鶏肋ページ / 雞肋網頁

    住谷悦治『鶏肋の籠』(東京: 中央大学出版部、1970)の顰に倣い、「鶏肋網頁」を設置しました。


『デジタル大辞泉』
中華民国教育部『重編國語辭典修訂本』(http://dict.revised.moe.edu.tw/cbdic/search.htm)

7日間ブックカバー・チャレンジ

COVID-19蔓延中の2020年5月15日(金)-21日(木), 於facebook

    7日間ブックカバー・チャレンジのバトンが、『台湾を知るための60章』の共編者の赤松美和子さんから回ってきました。次のバトンは黒羽夏彦さんにつなぎました。黒羽さんは赤松さんと同じく、『台湾を知るための60章』の共著者です。

    なお、7日間ブックカバー・チャレンジについては、次のような方針があるようです。方針と言っても決まりきったものではなく、自身の状況に合わせて適宜アレンジしても良さそうです。

[第1日] 萱野茂『アイヌネノアンアイヌ』

萱野茂(文)、飯島俊一(絵)『アイヌネノアンアイヌ』(月刊たくさんのふしぎ, 第55号) 東京:福音館書店、1989年10月。



    「AINU NENO AN AINU」とは、「人間らしい人間になれ」という意味である。この絵本はたった40ページにもかかわらず、アイヌ問題の重要な論点をしっかり盛り込んでいる。私自身は、小学校6年生の時に読んだ。祖父母が北海道へ旅行に連れて行ってくれ、そこでアイヌ・コタンを観光した。ぼんやりと関心を持って大阪へ帰った私に、父母が本書を与えた。絵本でなく、活字の書籍だったら、私は読めなかっただろう。改めて振り返れば、本書は私自身が地域研究を始める契機になった。自分の興味を持ったことがらを文献で調べ、関係者を訪ねて聞き、現場を歩き、そうして中学校1年生の夏休み自由研究のレポートが出来上がった。ただし、そのレポートはもし読み返す機会があっても、いわば先行研究の丸写しの羅列という内容のために、もはや読み返せない。


[第2日] 白雲荘主人『張作霖』

白雲荘主人『張作霖』(中公文庫) 東京:中央公論社、1990年7月。



    日本人の書いた張作霖(1875年-1928年)の伝記である。本書は、19世紀後半から20世紀初頭の中国の政治を、満洲に即して描く。つまり、中国国民党や中国共産党の観点に基づかない中国像を持つのである。とはいえ、本書には謎が多い。1928(昭和3)年8月に東京の昭和出版社から出版された書籍が、なぜか1990年に中央公論社から復刻された。1990年6月1日に台北の圓山飯店で張学良の誕生日会が開催される。日本でもこの少し前から張学良が注目され出しており、こうした機運に関係して、その父親も再び注目されて本書の覆刻に至ったのか。原著の出版は、1928年6月の張作霖爆殺事件から、たったの足掛け3か月後である。そして作者の白雲荘主人とは、いったい誰なのか。園田一亀であるという噂もある。日本の観察や立場が濃厚であるとはいえ、作者はどうして作霖や中国政界にまつわるエピソードをたくさん知っているのか。当時の日本の諜報能力に驚くばかり。

    私の高校はエスカレーター式であった。教員は大学受験を想定せず、教科書に縛られずに授業を行った。私の学年から従来の方針を変更し、高校二年の世界史(近代史)の授業で西洋を扱わずに、いきなり中国と朝鮮を一学期ずつ講じた。近代は広い意味であり、現代まで含んだ。近代中国の範疇で第二次大戦後の台湾が少し登場し、「犬が去って、豚が来た」という成語や「本省人と外省人」という専門用語について知った。 近代西洋については、三学期に少し触れただけ。三学期はどうなるのかと楽しみにしていたら、担当教員が産休になり、別の教員が教室にやってきて、付焼刃的に近代西洋史を教えた。三学期は時間が少ないので、マグナカルタからフランス革命くらいで終わったはず。今から思えば、教員は天賦人権という思想の展開を講じたのだろう。しかしながら、アジアに興味を持ち出した私は、がっかりして三学期の授業に関心を持てず、内容を覚えていない。

    授業をきっかけに、私は清末から民初の群雄割拠の混乱や模索に興味を持つ。日本の戦国時代や幕末のように感じた。中国共産党からは悪く評価されている人物や事件は、本当に悪かったのか。そういった疑問があり、近所の書店で『張作霖』を見つけて買い、通学途中の電車で読むも、いきなり疑問が解決することもない。ただただ作霖の成功譚が面白かった。高校三年生の二学期には選択授業で、満洲国に関するレポートを書く。これまた先行研究の丸写しで、しかも提出期限に一日遅れた。しかし、担当教員が高く評価した。期限後の提出に目をつむってくれたのである。こうした温情がなければ、おしなべて成績劣悪だった私は大学へ進学できなかったはず。高校での成績は、推薦入学できるか否かのボーダーラインをいつも前後していたから。


