童話の世界


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《01》 1944年7月31日、いまだ第二次世界大戦の戦火が激しいなか、サン=テグジュペリはコルシカ島から南仏グルノーブルおよびアヌシー方面の偵察飛行あるいは出撃に飛び立ったまま行方不明となり、そのまま大空の不帰の人となった。44歳だった。この年、ぼくが生まれた。

《02》 2年ほど前、この行方不明になったサン=テグジュペリを追ったテレビ・ドキュメンタリーを見た。なかなかいい番組で、手元にメモがないので詳細は伝えられないのだが、飛行ルートをずうっと追いかけてそのあいだに彼の生涯をはさみ、ついに推理の旅が北アフリカのダカールやコートダジュールの廃屋にたどりつくという映像だったとおもう。なんだが胸がつまって、しっかり見なかったような記憶がある。ついで「フィガロ」誌にその後の推測が出て、おそらくドイツ戦闘機に撃墜されたのだろうということになっていたが、死の謎は謎のままだった。

《03》 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを『星の王子さま』の作者として愛しているのは、それはそれですばらしいけれど、それだけではいかにももったいない。いまはあきらかにそう断言できるのだが、かくいうぼくも長いあいだ、この飛行家サン=テグジュペリの文学や生涯に疎かった。

《04》 それが急激に近しくなったのは、サン=テグジュペリが1900年の生まれで、稲垣足穂がやはり1900年の生まれで、二人ともがこよなく飛行機を偏愛していたという符牒に合点してからのことである。

《05》 サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていったという一線にぴったり重なって飛行している。なにしろ三歳のときにライト兄弟が初飛行をし、9歳のときにルイ・ブレリオが英仏海峡を横断し、13歳のときはローラン・ギャロスが地中海を横断したのである。中田がペルージャに入り、名波がヴェネチアに入っただけでも少年がサッカーに熱中するのだから、当時の飛行家の冒険は、もっともっと少年の胸にプロペラの爆音を唸らせたのである。

《06》 サン=テグジュペリは19歳で海軍兵学校の入試に失敗をして、やむなく兵服して飛行連隊に入隊、志願して飛行練習生になったのちは、行方不明になる44歳までひたすらに大空の夢を見る。

《07》 ところが運命はいたずらなもので、なかなか防空眼鏡に白いマフラーをなびかせた飛行士としての定席にめぐまれない。そこで地上でいくつかの勤務につくうちに、民間郵便飛行の仕事にありついた。それも有為転変が激しくて、なかなか一定の勤務にはならず、スペイン山岳地帯、ブエノスアイレス、ニューヨーク、北アフリカなどを転々とする。いつも危険をともなう飛行計画を好んだ。そのあいだに書いたのが有名な『南方郵便機』であり、『人間の土地』であり、アメリカで書いた『戦う操縦士』と『星の王子さま』である。

《08》 こうしたなか、サン=テグジュペリは大戦にまきこまれていく。けれどもそれは大空を滑空する最後の夢をかなえる機会でもあった。教官を薦められながらもつねに実戦部隊を選んだのは、そのせいだった。連合軍の北アフリカ上陸のニュースが伝わるとじっとしていられず、出撃飛行を申し出て、かくして四三歳、北アフリカの部隊に入ったサン=テグジュペリは当時最高の性能を誇っていた最新戦闘機P38ライニングの操縦訓練をうけて、実戦に突入していった。やきり撃墜してしまったのかもしれない。


《09》 本書『夜間飛行』は、そうしたサン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」を描いた感動作である。

《010》 物語はたった一夜におこった出来事で、そのわずか十時間ほどのあいだに、チリ線のアンデスの嵐、パラグアイ線の星と星座、パタゴニア線の暴風との闘いとの遭遇が描かれ、最後に主人公の飛行士フェビアンが方位を見失って彷徨し、それがおそらくは罠であることを知りながらも、夢のような上昇を続けていくという顛末を、もう一人の主人公であるリヴィエールが地上からずうっと瞑想のごとく追送しているという構成になっている。

《011》 サン=テグジュペリ以外の誰もが描きえない、まさに「精神の飛行」の物語なのである。航空文学の先駆と文学史ではいうけれど、そんな甘いものではない。なんとしてでも読まれたい。序文をよせたアンドレ・ジッドの文章も、こういうものを訳したら天下一品だった堀口大學の訳文も堪能できる。

《012》 この作品は実は400ページの草稿が181ページに切りつめられて完成した。三分の一に濃縮したエディトリアル・コンデンスの結晶である。その短い二三章にわたる映像的な「引き算の編集術」には、ぼくもあらためて学びたいものがいっぱいつまっている。

《013》 この作品でも十分に伝わってくるのだが、サン=テグジュペリの「飛行する精神の本来」をさらに知りたいのなら、『人間の土地』を読むべきだ。堀口大學の訳で新潮文庫に入っている。不時着したサハラ砂漠の只中で奇蹟的な生還をとげた飛行家の魂の根拠を描いた。小説とはいえない。体験と思索を摘んだ文章の花束のようなもの、それらが「定期航空」「僚友」「飛行機」「飛行機と地球」「砂漠の中で」「人間」というふうに章立てされている。

《014》 そこで謳われているのは、飛行機というものは農民が大地にふるう鋤のようなものであって、空の百姓としての飛行家はそれゆえ世界の大空を開墾し、それらをつなぎあわせてていくのが仕事なんだということである。とくに、大空から眺めた土地がその成果をいっぱいに各所で主張しているにもかかわらず、人間のほうがその成果と重なり合えずにいることに鋭い観察の目を向けて、人間の精神とは何かという問題を追っていく。そこには「人間は本来は脆弱である」という洞察が貫かれる。だからこそ人間は可能なかぎり同じ方向をめざして精神化を試みているのだというのが、サン=テグジュペリの切なる希いだったのである。

