※「七つの夜を渡る」の五つ目の夜のお話です。先にそちらをご覧ください。
五つ目の夜に孵る
4/7/2025
いつも冷たい水の気配しかしない白鸞から、その夜は微かに火の香りがした。水を浴びた後に、しばらく焚き火を囲んでいたせいだろう。それでも、目の前にある白鸞の髪が暖かさを感じさせる事は無く、向けられた背中は凛としていた。きちんと眠れと寝台に招き入れると、白鸞はいつもすぐに紫鸞に背を向けてしまう。紫鸞の近くで眠るためにその儀式が必要なのであれば、それでいい。きちんと休み、次へ備える。それはとても大切な事だから。それがわかっているのに、紫鸞は、ちらりと目にしてしまったあの傷跡のことが頭から離れなかった。火に焼かれた肌は、生きる白鸞の成長を咎めるようにひきつって、忘れるな、とその耳元で囁き続けたに違いない。白鸞に深く刻み込まれてしまったそれは、もう誰にも消す事はできない。紫鸞は目を閉じた。心がざわついてしまって、息が乱れそうになる。少しの揺らぎを、白鸞は見逃さないだろう。しっかり休めと牀へ引きずり込んだくせに、その眠りの邪魔をしてはいけない。だというのに。
「言いたい事があるなら言ったらどうだ。一晩中そうしているつもりか?」
ごそごそという気配に続いて、正面から声がかけられた。慌てて目を開くと、寝返りを打ったらしい白鸞が、ほんの少し眠そうな目で、いつものように紫鸞を睨みつけている。そういえば少なからず酒を飲んでいたし、冷たい水で随分と丁寧に体を清めていた。常よりも眠気は強いはずなのに、紫鸞の気配が落ち着かないので眠れなかったのだろう。紫鸞は気まずそうに謝罪を述べるが、白鸞はじっとりとした目つきのまま、ぶすっとしていた。きっと、言えば怒るだろう。躊躇いが浮かぶが、目の前の白鸞は、何を言わなくても既に怒っている。紫鸞は少し考えて、正直に白状することにした。肌を見たい、と小さく言えば、白鸞は眠そうにしていた目をぱちりと開けた。それから、おそらく喉元まで出てきた不機嫌を急いで飲み込んだ。白鸞はじっと紫鸞の眼を覗き込んで、見るだけで済むのかと尋ねた。紫鸞はわずかに息を止めてしまった。その一瞬で、白鸞には全てを見通されたのだろうと諦めて、触れてもいいのか、と返す。白鸞は、紫鸞が傷跡を気にしていることに気づいている。炎が食いちぎった皮膚を、その歯形を、見れば、おそらくその手でも確かめたくなるだろう、と。白鸞は、紫鸞を見つめた。その瞳にはもう睡魔は住んでいなかったし、暗闇の中にあって月のように光った。
「…ここにはお前しか居ない。そうだな?」
溺れた者が空気を求めるように、白鸞はそう言った。紫鸞はその意味を正しく理解し、強く頷いた。自分が居るから、あなたの安全を脅かすものは何も無い。縋るようにそう告げた。ずっと側にあってその背を守るなどとは、もう言えなかった。言ったところで、おそらく白鸞は信じない。かつて護衛の任を承っておきながらそれを全うできず、さらには再会してもすぐに全てを思い出す事ができなかった紫鸞には、もはや未来を誓う事は許されない。だからそのかわりに、自分がここにいる間は、あなたは何も心配しなくていいと、せめてそう約束がしたかった。紫鸞がそう願うだろう事を、白鸞は知っていたと思う。子供の頃から妙に聡いのだ。紫鸞は、白鸞に見透かされることには慣れているが、白鸞はいつだって、紫鸞が理解し尽くすには難しい。そんな白鸞は、紫鸞の前で、一度目を閉じた。
「明日の朝、目を開けた時に、まだ居るか」
ぽつりと落ちた言葉に、紫鸞は息を飲んだ。もう随分昔、白鸞の不寝番の当番へ自分が加わった、その最初の夜に、まだ幼かった白鸞にも同じことを聞かれた。あの時は紫鸞も今より少し幼くて、何を聞かれたのかをいまいち理解していなかった。だからこそ言えたあの時と同じこたえを、どうか届けと言葉に乗せる。
———他にどこへ行けというんだ。
思いの外必死な声が出てしまって、紫鸞は少し恥ずかしくなった。白鸞は一音だけ笑い声を漏らした。それからごろんと仰向けになって、
「いいだろう」
そう言いながら懐に手を入れたかと思うと、暗器を二つほど取り出した。眠る時にも持っているのかと紫鸞が丸くしたその目の前で、それをごとりと床に落とす。軽くないその音は、白鸞からの信頼の音だ。同じ音を立てて、紫鸞の鼓動が跳ねた。紫鸞はまだ、白鸞に安らぎを約束する事ができる。白鸞は起き上がる気はないようで、相変わらず寝転んだまま帯をゆるめ、寝巻きのあわせをゆるめた。もぞもぞと動きながら小さくあくびを噛み殺す様子を見て、眠いだろうに申し訳ないという気持ちと、だからこそ訪れたのだろうこの機会を逃してはならないという気持ちが湧いてくる。紫鸞は上半身を起こして、白鸞を見下ろした。
