今回は試作、少量生産に留まった機体を集めてみました。一口に試作で終わったと言っても、コンセプトの検証のためとりあえず製作した機体や、大量生産を目指し多くの期待を背負って開発されたにも関わらず、予定された性能が発揮出来なかったもの、高性能を示したにもかかわらず、方針の変更やその他の理由で開発中止になったものなど、わずかな試作で終わった理由は様々。
一見、思いつきで製作されたように見える機体でも、そこにたどりつくまでにはその何倍もの机上プランがあり、莫大な開発予算が承認され、お金をかけて機体が製作されます。その機体には期待された想いがあり、優れたアイディアでそれに答えようとした製作者の信念があります。
けっして主流になることがなかった愛すべきヒコーキ達・・・ご覧ください。
後退翼、無尾翼、液体ロケットエンジンを搭載したDFS194は、DFS:(ドイツ滑空飛行研究所)のアレクサンダー・リピッシュと彼のチームにより開発されました。まずゲッティンゲン航空力学研究所の複数の模型による風洞実験を経て、 1939年にDFS194がペーネミュンデにて試験飛行に供されます。DFS194は優れた上昇力と速度性能をしました。(4000mまで55秒)そして1941年、続いて製作された実用機Me163A V4が速度1000kmを記録します。 この時機体は主翼で発生した翼面衝撃波により失速を起こしてしまいます。テストパイロットのハインリッヒ・ディトマーはすぐさまスロットルを戻し事なきを得たと記録されています。この時発生した機首下げモーメントによりマイナス11G!を計測したとあるので、一時的にでもほとんとコントロール不能状態だったでしょう。翼面種撃破による失速はすさまじいものですね。
Me163Bは少数が量産され、実戦に投入されました。そのエンジンは、T液(高濃度の過酸化水素水)とZ液(触媒として用いるナトリウム水溶液)を使用します。 この危険な燃料を使用するロケットエンジンと特異な機体、そして降着装置はそり… またその操縦にはベテランパイロットを必要としましたが、Me163の実戦部隊である第400戦闘航空団にはドイツ空軍の名だたるエースパイロットの志願があったそうです。Me163の圧倒的な速度性能はエースパイロット達にとって何にも代えがたい能力だったのでしょう。Me163は特殊燃料の貯蔵庫や運搬車、漏れた燃料を希釈洗浄するため大量の水を必要とするなど、専用のインフラを必要としました。また最高機密の機体であるため、飛行場建設のための強制労働者の目から機体を隠しながらの部隊整備だったそうです。
対峙したB-17爆撃機の機長ドナルド・M・ワルツ少尉 爆撃航空軍ではこの10日間ほどドイツ上空に出現した新手のジェット(噴射式エンジンのこと)戦闘機Me163の迎撃対処法で持ち切りだった。ブリーフィングではまだ初期生産型で数が揃っておらず、ライプツィヒ爆撃では遭遇することはないだろうと部隊では判断していた。また、Me163は誰もが初めて目にする高速を出す戦闘機だから、もし遭遇すれば即座に識別できると付け加えていた。私は今回の作戦は長く、きつい戦いになると覚悟した。もし1944年の秋までにドイツの工場がこんなジェット機を大量生産したら陸軍航空隊とイギリス空軍にとってヨーロッパ上空の戦いはひどい重荷になる事ははっきりしていた。(写真は彼の乗機ではありません)
米第八空軍戦闘機パイロット 、イントップ・サマリー (階級不明) 爆撃機群と交差した後、敵機は旋回して後方の上空600mから再度接近してきた。敵機はジェットエンジンを切ったまま、翼内機関砲を発射した。私との相互距離が180mまで迫ると敵機はジェットを点火して速度を上げ戦闘空域を離脱した。その速度はあまりにも速すぎて追跡は不可能だった。(写真は彼の乗機ではありません)
