1930年代、航空技術の進歩は爆撃機の高速化、重武装、重防御を可能にしていきます。各国の戦闘機はこれに対抗するため、少しでも威力の大きい機関砲の搭載を必要としていました
モーターカノン とは水冷v型エンジンのシリンダーバンク間に大口径砲を搭載し、プロペラ軸中心から弾丸を発射するシステムです。これは、エンジンからの動力を減速ギアを介して上方へずらし、中空に作られたのプロペラ軸の中心に弾道を確保するものでした。機関砲を機体の中心軸上で、しかも剛性の高いエンジンに直接マウントするので、反動が大きく重い大口径砲でも、機体の運動性への影響を最低限に抑え、安定した弾道で高い命中率が得られると考えられました。またプロペラとの同調装置を必要としないので、装置の故障や機関砲の暴発などによるプロペラの破壊も起こさないなど、非常に優れたアイディアでした。 この軸内砲の考え方自体は第一次大戦からあるもので、特別新しいものではありませんが、高性能エンジンと、大口径砲という最先端技術をひとつのパッケージとして組み合わせて開発することは、当時の航空先進国でも難しいものでした。そして、フランスはこの技術をモーターカノンと銘打ち、エンジンと機関砲を抱き合わせたカタチで積極的に各国の軍隊に売り込みをかけました。デボアチンD.510は、このシステムのデモンストレーションの機体でもあったのです。
3ème escadrille du GC II/1, 1937
モーターカノンを組み込んだ機首周りはメカっぽい雰囲気で、踏ん張りの効いた固定脚と合わせて機能性が強調された男性的なデザイン。なかなか恰好いいと思いませんか? フランスはその後の主力戦闘機D.520とM.S406にもモーターカノンを搭載し、第二次世界大戦を戦うことになります。
1937年、日本海軍はこのフランス製モーターカノンを当時配備が始まっていた96式艦上戦闘機に試験的に搭載しました。2機のみ製作された3号艦戦はその後、空冷エンジンに戻され、通常部隊に再配備されました。その後モーターカノンが日本軍機に採用されることはありませんでした。
96式三号艦上戦闘機
九六式艦上戦闘機
エンジンの出力向上に伴い、プロペラにも技術の革新が起こります。より効率的にエンジンパワーを推進力に変えるための可変ピッチ、定速(恒速)プロペラの実用化です。この有効性そのものは第一次大戦の頃から広く知られていましたが、そのコントロールには高い技術が必要で、各国ともなかなか実用化ができずにいました。 これを最初に商品として実用化に成功したのはアメリカ、ハミルトン社で、1933以降世界の航空機のプロペラに普及します。可変ピッチプロペラの効果は絶大で、それまでの固定ピッチプロペラに対して、離陸距離の短縮、上昇力、巡航速度の向上、航続距離など航空機の性能のすべてを押し上げるものでした。日本でも住友金属工業が製造権を取得し量産、以後日本のほとんどの航空機に搭載されることになります。そして、このハミルトン式可変ピッチプロペラはエンジンからの油圧によるピッチ可変機構が特徴で、油圧制御の機構も含め、プロペラ軸を中空にしなければならないモーターカノンとの両立は構造上不可能でした。
世界各国ではその後も可変ピッチプロペラ技術は進化を続け、ハミルトン以外でも、アメリカのカーチス、フランスのラチェー、ドイツのVDMイギリスのロートルなどがその技術開発にしのぎをけずりました。フランスやドイツは電動によるピッチ制御で軸内砲との両立を可能としましたが、日本はこの分野では完全に立ち遅れ、 戦時中にはハミルトンの改良も、VDMの進化もついに満足には行えず、敗戦まで世界水準のプロペラを装備することはできませんでした。 航空機の性能向上は、いかに機体設計が優れていても、エンジンやプロペラ、それを支えるオイルやシール材、燃料タンクの防弾ゴム、タイア、モーターや通信機の電気コードに至るまでの高分子技術など、生産のための工作機械など総合的な科学技術の基盤が必要で、当時の日本はそれら技術開発の基礎となる分野が欧米列強と肩を並べるまでには成長していませんでした。しかし、その後の戦後の日本の発展を見ると、当時の技術者の悔しさが日本の基礎科学の発展をもたらした、とも言えるのではないでしょうか。敗戦によるの日本の航空機の開発禁止の間、さまざまな分野での技術の醸造が行われ、世界水準の工業力を身につける重要な期間であったと言えます。