「ほら」
少し面倒くさそうに腹を見せる白鸞に、紫鸞は、腕も抜いてくれと頼んでみた。白鸞はため息を一つついて、それでも両腕を袖から抜いて、好きにしろ、と言わんばかりに投げ出した。生きるために必要な臓腑が詰まった腹を無防備に晒すその姿は、白鸞の帯飾りに似ている。自分が側にあれば、安寧が約束されれば、白鸞はこうして大きく羽を伸ばす事ができるのだと、そう優越感に浸りたいのに、紫鸞の瞳はその脇腹の傷跡を見過ごせない。許可も取らずに手を伸ばして、最初は指の腹で、すぐに手のひら全体で触れた。脇腹の一つが目立ちはするが、目に入る傷跡はその一つではない。紫鸞の記憶にある白鸞の肌には、傷一つ無かったというのに。朱和にその術を学び、朱和と護ると決めたはずの大切なもの。それが、どうして。
「…泣くな」
噛み締めた奥歯に気づかれてしまっては、もう瞼は堰の役目を果たさなかった。白鸞の腹にぽつりと落ちた涙は、肌の引きつりのせいでいびつに流れた。白鸞は楽にしていた翼を持ち上げて、紫鸞を抱きしめた。小さな子供をあやすように柔らかく抱き込んで、とんとんと背中を叩く。白鸞の背を、腹を、自分があたためるべきなのにと思いながら、紫鸞は静かに白鸞の胸を濡らす。ほんのりと温かい肌の向こうで、白鸞の生命の音がしていた。
「…もういいか?」
しばらくそうしていると、白鸞はそう言って紫鸞を放した。そのまま寝巻きを直そうとするので、紫鸞は慌ててそれを止める。見て、触れていいと言った、と恨めしげに言えば、白鸞は呆れたように眉を顰めて、また先ほどのようにくたりと力を抜いた。許可を得たのだと理解して、紫鸞は鼻を啜って白鸞を見下ろした。白い肌に残る傷跡は、細かい罅のようだった。きっとそれは間違っていない。白鸞はもう、大切に守られている子供ではないのだから。それでも、呼吸に合わせて胸は上下し、それからその向こう側で命が鳴っているのを、紫鸞はもう知っている。背中も見たいと言うと、白鸞はめんどくさそうに寝返りを打った。背を護る髪を紫鸞がそっと避けると、傷跡は少なかった。脇腹から続く火傷の痕が、背骨を掴もうとして、叶わずにいる。紫鸞はその様子を見て、何故だか酷く安心して、静かに息を吐いた。それを合図に、白鸞はまた寝返りを打って仰向けになり、紫鸞を窺う。
「もう、いいか…?」
白鸞はもう一度尋ねた。紫鸞が静かに頷くと、白鸞は今度こそ、寝巻きをきちんと着直した。紫鸞は、また潤みそうになる目を閉じて、深く息をついて横になった。手の届く距離に白鸞がいて、ついさっきまでそのあたたかさに触れることを許されていた。小さかった身体は、今は自分と同じくらいの背丈がある。決して細くはないが、黄蓋やら孫堅やらを見慣れてしまうと少しだけ心許ない。白い肌は昔よりひんやりとしていた。手のひらで撫でた凹凸は、白鸞が生きて、成長してきた足跡だった。
ふと視線を感じて目を開けると、隣に寝転んだ白鸞が、じっと紫鸞を見ていた。相変わらず少しだけ眠そうで、その分いつもより少しだけ目元が柔らかかった。
「明日の朝、目をあけるまで、いるのだったな」
静かに言われ、紫鸞は頷いた。言外に、その後にはいなくなるのだなと言われている気がして、けれど今は白鸞の言い分を全て肯定しなければならなかった。自分がいる間、あなたは何も心配しなくていい。そう約束したばかりなのだから。
「そうか」
白鸞はそう言って、目を細めた。それからのっそりと身を起こすと、先ほどとは反対に紫鸞を見下ろした。しばらくそうして、動けずにいる紫鸞を見ていたかと思うと、今度はゆっくりと、紫鸞に乗り上げるようにして横になった。驚いて駆け出す心の容れ物を、隠す手段を紫鸞は持たない。そのままもそもそと落ち着く場所を探しているらしい白鸞に手を伸ばしていいのかどうかもわからず、紫鸞の両腕は不自然に浮いてしまった。白鸞がそれに気づいて、ふ、と笑う。笑って、殆ど息だけで紫鸞の名を呼んだ。その呼気が許したものを正しく悟って、紫鸞は白鸞を抱きしめた。あまりに懸命だったから、腕の中で白鸞の身体が少し軋む。もしかしたら先ほど見た罅が、白鸞の身体に入った大小の亀裂が、紫鸞のせいで広がったのかもしれなかった。けれど、と紫鸞は思う。いずれ、外から入れられたその罅を内側から嘴でつついて、白い鸞が孵るのだ。そして何に縛られることもなく、自由に飛んでいく。その時には、一緒に連れて行ってほしい。紫鸞はそう願うので、今は、白鸞が潰れそうなほどに腕に力を込めた。それでも白鸞は、文句を言わずにそこに留まり、静かに静かに紫鸞の胸元を濡らした。
〜おわり〜