P-51でMe163を一機撃墜、一機撃破の戦果を上げている第370飛行中隊 シリル・W・ジョーンズ中尉 ジェットエンジンが作動中のMe163には P-51では到底追いつけないが、ジェット飛行中でなければP-51より速度は遅いようだ。滑空飛行中のMe163の速度の増減はめまぐるしく、計測は困難である。Me163は垂直に近い軌道で上昇し、水平飛行の速度でも我々のプロペラ機ではかなわない。(写真は彼の乗機ではありません)
戦場では100両のタイガー戦車より1000両のシャーマン戦車が戦場を支配することが明白であるように、Me163の部隊は押し寄せる連合軍のまえにすり潰されてしまいます。しかし試作工場から出たばかりのような機体が実戦配備まで行ったこと自体、関係した人々の奇跡的な成果と言えるでしょう。
上の表はグラマンXF5FとボートV173が開発されていた当時のアメリカ海軍の艦上戦闘機に限ったの開発と運用期間の状況です。1936年に開始された1000馬力級戦闘機F4F/F2Aの開発が一段落した1938年、今度は2000馬力級の戦闘機の開発が始まります。これを見ると、どうも本命のF4U開発を軸に、2000馬力エンジンの開発が思うように進めなかった場合の保険としての液冷エンジンBell XFL(陸軍P39の艦上機型)と、1000馬力エンジン×2のXF5F Skyrocketがあり、さらにF4U自体の開発の保険としてのグラマンF6Fが存在しているように見えます。(実際、F6Fはその役目を果たすことになります。V173は短距離離着陸の実験機。 一見多様な機種を手当たり次第に開発しているようですが、各社の初飛行時期が見事に2年程度間隔が空いていています。かなり計画的に準備された開発スケジュールといえますね。
Vought F4U Corsair
Gramman F6F Hellcat
保険の保険?戦闘機開発ラインナップ
これら開発スケジュールは次期艦上戦闘機開発の正解にたどり着くためのプロセスの必然とも言えます。これら幅のある開発計画は、開発が上手くいかなければ無論ですが、高性能を実現した機体であっても試作で終わる機体はあります。これは発注者側の計画全体の進捗や見通しの思惑が働いているんでしょうね。メーカー側は課題に対して最大限努力するだけ。ヨーロッパや日本が国策として戦争の準備に万進していたこの時期、実はアメリカの航空機開発は国民の孤立主義、不干渉主義の影響で停滞していました。「高性能航空機はヨーロッパの戦争に巻き込まれる」という風潮があったのです。アメリカ航空機産業は民間旅客機の製造販売で利益を出す一方、軍用機の試作競作はハイリスクな商売で、コンペに勝ったとしても戦争でも始まらないかぎり大きな利益を上げるのは難しかったようです。しかしそれはまたベンチャーや中小規模メーカーがひと山当てることも可能な状況でもありました。
一方、日本海軍の1000馬力級艦上戦闘機の開発は早々と中島飛行機が辞退し、三菱一社特命開発となっています。陸軍の戦闘機開発も鍾馗や飛燕に重点が置かれ、長距離戦闘機「隼」開発は停滞していますから、日本の戦闘機開発は結構危ない橋を渡っているというか…全く余裕が無いですね。
Mitsubishi A6M2b Zero
Nakajima Ki-43 Hayabusa
Kawasaki Ki-61 Hien
Nakajima Ki-44 Shoki
恐ろしいことですが、アメリカは日本との戦争があろうと無かろうと確実なスケジュールで航空機開発が進んでいると言えます。対日戦を意識して新に開発されたのは、軽空母でも運用できるF8Fぐらいでしょうか。 そしてアメリカの艦上戦闘機は、日本との戦争中の1943年頃からジェット戦闘機の開発/試作が連なっていくことになります。
