人には、やっかいな性向が二つある。
それは「自己中心」と「他者中心」である。
これは、第十六章で述べた「攻撃傾向」と「防御傾向」と
関係する。
「攻撃傾向」は「自己中心」になりやすいと述べた。
「防御傾向」は「他者中心」になりやすい。
しかしながら、「攻撃傾向と防御傾向」が、
「自己中心と他者中心」とイコールではない。
前者の「~傾向」は、感情(性格)によるものであるし、
後者の「~中心」は、価値観によるものだからだ。
すなわち、「攻撃傾向」でも、「他者中心」のことがあるし
「防御傾向」でも、「自己中心」のことがある。
「自己中心」は、他者を自分の道具と思う発想である。
それは、必要なければ、他者を無視する。
必要とあれば、他者を利用する。
「自己中心」で「攻撃傾向」の者は、人生をゲームと思う。
勝つか負けるかだ。
「攻撃傾向」者は、いつも勝とうとする。
だから図々しい態度を平気でとる。
卑怯なことも平気で出来る。
他者を自分の犠牲にしても構わない
だから、利用されるだけの関係なら、やがて他者は離れていく。
ギブ&テイクの関係でしか、人と長く付き合っていられない。
その意味では、独立者と言える。
しかし、人とかかわっていないと張り合いがない。
そして傾向がエスカレートすれば、他者が苦しむ様子が面白いとなる。
これは、サディズムと呼ばれるものだ。
「自己中心」で「防御傾向」者は、いつも負けないようにする。
勝たなくてもいいと思う。
だから、「防御傾向」者は勝負が嫌いだ。
人生をゲームとは思わない。
人生を因果と思う。
自分を守るためなら、手段を選ばない。
傷つくことを恐れるため、人と付き合うことが苦手で、
無理に、付き合わなくてもいいと思う。
その意味では、孤独者といえる。
寂しさなどのストレスを、
陰口など間接的な他者への攻撃で晴らす。
そして、世間でひどく攻撃を受ければ、
引きこもりになる。
「他者中心」は、他者を気にする人だ。
他者から侮られること、非難されることを恐れて生きる。
他者は気まぐれであり、判断は漠然としている。
だから人は、世間体を気にする。
群れの動向を気にする。
または絶対的なものを信じる運命論者や信仰者となる。
「他者中心」で「攻撃傾向」であれば、
他者を、世間体でもって制御しようとする。
秩序の維持に価値観を置く。
すなわち、ルール、マナーなど形式を尊重する。
保守的となる。
「他者中心」で「防御傾向」であれば、
他者に嫌われること、迷惑をかけることを
ひどく恐れるため、臆病となる。
他者に気に入ってもらうために、
自分を他者の犠牲にするようになる。
相手が喜ぶことが最優先され、
自分が不利益になることも厭わなくなる。
エスカレートするとマゾヒズムとなる。
過剰に傾向が進むと、性格が倒錯する。
思い込みが強くなり、他者中心が自己中心となる。
自分のために他者を利用している点で、
サディズムと同じになる。
サディズムとマゾヒズムは傾向の両極端で、
紙一重にあると思われる。
当然ながら、人は、「~傾向」と「~中心」のバランスの
それぞれに、落ち着いた位置にいる。
その位置は、その人の能力、性格、経験、環境によって決められる。
そして、これらのそれぞれ勝手な立場の人が集まって、
群れや社会を作っている。
その中で、人生を切り開いていくのに適するのは、
「攻撃傾向」にあったほうがよいし、
「自己中心」側にあったほうがよい。
「攻撃傾向」は、チャレンジ精神につながるし、
「自己中心」は、自分の人生の主導権を、
他より自分においたほうがよいに決まっている。
次に重要なことは、他からの攻撃を恐れないということだ。
攻撃を恐れたからといって、攻撃されないわけではない。
「出る釘は打たれない」というからといって、
頭を下げてばかりいるわけにはいかない。
他人を恐れない。
他人を気にしない。
それが「度胸」と言われるものだ。
完璧な人間などいない。
いるのは、自分の頭の中にいる想像の他人だけだ。
あざ笑われればいい。
無視されればいい。
怒鳴られればいい。
動物が吼えているだけだ。
そう思えばいい。
彼らは、所詮、ただのヒトという動物。
凶暴だが臆病な動物。
彼らの意味のない攻撃に、まともに相手にすることはない。
しかし、「攻撃傾向」は、反撃されるというリスクが多いし、
「自己中心」は、やがて群れからはじき出される恐れがある。
過剰に走ってしまわないように、
本能の赴くままにならないように制御する必要がある。
他人からの攻撃は容赦なく、骨身にしみるが、
自分が自分を戒めるには、甘えが出る。
自分を律する気力、それが「勇気」だ。
「度胸」で進み、「勇気」で退く。
これが、人生を切り開く指針と言える。
『哲士は、闊達自在(かったつじざい)、
こだわらず、自由に振舞う、
そのための度胸と勇気を持つ』