後述:日本のプロペラ技術について、航空ファン2007年8月号に短いですが興味深い記述がありました。ハミルトンスタンダード社は1938年にフルフェザリング機能をもつハイドロマチック・クイック・フェザリング定速式プロペラを発売、日本はライセンスを得ていたためハ社から住友金属へ図面が届けられたそうです。しかしその心臓部である立体カム (油圧のピストン運動を回転運動に変換する回転カム)の製造に必要な工作機械(研磨盤)をアメリカの対日禁輸措置のため禁止され、製造権があるにもかかわらず、戦時中ついに生産する事が出来なかったとのこと。「私のドイツ・プロペラ記」佐貫亦男(さぬきまたお )、『エアエアールド』1989年8月号 ああ…やっぱり技術の基礎は工作機械「マザーマシン」なんですね。
Messerschmitt Bf 109 G-10
IV.Gruppe/JG 27,early 1945, Berlin
Bf109のエンジン DB601は当初からモータカノン搭載を前提とした設計となっていました。しかし精密機械である機関砲と機体の主な振動源であるエンジンとの組み合わせは給弾不良など不具合が多発し、1940年のF型以降の、 MG151機関砲の実用化までモーターカノンの搭載は実現できませんでした。
モーターカノンの実用化により、無理をして搭載されていたE型の翼内砲は廃止されました。これにより、Bf109の本来の武装形態が実現し、機体は極めてバランスの取れた運動性を発揮しました。しかし機首の7.92ミリ機銃2門、モーターカノンの20ミリ砲一門程度では、1940年代の戦闘機としてはやや火力不足と言えます。1935年の初飛行以降、1945年の大戦終結まで、長きにわたり優秀な性能を発揮したBf109の、基本設計の古さを感じさせる部分でもあります。
アメリカイやギリスの戦闘機が12.7ミリ機銃の多連装化していくのに対して、ドイツはMG151/20 20ミリ機関砲、MK108 30ミリ機関砲と軸内砲を装備しました。これは敵対する相手が、日本と同様、防弾装備が充実しているアメリカの重爆撃機であったためです。また本家フランスよりもモーターカノンを使いこなしたのがソ連で、ShVAK20ミリ機関砲、はては37ミリ機関砲までも軸内砲として装備され、対空/対地攻撃に広く使用されました。
共通のエンジン 同じエンジンを搭載した同じ用途(戦闘機)の航空機は、極論すれば同じ性能、同じ飛行機と言えます。この枢軸国側 独、伊、日の3機の戦闘機は、ダイムラーDB601を日伊がライセンス生産することで、実質的に同じエンジンを搭載しています。その中でもそれぞれのお国柄、デザインへのアプローチなどの違いが見て取れて、この3機を比較するのは非常に興味深いと思います。
Bf 109 F-4 JG 54 6, Finlande, 1942
Bf 109F-2,Hptm, Hans Philipp, Stab I/JG54,Krasnogvardeysk, Russia, March 1942
53° Stormo 153° Gruppo, Sicilia, 194
Ki-61-1 Hei, 68 Sentai, 1945, New Guinea
正立V型マーリーンエンジンを搭載したスピットファイアとの機首の比較。(見越し射撃がし易そうですね)
DB601倒立エンジンは(正立V型エンジンに対してシリンダーが上下逆さま)のため、特徴として前方視界が広く取ることが可能になります。また、プロペラ軸が低く出来、軸内砲がコクピットの下へかわすレイアウトができる事で、全長をコンパクトにでき、上部胴体機銃も配置しやすい。その反面、出力向上に伴う大直径プロペラの採用がしにくく、また同時に主脚が長めとなるため離着陸時の視界/性能にも悪影響が出てしまいます。
人が操る乗り物の中で、特に三次元的な操縦を必要とする航空機においては離陸、着陸、また軍用機であれば地上攻撃、敵機の早期発見など、「視界が良いこと」が任務遂行や、命に直接関わる重要な性能です。ここではドルニエDo17爆撃機のコクピット周りの変遷を例として、当時のパイロットの苦労や、エンジニアがいかに機能やアイディアをデザインに織り込んでいったのかを見てみたい思います。
Do17 Prototype, 1934
Do17は別名Fliegender Bleistift(空飛ぶエンピツ)を呼ばれたそうです。
1934年 Do17が初飛行した当時、ドイツは第一次大戦の敗戦とベルサイユ条約により、一切の軍用機の開発を禁止されていました。しかしドイツはこの条約の実質的な形骸化を画策します。航空機分野においてはスポーツ機や輸送機の名目で航空機を開発し、技術の開発と向上に努めていました。 このため本機は高速郵便輸送機として開発されています。
下の図、左の2つはこの当時の胴体に対する主翼の取り付け位置の代表例です。低翼機は主脚の長さが短く出来、コクピットからの下方視界も良好です。しかし丸い胴体との接合と、その部分の空気の流れをうまく処理するのは難しいようです。ここの部分の接合部の覆いのことをフィレットと言います。
