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不足

付則

≪01≫  しまったと思った。 ユルジス・バルトルシャイテスを知るのが遅すぎたのだ。それほどにバルトルシャイテスの本との出会いは衝撃だった。もっとも、あまりに遅すぎたからこそ、ぼくは『遊』をつくることにもなった。これはまあ、いってみればケガの功名というものだった。『遊』は、いわば“未然のバルトルシャイテス”なのである。

≪02≫  そんなバルトルシャイテスの研究領域を一言でいいわらわすのは不可能である。それだけでもぼくの尊敬に値するのだが、ましてその研究が視覚と言葉をまたぐ歴史の中の「テイスト出現のプロセス」ともいうべき得体の知れないものの解析におよんでいることは、尊敬というより、むしろ戦慄とか恋愛をこそおぼえる。

≪03≫  本書はそのようなバルトルシャイテスのごくごく一端の成果を示すもので、もともとは『ゴシック美術における覚醒と奇異』という大著の第二部「幻想の中世」にあたっていたものだった。

≪04≫  われわれ日本人にはなかなかわかりにくいことなのであるが、ゴシックという言葉は「ゴート人がもたらしたもののような」という意味をもっている。むろんゴート人とは直接関係のないものも含まれる。それは日本人が「漢風」とか「唐様」(からよう)「胡坐」(あぐう)といったところで、厳密に漢や唐やペルシアの文物ばかりをさしているわけではないのに似ている。

≪05≫  仮にゴート人に特定したとしても、そのゴート人という民族そのものがまことに遊牧的で、かれらはゴート人であるというただそれだけで、かれらが東ゴート王国や西ゴート王国をつくる以前の「ユーラシアの記憶」をしこたま身に纏っているのである。

≪06≫  つまり、ゴシックを解くということは、ゴート人とともに運ばれてきた古代中世のすべてのイメージとイコンと観念技術のいっさいを解読することなのだ。バルトルシャイテスは、そこに“魚眼のようで顕微鏡のような目玉”をもちこんだ。

≪07≫  まず、「頭部のくみあわせがつくるイメージ」の代表としてグリロスが俎上にのぼる。グリロスはゴシック装飾のいたるところに出現する奇形のイコンであるが、それをたんなるキマイラとか合成動物とかとはとらえられない形態的性質がある。ついで、このグリロスを含む奇形のイコンが印章や貨幣の中に棲みこんでいった背景と事情をあばく。そこには日本の現在時点では高山宏が追跡してやまない「ファンタスマゴリア」(幻影)という“中世のヴァーチャル・リアリティ”が顔を出す。

≪08≫ そこで一転、イスラムの装飾文様にひそむ植物幻想がどのようにアラベスクな“超複雑性”を内包していったのかを、文様の内側に入りこんで解読する。この追跡がワクワク樹こと人頭樹に達したところで、次は蝙蝠と龍のイコノロジーになる。そんな具合である。

≪09≫  ヨーロッパ中世に蝙蝠と龍のシンセサイザー(合成編集術)をもちこんだバルトルシャイテスの“犯人探し”は委曲をきわめ、あやしげなモンゴル人やタタール人の図像編集の迷路を辿らさせられた読者は、第6章にいたってついに東アジアに到達、そこにいよいよ背中から翼を開いた比翼が目映い仏教的光背に転じていくことを知らされる。

≪010≫  だいたいこのへんで大半の読者はダウンする。が、バルトルシャイテスの手はまだまだゆるまない。

≪011≫  仏像の背後の光背は、そのまま水墨山水に描かれた中国的自然観とおそるべき共振をおこし、ついには偉大なる「生命ある器」とは何かという最終主題にのぼりつめていく。

≪012≫  こうして最終章にいたって、われわれはやっと「西のゴシックと東のマンダラ」の比較という途方もない比較観照が準備されていたのだということにやっと気がつくのだが、時すでに遅し、バルトルシャイテスはこれらのいっさいの解読の手がかりを蓮華文様の渦中に放りこんでしまうのだ。

≪013≫  まったく『遊』をつくる前にバルトルシャイテスに出会わなくてよかった、助かった。お目こぼしをいただいたのだ。そう、思わざるをえないような、そういうバルトルシャイテスの一書なのである。

≪014≫  では、こうした驚異的なバルトルシャイテスの方法を何とよぶかというと、これはいまだに誰も見当がついていない。そこでしかたなく、「アベラシオン」(光学的図像収差)などとよばれたままになっている。

≪015≫  参考¶バルトルシャイテスの著作集は、『アナモルフォーズ』『鏡』『アベラシオン』『イシス』(いずれも国書刊行会)の4冊から入るのが、まだしもわかりやすいだろう。が、油断は禁物。いずれも尋常ではない。とりわけ『イシス』は「編集の国ISIS」の物語のひとつを解読するものとして、難解ではあるが、ぜひ挑んでほしい。実は、パリはイシスの町だったのである。なお、本書『幻想の中世』の発行元リブロポートはいまはなくなっているので古本屋で本書を求めること。

≪01≫  ハンス・カストルプの名を会話のなかで交わさなくなって、どのくらいたっただろうか。最後にこの主人公の名が出たのは岩井寛さんと出会ったころだったように記憶する。岩井さんは青春の名作を持ち出すのが好きな文学や芸術好きの精神医学者だった。もう三十年近く前のことだ。

≪02≫  それまではハンス・カストルプはラスコーリニコフやジュリアン・ソレルやドリアン・グレイとともに、あるいは三四郎やデミアン、時任謙作やヨーゼフ・Kやトニオ・クレーゲルとともに語られていた。そのころまではこうした文学の主人公が人生の代名詞かもしくは社会の難問の代名詞だったからだ。

≪03≫  いまはすっかりそんなことがなくなった。古典の主人公の名どころか、ガルシア゠マルケスの『百年の孤独』(新潮社)やミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫)の主人公の名すらも決して口にはしない。おそらく憶えてもいないだろう。アニメやトレンディドラマや不祥事をおこした芸能人の名前ならともかく、もはや名作の主人公なんて、今日の生活哲学のどんな場面にも関与していないかのようなのだ。

≪04≫  しかし、かつてはそうではなかった。文学者の思想と行動は主人公に投影され、その主人公を通して人間や社会や恋愛を考える者が数多くいた。ハンス・カストルプはそうした者にとって、どうしても欠かせないか、もしくは引き合いに出したい「生きる哲学」を象徴していた。

≪05≫  ハンス・カストルプがアルプスの山中にあるサナトリウム「ベルクホーフ」に入ったのは一九一三年のこと、二三歳だった。サナトリウムには、すでにいとこのヨーアヒム・ツィームセンが入っている。幼時に両親をなくし兄弟もないハンスにとってヨーアヒムは数少ない親戚だ。ハンスはヨーアヒムがいることで短期間の療養が充実することを期待するのだが、ヨーアヒムにはそんな気がなく、自分が長期の療養が必要だということを訴える。ハンスもやがて自分の病気が尋常なものではないことを知る。

≪06≫  サナトリウムは空気の澄んだ場所にしつらえられた結核開放病棟だった。結核が不治の病いであった時代、すなわちペニシリンが画期的な役割を示す以前の時代であったころの人生の隔離劇場だったのである。のみならず結核に冒されてサナトリウムに入ることは人生の思索の黄昏や終焉を象徴して、それを文学のひとつの〝籠城〟とみる傾向が強かった。これを結核文学という。

≪07≫  だから『魔の山』の物語が、ハンス・カストルプがアルプス山中のサナトリウムに入る場面で始めているのは、この作品全体がそもそも「人間であるということの宿命」を当初から重々しく背負っているか、背を向けていることを暗示していた。それゆえ読者は冒頭に、院長のベーレンスがハンスの病気が治りにくいこと、患者になることにもさまざまな才能が必要なことをくどくどと伝えることを読まされる。「読者は患者なんだ」というトーマス・マンの挑戦だ。

≪08≫  ある見方からすれば『魔の山』の主題のひとつは「人間と文化にとって病気とは何か」ということだ。ハンス・カストルプはこの大作のなかで「病気」という哲学に少しずつ接近し、死と隣接する肉体の宿命からかぎりなく遠ざかろうとする精神の彷徨を体験する。その精神の彷徨を書き尽くそうとしたことが、『魔の山』を二十世紀最後の教養小説にしたという批評があるほどだ。

≪09≫  だが、トーマス・マンが物語の最後になって用意したのは、ハンスとともに「病気」という安逸を貪ろうとする読者の目を覚まさせるほどのどんでん返しだった。「病気」にかこつけて精神の彷徨を愉楽とするかのような気分になっていたハンスに突き付けられた現実とは、突如としてヨーロッパの生活者のすべてを覆った「戦争」という青天の霹靂だった。

≪010≫  トーマス・マンが「病気の進行」と「精神の彷徨」と「戦争の勃発」をひとつの作品に凝縮しえたのは、マン自身が本書を構想し、執筆している渦中のヨーロッパがまさに「病気と戦争」あるいは「戦争という病気」を抱えていたからである。

≪011≫  『魔の山』を構想したのが一九一二年だった。この年、妻カタリーナがスイスのダボスの療養所に入院をする。マンもこれに付き添ってダボスで三週間をすごし(例のダボス会議のダボスである)、結核に象徴される現代の「病気」というものの精神性に気がつく。マンはこの体験をいったん『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(光文社古典新訳文庫)に書くのだが、納得がいかない。そこでオルターナティブを練った。

≪012≫  その二年後に第一次世界大戦がセルビアで勃発し、ヨーロッパがたちまち戦場となることを知った。マンはペンの力によって祖国ドイツを支援する。一九一五年の『フリードリヒと大同盟』、一九一八年の『非政治的人間の考察』は、安易な反戦思想に対するドイツ伝統文化に立脚した反撃だった。戦火に見舞われたヨーロッパが反戦民主主義によってみずからを浄化しようとしていた気運に対し、マンは愛国心にひそむ非政治性をもって立ち向かった。フィヒテの魂をもつドイツ人らしい断固とした情熱だった。

≪013≫  けれどもこのマンの反撃はマン自身を傷つけた。戦争に巻きこまれる人間の、また戦争に立ち向かう人間の、この両者の人間によこたわる人間論が欠如していた。そこでマンは『ドイツ共和国について』『ゲーテとトルストイ』や、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』などを書き、これらを土台に戦争を背景とした「精神の彷徨」を病気という個人の宿命を通して仕上げることにした。それがマンの新たな人間論の枠組を告示する『魔の山』に結晶化する。

≪014≫  このような『魔の山』への壮絶な転換は、文学史ではしばしば「マンの転回」とよばれてきた。この点については、マンの息子で自殺した文学者クラウス・マンが『転回点―マン家の人々』(晶文社)という恐ろしい大著をのこしていて、ぼくはかつてこれを読んで、ヨーロッパにおけるドイツ人という血のものすごさに戦慄したものだ。とうていアジアにおける日本人の比ではない。

≪015≫ マンはヨーロッパとドイツを受苦しつづけた。もっと芸術家としての生き方や書き方で時代をはすかいに眺めてもよかったのに、そうしなかった。

≪016≫  一八七五年、リューベックの豪商の家に生まれた。二三歳で前衛雑誌「ジンプリチシムス」に携わって編集の才能を示し、一九〇〇年には『ブッデンブローク家の人々』(新潮社・全集1)を書いて絶賛を博した。その後も『トニオ・クレーゲル』(岩波文庫・新潮文庫)で独得の芸術家の生き方を問うて人気を攫った。それが青春の危機を苦悩する自画像だとすれば、次の『ヴェニスに死す』(岩波文庫)は人生の薄明期を迎えた老作家アッシェンバッハの危機を描いて、やはり独壇場だった。

≪017≫  それならこの書き方で『魔の山』を書いてもよかったのである。『ブッデンブローク家の人々』には「ある家族の没落」の副題がついていたのだし、『ヴェニスに死す』では自身の未来をあざ嗤う表現力を見せていた。のちにルキノ・ヴィスコンティがとびきりの映画にしたように、このころのマンは表現主義や構成主義に躍るヨーロッパ二十世紀初頭の前衛芸術の擡頭のなかで、一人、沈静して芸術家にひそむ血と執着の問題を劇的に見つめていた。

≪018≫  けれどもマンは、こうしたマン家の「血族」に宿るものから芸術を眺めるという方法では満足できなかったようなのだ。マンはドイツという「民族」を代表せねばならず、その民族の将来を抱えねばならず、その民族が戦争に突入してからは、ヨーロッパ民族を覆う人類の文明的将来を課題にしなければならなかったのだ。『魔の山』がこうして試みられた。

≪019≫  われわれの国は、どうもこのような巨大な意志としての作家をもちえない。鴎外がいるではないか、藤村がいるではないか、あるいは大佛次郎や武田泰淳や堀田善衞や大江健三郎や中上健次がいるではないかと思うかもしれないが、そこにはマンのごとき普遍的な病気と普遍的な戦争を一身に背負うという人類意志があるとは言えない。鴎外から中上にいたる意志は、そうしたものとはちがっていた。

≪020≫  ぼくが『魔の山』を読んだのは遠い大学時代のことであるが、何を実感したかといえば、このような文学は日本人には書きえないだろうということだった。メルヴィルやドストエフスキーならあきらめがつく。その作家の癲癇のごとき逆上の詩学に介入する余地もある。しかしトーマス・マンの体験の転回や思索の転回は、同じく結核と戦争に異常な関心をもってきた日本人にもおこりえてもよかったものなのに、どう見てもそうした転回に耐えられない気がした。

≪021≫  日本の作家たちを弁護するための時期的な理由がないというわけではない。マンが『魔の山』の概要を書きおえた一九一四年は大日本帝国が第一次世界大戦に参戦した大正三年で、日本はその勢いで中国に無謀な二十一ヵ条の要求をつきつけた。やっと島村抱月がトルストイの『復活』を公演し、大杉栄たちが「平民新聞」を創刊したばかりだった。

≪022≫  マンが『魔の山』を完成した一九二四年は大正十三年で、関東大震災の動揺ののち護憲三派内閣をからくも立ち上げた年である。小林秀雄らが「青銅時代」を創刊し、宮沢賢治が詩を発表していたとはいえ、小山内薫と土方与志の築地小劇場のオープンがこの年のことだったように、そのころの日本は大戦争を体験したヨーロッパの苦悩など、まったく知ってはいなかった。むしろヨーロッパの一時代前のベル・エポックに憧れ、白樺派がそうであったように、ヨーロッパの芸術運動の摂取に夢中になっていた。

≪023≫  それなら日本は日本なりに「病気と戦争」を抱えた日清日露の体験を通して人類意志を表現してよかったではないかというところだが、日本人は鴎外や漱石の表現を、あるいは与謝野晶子や平塚雷鳥の表現のほうを選んだ。唯一このころに「世界」や「アジア」を認識して受苦しようとしたのは内村鑑三や岡倉天心や宮崎滔天らの晩年であったろうが、これらの苦悩は当時はまったく理解されてはいなかった。

≪024≫  日本の作家たちがやっとマンの転回と『魔の山』を知ったときには、今度は、日本自身が戦争に突入しすぎて、マンのごとく「民族の苦悩から人類の苦悩へ」という転回をもたなかった。そのころの日本人が民族の苦悩をもったとすれば、わずかに浅川兄弟(伯教・巧)や柳宗悦らの朝鮮理解運動を思い浮かべるしかない。

≪025≫  こうして、われわれは『魔の山』の書き方ではなく、せめて読み方を確立するしかないところに追いこまれたのだ。ハンス・カストルプを〝われわれの内なる別人〟として噂するしかなくなったのである。それはアントワーヌ・ロカンタン(サルトル『嘔吐』の主人公)やムルソー(カミュ『異邦人』の主人公)を、戦後の復興と民主主義の開花がやっと固まった時期に知って、あわてて〝われわれの内なる別人〟に仕立てたときの騒動と似ていなくもない。

≪026≫  ほんとうは、いつまでもこんなことをくりかえさないで、たとえば浜村龍造や竹原秋幸(中上健次『枯木灘』の主人公たち)を語ってすごす夜更けをもつべきなのだろう。

≪027≫  ところで、『魔の山』には何人もの魅力的で悪魔的な人物が出てくるのだが、なかでロドヴィコ・セテムブリーニの思想とレオ・ナフタの思想の対立が圧巻である。

≪028≫  セテムブリーニは本書の登場人物を相手にスコラ哲学を説き、フリードリヒ大王とヴォルテールの思想を暴き、あまつさえフリーメーソンの隠れた真意を暗示し、ウェルギリウスから国家論におよんでしばしば登場人物を煙に巻く。だいたい「自然はあなたの精神をまったく必要としていないんですぞ」という、ある日のセテムブリーニのナフタに対する謎かけが、その後のハンス・カストルプの「精神の彷徨」を約束させたといってもいいくらいなのだ。

≪029≫  とくに第六章のセテムブリーニの膨大な発言集は、これを多様にホットワード・リンクさせて「魔の山コノテーション・ディクショナリー」にまとめてみたくなるほどで、これに『資本論』を読破していて、ある種の教団思想に熱を入れているナフタの発言集をクロス・レファランスさせれば、トーマス・マンがこの一冊にこめた文明的世界観のデータベースのほとんどが詳細に俯瞰できるのではないかと思えるほどだ。『魔の山』一番の象徴的場面も、この第六章にあらわれる。

≪030≫  これは「雪」と題された第七節にあたる場面で、三年目の冬を迎えたハンス・カストルプがバルコニーから永遠に連なるかに見える雪山を眺めているうちに、この巨大な厳冬の自然に包まれてしまいたいと思う場面である。

≪031≫  ハンスはそのまま病院側の忠告を無視して純白の雪山に入っていく。そこはあまりにも美しく、そして底無しの沈黙で完成されている。自然は危険もあるが、責任もとらない。超絶の美があるものの、何も言葉にしてくれない。それが自然というものである。ハンスは雪山に没入し、そんな冷徹な荘厳に一人立っている自分に感動をおぼえていく。かくして主人公は雪中にホワイトアウトしてしまうのである(と、ぼくは読んだ)。おそらく、このホワイトアウトが『魔の山』のコーダなのである。たしかトーマス・マンもどこかで第六章の「雪」が最も好きだと書いていた。

≪032≫  けれども、マンはそのまま主人公を許しはしなかった。ハンスは、最後に第一次世界大戦の戦場に駆られていく。それは戦争という野生化した科学に対してホワイトアウトする自分の自然精神がどこまで立ち向かえるかという実験だった。戦争も「魔の山」だったのである。このような結末は、大岡昇平の『野火』となんとちがっていることか。ヨーロッパ二〇〇〇年の「神と人を問うた歴史」は、そうとうに重い。

≪01≫  マルセル・デュシャンに対する驚きが、ぼくを10年以上にわたって支えた。デュシャンを知ってから10年間というもの、興奮しっぱなしだったということだ。

≪02≫  われわれは二つの事柄に長期にわたる興奮をする。ひとつは深くて厖大なものである。たとえば宇宙、たとえばアリストテレス、たとえばリヒャルト・ワーグナー、たとえば道元、たとえば三浦梅園である。

≪03≫  もうひとつは深くて断片的なものである。たとえば叙事詩カレワラ、たとえば小林一茶、たとえば石川啄木、たとえば薄情な異性、たとえばエゴン・シーレ、たとえばマルセル・デュシャンである。

≪04≫ 1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体』が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。1916年に便器をさかさまにして『泉』と名付け、R・ムットの署名をつけて出品したときも、だれもデュシャンを理解しなかった。

≪05≫  しかも、デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。デュシャンはその存在そのものが深い断片にすぎなかったのである。これはぼくがいちばん好きな存在のタイプであった。デュシャン自身もそのことを知っていた。「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」。

≪06≫  デュシャンは「創造」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「運動」だとみなしていた。青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩とアンリ・マティスと「四次元」である。

≪07≫  だいたいこんな程度のデュシャン像でもぼくが夢中になるのに十分だったが、そのうえぼくは多くのレディメイド作品も大ガラス作品も、最初に知ってしまったのだから、これは信奉するしかなかった。

≪08≫  とくに大ガラス作品については、中村宏と何時間も、しかも何日にもわたって話しこんだ。それがデュシャンを知って数日目のことだったとおもう。早稲田の二年生のころである。

≪09≫  ぼくはもともとフランシス・ピカビアの信奉者でもあった。しかし、そのピカビアを投影する者が出現していないことに疑問をもっていた。

≪010≫  ぼくはもともとフランシス・ピカビアの信奉者でもあった。しかし、そのピカビアを投影する者が出現していないことに疑問をもっていた。

≪011≫  これで十分なのだ。 ぼくはその後は10年にわたってデュシャンに興奮しつづけたのである。

≪012≫  デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていた。

≪013≫  デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスである。外出も嫌いだし、むろん美術館や展覧会にはほとんど出かけない。

≪014≫  デュシャンが重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。レディメイドについてさえ、デュシャンは外見の印象を拒否するもののみを選んでいる。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなのである。絵画を捨てたのもそのせいだった。

≪015≫  しかし、誰もがあまり言っていないことがある。それは、デュシャンの最も劇的な特徴は、知識を勘でしか解釈しないというところにあるということだ。解釈というのもあたっていない。むしろ偉大な一知半解といったほうがいい。

≪016≫  これは実のところはけっこう多くのすぐれたアーティストに共通していることなのであるが、ただしデュシャンはその勘が格別に冴えていた。とくに四次元に対するデュシャンの勘は、ほとんど科学の目でいえばでたらめに近いものではあったにもかかわらず、しかしめっぽう冴えていた。

≪017≫  なぜ、こんな程度のことがデュシャンを支えられたかといえば、デュシャンは人間の生き方を見分ける目、とくにニセモノを見分ける目をもっていた。また、他人の評判から逃れる方法を知っていた。意外に、こういうことが人生を救うものなのである。

≪018≫ デュシャンに関する本はあまり多くはないが、それでもいくつものまことしやかな本が出回っている。

≪019≫  そういうなかでは、晩年のデュシャンがインタビューに答えている本書を読むのが最も無難であろう。

≪01≫  日本には世界中の大衆が決してそこまでは手を伸ばさない異常な言葉がいっぱいある。そのひとつが”シャネラー”である。いったい誰がこんな言葉を言い出したのか。

≪02≫  ここで”シャネラー”の登場なんぞを詳しく分析してみる気はないが(それをやれば、なぜ日本人の購買力によってエルメス、グッチ、ヴィトンが販売力の半分以上を確保できているかという事情を解剖できるだろうが)、日本のお姉さん、おばさんたちがシャネラーになったのは1983年にカール・ラガーフェルドがシャネルの主任デザイナーになってからのこと、それ以前はそんなことはおこりっこなかったはずである。

≪03≫  だいたいいまシャネラーがもてはやしているシャネル・スーツは本来のシャネル・スーツではなくて、1985年の春夏コレクション以降のスタイルなのだ。それにシャネルがプレタポルテ部門を始めたのがやっと1977年なのである。ココ・シャネルが晩年を逼塞するかのごとく送ったパリのホテル・リッツで亡くなったのが1971年だから、6年後のことだ。

≪04≫  それまではシャネルといえばオートクチュールのメゾンのことであった。またシャネル・スーツといえばシャネルレングスという、ちょうど膝が隠れる程度の丈と決まっていた。

≪05≫  著者は「サムディ・ソワール」の創刊者であって、「マリー・クレール」の元編集長である。だからというのではないが、本書はふつうの評伝よりずっとオシャレに、そこにココがお気にいりの椅子に坐って、こちらを向いて早口に喋っているかのように、とてもスタイリッシュにできている。

≪06≫  ふんだんにココの言葉が引用されているのも、類書には見られない特徴になっている。周知のようにココの言葉は勝手なもので、直観に富み、しばしば逆説的である。たとえば、こんなふうに。いささか順番をぼくがいじってある。

≪07≫ ☆私は本のように服をさわってみたり、いじってみたりするのが好きなの。☆私はクラシックなものを作りたい。☆私はいつもむらなく売れるハンドバッグを、20年前からひとつもっている。みんなはほかの型をもうひとつ売り出さないかと勧める。でも何のために? 私は自分が使いやすいハンドバッグを売りたい。☆私は仕事は念をいれてやるの。これはもう病気のようなものです。☆私がやっている仕事は限られているんです。だから念を入れるんです。布地は美しいものでなければならないし、私の好みを見せなければならないでしょう。

≪08≫ ☆私は着古した服しか好まない。決して新しいドレスを着て外に出るなんてことはしない。☆コピーすることができないモードがあるとすれば、それは「サロンのモード」だ。いま、それを誰もつくれない。☆エレガンスっていうのは新しいドレスを着ることではない。エレガントな人が服をエレガントにする。よく選ばれた一枚のスカートと一枚のトリコでだってエレガントになれるものです。☆モデルって時計のようなものよ。時計は時間を教えてくれるけど、モデルは服の時のことを教えてくれる。☆ドレスはね、あまり恭しく着るものじゃないの。

≪09≫ ☆男というのは私たちが考えているほど強くはない。女のほうがずっと抜け目がなくて、世才に長けている。男は女よりもナイーブで傷つきやすい(フラジール)ね。☆自分のコスチュームで人の注意を引こうとするような男はどうしょうもないバカね。☆女はね、いくらバカげた恰好をしてもなんとかなるのよ。ところがバカげた男というのは、もうどうにもならない。女がバカなのは、そんな男を見抜けないときね。男がバカげていても許せるのは、その男が天才のときだけね。

≪010≫  これでココ・シャネルがどんな女なのか、あらかた伝わってこよう。そんじょそこらの輩とは出来がちがうということが、これらの片言節句でもよくわかるとおもう。シャネルのほかに、こんなことを言えるファッションデザイナーはいない。ただし、これではシャネルが生き抜いた時代文化のことはまったくわからない。シャネルの人生こそは時代文化の賜物であり、そこに乱舞する才能こそはシャネルの感覚を磨きぬいた生きた装置だったのである。ごくごく少々だが、歴史の中のシャネルをスケッチしておくことにする。

≪015≫  さて、ここからがシャネルがココになっていく段になるのだが、その前にポワレがドニーズを仕立てたように、田舎娘のシャネルを最初のマイフェア・レディに仕立てる装置が必要だった。これを買って出たのがエティエンヌ・バルサンとアーサー・カペルという二人の男である。それぞれシャネルがぞっこんになった男性で、最初の店はかれらが引き受けた。そして風変わりなシャネルをパリ好みのココにしていった。

≪016≫ しかし、シャネルを本当に変えたのは、当時のパリの社交界を代表したミシア・セール(本書ではミジア)だったろう。ドビュッシー、ロートレアモン、プルースト、ロシアからバレエ団リュスを引き連れてきたディアギレフ、ピカソ、ストラヴィンスキー、そしてジャン・コクトー。みんながみんなミシアの美貌と感覚に酔わされた。そのミシアがシャネルを引き立てるのだ。

≪017≫ ミシアの社交がなかったなら、シャネルはココ・シャネルにならなかった。とくにミシアが会わせたディアギレフがシャネルと深くなって、シャネルは大いに変わる。1920年代のシャネルはロシアの色を濃くしていくことによって自分を磨いたといってよい。シャネルはディアギレフの公演後のパーティを必ず引き受けたのだ。そして、女たちが何を着ればよいのか、見抜いていった。

≪018≫ ディアギレフの舞台とパーティがココの才能を引き出したわけである。

≪019≫  コクトーとシャネルの関係についても知っておいたほうがよい。シャネルはいつも「コクトー? ああ、調子のいいエセ天才よ」と言い、小遣いをねだられると人前では突っぱねたくせに、あとでお金を届けたりした。

≪020≫  それだけでなくレイモン・ラディゲを失ったコクトーが阿片中毒になっていったのを身を呈して救ったのはシャネルだった。このことはのちのシャネルに何百倍にもなって戻ってくる。が、計算はなかった。シャネルは「自分の身柄を男に預ける才能」とともに、もともと「気になる男の身の危難を一身に引き受ける愛情と度胸」をもっていたのである。

≪021≫  そんなシャネルに何も困らない境遇の男たちが関心をもつのは当然である。男というものは、その女性が何に犠牲的になるかを見ているのであって、どんな自己保身的な女性にも関心をもたないものなのだ。とくにちょっと犠牲を払ってすぐにその報酬をほしがる女からは身を引きたくなるものだ。シャネルには、その「相手に何かをほしがる」というケチな根性がなかった。このシャネルの魅力はかえって何かに充実している男をぐらりとさせた。

≪022≫ だから、イートンホールの持ち主で大金持ちのウェストミンスター公爵や、ポワレをはじめとするデザイナーのデッサンを担当していた花形イラストレーターだったポール・イリブが、美と男に関する献身の哲学をもったシャネルに近づいたのは当然だった。

≪023≫  すでに「シャネル・スーツ」でも「シャネルNo.5」でも名をあげつつあったシャネルは、二人に対してやっと落ち着いた女心を見せはじめた。とくにイリブとは結婚してもよいと思っていたのだが、何の因果か、イリブは急死する。シャネルの人生を見ていると、自分が賭けた男はたいてい早死にするか、身をもちくずす。シャネルが獅子座の宿命を背負っていると言われはじめたのはこのころからである。

≪024≫ こうして戦争になる。フランスは戦火に巻きこまれ、シャネルも結局は、男との生活を一度としてすることなく、モードにすら関心を失って長い沈黙に入っていく。

≪025≫  知っている人は知っているだろうが、シャネルはほぼ15年にわたる沈黙期をもっていた。その沈黙にこそシャネルの謎があるはずだが、本書では淡々と語られている。

≪026≫  かくてシャネルがふたたび姿をあらわすのは1954年の2月なのである。いよいよシャネルが復活するそうだという噂は世界中に飛び散った。しかしすでにクリスチャン・ディオールがニュールック革命をおこしていたせいで、このカンバック・ショーはパリではさんざんだった。業界もシャネル叩きをおもしろがった。

≪027≫  けれども、このバッシングこそがシャネルを蘇らせたようなのである。やがてシャネルは揺るぎない地位を築いていく。膝くらいのシャネル・スーツが世界のエレガンスの原点になっていったのは、それからまもないころのことである。けれどもシャネルは、このとき以来、決してマスコミに媚びを売ることをしなくなり、世の中の”シャネラー”を批判しつづけるようになる。そして、リッツに住みこむと、何日も何ケ月も人に会わないままに、世界のモードを動かしていったのだ。

≪028≫ 参考¶シャネルの周辺については目移りするほどの”参考書”が出回っているが、定番といえばポール・モランの『獅子座の女シャネル』(文化出版局)だろう。そのほか海野弘『ココ・シャネルの星座』(中央公論社)なども参考になる。

≪01≫  1991年6月のこと、重さ3トンの"計算機"がロンドンの科学博物館の主導で完成したというニュースが流れた。チャールズ・バベッジが1840年代に設計した「階差機関」、いわゆる「ディファレンス・エンジン」がついに動いたのである。ちょっとどぎまぎするニュースだった。

≪02≫  それはたとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの考案したヘリコプターが再現されて垂直に十五メートルほど飛んだとか、バージェス頁岩に含まれていた古代生物ハルキゲニアが一瞬だが動いたとか、そういったどぎまぎである。いずれにしても、それまでバベッジの簡素な評伝などだけを通してバベッジ時代のヴィクトリアン・インベンションに興味を寄せてきたぼくとしては、これは聞きづてならないニュースだったのだが、いつもの忙しさにまぎれてそのまま放っておいた。

≪03≫  ところが同じ年、サイバーパンクの二人の旗手ウィリアム・ギブソンとブルース・スターリングがその名もズバリの『ディファレンス・エンジン』という作品を書いた。バベッジを主人公に、1850年代の蒸気テクノロジーによって蒸気映像・蒸気タイプライター・蒸気カードなどが一挙に花咲いて、まったく新たな歴史を展開させるという、かれらお得意の奇想天外なパンクでサイバーなオルタナティブ・ストーリーである。まさにヴィクトリアン・バベッジの科学技術社会に対する憧れをおもうぞんぶん勝手に実現してしまったSFだった。

≪04≫  これでいっさいは先を越された。ぼくのやることはなくなった。しかたなく読んだのが本書であった。が、本書によって、やっとこさ「ディファレンス・エンジン」発明前後の全貌があきらかになってきた。やっぱり実際の出来事はフィクションより重力に富んでいる。

≪05≫  バベッジをとりまくハーシェルやピーコックらの科学者たちの動向が刺激的である。自分たちのことを"アナリチカルズ"と名のった解析的数学派グループや王立天文学会を結成していく経緯も勇ましい。ニュートン以来の"数学における英仏戦争"の結末はもっと陰謀に満ちて頼もしい。もうひとつ、スティーブンソンらの蒸気技術発明家たちとの意外なコラボレーションもある。

≪06≫  しかし、なんといってもバベッジの周辺をドリーミングにしているのは、詩人ジョージ・バイロンの娘エイダが"世界初のプログラマー"としてバベッジを助けて、ついに「ディファレンス・エンジン」を完成させていく「機械と女神の結婚」をおもわせるくだりである。ぼくは本書を読むまで知らなかったのだが、エイダのお母さんがすでに"平行四辺形の女王"とか"数学の魔女"とよばれていたらしい。

≪07≫  現存する最も古い計算器は古代バビロニアで発見された算盤「アバカス」である。この算盤の原理がインドにも中国にも日本にも届いたのだったろう。しかし、これは計算器とはいえ本来の計算器ではなかった。人間の手や指が動かした。計算器とは多少とも自動計算をしなければならない。

≪08≫  計算棒というものもあった。16世紀になってジョン・ネーピアが苦心して作ったもので、象牙の棒に数字を刻んで、これを組み合わせる「格子掛け算法」で九九をこなすものである。多少は広まったが、すぐに飽きられた。ネーピアはそれよりも対数による計算法をつくりだしたことで数学史上に輝いた。ウィリアム・オートレッドによる計算尺の発明はネーピアの計算法の踏襲によっていた。

≪09≫  機械による計算を思いついたのが誰かはわかっていない。おそらくはケプラーの友人だったウィルヘルム・シッカルトだったろう。ケプラーとの手紙のやりとりにその記述があるからだが、1930年代に図面が発見されて。組み立ててみると、歯車による桁上がりも工夫されていて、四則演算のごく一部をこなせるようになっていた。ただ精度があまりにひどくて、とうてい実用には供せなかった。こうしてブレーズ・パスカルが登場する。原理はシッカルトと似ているが、ピン歯車を加えて桁上がりをさらにスムーズにさせている。「パスカリーヌ」と命名されたこの計算器は、なんと53台も製作された。が、1台とて売れなかったらしい。

≪010≫  パスカルの次はウィルヘルム・ライプニッツだ。段付き歯車を考案して掛け算も割り算もできるようにした。計算まちがいも少なかった。これを19世紀にある事業家が改良して生産したところ、60年間に1500台が売れた。電卓が普及するまで世界中のオフィスや売店で動いていたさまざまな計算器の原理は、このライプニッツの原理とあまり変わらない。ということは、計算器の歴史はライプニッツで一応の頂点を迎えたということなのである。

≪011≫  たしかに自動計算器というだけなら、ここが頂点だった。しかしまだ、計算エンジンというまったく新しい発想が待っていたのである。かくしてここにいよいよケンブリッジ大学の数学教授チャールズ・バベッジが登場する。

≪012≫  バベッジが設計開発したかったものは二つあった。「階差エンジン」と「解析エンジン」である。最初の試作の第一階差エンジンは1823年に着手され、はやくも四則演算のすべてをやってのけ、多項式も解いてみせていた。これを発展させるのに英国政府は援助を惜しまなかったのだが、次の飛躍までに11年がかかった。

≪013≫  一方、「解析エンジン」のほうは、まことに画期的な設計思想にもとづいていたのだが、試作にはいたらなかった。陽の目を見ずにバベッジは死んだのだ。しかし、これこそはコンピュータの第一歩であったのである。なぜならその設計にはパンチカードによるプログラミング機能が内蔵されようとしていたからだ。

≪014≫  一方、「解析エンジン」のほうは、まことに画期的な設計思想にもとづいていたのだが、試作にはいたらなかった。陽の目を見ずにバベッジは死んだのだ。しかし、これこそはコンピュータの第一歩であったのである。なぜならその設計にはパンチカードによるプログラミング機能が内蔵されようとしていたからだ。