《015》 『人間の土地』の最後は次の言葉でおわっている。もって銘ずべし。「精神の嵐が粘土のうえを吹いてこそ、初めて人間はつくられる」。

「夜間飛行」 團1列

《016》 と、ここまで書いてサン=テグジュペリの話をおえるわけにはいかないだろう。では、『星の王子さま』はどうなのかということだ。

《017》 結論ははっきりしている。この名作は『人間と土地』の童話版なのである。ただし、ここにはサン=テグジュペリのすばらしい想像力とすばらしい水彩ドローイングの才能がふんだんに加わって、ついついファンタジックに読んでおしまいになりそうになっている。それがもったいないのである。

《018》 いまさら物語を紹介するまでもないだろうが、この童話には語り手がいて、その語り手が子供のころに「象を呑んだウワバミの絵」を外側から描いたところ、大人たちがみんな「これは帽子だ」と言う。それでウワバミの内側を説明しようとすると、そんなことより勉強しなさいと言う。この語り手が長じて飛行家になって、あるときサハラ砂漠に不時着すると、そこで子供に出会う。子供はヒツジの絵を描いてくれとせがむ。いろいろ描いても満足しない。そこで箱の絵を描いて「ヒツジはこの中で眠っている」と説明すると、やっとほほえんだ。この子供がどこかの星に住んでいた星の王子さまなのである。

《019》 ここまでですぐ見当がつくように、これは実際にサハラ砂漠に不時着したとき、灼熱のもとで飢えと渇きに苦しんだサン=テグジュペリが、三日目にベドウィン人に水をさしだされて助けられた体験にもとづいている。さらには、内側に本来のものがあるというサン=テグジュペリの思想にもとづいている。けれどもその内側がたとえ見えずとも、外側からでも感じられるものがあるはずで、それは大空から地球を眺めていたサン=テグジュペリ自身の視線なのである。

《020》 しかし、これもサン=テグジュペリが何度も体験して辛酸を嘗めたことなのだが、この内側と外側の関係を伝えようとすると、みんなは一緒の感じをもってくれない。そこで星の王子さまに登場してもらったのだった。

《021》 星の王子は一人ぼっちである。一人ぼっちだっただけでなく、一つずつのことに満足していた。ところがその感覚がくずれていった。たとえば星にいたころはたった一本の薔薇の美しさが大好きだったのに、地球にやってきてみて庭にたくさんの薔薇が咲いているのを見て悲しくなった。

《022》 自分はありきたりの一本の薔薇を愛していたにすぎないことが悲しかったのだ。では、この気持ちをどうしたらいいのか。それを教えてくれたのはキツネだった。サン=テグジュペリはここでキツネと王子の会話を入れる。王子はキツネと遊びたい。キツネは王子と遊ぶには「飼いならされていない」からそれができないと言う。そこで王子がだんだんわかっていく。自分が星に咲いていた一本の薔薇が好きだったのは、水をやり風から守っていたせいで、一本という数をもつ薔薇に恋をしたわけではなかったことを知る。

《023》 こうしてキツネの話から、王子はどこの星の世でもなにより「結びつき」というものが大切であることに気がついて、自分の星に帰る決心をする。飛行家にもこのことを伝えると、金色の砂漠のヘビにくるぶしを咬ませ、一気に軽い魂の飛行体となって飛んでいった。

《024》 御存知、物語はこういうハコビになっている。途中、地球に来る前にあたかもガリヴァー船長(第324夜)が訪れた国のように陳腐な星を旅するのだが、そこにはサン=テグジュペリの「人間の土地」に対する哀しいまでの観察が戯画化されている。この戯画は、子供のころはガリヴァーの話やトルストイ(第580夜)の『三匹のこぶた』やアンデルセン(第58夜)の『裸の王さま』同様に大笑いしたエピソードだったけれど、いつ再読したのかは忘れたが、長じてサン=テグジュペリを読むようになって『星の王子さま』をあらためて読んだときは、とても震撼としてしまったものだった。

《025》 サン=テグジュペリ。あなたの飛行精神こそ、ひたすらに胸中のプロペラをぶんまわします。

≪01≫  ある夜のこと、人魚のお母さんが神社の石段に赤ん坊を産みおとした。

≪02≫  赤ん坊は町の蝋燭(ロウソク)屋のおばあさんが拾って育てることになった。老夫婦には子供がいなかったのだ。二人は娘をとてもかわいがった。

≪03≫  娘は少しずつ大きく育ち、家の蝋燭に赤い絵の具で絵を描くのが好きになっていた。

≪04≫  しかもその蝋燭がたいへんよく売れた。なんでも、その蝋燭でお宮にお参りすると、船が沈まないという評判なのである。

≪05≫  ある日、南国から香具師(やし)がやってきて、娘が人魚であることを知った。そこで買い取って見世物にしようとした。

≪06≫  老夫婦は最初はもちろん断っていたが、ついに大金に迷わされて娘を売ることにした。香具師は鉄の檻をもって娘を迎えにくるという。娘は泣く泣く最後の蝋燭に絵を描いた。悲しさのあまり真っ赤な絵になった。娘は連れていかれた。

≪07≫  その夜、蝋燭屋の戸をトントンとたたく音がした。おばあさんが出てみると、髪を乱した青白い女が立っていた。「赤い蝋燭を一本ください」。

≪08≫ おばあさんは娘が残した最後の蝋燭を売った。

≪09≫  女が帰っていくと、まもなく雨が降りだし、たちまち嵐となった。

≪010≫  嵐はますますひどくなって、娘の檻を積んだ船も難破してしまった。そして、赤い蝋燭がその町にすっかりなくなると、その町はすっかり寂れ、ついに滅んでしまったという。

≪011≫  こんな話である。これが当時の日本の子供向けの童話なのだ。大正10年(1921)の、小川未明の特徴がよく出ている童話である。

≪012≫   小川未明には北国の風が吹いている。小川家自体が越後高田藩の家臣の出身だった。

≪013≫  父は神道の修行者で、神社創設を決意すると物乞いも辞さぬ熱狂的なオルグ活動を展開するような烈しい気性の持ち主だったらしく、母がまたそれに劣らぬ裂帛の心の人だった。祖母は祖母で、未明に「羽衣」や「浦島」の話を語りつづけた。

