人生は楽しむためにある。
楽しむとは、快さに包まれること。
しかし刹那の快さではない。
安定した快さ。
豊かな快さ。
それが本当の楽しさだ。
楽しさが持続すれば、幸福。
しかし楽しさは、容易には持続しない。
楽しさはやがて、終わる。
終わらなくても、飽きる。
そして醒める。
人は、自分に鞭打たれ、楽しみを必死に求めるが、
手に入れた途端に、その一瞬の快楽とともに終わる。
そして、忘れる。
そんな断続的な快楽の繰り返しを、せめて幸福と呼ぶ。
生きることは、命のエネルギーを環境から獲得することだ。
その獲得には、苦痛が伴う。
しかし、その獲得を成し遂げれば、快さに満たされる。
生きることには、命のエネルギーを費やす快さもある。
だが、獲得が思うようにいかなければ、また、新たな苦痛に襲われる。
悔しさ、後ろめたさ、歯がゆさ、嫉妬、絶望。
生きるとは、そんな不快苦と快楽の繰り返しだ。
人生は、苦痛ばかりでもなければ、
快楽ばかり続くわけでもない。
だから、せめて人生に、楽しさを求めていい。
さらなる楽しみに、挑戦してみていい。
そのことに、臆することはない。
しかしその楽しみは、大きな道理に従わなければならない。
楽しさは喜び。
喜びとは、世界が広がること。
環境を、新たに変えれる可能性を手に入れること。
それは出会いと言える。
自分を含めて、知性との出会いだ。
人と動物を隔てるのは、この知性の存在。
知性は、環境を変えようとする力だ。
そして知性は、やがて環境の大きな道理を守ろうとすべきものだ。
知性は、人が人であるためのプライドだ。
知性の出会いには、尊敬が含まれなければならない。
出会った知性が、優れているとか、成熟しているとか、
そういうことだからではない。
大きな道理を守ろうとする知性に対して、尊び敬わなければならない。
それは、年齢や性別や身分とは関係しない。
その意志がある者に対して、尊び敬わなければならない。
大きな道理を守るとは、自分を守ることだ。
自分を含めて環境を守ることだ。
自分を含めて環境の未来を守ることだ。
それは、自分も環境も、奇跡で成り立っているからだ。
奇跡には、感謝しなければならない。
感謝するということは、恩を返す、
すなわち守るということだ。
守って維持する、それが感謝だ。
因果は廻る。
知性が、大きな道理を守ろうとすれば、
それは、新たな出会いを呼ぶ。
知性の出会いは共鳴し、感動を呼ぶ。
感動は、大きな道理が何かを教える。
新たな知識は、新たな喜びを生み出す。
そして、出会った者同士が、尊敬し合えば、
そこには、愛が生まれる。
優しさに満ちた、慈愛だ。
愛はまた、喜びを生み出す。
喜びは、生きる楽しみを生み出す。
その楽しみのために、人はまた、大きな道理を守ろうとする。
知性を磨き、自分を律する。
そのために人は、苦しみを敢えて受ける。
『哲士は、因果応報、
自然の大きな道理の中に、
楽しさを見い出す』