明治九年四月十八日、磐井県の内、磐井郡・胆沢郡・江刺郡・(以下陸中国)気仙郡(陸前国)、の四郡は、先に盛岡県を岩手県と改称(明治五、一、八)した岩手県に編入、栗原・登米・本吉・玉造の四郡は宮城県に編入させられて、現在のような県所属となった。仙台藩時代から三百年に及ぶ長い間の岩手県南諸郡との袂の時なされたのである。なおこの明治維新以来の栗原郡と岩手、青森両県とのつながりの名残りは、明治四十年ごろまで続く。栗原・登米・本吉の出身者は、明治五年の徴兵令当時のまま、青森または弘前の連隊や、盛岡の連隊に入営したのであった。雪中行軍で名を残した青森歩兵第五連隊の人々の中に、片子沢出身の伍長後藤房之介の名があるのも、このためである。
村の所属変更(郡区変更)-町村合併