迎撃戦闘機とは、攻撃してきた敵の爆撃機、侵入機に対し、優れた上昇力をもって、急行し、強力な火力でこれに対抗する、戦闘機に最も必要とされた能力を有した戦闘機ということになります。第二次世界大戦、そして戦後の核爆弾が実用化されたその時期、爆撃機による攻撃は自国の軍隊のみならず、自国民の生命にとって最大の脅威でした。今回は、この迎撃戦闘機の長きにわたる開発と攻防の歴史を紹介します。
2nd Company 4th flight Regiment 1944 Ozuki AB,Yamaguchi
5th flight Regiment, 1945, Kiyosu AB "てんしょう号"
日米開戦から半年もたたない1942年4月、アメリカの空母から発進したB-25による日本初空襲(ドーリットル空襲DoolittleRaid)がありました。ただそれ以降、二年が経過しても日本本土に目立った爆撃はなく、日本の空は平和でした。しかし1944年6月16日夜、下関の小月飛行場の指揮所に拡声器からの放送が入ります。
「情報、敵大型機編隊、朝鮮釜山上空を東南進中。命令、各隊は緊急姿勢に移行すべし」
B-29など70機による日本夜間初空襲でした。この頃米軍はサイパンをまだ確保できておらず、大陸経由で配備された中国成都の基地からの作戦でした。標的は八幡製鉄所のコークス炉などの北九州工業地帯。小月飛行場からは、この日のために二年間訓練に耐えてきた屠龍12機が出動しました。
屠龍の夜間迎撃戦は、地上からの無線により誘導され、最後は地上サーチライトに捉えられた敵機に肉薄攻撃を仕掛けます。敵機はライトに照射され、まぶしく輝いていたといいます。屠龍は前方から一瞬のタイミングを計っての大口径37ミリ砲の一撃射撃か、同航して下方からの斜め銃による攻撃を行いました。 なお本機には対空接敵レーダーは搭載されていませんでした。B-29の損失は、発進時に1機墜落、日本上空で6機が撃墜され、7機が損傷、搭乗員58名が失われました。また、この日は米軍によるサイパン攻略作戦が開始された日でもありました。
夜間.戦闘機 月光(上)とB-17
302st Flying Group Flown Kanoya, 1945
夜間戦闘機とは、夜間襲来する敵の爆撃機などを迎え撃つために開発されました。パイロットの他にレーダーを搭載し、夜間飛行の航法を受け持つ乗員を乗せた特殊任務機です。月も無く、灯火管制が布かれた状況での迎撃戦は、困難を極めたようです。夜戦の母体となった航空機は、双発/複座の戦闘機が使われました。、当時、双発戦闘機は軽快な単座/単発戦闘機に対して、速度や運動性の優位性は保てず、昼間の作戦に使用することが困難な状況にありました。そのため、対爆撃機の迎撃、長距離偵察、地上攻撃などの任務に転用され、中でも夜間戦闘はその再就職先としては適任でした。一方で戦略爆撃は、昼間の精密爆撃から敵の単座迎撃戦闘機が行動できない、大規模な夜間無差別爆撃へと移行していきます。
コクピットのすぐ後方、背面に20mm斜め銃があります。
胴体背面の段をなくした一一甲後期型
もともと戦闘機権偵察機として開発された本機は、爆撃機並みの航続力、単座戦闘機を上回る高速性を求められました。これは1930年代中頃半の時期に開発された各国の双発戦闘機も同様ですが、このような要求すべてを満たすことは、1000馬力程度のエンジン2基では困難でした。それでも本機は二式陸上偵察機として正式採用され、その後に斜め銃を搭載した夜間戦闘機として試験的に運用され、その効果が認められ、「月光」として正式採用されます。また本機には索敵レーダーを搭載した機体もありました。 各国の双発戦闘機の中で大成できたのはアメリカのP-38 、イギリスのモスキートなど比較的大馬力エンジンを搭載できた機体に限られました。
