川畑ゼミ研究メモ
re
江戸の荒事と上方の和事—宝暦期(1751-1764)四作品における身体・音響・科白の地域的対比研究:『諸腔奥州黒』の吃音なる紙漉き職人・太郎兵衛が「舌の糸筋切ったれば」と「左の小脇に刀を突き立て」武将・安倍貞任の威厳を取り戻す台詞術から『男伊達初買曽我』の「ハテ計男じゃない」という江戸弁の様式美、上方『津国十三渡』の金十郎の苦悩や『幼稚子敵討』のお町の悲嘆に見る和事の情の表現と対置させた宝暦期歌舞伎の一考、そして「ト書き」による演出の重要性
安永期(1772年~1781年)上方歌舞伎における多層的社会批評:『萬恵天目山』の「身は狸汁皮は冶屋のふいごとなした無念」という狸・金八の復讐心が産む神聖舞踊『三番叟』のナショナリズムの儀式劇と公家・泰村の「台所かいかね」という嘆きと江の島御前の館で交錯する優雅な舞と謀略のセリフが暴き出す権力闘争の劇的皮肉『北条五代記会説』、博多での描写「心は疾ふから本の女夫じゃと思ふているわいなァ」という「あんまり阿呆らしうて笑われもせぬ」と揶揄する『和訓水滸伝』の「~わいなァ」という上方言葉の響きにおける文化的自負
江戸中期上方の声:久松の「親達へ義理思ひ」という苦悩とお染の「恋に高く低いはなき物を」という叫び-油屋が舞台の世話物『心中鬼門角(1710)』-「月の夜塩を汲まふよ」と死後も恋の執心に生きる『松風』の亡霊、おはまの「女子の一生去らるい程の恥はないぞや」という家父長制への痛切な訴えが響く義太夫狂言『傾城建仁寺供養(1723)』、「こなたを叩いたは俺が悪かった」と忠義の矛盾を体現す時代物『女土佐日記』信田明神の白狐が「信徳丸両眼も今開かせ」と勧善懲悪を示す伝奇物『信徳丸●柏』、上片江戸歌舞伎の「義理と人情の相克」と江戸社会
『難波みやげ』の虚実皮膜論を基軸に元禄・享保劇(1688-1736):近松門左衛門における「義理」の悲劇とは?『會根崎心中』の徳兵衛が陥る金銭義理『冥途の飛脚』の忠兵衛「封印切」で公金と恋の狭間に散る義理『心中天の網島』で小春とおさんの女同士の崇高な義理『女殺油地獄』での「豊島屋の段」における河内屋与兵衛の「獣性」の描写:一切の義理を放棄し、詩的な救済を一切拒否した結末-河内屋与兵衛が「油地獄」へ堕ちるまで-因果応報の道徳劇では捉えきれない人間存在の不条理な暗部を暴く近松門左衛門最晩年の先駆的社会批評性
二つの「夢」と「現実」の違いの精神的ディレンマ連作-農奴解放前夜:『おじさんの夢』の「面白い種あかし」として消費されるジーナやモズグリャコフらの個人尊厳がゴシップと虚栄心で踏みにじらるモルダーソフの旧世代空間の皮肉-「バネ仕掛けの死人」たるK公爵の記憶喪失を触媒とす「夢」の崩壊の風刺-『虐げられた人々』の旧世代の「名誉」観の崩壊-ナターシャが最後に発する「どうしてあたしはあなたの幸福をこわしてしまったのでしょうねえ?」という問いが示す「夢」と自己犠牲の破綻の対比-ドストエフスキーによるロシア社会近代化への問い
「おお、夢よさらば! 二十年の歳月よ!」-「悪霊(1871)」とは何か?スチェパン・トロフィーモヴィッチの「軽薄な自己満足」と「悲劇ごっこ」が生んだ世代的破産にみる悪霊概念-コレラの大流行期を着想とすドストエフスキーによる文学的診断―リプーチンが奏でる「マルセイエーズ」と「Mein lieber Augustin」の不協和音が預言す社会的混乱とリーザの熱弁「大した陰謀、大した悪巧みじゃありませんか!」という社交の虚構が現実の暴力を隠蔽・助長したか-「ルカによる福音書」の如く「群れ」を「悪霊」とし信仰なき自由の社会的破滅をいかに預言したか
戯曲『不文律(1866)』(表題:ドストエフスキー 罪と罰)ペテルブルグの『S横町』から『露都の附近』への曲がり角における地理社会的文脈の脱臭、1861年農奴解放令の不可視化『その家の差配と云ふのがグロモフ』という台詞に悲劇集約す翻訳考察:『貧は悪徳ならず』と叫ぶ歴史の声-日本検閲:マルメラードフ『洗うが如き赤貧』という社会的絶望が、カシュキンとラスコルニコフの『進化と悪人』への焦点移動、ソーニアの祈りに象徴される非政治的救済、罪の政治性が脱色された普遍的心理劇
1861年の農奴解放令の歴史的現実「前夜」-イアン・ツルゲーネフ作『その前夜(1860)』作者の分身エレーナの遍歴と愛国的訣別の考察:クリミア戦争敗北後の1853年を舞台に「余計者」ベルセーネフとシュービンの無力さとスターホフ家に象徴さる停滞した「旧世界」の描写「わが國にはまだ誰もいない、人間はいない」-真の善「事業」を渇望すエレーナが、共にしたブルガリア革命家インサーロフのヴェネチアでの夭折からエレーナ「Dの故國のほかに別の故國はありません」と宣言する結末に見る行動しないロシア・インテリゲンチャへの社会批評物語
イアン・セルゲイエヴィッチ・ツルゲーネフ(1882)が描く『きゃべつ汁』-『君の呻きと水のせせらぎとは-どちらもつまり音だといふだけさ』の視線から始まる『スープを無駄にしとく譯には参りませんわ、これにはお鹽が入つとりますから』と語る農婦の現実へ-『車に轢かれて』もだえる苦痛を『音にすぎない』と断じ、『明日こそは!明日こそは!』という虚しい希望の果て-『私の樹』と主張する人間の虚栄心を自然の悠久さで笑う晩年のツルゲーフが到達した『誰と議論をすべきか』という融和的な人間関係論発見と『夢かたり』の幻想的な彷徨の共鳴関係
狂気と平凡の狭間-「正気」の難しさ-二葉亭四迷の連作『二狂人』『狂人日記』『出産』『閑人』『乞食』『平凡』(1907)の明治社会理想主義病理の指摘-ゴーリキー, ゴーゴリの翻訳-自信過剰の暴走(クラフツォフ)と社会的抑圧(ポプリーシチンの「九等官」)の狂気二類型-病院での『阿母さん、お前の息子は憂き目を見てゐる』にみる妄想世界の崩壊過程-『出産』『閑人』の都市的疎外感と日常への視座転換-『乞食』の貧困がもたらす人間性抹殺-最終作『平凡』の理想主義挫折と「普通」への苦い回帰『もう如何様に頑張つたとて駄目だと思ふ』
二葉亭四迷訳ツルゲーネフ四部作(1888):『あひゞき』の「見るに見かね」た階級的悲劇への無力な共感から始まる近代人の魂の彷徨― 『片恋』で傍観者は当事者となり、アーシャの「只の一言仰せ下され候へば」からの「余計者」へ-永遠の後悔-罪の視線は、『奇遇』で "Vieni pensando a me segretamente(私を密かに思いながら来て。)" という歌に導かれ、他人の運命を追い求める「宿命の覗き見人」へと変貌-四部作終着点である『夢かたり』での視る者と視られる者は逆転す黙示録「人が呻くのか--それとも、海が荒れて物凄い音を隠尻長く立てるのであるか」
「古本の精さ」-二葉亭四迷『其面影(1906)』の理想主義の敗北と近代日本の社会批評:主人公・小野が「なるほど僕には昔から何だか中心点が二あって、始終その二点の間を彷徨している」と告白する分裂自我-九段下と弓町の狭間-葉村氏と渋谷氏の倫理なき功利主義の物語性-「西洋館」へ渋谷氏に引き摺り込まれた小夜子の「御志の少し浅々しゅう仇めいたるがお怨みにて」と葉村氏が説く「金儲けの秘訣は先ず人情を棄てるにありさ」という冷徹論理と理想が「古本の精さ」として無力化される過程