[第3日] 李登輝『台湾の主張』

李登輝『台湾の主張』東京:PHP研究所、1999年6月。



    李登輝の自伝である。李登輝は国家元首として自身を語るから、国家の過去、現在、未来を語ったのである。ただし、彼は中華民国の総統でありながら、時に台湾の代表者としても振る舞う。1990年代後半には、国際社会での台湾の存在感が増していた。とりわけ外貨保有高が世界2位という実績に、それまで台湾を等閑視していた日本は驚いた。中国と台湾は同じなのか、違うのか。台湾の国家元首が日本語で主張する。すなわち、かつて自身が日本人であったと言い、アジア太平洋(特に日本、アメリカ、中国)の将来を展望するのだった。この本の出版には、いくつかの事情がある。ノーベル平和賞への接近、日本人による執筆、中国語への翻訳と出版などなど。李登輝が「時を待つ」ことの重要性を説くものも、実は出版社が自らの主張を李登輝に語らせたのかもしれない。

    私は大学3年生の1998年8月に始めて台湾を訪れた。この2週間の研修旅行が契機になり、台湾に関心を持つ。大学4年生の時に、当時参加していた中国語学習サークルで、『台湾の主張』を紹介した。初めての中国語による口頭発表であり、果たして自身の言ったことが相手に伝わっているのかどうか、不安で仕方なかった。同時に、私が台湾を題材に取り上げたから、教室の雰囲気がいつもと違って重くなり、特に中国人留学生が怪訝な顔をしていたのは、当時の大学の気風であって、今や昔話である。


[第4日] コリングウッド『歴史の観念』

Robin George Collingwood, The Idea of History, (First edition) Oxford: Clarendon Press, 1946; (Revised edition) London: Oxford University Press, 1993.

R.G.コリングウッド(著)、小松茂夫、三浦修(訳)『歴史の観念』東京:紀伊國屋書店、1970年、(復刻版)2002年。



    歴史というものを、西洋の学者たちがどのように考えてきたのか。本書は西洋哲学史の流れに即し、歴史というアイデアの意味を時系列的かつ問題史的に説明する。例えば、1945年8月に日本に投下された原爆は2発であり、3発ではない。2発であるのが確かだといえるのは、証拠や証言が存在するからである。しかし、証言には実見者の嘘や立場もあって確からしさが充分とは言えないし、実見者が死ねば確からしさは薄まる。そして、証拠は「史実」(かつて発生した事実)に限りなく接近しているのであっても、史実そのものではない。このように「歴史」(ここでは「史実」と置き換えても良かろう)というものは、究極的には確からしさを完備できない。とはいえ、日本へ投下された原爆は2発であるのが正しく、3発であるのは誤りである。つまり、歴史というものは、やはり何らかの確からしさを持つ。コリングウッドは、歴史の持つ確からしさの所在を、ギリシア以来の哲人たちに答えさせていく。そして、最後にコリングウッドが自身の答案を展開する。

    本書は、私の大学院修士課程の必修科目「英書講読」の教科書だった。英語原著をまるで読めないので、情けないかな日本語訳を探し、これに頼った。しかし、そもそも本書の内容が歴史哲学や史学思想なので、日本語訳であっても理解するのに多くの時間がかかり、結局のところ英語読解能力はまるで向上しなかった。振り返れば、大学で「キリスト教史」の担当教員が、「大学で楽しい、面白いと思っていた授業などは、実は良い授業ではない。卒業しても自身の記憶に残り、役立つのは、つらく厳しく二度と受けたくないと思う授業である」というようなことを言った。『歴史の観念』を読む「英書講読」を、私は二度と受けたくない。


[第5日] 榊原胖夫『アーモストからの手紙』

榊原胖夫『アーモストからの手紙』東京:御茶の水書房、2002年5月。



    本書は書簡集である。榊原胖夫(SAKAKIBARA Yasuo, 1929-2013)は、留学先の米国アーモスト大学 (Amherst College) から、母校の同志社大学の友人たちに宛てて手紙を書いた。それを編集したのが本書である。第二次大戦後に日米両国の知的交流が復活し、アーモスト大学では新島襄と内村鑑三を記念して日本からの奨学生を受け入れることになった。榊原胖夫は初代の新島スカラー(Neesima Scholar)としてアーモスト大学に学び、米国滞在中の 1954年8月から1957年6月まで、主にマサチューセッツから京都の同志社アーモスト寮へ宛てて200通以上の手紙を送る。留学開始早々の一年目は授業についていくのも精一杯なのに、よくも手紙を書き続けたものだ。現在のように電話やインターネットが存在しないから、当時の寮生たちは、榊原から届く手紙を貪るように読み、アメリカや世界を知ろうと競ったという。

