Group Artisans from Kesen area気仙職人:大工と左官
started in Januarya 2013, revised in March 9, 2019.
I. 既往研究
(1) 概略と問題点
高橋恒夫先生が長らく気仙大工の存在と仕事について調査をし、『地方在方集住大工の研究』としてまとめられた。いつどこでどのような仕事をしてきたのかはおおよそ明らかになったが、一体どのような技術的技能的特徴を持ち、どのように継承し、また、どのような系統があるのはまだ不明である。
(2) 気仙とは
仙台藩北部の気仙地方は、古代から金の産地で有名で、江戸時代には藩の管理のもとで金の採掘と積み出しが行われていた。江戸後期の大船渡代官は一関薄衣の泉田家から派遣され、常駐していた。積み出しは陸前高田港、大船渡港、気仙沼港から行われていた。
(3) 金採掘
江戸時代後期になると金の産出量は減っていった。
(4) 職人
金採掘は職人集団で活動していた。金鉱近くに各種職人労働者が協力して住んでいた。金産出場所が新たに見付かると、職人労働者が集団で移動した。そこで家を作った。
II. 職人集団の変容(推論)
(1) 新たな仕事を求め
金鉱が乏しくなると、技能集団ごとに大工へ転職。また、普請に関連した左官への転職
(2) 廃藩置県
明治時代に入り廃藩置県が行われると、職人達は仕事を求めて自由に移動、移住が可能になった。気仙地方の職人集団は北上川河口に向かって移動。
III. 気仙集団職人の素顔
(1) 2011年東日本大震災の被災建物
・石巻市:神山家(長面)、遠藤家(河南)、遠藤家(河南)、
・旧南郷町:野田家(大柳)
・栗原市:
・一関市:千葉家土蔵(花泉)
(2) 一関市花泉の菅原木工
・石巻市雄勝の天雄寺観音堂の修復をお願いしたことから付き合いができた。現社長の父親が、戦後すぐに気仙大工の下で修行し、独立後、岩手県名工(木工彫刻)となった。
(3) 鹿島台の小野大工について
・2019年3月9日、偶然、小学校時代の恩師の父親が気仙大工であったことを知る。昭和初期に鹿島台近傍で大きな普請があり、そこに陸前高田から複数の大工と共にやってきたという。時期的には大柳の野田家などがそうだったかもしれない。
(4) 三浦和尚の話
・上記の場に玄松院の三浦和尚がおり、彼の戦後の寺院の普請も気仙大工が行い、どのように仕事をしていたかを話しをしてくれた。工事請け負った棟梁がまず近傍に自宅を建設し、そこに大きな神棚を祀った。弟子達もそこに住まわせ、現場まで通ったのだという。
そうすると、金採掘職人集団の活動とほとんど同じで、金鉱山を探して集団で移動し、共同生活を送る。現場まで通う時間を考えれば、採掘現場近くに住んだ方がよく、枯渇する前に新たな金鉱脈を見つけ出し、またそこに移住する。
集団の中には、その近傍で婿に迎え入れられて、そこに定住し大工や左官として独立するものもいた。