ゆびさきのさよなら
1/7/2017
何も遺らないのも、何かが遺るのも、どちらも等しく無意味だ。
そういうものだろうと考えている宗三左文字は、今日もその淡く光る髪を細かに結い上げている。その装いや気怠げな物言いから、その髪も適当にまとめているだけなのかと思いきや、よく見れば細く編まれた毛束がいくつか走っていて、ふわふわと揺れる髪の合間からは、鮮やかな飾り紐がその結び目を咲かせていた。
襟をくつろげ、裾を気にせずに歩き、座り、立ち上がる。風を含んだ袈裟や髪がふんわりと薫る。腰に差さずに掴んだ刀がゆらゆらと揺れて、色違いの瞳がじっとものを見る。
人の形となった宗三左文字は、そういった具合だった。
そんな宗三と縁の浅からぬ薬研藤四郎が寄り添うようになった事は、この本丸ではいつの間にやら誰ともなく知る所となっていた。魔王の懐刀と寵刀が並んでいる様子は、いやにしっくりした。誰もが彼らの由来と行く末を知っていた。戦のさなかにあっては、いつ何が起きてもおかしくない。そして戦を終え、皆が刀へとかえる時には…。ゆく先の曖昧な刀は薬研藤四郎だけではなかったし、神のはしくれとなった彼らがただ茫洋と空に溶けていくのかどうかは、誰も知らなかった。人間などよりもよほどながい時間を過ごす事のできる刀達は、だからこそ、その時その時を最大限楽しむ事に長けていた。何を怖がり、何から逃げようとしても、物事というものは起こる時には必ず起こり、起こらない時には絶対に起こらない。人の子の口からは「神のみぞ知る」とされている一瞬先よりあとの事を、その実、心を割いて気にする神など居なかった。
今は、戦の真っ最中である。
毎日のように戦場へ赴き、数にものを言わせる歴史修正主義者なるものの数を減らして、帰ってくる。傷を負う事もあるし、仮のものとは言え、人の身体を失いそうになる事もあった。刀の心を振るう審神者は幸いにも学びが早く、この本丸に顕現した刀剣で、破壊に至ったものはまだ居ない。
出陣から戻る先も、遠征から戻る先も、本丸と呼ばれるこの屋敷だった。この屋敷の中で皆は身体を休め、食事をとり、畑仕事や馬の世話をしながら鍛錬をした。季節の移ろいを五感で体験し、人の営みというものをして遊んだ。
薬研藤四郎の日課の中には、宗三左文字の髪を結う、というものがあった。湯浴みの際に解かれる宗三左文字の髪を、毎朝一筋だけ編む。幾筋か細く編まれた髪のうち、ひとつだけ。どの髪がそうなのかを知るのは、本人達だけだった。
何も遺らないのも、何かが遺るのも、どちらも等しく無意味だ。
宗三左文字はそういう考えを持っていたので、有事の最中である今、薬研に何を遺してほしいとも、ほしくないとも言わなかった。ただ、毎朝、時にはどちらかが夜戦に赴く前にも、薬研の手を借りて髪を結った。もし薬研に何かがあった時、その髪がどのような意味を持つのか、宗三左文字は考えた事が無かった。ずっと編んだままにするのか、すぐに解いてしまうのか、その一房を切り取るのか。もしその時が来れば、きっと答えが出るのだろうと、ずっと思っていた。
真夜中だった。
宗三と薬研は同じ布団で眠っていた。
突如本丸に歴史修正主義者軍がなだれ込んだ。完全なる奇襲を許してしまった代償はとてつもなく大きかった。
敵方の狙いは短刀達だった。ここの所、旅を経て技を極める短刀が増えて来ているのを危惧したのかもしれない。その俊足でいち早く審神者の部屋へ参じた短刀達を、彼らは容赦無く破壊した。旅を経ていた前田と平野だけが何とか破壊を免れた。
涙を流す間も無く、審神者は政府へ連絡をとり、援軍の要請と、本丸の在処を隠す術を直した。戦力になるものから手入れ部屋に入り、惜しみなく手伝い札が使われた。
宗三は、少し心を落ち着ける時間が欲しいからと、札の使用を断った。そのため、手入れ部屋に入ったのは最後だった。部屋に入ってしまえば式神の他には何の気配も無かった。寝間着のまま、宗三は身体を横たえた。
たった数刻前まで、宗三と薬研は同じ布団で眠っていた。当然、髪は結っていなかった。
手入れが終われば、着物は寝間着から戦装束に変化し、髪も結い上げられる。誰の手も借りず。
