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心を科学する・脳を科学する

読書・独歩 目次 フォーカシング
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≪01≫  どうやってこの傑作の興奮を案内しようかと思っている。細部はずいぶん忘れているだろうから、ともかくは思いつくままのところを順に書いていく。マンガである。劇画である。それも八冊の長編だ。吸い寄せられるように一気に読んだ。

≪02≫  作者の安彦良和は『ナムジ』(徳間書店→中公文庫)で古代史と神話史の融合を試みて、その才能が話題になった。機動戦士ガンダムのキャラクターデザインも担当した。その才能が昭和史に挑んだと想像してみてほしい。

≪03≫  昭和史といっても最も矛盾に満ちた季節を扱っていて、満州事変、上海事変、二・二六事件、国際連盟脱退などが連続的に勃発した直後からノモンハン交戦までの一、二年に絞られる。日本が最も過剰に沸騰した時期、日本がついに舵を切りそこなった時期である。そこに、とんでもない人物たちの、とんでもない物語が展開する。絵もいいしプロットもうまいのだが、なにより構想にひそむ思想が異色だった。そのことは『虹色のトロツキー』という大胆なタイトルからも感じられるだろう。だから劇画だからといってタカはくくれない。

≪04≫  いったい虹色のトロツキーとは何者なのか。

≪05≫  舞台は満州、それに蒙古と日本。時は昭和十三(一九三八)年。満州国の首都・新京(長春)の建国大学に関東軍参謀の辻政信がスピードをあげた自動車で乗りつけ、ウムボルトという特別研修生を編入させなさいと副総長に迫るところから話が始まる。ウムボルトがどういう青年かはわからない。日本人の父とモンゴル人の母をもっているという以外、彼自身も自分についての過去の記憶がどこかで途切れている。

≪06≫  建国大学は満州国国務院直属の特異な大学である。この国策大学は満蒙独立計画のシナリオを上司の板垣征四郎とつくりだした石原莞爾が構想した。大学創設委員長に東條英機をかつぎ、総長に満州国総理の張景恵をおいた。これらがフィギュアヘッドであることは石原と東條が有名な犬猿の仲だったことでもわかる。石原はこの大学をアジアと日本を再生させる青雲の志士たちの孵化工場としたかった。辻政信はその石原の無鉄砲な足である。

≪07≫  建学の理念は石原の持論の「アジアにおける五族協和」にもとづく。だからこの大学には五族(漢・満・蒙・朝・日)の青年が集められていた。教授陣にも鮑明鈐・蘇益信らの中国開明派、朝鮮独立運動家の崔南善らが招かれた。合気道部の顧問には、かの伝説の植芝盛平もいた。出口王仁三郎が満州に連れてきた。

≪08≫  物語は、板垣征四郎が陸軍大臣に就任し、東條は陸軍次官として東京に戻ることになり、東條が満州での石原の動向を監視することを甘粕正彦に託すあたりから陰然と動きだす。

≪09≫  ある日、石原は新京大馬路の一郭にウムボルトを呼んで、ウムボルトの父親が深見圭介という名の男で、その深見がレオン・トロツキーと親しかったが、死んでしまったということを告げる。ウムボルトは父のことを知りたいとは思うものの、誰もそれ以上の本当のことを教えてくれない。石原はトロツキーを建国大学に招きたいと言う。その話を盗み聞きして甘粕に伝達する村岡小次郎がいた。井上日召の血盟団に属するテロリストである。ウムボルトは、石原がトロツキーを利用して日本と中国をソ連との戦争に巻きこむ計画をもっているのではないかと疑った。石原は、事実、内心では日中戦争をなんとか阻止して、敵をソ連に向けたい肚だった。

≪010≫  劇画ではふれられていないが、石原が中国との戦争を避けてソ連との戦争を選んだのは、ドイツ滞在時代に参謀総長シュリーフェンの二つの敵との同時戦闘を避けるという戦略、いわゆる「シュリーフェン・プラン」にもとづいたからだった。

≪011≫  やがてウムボルトの背後の歴史がおぼろげに浮上してくる。ロシア革命がおこって外蒙古が悪化する情勢となり、ウムボルトの父の深見はそこで満鉄調査部の工作員として動いていたということがわかる。

≪012≫  満州で張作霖が爆死したとき、新彊では主席が殺される。スターリンの陰謀らしい。深見はこれに対抗して殺された。このときトロツキーが動いたという噂がある。すでにトロツキーはスターリンによって暗殺指令の対象になっていた。関東軍はこのトロツキーがソ連から中国寄りに傾いているとみて、なんとかトロツキーを自陣に引っ張りこもうとしているらしかった。スターリンの野望が満州侵略にあるとみてのことである。そこにミリューコフという人物がかかわっている。二重スパイらしい。

≪013≫  こうして舞台はハルビンに、牡丹江に移る。辻政信とハルビンを訪れたウムボルトはミリューコフを探すうちに拉致され、ハバロフスクへ送られる。その途次、ウムボルトはモンゴルの抵抗軍闘士とおぼしいジャムツこと孫逸文らに奪われる。ウムボルトはしだいに日本人をも憎み、活動も満州外縁で蒙古軍、抗聯第八軍の謝文東将軍、その他の反ソ戦線と交じることが目立つようになる。つまりは馬賊の群と交じっていった。このあたり馬賊や匪賊の暗躍がページを次々に疾駆するとともに、麗花という美少女との恋も深まっていく。

≪014≫  そこへ川島芳子が手をのばす。牡丹江ヤマトホテル。蒙古独立運動の指導者バブチャップの息子カンジュルジャップと結婚をした“東洋のマタハリ”である。

≪015≫  作者はこうした人脈交流の組み合わせ方が、めっぽううまい。満蒙運動と日本軍の思惑とソ連の戦略とのあいだで、ウムボルトが歴史の波濤に翻弄されるように巻きこまれていくのを、巧みに描く。当然のことだが、適当に濡れ場も入れる。

≪016≫  舞台の速い転換もいい。そのつどの舞台に応じた人物の強調も忘れていない。たとえば日本に戻っている石原莞爾のところへ尾崎秀実を訪問させて、石原に対ソ謀略をやめさせようと提案させたりもする。尾崎はコミンテルンのスパイとしてのちに処刑されることになるのだが、このときの石原の描き方は時代を読み切っている人物として威風堂々になっている。石原と辻の描き方をまちがわなかったのが、この作品に太い幹線を走らせる成功要因になったのだろう。

≪017≫  話のほうはしだいに複雑怪奇をきわめるのだが、大連特務機関長の安江仙弘がウンボルトに面会にくるあたりから、急転直下、日本の逃れられない宿命に似て、しだいに暗くなっていく。この「暗さ」も作者の特質だ。

≪018≫  安江はトロツキー誘導計画を阻止するつもりの男で、かつ満州に五族協和をもたらすにはユダヤ人への支援を見せなければならないと思っている。安江がハルビンのユダヤ民会会長、満州亡命中の元白軍リーダーのセミョーノフ、川島浪速(川島芳子の養父)、尾崎秀実、関東軍の片倉衷(ぼくは松本清張と一緒にこの人に会いに行ったことがある)、さらには辻政信や甘粕正彦らを一堂に招いて画策する場面など、当然半ばはフィクションだが、まことにありそうな場面になっている。

≪019≫  安江はウムボルトを囮にして、あえてトロツキーをめぐる幻想的な包囲網を突破したいと考える(安江仙弘大佐については第六巻の巻末に、安江の子息にあたる安江弘夫が大連時代の父親の思い出について原稿を寄せている)。

≪020≫  その後、やっとウムボルトにわかってきたことは、かつて安江はウムボルトの父の深見と蒙古でソ連軍と戦った仲間だったということだった。そのころ日本は出口王仁三郎や植芝盛平らをつかって、蒙古の懐柔に乗り出していたのだが、ことごとく失敗していた。その硬直状況を突破しようとしたのが深見だった。関東軍はあくまで満州を奪おうという計画だったが、深見はもっと大胆なことを画策した。なんとトロツキーに臨時極東政府をつくらせて、ソ連を二つに割ってしまおうとしたというのだ。

≪021≫  このときちょうどトロツキーが失脚し、アルマ・アタに移される。深見は妻子を連れてトロツキーに接触しようとする。このときのアルマ・アタでの記憶が少年ウムボルトに残っていた。この少年期の断片的な場面の記憶こそ、『虹色のトロツキー』全巻を貫くフラッシュポイントになっている。ただ、そのとき父がいったい誰の命令によって殺されたのか、ウムボルトにはまだわからない。

≪022≫  ウムボルトは魔都上海に来る。そこで偽者のトロツキーに会う。スターリンがつくりあげた偽者らしい。どうやら深見が接触したトロツキーも本物ではなかったのかもしれない。

≪023≫  このようなハコビは、トロツキーによるロシア革命が実はユダヤ人組織による革命だったというスターリン的な解釈をうまくつかっていて、読ませる。安江が満州にユダヤ人国家のようなもの、すなわち満州版「イスラエル」建国を導入しようとしているというのも、当時破竹の勢いのヒトラーのユダヤ人掃討計画と対応していて、これまではあまり取り沙汰されてこなかった満州裏面史を巧みに描いた。それはともかく、事態はますます悪化する。昭和十四年五月には外蒙軍がついにノモンハンに進攻し、日本軍との交戦状態に入った。ソ連軍が後を押していた。

≪024≫  辻政信がすぐに山海関に飛んだ。ウムボルトも興安部隊の一員として花谷正少佐の指令でノモンハンに飛んだ。しかし、たいして強力ではないはずのソ連BT戦車の前に、関東軍は敗退する。

≪025≫  作者はなぜか、このノモンハン攻防をかなり詳細に描いている。たしかにこの戦闘は戦争史における歩兵時代の終焉を示していた。それだけでなく、司馬遼太郎がその一人だが、ノモンハン事件を綴ることは昭和史の叙述の最も深い一点を突くことにもなるので、多くの作家や歴史家が避けたがるのだ。ともかくも危機を脱するため、ウムボルトはウルジン将軍に救援を頼む伝令となる。日本刀をぶらさげて。

≪026≫  そうしたなか、ウムボルトは父を殺したのが田中隆吉であることを知る。上海事変を企てた、あの田中隆吉である。しかし時すでに遅すぎた。ウムボルトにもまたノモンハンの草原の一隅に倒れる宿命が待っていた。

≪027≫  だいたいはこんな話である。ウムボルトは死ぬ。もう少し話を聞きたかったというキライはあるが、それでも存分に楽しませてもらった。それにしてもよくぞ満州の舞台にトロツキーの「幻」をもってきた。結局、トロツキーは関東軍を惑わす幻想にすぎなかったのであるが、それを安彦はいみじくも「虹色」とあらわしたのだ。

≪028≫  ウクライナ生まれのトロツキーと、これを追い落としたグルジア生まれの靴屋スターリン。そのスターリンが満州を狙い、アムール川を越えようとする。ウムボルトの父の深見圭介はその動向を食い止めるため、カザフスタンとの国境近くの新彊でトロツキーと接触しようとしていた。その事実に着目したのが石原莞爾の建国大学の構想だったというのが、このアジアの辺境の出来事の物語の発端である。深見は満鉄調査部という設定なので、はたして満鉄がロシア分断作戦を敢行しようとしたのかどうかというのがミソになるところだが、これはぼくが知るかぎりは明白な事実ではない。

≪029≫  ただ、これまであまり注目されなかったノモンハンのハルハ河の悲壮な戦闘を通して、その奥にウムボルトという架空の日蒙混血児を登場させたところ、日中戦争ではなく日ソ戦争というものの危険を描いたところが、この作品のダントツの成果になった。

≪030≫ 参考¶
 本書の背景を知るための関係資料はそれこそゴマンとあるけれど、最近は石原莞爾についての本がたてつづけに出ているので、それを紹介しておく。佐高信『黄沙の楽土』(朝日新聞社)、花輪莞爾『石原莞爾独走す』(新潮社)、小松茂朗『陸軍の異端児石原莞爾』(光人社)などである。また石原の『最終戦争論』(中公文庫)もごく最近リニューアル刊行された。芳地隆之『ハルビン学院と満州国』は新潮選書。

≪01≫  女にも女色家がいる。ナタリー・バーネイがそうである。「世紀末からベル・エポックへ」とよばれた時代で最も有名なレスビアンであり、最も有名なパリのアメリカ人であり、最もスキャンダラスな美女であり、最も薄情な美女の狩人であった。

≪02≫  1876年にオハイオ州デイトンの鉄道王の娘に生まれ、パリの寄宿舎で美少女の味を知ってしまったのが15歳、両親がアメリカに住むことを勧めたのをふりきって、ふたたびパリに凱旋したのが20歳、たちまち美女狩りにのりだして“ムーンビーム”(月光)とよばれた。

≪03≫  最初の相手は美術学校のモデルのカルメンで、その次の相手はパリ中で「タナグラ人形のようで、ギャラントリーの欧州連合の女王」といわれていた有名な美女リアーヌ・ド・プージィである。彼女はクルチザンヌ(高級娼婦)だった。すぐにパリ社交界のスキャンダルになるもののまったくめげず、次に象徴派詩人のマドンナともいうべきルネ・ヴィヴィアンを籠絡する。

≪04≫  それでもあきたらないナタリーは、のちにオスカー・ワイルドのホモセクシャルな相手をした例のアルフレッド・ダグラスの妻になるオリーブ・カスタンスを落としたため、ルネが嫉妬に狂乱するという事件をはさんで、そのルネがロスチャイルド家出身の大金持ちの人妻に誘惑され、それを今度は“ムーンビーム”がなんとか取り戻そうとするという、すさまじい色恋沙汰を次々にくりひろげていった。そんななか、ワイルドの姪であるドリー・ワイルドもナタリーの手に落ちた。

≪05≫  ルネと別れたあとのナタリーの愛人美女は画家のロメイン・ブルックスである。 ブルックスは、当時、ディアギレフが旋風をまきおこしていたパリ滞在中のロシアバレエ団のプリマだった絶世の美女イーダ・ルビンシュタインにぞっこんだった。にもかかわらず、乗馬服ばかり着ていたナタリーはこれをなんなく“男”にしてしまう。

≪06≫  こうして「美女の容姿に、男の頭脳」といわれたナタリー・バーネイなのだが、彼女に群がるのは女たちばかりではなかった。そのジャコブ街20番地のサロン「友愛の神殿」には、ガートルド・スタインらの名だたるレズビアンだけではなく、ゲイたちも集まっていたし、その手の“業界”の大御所モンテスキュー伯をはじめ、マルセル・プルースト、ポール・ヴァレリー、サマセット・モーム、アンドレ・ジッド、トマス・エリオット、エズラ・パウンド、ライナー・マリア・リルケ、マックス・ジャコブ、アナトール・フランス、ラドクリフ・ホールらの知識人も、灯火にすだく蛾のようにきりなく引きつけられていた。

≪07≫  遠くアメリカから“パリのアメリカ人”の仲間入りをはたしたいアーネスト・ヘミングウェイやトルーマン・カポーティも、噂を聞いてサロンに駆けつけた。ぼくがさすがだと唸ったのは、シルヴィア・ビーチの書店シェイクスピア・アンド・カンパニーの筆頭予約者もナタリー・バーネイであったことである。

≪08≫  ナタリー・バーネイの名は20世紀初頭のヨーロッパでずっとリアルタイムで鳴り響いていた。 ひとつはナタリーの行動が派手だったからであるが、もうひとつは“文学の法王”とよばれていたレミ・ド・グールモンがナタリーに参ってしまい、ナタリー・バーネイに対する賛歌『アマゾンへの手紙』を、彼も創立者の一人だった「メルキュール・ド・フランス」に毎月連載したことも大きかった。彼女自身も何冊かの本を書いている。

≪09≫  しかし、ナタリーには老いてもなおアマゾネスであるための愛もあったようだ。 ロメイン・ブルックスはその愛が半世紀以上も続いたことを証言している。1958年に82歳になったナタリーが恋をしたのは、ルーマニアのセイレーンのような美貌の持ち主ではあったものの、すでに58歳になっていたジゼルであった。

≪010≫   本書は、以上のようなナタリー・バーネイの評伝で、これまでのどんなナタリーに関する論考や本よりも丹念であって、愛情に富んでいる。しかし、どこか甘すぎるところもある。銀のメスをふるっているようなところが欠ける。

≪011≫  その理由は、もちろん著者の才能と調査力にもよるのだが、どうやら別の理由もあるらしい。それについては次の蛇足を読まれたい。

≪012≫  なお、ぼくはナタリーについては『フラジャイル』(筑摩書房)の「ハイパー・ジェンダー」の章で数々のホモセクシャルな男たちの紹介のついでに、そのプロフィールをちょっと書いている。

≪013≫  蛇足。本書の著者のジャン・シャロンもいささかあやしい。いや、かなりあやしいようだ。 フランスではアカデミーフランセーズ賞をとったかなり有名な作家であって、たとえば『愛するマリー・アントワネット』ではガブリエル・デストレ賞を、『愛するジョルジュ・サンド』でヴァレ・オ・ル賞とシャトーブリアン賞をとった作品もあるのだが、晩年のバーネイと親密な交流があって、どうも“ナタリーの人生における第三の男”となっていたふしがあるからだ。

≪014≫  参考¶ナタリー・バーネイの伝記評伝はこの本がダントツに充実しているが、バーネイの名を当時有名にしたレミ・ド・グールモンの『アマゾンへの手紙』は『フランス世紀末文学叢書』第14巻(国書刊行会)に一部翻訳されている。ナタリー自身の著書は、ぼくが知るかぎりは翻訳がない。

≪01≫  女にも女色家がいる。ナタリー・バーネイがそうである。「世紀末からベル・エポックへ」とよばれた時代で最も有名なレスビアンであり、最も有名なパリのアメリカ人であり、最もスキャンダラスな美女であり、最も薄情な美女の狩人であった。

≪02≫  1876年にオハイオ州デイトンの鉄道王の娘に生まれ、パリの寄宿舎で美少女の味を知ってしまったのが15歳、両親がアメリカに住むことを勧めたのをふりきって、ふたたびパリに凱旋したのが20歳、たちまち美女狩りにのりだして“ムーンビーム”(月光)とよばれた。

≪03≫  最初の相手は美術学校のモデルのカルメンで、その次の相手はパリ中で「タナグラ人形のようで、ギャラントリーの欧州連合の女王」といわれていた有名な美女リアーヌ・ド・プージィである。彼女はクルチザンヌ(高級娼婦)だった。すぐにパリ社交界のスキャンダルになるもののまったくめげず、次に象徴派詩人のマドンナともいうべきルネ・ヴィヴィアンを籠絡する。

≪04≫ 1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体』が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。1916年に便器をさかさまにして『泉』と名付け、R・ムットの署名をつけて出品したときも、だれもデュシャンを理解しなかった。

≪05≫  しかも、デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。デュシャンはその存在そのものが深い断片にすぎなかったのである。これはぼくがいちばん好きな存在のタイプであった。デュシャン自身もそのことを知っていた。「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」。

≪06≫  デュシャンは「創造」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「運動」だとみなしていた。青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩とアンリ・マティスと「四次元」である。

≪07≫  だいたいこんな程度のデュシャン像でもぼくが夢中になるのに十分だったが、そのうえぼくは多くのレディメイド作品も大ガラス作品も、最初に知ってしまったのだから、これは信奉するしかなかった。

≪08≫  とくに大ガラス作品については、中村宏と何時間も、しかも何日にもわたって話しこんだ。それがデュシャンを知って数日目のことだったとおもう。早稲田の二年生のころである。

≪09≫  ぼくはもともとフランシス・ピカビアの信奉者でもあった。しかし、そのピカビアを投影する者が出現していないことに疑問をもっていた。

≪010≫  デュシャンを知ったころも、その驚くべき感覚とピカビアをむすびつけて見ることはしなかった。しかし、本書にもしるされているように、デュシャンはピカビアの射影幾何学だったのである。

≪011≫  これで十分なのだ。 ぼくはその後は10年にわたってデュシャンに興奮しつづけたのである。

≪012≫  デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていた。

≪013≫  デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスである。外出も嫌いだし、むろん美術館や展覧会にはほとんど出かけない。

≪014≫  デュシャンが重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。レディメイドについてさえ、デュシャンは外見の印象を拒否するもののみを選んでいる。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなのである。絵画を捨てたのもそのせいだった。

≪015≫  しかし、誰もがあまり言っていないことがある。それは、デュシャンの最も劇的な特徴は、知識を勘でしか解釈しないというところにあるということだ。解釈というのもあたっていない。むしろ偉大な一知半解といったほうがいい。

≪016≫  これは実のところはけっこう多くのすぐれたアーティストに共通していることなのであるが、ただしデュシャンはその勘が格別に冴えていた。とくに四次元に対するデュシャンの勘は、ほとんど科学の目でいえばでたらめに近いものではあったにもかかわらず、しかしめっぽう冴えていた。

≪017≫  なぜ、こんな程度のことがデュシャンを支えられたかといえば、デュシャンは人間の生き方を見分ける目、とくにニセモノを見分ける目をもっていた。また、他人の評判から逃れる方法を知っていた。意外に、こういうことが人生を救うものなのである。

≪018≫ デュシャンに関する本はあまり多くはないが、それでもいくつものまことしやかな本が出回っている。

≪019≫  そういうなかでは、晩年のデュシャンがインタビューに答えている本書を読むのが最も無難であろう。

≪01≫  幼児のころに寝付きが悪かったのかどうか、おぼえていない。京都で生まれたけれど、昭和19年の1月末だったから(京都も空襲されると信じられていたから)、父は母とぼくを尾鷲(おわせ)に疎開させ(何もおぼえていない)、そのあと妹が生まれたので鵠沼に移って(ここは少し記憶がある。スイトピーがたくさん咲き乱れて風にゆれていた)、敗戦直後に日本橋芳町の松岡商店の2階に親子4人で店番さんとともに住んだ。隣りは伊香保湯という銭湯、裏は宝来屋という佃煮屋だった。

≪02≫  芳町の2階では、一匹の軍鶏(しゃも)が鋭い目で花籠の向こうを睨んでいる二つ折りの屏風が立てられ、それに見下ろされるように小さな布団が敷かれ、そこで寝た。風でガタピシと雨戸の音がするのが怖かったけれど、寝付きが悪かったかどうか。

≪03≫  たしか4歳か5歳の頃、私は勝手に思いついた記号みたいなものを紙になぞっていた。歯のあいだに舌をはさみ、変な暗号文をいたずら書きし、椅子をゆすっていた。それからまもなく最初の詩を書いた。15歳のときは3冊の帳面に回想録まがいを書いた。以来、今日にいたるまでペンを放したことがない。

≪04≫  書くとは、一度はちぎれ、あとから縫合された舌のことである。誰にだって癒えることのない聖痕はあるけれど、それは見ようによっては抒情の傷にならないでもない。それというのも、誰だって自分のリズムに従うすばらしい惨事をかかえているからだ。それなのに、私はうっかり世界をできるだけたくさん行李に詰めておくために書きはじめてしまった。

≪05≫  言葉は最初は習いおぼえるものである。そのうち言葉は環境の界隈にまじっていく。人は、そういう言葉の中で言葉とともに形づくられ、言葉を意識して活動する。イヴ・ボヌフォワ(711夜)は、そのことを「存在どうしのある種の本質的な連関」と言った。ミシェル・レリスは、だから子供は言葉をおぼえると遊べるのだと言った。その通り。

≪06≫  そうこうしているうちに自分の言葉の背丈を伸ばそうとすると、それがふいにもっと書いてみるということになる。白い紙に花びらが散り、その花の名が生まれ、甘い蜜が滲み、蜜蜂たちがそれを啄(ついば)むと、未来の聖書に向かって紙が形をもって動き出す。

≪07≫  気が付けば、私は書く人になっていた。私が書いているのか、書いてるから私なのか、だんだん区別がなくなっていった。けれども書いてみるからこそ、私は定めないままの自分であろうとできるのだ。感情では書かない、神経が書く。それゆえ、なによりもまず「欠けているもの」を綴るのだ。その欠如ゆえの霊感に頼るのだ。

≪08≫  カフェか教会でポケットから方眼ノートと鉛筆を取り出せればしめたものだ。きっとアンリ・ミショーの心臓の音を聞き、ルネ・シャールの心臓が音を鳴らしてやってくる。何を剥がして、何を受け入れればいいかが、キュティという皮膚反応をこえて伝わってくる。

≪09≫  私はとっくに好きなものがわかっていた。蝋燭のふるえ、線路の脇、ミモザの匂い、膝にのせた帽子、公爵夫人の笑み、子供の頃の小屋にあった板切れ、ペロポネソス半島、おぼろげな闇、内気なもの、抑揚を秘めたおよび腰、モビレットに跨がった少年。けれども、私は好きなものだけでは仕上がらない。耐えられないものもはっきりする。ロンバース、映画館の前の行列、カスタードプリン、バトンガール、演説、鎖の腕輪、メダル、司法官、靴下留め、シャラント・スリッパ、水玉模様のネクタイ。

≪010≫  かくして私は、沈黙をしるす終身書記になっていく。こうして句読法がのこっていく。

≪011≫  句読法はもともとは礼節であったはずである。けれどもクローデルやヴァレリー(12夜)が叱責したように、テニヲハや句点や読点やカギカッコでできている一般句読法には、もはや変幻がない。それらは捕虜収容所の鉄条網のようになっている。禁令になっている。

≪012≫  だから私は、好き勝手な方位点や水準点や、あるいは落下点や到着点が打ちたいのである。なかでも一番打ちたいのは弱点だ。ゆめゆめ、セミコロンで逃げを打ってはなるまい。

≪013≫  物の名を変えたいから書くのではない。言葉に報い、驚異を分泌して、世界を単調の灰の中から掬いとるために書く。

≪014≫  さきほどリクライニング・チェアで拾い読み直したのは、こんなところだ。勝手に切り貼りしたが、「読む」とはそういうことなのである。著者の文章や詩がそのままアタマの中に転移されるはずはない。読んでいるはなから、コラージュがおこり、モンタージュがすすむ。

≪015≫  そもそも認知とは、ポランニー(1042夜)が言うようにダイナモ・オブジェクティブ・カップリングがおこるということだ。それが本の中の文字や言葉を追うときにどうなるかといえば、「カタルトシメス」を著者に搬送しながらおこしていくというふうになる。たんに読むなんてことは、けっしておこらない。

≪016≫  モルポワが「書く」ことについて思索したのに比況していえば、「読む」とは「書く」の手前と事後とを行ったり来たりすることなのである。

≪017≫ けれども、ぼくが意識的にそのように読むようになったのはやっぱり自分で書くようになってからで、つまりは読み書きが編集的に同時になってからだった。ただし、そうなると何でも書くように読める一方、ふいに書くだけって何だっけ、読むだけって何だっけと思うのだ。だからしばしば「書く」とはどういうことなのか、先達たちの思いをトレースしてみることを欠かさない。

≪018≫  それならたんに書かないで読むとか、ひたすら読むとはどういうことかというと、本当はそのほうがずっとおもしろい。いまやその頃が、火鉢の炭が赤くなるのを見つめていたときのように、懐かしい。

≪019≫  というわけで、今年もぼくは、もはや読み書きにまつわる分相応をとっくに逸脱したままなのである。「分」はとっくに自分の分ではなくなっているのだ。がっかりもしないけれど、自慢にもならない。それでも「分」を当分に感じられるときもある。それは自分がかつて書いたものを読むときだ。

≪020≫  最近は「千夜千冊エディション」を構成推敲することがずっと続いているので、かつて自分が書いた千夜千冊を読み、加減乗除をし、並べ換えをしていることがふんだんに多くなっているのだが、この作業はけっこう注目すべき気分や気付きをもたらしてくれる。文章というものがなんとでも組み替え可能であることが如実に告示されるのは言うまでもなく(これはもとより明々白々なことだ)、著者の思想や表現や文章をかつての自分が換骨奪胎したときの、その手術の手際に立ち会わされているようで、ついついもう一度開腹手術をしたくなっている外科医もどきになっていることに、気が付かされるのである。

≪021≫  編集白衣を着てメスをもったわけだから冷や汗が出るけれど、それがまたとてもいとおしい作業だということもわかってくる。それは自家の薬籠に何かを入れようとしているのではなく、他人製の薬籠にぼくの文章を読んでくれる読み手のお薬を調合しているからだ。やはりモルポワが言うように、書くとは言葉を軋ませ、自他の関節を外しにかかるということなのである。

≪01≫  いっときコンピュータに物語性や演劇性を入れることがハシカのように流行したことがある。そのことをめぐって、ブレンダ・ロレールやスコット・フィッシャーがぼくを囲んで質問攻めをしたものだ。90年代あたまのロスアンゼルスでのことだった。 

≪02≫  たしかに、われわれの思考や行動は、どこかにたえず「劇学」(ドラマティズム)とでもいうべきものを孕んで動いている。われわれはつねに何かを演出しようとしているのだと、つねに自分をどこかに出演させている。 

≪03≫   そんなことはない、とは抗弁しないほうがいい。たとえば、会話をしているときも、どこかの店で買い物をしたり食べたりしようとしているときも、われわれは自己演出と自己出演をしている者なのであり、学校へ行っていても旅に出ていても、喫茶店で待ち合わせをしているときも、われわれには劇学としての物語的演劇性というものがはたらいている。それは、ひょっとすると子供のころからやりつづけていることなのである。 

≪04≫  それでは、そのドラマティズムをコンピュータにいれれば、すごいプログラムができると思ったのが、まちがいのもとだった。いや早計だった、決定的に欠けているものがあったのだ。 

≪05≫  われわれの劇学がどのように構成されているかというと、必ずやなんらかの動機によって支えられている。その動機には見えない文法があるかもしれない。問題はその動機の文法なのだ。 

≪06≫  それゆえ、その動機がどのような特徴をもっているかがわかれば、われわれの思考や行動の編集的構造もつかめてくる可能性もある。そう考えて、ケネス・バークが洞察に富んだ分析をしてみせたのが本書なのである。発刊当初から名著の誉れに包まれた。ぼくはローレルやフィッシャーに、ケネス・バーグを読みなさいと勧めたものだった。  

≪07≫  バークは動機を五つに分けた。行為 act、場面 scene、作用者 agent、媒体 agency、意図 purposeである。われわれはどんなときも、この五つの組み合わせによって劇学の当事者になっているというのだ。 

≪08≫ この機能の分類は、いまおもえば必ずしも十全なものではない。とくに作用者と媒体はもっとダイナミックな関係に移すべきだろう。しかし、戦争の渦中の1940年代に、バークがこの5つの「動機の文法」をあげられたということは、まことに怖るべき炯眼だった。これはほとんど認知科学の先取りだったのだ。 

≪09≫  バークの考察は鋭かった。ぼくなりにごく簡単にいうが、次の点で鋭かったのである。このことは、まだコンピュータ屋さんに説明してあげたことはない。 

≪010≫  まず、[1]認識や行動には、「入れるもの」と「容れられるもの」があると喝破した。これを身体と言語とみなしてもいいし、ハードウェアとソフトウェアと言ってもいいし、わかりやすくコップとミルクの関係だとおもってもいい。 

≪011≫  次に、[2]どんな知覚や行為も、そこには互いに矛盾するかもしれない一連の定義群がひそんでいることを見抜いていた。この、矛盾するかもしれない定義群が、いい。われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしているのだけれど、それらは必ずしも一対一のコンパイル定義の裡に縛られているのではないからだ。 

≪012≫  ということは、バークはすでに、[3]認識や行為には「範疇自体のはげまし」というものがあることをうすうす見抜いていたということなのだ。コンピュータ・テクノロジストたちの多くは、この「はげまし」の意味がわかっていない。 

≪01≫  鈴木忠志に『ディオニュソス』があった。エウリピデスの『バッコスの信女』(バッカイ)を下敷きにしたもので、初演は1978年の岩波ホールである。観世寿夫(1306夜)がディオニュソスを、白石加代子がアガウエ(母)とペンテウス(息子)の二役を演じた。 

≪02≫  その2年前、鈴木はやはり岩波ホールでエウリピデスの『トロイアの女』を発表していた。寿夫のアポロン、市原悦子のカッサンドラ、加代子のヘカベ、蔦森皓祐のメネラオスで、台本を大岡信が担当した。鳴り物入りの力作で、マスコミの話題にもなったけれども、仕掛けが大岡と鈴木の折衷案になっているところがもったいなかった。鈴木はギリシア悲劇であれ、鶴屋南北(946夜)であれ、仮に既存の台本をベースにした舞台でも、その戯曲を時代の奥から毟(むし)り取るように今日的な社会の病巣の暴露に結びつけてみるのが得意だったのだが、それが大岡台本では活かしきれなかった。 

≪03≫  『バッコスの信女』もエウリピデスのオリジナル戯曲を緻密に換骨奪胎してはいたが、まだ鈴木の真骨頂が漲っていなかった。  

≪04≫  ところがその後は大胆に改作が下され(鈴木は改作を「染め替える」というふうに言う)、『酒の神ディオニュソス』『ディオニュソス』とタイトルを替えつつ、水戸芸術館や静岡の楕円堂では1時間ほどの複式夢幻能のようなみごとな作品に仕立て上げた。 

≪05≫  ちなみに信女とは、ディオニュソス(バッコス)に従って踊り狂うマイナス(Maenas)たちのことをいう。マイナスはディオニュソスとは切っても切れない憑依者たちなので、あとでふれる。 

≪06≫  演出ノートに鈴木の考え方が述べられていた。「私の『ディオニュソス』においては、神のことばは僧侶たちのことばに替えられている。ディオニュソス神は、神それ自体として存在していたのではなく、むしろ他者をまき込むことを必要とする集団に存在し、人々を精神的に統制しようという集団の意志が、『ディオニュソス』という“神=物語”を創造したというのが、ここでの解釈である」と。 

≪07≫  また、「ディオニュソスとペンテウスの葛藤は、神と人との争いではない。宗教集団と政治的権力との論争であり、同じ地平に存在する二つの集団的価値体系がくりひろげる闘争のドラマである」と。  

≪08≫  この演劇的な考え方は鈴木が自由舞台や早稲田小劇場のころからもっていたものである。鈴木は早くから、なぜ文明や文化において群を抜くリーダーの構想とその実践が崇拝と反発とともに集団のオルギア(狂騒)を発生させ、そこに痛ましい悲劇や滑稽なふるまいが生じてくるのかということに追っていた。それをエウリピデスの極上の戯曲の翻案においても徹底させているところが、鈴木にしかできない解釈なのである。 

≪06≫  演出ノートに鈴木の考え方が述べられていた。「私の『ディオニュソス』においては、神のことばは僧侶たちのことばに替えられている。ディオニュソス神は、神それ自体として存在していたのではなく、むしろ他者をまき込むことを必要とする集団に存在し、人々を精神的に統制しようという集団の意志が、『ディオニュソス』という“神=物語”を創造したというのが、ここでの解釈である」と。 

≪07≫  また、「ディオニュソスとペンテウスの葛藤は、神と人との争いではない。宗教集団と政治的権力との論争であり、同じ地平に存在する二つの集団的価値体系がくりひろげる闘争のドラマである」と。  

≪08≫  この演劇的な考え方は鈴木が自由舞台や早稲田小劇場のころからもっていたものである。鈴木は早くから、なぜ文明や文化において群を抜くリーダーの構想とその実践が崇拝と反発とともに集団のオルギア(狂騒)を発生させ、そこに痛ましい悲劇や滑稽なふるまいが生じてくるのかということに追っていた。それをエウリピデスの極上の戯曲の翻案においても徹底させているところが、鈴木にしかできない解釈なのである。 

≪09≫  演出ノートは次のようにも書いていた。「物語は、集団を精神的に統合するために、ある犠牲、贖罪の羊(スケープゴート)を生み出すことがある。そのための犠牲となる個人あるいは集団の存在を創り出す。この観点からエウリピデスの『バッコスの信女』では、物語世界が確立されるために、個人が犠牲になる過程が描かれていると見ることができる。自分が手にしている首が息子のものだと発見するその瞬間、アガウエは、息子と自分が宗教教団の物語の犠牲者であったことをはっきり自覚する。彼女はそれまでいた世界を去り、その対極に向かう旅に出る」。 

≪010≫  演劇の舞台としては、ぼくはこのような演出の仕上げ方はそうとう傑出していると思うのだが(編集的にもすぐれているが)、さてここからディオニュソスという外来神が古代ギリシアに君臨していたこと、またそのディオニュソスの祭祀のなかで古典ギリシア劇が誕生していった理由を説明しようとすると、かなり問題が出てくる。それは、ニーチェ(1023夜)が処女作『悲劇の誕生』で、ギリシア悲劇の本質をアポロン的な理性とディオニュソス的な野生の対比で解明しようとしていた単純すぎる図式につながっていくきらいが出てくるからだ。 

≪011≫  これもあとでも説明するが、ニーチェのギリシア文明に対する神話的で図式的解明はディオニュソスの本来の多重的役割を見落としたか、考えもしなかったのではないかと思えるのである。ディオニュソスの多様性はアポロンの理性や理知に対比される程度の非理性や反理性で説明できるものではないのではないか。ぼくはずっとそう思ってきたのだった。 

