ヒトは、動物だ。
「楽がしたい」「楽がしたい」と啼く。
「欲しい」「欲しい」と啼く。
「損だ」「得だ」と吼える。
そしていつも、「不満だ」『不満だ」と呻く。
群れの中で、その動物は、それらの欲求不満の原因、
すべてを、まわりのせいにする。
その腹いせを、まわりの弱いものにする。
まわりのものに、自分都合の完璧を要求する。
いい加減に怒って、やがて仕方なく、おさまる。
そして、群れの中で、その動物は、
それらの慢性の欲求不満を解消するために、
強いものの陰に隠れて、または徒党を組んで、
弱いものをいたぶる。
いたぶって、面白がる。
その知能の発達した動物は、面白がれればよい。
自分が面白ければ、何でもよい。
回りのことを思いやるゆとりはない。
だから、群れの中では、殺気立っている。
いたぶり合いを繰り返している。
いたぶりを競い合う。
しかし思うように行かず、欲求不満はさらにつのる。
ヒトは猛獣であり、かつ非常に臆病な動物である。
獰猛だが、ひ弱な動物である。
嘲られるのを恐れる。
低い価値に見られるのを恐れる。
存在を主張するために、「知性」は「プライド」を生み出した。
「プライド」は、ヒトの生き方の指針。
だから、「プライド」が傷つけられることを、ひどく恐れる。
だが「プライド」は、「知性」が知識から作り出した観念。
「プライド」は、傷つけられる度に、より過敏になっていく。
「プライド」は、生きる指針を通り越して、生きる束縛となる。
その知能の発達した動物は、それらの欲求不満から、
大きなストレスにならないように、
自分を責めないように、
そして、プライドを守るために、
理由づけて解決しようとする。
「知性」を利用して、無理にでも自分を納得させる。
自分を正当化する。
しかし、「知性」が豊かになれば、強引に自分を正当化することに
無理を感じる。
だから、やがて「自分」を通り越して、「全体」を見ざるを得なくなる。
「先行き」と「広がり」を見ざるを得なくなる。
「全体」を見るから、「まわり」が見れるようになる。
「まわり」を思いやらざるを得なくなる。
人生を切り開いていくためには、欲求も不満も必要だ。
危険を回避するために、「恐れ」も必要だ。
生き方において、大きな道理に従っていくという
「プライド」も必要だ。
しかし野放しにしておけば、それらは暴走する。
「理性」は、ヒトという動物を手なずける。
鞭と飴を用いて、手なずける。
鞭を打ちすぎて、消沈させてもいけない。
そんなヒトという動物の哀れさと愛おしさを知る。
その時、「ヒト」は、「人」になる。
「まわりを思いやること」が、人の心に、ゆとりを作り出す。
そこでは自分を越えて、客観的な立場でいられる。
心が動かず、「知性」が留まれるところ。
「心溜り」と呼ぼう。
「心留り」の中で、「知性」は、「理性」と変わる。
「理性」はやがて、「世界」を知り、その調和を知る。
自然の「大きな道理」を知り、「生命の奇跡」を知る。
「生命の奇跡」から「生命の尊さ」を知る。
「生命の尊さ」から、「生きる意味」を捜す。
人は、ものごとを達成する喜びを知っている。
自分によって、環境を変えれる喜びを知っている。
環境を変え、ものごとを達成するために、
人の「意識」は生まれたからだ。
そして人はいつか、そのために「秩序」を求める。
自然の秩序は、美しい。
世界は調和して、美しく輝く。
人もまた、美しくあるべきだ。
理性は、人を美しくする。
人は、動物を脱しようとする美しい動物。
人はその時初めて、
幸福を目指す「ポシション」に立っている。
『哲士は、品行方正、
理性と言う鏡に己を映し、
美しく振舞う』