曖昧な欲張りを発揮したのがいけなかったのだろうか。結局のところ、何一つ遺らなかった。薬研の編んだ髪は自分で解いて、それで終わりだった。
今、襖の向こうで、一期一振も時間をかけて手入れを受けている。審神者の部屋の惨状を目にして、怒り狂って敵を一掃したのは彼だった。あのような一期一振を見るのはきっと、あれが最初で最後だろう。その後は、人の形を何とか保っている前田と平野を抱えて手入れ部屋へ走って行った。立ち尽くす事しかできなかった宗三を置いて。宗三は、江雪左文字によって部屋から連れ出された。彼らの末弟である小夜左文字も、審神者の部屋で欠片となっていた。弔いをしましょう、と江雪は言った。宗三が何かをこたえる事ができたのかどうかは、江雪だけが知っている。
ぽんぽんと、打ち粉が優しく肌を滑っていく。宗三は、天井を凝視していた。瞳が乾く。けれど、まぶたを動かす事ができなかった。手入れが進み、いよいよ髪や着物を整える段階になると、式神がその小さなてのひらで宗三の目元を覆った。小さな動きでまぶたを閉じられてしまうと、今度はどうしたことか、目を開ける事ができなかった。乾いた眼球が潤いを求めて水気を供給する。小さく息を吐くと身体から力が抜けて、宗三はそのまま眠ってしまった。
それからしばらくして、本丸の生活が落ち着きを取り戻し始めると、審神者は短刀を打ち始めた。一振り、また一振りと、見慣れた姿が戻って来た。慎重に、けれど迅速に彼らの練度は上げられた。旅に出たいと言い出すものから、旅に出された。
もちろん薬研も顕現した。そして、弟とも言える小夜左文字も。もともと、そこまで気難しい刀ではないのだ。薬研も小夜も、元気に過ごしながら他の短刀に混ざって練度を上げて行った。
薬研藤四郎は、薬研藤四郎だった。宗三と寄り添った事のある薬研とは違ったが、薬研藤四郎だった。
人懐こく目を細め、豪快に笑い、少しおやじくさく酒を飲む。
気にならないなどという嘘は言えなかった。けれど、気にしすぎたくないという思いもあった。薬研と、寄り添わずにいる距離というものが、わからなかった。
そんな宗三の様子を察したのか、それともそれが薬研藤四郎の性であるのかはわからないが、薬研は少しずつ、宗三に歩み寄って来た。宗三はそれを感じていたが、自分から何かをするという事はなかった。
ある夜の事だった。宗三は薬研に誘われて、濡れ縁で酒を飲んでいた。月が綺麗で、ころころと虫が鳴いていた。
「あんた、きれいに編んでるんだな、髪」
ふわふわと適当な会話を交わしていたところに、薬研がそんな事を言うので、宗三は曖昧に笑うしかなかった。薬研藤四郎は、いつも宗三の髪を褒めてくれる。
「癖が強い髪なもので…編みでもしないと、適当にくくっているだけに見えるんですよ」
「はは」
少し風が吹いて、柳のような宗三の髪を揺らした。
「器用なもんだな、俺っちにはできそうもねぇ」
「練習すれば、すぐできるようになりますよ」
「そうか?」
「ええ」
髪を編んでくれていた薬研も、最初は酷いものだった。宗三の髪をいじる度に、ひっかかって何本か抜けていた。宗三はそれを思い出して、声を抑えきれずに笑った。酒精にやられた頭では、色々な事がいつもよりもおもしろおかしく感じる。
「練習してみますか?僕の髪で」
宗三はそう言うと、杯を置いて飾り紐を解いた。細く編まれた髪も、丁寧にといていく。少しずつ、はりつめていたものがほぐれていって、肩から力が抜けていくようだった。
「どうぞ」
すっかり髪を下ろしてしまうと、宗三は再び、手酌で飲み始める。薬研はほんの少しだけ戸惑った後、杯を置いて宗三の後ろに回った。
「…悪ぃが、手本を見せちゃくれねえか?」
どうにもこうにも手を出しあぐねた薬研がついにそう言うと、宗三はまた笑った。笑ったが、杯を置いて、薬研に見えやすいように一房、ゆっくりと編んで見せてやる。薬研はなるほどと頷くと、宗三の髪を、ひとすくい手にとった。
たどたどしい指先が、柔らかな髪を撫でる。久々に髪を抜かれる痛みを感じて、宗三左文字は涙を落とした。
何も遺らないのも、何かが遺るのも、どちらも等しく無意味だ。
意味があるのは、あなたがここに居るのかどうか、それだけなのだから。
~おわり~