≪014≫  この少年期の、凍てついてはいたが、どこかで絞りこんだヴィジョンを夢見るような生活環境は、未明の魂の揺籃となっている。

≪015≫  一方、その後の未明をつくったのは、早稲田時代の坪内逍遥、ラフカディオ・ハーン、島村抱月、正宗白鳥といった文芸派たちとの出会いである。未明という筆名も逍遥からもらった。おそらく「薄明に生きなさい」という意図だった。早稲田時代には相馬御風、竹久夢二、坪田譲治とも深くなっている。

≪016≫  これまた当時の新浪漫主義の鮮烈な一線上を脇目もせずにまっすぐ歩んでいる。そして、その申し子にふさわしく、明治39年には坪田譲治や浜田広介らと「青鳥会」をつくる。むろんメーテルリンクにちなんでいる。4年後、未明ははやくも第1童話集『赤い船』を出した。表紙には「おとぎばなし集」としるした。

≪017≫  未明が童話を書いたのは、時代の要請でもある。時代は大逆事件と石川啄木の死とともに明治を崩壊させ、社会の不安を増大させていた。

≪018≫  こうした時期、未明の作品に注目したのは、意外なことに(実は意外ではないのだが)、大杉栄だった。未明は大杉との出会いをきっかけにアナーキーな空想社会主義の夢を見る。

≪019≫  そのうち時代は、鈴木三重吉による「赤い鳥」を筆頭に、「子ども神話」「金の船」「童話」などの児童雑誌ブームに向かう。未明もいっとき「おとぎの世界」を編集主宰した。こうして大正10年、東京朝日新聞に『赤い蝋燭と人魚』が連載されたのである。いまなお未明の最高傑作といわれる。岡本一平が挿絵を描いた。

≪020≫  その後の未明の足取りについては省く。 ここで加えておきたいのは、未明はその後ずっと“童話の神様”とか“日本のアンデルセン”とよばれてきたにもかかわらず、昭和28年あたりをさかいに、一挙に批判の嵐にさらされたことである。古田足日、鳥越信らによる痛烈な批判活動の開始だった。未明童話は呪術的呪文的であって、未熟な児童文学にすぎないという批判であった。

≪021≫  これで書店から未明童話が消えていく。杉浦明平や山田稔も未明とともに坪田譲治や浜田裕介を批判した。未明はすっかり忘却されていく。

≪022≫  こういうことはよくあることなのである。読書界というものは毀誉褒貶こそが常識で、どんな時代も一定のものなんてないものなのだ。

≪023≫  ところが、昭和45年ごろになって、未明は再評価されることになる。さらに紅野敏郎、柄谷行人も未明における「風景としての児童の発見」に注目をした。

≪024≫  いま、小川未明は賛否両論の中にいる。

≪025≫  どのように未明を読むかは、われわれ自身の判断にかかっている。ぼくはどう思っているかというと、次の未明の言葉の中にいる。

≪026≫  「私は子供の時分を顧みて、その時分に感じたことが一番正しかったやうに思ふのです」。

≪017≫  未明が童話を書いたのは、時代の要請でもある。時代は大逆事件と石川啄木の死とともに明治を崩壊させ、社会の不安を増大させていた。

≪018≫  こうした時期、未明の作品に注目したのは、意外なことに(実は意外ではないのだが)、大杉栄だった。未明は大杉との出会いをきっかけにアナーキーな空想社会主義の夢を見る。

≪019≫  そのうち時代は、鈴木三重吉による「赤い鳥」を筆頭に、「子ども神話」「金の船」「童話」などの児童雑誌ブームに向かう。未明もいっとき「おとぎの世界」を編集主宰した。こうして大正10年、東京朝日新聞に『赤い蝋燭と人魚』が連載されたのである。いまなお未明の最高傑作といわれる。岡本一平が挿絵を描いた。

≪020≫  その後の未明の足取りについては省く。 ここで加えておきたいのは、未明はその後ずっと“童話の神様”とか“日本のアンデルセン”とよばれてきたにもかかわらず、昭和28年あたりをさかいに、一挙に批判の嵐にさらされたことである。古田足日、鳥越信らによる痛烈な批判活動の開始だった。未明童話は呪術的呪文的であって、未熟な児童文学にすぎないという批判であった。

≪021≫  これで書店から未明童話が消えていく。杉浦明平や山田稔も未明とともに坪田譲治や浜田裕介を批判した。未明はすっかり忘却されていく。

≪022≫  こういうことはよくあることなのである。読書界というものは毀誉褒貶こそが常識で、どんな時代も一定のものなんてないものなのだ。

≪023≫  ところが、昭和45年ごろになって、未明は再評価されることになる。さらに紅野敏郎、柄谷行人も未明における「風景としての児童の発見」に注目をした。

青い鳥 1團1列

≪01≫  メーテルリンクの『青い鳥』なんて読むまいとダダをこねていた。ぼくはグリムやアンデルセンや小川未明ならオーケーだが、善意だけでできているような童話や物語はとても苦手なのだ。『一杯のかけそば』では困るのだ。宮沢賢治だって、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『注文の多い料理店』をはじめ大半の作品はオーケーだが、『雨ニモマケズ』だけは中学の教科書で読んだときに、途中で嫌になった。

≪02≫  ところがあるとき、メーテルリンクの『温室』を読んで考えこんだ。詩集であるが、かなり深みを示していた。あえて日本語の感覚で説明してみるが、ここには「験」とは何か、「憑」とは何かということの根本が問われていた。混乱を救うものは瞬間と運命の両方にひそんでいることを告げていた。

≪03≫  それでも『青い鳥』はやめておいた。そのうち『埋宮』を古本屋で見つけて読んでみて、やはりメーテルリンクは只者ではないことがはっきりしてきた。『埋宮』は中世フランドルのルースブルックの神秘学にノヴァーリスの結晶哲学を混ぜていた。物語の構造も本格的だ。

≪04≫  そのうちドビュッシーやシェーンベルクの《ペレアスとメリザンド》を聴くうちに、これはどうでも『青い鳥』を読むしかなくなった。なぜ少年ペレアスと少女メリザンドは森と泉の架空の国アルモンドに行かなければならなかったのか、知ってみるしかなくなった。こういうひどい読者だったのだ。

