監修 高橋富雄
この町史の読者は、本書をずっと読みすすんだ終り近くで、「平和の誓い」ということばに出あわれることだろう。
戦争で死んだ 数多くの人たちは
生き残った 私たちに
平和の限りない尊さを
身をもって教えてくれた
私たちはいま
ここに刻まれている 明治このかたの
たたかいで散華された五百有余人の
み霊の前で静かに反省する
平和の礎となられた この人びとや
かえらぬ悲しみをもった ご遺族に
何をなし得たであろうかを
昭和四十一年八月十五日の終戦記念の日にこの町の人たちは、深い悲しみをこめて、尊いみ霊の前に反省し、ここに刻み込まれた五百有余の人以外の名が、この碑にさらに連なることのないように、おごそな誓いを立てられたのであった。
感銘深いことばである。「平和の限り無い尊さを、身をもって教えてくれた。」深い悲しみといたわりの反省から出た感謝である。「平和の礎となられたこの人びと」に、私達は、いったい「何をなし得たであろうか。」謙虚な 心に出たことばである。「平和の礎」となられた人たち。まことに尊い。しかし、そのみ霊の前に、このように静かに反省する心もまた尊い、美しい。
わたくしは、この「平和の誓い」のことばは、そのまま移してもって、一迫の歴史につらなる 一迫の現代の心とすることができるように思った。
考えてみれば、歴史は大いなるたたかいの連続であった。過去何百年、いや何千年にわにる栗原の、一迫の人たちの歴史は、そのまま、現代の栗原と一 迫の平和と繁栄をつくり出すための尊い礎にほかならなかった。
その歴史は、人間の限り無い尊さを、身をもって教えてくれた。その前に立てば、今の私たちは、いったい「何 をなし得たであろうか」 の反省なきをえまい。
そこに歴史への原点がある。その謙虚の目だけが、昔を尊い礎として再認識するのである。
われわれはまず、このように、謙虚で、愛情にぬれた目で、わが郷土の昔に相対するのでなければならぬ。
一迫の歴史。それは、「一」の迫の歴史である以上、二の迫・三の迫に対してあるものと考えねばならぬ。こうして、一迫をとらえる歴史の目は、まず、一二三の迫の国として形成される粟原郡というものの特徴に注目せねばならぬ。迫川というのが、歴史の鍵をにぎっている。
栗原郡、それは、四国地方などの一県分にも相当しようという大郡である。単に広いだけではない。風土や歴史の成りり立ちにおいて、いろいろな特殊性を持っている。しかもその特殊性というのは、東北地方全体からすると、南的なものと、北的なもの、二つの接点、その相互浸透、というような形で、具体的にはある。古代でもそうであったし、近代においてもそうであった。
こうして、その特徴は、宮城県・東北という広い歴史の場で、栗原郡というところが、どういう位置を占め、どういう役割を果たしてきたかということを考えることなしに、いきなり一迫町だけのこととして考えようとしても、その全体像はなかなかとらえにくい。
問題は一迫町にある。目的はこの町の歴史を明らかにすることにある。それだからこそ一迫だけに限定できないという視点が必要なのである。土俵は、栗原宮城の場として設定定されて いるからである。この場所柄をよくわきまえなければ、独り相撲になる。
ただし、やはり目標はあくまでこの町の歴史を明らかにすることにある。主題にかかわりのないような形で東北一般や宮城県一般を、ただ漫然と語るというようなものではあってならぬ。その広く大きい全体を、よりよく、より具体的に説き明かす要の位置には、いつもこの町の歴史がすえられているのでなければならぬ。
この町史は、そんなふうにして、一迫町史、という個性ゆたかな郷土史の形を通して、一つの小日本史のようなものでもあろうとつとめるのである。
迫川。一迫・二迫・三迫というような呼称は平安末期にならないと明白にならない。しかし、この川とその谷々と丘陵とによって、南的な東北がようやく限られて、ここからもう一つの東北、北的な東北が始まる、ということは、明瞭なことである。その意味で、この「迫」は、二つの裏北、南北曰本の迫、というふうにみることもできる。
