明治四年一一月二日、盛岡県・一関藩県・胆沢県・江刺県の四県が廃止され、改めて盛岡県と一関県の二県が置かれるととになった。一関県の管轄は、陸前国本吉・登米・栗原・玉造・気仙の五郡に陸中国胆沢・江刺・磐井の三郡、合わせて八郡であった。この時一関県参事に、仙台藩士増田繁幸が任命されている。なお菊池勝之助氏の郷土史年表にはこの時の一関県管轄を本吉・遠田・登米・栗原・磐井の五郡としている。
明治三〇年ごろ、町内の人の書いたものに、栗原県は高清水県となり、次いで一関県-水沢県-登米県となったとある。たしかにこのころは数カ月で制度が変わるという変転極まりない時代だったので、数年後には前後の区別がつかなくなる場合が多かった。この記録なども県名でなく、県庁の所在地を県名としてそのまま記録したものである。当時の記録というものも正確とは限らないという一例を示しているものである。
一関県も、県庁舎は、一関藩県当時の庁舎、旧田村邸をあてていたが、この県も短命な県で、わずか一カ月余りで、水沢県に改まる。