≪015≫  いまコンピュータとは何かということを最も簡潔に定義づけるとすれば、「プログラムに従って情報を処理する計算機械」ということになるだろう。現在のコンピュータは超大型からノートパソコンにいたるまで、すべてが「プログラム内蔵方式」によって「逐次計算」をする「記憶装置」のついたノイマン型コンピュータというものである。バベッジの「解析エンジン」がどういうものであったかというと、バベッジ自身の解説でこうなっていた。二つの装置が組合わさっているのである。

≪016≫  1・演算の対象となる変数と、他の演算の結果として得られたすべての数値が蓄えられるストア(記憶)部。 2・演算のおこなわれる数値がたえず送りこまれていくミル(作  業)部。 3・この二つの部門を補助する修正部と、二組の演算カードと変数カード。

≪017≫  二組の演算カードと変数カードがパンチカードとその読み取りにあたっている。つまりプログラムにあたる。これにもとづいて計算作業部門が動き、それがストア(記憶)されていく。これはまさにコンピュータの原理に近い。たった一つのちがいは、ノイマン型コンピュータはプログラムを内蔵するが、バベッジのコンピュータはカードを通じて外部から読みこむようになっているというだけである。

≪018≫  なんというチャールズ・バベッジか、なんと麗しいサイバーパンクなチャールズ・バベッジか。ぼくは本書でバベッジがディファレンス・エンジンの本質を、つまりはコンピュータ原理の本質を「自分自身の尻尾を食べるエンジン」と名付けていたことに、それはそれは腰を抜かすほど驚いたものだった。

≪019≫  バベッジの輝かしい天才的栄誉のために、もう二、三言、加えておこう。世界最初の電子計算機は1946年にペンシルヴァニア大学で製作されたENIACである。18800本の真空管、1500個のリレーを用いた重さ30トンの怪獣だった。目的は高性能爆弾の弾道計算のためである。バベッジのコンピュータは平行四辺形の女王と女神エイダのためだった。

≪020≫  怪獣ENIACとバベッジのコンピュータが同質のものだったということも言っておきたい。これらは両方とも外部プログラム方式だったのだ。ノイマン型のプログラム内蔵方式はENIACの3年後、まさにバベッジの栄光を受け継いだケンブリッジ大学のウィクルスらによるEDSACが最初であった。焦ったアメリカがノイマン自身をペンシルヴァニア大学に派遣して、プログラム内蔵のEDVACを作らせたのは、やっと1950年代になってからのことだった。

≪021≫  もうひとつ、言っておきたいことがある。今日のコンピュータは入力装置・出力装置・記憶装置・演算装置・制御装置の5つの部門かで構成されている。このどの一つが欠けてもコンピュータとは言いえない。実はバベッジのコンピュータには、入力装置が欠けていた。むろんキーボードもなかった。しかし、しかしなのである。ぼくが思うには、バベッジは「自分自身の尻尾を食べるエンジン」という構想のもと、「自分自身で書きこむエンジン」をすら着想していたのではなかったということだ。むろん、これは二人のサイパーパンク作家の創造力に煽られての、ぼくのバベッジの夢にすぎないのだが‥‥。

≪022≫  参考¶著者の新戸雅章は『超人ニコラ・テスラ』『ニコラ・テスラ未成伝説』『発明皇帝の遺産』などの異端の発明技術を追いる希有の著作者。一九九〇年代の日本におけるニコラ・テスラのブームはこの人の著作が引き金になっていた。

≪023≫  コンピュータの歴史についてはいまやあまりに多くの図書があふれていて、紹介する気にもなれない。それよりぼくが薦めたいのはチューリング・マシンに関する本ならなんでも読むべきだということと、ディヴィッド・マーの本もすべて読むべきだということである。

≪01≫  コンピュータがわれわれの脳や心のはたらきにどこまで食い下がれるかという年来の問題は、一九五〇年代にまだサイバネティックスに人々が熱中していた当時から、それなりに先駆的な議論がされていた。

≪02≫  ぼくは三十代前半のころ、そのサイバネティックなダートマス会議やらアーティフィシャル・インテリジェントなメイシー会議やらの記録を読んで、おおいに興奮した。そこにはベイトソン、ウィーナー、マカロック、フォン・フェルスター、ハーバート・サイモンらの錚々たる科学者がズラリと顔を揃えていた。そしてそのころすでにグレゴリー・ベイトソンが、「われわれはまだ“生きているシステム”というものを一度も覗いたことがないのだから、自然と情報と人間のあいだの“関係”をこそ研究すべきではないのか」といった発言をしていたのを読んで、ぞくぞくしていた。

≪03≫  以来、脳と心とコンピュータをめぐる侃々諤々の議論はひきもきらずに続行されている。けれども人工知能(AI)の可能性が爆発した八〇年代は、ぼくも片っ端からそうした動向を傍目で観察していたのだが、どうも成熟した問題を議論しているようには感じられなかった。エキスパート・システムなどに傾きすぎたせいでもあった。そこに登場してきたのがペンローズの『皇帝の新しい心』であった。

≪04≫  本書には「コンピュータ・心・物理法則」という副題がついている。そこでついつい「コンピュータは心を表現できるのか」という積年の疑問についにソリューションが与えられたのかと期待したくなるのだが、この期待はあっけなく裏切られる。ペンローズはそのような卑しい関心をもつこと自体に容赦ない鉄槌をくだす。ついでに、たちまちにしてAIを論破する。さらには「人間の脳も心もコンピュータなどでは解けるわけがない」と喝破する。

≪05≫  そのうえで著者は、「量子力学的宇宙像をどのように描くか」ということがわからなければ、脳の未来もコンピュータの未来もありえないという結論を用意する。そのためにくりだす話題は、複素数から複雑性まで、チューリング・マシン批判からゲーデルの不完全性定理まで、ブラックホールからホワイトホールにまでおよぶ。まことにまことに目が眩む。

≪06≫  では、この数式まじりの分厚い本書を読みおえて、われらの“皇帝”がどのような心をもっていたかを知ることができたかというと、これがまたなかなかできないようになっている。そのことがけっこう意地悪な本書の狙いなのでもある。それならそれで「なあんだ、がっかりだ、失望した」という気分にさせられるかというと、そうともならない。逆なのだ。そこがペンローズの第一級の数学者としての腕になる。いま(二〇〇〇年現在)もまだオックスフォード大学にいる。

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≪07≫  ロジャー・ペンローズは六〇年代にホーキングとともに宇宙論を研究して、「もし相対性理論が最後までずっと成立していくのだとすれば、物理法則が適用できない特異点がどんなブラックホールにもなければならないはずだ」という推測を打ち出した。ブラックホールはこれですこぶる有名になり、さらにビッグバン理論がここから世間に広まりだした。

≪08≫  その後、ある結晶的な図形の性質を研究し、その図形をエッシャー図形のように平面に並べることはできるのだが、その並べ方は非周期的にならざるをえないという驚くべき法則を発見した。もともとエッシャーの有名な「無限階段図」のヒントをエッシャーにもたらしたのがほかならぬペンローズだったのだから、こういう発見があっても当然だった。

≪09≫  有名な「ペンローズの三角形」という錯視図形も発案した。三本の棒(柱)がねじれて三角形をつくっているのだが、実際にはそんな立体物はつくれない。そのため不可能図形といわれるもので、誰もが一度や二度はお目にかかったものだ。ペンローズはこういうトリッキーなものも次々に考案して、人間の知覚のフラジャイルな曖昧さに強い関心をもってきた。

≪010≫  そのペンローズがコンピュータ万能主義に反旗をひるがえし、さらには人工知能に沸く認知科学者たちを一蹴しようというのだから、これは矛先を向けられた連中が不利である。けれどもペンローズは、かれらの自信をぺしゃんこにするのが目的ではなく、量子重力理論によって世界を眺める方法を伝えることが目的なので、ぺしゃんこになった「コンピュータによる心の科学の取り扱い」の後始末には関心がない。

≪011≫  実際にも、本書の議論が本格的に始まるのは第六章「量子マジックと量子ミステリー」からだった。そこで、そこまでの議論を次のようにまとめてしまっている。

≪07≫  ロジャー・ペンローズは六〇年代にホーキングとともに宇宙論を研究して、「もし相対性理論が最後までずっと成立していくのだとすれば、物理法則が適用できない特異点がどんなブラックホールにもなければならないはずだ」という推測を打ち出した。ブラックホールはこれですこぶる有名になり、さらにビッグバン理論がここから世間に広まりだした。

≪08≫  その後、ある結晶的な図形の性質を研究し、その図形をエッシャー図形のように平面に並べることはできるのだが、その並べ方は非周期的にならざるをえないという驚くべき法則を発見した。もともとエッシャーの有名な「無限階段図」のヒントをエッシャーにもたらしたのがほかならぬペンローズだったのだから、こういう発見があっても当然だった。

≪09≫  有名な「ペンローズの三角形」という錯視図形も発案した。三本の棒(柱)がねじれて三角形をつくっているのだが、実際にはそんな立体物はつくれない。そのため不可能図形といわれるもので、誰もが一度や二度はお目にかかったものだ。ペンローズはこういうトリッキーなものも次々に考案して、人間の知覚のフラジャイルな曖昧さに強い関心をもってきた。

≪010≫  そのペンローズがコンピュータ万能主義に反旗をひるがえし、さらには人工知能に沸く認知科学者たちを一蹴しようというのだから、これは矛先を向けられた連中が不利である。けれどもペンローズは、かれらの自信をぺしゃんこにするのが目的ではなく、量子重力理論によって世界を眺める方法を伝えることが目的なので、ぺしゃんこになった「コンピュータによる心の科学の取り扱い」の後始末には関心がない。

≪011≫  実際にも、本書の議論が本格的に始まるのは第六章「量子マジックと量子ミステリー」からだった。そこで、そこまでの議論を次のようにまとめてしまっている。

≪012≫  たぶん、われわれの心は、古典物理的構造の「対象」なるものが遂行する、何らかのアルゴリズム(計算結果)の特徴にすぎないというよりも、われわれの住んでいる世界を現実に支配している物理法則の、ある奇妙な驚くべき特徴に由来する性質なのであろう。

≪012≫  たぶん、われわれの心は、古典物理的構造の「対象」なるものが遂行する、何らかのアルゴリズム(計算結果)の特徴にすぎないというよりも、われわれの住んでいる世界を現実に支配している物理法則の、ある奇妙な驚くべき特徴に由来する性質なのであろう。

≪013≫  ここでいう物理法則というのが、われわれの知覚の奥の事情になんらかのかたちでかかわっているかもしれない量子状態を支配している法則である。しかしながら、このことは容易には見えてはこない。そこでペンローズはまず量子力学を説明し、ついで第七章の「宇宙論と時間の矢」で、熱とエントロピーと時間の関係をのべ、第八章で得意の「量子重力を求めて」にとりかかる。

≪014≫  ここまでで、読者は「脳と心」について新しく学ぶべきことが、きっとわれわれの知覚する「時間の流れ」に密接な関係があるらしいと感じるようになっている。その「時間の流れ」には量子と重力がからんで関与しているはずで、それが脳と心を支配する。ペンローズはきっとそう考えたいだろうと予想したくなる。

≪015≫  ペンローズは量子論の枠組みを変更したいのである。それまで、新しい量子論をつくろうとする者は、量子力学が時空構造に関するアインシュタインの理論におよぼす効果を計算に入れてきた。それをペンローズはまったく逆に、アインシュタインの時空理論が量子力学の構造そのものにおよぼす効果から新たに考えようとした。いわゆる量子重力理論の試みではあるのだが、そこに工夫があった。

≪016≫  その工夫のひとつがツイスター理論(twistor theory)で、時空の中の光線の束がツイスター空間の「点」に対応し、逆に、ツイスター空間で「球」に時空の中の「点」が対応するとした。ツイスターがいったい何をあらわしているのかということは、このモデルが複素射影空間の数学に棲みこんだ以上は、取り出して言葉にするのはむずかしい。いくつかのモデルの見え方を視覚化することができるだけだ。

≪017≫  このような「量子重力モデル」を考えたペンローズは、このモデルを大胆にいじりまわして、宇宙の極大にも物質の極小にもあてはめようとした。それがときおり新たな刺戟的な問題とリンクしていった。

≪018≫  うまくリンクできれば、ビッグバンにおける境界条件(初期拘束条件)をどう見るかという問題に関係してこよう。ぼくも十年ほど前にこのことに関心をもち、佐藤文隆さんや津田一郎君らと騒がせてもらったことがあるのだが、ぼくの想像力ではほとんど埒があかなかった。

≪019≫  それをペンローズはワイル曲率仮説というものに帰着させつつ、冒険をしようとする。これはかんたんに説明できる筋合いのものではない。それこそホーキングとペンローズが死力を尽くして到達した仮説なのでここはスキップすることにするが、それでペンローズが次にどうしたかというと、ここからが本書をつまらなくさせていく。

≪020≫  なんと今度は一転して脳を調べ(第九章「実際の脳とモデル脳」)、そのどこかに量子機能がはたらいているところがあるはずだという話になっていくからだ。本書では一つの例として網膜をあげ、ここにちょっとした可能性を見るのだが、そのくらいではたいした実証性をもたないので、あきらめる。ここからはさすがのペンローズも腰砕けなのだ。むろんペンローズ自身はあきらめてはいない。「量子脳」の仮説に本気でとりくんで、結論だけいえば、「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮である」という驚くべき提案をするに至った。

≪021≫  神経系のなかの中空構造をもっている導波管のようなものがマイクロチューブル(タンパク質のサブユニットで構成される)で、そこで量子の動きがおこることが意識をつくっているという「量子脳」仮説である。ペンローズの『〈量子脳〉理論』(ちくま学芸文庫)に詳しい。ここから「クォンタム・マインド」とか「量子意識」といった用語も飛び散るようになった。

≪022≫  こうして終章「心の物理学はどこにあるのか?」にたどりつく。ここも三分の二はつまらない。ところが、あるひとつの示唆がぼくをびっくりさせた。この示唆というか、指摘というか、それがこの終章にあるだけで、本書はやはりペンローズの“勝ち”なのだ。

≪023≫  それは、「意識的思考のほうが非アルゴリズム的で、かえって無意識のほうがアルゴリズム的なのではないか」というものだった。かんたんにいえば、意識には計算不可能なプロセスを処理する実行能力があるということだ。もっとも、この示唆がどんな意味をもっているかということは、ペンローズも結論を出せないでいる。

≪024≫  心の正体は皇帝と侍女と臣民で変わるものではないだろう。だからといって、心が平等であるからといって、決して皇帝は生まれない。

≪025≫ 参考¶ペンローズの結晶的図形(準結晶とよばれることになった)については、マーティン・ガードナーの『ペンローズ・タイルと数学パズル』(丸善)がスリリングな案内をしてくれている。

利巧

有利

有理

不利

不理

不考・不幸・不工

不離

不測

不足

付則

≪01≫  幼児のころに寝付きが悪かったのかどうか、おぼえていない。京都で生まれたけれど、昭和19年の1月末だったから(京都も空襲されると信じられていたから)、父は母とぼくを尾鷲(おわせ)に疎開させ(何もおぼえていない)、そのあと妹が生まれたので鵠沼に移って(ここは少し記憶がある。スイトピーがたくさん咲き乱れて風にゆれていた)、敗戦直後に日本橋芳町の松岡商店の2階に親子4人で店番さんとともに住んだ。隣りは伊香保湯という銭湯、裏は宝来屋という佃煮屋だった。

≪02≫  芳町の2階では、一匹の軍鶏(しゃも)が鋭い目で花籠の向こうを睨んでいる二つ折りの屏風が立てられ、それに見下ろされるように小さな布団が敷かれ、そこで寝た。風でガタピシと雨戸の音がするのが怖かったけれど、寝付きが悪かったかどうか。

≪03≫  すぐに高熱を出す体質だったらしく、そのたび母がゴロゴロした氷枕をもってきてくれるのだが、それが冷たくて布団にもぐりこんだ(西東三鬼の句のように)。ちゃんと水枕をしなさいと言われ、顔を出すと、今度は天井の節穴の模様に睨まれているようで落ち着かない。それでキュッと目をつむったのだけれど、うとうとしてくると天井がまわりはじめ、そこからキーンと張った金属めいた糸が少しずつ下りてくるので汗びっしょりになった。

≪04≫  その後、ぼくはひどく寝付きの悪い青年になったけれど(いまでも眠るのがへたくそだ)、ほんとうは子供時代のことをもっと思い出したいのに、それが叶わない。そんなとき、しばしばアマデウス・ホフマンの『砂男』が空中を走っていった。あれはとんでもない話だ

≪05≫  ナタナエルはこんな手紙を幼ななじみのロタールに書いた。僕は小さい頃から母さんや婆やから世にも怖しい「砂男」なるものの話を聞かされてきた。眠らない子供の目玉をくりぬいてしまうという砂男だ。僕はきっと砂男はどこかにいるにちがいないと信じるようになった。

≪06≫  そのうち、父さんのところにたびたび訪れてくる老弁護士のコッペリウスこそが砂男だと思うようになった。いろいろとても不気味なのだ。ある日、コッペリウスが父さんのところへ来たとき、書斎で謎の爆発がおこって、父さんは焼け死に、コッペリウスは行方不明になった。あれからずいぶんたったけれど、いま僕の下宿先に晴雨計売りの男のコッポラが来るようになった。それがコッペリウスそっくりで、やっぱりとても不気味なのだ。いったいどうしたらいいだろう?

≪07≫  こういう手紙をロタールに送ったつもりだったのに、宛て名をまちがえて、この手紙はロタールの妹のクララのところへ届いてしまった。クララはびっくりして、ナタナエルに励ましの手紙を書いた。僕は改めてロタールに手紙を書いた。

≪013≫  騒ぎを聞いて駆けつけた人ごみの中に、あの弁護士コッペリウス(砂男)の姿があった‥‥。

≪014≫  なんとも眩暈(目くらまし)に充ちた不思議な話だ。いくら読んでも、眠れない子の目をくりぬく砂男の得体は知れず、児童小説としてはそうとうに怖い(だから児童小説なんかじゃない)。晴雨計、望遠鏡、自動人形が出てくるので、どこか実験室の中の出来事のようで、風変わりな機械幻想にも富んでいる。

≪015≫  フロイト(895夜)がエッセイ『不気味なもの』に「目玉が奪われる」のはオイディプスの神話がよみがえっていると得意の分析をして、エディプス・コンプレックスやナルシティズムの現象例としてとりあげたのは有名だが、つまらない分析だった。そうじゃねえんだよと思っていたら、種村季弘がホフマンの『砂男』とフロイトの『無気味なもの』をカップリングして河出文庫に収め、もっとみごとな解説を施してみせた。

≪016≫  『砂男』でおこっていることは、カイヨワ(899夜)が重視した「遊び」の中のイリンクス(眩暈)の例としてもピカイチだろう。ナタナエルが呪文のように「まわれ、まわれ」と言っているのは、少年が両手を広げてヒコーキになって校庭をぐるぐる回って遊びつづけ、少女がスカートをひるがえして一心不乱にくるくる一人スピンしていることとつながっている。ホフマンは「めまい文学」の鬼才だったのだ。

≪017≫  実は、ぼくが芳町の2階で足と爪を踏ん張った軍鶏のもとで高熱に魘(うな)されたあとは、天井から下りてきた金属の糸がピンピンになって、そのままプツンと切れるかどうかというとき、ぼくが寝ている布団が畳ごとぐるぐる回りはじめ、ぼくはそこまでおぼえているまま、あとは目をさますまで寝入ってしまっていたのだった。

≪018≫  砂男がどうして砂男(Sandmann)とよばれているかということも、付け加えておかなければならない。この怪物は眠らない子の目に砂をかけ、その目玉を取り出してしまうのである。

≪018≫  砂男がどうして砂男(Sandmann)とよばれているかということも、付け加えておかなければならない。この怪物は眠らない子の目に砂をかけ、その目玉を取り出してしまうのである。

≪019≫  砂男はその目玉から血を吸って生きているらしく、そうだとするとこれはギリシア神話に出没する「ストリックス」や中世の「吸血鬼」のヴァージョンなのである。ストリックスは揺り籠にいる子を襲ってその柔らかな肉を食べ、血を吸うという怪鳥である。それがゲルマンの森の風土の中で、砂男に変化したのだろう。ホフマンは子供のころからこうした伝説や伝承を聞かされていたのであろう。

≪020≫  しかしそれを一筋縄のメルヘンとせず、そこに機械人形や光学幻想を加えたのがドイツ後期ロマン派の旗手ホフマンの、さすがに異様な手際だった。 というわけで、今夜は令和の年の瀬にホフマンを思い出すことにした。ぼくはドイツ・ロマン派はノヴァーリス(132夜)から入って、ティークやジャン・パウルやアルニムにぞんぶん遊ばせてもらってきたけれど、実のところその才能で言ったらホフマンにこそ参っていた。そのホフマンをこんな年の、こんな寒い夜の、こんな押し詰まった千夜千冊で思い出そうというのは、数日前から右目が真っ赤になってしまったからだ。しばらく前から罹っていた虹彩炎に、なぜか結膜下出血が重なってしまったらしい。これはホフマンに近づいたと思うしかない。

≪021≫  エルンスト・テオドール・ホフマンはアマデウス・ホフマン、すなわち「お化けのホフマン」と呼ばれた。いや、自分で好んでアマデウスを名のった男であった。敬愛してやまないモーツァルトに肖(あやか)ったのである。

≪022≫ 46歳の短い生涯であったが、その多彩奇才の表現力はなぜか老ゲーテ(970夜)や同時代のヘーゲル(1780夜)に嫌われ、ハイネ(268夜)に褒められ、のちには後期ロマン派の代表作家として、バルザック(1568夜)、ジョルジュ・サンド、リラダン(953夜)、プーシキン(353夜)、デュマ(1220夜)、ドストエフスキー(950夜)、ネルヴァル(1222夜)、モーパッサン(558夜)、ボードレール(773夜)に絶賛された。

≪023≫  この通信簿は悪くない。とくにプーシキンとリラダンが兜を脱いだところが上々だ。砂男コッペリウスと機械人形オリンピアの唐突な邂逅にしてやられたのであろう。

≪024≫  ホフマンは1776年にケーニヒスベルクの法律家の家の末っ子に生まれた。父親はさっさと家出をしたので、母と伯父に育てられ、家業の法律とともに音楽・絵画・文芸作品・詩作に夢中になった。

≪025≫  ケーニヒスベルクはカントの町で、ジングシュピール(歌芝居)の町である。町の音楽アイドルはバッハ(1523夜)の息子のフィリップ・エマヌーエルで、みんながひそひそ話をしながら憧れていた。ホフマンはクリスティアン・ポドビエルスキーというオルガン奏者からピアノを教わった。父バッハ(つまり大バッハ)を崇拝するセンセイで、教え方がうまかったのか、ホフマン少年は妙に音楽の才能にめざめた。そのせいか早くから作曲が得意になった(と、自負していた)。

≪026≫  ポドビエルスキーのことはあとで紹介するが、『牡猫(おすねこ)ムルの人生観』の主人公の一人の魔術師アブラハム・リスコフのモデルになっているほどの(分身めいたモデルなのだが)、ホフマンにとってはとても重大なセンセイである。

≪027≫  むろん本はたくさん読んだ。ケーニヒスベルクには何軒もの書店やライブビリオテーク(私設の有料図書館)があって、町のレスルセ(娯楽施設)やワインシュトゥーペ(ブドウ酒呑み屋)にはたいてい新聞や雑誌がおいてあった。

≪028≫  ホフマン少年は十代になるとスウィフト(324夜)、ロレンス・スターンを好み、それに当時の文芸青少年はみんなそうだったのだが、ゲーテ、シラー、ジャン・パウルにぞっこんになった。シラーの『見霊者』がお気にいりだったようだ。さもありなんだ。

≪029≫  ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生活と意見』に惹かれたのは、漱石(583夜)の趣味とまったく同じで、その漱石が『吾輩は猫である』をホフマンの牡猫ムルからアイディアをいただいたという説がずっとあったのだけれど、これは漱石自身が「連載途中で知った」と否定(弁解?)しているし、真相はまだよくわかっていない。ぼくは、むしろ漱石はホフマンのムルを知っていながら、『吾輩猫』をあんなにも日本流に韜晦させたところをうんと褒めたいのだが、本人はまわりに言われるのはいやだったのだろう。ま、実人生というものは、そういうものだ。

≪030≫  司法試験に合格し、ケーニヒスベルクの陪席判事になった。そのとたん人妻に恋慕して引っ越さざるをえなくなる。これはとてもよくあることで、いちいち納得しても、褒めても、むろん貶(けな)してもいられない。だいたいヨーロッパの文人は、ヴォルテール(251夜)やルソー(663夜)のころから、みんな人妻と不倫したのだ。啓蒙主義とは不倫主義のことである(人妻との不倫と思想との不倫だ)。

≪031≫  そんなこんなで何度か転地するうちに、法曹にも恋愛にも芸術にもまみれて、ポーゼン(現在のポーランド領ポズナン)に落ち着いたと思われたい。

≪032≫  そこには社交クラブがあって、政府顧問官のヨハン・シュヴァルツと親しくなると、二人でカンタータやオペラを創作したり、ワインに熱中したり、ポンス酒に凝ったりした。お化けのホフマンは「フェチの極みのホフマン」でもあったのである。

≪033≫  あまりに器用でもあった。だから作曲もあっというまに楽譜にしたし、本格的な絵は苦手だったけれど、風刺画などは実にうまく描いた。ただそのせいで風刺された連中がいつも怒りまくっていた。フェチに描きすぎるのだ。揄(から)かわれたほうはたまらない(実人生はそうしたものだ)。ほってはおけない。ホフマンに反撃の狼煙を上げる。そんな非難の砲火でポーゼンにいられなくなって(炎上されると困るから)、惚れたミーシャと結婚するとプロークやワルシャワに移ってしまった(実際は左遷されたのである)。

≪034≫  1803年に引っ越したプロークでは喜劇を書いたり、ヨハン・クリスティアン・ヴィークレブの『自然魔術』に読み耽って(これは知る人ぞ知るの曰く付きの本)、器用な手先で自動人形づくりに挑んだりした。

≪035≫  ワルシャワでは「音楽クラブ」の創設にかかわり、ニ短調のミサ曲やブレンターノの戯曲を下敷きにしたオペラ『招かれざる客』の作曲、イタリア語の習得、それにこのあと終生の友となるユリウス・ヒツィヒから教えられたシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリス(132夜)らのロマン主義派や、これはホフマン自身の好みのカルデロンの作品に没頭した。

≪036≫  ヒツィヒが誘導してくれたロマン主義作家たちの魂と技法は、もともとその血潮を体中にどくどくさせていたホフマンをひどく悦ばせた。

≪037≫  1806年、ナポレオン軍がワルシャワを侵略、ベルリンで大陸封鎖令を発令すると、そのまま占拠した。プロイセンの政府機関は解体し、ホフマンはすべての仕事を失って家族とともに「音楽クラブ」の屋根裏部屋にごちゃごちゃになって住み、そのあとナポレオン軍がロシアに転戦しているすきに、ベルリンに逃れた(ぼくの幼年時代の疎開のようなものだ)。

≪038≫  むろん、食えない。なんとか食いぶちを求めているうちにバンベルク劇場の支配人に目をつけられ、音楽指揮者として採用された。ここから先のホフマンは次のドレスデンやライプツィヒでももっぱら音楽家としての名声を得るようになるのだが、それとともに、趣味で小説を書きつづけるようになる。何かが落ち着けば、何かをあやしくさせたくなるものなのだ。オペラ『ウンディーネ』、小説『磁気催眠術師』『自動人形』『黄金の壷』『悪魔の霊液』、そしてホフマンの同時代名声を高めた『カロ風幻想曲集』が生まれた。

≪039≫  何かのきっかけさえあれば、お化けのホフマンの才能はいくらでも迸(ほとばし)ったのである。ベルリンで出会ったシャミッソー、ティーク、フケー、デブリエントがもたらした刺激もそれぞれに大きく、『くるみ割り人形とねずみの王様』『夜景集』『ゼラピオン同人集』を次々にまとめると、飼いはじめた牡猫のムルがおもしろくてしょうがなくなったようで、長編『牡猫ムルの人生観』にとりかかったわけである。

≪040≫  この長編は1820年に完成したが、2年後、脊椎カリエスに罹り、46歳でもろくも他界した。もう少し「お化け」でいてほしかった。

≪041≫  『牡猫ムルの猫生観ならびに偶然の反故に含まれた楽長ヨハネス・クライスラーの断片的伝記』。これが略称「カーテル・ムル」(Kater Murr)の、邦題『牡猫ムルの人生観』の、原タイトルである。

≪042≫  長ったらしいのは当時のフモール(ユーモア)文学によくある手口だが(長ければ長いほど読者が戸惑うからだ)、ここにはこの作品の唐突とも摩訶不思議ともいえる二重構造が示されている。その話をしておきたい。

≪043≫  牡猫のムルは1810年代のドイツの某都市ジークハルツヴァイラーの屋根裏の暗がりで生まれた。すぐに表で遊ぶようになったが、母猫がどこかに行っているあいだに、通りすがった老婆がムルと数匹の子猫を近くの川に捨てた。ムルは溺れかかり、なんとか必死で橋桁にしがみついていたところ、そこへ魔術師のアブラハム・リスコフ(あのアブラハムだ)がずぶ濡れの子猫に気がつき、拾って帰ってムルと名付けた(さきほどウェブを覗いてみたら、日本には何軒かの「ムル」というペットショップがあった)。

≪044≫  ムルは魔術師の日々にすぐ慣れた。慣れるのは当たり前、そんなものじゃない。ご主人の机の上に前脚を折って坐り、アブラハムが声を出して本を読むのを聞き、文字を目で追ううちにドイツ語を習得したのだ。このことはムルに潜在していた才能をさらに引っ張り出した。天才猫は羽根ペンの使い方をマスターして自伝を書くようになったのである。

≪045≫  何かのきっかけでホフマンの友人がこのムルの原稿を目にし、ホフマンに渡した(そんなことアリかと思ってはいけない。ドイツ・ロマン派は何でもアリだ)。ホフマンはウンター・デン・リンデン通りの出版社デュムラーを紹介し、やがて見本刷りができあがった。それを見てホフマンは驚いた。自伝の活字は各所で別の文書で中断され、何度も紙継ぎされるようになっているのだ。その原因を調べてみると、ムルがインクの吸取り紙として、手元にあった本のページを破り取って使っていたことが判明した。『クライスラー伝』という本だった。

≪045≫  何かのきっかけでホフマンの友人がこのムルの原稿を目にし、ホフマンに渡した(そんなことアリかと思ってはいけない。ドイツ・ロマン派は何でもアリだ)。ホフマンはウンター・デン・リンデン通りの出版社デュムラーを紹介し、やがて見本刷りができあがった。それを見てホフマンは驚いた。自伝の活字は各所で別の文書で中断され、何度も紙継ぎされるようになっているのだ。その原因を調べてみると、ムルがインクの吸取り紙として、手元にあった本のページを破り取って使っていたことが判明した。『クライスラー伝』という本だった。

≪047≫  その結果、まったく異質な二つの自伝作品が交互断続的に構成される前代未聞の二重構造が出現することになった。それが『牡猫ムルの猫生観ならびに偶然の反故に含まれた楽長ヨハネス・クライスラーの断片的伝記』なのである。

≪048≫  というようなことが、『牡猫ムル』を読んでいくとわかるようになっているのだが、ぼくは砂男に続いて、またしてもまんまとやられたのだった。

≪049≫  猫が文字を書くのは、猫は長靴だって靴下だってはくわけだから、メルヘンや説話にありそうなことだけれど、その習得がご主人の「音読」のヒアリングと文字を追う目の動きとの合成から組み立てられていたというのは、なんともすばらしく、まことに編集工学的である。

≪050≫  もっとすばらしいのは、ムルが羽根ペンで原稿を綴っているそのときに、吸取り紙として別の本のページが使われていったということだ。これは愕然とするほどに卓抜なアイディアだ。

≪051≫  吸取り紙になったのが『クライスラー伝』だったというのも、憎かった。クライスラーというのはホフマンが『牡猫ムル』を書く10年前に書いた『クライスレリアーナ』という短編集に出てくる虚構の人物で、それ以外の何者でもない。しかも『クライスレリアーナ』にはクライスラーの伝記的なことなど、ほとんど出てこない。読者は『牡猫ムル』で初めて、その虚構のクライスラーの人生を読みながら、ムルの人生観を啄(ついば)むわけなのである。

≪052≫  こうして、世界文学史上にまったく類のない「二重小説」(Doppelroman)が誕生したのだった。ドッペル・ロマンはパラテキストということだ。

≪053≫  ムルの人生観については、びっくりするようなことは書かれていない。主人としての人間たちの相克、貴族を自負する犬たちの驕慢、市民的な猫たちの無責任が、独特のフモールをもってあたかも身分社会の投影のように描かれるばかりだ。まあ、アイロニーに走ったという程度のご意見だ。そこは、おそらくはホフマンの影響をなにがしか受けたとおぼしい漱石の『吾輩猫』と変わらない。漱石はむしろトリストラム・シャンディの意見のほうに左右されたにちがいない。

≪054≫  ただしムルがそのような人生観を述べるにあたって、たいてい「本の知識」と「現実の進行」とが対比されるところが独特である。ムルはやたらに「本のアーカイブ」に強いのだ。

≪055≫  それより驚かされるのは、ムルの日記に併行してあらわれるクライスラーの伝記のほうである。これがかなりの犯罪推理小説仕立てなのである。その舞台はイレネーウス侯の宮廷ジークハルツホーフと、そこから少し離れたカンツハイムのベネディクト会修道院になっている。

≪056≫  話はイレネーウス侯爵がジークハルツホーフを入念に建造するいきさつから始まり、そこに音楽監督クライスラーが招かれて侯爵の息女ヘドヴィガに音楽を教えるというふうに進んでいく。まるでバイエルン公国の月王のような話の始まりなのである。

≪057≫  そこに息女の結婚相手として、元ナポリ領主の次男ヘクトールがあらわれる。この男は婚約者として横暴にふるまいつつも、ヘドヴィガのお相手をつとめるユーリアを誘惑する。これは許せない。実はクライスラーはユーリアに恋心を抱いていたのだ。

≪058≫  そこでクライスラーは、ヘクトールの過去を知るアブラハムの助けを借りて、ヘクトールの過去犯罪を暴くためのミニアチュール(細密画)を活用して、ユーリアへの誘惑をやめさせようとするのだが、ヘクトールは部下をつかってクライスラーを射殺しようとする。ピストルが発射され、血痕のついたクライスラーの帽子だけが発見されたところで、第1巻が切れる(えっ、ここで話が切れるのという感じだ)。

≪059≫  第2巻が始まると、クライスラーは側頭部のかすり傷ですんでいて、それどころか抵抗のうえ刺客を刺し殺していたことがわかる。それで近くのベネディクト会修道院に身を隠し、しばらくは教会音楽の作曲に耽るのだった。

≪060≫  一方宮廷では、イレネーウス侯爵の愛人がユーリアの母のベンツォン夫人であることが知れ、夫人が娘の政略結婚をもくろんでいるという話が進行する。侯爵の跡継ぎのイグナッツの妃にしようというのである。クライスラーとユーリアに肩入れしているアブラハムは(この名は牡猫ムルを拾った魔術師と同じ名前になっている!)、ベンツォンの野望を知ってそんなことは娘の幸せにはならないと説くのだが、聞き入れられない。

≪061≫  そんなとき修道院に新たな僧がやってきた。ヘクトールの兄で、またまた過去に悪事をはたらいていたらしい。クライスラーはふたたびミニアチュールを用いて化けの皮を剥がそうとするのだが(こういう図形や図像が呪能を発揮するのはロマン派たちのお得意の手だ)、そこへアブラハムからの手紙が届いて、侯爵夫人の霊告日の祝賀行事には宮廷に戻るようにとある。小説では、ここに編者の添え書きが続いて、ムルが死んでしまったことを告げる。

≪062≫  なんとも奇怪なメタフィクショナルな進行であるが、ここでアブラハムとムルの意外な関係が急に読者にあかされる。実はアブラハムはクライスラーに霊告日に戻るように通告したのに、クライスラーは現れなかったのだ。立腹したアブラハムは魔術をつかって祝賀行事を大混乱に陥れ、その混乱がおさまった夕刻に自宅に戻る途中、橋のかたわらで溺れかかっていた子猫を見つけて連れ帰ったのだった。それがムルだった(ええーっ、それはずるいよと言いたい展開だ)。

≪063≫  以上の顛末を語ったアブラハムは、自分はこれから旅に出るのでムルをクライスラーに預けるのでよろしくというふうになる。いったいクライスラーがムルの世話をするのかどうかというところで、また話は中断されるのである。

≪064≫  このあとさらに事件の意外な真相が暴かれていくのだが、ここはさすがにネタバレになるのでこのくらいにしておくが、ともかくもこの「二重小説」(ドッペル・ロマン)は実に大胆不敵、まことに勝手気儘なのである。しかも、ムルよりもクライスラーの宿命のようなものがずっと気になるように構成されている。

≪065≫  まさに、ホフマンの狙いもそこにあったと目される。ホフマンは自分のことをクラブやサロンで自己紹介するときに、「あのクライスラーである私」と言っているほどだったのだ。

≪066≫  ざっと『砂男』と『牡猫ムル』を紹介してみたが、ここに切れぎれに躍如しているのは、ホフマンは「分身の文学」と「環の文学」を発明したということだろうと思う。

≪067≫  誰が何のための、どんな分身であるかを問うためのドッペルゲンガー(Doppeltgänger)の物語を思いつき、そのような分身自由な物語を成立させるための環(Kreis:クライス)の構造を用意すること、それがお化けのホフマンの文芸的編集魔術だったのである。

≪068≫  行く年来る年に向けての話は、これでおしまいだ。ぼくは血走った目にリンデロンを点眼し、眼医者の浜田センセイのところへ正月明けに通うことになる。たいへん粗相なお話でした。 ここで付録として、ドイツ・ロマン派の文芸動向についての、ごくかんたんな案内をしておく。除夜の鐘がわりです。

≪069≫  まずは当時のドイツの時代と場所と人物の符牒を少々ピンアップすると、1788年にヘーゲル(1708夜)とヘルダーリン(1200夜)とシェリングがチュービンゲン大学の付属神学校で同期になったのである。18歳前後の3人は「ヘン・カイ・パン」(一つですべて)を合言葉に、これからは「世界世代」の時代がやってくると確信した。

≪070≫  このうちのヘーゲルとシェリングがイエーナ大学に入ったころ、シュレーゲル兄弟やティークやヴァッケンローダーが集うイエーナ・サークルで、「美しいものは美しい」「昼よりは夜」「健康より病気」「解決よりは謎をのこす」「正常より異常」「でも心はきれいに」「生身より分身のほうがかっこいい」「芸術は芸術をめざす」「実利より夢を」といった約束ができあがったのだった。

≪071≫  ついで1798年に、シュレーゲル兄弟がそうした議論と表現と作品を出入りさせる雑誌「アテネウム」を創刊した。なかでヴァッケンローダーの『芸術を愛する一修道僧の心情の披瀝』が時代を画し、ここまでが前期ロマン主義である。

≪072≫  1806年、アイヒ・フォン・アルニムとブレンターノがハイデルベルクで童話集「少年の不思議な角笛」のシリーズ刊行をしはじめた。ナポレオンがドイツを蹂躙することが見えてきた時期、ドイツの夢見る夢男たちは、のちのグリム兄弟がそうだったように、ドイツの魂のための伝統を守り、発掘し、新たな仕立ての物語や詩にしていくことを誓う。アルニムは「隠者新聞」を創刊した。これが中期ロマン主義である。

≪073≫  こうして1814年から1830年あたりまで、ベルリンを中心にした後期ロマン主義が立ち上がる。ここに登場したのがホフマンであり、フケーの『ウンディーネ』やシャミッソーの『影をなくした男』やアイヒェンドルフの『予感と現在』だ。このあと、ドイツはこれらを「読む」ためのビーダーマイヤー時代になっていく。もっと詳しくは、たとえばアルベール・ベガンの『ロマン的魂と夢』(国文社)などを、どうぞ。名著です。

≪074≫  もうひとつおまけに、ホフマンは自分も分身音楽家だったわけだけれど、そのホフマンの原作や「お化けのホフマン」ぶりは、後世にいろいろの音楽作品や舞台作品になった。

≪075≫  有名なのはバレエ『くるみ割り人形』や『コッペリア』、そして『ホフマン物語』や『カルディヤック』だ。『くるみ割り人形』はホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』をデュマが翻案し、『ホフマン物語』は『大晦日の夜の冒険』『砂男』『クレスペル顧問官』の3作を編集翻案した。とてもよくできている。そして『コッペリア』が『砂男』のバレエ化なのである。

≪076≫  ロベルト・シューマンが『クライスレリアーナ』をピアノ曲集にしたことも言っておかなくてはいけなかった。きっと大晦日に聴くといいだろう。では、みなさんよいお年を。ドッペル、ケッケル、サッケル、アッケル!

