妻が離婚を考える時
by 藤葉
若島津健さん目線。
「若島津…、若島津?」
かけられた低い声に俺は視線を上げ、じっと俺を見つめる若林の視線と出くわした。
男らしい顔立ち。眉も、目も、鼻も、顎も、のみで削り取ったように荒削りだけど、エネルギーに満ちている。若林、いつの間にこんなに大人びた顔になったんだろう。
その力強い腕が俺の腰を支えるようにして、俺をそのがっちりした身体に引き寄せている。
とんでもない体勢に、俺は驚いてはっと息を呑んだが、気付けば俺の片足はそれと知らずに石積みの階段に踏み出そうと宙に浮いていた。若林が支えてくれなかったら、間違いなく下まで転げ落ちていたところだ。
俺は身体のバランスを取り戻すために、若林のシャツの胸元を掴んで一歩後ろに下がった。
自分のあまりの間抜け具合いに顔が熱くなるのを感じた。
日向さんの半乾きの髪から匂った、ヨーロッパらしい香料のきついシャンプーの香り。
脈絡もなく湧き上がった目もくらむような嫉妬に、かあーっと頭に血が上った。
思わず立ち上がってその場を離れ、目の前に止まったタクシーに乗り込み…、乗り込んで…。
今やっと我に返ったように周囲を見回した俺の心を読んだように、若林が小さく頷いた。
「ベルサイユだ」
言われて、眼下に広がる整然とした庭園の美しさに息を飲んだ。
「このまま庭を散歩するか?それとも、城の中を見物するか?」
俺の身体を腕に抱いたまま、若林が笑顔を見せた。
***
そして今、俺達はパリの下町の小じんまりとしたレストランで向かい合って座っている。
外はすっかり日が落ち、室内は各テーブルの中央に置かれた小さなオイルキャンドルの灯りだけの温かいほの暗さに満ちていて、居心地がよかった。
出てきた料理はすべて美味しくて、でもなぜかどれもほとんど喉を通らず、ワインばかりに手が伸びた。
大ぶりのワイングラスを唇に当て、目の前の若林を見つめる。
結局、一日付き合ってもらってしまった。
ずっと様子がおかしかっただろう俺に、若林は何にも質問することなく、のんびりと一緒に城を見物し、小さな人気もまばらな美術館で吸い込まれそうに美しい印象派の絵画をゆっくりと眺めた。
日暮れを迎えた頃、まだみんなのいるホテルに戻りたくないという俺の気持ちを察したように、「約束どおり、夕飯を食おう」といって、この小さなレストランに案内してくれた。
若林は俺の視線に答えるように、両眉を吊り上げ、首をかしげた。
「料理は口に合わなかったか?三杉の推薦だから、間違いないと思ったんだかな。最近、ミシュランの一つ星をとったばっかりで、シェフは俺達と年も変わらないくらい若いんだが…」
「若林の彼女って幸せだな」
考えもなしに俺の口から洩れた言葉に、若林は少し考慮するような表情を見せながら俺を見つめ返した。
「それは、最高の褒め言葉だろうな」
「うん、本気でそう思う。包容力があって、思いやりがあって…」
「顔も身体もいいし、か?」
「経済力もある、だろ?」
くすくす笑いでそう付け加えると、心のどこかで何かがはじけたみたいに涙が湧き上がってきた。
驚いて膝からナプキンを拾い上げ、眼に押し当てたが、もう涙は止まらなかった。
「わかった、俺がいい男すぎるのが悪いんだな。この辺で店を出るか。俺達完全に別れ話をしてると思われてるぞ。こんな美人を捨てるなんて、どんな悪党だと思われたらたまらない」
若林の言葉に小さく笑い声を上げつつも、どうしても涙は止まらなかった。テーブル越しに俺の髪を撫でるように梳く、若林の大きな手が温かかった。
***
セーヌ川のほとりの石造りの欄干にもたれる若林の身体に身体を預けるようにして、俺はしばらく泣いた。日本から昨夜ついたばかりで時差ぼけも治らない内に、ワインを飲みすぎたせいだ。まったくみっともない。今日一日思い返してみればほとんど食事をしていなかった。酔いで足元がふわふわと心もとなくて、俺は若林の大きな身体にしがみつくように抱きついていた。
若林は両腕を俺の身体に回してしっかりと身体を支えてくれていた。
涙が収まった頃、俺は若林のがっしりした肩に頬を乗せて、一つ大きく息をついた。
『その時がきたら、簡単に決心をつけられるってずっと思ってたんだ。この関係に将来はないって、最初から覚悟してたから…』
「なんでもそう簡単に諦めるもんじゃないぞ」
若林の声に俺ははっと顔を上げた。
「俺、今の、声に出して言ってた?」
「俺は記憶にある限り、確か読心術ってのは習ったことないはずだ」
俺は強烈な恥ずかしさに再び若林の肩口に顔を伏せた。完全に耳まで赤くなってるのがわかった。
「俺のホテルに来るか?」
髪を梳く太い指の感触に俺が再び顔を上げると、若林はまっすぐに俺を見つめていた。
***
ホテルの重いドアが背後で閉まった時、灯りのスイッチに手を伸ばそうとする若林の手を押しとどめて、俺は身体を寄せた。逞しい首に両腕を回して、数センチのところまで顔を近づける。もう酔いを言い訳にはできない。完全に正気で、俺はこんなことをしようとしている。
カーテンを閉めていない窓ごしに差し込む月明かりの中、俺は若林の強い視線を受け止めた。
若林はその最後の数センチの距離を奪って、ゆっくりと唇を合わせてきた。
俺は目を閉じて、若林の舌を受け入れた。
(この後、どうなるの??!!)
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