wplaceにおける視覚的ナッジによる地域コミュニティの自主的浄化作用、現実空間と連携したデジタル・ガーディアンシップの実践と調査
1980年代貧困者・弱者救済ビジネス-社会的偏見とを悪用した知能暴力判明からの全国調査:「えせ同和行為」御所市ラグビー用地の「わかくさ国体」事件と浅川の土地取引「太陽興産」事件-全国被害率30.5\%、総要求件数6,570件、1000万円以上の高額被害10件-法務省全国調査が暴いた「えせ同和行為」の全国的実態-行政・運動体・企業の三者による癒着構造発生と1事業所あたり平均4.7件という蔓延状況判明-「官公署の圧力」「政治家との関係」を使う巧妙手口(合計32.0\%)、1000万円超の高額被害多発-金銭的被害の実態解明、総務庁監修「対応の手引書」や警察・弁護士会の連携-対策構築と歴史忘却における現代社会への警鐘
「貧困解決」「部落解放」「えせ同和行為」の構造病理:北九州市「土地ころがし」(1982)、奈良県御所市「わかくさ国体」における「土地ころがし」の比較-事例(1)谷伍平市長と部落解放同盟K前書記長、ダミー会社「太陽興産」、運動体幹部の癒着と「架空の同和住宅建設用地」と内部告発した部落解放同盟小倉地協報告書の乖離から「灰色結着」へ-「崇高な理念」が如何に「利権の隠れ蓑」と化したか?:事例(2)奈良県御所市「わかくさ国体」事件(1984)における東亜建設・岡山氏、関係者が実刑判決を受けた御所市の事例との比較を通じて「えせ同和行為」の注意喚起、調査のきっかけとなった事例を振り返る-現代に問う批判-
「差別に時効はない(1984)」告発:「木津譲」氏の歴史家・「成沢栄寿」氏への歴史認識、根拠無き批評「江戸時代の問題」という矮小化、部落差別存続加担批評:差別戒名「革尼(かわあま)」「屠士(女)」「革門(かわもん)」「僕男(女)」「鞁男(女)」「非男(女)」「かわ(た)」「かわ(や)」「奴(やつこ)」を戒名とする死者冒涜と親類への部落差別連鎖:差別墓石の物証、差別過去帳という管理台帳『無縁慈悲集』『禅門小僧訓』制度構造的の社会責任、全国水平社と黒衣同盟の抵抗歴史再評価と『部落地名総鑑』事件の加害責任から学ぶ現代日本社会の歴史認識
差別戒名の親戚子孫への部落差別烙印永続性と世代間連鎖「かわ男・かわ女」、「僕女」扱い(男性またはしもべ扱い)たる「魂の殺人」の思想闘争記録と「部落解放奨学生を死に追いやった」三次高校の悲劇、映画『橋のない川』、福岡大蔵住宅事件の市民・マスコミの差別意識/排外主義との対決と「同対審」答申をめぐる「毒まんじゅう」論争から、「日本に差別はない」という国際的な差別隠蔽行為からの米ジェシー・ジャクソン師「人権赤字国家」と評した日本の構造的欠陥是正の人権法「部落解放基本法(1985)」制定要求に至る歴史とその教育の忘却
平安前後の「賤民」から近世「明和・安永前期」の固定身分制度による構造的貧困実態-『日本貧困史』-古代の「やつこ」から「かわた」「かわや」「かわぼう」ら被差別民衆系譜-と日本の豊かさの礎「人間の商品化」の系譜:「下野国司奏…飢饉之欲売其子」の最古記録、米四石五斗で永代売買さる中世の「ます女」-安政江戸地震や天保飢饉で「罹災人民 千数百万人」災害が、最弱者層を直撃する「人災」統計的検証-近代の「解放令」が「生活上の配慮は全くなかった」結果、被差別部落が深刻な貧困に再編されたか?統計データの歴史教訓、数字の背後の叫び
「生まれる前から、肉体はどこかに盗まれていた」-J・デリダの引用から読み解く唐十郎『ねじの回転(1986)』の「こじつけ」人間模様のおかしさ:腕を失った千早の「憧れの手なら、一つあったよ」と義手に焦がれるサチコ「妙な話し相手」となる〈義手〉と登場人物たちが「こじつけ」という名の論理(ねじ)を駆使し物語を前進させる意志が回転運動の臨界点へ-〈バラ線の部屋〉の奥から「水が出る」という混沌奔流が全てを洗い流す描写「もう一度そのねじ回してみて」と壊れた義手に新たな秩序を求めるおかしさの唐十郎的「ネジ」
『ふたりの女(1980)』:「絵っ絵っ絵っ! 問題は絵なのです」-唐十郎のX→Y的演劇的リアリティ生成の構造「覗き屋」の視線の反転と「肉体」のアイデンティティの行方:小説『沼』で主人公「僕」が「この患者は白い観念の『覗き屋』です」と弾劾され、「沼病患者X、ここに在り」から演劇的決闘の果てに不特定役割「Y」になる「沼病」への現実共有生成と「アリのサーカス団」の物語とアオイの肉体の声の変容が、他者のアイデンティティを乗っ取り、現実を再編成するか?引用による物語世界の共犯となる「覗き屋」の視点反転、「白衣」と「泥」の弁証法
鏡としての世界史-『同和二千年史』が暴く「日本は太古、各民族るつぼの土地であった」-なぜ教育とメディアは世界の差別を「対岸の火事」として消費し、国内歴史と接続しないのか?「単一民族国家」という神話は差別の温床へ-ユダヤ人の「キリスト殺し」、黒人奴隷制、ロマの「犯罪者」レッテル、『同和史研究』が告発す「差別戒名」-日本部落差別考察-中曽根元首相「日本には差別を受けている小數民族はいないと思う」発言、K工機事件や八尾市差別行政の歴史的意義再評価-現代ヘイトスピーチ問題における「表現の自由」と「人権侵害」の相克洞察
岡保生「小栗風葉評伝」にみる近代日本文学の部落差別表現批評を参考に:希望が失われし時の「回復」が外部世界の完全諦念となる描写-「広い世間に頼もしきは実(げ)に実(げ)に兄を唯一人!」—小栗風葉『寝白粉(1896)』の兄・宗太郎が体現す妹お桂の縁談破壊-希望を失う事でしか身分差別社会告発できない弁証法-差別の現実がいかに兄妹の関係性を歪め、妹お桂をヒステリーという病理の客体へと追い込むか-それが兄妹を「遁ぐるが如く」閉鎖世界へと導き、近所の女房たちのゴシップによっての結末のタブー「抑(そも)誰が種にやあるらむ、あさまし」と審判へと至る倫理的危険性の両義性
大正・明治期文学『部落問題文芸作品解題』の批評的考察-三品華彦『砂中の珊瑚』の又一の自由思想に根差す権利闘争の矛盾と福地桜痴『侠客春雨傘』での登場人物の「世界の人はみな兄弟」嘘の平等論と「アア臭え、すてきに臭え、狗の皮の匂がするわい」「けがれたエタめが」等差別的言辞の矛盾描写、小栗風葉『寝白粉』の「世間からのけ者にさるればされよ」という自己否定と岩野泡鳴『斧の福松』の悲劇、渡辺霞亭『想夫憐』での「新平民の娘を妻にします」宣言での融和主義的結末の欺瞞性の対比考察、「文学作品が差別の告発であると同時に、いかに無意識の偏見を再生産しているか」という議論
永井隆隊長、日本人隊員と韓国人留学生、施焜山副長ら「国境なき医療」の真実-「ピカリ、運命の一瞬!」から「転禍為福」の祈りまで-長崎『原子爆弾救護報告(1945年8月-10月)』-爆心地・浦上周辺の原子野の統計データ、医学的実像:長崎医科大学第十一医療隊の日韓共闘の記録—致死率100%の早発性消化器障害、謎の「類火傷」、独創的「自家移血刺戟療法」の発見。そして「科学者の勝利、祖国の敗北」という痛切な反省を経て、人類の未来に託されたメッセージとは何か