青い鳥 1團2列

≪05≫  読んでみて初めてわかったことは、いろいろある。まずもって『青い鳥』は戯曲なのである。お芝居なのだ。ウェデキントの傑作『春のめざめ』(岩波文庫)や『地霊』『パンドラの箱』(岩波文庫)がそうであるように、これは六幕十二場のレーゼ・ドラマだった。むろん舞台で子供たちが上演できるようにもなっている。

≪06≫  しかも冒頭、他の戯曲とはちがって、「服装」という注目すべきト書きから始まっていく。次のように指定されている。 チルチル=ペローの童話に出てくる「親指小僧」の服装。 ミチル=グリムの童話に出てくる「グレーテル」または「赤ずきん」の服装。 光=月色の着物。型はギリシア式あるいはウォーター・クレーン    風のイギリス・リシア式。 時=昔ながらの時の服装。 妖女ベリリウンヌ=例の貧しい女の服装。

≪07≫  そのほか、とうさん、おばあさん、太った幸福たち、夜、水、犬や猫などの服装が指定されている。

青い鳥 1團3列

≪08≫  これでおよそのことが告げられているのだが(つまりはすでにメーテルリンクの独壇場にわれわれは引きこまれてしまっているのだが)、そこでさらに舞台の説明があって、きこり小屋で寝ているチルチルとミチルがベッドに起き上がって会話するところになっていく。その会話もすぐに妖女との会話に変わり、われわれは早くも「そこにある別世界」を相手にしているような気分にさせられる。

≪09≫  メーテルリンクの作劇術ははなはだ独創的である。用意周到で、かつその独創性をむきだしに感じさせない哲学がある。すべては指定され指示され、物語の「からくり」や「しかけ」さえ見えるようになっているにもかかわらず、その術中に溺れたくなっていく。そこがメーテルリンクの文芸哲学なのである。

≪010≫  物語の進行には人生の大半の感情がもりこまれる。たいていはアンビバレンツな感情だ。どんなふうにもりこまれるかというと、むろん童話のような登場人物たちが交わす会話にちりばめられている。それぞれは子供っぽいかわいらしい会話なのに、その総体はメーテルリンクが思索した世界観の深さのための哲学になっている。そういう文芸哲学であり、人間哲学なのである。そこが忖度されている。その忖度がなぜ哲学かということを、試みに第三幕の「夜の御殿」を例に、あえてふつつかな文章にしてみることにする。

青い鳥 2團1列

≪011≫  ここは夜というものなのです。猫は痩せっこけて憔悴しきっています。猫の属する夜の界隈の秘密があばかれつつあるからですね。もし、その秘密が公開されれば、夜は終焉となるのです。

≪012≫  ほんとうのことをいえば、すでに光が“彼等”に籠絡されていて、夜への案内を買って出ていました。そこへ月光に育てられた青鳥たちが夜の界隈に棲息しているという情報が洩れてきたのですね。けれども“彼等”はもうそこまでやってきていました。困った夜はフィクショナルな夜という現実を演出するしかなくなります。そういう二重性を作ろうとしたのです。それには“彼等”に虚偽の青鳥を見せることが効果的でした。そこで夜の演出者たちは、多様な門と扉と鍵を用意したのです。

≪013≫  案の定、“彼等”に門と扉と鍵をわたすと、その方面の探索にのりだしました。ところが、それらの門は入口であって出口であり、扉は奥をつくるものか、外をつくるものかがわかりません。まして鍵には鍵穴という逆鋳型というものがついているのです。“彼等”はついに迷い、夜はほくそ笑みました。やがて“彼等”はおびただしい数の青鳥に出会うことになります。もちろんそれらはすべて虚偽の鳥なのです。

青い鳥 2團2列

≪014≫  ざっとこんなふうなことが、因果をあらわす言葉をひとつもつかわずに、子供用の会話に置き換えられている。これでは子供ならずともメーテルリンクの術中にはまっていく。そして、けっこう深いことを考えさせられる。それが『青い鳥』なのだ。

青い鳥 2團3列

≪015≫  この物語は、よく知られているようにチルチルとミチルが眠っているあいだの夢になっている。その夢に妖女が出てきて青い鳥の探索を依頼する。

≪016≫  二人の子供は「記憶の国」で最初の青い鳥を見つけるが、これは籠に入れたとたんに黒い鳥になる。「夜の国」では大量の青い鳥に遭遇するものの、つかまえると同時に死んでいく。見えているのに捕獲はできない。つまりは籠に入れてもつかまえるだけでも、ダメなのだ。次の「森の国」では青い鳥が飛んでいるのにつかまえられず、「墓の国」では死に出会って退散させられ、「幸福の国」では不幸という連中が邪魔をする。死を悼み、不幸に同情しては、青い鳥は見えなくなってしまうのだ。

≪017≫  こうして最後にたどりついた「未来の国」でやっと青い鳥を生きたままつかまえるのだが、これを運ぶと赤い鳥になっていった。

≪018≫  妖女との約束ははたせない。チルチルとミチルはしかたなく家に帰って眠ってしまった。そこで目がさめ、隣のおばあさんが駆けこんでくる。自分のうちの病気の娘がどうもチルチルの家にいる鳥をほしがっているらしい。すっかり忘れていた自分の家の鳥を見にいくと、それはなんと青い鳥になっている。なんだこんなところにいたのかと、二人がその鳥を娘のところへもっていくと、娘の病気がよくなった。よろこんだ三人が、よかった、よかったと鳥に餌をあげようとすると、青い鳥はさあっと飛びたち、どこかへ逃げていったとさ……。

青い鳥 3團1列

≪019≫  ラストの二回にわたるリリースが絶妙だ。やっと生きた青い鳥をつかまえたと思って運んでみたら赤い鳥になっていたというところ、自分の家の鳥こそが青い鳥だとわかって餌をやろうとすると飛び去ってしまうというところだ。

≪020≫  これは「いじわる」なのだろうか。それとも希望が潰えて「失望」になったことを示しているのだろうか。どちらでもあるまい。ドンデン返しですら、ない。宿命や運命などというものは、そんなに大がかりなものではないことを、メーテルリンクは暗示したかったのだ。万事はマイクロ・スリップなのである。手元に引き寄せたと思えば逃れ、掌中に入れたと思えばそこから抜けていくものが必ずあるということを、暗示したかったのだ。

