「宮城の歴史をつくったサン・ファン・バウティスタ号!」
宮城県石巻市。津波にも耐えた帆船の雄姿が、勇気と希望を未来に伝えます。
400年前、遙かローマを目指した慶長遣欧使節一行を乗せて太平洋を渡った
「サン・ファン・バウティスタ号」の復元船を展示する宮城県石巻市「サン・ファン館」。
施設は大津波で傷つきましたが、船は耐え、ドックに留まり、国内外から寄せられた
たくさんの支援を受けて、震災から2年8カ月後、施設は再開しました。
「やっぱりかっこいい」「勇気が湧いてくるね」。歴史を築いた帆船の雄姿に、
未来をつくる私たちの夢と希望が重なります。
今から約400年前の江戸時代初頭。
遙か海の向こうに貿易の夢を膨らませていた仙台藩主伊達政宗は、ノビスパニア(メキシコ)との直接貿易の許可を得ようと、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇に使節団を派遣しました。
歴史に名高い「慶長遣欧使節」です。
このとき使節団一行が乗船した船は「サン・ファン・バウティスタ号」。
使者に選ばれた伊達家家臣・支倉常長や宣教師ルイス・ソテロを乗せて、慶長18年(1613)10月28日夜、現在の石巻市月浦港から出帆し、90日かけて太平洋を渡りメキシコに到着しました。
さらにイスパニアの船に乗り換えて大西洋を渡り、イスパニア国王フェリペ3世に謁見。ローマで教皇パウロ5世に拝謁しました。
現在の「サン・ファン・バウティスタ号」
常長たち慶長遣欧使節は「初めて太平洋と大西洋を横断した日本人」であり、また日本人として初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉を行った人物なのです。
石巻市は、仙台藩黎明期の活動や勇躍を物語る史実が伝えられている地でもあるのです。
「サン・ファン・バウティスタ号」は、平成5年、復元船として蘇り、石巻市渡波地区にある「宮城県 慶長遣欧使節船ミュージアム(愛称『サン・ファン館』)」に係留展示されています。
施設は、海抜約30mの高台にエントランスや企画展示室などを備えた展望棟があり、そこからエスカレーターで降りていくと、復元船と復元船を取り囲むように設置されたガラス張りのドック棟がありました。かつてドック棟には、使節団の物語や史料、帆船の航海の技術や文化を学ぶことができる展示物がありました。
「サン・ファン館」館内の様子
「復元船 サン・ファン・バウティスタ」船内の様子
しかし、東日本大震災の大津波は、サン・ファン館にも襲いかかりました。
係留していた「復元船 サン・ファン・バウティスタ」は、沖合に流されてしまいそうな勢いで上下左右に大きく揺さぶられました。
ガラス張りのドック棟は、津波の直撃を受けてガラスは全壊。水位は天井にまで達し、展示物はほとんどが流失してしまいました。
津波に翻弄される「復元船 サン・ファン・バウティスタ」
被災直後の様子
津波の到達高を示す標識
場内にいたお客様やスタッフは全員無事でしたが、施設は激しく傷つき、サン・ファン館は長期の休館を余儀なくされたのです。
「復元船 サン・ファン・バウティスタ」は、津波にもまれる中で最大5mも上下しました。しかし係留されていたモヤイ綱の取り方が適切であったため、大きな損傷は免れました。
「これなら、きっと『サン・ファン館』は再開できる」
サン・ファン館のスタッフは船と施設の再起に確証を得たのでした。
ところが・・・。
震災から1カ月後に吹き荒れた突風により、中央メインマストの上部と、前方のフォアマストが折れてしまいます。
津波に対しては踏ん張った船でしたが、船体はやはり津波の衝撃を受けていたのかもしれません。
マストは帆船の命。
そして、それはサン・ファン館のシンボルでもあります。
うちひしがれるサン・ファン館のスタッフたち。しかし、折れてしまったマストの修復にと、カナダから応援が寄せられました。
同国ブリティッシュ・コロンビア州の幹部が被災地支援のため宮城県入りした際に、木材提供の申し出があり、カナダの木材生産者団体「カナダウッド」の仲介を経て、平成24年6月21日、同国の製材会社「ウェスタン・フォレスト・プロダクツ社」からベイマツ4本とスギ1本が宮城県へ届けられたのです。
マスト材は、施設内で半年間乾燥させられ、愛知県の製材会社に陸送されて3カ月にわたって加工処理が施されたあと、平成25年4月、長さ最大11.8m、直系最大約80㎝の美しい木材となって「サン・ファン館」に戻されました。
直ちに修復工事が開始され、5月にはフォアマストが、9月にはメインマストがそれぞれ設置され、10月にはドック棟の復旧、ネットの取り付けも終了し、11月3日、震災から2年8カ月ぶりにサン・ファン館は再開を迎えたのでした。
政宗が慶長使節団を送ったのは、東日本大震災に匹敵する規模だったと推定される慶長三陸地震の発生した慶長16年(1611)の2年後。そのときも、今の宮城県の沿岸地域は大変な被害を受けました。この慶長使節団の海外派遣には、造船によって地域にお金や人の流れをもたらすほか、海外との交流によって仙台藩をより豊かな国へと発展させようという政宗の意図があったのではないかとも考えられています。
「震災では大きな被害に遭遇しましたが、カナダ政府をはじめ、『サン・ファン・バウティスタ号』にゆかりの国々、多くの機関や団体と個人の方々から、たくさんのご援助と励ましをいただきました。施設の再開に向かう私たちにとって、ほんとうに力強い支えとなりました」
サン・ファン館のスタッフの皆さんの声です。
再開後のサン・ファン館には、多くの方が訪れ、津波の猛威を耐え抜いた「サン・ファン・バウティスタ号」の姿に「再開を持っていた」「励まされるね」「勇気がもらえた」という声がたくさん寄せられました。
かつての「サン・ファン・バウティスタ号」は、太平洋を2往復し、世界を目指して雄図を広げた伊達の心意気を示した船です。
復元船もまた、未曾有の大震災に耐え、強さを証明して見せてくれました。
青空に高々とマストを突き上げ、遙かな水平線に船首を向けるシルエットの中に400年前の先人たちの勇気と挑戦を思うとき、そこにはまた、新たな未来創造へと向かう私たちの夢と希望も重なります。