明治維新と「解放令」という欺瞞の夜明け-「一片の空文化し去つて、何等の効果をも及ほさなかつた」その歴史的破綻からの調査『特殊部落一千年史(1971)』呼称と差別の千年史:「吾が國の古語に『やつこ』(夜都古)は家ッ子の義」—古代の支配者のが用いた差別用語の原基「隠語」であった『やつこ』「みやつこ」の二重主従関係、中世の「下剋上」の流動性から取り残され「最初の烙印」を捺された農奴以下の中世の「かわた」「かわや」「河原者」、「先天的賤民」として制度化した「穢多(えた)」。負の日本史から中江兆民が説いた「理學の區域」と「水平社運動は歴史的必然の所産に他ならぬ!」と宣言す日本史の弁証法的展開
国際社会がゲイナショナリズムと闘った20年間、日本では何が無視されてきたのか―2005年、欧米諸国がイスラエルの地政学的『ピンクウォッシング』を告発した一方、日本国内では批評的言説が不在のまま、独自の『文化的ピンクウォッシング』が巨大産業とし定着、その間にLGBTセクシュアリティを題材としたコンテンツ消費による当事者の非人間的な商品化がいかに性的マイノリティの現実の苦悩(精神問題、就労問題)を不可視化し搾取構造を温存したか?致命的な帰結
前田三遊(1869-1923)「われに米を与へよ!」-米騒動に揺れ「百の理論よりも一の実行」を唱え民衆の「沈痛な叫び」を記録、「教育解放論」の射程と都市飢餓根源を農村「小作問題」に見出し、被差別部落の生存危機を社会構造的矛盾として告発した彼の視座-「米商騒動と福島町」での実践的関与、歴史を語り継ぐ試み「米騒動の歌」-「普選断行」の要求「政治即教育」の理想と現代にはびこる「被差別部落特権」という歴史不在言説と現代日本の外国人排斥や複合差別の問題の先駆的な議論、メディアと教育が沈黙する「差別の連鎖」という重い課題の提示
以下ゼミ資料です。(探偵もの作品向け)
(1)戦前・戦後の長崎詩集の研究
「広島と韓国で2回も爆撃受け、もう戦争はこりごりだ」-全判伊氏の証言にみる蹂躙された生の軌跡-カトリック「殉教者の末裔」たる信徒8500人の受難、張世澤氏ら韓国、中国、ヨーロッパ圏、アメリカ周辺の多数被爆者の存在の記憶「既に地獄であった日常に、さらなる地獄を上塗りする暴力の連鎖」であった日本歴史課題の振り返りの重要性、「火に灼けしマリヤの像」と「首なき聖像(マリア像)」に砕かれた祈りを捧げた人々、命を落とした人々の「詠まれなかった声」、予定なき爆弾投下が発生した「出島に始まる国際都市ナガサキの悲劇」を不可分多国籍的悲劇の認識と「全ての犠牲者の声なき声に耳を澄ます」ことの重要性
寺山修司『ふしあわせという名の猫(1970)』における孤独と創造の弁証法的考察-眠る子猫の傍らで「別れの苦さを知った」«家なき子»の詩学—«海の起源»としての涙と、«海の詩学»所有への渇望、そして«なみだは、にんげんがもっている一ばん透明な宝石です»発見に満ちた外部世界(海)の探求、«私の書く詩のなかには いつも家がある だが私は ほんとは家なき子»という根源的疎外感と、«一本の樹は 歴史ではなくて 思い出である»と世界を再定義し、«書物は 家なき子の家»と唯一の安息所を見出す内面世界への沈潜と「ぼくがぼくであるとき」の静かな独白までの全行程
寺山修司の最終定理『靴をはいた青空(1983)』:「愛」は如何にして商品化され、破綻するか:「『私窩子』より花姚記」の「盲目が四人」の予言、「新・病草紙」の「時計恐怖症」、「鬼見る病」の「げに、鬼はいつでも、遅れてくるなり」という結び、「新・餓鬼草紙」「善人の研究」で「花食ひたし」という倒錯した欲望が「おにより天の身に近づきてゆく証しならむか」と問われる「もはや、くらふべきものなきほど、はてしなき穴」という精神空虚描写とアリス「書物を隠す女」とテレス「鏡を磨く男」という、二人の幻想連続性「アリストテレス」の名の下に「完結されるものというよりは限界である」と予言さる恋人らが「縮んでいるのだろうか?」という存在論的な問いに直面す寺山的世界のディストピア論
寺山修司の1970年代戯曲群のある種の先見の明:「世界は、たった一人の主人の不在によって充たされている」と喝破さる『奴婢訓』の「役割」の執着による偏執、「一切の記憶は疫病でした」と診断さる『疫病流行記』の「伝染する記憶」の演出劇-「きみはその洋服ダンスの中の死体の役なんだ」と現実が「遊戲療法」の名の下に虚構で侵犯さる『壁抜け男』の内面消失演出-「天につば吐け 阿呆船」での『阿呆船』の演出、「写真という虚構の中に永遠に閉じ込められ」る『さらば箱舟』の牢獄劇、「人間が最後にかかる病気は〈希望〉という病気なのだ」と示唆さる『不死鳥』の終着点まで――虚構への偏執の社会批評/アイロニー劇
「♥ 壜の中のラブレター」における『手紙』のコミュニケーション不全と『歯車』の世界的欠陥の提、記憶をめぐる葛藤—『年老いた紙切れ』「WANTED」のすれ違い、『おもいでをハサミで切って』、『引取人は誰?』問いと『おまえが一人のとき』までの受動的悲しみの克服-『恐怖譚』『春の血液』のようなシュールな残酷さ、『あの子はとても人見知り』『りんごのかけら」の連作に代表される恐怖、そして『告知板』への集約。「♥ ミアナ」の物語世界から「♥ コレクタア」の段階へ—『A・N・G・R・Y』『紹介状』の連作・客観視し、『夢』の断片を蒐集することで自己の輪郭確認を経た少女「アリス」の心理的遍歴
「ギターの絃は切れ、だからこそ全てのうそをつく」『半分愛して : あなたの詩集2(1970)』の深層-その結末「私にはとっても解らなかった彼」が提示す現実断絶詩篇群「あい」「さよならの請求書」「なくしたもの」「嘘つき」「マッチのように」「思い出は死人の口笛」「風があなたなら」が描く関係性崩壊の帰結-第二幕「ギターの絃が切れてる」の第一幕の断絶と「うそ」とし「メモカメモカ」「ある探険家の話」「みなさんにお願い」「愛の数」「おっかねー」「最後の罐詰」へ接続させ『★ お菓子の魔女たち』にて「星のコレクター」「鸚鵡とわたし」など詩篇が示す「あなたにもらった/青い薔薇は/もう枯れて 私のドレスになってしまった」での「青薔薇のノクターン」一節に凝縮された少女悲劇と探求
「親だって食えるのだ!」から仏蘭西映画「わんぱく戦争(1962)」の'大将になる条件'「チンポコのいちばん大きいやつがなるのさ!」へ:『現代の青春論(1963)』の展開-第一章「Beat, Beat, Beat!」衝動と「お母さんの死体の始末」観念が、第二章「悪徳のすすめ」で「お墓に青い花を」と夢想し「厄介ばらいの論理」で「ふくれあがる死体」へ「死体教育」で山谷で暴力へと変貌すプロセス追跡、「地獄歌」で問う「シラミの哲学」と「カタツムリの家出」の「わんぱく」の拒絶-「大将になる条件」で示さる性的主導権の回復主張という結論-「Beat, Beat, Beat!」「子守唄は嘘つき」「棺桶が歌っている」から「紙の血」と「禁じられた指輪」で悪の質と「おんぼろ交響楽」、「コーヒーのにがい理由」までの伏線と回収構造
少年そばかすはなぜ「皇帝」になったのか―『大人狩り』から"コラージュ資料"と"台本"で出来た『トマトケチャップ皇帝(1970)』の世界の再構築の比較研究:「全日本子供会議」という未熟な模倣に過ぎない権力は、いかに「皇帝八神聖ニシテ侵スベカラズ」と規定さる絶対的システムへと変貌したか:「バッテン(X)法典」と、「ひげを生やせば大人になれる」という記号のおかしさー「この一ヶ月間のぼくの任務は 収容所の釜の番人です」という手紙に象徴さる-感情発露から「任務」へ子供じみた暴力の日常化描写-「子供」革命の倫理的ジレンマが、権力そのものの根源的な「寓話」へと昇華される過程のアイロニー
