「みんな笑顔に!健康で元気なまちをつくろう!」
宮城県南三陸町に地域医療の拠点施設が完成しました。
大津波で病院を失った宮城県南三陸町に、「南三陸病院」と、
保健・福祉の拠点施設「総合ケアセンター南三陸」が完成しました。
国内外から寄せられてきた、たくさんの支援の賜物です。
「みんなの笑顔を増やすことが恩返し」
とスタッフ・職員たち。
医療と保健と福祉をつなぐ、元気なまちづくりがはじまっています。
南三陸町は、志津川町と歌津町が合併して、平成17年に誕生しました。
「西の明石・東の志津川」と言われるタコの名産地である志津川。
荒波にもまれて育つワカメの生産地としてずっと一等級のランク付けがされてきた歌津。
2つの町は、それぞれの個性と持ち味を生かしながら、一つの町をつくりあげようとしていました。
豊かな恵みをもたらす南三陸の海
ところが、合併から5年後、東日本大震災の大津波が町を襲い、志津川も歌津も、街や家並みをことごとく失ってしまいます。
志津川の街には、地域医療の拠点施設だった「公立志津川病院」がありましたが、高さ15mにも達した大津波は、5階建ての病院の4階部分にまで到達。
病院の窓ガラスは割れ、建物内に流入してきた波は、ベッドや医療機器を流失させ、院内にいた入院患者と職員107人のうち74人が死亡または行方不明になりました。
震災発生から18日後の3月29日、病院を失った南三陸町にイスラエルの医療チーム(医師14名、看護師と検査技師などが60名)が支援に駆けつけました。
町の総合体育館「ベイサイドアリーナ」の駐車場に、栗原市からの支援によるプレハブの診療所が開設され、日本人医師の指導のもと、診察が開始されました。
東日本大震災後、日本政府が海外からの医療支援を受け入れたのはイスラエルが初めて。
また、被災地で仮設診療所が開設されたのは南三陸町が初めてでした。
1カ月後、同医療チームが活動を終了した際には、医療機器等を寄贈していただきました。町内の医師、東北大学病院、「国境なき医師団」の医師らは、無償供与された医療機器等を使って「公立志津川病院仮設診療所」(公立南三陸診療所)として運営を継続しました。
さらに1年後には日本赤十字社の支援を受けて、仮設診療所は役場仮庁舎前に新設移転。
また、隣接する登米市は、入院加療が必要な患者のために「市立よねやま診療所」の一部を南三陸町に貸し出すことを決定。臨時の「公立志津川病院」が置かれ、医師3人、看護師30人、入院病床39床で運用が開始されたのでした。
未曾有の災害を受けた南三陸町でしたが、こうして多くの支援や応援を受けて「医療の灯」は点されてきたのです。
そして、震災から4年8カ月が過ぎた平成27年11月25日、南三陸町に新しい病院が完成しました。
新しい建物の名前は「南三陸病院・総合ケアセンター南三陸」。
病院と、地域の保健や福祉といった行政サービスの拠点も加えられた施設です。
南三陸病院・総合ケアセンター南三陸
建物は、鉄筋一部鉄骨の3階建。延べ床面積は1万2270㎡。東京ドームのグラウンド部分(1万3000㎡)とほぼ同じ面積です。
診療科は、内科、外科、小児科、眼科、耳鼻科、口腔外科、皮膚科、婦人科、整形外科、泌尿器科の10科。かつての公立志津川病院と同じです。
病床の数は、90床となりました。
開放感あふれるロビー
コンビニも併設
病室からは海が見えます
保健福祉分野の拠点となるケアセンターには、保健センター、地域包括支援センター、子育て支援センター、障害者地域活動センターなどの機能が集約され、社会福祉協議会も入居。役場の被災者支援係、社会福祉係、子ども家庭係などの窓口もできました。
そして、この施設の建設費55億8000万円のうち、約40%にあたる22億円もの支援が台湾紅十字から寄せられました。
台湾紅十字からの支援に感謝する記念碑
台湾(中華民国)では、震災後、東日本大震災に遭った東北の人々のために・・・と、広く募金活動が行われ、台湾紅十字にもたくさんの義援金が寄せられました。
紅十字では、これを被災した各自治体に配分する予定でしたが、南三陸町からの「病院建設に支援を」という要望に応えて、南三陸病院の建設に16億円、ケアセンター建設に6億円の支援を決定したのです。
台湾紅十字組織の王清峰会長(右から2番目)
11月25日には、新しい施設の落成式が催行されました。
台湾紅十字の支援への感謝を表す記念碑の除幕式、そして、町長や紅十字組織会長、イスラエル駐日大使ら11名によってテープカットが行われました。
いよいよオープンです
佐藤仁町長とルツ・カハノフ イスラエル駐日大使
そして、12月14日、病院は正式にオープンし、16日からは外来も開始。各科での診療がスタートしたのです。
「町の方は『待ってたんだよ』って・・・。こんな大きくて明るくて温かな病院が近くにできたと、本当に喜んでいらっしゃいます」
と話すのは、看護副部長の髙橋るり子さん。
看護副部長の髙橋るり子さん
「周辺で病床を持つ病院は気仙沼、登米、石巻・・・いずれも30㎞ぐらい離れています。患者さんも、ご家族の方の移動も短くて済みます。また、10年間休止していた透析が再開できたことも大きいです」
片道30㎞。往復すれば60㎞です。移動だけでもリスクという患者さんにとっても、送迎する家族にとっても、とりわけ冬の運転の危険が軽減されることは大きなメリットです。
「当院の理念は『地域に根ざした医療の充実と実践』です。その方が、その方らしく住みやすく・・・というまちをつくっていく上で、医療と看護で支援できる南三陸病院でありたいと思っています」
保健福祉課課長補佐の佐藤正文さんは、
「以前は保健センターや子育て支援センターなどが町内に点在していましたが、これからは一つのフロアで対応できる。保健と福祉がワンストップの形で集約・拠点化できました」
と話します。
保健福祉課課長補佐の佐藤正文さん
「ダメージを受けたこの町で、行政はよりしっかりとサポートしていかなければなりません。病院と同じ建物に入ったことで、意思疎通や情報共有の面で病院との連携も図りやすくなりました」
南三陸町では、震災後の人口減が続く中で、高齢者の比率は増えているそうです。
「同じ建物に医療と保健と福祉の部署があり、密に連携できます。元気な高齢者を増やしつつ、必要な方には必要な医療も受けていただく。そのサポート体制をこれからもっと充実させていく考えです」
まちづくりは「一人ひとりの「個」を尊重しながら」という考えを基本に、行政と住民がともに築き上げていくもの。
そして、その源は、何よりも健康。そして元気と笑顔です。
南三陸病院と総合ケアセンター南三陸。南三陸町の復興を支える施設として、大きく歩み始めています。