明治維新前は川口・嶋躰・清水ノ目の三カ村に分かれて、各村に肝入(名主・庄屋)がいて村政を扱ってきたこの地方も、明治八年(一八七五)に三カ村を合わせて、金田村と改称した。
中古以来、近世(江戸時代)まで、金田村を中心としたこの地方一帯の広い地域を金田荘と呼んでいた。
その由来はつまびらかではないが、郷土史家の調査によると、この村落東部の水田の真下は一面に褐鉄鉱が板敷のような地層をなしていた。しかもそれが稲作によく、嶋躰部落から産出する米は、酒米としても、また食用としても品質が優秀であった。そこでかつては仙台藩主の御膳米であったと伝えられている。
このような地質関係から「金田」と称したのではないか、というのである。
なお、金田の地名は、相模・武蔵・千葉などの国県にもあるようだが、呼称の詳細は不明である。
「嶋躰」の地名は、アイヌ語の「シュマタイ」-シュマは石、タイは森や林-を語源とし、石の森、石の林の意に解されている。すなわち岩石がごろごろある所、森や林がある所という点では納得できるものがある。
「タイ」で終わる地名がアイヌ語に由来することは、他にも例証がいくつもある。岩手県に、母体、姉体、弐薩体などがそれである。