≪012≫  この点については「遊」をつくりはじめた70年代のはじめ、エリック・ロバートソン・ドッズの名著『ギリシァ人と非理性』(みすず書房)の鋭い主旨の多くに影響をうけながらも(理性中心のギリシア思想に対する批判)、ディオニュソスの分析については不満がのこったのだが、それもあってニーチェの解釈にそのまま奉じるのを、その後は嫌ってきたせいでもあった。  

≪013≫  しかし、ここからはぼくの力不足なのだが、それならディオニュソスをどう扱えばいいのか、しばしば難渋することになった。 

≪014≫  数人で松岡正剛事務所をつくって、そこから渋谷恭子の編集工学研究所が芽生え出したころのことである。楠見千鶴子の『ディオニュソスへの旅』(筑摩書房)を読んでギリシア最大の異神をめぐる思いに、さまざま耽ったことがある。 

≪015≫  酒神バッコスでもあるディオニュソス神の痕跡を探して、数々のギリシアの葡萄酒やウゾ(ギリシアの火酒)を嗜みながら各地を訪れるというゆっくりとした旅行記なのだが、ギリシア神話に詳しい著者だけあって、旅が進むにつれてディオニュソスの破壊的でありながら救済的でもあるアンビバレンツな祭祀力をうけいれていったギリシア各地の風土文化的な受容史を、たいへんうまく案内していた。 

≪016≫  楠見は、旅先を訪れるたびにとても大事な「問い」をたて、その謎を少しずつ解いていこうとする。たとえばディオニュソスは葡萄酒の祖とされてきたが(それがバッコスの名の由来だが)、もともとは大地を潤す植物神だったはずである。それがなぜ葡萄酒に特化したのか。ひょっとするとその酒は気分を変化させるような“悪い酒”だったのではないかといったふうに。 

≪017≫ また、ディオニュソスは各地でマイナス(信女)たちの歓待をつくりだして、その場をオルギア化していったのだが、ではディオニュソスには「村」(故郷あるいは原郷)はなかったのか。この神はそもそも出自を喪ったか隠したかした遍歴する神でしかないのか。だったらギリシア人はどのようにディオニュソスをあんなに巨きな神に祭り上げたのかというふうに。 

≪018≫  ゼウスの私生児だったディオニュソスは赤子のときに秘密裏に育てられた。このことをゼウスに託されたのはヘルメスだったのだけれど、そのヘルメスはアポロンに竪琴キタラ(ギターの原語)を譲った。楠見は、なぜヘルメスはキタラをアポロンに譲ったのかと問うた。この「問い」はアポロンとディオニュソスを単純に対比させてきた見方に根本から疑問を呈するものだった。  

≪019≫  とくにぼくが注目したのは、楠見がディオンの遺跡を訪れてトラキアに伝わるオルフェウス惨殺を想い、あの惨殺はディオニュソスが仕掛けたことというより、アポロン神殿の祭司としてのオルフェウスに対してマイナスたちが勝手に襲った仕業だったのではないかという感想を綴っていたくだりだ。楠見は、オルフェウスがアポロンの集団の身分のある男たちに限定されていたのではないか、女たちの参加を拒絶していたのではないか、はっきりいえば同性愛の巣窟になっていたのではないかと推理したのである。 

≪020≫ もう少し楠見の旅行記の話を続ける。今度はナクソス島のホテル・アリアドネに投宿してから考えこむ話だ。そこはアテナイの英雄テセウスがアリアドネを置き去りにした島である。 

≪021≫  実はディオニュソスの妻はクレタ島の王ミノスの娘アリアドネなのである。クノッソス宮殿(ラビュリントス)の怪物ミノタウロスを、「アリアドネの糸」をテセウスに渡して怪物退治を成功させた、あの王女アリアドネが妻なのだが、ただし事情はややこみいっている。そのこみいりぐあいにディオニュソスの面目があらわれている。 

≪022≫  楠見はそのことを確認しにナクソス島にやってきた。たしかにいくつかの話が交錯していた。 

≪023≫  Aの伝承は、ミノタウロスを退治したテセウスはアリアドネに求婚し、クレタ島から連れ出すのだが、途中のナクソス島(当時はディア島)に残したままアテナイに向かったというもので、アリアドネはそのまま産褥で死ぬ。テセウスはアリアドネを捨てたのである。プルタルコスが伝えてきた話だった。 

≪024≫  Bの伝承は、一人残されたナクソス島で嘆き悲しむアリアドネを見て、ディオニュソスがこれを救うように妻としたというもので、別の島に移ってそこで4人の子を産んだというふうになっている。 

≪025≫  Cの伝承は記述年代からするといちばん古く、ホメロス(999夜)が『オデュッセイア』に綴っていたもので、アリアドネはこの島で女神アルテミスによって殺されたというものだ。そのことをディオニュソスも承知していたというふうになっている。 

≪026≫  アルテミスは狩猟と弓が得意で(ディアーナ=ダイアナとも重なる)、アマゾネスまがいにニンフたちを連れて山野に君臨した女神である。ゼウスとレトの娘にあたり、アポロンとは双子の兄妹になる。この二人(二神)はなかなか象徴的で、アポロンは男たちのエロスとタナトスを握り、アルテミスは女たちのエロスとタナトスを律した。 

≪027≫  いずれもそれらしい伝承だが、どれが正統か、どの話に事実が反映しているのかは、むろん決めがたい。しかし楠見は島の丘の一隅に残る10メートルをこえるクーロス(青年像)を見て、たちまちそれがディオニュソス像であると感じ、そこからディオニュソスはアリアドネの闇を理解したり拒否したのではなく、ディオニュソス自身がアリアドネ性を内性として共有していたのだと確信する。そうだとすれば、アポロンもアルテミスも「ディオニュソスの内部がかかえていた神性」だったのである。 

≪028≫  以上のような楠見の見方は、従来のディオニュソスにまつわる一面的で忌まわしいイメージ、酒神バッコスとしての楽観的で寛容なイメージのどちらも払拭していくものだった。もっともこうした「問い」を連打できた楠見も、いったい何がディオニュソスの秘儀の核心になるのか、旅がすすむにつれてこの謎はかえって深まっていったらしい。 

≪029≫  ベルリンの壁が崩れ、米ソ二極対立が変質した。ソ連がなくなり、湾岸戦争が仕組まれた。バブルがはじけた直後にあたった日本の90年代はまことに貧相な「失われた10年」に突入していた。何が「失われた」のか。富や政治や社会の力を失ったのではない。歴史的現在に立って世界観の特徴を説明することができなくなっていったのである。 

≪030≫  そんなことを感じていた矢先に、分厚いアンリ・ジャンメールの『ディオニューソス』(言叢社)が翻訳刊行された。かつて工作舎にもいた芦澤泰偉による装幀だった。 

≪031≫  こんな本格的な研究があったのかと思った。まさにディオニュソスの伝承の事歴と語られた方の変容をまるごと説明しようとしたもので、理性的なロゴスをいくら積み重ねていっても見えてこないディオニュソス像を、伝承に沿いながらもその解釈の可能性を逐一あからさまにしようとした。原著は1951年の刊行だ。 

≪036≫  けれどもディオニュソスには熱烈な肩入れをした。どうしてそんなふうになったのか、著者はそうした研究動機を詳らかにしていないので、著者の好みや思想が奈辺にあるかはわからない。ぼくとしてはジャンメールがこれだけの徹底した総点検をもたらしてくれたことを、ひたすらありがたく読ませてもらった。 

≪037≫  ちなみに本書の日本語訳を勧めたのは、ユーラシアの歴史と神話をアジア的に見ることができる前田耕作の慧眼によるものだったようだ。ぜひ前田のディオニュソス論も聞きたいところだが、今日まで機会を逸したままにある。前田はエミール・バンヴェニストの『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集』の翻訳を監修した。 

≪032≫  読みはじめてすぐに見えてきたのは、第1には、著者のジャンメールは、ギリシア神話の内奥やいまだ解読されていない構造にかかわりたくてディオニュソスを浮き彫りにしたのではなくて、ひたすらディオニュソスの謎に深入りしたくて、こう書いたのだろうということだった。適切な例かどうかはわからないが、日本でいえばスサノオやアラハバキに関する事例や引例だけの読み込みで、日本神話の既存の解釈による流れには拘泥しないというような、そんな研鑽なのである。 

≪033≫  第2には、それゆえ従来のギリシア神話学の読み筋にほとんど頼っていない解読のみで、大冊が埋まったのだろうということだ。これはディオニュソスという特異で多様な神に近づくには、おそらく最も必要な接し方だったのだろう。 

≪034≫  第3には、これはもはや言うまでもないことだろうけれど、ニーチェのような図式をいっさい用いていないということだ。ニーチェにふれているのは600ページの中のたった1ページにすぎず、ドッズのようにディオニュソスをまともに見なかったプラトン的な理性にケチをつけてもいない。ひたすらディオニュソスと抱き合っただけなのだ。 

≪035≫  こんなふうにディオニュソスをまるごと研究するという分野は、アンリ・ジャンメールというやや地味な研究者が登場するまでは、ほとんどいなかった。エコール・ノルマルで古典学を修め、リール大学やエコール・プラティクでギリシア・ローマ宗教史を講義し、論文も著書も寡作だったジャンメールは、宗教史においてもギリシア思想史においても、あまり注目されてこなかったらしい。 

禅とオートバイ』11

≪01≫  バークレーの書店にも、ニューヨークの書店にもどっと並んでいた。まだカリフォルニアにドラッグの香りがぷんぷんしていたころで、誰もがイージーライダー気取りだった。 

≪02≫  禅とオートバイという奮った「合わせ技」に背中を押されて買ってみたが、かなり深遠なことが書いてあるのでへこたれ、結局、通して読んだのは日本語になってからだった。 

≪03≫  原著のほうは四国北条でモーターサイクル・エンジンのすばらしい製造工場をつくっている松浦さんが東京に訪ねてきたときに、贈呈した。松浦さんはレース会場で耳でエンジンの調子を聞き分ける達人で、洒落た工場もエンジンを高速回転させるところは地中に半分降りるようになっていた。そこをゆっくり案内してもらったことへのお礼だった。 

≪04≫  「ふうん、禅とオートバイですか。おもしろいなあ。実はモーターサイクルって、ちょっと禅っぽいんですよね。エンジンは座禅してるみたいなものだし」としきりに一人で頷いていた。 

『禅とオートバイ』12

≪05≫  ぼくはオートバイの免許も、自動車免許ももっていない。おそらく自動車免許はこのまま取らずじまいになるだろう。 

≪06≫  けれどもオートバイはめっぽう好きで、あまりおおっぴらには書けないが、若いころにはしばらく無免許で乗っていたこともある。桑沢デザイン研究所で教えていたころは、学生から「ちびバイク」を借りて新宿から渋谷まで駆け抜けていた。 

≪07≫  その後は、「七十すぎたら、暴走族」というキャッチフレーズをつくって、爺さんになるにしたがって過激になろうという決意を表明してもいた。むろん誰も本気でとりあってはくれないが、このイメージは子供のころに京都の街を袈裟を着た坊さんがバイクを駆って疾走していたのを見たときから芽生えていたもので、そのせいかぼくは「師走」という文字を見ると、いまもオートバイに乗ったお坊さんが目に浮かぶのである。 

≪08≫  で、まだ70歳になっていないぼくは、いまもまだオートバイ免許ももっていないままなのだが、そのかわり、たくさんのオートバイ野郎と仲良くなった。片山敬済、平井雷太、大倉正之助はなかでもとびきりである。最近はヤマハをデザインしている石山篤さんと昵懇になって、その深謀遠慮な二輪デザイン哲学「人機魂源」を聞かせてもらっている。 

『禅とオートバイ』1團3列

≪09≫  さて本書については、新たに寄せられた序文を読んで驚いたのだが、パーシグの息子のクリスが殺されてしまっていた。本書が出版されてから5年後のことで、黒人に強請られたとき、それに抵抗したために刺殺されたらしい。 

≪010≫  本書はパーシグと妻シルヴィアと11歳の息子のクリスとパーシグの友人ジョンとが、四人でオートバイの旅をしながら各地をめぐってさまざまな体験をしつつ、またオートバイをメンテしつつ、他方でパーシグが記憶を奪われる前の世界を精神的に旅をするという、そういう二重の構成でできていたドキュメンテーションなので、クリスがいなくなってしまったことは、実の父親としてのパーシグにとっても、精神の旅人であろうとしてきたパーシグにとっても、大変な欠如であったろう。 

≪011≫  場合によっては本書の体験の中核そのものが奪われるような衝撃だったろうとおもう。実際にもパーシグは序文のなかで、「この原型にあいた穴」はいつまでたっても埋められそうもない、と書いている。 

『禅とオートバイ』21

≪012≫  そもそもパーシグが電気ショック療法によって本来の記憶を失ってしまったということが本書の出発点なのである。 

≪013≫  彼はそれまではれっきとした理学部の大学教授だった。 しかしいつまでも「記憶のない男」ではいられない。それは思索の欠如を意味していたからだ。そこでオートバイの旅を思いつく。 

≪014≫  この思いつきはよくあることで、しかもこの国は『スコーピオ・ライジング』や『イージー・ライダー』の国なのである。キャンプをすること、4人のチームをつくること、オートバイのメンテナンスをしつづけること、以上の3つを決めて旅をするまでには、たいした決断は要らなかったようだ。 

『禅とオートバイ』22

≪015≫  旅をするだけでは物足りなかった。その旅で何を考えるかということが大きい。 そこでパーシグは、「記憶を失う以前の自分」をパイドロスと名付け、そのパイドロスが辿ったはずの世界をツーリングの中で回復できないかと考えた。パーシグはかつて自分に言いたかったことがあったことを思い出せないのだが、パーシグの影にあたるパイドロスはそれを知っている。そういう「影」とともにツーリングすることにしたわけである。 

≪016≫  次に、そのパイドロスに口を開かせるために、「シャトーカ」という方法を試みようとした。 シャトーカというのは100年ほど前にアメリカで流行した教育と娯楽を兼ねた野外講演会のようなもので、映画とテレビが普及する前は、シャトーカによって知的啓蒙や文化的励起を感じる民衆がそうとう多かった。そのシャトーカをバイク旅行のあいだにときどき挟んでいこうというのである。それならパイドロスもきっと何かを思い出すにちがいない。 

≪017≫  さらに、これらを通して「クオリティ」ということを考えつづけようとした。これは妻や息子クリスやジョンと喋るときもバイクをメンテナンスするときも、シャトーカをするときも、ぜひ守りたいと考えた。 

『禅とオートバイ』2團3列

≪018≫  ざっと以上のような前提で、パーシグはバイク旅行のあいだ、ずうっと”哲学”し、それを本書に仕上げていったわけである。 

≪019≫  だから本書には、ときどきめっぽう難解な思索が展開されるし、パーシグの前歴には理学部時代の研究記憶があって、それをパイドロスがだんだん思い出すものだから、かなり本格的な科学思考も展開されるようになっている。 

≪020≫  こうしてどうなっていったかというと、オートバイはたえず修理され、パイドロスはシャトーカを通して思索を取り戻し、パーシグはしだいに饒舌になっていったのだ。 

『禅とオートバイ』31

≪021≫  本書は以上の”しかけ”のもとに、その決断から実行までのプロセスの一部始終を再現した。 それとともに”哲学書”にもなっている。現実のパーシグと過去の思索を受け持っているパイドロスが近づいてくるにしたがって、「クオリティ」を求めるというパーシグの姿勢が、急速に「無」に向かっていったからである。東洋的な「無」への着目である。とくにおもしろかったのは、ついに「無の拡張」こそがこのバイクの旅の目標であり、かつ、パーシグがそもそも試みてみたかったことの本質であったというふうになっていくくだりだ。 

≪022≫  まさにタイトルの『禅とオートバイ修理技術』の「禅」というのが、このことなのである。 この、「無の拡張」に向かって、著者とその影が同時に転移していくという叙述のしかたは、おそらく本書を最もおもしろくさせている理由になっているのだとおもう。 

≪023≫  とくに、その転移の叙述のあいだに、BMWのR60の修理の場面とか、ボルトとナットの使い方には最初に接触だけで締めるフィンガー・タイトがあって、次に表面の弾力性が吸収されるスナッグがあり、最後にすべての弾力性を吸収しきるタイトという締めがあるといったテクノ談義が随所に入り、さらにそのあいだに最新物理学の理論、たとえばブーツストラップ理論の解説が入ってきたりするので、それらがあたかも禅僧が落葉を掃いたり、座禅をしているときの雑念のように見えて、なかなか気分的な説得に富んでくるのである。 かくして、本書はカリフォルニアを中心にアメリカの若者たちに爆発的に読まれていったベストセラーになったのだった。 

『禅とオートバイ』3團1列

≪024≫  いまおもうと、このような類の本はその後次々に出版されていったムーブメントの最初の一撃にあたっていた。科学の分野ではそれがやがてニューエイジ・サイエンスとよばれ、心理学の分野ではそれがやがてトランスパーソナル・サイコロジーとよばれてもいった。 

『禅とオートバイ』33

≪025≫  ただ、パーシグはベイトソンやバックミンスター・フラーをかつては読んでいたのかもしれないが、それを記憶喪失してしまったため、まったく独自のパイドロスとして、それらの思想をひたむきなオートバイ・ツーリングだけを通して”発見”できたことになったわけである。 

≪026≫  そういう意味では、本書をいま読むとかなりクラシックな「自分さがし」のドキュメンテーションに見えるのだろうなという気もする。すなわち本書は「自分さがし」ムーブメントの最初の一撃のひとつでもあったわけなのだ。 

≪027≫  けれどもいまは、この『禅とオートバイ修理技術』という二つのコンセプトを結ぶ角度そのものが、アメリカの失った魂の奪還に最も近い角度からのアプローチだとみなされているらしい。そうだとすると、ぼくはそういうアメリカ人の読み方からは離れざるをえなくなってくる。 

≪01≫  今夜は、わかりにくいのにチャーミングで、チャーミングだから理解したいのにいっこうに解読の手立てなど示さない本、そうかこういうやりくちでしか世界の表象とその裏側を同時には語れないよな、そうだよなという、ちょっとめずらしい本を案内する。惚れてみたいのにひらりひらりと躱(かわ)される異性を相手にしているような本だ。その装い(書きっぷり)からして変わっていた。 

≪02≫  中身はヘルメス知(ヘルメス智)をめぐっているのだが、これまでのヘルメス関連のものとはまったく違っている。たとえばルネー・アローがまとめて有田忠郎が一人で訳してみせたヘルメス叢書(白水社)には、ニコラ・フラメルの『象形寓意図の書』『望みの望み』や、サン=ディディエの『沈黙の書』『ヘルメス学の勝利』などの曰くつきの”古典”がずらり顔を揃えているけれど、すべてがペダンティックな神秘主義用語がちりばめられていた。 

≪03≫  フロイト(895夜)やブルトン(634夜)が身を躍らせてヘルメス知にアプローチしたときも、その語り口はもったいぶっていた。 

≪04≫  ところが本書は衒学に耽けらない。ヘルメス知に踏み込む書きっぷりと捌きかたがめっぽう自在なのだ。オカルト好きのシロートの訳知り本ではなく、れっきとした学者の著作で、しかもヘルメス学というめんどうなジャーゴンに満ちた領域を扱って、こういう書き方をした本はめったになかったと思う。 

≪05≫  二つのことをあらかじめお断りしておく。ひとつは著者のロムバッハがそうなったについては、少しだけ解釈学をめぐる学問事情を追っておいたほうがいいかもしれないということ、もうひとつはこの本の内容をわかりやすく説明するのは、ロムバッハがふんだんに神話と美術作品による暗示(ヴィジュアル・アナロジー)を重視しているため、さすがに紹介がやりにくいということだ。 

≪06≫  カントいまいち、スピノザよしよしのぼくには、いっときシュライアマハーに凝っていた時期がある。そのころはシュライエルマッハーと言っていた。 

≪07≫  聖心女子学院出身でシスターの教えを受けて育った渋谷恭子にヘンコーケン(編集工学研究所)を任せようと決めたあと、これを読んでみたらと奨めたのがシュライエルマッハーの『宗教論――宗教を軽んずる教養人への講話』(筑摩叢書)だった。当時の渋谷は「神さま、デヴィッド・ボウイ、キング・クリムゾン、稲垣足穂、僻地治療、電子システム」だけが好きな子で、知能指数がやたらに高く、フォトグラフィック・メモリーが飛び抜けていた。けれども話してみると、カトリックというよりも体のどこかにゲルマンやスラヴの神がいた。 

≪08≫  そこでシュライエルマッハーを薦めてみたのだが、渋谷はさっそく読んで何か大事な神学的なことを感じたらしく、のちにもっとセンシティブで琴線に響くであろう『独白』(岩波文庫)も読んでいた。 

≪09≫  フリードリヒ・シュライアマハー(1768~1834)はヘルンフート兄弟団のマグデブルク神学校やハレ神学校に学び、ヨハン・シューマンの助手、ウュネツブルク大学の神学教授をへて、ベルリン大学の初代神学部長になった神学者である。18世紀末から19世紀初頭にかけてカント、フィヒテ(390夜)、シェリング、ヘーゲル(1708夜)が大流行してドイツ観念論の勢いに神の議論が席巻されようとしていたなか(このあたりのドイツ哲学事情については、千夜エディション・西の世界観Ⅱ『観念と革命』を覗いていただきたい)、これらに引っぱられることなく断乎として近代聖書解釈学を確立して、自由主義神学やロマン主義神学を率先した。 

≪010≫  シュライアマハーが開示した聖書解釈学による「解釈学」は、ヘルメノイティックとかヘルメネティクス(独 Hermeneutik 仏 herménetique 英 hermeneutics)と名付けられた。神々の意志を人間に伝えるヘルメス神にちなんだ命名で、「解釈する/理解する/読解する/説明する」という意味をもつ。ギリシア語でも「解釈する」は hermeneia と言っていた(ラテン語では Interoretatio)。 

≪011≫  こうして解釈学はシュライアマハー以降、聖書のテキストをどう読むかという学問の代名詞になったのだが、ディルタイがシュライアマハーの聖書解釈学をほぼ踏襲し、これをハイデガー(916夜)が深化延長し、さらにハンス・ゲオルグ・ガダマーがそれらを批判しながら、もっと普遍的な「世界解釈としての解釈学」を試みるようになると、ここで新たな20世紀の解釈学が打ち立てられた。 

≪012≫  ガダマーは、全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存するのだから、過去のどんな重要なテキストも「解釈学的循環」(Hermeneutischer Zikel)にあるとみなすべきであるという見方を採った。わかりやすくいえば、元のテキストと解釈者のテキストは「地」と「図」の関係にあるのだから、「もと」と「あと」のどちらが優位ということもなく、原著者と解釈者は地図一体になる(地平融合する)という見方だ。今日の解釈学はこのガダマーの路線の上に乗っかり、それをさらにポストモダン化したポール・リクールの路線の上に乗っている。 

≪013≫  しかしこれはあくまで解釈学という新たな学問による見方であって、ヘルメス神に肖(あやか)るというなら、実は古代以来のヘルメス学やヘルメス主義もあったのである。 

≪014≫  こちらは解釈学とは言わずに、慣例上、まとめてヘルメティシズム(Hermeticism)、あるいはヘルメス知(ヘルメス智)と言ってきた。ただしこちらは、古代以来の神秘主義に属する「隠秘の系譜」だからというので、社会哲学の解釈学研究にヘルメス知がまざってくるなんてことは、ありえなかった。リクール以降のポストモダン派も世界の脱構築には臨んだが、あらかじめ反世界を設定することには臆病だった。 

≪015≫  しかしヘルメス知の歴史は世界と反世界を一緒くたに扱っていったのである。 

≪016≫  ヘルメス学はヘレニズム期に仮想著述者ヘルメス・トリスメギストスがまとめたというヘルメス文書群(Hermetica)にもとづいて、その解釈に向かっていったものである。 

≪017≫  その後は錬金術・秘教・カバラ・魔術・暗合術・観相術などの神秘主義的な知の系譜を追いかけて、ルネサンス期のマルシリオ・フィチーノの「ヘルメス全集」の大編纂をきっかけに、その思想をさまざまなシンボルや寓意やテキストや絵画や音楽にあてはめてきた。 

018≫  これは正統派の神学からすると、とんでもない異端思想か邪教に映った。キリスト教の世界からすると反世界の加担者にあたると見えた。もともとのテキストであるヘルメス文書群にしてからが、架空のヘルメス・トリスメギストスがまとめたというのだから、聖書に依拠した解釈法とはおよそ異なっている。その解釈法には秘密めいたものや暗合的なものがすこぶる多いので、合理的な学問にもなりにくい。 

019≫  かくして「聖書にもとづいた解釈学」と「典拠不明な文書にもとづいたヘルメス学」という二つの系譜が、同じくヘルメス神を戴いていながら、一方は開示され、他方は覆蔵されてきたわけである。世界と反世界がヘルメスをまたいで対比されていったのである。 

≪020≫  本書の著者ハインリッヒ・ロムバッハ(1923~2004)は神学者であって現象学者でもあったのだが、解釈学一般だけではなくてヘルメティシズムを再解釈するほうに意欲を見せた。シュライアマハーの学術的伝統に従わず、現代解釈学の方法にも靡かない。そんなことで通るのかよという道を選んだのだ。 

≪021≫  ぼくはロムバッハがヘルメス知の本を書くとは思っていなかった。それまでの『科学論』『形象は語る』(創文社)、『哲学の現在』『現象学の展望』(国文社)から、現象学者としての切れ味が「構造の深層」に向かっているのはよくよく伝わってきていたのだが、それがヘルメス知に及んでいたせいであったとは、いや、ヘルメス知によってこそ「構造の深層」が存在論になりうると考えていたとは、迂闊にも想定できなかった。 

≪022≫  1980年に京都学派に招かれて来日したときも、その言動の一部が辻村公一や大橋良介によって紹介されていたと思うのだが、そこからロムバッハがヘルメス知にのめりこんでいくという見当も、つかなかった。 

023≫  けれども本書の構成の仕方、書きっぷり、表象の例題の選び方にあらためて出会ってみると、あれよあれよなのである。ロムバッハは誰よりもヘルメス知を動的深層において提示しえていた哲学者だったことが、はっきりした。この哲学者は「理解できないものに対する理解としての世界理論」にこそ、関心を寄せつづけていた。 

≪024≫  書きっぷりがおもしろいということについては、冒頭の「手引きに代えて」という序文にして、はやくもぶっとんでいる。以下のような感じだ。 

≪025≫  この手引きには、マルク・シャガールの《赤い屋根の家並》のカラー図版が掲げられていて、その図柄の説明になっている。けれども、どうしてこの絵が『世界と反世界:ヘルメス智の哲学』という大胆なタイトルの本の手引きになるのかということは、まったく書いてない。 

≪026≫  そもそも美術史学界でも、シャガールがヘルメス知やグノーシス知に傾倒していたなどという記述を、これっぽっちもしてこなかった。だからシャガールの絵のどこがヘルメティックなのかは、よほどの研究者でないとわからない。それにもかかわらず、ロムバッハはシャガールにはヘルメス知が動いていたと見抜き、それを暗示的に知ることが重要だとみなしたのだ。 

≪027≫  シャガールの絵はどれもとても不思議なものだけれど、《赤い屋根の家並》もたいそう象徴的である。真ん中のベルトに描かれた赤い屋根の家並は、画家の故郷のロシアの古い町ウィテブスクらしく(現ベラルーシ)、ふわりと浮いた赤毛のシャガールがこの町に敬意をこめて身を曲げている。上方に斜めに描かれた菫色の町は第二の故郷ともいうべきパリで、その中央には緑の木々が繁る。下の石畳のようなベルトには上半分が男性で下半分がさかさまになった裸婦がつながったままの姿で花束を捧げ、石畳には小さな馬車が走る。 

≪028≫  この3つのベルトがそれぞれ「世界」をあらわしているようなのだが、それらとは一見離れたところ、絵の右上には、黄色とピンクに塗られた月のような二重円形が描かれる。その円形を背景に司祭のような人物が大きな包みをもって佇んでいるのも妙なのである。 

029≫  けれどもなぜか、ロムバッハはこの程度の説明をするだけで、「世界は多様にできている」ということと、「最低」なものと「最高」なものは分け隔てなく承認されるべきだということとをシャガールが熟知していたことだけ暗示して、本論に入っていくのだった。これは、かなりぶっとんだ書きっぷりだろう。あれよあれよ、である。シャガールの絵がそうだというより、ロムバッハがシャガールの絵をデヴィッド・ボウイにしている! 

≪030≫  
本書には「序に代えて」だけでなく、本文でもいくつもの絵や図版や写真が登場する。本書でなければ一同に会さない図版ばかりだ。 

≪031≫  たとえばヘルメス神の図像、ボッティチェリの大天使像、デューラーの《バイブルを貪り食うヨハネ》、ボッシュの《十字架を担うキリスト》、ルーベンスのアポロン画、フリードリッヒの風景画《海辺の僧》、アントン・シュトルムの天使像、ワーグナー(1600夜)の《タイホイザー》の舞台写真、マックス・エルンスト(1246夜)の《盲目の泳ぎ手》、フィリップ・ルンゲの光の絵、ピカソ(1650夜)の《アヴィニヨンの娘たち》、茶道の写真、星の王子さまの絵、ダリ(121夜)が戦闘シーンを描いた部分のアップなどなどだ。 

032≫  けれども、こうした図版のそれそれの掲載理由は、つまり、どこがヘルメティックなのかということは、詳しくは説明されない。本書は、形象と構造からやってくる直観にひたすら訴える本なのである。これらの図版はことごとくキング・クリムゾンか、さもなくば稲垣足穂(879夜)なのだ。 

≪033≫  以上の事情がなんとなくはわかってもらえたとして(まあ、わかりにくいだろうけれど)、それではそろそろヘルメス知がどういうものか、ロムバッハの書きっぷりを借りながらも勝手な案内をすることにする。まずは、ヘルメス知はなぜヘルメス神にもとづいたのかということだ。一言でいうと、この神さまはやたらにチャーミングなのだ。 

≪034≫  古代ギリシア神話では、ヘルメス(Hermes)は神々の使者の代名詞である。神々の使者ということは、古代都市国家社会を出入りする最高の「情報伝令者」であるということになる。ゼウスらの最高位の神が命じた出来事を準備する知恵者であって、用意周到なディレクターであった。ローマ神話ではメルクリウス(英語読みではマーキュリー)と名前を変える。 

≪035≫  父はゼウス、母はアトラスの娘のマイアで、ヘルメスはアルカディアの山深い洞窟の中で生まれた。アルカディアはペロポネソス半島の中央部に古代アルカディア人が住んでいたという土地で、農耕には適さず、もっぱら牧人がのんびり牛や羊を飼っていたので、ギリシア人からは理想郷のように想像されていた(いまでもアルカディアという言葉は理想郷の代名詞になっている)。 

036≫  ヘルメスという名がどのような理由で付いたのかは、定説がない。古代オリエントや古代ギリシアで道標や境界石をあらわしたヘルマ(堆積石・積み石)に由来するのではないかと、ロムバッハは推理している。ヘルマは「ヘルメスの柱」とももくされた。そうだとしたらヘルメスは諸世界神であり、諸世界を隔てる神だったのである。 

037≫  ヘルメスがそういうノーマッドなアルカディアからやってきたとする伝承も多く、そのためホメロス(999夜)によると、ヘルメスはオリンポスの神々のうちで最も雄弁で、地下世界である冥界に通暁し(Chthonios)、人間に最も好意的な神として「魂の同伴者」であろう(Psychopompos)、とみなされてきた。 

≪038≫  異母兄弟にアポロンがいた。有名な神話エピソードだが、子供のころのヘルメスは兄アポロンが大事にしていた乳牛を盗み隠し、それを父に見抜かれたため、のちのちまで詐欺と窃盗と奸智の神とも言われた。 

≪039≫  そういうヘルメスはたいてい「二匹の蛇がからまった杖」をもち、「翼のはえたサンダル」をはいた姿で描かれることが多い。この杖は乳牛事件のあとに仲直りしたアポロンから貰ったもので、ケリュケイオンの杖(伝令の杖)という。ラテン語ではカドゥケスで、その形をあらわしたエンプレムはその後は占星術では水星の、錬金術では水銀のシンボルになった。 

040≫  ヘルメスは何かと気が利いた神であったので、さまざまな場面で活躍した。ディオニュソスが産まれたときにヘラの目から赤児をすばやく隠したのはヘルメスだったし(1774夜参照)、ヘラ、アテナ、アフロディテが美の幵(けん)を競いあったとき、地上に舞い降りて牧童パリスによる審判をとりもったのもヘルメスだった。 

041≫  あまり知られていないかもしれないが、両性具有のヘルマプロディトス(エルマフロジット=アンドロギュヌス)はヘルメスとアフロディテのあいだに生まれた子で、牧神パン(パーン)はヘルメスとペネロペのあいだに生まれた子であった。ヘルメスはたくさんの女神と交わった「好き者」でもあったのである。 

≪042≫  多くのヘルメス像におちんちんが勃起して描かれたり彫像されたりしているのは、この手のものに目を伏せてきた良俗者や知識人には、とても困った形象に見えるだろう。ときにおちんちんはヘルメス像で一番目立っている。ダビデ像のようなだらんとした一物ではなくて、立派に勃起した男根なのである。 

≪043≫  これはギリシア語で「ファルス」(ファロス)あるいは「イティス」とよばれてきたシンボル的形象で、古代ギリシアのみなららず、どんな原始文化社会でも強調され、性の解放をあらわした。古代エジプトではオシリスの「失われた男根」として知られ、古代インドでは「リンガ」とよばれた。 

≪044≫  ちなみに、古代ギリシアのファルス信仰の実態については、エヴァ・クルーズの『ファロスの王国』I・II(岩波書店)という、とんでもなくスリリングな快著がある。ヘルメスの神像の「去勢」にまつわる真相にも迫っているのだが、あまりにフェチで微細にわたるので千夜千冊ではスキップしておく。 

≪045≫  男根はマッチョをあらわすわけではない。ギリシア・ローマ文化をルーツにもつその後のヨーロッパの民族文化史では、生殖器が目立つオブジェや彫像は、ふつうは豊産や牧畜文化を象徴する。おそらくヘルメスのおんちんもそれである。コペンハーゲンの国立博物館には紀元前515年の制作とわかっている壷絵が展示されているが、そこにはいままさに完成するというヘルメス像の男根に彫刻家がコンコンと鑿を当てている興味深い図が描かれていた。本書にも引用されている。 

046≫  あらかた察した諸君がいるかもしれないが、こういう特色をもつヘルメスは何かに似ている。そう、ディオニュソスに似ているのだ。そう、ギリシア神話では酔っ払いの演出神ディオニュソスとヘルメスとが格別の神なのである。両神ともノーマッドで、両神ともアポロン神との対比で語られ、両神とも中央支配から逸れていた。 

≪047≫  総じて、ヘルメスは情報のコミュニケーションに長けている。ヘルメスはそこかしこの多彩な人材(神々の魅力)と人知(神々の噂)に詳しく、何かと気が利いている神なのだ。とはいえ、ギリシア・ローマ神話ではそれだけで神話的英雄にはならないし、神学的中心人物にはならない。 

048≫  けれどもヘルメスがいなければ「世」(世界)はまわらない。ディオニュソスとヘルメスがいなければ官能がない。ホメロスが早々に「人間に最も好意的な神」だとみなしたのはそのせいだ。 

049≫  われわれの周辺にもこういう人物はたいていいる。小学校にも高校にも、大学にもサークルにも会社にも役所にもスポーツ界にも、いろいろなちびヘルメスがいた。かれらはリーダーになる気もセンターを占める気もなく、といって反逆するでも陰謀に走るのでもなく、ドロップアウトするのでもなく、やたらに人好きで情報収集がおもしろいので、そのつど「世」を表象しつづけているというヘルメス君やヘルメス嬢たちだ。 

050≫  つまりかれらはメディエーターなのである。メディエーターではあるのだが、新聞や雑誌や放送局をつくるとはかぎらないし、ありきたりな解説者になるとはかぎらないし、喫茶店やバーを開くともかぎらない。それなのにずうっと情報の動向とともにいる。情報の陰の部分にいつづける。 

≪051≫  これは世界の確定や反世界の逆襲の、そのどちらの立脚にもかかわらないということで、しかし情報の重なりぐあいや組み合わせぐあいにはめっぽう詳しいので、ちびヘルメスたちは世の中のどこにも継続的に蓄積されていない格別な「知」の体現者でありつづけたい、ということなのである。 

≪052≫  では、そんな、少しおっちょこちょいなヘルメスの名を冠した「ヘルメス知」というものが、その後にどうして知的な話題になってきたかというと、そういうコミュニカティブな情報伝承をひっさげたヘルメス神よりも「3倍も才能をもつ者」という意味の名のヘルメス・トリスメギストスという謎の人物が、ヘルメス君やヘルメス嬢のノートやブログをまとめ、それらを次々に編述していった文書群が仕上がったからだった。 