利巧

有利

有理

不利

不理

不考・不幸・不工

不離

不測

不足

付則

≪01≫  初めて会ったのはいつだったか。1978年か1979年くらいじゃなかったか。わが早稲田時代の先輩の上野圭一に紹介されたのだと憶う

≪02≫  上野さんはフジテレビで将来を嘱望されていた辣腕ディレクターだったのに、テレビの現状に失望して鍼灸師の免許をとって、ターミナルケアの研究をしていた。翻訳も始めた。『人はなぜ治るのか』(日本教文社)、『癒す心、治る力』(角川ソフィア文庫)、『心身自在』(角川書店)などのアンドルー・ワイルの翻訳は、みんな上野さんだ。ぼくは早稲田に入ってすぐに素描座にとびこんだのだが(アカリ=照明をやりたくて)、そのときのカッコいい演出家が上野さんだったのである。

≪03≫  その上野さんと伸ちゃんとが二人でババ・ラム・ダスの『ビー・ヒア・ナウ』を翻訳して、それをエイプリル・ミュージックから出版した直後か、その前かに会ったのだろう。『ビー・ヒア・ナウ』(Be Here Now)がエイプリル・ミュージックという音楽屋で出版されたのは、伸ちゃんがもともとがジャズのベース奏者で、ぼくと同じ早稲田の文学部(西洋史学科)にいた途中にアメリカのバークレー音楽院に行って、本格的にジャスに挑んだのち、そのままずっとアメリカで大学に行ったり、南米やインドを旅行をしていたから、久々に日本に戻ってきても最初は音楽関係の版元にしか知り合いがいなかったからなのだろう。ちなみに『ビー・ヒア・ナウ』はいまは平河出版社から出ている。

≪04≫  だから、日本に戻ってまもなく二人は出会ったのだ。帰ってきた頃は日本の現状にかなり呆れていた。

≪05≫  あのさ、スピリチュアリティがどこかに行っちゃったみたいね、なんだか病んでいるのをみんなで舐めあってるみたいねと言っていた。たしかに当時、病気をビョーキとカタカナ表記して、何かに夢中になっていることさえ、あいつはビョーキだよねなどと言っていた風潮があったものだ。

≪06≫  ともかくも伸ちゃんは日本に戻ってきて『ビー・ヒア・ナウ』を翻訳し、その直後から精力的に活動を始めたのだ。その輪っかはたちまち広がっていった。当時の日本には伸ちゃんのような、トランジットしつつある意識の「アルタード・ステーツ」(変性意識状態)を本気で研究している人物はいなかったし、ましてインド哲学にもスーフィズムにもドラッグにもジャズにもニューサイコロジーにも精通しているような30代半ばの男なんて、見当たらなかったのである。だから「吉福伸逸」はすぐに知られる男になった。

≪07≫  ぼくのほうは工作舎をやっていて8年目にさしかかっていた。「遊」は3期目。単行本も新しい風をつくる時期にきていたので、ライアル・ワトソンの『生命潮流』を皮切りに、ニューエイジ・サイエンス関連の本をいろいろ翻訳することにした。木幡和枝・内田美恵・田辺澄江が中心だ。それで伸ちゃんにはフリッチョフ・カプラの『タオ自然学』を、田中三彦にはアーサー・ケストラーの『ホロン革命』を訳してもらった。1980年あたりからのことだ。

≪08≫  伸ちゃんはカプラとは親しかった。ベーシストやミュージシャンの道をあきらめて(才能がないと思ったらしい)、カリフォルニア大学バークレー校やエサレン研究所に熱心に通っていたから、カプラの講義も受けていたのだ。カプラのみならず、バークレー体験は伸ちゃんの言動を大きく変えたはずだ。マトリクスが変わったのだと思う

≪09≫  その後の伸ちゃんは「C+Fコミュニケーションズ」をおこして、スタニスラフ・グロフのトランスパーソナル学を導入したり、ケン・ウィルバーらのニューエイジ・サイエンスの紹介に努めたり、自身で「セッション」とよばれるブリージングやセラピーを始めたりしていた。

≪010≫  ぼくはそういうセラピーにはまったく係わらなかったので、詳しいことはいまもって知らないのだが、グロフのトランスパーソナル心理療法はもともとはLSDを活用するものだったのが、日本はもちろんアメリカでも禁止になったのでホロトロピック・ブレスワークを重視するようにしたはずで、きっと伸ちゃんもそういう工夫をいろいろしていたのではないかと想像していた。

≪011≫  ただ、ときどき個人的に会っていた。セイゴオさん、今夜あいてる? ちょっと来ない? たいてい突然の電話で呼ばれるのである。ときにあやしいクスリが用意されていることもあった。ラジネーシのアシュラムから帰ってきたばかりの橙色の連中もいた。そういう一夜はことごとく印象にのこっている。

≪012≫  本書は、吉福伸逸の最後の本である。書いたのではない。自分で計画したのでもない。

≪013≫  あんなに翻訳は冴えていたのに、伸ちゃんは自分の考え方や見方を文章にするのは、なぜかあまりうまくなかった。へたくそなのではなく、とびすぎていた。あまりに柔らかく、あまりに内観的で超常的で、あまりに相互侵犯的だったからだろう。だから本書も4回にわたる講演の記録になっている。

≪014≫  ふだんはあまり言葉を使わないでセッションをしてきた伸ちゃんが、きっと周囲の勧めで心理療法ワークショップの哲学を残すために「ことば語り」を試みたのだと思う(誰かに頼まれたのかもしれない)。ぼくも伸ちゃんが試みてきたセッションを、どのように説明しているのか、この本で初めて知った。

≪015≫  タイトルの『世界の中にありながら、世界に属さない』はスーフィーの有名な言葉だ。とてもすばらしい。

≪016≫  いろいろなことを喋っているが、人間の本来をどう取り戻すことができるか、そのためにお手伝いをしようというのが吉福伸逸のセッションの眼目である。だから一番重視しているのは、クライアント(参加者)が「自分をあけわたす」という気持ちになれるかどうかということだ。伸ちゃんはそのことをみんなに説いていたようだ。

≪017≫  「自分をあけわたす」とは何かといえば、はっきりいえばエゴやアイデンティティを捨てることだろう。自分を自分で脱ぐことである。自分が自分を脱することだ。

≪018≫  けれどもエゴもアイデンティティも、幼年期このかたぐちゃぐちゃにわれわれの心身に絡まっていて、そこには親も兄弟姉妹も恋愛相手も友達も仕事も執拗に接続しているし、それらが大小さまざまなトラウマやデジャビュになっていて、かんたんにそれを切り離せるわけがない。また安易に切り離そうとするのもまちがいだ。

≪019≫  それなら、どうするか。いったん自己を破綻させるのである。皹(ひび)を入れるのだ。そのうえで新たなものを浮上させる。トランスパーソナルとはそのトランス(横超)をおこすためにトランジットしていく意識の光景を追跡できるかどうか、そこに積極的に介入することをいう。

≪020≫  それにしても、いったん破綻させると言っても、そんなこと、どうすればいいのか。カナヅチでは叩けない。自傷しても節食しても一人旅をしても、それだけでは効果は少ない。

≪021≫  伸ちゃんは「想起の川」(streams of reconnection)を渡ってみることを勧める。「想起の川」にはいろいろの印象がごちゃごちゃに詰まっている。それらは「気づいていない膨大な印象」(body of impression)として、われわれの心身に蟠っている。この印象の束を少しだけでも無意識のほうへもっていって、ちょっと動かすのだ。

≪022≫  けれども無意識の中で「想起の川」を動かすのは、これまた容易なことではない。瞑想をするとしても、ラクではない。瞑想は瞑想でちゃんとしたエクササイズをしたほうがいい。それより最初はむしろ、いろいろの助けや補助力を借りたほうがいい。伸ちゃんは本書の語りのなかで、その助けは「思考の力」(power of brain)、「感情の力」(power of emotion)、「存在の力」(power of being)というものだろうと言う。一種の“心のサブミッション”にあたる。

≪023≫  一つ目の「思考の力」は情報や知識や言語で動く。だからそれらをできるだけ動きやすくしていくようにする。囚われてはいけない。情報や知識や言語を自分が心地よく破綻できるように、動かさなくてはいけない(いわば編集するわけだ)。

≪024≫  二つ目の「感情の力」については、感情が自分から発しているとはかぎらないと思うことがとても大切だ。そもそも感情は自分のものだと思いこんでいることが多いけれど、そう考えてきたのがおかしかった。実際の「感情の綾」には、親子や夫婦や仕事の関係のこだわりが多くを占めている。だから「感情の力」が少しでも自由になるには、まずはそれらの縛られた関係から自由になりたいと切に思うべきなのだ。そして、これまでむりやり自分で被せてきた「自己正当化の軸」を、思い切ってゆるめていくようにする。

≪025≫  三つ目の「存在の力」とは何か。これはアイデンティティとして煮詰まってきすぎたものから「別れる」という力ことだ。あえて「別れ」をつくるのだ。母親と確執があるなら、はっきり母親と別れるのである。その別れが「自我を超える」(beyond ego)というきっかけになる。そのきっかけをおこす力、それが「存在の力」だ。

≪026≫  だから、ここでいう存在とは「個」や「個人」というものではない。これまでのペルソナ(パーソナリティ)でもないし、個別的に分別できるものでもない。いろいろ自分に付着してきたものを洗った存在だ。そうすれば、もっと歴史と未来の広がりをもった存在があらわれる。

≪027≫  ただし、この三つの力はバラバラにしてはいけない。たとえば「感情の力」がまだ自分の背景のほうにあるのなら、「思考の力」はうんと前景にもってきて活動させるといいし、「想起の川」とのやりとりも、その渡し場はどんなところでもヒューリスティック(発見的)になるように仕向けておくといい。

≪028≫  ということは、三つのサブミッションをアクチベイトするには、これらをそれぞれ動的にコーポレートしていく、もうひとつの作用が関与する必要があるということになる。それはきっと「なる力」(power of becoming)のようなものだ。「有る」ではなく「成る」である。伸ちゃんは亡くなる前に、この「なる力」のことを三つのサブミッションがともにグルーヴするような「パワー・オブ・ダンス」(power of dance)みたいなものだとも言ったようだ。このダンスの感じ、とてもよくわかる。

≪029≫  本書は、ざっとこんなふうに説明をした。禅の投企やスーフィーの変革思想やグロフの意識のトランスパーソナル化のプログラムに通じるところもあるが、もっと具体的で、わかりやすいところもある。

≪030≫  おそらく総じては、われわれの奥にひそむ「マトリクス」(母体性)に注意を促し、そのマトリクスが機能不全になっていることに自覚の船を漕がせ、できれば一気にマトリクスを修繕して、新たなマトリクスの存在的編集を成就させようとしているのだろうと思う。

≪031≫  とくに、すべてのプロセスで「移し替え」を強調しているところに説得力がある。この「移し替え」は究極的には「生まれ替わる」という実感をもつところにまでいくのだろう。そのために、いつもエマージェンス(emergence)に気づいたり、エマージェンスをおこしたりすることを推奨するのである。

≪032≫  以上のようなことを、ロジカルには説明していない。だから読んでいると紆余曲折を感じるところもが少なくないのだが、それがまことに伸ちゃんらしかった。

≪033≫  ところで、ぼくが最後に伸ちゃんと会ったのは『流体感覚』の対談のときだった。そのときはアルタード・ステーツ(alterd state of consciousness)をめぐる雑談をした。

≪034≫  アルタード・ステーツはチャールズ・タートが提案した用語だが、最初のころはトランスに入るときの意識状態をさしていた。その後、脳波研究がすすんで、覚醒時のベータ波が出るような意識状態とは異なるピークモメントを示すことがわかってきて、ジョン・C・リリー(207夜)やティモシー・リアリー(936夜)やババ・ラム・ダスがその研究にとりくんだ。グロフのトランスパーソナル心理学もアルタード・ステーツの掘り下げだ。最近は「ゾーン」と呼ばれる意識状態に近いとも言われている。

≪035≫  きっとぼくも伸ちゃんも、ずうっとこのアルタード・ステーツをめぐって思考実験をしたり、ワークショップをしてきたんだと思う。その方法は少し違っていて、ぼくはあくまで「言葉による開示」の編集的可能性を追求しているのだが、伸ちゃんは最初から「言葉を超えた開放」をめざしてきた。だからオフショアでサーフィンに凝れたのだろう。

≪036≫  スーフィーの物語には「死ぬ前に死ぬ」という話がいくつかある。イドリー・シャーが紹介していた。叡知は「死ぬ前に死ぬ」ことによってしか得られまいという話だ。伸ちゃんが好きな話だった。

≪01≫  思索というもの、何かが“ある”と思っているとたいして進まないことが少なくない。平和がある、美しい地球がある、純文学がある、市民というものがある、精神異常がある、自意識がある、民主主義がある。 

≪02≫  こんなふうに見ようとすると、では、その「あるもの」をここに取り出してみよということになって、躓く。こういうときは、いったん「そういうものはない」とか「そういうものではないはずだ」と考えたり、また「ないものは何か」という切り替えをしたほうがいい。 

≪03≫  否定神学とはそのような思索から生まれてきた。「神は○○である」というアプローチに限界と疑問が生じた末に、むしろ「神は○○ではない」という思索を重ねていくことをいう。 

≪04≫  イヴ・ボヌフォワは神学者ではなく詩人であるが、この否定神学を思索の方法として抱え持っている。そうやって生き、そうやって言葉を紡いできた。否定神学を重ねるイヴ・ボヌフォワは、だからこそいつも「ありそうもないこと」を考えている。 

≪05≫  しかし「ありそうもないこと」は今に始まった思索ではない。むしろ古来、「ありそうもないこと」のほうにこそ多くの沈思黙考が重ねられてきた。そこでイヴ・ボヌフォワは、「ありそうもないこと」を表したピタゴラス、フラ・アンジェリコ、カラヴァッジオ、ラシーヌ、ボードレール、バルテュス、シルヴィア・ビーチ、ジャコメッティを考える。 

≪06≫  イヴ・ボヌフォワが小川の水際に並べても光を失いそうもない言葉を選んで文章を綴っていることは、本書の翻訳のうまさにもあらわれているため、よく伝わってくる。それは久々に熟睡した朝に庭の緑を見るように、たいへん気分のよいものだ。 読書というもの、やはり三〇冊に一回はこのような眩しい光でまみれたい。 

≪07≫  しかしこの気分のよさは、イヴ・ボヌフォワがフランス語の属性を見切っているところにあるように思える。彼はフランス語をポール・ヴァレリーのように明晰な合理性だけで結晶したものとは見ていない。むしろフランス語は濁ったものであり、晦闇なるものに向かってつくられてしまったと見ていて、そこが「ありそうもないこと」の思索を明晰にさせたのである。 

≪08≫  これは、こんなところで突然に小林秀雄の例を持ち出すのも何だが、きっとある種の知識人たちにはわかりやすいだろうから言ってみると、小林においては初期にはまったく気がつけなかったことであり、しかし晩年にむかって存分に了解したあることに似ているのである。すなわち、言葉の本質というものはフランス語であれ日本語であれ、自身の外側に何かを投げ出すことによってしかその本質を他者に伝達できないということなのだ。  

≪09≫  どこかの特定の国語がやたらによく出来ているなどということは、そもそもありえない。国語は自分の中にひそむものだからこそ、外に投げ出してみるものなのだ。 

≪010≫  もう二つの投企が、ある。 ひとつはおそらく、イヴ・ボヌフォワが「ありそうもないこと」の例示を美術館や図書館に託せる投企性をもっていたということだろう。ようするに、いつだってアレキサンドリアのムセイオンか、さもなくばどんな場所にあってもいいような偶然のコレクションの一束が、たえず思索の発信を促すメタプログラムとして見えていたかということだ。この着想はぼくにも小さな頃から宿ってきて、それが樹木のように着実に成長してわが企画の夢につながってきたものとほぼ同じだから、すこぶる透明に伝わってくる。 

≪011≫  しかしもうひとつの投企性は、ぼくには薄弱だ。 それは、どのような文章を綴れば、それを読む人々が自身の思索をいくらでも深めたいと思えるように、その文章を綴る自身の位置をずらせるかという投企性である。どこからか? 自分のいる敷居から――。 

≪012≫  こういうことができる人がいることは、ぼくもよく知っている。こういうことというのは、不在を装えるかどうか、未知の敷居の色の上で遊べるかということである。そういうことをすでに多くの才能が表してきた。たとえばジャン・クーパー・ポウイス、たとえば牧野信一、たとえばエミール・シオラン、たとえば西行、たとえばミシェル・セール、たとえば矢内原伊作、たとえば須賀敦子、たとえば、たとえば、たとえば――。 

≪013≫  それはよくよく承知しているのだが、残念ながらぼくにはそのような文章が綴れてはいない。いやいや「存在の白紙」になるのなら簡単なのである。グルニエのように「存在の不幸」になるのなら、もっと簡単なのだ。そうではなく、自己の敷居の外にいて別の「ありそうもないこと」で相手の敷居を示せるように文章を淡々と綴ることが、やれそうでいて、難しい。イヴ・ボヌフォワにごく少しではあるけれど、嫉妬を感じるとしたら、そこなのだ。 

≪014≫  そういうわけで、本書は説明されることを避けている文章できっかり綴られたものだった。これは、はぐらかしなのではない。「ありそうもないこと」の存在学なのだ。 

≪015≫  少年や少女だったころを思い出してみるとよい。どこへ行きたいと思ったか。誰と会えるといいと思ったか。どんなふうに自分が思われればいいと思ったか。遠足で何がおこってほしいと思ったか。いつかどんな洋服を着たいと思ったか。諸君は、きっと「ありそうもないこと」だけを夢想していたはずなのだ。 

≪016≫  そういうことを時代的に集中的に表現していた時期もあった。たとえばパロックである。パロックについてはいくつもの説明が可能であるが、最も重要な特質は「ありそうもないこと」を物語や音楽として表現しようとしたことにあった。 

≪017≫  イヴ・ボヌフォワも本質的には20世紀の晩年を駆け抜けて、ありもしないバロック思考を否定神学した詩人だった。そんな本書を、このように紹介できたことは、今宵のぼくが余程ぼんやりできているからなのだろう。 

≪01≫ 拝啓。いよいよバッハを千夜千冊いたしますが、今夜のバッハは「まだまだバッハ」です。 けれども小生、バッハをなんとか書かないかぎり、モーツァルトもロマン・ロランもワグナーも、また、リヒテルやバレンボイムや弦楽奏者も、いささか採り上げにくいのです。 まずは今夜の「まだまだバッハ」から始めて「つぎつぎクラシック」のほうに 少しずつ臨んでいきたいと思います。敬具。

≪02≫  ポツダムといえば日本人にはポツダム宣言のことだろうが、クラシック音楽のファンやバッハのファンにとってはポツダム宮殿のことだ。 

≪03≫  そのとき、バッハはすでに60歳をこえていた。時代はゆっくりと後期バロックからロココに向かっていた。バッハは自身の来し方を見つめなおし、楽譜出版計画を練ったり、各地のオルガンの審査をしたりしながら、音楽というものの集大成はどうすればいいのかと考えていた。

≪04≫  おそらくバッハは時代から取り残されたという傷ついた感想をもっていたのだろうと思う。しかしそうは感じながら、あえて自身の構想に断乎としてとどまり、その達成を決意していたころだった。


≪05≫  そこへプロイセン大王フリードリヒから、ポツダム宮殿にお招きしたいという要請が来た。もっと前から内々の招待を受けていたのだが、プロイセンがシュレジエン戦争(オーストリア継承戦争)にかかわっていたため、なかなか実現できなかった招待だ。1745年のことである。 

≪06≫  5月7日、バッハが到着したという知らせを聞くと、大王は「皆の者、老バッハが参ったぞ」と叫び、興奮した面持ちで抱きすくめるように迎え、すぐさまジルバーマンの7台のピアノフォルテを示すと、「カントール(楽長)よ、これを全部弾いてくれ」と言った。バッハは1723年からライプツィヒの聖トマス教会の楽長だったのだ。楽長バッハは疲れもみせず、その1台ずつで即興演奏し、そこへ途中から大王がお題をかぶせてくると、たちまちそれを3声のフーガにしてみせた。 

≪07≫  その演奏はあまりにすばらしく、大王も廷臣たちもその家族たちも息を呑むほど驚嘆した。フリードリヒはさらに同じ主題を今度は6声のフーガで演奏するように命じた。バッハはそれを好きにアレンジして、またまたその場の宮廷貴族たちを夢のように堪能させたという。 

≪08≫  これらのことは当時の「ベルリン・ニュース」が刻明に報じている。1747年5月11日付である。 

≪09≫  ぼくはこのことを、ずっと前にヨハン・ニコラウス・フォルケルの『バッハの生涯と芸術』(岩波文庫)で知った。「陛下はフォルテ・ヴント・ピアノのところへ行かれ、何の準備もなしに、もったいなくも陛下みずから楽長バッハに対し、ひとつの主題を弾いてお聴かせになり、それをフーガに仕上げるように申し付けられた」。こんなふうだった。フォルケルはヨーロッパにおける音楽学の最初の創始者である。 

≪010≫  このポツダムのエピソードは、音楽史的には後日談のほうがもっと有名だ。ポツダム宮殿を辞してライプツィヒに戻ったバッハは、フリードリヒ大王が提示した主題にもとづく6声のフーガをあらためて作曲し、それに3声のフーガ、トリオ・ソナタ、さらには10曲のカノンを加えて贈ったのだ。 

≪011≫  これこそがバッハの生涯最晩期の名品『音楽の捧げ物』である。7月7日のことだった。綴じられた楽譜集の巻頭ページには、「王の命令により、主題その他がカノンの技法で解決される」とイタリア語で記されていた。この献辞には仕掛けがあった。“Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta”のイニシャルを追うと“ricercar”となって、「リチェルカーレ」(探求せよ)という言葉が浮かび上がるようになっていたのだ。リチェルカーレはイタリアに発祥していたフーガの古形式のことで、プレリュードとかファンタジアとも呼ばれた。 

≪012≫  バッハは10曲のカノンにひそかにリチェルカーレをこめたのである。世にいわゆる「謎カノン」と言われる。 カノンというのは模倣の技法のことだが、たんなるミミクリーではない。追行句が先行句を厳密に模倣する直行カノン、先行句の旋律が上行すれば追行句が下行する反対向き模倣をする反行カノンをはじめ、拡張カノン・縮小カノンなど、さまざまなカノンがある。バッハは先行句の旋律を示すだけとか、模倣音程のヒントだけとかを織り交ぜて、この「謎カノン」の謎解きをフリードリヒの宮廷に贈ったのである。 

≪013≫  こうしてバッハは最後の大作『フーガの技法』に向かっていった。『音楽の捧げ物』の続編に当たっていた。 フーガはカノンをより発展させ、洗練させた対位法の楽曲様式である。ソプラノ、アルト、テノール、バスの複声部が模倣され、反復され、追想される。もともとラテン語のフーガが「逃げる」(fugere)の意味をもっていた。フーガが遁走曲といわれるゆえんだ。 

≪014≫  代表的な進行は主として「提示部(主調)→嬉遊部→提示部(主調以外)→嬉遊部‥追迫部(主調)‥」というふうになっているのだが、主題(ドゥックス)と応答(コメス)にさまざまな変形がともない、ときに予断を許さない複雑な展開になる。嬉遊部(間奏部)は「ディヴェルティスマン」というもので、提示部と提示部のあいだで自由なイディオムの組み合わせの楕円運動を見せるところだ。 

≪015≫  バッハはこの『フーガの技法』を24曲にするつもりだったのだが、21曲目にとりくんでいたときに病いに倒れた。そのためか、未完でおわりそうだった21曲目に、バッハ自身をシンボリックに刻印する“音楽署名”を綴ってみせた。193小節目から始まる第3部の主題が「B-A-C-H」というふうに、すなわち「変ロ-イ-ハ-ロ」(シ♭-ラ-ド-シ)という4つの音でできているように、仕込んだのだ。 

≪016≫  いまさら言うまでもないだろうけれど、バッハは多分に数秘術に凝っていた。ぼくからすると偉大すぎるものの、やはり音楽的編集数寄者だったと言いたい。 

≪017≫  そのひとつがこの「BACH音型」として知られるもので、上に述べたようにBACHという自身のアルファベット綴りを音名と読み替えて、これを音型にしてフーガを作ってしまうというものだった。音型はフィグールのことをいう。フィギュアだ。  

≪018≫  この遊びはルネサンスの象徴変換趣向の流れをくむもので、手法自体はめずらしくない「音のアナグラム」のようなものだけれど、これを本気で作曲構造のアンカリング・ボタンにまでもっていったのがバッハなのだ。 

≪019≫  のみならず、このBACH音型は19世紀になって、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスがBACH音型の作曲をするというところまで継承され、さらに20世紀になってもシェーンベルクやウェーベルンが調性解体後の12音技法でも導入して、バッハの編集数寄がどんなものにもあてはまりうることを証明した。 

≪020≫  バッハは技巧派なのである。古代ギリシア以来の「アナロギア・ミメーシス・パロディア」に長けていたというべきなのだ。とくにパロディアだ。 

≪021≫  バッハのみならず、バロック音楽はパロディアを創造的技法として重視していた。1732年執筆のヴァルターの『音楽事典』にもすでにそのことが強調されている。このパロディアはたんなる諧謔ではなく、バロックの語源の「バロッコ」(歪んだ真珠)が暗示するような複焦点的な対比性にもとづいている。 

≪022≫  もともとバロック音楽はクレッシェンドやディミヌエンドよりも、非連続的なフォルテ(強奏)とピアノ(弱奏)の入れ替わりを好み、上下2つの外声部が太くて真ん中の内声部が薄くなるような、鼓の胴めく構造を重視した。 

≪023≫  けれども後期バロックのバッハのパロディアは、当初は既存の歌詞の別バージョンへの転用くらいから始まって、やがては自分が書いたカンタータの楽曲の部分的組み合わせに新たな楽章を加えていくという超編集的な大パロディアになったのである。その大曲のひとつが『クリスマス・オラトリオ』であろう。 

≪024≫  このあたりの、バッハがアナグラムやカバラなどの数秘術に凝っていたらしいことを含めて、たとえばルース・タトローの『バッハの暗号』(青土社)がやたらに詳しい推察研究をものしているけれど、ま、このへんの話はとりあえずご愛嬌だということにしておく。 

≪025≫  バロック音楽には、いくつかの特徴がある。特徴のひとつが外声部と内声部の「ひずみ」に生じていることは述べたとおりだが、低声部は「通奏低音」という特有の書法になっていて、チェンバロやオルガンやピアノの左手パートだけが記譜される。 

≪026≫  ルネサンス期の多声音楽では複数の声部は対等にある。ポリフォニーだ。バロック以降の古典主義では上声部や最上声部が主旋律として優位をもつ。これはホモフォニーである。ポピュラー音楽を含め、今日の聴衆が聞きなれているのはこのホモフォニーになっている。 

≪027≫  ところがバロックは、低声部がシステムの下敷を仕切っているにもかかわらず、外声部と内声部はあくまで対比的で、センター機能のないままの非中心的な自在度が発揮されていく。ポリフォニックであって、ホモフォニックな因子も秘めるのだ。こうなると、あたかも太陽光がプリズムの組み合わせによってさまざまに分光されるように、バロック音楽にはいくつものメビウスの帯が動くことになる。 

≪028≫  バッハが得意としたのは、世阿弥(118夜)の能楽論でいうなら「蘭位」にあたるような、こうしたバロックの爛熟だったのである。その複式夢幻能こそフーガだったのだ。 

≪029≫  ともかくも、バッハは最後にフーガを選んだのである。『フーガの技法』の途中をもって生涯を了えたのだ。1750年7月28日のことだ。諸君はどのように想像していたかはわからないが、まだ65歳だった。 

≪030≫  ふつう、この1750年をもってバロックの終焉という。数年後、スカルラッティ、ヘンデルが没し、1756年にモーツァルトが生まれた。日本では竹田出雲の『菅原伝授手習鑑』や『仮名手本忠臣蔵』が大当たりをとっていた。 

≪031≫  バッハについては、これまでいろいろ好き勝手が言われてきた。ロマン派のアマデウス・ホフマンは「バッハのどんな楽節にも魔物が出入りして棲んでいる」と言い、皮肉が好きなクロード・ドビュッシーは「バッハを口笛で吹く奴を聞いたことがない」と言った。 

≪032≫  ホフマンの言い分はいかにもホフマンらしいけれど、ぼくにはバッハのどこに魔物が出入りしているのか、聞く耳が不足しているせいもあって残念ながらわからない。バッハの音楽はぞんぶんに反時代的だったから、そこをホフマンは抉(えぐ)ってみせたのか。それともバロックそのものがたしかに幾つもの「歪曲」を狙って企図していたのだから、その隙間に出入りする魔物のことを言っているのか。 

≪033≫  ドビュッシーの言い分のほうは、なるほどドビュッシーらしいと頷くものがあるけれど、はたしてバッハは口笛にならないか。マタイの一節とは言わないが、誰だって『トッカータとフーガ』や『G線上のアリア』や『イギリス組曲』のさわりくらいなら、ヒューヒューできるはずだ。そういえば皆川達夫が立教大学にいた当時のバロック音楽についてのエッセイに、「前を歩いていた学生がバッハのメヌエットを口笛で吹いていた」と書いていたようにも憶う。 

≪034≫  口笛になるかどうかはともかく、バッハはこちらの付き合い次第でいくらでも柔らかくなる。ジャック・ルーシェが『プレイ・バッハ』(1959)をピアノトリオで弾いてみせてその先鞭をひらいたのだったろうが、そのあとは、バッハの柔らかさはけっこうなはやさで広まっていった。 

≪035≫  そのエンジンをふかし、さらにアクセルを踏んだのは、とりわけてはピアノのジョン・ルイスとビブラフォンのミルト・ジャクソンを擁したMJQの『ブルース・オン・バッハ』(1973)と、それから10年ほどあとのオイゲン・キケロの『ジャズ・バッハ』(1985)だろう。ぼくはルーシェの一部を高橋悠治さんのマンションの一室で、7~8分くらいだったけれどピアノ演奏してもらった。こういう時間は極上だ。 

≪036≫  バッハを好き勝手するというのは、それが許されるほどに、どんなバッハもバッハでありうるということだ。梶井基次郎(485夜)なら「心臓肥大のこの胸をバッハのフーガにゆするのだ」だし、安藤元雄なら「いずれは『フーガの技法』のような詩を書きたい」だった。 

≪037≫  むろん天上界にまで持ち上げるバッハのファンたちも演奏家たちも目白押しだ。いま思い出したが、バロック・ヴァイオリニストの渡邊慶子はどこかで、『シャコンヌ』は完璧な神さまのような曲ですと言っていた。 

≪038≫  シャコンヌは3拍子の緩やかな舞曲のことで、バロックでは「パッサカリア」とも言われた。バッハのシャコンヌの代表作品は『無伴奏ヴァイオリンのための3つのパルティータ』第2番だろう。先日、八雲茶寮での「蘭座」の冒頭で松本蘭ちゃんが弾いてくれた。 

≪042≫  ぼくも例外ではない。もやは40年くらい前のことになってしまうけれど、「遊」の特別号「存在と精神の系譜」上(いまは中公文庫『遊学』上に所収)のバッハの項目に、シェルターに持っていきたいアルバムがあるとしたら、バッハの『マタイ受難曲』『ブランデンブルク協奏曲』『平均律クラヴィーア曲集』と、バルトークと森進一とインド民族音楽集あたりだろうかと書いたことがあったのだ。 

≪043≫  なんとも若気のいたりの選曲だが、20~30曲を持っていくのなら、いまでもこれらを入れていくかもしれない。ちなみにその後の42歳の折りに胆嚢で2カ月入院したときは、ルネサンス宮廷音楽とマーラーばかりを聞いていた。家人が持ってきてくれた『ゴルトベルク変奏曲』のほうが治りがよかったかもしれない。 

