幸福を求めるならば、秩序が必要である。
秩序とは、すべてのものにおいて整理整頓されていることである。
混乱雑多の中にいては、目指す幸福を見失い、
追い求める道筋がわからず、足掛かりもない。
だが、秩序に縛られることはない。
秩序は幸福を求める手段である。
身の回りの環境が変われば、秩序も変わる。
また、今の秩序が大雑把すぎる場合もあれば、
秩序が細かすぎる場合もある。
現状に即していない秩序は、それを守るのに負担が多くかかる。
秩序を見直し、新たに作るためには、
今の秩序をあえて壊す必要もある。
整理整頓をより合理的にするためには、
今の整理棚を取り外さなければならないこともある。
秩序は、いつも論理性、システム性、シンプル性、バランス性によって
見直される。
そのために身の回りの環境はいつも把握されていなければならない。
環境をたえず把握し、理解し、それに合った秩序を構築するためには、
人の能力の向上が必要である。
ゆえに人は、成長を望む。
幸福を求めるということは、自分の成長を求めるということでもある。
人は誰でも、多少は自己中心である。
自己中心で、物事を考える、
そういう強引さも、世の中を渡るには必要である。
しかしそれは、自分を取り巻く環境をある程度把握してである。
秩序を構築するための強引である。
今の整理棚を取り外す強引である。
そういう思い切りも必要である。
だが根本には、自らの成長への望みがある。
自分の成長を顧みない者たちがいる。
幸福を望まないのではないが、
自分の成長を望む必要性を強く認めないのである。
彼らには、「輩(ヤカラ)」のような明確な「悪意」はない。
彼らは、自己中心なだけである。
自分勝手に生きるだけである。
気に入らなければ、自分を取り巻く環境を変えようとするが、
それは気まぐれである。
だから秩序の構築も望む必要がない。
環境のことも考えなければ、自分のことも深く考えない。
だから自分の成長など思いもしない。
彼らは未成熟のまま成長を止めてしまった人たちである。
彼らは成長しない「子供」、
「大人」になりきれない「大人」である。
彼らを、「小人(コトナ)」と呼ぼう。
人はそれぞれの環境の中で生きる。
その環境との係り合いにおいて、
大人は状況を理解し、調和を図ろうとする[調和型]。
そこに合理的な秩序を構築しようとする。
他人には、気遣いや思いやりを持って接する。
だが小人(コトナ)は、環境の係わりにおいて、
次の三つのタイプで対応する。
[攻撃型] 環境に対して敵対的、攻撃的になる。
感情反応が強い。
[無視型] 環境を気にしない、状況を考慮しない。
快楽欲求が強い。
[逃避型] 環境に対して保身的、逃避的になる。
不快苦回避欲求が強い。
これら三つの対応型から、
小人(コトナ)はいくつかの性分を示す。
[攻撃型]
癇癪(かんしゃく):気に障るとすぐに感情的になる。
機嫌が良かったり悪かったりが極端である。
頑固(がんこ) :思い込みが強い。
自分の思い通りにならないと機嫌が悪い。
融通がきかず、考えを変えない。
仏頂(ぶっちょう):何に対しても不平不満である。
いつも不機嫌で、文句が多い。
不満から人に嫌がらせをすることがある。
苛立(イラだち) :不満からいつもイラついている。
嫌味や捨て台詞が多い。せっかち。
イラツキから人に嫌がらせをすることがある。
小言(小言) :気に入らない者にすぐ小言や注意をする。
自分は抜け目なく行動しようとする。
横暴(おうぼう) :しぐさが乱暴。
人への非難が激しい。
偏屈(へんくつ) :他人の意見に従うのを嫌がる。
自分の意見(へりくつ)を押し通す。
過敏(かびん) :他に対しての不信感から神経質になる。
他人の落ち度を過敏に気にする。
[無視型]
我儘(わがまま) :思いつきで他への迷惑を考えない。
他人は自分の道具であるという思いが強い。
嘘吐(うそつき) :自分を正当化するため手段を選ばない。
嘘に嘘を重ねていく。
猛進(もうしん) :思い込んだら突き進む。
他人の存在が目に入らない。
自分が主になり他人に任せられない。
愚鈍(ぐどん) :物事を十分に理解しない、できない。
間が抜けている。早とちりする、
がさつ。
餓鬼(がき) :なりふり構わず欲望を通す。
品位がない。
適当(てきとう) :無責任。ぞんざい、なおざり。
自分に都合よい理解でことをなす。
[逃避型]
小心(しょうしん):臆病で、物事の成り行きを悪く考える。
消極的、保守的。
他と争おうとも和もうともしない。
陰気(いんき) :他に対して強く働きかけない。
自分の世界に閉じこもっている。
卑怯(ひきょう) :他人のせいにする。
肝心な時に逃げる。
無情(むじょう) :感情が乏しい。
他人の感情に気づかない。
無頼(ぶらい) :他人や自分に対しても強い関心がない。
興味のあることだけをする。
媚諂(こびへつらい):強い者に取り入ることで、保身する。
これらの性分は、複合的に表われる。
彼らに明確な「悪意」はないが、全くないわけではない。
人は自分のストレスを減らすため、多少の「悪意」を持つ。
多くは自分で「悪意」と気づかない程度のものである。