≪053≫  むろん仮想の編纂者が想定されてそういう事情になったのだが、これはヘルメスより3倍の編集をなしとげた「類いまれな知的編述グループ」が、実際にもヘレニズム時代の各所各時期に集中的に登場していたということであった。 

≪054≫  そういう知的編述グループがときどき歴史上のどこかに群れをなして登場してくることは、めずらしくない。旧約聖書をつくっていったユダヤ人、ヒンドゥ哲学を組み立てたウパニシャッド派や六派哲学の編述者たち、春秋戦国の諸子百家、新約聖書をつくりあげたパウロたち、マハーヴィラやブッダらの六師外道たち、いろいろ登場した。 

≪055≫  とはいえ、それらの多くは古代中世社会ではオーソライズ(権威化)をほしがり、強固な派閥を形成し、組織の巨大化をめざしていった。大教団や大宗派がこうして力をもつようになった。そのためメディエーターにとどまりつづけるものたちとその動向は、おおむねは排除されるか泡沫化するか、個人化して作家や造形家に転じるか、市井に紛れるか、そんなふうになった。墨子の思想、ミトラ教の教え、マニ教などは、まさにそうなった。 

≪056≫  一方、権威化された思想や巨大化をめざした組織には、失うものがかなりある。リクツに入らなくなっていくものが、そうとうにある。とくにロゴス(Logos)にならずにアナロジーの類例としてしか注目されなくなったものは数知れない。「普遍を謳う世界」のロゴスはそういうものを排除してきた。 

≪057≫  これでは世界は半分以下が語られてきただけなのだ。反世界も半分以下なのだ。ヘルメス知はその半分以下になりそうなところを編集した。 

058≫  話戻って、もともと構造存在論(Strukturontologie)や形象哲学(Bildphilosophie)に関心をもっていたロムバッハは、そういうヘルメス知にこそ世界と反世界の「あいだ」があると見定めたのである。 

≪059≫  本書の第3章は「覆蔵の内なる神」となっている。なかなかイミシンな章タイトルだ。ヘルメス的文化が歪曲され没落させられ、アポロン的原理が支配的になったヨーロッパ文明で、ヘルメス知がどのように変化していったのか、その意味(解釈力)を取り戻そうとしてきたのかをスケッチする。 

≪060≫  ロムバッハは多様な例をあげる。まずは「失われた羊」や「迷える羊」にまつわる話はすべて「ヘルメス知の変容を物語る」と見る。ヘルメス知は「失う」ということによって事態の本質を露呈させる力をもっていたとみなすからだ。 

≪061≫  天使がヘルメス的であるのは、境界をこえる宙ぶらりんな存在であるからだとも暗示する。天使はヘルメスの「翼がはえたサンダル」(タラリア)を脇に移して大きな翼に改造し、天を彷徨しているのだが、何かをいちいち創造することはない。気になるところに飛んでいくだけなのである。 

≪062≫  つまり天使はメディエーターなのである。けれどもそういう天使が何をしているのかがわかかるには、堕天使のように地上に落ちてしまわなければ、何がメディエートされていたかは気づかれない。ヘルメス知もそういうものなのだ。こうした天使をめぐる議論については、山内志朗の『天使の記号学』(岩波書店)などを読まれるといい。 

≪063≫  ファウストがメフィストテレスに売り渡してしまったものの中にも、ヘルメス知が入っていた。そもそも「メフィストテレスがアポロン的世界の光の中でヘルメスが出現するときの、ヘルメスの倒錯像なのである」。悪魔や魔女の世界(反世界)では、ヘルメスの杖が魔法の杖や魔女の箒(ほうき)に化せられるのだ。 

≪064≫  覆蔵とは覆われてしまったものをいう。その覆蔵の中に「内なる神」がいる。それこそがヘルメスであるが、そういうヘルメスを発見するには、ひとつには「星の王子さま」のように配慮によって隠された世界のヴェールを剥がすか、チャップリンの映画の主人公のように、剥がすたびに失敗がおこり、周囲が大混乱することに飛びこむしかないと、本書は述べる。 

≪065≫  星の王子さまとチャップリンがすこぶるヘルメティックだというのは、実にチャーミングな言いっぷりである。まさにそうなのだ。何に「なつく」かということと、何が「できる」かということは裏腹なのである。
ヘルメス知も星の王子さまもチャップリンも、その「なつく」と「できる」の関係のぎりぎりぐあい(失敗ぐあい)を見せてきた。 

≪066≫  そう言われてもまだピンとこない読者には、ロムバッハはそういうことをもっとわかりやすく挑んだ聖人や詩人や哲人や画家や革命家として、アッシジのフランチェスカ、リルケ(46夜)、ハイデガー、ダリ(121夜)、バクーニン、アフガニスタン人を挙げる。それは、かれらにはヘルメスが救いの手をさしのべているのではなく、最も大事なことは「突き返す」ことだと確信していることに気がついているからだった。 

≪067≫  そしてこれらを引き算しながら混成させる方法をあらわせた者として、意外な思いをもつ読者もいるかもしれないが、ヘルダーリン(1200夜)とシャガールと、そしてなんと日本の茶人を挙げたのである。この引き合わせも決して意外ではない。ヘルメス知とは「数寄」の方法の体現でもあったのだ。  

≪068≫  ロムバッハは、要約するとこう結んでいる。――ヘルメス的世界は、最初はいつも反世界として登場する。ヘルメス的世界は既知の世界に還元されることを認めないし、協力しない、しかし、世界のほうがさまざまな展開のあげくに矛盾をきたすと、ヘルメス知は対抗的性格をさっさと解消する。こうしてヘルメス知は方法だけをタブローのようにのこすのである。 

≪069≫  諸君、タリバンが覇権をとったかに見えるアフガニスタンの動向に注目されたい。タリバンが支配しようとしているのは世界か反世界か、よくよく注視してもらいたい。 

≪01≫ DS「あなたの作品はサイズが決まっていますね。ほとんど全部が同じ大きさです。頭部は小さな絵、全身像は大きな絵。しかも全身像の頭の部分は小さな絵の頭部と同じサイズになっている」。FB「それは私の欠点です。融通がきかないんです」(1962)。 

≪02≫  欠点とは思えない。「融通がきかない」という性格や資質がありそうなことは少しわかる気はするが、ではトリプティク(三連画)はどうして生まれたのか。あれは融通ばかりではないか。相互浸透ばかりしているではないか。 

≪03≫  いったい、どんなふうに制作しているのかということも気になる。DS「連作は一枚ずつ描くんですか。それとも同時に描くのですか」。FB「一枚ずつです。一枚描くと、そこから次のイメージが浮かぶのです」。DS「そういう連作を一緒にしておきたいのか、それとも別々になってもかまわないのですか」。FB「理想をいえば、絵が全面に飾っている部屋の絵を描きたいんです。中の絵は主題がそれぞれ違うのだけれど、連続していると見なせます。私には、絵で埋めつくされた部屋が見えます。スライドを見ているように、そうした部屋が次々に現れます。一日中でも絵画の部屋の白昼夢を見ていられますが、思い浮かんだイメージをそのまま描けるかというと、話は別です。そのイメージが消えてしまうからです」(1962)。 

≪04≫  こんなふうにも言っている。「僕は自分の絵が、あたかも独りの人間が僕の何枚もの絵の間をカタツムリのように、人の存在の跡と過去の出来事の跡をうしろに残しながら通りすぎたかのように見えるといいと思っているんだ。カタツムリがその粘液の跡を残すようにね」(1955)。 

≪05≫  学生時代にフランシス・ベイコン(FB)の作品群に腰を抜かし、ああ、これしかない、よほどのものだ、これほど西洋が抱えこんだ美術の様式の可能性と限界に、内側から挑戦した真剣な試みはないと確信してから、二つのことが気になって困った。ひとつは、どんなふうにトリプティク(三連画)を発想したのかといこと、もうひとつは、ベラスケスの《教皇インノケンティウス十世》をあれほどいじりたくなったのはどうしてかということだ。 

≪06≫  いまではだいたいのことが得心できた。デイヴィッド・シルヴェスター(DS)のおかげだ。今夜の千夜千冊も、1975年から87年にかけてDSがまとめた驚くべきインタヴュー集『肉への慈悲』(小林等訳・筑摩書房)と、FBが1992年に心臓発作で亡くなったあと、いわば親友をめぐる集大成としてDSがまとめた『回想 フランシス・ベイコン』(書肆半日閑・三元社)のお世話になる。 

≪07≫  ベイコンについては、ほかにもミシェル・アンシャンボー『フランシス・ベイコン 対談』(三元社)、マイケル・ペピアット『フランシス・ベイコン』(新潮社)、ジョン・ラッセル『わが友フランシス・ベイコン』(三元社)、ジル・ドゥルーズ(1082夜)の『感覚の論理:画家フランシス・ベーコン論』(法政大学出版局)、アンドリュー・シンクレア『フランシス・ベイコン:暴力の時代のただなかで、絵画の根源的革新へ』(書肆半日閑)といった興味深い本もあるので、ときおり参考にする。ただしなぜか、日本人の言及物ではめぼしいものに出会ったことがない。  

≪08≫  「芸術家はふつうの人間とちがって幼年時代から遠ざからない」とベイコンは言っていた。1909年のアイルランド東部のカラッハで生まれ育った幼年時代のFBは、自分のことを弱虫だと思っていたようだ。 

≪09≫  よくいえば夢見がちで繊細なのだが、子供にしてすでに意地っぱりでモノラルな思いで周囲や世の中を見ていたから、それにとんでもなくシャイでもあったので、その夢見がちのアタマの中あるヴィジョンはどうしても歪んでいるものになっていたようである。小児喘息でもあった。ほとんど学校に行かず、何人かの家庭教師から勉強を教わっていたのも、FBを独りごちが好きな思い込み年にしたかもしれない。 

≪010≫  そうしたことと絡んでいるのかどうかはわからないが、なんといってもベイコンはゲイだった。ゲイのアーティストはコクトー(912夜)からウォーホル(1122夜)まで、セシル・ビートン、デレク・ジャーマン(177夜)、メイプルソープ(318夜)、キース・ヘリングなど、めずらしくはないほど多いけれど(作家、音楽家、ファッションデザイナーにはもっといる)、FBほど、そのゲイ感覚が触覚的なマチエルに至っていた画家はいないように思う。ただしこれはぼくの勝手な見方だから、アテにはならない。 

≪011≫  FBは自分が男の子か女の子かがずっとわからず、思春期には母の下着を身につけているところが見つかって父にこっぴどく叱られたのがショックだったらしい。だから父のことが嫌いだったのだが、「若い頃はその父に性的に惹かれていました。最初それに気づいたときは性的なものだということがよくわからず、のちに厩舎の馬丁たちと関係をもつようになってやっと、父に対して性的なものを感じていたのだとさとったのです」。 

≪012≫  大胆で病的で、ときに暴力的にも見える作品が話題になってからは、FBがゲイであることはすっかり知られ、5人の恋人のこともことこまかなことまで、わかっている。 

≪013≫  ベラスケスの《教皇インノケンティウス十世》については、ベイコンは絵描きになろうとむずむずしていたごくごく初期から、美術史上最高の傑作肖像画だと思っていた。 

≪014≫  このことはしかし、
(1)数ある画家のなかでベラスケスはとびきり凄い絵が描ける、
(2)教皇は何か根本的なことを訴える象徴的な存在だ、
(3)そもそも肖像画は何かを秘めている様式なのだろう、
この3つのことをまぜこぜにして感嘆しているものである。 

≪015≫  (1)は一番すなおな感想だが、ディエゴ・ベラスケスの抜群の技法がFBを襲ったことを伝える。近づいて見るとやや荒々しい筆のタッチが目立つのに、少し離れるときわめて写実的な衣服の襞になる。マネらの印象派たちが驚嘆した魔法のような技法がFBを疼かせたのである。ベイコンが油彩にこだわりつづけ、絵の具のフェチにはまったのは、ベラスケスのせいだった。 

≪016≫  (2)には、教皇が座っている椅子や結界の構成力に脱帽したことと、そこから発揮されているオーラをFBが浴びたことが含まれる。FBはこの絵をモノクロ写真で見て、その後もこの絵を収録した何冊もの画集を手に入れているだが、そこには神々しいほどの放出力が感じられたようだ。これらのことは、のちのちまでFBに「椅子に座って何かを発する」という構図と、そこからはエクトプラズマ(!)のようなものが流出していてもいいんだというモチーフに、自信をもたせた。FBには教皇や磔刑を描いたからといって、そこにはなんら宗教性はなかったのである。 

≪017≫  (3)はFB自身がゴッホやピカソ(1650夜)の肖像画にぞっこんだったことに、あきらかに結びつく。肖像画はFBの美術根本で全然アートの全容が入りうるものなのである。もうひとつ、ここには自画像とは何か、写真によるプロフィールとは何かという大問題が含まれる。とくに「表情」だ。「肖」の問題だ。FBにとって、ムンクもエゴン・シーレ(702夜)も、エイゼンシュタインやブニュエルの映像表現も、自分が油彩画に引き取って責任をとりたいテーマだった。ついでながら、のちにライバル関係ではないかと噂されたデ・クーニングの肖像画表現については、FBは決してうっかりしたことを言わなかったけれど、実際には対抗意識もあったはずである。 

≪018≫  しかし、ベイコンは意外な告白もしている。DS「ベラスケスの教皇の絵にとりつかれたのは、やはり個人的な意味合いが強かったのでしょうか」。FB「あれは世界で最も美しい絵のひとつですから、とりつかれる画家はいくらでもいると思いますよ」。DS「でも、あの絵をモチーフにしてくりかえし絵を描いた画家はほかにいません」。FB「描かなけれはよかった。教皇が叫んでいる絵は、思ったように描けませんでした」(1971)。えっ、あれじゃ不満だというのか。もっとキリスト教の奥のグノーシスにまで行ってみたかったのか。  

≪019≫  フランシス・ベイコンの絵は想像もつかないような具象画である。しかもほとんどが人物画だ。変形し、捩りあい、体が部分的に陥入し、ときに爛れて損傷さえおこしているようだが、ちゃんと靴をはき、室内の中心にいる。  

≪020≫  こんな絵はゴッホにもなかったし、ボッチョーニの力動学的な関与でもない。デュシャン(57夜)の《階段を降りる裸体》ではないし、モディリアニやジャコメッティ(500夜)のように細長くなったのでもない。カンディスキーやクレー(1035夜)のように造形的な抽象に変じたのでもない。 

≪021≫  DS「抽象画を描きたいと思ったことはありますか」。FB「いえ、描きたかったのは具体的フォルムです。最初期の《磔柱の下の人物三習作》を描いたときからそうです。あの絵は20年代終わりのピカソの絵に影響されています」。次の説明がギョッとする。「絵画表現におけるまだ手付かずと言ってもいい領域全体を示唆しているように思われる絵です。人間の姿に近いが、徹底的にデフォルメされた有機体のフォルムという領域です」(1962)。 

≪022≫  けれどもピカソはそこまで描けなかったのではないか。それかあらぬか、こんなふうにも言う。FB「私が自分で制作したいのは、たとえば肖像画でありながら、いわゆる写実という観点からすればモデルとはなんの関係もないフォルムから生まれた絵です。つまりデフォルメされているにもかかわらず姿かたちを表現している絵です。私にとって現代絵画が直面している謎とは、姿かたちをどのように描けるかということです」。DS「あなたは姿かたちに関する常識的な見方にできるだけ左右されないで、その姿かたち描こうとしていますね」。 

≪023≫  FBが答える。「姿かたちとは何か、あるいはどうあるべきかについては基準が確立していますが、姿かたちの描かれる過程が不思議であることはたしかです。偶然の一筆を加えたために、突如として常識的な描き方では表現できないような生き生きとした姿かたちになることがあるからです。私はいつも偶然を利用してデフォルメし、再構成した姿かたちを描く方法を見つけようとしています」。DS「もとの姿かたちとは決定的にちがうのですか」。FB「そうです。仮にも絵がうまくいったとしたら、それはモデルと異なる、誰もが知らない姿かたちを描くことによって、ある種の神秘が生じたからです」(1973)。 

≪024≫  ここには、けっこう大きな二つの仮説が出入りする。第一には幼児が家族や友達や先生を描くときに、どんな「姿かたち」にしているのか、したくなるのかということ、第二に美術史はどうして神々やキリストの「姿かたち」にモデルを使わざるをえなかったのかということ、この二つが投げかけてきた問題が出入りする。 

≪025≫  「肖像」とは「像に肖(あやか)る」ということであるが、それは実物に肖るというのではなく、その像に肖つてきたわけなのだ。フランシス・ベイコンはこの「像」に肖るという大問題の渦中に、なぜか最初から最後までかかわってしまったのだ。 

≪026≫  2013年3月~5月期、東京竹橋の近美で開かれた「フランシス・ベーコン展」で、ぼくはぞくぞくするほど嬉しくなっていた。二度行った。こんなふうになったのは久しぶりのことで、「よし、よしっ。これ、これだっ!これしかない!」と胸中でガッツポーズをしている自分に呆れるほどだった。いや、ときどき実際にも小さく拳(こぶし)を握ったかもしれない。 

≪027≫  ペーター・ヴェルツとウィリアム・フォーサイスがオマージュを捧げたダンス映像と、土方巽の昔の舞台映像が投影されていたのが言わずもがなで、多少気分が殺がれたけれど、それでもこんなに気分が高揚できたのが自分でも恥ずかしいくらいだった。 

≪028≫  こうなると、意中の恋人にずらりと囲まれたような体験をしたようなものだから、そのぞくぞくの理由をあれこれ説明することはとても筆舌に尽くしがたく、案の定、ベイコンを千夜千冊するのにも7年も着手できなかったのである。しかしいまになって、あらためてあの会場でガッツポーズをする気になったことのなかで、もしその恋人(すなわちFBの絵画作品群)に何かが欠けていたら、ぼくはそこまで唸らなかったかもしれないということについて、一言だけふれておきたいと思う。 

≪029≫  絞って、三つある。ひとつは肖像を咆哮させ、肉体をねじ曲げ、これを背景とのコントラストの中に設置したことだ。これはミシェル・セール(1770夜)の「フォーマット」や「アクシス」になっている。つまり洞窟画以来の原点タブローを保証した。 

≪030≫  二つ目はやはりのこと、トリプティクのすばらしさだ。三連画の圧倒的なプレゼンテーションの力は、ともかく鬼気迫る。見る者を深く沈ませる。そのパノラマ性はデュシャン(57夜)の「大ガラス」が匹敵するが、大ガラスは一作だけである。レプリカはあるが、デュシャンはあの様式を連打しなかった(できなかった)。ひょっとして日本美術でいえば浮世絵のフレームや「誰が袖屏風」の六曲一双がもしやとは思うけれど、まあ、ベイコンには並ばない。けれども、この二つのことについてはずっと前から感服していたことなので、当日の会場で唸りを上げたわけではない。 

≪031≫  三つ目は、ベイコンが絵画の中に描いている枠や囲みの線だ。あれは意中の恋人のリボンやパラソルや、恋人が見える窓枠や彼女が乗ってきた自転車みたいなもので、ぼくがベイコンに唸るにはどうしても必要な描線であったと思えたのである。 

≪032≫  ベイコンはDSに促されて、こんなふうに説明する。FB「あの枠を使ったのは、主題を見てもらうためです。それだけなんです。ほかにもいろいろ解釈されているみたいですが、ああいう四角い枠を描いて、カンバスを小さくしたのと同じ効果を出したのです」(1962)。いや、それだけではあるまいとDSが追い打ちをかける。DS「なんらの意味をもたせようとしたことは、一度もないわけですね」。FBが答える、「ええ、ひとつひとつの絵を切り離しているのです。そして絵と絵のあいだに物語がしょうじるのを妨げています」。 

≪033≫  そんなことだけではないはずだけれど、本人がそう言うのだから、まあ、いいだろう。しかしぼくは、あの白や黒や濁色の線に次々に出会っているうちに、ガッツポーズの拳を握ったのである。 

≪034≫  少々、付け加えておきたい。無作為な順番で書いておく。とても順を追ってはベイコンは語れない。 

≪035≫  (A)デッサンと写真についてのことだが、ベイコンはデッサンや下描きをしないと言われてきた。またたいていの作品に写真からの転用をしてきた。これについては、「私の心の中ではミケランジェロとマイブリッジが混じり合っているのです」(FB1974)が回答だ。ベイコンはミケランジェロの彫刻には感心していないが、あのデッサンには参っている。マイブリッジの連続写真はベイコン生涯の宝物だった。 

≪036≫  (B)ベイコンはいつも自分の絵には「偶然の介入」がおこっていると主張してきた。なぜ偶然の介入がベイコンに必然をもたらすのか。これについてはこう言っている。FB「純粋だからです。偶然にできたフォルムで大切なのは、それがより有機的で、また、より必然的な効果をもたらすように思えるという点です」。DS「純粋? それが鍵ですか」。FB「そうです、意志が直観に圧倒されている状態です」(1974)。 

≪037≫  (C)ベイコンの生活態度については、ずっと以前から周囲が訝っていた。放蕩そのものではないが、投げやりだし、無策のように見えるのだ。そこでDSが切り出す、「あなたはたいしてお金を持っていないのに惜し気もなく使っていましたが、いっときの間にお金に困ることはなかったのですか」。FBがいろいろ答える。「金のなかったころはよく、盗れるものは盗っていました。盗みとかそういうことをしても良心の呵責をまったく感じないんですよ」。「不公正は人生の本質だと思います」。「ゆりかごから墓場まで国の世話になると、人生はひどく退屈なものになってしまいますよ」。「芸術を生み出すのは苦痛や個人差であって、平等主義ではないと思います」(1974)。 

≪038≫  (D)仕事ぶりについても、多くの関心が寄せられていた。こんな対話がある。DS「昔はよく長期休暇をとっていましたよね」。FB「いまは息抜きは必要ありません。本当のところ、誰も息抜きなんて必要ないんです。休息をとらなくてはいけないというのは、たんなる固定観念です。まあ、つまるところ、私は休日が嫌いなんです」。DS「制作に夢中になっていると、それが日時用生活における恋愛に影響しがちだと感じたことはありますか」。FB「逆です。恋愛のほうが絵の制作に影響を与えます。私はどんな場合にもリラックスできない人間なのです」。 

≪039≫  まだまだ、この勝手きわまりないのに、西洋美術の本質を見抜いた男の心得集紹を介したいけれど、このくらいにしておく。では最後にシルヴェスターがまとめたFBの好みの一覧をお目にかけておく。かなり納得できる。 

≪040≫  芸術の好み。エジプト彫刻。マザッチョ。ミケランジェロ、なかでもおそらくデッサン。ラファエロ。ベラスケス。レンブラント(1255夜)の肖像画。黒い絵ではないゴヤ。それからターナー(1221夜)。コンスタンブル。アングル。マネ。ドガ、ゴッホ。スーラー。ピカソ(1650夜)、とくにシュルレアリスムに近いピカソ。デュシャン、なかでも「大ガラス」。ジャコメッティのデッサン。 

≪041≫  文学の好み。アイスキュロス。シェイクピア(600夜)。ラシーヌ。オーブリーの『小伝』、ボズウェルの『ジョンソン』。サン・シモン。バルザック(1568夜)。ニーチェ(1023夜)。ゴッホの手紙。コンラッド(1070夜)の『闇の奥』。フロイト(895夜)。プルースト(935夜)。イエーツ(518夜)。ジョイス(1744夜)。エズラ・パウンド。エリオット。ミシェル・レリス。アルトー。コクトー(912夜)は好きだが、オーディンやシュネ(346夜)のようなホモセクシャルな作品は大嫌い‥‥。 

≪042≫  なるほど、なるほど。ターナーと『闇の奥』が入っているのが、諸君、ベイコンならずとも決定的なのである。10月刊行予定の千夜千冊エディション『全然アート』で確かめられたい。 

≪01≫ 本書は、オカルトっぽいこと、たとえばテレパシー、瞑想、こっくりさん、超常現象、ナスカの地上絵、手相、UFO、スーフィズムなどを、一緒くたに神秘主義的なものと思う安易な向きが少なくないようだけれど、これは訂正したほうがいいという本です。神秘主義は他のさまざまな思想と同様、それなりに厳密なのですよ。ただその厳密さが、他の思想の解読法とはちがっている。

≪02≫  神秘主義のことをギリシア語ではミスティーク(Mystik)、英語ではミスティシズム(mysticism)といい、神秘主義思想のことをフランス語ではエゾテリスム(ésotérisme)、英語ではエソテリシズム(esotericism)といいます。今夜の千夜千冊はフランス語の翻訳本なのでエゾテリスムをつかいますが、ときどき英仏日がちゃんぽんになる。そこは気にしないでください。≪02≫  神秘主義のことをギリシア語ではミスティーク(Mystik)、英語ではミスティシズム(mysticism)といい、神秘主義思想のことをフランス語ではエゾテリスム(ésotérisme)、英語ではエソテリシズム(esotericism)といいます。今夜の千夜千冊はフランス語の翻訳本なのでエゾテリスムをつかいますが、ときどき英仏日がちゃんぽんになる。そこは気にしないでください。

≪03≫  エゾテリスムにはいろいろな別名があります。秘教、ミスティシズム、魔術、秘密主義、神秘主義、オカルティズム、隠秘哲学、秘儀、秘密主義、心霊主義、タントリズム、神智学、汎知学、自然魔法主義、スピリチュアリズム、異端思想などなど。濃淡はあるものの、どれもこれもエゾテリスムです。密教だって英語でいえば“Esoteric Buddhism”ですからね。けれどもそこにはけっこういろいろな線引がある。

≪04≫  語法的にいうと、ラテン語世界に「エクソテリック」(公教的・公開的・世俗的)に対するに、これを離れて体験したり議論する「エソテリック」(秘教的・秘伝的・奥義的)という見方がありました。広げるのではなく、伏せる。見せるのではなく、隠す。そういうことをめざした。だからその中身はいわゆるミスティシズム(mysticism)やオカルティズム(occultism)と重なります。重なるのですが、とはいえなにもかもがオカルトではないのです。いいですか。

≪05≫  だったらいろんな言い方をしないで、神秘主義について用語統一をしたらいいのですが、そうはならなかった。まあ、このへんの用語の使い方は慣れてくるとおっつけ見当がつくでしょうし、その用法のちがいもたいして重要ではありませんから、これまたあまり気にしないでください。

≪06≫  それより、さまざまなエゾテリスムにはそれなりのちがいがあるにもかかわらず(セクトも対立も瀕死の重傷もあったにもかかわらず)、何かが強く共通してきたのです。そこが重要です。その共通しているのは何かというと、一言でいえば「非合理なことがとても気になる」ということです。

≪07≫  非合理(irrational)というのは「合理的ではない」「合理のリクツでは説明がつかない」ということです。

≪08≫  合理とはラショナル(rational)でリーズナブル(reasonable)な考え方が確立していくことですから、そこにはロジカルなロゴス(言葉・論理)がしっかり組みこまれています。だから代表的な合理主義といえば18世紀前後に確立した理性哲学をさす。数学や法の大半も合理的な一貫性が成立することを求めます。

≪09≫  これが合理というものですが、ところが経験はそういう合理で一貫しません。自分の経験を合理的に説明することは不可能です。幼児がそうであるように、自分が体験したことが推理(reason)の起点になっている。それぞれの実感や印象や、「惹かれた人」の言っていることのほうが大事なのです。けれどもやがて合理の社会に巻きこまれるうちに、非合理的なことが排除されているのを知って、ついつい合理的な日々をおくり、合理的な考え方をするようになってしまいます。

≪010≫  しかし、宗教や神秘主義はそこにあえて反旗をひるがしてきたのですよ。そこで宗教学者のルドルフ・オットーは「宗教の本質は非合理である」と言いました。ただし非合理は合理ではないのだから、リクツでは説明しがたい。そのため説明できない自分の経験は、なんだか直観にばかり頼っていたような気になってしまいます。

≪011≫  けれども実は、そうともいえないのです。非合理は、合理の成立にも含まれているのです。リサ・ボルトロッティに『非合理性』(岩波書店)という本があるので覗いてみてください。「理性には非合理性が必要だった」という画期的な中身です。

≪012≫  というわけで、非合理的なことが気になるというのは「非合理の重要性を確信したい」ということです。むしろ合理では説明がつかないこと、非合理な現象なのにそこにとても大事な中身が感じられる気がすること、その現象に注目したく、そのことをめぐる議論に参画していたいと思うことです。そして、このことこそがエゾテリスムにひそむ驚くべき共通力なのです。

≪013≫  それでは、その共通するものはどのように特徴づけられるかというと、端的には説明できませんが(端的ではないのがエゾテリスムの特色ですから)、本書はエゾテリスムに共通しているのは次の6つのことだろうとみなしました。

≪014≫  ①コレスポンダンス(照応)の実感、②生きている自然との共振性、③想像力と結びつく媒体性、④忘れがたい変成体験、⑤コンコルダンス(和協)を実践すること、⑥伝授の方法があること、この6つです。

≪015≫  この見方はマキシマムなものではないけれど、得体が知れない神秘主義の特色を大づかみするには、そこそこわかりやすいのではないかと思います。ぼくの見解もまじえて、ざっと説明しておきます。

≪016≫  ①「コレスポンダンス(照応)の実感」とは、見える世界であれ見えない世界であれ、象徴と現実のあいだには照応関係があるとみなすことをいいます。たとえば惑星と人体の関係、神々の能力と社会制度の関係、自然現象と欲望喚起の関係などに、なんらかの照応があるとみなす。神秘主義者たちの大半は、このコレスポンダンス(correspondences)を必ず重視しました。

≪017≫  エゾテリスムは、コレスポンダンスには汎用的な相互作用のようなものがはたらいていると確信したのですが、その照応関係は大なり小なり隠されている(オカルトされている)だろうとも考えます。その隠れた関係の探索には、たいていアナロジー(類比)とシミリチュード(類似)が駆使されました。

≪018≫  オカルト(occult)とは、もともと「隠されていること一般」をいう用語で、それがしだいに「あえて隠したもの」「隠しておきたいもの」というふうに隠秘の意図をもつというふうに変わっていきました。こうして、コレスポンダンスは「隠されて見えなくなった関係」に新たに気づくことになったのです。そのためルネサンスの思想や表現の大半がコレスポンダントしていました。

≪019≫  神秘主義でいうコレスポンダンスは、その照応力が互いに反応しあっていると解釈する傾向が強かったのです。だからボードレール(773夜)は『悪の華』の中の有名な詩「コレスポンダンス」を、こう結んでいます。「無限なるものの拡がりをもつ。琥珀や麝香、安息香や乳香のごとくに。これら芳香を放つものは、精神と感覚の横溢を謳っている」と。

≪020≫  ②エゾテリスムは「生きている自然との共振性」を謳います。そうしてきたのは、自然にも物質にも「活力」(この呼び名が神秘主義各派で異なってきた)があるとみなしたからです。活力は森羅万象にひそむエネルゲイアやバイタル・エネルギーのことですが、生命力はここから何かを得ているのです。

≪022≫  もっとも、この物活論的でアニミニズムっぽい自然共振観は、19世紀の科学が物と心を二分したのちは、形を変えて一元論的な唯心論に向かっていくようになります。最近流行のスピリチュアリズム(spiritualism)はおおむねこの領域に入っているでしょう。ただしグノーシスは二元論にこだわります。

≪021≫  その活力と交信できたり共振したい、いやきっと共振できるはずだ、神秘主義者たちはそう考えました。これは物活論としてのアニミズム(animism)ともいえるのですが、それだけではなく、そこにはしばしばルネサンス期の想像力が大事にした「マギア」(魔力)のような循環力が想定されました。想定されただけでなく、そのような想定力をもつことを、キリスト教神秘主義では「グノーシス」(叡知としての知識)とみなしたのです。それはゲーテ(970夜)がファウストとメフィストテレスに語らしめた「万知」のようなものでもありました。

≪023≫  ③「想像力と結びつく媒体性」というのは、想像力は何かを媒体にしているにちがいないということです。コレスポンダンスの実感には、たいてい儀礼道具、ヴィジュアルな象徴物、護符、お守り、曼陀羅、仲介霊といった、特定の道具や媒体がアトリビュートすることが多いのですが、それがエゾテリスムの媒介性をさまざまに彩るのです。

≪024≫  この、神秘を脇から呼びこむ媒体性や媒介性としての道具立ては、いまや巷間にあふれることになった中世由来の水晶球やタロットカードに有名ですが、そのほかネックレス、ブレスレット、ロザリオ、数珠、エンブレム、持仏などにも広がります。20世紀半ばになってESPカードやプロファイリングなどがこれに加わった。みんな、よくよく知っていることだよね。

≪025≫  神秘主義に奇妙で異様な想像力を喚起する媒体がかかわるということは、そもそも媒体、すなわちメディウム(メディア)という言葉が「霊媒性」を意味していたことからも予想がつくことで、もともとはシャーマン(shaman)のトランス体験がルーツになっていたと思われます。

≪026≫  これはどういうことかというと、人類に芽生えた想像力は、初期の人類のマジカルな体験によって生じたのではないかということです。もしそうだとしたら驚天動地だね。

≪027≫  そこでアンリ・コルバンは「想像的世界」(ムンドゥス・イマギナリス)をめぐる概念のシソーラスを調べ、「想像」や「想像力」(imagination)という言葉がもともと磁気(magnet)、魔術(magia)、イメージ(imago)と類縁関係の言葉であることを示し、人間の想像力そのものの根本に名状しがたい神秘性が内属していたとみなしました。媒体(メディア)の関与は、謎めいた記号やシンボルの表示、暗号文字の使用、魔法の箱への憧れなどにあらわれるのです。

≪028≫  ④「忘れがたい変成体験」については、なんとなく見当がつくだろうと思います。意識の奥で何かが変わっていったと感じることが変成体験です。英語ではアルタード・ステート(alterd state of consciousness)といいます、ASCなどと略す。1969年に意識科学(サイ科学)のチャールズ・タートが研究し、脳科学者のスタニスラフ・グロフが注目し、イルカと遊び、アイソレーション・タンクを発明したジョン・C・リリー(207夜)が有名にした言葉です。

≪029≫  エゾテリスムはさまざまな神秘体験がともなうことが少なくないのですが、アルタード・ステートはその体験者に「変容」(トランスフォーメション)、「変成」(トランスミューテーション)、「変身」(メタモルフォーズ)をおこすものとみなされます。なんらかの変容・変成・変身を感じたとき、当事者に変成意識状態(アルタード・ステート)が自覚されるのです。それが5分や15分程度のとても短い体験だったとしても、本人はその変成体験が長らく継続するものになっていくのです。

≪030≫  では、ASCはトランス体験や神懸かりやポゼッション(憑依 possession)とどうちがうのかというと、あまりよくわかっていません。プラトンはダイモーンという神的存在が神と人間のあいだに憑依状態をもうけたと説明しようとしているけれど、あまり説得力がありませんし、キリスト教者の事歴にも数々のアルタード・ステートがおこっている例が示されてきましたが、たいていは奇跡として片付けられてきました。

≪031≫  以上、ごくごく駆け足ではありますが、侠客と角力を並べて、日本の男達(おとこだて)というものが、どんなふうな筋をもとうとしてきたのか、そこを覗いてまいりました。いずれも「通り者」のお話で、その一端に無宿渡世がかかわって、また別の一端に日本人の争い方が、さまざまな「きおひ」の趣向をもってかかわっていたのです。ご退屈さま。

≪032≫  先だって武尊(たける)と那須川天心の決戦を見た。東京ドームに6万人近くが集まって、異様な興奮に包まれてはいたが、たいそう悲しみに滲んだ一戦でもあって、いろいろ感じさせた。天心が武尊を倒したのだけれど、笑みを浮かべながら沈んでいった武尊にはむろん、天心にも凱歌はなかった。

≪033≫  実はこの数ヶ月ほど、週に1、2度、眠る前の20〜30分を、前田日明の用意した「THE OUTSIDER」の過去映像や、そこから輩出した朝倉未来たちのユーチューブ、そこにも出入りした半グレや不良少年たちの検証映像などを、次々に見ていく時間にあてていた。思うところあってそうしていたのだが、いつも『史記』遊侠伝の「少年の遊侠、経過を好み、渾身の装束、みな綺麗」が去来した。

≪034≫  ハマの狂犬の異名をとる黒石高丈、顔にまで刺青をした爪田純士、関東ステゴロ最強と言われた谷山秀行、渋谷夜櫻会(暴走族)の加藤友弥など、「THE OUTSIDER」だけでも、多くの若い「通り者」たちが格闘技に参入していったのを知って、前田日明の仕事に巨きな意図があったことが伝わってきて、しきりに『史記』遊侠伝が思い出されていたのである。

≪035≫  ふりかえってみれば戦後日本の歴戦ボクサーたちも、大山倍達の極真空手に憧れた腕自慢連も、前田を含めたプロレスラーたちも、少年時代は貧しくも街で暴れていた者たちだった。日本の格闘技には、そういう少年たちによる、どこか「侠」とのやむにやまれぬ共振というべきものが隠れていたのであろうと思われる。