≪044≫  ぼくのことはともかく、バッハにかこつけてこの手の発言や文章断片を集めたものがあるのなら、ぜひとも拾い読みしたいものである。 

≪045≫  さて、そうした言いっぷりのひとつに、19世紀末のピアニストのフェルッチョ・ブゾーニだったか、指揮者ハンス・フォン・ビューローの感想だったかの、「ベートーベンのソナタが新約聖書なら、バッハのそれは旧約聖書である」という、またとないほどの比較があった。 

≪046≫  なるほどと唸らせる比較だ。「それ」とは何かというと、『平均律クラヴィーア曲集』のことである。しばしばWTC(The Well-Tempered Clavier)と略されてきた。 

≪047≫  バッハ自身は「それ」について、こう書いていた。「これは平均律クラヴィーア曲集というもので、長3度と短3度をともに含むすべての全音と半音による前奏曲とフーガである」と。バッハの言う長3度(ド・レ・ミ)と短3度(レ・ミ・ファ)とは長調と短調のことをいう。 

≪048≫  WTCは2巻に分かれている。第1巻は1722年にケーテンで宮廷楽長をつとめていた時期に24曲を収めて発表され、第2巻はポツダム宮殿を訪れる5年ほど前の1742年前後に作曲された。  

≪049≫  いずれもぴったり24曲の構成で(バッハは24にこだわっていた)、すべての曲が前奏曲とフーガでできているのだが、第1巻・第2巻ともに、全24曲がすべて異なる調性をとるように仕組まれた。ハ長調に始まり、次いでハ短調、さらに嬰ハ長調、嬰ハ短調、ニ長調、ニ短調、変ホ長調、変ホ短調というふうに続き、最後がロ長調、ロ短調で結ばれるのだ。 

≪050≫  つまりは、なんということか、長短すべての調性がモーラされているわけだ。しかも前奏曲はかなり自由に、フーガは厳格だがかなり複雑な構造になっている。まさに性格の異なる前奏曲とフーガを対同させたアフォーダンスの中に組み立てたのだった。  

≪051≫  WTCの曲名にクラヴィーアと銘打たれているのは、この時期の楽器演奏の一般性を考慮してのことで、他意はない。 クラヴィーアは狭くはクラヴィコードやチェンバロのことではあるが(英語ではハープシコード、フランス語ではクラヴサン)、バッハのいうクラヴィーアは、オルガンとピアノを含む当時の有弦鍵盤楽器一般をさすとみたほうがいい。 

≪052≫  ただし、ここには「チェンバロからピアノへ」の鍵盤進化にひそむバロックの音楽独特の“継承”があった。 チェンバロなどの鍵盤楽器は2段になっている。ひとつの鍵盤はどんなに強く指で押しても弱音(ピアノ)しか鳴らないし、もうひとつの鍵盤は強音(フォルテ)しか鳴らない。そこで奏者は二つの鍵盤を使い分けて強と弱の対比をつくりだす。その中間のニュアンスは存在しない。これがバロックの楽奏音の「もと」だった。  

≪053≫  やがてピアノ(ピアノフォルテ)が案出されると、強弱自在に同一鍵盤上で弾きこなせるようになった。けれども、対比を演じるチェンバロ的な「バロックのもと」は“継承”されたのである。それゆえバッハはこの「チェンバロからピアノへ」という全プロセスを体現したバロック音楽者となりえたのだった。 

≪054≫  ついでながら史上初のピアノは1709年に出現した。バッハがリューベックに旅行したあと、ケーテンの楽長(カントール)になる前のこと、ヘンデルのイタリア旅行と『リナルド』ロンドン初演のあいだのことだ。当時はまだまだ重装備のもので、口の悪いヴォルテール(251夜)はすかさず「ボイラー業者の楽器」と皮肉ったものだった。 

≪055≫  というわけで、バッハはこのような鍵盤楽器全般のための基本プロトコルのすべてを、音楽の将来のためにWTCに封じこめたのである。ブゾーニが「WTCは旧約聖書だ」と言ったのは、まさにそこだったのだ。 すなわち、バッハのWTCはピアノを筆頭とするその後のすべての鍵盤楽器のためのアルス・マグナであり、アルス・コンビナトリアだったのである。それかあらぬかバッハは毎年、これらをずっと改訂しつづけた。 

≪056≫  そうなのだ、WTCは「鍵盤楽器の編集工学」だったのである。「守・破・離」のすべてのカリキュラムだったのだ。そのことは、楽譜が読めないぼくにはとても便利だった橋本絹代の『やわらかなバッハ』(春秋社)が、全ページをWTCにあてて、それぞれに楽譜を掲示しながら順次解説してみせてくれているのを読んで、ずいぶんに納得できたことだった。 

≪057≫  バッハの編集工学は、むろん鍵盤楽器に限られていたはずがない。たとえば引用自由度と互換可能性である。さきほどは『フーガの技法』を遺作のように紹介したが、実はもうひとつ、最晩年のバッハには『ロ短調ミサ曲』があって、こちらも書き継ぎながら死の直前近くに完成したものなのだが、この絶品は各楽章を既存のカンタータからの引用と転用で編集構成していただけでなく、これらの相互互換性すら仕込んでいたのである。 

≪058≫  これはもう、バッハが「音のハイパーテクスト」や「音のインターテクスチュアリティ」をめざしていたと言いたくなるほどなのだ。 

≪059≫  WTCについては、あのシェーンベルクが、バッハを“史上最初の12音音楽家”と名付け、「バッハはネーデルランドの対位法の秘術をもっていた。7つの音を互いに、その動きの中でおこるあらゆる響きかせひとつの協和音のように把握されるような位置をもたらす技術だ。バッハはそのことをもってWTCで12音すべてをあらわした」と書いていたのも、興味深い。 

≪060≫  一方、こんなこと言えたギリではないけれど、『平均律クラヴィーア曲集』の演奏については、ぼくはレオンハルトよりリヒテルである。最近聞いたバレンボイムがけっこうタフだったのにも驚いた。MJQ解散後のジョン・ルイスがWTCをアレンジした『プレリュードとフーガ』も好きだった。キース・ジャレットが第1巻をピアノで、第2巻をハープシコードで弾いていたことも思い出される。 

≪061≫  しかし、なんといってもぼくの王子様は、やっぱりグレン・グールド(980夜)に尽きるのである。 

≪062≫  ところで今夜、バッハをとりあげるについては、ずいぶんの時間をむだに費やした。バッハを書こうとすると、すぐ王子グールドのことを思い出すというのも実は困ったもので、その呪縛から長らく脱出できなかったという事情もある。周囲のスタッフたちに、何度、そろそろバッハを書くよと言ってきたものか。  

≪063≫  理由はともあれ、どんなふうにバッハのことを書こうか、どの本をとりあげようかと数年にわたってぐだぐだしていたのだが、本のほうは16冊くらいをあれこれ迷ったあげく、最も一般的な案内であるポール・デュ=ブーシェの『バッハ』にした。これならニュートラルだし、図版も多い。 

≪064≫  話のほうは、いつしかアイゼナッハとポツダムという二つの町のことから綴り始めようと決めた。ポツダムについてはさっき書いたのですっとした。では、アイゼナッハはどう書くか。ふつうに書こう。 

≪065≫  アイゼナッハはバッハが生まれた町である。ドイツ中部の小州で人口6000人の静かな町だ。「ドクメンタ」で有名になったカッセルからは、東南80キロくらいにある。少年バッハが11歳まで育った。 

≪066≫  それ以前のバッハの一族は、1580年頃にドイツ中部のチューリンゲンに住みついた。ドイツ語の「バッハ」は「小さな川」の意味だから、日本でいえば中川さん、小川さん、川辺さん、川添さん、北川さん、川村さんといった苗字が川めくように、この一帯はきっとそんな穏やかな水と緑の流れが目に映る地方光景をもっていたところだったのだろう。 

≪067≫  一族は先祖に音楽趣味の持ち主が多かったたげでなく、バッハ生存中の親族の31人の男子のうち、教会オルガニストや宮廷楽士や楽器職人など、実に28人が音楽系を誇っている。これは驚くべき“男ミューズの血族”というべきだが、少年バッハにとっては、なんといっても父親のヨハン・アンブロジウス・バッハがアイゼナッハの町楽師だったこと、父を失ってからはオルガニストの長兄ヨハン・クリストフに引き取られたことが大きい。  

≪068≫  そういうアイゼナッハの聖ゲオルグ教会で、1685年にヨハン・セバスチャン・バッハが洗礼を受けたのである。4人兄弟の末っ子だった。 

≪069≫  このアイゼナッハの教会はバッハが洗礼を受けたとともに、マルティン・ルターがローマ法王に激しい挑戦の言葉を叩きつけたところでもあった。アイゼナッハはプロテスタントの世界歴史遺産ともいうべき象徴なのだ。  

≪070≫  ここでルターのプロテスタンティズムについて多くを語る必要はないかもしれないが、少年バッハが通ったラテン学校がルターの通った学校であり、ルターが宗教改革を音楽的な頂上と同一視していたということは、丸山桂介の大著のバッハ論『神こそわが生』(春秋社)などが縷々解明しているように、バッハ音楽にとってもすこぶる枢軸的なことだったから、やはりバッハの聖書主義は身についたプロテスタンティズムから生まれたというべきなのである。  

≪071≫  かつてぼくは、ルターは宗教改革に巧みに音楽を利用しただけだろうというふうに思っていた。けれども、そういうことだけではなかったようだ。ルターがドイツ語の歌詞を持ち込み、調べがおぼえやすい賛美歌46曲を1524年に作成していたこと、そのうち23曲がドイツ語だったこと、ルター自身も『神はわがやぐら』などをみずから作詞していたこと、それらが「コラール」としてのちのちの賛美歌の基礎になったことを見ていくと、そしてなによりバッハがそういうコラールの作曲法をブクステフーデから学んでからコラールをとびきり重視していったことを思うと、やはりルターのラディカルな活動と存在は、その後の音楽史においても大きかったというべきだった。 

≪072≫  このことは、そのころリューベックのマリア教会で毎年開かれていたディートリッヒ・ブクステフーデの演奏会(アーベント・ムジーク)に、バッハが4週間の休暇をとって出掛け、その4倍の日々を費やしてコラールの作曲法を学んだことにも、よくあらわれている。 

≪073≫  教会にドイツ語コラールを導入したのはルターだけではなかった。ルターが最初でもなかった。ルターの改革に賛同したアルシュテットの牧師トマス・ミュンツァーが1523年に、ルターに一歩先んじて礼拝にドイツ語コラールを採り入れた。 

≪074≫  それまで教会の礼拝ではラテン語の聖歌がうたわれ、一般の信徒はそれを聞くしかなかったのである。そこへミュンツァーがドイツ語のコラールを入れた。ただしメロディはグレゴリオ聖歌の援用がほとんどで、そこでルターが当時の民謡や民衆歌のメロディの導入を思いついたのだ。これを1525年には、ヨハン・ヴァルターが4声のコラールとして新たに作曲するようになると、たちまち民衆の喝采を浴びた。   

≪075≫  それから100年近くたって、バッハがリューベックのブクステフーデから学んだのは、このようなコラールがさらに発展していたものだ。すでにコラールと教会カンタータも交ざりはじめていた。 

≪076≫  従来のモテットが合唱中心であるのに対して、カンタータは独唱者を登場させて目立たせ、さらに楽器パートの華やかな演奏を加えていったものをいう。そういうカンタータは17世紀のイタリアで流行していたものだった。 

≪077≫  ごくごくわかりやすくいえば、バッハ以前のドイツには、イタリアからソナタやコンチェルトやカンタータがもたらされ、フランスからは序曲や組曲の様式がもたらされ、ドイツがこれらを融合編集しようとしていた時期だったのだ。

≪078≫  いいかえればドイツのバロック音楽とは、これらの対立対比を自在に引きずり込み、これをアワセ・カサネ・キソわせて、みごとに融合していったものだったといえばいいだろう。 

≪079≫  かくて1739年、バッハはルターのドイツ・ミサと教理問答をテキストとして、満を持したようにオルガン集『クラヴィーア練習曲集』(第3部)を出版して、これをライプツィヒの見本市に出した。自信があったのだろう。ルターのプロテスタンティズムは、ここにヨハン・セバスチャン・バッハの完璧きわまる「神の音楽」となったのである。 

≪080≫  さて、では、最後になってこんなことを書くのもわざとらしいかもしれないが、いったいバッハは聖書から何を導いてきたのだろうか。いや、ふつうはこの答えは明白だ。言うまでもない、バッハは音楽を「神の賜物」(Donum Dei)にするために、聖書に帰依したわけだ。それ以外にはない。 

≪081≫  しかし、しかしながら、ぼくが今夜の最後に付け加えたいと思っていることは、もうちょっと別のことがバッハに錯綜していたのではないかということなのである。バッハは晩年に向かうにしたがって、そうした信仰の絶対化よりも、その相対化のように心が動いていったのではないかということだ。 

≪082≫  そうでないとしたら、自分の作曲技法は全知全能の神にそぐわないほどに、ヘルメティックなものになってきたと感じたか、あるいは、旧約聖書が新約聖書に変じていったように、自分が全力を傾注して組み立ててきた「構成された音楽」も新たな“約束”に向かってきたと感じたのであったろう。 

≪083≫  それというのも、バッハはその出発点からして、あえて技能的な生き方を選んで「反時代」を生き抜き、周囲の流行と評判にかかわりなく、むしろ自身の内外なる「傷つきやすさ」を深く心に湛えながら音楽の大編集にとりくんできたと思えるからだ。 

≪084≫  バッハが「傷つきやすさ」を湛えていただなんて意外だ、と思った諸君は、いささかバッハをとりまいていた時代の音楽社会事情にも人生事情にも疎すぎるかもしれない。 

≪085≫  9歳に母を失い、10歳で父を亡くした不幸、年上の姉さん女房マリア・バルバラが7人の子を生んだ後に死んだ不幸、再婚のアンナ・マグダレーナが13人の子をもうけながら、マリアの子と含めた20人の子のうち成人できたのが10人であったという不幸などはべつとしても、どうもバッハの周辺には不運と不評が付きまとっていた。 

≪086≫  いちばん気になるのは、11歳年長のラインハルト・カイザーが80曲以上のオペラ作品をつくってバッハ活躍の直前にドイツ・バロック・オペラの黄金期を示していたこと、4歳年長のゲオルグ・テレマンが40曲ほどのハンブルク・オペラを発表して時代の先頭を走っていたこと、同じ歳のヘンデルがハノーヴァ宮廷楽長となりながらも果敢にイギリスに渡って、早くも1711年にロンドンでオペラ『リナルド』などで喝采を浴びていたことだ。 

≪087≫  なかでもテレマンの存在は、いつもバッハを脅かした。これは有名なエピソードだが、バッハがライプツィヒの聖トマス教会の楽長になったのは、テレマンが就任要請を断ったためライプツィヒ市当局が「最高の楽長が迎えられないのなら、中くらいの音楽家でがまんするしかない」と判断したためだった。屈辱的だったろう。  

≪088≫  こういうことをトリヴィアルなエピソードとして片付けないほうがいい。バッハがどれくらいヴァルネラブルになっていたかはわからないが、バッハ生存中にバッハは一度も大バッハではなかったのだ。  

≪089≫  このことはバッハ没後の音楽社会が、クレッシェンドやディミヌエンドが大好きな古典主義のほうに傾いて、ついにメンデルスゾーンが“バッハ再発見”を言うまで、誰しもがバッハを大バッハとは思わなかった経緯からも、推測がつくことだろう。 

≪090≫ まあ、このあたりのことは今夜あれこれ申し出ることではないような気もしてきた。 冒頭のリードに書いておいたように、今夜のバッハは、ぼくのクラシック音楽についてのプレリュードであるからだ。できれば、この「まだまだバッハ」をバロック音楽の一部始終を通して「だんだんバッハ」に仕立てなおし、なんとかワグナーやドビュッシーやストラヴィンスキーを綴って「つぎつぎクラシック」を遊戈するころには、ふたたびバッハ回帰をしたいと思う。 

≪091≫  以上、白状いたしますと、何度もグレン・グールドの『ゴルトベルク変奏曲』を聞きながら(ときに演奏映像を眺めながら)、少しはキーボードの運指を柔らかくしながら、打ち上げたものでした。 

≪01≫  こういう、めったにお目にかかれない特別の書物をここで紹介するのは、編集工学のネタのひとつが割れてしまいかねないので遠慮したかったのだが、今夜はソニービル8階のソミドホールで「千夜千冊500冊記念」と銘打ってくれた舞台で話すことになっているので、そこに来てくれた人たちが銀座から夜遅くに自室に戻って「松岡は今夜は何を選んだのか」と思う瞬間のことを浮かべると、ついついその瞬間のためにサービスをする気になってしまった。 

≪02≫  いや、サービスになるかどうかは読者次第だ。少なくともぼくはこういう本に出会ったとたんに、実にたくさんのヒントを得てきたのである。 

≪03≫  最初に断っておくが、本書は、①フランス語の原書で読んだほうがいい。どうやら絶妙な語彙と綴りの編集術がつかわれている。次に、②本書が提供している編集術は偶然ではあるものの「ISIS編集学校」の編集稽古の一部とかなり重なっている。それから、③本書はあまりに普通の分類例をいくつも提供しているために、実は「奇妙な分類」だけが分類をこえる方法であって、それをこそ「思想」とか「創造」とかとよんできたのかとおもいかねないことを覚悟したほうがいい。 

≪04≫  著者はかなり風変わりな作風で知られる作家。 『物の時代』でルノドー賞を、『人生使用法』でメディシス賞をとったが、1982年に46歳で急死するまで書いた本は、どの一冊とてまったく似ていない。 似ていないというのは、これまでの文学の分類からすれば、エッセイの分類からすればということであって、本人の「方法の魂」がどのようにメタでつながっているかは本書を眺めてもらえばわかるはずである。  

≪05≫  しかし生前はペレックを実験的だ、前衛的だと騒いだ連中も、雀のような世評者たちと同様に、「こいつは文章機械にすぎないのではないか」とか「判断を読者にあずけているにすぎないコンピュータ」とかと内心で思っていたはずなのである。 

≪06≫  だいたいその出発点がジャン・デュヴィニヨやポール・ヴィヴィリオと組んだ「共通原因」というグループで、その次に取り組んだのが「潜在文学工房」という怪しい実験集団だったのだから、誤解されるのも当然だった。 

≪07≫  だからといって、ペレックはダダ・シュルレアリスム・アンチロマン・サイバーパンク・メタフィクションなどとはまったく別の位置にいる者で、むしろそれらとの交わりからではない新たな方法に気がついて、これを掘り下げていた「知覚-表現実験者」なのである。フランスにもし「編集工学」という呼び名がまかりとおっていたら、ただちに「編集工学者」と名指しできたろうにとおもうと、そこはいささか寂しいものがある。 

≪08≫  では、本書をどう説明するか。 説明しようがないほどに分解され、構成され、羅列され、組み上げられ、捨てられ、絞られ、並べ立てられて、しかも、それ以上の暗示は絶対にするまいという文章の意図さえ貫かれているので、しまった、ぼくはやはりこんなネタ本を採り上げるべきではなかったかもしれないと、もう悔やみはじめた。 

≪09≫  まあ、いまさらそんなことを躇っても遅い。ともかくペレックが本書に並べた順番に「方法」を指し示すことにする。だからといって、ぼくの指し示し方で何もわからなかったといって困らないように。本書はそういう「方法の学校」なのである。 

≪010≫  最初は「住むという動詞」をめぐる。ペレックはパリ5区のリネ街に住んでいたようだが、その言い方を次々に十数種類に言い替えてみせる。 

≪011≫  ついで仕事机の上にあるものを、どう列挙するか。灰皿があるといっても、それで机のどこに灰皿が何色の模様がどちらを向いていたかは、保証はされない。こういう言い方はぼくにそっくりで気味が悪いのだが、ペレックはそのような見方をすることを「私の経験に属する何物かを、離れたところから反省するレベルではなく、その出現のさなかに捉える努力」というふうに言う。 

≪012≫  それから「部屋についての見方」の分析に入り、次が「本を整理する技術と方法」についての覚書になる。ついで「モード」を斜めに見るための12個の視点の提供に入る。その11個目の視点は『枕草子』の引用だ。ペレックは『枕草子』の大ファンなのである。どうだろうか、いかにもネタ本めいているだろう! 

≪013≫  章が代わると、「策略」「痕跡」「下書き」「書きかけ」「間」「亀裂」「停止」について、酔い・沈黙・治療・錯乱・露出などを身体的なフィルターにして、語る。これはわれわれがいったいどのように「単語の目録」「イメージの辞書」「ルールの群」をもっているかというところにあたる。 

≪014≫  ここで、いよいよ選出と列挙である。古い歴史の教科書を一冊とりだして、「見出し」のすべてを書き出し、「イタリック体」および「ゴシック体」になっている言葉をそれぞれすべて書き出し、口絵の解説の文章を書き出す。ただ、それだけ。 

≪015≫  それだけなのだが、次にペレックが提供するのは、なんと18ページにおよぶ「料理カード81枚」なのだ。これは舌平目、兎肉、仔牛だけに関する料理カードの引き写しで、舌平目のノワイー酒かけ・舌平目のすいば風味・舌平目のアスパラガス添え・ブリッュセル風舌平目・カフェドパリ風舌平目・舌平目のストラスブルグ風煮込み・古風舌平目などのレシピを、カラー写真も分量表示もなく、そのテキストを読んでいるだけでクラクラしてくる。 

≪016≫  ここでお手上げの読者は編集工学にはとうてい及べない。レシピ編集術など、序の口なのだ。 この選出と列挙の山をこえた者は、次の「読むこと・書くこと」に入っていける。しかし、次のことをよく注意して読める者でなければならない。 

≪017≫  これからペレックが注目することは、たいしたものではないことはわかっているが、実は緊急の領域であり、しかもよくよく注意してみれば、多くのことが見出されるかもしれないと予感していたはずの領域であって、かつ、しかしながらありふれたものであり、暗黙のうちに見過ごされ、考慮にいれられず、それ自体で成り立つものである。 

≪018≫  しかし、もしわれわれがそれらを記述しなくてもいいんだなどと思ったとしたら、それらはわれわれを記述し、社会学者がよくかれらの材料としたがる制度や思想の多くよりも、ずっと鋭い「あらわれ」でもって、身体そのものの細部の歴史に反映し、とどのつまりは仕草と姿勢をかたちづくる文化や、精神の動きと同様の、身体の動きをつくりあげるような、そういうことに関心をもてるかどうかということなのである。 ふーっ。 

≪019≫  ペレックの言い分を聞いてみよう。こう書いている。 「語りたいのは、ソクラテスの問答法ではなく、頭のなかに浮かんだ霊感ではなく、書くことであり、テクストの織物であり、記載であり、痕跡であり、語本来の意味であり、細かい仕事であり、文字を空間に組織することであり、その道具のペン、筆、タイプライターであり、それを支えるもの、ヴァルモンからトゥールヴェル僧院長婦人へ「私がいま手紙を書いているこの机も、はじめてその用途に使っていますが、私にとっては愛の祭壇となります」であり、その規則の句読点、改行、長い句等々であり、その環境、書いている書き手、場所、リズム、喫茶店で書く人、夜仕事をする人、明け方仕事をする人、日曜日に仕事をする人等々である。  

≪020≫  なすに値する仕事は、その生産の遠心的様相、すなわち読者によるテクスト援助であるように思われる」。 こうしてペレックは、文章技術が実は「読む技術」にほかならないということのほうへ、読むときの声、唇、姿勢が文章技術の生産的で遠心的な様相そのものであることのほうへ、さらにはそのとき「膝」がどうだったかということすら思いおこせるほうへ、注意のカーソルを動かしていく。 そこには「腹が軽くなることとテクストのあいだには、深い関係が樹立される」という宣告さえあらわれる。 

≪021≫  これでだいたい見当がついたとおもうが、ペレックの編集術はまだ入口であるらしく、ここから「眼鏡」から想起できる考えられるかぎりの非想像的な記述をはじめ、そのうえでやっと本書の標題となった「考える/分類する」に突入する。 

≪022≫  が、これを説明するのは野暮である。また、諸君が本書を実際に手にとってみたときの最終的なおたのしみを奪うことにもなる。 そこで、ここにはヘッドラインだけを列挙することにする。こういうものだ。アルファベットの順がとうていふつうじゃないことに注意。 

≪023≫ 
(D)目次→(A)方法→(N)問い→(S)語彙の練習→(U)パズルのような世界→(R)ユートピア→(E)海底二万海里→(L)理性と思考→(I)エスキモー→(G)万国博→(T)アルファベット→(C)分類→(O)階層序列→(P)私がどう分類するか→(F)ボルヘスと中国人→(H)清少納言→(V)列挙のえもいわれぬ楽しみ→(M)記録の本→(X)下部と下流→(Q)辞書→(B)ジャン・タルディユー→(J)私はどう考えるか→(K)警句→(W)交差網の網目のなかで→(Y)雑。 

≪024≫  如何かな。武者ぶるいしたこととおもう。 しかしペレックはこの先を構築しきれなかった。彼はこのゲラに校正を入れた数週間後に死んでしまった。 残されたジョルジュ・ペレックの奇妙なノートやメモや断片や数々の道具は、いまはジョルジュ・ペレック協会が整理しているという。ぼくとしては、1980年代のパリにいて、ペレックを相手にフランス語が操れなかったことが返すがえすも残念である。なぜならペレックの未来は編集工学にすでに開花していたからだ。 

≪01≫  ジャン・ジュネは、こっそり隠していたのに獄房で見つかってしまったワセリン・チューブのことを『泥棒日記』の冒頭ほどなくとりあげて、
「これほどちっぽけで最低の代物が警察に立ち向かうことができる。
これがそこにあるというだけで、世界中の警察を苛立たせることができる。
こんなものが嘲けられ、憎まれ、真っ青になって口もきけないほどの怒りを招くのだ」
と書いた。 

≪01≫  ジャン・ジュネは、こっそり隠していたのに獄房で見つかってしまったワセリン・チューブのことを『泥棒日記』の冒頭ほどなくとりあげて、「これほどちっぽけで最低の代物が警察に立ち向かうことができる。これがそこにあるというだけで、世界中の警察を苛立たせることができる。こんなものが嘲けられ、憎まれ、真っ青になって口もきけないほどの怒りを招くのだ」と書いた。 

≪02≫  ジュネは、「ちょっとした代物」が世間の常識に破壊的な意味をもたらすことに気がついたのだ。ワセリン・チューブは刑務所の規律(コンプライアンス)を破ったのではなく、世間の常識に刃向かったのだ。だからジュネは「あの馬鹿げた代物を否認するくらいなら、人の血を流すほうがましだ」と、続けて書いた。ジュネは何に気づいたのか。「社会がもっている受容と拒絶の関係の距離」に気がつき、「何をすれば反抗的にみえるのか」ということを知ったのだ。世の中は逸脱が大の苦手で、日々の「アノマリーの誇張」を嫌うということを見抜いた。 

≪03≫  ジュネの「最低の代物」はその後、安全ピン、革バンド、前髪の盛り上がり、チェーン・アクセサリー、先の尖った靴、派手なジャンパー、爆音をたてるオートバイというふうに継承されていった。五〇年代ロンドン・テッズを筆頭に、「最低の代物」が流行文化として唸りをあげていったのだ。 

≪04≫  本書はこのあたりに「サブカルチャーの発動」があったとみなして、そこに「社会が容認しにくいスタイルの躍如」が始まったというふうに捉えた。社会が容認しないことには暴行も犯罪も騒音もあるけれど、それがスタイルであっても容認できないとき、そこにサブカルズの胎動が窺えるのである。ロラン・バルトは現代社会はおおむねプチブルでできていると見て、「プチブルは他者を想像できない。他者はプチブルの存在を脅かすスキャンダルなのである」と説明した。 

≪05≫  こうして一九五〇年代半ばから六〇年代にかけて「二重の意味をもつ日用品でつくりあげたスタイル」の中にサブカルチャーが起爆し、ついには七〇年代半ばのセックス・ピストルズに向かうパンク・ファッションの連打の乱れ咲きに及んだのである。 

≪06≫  多少は時代の順を追ったほうがいいだろうからそうするが、最初に有名になったサブカルチャー・スタイルは一九五〇年代初期、ロンドンのセヴィル・ストリート(「背広」の語源となった、あのセヴィル)などに屯した労働青年たちのあいだから生まれたテディボーイ(teddy boys)だった。本人たちは好んで「テッズ」(Teds)と自称した。テディとは英国王エドワード七世の愛称で、テッズたちは国王が好んだエドワーディアン・ルック(細身のシルエットに丈の長いジャケット)に半ば憧れ、半ばは揶ってアレンジを遊んだ。 

≪07≫  髪をリーゼントにし(英国ではクイッフという)、後ろはダックテイルにまとめ、長いドレープジャケットを羽織って、白いシャツにスリムジム・タイ(細いネクタイ)を締め、細身のパンツに分厚いラバーソウル(厚底靴)でダウンタウンを闊歩してみせた。すぐさま不良少年たちがこれをまねて、ここから「サブカル的逸脱」が次々に出撃する。刺青をちらつかせてチェーンをぶらさげ、ナイフを持ち、ビートの効いたツイストを踊りまくった。女の子たちもブリルクリーム(ヘアクリーム)をたっぷりつけたリーゼントヘアに、ベルト付きのワンピース(広がるフレアスカートやパラシュートスカート)で対抗した。 

≪08≫  不良時代のビートルズはこのテッズが原点だった。のちにポール・マッカートニーが《テディボーイ》を、日本ではキャロルの矢沢永吉やジョニー大倉が《涙のテディボーイ》を歌ったことからも、テッズが六〇年代のロックンロール世代をまるごと席巻していたことが伝わる。ごくごく最近のことだが、ディオールのマリア・グラツィア・キウリが二〇一九‐二〇の秋冬コレクションのコンセプトに、なんと「テディ・ガール」を採り入れた。いささか上品すぎてはいたが、いまだテッズは永遠なのである。 

≪09≫  テッズからモッズ(Mods)が派生した。モッズは“Modernism or sometimes modism”の略で、やはりロンドン周辺からあらわれたスタイルだ。髪を下ろしたモッズカット、ぴったりした三つボタンのスーツ、ミリタリーパーカー(モッズコート)、やたらにミラーやライトを貼り付けたランブレッタやベスパのスクーターが好まれた。 

≪010≫  モッズは深夜営業のクラブに集まり、際立ったファッションと当時勃興していたロッカーズ(ロックンロール派)に対抗した音楽を選んだ。レアな黒人音楽、R&B、ジャマイカ育ちのスカ(ska)、ソウルミュージックなどがお気にいりだ。ザ・フー、スモール・フェイセス、キンクスが登場した。 

≪011≫  ロッカーズのほうは革ジャンに白いペイントのロゴ、ニットのセーター、香港製ジーンズ、ポマードでなでつけた髪形を好み、スクーターではなく単気筒や二気筒エンジンのトライアンフやノートンのバイクで疾駆した。かれらの動向はクリフ・リチャードやシャドウズらのブリティッシュ・ロックンロール、ジーン・ビンセント、エディ・コクランのロカビリーを流行させた。 

≪012≫  モッズはこうしたロッカーズとは切り込むように対立する。その対立の光景はアンソニー・バージェスの一九六二年の小説『時計じかけのオレンジ』に描かれ、スタンリー・キューブリックの映画(一九七一)になり、さらにフランク・ロッダムによって《さらば青春の光》として映画化された(一九七九)。原題は《四重人格》(Quadrophenia)というのだが、これはザ・フーのアルバム・タイトルだった。 

≪013≫  いまや有名な話だが、ビートルズはデビューにあたってはテッズを隠してモッズ・ファッションを選択した。それが当たった。このスタイルがビートルズをしてロックンロールやロカビリーから一線を画させた。モッズのほうは、六〇年代後期には少し変質して、ドクターマーチンのブーツ、ベン・シャーマンのシャツを身につけて、やたらにスキンヘッズを好むようになっていく。 

≪014≫  問題はコノテーションとブリコラージュなのである。内示作用力と修繕ファッションだ。テッズもモッズもロッカーズもそこに賭けていた。 

≪015≫  耳たぶに安全ピンをするか、先の尖った靴を履くか、低俗ミニスカートにスティレットヒールを合わせるか、プレスリーにするかスカを選ぶかジャズを鳴らしておくか、そこが命がけの問題なのだ。 

≪016≫  このきわどい選択はジュネの一本のワセリン・チューブに匹敵した。スーザン・ソンタグはそのきわどい選択眼を「反解釈」(against interpretation)とみなし、スタン・コーエンはそれを「潜在的脅威の露出」ならびに「路地裏の悪魔の出現」と捉え、ウンベルト・エーコは「記号のゲリラ戦」と言った。知識人たちもサブカルを放置しておくわけにはいかなくなった。 

≪017≫  察してもらえたかもしれないが、テッズ、モッズ、ロッカーズは、わが青春期とは数年のズレで同時進行していたサブカルチャーだった。 

≪018≫  ぼくが自分の中のティーンエイジの沸々とした渦潮に戸惑っていたとき、海の向こうでは突如としてビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンスたちのロカビリー(rockabilly)が熱狂していた。一九五四年に始まった数年間の感染的熱狂だ。プレスリーの徴兵、エディ・コクランの事故死がロカビリーの幕を引いた。ウッドギターがエレキに取って代わっていった。日本では少し遅れて日劇のウェスタン・カーニバルが大ブレイクして、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が体を反っていた。母親は「なんであんなにくねくねして歌うんやろ」と笑っていた。 

≪019≫  九段高校に入って親友が三人できた。一人はヌーヴェル・バーグのオタクで、一人は北一輝の心酔者で、一人はプレスリーのファンだった。 

≪020≫  高校を出る間際、ビートルズがモッズルックで登場してきた。早稲田大学で素描座という劇団に入ると、数日後に「明日はスーツと革靴で来いよ」と言われ、そういう恰好をしていくと新宿の路上に連れていかれて、「よし、ここでやろう」と言うもまもなくポータブルプレイヤーの音に合わせて路上ツイストを踊らされた。翌日は下駄で日韓闘争のためにデモに出掛けた。 

≪021≫  当時の早稲田にはありとあらゆるサブカルチャーが押し寄せてきていた。そこは電子音楽からフルクサスまで、暗黒舞踏からアンチテアトルまでごっちゃまぜに彩られていた。ぼくはスタイルとしてはロックよりもジャズかブルースを、ヒッピーよりも革命的ロマン主義かアナーキズムを好んだのだが、まわりにはなぜか実存主義者やフォークシンガーたちがふえ、ぼくを取り込もうとしていた。早稲田の学生たちはアメリカが仕掛けたベトナム戦争にうんざりしていた。 

≪022≫  そんなとき斎藤チヤ子に惚れた。気がつくと彼女はロンドンに行ってしまっていた。そしてそのころからロンドンには何があるのか、気になった。それから父が死に、その借財を返すための日々が数年続く。それがおわると、以上の青春グラフィティは一九七一年創刊の「遊」でさまざまなアレンジのもとに蘇ることになる。この雑誌はキング・クリムゾンの《宮殿》を池袋の木造の二階の事務所で聴きながら準備した。三年後、ロバート・フリップと対談した。 

≪023≫  オイルショックとドルショックに見舞われた七〇年代はピンク・フロイドの《原子心母》で明けた。プログレ(プログレッシブ・ロック)が唸るような全盛期を迎えていた。そこへマーク・ボランのTレックス、デヴィッド・ボウイ、ニューヨーク・ドールズらのグラムロックが官能的旋風をおこし、ラモーンズ、イギー・ポップ、リチャード・ヘルが際立った。ボウイの《ジーン・ジニー》はジャン・ジュネをもじったタイトルだったのである。 

≪024≫  七〇年代が半ばにさしかかるころ、ナルシズムとニヒリズムとミニマリズムが混濁していった。ニューヨークとロンドンにパンク・サブカルチャーが魔界から身を翻すようにあらわれた。音楽、文学、イデオロギー、禅、ぶっとびファッション、アート、ダンス、映像、写真、ドラッグ、ゴシップをたちまち巻き込んで、パンクは一挙に時代のスタイルを席巻した。 

≪025≫  パンク(punk)はもともとは青二才や役立たずの意味をもつ俗語だったが、あっというまにバズワードになった。日本ではやっとウィリアム・バロウズがさかんに読まれるようになっていた。ぼくが新宿のツバキハウスや六本木のストークビルに出入りしていた時期だ。音楽プロデューサーの間章、コミュニケーターの木幡和枝、写真家の横須賀功光、ダンサーの田中泯、「ロック・マガジン」の阿木譲、前衛音楽の高橋悠治や小杉武久と親しくなった。 

