この県は、割合長期間続く。それで地方の人たちにも親しまれた県名である。水沢県名による文書も比較的多く残っている。明治四年十二月十三日、これまでの一関県を水沢県と改称。はじめは庁舎はそのままで、県名だけの改称であった。明治五年六月五日、県庁を登米郡寺池村(現登米町)に移転することになり、新庁舎の建築を急ぎ、六月二八日、水沢県登米出張所廃止し、これを水沢県本庁として執務が開始された。これは県名が登米に変わったのではなく、水沢県の庁舎が登米に移されたまでのことである。先に書いたように、地方の人が高清水県、あるいは登米県などと言っているのは正式な県名ではなくて、県庁舎の所在地を、そのまま、県名とみなしての誤りだと思う。明治六年六月五日、印刷機械が一関に入って、県庁などからの通達文が印刷されて、各村々に配布されることとなった。これまでの通達方法は、毛筆で書いた手紙を持参して、各村々に知らせていた。各村々では、いつ受け取って、何村に廻したと、その手紙の末尾に記載して廻覧していたのである。この印刷物によって、明治六年以降の通達は、たいていの町村に残るようになった。
岩手県史年表によると
明治六年六月五日、水沢県管内布告諸達の印刷発行の件を、一関熊谷金冶、加藤泰藏の両人より出願あり、文部省に伺出許可さる、とある。
しかし、それまでの諸通達は、素質の悪い紙に筆で書いたのであるから、当時の村々の要職にあった人たちの家にこの重要な文書があっても、こんなものと言うので軽く処理されてしまい、今日では、めったに発見されなくなってしまったのである。
このころになると明治の新政府も落着きが出てきて、次々とあたしい施策を打ち出してきている。三年九月には、庶民にも苗字を名乗ることを許した。四年八月十日、廃刀断髪令が出て、刀の所持が禁止された。しかし髷を切ることを嫌って、そのままチョン髷を結って死ぬまで通した人が、対象の末期ごろまで町内にもいた。明治五年八月二日、学制が頒布された。これにもとづく義務教育の発足は明治六年からというのが、町内の大部分の様子である。次いで明治五年十一月、徴兵令が施行された。こうした新政策の中で、当地方に最も関係が深かったのは農業政策であった。新政府は、富国強兵の立場からも殖産興業、農業振興にも力を注ぎ、農事改良と言う点にも意を用いた。特に遅れていた東北の農作業中、田打ちの作業について多大な配慮をしている。上方では牛などに機械を引かせてやっているので、その方法を教えるから、習い覚えるようにという、馬耕の講習会についての指令も出た。隔世の感がある。これに関する公報はこうなっている
第七十五号 各大区
今般器機ヲ以耕運之儀発行ニ付、教授人齋東与吉、其区所え巡廻セシメ候条、別紙説諭書ニ照準シ、小前ノ者江篤ト為申聞、猶現場試検ハ、同人ヨリ伝習可到、此段相達候也
但齋東与吉巡廻日限ハ追テ可相達候也
明治七年五月十三日
参事代理
水沢県権参事 吉田信敬
というのである。その説論書というのには、昔から東奥の地の百姓は、苦労の多い手仕事だけしてきた、というふうにのべている。