≪021≫  まさにメーテルリンクはこの思想の持主なのである。ただ、この思想は容易には説明しがたい。服装のようなものであるからだ。「すれすれ」や「わずか」や「見方のちがい」にふわりと装着されているからだ。

≪022≫  モーリス・メーテルリンクはベルギー人であるが、早期にフランスで思索した。ヘント大学で法学を修めて、グレゴール・ル・ロワとともに1885年にパリに行き、そこで目ざめた。目ざめさせたのは、ヴィリエ・ド・リラダンやジャン・モレアスやサン・ポル・ルーだ。とくにリラダンに奨められて読んだユイスマンスの『さかしま』に胸を射られた。

≪023≫  こうして文芸的執筆にいそしむようになると、1889年に詩集『温室』を書いて、その清新な感覚で話題を浴びた。続いて神秘主義に傾倒し、『闖入者』(本の友社「全集」第5巻)、『ペレアスとメリザンド』(岩波文庫)をへて、1909年の『青い鳥』で広い人気を博し、ノーベル賞やレオポルト賞を授与された。その後も人間や社会できわきわにすれちがっていく運命や宿命にひたすら関心を寄せた。

≪024≫  この時期のメーテルリンクを支えたのが、ジョルジェット・ルブランである。アルセーヌ・ルパンを創像した作家モーリス・ルブランの妹だ。

青い鳥 3團2列

≪025≫  ぼくが最初に唸ったのは『闖入者』と『万有の神秘』(玄黄社)だった。少年少女向けではない。万人に向けて「隙間から放たれるもの」を綴ってみせた。メーテルリンクの思想に直撃されたのは、このときである。

≪026≫  運命哲学や神秘哲学と交差しているようでいて、そういう軛からするりと蟬脱していて、この世で一番大事なことを一番細い条理で出し入れしていることに、びっくりした。すぐに、これは作家を超えていると思った。「験」と「憑」の微妙な関与ばかりを主題にしているのだ。

≪027≫  その後、工作舎で『蜜蜂の生活』『白蟻の生活』『蟻の生活』を翻訳刊行することになって、メーテルリンクがなぜミツバチやアリに深入りしていったのか、その「とんでもなさ」にさらに付き合うことになるのだが、これがティンバーゲンやローレンツの動物行動学ならともかく、あるいはファーブルの昆虫記のような観察記だというならともかく、まさに「ミツバチを哲学する」「アリを思索する」というものなのである。この思想、とてもパラフレーズはできないと白状するしかなかった。

≪028≫  ひるがえって『青い鳥』を一言でいえば、メーテルリンクのこういう一貫した「験」と「憑」をめぐる哲学を、さらっと水彩で描いたようなものだったのである。なんとも畏怖に充ちたことをしたものだ。忌憚のないところで言えば、これはチルチルとミチルをさえ欺いてみせたのである。二人はもう少しのあいだ、大人になってはいけなかったのだ。

銀の匙 1團1列

《01》 私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣に昔からひとつの小箱がしまつてある。それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはいつてたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。

《02》 なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし5分ぐらゐの皿形の頭にわずかにそりをうつた短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。

銀の匙 1團2

≪03≫  明治がいよいよ終焉にさしかかった夏、野尻湖の湖畔で27歳の男が一気に少年時代の記憶に戻って文章を綴った。中勘助である。なにもかもに絶望したわけではないけれど、世の中の文化や流行や思想のぐだぐだには頼みの綱とするものがほとんどないことを感じていた男は、ひたすら自分の幼少年期の日々を綴った。それが『銀の匙』の前篇である。

≪04≫  それまで中勘助は詩歌を愛読していたものの、散文にはたいして関心をもってこなかった。一高から東京帝国大学に入ったときは英文科だったのを国文科に鞍替えしたし、一高・東大ともに夏目漱石に習っていたけれど、作文をすると誤字が多すぎて漱石に注意されていたほどだった。そのあいだに父が死に、兄が発狂した。

銀の匙 1團3列

≪05≫  銀の匙とは、少年時代の勘助が本箱の抽斗にガラクタとともに入れていた銀製の小さなスプーンのことである。その銀の匙を大人になった勘助はときおり出してはめそめそ手でさわっている。

≪06≫  なぜそんなふうに銀の匙が懐かしくなっているかというと、このスプーンは少年期のある日、古い茶簞笥の中の鼈甲の引き手のついた抽斗をおそるおそる開けたときに風鎮だの印籠だの根付だのと一緒に出てきたもので、母にそれがほしいと願い出たところ許しをえて貰ったものだった。母はどうして銀の匙がそこに入っているのかを話してくれた。それは……という調子で淡々と、少年期、いや幼年期の日々の物語を綴りはじめた。野尻湖畔での執筆である。それが『銀の匙』になった。

銀の匙 2團1列

≪07≫  その書きっぷりは、恬淡として暗く、清冽にして儚く、憂慮を帯びていて妙致、全文が真情溢れる心地にさせるとともに、ついに帰らぬ少年の記憶を遠くへ運び去る文意に満ちたものになった。

≪08≫  勘助は『銀の匙』を漱石に見てもらった。漱石は子供の世界の描写として未曾有のものであることにすぐ気がついた。文章が格別にきれいで細かいこと、絶妙の彫琢があるにもかかわらず、不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章に音楽的ともいうべき妙なる響きがあることなどを絶賛し、これを「東京朝日新聞」に連載させた。大正2年のことだ。当時のこれはという連中が驚いた。

銀の匙 2團2

≪09≫  たとえば和辻哲郎は、どんな先人の影響も見られないと称え、それが大人が見た子供の世界でも、大人によって回想された子供の世界でもないことに感嘆した。まさに子供が大人の言葉の最も少年的な部分をつかって描写した織物のようなのだ。