≪026≫  こうして一九七六年、セックス・ピストルズが悪夢のように爆発したのである。マルコム・マクラーレンが、キングスロードで開いていたブティック「SEX」の常連たちにバンドを組ませた。スティーヴ・ジョーンズ、グレン・マトロック、ジョニー・ロットンが加わり、《アナーキー・イン・ザ・UK》《アイワナ・ビー・ミー》がパンクした。反体制、アナーキズム、啓示、ドラッグ、自由、絶望が安全ピンで束ねられて渾然一体となっていた。そこに「SEX」をマクラーレンと組んでプロデュースしていたヴィヴィアン・ウェストウッドのパンク・ファッションが加わった。ヴィヴィアンは店名を「セディショナリーズ」に変え、ブティックを「ワールズ・エンド」(世界ノ終ワリ)に変えると“パンク・ファッションの女王”として君臨していった。最近刊行されたばかりのヴィヴィアンの『自伝』(DU BOOKS)は実におもしろい。 

≪027≫  ニューヨークではパティ・スミスがパンクした。パティはランボーとバロウズの言葉をカットアップしてロック・ポエトリーにし、ロバート・メイプルソープのモノクロ写真とともに男シャツのままストリート・パンクの風をおこしていた。痺れた。 

≪028≫  本書は、パンク・サブカルチャーを中心に社会を評論した一冊だ。著者のディック・ヘブディジは、一九六四年にバーミンガム大学で現代文化研究センター(CCCS)をジャマイカ出身のスチュアート・ホールと立ち上げた社会文化研究者で、いわゆる「カルチュラル・スタディーズ」(cultural studies)の提案者である。 

≪029≫  ヘブディジやホールはレイモンド・ウィリアムズのマルクス主義的な社会文化論の衣鉢を継いでいるため、その議論のハコビはどこか片寄っていて、ぼくにはどうしてもイマイチな印象があるのだが(それがカルスタの特徴でもあるが)、サブカルチャーやスタイルを正面からとりあげた功績はめざましく、とくに本書はテッズからパンクに及ぶスタイルの変動を追って、気を吐いた。ダブ、レゲエ、スカなどの西インド諸島のステディ・パルスな音楽文化がどのようにパンク・サブカルチャーと交錯していったかということにも、かなり目を配っている。 

≪030≫  けれども本書はサブカルチャーにこだわっているわりには、映画演出のスタイルと手法、さまざまな文芸的な実験スタイル、アートシーンにおけるスタイルとアレンジ、ビートニク・ムーブメントの変容、政治思想の切片化の事情などをほとんど扱っていない。またルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドやプログレッシブ・ロックの動向、グラムロックやヘヴィメタルやドラッグ・カルチャーの影響にも言及していない。べつだんそれでもいいのだが、たとえばパンク・ムーブメントの周辺にノーザン・ソウルのようなかなり秘密性の強いサブカルが出入りしていたこと、七〇年代末になるとパンクがツートーン、ニューウェーブ、ノーウェーブに分かれて裾野を広げていって、その後はふたたびゾンビのように勢いを盛り返し、ハードコア・パンクやストリート・パンクが再燃したことなど、今日のサブカルチャーにつながるブリッジを拾えないままになっているのは、やはりもったいない。 

≪031≫  サブカル・パンクは社会の潜在的欲望の発露である。それが当初は貧困すれすれ、差別ぎりぎり、堕落きわきわであることが、つねに奔放なファッションとスタイルを発動させた。 

≪032≫  それは世の中に対してはたいてい「場ちがい」「用途ちがい」という矛盾を突き付ける。だからそれらはいつだって社会の「ノイズ」(雑音)として切り捨てられる宿命をもっているのだが、だからこそそのノイズはジュネのワセリン・チューブのような、ちっぽけではあるが、許しがたい主張力をもった開口部になりえたのだった。 

≪033≫  ぼくが「遊」を編集制作していたときは、たいていこうした開口部を求めた多くのカジュアルズが集まってきていた。そこでついでながら、日本のパンク・ムーブメントにも、少しだけふれておきたいと思う。日本は当然のことながらテディボーイ、モッズ、ロッカーズ、スキンヘッド、パンクというふうな順は追っていない。 

≪034≫  ごくごくおおざっぱに紹介するが、七〇年前後にブルースロックをベースにして差別用語を連発していた村八分、過激なメッセージを盛っていたパンタ(中村治雄)らの頭脳警察、ミッキー・カーチスがプロデュースした外道などが先行していたところへ、セックス・ピストルズの影響で一気にジャパニーズパンク・バンドが登場していったのだろうと思う。 

≪035≫  LIZARD、フリクション、ヒゴヒロシのミラーズ、東京ロッカーズを結成したミスター・カイトやS‐KEN、銀ジャンで鳴らしたヒカゲをボーカルとしたTHE STAR CLUB、大阪の町田町蔵(町田康)率いるINU、めんたいロックと呼ばれた福岡のバンド群、シーナ&ロケッツらが目立った。 

≪036≫  吉祥寺の「マイナー」で活躍していた灰野敬二、工藤冬里らのノイズ系、タコの山崎春美、じゃがたらは思い切ったパフォーマンスを見せ、アナーキー、スターリンが「反文化」の真骨頂を発揮していた。春美はいつしか「遊」の編集部に出入りしていた。その「遊」は一九八二年に休刊(結局は終刊)するのだが、それに代わって「宝島」が登壇していった。このへんでインディーズが立ち現れていく。ラフィン・ノーズ、ウィラード、有頂天が御三家である。ここからパンク・ムーブメントはテクノポップやニューウェーブとまじっていった。  

≪037≫  八〇年代後半に入ると、甲本ヒロトや真島昌利のブルーハーツなどがメジャー化して、その後はパンクはポップスの中にまみれていったとおぼしい。それでも尖っていたのは宮沢章夫、いとうせいこう、竹中直人らのラジカル・ガジベリビンバ・システムだったろうか。ちなみにぼくは八〇年代前半をEP‐4の佐藤薫ともっぱら遊んで、ニューウェーブなメディア・スタイル談義に耽っていた。すべて、うたかたの日々になってしまった。 

方針がたいへん明快な本だった。

物語と対概念で学びなさい。

比喩と連想と冗談をこそ、学習理論のバネとせよ。

韻やリズムやパターンの学習を促しなさい。

このように著者のイーガンは

子供のための15にわたる学習法則を仮説する。

(実は、大人たちにもあてはまる)

これはシュタイナーやヴィゴツキーの継承であり、

編集的学習理論ともほぼ合致するものだ。

そろそろぼくも、大人向けばかりでなくて、

明日の少年少女たちのために

想像の翼をつける仕事をしなくちゃね。 

≪02≫  著者のキエラン・イーガンはアイルランド出身のカナダの教育学者で、もっぱら子供の想像力と教育の関係を研究してきた。ぼくは十五年ほど前にNHKの「世界の教育リテラシー」特集にかかわり、そのときドイツやカナダの教育事情のあれこれを見聞したことがあるのだが、そのなかで北米の児童環境や教育心理学状況とともにイーガンらを知った。 

≪03≫  イーガンは一九九一年に「物語としての教育」の構想を発表して、グロマイヤー教育賞を受賞した。この賞は実業家のチャールズ・グロマイヤーの基金による京都賞(稲盛賞)のようなもので、音楽賞・教育賞・宗教賞・心理学賞などがある。本人はぼくより二歳ほど年上で、自宅に日本庭園をつくるほどの日本贔びいき屓でもあるらしい。 

≪04≫  本書の邦題『想像力を触発する教育』は刺激的である。触発がいい。原題の「想像力を触発する」は“Imaginative Approach”である。クリエイティブ・アプローチではなくて、イマジナティブ・アプローチ。本書は創造力(creation)についての本ではなくて、想像力(imagination)についての本で、児童にひそむ想像力をいっぱいに引き出そうというものなのである。 

≪05≫  創造力をのばす教育を謳う本はけっこう多く、巷間にはびこっている。ぼくが見るかぎりろくなものがない。インチキ本やトンデモ本も多い。とくにビジネスマン向けは最悪に近い。なぜクリエイティブ本にばかり人気が集まるのかわからないが、ぼくなら、表現者はまずもってイマジナティブ・アプローチのほうを身につけたほうがいいと断言したい。そのほうがクリエイティビティも伸びやすい。 

≪06≫  ところが残念なことに、想像力と学習を結び付けた研究は意外に少ない。子供たちはもともとが「夢見る夢子ちゃん」たちなので、想像や空想に溺れすぎている、そこから脱出させたほうがいいと思われてきたからだ。それがまちがいなのだ。 

≪07≫  それでもすぐれた先例はある。すぐにルドルフ・シュタイナーのヴァルドルフ教育や、“心理学のモーツァルト”と言われた夭折の天才レフ・ヴィゴツキーの模倣と協同を重視した教育観が思い浮かぶ。想像力をいかした学習仮説は群を抜いていた。二人がそもそも独創的で、イマジナティブな教育者だったのである。経緯は詳らかにしないけれど、おそらくイーガンもシュタイナーやヴィゴツキーの影響を受けたと思われる。 

≪08≫  本書はイーガンの研究成果のあらかたの骨格を示したもので、教育者用に組み立てられている。したがって“指導要領”めいたことについては言わずもがなのところが少なくないのだが、次の十五の視軸で子供たちに「想像力に富む学習の触発」を試みているのが、断然にすばらしい。こういうものだ。 

≪010≫  イーガンは、「 」内のそれぞれのアイテムすべてをヴィゴツキーに従って「認知的道具」(cognitive tool)と捉えている。「物語」も「ごっこ遊び」も「コレクション」も、想像力を触発するための認知ツールなのだ。この言い方も、とてもいい。 

≪011≫  一五の認知的道具は、もっとべつのアイテム化もできようし、もっとふやすこともできようが、絞り込みもよく、基本的にはぼくが考えてきた編集工学的な技法論ともかなり合致する。とくに「物語」「比喩」「対概念」「韻」「例外性」「コレクション」、および「知を人間という源にもとづかせる見方」は、ぜひとも子供のうちから養わせてあげたいものだ。こういう道具を臆せず提案したイーガンに敬意を表したい。これらは成人の学習にとっても必須なのである。大人こそ想像力が麻痺している。  

≪012≫  「ねえ、松岡さん、地球上に残されている最後の資源は想像力ですよ、そう思いませんか」(『遊学の話』工作舎)。ロンドン郊外の家でJ・G・バラードがこう語って以来、ぼくの仕事の半分近くが、それならその想像力をどのように解発するといいのか、そのために何を準備すればいいのかというふうになっていった。 

≪013≫  いろいろ学んだことは多かったが、結局、ぼくは準備のすべてに編集的な作業を通すことにした。そしてその後は、想像力解発の編集仕事のうちの、そのまた半分を「イシス編集学校」に注ぐことにした。想像力の多くのプロセスは編集的であることにはっきり気がついたからだ。 

≪014≫  かくして「守」コースには三八番におよぶお題をつくり(最初は五〇番以上だった)、「破」コースには文章術や物語編集術や企画術を仕込み、これらをネット上の教室で師範代たちから指南を受けられるようにした。教室は一〇人ずつにした。「離」コースは大いに趣向を凝らした。編集的世界観を身につけるにあたって、どのように想像力をキックすればよいのかということを約一五〇〇枚の穴埋めスタイルのテキストに従って解読していくように仕立てた。 

≪015≫  イシス編集学校にはバシュラール、カイヨワ、ベンヤミンとともに、シュタイナーやヴィゴツキーも生かされた。  

≪016≫  シュタイナーは、歴史を理解するには事実を外的に示してはならない、そんなことをすれば事実が脱落してわれわれに内在しなくなると言い、たとえば光学を感じるには光線という概念を克服しなければならないと導いた(光線や電力という用語は、学習をそれ以上の深さに進ませない)。 

≪017≫  ヴィゴツキーは、ほとんどの学習成果が「知の転移性」という自覚の深度にもとづくと言い、学びは生徒をどんなことにおいてもことごとく相互連関していると実感させることだと喝破したうえで、子供の学習は日々のなかの認知的道具によってこそ促されるべきだと仮説した。「転移性」というのは、知や情報というものは、AからBやCに移したときにこそ、躍るように身についてくるということをさしている。歯ブラシは洗面台から大工箱に、ホタルは草むらから手の中へ、八分音符は小川のほうへ、引き算はたとえば禅寺に、雲形定規はお母さんの鏡台に、移してみるわけだ。学習は想像の分母や分子を動かして、初めてナンボというものになる。 

≪018≫  ヴィゴツキーの見方はすばらしかった。ぼくもその線に沿いながら、イシス編集学校で想像力を喚起してもらうべく、さまざまなお題やら対角線やら遊学的な尾鰭を付けたものだ。そしてそのために、とくにクローズアップしたのが編集的な「対概念」「物語」「連想」だったのである。それがキエラン・イーガンも提唱していたことであったとは、本書を読むまでは知らなかった。 

≪019≫  では少しだけだが、一五の知的道具について解説を加えておこう。ちょっとばかりイーガンの説明にぼく流の適度な調味料をつけておいた。 

≪020≫  ①の「物語の重視」は、想像力学習の基本の基本なので、トップの認知道具にあげられるのは当然だ。物語(story, narrative)のない学習や教育などありえない。 子供の学習には感情(emotion)の蠢きが必要で、感情がモチベーションなのである。イーガンはそのような感情が動くには、早めに適切な物語をわかりやすく示して、その物語スキーマ(story schema)を子供たちと教師とが共有するのが一番だという見方をとっている。 

≪021≫  ②の「比喩」(metaphor)は、ある事例をスライドしながら(ずらしながら)別の事柄に置き換えて考えることを可能にしてくれる。そうとうに強力な道具だ。ぼくはそのような比喩(メタファー)の発展と連鎖を「連想」とか「連想的編集力」とか「アナロジカル・シンキング」と呼んできた。子供に対して「そんな譬え話なんかではいけないよ」などと言ってはいけないのである。譬え話こそ、魔法の学習のドアノブなのだ。 

≪022≫  比喩の力が発揮されるにつれ、子供たちは③「いきいきした柔軟な思考力」をもっていく。ここで柔軟な思考というのはコンテクスチュアルな見方ができるということだろう。コンテクスチュアルとは、テキスト文脈的というのではなく、状況のアトサキや軽重のあいだを感じる、という意味だ。すでにヴィゴツキーが言っていたことだが、子供が外国語をおぼえるときも、文法などから入ったらおじゃんなのである(日本の英語センセーと英語テスト問題が致命傷だった)。外国語学習も思いきって比喩から入るべきなのだ。 

≪023≫  ④「対概念」(pair category)は、子供の発想に想像力の翼がつくのに最も欠かせないツールである。一つでも三つでもない。二つずつで発想する。その対発想が想像力を動かしてくれる。イシス編集学校にも、一対のイメージを膨らませて遊ぶ「ミメロギア」(ミメーシス+アナロギア)という人気プログラムがある。 ただしイーガンが「対概念」の例としてあげているのは「天・地」「神・人」「左・右」「父・母」「善・悪」「町・村」のような二値的なものである。教育心理学のブルーノ・ベッテルハイムらも「子供が新たな能力をもつときは両極的な分け方をするときだ」と見た。これはよくない。一神教的なロジックが身につきすぎる。ぼくはできるだけ、そういう二値的なスプリット概念にこだわらないほうがいいと教えてきた。「漱石と鷗外」「珈琲と紅茶」「靴と下駄」というような対ついにしたほうがよい。 

≪024≫  一方、子供たちがリテラシーを高めるために、⑤「韻とリズムとパターン」に親しんでおくというのは、かなり必要なことだろう。リズムとパターンだけでなく、韻を感じさせようとしているところが、とくにいい。ぼくもときおり子供たちの俳句づくりの出来を見ているのだが、そこからは韻こそがイマジネーションを引っ張っているということが、とてもよくわかる(三六二夜『小学生の俳句歳時記』など参照)。 リズミックな活動は日々の言葉づかいをおもしろくさせるだけではない。当然のことに、音楽や身体運動や絵画的な表現を含めたコミュニケーションの促進力になる。韻やリズムはすこぶるコンヴィヴィアル(共愉)なのだ。装飾的な道具ではなく、内容そのものの乗り物なのである。五・七・五でコトが運ぶということそれ自体が内容なのだ。ホワイトヘッド(九九五夜)は「もともと児童教育そのものがリズムの本質をもっている」とさえ指摘した。 

≪025≫  そのリズムに、⑥「冗談とユーモア」も加わるべきだというのもイーガンの知恵が一様ではないところだった。ぼくもずっとそうしてきたが、実は認知や思考はもともとの出発が必ずしも生真面目ではなかったのだ。遊び度や冗長度があるほうが、認知から思考の翼や物語のゴンドラが船出しやすいのだ。イソップからガルガンチュアまで、コミックから井上ひさしまで、思い出されたい。 ユーモアや笑いは、何かの本質をちょっと転ばせた視点で見抜くにはうってつけの道具なのである。生真面目だけではいけない。イーガンはここに、子供たちが「ゴシップ」に興ずることさえ有効だという見解もまぜた。これまた大いに賛成だ。子供だけじゃない。愉快な社会にとっては芸能ゴシップも必要なのである。ただ、ゴシップは次の学習機会をキックするものとなりたい。 


≪026≫  ⑦の「極端な事例や例外に関心をもつ」はたいへんおもしろい。子供たちは巨人とか怪物とか、世界一高いビルとか髭が長すぎる老人とか、ずっと眠り続けている少女とか一番臭いおならをする男の子とかに、たちまち反応するものだが、これは、「極端」や「一番」や「例外」を知っておくことが、子供たちにそれ以上のことをしなくてすむという認知領域のてっぺんやはしっこを知らせているということなのである。 このこと、またまた釘を刺しておくけれど、大人たちにももちろんあてはまる。売上げ日本一、一番高い寿司、最高速度のクルマ、ボーナス支給額のトップ3、最も効率的なコストパフォーマンス……。これらの上限値を知って、大人たちの大半の仕事や人生にやっと「中庸」がおとずれるわけなのだ。ぼくの場合は、そのうえでたえず「例外」をめざしてきた。 


≪027≫  ⑧「ごっこ遊び」は戦争からビジネスまで、学術からスポーツまで含め、すべての遊びの本質である。カイヨワも同意する。ぼく自身は「ごっこ遊び」「しりとり」「宝さがし」が世界に共通する三大遊びだと思ってきた(『知の編集工学』朝日文庫)。 なかでも「ごっこ」は子供たちが既存の大人の世界を模写模倣するもので、際立っている。それが当初の「おままごと」「電車ごっこ」「お人形さん遊び」などから、いつかは「文楽ごっこ」や「タングステンおじさんごっこ」のほうに進めば、申し分ない。なお、このイシューについて関心がある向きは、早々にタルドの『模倣の法則』やイディス・コッブの好著『イマジネーションの生態学』(思索社)やシンガー夫妻の『遊びがひらく想像力』(新曜社)まで進みたい。 

≪028≫  次の⑨「手描きのイメージ」を知ることは、自分の五感知覚や身体知覚の延長がどこまであるのか(どこまで届いているのか)を実感するには、とてもいい方法だ。手描きには、PCやスマホではとうてい得られないものがある。 この方法はすでに五感のスキルや世界観が停滞している大人の諸君にも、すこぶる有効だ。ぼくも編集学校では、諸君は諸君なりに工夫したノーテーションやドローイングをしてみるといいよと訴えてきた。何が図示・図解できるかを知ることは、自分に何がわかっていないかに触知できることなのだ。 

≪029≫  ⑩は子供たちが「英雄(hero)とのつながり」を感じることのお奨めである。いまさら言うまでもなくジョセフ・キャンベルの「英雄伝説」と「神話力」の教えは、古来このかた人間の学習と記憶のプログラムがどのようなものであるかを告示する。ならば、子供たちも「英雄とのつながり」をいろいろ感じられるようにするのが、やっぱり必要なのである。それだけでアーキタイプやグレートマザーの心に飛べる。 ただし、何もかもをマンガやアニメで済ますのは少しがまんしておきたい。子供がヒーローに憧れるのは大いに結構なこと、それがなければ成長もないのだけれど、七〜八歳のうちにできれば歴史的な神話や伝説のヒーローやヒロインに憧れておいてほしいからだ。ヨーロッパ文化は底辺にこの力をもっている。イシス編集学校が女神イシスの冠をかぶったのも、この意図がある。 

≪030≫  ⑪「謎」も大事だ。どんな現象や出来事にも必ずや「謎」がある。むろん神話や伝説には「謎」がいっぱいだ。のみならず、世の中にも自分にも謎々のような「謎」がたくさんあるんだということに、関心をもたせたい。そうすれば想像力はゼロから百までのグラデーションをもてるし、そこから科学者や考古学者や冒険家や作家の卵も育つにちがいない。こちらはマンガやアニメでもOKだろう。  

≪031≫ 一方、イーガンは子供たちに、どんなことも⑫「人間という源」に起因するのだということをわからせたいと思っていた。とても尊い見解だ。ぼくはそこにたいてい「生命にもとづく」も付け加えるのだが、子供には生物と人間を分けたほうがいいのだろうか。先だって小学六年生たち九〇人ほどに「編集って何だろう?」を教えたときは、人の「いのち」と生物とをつなげて話してみたのだが、いい反応だった。 

≪032≫  ⑬の「コレクションと趣味」に遊びなさいという教育方針は、ゆとり教育なんかのことではない。邪道のすすめでもない。好きなものを集めてみなさいということだ。そこに道徳を押しつけてはいけない。ガラクタであれ縫いぐるみであれ空き瓶であれ、手元に何かがたまるのは、そこに「わける」と「わかる」を起動させるものがあるということなのである。このこと、案外気がつかれていない。ただしなんとなくあれこれをバラバラに集めるのではなく、何かに徹して集めたい。ぼくはこのことを「モーラしなさい」と言ってきた。 

≪033≫  ⑭「事実にもフィクションにも驚きをもって接する」は、なんだ当たり前のことだと思うかもしれないが、そうではない。センス・オブ・ワンダーの翼はとても丈夫だよという意味だ。 この翼は、既知の連続の隙間に突然に未知なるものを発見してくれる。それというのも、人類の想像力のルーツそのものがロマン(romance)であり、驚き(wonder)に発していたからなのだ。ただし、ここで大事なことは、センス・オブ・ワンダーは自然にも歌にも身近なことにも、また虚構にも、くまなく向けられるべきだということにある。 

≪034≫  かくて、最後の⑮の「想像力を育くむ認知的道具の大半は日々の生活のなかにある」が、以上すべての認知的道具的視軸の根幹に横たわっている見方になっていく。想像力のきっかけが大半の日々のなかにあるということは、以上の触発的学習はほぼどんな幼児の日々にもあてはまるということなのである。 

≪035≫  これまで、欧米の発達心理学は乳幼児から青年におよぶ心身の発育プロセスを、何段階もの変成や飛躍や停滞によって説明してきた。その説明の多くは教育心理学にも応用されてきた。しかしながら冒頭にものべたように、そのプロセスのいったいどこに「想像力」がかかわるのか、実は十分な観察や研究がなされていなかったのである。とくに日本ではついつい「創造力」のほうに傾きすぎてきた。右に紹介した一五の認知的道具が、その解明の大きなヒントになるだろうことを、ぼくは確信している。 

≪036≫  お母さんたちに、一言付け加えておきたい。子供の日々を観察してみればわかるように、幼児たちは二歳前後でまず自分で「ふり遊び」(make-believe play)に入っていく。続いて三歳のころから物との遊び(substitution pretend)を始め、そこから一気に想像力が連鎖して、いろいろなことがつながりあう「系列的なふり遊び」(sequence pretend)をおこすようになる。   

≪037≫  想像力と学習をつなげたいのなら、この「ふり」をすることを看過してはいけない。制約してもいけない。模倣と連想と類推はすべての想像力のトリガーなのである。「まねび」が「まなび」なのである。それなのに家庭や学校はこのことをすっかり忘れて、つまらないスキル教育をしてしまう。お母さんは学校にまかせきらないで、ときどきは子供の「ふり」を左見右見してみることである。お父さん、お母さん、学習はつねに人類史的であることを、お忘れなきように。 

≪038≫  一方、センセーがたにも言っておきたいのは、幼児におこっていることこそ小学校児童の想像力学習の相も変わらぬトリガーなのであって、それはそのまま大人の学習の起爆力にさえなるものだということである。できるかぎり子供扱いしないことをおススメしておきたい。  

≪039≫  ところで、イーガンは本書のなかでしばしば「メタナラティブ」(meta-narrative)という見方を導入している。これは、子供たちがたくさんの事例に遭遇することなく、いくつかの事例だけからきわめてジェネラルな展望を想像できる拡張能力のことをさしている。つまり子供は帰納法や演繹法に頼らないで、物語っぽいものに近付いていけるということだ。  

≪040≫  それが「メタナラティブな想像力」というもので、チャールズ・パースなら「アブダクション」と呼んだところのもの、編集工学では「アブダクティブ・アプローチ」と呼んでいるところのものだ。 

≪041≫  子供たちがこういう読み筋の想像力をもっているということは、そもそも人間の精神や認知の奥に、おそらくはメタナラティブな(原物語的な)仕組みが発動しやすいものが動いているということである。 

≪042≫  すでにブライアン・サットン・スミスは「精神そのものがナラティブに関する事柄である」と言い、ジェローム・ブルーナーも「精神とナラティブの関係は相同的であろう」と述べていた。アラスデア・マッキンタイアにあっては、「どんな出来事もナラティブに見えることが理解につながる」と書き、ノースロップ・フライは「物語を聞き分ける能力こそ、そもそも想像力の基本にあることだ」と見抜いていた。ロバート・コールズでは「ナラティブは誰もが心の奥底にもっている想像力」なのである。 

≪043≫  物語編集にかかわってみることは想像力の宝庫の扉をあけることなのだ。これを軽視するのはセンセーたち、あなたたちである。その物語的想像力がガラクタやムダなものたちの収集にもあることを無視しているのは、お父さんお母さん、あなたたちである。 

≪044≫  ついでに言っておく。大人のビジネスパーソン諸君、君たちはゴミとムダがふんだんにまじっている仕事を合理化するあまり、人間というものをツルツルにしてしまっている。会計規準を、あまりにもフラットな四半期決算にしすぎている。また、ビッグデータを前にして「物語なきデータアナリシス」に躍起になりすぎている。コンプライアンスの監視に時間をかけすぎている。 

≪045≫  それではいけません。あらためてケバケバを取り戻しなさい。まず対概念によるグルーピング・プロセッシングを試みて、そのうえで物語によるアブダクティブ・アプローチをしてみなさい。それでダメなら、そうですね、ゴミムシダマシの偉容をじっくり見つめなさい。 

≪046≫  それではいけません。あらためてケバケバを取り戻しなさい。まず対概念によるグルーピング・プロセッシングを試みて、そのうえで物語によるアブダクティブ・アプローチをしてみなさい。それでダメなら、そうですね、ゴミムシダマシの偉容をじっくり見つめなさい。 

 「僕の画には近代的なところが欠けているかもしれない」と劉生は書いた。 

≪01≫  近代的な手法には学ぶべきことはたくさんあるが、「なんとはなしにそれは自分の内容を生かすにそぐわないのである」という説明だ。「物質感の表面の如実感を写すやり方」も「輪郭をぼかすことによって出る味」も「刷毛目の渋味」も、どうにも自分には合わない。まして印象派の手法などとんでもない、と書く。  

≪02≫  このことがどういう意味かということを、劉生は「僕によって見出された道」という1919年のエッセイに書きしるした。本書に収録されている。こういうものだ。 

≪03≫  劉生がここで「深い美」と言っていることは、本書のなかではいくつかの言い換えによって、かなり厳密に追求されている。劉生は「深い美」を「内なる美」と言ったり、「写美」と言い換えたり、ときには「真如」といった仏教語にし、また「如実の美」とも「神秘」とも名付けてもいる。 

≪04≫  いちばん多用しているのは「内なる美」であるが、特段にその概念を解説しようとはしない。けれども劉生が何を言いたいかはよくわかる。劉生は美術を唯心的領域にもちこみたいわけなのである。その唯心的領域のことを、劉生は「内なる美」と言い、「真如」とか「神秘」ともよんだ。 

≪05≫  こういう文章から何を感得できるかは、今日のわれわれの資質にかかっている。おそらくは、今日の美術界で岸田劉生をゆっくりと見ることも、岸田劉生の文章をじっくり読むこともないだろう。劉生は忘れられた画人となってしまったのだ。しかし、はたしてそうなのか。われわれは劉生を昔日の蜃気楼のごとく捨て去れるのだろうか。 

≪06≫  岸田劉生をどう見るかということは、現代の日本の課題である。美術の課題というよりも、日本の課題であろう。その理由は次の文章を読めば、瞭然とする。 

≪07≫  「吾々がこの世を個人的に見ると、個人の概ねは利己的である。無智であり、また無頼であって、その心には善き運命に対する憧憬や生存に対する淋しさ涙や愛がない」。  

≪08≫  「自分はまだ、悪しき個人を目のあたりに見ると、ほとんどいつも憎悪を感じる。このことは恥ずかしい。そうして自分を苦しくさせる。憎悪は、人にとっても自分にとっても苦しいものである。しかし(中略)、自分が憎悪を感じるとき、その憎悪から愛が生まれることを知っている。その愛は微かなものなのだ」。 

≪09≫  けれども、劉生が精魂をこめて探求しようとしたもの、そのたったひとつのことは切々と伝わってくる。そのたったひとつの探求を今日の時代は失っている。捨てている。それが「内なる美」というもので、「真如」というものなのだが、そんなものは今日のどこにもなくなっている。 

≪010≫ 自分の言うことを軽々しく笑うな。今の君達が滑稽に感じるのも無理なかろう。しかし、軽々しく笑うな。笑いたくとも、軽々しく笑ってならぬものなのだと、ただそう思っていたまえ。そうしないと君達は損をするのだ。 

≪01≫ 
 この人の前著の『デジタル・エコノミー』のヨミは半分あたっていた。
 が、半分は人を迷わせるもので、
それがベストセラーになったというらしいから、
おそらくはデジタル・エコノミーが儲かるものだと見て、
ずいぶんの人を迷走させたのではないかとおもう。 

≪02≫  本書も、先読みにかけてはかなり先駆的な本になっている。データにもかなり依拠しての先読みである。前提の数字は、1965から1976年に及んだ“ベビーバスト”(出生率急落期)の世代にメディア志向がきわめて強いということ、その世代がネットジェネレーションを牽引する役割を担っていること、続く第2次ベビーブーム(アメリカのみでの現象)がこれを受けてデジタルメディア・オリエンテッドになって裾野を広げていること、などである。 

≪03≫  実際にもアメリカのネットジェネレーションは急激に膨張している。著者はその広範な例と発言を子供たちに取材しつつ、かれらデジタル・チルドレンが次の傾向をもつことを“発見”する。  

≪04≫

 [1]デジタル・チルドレンは選択肢を好む。
 [2]かれらは機能を好む。
 [3]かれらはどんな学習も支援されるものと思う。
 [4]かれらはスタイルに敏感である。
 [5]かれらはオーダーメイド志向である。
 [6]かれらは最初の画面に数秒間しか待てない。
 [7]かれらはイノベーションが大好きである。
 [8]かれらの願いは完成への没頭にある。
 [9]かれらは遅いのが嫌いである。
 [10]かれらは懐疑的で批判的である。 

≪05≫  まあ、こんなところである。とくに目新しい“発見”ではないが、確信には満ちている。ようするに「デジタル・チルドレンは新しい資本だ」という結論だ。 タプスコットのヴィジョンは「21世紀の富は知識という、かつてないほど後に自由に手に入る資産によって生み出されるだろう」という点にある。ぼくはこのことに異議を唱えないが、知識が生むものは富ではなく、想像力なのだといいかえたい。 

≪01≫  教えたり学んだりすることについて、子供のころから何度となく感じてきたことがあった。ちょっとした疑問や気づきだ。二つ、ある。 

≪02≫  ひとつは、学校の授業は自分がなんらかの努力が稔ると愉しいけれど、遊びはいつも楽しい。遊びなのに、教えも学びもある。これはどうしてだろうかということだ。もうひとつは、学校の授業では全体のことが見えないのに、大工や左官のお兄さん方と一緒にいたり茶の湯の一団の末席にいたり、町内野球団の練習に参加したとき、先斗町のお茶屋さんのお姐さんたちにまじっているときには、そのあらましがすぐに感じられるのは、どうしてだろうかということだ。 

≪03≫  学校の授業は2学期とか6年間とか3年間とか順番待ちのようにできているのに、好きな遊びに夢中になっているときや職人さんたちのあいだにいると、「一を知って十を知る」わけではないけれど、一で三が見えたり、その三のそばに五や七がいるような気がする。「一、三、七」がふわりと一緒に感じられる。 

≪04≫  それに新参者であっても、なんとなく「一人前」とはどういうものかがわかる。こういうことって、何だろうと思ってきたのである。 

≪05≫  その後、ある種の技能集団や学習集団には、ビギナーと中堅とベテランのあいだに独特のスキル伝達のコツが芽生えているのだろうという気がしてきた。おそらく「教え方」と「学び方」が分断していないのだろう。むしろ「場」が機能している。 

≪06≫  またひょっとすると、古くさくて封建的なものだと言われてきた徒弟制のようなものには、実は学習組織としての重要な特色がひそんでいるのかもしれないと思うようになった。 

≪07≫  芸能座や徒弟集団のようなところでは、入門してまもないごく初期から、何か「全容にかかわる重要度」のようなものが実感できる。漁師の卵は最初に船に乗ったときから、何が重要なのかを漠然としてはいても、実感する。こういう「一、三、七」の全容感知の感覚を学習のプロセスに取り込んでもいいのではないかとも思いはじめた。 

≪08≫  一般的に、学校の授業では先生がいて授業が始まり、教室は横並びのフラットで、試験のときだけに点数制の成績が見える。それが段階的に積み重なっていく。全容はなかなか見えない。企業のビジネス研修や工場の職業訓練も、だいたいそうなっている。 大量の個人をあまねく教育するには、この方式には利点がある。そこそこのスキルの持ち主をつねに送り出すには、また、毎年同じテスティングをするのに効率もいい。 

≪09≫  ところが、これはわが信条で勝手な好みに近いことなのだが、ぼくはその「大量の個人」にほとんど関心がない。「不特定多数」に関心がないのだ。だからぼくは選挙で当選するような役割や仕事をしたくないし、企業組織などで昇進することにも、まったく食指が動かない。大学で教えるのも好きではない。大学ならせいぜいゼミだけだ(そういうことを最初からさせてくれる大学はめったにない)。つまりは、ずっと大量輩出型スキルアップ方式に大いなる疑問をもってきたわけだ。 

≪010≫  そのうち「愉快な特定少数」が次々に生まれていくようなことはできないのだろうかと思うようになっていた。すでに30代に工作舎をおこして「遊」などをつくっていたし、そしてそこにも「愉快な特定少数」はいたのだが、その特定少数を″次々″に生み出すには、別の経済力や経営力が必要なので(これはひどくへたくそだったので)、そういう会社とは別の学習組織を、少しは徒弟組織に似たようなものとして外につくってみたいと思うようになったのだ。 

≪011≫  しかし、徒弟制にはさまざまな限界もあるし障害もある。親分の横暴や指導者人格が問われることもある。しかもたいていは職能に直結している。もっと自在で汎用的なものにしたい。だったら、上下関係や職能性に縛られないような、ゆるやかで創発的な徒弟制のようなものはつくれないのだろうか。 

≪012≫  1990年代に入ってLPP(Legitimate Peripheral Participation)を知った。「正統的周辺参加」と訳される。正統的な組織なのに、周辺的な参加がいくらでも可能な学習組織のことをいう。 

≪013≫  シカゴ大学で言語認知の研究をしていたジーン・レイヴとカリフォルニア大学バークレーで学習理論を研究していたエティエンヌ・ウェンガーとが、パロアルトの学習研究所で研究員をしていたことをきっかけに提唱したもので、徒弟制の見直しをしていた。なかなかおもしろい研究で、これはピンときた。ヴィゴツキーに準じているところも気にいった。 