グラマンXF5Fスカイロケットは双発戦闘機としては非常に小型/軽量で、1000馬力級エンジン2基はこの機体に優れた加速性と上昇率を与えました。(2000馬力単発のF4Uを上回る) これは当時戦闘機に求められた艦隊防空能力の必須条件を満たすものでした。機首に集中配置された機銃も有効だったでしょう。ただ当初予定された23mmマセドン砲×2、12.7mm×2の武装はマセドン砲の入手困難から12.7mm4門へと減じられ、双発戦闘機機の火力としては物足りないものとなります。(アメリカ海軍もゼロ戦のような武装を同時期に志向していたのです)一方、エアロダイナミクスに関しては、前映投影面積が単発機に対してエンジン二個分が純増となります。またそのコンパクトさ故の胴体とエンジンナセルとの間の気流の干渉抵抗なども影響し、最高速度/巡行速度が当初見積もりよりも大幅に低下してしまいます。同じエンジンの単発機に対して馬力が2倍になったにもかかわらず、必ずしも速度性能の大幅な向上が果たせないのは、当時の双発機設計の共通の困難さとも言えます。それでも小型化によるエンジン余力を加速と上昇力に振り分けたので当時として優秀な性能を示し、一応の成功は見たのではと思われます。ただ、さらなる改善として燃料搭載量の増大や武装の強化、速度の向上など機体の大型化に繋がる汎用性の向上は望めず、結果 中途半端な性格の戦闘機になってしまったのではないでしょうか。また、日本との戦争が開始される中、ボート社のF4Uの開発が難航したことで、グラマン社はF6Fの開発とその大量生産、小型空母での運用のためのF4Fの生産継続など、米海軍の主力戦闘機を一手に担うことになります。戦時下、たとえXF5Fが優秀な戦闘機として完成したとしても、量産のために高価なエンジンを2基必要とする機体を量産する必要性が、F6F/F4Fを差し置いてまであるとは思えませんね・・・
XF5Fの開発はは1942年にキャンセルされますが、その経験はその後の2000馬力級双発戦闘機F7Fに引き継がれることになります。
円盤翼は主翼と胴体を個別に持たない、全翼機の一種といえます。通常の機体は揚力を発生しない胴体と、それを空中に持ち上げるための翼という構成になっていますが、これだと重力によって下向きに引っ張られている胴体を持ち上げるため、翼の付け根には過大な力が働きます。これに耐えるための構造には相当な重量を必要とします。飛行機の胴体は、飛行のためには単なるお荷物な構造でしかない、とも言えますね。そこで生真面目な人間様はシンプルな答えに辿りつきます。胴体はいらない、胴体という揚力発生に寄与しないお荷物を排除すれば翼と胴体を繋ぐ構造も不要。余分な揚力も必要としないので翼面積は小さくて済み、機体はコンパクト、軽い機体はさらに余力を生み出し・・・といいこと尽くめ。こんな機体、創りたくなりますよね! しかし現実には全翼機は大変複雑な設計を必要とします。まず、飛行機は離陸し、飛行を終え着陸しなければなりません。当たり前ですが、マッハ3で飛べる飛行機も、時速300キロで飛ぶ複葉機でもこれは同じ。つまり飛行機の翼は速度ゼロから目的とする飛行速度までの幅広い速度に対応しなければなりません。(鳥のように翼を自由に変形させることも困難ですし) 揚力を多く発生する翼は空気の流れも大きく変化させているので、高速時にはこれが大きな抵抗源となります。逆に高速域で抵抗が少ない翼は低速での揚力の発生が少ないので、離着陸時には安定性を欠き、危険です。(揚力は速度の2乗に比例する。抵抗もまた同じ)したがってその翼断面形は元々、目的に応じた、非常に狭い範囲での設計となります。それに対して、飛行機には人間を乗せなければなりませんし、推力を発生させるためのエンジンも必要。燃料を積み、離着陸のための足も付けなければなりません。これら飛行機としての必要条件を、すべて翼内に配置しようとするとどうなるか?