≪010≫  こんな感じだ。「私は家のなかはともかく一足でも外へでるときには必ず伯母さんの背中にかじりついてたが、伯母さんのほうでも腰が痛いの腕が痺れるのとこぼしながらやっぱしはなすのがいやだったのであろう。五つぐらいまでは殆ど土のうえへ降りたことがないくらいで、帯を結びなおすときやなにかにどうかして背中からおろされるとなんだか地べたがぐらぐらするような気がして一所懸命袂のさきにへばりついていなければならなかった……

銀の匙 2團3列

≪011≫  今度久々に読み返して(おそらく30年ぶりだったとおもう)、昔に読んだ印象をはるかに凌駕するものを感じた。

≪012≫  なんというのか、大人でなければ書けない文章なのだが、あきらかに子供がその日々のなかで感じている言葉だけをつかっている。そこがうまい。子供の気持ちをつかんでいるからではない。ぼくもそうだったし多くの子供がそうだろうとおもうのだが、子供というもの、だいたいのことはわかっているものだ。大人の矜持も大人のインチキも大人の狼狽もわかっている。一葉の『たけくらべ』(岩波文庫ほか)の美登利と信如にして、すでにそうである。けれども、それはやはり大人の描写で、言ってみれば、ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』(角川文庫・岩波文庫)なのである

銀の匙 3團1列

≪013≫  ところが、勘助のはそうではない。少年の心そのまま、少年の魂に去来するぎりぎりに結晶化された言葉の綴れ織りなのだ。大人がつかっている言葉のうちのぎりぎり子供がつかいたい言葉だけになっている。

≪014≫  こういう芸当ができたというのは、尋常ではない。ここには詳しく書かないが、きっと中勘助のどこか尋常ではない生き方に関係がある。とくに兄の金一との確執、義姉の末子や恋人たちとの愛憎がそうとうに深かった。『提婆達多』や『犬』を読むと、その葛藤と苦悩がよくわかる。

銀の匙 3團2列

≪015≫  しかし『銀の匙』はその葛藤と苦悩を免れている。ということは、これは一種のネオテニー文学なのだ。仮にもし、そのような生き方に左右されずにこのような散文を書く者がいるとすれば、それは真に「文芸の幼年性」に到達した者であるだろう。ネオテニーというのは生物学で「幼形成熟」のことをいう。動物が幼年期に環境適応するためにあえて早熟の因子を発達させるのである。

≪016≫  後篇の『銀の匙』のほうは大正3年に比叡山に籠って書かれた。いまは岩波文庫となった『銀の匙』に収録されている。漱石は前篇以上に絶賛した。

銀の匙 3團3列

≪017≫  勘助はその後、『提婆達多』『犬』『街路樹』『鳥の物語』『蜜蜂』などを書くが、文壇的にはずっと孤高に徹した。ぼくはインドの聖者が女に溺れて犬に堕ちながらも、その女に食われていくという『犬』が好きである。女は回教徒に犯されても男を慕い、聖者はその女を犯してともども犬になるのだが、女が聖者を食い殺したとたんに魔呪が解けてラストシーンになっていく。中島敦や藤原新也につながるものがある。

≪018≫  なお、この千夜千冊の文章を書いた数ヵ月後、平凡社ライブラリーから富岡多恵子さんの『中勘助の恋』が上梓された。ぼくが知らなかったことがいっぱい綴られていて、ときに勘助の実像を知りすぎてしまったきらいもあったのだが、結果、さらに勘助に共感することになった。

≪01≫ 靴屋には何か不思議なものがある。「いわく」というものがひそんでいるように見える。

≪02≫  ぼくは以前から、次の3人が靴屋に生まれたことにはなにがしかの因縁があるのだろうとおもってきた。ヤコブ・ベーメとハンス・クリスチャン・アンデルセンとソ連の帝王スターリンである。

≪03≫  おそらく3人に共通するものなんてないのだろう。けれども、少なくともアンデルセンが靴屋に生まれたことは、童話が生まれるにあたっての大きなベッドか書き割りになっているにちがいない。白雪姫をはじめ、靴が出てくる童話はアンデルセンにも少なくない。代表作は『赤い靴』である。

≪04≫  アンデルセン全集のうちのどの一冊を推薦するかはおおいに迷う。できれば岩波文庫版の7冊はすべて読むことを勧めたい。

≪05≫  が、それでもここに一冊を選ぶとなると迷う。そこで誰もが手に入りやすいだろう『絵のない絵本』にした。全集ならぱ第4巻の一部にあたる。

≪06≫  この童話集は、一人の貧しい青年に窓辺の月が語りかけるところから始まる。月は青年に、これから自分が話す物語を絵にしてみなさいと勧める。そこで青年が小さな話を書きつけた。

≪07≫  そういうしくみで次々に童話が紹介されるというふうになっている。第一夜から第三三夜までつづく。月が見てきた物語だから、話は世界中をとびとびに舞台にしている。パリ、ウプサラ、ドイツ、インド、中国、リューネブルク、フランクフルト、アフリカ、デンマーク、いろいろである。

≪08≫  月が覗いた話なので、たとえば小さな路地の家の少女の出来事などは、月がまわってくる1カ月にいっぺん、それもわずか1分間ほどの出来事の推移しか見えないことになっている。

≪09≫  が、そこがアンデルセンの美しい狙いになっていて、読者を無限の想像力の彼方にはこんでしまう。童話というよりも童話詩である。アンデルセンは本来は童話詩人なのである。

≪010≫  アンデルセンには自伝が3つある。 最も有名なものは『わが生涯の童話』であり、「私の生涯は一篇の美しい童話である」というキザで名高い言葉で始まっている。これは50歳のときに出た全集のために書いた自伝だった。

≪012≫  よほど童話世界の確立と自分の生き方をかさねたかったのであろう。

≪011≫  もう少し前にもドイツ語版の全集のためにも自伝を書いた。ここまではよくあることだ。ところがアンデルセンは、作家としてデビューをはたしたばかりの27歳のときに、すでに自伝を書いていた。恩人コリンの娘ルイーゼにあてたかっこうで書いたもので、「目に見えない愛の手が私を導いていることを、身にしみて感じる」という出だしになっている。この早すぎる自伝が一番アンデルセンらしい。