≪014≫  LPPの骨子は、ある種の実践的な共同体のなかで学習が進むとき、新参者が参加障壁もなく、ハンディキャップなく受け入れられて、その途中から中核メンバーに認められ、まわりからも一目おかれるようになれるのは、どういう学習組織でおこりうるのかということを研究しようというものだ。 

≪015≫  二人はいくつかの徒弟制の例(仕立屋・海軍操舵手訓練組織・肉屋・アルコール依存症回復グループ・部族の産婆集団など)をフィールドワークしたりインタビューをして、そのような学習組織にめざましいLPP(正統的周辺参加)がおこるのは、おそらくそこには「状況に埋め込まれた学習」(situated learning)がおこっているからだろうと結論づけた。 

≪016≫  いくつかの特徴も描き出した。学習型の組織があること、参加基準が比較的自由であること、学習が個々のスキル獲得のための指示的教育(directive teaching)になっていないこと、教授学的構造(pedagogical structure)をもたないこと、学習者がスキル獲得者ではなく全人的に(whole personとして)捉えられていること、チームあるいはグループの中での相互的で協同的な実感が高いこと、などなどだ。 

≪017≫  翻訳者の佐伯胖さんのところへ通って、LPPをもっとダイナミックに捉えるための議論もした。佐伯さんのところにはリクルートのフェローで、のちに杉並の和田中学の校長になった藤原和博君も何度か同行した。 

≪018≫  長らく学習については、欧米中心の教育心理学などで、主に3つの視点でその特色が説明されてきた。「学習は経験によって進捗する」、「学習は行動によって身につく」、「学習は記憶によって刷りこまれる」、この3つだ。 

≪019≫  学習はさまざまな認知的な経験を通じて、そのつどの行為による変化が身に刻まれ、その記憶が持続したり再生することによって深化するという見方である。心理学的にはJ・B・ワトソンによって提唱された行動主義が勝った見方だ。  

≪020≫  この見方がまちがっているというわけではないが、こういう見方と見識をそのまま強く一般学習過程や学校にあてはめると、刺激と反応の応酬を中心にした授業が重視されることになる。また段階的なステージ性が硬く設定され、徐々に難易度が増していくというふうになる。そのぶん一様で線形的な評価点がつく。 

≪021≫  このような段階型ステージ学習では、個々の学習力によってトップクラスのエリートが次々に誕生することはある。また、けっこう多量な「そこそこエキスパート」たちが押し出されていくということもある。 しかしそれらはたいてい「外的報酬」に結びつき、多くは「仕事につき動かされた」(work-driven)ものになる。  

≪022≫  LPPあるいは編集的LPP(いわばeLPP)は、そういうものをめざさない。多くの学習プロセスが「一、三、七」的で、何かがつねにループしていて(きっと非線形的だろう)、それらを暗示的な確信が束ねている。そういう「場」でありたい。おそらくそこで重要になるのは、学ぶ者たちが同時にいくつもの役割をはたせることだろう。ポリロールが自在に選択できるのである。 しかしここまでくると、これらを旧来の徒弟制だと思う必要もない。むしろeLPPでは、徒弟制は内在的(intrisic)なのだ。外挿的なのではない。教え込み的(didactic)ではない。徒弟感覚すら状況に埋め込まれ、アンカリングされているのである。 

≪023≫  LPPに刺激をうけて、その編集工学化を模索しているうちに、朝日新聞社や講談社から「松岡さんが考えている編集術」についての本を執筆するように頼まれた。90年代後半のことだ。 そこでまず朝日に『知の編集工学』(現在は朝日文庫)を書き、こちらは認知科学や文化人類学の成果と物語編集の手立てと歌舞伎の「世界定め」などの設定力を相互にいかした解説を試みた。64頁目に及ぶ編集技法も開陳した。それなりに充実したものにはなったけれど、実践的なところは薄かった。 

≪024≫  次の『知の編集術』(講談社現代新書)を構想しているとき、ハッとひらめいた。編集的LPPには「稽古」が前提になり、そこには「お題」が変化していくことが必要だろうと思ったのだ。 学習ではなく稽古ができる場をつくり、その場に次々にお題が示される。そういう構想が浮かんだのだ。 

≪025≫  ただし学術的なお題ではいけない。それを排して、編集する動機と参加感覚だけがキックされるお題が必要だろう。参加者当人の「私」を開かせるお題が必要だと思ったのだ。 ふつう、多くのお題はどこか学術的成果を生かすか借りてくるようになる。これがまずい。どうしても知識を問うことになる。そうではなくて、一人ひとりが編集的思考に入るための、ただそれだけのための、そのつどのお題が大事なのである。しかも、それが少しずつ変化する。 

≪026≫  こうして、冒頭に「編集は遊び、対話、不足から生まれる」「編集は照合、連想、冒険である」という指針を掲げた一冊がつくれた。12の編集用法も解説した。 この一冊に激しく反応したのが、産業能率短大で長らく企業研修にかかわっていた宮之原立久君で、この方法をビジネスマンの研修に採り入れたいと言う。しかし、ぼくはそれをするならビジネスマン相手だけにしたくない、もっとおもしろいものにしたいと言って、彼にLPPの話をした。レイヴとウエンガーの本を読みおえた宮之原君は「いいっすねえ、あれでいきましょう」と言った。 

≪027≫  ぼくは、それをネットで展開したらどうかと思った。これには編集工学研究所でシステムを担当していた。太田剛君が、そのころNTTの技術スタッフなどと提案していた「コミュニティ・エディター」というインターフェイスを活用することにした。かくて2000年6月、これらを活かしたイシス編集学校がネット上の片隅に誕生したのである。 

≪028≫  LPPをぼくなりにeLPPに発展させたところを、少し説明しておく。本書との関連がわかるように、いくぶんLPPの用語をつかって説明する。 

≪029≫  いくつかの前提思想を用意した。第1に参加者に必要なのは連想力と応接力だけでいいだろうということ、第2には学習者が「私」(その場に臨む自分)を多様に変化させられるようにしておくこと(「たくさんの私」をつかうこと)、第3に編集稽古する「場」にはかつてその「場」を経験した先輩が指南役で共存できるようにすること(先生と生徒を分けないこと)、第4にどんなスキルもポータブルで(転用可能で)、ああ、その感じという共約可能性(commensurability)に富んでいること、第5にお題は暗示性が高く、問われていることと応じることが分断できないようになっていること、である。 

≪030≫  LPPではこれらをまとめて「隙間に生じる実践協同体」(interstitial communities of practice)と言っている。  

≪031≫ この前提思想では、感性的技能と知性的技能を切り離さないというところが下支えになっている。しかし、いわゆる感性(感覚的処理能力)が知性より先行しているわけではなく、当事者(参加者)の感性すら過去と未来のあいだの甘酸っぱい束縛を受けていることに思い当たるようにした。 

≪032≫  そうなってもらうために(「過去と未来のあいだの甘酸っぱい束縛」を生かす気になるために)、たえず個人の関心事や好奇心が出入りできるようにしておくことも肝要だった。これは認知科学や教育学では「志向性」(intentionary)と呼ばれてきたものだが、ぼくはこれを、もっと類系と個系を頻繁に往復できるフェティシュなものと捉えたのである。 

≪033≫  LPPにはなくてeLPPに新たに加わったのは「お題」である。お題は課題でも宿題でもなく、試験問題でもない。そのお題によって学習稽古が起動し、どんどん進捗するためのもので、お題そのものが正統的周辺参加を保証する。 

≪034  それゆえeLPPのお題は、学科のためのお題ではなく、一般知識のためのお題でもないようにする。むろんクイズもなく、大喜利でもない。何のジャンルと関連しようが、あくまで発想や思考法のみを促す方法喚起のためのお題なのである。 そのようにするには、すべての学習プロセスとすべてのお題が「情報を編集する」というふうにすればよい。eLPPは「情報をひとりにさせない学校」をめざすことになった。 

≪035≫  ただ、そのようにお題がその「場」で次々に成立するためには、指南役も参加者も指示(referencial knowledge)と手続き(procedural knowledge)がたんなるオペーレションのための指示や手続きではないことに気づき、そのハンドリングの中に本来の獲得実態がひそんでいることをおもしろく認識できるようにしておかなければならない。 

≪036≫  そこで、eLPPでは指示が手続きになり、手続きが指示になるような編集稽古(学習)のための「場」(リアル・ヴァーチャルな伝習の場)を複合的に用意するようにしたわけである。ちょっとした工夫が必要だった。どんな稽古学習にも心的表象(mental representation)が伴うようにしたのだ。 どのように伴うのか。状況に埋め込まれたアンカーが自動的なバネ仕掛けで跳ね上がってくるように、伴わせたのである。 

≪037≫  このほかeLPPにはさまざまな工夫を凝らした。たとえば、すべての学習過程に「千夜千冊」をはじめとする「読み」が対応できるようにしたこと、師範・師範代のほかに学匠や番匠を付けたこと、その師範・師範代になるための花伝所を設けたこと、修了証は一様なものではなく、師範代が一人ひとりに向けたものになること……などなどだ。 

≪037≫  より詳しいことはイシス編集学校の中身にすべて反映させてあるので、そちらを覗いてほしい。今夜は、わが編集学校がもともとは「正統的周辺参加」をヒントにしていたことを告げるにとどめる。 

≪02≫ (1)バーバラ・スタフォードについては、高山宏が鳴り物入りで快著『アートフル・サイエンス』(一九九四)を訳している最中から、「ねえ松岡さん、これからはスタフォードですよ」というふうにさんざん聞かされてきた天下の才女だ。高山君の言うとおり、『アートフル・サイエンス』(産業図書)の翻訳ができたときの読後の印象も、その後に『グッド・ルッキング』(産業図書)や大著『ボディ・クリティシズム』(国書刊行会)を読んだときも、いずれも存分に堪能させてもらった。 

≪03≫  スタフォードの本はすべて高山宏の翻訳である。今夜はそのなかの『ヴィジュアル・アナロジー』をとりあげる。イメージング・サイエンスを新人文学の高みに押し上げた記念碑だが、アナロジー仮説とメタファー思考のところに光を当てる。

≪04≫ (2)この二十年間というもの、事態はずっと急を告げていた。新たな知性による歴史観や世界観が待望されていたのだ。欧米では、その新たな歴史的世界観への期待をひそかに、「ニュー・インテレクチュアル・ヒストリー」(新しい知性史)の出現とか「ニュー・イマジズム」の登場というふうに噂していた。 

≪05≫  ただし、それは、構造主義から象徴人類学にいたる成果によっても、バルトやフーコーやデリダのポスト構造主義的な脱構築によっても、ラカンやガタリ以降の精神分析主義によっても、またAIがらみの工学アーティストたちのインタラクティブ・アート主義や、VR的アニメ主義やロボティックスによっても、うまく説明できないものだろうことは、わかっていた。  

≪06≫   なぜなら、もはや事態は文化民族的多様性のてんでんばらばらな爆発とウェブ・ネットワークの異常に急速な普及と、グーグル・アマゾン的全面検索主義と、脳科学や神経生理学の決定的な限界の露呈とによって、今後はまったく新たな様相をもって語られなければならないだろうことが見えていたからだ。 

≪07≫ (3)新たな様相を展くであろう知性は「ヴィジュアル・スタディーズ」を伴う。テキスト解釈とイメージ解釈(=ヴィジュアル解釈)とが共根的に一緒に進む「グラフィック・エディティングな複合知」が必要なのである。それをときに新人文学という。  

≪08≫  複合知を編集するような総点検が望まれた。総点検のための方法知も必要だ。たとえばヴァールブルク研究所やルネ・ホッケやワイリー・サイファーやマージョリー・ニコルソンや、さらにはマリオ・プラーツや白川静や杉浦康平らの系譜を隔世遺伝的に継いだような、かなり「テキスト=イメージ解読」に長けたラディカル・メソッドが浮上しなければならない。 

≪09≫  しかしながら、これはけっこうたいへんだ。ぶっちゃけていえば、ライプニッツのアルス・コンビナトリアとパースのアブダクションをまるごと一からやりなおせる力量とセンスが必要だし、そこに加えて「イメージIN」と「マネージOUT」のあいだに必要なデバイスやフィルターがいったいどういうものかということの見当があらかたついているような、すこぶるマン・マシナリーな知性でなければ、やりおおせない仕事なのである。 

≪010≫  もっと言うなら、フォン・ユクスキュルの「抜き型」もフォン・ヴァイツゼッカーの「開転扉」も、さらにはキットラーもベンヤミンも、ピンチョンもディックも見えていなければ無理なのだ。ダニエル・デネットやロジャー・ペンローズくらいで止まっている認知科学や脳科学めいた憶測では、しょせん無理なのだ。なぜなら、これらの学問は「アナロジー」をちゃんと研究していないからである。  

≪011≫  そんなふうなので、十数年前のこと、高山君は「ねえ、これはもう、ぼくや松岡さんがやるしかないよ」と言っていたのだが、こうしたなか、バーバラ・スタフォードが登場してきたのだった。 

≪012≫ (4)いま、世の中でどのようにイメージが扱われているかといえば、ひとつは、カント以来の美学議論で扱われてきた。そろそろうんざりだ。もうひとつは、PC上のカット&ペーストばかりだ。それもかつてのインタールシオ(象嵌)やイルミネーション(写飾)のような精緻なリテラル・ヴィジュアルではなくて、電子画像、電子映像べったりになっている。 

≪013≫  ウェブ的コンピューティングやリミックス的な音楽制作の事情を見ればわかるように、電子的なカット&ペーストよりも速いイメージングの方法はなかなか見当たらない。いまや王道である。ウィリアム・バロウズのカットアップこのかた、いずれはこうなる宿命だったのだ。 

≪014≫  そうであるのなら、いまやそのカット&ペーストそのものをPC上においても、書物の中においても、そしてわれらが脳髄の知覚作用においても、もっと大胆に、もっとダイナミックに、もっとシナジェティックに、もっと編集的に、もっとイメージング・サイエンスに充実させるしかないはずだった。   

≪015≫  そういう予感を告示していたのは、ひとつはハンス・ベルメール以来の四谷シモンに及ぶ人形師たち、ひとつはバーバラ・クルーガーやシェリー・レヴィーンやシンディ・シャーマンや森村泰昌らの写真師たち、ひとつはサイバーパンクやメタフィクションに強い作家やアーティストやマンガ家たち、そしてアンドレイ・タルコフスキーやピーター・グリーナウェイや、押井守や大友克洋らの映像派たち、さらにはジェームズ・タレルらのトポグラフィック・アーティストたちだった。  

≪016≫ (5)スタフォードは早期に以上のことに気がついて、かつてこのようなカット&ペーストにイメージング・サイエンスをこめた連中はどういうものだったのかということを探ったのだった。 

≪017≫  彼女の分厚い著書にはたくさんのアーリーモダンの図版が収容されているのだが、それを見てもらえばわかるように、その先駆例の大半は十八世紀の観相学や博物学や解剖学や地図学にこそあらわれていた。スタフォードは、それを「アートフル・サイエンスの時代」と名付け、そこに今日のアート&テクノロジーとの相同律や相似律を読み込んでいった。たとえばピラネージ、たとえばショイヒツァー、たとえばラファーター、たとえばカンペール……。かれらこそはベルメールやディックの先駆者だったのだ。ここにリドリー・スコット『ブレードランナー』の先駆モデルがあった。 

≪018≫ (6)さて、ここまでの事情がおおむね以上のようなものだったとすると、イメージの探求はもっともっと遡ってもいいことになる。ルネサンスのクザーヌスやフィチーノに遡るのは当然だ。もっとどこまでも、だ。プラトンやアリストテレスまでも。ルルスやライプニッツまでも。『ギルガメシュ叙事詩』や『古事記』までも。   

≪019≫  それでどういうことを考えればいいかというと、そもそも「観念」と「概念」の分岐関係はどうなっていたのかとか、あるいは「イコン」と「アレゴリー」の当初の関係はどうなっているのかとか、もしくは古代中世では「言語」と「図像」の〝あいだ〟に何があったと思うべきかというようなことを、高速にも広範にも深甚にも研究すべきだということだったのである。   

≪020≫ (7)多少は自慢をさせてもらうけれど、スタフォードを知る以前から、ぼくはこのような研究問題にそれなりにずっととりくんでいた。それを四十年前は「概念工事」とか「自然学曼陀羅」と言い、三五年前は「遊学」とか「科学的愉快」と名付け、三十年前からは「編集工学」と名のり、二十年前からそれを思いきって「主客のとりかえ」や「インタースコア」と呼んできた。  

≪021≫  けれども、いまそれらをスタフォードや高山宏の視座に即して言い直すとすると、これはやっぱり新たな「グラフィック・エディティング・システムの可能性」の追求だったのである。そしてその追求を獰猛にすすめることは、その「グラフィック」と「エディティング」のあいだにどれくらいアート&テクノロジーの精髄をぶちこむか、どのくらい既知の「イメージの図像学」と未知の「イメージング・サイエンス」を注入できるかということになるはずである。そこにこそ、いや、そこにだけ、おそらくは新たな「知のデバイス」と「像のフィルター」の発見がある。このあたりのことは、今後の人工知能の深層学習などにも採り入れられていいことだろう 

≪022≫ (8)新たなデバイスとフィルターは、当然ながらすこぶる編集インターフェース的なものだろう。それはまたシーノグラフィックで、アフォーダンスに富んだものだろう。ところどころはオートポイエーシスで、多分に二項同体的、多項照応的だろう。それは見方を変えれば、来たるべきカルチュラル・コンピューティングを先取りするだろうし、それをこそニューシステムとかニューチューリングマシンとかと呼びたくなるような、そんな予告に満ちたものだろう。   

≪023≫  そこをスタフォードは「くっつく」(merger)と「のっとる」(takeover)との両方の構成原理を同時にもっているはずだというふうに見た。一言でいえば「連」を試みよということである。DNAではなくてRNAに注目せよということだ。 

≪024≫  こうしてスタフォードが次なる著作『グッド・ルッキング』と『ヴィジュアル・アナロジー』によって予告したことは、今後のすべてのイメージング・サイエンスの方法は「つなぐ」(コネクティング)と「組み合わせる」(コンビネーション)の作用の中にあるはずで、その「つなぐ」や「組み合わせる」はアナロジー編集あるいはメタファー思考によってのみ運ばれているにちがいないということだった。 

≪025≫  こうしてスタフォードが次なる著作『グッド・ルッキング』と『ヴィジュアル・アナロジー』によって予告したことは、今後のすべてのイメージング・サイエンスの方法は「つなぐ」(コネクティング)と「組み合わせる」(コンビネーション)の作用の中にあるはずで、その「つなぐ」や「組み合わせる」はアナロジー編集あるいはメタファー思考によってのみ運ばれているにちがいないということだった。 

≪026≫ (9)ちょっと説明しておこう。アナロジーという用語やその意味は、ギリシア数学に萌芽したプロポーション(均衡)から派生した。ギリシア語の「アナロギア」ないしは「アナロゴス」は、その当初は「適正な比率に従って考える」という意味だった。 

≪027≫  それがプラトンによって「そこに参加する」(イメージを持って入っていく)という意味合いをおび、アリストテレスによって「そこから表現を得る」という意味合いに発展していった。そしてどうなったかというと、アナロギアは「見かけ上似ていない複数のもののあいだにある均衡」という意味になった。ここにはパルメニデスやエンペドクレスやアナクサゴラスの議論が入る。古代ギリシアはアナロジーを、「張力のある均衡」もしくは「相同律」「相似律」にまで発展させたわけである。そこには本来のミメティズム(模倣学)が駆動していた。 

≪028≫  時代をがんがんとばしていうが、このギリシア的なアナロジーの可能性を、ひとつの流れでは、トマス・アクィナス、ベーコン、カント、スチュアート・ミル、ニーチェ、ハイデガー、アドルノ、後期ヴィトゲンシュタインらが大きな振幅をもって拡張していったのである。ここには知覚・言語・論理を介在させた「知のプロポーショナリティ」が含まれた。 

≪029≫  もうひとつの流れは、イリュージョン、幻想、連想をふんだんに入れこむほうに膨らんでいった。これは「ファンタスマゴリア」とか「ファンタジア」とか「メラヴィリア」とかとよばれた。つまりはインテレクチュアル・スペクタクルである。のちにノヴァーリスが「夜」に託した幻想も、スウェーデンボルグが「神秘」に託したものも、メルツェルが機械人形に託したカラクリ性も、ここに入ってくる。ここからは、パースの「アブダクション」、フォン・ユクスキュルの「抜き型」、バロウズの「カットアップ」、ギブソンの「アフォーダンス」などが羽ばたいていった。 

≪030≫  この二つの流れの交点に君臨していた知のシステム仮説が何だったかといえば、それこそがルルスやライプニッツの「アルス・コンビナトリア」(ars conbinatoria)という考え方なのである。スタフォードはこれらのアナロジーの集散を大きくは「参加」(participation)と捉えた。異なる事物や情報のあいだに共鳴関係をつくりだす参加という意味だ。 

≪031≫ (10)ここでいささか注目しておくべきことがある。それは、以上のおおざっぱな流れの説明でもおよその見当がつくだろうが、アナロジーの作用には、一見、類推だとか連想だとかとは思えないほどの、つまりは「なんとなくアタマに浮かんだ」とは言えないほどの、きわめてラディカルな方法が含まれているということだ。 

≪032≫  かつてサミュエル・バトラー(ユートピア小説『エレホン』などの作家で、オルダス・ハクスリーに影響を与えた)は「アナロジーはしばしば誤解や曖昧を含むと思われているが、あらゆる思考のなかで、アナロジー思考が最も論理的なのである」と言った。わかりやすくいえば、アナロジーはその連想のプロセスに、実際には論理をさえ含むのだ。いま、そのアナロジーの作用を三つに分けて注目してみたい。  

≪033≫  第一には、アナロジーは、まずは何かの物体やイメージを「そこにもってくる」(コレクションする)というところから始まっている。ここからイエイツやスタフォードやマリオ・プラーツや高山宏や荒俣宏が分析してやまない「驚異の部屋」(ヴンダーカンマー)や「世界劇場」という室内現象も出てくる。つまりは博物誌や博物学は、また事物収集や美術収集は、そして本来の舞台演劇は、すべてアナロジーから出発していたということだ。なぜなら「コレクト」(収集)は必ずや「コネクト」(結節)を惹起するからだ。これを忘れてはいけない。 

≪034≫  第二に、アナロジーは物体やイメージを「そこ」(テーブルの上やタブローの面)にもってくることから始まるのだから、そもそも「そこ」には言語や概念も並べられていたということである。つまり論理が萌芽していたとみなす必要がある。ということは、アナロジーによって「そこ」に引っ張ってこられた言語や概念は、それらがトートロジー(同義反復)にならないように仕組まれていたということになる。つまり、アナロジーこそは袋小路から脱出するための論理発展の併走原理だったのである。 

≪035≫  第三に、アナロジーはさまざまな「意味の象徴」をどんどん組み上げ、イメージの類縁を天使や兵士のようにふやしていったということだ。 

≪036≫  アレゴリー(寓意)が滲み、シンボル(象徴)が君臨し、インスタンス(事例)が躍る。そのほか、記号、エンブレム、エニグマ(謎絵)、紋章、テンプレート、さらには数々のイラストレーションなども派生した。これらはいずれものちにメタファー思考の重要な歯車となっていたイメージ天使やイメージ兵士たちばかりだが、スタフォードはこのようなイメージの多彩なメタファー化にあたっては、おそらくは「紡ぐ」(spinning)、「編む」(plaiting)、「織る」(weaving)の三つが主要な手法になったろうと言っている。 

≪037≫  ちなみにイラストレーション(図解)は、中世では総じてイルミネーション(光が画いたもの)と呼ばれたもので、その後に光を意味する「ルスト」に接頭辞と接尾辞がついてイラストレーションとなった。 

≪038≫ (11)これであらかたわかるように、もともとアナロジーとはつねに意味と論理を含む「多様の統一」のための劇的な方法論だったのである。アナロジーはずっと「多の中の一」(unity in multiplicity)を求めていたということである。 

≪039≫  かつてアーサー・ケストラーはそういうアナロジーの方法力があまりにワンダーなので、「異縁連想」(bisociation)と呼んだほどだった。また、その連想はホロニックにおこっていくと考えた。が、今夜はふれないが、そういう連想なら東洋の華厳や大乗起信論や密教や禅においては、もっともっと知的華麗(インテレクチュアル・ワンダー)なのである。いずれ案内してみたい。 

≪040≫ (12)というわけで、アナロジー学の基本の基本は「つなぎ学」だったといってよい。もうちょっと柔らかくいうのなら「つなぎ目」の発見の学であり(ということは「割れ目」の発見の学であり)、そのように現象や出来事や概念やイメージがつながっていくときの「関係の発見学」なのだ。 

≪041≫  それをフーコーはかなり縮小して、かつて「関節学」(arthrologie)と言ったものだったけれど、ホッケもスタフォードもぼくも高山宏も、それならせめて「シナジェティックな分節学」と言ったほうがいいだろうと思っている。シナジェティックというのは「意味のシナジー」が組み合わされ、捩り合わされる力学のことをいう。アナロジーは、どんな場合も対象やイメージをシナジェティックで相互関連的なアーティキュレーションとして取り扱うからだ。 

≪042≫  しかし、話はこれでおわらない。アナロジー学のもっとものすごいところは、アナロジーはわれわれの思考を「同時併存」(simultaneity)にはこぶということ、そのうえで意味とイメージの関連性の総体に「相転移」をおこさせ、かつまた、それまで気がつかなかった「創発」を生じさせるということなのである。 

≪043≫  これを安易にシンクロニシティとか創造性の哲学などと思ってはいけない。そうではなくて、これはフィギュアやプロフィールの本質的動向を追跡する知学なのである。フィギュアとかプロフィールと言っているのは、これまで諸君が漠然と「イメージ」というふうに思ってきたものの実体をいう。ホワイトヘッドなら「アクチュアル・エンティティ」(actual entity)と名付けていたものに当たる。 

≪044≫ (13)本書には「つなぐ技術としての人間意識」(Consciousness as the Art of Connecting)というサブタイトルがついている。また、本書の帯には、きっと高山宏がつけたのだろうが、こんなふうにある。「ちがう」という時代に「同じ」をさぐる! 

≪045≫  スタフォード自身の言葉によれば、ヴィジュアル・アナロジーとは「何かが他の何かに似ている、自らではない何かに参加していることを説得してくれそうな、そんな架橋のプロセスを閃光のように垣間見させてくれるもの」ということだ。 

≪046≫  こんなふうにも言う。「自ら持たぬものと結合したいという人間の欲望が生むアナロジーは、とめどないオシレーション(揺動)を特徴とする情熱的なプロセスである」というふうに。あるいは「身体にしろ、感情にしろ、精神的なものであれ、知的なものであれ、何かが欠けているという知覚があって、その空隙を埋める近似の類比物への探索が始められる」というふうに。また「人々や事物や概念を、知覚的に混ぜるか、分けるかという問題は、アナロジーのヴィジュアルな部分に真にかかわっている」というふうに。そして「アナロジーにおいては、知覚(perception)と了解(comprehension)とが同時におこる」。こうして結論が「引き延ばされた未生(delayed not-yet)を、もの言いたげな未満(allusive not-quite)としての中間へ!」なのである。 

≪047≫  おまけで、もう一声。「メタフォリックス(metaphorics)としてのアナロジーという方法は、統合されたイマジスティクス(imagistics)としての修辞学的構築に与っておおいに力あるはずである」。  

≪048≫ (14)バーバラ・スタフォードは一九四一年にウィーンに生まれて、アメリカに渡ってノースウェスタン大学とシカゴ大学で哲学・比較文学の修士と博士を取得した。その彼女が一挙に変貌し、飛躍したのは、十九世紀初頭のオランダの美学者ユンベール・ド・シュペルヴィルと逢着してからで、これがデビュー作の『象徴と神話』(未訳)に結実した。その後の著書はすでに文中で紹介した。 

≪049≫  スタフォードの著書にはいずれもアーリーモダンの図版と現代アートの図版とが夥しく収録されていて(『ボディ・クリティシズム』には二〇〇点をこえる図版がひしめく)、それがみごとに立体交差しているのだが、今夜はそちらのほうのお手並みは割愛した。図版を見くらべていただくしかない。 

≪050≫  スタフォードに関連して読んでおきたい本はたくさんあるが、まずは高山宏の『終末のオルガノン』(作品社)、『表象の芸術工学』(工作舎)が必読だ。ほかにはジョン・ノイバウアーの『アルス・コンビナトリア』(ありな書房)、田中純の『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』(青土社)、マリオ・プラーツ『記憶の女神ムネモシュネ』(美術出版社)などがいい。新人文学の入口がわかる。それが気にいったらスタフォードや高山宏が引用している本を片っ端から見ることだ。 

≪051≫  なお、認知科学ではまだまだアナロジーの研究が突出してこないのだが、不充分ながら一応の成果はキース・ホリオークとポール・サガードの『アナロジーの力』(新曜社)にあらわれている。 

≪01≫  かつてスペクタクル(spectacle)は大掛かりな見世物や光景のことをさしていた。古代の祝祭はほとんどがスペクタクルだ。とくに王権は権威の示威として祝祭をスペクタクル(めざましいもの)にした。フレイザー(1199夜)の『金枝篇』やエリアーデ(1002夜)の『聖なる空間と時間』などにあきらかだ。祝祭だけではない。古代中世を通じて巨きな建造物の出現や激突する戦乱、目を奪う気象変化や疫病の流行もスペクタクルだった。 

≪02≫  スペクタクルはラテン語のスペクタクラム(spectaculum)を語源とする。光学的な眩惑を語根にしている(だからのちにレンズ効果などもスペクタクラムとされた→メガネもスペクタクルズと呼ばれた)。しかしこの用語にはまた、天体異常・地震・洪水・火山噴火などの天変地異が含まれていた。水しぶきを上げる瀑布やこの世に十数分のヴェールをかける日食も、巨きな彗星の光芒の走りも、大事故も難破も戦争も、驚天動地のスペクタクルだったのだ。 

≪03≫  ぼくの見方では、ウィリアム・ターナー(1221夜)がこうした本来の意味でのスペクタクルを描こうとした最初の近代画家だったと思われる。ターナーにとっては港の気象も不思議な色彩に染まった夜明けも、雪山事故も遭難の光景も、驀進する蒸気機関車もスペクタクルだった。このこと、NHKの日曜美術館のターナー特集で話したことがあるが、その箇所は削られていた。テレビはそういうことを、のべつやっている。 

≪04≫  むろん絵画そのものがそれ以前から、たとえばルネサンスを通してめざましいスペクタクルを見せてきた装置であって、多くの壁画や天井画がトロンプ・ルイユを意図したヴィスタ(切り出した光景)の描出によってスペクタクルを用意した。その多くがキリスト教の創世や奇蹟を描いていたのは、古代における祝祭の力をキリスト教が手持ちのカードであらかた説明できるという鼻持ちならない自信をもっていたからだ。 

≪05≫  その後の18世紀後半のイギリスに流行した「ピクチャレスク」(picturesque)も、一種のスペクタクルである。「目にも綾な風景」という意味だ。ウィリアム・ケント、ジョン・ナッシュが強調し、エドマンド・バーク(1250夜)がここに「崇高」と「美」を加えた。もちろん浮世絵も小さいながらも江戸スペクタクルのすばらしい出来を見せた。 

≪06≫  近代におけるスペクタクルはだいぶん様相が変わる。劇場に照明装置が出現し、写真や映画や録音技術が登場してくると、スペクタクルは再演可能なものに変じていったのだ。シヴェルブシュの『闇をひらく光』『光と影のドラマトゥルギー』(法政大学出版局)などに詳しい。 

≪07≫  それとともにそこに観客が登場した。さらには都市の一角に百貨店や博覧会やネオンサインがあらわれて、スペクタクルは商品のショーアップとともに大衆消費されていくものにもなった。 

≪08≫  20世紀、飛行機ショーや自動車レースが新たな機械と技術によるスペクタクルをつくりだし、新聞社やハリウッド映画やミュージカルショーやサーカス団やディズニーランドがスペクタクルを“上演”するようになった。 

≪09≫  つまりは20世紀の最大のスペクタクルは「資本のスペクタクル」なのである。資本主義こそはこのスペクタクルの化け物のような巨大エンジンだった。しかし、一部の者にはもうひとつのスペクタクルがのこっていた。それは「革命のスペクタクル」である。資本主義そのものがスペクタクルであるとともに、それを覆すためのすべての試みもスペクタクルたりえたはずだった。 

≪010≫  60年代半ば、パリのギー・ドゥボールがそのことをみごとに衝いた。次のように。 

≪011≫  (4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された諸個人の社会的関係である。 (8)スペクタクルと実際の社会的活動とを嘲笑的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている。 (19)スペクタクルは哲学を実現するのではなく、現実を哲学化する。 (25)分離こそがスペクタクルのアルファでありオメガである。 (29)スペクタクルの起源は世界の統一性の喪失であり、また、現代のスペクタクルの途方もない拡張は、この統一性の喪失が全体的であることを表現している。 

≪012≫  (49)スペクタクルは貨幣のもうひとつの顔である。 (61)スターとして演出されるスペクタクルの代理人は、個人とは正反対のものであり、その者自身においても、他の者に対しても、同じように明白に個人の敵である。 (65)自動車のスペクタクルが旧市街を破壊して完全な交通循環を望む一方で、都市のスペクタクルの方はといえば博物館的地区を要求する。 (194)今日、スペクタクルの思考として発展しづけている知識の全体は、正当性のない社会を正当化し、虚偽意識の一般的化学として自らを公正せざるをえない。 

≪013≫  (218)スペクタクルはその広がりのすべてにおいて、観客の意識の「視鏡症」(シーニュ・ド・ミロワール)なのである。 (219)スペクタクルとは、世界の存在-不在にとりつかれた自我が解体することによって生じる自我と世界との境界の喪失である。それはまた、生きられた真理をすべて、外観の組織化によって保証された虚偽性の現実存在の下に抑圧することによって、真―偽の境界をも消し去ってしまう。 

≪014≫  1967年に書かれた『スペクタクルの社会』からの抜粋だ。この本はこうした221の断片からなる思想パンフレットのようなもので、刊行直後から話題騒然の一冊だった。革命や暴動にあこがれる学生たちによって頻繁に万引きもされた。 

≪015≫  パリ五月革命の渦中に書かれた一種の地下出版的なマニフェストだが、いまなおこんな本はない。中身が過激だったわけではない。新たな社会像のための知的な導入部を示したもので、社会哲学めいているのだが、その多少の難解さや「スペクタクル社会」という掴まえ方によって、60年代後半の「怒り」に火を付ける導火線の役割を決定的にはたした。 

≪016≫  理論的に世界観を示したわけでもない。だから『共産党宣言』のようなものでないし、そこに革命思想が提示されていたり解読されていたわけではないから、大塩平八郎の『洗心洞箚記』やオーギュスト・ブランキの四季協会のパンフレットのようなものではない。政治的ではあるが、その言いっぷりにはダダ宣言や未来派宣言のようなところがあった。あえて千夜千冊でいえばティモシー・リアリー(936夜)の『神経政治学』(トレヴィル)やハキム・ベイ(1117夜)の『T.A.Z.』(インパクト出版会)などを並べてもいいけれど、主旨も魂胆も異なる。 

≪014≫  1967年に書かれた『スペクタクルの社会』からの抜粋だ。この本はこうした221の断片からなる思想パンフレットのようなもので、刊行直後から話題騒然の一冊だった。革命や暴動にあこがれる学生たちによって頻繁に万引きもされた。 

≪015≫  パリ五月革命の渦中に書かれた一種の地下出版的なマニフェストだが、いまなおこんな本はない。中身が過激だったわけではない。新たな社会像のための知的な導入部を示したもので、社会哲学めいているのだが、その多少の難解さや「スペクタクル社会」という掴まえ方によって、60年代後半の「怒り」に火を付ける導火線の役割を決定的にはたした。 

≪010≫  60年代半ば、パリのギー・ドゥボールがそのことをみごとに衝いた。次のように。 

≪011≫  (4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された諸個人の社会的関係である。 (8)スペクタクルと実際の社会的活動とを嘲笑的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている。 (19)スペクタクルは哲学を実現するのではなく、現実を哲学化する。 (25)分離こそがスペクタクルのアルファでありオメガである。 (29)スペクタクルの起源は世界の統一性の喪失であり、また、現代のスペクタクルの途方もない拡張は、この統一性の喪失が全体的であることを表現している。 