「解説 大変な事になったものです。本日午後七時を期して、東京全都の子供たちがへ大人狩りに立上ったのです」:このオーソン・ウェルズ「宇宙戦争(1938)」的虚構ラジオ番組「大人狩り(1960)」の放送が、現実の「福岡」を揺るがす社会問題<福岡騒動>へと発展-福岡の教育界が示した「暴力革命の鼓吹」と「批判的思考力」の欠如の議論-物語終幕「革命の指導者となった子供の顔に、彼が憎んだはずの『大人』の象徴である『髭』が見事に生えている!」の結末からみる権力永劫回帰のアイロニー、寺山修司の社会心理実験・福岡騒動とハドリー・キャントリル「火星からの侵入(1938)」の社会心理実験のラジオ放送問題の比較
『春の銃声』から『花粉の罰』、そして『月蝕待つみづから遺失物となり』へ―寺山修司『花粉航海(1951-1953)』:『みなしごととなるや数理の鷹とばし』と宣言す〈愚者の船〉の攻撃的孤立-『わが首の影ちぢみ消え』る〈髪地獄〉の閉塞感への皮肉と過去の自己たる『子消し人形川に捨て』る壮絶な訣別描写〈狼少年〉の聖域『蝶とんで壁の高さとなる雅歌や』から世界は〈だまし絵〉で『冷蔵庫に冷えゆく愛のトマト』と変化し、『大南瓜悪夢と地下でめぐり逢い』から『鉛筆で指す海青し卒業歌』の果てに、〈蝸牛〉『家負うて家に墜ち来ぬ』という宿命論的回帰を選び、「手で溶けるバターの父の指紋かな」と『みづから遺失物となり』という弁証法
「はじめに私の名前を消す」から始まる自己解体と「二人が同じ場所で出会うために」の逆説的創造—寺山修司遺作『ロング・グッドバイ(1983)』での「消されたものが存在する」不在の存在論」-「試合は二十年前に終り」のグラウンドに佇む『野球少年の憂鬱』における「時間が停止した野球場」という「癌の谷」状態のコミュニケーション不全(口亞の物語)から「A列車で行こう」で疾走す関係性(血があつい鉄道)の飛躍の比較考察:なぜ寺山は「東京都渋谷区渋谷三一―七は喜劇的だろうか悲劇的だろうか」と問い「貰った一万語はぜんぶ「さよなら」に使い果したい」と疾走の合言葉へと転化したか、訣別方法論
恐山、六戸村字古間木の「穴」から東京の「ドッペルゲンガー」、終着点「紙葉のうえ」へ-1983年寺山修司「地獄篇(十の歌+最後の歌)」での地理的、モチーフの深化-「十月十日はお鼻の中に三十三日は心の中に、よう」-「ノブは一体どこへ行ってしまったんでございましょう?」と問うヒサ(ノブと同一人物)から、アイ子の都会匿名性の中の「ドッペルゲンガー」恐怖直面、「都会と故郷との不幸な一致にいたる方程式」により義肢職人が夢見る「足になる木」と「木になる足」の幻想が「かくれんぼと時間」の鬼寓話となる過去の不可避性説明性、「紙葉のうえ」テキスト空間へと移行す創造物に囚われる永遠の囚人創作による弁証法
唐十郎著「風に毒舌(1984)」:最終話「夢物語」にて「富士」と「江の島」の洞窟」を繋ぐ奇想を証明すべく投下した「林檎(リンゴ)」という「因果律」の「メッセンジャー」の「物理実験」が、意図的なバグ(失敗)を誘発し痛烈な社会風刺的終焉〜「この身がだれだか分るかい?」と語る「鮫の姿をした祖母」が出現する幻想的アイロニーの軌跡〜「また、石を投げられてみてえよ」と呟くタクシー運転手の逆説的な過去への憧憬描写、そして「奇態な恋」にて死んだ恋人の血の「黒い塊り」をガウンに纏うストリッパーの身体的記憶、失われた世界への哀悼
「私は、いつも『さがし出される』のを待っていた。鬼は、だれでもよかった」という告白:「パンドラの匣」「影の美術誌」「猟奇歌-私の消し方」「賭博紀行」の連続性と境界侵犯す芸術家らと寺山の旅-怪人二十面相はもう踊れない-「地中海」の「賭博紀行」の感慨と「不在の父」に呪われしアラバールの「シーツの迷宮」とフーデニの自らを「血のつまったただの袋」と定義し「富の破壊、富の浪費」の批評からダリの「ゴミと排泄物の中にこそ、俗世の不滅性」の思想共鳴〜序論への回帰「パンドラの匣-悪魔の肖像画」たる「機関」の解明と「批評」とは「消すという手仕事でしかない」と悟る寺山修司の批評と私小説が交錯す叙事詩
『いつからできたか、妙な海峡が、私たちをこの列島に幽閉している』:ソウル『煉炭詩人』金芝河との『海峡報告』を起点とす近代日本『幽閉劇場』の脱出論としての『日本列島南下運動(1971)』の黙示録-韓国の『岩』たる抵抗と浅草ストリップ劇場に象徴さる日本の『沼』的仮死状態の対比:歴史切断された現代日本を論ず坂口安吾『白痴』、時代病を背負う『特権的肉体』らが、サルトル『嘔吐』の『マロニエの木の根っこ』が示す「ロカンタンのあせり」の啓示と『野良のぬかるみの中から化粧が発見された』と語る古代の『河原者』系譜と土方巽「暗黒舞踏」が体現す『時間の腹を蹴るバラの拍車』による近代的時間概念の見直し評
「攻撃/創造(テーゼ)」から「逃走/消去(アンチテーゼ)」の影の美術誌による表現技法論:『パンドラの筐―悪魔の肖像画』外部攻撃的自我(テーゼ)-アラバールやダリの社会忌避性たる「尻」「排泄物」の芸術作品化、知性的表現-「シーツの迷路」描写でのマクロ権力構造批評、フーデニの妻モーリンの「芸術化」での非人格的社会の批評解明-『猟奇歌-私の消し方-』夢野久作考察「便所でニコニコして居る未亡人」での内部自己解体(アンチテーゼ)へと論述展開す、「私の消し方」に至る—「ヒューマニズムの最後の神話崩壊論」、光が影に覆われる「月蝕」の必然性証明『月蝕機関説(1981)』の弁証法(ジンテーゼ)論
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の恋とは何ぞ:『われに五月を(1957)』で訣別した「感傷していた僕」の抜け殻から「嘘」の批評作家の誕生譜「ころがりしカンカン帽を追う」時代-「静止させなくてもいい美」の発見、花売娘を「一枚の新聞紙」へと変えた2作の共通作品『墜ちた天使』の残酷描写を繋ぐ『はだしの恋唄(1957)』での存在しない「赤い鳥」が見えると宣う主観的真実の擁護-「厚すぎる空気」の中で「僕は僕を盗んだのだ」と宣言す実存的回復描写、「嘘の火」に殉教す「意味の忘却」の抵抗連鎖過程〜2つの詩集を通す〈見えるもの〉と〈信じるもの〉の相克実存探求と「完成された葬送曲」〜
「算盤が大笑いする」—「ヒゲのある女の子(猫)」から「醜い宿」の反逆者まで—寺山修司『猫の航海日誌(1977)』における「少女」表象の可能性と、ホフマンの「女性を人形としてしか見ることのできない男」へのアンチテーゼ〜『花姚記』での少女の商品化の経済的暴力、無自覚に自らの眼球を「マダガスカル島の大豆」として食す悲劇、『毒薬物語』で「口紅」が呪いと化す「ふしあわせ」の呪いが消費社会を流通する寓話〜『暗黒童謡集』で「お城には舞踏会なんかなかったのよ、あすこは醜い宿だったんだ」と嘘を告発する灰娘〜「私の眼球は、いまどこにあるのでしょうか?」と詩や物語がいかにして社会批評たりうるかを問う
