世界と「非人情」の世界の間の漂泊,世俗と自然の対比,西欧化の中の日本人や東洋の芸術論の展開は中途半端にならざるを得なかったようだ.

小説では,非人情の世界に近づいたかと思うと,湯里にまつわる世俗的な話に興味を抱いたり,女性(那美さん)の存在に惑わされたりして,なかなか非人情の世界に至ることができない.主人公の画工と女性との接近の場面はいくつか存在するが,第7段では「「画工」が入浴しているとき,湯煙の中,「那美さん」が湯壷へ下り来る情景が描かれている.しかし,この場面は一平の絵物語では省かれている.現在の漫画家なら中心にもってくるところである.その部分を脚注を付けて以下に示した.ビジュアル時代に生きる若者には消化不良かもしれない.

(青空文庫 草枕 第七段後半)

やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照すものは、ただ一つの小さき釣り洋灯(ランプ)のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、濃(こまや)かなる雨に抑えられて、逃場(にげば)を失いたる今宵の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影(ほかげ)を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。

黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞(びろうど)のごとく柔かと見えて、足音を証(しょう)にこれを律すれば、動かぬと評しても差支ない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在る事を覚った。

注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲(みなぎり)渡る湯煙りの、やわらかな光線を一分子ごとに含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漾(ただよ)わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸(の)した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じはことごとく、わが脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。 ーー中略ーー

中略部分は参考のためスクロールにした.

漱石の裸体画批判(Googleドキュメント)

理屈っぽい記述部分

今余が面前に娉(ひょ うてい)と現われたる姿には、一塵もこの俗埃(ぞくあい)の眼に遮(さえ)ぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏(まと)える衣装(いしょう)を脱ぎ捨てた る様と云えばすでに人界(にんがい)に堕在(だざい)する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代(かみよ)の姿を雲のなかに呼び 起したるがごとく自然である。

室を埋(うず)むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧(わ)き上がる。春の夜の灯(ひ)を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓(にじ)の世界が濃 (こまや)かに揺れるなかに、朦朧(もうろう)と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈(ぼか)して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓 (りんかく)を見よ。

頸筋を軽(かろ)く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢(いきおい)を後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠(あしのうら)に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。

しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛(れいふん)のなかに髣髴(ほうふつ)として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓(はつぼくりんり)の間に点じて、竜(きゅうりょう)の怪を、楮毫(ちょごう)のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥(めいばく)なる調子とを具(そな)えている。六々三十六鱗(りん)を丁寧に描きたる竜の、滑稽に落つるが事実ならば、赤裸々(せきらら)の肉を浄洒々(じょうしゃしゃ)に眺めぬうちに神往の余韻はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界の嫦娥(じょうが)が、彩虹(にじ)の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。

輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥(じょうが)が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀(れいき)の尾のごとくに風を起して、莽(ぼう)と靡(なび)いた。渦捲く煙りを劈(つんざ)いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退(とおの)く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽(ふね)の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁(ふち)を越す湯泉(ゆ)の音がさあさあと鳴る。

注)娉:穏やかな女性の美しさがあること.俗埃:俗世間の.堕在:悪い場所や下の地位に落ちて、 そのままそこにとどまること.霊氛:霊気.髣髴:ありありと想像すること,ぼんやりしているさま.溌墨淋漓:水墨を以て勢いよく描くこと.竜:角のある竜.楮毫:紙と筆.冥:暗くて遠いさま.六々三十六鱗(りん):鱗の一つ一つ.浄洒々:禅語,煩悩妄想の塵埃がなく清浄皎潔ナさまを,入浴後の人の裸体にととえて言う.神往の余韻:魂が吸い寄せられるような余韻(神往の気韻の注を参照).嫦娥:月世界に住む仙女.

明治時代になると,女性の裸体を描いた西洋絵画や彫刻が日本に入ってきた.漱石は,現在なら問題にならないと思われる西洋画風を批判している.物書きである漱石にとって,文章表現以上のものはなかったに違いない.

湯壷での出来事を絵物語に書き足すとすれば,次図の真ん中あたり「何所かで弾く三味線の音が聞こえる」の後になる.漱石の西洋裸体画批判を読んだら漫画と云えども書けなかったのだろう.

湯壷の話は実話であることをツナが述懐している.湯は直接女湯には注がず,男湯の下流にあったため冬場はぬるい.夜遅かったので,那美さんは誰も入っていないと思い,湯けむりの中男湯に入った.そのシーンに出てくる浴室も前田家別邸に修復・復元されている..

参考資料

草枕 - Wikipedia

青空文庫 草枕

湯壷のシーンを,日本画家の松岡映丘が草枕絵巻の中で「湯煙の女」として描いている.紹介サイト

(2015.2.17)