強く明確な「悪意」を持つ者は、「輩(ヤカラ)」と述べた。
彼らもほとんどが小人(コトナ)の性分を併せもっているが、
その性質が強力とは限らない。
明確な「悪意」を持たず、その性質が強力な者がいる。
彼らは「悪意」を持たないが、「優しさ」も「遠慮」も持たない。
彼らは、その性質のままに傍若無人に振る舞い、
回りを不毛にしていく、小人(コトナ)の強力タイプである。
「輩(ヤカラ)」が「災いの人」ならば、
彼らは、「厄介な人(不毛人)」となる。
自分だけが幸せになるのでなく、自分を取り巻く回りも幸せになれば、
より人生は豊かで、安定し、楽しさに満たされる。
より幸福になれるのである。
それが満たされたとき、人はただの快感ではなく、爽快を感じる。
爽快の風が吹くのである。
秩序欲求が満たされたとき、人には爽快の風が吹く。
それは成熟した人生に、人を導く風である。
小人(コトナ)は爽快の風が吹くことに気づかない。
または、爽快の風に吹かれたいとは思わない。
目の前のつかの間の快楽や不快回避にとらわれているからである。
そして彼らは、厄介と不快を回りにばらまく。
それは「陰鬱な淀み」を生む。
そこは険悪・陰湿、殺伐、不安が渦巻いている。
その淀みは、容易には吹き払うことは出来ない。
その淀みに巻き込まれてはいけない。
渦巻く陰鬱な、感情と欲望に巻き込まれてはいけない。
小人(コトナ)と同じステージに立ってはいけない。
彼らの厄介と不快をまともに受けるだけである。
彼らは異常である。
異常に正常が敵うわけがない。
こちらも異常にされるだけだある。
彼らは一見、正常に見える。
それに誤魔化されてはいけない。
程度の差があれ、彼らは異常である。
淀みを上から傍観する、そういう心構えが必要である。
人には三つの大きな本能がある。
生存本能(命を守る)、種存本能(子孫を残す)、
そして存在本能(自己を主張する)である。
これらの本能は、様々な欲求を引き起こす。
だが、それらの欲求がすべて叶うことはない。
また他人にも様々な欲求があるため、多くの衝突が起こる。
葛藤が生まれる。
欲求不満が起こる。
そして激しい抑圧は、心に損傷を与える。
損傷は心に、強い怒り、不安、悲しみ、怯えを残す。
これら葛藤、不満、損傷を解消するため、意識はいくつかの理屈で、
自分を納得させようとする。
意識は環境、経験、学習によって得た知識で、それらの理屈を作り出す。
どのような理屈で納得するかは、それぞれの人の生まれつきの気質に
よる。
子供はまだ経験が十分でないため、その理屈が未熟であるが、
やがてその理屈が成熟し、理性的になっていくことが、
大人になることである。
その理屈が理性的であるかどうかを顧みず、
自分が納得した理屈を盲信し、未熟のまま停滞してしまった者が、
小人(コトナ)である。
その理屈は筋が通っているいないに関係なく、
信念となって、その者を支配する。
その信念は、続く経験や知識によってさらに強く塗り固められていく。
自分の信念に都合のいい知識ばかりを取り入れ、
不都合なものは排除していくからである。
そしてそれは、その者の鎧となる。
その鎧は身を守るために、他の何も受けつけない。
その身を縛りつけ、成長を止める。
性質はさらに歪み、どんな失敗をしても決して態度を改めない。
態度を改めることは、過去の自分を否定することとなるからだ。
過去の自分を正当化しておくため、成長を拒否するのである。
人が人と接するとき、互いの利害関係が不明な時は牽制が起こって、
互いの言動にも遠慮がある。
しかし互いの利害関係が明確になり、
自分に優位性があるとわかると、小人(コトナ)は本性を現す。
小人(コトナ)は遠慮なく、立場の下の者を傷つける。
良識ある大人は、相対する者を、通常は自分と同じ良識ある大人と
思っている。
そして相対する者の、自分に対する態度を気にする。
相手がまさか小人(コトナ)だとは思っていない。
そして、小人(コトナ)の横暴をまともに受け取る。
混乱し傷つき、後悔しクヨクヨ悩む。
われわれは、その者が小人(コトナ)であるかどうかを
見抜かなければならない。
その者の言動に誠意がなく、異常を感じれば、
その者は小人(コトナ)の可能性がある。
小人(コトナ)とわかれば、その者の言動を真に受けてはいけない。
まともに相手にしてはいけない。
彼らの厄介や混乱を冷静に切り抜ける。
彼らに敵対してはいけない。
彼らに憎悪や恨みつらみを募らせたところで、
やがて自分が「陰鬱な淀み」を撒き散らすようになるだけである。
彼らの「厄介」は、他人だけでなく、やがて自分にも降りかかっていく。
やがて彼らは自滅していくのである。
暴走する者は強く、回りを蹴散らしていくが、
やがて大きなトラブルを引き起こす。
彼らの横暴は、結局、彼ら自身で罰せられるのである。
彼らが変わることを決して望んだり、信じたりしてはいけないが、
彼らにも誠意をもって接すれば、やがて少しは調和できるかもしれない。
われわれが恐れ、敵対するのは、彼らではなく、
自分の中にすむ小人(コトナ)の要素である。
誰もが心に持つ小人(コトナ)の要素を、
大人として制御することである。
それが哲士道である。
(2012.2.1)