分厚くなる翼断面を飛行に最適な断面形にするにはどんどん前後に長くなり、機体が大きくなる。大きくなったら重くなる。なにより分厚い翼は空気の抵抗が大きい・・・・あれれ? また現代の軍用機であれば、「あとステルスもよろしく!」なんて性能要求書にさらっと書いてあるんでしょうし・・・。ちなみに全翼機であるB2ステルス爆撃機の機体中央部の「胴体」っぽいは所は揚力を発生している様には見えませんよね。また設計巡航速度も超音速を想定していない様で、全翼機は高速を目的とする場合、選択されない方式のようです。しかし極超音速領域での宇宙機などには古くからリフティングボディが研究されるなど、(こちらは超高速領域で余計な抵抗になる翼はいらない、と言う概念)まこと私のような飛行機観察者にとっても奥の深い研究観察分野です。厳密にはV-173は水平/垂直尾翼もあるので全翼機というよりはリフティングボディ?(胴体翼機?)といえるのではないでしょうか。
そしてこれらの概念はブレンデッドウィングボディ (Blended Wing Body, BWB) として発展し続けています。それは最新航空機に於ける翼と胴体の概念であり、ステルス性に於いてレーダー波を反射しやすい尾翼や胴体を無くし、コクピットさえ廃止してしまった無人艦上戦闘攻撃機X-47までを一連の流れとして見ることができます。
えー話をV-173に戻します・・・
1930年代、航空機の発達は、水上艦艇にとって大きな脅威になりました。すべての艦船が、航空母艦の護衛を受けられるはずも無く、(その空母ですら、自らの艦隊を完全に防御することは非常に困難)艦隊防空は常に大きな問題であり続けます。そこで米海軍は輸送船や巡洋艦など、或る程度の大きさの船であれば運用可能な、短距離、もしくはゼロ距離での離着陸が出来る飛行機を欲していました。円盤翼は前緑が曲率を持った円弧になっているため、迎角増加時の前緑からの気流の剥離流れが円弧に沿った状態で再付着します。このことは定常で失速角を超えても翼面上に大規模な気流の剥離を発生させないので、低速/大迎角での良好な飛行特性が可能となります。これに大直径のプロペラを組み合わせれば非常に短い距離での離陸が可能となります。ボート社とともにこの概念を提唱していたCharles Zimmerman (チャールズ・ツィンマーマン)技師に注目した米海軍は、資金の提供を申し出るとともに更なる発展を推進させます。ボート社は1940-41に風洞実験用実物大モデルを完成させ各種実験の後、1942年11月にコンセプト検証のための試作機V-173を進空させます。布張りで製作された翼断面は(NACA 0015)、A-80(80馬力)エンジン2基を搭載していました。
すでに日本軍による真珠湾攻撃から一年が過ぎようとしているこの時期、アメリカの空には後にUFOの目撃情報の源流?となる「最高軍事機密」が飛行していました。
V-173はFlying Pancake(フライングパンケーキ)と呼ばれました。うーん、私なら(フライング・マンボウ)だな …
地上でのV-173はこのように非常に大きな迎角(22°)をもっています。この姿勢以上の迎角が離着陸体勢になるため、パイロットの足越しの下面側に前方を視認するための窓をもっています。V-173を試験飛行中に試乗した、かのチャールズ・リンドバーグは、その驚くほど容易な低速飛行特性に感嘆したと言われています。(ウィキペデア) ですがどうでしょう?このような姿勢で狭い船の甲板に着艦するというのは実用性があるようには見えませんが・・・
実際のV-173試作機はプロペラ延長軸と複雑なギアボックスによる振動問題に悩まされ、これに続く実用型試作機 XF5U-1もこの振動問題は解決できず、また特徴的な大直径可変ピッチプロペラの開発が遅延、1947年3月に開発は放棄されました。