≪036≫  6月19日の武尊と天心の決戦は、これらの「我が思うところ」にまつわって、まことに心に沁みたのである。この「沁みぐあい」を、さてどうしたら伝えられるのか。今宵せめて三田村鳶魚の「きおひ」の話に託しておきたくなった由縁である。

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図版構成:寺平賢司・大泉健太郎・米川青馬・上杉公志・富田七海

≪01≫  帯の惹句に次のようにある。「この世界は原理的に欠損を抱えている、というアイデアの系譜学」。グノーシス思想の特徴を端的に言いあらわしているフレーズだ。

≪02≫  まさに、そうだ。原理的に欠損をかかえこんでいるのは「世界」そのものなのである。世界に何かが欠けるのではなく、世界はそもそもそれ自体が欠損によって構成されてきたものなのである。世界はいつしか出来そこないになったのではなく、出来そこないなものを「世界」と名付けたのである。このパラドキシカルな生成の秘密を告示しつづけてきたのがグノーシスだった。

≪03≫  グノーシスは、世界が不完全なのだから完全な理念世界をめざそうとか、地上に神学大全をつくっていこうというプラトン的世界観やキリスト教的世界観に、大胆な注文をつけた。まるで反世界主義に見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。

≪04≫  ぼくはかつて『フラジャイル』(筑摩書房→ちくま学芸文庫)の第5章「異例の伝説」に「欠けた王」「隠れた統率者」などの節を設けて、「欠ける、欠損性、なくしもの、弱小性、壊れやすさ、損傷、疾病者、差別されたもの、スティグマ、穢れ、軽視、喪失、境界をまたぐ、異界の者、跛行者」といった扱いや蔑視の観察をうけてきた神や伝承や出来事や人物には、いかに重大な思想様相が告げられているかを強調しておいた。

≪05≫  このときはカルロ・ギンズブルク(56夜)の『闇の歴史』(せりか書房)やハルトムート・ローテルムンドの民間信仰研究『疱瘡神』(岩波書店)、赤坂憲雄(1412夜)の『境界の発生』『結社と王権』(講談社学術文庫)などを紹介しながら、「世界に欠けているもの」や「遠ざけられているもの」こそが世界を語りうるという、ぼくなりの編集的世界観による信念を先駆的に述べたのだが、グノーシスにおいては「世界に欠けている」のではなく、「世界が欠けている」あるいは「世界を欠けさせたもの」が重大な特徴なのである。

≪06≫  『フラジャイル』は25年前の1995年の執筆で、ぼくの思想のかなり大事な視線を束ねて既存のまことしやかな普遍主義に反撃を試みたものであったけれど、神秘主義からのヒントは入れなかった。だから『フラジャイル』にはディオニュソスやデミウルゴスをめぐる矛盾の物語が登場していない。

≪07≫  けれどももっと根底から普遍主義に対して反撃するなら、ゾロアスター教や一部の仏教や、ヘルメス知やマニ教やカバラやなどの、グノーシス知がいくらでも入ってきてよかったはずだった。そうしていたとしたら、ぼくは「フラジャイル・グノーシス」ともいうべき領域を開拓していたことになる。

≪08≫  ま、ここまでは今夜の枕だ。グノーシス域の手前で矯めつ眇めつゆらゆらしている邯鄲の枕が見た話だ。以下は、では、その欠損含みの世界とみなしたグノーシス域はおおむねどのようになっているのか、その輪郭を前後左右から測地してみようという本の紹介になる。

≪09≫  本書は2冊組の1冊である。岩波が荒井献・大貫隆の編集的監修で『ナグ・ハマディ文書』全4冊を刊行したことを背景に、グノーシス思想史ガイダンスとして刊行された。たいへんユニークな2冊だった。

≪010≫  このあとざっと紹介するように、上巻にあたる『グノーシス 陰の思想史』では、古代グノーシス主義の先駆例(ゾロアスター教、ユダヤ教神秘主義、キリスト教グノーシス、マニ教)からルネサンス・バロックあたりまでのグノーシス思潮(パラケルスス、ヤコブ・ベーメ、薔薇十字、フリーメイスンなど)を俯瞰している。

≪011≫  もう1冊の下巻は『グノーシス 異端と近代』となっていて、中世以降の神秘主義やイスラム・グノーシスなどとともに、芸術が引き取ったグノーシス(ゲーテ、ブレイク、ヘッセ、ユゴー)、哲学や心理学が言及したグノーシス(シェリング、バーダー、ハイデガー、ユング、ラカン)、および20世紀文化の中のグノーシス(シュルレアリスム、シュタイナー、シャガール、タルコフスキー、フェミニズム)を摘まんでいる。

≪012≫  それぞれ各分野の研究者数十人が分担執筆した。こういう本はこれまでまったくなかった。よほどの執筆陣を用意しないとキワモノになるか、学術専門書になりすぎる。この2冊組はそこをうまくこなした。海外でも類書がないのではないかと思う。グノーシス思想文化史を語るには必携の2冊になったかと思うのだが、そのわりには知られていない。

≪013≫  知られていないのは、日本の知識層にはグノーシスに関心をもつ者が少なすぎるからだ。

≪014≫  ざっと案内しよう。今夜は上巻だけにする。それでもとうていすべてには言及できないのでかなり手短かなものになるけれど、気になったところだけはメモふうに書いておく。執筆者の肩書は省いた。できれば下巻もいずれ紹介したい。

≪015≫  大貫隆「原グノーシスとグノーシス的なるもの」=ハロルド・ブルームが「グノーシス主義こそは最初の、しかも最も強力な脱構築である」と言ったことを引きながら、一方はナグ・ハマディ文書とメッシーナ提案にもとづくグノーシス思想の原型を、他方ではフロイト=ユングの深層心理学、ユゴー(962夜)、メルヴィル(300夜)、フォースター(1268夜)、トーマス・マン(316夜)らが参入した「グノーシス的なるもの」を案内する。

≪016≫  またI・P・クリアーノが『グノーシスの樹』(未訳)で指摘したこと、すなわちグノーシス神話にはいくつものトポスが機能するのだが、そのうちの「ソフィアの過失」と「無知蒙昧の造物主」というトポスでは頻繁な要素の入れ替えが可能になっていることに注意を促した。クリアーノはこのことからグノーシスには観念の生成をもたらす共時的なシステム(ideal system)が作用していて、物語をさまざまなロジカルゲームに変形可能にする形態動学(morphodynamics)があると見た。

≪017≫  大貫隆「宇宙の超越と神」=各地の世界神話には「倒立した宇宙樹」が出てきてギョッとさせる。ぼくはダンテ(913夜)の『神曲』で初めてお目にかかったが、ヴェーダ神話にもイスラム神話にもカバラにも出てくる。根っこが天空に向かい、枝葉が地上に向いているということは、地上が不安定で不確かなことをあらわしていた。存在を確固たるものにするには、世界をひっくりかえして見なければならないのである。そのひっくりかえした世界が、グノーシス宇宙においてのプレーローマであった。

≪018≫  しかし、そのようにグノーシスを解釈できるようにするには、われわれも「倒立しながら思考できる発想力」を手にしなければならない。近代的な個人主義による発想は通じない。

≪019≫  筒井賢治「知られざる神:キリスト教グノーシスの否定神学」=広範囲にグノーシス宗教的な語りの差異を検証した古典学者ノルデンのモノグラフィ『知られざる神』(1913)に敬意を払って、キリスト教グノーシスのヴァレンティン派、バシレイデス、マルキオンらが否定神学的であったことを導き出す。初期キリスト教はこれらを媒介的に、かつ最大限に利用して、あの教義を確立した。

≪020≫  否定神学(apophatike theologia)とは、神はいっさいの述語を超えたものなのだから、神を説明するには「神は~ではない」という否定表現でしか語れないとするもので、古代ギリシアにすでに芽生えていたが、3世紀の新プラトン主義者プロティノスの『エネアデス』、4世紀のニュッサのグレゴリウスの『モーセの生涯』、6世紀の偽ディオニュソスの『神名論』『神秘神学』などに顕著にあらわれた。インド哲学のウバニシャッドやナーガルジュナ(龍樹)の中論にもあらわれる。哲学的には不可知論に属する。

≪021≫  松村一男「グノーシス神話」=グノーシス文書には、神やそれに準ずるアルコーンやアイオーンが登場して、それらによって世界の創造の様子が述べられる。それはギリシア神話一般がもつミュトス(神話がもつ筋書と文法)とは異なる仕組みによる言述ではあるが、やはり「もうひとつのミュトス」だった。

≪022≫  ところが、その「もうひとつのミュトス」は作話と虚偽を平然と内包させるミュトスであった。本稿では、アプレイウスの『黄金のロバ』(変身物語)におけるイシス信仰の介在についての指摘がおもしろい。

≪021≫  松村一男「グノーシス神話」=グノーシス文書には、神やそれに準ずるアルコーンやアイオーンが登場して、それらによって世界の創造の様子が述べられる。それはギリシア神話一般がもつミュトス(神話がもつ筋書と文法)とは異なる仕組みによる言述ではあるが、やはり「もうひとつのミュトス」だった。

≪022≫  ところが、その「もうひとつのミュトス」は作話と虚偽を平然と内包させるミュトスであった。本稿では、アプレイウスの『黄金のロバ』(変身物語)におけるイシス信仰の介在についての指摘がおもしろい。

≪023≫  野町啓「流離と回帰:救済モデル」=ナグ・ハマディ文書「救済神話」にもとづきながら、キリスト教、新プラトン主義、グノーシス派のいずれもが救済宗教であったことが紹介されるのだが、それぞれの救済にそれぞれ独特の「ねじり」があることが興味深い。

≪024≫  ①アレクサンドリアのクレメンス『絨毯』にヴァレンティノス派のテオドトスからの抜粋が集録されていて、そこに世界は「住むにふさわしからぬもの」(アノイケテオン)とみなす発言がある。野町はここにグノーシスの「反宇宙的態度」が端的にあらわれていると見る。グノーシス主義者は自分たち(人間たるもの)を異邦人(クセノス)とみなしたのである。

≪025≫  ②多くの救済神話では、産出と生成は至高神にのみ属する権能になる。ところが最下位のアイオーンであるソフィアは至高神の承認なしに自分の影像を出現させたいという不遜な野望を抱き、異形の子ヤルダバオートを流出させ、その子を神的世界の外に投げ出した。ヤルダバオートは自分ではそれと気づかぬまま(それゆえ「無知の暗黒」と称された)、母ソフィアの神的力をもった。この「ねじり」がグノーシスにおける神的起源の自覚とそれへの回帰という救済観をつくりだす伏線となった。

≪026≫  大貫隆「グノーシス主義の衝撃:古代末期の宗教運動」=グノーシス思想の背景には、(A)ヘブライズム(ユダヤ教とキリスト教)、(B)ヘレニズム(プラトン哲学とストア哲学の改編)、(C)イラニズム(ゾロアスター教からの展開)という、3つのコンテキストが動いている。この大貫論文ではそれらを神論、宇宙論、人間論、救済論、終末論、礼典論、生活倫理、政治権力論、および言語と図像による表現論に分けて紹介する。

≪027≫  月本昭男「古代メソポタミアからみたグノーシス創成神話」=ナグ・ハマディ文書にのこされた『ヨハネのアポクリュフォン』(黙示録)では、ソフィアの過失によって生じた第一のアルコーンであるヤルダバオートが造物主として、12人の天使(黄道12宮)と7人の天の支配者(太陽・月・5惑星)を創成したことになっている。星座占いがここに発した。バビロニア占星術が変換されたのである。グノーシスの知恵がなければ占星術は出来(しゅったい)しなかった。

≪028≫  山本巌「プラトニズムとグノーシス主義」=プラトン(799夜)の別腹からグノーシスが生まれたのか。それともグノーシスがプラトンを異胎にしたのか。この不即不離のようなきわどい関係を正しく説明するのはけっこう難しいが、そのきわどい関係を引き取っているのがデミウルゴスをめぐる解釈だ。

≪029≫  プラトンは世界が無から創造されたのではなく、職人の王デミウルゴスがなんらかの素材をもとに組み立てたのだとしても、それは理性が創造の必然性を説得したからであると見なした。グノーシスはそのプラトンの見方そのものを世界創造のロジックから追い出した。どちらにも軍配は上がらない。

≪030≫  荻野弘之「ヘレニズム哲学とグノーシス主義:決定論的世界観の陰画」=初期ストア派は一方で自然宇宙の合理性からの既決として決定論を維持しながら、他方で人間を無為や怠惰や絶望に陥らせることなくその尊厳の根拠としての自由を擁護しようとした。しかしこの努力は、メガラ派、ペリパトス派、アカデメイア派、エピクロス派などのヘレニズム期の諸学派からすると、あまりにもあぶなっかしく、そのためエピクロスのように原子に自由意志を認めて「逸れる活動」をする性能を与えるような思索者もあらわれた。

≪031≫  とくに摂理(プロノイア)と宿命(ヘイマルメネー)をめぐっては、決定論こそが人間の自由を拘束し、展望を奪っているのではないかともくされて、摂理と宿命の調停は不可能だと考えられた。こうしてヘレニズム哲学は、新プラトン主義へ、ヘルメス主義へ、グノーシス主義へと転戦していった。それはしかし、オリゲネス(345夜)らの初期キリスト教の教父たちにとっては忌まわしい思想に映ったわけである。

≪032≫  大貫隆「ゾロアスター教とマニ教」=ヘレニズム期のグノーシスは教団や寺院をつくらなかったので、ゾロアスター教、マニ教、マンダ教、ズルヴァン教などとの関連からその隠れた可能性を議論することが多い。とくにマニ教は、もしグノーシスが教団活動をしていたらこうなったのかもしれないと思わせる特色を秘めて、ゾロアスター教の一部も採り入れていたので、グノーシス研究者のあいだでは親しく参照される。

≪033≫  マニは216年のパルティアの貴族の子としてバビロニアに生まれて、ユダヤ教やグノーシス主義の傾向の強い洗礼教団エルカサイ派で修行したのち、啓示を受けてめざめ、自身で教示活動を開始すると、その原始教団はササン朝ペルシア下の社会に少しずつ広まっていった。276年にマニが処刑されたのちも、幾多の弾圧を受けながらも後継者たちによるマニ教が地中海の全域に活動勢力をのこした。若い日々のアウグスティヌス(733夜)もマニ教徒であった(その後、三位一体を唱えてマニ教を批判した)。

≪034≫  マニ教の教理は救済神話にもとづいていて、天地の出現以前に善と悪の二つの世界(王国)が先行していると見た。光の国には「大いなる父」と「生命の母」がいて、そこから「原人」が出現して5人の息子(大気・風・光・水・火)とともに「闇の王」の軍勢と戦うのだが、原人は囚われた。それを助けるために「光の友」「大いなる建築士」「生ける霊」が呼び出され、あれこれの手だてを尽くしたうえで、闇の息子たちを殺してその体から8つの大地をつくり、太陽と月を創成した。「大いなる父」はこれらに応えて「第3の使者」を派遣し、この使者が黄道12宮をつくり、ここに「光の船」が回転するようになった‥‥云々。

≪035≫  こうしたマニ教の世界観はオリエント・ペルシア地域で先行していたゾロアスター教と密接な相互関係をもっていた。

≪036≫  ゾロアスター教は宗祖ゾロアスター(ザラスシュトラ=ツァラトゥストラ)が創唱した古代アーリア人の宗教で、光明神アフラ・マズダと悪神アングラ・マインユの劇的な対比によって世界を語る。信者のうちの義者(サオシュヤント)にはヴォフ・マナフが救いの手をさしのべてアフラ・マズダの王国に至らせるとした。ただゾロアスター教は聖典『アヴェスター』の編集的最終著述が6世紀までかかったので、それまでのあいだ、その信仰思想や考え方の断片的な知識が各地に散って、グノーシスやマニ教やズルヴァン教に採りこまれることになった。

≪037≫  ズルヴァン教は古代ペルシア社会の祭司マギ(Magi)たちから信仰された。ズルヴァンとはアヴェスター語の「無窮時空」のことで(ギリシア語のアイオーンにあたる)、光と闇、善と悪、男性と女性の両方を体現した。ズルヴァンはアフラ・マズダとアングラ・マインユを生んだとされた。

≪038≫  これらはさまざまな習合関係にあったので、なかなかその流れや特徴がつかみにくい。このあたりのこと、本書の執筆陣には入っていないが、青木健(1421夜)の『古代オリエントの宗教』(講談社現代新書)がグノーシスとの関係にまで言及してわかりやすい。青木の『ゾロアスター教』『マニ教』(講談社選書メチエ)とともに読まれるといいのではないか。

≪01≫  サッカーや野球やバスケットボールのメンバーを競技試合の途中から別のメンバーに代えることをサブスティテューション(substitution)という。訳せば代理、代用、交換、互換、取替、交代(交替)、置換などとなる。 

≪02≫  サブスティテューションはスポーツ競技だけでおこっているわけではない。議会も役所も会社も、オーケストラも音楽バンドも劇団も、機械やシステムも、「サブスティテューション」をくりかえしてきた。金融業界では取引期間中に取引銘柄を差し替えることを「サブスチ」という。 

≪03≫  ぼくは知識や哲学や思想も、さまざまなサブスティテューションを工夫してきたものだとみなしている。代理や代表などの「代」が工夫されてきたのだ。ただし興味深いサブスティテューション(代)が出現するには、必ずや先行するモデルに圧倒的な中身があるべきだった。この先行モデルがつまらないもののままでは、「サブ」も「代」もつまらないものばかりになる。 

≪04≫  先行するモデルは一つとはかぎらない。古代世界ではシュメールもギリシアもユダヤ教も先行モデルであり、これらがヘレニズム期にさまざまな「代」を生んだ。それらはいったん神秘主義だとか異端だとかと思われたのだが、そうではない。そこにこそ本来の可能性が露出したのである。ルネサンス、バロック、ロマン主義、表現主義、シュルレアリスム、戦後アヴァンギャルド、ポップアートも同断だ。いずれも「代」の実験だった。  

≪05≫  編集工学の実践も、このような多様なサブスティテューションの可能性を次々に拓いていくことにある。ぼくはそのことを「別様の可能性」(contingency)と名付けてきた。理科的あるいは哲学的には「偶有性」である。  

≪06≫  ただし偶有性が別様の可能性や発見的なものになるには、先行モデルにできるだけ際立つほどに代表的なものをいくつか想定できていなければならない。そして、それらの複数の先行モデルのあいだの意外な相互関係を、そこそこ想定しておかなければならない。 

≪07≫  27歳で父の借財をなんとか返して独自の雑誌を創刊しようと思ったとき、当初からルネサンス=バロックとコンセプチュアル=ポップ・アートを同時に扱える編集にしようと決めていた。 先行モデルをレオナルド、バッハ、デュシャンに求め、そこから数々の「代」を案内していこうと決めたのである。 

≪08≫  実際の「遊」では、下村寅太郎によるレオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)を2・3号に、マルセル・デュシャン解析を2号からの連載企画に、バッハ(1523夜)を4号に特集するにとどまったのだけれど、この「レオナルド≒バッハ≒デュシャン」の相似式は、ぼくのその後の編集的格闘にとってはどうしても譲れない芸術史上の先行モデルの極め付けだった。 今夜はそのうちのデュシャン(57夜)とその周辺のアーティストが企んだ「代」の話をしてみたいと思う。 

≪09≫  デュシャンはアートの領域に「レディメイド」というコロンブスの卵をもちこんだだけではない。現代思想にとっても編集工学にとっても、デュシャンは「境界にいつづけた神」であり、つねに普遍ルネサンスを覆すニューバロック的な「両界的方法の提案者」だった。ただ、そのようには扱われずに(ジョン・ラスキンを経済学が、マイルス・デイヴィスをアート学がいっこうに扱わないように)、美術界だけがデュシャンを引きずり鐘にしてきた。 

≪010≫  これはなんとも貧しいことだった。デュシャンはもっともっと広範囲にわたる「代」の策略を練り上げていた。 

≪011≫  わかりやすい話からすると、デュシャンには「公衆」とかかわりをもつにはどうしたらいいかという策略を、むっつり助平のように練りあげるダンディズムがあった。また、公衆をかどかわすに足るオブジェにこだわる独特のフェティシズムもあった。 

≪012≫  策略がどうなっていたかというと、次のような下敷きから組み上げた。曰く、①日用雑貨(レディメイド)をアートギャラリーにもちこむ、②チェスに耽る、③性的な出来事を匂わせる、④モナ・リザで遊ぶ(クラシックをおちょくる)、⑤あえて難解な概念を提示する(観相学に近い)、⑥誰に対しても何食わぬ顔をする(道徳的な人生をおくる→マスメディアを回避する)、⑦作品に図解番号をつける(解読をミスリードさせる)、⑧油彩画からは遠のいて別の支持体を選ぶ(レディメイドを引き込む)、⑨友人をたいせつにする(それだけでアート業界とかかわる)、⑩数学を敬う(四次元時空幾何学に酔う)‥‥云々かんかん。 

≪013≫  デュシャンはこうした人を食ったような方針を本気で実行にうつすべく綿密に計画し(少しデッサンして、いろいろメモも書いて)、そのどこかの切り口をアートにするための入念な制作プロセスを日々の生活の一部にとりこんだ。 

≪014≫  作戦はうまくいった。美術界はひっかかった。あまりの人を欺くような作戦に、誰も作品の質など問いはしなかった。ほんとうはマチエールの細部にアートが収差していたのだが(ぼくはそこが好きだったのだが)、批評家たちはそれらがまったく新しい「アートの提示」であることばかりを指摘した。追随者がゴマンとあらわれた。コンセプチャル・アートやポップアートがサブスティテューションとしての市場を確立した。 

≪015≫  それから半世紀近くがすぎるうちに、この策略はデュシャンだけが組み上げたものではないことがわかってきた。当時のデュシャンのまわりのいろいろな事情やエピソードも調べ尽くされた。こうして、デュシャンの前後事情入りの現代思想装置のしくみを解明したくなった連中が出てきた。 そういうなかにジャン=フランソワ・リオタール(159夜)や本書の著者であるロザリンド・クラウスがいた。 

≪016≫  本書は、じっと海を眺める幼児のジョン・ラスキン(1045夜)の描写から始まる。これはうまかった。ラスキンには芸術がたんに「世界の観察」をしているのではなくて「世界からの観照的抽象」に向かっているという見方があるのだが、冒頭に仕込むことで、クラウスは本書の美術論をサブスティテューショナルに扱えるようにした。 

≪017≫  タイトルの『視覚的無意識』は何あろう、ヴァルター・ベンヤミン(908夜)からの転用である。 

≪018≫  ベンヤミンはこの用語を『写真小史』(ちくま学芸文庫)でエドワード・マイブリッジやエティエンヌ=ジュール・マレーの連続写真群を前にしながら使っている。この二人は特殊なリヴォルヴァー・カメラ(写真銃)を工夫して、走る馬や人体を連続的に断続させる写真帖を発表した。これでクールベの馬がまちがった脚の上げ方をしていたことがバレたのだが、ベンヤミンにはそんなことはどうでもよくて、この連続写真が視覚的無意識をもたらすことに気がついた。 

≪019≫  ふつうには無意識は脳の中にひそんでいるものだとみなされているが、無意識はもっと出たり入ったりしているものだ。たとえば何かをずっと見ていると無意識状態っぽくなるときがある。海を見ている幼児のラスキンだけではなく、われわれもぼうっと窓外を見ていたり、ずうっと車窓を見ていると、そんなふうになる。何かに集中したあとにも、そうなる。茫然自失とはこのことだ。 

≪020≫  ベンヤミンはそこを逃さない。瞑想だけが無意識をつくるのではない。「目の身体」がもたらしたカーナルな無意識が視像や写像や映像とともにおこることを指摘した。これは歩行者や移動者のパサージュ体験がもたらした無意識でもあった。ついでながら付け加えておくと、ベンヤミンは複製力をもつカメラの役割に注目し、それが個人にひそむ「目の身体」を拡張する「義肢」であるとも指摘した。 

≪021≫  クラウスは、それならアートを見ていても視覚的無意識がおこるし、アーティストもすでにそういう視覚的無意識をもつようになっていると想定した。美術史はそのくらい「窓外の光景」になっていたのだ。この見方はとくに斬新な切り口ではないが、本書をおもしろくさせた。 

≪022≫  クラウスはハーバード大学で美術史にとりくみ、コロンビア大学で現代美術を教えた。早くから『オリジナリティと反復』(リブロポート)、『ピカソ論』(青土社)、イヴ=アラン・ボワ(711夜)との共著『アンフォルム:無形なものの事典』(月曜社)、『独身者たち』(平凡社)というふうに次々に著書を出して、ハーバード時代の師クレメント・グリーンバーグのモダニズム美術論(フォーマリズム論)から離れて、ポストモダン派アート論の旗手ともくされるようになった。 

≪023≫  現代美術に親しんでいる者にとっては言うまでもないだろうが、グリーンバーグ(1909~1994)は『アヴァンギャルドとキッチュ』(1939)を書いて、20世紀芸術がアヴァンギャルドとキッチュに分化したのは、消費社会によって引きおこされた「文化のダミング・ダウン(duming down)に抵抗しようとしたからだと説き、それがモダニスムの宿命だと解釈したアメリカきっての美術批評家である。 

≪024≫  またポロック、デ・クーニング、ハンス・ホフマン、バーネット・ニューマンらの抽象表現主義を積極的にとりあげ、これかの美術は平面性(flatness)に向かうだろうと予想した。けれどもこの予想は一部をのぞいて当たらなかった。その後のシミュレーショニズムめいたポストモダンな展開には批判的で、そのためモダニストからもポストモダニストからも顰蹙を買った。 

≪025≫  クラウスはそういうグリーンバーグを克服したかったわけである。ポストモダンをアート議論にとりこみたかったのだ。そこまではいいのだが、そのため著書がデビュー作のリキからするとだんだんポストモダニズムの言説に巻きこまれすぎることにもなって、退屈になっていた。サブスチが効かなくなったのだ。それが本書ではリキを取り戻して、彼女の趣味のよい知的本領を発揮した。 

≪026≫  第2章がおもしろい。マックス・エルンスト(1246夜)のコラージュ作品『百頭女』(河出文庫)を材料にして、ダダやキュビズムやシュルレアリスムとの絡みのなかでツァラ(851夜)、エルンスト、ブルトン(634夜)、エリュアール、ブラックらの見方の重なりと違いが浮き出てくるようにした。 

≪027≫  クラウスはそれをいったんテオドール・アドルノ(1257夜)の『百頭女』についての解釈を通してスケッチすると、ついではエルンストのコラージュのアイディアには、もともとアポリネールが「カタログのもたらすインスピレーション」に着目したところに始まり、ブルトンがその行為は「レディメイド」(既成品)の活用なんだよと言っていたことなどを紹介しながら、話がリバースしていくように仕向けた。 

≪028≫  エルンストがコラージュを「オーバーペインティング」と呼んでいたことも紹介される。当時のアーティストたちは既存のカタログやチラシやポスターや看板を引き出してきて、そこに何かをオーバーペインティング(上塗り)するおもしろさを遊んでいたのだった。 

≪029≫  上塗りはたんなる遊びだったのか。そんなことはあるまい。それがやがて《エナメルで塗られたアポリネール》を持ち出すまでもなく、デュシャンとウォーホル(1122夜)によって現代美術の大潮流になるのだから、遊びだけではなかった。そこにはリクツで説明できるアートの仕組みがあるはずだと、クラウスは考えたようだ。 

≪030≫  ただ、ここでよせばいいのにジャック・ラカン(911夜)の鏡像過程論を援用した。これはもったいない勇み足だった。 

≪026≫  第2章がおもしろい。マックス・エルンスト(1246夜)のコラージュ作品『百頭女』(河出文庫)を材料にして、ダダやキュビズムやシュルレアリスムとの絡みのなかでツァラ(851夜)、エルンスト、ブルトン(634夜)、エリュアール、ブラックらの見方の重なりと違いが浮き出てくるようにした。 

≪027≫  クラウスはそれをいったんテオドール・アドルノ(1257夜)の『百頭女』についての解釈を通してスケッチすると、ついではエルンストのコラージュのアイディアには、もともとアポリネールが「カタログのもたらすインスピレーション」に着目したところに始まり、ブルトンがその行為は「レディメイド」(既成品)の活用なんだよと言っていたことなどを紹介しながら、話がリバースしていくように仕向けた。 

≪028≫  エルンストがコラージュを「オーバーペインティング」と呼んでいたことも紹介される。当時のアーティストたちは既存のカタログやチラシやポスターや看板を引き出してきて、そこに何かをオーバーペインティング(上塗り)するおもしろさを遊んでいたのだった。 

≪029≫  上塗りはたんなる遊びだったのか。そんなことはあるまい。それがやがて《エナメルで塗られたアポリネール》を持ち出すまでもなく、デュシャンとウォーホル(1122夜)によって現代美術の大潮流になるのだから、遊びだけではなかった。そこにはリクツで説明できるアートの仕組みがあるはずだと、クラウスは考えたようだ。 

≪030≫  ただ、ここでよせばいいのにジャック・ラカン(911夜)の鏡像過程論を援用した。これはもったいない勇み足だった。 

≪041≫  第3章はデュシャンをどうするかというところだ。クラウスはちょっとした挿話から攻略する。 

≪042≫  デュシャンは1920年代のはじめから「精密検眼士」という名刺を持ち歩いていて(このへんがデュシャンのフェチ・ダンディズム)、ときどきその名刺で開けるブースでヴィジュアル・レコードを売っていた。噂ではなく、実際にそうしていたらしい。ヴィジュアル・レコードというのは、レコード盤の表面にぐるぐる目のまわるようなロトレリーフを施したものだ。 

≪043≫  クラウスは、これは錯視をおもしろがるためではなく、視覚的無意識を合法化するためのマシーナリーな装置というものに、デュシャンが執着していたせいだろうと考える。  

≪044≫  これについては、リオタールによる大ガラス作品や遺作の分析でも、デュシャンにはニューロ=オプティカルな(神経-光学的な)関心が異様に蟠っているという指摘があった。ぼくはそれがオブセッションやフェチでもあろうとみなしているが、それはともかく、デュシャンは20世紀のアートはタブロー主義から脱出して、新たな視覚装置になったほうがいいとの決意をかためていたのだろうと思う。 

≪045≫  かつて、印象派の描法は「網膜主義」であろうというふうにみなされていた。かれらは絵の具をパレットの上で混ぜて目的の色をつくるのではなく、それぞれの絵の具を筆につけ、それを次から次へと外光の中のカンバスに色覚検査表のようにくっつけて描いた。 

≪046≫  黄色の絵筆の点、橙色の絵筆の点、白濁色の絵筆の点は、パレットの上ではなく、それらの点が混在したカンバスを見る画家と鑑賞者の網膜の上で混ざるのだ。あまりいい説明ではないが、近代美術史はこれを網膜主義とか筆触分割とか色彩分割とか名付けた。 

≪047≫  これは生理学者ヘルムホルツのアソシエーショニズム(知覚連合主義)、サルトル(860夜)の無意識的想像力理論、リチャード・ローティ(1350夜)の「認識はカメラ・オブスクラのように対象とのあいだで拡張される」という見方などともつながるところで、そのまま現代アート思想にも受け継がれる可能性がある。実際にもジョナサン・クレーリーは『観察者の系譜』(以文社)では、そうした解釈の可能性を跡付けた。 

≪048≫  では、パレットも絵筆もカンバスも捨てたデュシャンはどうしたか。カンバスにも頼らないし、網膜にも頼らない。仮に知覚連合主義を踏襲したとしても、視覚的な出来事が独自の表示装置でおこるようにしたのではないかと、リオタールは見た。この表示装置はリオタールが考えるデュシャン独特の「芸術的感光面」だった。 

≪049≫  この仮説は「ロトレリーフ」や「大ガラス作品」を説明するにはまあまあ悪くなかったが、しかしクラウスは納得しきれない。リオタールも満足していなそうだ。なぜなら二人にとってはとくに気になることがあった。デュシャンには、その表示装置がこれを見る者の網膜でも脳内でもなく、もっとリビドーに向かって、いわば膣や男根や肛門にはたらきかけるようにしたいと思っていたふしがあったからだ。 

≪050≫  こうしてクラウスは、第4章では一転してルロワ=グーラン(381夜)やジョルジュ・バタイユ(145夜)やロジェ・カイヨワ(899夜)を持ち出してくる。デュシャンの試みは、バタイユの言うエテロモルフ(異質混淆性)に向けて発射されていて、それがルロワ=グーランの言う「洞窟の中での輪郭の発現」のように作動し、カイヨワの言う「擬態のように変容をおこすもの」であるように思えたのである。 

≪051≫  アートの歴史は偶然も必然も、判然も当然も追ってきた。アートはその営みの当初からサブスティテューション含みの「全然アート」なのである。 

≪052≫  光、天体、暗闇、線描、洞窟、壁、タブロー、トロンプ・ルイユ、水墨、油彩、肖像性、分身、風景、自然、地形、建物、形態、デッサン、彫塑、カメラ・オブスクラ、カンバス、地図、劇場、照明、衣裳、写真、幻燈機、絵巻、影、図形、幾何学、遠近法、オークション、展覧会、神仏、モデル、祈り、祭壇、ミソグラム(神話記号)、アニマ、イメージ、フェティッシュ、疾病、エロス‥‥。これらはみんながみんな「全然アート」の仲間たちである。 

≪053≫  しかし、これらの組み合わせがなんらかの美術作品になっていくとき、そこには何らかの「別様の仕立て」がはたらいてきた。それはサブスティテューションなのである。頻繁な代理形成がおこってきたはずなのだ。キリスト像はキリストそのものではなく、ゴッホのひまわりはひまわりではなく、北斎の富士は富士山ではなく、ピカソの《ゲルニカ》は戦争ではない。それらはサブスティテューションだった。 

≪054≫  サブスティテューション(代理形成力)こそが表象力であると思想的に気が付いたのは、最も早期にはジョン・ラスキンであったろう。20世紀ではルロワ=グーランやバタイユやカイヨワが気が付き、少し遅れてロラン・バルト(714夜)やジャック・デリダがその説明に腐心した。けれども実作者なら、レオナルドもターナー(1221夜)も、ドラクロワもピカソ(1650夜)もジャコメッティ(500夜)も、アート表現がすべからくサブスティテューションであると、もちろん気が付いていた。 

≪055≫  そうした一人としてクラウスが第4章で特筆したのがハンス・ベルメールだった。 

≪056≫  本書では1937年の《恩寵の状態にある女性砲手機械》を筆頭に、数々のベルメールの《人形》の図版とその意図が紹介されている。 

≪051≫  アートの歴史は偶然も必然も、判然も当然も追ってきた。アートはその営みの当初からサブスティテューション含みの「全然アート」なのである。 

≪052≫  光、天体、暗闇、線描、洞窟、壁、タブロー、トロンプ・ルイユ、水墨、油彩、肖像性、分身、風景、自然、地形、建物、形態、デッサン、彫塑、カメラ・オブスクラ、カンバス、地図、劇場、照明、衣裳、写真、幻燈機、絵巻、影、図形、幾何学、遠近法、オークション、展覧会、神仏、モデル、祈り、祭壇、ミソグラム(神話記号)、アニマ、イメージ、フェティッシュ、疾病、エロス‥‥。これらはみんながみんな「全然アート」の仲間たちである。 

≪053≫  しかし、これらの組み合わせがなんらかの美術作品になっていくとき、そこには何らかの「別様の仕立て」がはたらいてきた。それはサブスティテューションなのである。頻繁な代理形成がおこってきたはずなのだ。キリスト像はキリストそのものではなく、ゴッホのひまわりはひまわりではなく、北斎の富士は富士山ではなく、ピカソの《ゲルニカ》は戦争ではない。それらはサブスティテューションだった。 

≪056≫  本書では1937年の《恩寵の状態にある女性砲手機械》を筆頭に、数々のベルメールの《人形》の図版とその意図が紹介されている。 

≪054≫  サブスティテューション(代理形成力)こそが表象力であると思想的に気が付いたのは、最も早期にはジョン・ラスキンであったろう。20世紀ではルロワ=グーランやバタイユやカイヨワが気が付き、少し遅れてロラン・バルト(714夜)やジャック・デリダがその説明に腐心した。けれども実作者なら、レオナルドもターナー(1221夜)も、ドラクロワもピカソ(1650夜)もジャコメッティ(500夜)も、アート表現がすべからくサブスティテューションであると、もちろん気が付いていた。 

≪055≫  そうした一人としてクラウスが第4章で特筆したのがハンス・ベルメールだった。 

≪057≫  ベルメールのそれらの作品はバタイユやカイヨワが代理形成力としてこだわった「写しと分身」の象徴ともいうべきもので、あらためてアートの本質としてのサブスティテューションが全容として引き込まれて組み上がっていることを訴えてくる。 

