第一節 古代の東北地方
古代では、現在の東北地方は、太平洋側は陸奥国、日本海側は出羽国とよがれていた。陸奥国は奈良時代初期、石城、石背両国を分けたこともあるが、また陸奥一国制に服した。それがさらに、岩城、岩城、陸前、陸中、陸奥とか、羽前、羽後国などと、区別されるようになったのは、明治になってからのことである。
陸奥国というのは、「道の奥」に由来する。それは、中央の政治や文化へ当時のことばで「王化」のまったくおよばないところ、という意味であった。そこで、中央では此の地に住んでいる人々を、未開・野蛮の意味で、蝦夷と呼んでいた。これは九州地方の住民を、熊襲ないし隼人と呼んだのと同様、異民族視した蔑称である。
こうした辺境に住む人々を蔑視する思想は、中国伝来のもので、中国では、東夷、西戎、南蛮、北狄といっていた。日本古代でも、この考えにもとづいて、東夷を蝦夷と呼んだのである。これはせまく、東国、陸奥側の辺民をさした。北国の辺民の意味で、北越から出羽地方の人たちについて、北狄のことばが使われたこともあるが、奈良時代のうちに「夷」=「蝦夷」に統一されてしまう。そして、西戎、南蛮といういいかたは、おこっていない。
これは、同じ蛮民思想に立っているといっても、日本で具体的に問題になるのは、東北の夷狄で、それも陸奥国の夷が中心をなしていたことを物語るものである。
日本書紀には、景行天皇の二五年、武内宿称が東国の蝦夷の状況を視察し、同二七年の日高見国の民状・地形を報告したという記事がある。次いで同四〇年、日本武尊が、東夷を征伐して、日高見国にも至ったということになっている。日本書紀では、この日高見国は、陸奥国のこととして扱われ、一般にもそれは、今の北上川沿いの地域であると考えられている。「北上」は「日高見」をあてたものだらうといわれている。だとすれば、この日高見蝦夷の征伐をもって、東北蝦夷征伐記事の最初といってもよいわけである。もちろんこれは伝説記事であるが、蝦夷についてももっとも古い記事である点には変わりがない。
原始期の、石器や縄文土器が、各地から出土する状況からすれば、このような武内宿称や日本武尊の東征物語が問題になる。千年も二千年も前から、いやその何千年も前から、この一迫の地域にもたくさんの人々が住み、生活を営んでいたことが明らかである。東北の縄文文化が、他のどの地方の縄文文化よりも進んでいたことも周知の事実である。したがって中央の文献で、東北の古代人を蝦夷と侮蔑したのは、縄文から次の弥生・古墳の新しい西南型文明への移行に当たって、縄文民族として、東北の人たちが、この新型文明に抵抗したことによって、このことばがおこったのである。
かれらは、長崎川や迫川を中心に、丘陵や川辺をそれぞれの天地として、狩猟し、漁撈して平和な何千年かを経過していた。もちろん、行政官などという知りもしない役人に支配されるような生活ではない。住家こそおのおの別だが、あの山も、獣も、木の実も草の実も、誰の物でもない。この山に家を建てようが、あの平地に住居を定めようが、誰にもとがめられない、ほんとうに食うことと生きることを楽しんで生活していた人たちが、思いもかけず蝦夷呼ばわりされて、西日本の政治と文化の前に立たされたのが、いわゆる「蝦夷征伐」というものだったのである。
中央では、孝徳天皇の大化元年(六四五)大化の改新が行われ、全国一律の法治国家の制度が行われるようになった。大宝元年(七〇一)には、大宝律令が制定されて、この法制主義のやり方が、最終的に制度化されるようになった。そのころはまだ、この一迫あたりに住む者まで、こうした中央の政令は及ばなかった。しかし、大化改新とともに陸奥国にも、いち早くこうした中央勢力は、南の福島方面には及んだ、のちの石城、石背方面を販図にして、陸奥国は、大化の改新とともに成立したと考えられている。
奈良時代はじめ、元明天皇の和銅六年(七一三)丹取郡が置かれた、これは今の名取郡地方で、これが足掛かりとなって、宮城県内の健郡も急速に進む。数年して霊亀元年(七一五)ごろには、陸奥鎮所が置かれ、やがて多賀城となって、本格的には蝦爽対策が行われるようになる。神亀五年(七二八)には、玉造軍団が、古川市東大崎に置かれ、大崎耕土に中央勢力が進出してきた。一迫地方に住んでいた人々の上にも、こうして影響するようになってくる。とともに古代の夜明けがおとづれたのである。
この頃までの蝦夷関係の記事を拾ってみると、
應神 三年 西暦二七二年 東の蝦夷朝貢す
仁徳五五年 三六七 蝦夷叛し上毛野田道伊寺水門に敗死
允恭朝 四三五 このごろ蝦夷南下に備え、白河」、菊田両関を設く
清寧 四年 四八三 蝦夷内附する者多く朝廷厚く遇す
敏達一〇年 蝦夷数千辺境に 寇す
崇峻 二年 蝦夷の国境を見せしむ
舒明 四年 六三二 上毛野形名蝦夷を伐っ
臭極 元年 六四二 越の蝦夷数千内附す
大化 元年 六四五 蝦夷と境を接する地、兵器の私有を許す
大化 三年 六四七 越国渟足柵を造り柵戸を置く
大化 四年 六四八 越国磐舟柵を造り柵戸を置く
斉明 元年 六五五 越・陸奥の蝦夷を饗す
斉明 四年 六五八 阿部比羅夫、蝦夷を伐つ
