「みんなの声をつないでいく、みんなのラジオ局でありたい!」
宮城県山元町の小さなFM局「りんごラジオ」が6年目の春をお知らせします
未曾有の大津波に襲われた直後の町で、地域に特化した情報を発信し、
みんなの心を励ました小さなラジオ局があります。
宮城県山元町の災害FM局「りんごラジオ」。震災から6年目を迎えた今も、
住民たちの声を伝え続け、もう、町になくてはならないメディアです。
「いいまちには声がある」―。心と心を、人と人とを結ぶのは声、言葉。
たくさんの思いを乗せたりんごの声が、今日も町に流れていきます。
山元町は宮城県の沿岸市町として最も南にある町です。
南北に延びる直線的な海岸と、西に連なる山地との間に、海抜1〜2mほどの平野部が長く広く続いています。
平野部には田んぼや畑が広がり、小さな集落や屋敷林に囲まれた農家などが点在していました。
山元町といえば県内有数のくだものの産地でもあります。
平野部で栽培されるいちごの生産量は東北でもトップクラス。また、西部にはりんごの果樹林が広がっていて、アップルラインという愛称で呼ばれる山辺の道を辿れば、秋には陽光に輝く真っ赤なりんごたちに出会えます。
東北の湘南とも呼ばれる暖かな気候の下、海と山の風に包まれた実り豊かな田園のまちは、穏やかな時間を刻んでいました。
しかし、東日本大震災の大津波は、そんな穏やかだったまちの平野部へ軽々と乗り上げ、海岸沿いの6行政区の全域と、丘通りの4行政区の一部を飲み込んだのでした。
浸水範囲の面積は町の総面積64.48平方㎞の37.2%に相当する24平方㎞。また、推定浸水域の人口は8990人で、震災直前の2月末現在の人口の53.8%にも達します。
町の人たちはバラバラになって、いくつかの避難所に分散するように避難しました。
電気もない、暖房もない・・・。それどころか食料も着替えも、飲み水さえも不足していました。
「この町は一体どうなってしまったのか?」
「自分たちはどうすればいいの?」
町役場も、安否情報、水や食料の確保、町内の被害状況……。住民に知らせなければいけない事柄はいくつもありました。
しかし、防災無線も使えず、広報車は津波に流されてしまい、文書の印刷も配達もできない。役場は手書きの掲示物を避難所に張り出すなどが精一杯。
行政も住民も、情報の発信受信ができないもどかしさのなかにありました。
「正しい情報をみんなに伝える手段の確保が急務でした」
そう話すのは、「りんごラジオ」の局長、高橋厚さん。元東北放送のアナウンサーで報道局長も務めた方です。
高橋さんは退局後、山元町を終の棲家として選び、移り住んでいました。
町役場の片隅にあるプレハブが「りんごラジオ」の放送局
高橋さんは、やがてやってくるかもしれない宮城県沖地震に備えて、コミュニティFMを開局する構想をずっと抱いていました。そして、震災の直後、新潟県の「FMながおか」の脇屋雄介さんに「臨時災害FMラジオを山元町に開局したい」と協力を依頼しました。
脇屋さんとは、災害時の情報発信を考えるシンポジウムで出会った間柄でした。
「長岡とやっと電話が通じたのは震災から3〜4日が過ぎてからでした。脇屋さんは早速機材などを持って山元町へ来てくださいました。私たちもスタッフたちを急編成。脇屋さんたちの技術支援もいただき、そして震災から10日後の3月21日午前11時、最初のコールサインを発信したのでした」と高橋さん。
同日10時から、まず音楽を放送。そして11時、最初に放送された言葉は
「山元町の皆さん、山元町の情報をお伝えするために『りんごラジオ』が放送を開始いたしました」というものでした。
「りんごラジオ」放送中
「りんごラジオ」という局名の由来は、
「終戦直後、敗戦にうちひしがれた人々の心を、明るく元気づけてくれた歌がありました。並木路子さんの『りんごの歌』です。私たちもみんなを元気づけたい、明るくなってほしいと願い、そのタイトルにあやかって、局名を『りんごラジオ』と名付けたのです」(高橋さん)
さらに3日後には、同じくFMながおかの支援と協力を得て、隣の亘理町でも災害FMの放送が始まり、宮城や岩手の沿岸市町でも災害FM局が続々と開局します。
電波行政を管轄する総務省も、当時は自治体から開局許可の依頼があれば、電話だけでこれを許可していました。
そして、全国から中古のラジオが被災地に届けられる活動も展開されていたこともあり、電池があれば聞くことのできるラジオは、携帯性と機動性、何より速報性において、あっという間に被災地でのコミュニティメディアの主役となったのでした。
「山元町や亘理町の情報は、どのマスコミ局も報道しなかったか、されても小さな扱いでした。」(高橋さん)
「りんごラジオ」は、役場と協力し、震災後の町の状況や様子を丁寧に放送しました。安否情報、ライフラインの復旧状況、入浴できる場所、営業を再開したお店やガソリンスタンドのこと。
そして役場の各部署からのお知らせ、各種書類の申請の方法や相談の窓口についてなど、町長や、役場の各部署の部長や課長も直接マイクの前に立ちました。
町の最新の情報は、すべて「りんごラジオ」を通じて知らせることができたのです。
町内の情報に特化したきめ細やかな放送は、町の人たちにとって、まさに「命綱だった」と言っても過言ではありません。
スタジオに来てくれた子どもたち
スタジオに来てくれた子どもたち
震災から5年が過ぎました。
他市町で開局した災害ラジオは、早いところは1カ月以内に、多くは1年以内で閉局しました。5年も放送を続けてきたのは、県内では「りんごラジオ」と、亘理町の「FMあおぞら」、女川町の「おながわさいがいFM」、そして「けせんぬまさいがいFM」の4局です。
「りんごラジオ」は今年4月以降も継続が決まり、ついに6年目に突入。
放送の内容も「復旧の事柄から復興の話題へ」と変わりつつあります。
「復興は、ハード面での整備は確かに進んでいます。でも、心の復興はまだまだ。大切なのは町民の声を発信し続けることだと考えています」(高橋さん)
最近は中継に出ることも多く、街角の声、幼稚園・保育所の子どもたちの元気な声なども発信中です。
また、町議会の中継も「りんごラジオ」が担当。聴取率も高いそうです。
高橋さんは
「いい町には声がある。声なき町は死せるに同じ」と言います。
「災害ラジオとしてだけでなく『山元町には声がある、元気な声がある町』として、もっとたくさんの人の声を発信していきたいと考えています。できるなら、亡くなった人たちにも聞かせたい・・・。そんなふうに考えながら、皆の声をつないでいきたいです」
2016年2月10日の番組表
みんなの声が、みんなの耳に届けられ、みんなの声が行き交います。
遠く見上げる青い空の下、「りんごラジオ」の〝みんなの声〟は、今日も心と心を結び合わせ、周波数80.7MHz、出力30wで元気に放送中です。