≪058≫  クラウスは、ベルメールの作品が引き起こす「プレイ/ミスプレイ」という二重の作用が、従来のアート作品に勝る「写しと分身」を訴求していることに驚嘆する。「プレイ/ミスプレイ」とはバルトがバタイユの例の「足の指」思索から読み取ったダブルスイッチのことで、われわれが何をするときでもお世話になっている二重思考のことである。 

≪059≫  この「プレイ/ミスプレイ」のダブルスイッチをもともと保有してきたのが、アートであり、そのアートが「全然アート」であったゆえんなのである。このへんの指摘と言及は本書の白眉であった。 

≪065≫  第5章は主にピカソと友人のエレーヌ・パルムランが扱われるところだけれど、とくに説明することはない。エルンスト~デュシャン~ベルメールのサブスティテューションがみんなごちゃまぜになって「ピカソ化」していることが確認できるだけだ。 

≪066≫  こうして最終第6章では、ジャクソン・ポロックの革命的なドリップアート群を通して、クラウスが最も大事にしてきたチャールズ・パース(1182夜)の「アブダクション」の考え方が適用されて、視覚的無意識にはアブダクションがはたらいていて、そう見ることが、サイ・トゥオンブリーの《パノラマ》や《イタリア人》を、エヴァ・ヘスの《すぐあとに》の作品意図を、存分に納得させることになるのだと結ばれる。  

≪067≫  グリーンバーグのポロック論がまったく言及できなかったことだった。 

≪075≫  本書は読みやすい本ではない。いわゆる美術評論にもあてはまらない。よくよく配慮されて書かれているし、最初にも述べたように久々にリキも入っているのだが、先行モデルとしてのラスキンとエルンストとデュシャンを相手にしての大立ち回りなので、そのリキが火花のようにスパークしすぎて、次の文脈とつながらないところも多々あった。また、いまだポストモダン派の旗手としてのリクツにこだわるところも気になった。 

≪076≫  それでも、本書はぜひとも読まれたほうがいい。
ラスキン、カイヨワ、パース、ハンス・ベルメール、ルロワ=グーラン、ベンヤミンが並び立つ美術論は、あまりない。とくに「近代」というものに犯されたわれわれの思想感覚やアート感覚に「皴」を入れるにはうってつけの侠気が充ちていた。そう、本書は思想と美術の本質がサブスティテューションにあるとまでは暴けなかったものの、とてもお侠(キャン)でスマートな現代アート批評なのである。 

≪01≫  ゴシック建築、土佐派、ナナハンに乗りたい、アルゼンチン・タンゴ、ゴスロリ、複式夢幻能、へたうま、フランス料理、ワイシャツが似合う、ボヘミアン、ケインズ主義、織部、ふしだらな日々、レッサーアーツ、家系ラーメン、ロココ風、ブレイクダンス、IFRS(国際会計基準)……。 

≪02≫  キュビスム、私小説風、アルペジオ、桃山障壁画、お嬢さま、グレコ・ローマン、お役所文書、渋カジ、アールヌーボー、頑固、ネオリベ、アナルコ・サンジカリズム、阪神が好き、ルーズソックス、印象派、先物取引主義……。 

≪03≫  ボンデージ・ファッション、ファストフード、陪審制度、ピクチャレスク、デカダン、神秘主義、クールジャズ、国学、ニューハーフ、火焔土器、ロードムービー、社民的、ネイルアートする、ニューウェーブ……。 

≪04≫  日本では昔から、◇◇風(和風・洋風・王朝風・広島風お好み焼)、××流(観世流・花柳流・新陰流・琴古流・小笠原流・オレ流)、☆☆式(延喜式・和式トイレ・仏式)、○○様(和様・唐様・新様・定朝様・定家様・天竺様)、□□調(格調・哀調・元禄調)、△△体(有心体・幽玄体・四六駢儷体・明朝体)といった言葉をつかってきた。思うに、この「風、様、流、調、体」がスタイルなのである。こちらのほうが風味や風趣、様子や様態、流儀や流行、調子や調合、体裁や風体をたくみに出入りさせる日本語になっている。 

≪05≫  スタイルは体制や思想や計算結果よりも、ずっと重要な社会・文化・表現をめぐる様相なのである。 

≪06≫  スタイル(style)という言葉は、古代ローマで使われていた尖った筆記用具をあらわすラテン語の“stilus”から出てきた。文字や線描を生み出す道具の妙が、スタイルの出現だった。だから最初は「文体」や「描写」がスタイルの代表だった。修辞法はスタイルの生みの親である。 

≪07≫  モード(mode)もラテン語の“modus”に由来する。やはり動向がつくる形式・様式・調子・形態をあらわした。さまざまなコードが組み合わさって、いろいろなモードがつくられた。  

≪08≫  音楽における旋法やリズム、岩石の組成分布、服飾のスタイル、統計上の最頻値、日々の気分や調子のこと、コンピュータのインターフェースも、モードである。 

≪09≫  その後、スタイルはヨーロッパでは建築や美術の様式の呼称になり、ヨハン・ヴィンケルマンやマイヤー・シャビロやエルンスト・ゴンブリッジが様式論に言及するようになって、様式といえば芸術様式や文化様式を示すことになった。いまではゴシックが「ゴート人っぽい」という見方から発展したもので、ロココはポンパドゥール時代の流行を揶揄した言葉から発したものだとわかっている。 

≪010≫  スタイルを時代を追って建築や美術や音楽に求めた説明にするのは、わかりやすい方法だった。 

≪011≫  しかし、それらが見た目の違いや油彩画の手法の違いを説明できたとしても、そこに何らかのコンベンション(習慣)が出入りしていたことを見落とすこともある。また迸(ほとばし)る才能が関与したことを特筆できないこともおこる。 

≪012≫  ゴシックはフライング・バットレスの技法を、英国ロマン主義はダンテ・ガブリエル・ロセッティの表現力を、ビーダーマイヤー様式はドイツの家庭生活の特徴を、ヒップホップはアフリカ・バンバータのパフオーマンスを、それぞれ話題にしなければ伝わらない。 

≪013≫  興味深いスタイルというもの、社会や文化や技術をまたぐさまざまな特質に注目していかないと、そのおもしろさはとうてい語れない。それには新たな語り部の登場も必要なのである。ワイリー・サイファーはその先行者だった。「歴史社会はスタイリングされている」ということを、豊富な実例の重なりと比較をもって説明できる語り部だった。 

≪014≫  ワイリー・サイファーの名を文学界と美術界をまたいで轟かせた3部作は、順に『ルネサンス様式の四段階』『ロココからキュビスムへ』『現代文学と美術における自我の喪失』である。いずれも河村錠一郎(572夜)の訳出で河出書房新社から刊行された。  

≪015≫  ほかに野島秀勝訳の『文学とテクノロジー』(研究社)があった。こちらはのちに高山宏セレクション「異貌の人文学」(白水社)になった。 

≪016≫  アナロジー(類比)という見方がスタイルを見抜くための「かけがえのない武器」であることを、文芸・美術・思想領域で詳細な作品例をもって実演してみせたのがサイファーだった。ルネサンスが4転しながらどのように当時の世界理念と魔術思想と組み討ちしてきたかということも、20世紀のテクノロジーがアートとどう切り結んだかということも、サイファーの導きはなかなか有効だった。 

≪017≫  サイファーはルネサンスにグノーシス・新プラトン主義・ヘルメス知という補助線を入れ、20世紀アートにはオフセット印刷やパッケージ技術の関与や相対性理論や量子力学の影響があったことを指摘した。こういう指摘はありそうで、なかった。とくに美術史家には欠けていた。ぼくは杉浦康平がシルク印刷でカバーをデザインしてみせた『自我の喪失』からサイファーに入ったのだが、どの本もおおいに参考になった。 

≪018≫  なかでも、サイファーが文化芸術論のど真ん中にホワイトヘッド(995夜)の「アクチュアル・エンティティの見方」と「具体者とりちがえの問題」をもちこんだことは、ぼくのアートの議論、とりわけスタイルの生成と変更をめぐる議論にピリ辛の勇気を与えてくれた。 

≪019≫  本書は、まずはロココの華が開いた18世紀をピクチャレスク、ロマン主義、象徴主義と追い、ついで印象派・ラファエル前派・ナビ派・アールヌーヴォーをネオ・マニエリスムと捉えてまとめなおし(アールヌーヴォーはネオ・ロココとも捉えて)、そこから20世紀のキュビスムに至った各種アートの相関関係を追ったものである。 

≪020≫  この流れを追うことはめずらしくはないが、その変移と変相をピクチャレスクからキュビスムにまで「スタイルの踵(きびす)」を詰めるように叙述できたのは、サイファーだけだった。美術史と文学史と社会史に時代ごとのテクノロジー(技法の特色)を加えながら、それぞれをスタイルの変遷としてほぼ同格に織り合わせた語り部は、サイファー以前にはいなかったのである。もっとも今夜は文学の事例は省いて、アート&テクノロジーとしての「ロココからキュビスムヘ」を紹介する。あしからず。 

≪021≫  中世のプトレマイオス宇宙観がコペルニクスのルネサンス宇宙観に変わった。それで何がおこったのか。空間概念が、ゆっくりとしながらもぐるりと大きく転回したわけである。 

≪022≫  その新たな空間概念がアートに染み出したのは、レオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』(中央公論美術出版)が「消点」と「オーソゴナル」(水平線と直角をつくる線)による遠近法(パースペクティブ)という視覚的表現図法を示し、そのパースをもって絵画が描かれるようになったときだった。レオナルドの《最後の晩餐》やラファエロの《アテナイの学堂》が一点透視の遠近法空間を絵画的に完成させた。 

≪023≫  しかしルネサンス宇宙はあいかわらず円球のままだった。手前の地球(=人間の目)は少し動くようになったものの、向こうの宇宙は円球そのままだ。キリスト教が示した偉大な場面を鮮やかに描いてはいても、それはステンドグラスの切り抜き絵のように静止していた。これを不満とみなしたマニエリスムとバロックが空間の「拡張と収縮」を可能にした。 

≪024≫  マクロコスモスを見ようとする意図(ガリレオの望遠鏡)とミクロコスモスに分け入りたいという意図(フックの顕微鏡)が二つながら動き出し、絵画もこれを採り入れて、ルーベンスやブリューゲルがドームの天井画ではなく一枚のタブロー平面の中に、そういう二つの宇宙を同時に描いた。 

≪025≫  拡張したり、収縮したりさせたのではない。拡張と収縮を同一形式のなかで同時にあらわしたのだ。バロックが「進行しつある物語」を描きえたのは、この「空間の複合的な転換」による。後期バロックの音楽ではバッハ(1523夜)が二つの宇宙を追想するフーガ様式を生み出した。これは音楽空間の複合化をもたらした。 

≪026≫  バロックはすばらしいスタイルを出現させた。ベルニーニ(1034夜)なんて完璧だ。だったらそれで万々歳じゃないか、両界宇宙が手に入ったのだからそれでいいじゃないかと思いたくなるが、18世紀前半に登場してきたロココ様式はそれらの踏襲ではなかった。ロココ主義は空間概念がなんと「室内」にあると主張しはじめたのだ。宇宙はミドルサイズにも適用されたのだ。 

≪027≫  ロココにはバロックのような理論が派生しなかったが(詩人もアレクサンダー・ポープをただ一人代表させられる程度だが)、そのかわりにルネサンスやバロックのように世界を虚構(神の視点)ごと堂々と描くということから退去して、あえて室内の装飾空間に世界の描出のスタイルを転成させようとした。 

≪028≫  1717年に《シテール島の巡礼》でフランス・アカデミーに入会した画家アントワーヌ・ヴァトーには、『アラベスク模様、武具飾り(トロフィー)、およびその他の装飾文様集』という版画集がある。 

≪029≫  室内飾り付けの素材と見本が並んでいるようなものだけれど、ロココにあってはこれがピエール・ルポートルやジル・マリ・オプノールといった設計家によって建築の中に移動していくと、そこはカルトゥーシュ(内巻き文様)によるバロック空間とはまったく異なるものとなって、優美で植物的でギャラントな建物空間を出現させたのである。ヴァトーは「フェート・ギャラント」(雅な宴)の画家と親しまれた。 

≪030≫  ロココは「過去からの断絶」を愉しんでみせたのである。ギリシア・ローマ・ルネサンスの縛りをミドルサイズに解いたのだ。サイファーは「ロココは、ニュートン的世界の新しい個人主義をともなった、過渡期にあたる社会状況を示す記号となった」と説明する。 

≪031≫  ロココは様式としての流行力を失う直前、風変わりな局面を演出していた。「ジャンル・ピトレスク」である。 

≪032≫  絵のように美しいのであって、美しい絵をめざしたのではない。貝殻(コキャージュ)をセメントでかためたロカイユ、空間のくぼみにもぐりこむような小部屋、鏡台を飾りこむ数々の装飾の出入り、予想のつかない水の様子を見せる噴水‥‥。こういうものがジャンル・ピトレスクになった。不統一、不均斉、拡張の失効をものともしなかった。 

≪033≫  ジャンル・ピトレスクは、その後の1750年から1900年にかけての長きにわたる「ロマン主義」を用意した。ボードレールが『1846年のサロン』という時代を画するクリティックのなかで「ロマン主義はただ内部にのみ見いだされる」と書いた、あのロマン主義だ。そこにピクチャレスクや印象派や象徴主義が次々に胚胎していった。 

≪034≫  ロマン主義の眼目は主題の選択や真実の訴求をしないことにある。そのかわりに感情がおもむくところにスタイルを求めた。感情が写生や写実に向かうなら、日本の俳句の多くが写生俳句であるように、その写実主義のスタイルもまたロマン主義なのである。だからフリードリッヒもドラクロアもクールベも、マネもドガもジェリコーもロマン主義者だった。 

≪035≫  これは美術様式というよりも、意識と表現がかぎりなく近づいていったリプリゼント・スタイルというべきだ。ヘーゲルは自身の美学論において、そういうロマン主義がもたらす内面性(インジッヒザイン)を「絶対の芸術価値」と称揚した。 

≪036≫  本書はピクチャレスクに言及してサイファーの勇名を斯界で馳せさせた一冊なのだが、それほどピクチャレスクのおもしろさについては、美術史や文化史が掴みそこねていたものだった。美術批評史ではながらくジョン・ラスキンを除いてピクチャレスクの見た目の不安定性と危険な香りと、それにもかかわらずそこに秘められた崇高な気分とを言い当てられる者がいなかったのだ。 

≪037≫  一言でいえばピクチャレスクは「暗示の技法」だったのである。スタイルの一部にアナロジーが用いられたのではなく、アナロジーそのものがスタイルの核心となったのだ。 

≪038≫  暗示といってもメタファーを用いるのではない。浮世絵のように見立てや組み合わせを工夫するのでもない。描法そのものに暗示性が富んでいくこと、そのため空の模様も海の光景も雪山の構造も、クロード・ロランやターナー(1221夜)がそれをこそ見せてくれたのだが、次の一瞬には大きく変化しそうに見えるのである。 

≪039≫  こういう絵を描いてみせること、それがピクチャレスクだ。必然を見定めつつも、その直後におこるかもしれない偶然(アザール)を描く。ドガの踊り子やゴッホの糸杉に、この技法が飛び火した。絵画における印象派も文学における象徴主義も、ピクチャレスクが生み出した。このことを指摘できたのはサイファーだけだった。 

≪040≫  1863年にマネが《草上の昼食》を発表し、1874年にモネ、ドガ、ルノワール、ピサロらが官展(アカデミーのサロン)に対抗した展覧会を開いた。会場は写真家ナダールの店だった。みんな主題を軽視して、ドガ以外の全員が光がまぶしく雨も降る戸外で制作し、思い思いの印象を描きまくった。 

≪041≫  印象(impression)とは「感じたこと」ではない。感じたように描けること、その描いたものが見る者をインプレスすること、それがイン・プレスとしてのインプレッションだ。 

≪042≫  ただし、このことを一番大事にすると、印象派の画家たちはさまざまな欠陥をあらわにするしかなかった。マネは首尾一貫性を欠き、モネは構図を失い、ルノワールはダンディズムをこぼし、ゴッホは安心から見放された。しかし、それこそが印象主義の矜持だったのである。 

≪043≫  ただ、ゴーギャンだけが苦々しい感想を吐き捨てた。印象主義は「表現を束縛するものを温存しすぎている」のではないか、というふうに。おそらく印象派が好きな日本人のファンも、あのような作品群が知的な高揚やアートの衝撃をもたらすものとは思わないだろう。ルノワールの少女やモネの睡蓮は絵画をその描景にとどまらせるものでもあったのだ。 

≪044≫  印象は印象を閉じこめなかった。ドガの思いもよらない視覚がロートレックの絵柄を生み、モネの大気描写がスーラの点描主義やセガンティーニらのディヴィジョニズム(分割主義)を生んでいた。 

≪045≫  サイファーは、ゴーギャンの不満はナザレ派、リヨン派、ナビ派、ラファエル前派、アールヌーヴォーに転じていったとみなしている(これも卓見だった)。たとえばナビ派のモーリス・ドニやピエール・ボナールの予言的平面主義、ラファエル前派のホルマン・ハント、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレーらのやや魔術的とも見える幻想的な超時空性、さらにはオスカー・ワイルド(40夜)の反自然主義とともに開花したアールヌーヴォーのビアズレーのイラストレーションやウィリアム・モリスやバーン=ジョーンズのどこにでも貼れるようなデザイン的装飾性、エミール・ガレの目を奪うガラス彫刻細工や建築家エクトール・ギマールのうねるような鉄の門扉やファサードなどは、これらを見る者たちを「画家が束縛した印象」からの解放をもたらしたのである。 

≪046≫  アーティストの勇気と表現力に甘いぼくなどは、以上のようなベルニーニのバロックの玲瓏な爆発、ターナーとピクチャレスクの実験性、ロココのフェミニズム、ロセッティのダンディズムには存分な軍配を上げたくなるけれども、ところが、ところがだ、スタイルの転換はこんなところでピークを迎えたのではなかったのである。ここまでの数々の様式の実験は20世紀を告げるものとはならなかったのである。 

≪047≫  19世紀の美術には、ピエール・フランカステルが『絵画と社会』(岩崎美術社)で「ブロカージュ」(据置・凍結)と名付けたような文化的遅延がある。そのためどこか歴史的なプリミティビズムをかかえこんだままなのだ。 

≪048≫  これにいたたまれなくなって、ルネサンスこのかた19世紀末尾にいたるブロカージュを一気に壊したのが、キュビスムだった。キュビスムは一つの視点から始まって絵画および美術全般の中に構成されてきた三次元空間を破壊した。ブラックが着手し、ピカソがそのやり口を拡げた。 

≪049≫  これに似たことを先行してやってのけたのは、ミンコフスキーの時空連続体幾何学とマックス・プランクの量子定数とシュレディガーの波動関数とアインシュタインの相対性理論である。科学哲学的にはこれらの思考回路を、ホワイトヘッドの有機体哲学とウォディントンの分化の理論が用意した。 

≪050≫  ブラックやピカソ(1650夜)はそのような科学思想にもとづいて20世紀アート革命にとりくんだのではない。キュビストたちは、スタイルの始発力をアフリカ美術やアルタミラの洞窟絵画にまでさかのぼるプリミティブとフェティッシュにさかのぼることによって、かれらはブロカージュの破壊にとりくんだ。 

≪051≫  キュビスムとはべつに狼煙を上げたアート活動がある。ドイツの表現主義、カンディンスキーの構成主義、ダダと未来派、シュルレアリスム、そして写真術と映画技法だ。 

≪052≫  本書はこのへんのことにはふれてはいないけれど、言外にキュビスムのブロカージュ潰しが20世紀前半のアート活動の全般に及んでいったことに拍手を送ろうとしている。こんな一節がある。 

≪053≫  映画の複雑な総合性は、ピカソの1926年の作品  《婦人帽子屋の仕事場》で名人芸的な使われ方をし  た。アールヌーヴォーの二重螺旋輪郭線技法(鏡のよ  うな水面を生む技法)をジャズのシンコペーションに  適合させた動く複合性が、白黒でスクリーンに映写さ  れたような絵画なのである。   この絵はエイゼンシュタインが定義をくだした映画  的遠近法の完全な例証になっている。描写をわれわれ  の上に引き付け、輪郭を平板にしてデフォルメするク  ローズアップの効果さえもっている。   これらの複雑に絡まりあいゆれ動くシルエットは、  ビアズリーのグラフィックアートに新しい次元を与  たものであり、一方、マティスのフォーヴィズム空間  の表現主義的な短縮遠近法を使っている。またジョア  ン・ミロのバイオモーフィック(生形態学的)な形と  密接に関係している。 

≪054≫  すでに述べたように、サイファーは美術史と文化史を、一方では必ず文学的表意術の変遷を織りまぜ、他方では必ず科学技術史のパラダイム・チェンジを挟むことによって、ダイナミックに浮上させた。 

≪055≫  アートと文学の関係を追いたいなら『自我の喪失』で追撃されているベケット(1067夜)やイヨネスコとフォンタナやジャクソン・ポロックとの関係を、テクノロジーが芸術に及ぼした影響については、『文学とテクノロジー』を読まれるといい。後者の改訂版では高山宏(442夜)の唸るような解説も読める。 

≪01≫  光があれば影がある。善があれば悪があり、正なるものがあれば負なるものがある。光と影は対比され、正と負とは別々の方を向く。ときに華厳思想や陰陽道のように陽なるものと陰なるものが相反しながら絡んでいるばあいもあるが、世界はたいていポジティブとネガティブとに、進歩と退嬰とに、勝ちと負けとに分別されている。 

≪02≫  これを破ってきたのは長らく各地各民族の説話や文芸やメルヘンくらいのものだった。それでも砂男(ホフマン)やマッチ売りの少女(アンデルセン)が主人公になるには近代まで待たなくてはならなかった。 

≪03≫  世界の歴史の大半は正から邪を眺め、正統が異端を戒めるというふうに進んできた。いや、そのように後付けされ、そのように叙述されてきた。とくに法においては、正邪の峻別が根幹になった。「影」や「負」や「邪」が主語になることは、めったにありえない。「紛いもの」や「偽物」が中心にくることもない。それでは世界が堕落する。仮にそんなインチキがいっとき蔓延(はびこ)ったことがあったとしても、そのうち「影」や「負」や「邪」や「偽」は失墜させられ、批判や否定の対象なった。 

≪04≫  しかしながらそのようになったのは、きわどい歴史のぎざぎざの価値観のなかからあれこれの紆余曲折をへてようやく「善」や「正」が派生して、そのうち主語の座をぶん取ったものだったにちがいなく、何をもって正統とするかは、はなはだ微妙だったはずである。微妙どころか、歴史の栄枯盛衰では「正」「正統」「正義」は圧殺・暴力・蜂起・クーデター・奸計・収賄によって確立した例の方が多く、あとは勝てば官軍の権利として奪取されてきたものでもあった。 

≪05≫  やがて勝ち組がその獲ち得た「正」をまことしやかに語るにあたっては、正邪や正負のルーツもちだすことにした。そのためには「そもそも」の物語が必要である。「そもそも」のためには「そもそも世の始めにおいては」と語れる「そもそもの正邪」をもちだした。こうして溯行したルーツの、そのまたルーツには神々が居並んだ。神々の物語がつくられた。古代においては正邪の由来にリクツをつけるには、そういう神々をどう正邪化するかが分かれ目になった。 

≪06≫  ところがその神々の「行い」や「性」(さが)にしてからが、当初は正邪入り乱れ、アヤメ・カキツバタは分かちがたいものだった。「そもそも」もあやしかったのである。 

≪01≫  光があれば影がある。善があれば悪があり、正なるものがあれば負なるものがある。光と影は対比され、正と負とは別々の方を向く。ときに華厳思想や陰陽道のように陽なるものと陰なるものが相反しながら絡んでいるばあいもあるが、世界はたいていポジティブとネガティブとに、進歩と退嬰とに、勝ちと負けとに分別されている。 

≪02≫  これを破ってきたのは長らく各地各民族の説話や文芸やメルヘンくらいのものだった。それでも砂男(ホフマン)やマッチ売りの少女(アンデルセン)が主人公になるには近代まで待たなくてはならなかった。 

≪03≫  世界の歴史の大半は正から邪を眺め、正統が異端を戒めるというふうに進んできた。いや、そのように後付けされ、そのように叙述されてきた。とくに法においては、正邪の峻別が根幹になった。「影」や「負」や「邪」が主語になることは、めったにありえない。「紛いもの」や「偽物」が中心にくることもない。それでは世界が堕落する。仮にそんなインチキがいっとき蔓延(はびこ)ったことがあったとしても、そのうち「影」や「負」や「邪」や「偽」は失墜させられ、批判や否定の対象なった。 

≪04≫  しかしながらそのようになったのは、きわどい歴史のぎざぎざの価値観のなかからあれこれの紆余曲折をへてようやく「善」や「正」が派生して、そのうち主語の座をぶん取ったものだったにちがいなく、何をもって正統とするかは、はなはだ微妙だったはずである。微妙どころか、歴史の栄枯盛衰では「正」「正統」「正義」は圧殺・暴力・蜂起・クーデター・奸計・収賄によって確立した例の方が多く、あとは勝てば官軍の権利として奪取されてきたものでもあった。 

≪05≫  やがて勝ち組がその獲ち得た「正」をまことしやかに語るにあたっては、正邪や正負のルーツもちだすことにした。そのためには「そもそも」の物語が必要である。「そもそも」のためには「そもそも世の始めにおいては」と語れる「そもそもの正邪」をもちだした。こうして溯行したルーツの、そのまたルーツには神々が居並んだ。神々の物語がつくられた。古代においては正邪の由来にリクツをつけるには、そういう神々をどう正邪化するかが分かれ目になった。 

≪06≫  ところがその神々の「行い」や「性」(さが)にしてからが、当初は正邪入り乱れ、アヤメ・カキツバタは分かちがたいものだった。「そもそも」もあやしかったのである。 

≪07≫  ギリシアの神々には「おかしい連中」はざらにいた。悪態をつく、女を漁る、権謀術数をこねくりまわす、けちんぼうである、嫉妬が激しい、邪魔が好き、傲慢だ、悪さをする、浮気が多い、嘘をつく、やたらに自己陶酔する、青年を誘惑する、いろいろだ。神が人に擬せられているかぎりは、当然だ。 

≪08≫  そういう神々が目立ってきたのは、ポリスとその周辺のように小さな領域での噂によるものだったからだ。ディオニュソスのように外からやってきて、しかも酔っ払いのような不埒を肯んじる神のことがわからなくなるのも、また当然だ。 

≪09≫  プラトン(799夜)の『ティマイオス』にはデミウルゴス(Demiurge)という造物主が登場する。デミウルゴスという名称はギリシア語で「職人」とか「工匠」という意味をもつので、プラトンはそういう工匠の中の工匠の王たる者を想定して、その造作王をデミウルゴスとみなし、そのデミウルゴスが自分の姿に似せて完全宇宙を創造したと仮定した。 

≪010≫  ただし、そのことを語るティマイオスは「万有の造り主であり父である存在を見いだすことは困難な仕事だ」「見いだしたとしても、これをみんなが理解できるように説明するのは不可能である」と言っている。なぜこんなふうに言ったのか、ここのところの解釈はなかなか複雑で、どうしてデミウルゴスの正体が説明不可能なのか、プラトンの対話篇の記述だけではわからない。 

≪011≫  そこで議論が噴出した。プラトンを継承するプラトン主義者たちは、プラトンはデミウルゴスがイデアを重視するはずの職人や工人の元締めでありながら、完全宇宙どころか、不完全を世の中にまきちらしたのだろうと見た。プラトンは、デミウルゴスがイデア界のありようを模倣してこの世に「不完全な似像世界」をつくりだしたことを問うたというのである。デミウルゴスが紛いものであるとすれば、この世が堕落している説明もつく。しかし、そういう解釈でいいのか。 

≪012≫  古代ギリシアのポリスの繁栄が晩期を迎え、地中海世界が大きく混じりはじめると、アレクサンダー大王に象徴されるようなヘレニズム時代がやってきた。西方文化と東方文化が混じり、エジプト・ギリシア・小アジア・中東・オリエント・インドが混淆していった。 

≪013≫  同じころ、ヘブライズムに大きな変化があらわれた。古代ユダヤ教が分派と変質をくりかえして、その一隅から原始キリスト教を生み出そうとしていた。 

≪014≫  この時期、すなわちヘレニズムとヘブライズムがほぼ同時に新たな世界大の変革に突入しようとしていた時期、プラトン的な意味においても罪深いデミウルゴスを、ヤルダバオート(Jaldabaoth)と呼び換え、プラトンとはまったく異なる知の世界観を唱えた不思議な動向が胎動していた。グノーシス(グノーシス主義)である。ヘレニズム期、そういうことを唱える何人ものグノーシス主義者が登場した。  

≪015≫  ヤルダバオートはグノーシス主義を伝えるテキストとして注目されるナグ・ハマディ写本のひとつの、『この世の起源について』のなかで、おぞましい「傲慢な造物主」とみなされて登場する。 

≪016≫  そこまではプラトンの解釈を過激に仕立てたという程度だが、なぜグノーシス主義者はプラトン的なデミウルゴスを謗ることに目をつけたのか。なぜその名をヤルダバオートなどという名称に変えたのか。その点については、プラトンの修正という程度のものではなかったと言わざるをえないものがあった。それは時代のせいか(←ヘレニズムの拡張)、信仰のせいか(←ヘブライズムの変質)それとも、他に何か隠さなければならないことがあったのか。 

≪017≫  いろいろ憶測されるところだった。のちにグノーシスは、しばしば「負」を引き取った思想とか、世界を「欠損」をかかえたものとみなした思想と言われるようになったのだが、それならでは、なぜそのようになったのか。 

≪018≫  この話はグノーシスの思想の特色を描くにあたってのごくごく一部の例にすぎないが、推して知るべし、グノーシスにはこうした「変更」を「正負の逆転」において決定的にしたいという動機があったようなのである。 

≪019≫  本書はクルト・ルドルフがハンス・ヨナスの先駆的グノーシス研究にもとづいて、これをナグ・ハマディ文書の解読を通して全面的に組み上げなおしたものである。今日のグノーシス研究の大半がルドルフの本書をキーステーションにしている。 

≪020≫  キーステーションは①「資料」、②「本質と構造」、③「歴史」、④「展望」に分かれて解説されているが(本書はそのような構成になっている)、ふつうに読むと、①「資料」はナグ・ハマディ文書の全体と細部に及ぶので、めくるめくものではあるが、研究者でないかぎりはあまりに繁雑に感じると思う。 

≪021≫  ③「歴史」はグノーシス胎頭の歴史のことであるが、グノーシスが隆起したのは2~3世紀を頂点として、長く見積もっても「ヘレニズム→ローマ社会→初期キリスト教期」に集中していることなので、あまりに短期に各派の主張が込み入って並唱されているので、わかりやすい編年にはならない。数派の活動を追うのがいいだろう。その数派はエイレナイオス派、ヴァレンティオス派、マンダ教、マニ教といったキリスト教側からこっぴどく異端視され論駁されてきたものなので、主張と論駁の両方から特色を 

≪022≫  ということで今夜の千夜千冊は、②「本質と構造」を中心的に覗いておくのがいいだろうと思う。ここはルドルフが大きく「グノーシス神話の特質」「二元論の特徴」「宇宙論」「人間論」「救済論」「魂の帰昇」「終末論」「共同体・祭儀」というように解説している。それでも順に紹介するのは詳しすぎるか、さまざまな重複がおこりすぎるので、以下では思いきってかいつまむ。 

≪023≫  ちなみに今日のグノーシス研究は、1966年のメッシーナ提言(研究者たちの国際会議での提案)にもとづいてナグ・ハマディ文書の共同管理と用語法と起源仮説に、おおむねもとづくことになっている。 

≪024≫  では、かいつまむことにする。グノーシスの核心的思考の特徴は「世界が堕落している」という見方から生じてきたのではない。もともと神的な世界で生じたにちがいない本来の霊魂(プネウマ)の「火花」のような核心的なものが、いつしか死の支配するこの世に落ち込んでいるのだとみなし、これをもとの状態に戻すためには、世界と自身とが神的な対応性によって同時に覚醒していかなければならないという考え方から来ている。 

≪025≫  このばあい、古代ギリシア哲学が想定したコスモス(宇宙)こそが秩序をもって調和をはからっていたという見方を、前提にしない。そのコスモスと対比されるカオス(混沌)も前提にしない。これは造物主デミウルゴスの失敗を詰(なじ)るためではなく、出来の悪いコスモスとカオスともども覚醒しようとするからだ。グノーシスの世界観はギリシア的世界観を固定するのではなく、そのまるごとをいったん括弧の中に入れ、その括弧の全体に黒々とマイナス記号(負号)をつけるのだ。 

≪026≫  したがって覚醒は下方にも上方にも裏側にも向かう。そのためグノーシスでは、従来の大半の可視的なものや操作可能なものの彼方(彼岸)に「知られざる神」たちを括弧の外に想定し、それらが集まって充満をおこすのだと考える。この充満のことをプレーローマ(pleroma)という。 

≪027≫  プレーローマはいくつかのアイオーン(羅aion、英aeon)によって変転する。アイオーンはギリシア哲学では時間の神とみなされているが(古代ギリシアにはクロノスやカイロスもある)、グノーシスでは世界層のようなものになる。  

≪028≫  アイオーンは層をなしつつ天界と地上界に「宿命の目印」を見せている。この目印は必然・運命・宿命を司るヘイマルメネー(heimarmenee)が管轄する。これによって、星辰や星座をめぐる古代占星術が成り立ってきた。ちなみに運命や宿命はギリシア神話ではヘカテーが管轄し、そこから英語の“fatalism”などが派生した。 

≪029≫  ヘイマルメネーは必然・運命・宿命を司るのだから、世の中の「定め」の決定を牛耳りかねない。また、どうせ運命が決まっているのだからというので怠惰を許すことにもなりかねないし、悪なるもの(ダイモーン)の跳梁を許すかもしれない。後世、キリスト教で予定説がはびこり、哲学や科学では決定論が大きな力をもつことになるが、それらの思考法のルーツはここにあった。 

≪030≫  そこでグノーシスでは、そういう宿命(ヘイマルメネー)を決定づける動向を支配するものをアルコーン(支配者・頭目)と名付けて、ヘイマルメネーが必ずしもうまく作動しないということを強調した。 

≪031≫  デミウルゴスはそういうアルコーンの一人だった。グノーシスがあえてデミウルゴスを下級神の名であるヤルダバオートと呼び換えたのは、デミウルゴスを下の方に引きずり降ろしておきたかったからだろう。これはイラン神話(ゾロアスター教)における最高神アフラ(アフラ・マズダのアフラ)がインド神話(ヒンドゥー教)ではアスラ(阿修羅)という最下方の神に擬せられたことに似ている。 

≪032≫  しかしグノーシス思想は、このあたりを取り計らいあぐねているようにも思う。宿命論や決定論から逃れられてはいない。とはいえグノーシスは、のちのちミルチア・エリアーデ(1002夜)が古代宗教における「反対の一致」の妙と名付けたような「対」(シュジュギア)の認識をもって、反対が対決や隔離ではなくプレーローマによる回復や救済の機会の持続につながるようには、仕向けてみせたのである。 

≪033≫  ハンス・ヨナスがグノーシス思想の特色を端的に「反宇宙的二元論」にあるとみなしたことで、この意味をめぐるさまざまな議論が飛び散った。ヨナスのせいではないが、誤解や曲解を招いているところもある。 

≪034≫  この言い方には現代思想的な意味での「反宇宙」論や「二元」論があるわけではない。反宇宙はギリシア的宇宙観を括弧に入れたということであり、二元論だというのは一元をめざす二元性が用いられているということである。クルト・ルドルフは「グノーシスは古代の宇宙論を前提としつつ、ただしそれをまったく別様に解釈し、細部においていくつか新しい要素を組み込む」というふうに、「グノーシスは一元論を背景とする二元論に組み込まれている」と説明した。 

≪035≫  ヘレニズムのグノーシス主義の認識にとって、世界は隷属されたままのものであってはならなかったのである。人間が宇宙や世界という「容器」(いれもの)の中にいるのなら、そこでそうしていること自身が覚醒や救済でなければならないはずなのに、むしろ世界の最善の部分は最悪のものと塗(まみ)れたままなのだ。そこで、こう考える(認識する=グノーシスする)ことにした。おそらく人間はそういう世界に転落したのであると。 

≪036≫  また、こうグノーシスする。ほんとうはそのような転落宇宙や転落世界とは別のプレーローマがあって、その組成にあたるアイオーンについてちゃんと認識すれば、覚醒や救済が作用するようになるのではないかと。 

≪037≫  グノーシス主義は、このようなことが原初においておこっていたと見た。そのため、すべての認識(グノーシス)を全稼働させて、原初の「知」の言い換えをしなければならない、その別様の語り方を獲得しなければならない、全編集してみたい、そう考えたのだ。これが「反宇宙的二元論」を認識の道具として活用していった理由にあたる。反宇宙的にならないと、ポリス的な「二元的正邪」のもとをひっくりかえさないと、当初の「知」とともに思考が進まないからである。 

≪038≫  こうしてグノーシスは「魂の帰昇」をめざせる認識に徹していこうと試みた。その語り方が、ナグ・ハマディ文書の『ポイマンドレース』『ヨハネのアポクリュフォン』、エイレナイオスの『異端反駁』、ケルソスの『真正な教え』などとして残った。しかしながら、これらを統合する機会はやってこなかった。なぜなら、多くは仕上がりつつあってキリスト教側からの批判に応えようとしたものであり、ナグ・ハマディにひっそりと隠された文書以外は、おそらくキリスト教によって撲滅されていったからである。 

≪01≫  本書が訳されてしばらくして、秋山さと子さんから「とてもおもしろい本よ。松岡さんはグノーシスっぽいから、ぜひ読んで感想を聞かせてね」と言われた。秋山さんが言うなら相当の本だろうが、ぼくがグノーシスっぽいとはどういうことか。 

≪02≫  曹洞宗の寺に生まれ、ジャズシンガー、DJ、デザイナーをへて35歳で駒沢大学で仏教を修め、1964年に渡欧してユング心理学研究所で元型と集合無意識をめぐる心理学研究に携わり、帰国ののちは河合隼雄(141夜)とともに日本におけるユング派からの発言を縦(ほしいまま)にした。そういう秋山さんがグノーシスの本を訳したのは、ユング(830夜)がいっときナグ・ハマディ写本(後述)に熱中していたからだ。 

≪03≫  さっそく読んだ。くらくらした。なるほど相当な本だった。論旨がつかみにくい記述にもよるが、その感想を返すまもなく秋山さんは病床につき、そのまま亡くなられた。葬儀の席で一緒に翻訳チームに入っていた彌永信美さんに「ヨナスのグノーシス論、すごいね」と言ったら、「極め付けでしょう、秋山先生がグノーシスなんですよ」と微笑んだ。いや彌永さんがそのころ上梓した『幻想の東洋』(青土社)もそうとう極め付けだった。 

≪04≫  これらは30年近く前の1992年前後の話なのだが、当時のぼくには「グノーシスっぽい」という意味がほとんど理解できていなかったと思う。ただ、ハンス・ヨナスがグノーシスの思想はギリシア哲学やキリスト教と異なる「反宇宙的な二元論」だと言い切っているのが衝撃だった。二元論は好きではないので(一元論はさらに嫌いだが)、それゆえぼくが「グノーシスっぽい」とは思えなかったのだが、「反宇宙的な」が大胆だった。 

≪05≫  グノーシスはギリシア哲学やキリスト教が共有してきた宇宙観を拒否した、そこから脱してきたというのである。宇宙観を拒否した? そこから脱出した? では宇宙観をもたなかったのか? それがグノーシス? いったいどういうことなのか。 

≪06≫  本書に通底するヨナスの知見をあらかじめはっきり示しておくと、グノーシス(グノーシス主義の思想)においては、ギリシア的でキリスト教的な宇宙がつくりだした世界を拒否しているということなのである。拒否しているだけではない、裏側にまわってしまっているようなのだ。 

≪07≫  これには驚いた。ヘレニズム時代にそんな芸当が胚胎していたなんて、もしそれを新プラトン主義やヘルメス主義と並ぶ神秘主義思想の誕生というなら、これはかなりアナーキーで、ニヒルで、ヤバすぎるではないか。しかしヨナスははっきりこう書いていた。 

≪08≫  「グノーシスの神性は絶対的に超世界的であり、世界とまったく本質を異にしている。その神性は世界を創造せず、またそれを支配することもない。神性は世界と完全に対立する。世界(コスモス)は闇の領域であり、自己充足的で遠く離れた神的な光の領域の対極にある。世界は下位の諸権力の所産であり、体系によってこれらの諸権力が間接的に神から由来することもあるが、かれらは真の神を知らず、自分たちの支配する世界のなかで神が知られることを妨害する。これらの下位の諸権力すなわちアルコーン(支配者)の発生、および一般に神の外なる存在の秩序(そこには世界も含まれる)の発生は、グノーシス的思弁の中心主題のひとつである。」 

≪09≫  神話は世界に対立する、コスモスは闇の領域であるとは、かなり逆立ちしているようだし、アルコーンなどという聞きなれない用語も出てくるが、けれどもこれがヨナスの解釈したグノーシス論の思想の特色なのである。 

≪010≫  また、こうも書いている。「グノーシスの超越的な神それ自体はあらゆる被造物から隠されており、自然的な諸概念によっては知ることができない。神を知るには超自然的な啓示と召命が必要であり、その場合ですら、否定的な言葉によらずしては表現されえない」。 

≪011≫  なんたることだろう! グノーシスの神があらゆる被造物から隠されているなんて! 自然的な諸概念では知ることができない思想があるだなんて! グノーシスがわかるには啓示と召命が必要なのは辛うじて理解できるとして、それを語ろうとすると否定的な言葉によらざるをえないなんて! 

