宮城県に編入された栗原郡のうち、明治十一年に所属郡の変更された村がある。それは、藩政時代から栗原郡に数えられてきたところの南方・北方・新田・石越・鬼首の村々である。一時、登米県の創設当時、その県に所属させられたこの村々は、ここにおいて明確に所属が決定された。
達甲第二百廿二号
栗原郡ノ内、北方村・南方村・新田村・石越村ヲ登米郡ニ、鬼首村ヲ玉造郡ニ組替候条、此旨布達候事
明治十一年十月廿一日 宮城県令 松平 正直
このうち、石越村のごときは、現在もなお行政上の面にまで、まだ栗原郡の名残りを止めていて、これには町当局も困り、一般住民も不平を言っている。たとえば、警察関係は若柳署、保健関係は若柳保健所の管轄になっているというようなことである。
これまでの一迫町の所属してきた県の変遷を表にしてみると、
1明治元年十二月十二日 宇都宮藩取締
2明治二年三月二八日 栗原県
3明治二年八月一八日 胆沢県
4明治四年十一月二日 一関県
5明治四年十二月十三日 水沢県
6明治八年十一月廿二日 磐井県
7明治九年四月十八日 宮城県
これが栗原郡の所属の変遷であり、かつまた一迫町の変遷でもあった。明治維新以来九年間に、七回にのぼる所轄の変転である。いかにめまぐるしい変わり方であったかがうかがい知られると思う。