大戦末期、アメリカ海軍は防空レーダー装備のピケット艦による早期警戒システムと防空戦闘機の大量配備、VT信管付きの防空弾幕など様々な工夫とハイテク装備で日本軍の航空攻撃に対抗しました。しかし、これだけの予算/装備を投入したにも関わらず、主力空母への特攻機の突入を完璧に防ぎ切ることは出来ませんでした。艦隊の防空責任者の心労は耐え難いものだったのではないでしょうか。そして戦後はソビエトの原子爆弾の開発成功により、アメリカ艦隊は更なる脅威に備えなければなりませんでした。たった一機の爆撃機が投下する核爆弾で艦隊が全滅しかねない状況下、空母以外の艦艇で運用できる航空機の必要性が一層切実なものとなっていきます。一方、空軍としても核戦争になれば陸上の航空基地は真っ先に標的となるため、飛行場を必要としない垂直離着陸が出来る戦闘機の開発が急務となります。冷戦初期に研究された短距離/垂直離着陸戦闘機の開発はこういった背景によるものです。
1951年米海軍はロッキードとコンベアに対しての垂直離着陸ができる戦闘機の研究開発を発注しました。それは艦船に対する核攻撃に対して、航空母艦以外の艦船からの迎撃を可能とするための、いわば米海軍の悲願でした。防空ミサイルが実用の域に達するのはもう少し先の話、この時期の核戦争とは、まだ人の手が多く介在する時代でした。
1954年11月 XFY Pogoは垂直離陸からの水平飛行への移行、再び垂直姿勢に戻り着陸という一連の飛行を成功させました。機体を立てた状態からの離着陸を行う機体をTail-sitterと呼びます。この機体の革新的な飛行の様子は現在でもは動画で見ることが出来ます。このエピソードはむしろ機体を操縦したテストパイロットJames F. Coleman 中佐の功績をたたえるものでしょう。本当にかっこいいです。彼のニックネームは'Skeets'(辞書によるとクレー射撃の一種、スキート射撃の意味かと。鳥が飛び立つ様を模したクレー射撃のイカすニュアンスがあるのかな?それとも飛び立つとすぐに撃たれ(墜落する)ブラックユーモアですかね・・・?うーん。だれか教えて)なお、XFY Pogoは何度飛び立っても墜落することはありませんでした。(コールマン氏は2014年に95歳で他界されています)しかし1955年本計画は正式にキャンセルされます。通常の戦闘機が超音速の時代になったこと。敵である爆撃機、攻撃機の高速化などが、比較的低速なこのような機体の存在意義を薄れてさせて行きます。また一般の艦船からの運用を想定しているため機体は小型で、もし高速化を狙いジェットエンジン化の改設計行おうとしても、燃費に劣るジェットは燃料搭載量/航続距離的に不利と思われます。(垂直離着陸は多くの燃料を消費する)
私は、それにもましてその操縦に特別な技量を必要としたことが最大の問題ではなかったかと考えます。このようなテイルシッターの機体の操縦は、ヘリコプターよりさらに高度な技量を必要としたであろうことは、私のような素人でも容易に想像できます。パイロットの養成には多大な時間とお金がかかります。また、当時は好景気ですから、軍で経験をつんだパイロットエンジニアは何倍もの高給で民間に引き抜かれてしまいます。(前回の迎撃戦闘機の項で複座機の方がスコアがよかったにもかかわらず、軍が単座機の配備にこだわったのも、このような事情もあったようです)本機のコンセプトは既存の艦艇に、迅速/大量に配備できなければ意味がありません。技術的に本機の有効性は証明できたとしても、効果的に運用することは困難だったのでは、と思います。
その後、このコンセプトは英国のホーカー・シドレー ハリアーによって実現します。その成功は推力偏向ノズルにより機体を垂直に立てる事無く、離着陸ができることが成功の鍵ではないでしようか。最近の機体ではF-35やオスプレイがあるように滑走路を必要としない飛行機は航空技術の重要なテーマの一つです。