対爆撃機、迎撃戦闘を重視したこれら日本の単座戦闘機は、高速性、大火力を重視し、汎用性を多少犠牲にした印象の機体で、零戦や隼を補完する性格のもののような印象を受けます。しかし世界の大勢、また日本に於いても敵爆撃機の行動阻止こそが戦闘機の使用目的である以上、むしろこれらの機体こそ本来の次期主力戦闘機としての性格を持っていました。事実、三菱は零戦の生産を中島へ移管後、全力で雷電の生産を行う予定でしたし、戦争の推移としても日本が南方の資源帯の確保後は防衛戦に転じることになることは必然で、その局面において、主力となるべき戦闘機でした。 この時期、優秀な迎撃戦闘機こそ、艦上戦闘機よりも優先すべき開発課題だったのです。
三菱 一四試局戦706号 (雷電 試作6号機)
雷電の開発は1939年に開始されました。しかし、その開発はスタッフが当時完成直前の時期にあった零戦とほとんど同じであったため、なかなか進展せず、初飛行が1942年3月になってしまいます。結果的にですが、戦局の推移は早く、この遅れは雷電にとって致命的でした。雷電の不幸はそれにとどまりません。VDMプロペラの不調、発動機不調、振動問題、低いコクピットと太い胴体からくる視界不良/離着陸困難、など問題が続出し、1943年12月になってようやく量産が開始されます。しかし、開発にあまりにも時間がかかってしまったため、局地戦闘機開発計画の主力は川西の紫電/紫電改に移ってしまっていました。 1944年の中頃からB-29の来襲が本格化すると、新型発動機を搭載した紫電改では熟成不足であることが明らかとなり、再び雷電の増産を本格化しようとする途中で終戦となってしまいます。その総生産数は558機、一時は次期主力戦闘機として期待された航空機としてはあまりに少ない生産数で、開発のプロセス、計画の不備が招いた数字と言えます。
陸軍特殊防空戦闘機 107th Flyihtg Regiment , 1945
爆撃機を改造した機体 Ki-109
Ki-109は陸軍四式重爆をベースに、機首に八八式7糎(75ミリ)高射砲を搭載し、敵の射程外から強力な砲で攻撃を加える迎撃戦闘機として完成しました。その砲の搭載には陸軍らしく対地攻撃も考慮され、前下方の射界を確保するためノーズ先端は低く垂れ下がったカタチとなりました。そのシルエットは現代の旅客機にも通じます。 射撃精度は高かったものの、発射速度が遅く、機体の性能もB-29には届かず、B-29が硫黄島からのP-51の護衛を受けられる様になると、対空戦闘としての活動は出来なくなりました。その後は機首の大砲を生かした対潜水艦海上哨戒を行い、また米軍が日本本土への上陸作戦を行う際の対抗兵力として温存され、そのまま終戦を迎えました。
陸軍三菱四式重爆「飛龍」
そのKi-109の母体となった飛龍は、必要とされる時に必要な性能をもって登場した機体でした。優秀な飛行性能と信頼性を持ち、陸軍の重爆撃機として、さらには海軍と共同で米艦隊への雷撃まで敢行しました。戦局が悪化の一途をたどる中登場した本機は、期待の新鋭機として台湾沖航空戦で初陣を飾り、以後は硫黄島、沖縄戦、九州沖航空戦など過酷な戦場に投入され、多大な戦果を挙げる一方、多くの機体が搭乗員とともに未帰還となっています。また末期的な戦局の中、特別攻撃隊としても多くの飛龍が出撃しています。時局を得て登場できた本機は、先の雷電とは対象的な運命を辿った軍用機と言えます。 また上記の特殊防空戦闘機キ-109への改造の他、開発中の飛行誘導爆弾や新型レーダーの実験母機など活動の場は多岐に渡ります。
三菱 百式司令部偵察機 Ⅲ型改 防空戦闘機
2nd Squadron 18th Fighter Regiment, Togane Air Base, Des1944
偵察機をベースにした防空戦闘機
日本陸海軍はこうした爆撃機の他に、速度/高空性能が優れた偵察機にも武装を施し、B-29との迎撃戦に投入しましたが、本来戦闘機ではないこれらの機種は、高機動での空中戦には機体強度が不足していて、その対空戦闘には制限がかけられました。
高速性を追求したとても美しい機体のKi-46百式司令部偵察機ですが、防空戦闘機化のため機関砲が機首や背面に突き出たその様子は、勇ましいというよりむしろ痛々しく、場違いな感じさえします。
