2025/09 wplace / SDS概論スタートアップ / 上方・江戸歌舞伎台帳
韓国動乱のとき、この村は米軍から爆撃を受けて6人死にました。別に戦闘したわけではないのに……広島と韓国で2回も爆撃受け、もう戦争はこりごりだ。(全判伊氏の証言)
韓国の原爆被害者は韓日両国の政治の谷間にはさまれて、見棄てられてしまいました。(姜寿元氏の証言)
渡日治療で六か月いたら、政府の約束だからとむりやり出されました。
(鄭斗鎮氏の証言)
1965年の日韓基本条約では、韓国政府が日本に対する一切の請求権を放棄したため、在韓被爆者への補償問題は完全に無視された。限定的に始まった渡日治療も、あくまで両国間の政治的ジェスチャーであり、根本的な救済からは程遠かった。彼らの存在は、常に国家間の政治的利害によって取引され、その生命と尊厳は顧みられることがなかったのである。改めて、国境なき医療の重要性を考えさせられる悪夢のような事案である。
上記の地図の中心には「原子爆弾落下中心地碑」があり、その周囲には「平和公園」「爆心地公園」が広がる。ここは、かつて浦上天主堂をはじめとする信仰の共同体、韓国料理店、中華料理店(韓国人、中国人コミュニティも多く存在する。)、学校、そして多くの人々の生活が営まれていた場所である。近くには出島など江戸以降より国交を行っていた地域(アジア、ヨーロッパ、アメリカ周辺)、イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、ポルトガルのコミュニティも存在していた。この想定しなかった原爆の投下は、この地図に示される狭い範囲に、国籍や民族を問わず、あまりにも多くの人々が密集していた都市の中心部を、一瞬にして壊滅させた。この地理的集中こそが、長崎の悲劇をより深刻なものにした一因である。この地図は、破壊の記憶だけでなく、再生と祈りの記憶をも示している。焦土と化したこの地に、人々は平和公園を築き、慰霊碑を建て、祈りの空間を再構築した。それは、悲劇を風化させまいとする、生き残った者たちの強い意志の表れである。
悲しいかな、戦前の長崎の国際的な風景を詠んだ句は多い。しかし、その風景の中にいたはずの韓国人や中国人の姿は、これらの句の中に明確には現れてこない。三菱造船所の活気を詠んだ句の背後には、過酷な労働を強いられた韓国人労働者の存在があった。長崎の繁栄は、日本の植民地支配と侵略戦争という巨大な構造と無関係ではありえなかった。当時の日本社会全体が抱えていた構造的な問題、すなわち植民地出身者への差別と無関心の現れであったと言えるだろう。彼らは「風景」の一部ではあっても、主体として詠われる対象ではなかった。この「不在」は、戦後、彼らの被爆の事実が長らく黙殺されてきたことと深く繋がっていることは課題認識しておきたい。
てのひらに心を置きてむしるごと首なき聖像・原爆碑傾く (瀬戸口千枝)
火に灼けしマリヤの像に風寒く昏れせまり来る 浦上天主堂 (大島武康)
旧浦上天主堂の第一の象徴性は、その地理的位置に由来する。長崎の被害地図が示すように、天主堂は爆心地から南東へわずか500メートルの丘の上に位置していた。これは、原爆の熱線、爆風、そして放射線を最も強烈に受けた地域の一つであったことを意味する。歌集には、その凄まじい破壊の様が、痛切な言葉で刻まれている。
片削ぎになほ立てり帰る燕 (下村ひろし)
崩え残る廃墟の御堂素気もなく見するは誰と誰の犠牲か (小山誉美)
千人の児童いち度に死にしといふ原子弾落ちて校舎引き裂ける (菅孝)
浦上天主堂の悲劇は、単なる建造物の破壊に留まらない。それは、日本の、そして世界のカトリック史において特別な意味を持つ、信仰共同体そのものへの壊滅的な打撃であった。浦上は、250年以上にわたる禁教と厳しい弾圧を耐え抜き、信仰を守り続けた「隠れキリシタン」の里であり、1865年の「信徒発見」の奇跡の舞台である。旧浦上天主堂は、その苦難の歴史の末に、信徒たち自身の献金と労力によって30年の歳月をかけて建てられた、信仰の結晶そのものであった。
浦上の聖堂こそあはれなれぬかづくは殉教者の末裔被爆者の孤児 (大川益良)
大川の歌が鋭く指摘するように、原爆はこの「殉教者の末裔」たちを襲った。原爆投下時、浦上の信徒約1万2000人のうち、約8500人が死亡したと言われている。それは、長崎のキリスト教徒コミュニティにとって、禁教時代に匹敵する、あるいはそれを超える大受難であった。
歌人たちは、焼けただれた聖像の姿に、その悲劇を重ね合わせる。聖母マリアの像が「火に灼け」、聖像は首を失う。
それは、信仰の対象そのものが被爆し、神聖さが暴力によって踏みにじられたことを意味する。この絶対的な悲劇を前に、人々の信仰は激しく揺さぶられた。
(1)戦前・戦後の長崎詩集の研究