第四章 近世
第一節 伊達氏の所領となるまで
天保一九年(一五九一)九月、伊達政宗が、米澤から岩出山城に移る前年の、即ち天正一八年から、この一九年の九月までの、わずか二年足らずの変転は、実に目のまわるような移り変わりである。それは豊臣秀吉が、最後に残った関東、奥州を予定して、戦国争乱の世に終止符を打ち、それとともに、南奥の覇者伊達政宗も、其の波乱に富む戦国大名に終止符を打つ時でもあるからである。
今、この二年にわたる変転を、文章にするより、年表で一覧にしてみることにしよう。
天正一八年五月九日 正宗、黒川(会津若松)発向
〃 六月五日 小田原着
〃 六月七日 秀吉、前田利家らをして、正宗をせめしむ
〃 六月九日 石垣山本営で謁見、正宗底倉に幽居
〃 六月一四日 正宗黒川城に向かう。木村清久、浅野正勝に同行。
〃 六月二五日 会津黒川城に帰城
〃 七月五日 北條氏氏降伏
〃 七月十日 正宗、黒川城を明け渡し、米沢城に入る。
〃 七月十七日 会津着、奥州仕置、小田原不参大名の処分、領地没状、大崎義隆、葛西晴信、石川昭光、白河義親、田村宗顕、岩城常隆
木村清久、大崎葛西の旧領を賜う。
蒲生氏郷、会津、安積、岩瀬を賜う。
〃 八月十二日 太閤検地、秀吉帰京
「自然相届かざる覚悟の輩これ在らば、城主にて候はば、其のもの城へ追入れ、各々相談、一人も残し置かず、なで切りに申し付くべく候、百姓以下に至るまで、相届かざるに付いては、一郷も二郷も悉く、なでぎり仕るべく候」(浅野文書)とは、検地にあたっての秀吉の厳命である。
天正十八年十月十六日 大崎、葛西旧領百姓一揆
〃 十月二十六日 政宗一揆討伐のため米沢出発
〃 十一月五日 政宗利府到着
〃 十一月十六日 氏郷松森着、次いで名生城に入り籠城
〃 十一月二十四日 政宗単独佐沼城攻撃、木村吉清父子救出
〃 十一月二十八日 この頃、政宗一揆尻押しの説あり、氏郷と誓紙交換、和久宗是、徳川家康のすすめあり、秀吉の召還状に応ずることとする。
(途中)