総じて日本陸海軍の装備ではB-29に対しては性能不足で、武装を外して軽量化した機体での体当たり攻撃なども行われました。対するB-29も圧倒的な技術力に支えられていたとはいえ、1940年代の飛行機であることには変わりなく、サイパン⇔日本本土間での爆撃行ではやはり多くの犠牲を出しています。その一つの要因は日本周辺の気象です。日本上空はジェット気流の影響が強く、また日本周辺の天候が悪い場合、機位を失い行方不明となる機体が続出しています。また、高射砲や迎撃戦闘機により被弾すれば、たとえ日本上空を離脱できてもサイパンまでたどり着ける保障はありません。アメリカ軍が硫黄島をあれだけの犠牲を払ってでも奪取した理由の一つがそれです。
B-29の搭乗員たちは、自分たちが無差別都市爆撃を行っている以上、撃墜されパラシュート降下でもすれば日本人になぶり殺しに合うことを覚悟していて、日本上空ではあえてパラシュートを装着しない者もいたそうです日本軍機に体当たりされ墜落するB-29から、おそらくその機のマスコットであったろう子犬がパラシュートにくくり付けられ、降下してきたことがありました。搭乗員のパラシュート降下は無かったそうです。 B-29の乗員は10~11名、彼らは何年にもわたり高度に訓練された爆撃機搭乗員です。一度の作戦で10機も未帰還となれば、それだけで100名のクルーを失うのです。またヨーロッバでのドイツへの爆撃行の主役であるアメリカ第8空軍の爆撃機搭乗員の戦死者は2万人とも言われ、アメリカはヨーロッパと太平洋、それぞれの戦線でその人的損失に耐え抜きました。その死亡率は戦闘機搭乗員を大きく上まわります。彼ら第二次大戦を戦った爆撃機のクルーは相当な覚悟のもと作戦を遂行していたのです。
夜間戦闘機として開発当初から設計された機体は、このHe219とアメリカのP-61など少数に過ぎません。どちらの機体もそれまでの双発機のシルエットとは大きくかけ離れていて、まるで深海魚のような異様さが感じられます。 夜間、他者見られることも無く、暗闇の中での行動にあまり特化すると、ある種のバランスを欠いた怪しさや、そしてそれが白日の下にさらされた時の何か別世界の生き物のような不思議な感覚を感じませんか?そしてレーダーと爆撃機を撃墜するための武装を装備した夜間戦闘機というコンセプトが、戦後の全天候型戦闘機へと発展し、現在の汎用戦闘機への流れの基礎になります。
3./NJG 3,W.Nr 310189, May 1945 German
548th NFS, 1945 Iwo jima
Mosquito NF
翼端にレーダーポッドを搭載したGrumman F6F5-N
米海軍は単座の艦上戦闘機も夜間戦闘機として改修され、運用しています。大戦末期は日本軍機の行動が薄暮/夜間に移行したため、艦隊防衛に活躍しました。しかし、操縦とレーダー操作を一人の人間が行うためパイロットの負担は相当なものだったようです。
10./NJG 10,flown by Oberleutnant Kurt Welter, April 1945
大戦末期、最も先進的だったジェット戦闘機の複座型夜間戦闘機
こうした初期のジェット機は低空低速では運動性が劣るため、離着陸時を狙われ撃墜されることがありました。そのため従来のレシプロ機による基地上空のエアカバーを必要としていました。もっとも、味方基地上空に敵機が出現する状況では、どんな航空機でも危険ですが・・・
味方誤射を避けるため機体下面を赤く塗り、基地上空の警戒に当たったFocke-Wulf Fw190 D-9
1945年、第二次世界大戦は連合国側の勝利に終わります。
1949年アメリカは、ごく最近、ユーラシア大陸のどこかで核爆発が起こったことを大気の分析から知ることになります。ソ連が核兵器の開発に成功たのです。これにより、米ソ両国がイデオロギーの違いから、核兵器を突きつけあう時代が始まります。
1939年 アインシュタイン=シラードの手紙 アメリカ大統領ルーズベルトに宛てたウランによる連鎖反応の兵器化とナチス・ドイツによる核エネルギー開発に関する所管
1942年 マンハッタン計画 本格始動
1944年 原爆の爆縮方式による開発の方向性が決定
1945年 5月ナチス・ドイツ降伏