寺山修司『赤糸で縫いとじられた物語(1983)』を貫く思想体系:『イエスタデイ』で「うそをつくことを覚えた」言葉の暴力と『消しゴム』と『海のリボン』が描く「恋幕」の破壊描写、『壜の中の鳥』で「すれちがってしまったのだ!」と叫ぶ〈喪失と不在〉、『思い出の注射します』で「だれのだってかまわない」〈時間と記憶〉の改竄、『かくれんぼの塔』で「ひとりぼっち」を恐れる鬼が仕掛ける<時間の牢獄>、『影の国』と『書物の国』を巡る「文字を切り抜け」と促される〈アリスの越境〉『数字のレミ』の「あそこにいるのが、ほんとのレミなのならば...いったいだれなのだろう」までの〈贋作つくり〉を通す社会虚構性の批評
寺山修司『さかさま博物誌/青蛾館(1975)』における『贋作つくり』の批評と探求:導入「財産目録」にでの「贋の絵葉書作り」と「馬の切手」の「『起さないで下さい』のカード」演出による「記憶のアリバイ偽造」個人的過去の物質的偽造批評〜「首吊人愉快」での心理学者フロイトの「首吊人のユーモア」の虚構化「『ない筈の今週』」を起点とし「ふん、今週は幸先がいいぞ」の批評〜「賭博骨牌考」イカサマによる「ミミキリ」と「騙し絵」での秩序転覆批評、最終話「手毬唄猟奇」の「生首のシンボル」と猟奇的隠喩の糾弾——批評的文学的帰結
恋人の「時さん」の眠る記憶の「枕石」から、「不在」を証明する流血する夢と現実へ:『唐版 犬狼都市(1976)』における世界の根源の声「しゃべる犬」と、その拒絶がもたらす「恐水症」の呪いをめぐる弁証法的闘争、及び「大田区」を「犬田区」に転換させる想像力と「トロイメライ(「夢想」)」と誤字の「トロイ"ネライ"」の不条理が、最終的に「しゃべる泉」の破壊を通じて登場人物を「ないままである町へ」と至らせるプロセスの演出
唐十郎『蛇姫様(1977)』における「スリ」という他者侵入と解読不能な「日記」と「古い糸」の争奪と隠蔽劇:蛇姫の「ウロコ」と記憶の媒体(日記)を「スリ」が奪い合いを繰り返すことにより、真実が流動す『蛇姫様』の世界と姫小路病院にて「絵馬」の手術の失敗原因を「古い糸」の物語により捏造し独占す『糸姫』の世界—「スリ」と「手術」という対照的侵入行為と、奪われる「日記」と、「手術の失敗」という問いに対する院長・姫小路の「昨日の糸だったんです」と誤った上書きをする悲劇的演出を通した「自由」と「暴力」の根源的二重性の論考
・劇という名の「毒の酒」をめぐる詩学—唐十郎作『風に毒舌(1984)』における「記憶の所有権」―「俺は空っぽの器だ。毒の酒でも構わない!」と叫ぶ影山の〈空虚〉に対し、女が「過去の味がする」「あの日の川のことを教えてくれ」と〈林檎〉で詩的提供す演出-「不在の姉」の存在における暴力的詰問と老婆とモンタークが「何一つ新しくないよ」という摂理、そして「言葉は火だ」と宣言するモンタークの観客という「空っぽの器」に「演劇」そのもの「酒」を注ぐ結論
・二つのXが示す宿命の分岐点『風にテント胸には拳銃(1976)』 「風呂屋の釜」が「満州の汽車」への接続と「江戸川」で「歯の大移動」が目撃される排除の「×印」と匿名の「役者X氏」の受肉の犠牲:「文字のケロイド」における「旅館の鴨居にぶらさがるまでを俳優修業の一回性と言うべきか」までの「ひと虹のケロイド」の発生と「鹿の子チリメン蒲団」に象徴される祝祭的世界を「もしも、この私が、アリババを助ける女中モルギアナのように外にとびだし、デカのつけた×印を混乱させるためにあたりかまわず、チョークで同じ印をつけていったならば」と問われるに至る、言葉の悲劇的な《受肉》の様式の演出
・「新宿養老院の池」への車椅子ごとの落下からの身体的カタストロフの連鎖演出:黒テント主催:唐十郎『新・二都物語・鉄仮面(1973)』〜失い続ける者「イシハラ」への「赤い木馬」の囁きの演出〜『乙女の塔』で共謀者「リーラン」と『コートを被った』脱出劇、『プレッシャー』を『プレス+ションベン』に分解する「キャット大使」の言葉遊び、リーランの悲劇における『百円はボタンでごまかさしてもらいます』と「赤い木馬」を召喚する終幕まで――〈現実/虚構〉〈生/死〉〈日常/非日常〉〈記憶/現在〉の二元論的世界観の越境する演劇描写
唐十郎「由比正雪(1968)」における「慶安の変(1651)」の国家転覆劇の再演:知識独占と隠蔽により「由比正雪、由比正雪だ」と名乗る権威が、夜桜の「その声、その歯並び…かたりめ!」という指摘と「誰がサンタァマリアを裂いて食べるのだ?」という核心的問いに「バテレンめ!」と封殺し、島原の記憶を裏切る崩壊過程〜『サンタァマリアも逆吊りじゃ』という「肉体の呪詛」と「鏡」が生きる歴史主体への変容『由比民部之助正雪』の構造〜『『半兵衛、俺の名を呼んでくれ』と他者に自己を委ねた半面の男が、〈江戸〉と〈南〉を統合する「新体制」演出〜
「いる」ことと「ある」こと、桜桃忌のアイロニー-なぜ唐十郎の演出は何故「客という名の鯨」を打たせたのか-中年男の「皆さん、"桜桃忌"がまたやってまいりました。泣けるだけ泣きなさい」が示す傍観者・自己陶酔的社会への訣別〜千里眼「俺は魚座だからね」という他者視線が侵入する「妖鯨」の部屋への隔離に囚われたおぼろが「ええ。こうして何もかも燃やしてしまいましょう。この開かずのお部屋が大きなサルビアの花になって、南の空に飛んでゆくのよ」と破壊=創造の宣言〜第三幕の「絵のある石」の再生儀式、演劇的=存在的昇華をする考察
唐十郎『マウントサタン(1984)』現実侵食に対する演劇的救済:『彼は、出来ればその日記と一緒にコンクリの地面の下に入ってしまいたかった』:高島平団地を〈マウント・サタン〉と名付けることで「現実を再構築する」〜無機質な近代空間を〈赤いハイヒール〉や〈逆回りの時計〉という過去の亡霊と「直面させる」「巨大な実験室」へと変貌させた軌跡〜「錯綜する作り話」の論理的解決が不可能な時代に〈赤いハイヒール〉という呪物を破壊=受肉(女装)し、〈マウント・サタン〉と過去の下谷万年町の方角への対面するための橋を架ける為の演出・脚本す自己犠牲の演出劇
役割と現実の亀裂:「サクランボ・ポリス」の「街頭劇」は如何に「衣裳」に裏切られ「素裸」となり、「塩を用いる手品師」はなぜ破滅したのか?唐十郎『俳優修業(1977)』とは全ての幻想を破壊する儀式―「サクランボ実る不思議な夜間高校」という、「明星夜間高校」の幻想に始まり、劇中劇「藤十郎の恋」に囚われ、警察官「デカメロンのミヨ」による茶番の暴露、ロマンの象徴「ヒトデ」がレントゲン写真により「頭蓋骨の傷」であった現実、そして「カナリアの墓」と「銀の灰皿」を喪失したサクランボ・ポリスの「素裸」との邂逅〜俳優修業の終着点〜
・唐十郎作『安寿子の靴(1984)』の二人の「やすこ」—記憶で理想化された「安寿子」と、主人公・十子雄の攪乱する生ける「やす子」—の表象「お兄ちゃん! 靴だけおかしいよー」と「赤い靴」の恐怖を指摘する「案山子の子って言ったでしょ」謎の少女「やす子」のトリックスター性、「やすこ」達の記憶を融合する主人公・十子雄の心理――唐十郎の小説世界において、出会いと喪失が繰り返される境界空間としての「鴨川」と、と未来の儀式が構想される「深泥ヶ池」での片方の「赤い靴」の「献上」により「生きた記憶」へと再生する通過儀礼演出
