My Proposal to Restoration Town Redevelopment Plan from cultural viewpoint.
歴史文化の視点からの復興都市再開発への提案
東日本大震災復興事業の総括:失敗!!!
・まだまだ総括する段階にはないのだけれども、災害から5年間での復興を目指すとした復興事業について私なりにまとめてみたい。ちょうど、朝日新聞月曜〜金曜版に「てんでんこ」が連載され、改めて合点することが多々あった。
-朝日新聞が2011年東日本大震災復興に関して連載している「てんでんこ」は珠玉のできだ。4月までは「防潮堤」、5月に入ってからは「復興構想会議」に関する連載となっている。この復興構想会議の性格付けに議長の五百旗真氏が大きく関わっていた。大災害後にもとの物的状態に戻すのは「復旧」であるが、社会経済が疲弊している状態で物だけをもとに戻してもそれは活きない。人が安定した社会生活を再びできるまでを整えてあげるのが「復興」であり、それを復興構想会議の基幹に据えたのは正しかったと思う。しかし、復興構想会議(2)神戸の記事の「国際競争にうち勝つため、神戸港をより深く整備する。教訓を伝えるシンクタンクをつくる・・・・・。「創造的復興」を掲げた兵庫県のいくつかのプランに政府は冷たかった」を読むと、このような復興構想会議ではうまくいくはずがなかったことに気づかされた。思えば、明治中期から内務省が日本の大都市の不燃化と建物の耐震化を推進しようとし、大正8年になってやっと市街地建築物法、旧都市計画法、道路法となって姿を現し、各自治体に適用されるはずだった。しかし、都市の変革には莫大な予算が必要であり、計画ができても実行は遅々として進まなかった。そこに起きたのが関東大震災であり、その復興に際してそれまで眠っていたり遅延していた計画が大きく動き出すことになった。第二次世界大戦後の都市復興に際しても、それまで温めていた計画が実行された。確かに、神戸では1996年大地震前から温めていた開発計画があり、大震災後も社会経済に大きな変化が生じないのであれば、復興事業はその開発計画を実行する絶好のチャンスだったのであろう。そうして、2011年大震災後の復興構想会議は創造的復興を期することになったが、東北の災害地、それも津波に襲われた市町村ではそんな開発計画を持っていたのであろうか。みな、少子高齢化に正面から向き合うだけで手一杯で、独自の開発計画を持っていた市町村なんてなかったにも等しい(と思う)。何もなかった故、政府のさまざまな復興指針をそのまま受け入れることになっていったと思う。創造的復興を押しつけることで、旧市街地の復興が遅れてしまったのではないだろうか。さらに、福島原発事故への根本的対応ができなくしてしまったのではないだろうか。大災害の備えと人命救助には教訓は残されるが、復興には残されない・・・・・・。それぞれの場所でふさわしいやりかたを時間をかけてきめなければならない。
-5月13日「てんでんこ」復興構想会議13は誤算がテーマで、「被災前に方向性がなかったことには、準備ができない」という構想会議の飯尾の言葉で結んでいる。5月10日の私の考えと同じ事を吐露している。あの時、関東大震災復興を率いた後藤新平とともに、宮沢賢治の名前がマスコミに登場した。生まれは半世紀ほど違うが、生地は近い、、いろいろと思いが巡る。
3年間歴史的建物の修理修復の支援活動を行った経験から、
All Damaged Historical Buildings should be listed as Cultural Assets by National or Municipal authority.
津波被害から残った第二次世界大戦以前建設の建物はすべて国若しくは市町村の文化財とする!!!
今回の地震津波被害は甚大であり、その記憶を町の中に留め、さらに町の歴史を未来に引き渡すために、公的資金を入れて文化財として大切に修復活用すべきである。
1.気仙沼市内湾地区
・八日町
Fig.1 修理済み
Fig.2
Fig.3 ささ木三事堂沿いの建物群
Fig.4 石蔵に三階増築
Fig.5 成澤商店の石蔵アーチ
Fig.6 斉藤茶舗北隣の三階建て土蔵
Fig.7 斉藤茶補店舗と土蔵
・魚町
Fig.8 左側石蔵は解体撤去済 Fig.9 修理活用の方向
Fig.10 2012年暮れに解体撤済 Fig.11
Fig. 12 修理済
・南町
Fig.13 修理されスナックに Fig.14 千田家住宅店舗&石蔵&RC蔵
2.石巻市
3.塩釜市