≪013≫  アンデルセンは1805年にデンマークのフェーン島に生まれている。父親は貧しい小作人で、生計のために靴なおしをしていた。

≪014≫  父親は貧しさにはあまり頓着しなかったようで、息子ハンスには昔語りをよく聞かせ、さらに手先の器用をいかしていろいろ人形などをつくって遊ばせた。そこが靴屋アンデルセンの誕生だった。

≪015≫  この1805年という年には、のちにアンデルセンが童話作家になるにあたっての重要なことがおこっている。デンマークが誇りとし、「北欧の詩王」とよばれたエーレンシュレーガーが『アラジン』という詩劇を発表しているのである。

≪016≫  アラジンとは「アラジンの魔法のランプ」のアラジンで、アンデルセンもこの作品には子供のころから熱中して、暗誦できるほどになっていた。それだけではなく、「アラジンの魔法のランプ」というコンセプトそのものが、少年アンデルセンのみならぬ当時の北欧世界のシンボルになっていた。

≪017≫  あとは誰が「アラジンの魔法のランプ」を現代にもたらすかということだった。

≪018≫  ここから先、少年ハンスがどのように作家アンデルセンになっていったかという経緯(いきさつ)は、今日の登校拒否児童をかかえる親たちこそ知るべき話なのかもしれない。

≪019≫  ここに詳しい話を書くわけにはいかないが、ハンスはろくろく学校に行かない落ちこぼれだったのである。最初の貧民学校もやめてしまったし、次の学校も、さらに次の慈善学校も長続きせず、途中でやめている。引きこもり症状もあったらしい。ようするにヒッキー君だったのだ。父親がつくった人形に着せ替えをしていたのは近所の女の子たちではなく、ハンスだった。

≪020≫  その父親もハンスが11歳のときに死んだ。残された母は文字すら読めなかった。

≪021≫  どうもハンスは多感で神経質な少年だったようで、最近の研究ではハンスがなんらかの精神疾患をもっていたのではないかという推理さえされている。ここのところは、ぼくもよくわからない。

≪022≫  が、ハンスにはひとつだけ救いがあったようだ。どんな小さなことでも、たとえばリンゴをもらったとか、流れ星を見たとかということがあると、それだけで幸福になれるようなところがあったらしい。このあたりは両親が育んだ感覚だったにちがいない。

≪023≫  その後、ハンスは芝居に夢中になっていく。一人芝居で遊んできたせいだろう。

≪024≫  当時のヨーロッパの少年がすべてうけることになっていた堅信式を受験して通過したハンスは、ついに首都コペンハーゲンに出て役者や歌手になろうと決意する。

≪025≫  けれども、これはかんたんに挫折した。そこで、シェイクスピアもそうであったけれど、ハンスは王立劇場の芝居まわりの仕事を志願する。劇詩人としてのスタートを切ろうとしたのだ。

≪026≫  ぼくは、このころのハンスが才能を認められなかったにもかかわらず、まるで夢を追うように芝居や劇作の道をめざせたのか、最初はその心情の案配がよくつかめなかった。おそらく石川啄木ならとっくに挫折していたはずなのだ。

≪027≫  その後、いろいろアンデルセンの作品や自伝を読むうちに、あることに気がついた。当時の少年や青年は国王の心に直結していたということである。

≪028≫  ハンスがコペンハーゲンに来たのは1819年の9月6日である。 そのころのコペンハーゲンはヨーロッパでも有数の10万都市ではあったものの、15年ほど前にイギリス艦隊に砲撃され占拠された後遺症をまだ回復していなかったころで、城郭の中の町並も完全には蘇っていなかった。それでも田舎の貧乏青年には目をみはる“花の都”なのである。

≪029≫  とくにコペンハーゲンの城郭に近づいて、市の門を入るときに名前を書きつける“儀式”には、青年たちはことさらに緊張をした。この帳面は、毎夕、門が閉ざされると王様の前にもっていかれ、王様がこれをじきじき閲覧するようになっていた。

≪030≫  それほどのんびりしていた時代だった。が、そのことが物語を生む羂索になった。ハンスも「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」と黒々と署名して、これが王様の目にとどくのかとおもうと体に熱い鉄線がはしったような気持ちになったらしい。

≪031≫  この時代の童話に、しばしば王様やお姫さまや熱心な家来が登場して、物語を飾るのもこうした背景にもとづいていた。それは昔の話ではなかったのである。

≪032≫   アンデルセンは劇作家としては失敗つづきにおわっている。失恋もつづいた。 そこで旅に出る。都合29回にわたる旅である。『絵のない絵本』の月は、アンデルセン自身でもあった。そして2回目の旅でイタリアを訪れたときの印象が『即興詩人』として結実していった。

≪033≫  ところが、ここでアンデルセンは童話作家に転身してしまう。これが評判が悪かった。『即興詩人』のようなものが書けるのに、なぜにまた子供だましのお話を書くのかという悪評である。おそらくここで挫折していたら、のちのアンデルセンはなかったであろう。

≪034≫  が、ここでアンデルセンに貧しい少年時代が蘇る。ひきこもり少年やしくしく少女に贈る物語を書くことに生涯の選択をするべきだと決断するのである。

≪035≫  それほどの決断ができたのは、当時刊行されつつあったティーレの『デンマーク民間伝説集』の力であったかもしれない。

≪036≫  アンデルセンが童話で示している能力のなかで、ぼくが注目したいのは図抜けた編集能力である。この編集能力は水晶や雲母でできている。 とくに複雑な編集ではない。

≪037≫  しかし、肝腎なところで主客をいれかえる手法とか、ちょっとした痛みを挿入するところのぐあいには、実に適確な編集をかけてくる。

≪038≫  たとえば『皇帝の新しい衣装』というバロックふうの昔話では、王様が裸であることを告発するのは王様の馬丁の黒人になっているのだが、アンデルセンはこれを子供の一声にしてしまった。原作では主従関係がうたわれるにすぎないものが、子供の一声によって王様と子供の主客がいれかわる。こういうところがうまかった。

≪039≫  『雪の女王』では少年の目の中にガラスが刺さる痛みがうまい。この痛みがあるために全編がぐっと生きてくる。『赤い靴』もそうで、あの靴がとれなくなるところが靴の赤さにつながっていく。