・「女は、塩袋を一頭の驢馬に積み、塩田を旅立った男の話をはじめる」なぜ希望(岡持ち(胎内)から梨リンゴによるキメラ生成)は危険なのか:『フランケンシュタインの娘』における社会的暴力と逃避:ドク・江戸の「鎖国」とアイスクリーム屋で身体を消費されるキララの悲劇によって証明された、娘にとっては「変容」と「再消費」という二重のリスク。成長も腐敗も停止させる「塩」の思想こそが、娘をすべての脅威から隔離し、成長と腐敗を超えた永遠の共存を可能にする唯一の「免疫学的寛容」の形として、語り手に「樹」への変容を決意させた過程
・唐十郎『魔都の群袋(1974)』:「魂の攪乱」たる「カクラン症」の妹と、浅草で「あたしが切ってやったのよ。三角定規当てて」と嘯く映画切符もぎりの「マダム・酒池肉林」の姉、警視総監の帽子を持つ「いかさま弁天」のクイアが交錯する世界:「ううん、あたし、三十八よ」と語った乞食少女の「嘘」が、その20年後「夢は成長しませんもの」と現実を焼き尽くす「本当」へと成長したか—語り手が少女の持っていた腐臭「銀ヤンマの目玉」から「ベットリとした虹色のスジ」を掴み、黒塗りの車を駆る謎の女(乞食少女)から案内される軌跡
・「身体」という舞台に塗る『口紅』の系譜-『海星』の「ヒトデ型の灰皿」と「禁断の刻印」の『口紅』が残したクイア心中劇と「ジンジン河」の「死者の記憶」、『河童』での兄が「化粧」のせいで「河童になる」演出:『糸姫(マユ)』の整形外科姫小路病院脱出時に糸姫のバッグから「使い捨てられた抜糸の山」描写と『少年への変身』の「プラスチックで覆われた頭部」の少年の「白紙の頁」と「無名性の森」の接続性、そして『恐るべき少女』の「雪に血を吐く」ポールの悲劇〜往復書簡『過去へのゴンドラ』での「ドッペルゲンガー」遭遇と「水オルガン」が誘う「官能的」なヴェニスの「退嬰の水路」(カロンの河)まで〜
・「言葉には現実の腐蝕作用がある」と「メイクの下に汗がにじむ」という瞬間における虚構と現実の絵画的縫合〜「この体験が『発狂の予防接種』であった」という結論はいかにして導かれたのか〜「粗悪なコピー機械」の逆説的創造性に向けて『汗のドレス』における「私」という役をめぐる『眠り民族の覚醒』の劇で求めた「肉体の教養」:「汚れた足うら」二重のテクストの比較考察を通し、なぜ唐十郎は「悩めるインターン」の「特権的肉体」の証明を見出したのか
・「昔、彼は口裂け女だった。」から始まる唐十郎作「サンドイッチマン(1980)」の一人のクイアの魂と物語の再生:キャバレー「赤い唇」の「頭」の記憶の継承劇-「この阿佐ヶ谷に、とてつもなく大きな羽を広げて見せる」-そう夢見たクイアの飛翔と悲劇・ガード下の「黒いシミ」に凝固した死を「口紅」で「三日月型」の美しい線に変える儀式的演出「新たな孔雀姫」の誕生に繋げる「虚構と虚構」が可能にした劇的再生描写
・唐十郎作「紅疾風(1974)」:「ルビー(紅)」を求めて狂った砂漠の「少女伝説」と主人公腹話術師・破里夫の交錯「これは自分の腹話術ではないのか」-等身大の人形と「同棲」過去を持つ理想(紅)--パレスチナ・ガザ「黒いニジ」の現実闘争を介し、「紅」を求む社会運動(疾風)の過程~「透明な手」に他者記憶「くるみの指紋」が刻印され、病院「ミラージュ」の暗闇で、砂漠の少女闘争史の継承者「漆黒の腹話術師」としての再生劇~紅・黒テント的状況・再生劇
・エドモン・ロスタン『シラノ(1897)』の換骨奪胎:唐十郎『女シラノ(1980)』における身体痕跡による物語構築—保険金殺人された恋人姫野の不在劇・男装の女剣士シラノの社会的収奪と女装の青年「晶」が体現するジェンダー越境-「味塩の瓶」に「赤い杓文字」が刺さる奇怪な『ドラゴン』を求む「ブラジル帰り」の公務員「ミスター・オナラ」で存在証明する「口無しの悲哀」、緑のバラが描かれた銀のホイールキャップが体現する『あなたが流した血の思い出に!これから流すかもしれないあなたのために!』という「血止めの花」の象徴体系への変奏の演出
『下谷万年町物語(1981)』に見る「警視総監の帽子」を取り合う「お市」「お春」らの娼夫たちへの唐十郎の愛の表現:『オマンマ喰えずに/出たために尻が代りに/なにかを喰った』から始まる劇中劇『娼夫の森』が暴く『本物』の身体性―「瓢箪池」の底から始まる『聞いたこともない開演ブザー』によって「キティ・瓢田」と「文ちゃん」が「焦げて裂けた鏡」を通り抜け「永遠の再生」〜金杉病院サフラン病棟という象徴的地理空間を巡る死と生の円環と紅・黒テント的演出
・佐川「かねてよりワイ君から、誤読の名人と聞いているオオツル・ヨシヒデさん(唐十郎の本名)が、誰も坐っていない椅子の前で、一人お喋りしていた相手が、K・オハラではないのか。」不在の劇場——唐十郎『佐川君からの手紙(1983)』での三人称的語り屋「K・オハラ」と「誤読の名人」オオツル・ヨシヒデさんとの「あこがれ」から「ルネ」の犠牲と「えげつない肉」と「花を喰う」行為の批評—サンテ刑務所の獄中書簡からボナパルト通り59番地という虚構-新宿花園神社-
・秋葉原・上野黒門町から始まる「鞍馬企画」での虚構のセールスマンから幻の目撃者へ —唐十郎『幻のセールスマン(1974)』における田口の『犯しがたい女のセールス』たる『D契約』での『カタリ』(薄情け)による「五千円返金行為沙汰」が生んだ現実と幻想の混濁演出:ステテコ姿の縄張り争いによる結実〜肉屋・和子の血まみれかっぽう着=『ユカタ祭り』〜『これが、今年のあたしのユカタ』宣言:アングラ演劇が描く女性的混沌による男性的秩序の攪乱〜
・『折れた櫛/幻のセールスマン(1974)』が描く高度経済成長期日本の暗部と「垣内」のSNS時代におけるゴースティング・ブレッドクラミングを予見した男女関係の病理劇作:上野の『いにせのクシ屋』での不在を告げる「竹職人」から晴海埠頭の電話BOX ― 『かぐや姫』の病院という日常空間へ陸と海の境界=死への入り口のリミナル空間への移行『受話器は又、手でふさがれてしまった、間、間』という幻想的演技に至る、感情搾取、リベンジポルノという現代的女性受難の原型
・秋葉原・上野黒門町から始まる「鞍馬企画」での虚構のセールスマンから幻の目撃者へ —唐十郎『幻のセールスマン(1974)』における田口の『犯しがたい女のセールス』たる『D契約』での『カタリ』(薄情け)による「五千円返金行為沙汰」が生んだ現実と幻想の混濁演出:ステテコ姿の縄張り争いによる結実〜肉屋・和子の血まみれかっぽう着=『ユカタ祭り』〜『これが、今年のあたしのユカタ』宣言:アングラ演劇が描く女性的混沌による男性的秩序の攪乱〜
・唐十郎『夜叉綺想(1974)』における科学的根拠無視による破局―『君の目、ヤニだよ』――野口博士が顕微鏡で「水銀」を分析しても見えなかった真実とロボトミー手術の失敗-白紙日記に『あぶり出し』で浮かぶ「虚構記憶」と『窓ガラスにできたシミ。しっくいの壁のシミ。薬瓶のシミ』-結論を出さなかった全員の破局的結末:「水銀の毒か都コンブの希望か」わからないまま-現代演劇の社会皮肉的演出-そして『雨の男』『マニキュアの紳士』『ヒモ』たちの口上の自律的世界
半世紀前の戯曲が予言した生者と死者、現実と幻想、自己と他者の境界はいかにして溶解するか紅テント・黒テントの演劇的想像力が予見したデジタル時代の身体性:唐十郎『満月の中の満月(1974)』における美少女展から低地のアパート、そして水底への地理的下降が描き出す、イメージに喰われる特権的肉体の悲劇と、現実/幻想、生/死の境界溶解がもたらすSNS時代のルッキズム批判