飛行機より多くの荷物を、船より速く。
地面効果とは、地表(海面)近くを這うように飛行することで誘導抵抗(前から見て、翼端を中心として下面の空気が上面に回りこむ現象)を減少させられる効果のこと。(鳥人間コンテストのアレですね)これは翼を長くすることと同じ効果があり、少ない推力で飛行することが出来、これは理論的には非常に効率がいいものです。一般的には翼幅の半分程度以下の高度を飛行することでその地面効果が現れると言われ、地面効果機は非常に低高度を飛行することになります。また飛行といっても、陸上ではなく、起伏の少ない海面を超低空飛行しか出来ないので、飛行機と船の中間に位置する乗り物といわれます。
Экраноплан エクラノプラン
ソ連は第二次世界大戦中からこの効果に着目し、1950年代に高速船の開発で実績のあったロスチスラフ・アレクセーエフの水中翼船中央設計局により最初の試作機(船)が造られます。カスピ海、黒海(外洋のような大きな波が少ない)という内海、というか巨大な湖に面するソ連の地域限定の機体として独自の進化を見せます。これらはまさに謎の飛行物体といった風貌で、その大きさ、独自性はまさに未来的、映画的です。
映像を見ると本当に水面すれすれを飛んでいます。黒海やカスピ海には大波は立たない ?
A-90は胴体の巨大なカーゴスペースへのアクセスには首を90度横に折る方式を取ります。そのため陸上から水面への大がかりなスロープ施設が必要で、ホバークラフトのような柔軟な運用は困難でした。1990年代初頭まで稼働状態にあったようですが、結局本格運用はされることなく終わります。
ロシアのエクラノプランは古くからの油田地帯であるカスピ海沿岸、そこでの軍事プレゼンスに特化した異形の乗り物と言えるでしょう。
スーパークリティカル翼:翼面衝撃波の発生を遅らせ、もしくはその領域を後縁部に小規模に限定させるよう考案された翼断面のことです。翼面衝撃波とは(機体が音速に達する前に主翼に発生する部分的衝撃波のこと)これが発生すると抗力になるだけではなく、上面に発生するとその高圧領域により揚力の低下(衝撃波失速)や操縦安定性に悪影響を起こす現象です。この翼型は翼先端部で小規模な衝撃波を発生させ(圧力分布のピークを意図的に作る、ピーキー翼)ことで翼全体の抗力を減らす考え方から発展したもの。これにより先端のRが比較的大きくとる事が可能で、あわせて厚翼設計が可能になります。それまでの超音速対応翼である出来るだけ薄い翼、強い後退翼を必要とした遷音速、超音速機の翼型設計に大きな自由度を与えるものでした。それまでの薄くて強い後退角を持つ翼型は機体強度上設計が困難で、(薄い翼=重い翼)またスペース効率の点からも、(薄くて強い翼=燃料や脚の収納スペースなし)いい所はないのです。
Supercritical airfoil=超臨界翼型 はそのクリティカルなネーミングのわりにはとっても優しい翼断面なんです。
いわゆる一般的な翼断面(図1)とスーパークリティカル翼(図2)の比較 :スーパークリティカル翼はやや強引に上下に分離した後、翼中心付近はやや平行気味に気流を流し、後端で絞っていますね。この翼断面はたしかに気流の最速ポイントは後端に集中し、かつ極端な衝撃波も抑えられるようですね…。 遷音速(マッハ0.8あたり)に到達できる航空機で翼を厚くしたい航空機には効率が良いようで、比較的大型で高速の旅客機や輸送機に採用されています。
これでどの位揚力が発生するのか心配になりますが、離着陸時には高揚力装置(前翼スロットやフラップ)を使用することで、あとはエンジン出力に応じた最も効率のいい速度域での最適化をはかった結果なんだと思います。極論すれば紙飛行機のように推力と翼面積、それらの重心バランスが良ければ、ただの板でも揚力は発生し、飛行機は飛びますから。