1945年 8月広島、長崎に原子爆弾投下 大日本帝国 降伏
1949年 ソビエト 核実験に成功
1952年 アメリカ 水爆実験に成功
1953年 ソビエト 水爆実験に成功
1957年 ソビエト 人類初のICBM、R-7ロケットによるスプートニク1号発射成功
1959年 アメリカ 初のICBMアトラス 配備開始
1962年 キューバ危機
核兵器による全面戦争は相手の国を無差別に攻撃し、その国民、社会基盤を破壊して勝利を手にするというよりは、まず自国を攻撃してくる攻撃手段(核ミサイル基地)の能力を奪うことに主眼が置かれます。初期のICBMは液体燃料で、発射直前に燃料を注入するため、即応性が無く、命令から発射まで数時間を要しました。これでは先制核攻撃に耐えられません。ロケットの即応待機のためには液体燃料ロケットのさらなる技術開発、または固形燃料の大型ロケット開発が必要でした。また当時のロケットは命中精度も低く、したがって威力の大きい核弾頭を搭載する必要があり、メガトン級の核弾頭は大きく重く、ロケットも大きなものが必要になるなど、まだまだ技術的に発展途上にありました。その配備数も、米ソ双方ともキューバ危機の頃は少数にとどまっており、核ミサイルだけで相手の攻撃手段を完全に奪うことは出来ないと考えられていました。そのため両陣営とも爆撃機による核攻撃は重要な手段でした。 そもそもキューバ危機とは、ソ連本国のICBMがアメリカへの核攻撃に、十分な能力がまだ備わっていない証明でもありますね。このように初期の宇宙開発は相手の国に核ミサイルを打ち込むための技術開発競争でした。スプートニクショックとは核戦争の扉を開けるノックの音だったといえます。
Mig-19 Cuban Air Force キューバ空軍のMig-19
対するソ連もアメリカと同様、国土が広大で、さらには四方を西側諸国に囲まれていたため、状況はさらに深刻だったといえます。1948年、ソビエトは空軍とは独立した国土防空軍を組織し、レーダーサイト、迎撃戦闘機、防空ロケットミサイルなどを装備、国土の防衛を担いました。その装備された防空戦闘機は、広大な国土を防衛するため、高速性、長い航続距離、強力なレーダー探知能力が求められ、まさに迎撃戦闘の能力に特化した航空機でした。ソ連 国土防空軍はまさにインターセプターのホームタウンと言えるのです。
防空軍はソ連崩壊後の1998年まで存続し、最後は空軍に吸収されるかたちで幕を閉じます。
さて冷戦期の西側の防空戦闘機はどうだったのでしょうか?
103st SQ 2nd AW J.A.S.D.F.[197], Chitose AB, 1960
アゴに突き出ているのが24連式空対空ロケット弾「マイティマウス」。このロケットランチャーは4秒で展開/格納ができて、24発一斉射、12発で二斉射、8発ずつの三斉射ができたとされる。F86Dはコンピュータに制御され敵機を自動追尾、ロケットの発射のタイミングまで計算を行う。
複座での迎撃はパイロットの負担が軽減され、訓練での迎撃成功率はF86Dを上まわります。機首にレーダー、翼端にミサイルポッドと燃料タンク!(危ない)それぞれの要素を繋ぎ合わせた様な、どこかまとまってない感じがします。それがこの機体の魅力であり、厳しい迎撃戦の必死さが感じられます。
1957年、アメリカは究極の迎撃ミサイルを開発します。MB-1ジ二―です。ジ二―は敵の電波妨害を排除するため無誘導となっていて、核爆発による大きな撃墜可能半径を持つことで精密な誘導無しに確実な敵機の撃墜を可能にしました。1957年から運用が開始されたMB-1は、F-89H、F-106 などに搭載され防空の任につきます。 なんとも荒っぽい兵器ですが、これによりアメリカは敵の核兵器搭載機から自国を守る有効な手段を手にしたことになります。その証拠にこのF-106とMB-1は1988年まで運用され続けることになります。そして幸運にも一度も実戦で使用されることなくその役目を終えました。
USAF ADTAC 49FIG 5FIS "Spittin Kittens" 1984
不活性弾頭を搭載したMB-1を発射するF-106デルタダート