≪016≫  理論的に世界観を示したわけでもない。だから『共産党宣言』のようなものでないし、そこに革命思想が提示されていたり解読されていたわけではないから、大塩平八郎の『洗心洞箚記』やオーギュスト・ブランキの四季協会のパンフレットのようなものではない。政治的ではあるが、その言いっぷりにはダダ宣言や未来派宣言のようなところがあった。あえて千夜千冊でいえばティモシー・リアリー(936夜)の『神経政治学』(トレヴィル)やハキム・ベイ(1117夜)の『T.A.Z.』(インパクト出版会)などを並べてもいいけれど、主旨も魂胆も異なる。 

≪017≫  著者のギー・ドゥボールは革命家で方法主義者で、思想牽引者で映画制作者であった。これを書いたときは36歳だった。やむにやまれずに書いたのではなく、自分の方法によって社会像を描くとこうなる、これ以外の描像はあるまいという主旨のパンフレットだった。多くの若者や芸術家や思想表現者を煽動することになった。 

≪014≫  1967年に書かれた『スペクタクルの社会』からの抜粋だ。この本はこうした221の断片からなる思想パンフレットのようなもので、刊行直後から話題騒然の一冊だった。革命や暴動にあこがれる学生たちによって頻繁に万引きもされた。 

≪015≫  パリ五月革命の渦中に書かれた一種の地下出版的なマニフェストだが、いまなおこんな本はない。中身が過激だったわけではない。新たな社会像のための知的な導入部を示したもので、社会哲学めいているのだが、その多少の難解さや「スペクタクル社会」という掴まえ方によって、60年代後半の「怒り」に火を付ける導火線の役割を決定的にはたした。 

≪010≫  60年代半ば、パリのギー・ドゥボールがそのことをみごとに衝いた。次のように。 

≪011≫  (4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体ではなく、イメージによって媒介された諸個人の社会的関係である。 (8)スペクタクルと実際の社会的活動とを嘲笑的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている。 (19)スペクタクルは哲学を実現するのではなく、現実を哲学化する。 (25)分離こそがスペクタクルのアルファでありオメガである。 (29)スペクタクルの起源は世界の統一性の喪失であり、また、現代のスペクタクルの途方もない拡張は、この統一性の喪失が全体的であることを表現している。 

≪016≫  理論的に世界観を示したわけでもない。だから『共産党宣言』のようなものでないし、そこに革命思想が提示されていたり解読されていたわけではないから、大塩平八郎の『洗心洞箚記』やオーギュスト・ブランキの四季協会のパンフレットのようなものではない。政治的ではあるが、その言いっぷりにはダダ宣言や未来派宣言のようなところがあった。あえて千夜千冊でいえばティモシー・リアリー(936夜)の『神経政治学』(トレヴィル)やハキム・ベイ(1117夜)の『T.A.Z.』(インパクト出版会)などを並べてもいいけれど、主旨も魂胆も異なる。 

≪017≫  著者のギー・ドゥボールは革命家で方法主義者で、思想牽引者で映画制作者であった。これを書いたときは36歳だった。やむにやまれずに書いたのではなく、自分の方法によって社会像を描くとこうなる、これ以外の描像はあるまいという主旨のパンフレットだった。多くの若者や芸術家や思想表現者を煽動することになった。 

≪018≫  ドゥボールの経歴と行動が奮っていた。かなり思いきったものなのだ。そのことが大きい。今夜は訳者の木下誠による解説を借り、当時の状況や思想者や表現者をあれこれの関連書を借りつつ、注釈入りで紹介しながら、本書の考え方とその背景を案内しておく。 

≪019≫  ドゥボールは1931年にパリで生まれ、リセでは成績はよかったものの、ひたすらランボー(690夜)、ロートレアモン(680夜)、アルチュール・クラヴァンに傾倒した。ありがちな早熟だ。  

≪020≫  15歳のとき、ドゥボールにとって大きな二つの出来事が開始した。カンヌ映画祭が始まったことと、イジドール・イズーとガブリエル・ポムランが「レトリスム」(Lettrisme)運動を発火させたことだ。これは冴えていた。 

≪021≫  ドゥボールはさっそくカンヌのクラブに入りびたりになって、イズーの映画《涎と永遠についての概論》に衝撃をうけ、レトリストたちと交流した。 

≪022≫  [注1]10代のドゥボールが心酔したクラヴァンはボクサーと詩人を兼ねた詩的パフォーマーである。オスカー・ワイルド(40夜)の甥だった。イサドラ・ダンカンやガートルド・スタインにぞっこんのミナ・ロイと一緒になった。谷昌親に『詩人とボクサー』(青土社)というすぐれた評伝がある。「ランボーよりも冒険的で、ワイルドよりも豪放で、ブルトンよりも繊細で、誰よりも絶望的な、伝説の詩人の初の評伝」と、帯にある。 

≪023≫  [注2]イジドール・イズーはルーマニア生まれの早熟中の早熟の天才で、13歳でドストエフスキー(950夜)、14歳でマルクス(789夜)、16歳でプルースト(935夜)に溺れた。大戦終結直後のパリに入って「レトリスム」(文字主義)を提唱し、きわめて前衛的な表現活動を展開した。言葉から音素を取り出して声喩や絵文字を多用した。ドゥボールはたちまちイズーのレトリスムにのぼせあがった。金子遊にイズー論がある。 

≪024≫  [注3]レトリスムの映画には、イズーの《涎と永遠についての概論》、モーリス・ルメートル《映画はもう始まったか》などのディスクレパン作品がある。ディスクレパン(英語ではdiscrepancy)は「矛盾した」「食い違った」「ちぐはぐの」という意味。もとは心理学用語だ。イズーの映画手法はタン・ブラッケージやゴタールに影響を与えた。 

≪025≫  20歳、パリ大学法学部に入るも、大学には行かない。サンジェルマン・デ・プレの外れのカフェ「シェ・モワノー」を拠点に、実験映像のシナリオをつくりはじめた。それが翌年のドゥボール21歳のときの映画《サドのための絶叫》になる。いまなお話題の超現実的なオムニバスな作品だが、映画作品全集『映画に反対して』(現代思潮社)の上巻に収録されたシナリオを読むと、そうとうに多様な表現方法を意図的に仕込んでいることがよくわかる。 

≪026≫  やがてイズーらが神秘主義に走ったことに反対して、ドゥボールはレトリスト左派を糾合すると、カンヌ映画祭粉砕に乗り出し、最初はアンテルナシオナル・レトリストを、ついではシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)を結成する。その間、女子矯正院の襲撃(未遂)、イマジニスト・バウハウスの提案、「ポトラッチ」創刊、ランボー生誕100年祭粉砕、パリの町での「漂流」実験などを、矢継ぎばやに放った。 

≪027≫  このあたりのドゥボールはダダや未来派やシュルレアリスムにかぶれながらも、14歳のときに第二次世界大戦が了って、フランスがナチスから解放された体験に煽られていたとおぼしい。ただし、イズーを神秘主義とみなしたのはドゥボールのジェラシーか浅知恵だったように思う。 

≪028≫  [注4]シチュアシオン(situation)は「状況」のこと。サルトル(860夜)に同名のシリーズ評論集10巻があるが、これは徹底したモーリヤック(373夜)批判から始まってアンガージュマン論、マルクス主義論、五月革命論に及ぶ幅広いものなのだが、今夜の文脈からははずれるので省く。 

≪029≫  [注5]これに対してドゥボールの言うシチュアシオンあるいはシチュアシオニストは、社会をまるごとスペクタクルとして捉え、そこにコミットしながらもそこを根こそぎ解体再構築しようとする立場をあらわしていた。上野俊哉に『シチュアシオン:ポップの政治学』(作品社)という好著がある。 

≪030≫  1956年、25歳のドゥボールは「転用の使用法」を書き、翌年には転用地図「心理地理学パリ・ガイド」を制作した。この「転用」(détournement)の方法思想が興味深い。 

≪031≫  「転用」といってもあれこれの方法やスキルのことではなく、ドゥボールらが「状況の構築」のために提起したかった方法の全体のことで、その「引っさらい方」がぼくには編集工学的におもしろかった。流用・転用・剽窃・模倣をものともしないところはブレヒト風の「異化」に近く、手法的にはモンタージュやコラージュを多用するのだが、ぼくからするとアブダクション(拉致)の方法思想にも通じていたのである。 

≪032≫  転用による作品もいろいろつくられた。ジル・ヴォルマンはそこから「メタグラフィ」を提唱し、ドゥボールがディレクションしたアスガー・ヨルンの『コペンハーゲンの終わり』では、フランス語・ドイツ語・オランダ語・デンマーク語にまたがって、小説・広告・地図・ワインラベル・コミック・天気予報・落書きなどが転用された。今日なら「リミックス」(remix)とも言いたいところだ。 

≪033≫  一方、ドゥボールは『回想録』(メモワール)を刊行して、その装幀をサンドペーパーにするのだが、これは書物自体が別の書物をアブダクトすることを画策したものだった。 1958年、SIの機関誌「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」の第1号が発刊された。アヴァンギャルドな機関誌というもの、たいてい短命なのだが、これは60年代の終わりまでちゃんと続いた。 

≪034≫  [注6]念のために言っておくが、ドゥボールの方法は「アンチ」なのではない。ロブグリエ(1745夜)の反文学(アンチロマン)やゴダールの反映画では、なかった。あくまでレトリストとしての「転用」による自在な侵犯なのである。  

≪035≫  [注7]ドゥボールには「心理地理学」(phychogéograpie)や「都市地理学批判序説」などの、都市をめぐる改革案がある。これは「都市のイメージ学」として先駆的なもので、のちにベルナール・チュミやレム・コールハースらの方法意欲が旺盛な建築思想に影響を与えた。「序説」にはドイツのハルツ山地をロンドンの地図に従って歩くといったプランも示されている。「インタースコア」の先駆的実験だった。 

≪036≫  [注8]アスガー・ヨルンは「コブラ」のメンバーでもある。COBRAはコペンハーゲン・ブリュッセル・アムステルダムの頭文字をとった芸術家集団で、ジョゼッペ・ピノ=ガリッツィオのイタリアの工房を拠点に活動し、「イマジスト・バウハウスのための国際運動」(MIBI)などを展開した。 

≪037≫  [注9]チュミはスイス生まれの建築家で、動物園、幼稚園、ニューアクアポリス・ミュージアム、公園などを設計した。『建築と断絶』(鹿島出版会)がある。コールハースはオランダ出身の建築家。シアトル中央図書館、ロスチャイルド銀行、プラダ財団などを設計した。ニューヨークそのものはスペクタクル建築都市として解剖した『錯乱のニューヨーク』(ちくま学芸文庫)がよく読まれた。ドゥボールはイヴ・クラインらのアーティストとも交流した。 

≪038≫  1960年、ドゥボールは「アルジェリア戦争不服従権に関する声明」に署名した。いわゆる121人声明だ。いよいよISも政治闘争の渦中に転じていったのかというと、アルジェリア人民とフランスのプロレタリアートの連帯の支持という意味では半ばはそうではあったのだが、半ばはカストリアディスやエドガール・モランやアンリ・ルフェーブルらの指導思想に強い疑問を呈して、政治革命ではなく社会像の変更に向かったのである。 

≪039≫  とくに61年のIS大会でラウル・ヴァネーゲムが「拒否のスペクタクルからスペクタクルの拒否へ」という宣言をしてからは、資本主義社会を飽くなきスペクタクル社会とみなしてその根本的転換を計るという姿勢が強調された。これはカストリアディスらのリバタリアニズムっぽい社会主義に巻き込まれないためにも必要だったようだ。 

≪040≫  それとともに、それまではさまざまな作品づくりがシチュアシオニストの活動とみなされていたのだが、その制作主義の姿勢にも限界があると指摘されるようになった。こうした急進性は一方で運動の分裂や集団からのメンバー排除をもたらすが、ドゥボールはまったく気にしなかった。 

≪033≫  一方、ドゥボールは『回想録』(メモワール)を刊行して、その装幀をサンドペーパーにするのだが、これは書物自体が別の書物をアブダクトすることを画策したものだった。 1958年、SIの機関誌「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」の第1号が発刊された。アヴァンギャルドな機関誌というもの、たいてい短命なのだが、これは60年代の終わりまでちゃんと続いた。 

≪041≫  [注10]アンリ・ルフェーブルはナチスのパリ占領に反対する論陣を真っ先に張った一人で、フランス共産党員でもあったため、ヴィシー政権によって公職から追放された。戦後はスターリニズム批判の急先鋒となったため共産党から除名され、ながらくパリ都市計画研究所の教授をしていた。ぼくは学生時代にルフェーブルをずっと読んでいて、なかでも『総和と余剰』『序説日常生活批判』(現代思潮社)に何度も目を通したこともあって、日常性(quotidienneté)と習慣(habitude)についての考え方にはかなり染められた。ピエール・ブルデュー(1115夜)がこの傘の中に出たことをすぐ理解できたのはこのせいだ。ドゥボールはそういう日常生活批判に徹したルフェーブルといっとき近しい関係にいて、ヴァネーゲム、ボードリヤール(639夜)、のちに五月革命のリーダーとなったコーン・ベンディットらとともにルフェーブルの講義に耳を傾けてもいたのだが、二、三の件で考え方を窘められてからは袂を分かった。 

≪042≫  [注11]コルネリウス・カストリアディスはギリシア出身のマルクス主義経済哲学者で、アテネ大学後にパリに入ってトロツキスト系共産主義組織にかかわり、戦後はリバタリアニズムを採り入れた『社会主義か野蛮か』を問うて、フランス左翼陣営に影響力をもった。 

≪043≫  [注12]エドガール・モランは超領域を横断した幅広い思想家だ。68年、ルフェーブルに代ってパリ第十大学ナンテールに赴任した。学生コミューンを親身に理解しようとしたが、ISからはそのブルジョワ性にケチをつけられた。大著『方法』は①「自然の自然」、②「生命の生命」、③「認識の認識」、④「観念」、⑤「人間の証明」で構成されている。総バナ的な著作だが、いつか千夜千冊したいと思っている。 

≪044≫  60年代半ば、国際社会は激しい米ソ対立の渦中にいた。ケネディとフルショフが対峙し、核の一触即発をちらつかせるキューバ危機などがおこっていた。ドミノ理論によって世界の共産主義化の連続を封止しようとしたアメリカは、トンキン湾事件を口実に65年からはインドシナ半島の「自由主義化」と「民主化」を強引に図るべく泥沼のようなベトナム戦争に突入した。各国の反戦運動がこれに呼応した。 

≪045≫  66年、中国では市場経済を導入しようとする走資派に対して反撃を企てた毛沢東による文化大革命が一挙に進行し、先進諸国の労働者や学生たちは共産主義革命の可能性に対して幻想を抱くようになっていた。その一方で、ソ連のスターリニズムが暴かれ、その反動的な側面を批判する左翼思想によって武装する学生や労働者たちが急増した。 

≪046≫  ド・ゴール政権のフランスでは、かつてのインドシナ侵略や進行中のアルジェリア植民地化を糾弾する反体制運動が起爆しようとしていた。第三世界の民族解放闘争にも火がついてきた。 

≪047≫  こうしたなか、ドゥボールらは官民が「核シェルター」の建設に向かっていることに激しい疑問を投げかけ、一部国民の「生き残り」によって戦争のスペクタクルを巧妙に回避しようとするド・ゴール主義に反対の狼煙を上げた。核シェルターは「遅延された自殺」にすぎず、それこそは「日々の生」を断念するものだとして「冬眠の地政学」を糾弾したのである。デンマークが準備しつつあったRSG6(政府地域核シェルター6号)の粉砕闘争も指導した。 

≪048≫  同じ66年、ストラスブール大学の当局スキャンダルに対してISが呼びかけた闘争にはフランス全学連(UNEF)のストラスブール支部が呼応し、パンフレット「学生生活の貧困」が印刷され、増刷につぐ増刷で飛ぶように売れた。このパンフレット、正式には「経済的、政治的、心理的、性的、とりわけ知的観点から考察された学生生活の貧困およびそのいくつかの治療法について」という。 

≪049≫  [注13]ドミノ理論はアイゼンハワー&ダレス時代に、ある一国が共産主義化すればドミノ倒しのように隣接する国々が共産主義化するというアメリカの外交戦略用語。南ベトナムのゴ・ジンジェム政権にテコ入れするとき採用され、かえってベトナム戦争の長期化を招いた。 

≪050≫  [注14]中国は劉少奇や鄧少平が党中央の実験を握り、市場経済を導入しようとしたが、これを「走資派」「反革命勢力」として批判した毛沢東は文化大革命の大号令を発した。各地の学生部門に紅衛兵が組織され「毛沢東語録」が大量に配布されると、いたるところで反動分子とみなされた者たちが過激な吊るし上げにあい、粛正という名の殺戮が横行した。その暴徒性は毛沢東にも抑制できなくなり、やむなく紅衛兵たちの「下放」(地方農村に送りこむ作戦)を進めるようになった。文化大革命が欧米日にもたらしたインパクトはけっこうなものだった。たとえば細野晴臣や坂本龍一らの「イエローマジック・オーケストラ」は文化大革命へのシンパシーにもとづいていた。 

≪051≫  [注15]フランス全学連(UNEF)にもスターリニズムが蔓延しつつあった。ストラスブール・スキャンダルを機に立ち上がったストラスブール学生総連合会(AFGES)はフランス全学連の内部からの闘争でもあった。同じころ、日本共産党批判から生まれた日本の全学連も、その指導部だった革共同(革命的共産主義者同盟)が割れて、激しい分派内部闘争に突入していた。革マル派と中核派が対立していったのはこのときからだ。 

≪052≫  1967年、シチュアシオニストの理論を示す記念すべき2冊の本が街頭を駆けめぐった。ラウル・ヴァネーゲムの『若者用処世術概論』とギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』だ。ヴァネーゲムの本は若者の疎外状況からの解放と欲望の見つめなおしを説き、ドゥボールの本は社会のスペクタクル的本質を理論的に解明しようとした。 

≪053≫  68年3月、パリ大学ナンテール校でベトナム反戦を訴える活動に大学当局の締め付けが発覚した。この過剰な管理主義に反対闘争がおこると、これがただちにソルボンヌ大学に飛び火し、5月3日以降、連続的なキャンパス集会に対する機動隊の導入が断行され、学生の大学占拠、学生排除、大学閉鎖、バリケード闘争が連打された。 

≪054≫  のみならず、これに対する学生、市民、労働者の抗議と反撃が拡大し、街頭デモ、国立劇場オデオン座の占拠、フランス全土での大学闘争、ルノー自動車工場の反乱、さらには郵便局・鉄道・空港・飛行機工場、また放送局、タクシー会社などが次々にゼネストや山猫ストに突入し、わずか1カ月のあいだにフランスの総人口5000万人のうちの約1000万人が前代未聞の「反労働状態」に達したのである。いわゆる「五月革命」だ。  

≪055≫  パリの街頭にバリケードが築かれ、カルチェラタン(パリラテン区)が解放区となり、各地にゲバラや毛沢東の肖像ビラが乱舞した。ナンテール校で決起を支援したダニエル・コーンベンディットは「赤毛のダニー」や「黒いアナキスト」としてスター扱いされ、サルトル、ルフェーブル、ゴダール、ドゥボールらが支援を表明した。 

≪056≫  慌ててCGT(労働総同盟)は懐柔策にのりだし、ド・ゴール政権は巻き返して政府と労働組合のあいだに10パーセントの賃上げを約束し、辛うじてゼネスト事態が収拾された。まことにあっけない収拾だったが、五月革命の激震と傷痕はその後の社会文化状況の「説明」のフレームワークを決定的に変更した。 

≪057≫  ゴダールは五月革命のさなかのカンヌ映画祭にトリュフォー、ルルーシュ、ルイ・マル、ポランスキーらとともに乗り込んで各賞の選出を中止に追い込み、匿名の映像制作運動「ジガ・ヴェルトフ集団」を走らせた。戦争捕虜の体験とカトリック体験があるルイ・アルチュセールは反スターリニズムを連呼してその後のマルクス主義思想の指針を示し、ドゥルーズとガタリは五月革命のカフェで何度も語りこんで『アンチ・オイディプス』の構想を出撃させた。日本では多くの大学で全共闘運動が火の手をあげた。 

≪058≫  [注16]68年3月22日のパリ大学ナンテール校の出来事と、それがソルボンヌに飛び火した経緯は、いまではかなりわかっている。コーンベンディットがアジの先頭を切った。右翼のオキシデンタル・グループがナンテールを攻撃するという噂のなか、キャンパスが封鎖されると、5月3日、追放学生約500人がソルボンヌ大学に移動してそこを占拠した。警察とCRS(フランス保安機動隊)が導入されて数百名の逮捕者が出て、学生の多くがラテン区に向かい街頭バリゲードを築いたのである。 

≪059≫  [注17]5月13日、CGT・CFDt・FENなどの労組各組と左派政党が24時間ストライキを呼びかけ、約80万人が呼応した。翌々日、ストライキは200万人になり、事態はゼネスト状態に向かっていった。20日、フランス全学連(UNEF)とCFDT(総同盟)が記者会見を開いて「労働者と学生の闘争は同じである」と声明、ストライキは一挙に広まり、フランス放送協会は放送を中止した。22日、ストライキが800万人に達すると、首謀者とみなされていたコーンベンディットは国外追放された。 

≪060≫  [注18]五月革命はナンテールとソルボンヌの学生の蜂起に始まった。その闘争をド・ゴール体制の打倒と設定して学生運動を指導したのがアナキストのダニエル・コーンベンディット、および統一社会党のジャック・ソヴァジョ、毛沢東主義者のアラン・ジェスマル、トロツキストのアラン・クリヴィーヌだった。ダニエルはパリに亡命してきたユダヤ系ドイツ人で、ナンテール大学で社会学を学び、無政府主義連合に入って機関誌「黒と赤」の編集を担当していたのだが、彼を過激な行動に向かわせたのは、反米反ソの思想をもって学生運動を指導していたルディ・ドゥチュケがベルリンで銃弾で撃たれ、イラン皇帝パフラヴィーのドイツ訪問に反対した学生ベンノ・オーネゾルクが警官に射殺されたことだった。1967年3月、ナンテールで女子寮改変事件がおこると、ダニエルは「3月22日同盟」を結成して直接行動を開始した。ただ5月22日に拘束され、国外追放されたため、後半の活動には参加していない。その後「緑の党」に入り、フランクフルト副市長をへて欧州議会の議員になった。『学生革命』(人文書院)が翻訳されている。及川健二の『沸騰するフランス』(花伝社)に興味深い紹介がある。  

≪061≫  [注19]アルチュセールには1968年2月に「ウニタ」に書いた『革命の武器としての哲学』があるが、カルチェラタンが燃えたときはやや心身を喪失していた。 

≪062≫  五月革命後、ISのメンバーはブリュッセルに亡命したのち、いくつかの総括を発表した。ボリシェヴィズムを夢想したことで首尾一貫性が失われたが、総じてはプロレタリアートの革命的実践意識を高めたものだというものだ。 

≪063≫  いささか甘い総括と言わざるをえないけれど、ドゥボールはその立場から国際革命派や労働者通信情報派らとの連動を試みて、シチュアシオニストの活動を続けた。72年には「シチュアシオニスト・インターナショナルとその時代に関するテーゼ」を発表、プロ・シチュをはげしく糾弾した。プロ・シチュというのは自称シチュアシオニストのことで、五月革命を機に数千人がいたといわれる。 

≪064≫  73年、映画プロデューサーのジェラール・ルボヴィッシュと知り合い、自作の『スペクタクルの社会』の映画化にとりくむと、イタリア・スペインのシチュアシオニストや映画関係者と交流した。83年、ルヴォヴィッシュがドゥボールのために専用映画館「スタジオ・キュジャス」をつくったが、翌年、ルヴォヴィッシュか何者かによって暗殺された。 

≪065≫  87年、『スペクタクルの社会についての注解』(現代思潮社)を、89年に自伝『パネジリック』を刊行。しだいに病苦に蝕まれるようになり、1994年11月、自宅でピストル自殺した。享年63歳だった。  

≪066≫  五月革命後、ISのメンバーはブリュッセルに亡命したのち、いくつかの総括を発表した。ボリシェヴィズムを夢想したことで首尾一貫性が失われたが、総じてはプロレタリアートの革命的実践意識を高めたものだというものだ。  

≪067≫  いささか甘い総括と言わざるをえないけれど、ドゥボールはその立場から国際革命派や労働者通信情報派らとの連動を試みて、シチュアシオニストの活動を続けた。72年には「シチュアシオニスト・インターナショナルとその時代に関するテーゼ」を発表、プロ・シチュをはげしく糾弾した。プロ・シチュというのは自称シチュアシオニストのことで、五月革命を機に数千人がいたといわれる。 

≪068≫  73年、映画プロデューサーのジェラール・ルボヴィッシュと知り合い、自作の『スペクタクルの社会』の映画化にとりくむと、イタリア・スペインのシチュアシオニストや映画関係者と交流した。83年、ルヴォヴィッシュがドゥボールのために専用映画館「スタジオ・キュジャス」をつくったが、翌年、ルヴォヴィッシュか何者かによって暗殺された。 

≪069≫  87年、『スペクタクルの社会についての注解』(現代思潮社)を、89年に自伝『パネジリック』を刊行。しだいに病苦に蝕まれるようになり、1994年11月、自宅でピストル自殺した。享年63歳だった。  

≪070≫  なぜそうなのかはわからないが、今日、ドゥボールの思想と行動と表現は十分に理解されてはいない。 日本では、ぼくが知るかぎりは木下誠が『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』全部6巻(インパクト出版会)を監訳刊行させたこと、「現代思想」2000年5月号で「スペクタクル社会」特集が組まれたこと、小倉利丸や上野俊哉がときどきシチュアシオニストに言及していること、数年に一度ほど前衛映画ファンが木下を招いてギー・ドゥボールの映画の上映会を開いていることくらいだ。 

≪071≫  必ずしも『スペクタクルの社会』が読みこむに足らないものだという印象があるかもしれないが、それはどうか。 ぼくは「レトリスム」や「転用」について、そしてやっぱりスペクタクルについて(社会論だけでなくスペクタクルそのものについて)、もうすこし議論が沸騰するほうがいいと思っている。 

≪072≫  たとえばカール・シュミットの『政治的ロマン主義』(未来社)や『パルチザンの理論』(ちくま学芸文庫)、フェリックス・ガタリの『三つのエコロジー』(平凡社ライブラリー)、ダニエル・コーエンが68年5月から始めてAIまでを説きおこした『ホモ・デジタリスの時代』(白水社)、SARSのときに今日のコロナ禍状況を見抜いた美馬達哉の『〈病〉のスペクタクル』(人文書院)あたりを読んでもらうといい。 

≪073≫  ぼくもあらためて、ジャック・ランシエールの『解放された観客』(東京大学出版会)、ジョルジュ・アガンベンの『事物のしるし』(ちくま学芸文庫)、平野圭の『かたちは思考する』(東京大学出版会)、イメージ文化史の鈴木雅雄の『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社)、フランソワーズ・ルヴァイヤン『記号の殺戮』(みすず書房)、いまさらではあるとも思うがフェルディナンド・フェルマンの『現象学と表現主義』(講談社学術文庫)など、もう一度読みなおしてみたい。 

≪074≫ [注20]最初に書いておいたように、スペクタクルは示威でもあった。示威行為はデモンストレーションであるが、これは英語の“demonstration”という綴りを見ればわかるように、そこに隠れていた“monster”(モンスター)を外に(de)暴いてみせること、「デ・モンスター」することをいう。ひそんでいた怪物を見せること、それが示威であり、デモンストレーションであり、スペクタクルだったのだ。 

≪075≫ [注21]カール・シュミットやガタリはシチュアシオニストではないが、その思想の骨格に政治体と社会体と行動体の輻湊構造を暴いて、そこにつねに編集的社会像が立ちあらわれてくることを意図していたと思われる。そういうこと、もう一度考えてみたいのである。 

≪01≫ 時は流れるのではなく、堂々めぐりをするのだ。 ガルシア・マルケス『百年の孤独』  

≪02≫  世代の呼び名はいろいろだ。ガートルード・スタインがヘミングウェイ(1166夜)やフィッツジェラルドやドス・パソスらに名付けた「ロスト・ジェネレーション」などは、うまいネーミングだった(千夜千冊エディション『サブカルズ』参照)。それにくらべて堺屋太一が名付けた「団塊の世代」(1947~49年生まれの世代)など、つまらない。  

≪03≫  1995年以降に生まれた世代をアメリカのメディア・ジャーナリストはiGen(アイジェン)と呼んだ。ウィンドウズ95のGUIとともに生まれたi-generationのことだ。いっときはジェネレーションZともZ世代とも、Zoomを多用するのでズーマーズとも言われた。いわゆる「デジタル・ネイティブ」のこと、もっと端的にいえば完全スマホ世代のことだ。 

≪04≫  編集工学研究所の周辺やイシス編集学校にもiGenがふえてきて、いろいろ驚かせてくれる。外見も喋りもおとなしく、リアルな場面では気も利かないようなのだが、ネットでのふるまいになると、ゆきとどく。知的に丹念になれるし、言葉づかいが大胆にもなる。そこでどんな子かと面と向かって話してみると、期待に反してまるで反応が鈍く、寸鉄人を刺すようなことなどめったに言わないので、がっかりする。ところがそのときのことを数日後に「i」にしたもの(レポートやブログなど)を見ると、かなり深いリプリゼンテーションになっている。寸鉄もある。 

≪05≫  聞けば、アメリカでは「ニューサイレント・ジェネレーション」とも言われているらしい。なるほど、これがiGenか。ニューリテラシーの持ち主なのか、7~8年前は気がつかなかった子たちである。編集学校の師範の加藤めぐみ、中村麻人、網口渓太、師範代の梅澤光由や梅澤奈央、上杉公志、編集工学研究所のデザイナー穂積晴明らがおもしろい。きっと次代のスターになるだろう。 

≪06≫  2007年1月にアップルがiPhoneを発表したとき、iGenの年長組は12歳だった。以来、スマホ世代は一日平均6時間をオンライン・メッセージのやりとりとSNSの覗き見とネットサーフィンに使うようになった。思考も行動も根っから「i」である。それはかれらにとってはべつだん特別なことではなく、かつてのラジオや電話やウォークマンのようにごくごく当たり前の常用ツールとともにいるだけなのだが、スマホの「ユビキタス受発信状態」が通信キャリア的にシームレスな身支度になりきっているところが、これまでとは違う。 

≪07≫  スマートニュースを起業して業界を賑わせた鈴木健君が『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)を書き、同じ年にドミニク・チェン君(1577夜)が『インターネットを生命化する』(青土社)を書いたのは2013年だ。新たな世代の登場を感じたが、まだ「i」を体現しているわけではなかった。ぼくはやっとこの数年でニッポンiGenの「iリテラシー」のおもしろさを感じるようになった。 

≪08≫  本書はIGenに戸惑っているオトナに向けて綴られた一冊だ。2018年にフランスで刊行され、たちまちベストセラーになった。ただし著者は、スマホ世代的なるものはもっと以前からいろいろ変遷してきていたもので、いまどき始まったのではないという立場だ。それをまとめて、とくにうまい命名とは思わないが、「ホモ・デジタリス」(Homo Digitalis)と名付けた。 

≪09≫  ホモ・デジタリスがいつから準備されていたかというと、10年前ではない。半世紀前から用意されていたと本書は説く。半世紀前の1968年、パリでギー・ドゥボール(1763夜)やコーンベンディットやゴダールらによる五月革命がおこっていたのだが、そのときすでに「i」的なるもののスタートが切られていたというのだ。その「i」は情報のiやインテリジェンスのiやインディヴィデュアルのiではあったが、むろんiPhoneのiではなかった。 

≪010≫  五月革命から50年目に本書を書くことになった著者は、だから「68・5」とその余波の動向から起筆し、一冊を通してそれ以降、ホモ・デジタリスに根ざした世界がどのように「i」化してきたのかを追った。 

≪011≫  五月革命後、世界は資本主義の多くの要素がグローバル化され、世の中はIT社会になり、そのままグーグルをはじめとするGAFAに覆われてしまったが、それは「68・5」に始まったホモ・デジタリスの精子と卵子の蔓延だったのではないかというのが、本書の主旨なのである。 

≪012≫  著者のダニエル・コーエンはパリ高等師範学校経済学部長で、「ル・モンド」の論説委員。2006年に富の再分配理論を研究するトマ・ピケティらとともにパリ経済学校を設立した。 

≪013≫  もともとの専門は国際債務学だが、ベストセラーになった『経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える』(作品社)ほか、『迷走する資本主義』(新泉社)、『経済成長という呪い』(東洋経済新報社)など、多くの文明論的な著作がある。いずれも必ずしも深い内容ではないけれど、視野はめっぽう広く、ライターとしては文明の「刻み目」を浮上させるのがうまかった。 

≪014≫  最近のNHKスペシャル「欲望の資本主義2021」(2021年正月放映)にも、ゲスト・コメンテーターとして駆り出されていた。「無形資産」に焦点をあてた番組で、エンプラ(NHKエンタープライズ)の丸山俊一ディレクターの企画だった。 

≪015≫  本書の書名の「ホモ・デジタリス」は本文には何度か出てくるコーエンの出来の悪い造語で、われわれはメディアとともにいつのまにかデジタライズされた人類になっているという意味だ。この言葉は日本語訳の本ではタイトルに押し上げられているが、フランス語の原題はちがう。“Il faut dire que les temps ont changé‥‥Chronique (fiévreuse) d’une mutation qui inquiéte”である。直訳すると『時代は変わったというべきか‥‥懸念される変化の(うなされるような)編年史』というもので、この「うなされるような歴史」にまみれたのがホモ・デジタリスとしてのわれわれだという書名だ。 フランス語が得意な白水社にして、うまい訳題が思いつけなかったのだろう。よくあることだ。 

≪016≫  冒頭、ホモ・デジタリス誕生の歴史は「68・5」に始まったとあって、五月革命がどういうものであったのか、手短かにまとめている。まとめたうえで、当時の「68・5」は個人主義の拡大を準備して経済的自由主義の基盤をつくったのか、それとも逆にそのころ拡大しつつあった個人主義に対するアンチテーゼであったのかと問うて、コーエンは「68・5」がそのいずれの答えも出せなかったと見た。 

≪017≫  それでどうなったのかというと、消費社会とリビドー経済が蔓延して、われわれはいつしかホモ・デジタリス化することを余儀なくされていったのだ。Nスペ風に言うと「無形資産」に向かっていったのだ。  

≪018≫  ボードリヤール(639夜)は、その消費社会が快適さとヒロイズムを求めすぎたため、社会が意味するものをことごとく受け身にしてしまったと指摘し、社会の産物の多くがシミュラークル(擬物)に転じたと述べた。ブルデュー(1115夜)は社会がそうなったのは知的プロレタリアートの思想の貧困によっていたのではないかと訝り、フロイト派のウィリアム・ライヒは性欲の抑圧が革命的な高揚を失わせたのだと仮説した。 

≪019≫  戦後知識人はみんな似たり寄ったりの意見を述べたともいえるし、仮に「68・5」が分岐点だったとしても、それぞれがそこから別々の展望を引き出そうとしていたともいえる。 

≪020≫  知識人たちの反応には、共通して言明していたこともあった。それはレヴィ=ストロース(317夜)、フーコー(545夜)、アルチュセール、ラカン(911夜)がおおむね加担した見方で、「人間は自己を決める構造の産物であって、自身の行動の主体ではない」というものだ。「主体主義はものにはなるまい」という見方である。これは今日のスマホ世代を予告していた。 

≪021≫  ホモデジ化や無形資産化の兆候は、既存の体制社会や富の資本主義への反抗でもある。あるいは仮想世界の可能性の訴えでもあった。ポップカルチャー界でもそうした「反抗の行方」とその歪みが先走って表現された。 

≪022≫  「68・5」ではヴェルベット・アンダーグラウンドやレッド・ツェッペリンが先駆して、続いてデヴィッド・ボウイやピンク・フロイドがロックを通して「反抗の行方」を主張した。ボブ・ディランは「僕はいっしょうけんめい僕でいようとしたけど、みんなは君をやつらと同じような人間にしたがる」と歌った。こちらは鏡に映った人間をくらべるというラカン現象を先取りしていたのかもしれない。 