主翼はその強度確保のため、胴体を貫通した桁構造を持ちます。そのため胴体内の配置と桁の位置関係が設計上重要なポイントになって来ます。ましてや胴体に大きな爆弾槽を設けたい爆撃機としてはこの桁はかなり邪魔になるはず。
Do17は胴体と翼の接合と下方に開く爆弾槽の両立を図り、さらに空力的理想を追求していると言えます。
中翼機 :主翼と胴体を繋ぐ関係が理想的でフィレットがほとんど必要ない
Yokosuka P1Y 銀河
低翼機 :胴体との接合部が深いV溝になり、これを整形するフィレットも大きくなる。したがって前影投影面積も、その形状も空気抵抗源となる。しかし、ほとんどの航空機がこの接合位置を採用してますね。
Do17の胴体断面 なるほどなアイディア。しかし床面積は狭くなってしまい、輸送/旅客機としては使いにくくなります。実際、ルフトハンザ航空の審査において旅客用としては不適と判断され、Do17の開発は一旦、宙に浮いた格好になります…。
もうこれ、明らかに最初から爆撃機として設計されてますね。
中翼構造にもかかわらず、巨大なフィレットを持つ強風。これ、あまり上手くいってないように見えますね。
まるで空飛ぶ爆弾庫のようなB-24。この翼配置ではやはり主脚が長くなりますね。長く大きな足は取り付け強度も、また脚自体の重量も余計にかかります。やはりエンジンパワーがないとなかなか難しいレイアウトでしょう。
1935年 3月15日 ヒトラーはベルサイユ条約軍事制限を破棄し、再軍備を宣言します。そこで本機は爆撃機に改修され軍に配備が始まります。しかし単機で高速輸送を追求すればよい郵便機とは違い、爆撃機は編隊を組み、統制された攻撃で投弾する(水平爆撃)を行うので、編隊各機のコミュニケーションが重要になります。一方、Do17の胴体に埋め込まれたコクピットからの視界は、水平面での側方/後方の視界を翼とエンジンに遮られていて、味方同士の連携や、戦闘機の発見/迎撃などに少なからず悪影響が出たと思われ、後の改修に繋がります。
1938年 Do17S/U、最終型であるZ型よりキャビンに大幅な変更が施されます。キャビンは胴体から大きく突出し、対空火器が上下に配置され、乗員は機首に集中配置されます。この時期ドイツの中型爆撃機の典型となるレイアウトが完成します。その変更キャビンだけでなく、エンジン変更や尾翼後方から接近する戦闘機に対処するため、射撃の邪魔になる中央の垂直尾翼を廃し、双尾翼としました。 これは同時期のJu88、Do17の次期型となるDo217にも引き継がれます。
ドイツJのu88を参考にしたとされる日本海軍の対潜哨戒機「東海」も同様のデザインです。全乗員の「目」が航空機の機能と一体となったデザインといえます。
1941年 Do17の全面改良の次期型であるDo217の生産が始まります。キャビンデザインは当初Do17Zと同様の物でしたが、このDo217K型から、より一体感のあるワンモーションのデザインへと変更されます。Ju88もJu188として同様に進化します。これはエンジンパワーの増大による速度性能向上が可能になったことで、より空気抵抗の低減が必要になったのだと思われます。なめらかな機首は目的は達成できたと思いますが、この多面体ガラスのデザインはコクピット内が映り込んでしまい、実際のパイロットの視認性はむしろ悪化したのではないでしょうか。
例えるなら、ダッシュボードが前後に長く、フロントガラスと人間の距離が遠いミニバンと、ガラスが人に近いミニクーパーみたいな車、どちらが視界としてラクに運転できるか?この答えは明確です。エンジニアも用兵側の軍もはそのことを理解した上で、1ノットでも速度性能を上げることが生存性を高めると判断したのだと思います。
一方で逆台形の胴体は、多少太くはなったものの大きな変更はなく、むしろその断面形はより三角形に近くなり、一層先鋭化したように見えます。 胴体後方に人員を配置しないドイツ流の中型機の作り方が見て取れます。
Dornier Do 217 K-1
Dornier Do 217 K-1 1/ KG66 , France, 1943
こちらは尾部に銃座を持ち、実用性が高くパイロットに評価が高い米爆撃機ノースアメリカンB-25
小型の汎用機にもかかわらず、対地攻撃にも使用された伊カプロニCa311もワンモーションキャビンに改修された。
単発機として視界性能を極限まで突き詰めた独Bv141
航空機におけるキャビンの扱いは、常に設計者の頭を悩ませる課題のようです。乗員をいかに扱うかはその機体デザインの思想そのものと言えるでしょう。