≪040≫  どうもキリがなくなってきた。 まあ、アンデルセンについてはいずれたっぷりと書いておきたいことがいろいろあるので、ここではこのくらいにしておこう。実は小川未明との比較などもしたいのである。

≪041≫  が、まずは童話そのものを読むことを勧めたい。大人になって読むアンデルセンはとくに格別だ。ぼくの友人の田中優子はアンデルセンだけで育った少女だったというくらいのアンデルセン少女だったらしい。そのときに何十回も泣いたのが、彼女の感性の多くの原型になっているとも聞いた。

≪042≫  きっと大人たちが「それぞれのアンデルセン」をいつか語る日をもつときが、われわれの何かの脱出にあたるのであろうとおもう。

≪043≫ 参考¶アンデルセンの全集はいろいろある。講談社の童話全集が全8巻、小学館で全6巻、東京書籍が『アンデルセン小説・紀行文学全集』として全10巻。文庫版では岩波の『完訳アンデルセン童話集』全7冊がいちばん手に入りやすい。子供用も岩波少年文庫の『アンデルセン童話集』全3冊がいいだろう。アンデルセンの生い立ちなどについては、山室静の『アンデルセンの生涯』(現代教養文庫)が入門書。

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DXに向けて

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テクノロジーの社会的実装力

コロナに勝つ国と負ける国を分ける決定的要因

AIスタートアップの警鐘

テクノロジー実装の鍵は官民連携

今回のコロナ禍におけるテクノロジー実装競争には3つの特徴がある。

多くの国はグーグルのモビリティレポートの人流データを参考にし、また、陽性者との接触を通知する接触確認アプリ構築のためにアップルとグーグルからAPI(アプリケーション・プログラミング・インターフェース)の

政府とプラットフォーマーの関係

今や絵空事や言い訳としてではなく「多様なSocial Goodに対して如何に貢献しているか示す」ことが企業に求められており、また、この「Social Good」の中心的テーマが、コロナ禍の前の気候変動から、パンデミックを経て人々の健康へ、そして最近ではアメリカでの人種差別問題を受けて人権へと拡大したことを指摘する。プラットフォーマーもまたそれを支える人々の利便性や価値の上に成り立っているのだ。

⺠主的な「実装力」の鍵は国⺠からの「信頼」だ。信頼は、テクノロジーは目的ではなく達成すべき政策課題解決のための手段であり、それが国⺠にとって必要なものであるとの理解あってこそ実現する。未だに各国で導入率が進まない接触アプリが実効的に機能するかどうかは、その目的と便益が、そして便益に伴うプライバシーなどのリスクがユーザーにとって納得感があるものとなるか否かにかかっている。

この競争をかたちづくるのは、「テクノロジーの社会実装力」

コロナとの戦いが⻑期化する中で、まだ最終的な勝敗は見えていない。しかし、この競争を形作るのは間違いなく「テクノロジーの社会実装力」というパワーだ。この戦いにおいて、⺠主主義の国が取りえる道は、健康・国⺠の命を守る社会的利益の実現という目的において、官⺠が国⺠の信頼を得ながら実装を進めることである。

新様式のコミュニティ実装力

レジリエンス=パッシブル

コロナ感染拡大の警鐘

集団免疫力獲得の鍵は新様式実装

今回のコロナ禍におけるテクノロジー実装競争には3つの特徴がある。             (以下の3つは、上掲テクノロジーの社会的実装力の3つの特徴に相当する)

生活者にとってテクノロジーを使うことが命を守るという最も重要な役割と結びつき、コミュニティの課題となった。

利用者・生活者とプラットフォーマーの関係

今や絵空事や言い訳としてではなく「多様なSocial Goodに対して如何に貢献しているかを示す」ことが地域コミュニティに求められており、また、この「Social Good」の中心的テーマが、コロナ禍の前の気候変動から、パンデミックを経て人々の健康へ、そして最近ではアメリカでの人種差別問題を受けて人権へと拡大したことを指摘する。COL@BAは、2030年のグローバルアジェンダ17項目の中の 「 3.すべての人に健康と福祉を 11.住み続けられるまちづくりを 16.平和と公正をすべての人に 17.パートナーシップで目標を達成しよう 」に軸足を据え 、サーキュラー経済の一員として、サーキュラーグーグルのプラットフォームを信頼し、12.つくる責任 つかう責任 を併せて、普遍的、不可分で、変革的な目標の実現に向けて今、行動を開始します 。

この競争をかたちづくるのは、「コミュニティのフォーカシング(リテラシー)力」

コロナとの戦いが⻑期化する中で、まだ最終的な勝敗は見えていない。しかし、この競争を形作るのは間違いなく「新様式のコミュニティ実装力」というパワーだ。この戦いにおいて、⺠主的なコミュニティが取りえる道は、健康・住民の命を守るソーシャルグッドの実現という目的において、地域コミュニティが新様式の実装を進めることである。 COL@BAはこのソーシャルグッズの創出基盤をコミュニティに提供し、リテラシー向上に貢献します。

フォーカシングに必要なフェルトセンスを始動するSDE(セルフ・ディベロプメント・エンジン)

多様な環境で成長する個人には自己成長力(生命力)が備わっている。先験的統覚(獲得形質)により活動源を生み出す装置(指向形態)を自己開発エンジンと名付ける。構成要素は、何のために(目的)、何を(目標)、どうする(方法)、そのためのルール(制約条件)となる。多様な個人が聚合し、多様な志を集合し、脈絡を通じ、大志として繕い、紡ぎ、縫い合わせれば異図(意図)が通じ、異図が織り混まれ、生地(共有地)となり、大志が仕上がります。

あらゆる形態と次元の

貧困を根絶すること

持続可能な開発に向け、

構造的変革を加速すること

災害や紛争などの危機や

ショックへの対応力を

強化構築すること

6つのシグニチャー・ソリューション

貧困の根絶

国家の仕組みの整備 

災害や紛争などへの危機対応力強化 

環境保全 

安価なクリーン
エネルギーの普 

女性のエンパワーメントとジェンダー平等の実現

SDGsのもうひとつの捉え方 – 5つのP