Roofing Slate屋根葺用スレート since November 2012, revised in 29 July, 2018.
I. はじめに
・スレートとは粘板岩の英語名で、近世の宮城県北部ではノッペイシ(野辺石)として敷石や墓石として使われてきた。雄勝や登米が産地で、地元では古くからこの石を使って硯を加工生産していた。江戸末期頃から紙の代わりに文字書きの練習のために石板につかわれることもあった。また、粘板岩の中で黒く平滑な上質なものは玄昌石とも呼ばれ、社寺や料亭などでは大判の踏石として並べ、一枚板の大きさは富の象徴でもあった。
・個人的には、昔、近所の名家の屋敷裏にごっそりと積まれており、それを手裏剣のように投げて遊んだことを覚えている。大崎平野ではスレート葺きはちょっと裕福なお宅の屋根に見られるだけだったが、登米や石巻の方面に入ると増えていき、北上川河口あたりでは集落全体がスレート葺きとなっているところがあった。それも屋根だけではなく、壁もそれで覆われていた。しかし、あまりにも当たり前の風景として、特に興味を持つことはなかった。
・スレートに再びであったのか師の藤森先生の著作からで、明治時代洋館建築に特徴的な材料であった。しかしながら、小さいときにあまりにも手裏剣遊びをしすぎたのか、調査の食指が動かなかった。調べようと思い立ったのは、2011年3月11日の東日本大震災からの復興事業にかかわるようになってからである。
・なぜにこの素材が屋根葺き材として日本で使われるようになったのかは、先学の研究をご覧になって欲しい。しか〜し、半世紀以上から見て触っている経験からすると、こんな脆弱な材料がなぜ屋根材料に使われるのか不思議であった。
・ここでは実際にどのように採掘され、加工され、施工されるのかを、実物の視察、関係者へのインタビュー、文献記録の解読であきらかにしていきたい。文献は限られており、関係者へのインタビューと現場視察が大切。
II. 産地と採掘場
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III. 加工と道具
IV. 職人
[一関市の薄衣の千葉さん]
・2012年暮れから石巻市雄勝町の天雄寺観音堂の修理工事を監修することになり、一関市藤沢の菅原木工さんに工事をお願いした。そこの屋根工事に来ていたのが、薄衣の千葉さんだった。今日日、一度葺いた銅板をはがし直して、屋根の修理後、再度葺き直してくれる屋根屋さんていない中、千葉さんはやるといってくれた。そんなことからいろいろ話をしているうちに、現在は板金屋であるが、祖父の代は近所に住む親戚若者を雇ってスレート葺屋をやっていたことを教えてくれた。周囲には多数のスレート葺き家屋。
・薄衣(うすぎぬ)は伊達家臣の泉田氏が治めたところで、東安寺を菩提寺にした。祖先は暴君ではなかったらしく、旧家臣が顕彰碑を建立していた。ありがたし。
・この千葉さんのおじいさんが猪郷久義著「登米スレート。1969」に出てくる千葉さんで、戦前、登米で発見された天然スレート山を一山購入し、一関から大船渡までの気仙沼線鉄道の敷設に合わせて、「蒸気機関車が走ると家がやけるぞ〜〜〜」と流布しまわり、スレート葺きの普及を図った。
・千葉さんは板金が専門だが、スレート葺きの道具一式を持っており、注文があればスレート屋根工事もするという。近々、聞き取りと道具の視察調査を行う予定。
[陸前高田の矢作の]
・矢作の丘陵部にそびえる観音寺の住職さんに昭和20年代のスレート職人さんの話をうかがった。その時期に矢作丘陵部にスレートの山が発見され、登米のスレート職人との協力で採掘加工を行い、周辺の建物への普及に努めた。
・昭和40年まで、スレート葺き職人が一年に一度くらいの頻度で見回りに来てくれ、その都度軽微な修理を行っていた。
V. 施工と詳細
[最高に手の込んだスレート葺き建物]
・選ぶとすれば尾崎の久須師神社である。棟飾り、けらばなどなど、実に精巧に加工してある。
[最も大きなスレート葺き屋根]
東京駅などの公共建築を除き、社寺や個人住宅に葺かれた事例としては陸前高田市矢作の観音寺であろう。
[最も美しいスレート]
・なぜか知らないが百年も経つというのに漆黒で光り輝いている。入母屋の頂部のスレートは両側から
葺かれ、中心で出会うようになっていた。こんな葺き方があるんだ!と驚く。