『一万八千株の中の一株(1974)』吉沢(虎)の計画的バラ園の破壊と祝祭へ至るカミソリ少女・コンブによる混沌の勝利―― 紅テント・黒テントの演劇革命を経た唐十郎による文学的実験の達成と、マッチ売りの少女と金の総入れ歯のオケラという存在という日常/非日常の境界撹乱、新宿駅・キャバレー・カリガリ・谷津遊園・足摺岬という地理的配置が示す日常から非日常への不可逆的移行
・唐十郎『少女仮面』(1969年)防空頭巾を被るファンらの描写:『亡霊が、いつも欲しがるもの、それは――肉体』から『春日野、ほら、見てごらん。とうとう自分の貌(仮面/貝)を見つけたじゃないの』へ――ガールの仮面崩壊:『私の名はアイ、貴方のような無名の者への愛』と語る腹話術師と無名の「水道飲みの男」が語る『俺は不思議なんだよ、水道のありがたさを、二十四年経つと、皆、忘れちまうのが』〜人形・無名君が奪い去る主体性崩壊の諸相と状況劇場的社会批評〜
・「ぼくがいなくなると"かずこ"は/さみしい顔をするだろうか/ぼくはいなくなってみよう」という消滅願望から無限増殖へ―寺山修司初期2作品『はだしの恋唄』『われに五月を』(1957年)に描かれた独我論的客体:美を毒薬で永遠にするリオ、盲目の花売り娘エミが見る「赤い鳥」の個人的救済の妄想描写、鏡の部屋で分裂す泥棒の維夫、詩人の「思ひ出」に生きるレーナ〜想像力の境界に生きる「時分の花」から「まことの花」否定〜「書を捨てて町へ出る」宣言の意味の考察
・「その前のドブ板をわたって下に降りると」始まる唐十郎『ベンガルの虎(1973)』の地下世界空間の接続、錦糸町「水に悩まされる東京下町」のドブ板から異郷へ「白骨街道の果てに、人骨をふみ越えて」:「入谷朝顔市」に潜む「虎の仮面」を被る俗物隊長の地獄競輪の始まり〜「今日は日食なんですよ」変貌す花月園競輪場(白骨競輪と化す)で「産婆のお市」が売る「骨に変わる」「捨て車券」により「バッタンバンの墓地」の演出〜「あたしは形が欲しいんだ」と虎を求める水島カンナ、日常と非日常の境界崩壊による戦後日本の暴力的無意識の描写
・唐十郎『毀れた模写(1985-86)』―ブラウン管の中のゴーストとタイタニックから逃げた『虚言のねずみ』への文学的批評―状況劇場的批評実践:森内俊雄『骨の火』での『神』シテと対峙できない「漆山」の欺瞞、『現実を肯定し、全てを明け渡した白痴』となる亜久間の変貌、笙野頼子『冬眠』で水とアルコールに溶解する「Yの部屋」と発見者が背負う『ベニヤ板の土産』と背後が消えていく『後ろ姿のないイメージ』の恐怖描写の議論、不忍池畔や新宿中央公園での黒テント・紅テントによる状況劇場的批評・文学表現
・紅テント→黒テントの演劇的実践文学「幻の学校」と「コウモリ・ホテル」の表象とその存在の唐十郎:戯曲『黄金バッド/お化け煙突物語(1981)』による「できそこない」の聖化―、自閉症「ヤドカリ・ミサ」の沈黙の伝言と「コウモリ・ホテル」における「飛んでも見えないコウモリだけが手さぐりまさぐりやってくる」盲目の男たちによる過去の傷の執拗な可視化〜カイの「あたしの肉は、元気ですか?」の過去解放不可能性演出による社会批評〜
・狸憑きと狐憑きの構造的差異から始まる「狸」という鏡に映る日本人の精神史―富田狸通『たぬきざんまい(1964)』に見る:飼狸『ハチ』の死後『順雅園の怪』から始まる富田狸通の狸研究史ー狸地域伝承『阿波の狸合戦』、佐渡金山の『団三郎狸』金貸し伝説―『分福茶釜』の近世滑稽化、『狸ヶ丘』物語の自己犠牲譚と再神格化、狸に関連する慣用句・諺・造語が映す『取らぬ狸の皮算用』の経済的警句から『狸寝入り』の生態学的観察、『同じ一つ穴のムジナ(狸が起因)』、『他抜き』の語呂合わせ、『金玉八畳敷』の金箔職人起源説と『狸の腹鼓(ぽんぽこ)』などの日本人と狸の文化的意味体系の言語民俗学
・『川柳江戸砂子(1732-1872)』に慶長-寛政に至る約200年間の川柳群:菊岡沾涼『江戸砂子』から「祭和樽」川柳化『芳町へ寺澤流の文がまいり』『牛若になつた若衆を聞きにやり』に見る僧侶と岡場所、医療という「隠れ蓑」を必要とした桂庵・鯖宿・陰間茶屋から歌舞伎役者への転身という社会移動の関係『信心に二心ありて目黒道』が示す聖俗混淆の都市構造と忠臣蔵・八百屋お七事件・明暦大火などの社会的事件に対する庶民の視点まで
・『狸の電話帳(1975)』における井原西鶴『男色大鑑』翻訳者・富士正晴の批評精神―『五十点出会い』の「ゆっくり月日をかけ...行うことを見ている」という観察法、『経済大国のウィークポイント』石油危機における30年以上を超えた"フレダ・アトリー"との対話『日本の粘土の足』と描く経済批評、『いつものこと―八方ふさがり』という逆説的生の肯定、『八月の詩』の「びしょびしょの狂った七月...ちっぽけなインチキ臭い生活」という現実認識、そして「電車に乗らない」社会的成功の軌道から自ら下車した富士正晴の文学的達成
・元禄期井原西鶴(1642-1693)作品の江戸期クィア文学の先駆性―『好色五人女』「戀の山源五兵衛物語」の衆道悲劇描写、『男色大鑑(男色十寸鏡)』武家編・歌舞伎編各二十話の「色はふたつの物あらそひ」の衆道の百科的提示、『武家義理物語』における「形の花とは前髪の時」の儚き衆道美学、『西鶴置土産』の「いさぎよくして意気地をだせり」等の衆道賛美、古典引用と雅俗混淆体の文学的表現〜Paul Gordon Schalow『The Great Mirror of Male Love(1991)』翻訳による国際的研究の幕開けからGary P. Leuppの「Male Colors(1995)」におけるクィア理論適用〜
・宝暦期から天保期における貨幣改鋳と庶民生活の社会言語学的研究 ―『川柳江戸貨幣文化』所収の「萬人の口へ投込む似せ壹分」「銅脈金」「雁首銭」等の川柳分析を通じた幕府貨幣政策の破綻と庶民の贋金識別技術および』における仙台通宝(撫角銭)関連句「角錢と文錢偉いどらを打ち」「他国へは通らねへ筈な銭」の言語分析と佐渡金山・江戸金座・大阪銀座を結ぶ貨幣流通ネットワーク
・「俳風柳多留三十篇(1765-1840)」が記録する江戸都市社会の実相:「尊卑の人情止下の八心の有心の有様」"おかしみの文学"としての川柳が持つ社会批評機能―「喰つぶすやつに限って歯をみがき」に見る世相への冷笑、「若衆こんじやうが出たがる江戸家老」が暗示する男色文化と「二代目は金だまの飛ぶ面白さ」に見る役者崇拝の経済学、「やぶ醫者へ金百びきは月行事」に見る医療不信、「狐つり衣を一つもふけたり」が示す精神疾患への民間療法の示唆まで
・「文化の糧」の美学言説の裏側-女歌舞伎禁止の逆説的帰結〜陰間茶屋システムの二代目・八代目團十郎という頂点と自死の悲劇と無名少年ら「賞味期限」残酷な現実とメンタルヘルスケア不在が生んだ大多数の忘却犠牲と底辺格差、「臭いものに蓋をする」社会が無視し続けた精神的苦痛とトラウマの歴史的実態〜深川遊里の「今に私一人で三十六坊をなさって見せる」と豪語す役者「力松」、「興津」における、文化創生と売春境界が曖昧化した男色文化の搾取構造のケーススタディ