≪012≫  グノーシス(Gnosis)とはギリシア語で「認識」とか「知識」という意味である。だからグノーシスという名称自体はとても一般的な概念だ。ただギリシア哲学やキリスト教の言う理念的な認識や知識とグノーシスが誇る知識とは異なるものなので、しばしば「覚知」とか「叡知」というふうにも訳される。しかし「覚知」「叡知」と言いかえたとしても、それはギリシア哲学やキリスト教が究極の理念にしたかった(つまりコスモスに調和する)「イデア」などにもとづく普遍知や「神の叡知」ではなかった。 

≪013≫  もうひとつ諸君をびっくりさせないようにあらかじめ言っておくと、グノーシスは世界宗教ではない。民族宗教でもないし秘密宗教でもない。信仰原理ではあるかもしれないが、グノーシスは教団や説得や拡張を好まなかった。だからふつうの宗教史では語られてはいない。 

≪014≫  原始キリスト教が胎動していく時期に、ヘレニックなアレキサンドリアあたりで知的な試み(グノーシス的な試み)が挑まれ、それが1世紀後半から3~4世紀あたりの地中海キリスト教に対比され、ときに接近した。いっときはキリスト教もこれを取り込もうとしたが、グノーシス派はこれに応じはしなかった。そういうふうに生まれたものだ。 

≪015≫  こうした経緯はキリスト教の歴史では、のちにキリスト教が神秘主義的なグノーシスの「知」の装いをもったと見られて、「キリスト教グノーシス」(キリスト教のグノーシス)が発生したとみなされたのだが、ハンス・ヨナスはそうではなかったと分析した。グノーシスはキリスト教の宇宙を拒否したからだ。そんな宇宙はいらないと見た。 

≪016≫  だからヨナスによれば、グノーシスは自立した宗教や宗派ではなく、あえてわかりやすくいっても宗教と添い寝するぎりぎりの「うっちゃり思想運動」に近いものなのだ。それゆえ結局は、キリスト教の本体(教父の哲学)はグノーシスを取り込まず、いや取り込めず、ミトラ教、オルフェウス教、ヘルメス思想などとともに「異端」として扱った。のちにマニ教がグノーシスを体現した宗教だとみなされたときも、教父アウグスティヌス(733夜)がマニ教から転向したように、キリスト教はマニ教を認めなかった。 

≪017≫  そしてそのぶん、グノーシスは独特の神秘思想として歴史の中に暗躍するようになったのである。いや、暗躍していたのかどうかもよくわからなかった。それというのも、宗教史的にはグノーシスは祖師も登場せず、教団もつくれず、それゆえダイナミックな宗派の多様性も発揮せず、わずかにマンダ教やマニ教やカタリ派として古代末期と中世初頭の宗教活動以降は残響をもたらしたにすぎなかったからだ。つまりいわゆる「陰謀思想」などとして機能したとは思えないのものだったのだ。もしグノーシスが宗教運動だったとしたら(そういう面も濃い)、グノーシスは「失敗した宗教」だったのだ。 

≪018≫  それならいったいこれはいったい何なのか。そんなわけのわからない思想を、どうやって語ればいいのか。ひょっとして、たんなる「反対のための反対」にすぎない思想なのではないか。あえて擁護しても否定神学の特例みたいなものではないか。  

≪019≫  と、いうふうに長らくみなされていたのだった。そう突き放すしか説明のしようがないほど、グノーシスには「かたまった教え」が見当たらなかった。ところが、ところがである。1947年になって、エジプトのナイル河中流付近のナグ・ハマディで大量のコプト語の写本が発見され、事情が一変した。  

≪020≫  ナグ・ハマディ文書である。ここに全13巻、52の文書としてのコーデックス(冊子本)グノーシスが語られていた。驚くべきものだった。 

≪021≫  ナグ・ハマディは4世紀に聖パコミオスが修道院を開いた土地である。近くにエジプト第6王朝のファラオーの墓がある。パコミオスは共住修道制の創始者の一人だ。おそらく複数のグノーシス・グループが危機にさらされたとき、なんらかの理由でこの地に移管されたのだろうと推測された。その成立経緯はまだ確定されていないけれど、ナグ・ハマディ文書は、2年後に発見された死海文書とともに戦後の大きな話題になった。ただしコプト語(2世紀以降のエジプト語)であったこともあって、かんたんには研究が進まない。 

≪022≫  1950年、ユングが関心を寄せて独自の精読にとりくんだ。55年に文書の一部がユング写本として公開された。こうしてグノーシス主義の広がりとその大胆な思想がしだいに見えてきた。秋山さと子さんがグノーシスに関心をもったのは、このためだ。 

≪023≫  さて一方、ナグ・ハマディ文書が発見される20年前のこと、フライブルク大学からマールブルク大学に移った青年ハンス・ヨナス(1903年生まれ)は、博士論文を「グノーシスの概念」にしていた。21歳だ。少し下にハンナ・アーレント(341夜)がいた。ハイデガー(916夜)とルドルフ・ブルトマンが指導と審査に当たった。 

≪024≫  ブルトマンはヨハネ福音書の研究者で、その性質をマンダ教とマニ教との比較から説いてみせていた切れ者だった。ヨナスはそのブルトマンのキリスト教研究とハイデガーの新たな実存哲学の影響を受けてグノーシス研究に向かい、のちに『グノーシスと古代末期の精神』(ぷねうま舎)にまとまるいくつもの論文を少しずつ発表した。さらに本書『グノーシスの宗教』に構成されることになるいくつかの論文を世に問うた。 

≪025≫  やがてヨナスはグノーシスにひそむ「反宇宙性」に着目し、グノーシスがキリスト教の宇宙観とも世界観とも袂を分かちうるのはぜなのか、そこにはたんなる異端の思想があるわけではないだろうと確信し、原始キリスト教の出現にはグノーシスとの葛藤が絡んでいるのではないかと見定めたのである。本書の原型にはそのことが論述されている。 

≪026≫  その渦中で忽然と発見されたのが、ナグ・ハマディ文書なのである。ヨナスは本書の増補版を書き、それとはべつに従来の論文を再構成して大著『グノーシスと古代末期の精神』をまとめた。そこにはユングや秋山さと子さんには見えていなかったパースペクティヴが細部にわたって展開されていた。 

≪027≫  もう少し研究の成果の話を続けておくと、1977年、クルト・ルドルフ(1929年生まれ)が『グノーシス――古代末期の一宗教の本質と歴史』(岩波書店)を著した。 

≪028≫  ルドルフはライプツィヒ大学の神学研究者で、当時はまだティグリス・ユーフラテスの下流域に存続していたマンダ教団を調査研究しつつ、この教団の起源は従来推測されていたメソポタミアではなくて中世ヨーロッパ起源であろうこと、仮に原マンダ教団というものがあったとしたら、それはキリスト教誕生以前のヨルダン河流域の洗礼運動にさかのぼるのでははないかを仮説していた。  

≪029≫  その後、ナグ・ハマディ文書の解読と分析に入り、70年代にそれまでのグノーシス研究の主要論文をまとめた『グノーシスとグノーシス主義』(未訳)を編集構成し、77年にヨナスの見解を汲み上げながらこれを徹底補充する『グノーシス――古代末期の一宗教の本質と歴史』を著した。できれば千夜千冊したいと思う1冊である。 

≪030≫  マンダ教(Manda iya)の内容についてはいまはかんたんな説明にとどめるが、1世紀ころに組み上がってきたグノーシス主義のグループから発展してきただろう教団で、マンダ語(セム系東アラム語)で綴られた教典『ギンザー』、『ヨハネの福音書』、典礼集『コラスター』がいうテキストをもち、洗礼者ヨハネを仰ぐ。マンダとはギリシア語によるグノーシスのことをさす。 

≪031≫  マンダ教の世界観は、神々の呼称こそいろいろ異なっても、随所にグノーシスの特色が色濃く、光の世界に属する下等神プタヒル(=ギリシア神話にいうデミウルゴス、またグノーシスにいうヤルダバオト)が自身を創造主と錯覚して地上と人間を造物したが、そこには実は闇の世界がかかわっていたという考え方が根底にある。そのためアブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドを闇の世界が送り出した偽の予言者とみなし、代わってアベル(カインの弟)、セト(カインとアベルの弟)、エノス(セトの子)、および洗礼者ヨハネにこそ真実が伝えられていると考えた。なかなか把握しがたいと思われるので、これまたいずれ別の千夜千冊でマニ教などともに詳しいことを紹介したい。 

≪032≫  いずれにしてもルドルフによって、グノーシス研究はさらに宗教史上あるいは精神史上の最も重要な仕掛けをもったもののひとつであることがあきらかになってきたのである。 

≪033≫  日本のグノーシス紹介はどうだったのか。聖書学の導入という分野で少しずつ議論されてきた。波多野精一・佐野勝也以来それなりの言及がなされてきたが、本格的にグノーシス主義の研究を広げることになったのは、1971年の荒井献(ささぐ)の『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店)からだ。 

≪034≫  ついでは、1997年に岩波書店が『ナグ・ハマディ文書』全4冊を翻訳刊行したのがやはり大きい。「救済神話」「福音書」「説教・書簡」「黙示録」の4冊だ。翻訳に荒井献・小林稔・大貫隆があたった。この3人は日本のグノーシス研究の最前線をつくっていくのだが、なかでも大貫はヨナスの大著『グノーシスと古代末期の精神』を単独翻訳しただけでなく、さまざまな解説や紹介や知見の先頭を切った。『グノーシス考』(岩波書店)、『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)、『グノーシス――「妬み」の政治学』(岩波書店)などの著書、それに古代から近現代に及ぶグノーシスの転回を展望した共著『グノーシス 陰の精神史』『グノーシス 異端と近代』(岩波書店)などがある。この『陰の精神史』については後日に千夜千冊するつもりだ。  

≪035≫  ちなみに『妬みの政治学』は壮大な旧約聖書の神話体系そのものに隠れた「妬み」を取り出して、そこに目を光らせていたのがグノーシスだという解釈を施したもので、モーセがヤハウェから十戒を授かる場面で「わたしをおいて他に神があってはならない」と宣言したのが、その「妬み」の発動だったという目を洗われる指摘をしていた。 

≪036≫  そのほか『グノーシスと古代宇宙論』(勁草書房)の柴田有、『グノーシス――古代キリスト教の〈異端思想〉』(講談社選書メチエ)の筒井賢治らも輩出しているが、一番の若手では大田俊寛の『グノーシス主義の思想』(春秋社)が「父というフィクション」をめぐった視点によって気を吐いている。 

≪037≫  では話を戻してヨナスの本のことになるが、序文にヨナスの研究動機と問題意識が、ややわかりにくい書き方ではあるが、集約されている。 

≪038≫  第1には、なぜキリスト教はグノーシスを拒絶したのか、そのことをつきとめたかった。パウロが「新約聖書」を束ねようとしているとき、その当初の記述体系の色合い(編集方針)は「ピスティス」(信)と「グノーシス」(知)を併せもつものになるはずだった。けれどもピスティスが選ばれ、グノーシスが敬遠され、最終的に排除された。それはどうしてだったのか。ヨナスはその理由を求めるために細部に分け入っていく。 

≪039≫  第2には、キリスト教もグノーシスもヘレニズムという混淆文化の中で胚胎していったのは、どうしてか。そこを考えたかった。調べていくと、マンダ教もヘルメス主義も、初期キリスト教のヴァレンティノス派もバシレイデス派もマルキオン派も、2~3世紀に蠢動している。 

≪040≫  アレクサンダー大王の大遠征と人工都市アレサンドリアの複数出現によって生まれたヘレニズム文化は、西方(エーゲ海中心のギリシア文化)と東方(エジプトからシンドに及ぶオリエント文化)を融合させた。宇宙観や世界観や神々の名称と性格が対比され、交じりあい、組み合わさった。しかし広大な地域をまたいでの混淆と融合だったので、西から見れば東が、東から見れば西が異邦で、それぞれが異教の国だった。そのため一知半解も多く、折衷ぐあいもまちまちになった。宗教史ではこれらはまとめてシンクレティズム(混淆宗教)とよばれるが、なかには独創的な想像力によって新たな宇宙観と世界観を練り上げたものもあった。ギリシア的な宇宙(コスモス)の考え方をまったく借りない世界観も出現した。それがグノーシスだったのだが、ヨナスはそこに「反宇宙的世界観」が芽生えたと見た。 

≪041≫  第3に、これは『グノーシスと古代末期の精神』の序文のほうが詳しく述べているのだが、ヨナスにはグノーシスを浮上させる研究を進捗させるには、師でもあったハイデガーの実存哲学(存在論)の見方を少し借用し、さらにはシュペングラー(1024夜)が『西欧の没落』の第2巻「アラブ文化の諸問題」で精神史には「擬態」(Pseudomorphose)がおこっていることに注目すべきだという見方を採り入れる必要があると見ていたところがあって、この視点も加えてグノーシスの周辺を精査していきたいという問題意識も、もっていた。 

≪042≫  本書のエピローグは「グノーシス主義、実存主義、ニヒリズム」となる。大約、次のようなことを書いている。容易にはキャッチアップできないかもしれないが、まあ、読んでいただきたい。 

≪043≫  グノーシスは迷宮めいていたが、私(ヨナス)は青年期にハイデガーのもとで得た視点でグノーシス思想を解読できるという確信をもって、研究にとりくんできた。そこにはきっと、エストレインジドされた意識(疎外意識)がもたらした古代ニヒリズムの混淆があるにちがいなく、それゆえしばしば「アグノースト・テオス」(知られざる神)や「隠れたる人間」が想定されたのだろうと思う。 

≪044≫  こうしてヘレニズム期、ギリシア的な宇宙観や世界観や人間観に頼らない思索や想像力がさまざまに作動して、あたかもニーチェ(1023夜)がアポロン的なるものに対してディオニュソス的な野生をもちだしたように、各地で神・世界・人間の三項の関係に変更が加えられたのである。このときグノーシスは驚くべきことに、人間と神とは同じ側に属するとしても、それはともに世界と対立しているのだという見方を主張した。 

≪045≫  これは三項の同属性にもかかわらず、人間と神は世界によって分離されていたということをあらわしていた。そして、このことを了解することが、グノーシス派にとっての「知識」(グノーシス)だったのである。 

≪046≫  ということは、次のことをあらわすとヨナスは書いた。「世界は知識の否定の所産、さらにはその具現である。世界が顕わしているのはある邪悪な力であり、この力は支配し、強制する横暴な権力意志に由来する。理性を欠いたこの意志こそ世界の精神であつて、世界は理解とも愛ともまったくかかわるところがない。宇宙の法則はこの支配の法であって、神的な知恵のそれではない。こうして権力が宇宙の司る様相となり、その内的本質はアグノーシア(無知)にほかならないことになる」。 

≪047≫  グノーシス主義は、いわば古代的なハイデガーの被投性(ゲウォルフェンハイト:Geworfenheit)の中に生まれたのであった。このことが示していることについて、またそのことをグノーシス主義がどのような説明をもってあててきたかということは、次夜以降に千夜千冊したい。 

≪048≫  ところで、ハンス・ヨナスには『責任という原理』(東信堂)、『主観性の復権――心身問題から「責任という原理」へ』(東信堂)という著書もある。前者も翻訳者には「科学技術文明のための倫理学の試み」というサブタイトルが付されているように後期のヨナスは晩年のハイデガーの戦争技術への加担的発言などに疑問を感じ、生命という存在と科学技術の発達論考に向かったのである。『生命の哲学――有機体と自由』(法政大学出版局)という著書もある。 

≪049≫  こうしたヨナスの後期思想は、グノーシス研究のヨナスと結びつけられて語られることがほとんどないが、アメリカ移住後の倫理的な思索に耽り、パレスチナに入植したこともとも関連して、いずれ注目されるものになるだろうと思われる。2018年、大阪大学などで医療と倫理をまたいで活動している戸谷洋志が『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)という目が洗われるヨナス案内をした。このこと、付け加えておきたかった。 

≪01≫  この著者が書いたものはほとんど読む。誰も書かないことを書くからである。専門は建築史と意匠論だが、近代の日本の隠れた流れを単独者として発掘しつづけている。 

≪02≫  執筆力も調査力も旺盛である。『霊柩車の誕生』では誰があのような金ピカの霊柩車をデザインしたのかということを、『ノスタルジックアイドル・二宮金次郎』ではどういう経緯によって日本の学校に薪を背負って本を読む二宮金次郎像がばらまかれたのかということを、『つくられた桂離宮神話』ではほんとうに桂離宮は美しいのかということを、『法隆寺への精神史』ではだれが法隆寺の柱をギリシア伝来のエンタシスだなんてことを言い出したのかということを、それぞれまことに意外な視点であからさまにした。意外な視点とはいっても、かなり資料が駆使されている。 

≪03≫  本書はタイトルだけでは何を書いたかわからないだろうが、大東亜共栄圏に向かっている日本でさかんに建築された日本趣味の建造物にひそむ“意味”を扱ったもので、やはり誰もがあえてほったらかしにしていた主題の発掘だった。 

≪04≫  井上が注目した主題がどこにあるかというと、ナチスがつくりあげた「第三帝国様式」という建築様式がある。クラシック様式からディテールを剥いでその骨格だけを前面に押し出した様式で、ナチス映画を見た者ならおよその見当がつくだろう、あの威圧的な様式である。その第三帝国様式に似て、日本にもファシズムの台頭とともに出現した建築様式がある。これを採りあげた。 

≪05≫  いまなら九段会館(当時の軍人会館)や上野博物館や神奈川県庁舎に見られるような、コンクリート・ビルディングの躯体の上に反りのついた和風の瓦屋根をおいた様式である。あえて比較すれば東京歌舞伎座や、京都南座のような印象に似ているが、そうした劇場建築にくらべて威風堂々としている。躯体はクラシック様式で第三帝国様式のように装飾がない。その装飾のなさを和風の屋根が引き受けている。そういうものである。 

≪06≫  この奇妙な日本趣味ふうの建築様式は、いつ、どのようにできあがっていったのか。そこに井上が注目した。本書ではそれを日本趣味建築と総称しているが、当時はときに「帝冠様式」とか「フロックコートにチョンマゲ様式」などといわれたり、揶揄されたりした様式である。 

≪07≫  井上のくどいほどの調査による結論は、意外なもので、日本趣味建築は日本ファシズムが推進した建築様式ではないのではないかということである。ようするに第三帝国様式とは、似ても似つかないという結論なのだ。 

≪08≫  すなわち、日本趣味建築は大東亜共栄圏による国家宣伝とは縁が薄く、むしろ建築家たちが閉鎖された文脈のなかで考えだした様式なのだろうということだった。とはいえ、当時の日本趣味派の建築家たちが「非常時」の時局に便乗し、かねてからの日本趣味をまぜたというわけでもない。もっと別なところで発芽した。 

≪09≫  ではどこから発芽したのか。ぼくがおもしろかったのは、大正8年(1919)に国会議事堂のデザイン・コンペがあったとき、下田菊太郎が「帝冠併合式」というものを執拗に提唱していて、その提案は実らなかったのだが、どうもこの「帝冠併合式」が昭和中期に入って幽霊のように蘇ってきたのではないかと憶測していることである。これは当時の谷口吉郎の発言にのこっていた。 

≪010≫  ただし、この「帝冠併合式」は正統クラシックに和風の屋根をかけるというもので、その後に出現した日本趣味建築は、クラシックを変形させて和風屋根をかけている。 

≪011≫  こうした「合併式」ではない日本趣味建築の基本方針を推進したのは、伊東忠太、武田五一、内田祥三、佐藤功一、佐野利器たちである。かれらはこぞってナショナリストだとみなされてきた。 

≪012≫ これに対して、モダニズムを推進していたのは岸田日出刀らと、次世代の前川国男、佐藤武夫、吉田鉄郎、蔵田周忠、堀口捨己たちだった。かれらはナショナリズムに対するインターナショナルな抵抗者とみなされた。 

≪013≫  ところが、井上はこの時期の建築家をこのようにふりわける無理を感じている。 

≪014≫  ぼくがこの著者の本をほとんど読むことにしているのは、このように、近代史の襞にかなり詳しく分け入ってから、そこでメビウスの輪を通ったかのように突き返してくる、反転視点のおもしろさなのである。それを造形を媒介にして物語る。本書でも、このあたりからの議論がなかなか読ませてくれる。 

≪015≫  たとえば忠霊塔建築。忠霊塔というのは社団法人大日本忠霊魂顕彰会なるものが推進した競技設計で、昭和14年に始まった。 

≪016≫  伊東忠太、内田祥三、佐藤功一、佐野利器、岸田日出刀が審査員をつとめた。ところが開明派の領袖ともいうべき岸田が若い建築家たちを煽動し、これに前川国男、佐藤武夫、吉田鉄郎、蔵田周忠、堀口捨己たちがコンペ参加した。その経緯を井上は追いかける。そうすると、勤王佐幕の振り分けではないけれど、近代社会において誰が愛国ナショナリストで、誰が国際開明派だなんてことは、たちまち捩れた模様になってしまうのだ。 

≪017≫  また、たとえば大東亜建設記念造営計画。昭和17年に佐野利器が委員長となって準備したもので、この計画にもとづいてコンペをすることになった。このとき情報局の第1等賞に選ばれたのは丹下健三の案で、富士の裾野に巨大神社ふう巨大埴輪ふうの建築をおいたものだった。ところが、この丹下案が戦後になって日本ファシズムへの加担だとさんざん非難されることになる。丹下がまだ若々しい東大の大学院生だったときの案である。 

≪018≫  しかし、この計画のイニシアティブをとったのは、井上によると岸田日出刀・前川国男・佐藤武夫らのモダニズム派のほうだった。加えて、丹下のその後は前川国男と坂倉準三を通して、新たな日本モダニズムともいうべきをめざす。どうも戦後の“知識人”たちが丹下を非難する理由がまとまってない。 

≪019≫  よく知られているように、モダニズムの旗手であった前川国男はその後にしだいに「日本的なるもの」を採り入れる。 

≪020≫  パリから帰って万国博日本館を引き受けた坂倉準三も、日本館ではモダンなデザインを通してグランプリを得るのだが、その後はしだいに「日本的なるもの」を認める。日本の建築史は、これらのジャパネスクな動向を、いったいどのように受けとめていいか、まだ態度が決まっていない。井上章一も決めてはいない。ただ井上は、従来の見方の大半がまちがっていたことだけをひたすら指摘する。 

≪021≫  したがって、本書は日本近代意匠思想史の続きものを読んでいるように、話は途中で終わっている。そして、それにしては言いたいことの大半を暗示した。 

≪022≫  このため、本書を読んだ多くの建築関係者がいろいろ不満を感じたようだ。実際にも、本書が出たあとに西山夘三や布野修司からきつい叱正がとんだらしい。「おまえの議論は露骨なイデオロギーばかりを浮上させている」というものだったと井上はかれらの非難の言葉を書いている。「井上章一は伝統主義をいまごろふりまいている」と思われてしまったのである。 

≪023≫  本書を読めば、そんなことを書いていないことはすぐわかる。「当時の建築は国体明徴運動にはまったく関係がない」という井上の指摘は、だからといって建築にナショナリズムが孕まれていることを否定しているわけでもないし、また、そのナショナリズムを称揚しているわけでもないことは、あきらかなのである。 

≪024≫  それでも、本書のような著書がおもしろく読まれていないのは、きっと日本の建築の近代も、いまだ「夜明け前」にいるということなのだろう。 

≪01≫ コンピュータとアルゴリズム。 この二つは必ずしも熱い蜜月関係にあるわけではない。
アルゴリズムのほうが、ずっと広く、ずっと柔軟だ。
しかし、そのアルゴリズムにもトートロジーという悪魔がひそんでいた。
この悪魔を克服するために、近代アルゴリズムが論理的に確立していった。
今日のコンピュータ屋さんがお世話になっているのは、こちらのアルゴリズムである。
が、その背景の意味はほとんど忘られている。
アルゴリズムから「概念」と「意味」を取り戻したほうがいい。 

≪02≫  意欲作である。おおげさな邦題になっている。内容構成も変わっている。むろんアルゴリズム(algorithm)の本質を解剖しようという野心自体がそうとうに大胆なものなのだが、それをべつにしても、かなり風変わりだ。 

≪03≫  ライプニッツ(994夜)からゲーデル(1058夜)やチューリングにおよぶ数学の冒険を解説しているところもあれば、つねに人間の解明の努力をからかっているところもある。数式や論理記号が入っているかとおもえば、短い物語のようなフィクションがしょっちゅう挿入されていて、おまけに厳密な議論のあいだにあえて曖昧な議論や言葉やイメージを差し挟んでいる。得体のしれない記号も出てくる。 

≪04≫  さらにチャプタータイトルのすべてを「宝石商のビロード」「スキームの市場」「理性の孔雀」「ラプソディ・イン・ナンバーズ」「多くの神々の世界」といった文学的な装飾で括っている。ふつうアルゴリズムについての本だというなら、コンピュータ・プログラマーのためのアルゴリズムとデータ構造の関係を解説するのが、いまの流行だろうに、これではきっと面食らう。 

≪05≫  訳者も戸惑ったらしく、あとがきでは「これは奇書だ」「どうしてこんな構成をおもいついたのか不思議だ」と告白している。翻訳ではわからないが、独立分詞構文が山ほど出てくるらしい。それにしてはよくぞ翻訳できたものとおもう。 

≪06≫  たしかにおかしな本だ。どこか風狂じみたところもある。数理的風狂だ。文意がとれないところもある。f(x)なのだ。それなのに、全体としてアルゴリズムの真意や背景についての肝心な要訣をみごとに突いている。ときおり挟まれる“数学ビリヤード”ではとびぬけた名人芸を見せている。 

≪07≫  だいたい著者の経歴からして変わっている。最初はコロンビア大学で中世史を学んでいた。つまり歴史の専門だったのだ。そのあとプリンストン大学で分析哲学と論理学の博士号を取得し、スタンフォード大学とラトガース大学では哲学や論理学を、パリ大学では数学教授になっていながら、なんとすっぱりと大学教授を捨てて、アメリカに戻って著述に専念してしまった。すでに微積分についての大著を書いたらしいが、ぼくはまだ見ていない。 

≪08≫  ところで、本書によってアルゴリズムとは何かということを見抜いてもらう前に、デジタル・コンピュータとアルゴリズムの関係を、恋人のような蜜月関係だと信じこんでいる諸君に、あらかじめ釘を刺しておきたいことがある。 

≪09≫  デジタル・コンピュータはあくまで機械であって、その他のあらゆる物的システムと同様に、熱力学の冷たい法則がもたらす結果に縛られている。時間が尽きれば、活力も尽きるのだ。ところがアルゴリズムはそういうものではない。アルゴリズムはサインとシンボルによって形成される抽象的な調整と編集のシステムなのだから、思考そのものと同じく、「時間をこえた世界」に属している。また「意味を内包した世界」に属している。 

≪010≫  まず、このことに釘を刺しておきたい。だからこそ、アルゴリズムはコンピュータが出現するずっと以前から、世の中に波及してきたわけなのだ。ということは、コンピュータがいまやっていることの大半は、人間が有史以来やってきたことであって、その何分の一かを、人間はなぜかごそごそ取り出して、アルゴリズミックに組み立ててきたわけなのだ。それがピタゴラスからフワリズミーまでの数術、算術、数学だ。いや、アルゴリズムは数学ばかりとはかぎらない。サインとシンボルを巧みに組み合わせているなら、それがアルゴリズムなのだ。 

≪011≫  たとえば、そのひとつが官僚機構というものだ。古代中国がそのチャンピオンであったけれど、今日におよぶ官僚機構ほど複雑なアルゴリズムを社会化できた例はめずらしい。 

≪012≫  もっと複雑に、そして格段に高級に、アルゴリズムを遂行しているのは、なんといっても生きた細胞たちであり、生命そのものである。なぜなら、アルゴリズムは一組の規則であり、規定であり、行動規範であり、指針であり、結びつけられた制御なのだ。そして、この生体をくまなく組み立てているアルゴリズムは、生体カオスが繰り出す言葉の群にすらなっている。 

≪018≫  さて、「世界を変えたのは微積分とアルゴリズムだ」というのが本書の大前提である。微積分はともかくとして、ではアルゴリズムとはそもそも何なのか。 

≪019≫  いまではすっかりジョーシキになったろうが、アルゴリズムの一番かんたんな定義は、「有限のステップによって有効な目的を完了させるまでのすべての手続き」ということである。少しいいかえれば、「与えられた問題を型にあてはまるような一連の演算に組み立てて、それを実行順に進行させる手続き」と言ってもいい。だからこそ、生命組織や官僚組織はそのようなステップをふんだんに組み合わせて、活動できるようにしたわけだ。 

≪020≫  このステップは、それをどんな記号や言語によって書き綴るのかということによって、その性能が大きく変わってくる。生体組織ではそれがDNAやRNAや生体酵素などになっていて、官僚組織ではそれが命令と応接と実行になっている。  

≪021≫  しかしこれを機械言語というものに、すべて移行させることもできたわけだった。これがいわゆるプログラミング言語というものだ。いまはC言語という機械言語をつかっていることが多い。 

≪022≫  というわけで現在では、アルゴリズムというとこのプログラミング言語を駆使することだとすっかり思われている。いまこの瞬間も世界中のパソコンの前で、この有限のステップの書きこみばかりをやっているプログラマーが、1000万人とか2000万人のオーダーでいるのだろう。かれらは毎日毎時毎分毎秒を、機械言語のステップづくりと睨めっこばかりする。そこではおおむね「アルゴリズム=プログラム」というふうになっている。 

≪023≫  つまり、アルゴリズムというのはプログラムのことだということになってしまったのだ。もう少し詳しく言っても、「プログラム=アルゴリズム+データ構造」というあたりだろう。データ構造というのは、効率よく操作を進めるためにデータ(要素)をどのような表現形式にしておくかということをさす。データをシークエンス(列)ごとにリスト化し、ツリー構造などをつくりつつ、これをポインタで自在に動かしていけるようにする。それがデータ構造だ。  

≪024≫  では、そういうことをしていて、さて自分が何をやっているのかということを原理的に説明できるプログラマーがどのくらいいるかというと、おそらくはめったにいない。少なくともぼくが知り合ってきたプログラマーは、アルゴリズムの背景には無頓着だった。アルゴリズムの哲学なんてめんどうくさいのだ。 

≪025≫  むろん、自転車を組み立てられなくとも山を疾駆することはできるし、薬剤を配合できなくたって難病は治せるのだから、まして飛行機を組み立てられない名パイロットはいくらでもいるのだから、それでもいっこうにいいのだけれど、しかし、そのアルゴリズムが確立されるまでざっと300年がかかったということは、なんとなく感じたい。 

≪026≫  アルゴリズムの歴史の最初の最初は、アリストテレス(291夜)までさかのぼる。「すべて」と「ある」のあいだに「論理というアルゴリズム」を入れたのが、アリストテレスだった。しかし本格的な準備は、17世紀のライプニッツ(994夜)から始まった。これでアルゴリズムが、定言的な三段論法が代数によって活性化されたのだ。 

≪027≫  やや正確にいうのなら、「推論」と「判断」のあいだを「代数というアルゴリズム」で埋め立てたのが、ライプニッツだったのである。詳しいことは、ローギッシュ・マシーネの発想を解説しておいた994夜を読んでもらいたい。 

≪020≫  このステップは、それをどんな記号や言語によって書き綴るのかということによって、その性能が大きく変わってくる。生体組織ではそれがDNAやRNAや生体酵素などになっていて、官僚組織ではそれが命令と応接と実行になっている。  

≪021≫  しかしこれを機械言語というものに、すべて移行させることもできたわけだった。これがいわゆるプログラミング言語というものだ。いまはC言語という機械言語をつかっていることが多い。 

≪028≫  時代をはしょっていえば、次にアルゴリズムの歴史に飛び出したのは、19世紀末のジョゼッペ・ぺアノだった。ペアノはぼくが工作舎のスタッフだった十川治江(いまは社長さん)に促されていっとき夢中になった数学者で、無限個の数を有限個の記号におきかえる“発明”をした。ペアノがライプニッツ以来の「普遍言語」についてもいろいろのアイディアをもっていたらしいことは、ペアノのアルゴリズムへの貢献以上に興味深いけれど、それは省くとして、次に登場するのはゴットロープ・フレーゲである。 