斉明 五年 六五九 阿部比羅夫、蝦夷国を伐つ、陸奥蝦夷二人、唐帝に示す
斉明 六年 六六〇 阿部比羅夫、粛慎国を伐つ
天武一一年 六八二 越国蝦夷二二人に爵位を賜う
持統 二年 六八八 蝦夷男女二一三人を饗し爵位を授く
持統 三年 六八九 蝦夷に得度を許し、仏像、仏具を賜う
文武 元年 六九七 蝦夷、方物を貢す
文武 二年 六九八 蝦夷、方物を献す
大宝 元年 七〇一 陸奥において治金す
和銅 元年 七〇八 出羽郡建つ
和銅 二年 七〇九 蝦夷征伐
和銅 三年 七一〇 蝦夷、君姓を賜い編戸を同じくす
和銅 五年 七一二 出羽国を置く
和銅 六年 七一三 丹取郡を置く
霊亀 元年 七一五 坂東諸国の民、陸奥に配す
養老 二年 七一八 石城、石背国を置く
養老 四年 七二〇 蝦夷反す、蝦夷征伐
養老 五年 七二一 柴田郡を割いて、刈田郡を置く
神亀 元年 七二四 海道の蝦夷反す、蝦夷征伐
神亀 五年 七二八 玉造軍団を置く
城を建て、柵戸(植民)を送り、征伐、経営を進める一方で、蝦夷を都にのぼらせて饗応する、爵位を与えて、これを慰撫する、仏教をひろめて、蝦夷の得度、入信をはかり、これに仏像や経文を与えてやり、姓を許して、普通の人と同様の戸籍に編入してやるなど、いろいろな施策を繰り返して、蝦夷経営に本腰を入れてきていることがわかる。
このような中で、玉造柵が設けられたのである。おそらく、これと前後して色麻、牡鹿、新田などの諸柵が設けられたと思われる。新田柵跡は、其の所在が登米郡新田周辺ではないかといわれていたが、今では、遠田郡田尻町北小松の地が、その柵跡の地と推定されている。である。枡形といわれる遺跡が瀬峯町の区域に入って、このあたりまで新田柵の外郭になるだろうといわれている。このようにして、大崎耕上の地を越して、栗原郡の南端まで、中央の経営が及んできたのであった。
こうした前線の基地を設ける場合、いわゆる蝦夷地とみなされる、ギリギリ一ぱいの地点に基地が設けられるのではなくて、其の基地から、かなり先まで緩衝地帯のようなものとして、その影響下に組織されていたようである。したがって、高清水、瀬峯等はもちろんこの基地からの直接支配を受け、その影響下に置かれていたと思われるのである。
新田柵が設けられ、蝦夷の宣撫工作も進められて四〇年、神護景雲元年(七六七)今度は伊治城が置かれた。伊治城は三十日かからないで出来たといわれている。しかも築城後数ヶ月にして、同年一一月には、伊治城の軍政をとどめて、栗原郡が置かれた。ここにはじめて栗原郡が誕生したのである。千二百年前のことである。伊治城は、今の築館町城生野である。出土品の布目瓦や土師器、須恵器からそのことは確認されている。ここが伊治城の本拠地であると決定されるまで、この城生野ではないかとする人、大館というから柳の目ではないか、或いは屯岡だらうという人、さまざまあったが、しかし考古学的な考証から、築館町城生野で間違いないとされたのである。
この当時の城というのは、後世の仙台城、とか、岩出山城などといわれる頃の城とは、大部違いがある。城生野の地には、本拠の役所が置かれて、常駐の軍官や鎮兵が居住しているしながら、あわせて防衛のことにもあたった。したがって本城の外の、このような開拓村落を、敵の襲撃から守るための防塁施設も、長い外塁線としてめぐらされていた。このような防塁線に守られた柵戸の村を堡村といった。城柵はこれまで含んでの施設をさした。それであるから、伊治城の場合は、城生野から、ずっと北に進み、二迫の北丘陵、栗駒町の屯岡を中心に、東は金成町沼辺の小崎、西は栗駒町要害、貝ヶ森にいたる丘陵尾根ぞいの土塁、空壕の線は、この伊治城内堡村の北を限る外塁線だったと考えられている。すなわち、一、二迫全域が伊治城ということになる。
延暦十五年(七九六)には、東国から九千人の柵戸を「伊治城に遷した」とあるが、この伊治城は、今のべたような村々を含む伊治城のことなので、城生野の軍役所施設だけの伊治城のことではない。大体今日の栗原郡相当のひろがりをさしたのである。だから栗原建郡の記事には「本是伊治城なり」とあって、伊治城のひろがりが、そのまま栗原郡に編成替えされたことを示しているのである。
投降した蝦夷たちも、このような城下村に保護されて「柵養蝦夷」というふうに呼ばれ、定着農耕の民にだんだんなっていく。蝦夷社会も、こうして全面的に農耕化の方向をたどるのである。栗駒町尾松の上品寺境内の発掘の際には、寺の建築地形をする前に、竪穴住居の柱跡が十戸分ばかりと、三方に焚口のある窯跡が出たり、志波姫町糠塚で二十戸ほどの住居跡が、又金成町梨崎でやはり二十戸ほどの竪穴住居跡が発見されたりしたのは、このようにして、一迫を含む栗原郡内に、ひろく開拓移民たちの村々が形成されるようになってきた跡と、いうことができよう。
こうして伊治城が、一、二迫川の合流点である城生野の地に置かれたことは、一迫町内の全地域が、このころ完全に中央の勢力圏にはいったことを示すものである。記録にそうなくとも、こう推定してさしつかえない。考古学上の知見はそれを裏書きしている。