≪023≫  いまでもとてもよく思い出せるのだが、スタンリー・キューブリック(814夜)が1971年に発表した『時計じかけのオレンジ』(アンソニー・バージェス原作)は、68年前後の若者が何に苛ついていたのかを巧みに告知していて、主人公のアレックスたちにナッドサット語(押韻俗語)を喋らせていたのが、気味悪いほど鮮烈だった。いま思えば、あれが当時のiGenの反抗期で、i的ヒップポップだったのだ。 

≪024≫  思想的なふりかえりやポップな変化はまたあとで加えるとして、「68・5」後に実際の世の中で何がおこっていったかというと、日本では1970年にIT的にはシャープがやっと10万円を切る電卓を発売したばかりだったのだが、前年に東大全共闘によって入学試験が中止になり、70年3月には赤軍派が日航機よど号をハイジャックして、11月には三島由紀夫(1022夜)が市ヶ谷自衛隊前庭で自害した。 

≪025≫  憤懣やるかたなきものが、まだ蠢動していたのだ。世界も同じだ。72年にパレスチナ武装組織「黒い九月」がミュンヘン・オリンピックでテロ暴動をおこし、ブリュッセル発のサベナ・ベルギー航空のボーイング707をハイジャックした。日本赤軍の岡本公三らはこれに呼応してテルアビブ空港を乱射した。  

≪026≫  しかしこうした過激な暴発はふいに退潮していった。1973年に第4次中東戦争(ヨム=キプール戦争)をきっかけにして、別の騒動の中に消えていったのだ。OPEC(石油輸出機構)が減産を決定したため、原油価格が一挙に高騰したのである。世にいう「オイルショック」だ。 

≪027≫  以降、世界中の工業界に翳りがおとずれ、ジスカールデスタンとミッテランはフランス製鉄業の国有化を検討し、日本は八幡製鉄と富士製鉄を合併させて新日本製鉄にした(それでもまにあわず、のちに新日鉄住金になった)。社会はきっと「脱工業化」に向かうだろうことが見えてきた。ダニエル・ベル(475夜)が予言していた「脱工業社会」(post-industrial society)が近づいてきたのだ。

≪028≫  工業が衰退すれば、どうなるか。工業に似せてつくった社会も衰退する。トイレットペーパーを買いだめする必要はないが、工場労働者の環境が変化して、各地の工業団地にいた人口が拡散し、労働組合が変質する。 

≪029≫  革命派は焦った。政治家も焦った。81年にフランス大統領になったミッテランは公約を破って製鉄業を見捨てることにし、アンドレ・ゴルツは『さらばプロレタリアート』を書いた。 

≪030≫  70年代後半は「鉛の時代」とも「チープシックの時代」ともなり、都市からちょっとだけ離れた郊外が求められ、スーパーマーケットとテーマパークがどこにも用意され、自分だけの体をチューニングするためのジョギングが流行した。80年代に入ると、家族ぶんの「しあわせ」が求められた。フーコーやアルチュセールが予想した主体主義からの脱却は、思わぬ方向に転じていったのだ。 

≪031≫  そんな生ぬるい状況が許せない「赤い旅団」はイタリア首相モーロを誘拐し、極右集団はボローニャ駅を爆破したが、のちのアンリ・ウェーバーらの研究で、そういうことをおこしたのは主に「ドイツとイタリアと日本」だったことが判明した。三国同盟の敗戦国がむらむらしつづけたのである。 

≪032≫  もうすこし、その後の流れを追っておく。革新勢力がもたついているうちに保守革命が進捗し、世界中で右派の政治家が盛り返していった。 

≪033≫  大学で化学とハイエクにとりくんでいたマーガレット・サッチャーは1979年に首相に就任して、電話・ガス・空港・航空・水道などの国有企業の民営化を断行すると、ミルトン・フリードマン流の「新自由主義」(ネオリベ)政策にとりくんだ(1338夜『資本主義と自由』参照)。イギリスの消費税は8パーセントから15パーセントに引き上げられ、高い失業率が続くことになったが、途中からリフレーション政策に転換した。 

≪034≫  サッチャーが「食いたければ働きなさい」と言ったように、映画俳優上がりのロナルド・レーガンも似たような政策に固執した。ネオリベ経済主義と保守権力主義が結びつき、トリクルダウン説がまことしやかに出回った。金持ちが豊かになるのを妨げてはいけない。貧しい者は政府や自治体からの救済を受けるよりも、金持ちが大きな利益を得ることのほうから恩恵を受けるはずだというのだ(→トリクルダウン説がでたらめであることは、のちにトマ・ピケティが暴いた)。 

≪035≫  サッチャリズムとレーガノミクスはイスラエルのメナヘム・ベギンのリクード(ベギンの政党)に飛び火して(中曽根自民党にも飛び火したが)、経済自由化によって金持ちを優遇しまくった。ベギンはミズラヒム(スファルディ系のユダヤ人)を移民労働者として受け入れる政策をすすめたのだが、それは自由経済の犠牲者をふやすことだったのである。 

≪036≫  こうして意外なことに「信仰と経済を合体する政策時代」が到来したのだ。日本では84年から公明党が政界のキャスティングボードを握りはじめ、93年に与党になった。しかし、その意味を日本のマスメディアは詰問しなかった。インドにおけるヒンドゥ主義の容認がレーガノミクス同様のマネー資本主義の受容でもあったことは、ダニエル・リンデベルクの『啓蒙の過程』が指摘した。かつての啓蒙主義はマネー啓蒙主義に変わったのだ。 

≪037≫  アーヴィング・クリストルは新保守主義が「宗教・国粋主義・経済成長」の掛け算でつくれるとみなした。しかし、この見方はおおざっぱすぎた。実際に新保守主義をつくりあげたのは「株主資本主義」とウォール街の「金融工学」のテクニックだった。 

≪038≫  ベルリンの壁が崩壊し(89)、ゴルバチョフ後のソ連があっけなく解体すると(91)、欧米のリーダーたちは「われわれは誰と戦うべきか」とか「誰が敵なのか」と言う必要がなくなって、ひとつにはEUの理想の追求と共通通貨ユーロの導入に走り、もうひとつには国内の大衆人気を獲得することが狙いになった。これが「ポピュリズム」の蔓延につながった。 

≪039≫  90年代のポピュリズムは南アメリカで実験済みのシナリオに乗ったものだった。アメリカのパナマ侵攻(89)が事前のお膳立てだ。アルゼンチンのペロンに始まり、ブラジル、チリ、コロンビア、ベネズエラで、フリードマン流のネオリベ・ポピュリズムが次々に試された。ベネズエラのチャベスのように反米主義を掲げる大統領もいたが(1232夜『反米大陸』参照)、しょせんはポピュリズムの裏返しであった。 

≪040≫  かつてハンナ・アーレント(341夜)が『全体主義の起源』(みすず書房)で「群衆は共通の利益を意識しているのではない」と述べ、ル・ボンが『群衆心理』(講談社)で「個人は群衆の感情的な欲動に服従すると合理的な判断を失う」と述べたにもかかわらず、資本力と軍事力を背景にしたポピュリズムは21世紀のためのすこぶる有力な戦略になっていったのである。 

≪041≫  しかしポピュリズムは内政の目くらましにはなっても、国際戦略には役に立たない。長らく植民地主義で覇権を取ってきた欧米リーダーたちは、新たな「敵」を見つける必要があった。では、どこをどんな「敵」にするか。そんな「敵」はいるのか。 

≪042≫  そうしたなか、またまた予想外のシナリオが新たな地域で起動していった。オイルショック後に新たな立て直しをはかってきた中東諸国がイスラム主義を持ち出したのだ。そこには、かつてソ連の侵略に戦ったムジャヒディンらの流れを汲む過激派によるテロリズムが起動した。あんなにでたらめだった毛沢東の文化大革命があったにもかかわらず、中国が共産党型資本主義に転じたのも意外だった。焦りまくった欧米エリートによる「敵」の認定作業が始まった。 

≪043≫  80年代のバブルがはじけた日本は、以降「失われた十年」に突入する。リストラ、貸し渋り、失業者の増大、引きこもり、大学からの教養学部や文学部の脱落だ。そこへ阪神淡路大震災がおこり、地下鉄サリン事件が企まれ、モーニング娘。と石原都知事が何くわぬ顔で世間を賑わせた。 

≪044≫  何事も口実があれば始まるものだ。表向きは90年にフセインのイラク軍がクウェートに侵攻したのがきっかけだった。翌年、父ブッシュは湾岸戦争を仕掛け、95年にはクルディスタンをフセインの対抗勢力に仕立てた。けれどもまだ「敵」の正体がつかめない。 

≪045≫  ブッシュに対する報復は、ビンラディンの用意周到な筋書きによって9・11に炸裂した。2001年になっていた。モロッコ出身のエルマンジュラ(720夜)は湾岸戦争に始まった欧米とイスラム勢力のあいだにおこった戦乱を、民族のズィクル(記憶)を消すための「第一次文明戦争」と名付けた。当たっていると思う。欧米は泡を食らったようにテロリストを「敵」と見定めることにした。お門違いもいいところだった。 

≪046≫  こうして21世紀のジハード(聖戦)はプロレタリアートや民衆コミューンによって推進されるものではなくなったのだ。代わって何が登場してきたのか。NPOとNGOと、そしてインターネットである。 

≪047≫  89年にティム・バーナズリーとロバート・カイリューがWWWを開発し、94年にベゾスがアマゾンを、98年にブリンとペイジがグーグルを始めた。こうして「ネット」が君臨することになったのである。 

≪048≫  アルゴリズムという鍵と鍵穴で仕上がったネットは敵をさらに見えにくくさせていった。リアルな政治家たちが敵を見失ったのなら、それは世界が検索不可能になったからだった。それなら世界に代わるセカイを検索可能にしていけばいい。 

≪049≫  このことに気がついたのがグーグルである。セルゲイ・ブリンは「ページランク」の検索アルゴリズムを拡張可能な「クローラー」に変更すると、インターネット上のあらゆる情報を収集検索できるようにした。ここに、リアルな現実世界の上に構築できる仮想世界「メタヴァース」が誕生することになった。 

≪050≫  2003年、ヒトゲノムの塩基配列解読が大きな転換点になった。ホモ・サピエンスがついに「情報コード」として解読されたのだ。細胞機能さえ万能細胞(ES細胞)から再生できることになり、多能性(pluripotency)と全能性(totipotency)がごっちゃになってきた。 

≪051≫  2年後ジョード・カリムがユーチューブを立ち上げ、その翌年にジャック・ドーシーが初めてのツイートをやってみせた。ネット上での擬似万能細胞化がすすみ、そしてスティーブ・ジョブズが2007年にiPhoneを発売して、いよいよ世界に代わるセカイのための本格的な「i」時代がやってきたのである。 

≪052≫  これらの一連の「i」の乱舞は何をおこしたのだろうか。マン&マシン、リアル&ヴァーチャルが互いに重なるように紛れていったのだが、「68・5」以来のリアル社会側の用語でいえば「敵」を見えなくさせていったのだ。 

≪053≫  コンピュータ・ウイルスも見えないし、GAFAの協調フィルタリングの向こう側でおこっていることも見えない。そのシステムを覗きにいくハッカー集団の顔も見えないし、ネットで爆発的なアクセス数を誇りあう「大衆」も見えない。かれらはユーザーではあるが、リプリゼンテーターでもあった。 

≪054≫  見えない敵を相手にするより、味方をふやすほうがいい。グーグルの「セカイ」サービスを受ける全ユーザーは、そう思った。そういう味方なら、ダンカン・ワッツ(1482夜)が6次のスモールワールドの増殖として説明したように、ネット状にふえていくはずだ。そう考える連中が「味方をふやす技術」を開発していったのは当然だった。 

≪055≫  かくて、何であれビッグデータ化しておいて、それをコンピュータがディープラーニングして「見えないところでの学習成果」を誇るAIもしゃしゃり出てきた。AIはいまはまだまだ万能ではないが、人新世(アントロポセン)をもたらした産業革命期の蒸気機関やエジソンの発明群やチューリング・マシンにくらべると、ずっと自己学習的になっている。機械が「自己」ないしは「自己らしさ」をもつだなんて、ホモ・デジタリスとしてはたいした成長だった。 

≪056≫  おそらく機械はこのような日がくることを希(ねが)っていたのかもしれない。カメラ、レコード、電話、ステレオ、自動車、観察人工衛星、ミサイル、ステルス戦闘機、VR、ドローン、3Dプリンター、みんなそのつもりだったのだろう。作業ロボットやアンドロイドやサイボーグも、同じ未来をめざした。 

≪057≫  この望みはどうなるのか。ROIの開発者で、スタンフォード大学のロボット工学者ハンス・モラベックの『シェーキーの子どもたち』(翔泳社)や『マインド・チルドレン』(未訳)は、近々ホモ・サピエンスが「AIにつながった知的情報装置」から未来を教わる日もくるだろうと予告し、MITからグーグルに席を移した未来学者のレイ・カーツワイルは、ヒトという生物が珪素(=シリコン・コンピュータ)と融合するシンギュラリティ(特異点)が実現するのは2045年あたりのことだろうと予言した。  

≪058≫  こんな薔薇色のデジタル・ユートピアを描いていていいのだろうかと思うばかりだが、そこにとんでもない高額所得者が誕生していったことも特筆される。ビル・ゲイツ(マイクロソフト総帥)、ジェフ・ベゾス(アマゾン総帥)、ラリー・エリソン(オラクル総帥)、ラリー・ペイジ(グーグル総帥)、イーロン・マスク(テスラ総帥)、ピーター・ティール(ペイパル総帥)、マーク・ザッカーバード(フェイスブック総帥)、軒並みがITC関連だ。 

≪059≫  かれらは工場も従業員の数もふやすことなく、CEOとしての所得を、かつての「68・5」当時の経済基準が笑いごとになるほどにぶっとばしてしまっていた。 

≪060≫  数学者の父のもと、スウェーデン王立工科大学とカリフォルニア大学バークレーで学んだマックス・テグマークは、MITでは数学的宇宙仮説にとりくみ、モラベックらとは量子自殺の仮説を提起していた。数学的宇宙仮説というのは「数学的に存在できるものは物理的に実在する」というもので、ついに数学を形而上学に回帰させた。 

≪061≫  そのテグマークが書いた『LIFE3・0』(紀伊国屋書店)というおめでたい本は、知性はいま3・0の段階にさしかかっているという主張で漲っていた。第1段階は40億年前に地球にあらわれた知的バクテリアが自分の環境に応じた情報を出し入れできるようになったときだ。第2段階はホモ・サピエンスが直立歩行して大きな脳による認知革命をおこしたときである。このへんのことはユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や、死ぬほどつまらない『ホモ・デウス』(河出書房新社)にも描かれている。 

≪062≫  しかし、ここまではソフトウェアによる革命ではなかった。第3段階、ついにソフトウェアがハードウェアを定義しなおすことになっていくと見た。テグマークは「プロメテウス」という仮想ソフトウェアが世界を制覇するだろうというシナリオを書いてみせた。こういうものだ。 

≪063≫  ①プロメテウスは各種のソフトウェアを、国や企業や個人に販売しながら自分で稼ぎはじめる。②次に、稼いだ資金を株式に投資して市場の人間トレーダーたちを上回る。③プロメテウスは餌酢もアニメもオペラも制作する。そこに出演し演奏するのは、プロメテウスがつくりだした技能キャクターである。④やがてプロメテウスは量子コンピュータをわがものにして、大手のメディアを買収し、減税・国境開放・軍事費の削減に乗り出す。⑤こうしてプロメテウスが世界のイデオロギーの支配者になる。 

≪064≫  まったくいい気なものだが、これが天才的数学者が描いたライフ3・0なのである。完全スマホ世代の行き着く先だというのだ。ホモ・デジタリスはこんな未来像にさしかかっているのだろうか。そうは問屋が卸すまい。 

≪060≫  数学者の父のもと、スウェーデン王立工科大学とカリフォルニア大学バークレーで学んだマックス・テグマークは、MITでは数学的宇宙仮説にとりくみ、モラベックらとは量子自殺の仮説を提起していた。数学的宇宙仮説というのは「数学的に存在できるものは物理的に実在する」というもので、ついに数学を形而上学に回帰させた。 

≪061≫  そのテグマークが書いた『LIFE3・0』(紀伊国屋書店)というおめでたい本は、知性はいま3・0の段階にさしかかっているという主張で漲っていた。第1段階は40億年前に地球にあらわれた知的バクテリアが自分の環境に応じた情報を出し入れできるようになったときだ。第2段階はホモ・サピエンスが直立歩行して大きな脳による認知革命をおこしたときである。このへんのことはユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』や、死ぬほどつまらない『ホモ・デウス』(河出書房新社)にも描かれている。 

≪062≫  しかし、ここまではソフトウェアによる革命ではなかった。第3段階、ついにソフトウェアがハードウェアを定義しなおすことになっていくと見た。テグマークは「プロメテウス」という仮想ソフトウェアが世界を制覇するだろうというシナリオを書いてみせた。こういうものだ。 

≪063≫  ①プロメテウスは各種のソフトウェアを、国や企業や個人に販売しながら自分で稼ぎはじめる。②次に、稼いだ資金を株式に投資して市場の人間トレーダーたちを上回る。③プロメテウスは餌酢もアニメもオペラも制作する。そこに出演し演奏するのは、プロメテウスがつくりだした技能キャクターである。④やがてプロメテウスは量子コンピュータをわがものにして、大手のメディアを買収し、減税・国境開放・軍事費の削減に乗り出す。⑤こうしてプロメテウスが世界のイデオロギーの支配者になる。 

≪064≫  まったくいい気なものだが、これが天才的数学者が描いたライフ3・0なのである。完全スマホ世代の行き着く先だというのだ。ホモ・デジタリスはこんな未来像にさしかかっているのだろうか。そうは問屋が卸すまい。 

≪065≫  カーツワイルやデグマークの予想は、人間社会の根本に歴史的大変更を加えるものだった。そこにはAIやロボットによって「仕事」や「雇用」がなくなりつつある社会が提示されていた。その一部は、かつてジェレミー・リフキン(824夜)が『限界費用ゼロ社会』(NHK出版)で予見したことだ。 

≪066≫  しかし、はたしてそうなのか。さっそく経済学界からダロン・アセモグルやパスクワル・レストレポらがその可能性は薄いだろうという反論を唱えた。人間たちはスマートすぎるマン・マシン状態に耐えられないはずで、「仕事」も「職場」もあいかわらず必要になるだろうというものだ。 

≪067≫  経済史家のジョエル・モキールは人間社会の「生活」がライフ3・0を受け入れないだろうと反論した。生活機能の多くが自動接続状態になれば、生活者は「気づき」を学べなくなるからだ。モキールは「気づき」のない日々なんて、学習不能者か生活破綻者であると言った。MITの遅咲きの経済学者デイヴィッド・オーターは、機械によってなにもかもが代替できるという幻想はかつてから何度も崩れてきたという証拠を持ち出した。オーターはロボットすらも自分の居所に収まりたいだけになるだろうと予想した。 

≪068≫  ニューラル・ネットワークなどの機械学習の研究者で、のちにフェイスブックの副社長になったヤン・ルカンは、人間はコンピュータに「常識」が欠けていることにガマンできないだろうと言った。ありうることだ。無意識とレジリエンス(復元力)の研究家で、文学やアートにも明るいセルジュ・ティスロンは「人間はロボットに親しみを感じきれない」という結論を出した。 

≪069≫  こういう反論が次々に出てきたのは当然である。ライフ3・0はiGenも望んでいないことなのかもしれない。それならホモ・デジタリスはどうなっていくのか。本書は次のような話で結末の句読点を打つ。 

≪076≫  高度資本主義と高速大容量のデジタルネットワークがつくりあげた社会は、68年組からすれば疎外された人間像の解放に向くはずだったのだが、そうではなかったのだ。 

≪077≫  ハラリは、こう書いた。「中世の十字軍は人生に意義を与えるのは神と天だとみなし、現代のリベラリズムは人生に意義を与えるのは個人の自由の選択だとみなした。けれども、両方ともまちがっている。われわれの身のまわりは今後ともきわめて便利な器具と社会構造であふれるだろうけれど、こうした環境が整えば個人が自由に裁量する余地はなくなっていくのである」。 

≪078≫  自由がなくなっていくだけではない。ジャック・ラカンの娘婿で『セミネール』の編者であったジャック・アラン・ミレールは「21世紀の日常生活の一般モデルは中毒にある」と述べ、「スポーツ、セックス、仕事、電子ゲーム、スマホ、フェイスブックはすでに麻薬になりつつある」と見た。 

≪079≫  麻薬であるかどうかが問題なのではない。古代中世の宗教もボードレール(773夜)もウィリアム・バロウズ(822夜)も、麻薬でも遊べたのである。問題はスマホが便利な麻薬でありながらも、別様の可能性を持ち出せるかどうかなのである。  

≪080≫  ただし、その前に準備にとりかからなければならないことがあると、本書は忠告する。第1にGAFAを監視しつづけるにはどうするかということだ。とくにグーグルに警戒したい。第2にユニバーサル・ベーシックインカムをどうするか。すでに各国政府がバラバラの対策に着手してしまった。第3にデジタル世界全体に自問させるにはどうするか。これは期待しにくい「促し」だ。世界はすでにメタヴァースな「セカイ」の漬け物になっているのだ。第4に異常な特性をもつシステム(AIやロボット)の出現を阻めるものをつくること、第5にローコスト資本主義のシナリオを駆動させることである。これは、なんとかできるかもしれない。みんな、そうとううんざりしているからだ。 

≪081≫  いくぶんありきたりな対策に思われるけれど、ホモ・デジタリスはせめてこのくらいの自問自答をもっていたほうがいいに決まっている。あとはiGenたちが、どうするか。 

≪076≫  高度資本主義と高速大容量のデジタルネットワークがつくりあげた社会は、68年組からすれば疎外された人間像の解放に向くはずだったのだが、そうではなかったのだ。 

≪077≫  ハラリは、こう書いた。「中世の十字軍は人生に意義を与えるのは神と天だとみなし、現代のリベラリズムは人生に意義を与えるのは個人の自由の選択だとみなした。けれども、両方ともまちがっている。われわれの身のまわりは今後ともきわめて便利な器具と社会構造であふれるだろうけれど、こうした環境が整えば個人が自由に裁量する余地はなくなっていくのである」。 

≪078≫  自由がなくなっていくだけではない。ジャック・ラカンの娘婿で『セミネール』の編者であったジャック・アラン・ミレールは「21世紀の日常生活の一般モデルは中毒にある」と述べ、「スポーツ、セックス、仕事、電子ゲーム、スマホ、フェイスブックはすでに麻薬になりつつある」と見た。 

≪079≫  麻薬であるかどうかが問題なのではない。古代中世の宗教もボードレール(773夜)もウィリアム・バロウズ(822夜)も、麻薬でも遊べたのである。問題はスマホが便利な麻薬でありながらも、別様の可能性を持ち出せるかどうかなのである。  

≪080≫  ただし、その前に準備にとりかからなければならないことがあると、本書は忠告する。第1にGAFAを監視しつづけるにはどうするかということだ。とくにグーグルに警戒したい。第2にユニバーサル・ベーシックインカムをどうするか。すでに各国政府がバラバラの対策に着手してしまった。第3にデジタル世界全体に自問させるにはどうするか。これは期待しにくい「促し」だ。世界はすでにメタヴァースな「セカイ」の漬け物になっているのだ。第4に異常な特性をもつシステム(AIやロボット)の出現を阻めるものをつくること、第5にローコスト資本主義のシナリオを駆動させることである。これは、なんとかできるかもしれない。みんな、そうとううんざりしているからだ。 

≪081≫  いくぶんありきたりな対策に思われるけれど、ホモ・デジタリスはせめてこのくらいの自問自答をもっていたほうがいいに決まっている。あとはiGenたちが、どうするか。 

≪01≫  何の寄与もしていないけれど、東浩紀の「ゲンロン」活動を遠くから見守っているつもりだ。こんなことを言うのは口はばったいが、どんなアカデミーにも組織にも属さないで編集工学をなんとか育もうとしてきたぼくからすると、東くんのこれまでの思想活動がゲンロンにさしかかってきたことに、岡目八目の贔屓筋のような気持ちで応援したくなる。 

≪02≫  東くんの活動をちゃんと追ってきたわけではないし、本人と話しこんだこともない。ただ、論壇で東くんが毀誉褒貶されるのを横目で見ていて、それは諸君の読み方が違うだろう、既存学術すぎるだろう、ポストモダンに留まりすぎだろう、彼はそんなことを言いたくて書いたのではないだろうとずっと思ってきた。 

≪03≫  だいたいデリダを論じたデビュー著書の『存在論的、郵便的』(新潮社)にしてから、デリダは出汁に使ったのであって、デリダ思想の展開がおもしろいわけではなく、デリダの出汁を「おつゆ」にしてポストモダン現象を拡張解釈していく手際のほうに、ぼくは注目したものだ。 

≪04≫  そう思っていたら一九九九年に『郵便的不安たち』(朝日新聞社)でポストモダン論がオタク文化とないまぜになり、ついで二一世紀最初の冬の『動物化するポストモダン』ではアウラ(現存在性)を失って動物化するオタクの意識を「データベース消費」という別の「おつゆ」に転位させて解読していることを見て、そうそう、東くんはこういうつもりだったんだよねと納得した。 

≪05≫  けれども論壇は、彼がポストモダンの概念装置を活用してオタクを分析したと評価した。おいおい、それが違うのだ。話は逆だ。彼はオタクの意識によってポストモダンの硬直(「おつゆ」が「おつゆ」でなくなってきた→リキッドではなくなった)を、変更もしくは更新することを試みたはずなのだ。 

≪09≫  そもそも思想というものは、時代や語り相手によってワインディングするだけでなく、どんな乗り物にのるかによって変化する。メディアによって、発表する場によって、コラボレーターの才能によって、縛りもかかるし重圧もかかる。先方は「あえて」だが、こちらは「ついで」なのである。しかし、そもそもグーテンベルクの銀河系(またその拡張系の一端)に乗るとはそういう「ついで」のことなのである。 

≪010≫  だからお仕着せのメディアに対応するだけでは、多くの思想形成者は半分くらいが翼をもがれていかざるをえない。それならむしろ、ステファヌ・マラルメや宮武外骨や手塚治虫のように、また多くのインディーズのように、自分自身が仲間たちと独自のメディアをつくるべきなのだ。 

≪013≫  二〇一〇年代に向かっては、網状化のストリームを試みる動きがガタリふうの「思想地図」というプレゼンテーションの提示へ、ついでは啓蒙ルソーを借りての『一般意志2・0』(講談社)の提示に向かった。そこにはSNSとの相互乗り入れの可能性が模索されていた。拡張グーテンベルクを怖れないところは、これまでの日本の思想家にはない特色で、これまた好ましかった。 

≪014≫  『一般意志2・0』は消費社会と情報社会が重畳化していったときの社会意志のありかたを問うたもので、ルソーの「憐れみ」とリチャード・ローティの「アイロニー」を持ち出したところがおもしろく、もしもSNS(とくにツイッター的なるもの)がこの方向に向かうものになるのなら、さまざまな可能性が取り戻せると感じさせた。 

≪015≫  しかし、実際のその後のSNSはそんなふうには発展していない。東くんはがっかりするだろうけれど(津田大介くんも)、世の中の趨勢はそんなもので(とくにGAFAにもとづく文化現象は)、ネットメディアが変革されないからといって、あまり気にしないほうがいい。それより、ここでローティと遊んでいたのが嬉しかった。東くんはハーバーマスやロールズやクリプキと取り組むより、おそらくはローティやロバート・ノージックやイアン・ハッキングと、あるいはロバート・シャピロあたりと遊ぶほうがずっとお似合いなのである。 

≪016≫  もっと本格的に突っ込むなら、やっぱりホワイトヘッドか、コンセプチュアルには「コンティンジェンシー」(偶有性、別様の可能性)の意味をもっと精緻に、もっとダイナミックにすることだろう。それにはルーマンのダブル・コンティンジェンシーの大幅な組み替えが必要だけれど、彼と周辺のスタッフならできそうなことだ。 

≪018≫  以上が前置きである。 では、今夜の千夜千冊の眼目である『動物化するポストモダン』とその続篇の『ゲーム的リアリズムの誕生』が主張しているところを要約しておこう。二〇〇一年と二〇〇七年の著述なので、現在からするとトレンドの例示や言葉づかいにズレはあるが、考え方はいまなお通じると思われる。 

≪019≫  議論されているのはオタク系文化のことだ。『動物化』には当時から「オタクから見た日本社会」というサブタイトルがついていた。オタクは「コミック、アニメ、ゲーム、パーソナル・コンピュータ、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称である」と説明される。 

≪020≫  東が見るところ、オタク系文化の担い手は若者とはかぎらない。むしろこの文化を主要消費しているのは五〇年代後半から六〇年代前半に生まれた世代なのである。便宜的には、①《宇宙戦艦ヤマト》や《機動戦士ガンダム》を十代で見た第一世代、②七〇年前後に生まれて先行世代がつくりあげたオタク系文化を十代で享受した第二世代、③八〇年前後生まれで《新世紀エヴァンゲリオン》ブームを中高生で受けた第三世代、というふうに分かれる。 

≪022≫  『動物化』が前提にしている社会意識の動向は、①ポストモダン社会では「大きな物語」が縮退している、②そのぶんシミュラークル(擬似的世界観とその断片)がやたら多様に広がっている、③そのため多くの消費人間は欲望に対して「動物化」(コジェーヴの用語)をおこし、つねに新たなスノッブ(オタク的コモディティの消費)を求めるようになっている、というものだ。 

≪023≫  こういう動向が進むなか、オタクは何をもってどんな傾向を見せたのか。東が鮮やかに取り出してみせた論点は、ひとつには、オタクたちがマンガやアニメやライトノベルなどの作品を、物語として読むのではなくその構成アイテムを次々に消費しているということだ。そうなっていったのは、オタク系が自分たちの意識に共通して想定されているデータベースのような機能(情報エントロピーが捨てられていく海のような機能)に依拠しているからで、したがってかれらは物語を「読んでいる」のではなく「データベース消費」をしているのではないか、このことは社会にそのデータベースで語れる仮想社会を次々に溜めさせていることになっているのではないかということだった。 

≪025≫  オタク系文化を牽引した代表に、アーティストの村上隆がいる。フィギュアやマンガ的キャラクターをたいそうポップな日本画にしていった。村上は、七〇年代にアニメーターの金田伊功がつくりあげた画面構成に狩野山雪や曽我蕭白に通じる大胆な奇想が躍如し、九〇年代の原型師ボーメや谷明が先導したフィギュアには、極上の仏像彫刻のよさが再来していると見た。 

≪026≫  また、当時の高橋留美子のマンガ『うる星やつら』には日本民俗学的なアイテムとSFファンタジーが混淆したような作風が目立ったし、九六年の佐藤竜雄のTVアニメ《機動戦艦ナデシコ》には日本の社会文化のミラーリングとでもいうべきものがそこそこ目立っていた。 

≪027≫  大塚英志は『物語消費論』で、オタク系が好む「二次創作」(原作を読み替えて制作されるゲームやフィギュア)は、歌舞伎や文楽の「世界定め」や「趣向」の設定に似ていると指摘した。オタク系作品には日本的なイメージが復活しているのだ。 

≪030≫  二〇〇三年に谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)が発表され、二〇〇五年にツガノガクによってマンガ化された。翌年にアニメ化されるとベストセラーに躍り出て、二〇〇七年にはシリーズ四〇〇万部をこえたということがおこった(二〇一七年では世界で累計二〇〇〇万部になった)。 

≪031≫  こういうお化けのような状況が、ライトノベル→マンガ→アニメ回路を通すと、どうして生まれていくのか。ぼくはただ呆然と眺めていたけれど、次のように説明できるようだ。 

≪032≫  今日のライトノベル・ブームをつくったのは、よく知られているように、一九八八年に発刊開始された角川スニーカー文庫と富士見ファンタジア文庫だった。『蓬莱学園』シリーズの作家の新城カズマは『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書)で、神坂一が『スレイヤーズ!』を出版した一九九〇年を狭義のライトノベル元年だとした。いまではラノベと略称される。 

≪033≫  ラノベの特色は、新城によれば「ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」というところにあり、そのためラノベの本にはキャラクターのイラストやマンガが派手に描かれる。そういうキャラ絵のアマやプロもわんさといる。『涼宮ハルヒの憂鬱』では、語りのキョン、変人美少女でSOS団長のハルヒ、ヒューマノイド・インターフェースの長門有希、未来人らしい朝比奈みくる、超能力者の古泉一樹らが、キャラクターとして並ぶ。 

≪036≫  このことは、新井素子が「私は『ルパン三世』の活字版を書きたい」と思ったときから始まっていたと、大塚は分析した。ぼくは、いとうせいこうがゲーム少年たちの異様な想像力を描いた『ノーライフキング』(一九八八年の作品)で、「ぼくは今、いつ死んでしまうかわからないリアルなハーフライフです」と書いたときからも始まっていたようにも思うが、きっとこういうシンクロはいろいろなところでおこっていたにちがいない。それらはいつしかオタクのデータベースに、いわば“クラウド化”されていたわけである。

≪037≫  新井素子以外にも、先行していたものはいろいろある。吉本隆明が「ポップ文学」と名付けた村上龍・村上春樹・高橋源一郎・島田雅彦・吉本ばななは、みんな先行者だろう。東も『ゲーム的』のなかで、そのポップ文学やJ文学が、阿部和重の作風の変化、仲俣暁生の小説や言説、吉田修一・保坂和志・綿矢りさの登場などによって、よりゲーム的になっていったことを解説している。 

≪038≫  このように見ていくと、こういうことは最近始まったことではなく、『デカメロン』や『若きウェルテルの悩み』や『レ・ミゼラブル』や『ライ麦畑でつかまえて』のころから、ずっとおこっていたのではないかという気もする。 

≪039≫  そうだとしたら神話や説話が文学作品になり、民衆に受け入れられ、それが芝居になったり浮世絵や羽子板になり、また映画やテレビドラマになったりしたのは、「ライトノベル→マンガ→アニメ回路」とどこが違うのか。「ゲーム的リアリズム」(東)や「マンガ・アニメ的リアリズム」(大塚)とどこが違うのか。 

≪040≫  おそらく、かなり違うのだ。たしかに『レ・ミゼラブル』は小説・戯曲・舞台・映画になり、ときにはミュージカル化やマンガ化もされ、まさにメディアを変えて流出してきたのだが、そこには受け手側がつくりだす双方向性がない。作品は読者や観客によって形を変えて集団消費されているけれど、読者はつながるわけではなく、つながる回路にもなっていない。 

≪041≫  ラノベ回路にも当初の原作があることは同じだが、そこから原作の変奏や編集や二次創作がおこる。とくに物語のストーリーやプロットを離れてキャラクターに反応する独特の回路が想定されていく。また、ふつうの文学ではその物語が外側(物語の外側)で共有されることはない。ときに『星の王子さま』のように公園化したりミュージアム化されることはあったとしても、そのユーザーが物語の外で、寄って集ってキャラクターを蕩尽することはない。そして、この出来事を共有してみせたのがオタクだったのである。ときにコスプレをしてでもキャラクターになりたくなるオタクたちなのだ。 

≪042≫  ラノベ回路では従来の「文学」がもたらしてきたものとはかなり異なる事態が出来していると言わざるをえなかったのだ。これはいったい何がおこったということなのだろうか。「誤配」がおこったのだ。誤配による連携が生じていたのだった。 

≪043≫  いま、ぼくの机の上には「ゲンロン」の〇号から一〇号までがちょっと歯抜けで積んである。〇号が東が単独執筆した「観光客の哲学」で、以降、「現代日本の批評」「慰霊の空間」「ロシア現代思想」「幽霊的身体」「ゲームの時代」などと続く。特集的なので雑誌に見えるが、従来の雑誌ではなく、思想誌とも同人誌ともいえない。ウェブの「ゲンロンβ」も配信されている。 

≪044≫  これらはいったい何なのかといえば「ゲンロンという現象」なのだ。友の会もあるらしい。なんだかとても懐かしい。 

≪045≫  かつて「遊」を編集していたころ、ぼくは「遊」が流出したり陥入されたり、外部化されたり飛び地化されることを夢想していたことがある。学校化や寺院化がおこってもいいと思っていた。そのごくごく一部は各地の「遊会」として、田中泯のハイパーダンスとして、「遊塾」として、ダイアリーの発刊などとして実現されたが、母体の経営難からぼくがスピンアウトすることになって、中途半端におわった。そこそこ苦くて甘い体験である。