≪029≫  フレーゲは学級生活のほとんどすべてをイエナ大学ですごした数学者だが、何をしたかというと、一言でいえば「形の計算」をした。これはアルゴリズムの近現代歴史の"マザー"になった。アーキタイプになった。 

≪030≫  公理系では、数学者が仮定すること(すなわち公理)と、数学者が導き出せること(すなわち定理)とのあいだに、一種の共鳴関係を確立させている。そのため、計算をする者はどんな計算のステップもなんら踏み外さないようになっているだろうとタカをくくって、計算をしつづける。 

≪031≫  ところが、ここにはとんでもない悪魔がひそんでいた。「トートロジー」(同義反復)という悪魔だ。これは命題計算といって、命題ばかりを計算しようとすると、いつのまにか出てくる悪魔だった。 

≪032≫  トートロジーというのは、概念の反復や再生が思考の途中に絡まってくるために、本来の思考や計算がおかしくなってくることをいう。計算とは、その最初から終結までに矛盾がないとされているからこそ計算なのであるが、そしてその計算によって真理が証明されるということになっているのだが、トートロジーという悪魔はそれをおかしくさせる。計算の土台がおかしくなってくる。おかしいと言わないなら、何も意味を導き出せないことをいう。 

≪033≫  そこでフレーゲは、この命題を成立させている概念そのものを計算できるようにしたらどうかということを思いついた。概念が計算できるなら、そこには意味がくっついてくる。そしてその表記法を考えだした。これを「概念表記法」という。 

≪030≫  公理系では、数学者が仮定すること(すなわち公理)と、数学者が導き出せること(すなわち定理)とのあいだに、一種の共鳴関係を確立させている。そのため、計算をする者はどんな計算のステップもなんら踏み外さないようになっているだろうとタカをくくって、計算をしつづける。 

≪031≫  ところが、ここにはとんでもない悪魔がひそんでいた。「トートロジー」(同義反復)という悪魔だ。これは命題計算といって、命題ばかりを計算しようとすると、いつのまにか出てくる悪魔だった。 

≪032≫  トートロジーというのは、概念の反復や再生が思考の途中に絡まってくるために、本来の思考や計算がおかしくなってくることをいう。計算とは、その最初から終結までに矛盾がないとされているからこそ計算なのであるが、そしてその計算によって真理が証明されるということになっているのだが、トートロジーという悪魔はそれをおかしくさせる。計算の土台がおかしくなってくる。おかしいと言わないなら、何も意味を導き出せないことをいう。 

≪033≫  そこでフレーゲは、この命題を成立させている概念そのものを計算できるようにしたらどうかということを思いついた。概念が計算できるなら、そこには意味がくっついてくる。そしてその表記法を考えだした。これを「概念表記法」という。 

≪034≫  われわれは日々、「そんなこと関係ない」「金髪に染めたね」「君が大好きだ」「人生は暗い運命をともなっている」といった思考を、臆面もなく言明しつづけている。にもかかわらず、この言明はまことに短命で、しかもほとんど実証されたことがない。 

≪035≫  実はこれらは、「そんなこと」「金髪」「君」「人生」のほうの主語的命題では、何も説明していないのだ。説明(言述)をうけもっているのは、「関係ない」「染めた」「大好きだ」「運命をともなう」の述語のほうなのである。フレーゲはそこに注目して、概念を計算するには主語にあたる概念を、述語のほうが受け持って計算してしまえばいいと思いつく。そのため述語に述語記号を与えて、そこから「述語計算」という方法を編みだした。 

≪036≫  たとえば「金髪に染めた」という言明では、主語的命題は「誰もが金髪に染めた」の「誰もが」にあって、そこから「それをやったのは君なのだ」という述語が、この主語を包摂しているというふうにした。実はアルゴリズムにとっては、彼女が金髪になったのか、ビビンバを食べたのか、彼を好きになったのか、本当は好きでもないのかなんてことは、どうでもいいのだ。アルゴリズムはそれを述語部分が引き取って、金髪やビビンバにあてはめておけばいい。彼女は任意の主語なのだ。 

≪037≫  こうしてフレーゲは「述語論理」というまことに創造的な行為を、アルゴリズムの中に封入することをなしとげた。かくて、アリストテレスの「すべて」と「ある」は、いまではそれぞれ「全称量子化」(∀)と「存在量子化」(∃)というふうに呼ばれているのだが、すっかり記号化されることになったのである。主語の論理に依存したトートロジーの悪魔は、これでひとまず回避されたのだ。 

≪038≫  ここから先の話は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」について説明した1058夜を参照してもらいたい。現代アルゴリズムの歴史は、ヒルベルト(133夜)、ゲーデルをへて、実は第二の悪魔に出会うことになる。 

≪039≫  これは「不完全性」という悪魔だったけれど、数学者と論理学者たちは、この第二の悪魔を回避して超数学を駆使する方法に邁進することにした。その後、ラッセル、ホワイトヘッド(995夜)をへて、アルフレッド・タルスキー、アロンゾ・チャーチなどの思索と実験をジグザクと動きながら、現代アルゴリズムの模索はついに「チューリング・マシン」に行き着いたのである(本書はテューリングと表記しているが、ここでは伝統に従ってチューリングとする)。これはアルゴリズムがコンピュータに化けていく瞬間をとらえた。 

≪040≫  アラン・チューリングが考えた「仮想上の機械=M」というアイディアは、まことにもって傑作だった。こういう発想を天才的といっていいのだろうが、すこぶるめざましい。世界発想史上の1、2位だか5、6位だかを争うものといってよい。 

≪041≫  枡目によって区切られた無限に長いテープがあって、その枡目には記号が1個書きこめるようになっている。このテープは原則的にはいくら長くてもかまわない。したがって桝目もいくつでも用意できる。ということは、チューリング・マシンは無限大の記憶量があるということになる。 

≪042≫  この桝目に記号を書きこむのだが(また消去するのだが)、記号は0と1の2種類しかない。桝目は1桝ずつ右に動くか、左に動くかしかしない(または動かない)。これを読み取りヘッドがチェックする。ヘッドには3つの機能がある。移動能力、安定した走査能力、そして編集能力だ。3つ目の編集能力というのは、ぼくが勝手に名付けたものではない。本書の著者は「編集者の欲求」という言葉をつかって、「ヘッドが目に入るものを書きなおしてよくしたいとする機能」というふうに説明している。なかなかうまい説明だ。まさに編集能力だ。 

≪043≫  以上が、チューリング・マシンのすべてである。無限のテープ、一組の記号、3つの機能をもつ読み取りヘッド、そして次々にあらわれる一組の状態。これだけだ。あとはこれを無限にくりかえす。このチューリング・マシンのしていくひとつ一つの仕事を、ルーチン(ルーティーン)と言った。 

≪044≫  これは、今日のデジタル・コンピュータの完全なる母型である。もっと正確にいえば、ここにコンピュータの概念モデルがあるということだ。そうなのである。チューリング・マシンは、したがってデジタル・コンピュータの母型は、概念計算を自動的に進行させる最初のアルゴリズミック・システムだったのである。 

≪045≫  ちなみに、ちょっと余談を付け加えておくが、これほどの天才を軍部がほっとくはずはなく、イギリス軍はナチス・ドイツが考案した「エニグマ」という暗号情報システムの解読のために、チューリングを情報部(諜報部)に雇い、日夜その作業にあたらせた。 

≪046≫  チューリングがみごとに「エニグマ」を解読したことはいうまでもない。チャーチルはチューリングが暗号を解読したことをドイツにさとらせないために、コヴェントリーが襲撃されることを知りながら、わざわざ爆撃をさせておいたほどなのだ。 

≪047≫  では、その後のチューリングはどうなったのか。これについてはいずれゆっくり書きたいと思っているのだが、チューリングは「形態形成」についての驚くべき先取りをみせた論文に熱中し、さらに人工知能についての史上最初の視点を提案した。後者が有名な「チューリング・テスト」というもので、コンピュータが知能があるとされるには、コンピュータが人間と自由に会話をして、それを人間が自分以外の人間と会話していると感じられるかどうかにかかるというものだ。 

≪048≫  むろん、このチューリング・テストをクリアできたコンピュータもソフトウェアも、いまのところ皆無である。そういう意味では、チューリングこそが今日におよぶすべてのコンピュータの将来を見通していたということになる。 

≪049≫  こうしてチューリングはただ一人で前人未踏を歩きつづけたのだが、実は人生を歩む一人としては、当時の世間を驚かすようなことをして、一人でシアン化合物をリンゴに入れて、あたかも20世紀のソクラテスのように死んでいったのである。その世間を驚かせたことというのは、チューリングは自分がホモセクシャルであるということを、社会に対して敢然と告白したということだ。 

≪050≫  が、世間はひどく冷淡で、チューリングはバカバカしくなって、20世紀のソクラテスになってみせたのである。 

≪051≫  チューリング・マシンののち、エミール・ポストが読み取りヘッドの代わりに、そこに人間をおくことを思いついた。枡目に印をつけるのは人間、右の枡目に移るのを決めるのも人間、自分がどこにいるかを判断するのも人間、そういうシステムだ。 

≪052≫  これは、いまではポスト・マシンといわれているもので、アルゴリズムの進行を機械と人間との分有にしたことにおいて、その後のコンピュータとプログラマーの分離を思わせる。 

≪053≫  本書はこのあと、フォン・ノイマンがいわゆるノイマン型コンピュータをどのように設計したかという、誰もが知っている話をしたのち、システムとエントロピーの関係という難問に入っていき、読者をおおいに煙にまく。ただし、ここはかなり難しい。いずれボルツマンを千夜千冊したときか何かのとき、言及したい。 

≪054≫  ついで、本書は第13章「精神の産物」に進んで、以下、14章「多くの神々の世界」、最終章「クロス・オブ・ワーズ」で神秘的な結末を迎えるというふうになる。著者の独壇場とも、また、今日のプログラマーやコンピュータ屋たちがいつも敬遠しているか、怖気づいているところなので、少し紹介しておきたい。 

≪055≫  世界がどのように見えるかなどということは、考え方しだいである。というよりも、「そういう見方を入れた世界」がいくらでもあるということなのだ。 

≪056≫  ところが、狭い定義での科学や物理では、また数学では、また数理科学やコンピュータの世界では、いつも「もの」だけで構成したいとか、それは全部「データ」になるんですねとか、「工学」化できるものとできないものがあるんですよとか、その程度の迷いで、とても大事なものを逃してしまうことがしばしばなのである。 

≪057≫  しかし、クロード・シャノンに戻って考えてみればわかるように、アルゴリズムの世界を通信上に自立させたということは、そもそも科学的な世界像とはいささか別の世界像を、アルゴリズムによって組み立て、これを交わしあう可能性があるということだったのである。それがつまりは「情報」ということだったはずなのだ。 

≪058≫  そして、この「情報」という概念は「記号」に代わりうる概念であるはずだったのである(ここで、「情報」が「エントロピー」の逆数であらわせるということを思い出せば、本書がこの前の章でエントロピーに入っていった理由も見当がつくだろう)。 

≪059≫  ということは、もっと決定的なことをいえば、コンピュータとアルゴリズムの結婚は、「意味の交信」を可能にしたネットワークの上に創発したものだと見たほうがいいということだ。さらにもっと決定的なことをいえば、そのようにしてできてしまったコンピュータ・ネットワーク世界というものは、かつて人類が「言葉」をつくって「意味」を管理し編集してきたこととまったく同じ創発性によって、いまや「情報」によって「意味」を編集しつづけているというべきなのだ。 

≪060≫  しかし、しかしながら、認知科学やコンピュータ工学は、このときに「意味」というものが何であるかを、ついつい忘れてしまうのだ。 

≪061≫  ニューラルネットの例で説明してみると、これは実際の脳でおこっているニューラルネットワーク(神経網)のどこかに、電子仕掛けのニューラルネットというものがあると想定して成立させたシステム(アルゴリズム)である。したがって、この電子仕掛けのアルゴリズムはデジタル・コンピュータの中でも“生きている”と想定することができる。 

≪062≫  ニューラルネットは、一連のノード(節)あるいは単純なプロセッサーでできている。各プロセッサーの状態は、他のノードあるいはプロセッサーから受け取る刺激だけで決定される。ノードどうしを結ぶパス(道筋)には、ウェイトが割り振ってあって、それによって刺激信号は強まったり弱まったりすると考える。 

≪063≫  これで、ノードのネットワークができて、そこにシステムのメモリーが複合的に対応するというふうに解釈することが許される。こうしておいて、ここにさまざまな「エラー」がおこると、その「情報」がシステムにフィードバックされて、それらを調整するというふうに進めることができる。ふつう、これをコンピュータの学習性という。これが、今日のパターン認識・筆跡認識・音声合成・文法分析を成立させているしくみの基本になってきた。 

≪064≫  これで、ノードのネットワークができて、そこにシステムのメモリーが複合的に対応するというふうに解釈することが許される。こうしておいて、ここにさまざまな「エラー」がおこると、その「情報」がシステムにフィードバックされて、それらを調整するというふうに進めることができる。ふつう、これをコンピュータの学習性という。これが、今日のパターン認識・筆跡認識・音声合成・文法分析を成立させているしくみの基本になってきた。 

≪065≫  問題はここからだ。ニューラルネットが“意図”のようなものを進捗させていることまでは、おおかたが理解する。たとえば犯人の写真と一般の写真をランダムにニューラルネットに学習させていくと、そこから犯人の特徴らしさというものが出てくる。そういう“意図”によって情報が組み合わさったのだ。それなら、これはシステムがアルゴリズミックにつくりだした「意味」なのかというと、ここから、みんな自信がもてなくなっていく。ここでフレーゲやチューリングに舞い戻る勇気のある者は、ぐんと少なくなる。 

≪066≫  本書の著者が、このような問題に明快な説明を与えているとは、期待しないほうがいい。最初に言っておいたように、この著者はたいそう暗示的であり、変わっていて、そのような書きっぷりと方法によってしか、本書を書いてはいない。 

≪067≫  だから、この先の話は、ぼくとしては別の本を千夜千冊して続行しなければならないのだが、それでも今夜のところでも、多少のヒントを書いておくことはできる。 

≪068≫  3つ、ある。 第1に、いま、最高の機能と最大の容量と最速の演算能力をもったコンピュータの可能性がどうなっているのかというと、そいつは、適当なパソコンをうまくつないだシステムと、その“意図”においてはほぼ同じような様相を呈しているということだ。 

≪069≫  第2に、ただしかしながら、それらに見えてくるのは、あるいは浮き上がりつつあるのは、記号とアルゴリズムと情報という3つの別々の歴史をもった“意図”がかなり交じりあったものだということだ。 

≪070≫  猛烈な計算装置を駆使しているうちに、それをアルゴリズムというのか情報というのか、それとも記号の離合集散にすぎないというのか、もはや区別がつかないような“意図”の表象を見せているということである。 

≪071≫  第3に、これを「意味」とよぶには、まだまだ時間がかかるだろうが、「意味」に向かっているものでないとも言えないものでもあろうということだ。 

≪072≫  つまり、アルゴリズムの歴史は、そうとうに高度になったITコンピュータ・ネットワークの中で、しだいに「意味のアルゴリズム」への変身をとげているかもしれない、ということだ。これは、おもしろい。ただし、まだ誰もそこには踏みこんではいない。それゆえこれを、さらに明快な展望にしたいというのなら、ここから先はアルゴリズムという概念にも、いっさいこだわらないほうがいいだろう。そして、アルゴリズムを生んだ背景に、コンピュータ屋もコネクショニストも心を致し、かつてアリストテレスが「すべて」と「ある」のあいだに論理をおいてみたように、「ある」のコンピュータと、「すべて」の人間性との“あいだ”に、もう一度、意味の編集世界を投じてみることである。 

≪073≫  これ以上のヒントは、別の夜に書こう。が、きっとその前に「量子コンピュータ」とは何かとか「非ノイマン型コンピュータ」とは何かといったことについて、ちょっと寄り道することになる。 では、バイナリー! いや、バイバイ。 

≪01≫  この手の本が最近15年ほどふえているのだが、なかで骨を感じたのは2、3冊しかない。 この手の本というのは、童話や昔話、とくにグリム童話の機能を扱って、その“本当の狙い”を暴くといった趣向のもので、多くは「ナラトロジー(物語学)」にさえなっていないし、神話分析を下敷きにしたというほどでもなく、どこか文芸屋たちの“脅し”のように終わっていた。グリム童話は本当は残酷なんですよという見え透いた脅しである。 

≪02≫  が、なかにはロバート・ダーントンの『猫の大虐殺』(岩波書店)やアラン・ダンダスの『赤ずきんの秘密』(紀伊国屋書店)などの、メルヒェンの本質や都市民俗学への介入やナラトロジーの底辺に降りるものもあって(ようするに昔話の編集過程の本質を指摘するものもあって)、本書はそういう読みごたえがあるほうの1冊。 

≪03≫  著者のザイプスはいまはミネソタ大学にいるドイツ文学や比較文学の専門家で、すでに『グリム兄弟』(筑摩書房)、『赤頭巾ちゃんは森を抜けて』(阿吽社)などが邦訳されている。最近は本書にも反映されているように、ストーリーテリングやジェンダーの研究に没入しているようである。 

≪04≫  かつてロラン・バルトは、「神話というものは、文化の産物には見えないような様相を呈して社会がつくりあげた集合的な表象のことだ」と書いたものだった。 

≪05≫ この「見えないような様相」ということが、本当は「見えない」からこそ重要な継承をすべきなのだが、今日の社会では事態は逆になってしまっていて、「見えない」ものはダメなもの、わかりにくいものとして一掃されるか、いかがわしいものだと決めつけて、どうも文化としては継承されないようになってしまった。 

≪06≫  その代わり、なにもかもが見えていさえすれば、ディズニーのシンデレラも白雪姫もハリー・ポッターも、ユニバーサル・スタジオさえもが同じ“癒し効果”をもつに至っている。しかもそれが新たな神話化の現代的な兆候だという。まったくもって馬鹿馬鹿しい。少なくともハリー・ポッターなど、子供に見せないほうがいいに決まっている。魔法を誰もが使えるなんてことを、子供に見せてどうするか。 

≪07≫  こんなことが新たな神話化なのだろうかというのが、著者の問題意識である。 

≪08≫  著者は古典的なおとぎ話の多くが“アメリカ化”したことを分析し、どうもその責任を感じているようなふしがある。結構なことである。遅すぎるほどだ。 

≪09≫  大阪はユニバーサル・スタジオでダメになっているのだし、東京文化はディズニーランドでとっくにダメになっている。ロスアンゼルス郊外にディズニーランドができた1955年、日本では船橋ヘルスセンターがオープンしたものだった。なんとも温泉家族的で、ごった煮のような施設だった。 

≪010≫  しかしぼくはこちらこそがその後の日本にも継続的に愛されるべきだとおもって、『情報の歴史』(NTT出版)にはこの二つの施設のオープンの事項をタテのヘッドラインに並列併記したのだが、その後、常磐ハワイアンセンターとともにしだいに凋落していった船橋ヘルスセンターは「ララポート」というくだらない名前になって、さらにぼくが愛していた豊島園や二子多摩川園も没落し、結局はディズニーランドばかりが集客を伸ばしつづけて今日に至ってしまった。 

≪011≫  こんなことなら、みんなミッキーマウスになっちまえばいい(ぼくはミッキーマウスが大嫌いなのだ)。 

≪012≫  てな話ばかりでは、気分が過激になりそうなので矛先を元に戻すが、そこで本書は、昔話の現代化に関する再検討に着手したわけである。この事態に異議申し立てをしたわけだ。あまりにもすべてが「ディズニーの呪文」にかかってしまったのではないか、それでいいのかというふうに。 

≪013≫  ところで、「ディズニーの呪文」に文句をつける前に、われわれが知っておくべきことがある。それはシャルル・ペローやグリム兄弟によって近代文芸化された童話には「消毒」はなかったのかということだ。 

≪014≫  結論からいえば、ペローやグリムも昔話をかなり「消毒」していた。その理由は簡単である。それ以前の昔話は子供向けとはかぎらなかったわけで、17世紀の文芸化されたお伽噺でさえ、オーノワ夫人の『おとぎ話』であれ、ラ・フォルズの『物語の物語』であれ、シュバリエ・ド・メリの『挿絵入りおとぎ話』であれ、どれも子供向けにはなっていなかった。17世紀まではヨーロッパの子供たちは両親がそうであったように、家庭教師や召使いや仲間から口承の昔話をじかに聞いたのだ。 

≪015≫  そこをあえて子供向けにしたところがペローやグリムの功績なのである。当然にそのぶんの「消毒」をした。しかしこの消毒は物語を子供向けにするかぎりの編集であって、それをさらに解毒させるというものではなかったのである。 

≪013≫  ところで、「ディズニーの呪文」に文句をつける前に、われわれが知っておくべきことがある。それはシャルル・ペローやグリム兄弟によって近代文芸化された童話には「消毒」はなかったのかということだ。 

≪014≫  結論からいえば、ペローやグリムも昔話をかなり「消毒」していた。その理由は簡単である。それ以前の昔話は子供向けとはかぎらなかったわけで、17世紀の文芸化されたお伽噺でさえ、オーノワ夫人の『おとぎ話』であれ、ラ・フォルズの『物語の物語』であれ、シュバリエ・ド・メリの『挿絵入りおとぎ話』であれ、どれも子供向けにはなっていなかった。17世紀まではヨーロッパの子供たちは両親がそうであったように、家庭教師や召使いや仲間から口承の昔話をじかに聞いたのだ。 

≪015≫  そこをあえて子供向けにしたところがペローやグリムの功績なのである。当然にそのぶんの「消毒」をした。しかしこの消毒は物語を子供向けにするかぎりの編集であって、それをさらに解毒させるというものではなかったのである。 

≪016≫  それがディズニーでは子供向けのグリムやアンデルセンをさらに消毒し、解毒した。そこが違っていた。 

≪017≫  で、「ディズニーの呪文」であるが、ザイプスによると従来の昔話はヨーロッパ中心に発生し、近代化を迎え、そのヴァージョンをふやしていったのだが(アジアでも南米でも昔話は育っていることは無視されている)、それらが「神話化」していったのはアメリカであったということらしい。 

≪018≫  これは頷けるものがある。たしかにアメリカはネイティブ・アメリカンの昔話をもっていながら、それらは長らく放置され、もっぱらハリウッドや出版業界によってヨーロッパ型の昔話を下敷きにしたアメリカン・ドリームへの転換が精力的におこなわれてきた。その結果どうなったかというと、子供たちはディズニーの『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』しか知らなくなってしまったのだった。 

≪019≫  これをジョルジュ・メリエスがつくった『シンデレラ』『青髯』『赤頭巾』とくらべると、ルイス・ジェイコブスも指摘していたように、メリエスが既存のおとぎ話に“動く挿絵”をつけたにすぎないのに対して、ウォルト・ディズニーは持ち前の正義感と右よりの思想とアメリカン・ドリーム主義をもって、まったく別の物語をつくってしまったのだった。 

≪020≫  たとえば『長靴をはいた猫』である。 

≪021≫  1697年に書かれたペローの童話では、抜け目のない猫が命をおびやかされ、生き延びるために知恵をしぼって王様と鬼をだますという筋書になっているのだが、ディズニーの初期アニメ映画では、主人公は王の娘に恋する若者であって、それと平行してメスの黒猫が王様のお抱え運転手の白猫に恋をするというふうになっている。 

≪022≫  猫が長靴を入手するところはそのままなのだが、ディズニーの情熱的主題はどんな犠牲を払っても成功しようとしている若者に注がれた。 

≪023≫  ディズニーの改変が「ゆゆしいもの」に向かっているなら、事態はそれほど問題ではない。そうではなくて、ディズニー童話のほうが明確な目的をもち、大きな勇気を払い、決定的な成就に至るというふうになっているから問題なのである。つまり「ディズニーの呪文」とは、苦難を乗り越えて成功するというアメリカのための神話に結びつきすぎているところにあるわけなのだ。 

≪024≫  もともとおとぎ話というものは、見捨てられた者がふと抱いた想像力を、別の者が搾取したり捏造しようとする苛酷に対して、想像力がこれを越えてしまうというところに本来の作用があった。 

≪025≫  中世、魔術や魔法や錬金術は“常識”だった。それが近代になって科学や合理や平等の理念が登場すると、こうした魔法的な作用は放置されていくことになる。ペローやグリムが試みたことは、この中世的な魔法を近代化された社会のなかでいかに辻褄をあわせて復活させるかということだったのである。 

≪026≫  ディズニー・アニメがこうしたことをまったく試みていないわけではない。しかし、筋書の多くがアメリカン・ドリームとあまりにも合致しすぎているため、そこからペローやグリムの狙いを読み取ることはほとんど不可能になっている。 

≪01≫  何の分野であれ、その核心に接するにあたってどの一冊によってそこへ入っていったかということがその後の事情を左右する。その一冊でその分野に対するスタンスが長期にわたって自分の心のなかに予告されつづけるということがあるからだ。 

≪02≫  服の印象のようなもの、店の印象のようなものに似ていなくもない。最初に気にいって買った洋服はそれがスーツやドレスでなくたって、いつまでたっても基準服なのだ。店というものも、「ちょっといい店があるんでね」と誰かに誘われ連れて行かれた最初の印象によって決定づけられることが多い。最初に食べたオムレツの味もそれがおいしさの定点になる。書物にだってそういうことがある。ぼくを誘いぼくをそこに連れていくのは、ときに著者自身や翻訳者が贈ってくれた本である。

≪03≫ この本で、ぼくは「脳の冒険」と「心の探索」に入っていった。翻訳者の山河宏さんが贈ってくれた。その前に時実利彦をはじめとする脳科学をめぐる案内をいくつか読んでいたものの、この本がなかったらぼくの脳感はもっとちがった道を歩んでいただろうと想う。 

≪04≫  いうまでもないけれど、本書は脳科学の出発点を準備したことで時代を画期した一書だった。順にいうのなら現代脳科学の第一弾を放ったのはチャールズ・シェリントンだったろう。ニューロンやシナプスといった用語をつくったが、いささか生理学が勝ちすぎていた。第二弾がペンフィールドだ。脳科学をもって心の本体に迫るという意味からすれば、本書にこそ最初の「脳から心へ」というロケット発射の軌道が示された。これを受けた第三弾はおそらく二十世紀で最も大きな脳科学の構想を展開したジョン・エクルズだろう。 

≪05≫  脳科学のように日進月歩の分野では、ペンフィールドの実験や仮説はさすがに古くなっている。しかしながら、ぼくにとってはなんといっても本書こそが燦然たる「脳と心の一書」なのである。基準服なのだ。脳感に忘れられないものが、ずっと残っている。  

≪06≫  そのためこれ以降、ぼくは脳と心をほぼ一緒くたに考えるようになった。そして、脳の中で「脳部と心部が葛藤をくりかえしている」という印象の目印をもった。だからペンフィールドはぼくにとってはいまなおペンフィールド先生なのだ。 

≪07≫ ペンフィールド先生がモントリオールに神経学研究所を創設したのは一九三四年である。二年後、ハーヴェイ記念講演を次のような言葉で結んだ。「私は“理解の場”がどこにあるかという問題について論じてきました。ここでいう“場”とは、随意運動の開始と、その前提条件である感覚情報の総合に最も密接に関係している神経回路の位置を意味します」。そうか、脳は場であったのか。

≪08≫ 一九五二年、先生は側頭葉に電気刺激を加えたときに患者が示す自動症の反応を初めて観察した。そして「癲癇の自動症と大脳中心統合系」という論文を発表した。自動症というのは夢遊病患者のように行動が無意識的におこり、のちにその記憶がない状態になることをいう。そこでは「間脳が統合作用の中心なのかもしれない」という考えがのべられていた。そうか、脳にはどこかにコンダクターがいたのか。 

≪09≫  つづいて一九五八年、先生はシェリントン記念講演で次のような意見を披露した。「電極から大脳皮質へ電流が流されると、その部分の灰白質の正常なはたらきが完全に妨げられてしまいます」。二年後、先生は脳神経外科医の現役を引退した。そして、それまで「記憶領」とみなしてきたものを「解釈領」というふうにとらえはじめた。そして、こう考えた。「解釈領は、言語領が言語機能についておこなうことを、言語によらない観念の知覚についておこなっているのではないか」。そうか、言語をつかう前に脳は何かを解釈する領域をもっているのか。 

≪010≫  先生は海馬にも関心を寄せていた。動物実験では海馬が匂いをトリガーとした記憶のしくみに重要な役目をはたしているらしいことがわかりつつあったのだが、おそらく人間では異なる役目をもっているのではないかと推測したのである。そしてここにぼくは影響を受けたのだが、海馬には意識の流れを記録するための「鍵」があるのではないかと仮説した。この仮説はいまなお有効で、まだその秘密は解明しきれてはいないけれど、ペンフィールド先生の軌道に沿って実験をし、組み立てに挑み、新たな展望をもとうとしている脳科学者は少なくない。 

≪011≫  こうした先生の考えの中心にあるアイディアを象徴しているのは、次の文章だ。「意識の流れの内容は脳の中に記録される。しかしその記録を見守りながら、かつ同時に命令を出すのは心であって、脳ではない。では、心は独自の記憶をもっているだろうか。その証拠はないという理由で、答えはノーである。そうした記憶があるとすれば、まったく思いもよらない別種の記憶が存在することになる。そんな別種の記憶がないのだとしたら、心は最高位の脳機構を通じて一瞬のうちに記憶の中の記録ファイルを開くことができると考えたほうがよいだろう」。  

≪012≫  脳を動かしているのは脳の機構でなく、心なのである。先生はそう確信していた。えっ、これはすごい確信だ。先生は脳が受け手で心が送り手だと言っているのだろうか。ぼくはドキドキしたものだ。  

≪013≫  しかし心っていったい何なのか。ここで心というのは、特定の意味をもつパターンに整えられた神経インパルスをちょっとだけ押してみるトリガーの動きのようなものをいう。先生がつかった比喩でいえば、「脳はコンピュータ」で、「心はプログラマー」なのだ。だが、これは誤解をうけやすい比喩だった。 

≪014≫  そこをぼくの粗雑な言葉でいえば、心は脳をモニタリングしている「注意のカーソル」の束だ、ということになる。脳の中のどこに注意のカーソルを動かそうとするかという意図の集計結果が、心なのだ。このほうが先生の考えに近いはずである。ここで重要なのは、心は独自の記憶も記録ももっていないということである。 

≪015≫  ともかくも先生は
「心は脳のどこにも局在しない」と言い放った。そして、にもかかわらず「心を脳のしくみだけで説明することはできない」とも言った。
ぼくが本書を「脳と心の一書」と感じつづけてきた理由は、この二つの言明を同時に提起しているところにある。 

≪01≫  エピダウロスには丘陵の中腹にいまも14000人を収容する古代劇場が遺っている。古代ギリシア人の栄光と挫折と葛藤をめぐる演劇が長期にわたって演じられた。オリンピアの祭典では個人の身体能力を競って、代表選手たちの矜持が誇らしげに開示された。 

≪02≫  古代ギリシア人は「自分自身」に対する信念をもっていた。個人主義という考え方を生み出したのがヘブライ人だったかギリシア人だったかはわからないが、すでにホメロス(999夜)の『オデュッセイア』や『イーリアス』には登場人物一人ずつの全き個性が綴られていた。古代ギリシアはこれを発展させた。 

≪03≫

  自分自身に対する信念というのは今日でいう「主体性」のことである。この個人と主体をめぐる意志のようなものは、その後の西洋で「議論する」「討論する」というコミュニケーション・スタイルを支えた。 

≪04≫ 

 スコーレ(schole)の蠢動だった。スコーレは社会の基礎工事の工法になった。プラトン(798夜)はソクラテスから継承した「対話」を重視したが、なぜ、そうしたかといえば、対話はスコーレ(議論)の前提だったのである。そのうち、そこにイデア(理念)が芽生えた。それをアリストテレス(291夜)は幾つかの思考分野に沿って言葉によって論理(ロゴス=ロジック)の建造物に組み立て、それらを大きくはフィジックス(自然学)とメタフィジックス(形而上学)に仕立て上げた。 

≪05≫  アリストテレスはそのような論理をもって議論する場を「学校」(スコーレ)と捉え、そのように学びあうことを「アカデミア」と名付けた。スコーレは議論であって、学校であって、そしてアカデミックな知識の体系となって、西洋社会のルールとなっていったのである。 その後の西洋の歴史文化は、一言でいえばその踏襲と修正と補充ばかりだ。 

≪06≫  西洋における「主体性」は、東洋にとってはおそらく「調和性」である。東洋が主体的なことを極端に軽視したわけではないが、だいたいは「集合的な主体性」を重んじた。「個別知と集合知の持ち合い」を重んじた。 

≪07≫ 

 ヨーロッパでもむろん調和はめざされたけれど、ピタゴラスのプロポーション(比例関係)やバッハ(1523夜)のハーモニー(和声関係)がそうであったように、それは「世界が欲している調和」ないしは「上に向かう調和」というもので、すぐれた才能の持ち主が表現として到達するべき美しいものだった。 

≪08≫

  東洋での調和はそうではない。周辺意識と寄り合う調和を重視した。そういう調和は個人の才能の開花としてでなく、とくに美しいわけでもなく(茶道やお茶屋は美しくなっていったが)、人々の生き方や暮らし方や日々のコミュニケーションそのものに出入りした。 

≪09≫  東洋人はポレミック(議論好き)ではないだろうか。そんなことはない。ぼくがインド人や中国人や韓国人と話して感じるのは、意見を言うのにあたってかなり喧しいということだ。酒呑みも喧しい。 

≪010≫  理念はつくらなかったろうか。これまた、そんなことはない。もちろん、いろいろの理念を掲げた。プラトンやヨーロッパ哲学が定義した理念とは異なってはいたけれど、孔子や儒教儒学者は五常(仁・義・礼・智・信)のような理念を掲げ、インド哲学はブラフマン(梵)とアートマン(我)の合致(梵我一如)をめざし、仏教は「真如」や「縁起」を謳い、老子(1278夜)や荘子(726夜)は「道」や「無為自然」を唱えた。しかしそれらは、来たるべき社会や制度の核となって東洋論理の普遍性を確立するためのものではなかった。世の中や世間にあればいいものだ。 だからというのではないが、東洋だってもちろん議論は好んだわけである。好んだが、中国の諸子百家やインドの六派哲学がそうだったように、それらを総合して共通のロジックをつくるようなことはしなかった。 

≪011≫  日本思想も合理的なイデオロギーの核をつくろうとしなかった。神仏の習合や儒学の日本化に見られるように、世の中や世間にはいろいろな見方があってよく、日本人はそれらの「取り合わせ」をおもしろがった。  

≪012≫  つまり総じて東洋は「普遍的な規則性」を確立したいというふうにはなっていかなかったのだ。孟子もナーガルジュナも聖徳太子も「中庸」や「和合」のほうを尊んだ。そのため西洋のような普遍的な哲学や合理的な科学の確立や、数理や高等数学の樹立には向かわなかった。 

≪013≫  ラドヤード・キップリングが『東と西のバラード』の冒頭に、「ああ、東は東、西は西、両者が交わることはない。大地と空とが神の審判の御前に、並んで立つそのときまでは」と書きつけて以来、東と西の社会文化の互いに譲らないような対比の構図について、これまでゴマンと議論されてきた。 そのたびにユーラシアが割れて、“East is East, West is West”がくりかえされてきた。 

≪014≫  キップリング自身がボンベイ(ムンバイ)に生まれて5歳までをすごし、ロンドンで教育をうけて、東西をまたぐ独特の感性を磨いた。父親は建築工芸の先生である。19世紀末の英領インドの植民地の日々と、ヴィクトリアン・インベンション(ヴィクトリア女王時代)の大英帝国の栄華との両方にキプリングがいたことは、この作家に一方で『ジャングル・ブック』などの文明の時間差の物語化を思いつかせ、他方で「東は東、西は西」の刻印を表明させたのだろう。英語圏の作家として初めてノーベル賞を受けたことも、キップリングの内なる使命を芽生えさせた。 

≪015≫ 

 キップリングの新婚旅行先がマンハッタン建設中のアメリカと「鎌倉の大仏」の日本だったことも、この作家の「東は東、西は西」を決定づけた。出自がアメリカではないオバマ大統領が日本の印象を、端的に「鎌倉の大仏」(東)とそこで口にしたアイスクリームの味(西)で語るのをニュースで見たとき、ぼくは、ああ、これはキップリングそのままだなと思ったものだ。 

≪016≫  西洋と東洋をくらべた記述は、かなりある。ヘロドトスがすでにしてそうだったし、イブン・バトゥータもマルコ・ポーロも、ルイス・フロイスもエンゲルベルト・ケンペルも、“East is East, West is West”を驚愕と奇異の目をもって縷々叙述した。 

≪017≫  そもそも歴史学や人類学や宗教学の前提がそういうものなのだ。東西の文明文化の比較をフォーカスした和辻哲郎(835夜)からハンチントン(1083夜)まで、トインビー(705夜)から中村元(1021夜)まで、比較文明論や比較文化論は「東は東、西は西」の特徴とその訂正を試みるために発達してきたようなものだった。 

