私たちの体は、永遠と続いてきた生命の
連鎖の成れ。
私たちは、生命を与えられた。
生命構造を与えられた。
生命構造は、やがて意識を生んだ。
意識はまるで、生命の主のように振舞うが、
しょせんは宿り主。
結局、生命は、意識の思うままにまるで動かない。
なぜなら、この生命も、生命構造も借りものだからだ。
生命連鎖の借りもの。
大切な、自然からの借りもの。
奇跡に近い借りもの。
私たちがすべきとは、この借りた生命を永らえることと、
感謝すること。
それは、他の生命を尊重することでもある。
そしてやがて、この生命も、意識から去っていく。
人は苦しむ。
なぜ苦しむのか?
生きることは、環境からエネルギーを取り入れ、消費すること。
手に入れ消費することは、喜び。
しかし、エネルギーを取り入れるためには、
環境に働きかけなければならない。
それは、苦労を生む。
そしてまた、環境から逆にエネルギーを奪われることもある。
それも苦しみを生む。
生きることは、苦しみ。
苦しみの中で、人は時折、喜びを見つけ拾い上げる。
それが、当たり前だった。
しかし生活が豊かになると、日々の中で、
大きな苦しみはなくなる。
苦労がないから、ささやかな喜びにも、人は慣れてしまう。
苦しみも喜びもない、ニュートラルな状態が続く。
だから、少しの苦しみにも耐え切れないようになり、
大きな喜びばかりを求めるようになる。
大きな喜びは、そうは簡単に手に入らない。
手に入らないことを諦めきれず、それに固執すれば、
それは、苦しみとなる。
苦しみの増幅が始まる。
ささやかに喜ぶこと。
ささやかに楽しむ。
ささやかな楽しみを、嗜むという。
それが、苦労をしのぐ。
苦しみに打ち勝つ。
ふたたび言おう。
「心溜まり」は、穏やかな領域。
潔く、静かで優しく、正しい領域。
その領域は、心にあたえられた衝撃をクッションのようにやわらげ、
人が衝動で反応してしまうのを防ぐ。
欲望や感情のなすがままにならない。
人に思慮深さを与える。
それは、大いなる道理を見失わせない。
そして、「心溜まり」は嗜む。
生きる苦労の中で、ささやかな喜びを嗜む。
それが幸福だと知っている。
生きていることは、それだけで喜びだと知っている。
『哲士は、虚心坦懐、
心にわだかまりを持たず、平静に、
ささやかな喜びを嗜む』