北方北海道方面を特徴づける土器の南限がわが一迫や岩出山あたりになることは、考古学の部においてもふれら れているところである。横穴古墳といわれる古代文化の一形態が最終的にその姿を消すのも、この栗原地方においてであって、わが一迫町は、もっとも北よりにその典型的な遺跡をとどめる代表の一 つである。栗原郡から北、岩手県にはいると、まったく様相を一 変するところの、いわゆる蝦夷塚墳墓に変るのであるが、わが栗原郡はその二種類の古墳文化が交錯している。栗駒町の鳥矢崎古墳では、その共存が確かめられている。
これは、古代史上、栗原郡というところが南北二つの東北の接点であること、を示している。南的東北の最北であるとともに、北的東北の最南でもあるのである。
この關係は、近代初頭の行政区画にも見られた。栗原郡は最終的には宮城県、南約束北の最北の郡として位置づ けられた。しかし、はじめ、この郡は、岩手県南部と一括されて水沢県とか磐井県とか呼ばれていたこともあったのである。すなわち北的東北の南限、ということである。
わが一迫町にも、はっきりそのような南的北的栗原二つの顔が、歴史の推移のうちに見え隠れしているのである。
南と北という考えとともに、東と西の回廊としての所柄、ということも、ここで同時に考え合わされなければ ならない。
一 迫町は今日でも、登米-迫-築館-ー迫-鳴子-と結んで西南方には山形尾花沢へ、西方には陸羽東線ぞいに新庄さらには庄内方面へ、そして西方には仙秋ライソぞいに秋田県湯沢・横手方面へと通ずる交通の要所である。
歴史上の東西線として、もっとも早くかつ重要だった幹線は、多賀城-色麻柵-加美郡衛-玉野-最上川-出羽国府と結ぶ線であった。ここには陸路 ・水路ともに駅が設けられていた。一迫を起点ないし中継するこの東西線の成立は、それほど古く、重要だったとはいえないかもしれない。しかし、東北の経営が北に進み、開拓の重点が仙北に移って、伊治城が玉造柵と並ぶ拠点基地として、整備されるようになると、伊治城から西へ、また西から伊治城へと結ぶ中継地として、一迫の位置は、重要性を増してきたと思われる。前九年の役の緒戦に、秋田城介平重成が、鬼切郡(鬼首)の会戦に参戦した秋田からの道、また、この対戦の大詰に、出羽山北の俘囚主清原武則兄弟が一万の大軍をひきいて南下、営岡に源頼義賞会盟する時にとたれた道もまた、この一迫にかかるあった。実際に一迫にかかったか、どこがその通路だったかを、明らかにすることはできないが、この大きな東西線の中に位置づけられて大事な役割を果たしていたことだけはたしかであろう。
こうして、義経が鼠ヶ関を越えて平泉入りする時の道ともなり、逆に芭蕉が平泉から出羽にに抜ける時の道にもなったのである。平安末期から中世にかけての、いわゆる松山道なる第二国道が、ここを通って平泉に通じていたこ とは間違いない。
迫川が開いた渓谷が自然につくり出た東西の道、それが北上川にせきとめられてつくり出した湖のような大氾濫原、それがおのずからに形成ずる北への防御としての自然景観。それが迫地帯の歴史の風土である。伊治城はこの土地の要の基地として設けられ、それを核として栗原郡が生れた。一迫は、この伊治城に結ぶ西への関門、西からの関門とLて、その歴史を展開するのである。
生活の場としての一迫。そのゆたかな特性は山王遺跡によって、遺憾なく証明。その遺物のゆたかさと歴史的な意義において、これは松島湾岸の大木囲貝塚、石巻市の沼津貝塚などとともに、県内の代表的な縄文遺跡といってよい。籃胎漆器・縄文編布など、これから基準とすべき縄文晩期の文化がここでたしかな検証をえたのであった。
この地のその後の生産・経済の状況は、必ずしも明確ではない。しかしながら、中世、奥州探題大崎氏のもとに、、大崎五郡の領土を形成する時には、栗原郡はその一におり、近世を通じて現代まで、この地帯は大崎耕土の名のもとに、著名な宮城米の産地として名を定めてきている。
本文でもふれられているように、この一迫地帯は、山よりでやや冷涼の欠点はあるにしても、乾田地帯で水の便のよいために、かえって良質美味の米産地としての発展をみることができたのである。それに水質のよいことも、この町の特色である。水にちなむ地名の多いこと、なkんずく清水の名の多いことは、一つの特徴といえるほどである。それは、近世のあの大凶作・大飢饒の時代にも、この町内から、餓死者や飢民を、あまり出さずにすんだ大きな原因の一つに数えられるであろう。安定した生産と豊かな良い水。最後のギリギジの段階で生死を分けるは、結局、この二つか底にあっての営みであったか、そうでなかったか、この違いである。、といってよい。