≪018≫  それでもヨーロッパはエドワード・サイード(902夜)の言う「西が東をエキゾチックな二項対立で片付けがちなオリエンタリズム」を長らくはびこらせた。オクシデント(西洋)とオリエント(東洋)は互いに歪んだ憧憬と偏見があって、なかなか融合しなかったのだ。 

≪019≫  明治維新の欧化政策で「東に西を接いだ日本」にも、日本人の矜持と特徴を浮き彫りにしたくて「東と西」「欧米と日本」をあやしげな比較論法で論じる者がひっきりなしにあらわれた。 

≪020≫  初期の福沢諭吉(412夜)の『西洋事情』や岡倉天心(75夜)の『東洋の目覚め』などはまだしも大らかだったが、芳賀矢一の『国民性十論』や大町桂月の『日本国民性の解剖』あたりから、東西比較というより日本人の国民性をさまざまなメルクマールで特徴づけるようになった。

≪021≫  芳賀が挙げた日本人の国民性とは、忠君愛国、祖先を崇び家名を重んず、現世的実際的、草木を愛し自然を喜ぶ、楽天酒楽、淡泊瀟洒、繊麗繊巧、清浄潔白、礼節作法、温和寛恕、の十性だ。あまりにも美化しすぎていて肯じることをためらうが、桂月はこれにさらに「死を軽んず」「恥を知る」「義に勇む」「雅致に富む」などを加えた。 

≪022≫  なぜここまで自惚れたかといえば、折からドイツ皇帝やロシア皇帝が言い出した「黄禍論」(イエローペリル)に対するに、その逆の「白禍論」を主張するべく、極端な日本主義を標榜するようになったことが手伝った。 

≪023≫  欧米の知識人たちが新たな“East is East, West is West”をもちだすようになったのは、やっとシュペングラー(1024夜)の『西洋の没落』以降のことだった。 

≪025≫

  一方、構造主義のレヴィ=ストロース(317夜)やメキシコのオクタヴィオ・パス(957夜)は、「西」に対してあえて「南」を意識した。 

≪026≫  西洋人が「木を見る」のに対して、東洋人には「森を見る」傾向があると言われるようになったのが、いつごろのことだったかはわからない。 

≪024≫  世界を大規模な戦争に巻き込んだ西洋のソーシャル・ロジックに疑念がもたれはじめ、あえて「東」を意識する文明思想が頭を擡げるようになったのだ。マンダラとタオに関心をもったカール・ユング(830夜)、機械的技術文明に抵抗したマハトマ・ガンジー(266夜)、道教研究に打ち込んだ宗教学者のアンリ・マスペロ、大著『中国の科学と文明』にとりくんだヨゼフ・ニーダム、日本美術の独創性をいちはやく称揚したアンドレ・マルロー(39夜)、日本大使となったエドウィン・ライシャワーらの見解には、その旗印(さまざまな模様ではあるけれど)が如実に見える。 

≪027≫

  ぼくがそのことを意識するようになったのは鈴木秀夫の『風土の構造』『超越者と風土』(大明堂)を読んでからで、これで目を洗われた。のちの『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス)のころは、「木を見る西洋、森を見る東洋」という見方は、もう広がっていた。その後は安田喜憲の『蛇と十字架:東西の風土と宗教』(人文書院)や『東西文明の風土』(朝倉書店)などがしきりに「木の西洋、森の東洋」を力説した。 

≪028≫  感性文化としての「東風」が意識されるようになったのは、アレン・ギンズバーグ(340夜)やジャック・ケルアック登場以降のアメリカ人によるものだったと思う。 

≪029≫  とくにヒッピー・ムーブメントやロック・カルチャーが勢いをもって、アメリカ人が禅やタオイズムを通して「スピリチュアル」を気にしはじめたことは、ビートルズのベナレス詣が世界中の話題になったように、ポップカルチャーの中での「木と森の対比」を促進させた。このことは日本や韓国や中国にも逆流した。日本のマンガやファッション、中国や香港の映画、韓国の現代アートはその反映を雄弁に物語る。  

≪030≫  そこには日本の例でいうなら、大島渚や篠田正浩らの映像文法、土方巽(976夜)の暗黒舞踏や唐十郎のテント演劇、川久保玲や山本耀司らのカラス・ファッション、石森章太郎から大友克洋(800夜)におよぶ劇画感覚と「花の24年組」に始まる少女マンガの系譜、大滝詠一・井上陽水・ユーミンとつながっていったポップミュージックの台頭などがあった。 

≪031≫  ぼくはこの流れに李禹煥(リ・ウーハン)のドローイングアート、エイドリアン・ゼッカのアマンによる「森を見るリゾート」の展開、鬼の大松による女子バレー、野茂とイチローの野球、オタク文化などを加えたい。 

≪032≫  こんな具合だったので、昭和から平成にかけての日米欧漢のチャンポンは、けっこうおもしろかった。つんくが「シャ乱Q」というカタカナ・漢字・英文字をまぜたバンド名で登場してきたときは、「ついに、きたか」と感じたものだ。日本は万葉仮名以来、このチャンポンなのだ。 

≪033≫  それなら東西の文化比較や感性の融合についての議論がおもしろくなってきたかといえば、そんなことはなかった。ロバート・ホワイティングの『東京アンダーワールド』(角川文庫)、イアン・コンドリーの『日本のヒップホップ』(NTT出版)などの例外をのぞくと、多くは退屈でこれみよがしで、表面を上滑るか、事実の列挙にすぎないことが多い。 

≪034≫ 

 とくに日本側の議論にはたいていがっかりする。きっと土居健郎の『甘えの構造』(弘文堂)、中根千枝の『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)、加藤周一の『雑種文化』(講談社文庫)、山崎正和『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫)などに、いつまでも足をとられていたのではないかと思う。あるいは欧米社会学のカテゴリーで日本の特性を説明しようとしたからだ。いずれこのあたりの紆余曲折については、南博の『日本人論』(岩波現代文庫)などで補いたい。 

≪035≫

  本書は西洋と東洋を「分析的思考」と「包括的思考」の対比で捉え、それを心理学的実験やヒアリングや検証エクササイズのデータにもとづいて“実証”しようとしたものである。 

≪037≫  ただそれを最近の数々の調査にもとづいて、行動心理学的あるいは社会心理学的に比較した。だから既存の研究成果とともに、著者の研究グループの調査もさまざまに援用されている。ニスベットが所属するミシガン大学を足場に、北京大学、京都大学、ソウル国立大学、中国心理学研究所などの研究生たちによる分析結果が動員されている。 

≪036≫  残念ながら、東西文化論や東西感性論に新たなクサビを打ち込むようなものではない。西洋と東洋を歴史文化的に比較したのではないし、キップリングの諦観テーゼに応えようとするものでもない。著者のリチャード・ニスベットと多くの研究協力者たちによる心理学的な調査をもとに、西洋的な「木を見る思考」と東洋的な「森を見る思考」の対比を炙り出したにすぎない。 

≪038≫  本書は2003年に刊行されたものだから、21世紀の東西の社会文化行動比較の研究報告のようなものなのだが、読んでみて驚いたのは、行動心理学や社会心理学や文化心理学の手法を凝らしてアメリカ人・ヨーロッパ人・中国人・韓国人・日本人を対象にした認知心理的な調査結果が、ずっと以前から歴史文化的に語られてきた相違をあいかわらずなぞっていたということだ。つまり、いまもって北半球の社会文化は“East is East, West is West”のままに習慣化されていたのである。 

≪039≫  本書に紹介されている調査結果を、西洋人をWに、東洋人をEとして紹介しておく。がっかりしないでいただきたい。 たとえば、西洋人(W)は対象物に注意を払い、東洋人(E)は背景に注意を払う。Wは世界の成り立ちを構成的に見て、Eは関係的に見る。Wは環境を思いどおりに改革できると思い、Eは環境との融和をはかる。こんなふうなのだ。 

≪037≫  ただそれを最近の数々の調査にもとづいて、行動心理学的あるいは社会心理学的に比較した。だから既存の研究成果とともに、著者の研究グループの調査もさまざまに援用されている。ニスベットが所属するミシガン大学を足場に、北京大学、京都大学、ソウル国立大学、中国心理学研究所などの研究生たちによる分析結果が動員されている。 

≪040≫

  また、Wは安定を好むが、Eは変化を好む。Wはカテゴリーを次々につくりだし、Eはメタファーをさまざまにつくりだす。Wは統計処理がうまく、Eは後知恵に加担する。Wは科学的証明に長け、Eは技能の完成に耽る。Wは他人をパラドキシカルに追い込みがちになり、Eは他人の矛盾の露呈に同情的になる。Wの幼児は名詞をおぼえるのがはやく、Eの幼児は動詞を使うことに長けていく。Wはロジカルな施行が強く、Eはコンテキストのなかで判断をする‥‥等々、云々。 

≪041≫  こんなことは、ずっと以前から言われてきたことなのだが、新たな21世紀の調査結果もこのことを著しく強調した。これにはさすがに唖然とさせられた。おそらく認知テストの狙いが設問の分岐点が調査研究者たちの既存のフレームを出ていなかったせいだとは思うけれど、それにしてもあいかわらずの「西は西、東は東」だった。 

≪042≫  もっとも、次のような調査結果をどう見るかというと、少々興味深い議論がしたくなってくる。いちいち論評したいところだが、これをどう感じるかは、諸君におまかせすることにする。 

≪037≫  ただそれを最近の数々の調査にもとづいて、行動心理学的あるいは社会心理学的に比較した。だから既存の研究成果とともに、著者の研究グループの調査もさまざまに援用されている。ニスベットが所属するミシガン大学を足場に、北京大学、京都大学、ソウル国立大学、中国心理学研究所などの研究生たちによる分析結果が動員されている。 

≪040≫  また、Wは安定を好むが、Eは変化を好む。Wはカテゴリーを次々につくりだし、Eはメタファーをさまざまにつくりだす。Wは統計処理がうまく、Eは後知恵に加担する。Wは科学的証明に長け、Eは技能の完成に耽る。Wは他人をパラドキシカルに追い込みがちになり、Eは他人の矛盾の露呈に同情的になる。Wの幼児は名詞をおぼえるのがはやく、Eの幼児は動詞を使うことに長けていく。Wはロジカルな施行が強く、Eはコンテキストのなかで判断をする‥‥等々、云々。 

≪041≫  こんなことは、ずっと以前から言われてきたことなのだが、新たな21世紀の調査結果もこのことを著しく強調した。これにはさすがに唖然とさせられた。おそらく認知テストの狙いが設問の分岐点が調査研究者たちの既存のフレームを出ていなかったせいだとは思うけれど、それにしてもあいかわらずの「西は西、東は東」だった。 

≪042≫  もっとも、次のような調査結果をどう見るかというと、少々興味深い議論がしたくなってくる。いちいち論評したいところだが、これをどう感じるかは、諸君におまかせすることにする。 

≪043≫  (a)韓国人はアメリカ人とくらべて雇用主の気持ちや態度にずっと敏感である。カナダ人は社会での位置づけのほうに注意が向く。(b)しかし仕事場での自分のロイヤリティはアメリカ人やカナダ人は圧倒的に高く、「マイクロチップを作る会社にいる」「成長が鈍化している仕事場で成果を上げたい」「上司には頼れない」などというふうになり、中国人・韓国人・日本人は「仕事中はまじめになっている」「仕事仲間といると楽しい」「自分の役割はたいしたものじゃない」というふうになる。

 (c)そのせいかどうか、カナダ人やフランス人は成績がよかった類似の課題に向かい、日本人は悪い成績の課題の克服に向かうのである。

 (d)アメリカの乳幼児は両親のベッドとは別に眠り、東アジアの乳幼児は親とともに眠る。(e)子供たちに分野別のアナグラム(文字の並び替え)のテストをさせると、欧米系は分野の選択に自分でかかわろうとし、東洋系は母親や先生のヒントに従ったり、それをほしがったりする。(f)アクアリウム・アニメを観察させると欧米系の子は魚に注目し、東洋系の子は子供でありながら水槽の中の背景のアイテムをよくおぼえている。 

≪≪044≫  (g)ハムデン=ターナーとトロンベナールスの有名な実験だが、西洋人はだいたいが抽象的な規則を好んで、その原則を曲げることを嫌ったり、そうする者を非難するが、東洋人はおおむね「規則に縛られる」という気分が強く、そういうルール型の社会は融通がきかないと思う。

 (h)マーケティング調査のサンピル・ハンとシャロン・シャヴィットがアメリカと韓国の雑誌広告を比較したところ、アメリカの広告は「群集をかきわけてわが道をいく」ふうのものが多く、韓国は「人々をもっと近づける方法があります」ふうのものが多かった。韓国はどうやら集団主義だったのである。

 (i)一方、ウェンディ・ガードーナーらはプライミング効果の調査をして、西洋が相互独立的なプライミングに弱く、東洋が相互協調的なプライミングに染まりやすいという結果を得た。 

≪045≫  (j)今井むつみとディードレー・ゲントナーの「ダックス」調査では、「これがダックスです」という見本の或る物を見せておいて、次に二つのトレーに形が同じものだが材質が違うもの、材質は同じだが形が違うものを別々に置き、どちらをダックスと思うかを言わせるのだが、アメリカ人はほとんど同じ形のものを選び、日本人は材質が同じものを選んだというのだ。(k)西洋人が彫像を見ているとき、アジア人は木の肌や石の風情を見るという結果もある。西洋人は対象実体の連続性に向かい、アジア人はそれをつくっている材料に関心をもつのである。 

≪046≫  (l)企業の定義をめぐる調査は、「企業はさまざまな職務と仕事をこなすためのシステムである」(アメリカ・カナダ・オーストリア・イギリス・オランダ・スイス人)、「企業は人々が集まって働く場所である」(日本・シンガポール)、「企業は仕事のために人々が分業するところである」(ドイツ・フランス・イタリア・北ヨーロッパ・東南アジア)に分かれた。 

≪047≫  ようするに、Wは「発信機」的で、Eは「受信機」的なのである。まあ、それはそうだろう。Wは「獲得する地位や役割」に関心が高く、Eは所属する属性による地位や役割を大事にするのだ。これも、まあ、そうだろう。 

≪048≫  これらの傾向が「選ぶ西洋」「合わせる東洋」という特色を見せていることも、あまりにもわかりやすい。しかし、社会心理学者たちの実験に文句をつけるわけではないが、はたしてこれらから何を学べばいいかというと、困ったことに一歩も前進できないようなのだ。 

 (c)そのせいかどうか、カナダ人やフランス人は成績がよかった類似の課題に向かい、日本人は悪い成績の課題の克服に向かうのである。

 (d)アメリカの乳幼児は両親のベッドとは別に眠り、東アジアの乳幼児は親とともに眠る。(e)子供たちに分野別のアナグラム(文字の並び替え)のテストをさせると、欧米系は分野の選択に自分でかかわろうとし、東洋系は母親や先生のヒントに従ったり、それをほしがったりする。(f)アクアリウム・アニメを観察させると欧米系の子は魚に注目し、東洋系の子は子供でありながら水槽の中の背景のアイテムをよくおぼえている。 

≪≪049≫  おそらくビッグデータ解析とAIが広まってこれらを代行調査をするようになると、もっとこうした傾向が強く出てくるにちがいない。認知テストも厖大なデータにもとづくことになるだろう。けれどもそこからは、ギンズバークも土方巽も山本耀司も突出してきっこない。  

≪050≫

  われわれはもう一度、文明と文化の箱の中のものをぶちまけて、そこから愉快で痛快なリプリゼンテーションを再編集するしかないのではないか。そう、言いたくなる。さもなくば、アイテムとシンボルによる東西文化比較などやめてしまうことである。太古このかた今日に至るまで、木と森は「かわる・がわる」に見るものだ。そのどちらかしか見てなかっただなんて、ネアンデルタールも幼児もしてこなかったことなのである。 

印刷時代の編集力を十分に研究しないまま、電子時代の編集技術力が新たな脚光を浴びている。

簡易なウェブブラウザとサーチエンジンによってテキストの流動化や意味の液状化が全世界的に目に余るようになってきたからだ。

こうしてデジタル・エディティングによる編集文献学やテキスト編集学が登場してきた。

これはやっと訪れた「編集工学の夜明け」であるが、ぼくからすれば、ずいぶん遅きに失したと言うしかない。

けれども、いまこそは二つのG(グーテンベルク/グーグル)が
新たなナレッジサイトの構築と柔らかいリベラルアーツの発動のために、エディット・ラディカルに統合されるべきなのだ。 

≪01≫  印刷時代の編集力を十分に研究しないまま、デジタル電子時代の編集技術力が新たな脚光を浴びている。簡易なウェブブラウザーとサーチエンジンによってテキストの流動化や意味の液状化が全世界的に目に余るようになってきたからだ。

≪02≫  デジタル・エディティングによる編集文献学やテキスト編集学が登場してきたのは二一世紀に入ってからである。やっと訪れた「編集工学の夜明け」であるが、ぼくからすれば、ずいぶん遅きに失したと言うしかない。けれども、いまこそは二つのG(グーテンベルク/グーグル)が新たなナレッジサイトの構築と柔らかいリベラルアーツの発動のために、エディット・ラディカルに統合されるべきなのだ。 

≪03≫  アメリカに起動した「編集文献学」という言い方は“scholarly editing”あるいは“textual editing”の翻訳だが、本書の監訳者でもある明星聖子がピーター・シリングスバーグの『グーテンベルクからグーグルヘ』(慶應義塾大学出版会)を翻訳刊行したときに、この用語が日本語として定着した。 

≪04≫  明星はその前に『新しいカフカ』(慶應義塾大学出版会)に「編集が変えるテクスト」というサブタイトルをつけ、カフカの作品は遺稿の編集がつくりだしたものであることを詳細に論証して、マックス・ブロートやハインツ・ポリッツァーの編集方法をめぐる過剰と不足を議論してみせていた。明星は「カフカは編集によってこそ生まれた」という宣言をしたのだった。明星はいまは埼玉大学教養学部の教授をしている。 

≪05≫  カフカは生前にさまざまな草稿を遺したのだが、それは残念ながら本人によって決定稿にならなかった。そこで友人だったブロートをはじめ何人もの「手と知によるエディティング・ワーク」が加わって、それが今日の現代文学の入口としての「カフカ文学」になった。カフカは編集されたカフカなのである。 

≪06≫  このようなことは、むろんカフカに限定されるものではない。もとより編集はずっと生きてきた。ディケンズや漱石このかた、多くの知識人や作家や詩人や研究者につきあって編集の現場にかかわってきた者なら、そんなことはしごく当然のことで、どんな原稿の印刷本も編集のプロセスをもたないで書物になるなんてことはない。 

≪07≫  たしかにカフカや宮沢賢治のように遺稿に草稿が多くて複雑なものは特異に編集が重大視されるのだが、それゆえその編集プロセスから多くのことが学べるのだが、そういう特異な例でなくとも、大半のテキストは印刷によって世の中に流布し定着するために必ずや編集を通過した。言いかえればたいていの著書というものは、他者の編集が加わって成立してきたものなのだ。ジョイスやベケットの作品が、一人の書店主シルヴィア・ビーチによって生まれたことは誰だって知っている 

≪08≫  いまさら言うまでもなく、世界史は長らく出版の歴史であり、出版の歴史はテキスト編集の歴史だった。世界はずっと編集されてきた。おびただしい数の著者(ライターやオーサー)がいて、大小の出版社がそれらのスクリプト(原稿)を「フォーマットをもったテキスト」にして印刷物にしてきた。 

≪09≫  そこには必ずエディターがいて、著者たちとの相談・催促・判読・訂正・構成・章立て・見出し付け(ヘッドライニング)・目次化・校閲・索引作成・注解作業をふくむさまざまなエディティング・ワークを担当し、そのすべてをダブルページ(見開き)と頁数付きのページネーションをもつ印刷刊行物として世に送り出してきた。 

≪010≫  出版なき編集はいくらでもあるが、編集なき出版はない。このことは本の歴史にとっては大前提なのである。エディターにとっても、これらの仕事をすることはことさらに自慢するほどのことではない。もっとも自慢もしなかったが、評価されてきたわけでもなかった。編集の歴史はほとんど丁重に無視されるか、ひそかに認められるか、あるいは半世紀ほどたってその陰の力がやっと理解されるにすぎなかった。 

≪011≫  編集の成果はそれを最も言葉で表現できるはずの著者の活動の中に折りたたまれてしまっていて、著者としても自分の著作活動を超えて編集者たちのエディターシップを過大評価するわけにはいかなかったからだ。編集はつねにオーサリングの歴史の一部に組みこまれてしまってきたと言ったらいいだろう。 

≪012≫  ところが、以上の長きにわたる印刷時代が電子時代に向かうにしたがって、多くの原稿がデジタルテキストになり、オーサリング・データやライティング・コーパスがコンピュータ・ネットワークと連動するようになり、エディティング・ワークの重要性があらためて脚光を浴びるようになったのである。編集文献学はそこに着目した。 

≪013≫  編集文献学は「テキスト編集の方法を学問する」という意味で、文献学・テキスト学・書誌学などの“textual scholarly”の中に位置づけられている。本来はテキストやテキスト群をどのように編集するのかという方法を検証する学問だ。 

≪014≫  この領域が急速に浮上してきたのは、多くのテキストがデジタル化され、それがあたかも決定稿のごとくふんだんにデジタルアーカイブに収納されるようになったからである。たんにアーカイブされるのではなく、同時に検索機能とネットワークが加わった。また、さまざまにリンキングされたアパラタス(編集資料群)がともなった。 

≪015≫  デジタルテキストはその当初において、OSからフォーマットソフトをへてタグ付けにいたるまで、大半が電子編集されることを前提にしたエディションなのである。だから編集ソフトの設計思想や性能の出来が少し悪いだけで、そのクオリティは大きく変容してしまってきた。そのためアメリカでは早くから電子編集のための組み立てが試みられてきた。現在では、SGMLやXMLのマークアップ・システムによる規定が活用されて、それにもとづくTEI(Text Encoding Initiative)という国際標準もフル稼働している。

≪016≫  しかし他方、クライアント・サーバー方式のウェブ社会では、スマホやツイッターやフェイスブックがつくりあげるソーシャルメディアがまさにそうであるのだが、どんな情報もチョイ役であれ自由に登場を許されることになった。グーグル型のウェブブラウザーとサーチエンジンによる「テキストの分解」が驀進しつつあるとも言わなければならない。かつてアラン・ケイが発想した「思考の道具としてのパソコン」は遠景に去り、いまや大半のソーシャルメディアがページランクに従う“選択情報ヒエラルキーの貧相な雛壇”と化したのである。 

≪017≫  印刷本をたんに電子画面に移行した電子書籍も横行しはじめた。手元で多くのテキスト本が指づかいひとつで読めるのはけっこうなことではあるが、しかしこれらの電子デバイスには、読書の工夫が根本的に欠如しているためか、コストを削減するためかはべつにして、電子的エディターシップはいっさい省かれたのである。 

≪018≫  こうした事態を深刻に受け止めたのがピーター・シリングスバーグだった。ロヨラ大学の英文学教授で、サッカレー全集の総編集責任者だ。 

≪019≫  そのシリングスバーグが『グーテンベルクからグーグルヘ』に、ウェブブラウザーやサーチエンジンによって「テキストが乱脈のなかに放り出されていく事態」があからさまに広がっていると警告を発し、知にかかわる文献がリプリゼントされるにはよりいっそうの自覚的な編集がともなわなければならないと強調した。とくに電子時代の人文学やリベラルアーツにとっては、編集が必須であることを強調した。こんなふうに書いている。 

≪020≫  「グーグルなどのウェブブラウザーの優先順位をつけるプロセスは、洗練されてきてはいるものの、検索で見つかった情報やニセ情報の質までは明らかにしない。そこには学術的な参照に使えるシステムはない。ウェブブラウザーは知識体系を発展させるためではなく、アカデミズムが共同で取り組もうとしている作業とは無関係なのだ」。 

≪021≫  ウェブブラウザーが頼っているのは、一言でいえば「大事なクリームが情報の海の表面に浮き上がる」という技術理想である。ところがそんな理想があったとしても、そこにはたいてい「パンとサーカス」(大衆をよろこばす欲望と娯楽)がふんだんに介入して、その理想をやすやすと崩してしまう。だから今日のウェブブラウザーは光もつくらないが、影もつくらない。光も影もないということは、境界のないフラットな情報が放置されているということで、そんなことが拡がっているうちに、現状のブラウザーからはどんな知の境界線も手に入らなくなったのである。 

≪022≫  こうして登場してきたのが、ありうべきナレッジサイトを構築していくための先兵となるべき編集文献学だった。リベラルアーツやナレッジサイトに鈍感な日本ではとんと議論がされていないけれど、アメリカではこれらの議論はウェブ社会における「テキストの液状化」の歯止め役として、それなり過熱しつつある。 

≪023≫  議論は、マッギャンの『現代テキスト批判への批判』や『テキストの条件』、マッケンジーの『書誌学とテキストの社会学』、シリングスバーグの『コンピュータ時代の編集文献学』や『グーテンベルクからグーグルへ』、ボーンスタインの『マテリアル・モダニズム』、ブライアントの『流動するテキスト―書物と画面のための編集理論』などなどとして、話題になっている。シリングスバーグは、こうした議論はおそらく「編集行為をリーンカーネイト(再受肉)することであろう」、あるいは「電子時代の文化をリエンジニアリングすることであろう」と指摘した。  

≪024≫  当然である。遅きに失したというほどだ。ぼくからすれば、電子編集はさらにデジタルリーディング・メソッドの多様なソフト開発にまで、さらには知覚と思索のノンリニア・エンジニアリングにまで踏み込むべきだと主張したい。そうでなくとも、本来のナレッジサイトの構築や二一世紀のリベラルアーツが組み上がっていくには、新たな「知のエンジニアリング」が必要だったのである。それでもこういうことが主張されるようになったこと、いささかホッとする。やっとこさっとこ「編集の工学化」が重視されるようになったのだ。 

≪025≫  本書はアメリカの編集文献学者が勢揃いして共著したもので、学術的なテキストをどのようなエディション(編集版)によってデジタルアーカイブにするかというルールを模索した一冊である。ただし、前提になっているのはTEI(テキスト・エンコーディング・イニシアティブ)をどのように使いこなすかというものだ。だからここには、編集思想や編集的世界観をめぐる方法はいっさい言及されていない。 

≪026≫  ここで編集とよばれているのは、印刷時代から継続されてきたエディティング・ワークが、電子時代になってどのように継承されるべきか、あるいはどのように変容すべきかということなのだ。それゆえ、そうした編集力がどのようにグーグル型のページランク手法に打ち克てるのか、それによって新人文学時代がどのようにやってくるのか、そういう方向に向けてのみに編集技法の効能が絞られている。編集が知覚や思考の発端から始まっていることや、コミュニケーション・プロセスのすべてに編集がかかわっていることは、残念ながら除外されている。 

≪027≫  本書が提案している編集文献学のあれこれは、編集工学的にはごくごく一部のヒントにすぎないのだが、とはいえ、本書のガイドラインが日本のナレッジサイトの構築にそれなりの影響と示唆を与えるものになるだろうとは思われる。

≪028≫  ふりかえってみると、初期のナレッジサイトのデジタルアーカイブ設計は、洋の東西を問わず各大学のメインフレームの上に構築されていた。それは当時のIBMなどのメインフレーマーの設計仕様をそのまま受け入れたものだった。  

≪030≫  当初、デジタルアーカイブはフロントエンド(実際の表示特徴)とバックエンド(論理検索と操作)とインターフェースとに分離されていた。しかし時代社会がしだいにウェブ・ネットワークに編み込まれていくと、その中に浮かぶテキスト群は最低限のインタースコア性を保証されるべく、これらをHTMLスキームかSGMLスキームかXMLスキームかで統合していくようになり、すべてをコンテクスチュアルにすることがやっと重視されるようになっていったのである。 

≪032≫  デジタルアーカイブの編集がナレッジサイトとして機能するには、格納(storage)と検索(retrieval)と表示(rendering)とがそれなりに連続的に対応する必要がある。編集文献学はこの連続的対応性を、プライス・コールドウェルが「意味分子」(molecular sememics)と名付けたものでつなげようとしてきた。けれどもぼくが見るに、この意味分子のアイディアは来たるべきデジタル・エディティングシステムの設計思想にほとんど組み込まれてはいない。共用TEIの上で旧来のエディティングワークが重視されているばかりなのである。 

≪034≫  デジタル・ナレッジサイトがこの程度で終わってはいいはずがない。約二〇〇〇年にわたった書物の集積を背景に、そのテキストを時代別・領域別・著者別・アイテム別などにストレージしつつも、まずはそのヴァリアント(異文)を自在にリトリーヴァル(検索)できて、かつどんな知の抽出にも応じられる自在なレンダリングを可能にした構造が求められなければならないはずなのだ。 

≪029≫  そのためメインフレーム上での印刷テキストのスキャニングとOCRによる読み取りが先行し、そのうち世界中にインターネットが普及するようになると、それらのデジタルテキストのSGML(標準一般化マークアップ言語)化や、さらにはXML(SGMLの進化系)化への転換があわただしく試みられた。こうして大半のテクスチュアル・エディティングがマークアップ言語によって進められ、しだいに相互参照が可能なアパラタスとしての電子的体裁を整えていくようになった。 

≪031≫  こういうことを実現するために学術的に共用されるようになったのが、編集文献学がテキストの共通コード化のためのデファクトスタンダードにしつつあるTEIだった。しかし、いつまでもTEIに頼っていていいのかどうかというと、ややあやしい。TEIに代わる構想にどういうものがありうるのかということもいまのところは検討されていない。 

≪033≫  これは編集文献学が、世にあらわれたベーステキスト(基点テキスト)と編集されたコピーテキスト(基底テキスト)の区別に妙にこだわりすぎてきたからだった。 

≪035≫  これまでの厖大な書物の集積は、それらに明示されてきた目次の集積として、またその大目次を細部化する中目次や小目次の束の再構成構造として、用意されていくべきだろう。ぼくがイシス編集学校の朋輩とともに組み立ての途上にある「目次録」などが、その用意の一例だ。 

≪036≫  いくつか気がついたことを加えておく。現状のデジタルアーカイブだって、来たるべきナレッジサイトのための工夫ができるだろうということだ。たとえば次のような工夫が試みられていい。

 ①まずは、SGMLやXMLの文法がどのような特定文書のインスタンスに適用するかを規定するDTD(document type definition)を充実させることである。編集工学的にはDTDに十二用法や六四技法などの活用が想定できる。 

≪038≫  ③コンテンツを収納するプログラムとそれをユーザーの要求に応えて抽出するインターフェースをつなぐ「相互リンクのトポロジー」の確立が望まれる。それには、データ(テキスト、画像、音声ファイル、動画)に対してできるかぎりメタデータを付加し、データのほうをマイクロコンテンツの組み合わせとして多重化して、こうして生じたデータ片による「リンクの束」を多様にクロスレファランスさせていくことが必要だろう。 

≪040≫  ⑤明日のナレッジサイトのためのモジュールとなるような、いくつもの互換性に富んだ柔軟な知的リポジトリーを少しずつつないでいくべきである。かつてフーコーが『知の考古学』で重視したエノンセ(言表体)という編集単位など、いまこそ電子的活用の対象になるべきである。  

≪037≫  ②多様なデジタルテキストの背景を大学図書館や公共図書館の書棚に対応した情報インデックス組織によって保証して、これに連動した編集可能型リポジトリー(デジタルオブジェクト収蔵庫)の新たな設計にできるかぎりとりくむべきだろう。ただし、このためには日本の大学図書館や公共図書館のデジタルエディティング・システムの改変編集に着手する必要がある。 

≪039≫  ④やがて千夜千冊などもそのようになるといいと思っているのだが、デジタルエディティングの独壇場は、エクスプラネタリー・ノートとテクスチュアル・ノートあるいはコンテクスチュアル・ノートを、いくらでも加えられることにある。エクスプラネタリー・ノートでは解説項目を充実させ、テクスチュアル・ノートやコンテクスチュアル・ノートではユーザーの活用度の拡張が増すにつれ、ナレッジサイトの圧倒的充実をつくることができる。 

≪041≫  以上のような工夫が望まれるのだが、現時点で各種の大学や企業が運用しているアーカイブやエンジンやリポジトリーは、かつてメインフレーマーが用意した旧態依然とした設計にもとづいたマッチング・システムの援用であるため、ほとんど横につながらないばかりか、その機能自体がほぼ死んでいる。ここは急がばまわれで、各自のリポジトリーとマッチング・システムに新たな編集機能を加えていくべきだろう。 

≪042≫  本書は、大学などの研究者が「編集」を知的システムとして積極的にとりこむための入口を示したものだった。それなりの起爆剤にはなっている。 

≪044≫  それには、スーパーエディターをコアとして、著者、研究者、読書家、批評者、エディター、デザイナー、ヴィジュアルディレクター、情報アナリスト、プログラマー、システムエンジニア、ウェブマスター、コピーライター、検索者、校閲者などが有機的に連なる組織と、出版・印刷・流通・広告・マーケティングを律する組織とが、新たな「意味の市場」を創発させるべく大胆に組み合わさることである。かつてヴァネヴァー・ブッシュやテッド・ネルソンが願っていたことだった。 

≪043≫  しかし、おそらく新たなナレッジサイトのためのデジタルアーカイブが劇的に生まれる最大の可能性は、一方ではそうした学知の側からのデジタル・リベラルアーツの構築と編集とともに、他方では、知的情報のバリューチェーンとサプライチェーンとを統合できるプロデュース&ディレクター組織が出現することや、新たな研究機関や産業界や企業が誕生することにあるのではないかとも思われる。 

≪045≫  むろん、こんな組織は大学にも研究機関にも企業にも、まだ登場していない。それなのに社会は厖大なテキストをあたかも廃棄物のごとく電子排出し、莫大なビッグデータを企業に戻しつつあるわけである。これらの処理に困惑するのなら、そろそろこのような知的編集組織の浮上こそ急務になっているはずなのだ。 

≪046≫  今夜はあくまで「編集文献学」の断面を紹介するにとどめたが、すでに察知されているように、編集が「電子の知」に関与するには、学知と書籍と欲望と商品とをもっとダイナミックにまたいでいく必要がある。そのためには、編集文献学は学術テキストだけではなくニューステキストにもポップテキストにもかかわるべきであり、学際的には文化人類学や認知科学や表象科学にもかかわるべきなのである。編集文献には映画もマンガもアニメも、ファッション・アイテムも商品の費目も連結されるべきなのだ。 

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新様式のコミュニティ実装力

レジリエンス=パッシブル

コロナ感染拡大の警鐘

集団免疫力獲得の鍵は新様式実装

今回のコロナ禍におけるテクノロジー実装競争には3つの特徴がある。             (以下の3つは、上掲テクノロジーの社会的実装力の3つの特徴に相当する)

生活者にとってテクノロジーを使うことが命を守るという最も重要な役割と結びつき、コミュニティの課題となった。

利用者・生活者とプラットフォーマーの関係

今や絵空事や言い訳としてではなく「多様なSocial Goodに対して如何に貢献しているかを示す」ことが地域コミュニティに求められており、また、この「Social Good」の中心的テーマが、コロナ禍の前の気候変動から、パンデミックを経て人々の健康へ、そして最近ではアメリカでの人種差別問題を受けて人権へと拡大したことを指摘する。COL@BAは、2030年のグローバルアジェンダ17項目の中の 「 3.すべての人に健康と福祉を 11.住み続けられるまちづくりを 16.平和と公正をすべての人に 17.パートナーシップで目標を達成しよう 」に軸足を据え 、サーキュラー経済の一員として、サーキュラーグーグルのプラットフォームを信頼し、12.つくる責任 つかう責任 を併せて、普遍的、不可分で、変革的な目標の実現に向けて今、行動を開始します 。

この競争をかたちづくるのは、「コミュニティのフォーカシング(リテラシー)力」

コロナとの戦いが⻑期化する中で、まだ最終的な勝敗は見えていない。しかし、この競争を形作るのは間違いなく「新様式のコミュニティ実装力」というパワーだ。この戦いにおいて、⺠主的なコミュニティが取りえる道は、健康・住民の命を守るソーシャルグッドの実現という目的において、地域コミュニティが新様式の実装を進めることである。 COL@BAはこのソーシャルグッズの創出基盤をコミュニティに提供し、リテラシー向上に貢献します。

フォーカシングに必要なフェルトセンスを始動するSDE(セルフ・ディベロプメント・エンジン)

多様な環境で成長する個人には自己成長力(生命力)が備わっている。先験的統覚(獲得形質)により活動源を生み出す装置(指向形態)を自己開発エンジンと名付ける。構成要素は、何のために(目的)、何を(目標)、どうする(方法)、そのためのルール(制約条件)となる。多様な個人が聚合し、多様な志を集合し、脈絡を通じ、大志として繕い、紡ぎ、縫い合わせれば異図(意図)が通じ、異図が織り混まれ、生地(共有地)となり、大志が仕上がります。


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