・明治日本の『米』が辿った『仙台藩ノ制度』が起因ナル『商業制限』から国際商品への変貌と松方デフレ発生:商況年報(1878)-米価市場の新旧体制併存と価格崩壊―『仙台藩ノ制度』での問屋独占から明治17年7-8円暴落・松方デフレーションと地租3,000万円納税売り・年率20\%金利恐怖、釜石港・暗礁リスクが物語る物流近代化の跛行性、明治16年『低廉』→17年7-8円→18年『凶作』12-13円→19年8-9円という4年間50\%超変動幅が物語る市場未成熟
・『歌舞伎通鑑(1942)』17-19世紀における性越境と舞台演出変遷-出雲のお国の男装から始まり『村山が座には、千之丞が舞の手にしなだれかかる』若衆歌舞伎の両性具有的魅力を経て『世間普通の女性になるではないという限界』を説く女方芸術論若衆「芳沢あやめ」が説く『女方という一種の性を創造して行く』思想まで、歌舞伎独自の近代ジェンダー論の先駆性と役者川柳、俳諧に見える『あぢさいやこれは目黒の別屋敷』と詠む二代目團十郎の風流人ペルソナの文化史的意義
・消えた江戸初期浮世絵作家『勝以』『岩佐又兵衛』国際研究の深化過程-
サンディ・キタ『The Last Tosa』かつ『Bridge to Ukiyo-e』として二元論理解と秀衡館を描いた「山中常盤絵巻」の真贋論争〜『繪師土佐光信末流岩佐又兵衛勝以圖』と川越東照宮三十六歌仙額に記し『狩野、雲谷、海北の諸派を融合大成』という矛盾する流派と経済的利益・権威・人気・無知による真贋の四つの動機『印を捺す方が縮を描くよりも遙かに手がかからないのだから、乘ぜられる余地は多分にあると見られる』という松岡讓の偽作研究
・藤懸静也『浮世繪』(1924)に基づく初期江戸浮世絵――慶長・寛永期(1624-1652)の客観的記録性を持つ狩野派・土佐派の融合としての"新風俗画"から、岩佐又兵衛の主観的表現『豊頬長頤』による肉筆『やまと絵』の時代、菱川師宣『特に注意すべきは版画を多く作って、浮世絵をば、容易く一般の民衆に賞鑒させるやうに努めたことであつた』江戸出版革命、そして菱川流『閨秀作家』たる「山崎竜女」の活躍が示す、身分・性別を超えた才能本位の形成過程の研究
・江戸川柳における身分制社会の表象と転覆―『川柳難句評釈(1900)』所収作品群の分析:「金持へ裸参りの美くしさ」貧富婚姻、「奥様の御する中條までやらず」階級的慈悲、「気高い在者が折」雅俗音韻混交、「公家悪の前に魯國の実事師」聖俗配置転倒、「狀箱が来ると呼ばれる太夫坊」知識階級需要、「銀煙管にて下知をして堀へつけ」の吉原行路線、「七賢の垣を二翼の縄で結び」、笑いを誘導する「つくりすれ松◇久しぶりなりく川柳評」の十七音における日本語表現可能性の解明―
・「にくい事かな」への付句「狐火のおり〜〜ほころばし」「鳳凰や屋形から橋を見る」「嫁に手を引かれ」における互文的対話構造と、柄井川柳・小西来山・園女・其角らの選者システムに見る江戸時代川柳の文学的権威形成―井上剣花坊『江戸時代の川柳(1928)』が示唆する「清書句七十の内半分過メ句なり」という元禄期盗作(ハメ句盗作の横行)実態と批評「猫なる點者かな」近代川柳革新運動への影響に関する文化史的研究
・『類題川柳名句集(1929)』に見る江戸時代260年間の職業意識変革 ―戦国余燼期「大名の過去は野に臥し山に臥し」から元禄商業繁栄期「呉服屋はおちつくまでのやかましさ」「酒屋の内儀起きぬ先づ御神酒」を経て、幕末経済混乱期「昔は良かったと老舗嘆き」「日雇いで食いつなぐ者増えにけり」後期「阿蘭陀流の外科医増える」「眼鏡屋異国の品を自慢する」「料理屋中華の技法取り入れる」の外来技術受容に至る職業構造の変容と言語表現の通時的分析―
・『藤波だか蛆波だか知らねえが、南の番所を焼打にかけてしまう』——久生十蘭『氷献上(1940)』に描かれた加賀藩・前田家氷献上強奪事件を通じて描かれる本郷三丁目『有馬の湯』桃葉湯の治癒的象徴性と南町奉行所と北町同心・仙波顎十郎が組織した陸尺共同体と病児のために『どうか、お氷を』と懇願す青地源右衛門、顎十郎による『水から出て水にかえる』という東洋的循環思想と人情裁定劇
・『類題川柳名句集(1929)』江戸時代(1603-1868)の季節観と言語変容―江戸の春認識『花見とて愚を尽くして踊りけり』年末債務者の発話『大三十日こゝを仕切ってから攻めて』等の社会批評と言語的変遷過程『けり』『なり』『かな』の句末分析、四千句中の季節詠24.8\%を対象とした、『芋を掘る嫁の尻が邪魔になり』田植え歌に飽きる農民の嫁、「廓言葉」を操る遊女等の多様な女性らの表現、元禄・天明・文化文政期における諧謔精神の変遷―
・児童期デジタル環境体験が成人期社会適応に与える長期的影響・グローバル化するデジタル空間における信頼できる大人の存在による子どものデジタル安全認識における認知バイアス:33カ国EU Kids Onlineネットワークデータとイングランド・ウェールズデータ分析によるサイバー犯罪予防のための議論〜複合的脆弱性パターンの社会構造的要因と能動的サイバー防衛意識への考慮〜
・アフターコロナ時代前後におけるデジタル時代におけるオフライン環境上のリスクマネジメントに関する子供の脆弱性に関する調査(2008-2023年):イングランドとウェールズにおける英国内務省・OSNにおけるCrime Survey for England and Wales, CSEW調査データから示唆できた10歳から15歳の子供のオフラインーオンラインリスク行動に見る民族間格差、デバイス、メディア別の年齢・性別の複合リスク行動の連鎖パターン
・複合的教育格差の解明と解消への道筋:Longitudinal Education Outcomes(LEO)データベースとイングランド全域COSMO研究データ(英国政府4省庁DfE、HESA、DWP、HMRC連結データ)が示唆するCOVID-19教育格差の実態:第1回から第3回ロックダウンにかけてのデジタルアクセス、オンライン学習参加、将来展望における所得五分位別格差変動と地域別格差解消成功モデルの比較
・英国国家統計ONSデータに基づくプラットフォーム別サイバーいじめリスクと子供幸福度格差の関連性:Instagramにおける高いいじめ被害率(22.4\%)と容姿プレッシャー(8.4/10)とTikTok(睡眠障害6.7/10)の実態およびソーシャルメディア依存の急増(10-12歳で+150\%)と幸福度低下の強い負の相関(r=-0.975)精神健康のリスクに関する幸福度格差の分析
・マイノリティグループにおける児童の幸福度改善の観測と複合的脆弱性の軽減と児童の幸福:イングランドとウェールズにおける児童幸福度調査(2023-2024年, Crime Survey for England and Wales, CSEW)に基づく性別・年齢・民族・障害の複合効果分析と社会的包摂の進展に関する統計学的考察
・自分の指を切り落とす「語り手」と地下鉄、城、自動車という魚(マス)の避難所と電気的な緑と赤の涙が毛深い頬を伝い、アイスクリームは手術台の味がする世界:リチャード・ブラウティガンの初期作「大理石のお茶を置く(1959)」における時間的パラドックス、存在論的先行性の転倒、生と死の逆説的接続と過去・現在・未来の同時存在の詩的表現の哲学的解明