しかし、大凶作や大飢饒は、半ば以上、人災である。政治がよくゆきとどき、貢租や備荒・救済の措置がよろしきをえておれば、それはかなりのところまで防ぐことができる。天明・天保の大飢饒にも、武士の飢餓が全く聞かれないのが、そのことをよく物語っている。
そう考えれば、あの近世の時代に、一迫地域の最低生活の基盤を保障した政治の特徴が問題にされなければならないであろう。さまざまな変遷があって、ここには、真坂に白河氏、川口に遠藤氏、のような有力な一門・宿老家が邑主として定着する。
白河氏は、南北朝期には奥州の侍大将となった結城宗広の末裔、代々白河の関門を扼して南奥に覇を唱えた名家である。戦国期、南からは佐竹氏、西からは芦名、そして北からは伊達のなさみうちにあって、ついに独立を失い、伊達と佐竹に分属することになるが、中世以降東北切っての名門の一つである。そのような歴史の重みが、近世の一迫の一角にずっしりとすえられて、その政治を安定させるに大きく役立っていたことは、ここに特筆大書しておく必要があるであろう。
遠藤家。これはいうもでもなく、幕末維新の動乱期に、仙台藩の安危を双肩に担うことになる宿老家の一つである。仙台藩は、はじめ、但木土佐・板英力指導のもとに、奥羽列藩同盟を提唱、反薩長型路線をとった。しかし、それが惨敗に終わり、仙台藩は名状すべからざる混乱と失意におちいってしまった。このどん底から、新生仙台藩の立ち上がり・立ち直りの政治を再建し、近代仙台県=宮城県への軌道づくりに挺身するのが、遠藤である。ひろく仙台藩の救世主のような役目を果たす宿老家のお膝元として、わが一迫は、その長い歴史を閲してきた。その名家としての声望・誇りもまた、白河家と並んで、一迫におけるたしかな政治の保証となった。
中世にも狩野氏のような有力地頭がいたことが知られ、大崎の支配を経て、そのような有力地元士豪が近世には、修検寺院の先達として、根強く日常生活を支配していたさまもうあかがえる。
近世仙台藩j代の一迫では、このように、仙台から大政治ばかりではない、地元に寝ついた小政治の成り立ち・構造・動向の方が、より大きな意味を持っていたことがわかる。本文がていねいに、そういう政治の追跡をしているのも、このうように一迫としての封建時代を復原しようとつとめているからなのである。
明治以降の近代・現代になると、この町史は、俄然、精彩を加えてくる。資料が豊富になってくるからである。身近な同時代史として、最近まで存命した曾祖父たちにとっては、その見聞したり、一部はまずからがその手や足で作った歴史、踏みかためた時代でもあるからである。
執筆者たちは単にこうだった歴史、というようによそよそしいいでたちではなした、自分がそこにつながり、一部はそこで現に生きている歴史として、愛情をこめて記録している。いや時とすると、、物語っている、とさえいえる。
わたくしは、お粗末ながら監修者という立場から、あまりむき出しの感慨や感情移入は、できるだけ控えめにするように、手を加えてみた。しかし、それも、ほどほどにとめておいた。
確かに、専門家の目から見れば、その見方・扱いかた・行文に、どこかそぐわないところがあるかもしれない。しかし、わたくしは、この種の歴史には、そのような歴史叙述の持たない、ある熱っぽさがある、ととのわないために、普通の場合にはキレイごとに処理されてしまって、読者の目にまで届かずじまいになってしまう生地のある迫力がある。説得力がある。はじめは若干抵抗を感じていたわくしも、だんだんに、このたくまぬ歴史家たちの迫力にけおされて、ここは、このような歴史家たちの史観で統一する方が、かえって生彩があって説得力がある、と思うようになった。そして反対に、あまりにプロに近いととのいすぎた叙述を、むしろおさえにかかるようにさえなった。
これは、地酒の味にこの町史を統一して、灘だの伏見だのという月並みの優等の味にしたくなかった配慮からである。