    本書は、手紙が実際に書かれてから半世紀後の2002年に出版された。日付や宛先が明記されることなく、時系列的に手紙が並んでいるため、資料としての価値を損なったのは残念である。とはいえ、手紙を活字化したのが榊原夫人であり、本書には榊原胖夫の留学当時に交際していたアメリカ人の恋人(後の榊原夫人ではない)への赤裸々な思いを書いた手紙までを収録しているから、本書出版に当たり改竄することなく手紙をそのまま収録したと考えて良かろう(?)。

    私は2005年に本書を読んだ。大学院博士課程では現代台湾におけるnationalな自己認識の歴史的展開に関心を持ち、今にいたる。これに関連して、台湾のみならず東アジア各地での他者認識にも関心は及ぶ。東アジア各地のナショナル・アイデンティティにとって、重要な他者とはアメリカである。各地での対米認識やアメリカ研究を調べてみようと思い、手始めに日本に目を向け、京都アメリカ研究夏期セミナー(The Kyoto American Studies Summer Seminar, 1951-87)に、そして榊原胖夫に出会う。早速、『アーモストからの手紙』を繙くと、私自身の修士課程での留学生活が重なり、ページごとに首肯する私がいた。本書は史料としてのみならず、留学指南として非常に有益である。にもかかわらず、絶版になっているのは信じがたい。


(注) 京都アメリカ研究夏期セミナー(The Kyoto American Studies Summer Seminar, 1951-87)についてはこちらを参照ください。
https://rekasss.exblog.jp/5302123/    京都アメリカ研究夏期セミナーとは?https://rekasss.exblog.jp/4665974/    京都セミナーについての参考文献

[第6日] 宮崎市定『中国政治論集』

宮崎市定『中国政治論集:王安石から毛沢東まで』〔中公クラシックスJ40〕東京:中央公論新社、2009年。



    本書は、近世(宋代以降)から現代までの「中国文を日本の読者に紹介する」(p.3)ことを目的に、1971 年に出版された。もう50年前になる。「官僚の素質、政府の機構をいかに改善してその沈滞と腐敗を防ぐべきか」(p.8)という官僚制の問題を、中国人はどのように解決しようとしてきたのか。通常ならば、古い時代のリーダーの著述から始まり、最近の時代のリーダーの著述で終わろう。しかし、宮崎市定は倒叙という手法を採る。「読者の感覚を新鮮に保つため」、「現代から順次に過去に遡る」(pp.21-23、解説p.9)のである。本書は取り上げる8 組16 篇の文章を、「人類社会の流動の一瞬間」(p.4)と呼ぶ。

    宮崎は本書の中で、五四新文化運動のころの陳独秀の文章「東西民族根本思想之差違」〔1915 年〕(pp.55-76)を取り上げて、興味深いコメントをしている。すなわち、1910年代の中国人が中国なんか滅んでしまえと言って伝統を否定し、過去との断絶を主張するのは、「中国人が民族的な自信を恢復した結果」(p.18)なのである。もう少し遡り、清末の瓜分の危機に直面しているころは、本当に中国が滅んでしまいそうだったから、中国人は中国を自嘲していないという。2020年、新型コロナウイルス感染症のために危機に直面する日本に対し、一度潰れろとか一度滅んでしまえとか、言えようか。

    2013年に私は初めて大学の教壇に立った。非常勤講師として「東洋史」を担当した。教科書は前期が宮崎市定『アジア史概説』であり、後期が本書『中国政治論集』である。


[第7日] 手塚治虫『ブラック・ジャック』

手塚治虫『ブラック・ジャック Black Jack - The best 14stories 』〔10巻、秋田文庫〕東京:秋田書店、1993年7月。



    説明不要の漫画である。私が特に気に入っているのは、第68話「えらばれたマスク」。「選ばれたマスク」より、英題の「The Most Beautiful Woman in the World」の方が、内容を上手く表現している。ネタバレになるので、ここで内容を書かない。気になる人には、ぜひ本編を!

    『ブラック・ジャック』を読むと、いつも後味の悪い思いをする。そして、これが『ブラック・ジャック』の魅力でもあろう。 「えらばれたマスク」において、父親はブラックジャック(BJ)の質問に対して答えた。父の答えが、BJにある行動を採らせる。では、父に別の答案が可能だったのか。もし別の答案が出ていたら、BJはどう対応したのか。結局、父には作品で描かれる答案しかなかっただろうし、BJは別の答案が出ても、作品で描かれた行動以外を採れなかったはず。別の答案や別の行動が可能になるという見解を持つ人がいたら、ぜひ詳しく聞きたい。


    初出は、『週刊少年チャンピオン』(1975年04月14日号)だという。書誌情報を丁寧に整理したサイトがある。

http://www.phoenix.to/75/bj68.html
http://www.phoenix.to/73/bjlist.html
https://jqasm.com/bj-erabaretamasuku/

    また、台湾では東販が中国語訳を販売している。

https://www.books.com.tw/products/0010217688https://www.tohan.com.tw/product.php?cid=14