そのようなつもりで、この町史を読んでいただくと、これは、近代というもの、もしくは現代というものが、底辺の地域社会において、具体的にどのようにして開幕となり、どのように進んでいって、いかなる現代として定住するにいたったのか、一つの標本のような歴史になるのではないかと思っている。そして、ひょっとすると、あまりにも大味で、どこにもあてはまるような概説などよりも、こちらの方が、生きた史料現代史として、より珍重される時代がくるのではないかとさえ、わたくしなどは思ったりしている。
その二、三の例をひろってみる。
明治のはじめ、栗原郡が明治9年に最終的に宮城県に編入されるまでには、目まぐるしいほどの変遷があった。そのことは、よく知られている。しかし、それが、具体的にどのような変遷であったかについては、ほとんどだれもその実態を極めていない。わずか百年前のことなのに、それは実際には神話のような通説となって通用している。
この町史の担当者は、地元の資料に沈潜することによって、その神話の仮面を見ごとにはぎとった。そして、さまざまな伝承の誤りなゆえんと、そのよっときたる理由とを説き明かして、明治二年の栗原県から、胆沢県・一関県・水沢県・磐井県を経て宮城県にいたるまでの変遷を復原された。
これは、近代における府県成立史を考える上でも、まことに貴重な実証研究の一つといえる。わたくしは、このようなことが、同じ時期の青森県下でも問題になりうることを最近知った。
これは、地酒の味に酔いしれるほどに親しんだ人にして、はじめて可能な歴史である。しかも、それによって、近代県制史の成立という日本史上の重要な問題に、まことに貴重な一ページを加えることもできたのであった。
また、この近代・現代編では、町村合併によって新一迫町が成立し、統合小中学校ができるまでのその校史のあゆみが、微に入り細をうがって語り続けられている。時をすると、それは、月単位・日単位でさえ語られる。それが、各村・各分校というふうに続き、えんえんとして、倦むことを知らない。
いくら、郷土の、かわいいわが子わが孫の愛らしい歴史だからといっても、これはあんまり、と思ったわたくしは、」はじめこれに大ナタを振るおうかと、筆だから大上段に、というわけにはいかないが、大分きおいこんで削除にかかろうとした。
しかし、これも思いとどまった。がんぜない子どもたちに申しわけない、気持ちもあった。いっしょうけんめいの先生方のお努力に、それでは礼を失するという遠慮もあった。しかし、それよりも何よりも、近代の教育というものが、一番下の底辺で、実際に、どのような形で、何として受けとめられてい、そこにおける一番の関心は何であり、何が喜ばれ、何が恐れられ、もしくはありがたがられたか、これをていねいに残すことによって、論より証拠、一目瞭然になる。そう思い直したわたくしは、このえんえんとして倦むことを知らない学級日誌こそは、この上ない学校百年史の白書と思うようになった。若干手を入れたのは、どこの学校にもごくありふれた出来事の項に限られた。
この執筆者たちは、その一つ一つに愛情をおぼえて、どれ一つ割愛しかねたということだったかもしれない。しかし、わたくしは、これが、その人の意識すると否とにかかわりなく、近代というものの深層風景を八ミリ映写機に写し取った記録映画として、これをこの上なく貴重なものと思うのである。
電灯は、いつどうしてともったか、自転車や自動車はだれが最初だったか。テレビ・ラジオ・郵便は。こういったことは、地域社会における近代の象徴である。その実態をていねいに語ることなしに、茶の間の近代史というものは成立しない。この本が、町民みんなの町史になるためには、そのような茶の間の歴史にならねばならない。とすれば、町史の全体構成の中で、みんなが同じように関心を持ち、話題をそこに寄せうるテーマを大切にする。ということは、この種の町史としてつよく望まれていることの一つである。
そんなこんなで、監修という名はあっても、わたくしがしたことは、そう多くない結果に終わった。しかし、逆にいえば、町史の持ち味を出すために、目立たぬ形でかなり神経を使ったという面はある。歴史という一つの枠組はやはり必要だし、時代というものの流れには、ある種の脈絡はある。そういったものを最小限かっこうをつけるための仕事をやってみた。
一迫という郷土の歴史は、こうして一巻の書物にまとまった。一人でも多くの町民が、また一人でも多くの同好の志が、これを手にして、執筆者たちの労をはげましてくれることになれば、わたくしもこれ以上のよろこびはない。