日本とは何か()


表示用スプレッドシート(コラバ免疫サポート)
読書・独歩 目次 フォーカシング

≪01≫ 
そら見つ日本(やまと)の国。 
この名はニギハヤヒによって作られた。 
そのニギハヤヒを祖とする物部氏。 
かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。  
蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。  
それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。  
いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。  
いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。  
物部の謎は、日本の謎である。

≪02≫ 数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。

≪03≫  研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。

≪04≫  いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。

≪05≫  だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ)という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。

≪06≫  なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。

≪07≫  いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。

≪08≫  けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。

≪09≫  一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。

≪010≫  物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。

≪011≫  まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。

≪012≫  では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。

≪013≫  一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきた。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきた。

≪014≫  しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのである。このことについてはあとで詳しくのべるけれど、いまそれを端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。

≪015≫  本書は、この謎にかかわって、類書にない仮説を展開してみせた。著者の関裕二には、これ以前に『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』があって、その総決算としてごく最近に本書が綴られた。1998年にも、本書の前身にあたる『消された王権・物部氏の謎』を書いた。

≪016≫  著者は歴史作家という肩書になっているが、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』を発表して以来、つねに古代日本の語られざる謎の組み上げをめざして知的踏査を試みてきた。最近は『かごめ歌の暗号』で、例の「籠の中の鳥」の正体を追いかけた。その姿勢と鋭い推理力は、そんじょそこいらのアカデミシャンの顔色をなさしむるところがある。お偉いさんたちの学説にも惑わされていない。むろん、お偉いさんの成果もそれなりに咀嚼している。

≪017≫  とはいえ、これから紹介する著者の仮説が全面的に当たっているかどうかは、わからない。いろいろ齟齬もあるし、まだ論証が薄いところも少なくない。なにしろ物部氏の謎は、古代史の謎のなかの謎なのだ。けれども、ぼくが類書を読んできたかぎりでは、いまのところはこの仮説が一番おもしろい。まあ、覗いてみてほしい。

≪018≫  仮説のクライマックスに入る前に、古代日本の最も重大な前史にあたるところを、予備知識として理解しておいたほうがいいだろう。記紀神話に属するものだ。

≪019≫  したがって、これから書くことには史実とはいえないところが多いのだが、あるいはまだ確証されていないことも多いのだが、それならそれらのすべてデタラメかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そこを忖度して、まずは読まれたい。大事なのは、アブダクションの効いた想像力をはたらかせることだ。

≪020≫  時代は天皇初代の神武のころの話に一気にさかのぼる。『日本書紀』には、こう書いてある。

≪021≫  出雲に国譲りを強制したアマテラスの一族は、使節や息子たちを「地上」に降臨させることを思いつく。何度かの失敗のあと、ホノニニギノミコトが全権を担った。ホノニニギは猿田彦らに導かれて真床覆衾(まどこおうふすま)にくるまり、日向の高千穂に降りた。

≪022≫  ホノニニギはその後、長屋の笠狭碕(野間岬)に赴き、さらに南九州の各地で子孫を落とすと、そのなかからヒコホホデミ(山幸彦)が衣鉢を継承し、その子にウガヤフキアエズが生まれた。さらにその子にイワレヒコが育った。これが『書紀』によって初代天皇とされたカムヤマトイワレヒコこと、神武天皇である。

≪023≫  神武は45歳のときに、こんなことを側近たちに洩らした。「わが天祖(あまつおや)が西のほとりに降臨して179万2470余年が過ぎた。しかし遠く遥かな地では、われらの徳も及ばず、村々の長(おさ)も境を分かって互いに争っている。ついては、シオツチノオジ(塩土老翁)に聞いたところ、東のほうに四方を山に囲まれた美しい土地があって、そこに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいるらしい。

≪024≫  思うに、そここそわれらの大業を広めるにふさわしいのではないか。その飛び降りた者はニギハヤヒノミコト(饒速日命)という名だとも聞いた。私はその地に赴いてみようかと思う」。

≪025≫  神武は、この年の10月5日、もろもろの皇子や軍団を率いて東をめざした。神武東征のスタートである。

≪026≫ 北九州の遠賀川付近から瀬戸内に入り、ついに難波碕に辿り着いた。そこから淀川をさかのぼって河内の草香邑(くさかのむら)に寄り、ついで竜田(奈良県葛城郡王子)へ向かおうとしたところ、あまりに道が狭く、生駒山に方向転換をした。

≪027≫ このとき、この神武の動向を聞きつけた者がいた。長髄彦(ナガスネヒコ)である。どうやらそのあたり(河内・大和一帯)を押さえている土着の首長らしい。

≪028≫ 長髄彦は「天神(あまつかみ)がやってくるというのは、わが領域を奪おうとしているにちがいない」と判断し、兵をあげて神武一行と対峙した。両軍は孔舎衛坂(くさえのさか=東大阪日下町)で激突し、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した(その後、イツセは紀の国で亡くなった)。

≪029≫  苦戦を強いられた神武一行は、「私は日神(ひのかみ)の子孫なのに、まっすぐ東に向かったのはまちがいだった」と言い(太陽の運行に逆らったと言い)、タギシミミノミコト(手研耳命)を先頭に、迂回して熊野からヤマトに入ることにした。

≪030≫  熊野にはタカクラジ(高倉下)という者がいて、あるとき夢を見た。アマテラスがタケミカヅチ(武甕雷神・建御雷神)に語って、「葦原中ツ国はまだ乱れている。お前が行って和ませなさい」と言われたというのである。タケミカヅチは自分が行かなくとも、私のもっている立派な剣があれば平定は可能だろうから、これを天孫(神武)に提供しようと判断した。

≪031≫  この剣は「フツノミタマ」というものだった。タカクラジが夢からさめると、はたして「フツノミタマ」が蔵にある。さっそく神武に差し上げた。

≪032≫  かくて神武は進軍を始めるのだが、道が険しくて難渋する。そのとき八咫烏(ヤタノカラス)が飛んできて、神武の一行を導いた。そこにヒノオミノミコト(日臣命)が加わった(ヒノオミは大伴氏の祖。道臣命ともいわれる)。

≪033≫  それでも一行はやはり苦戦を強いられたのだが、なんとかヤマトに近づき、莵田(うだ)の高倉山(奈良県大宇陀)にのぼって周囲を見渡すことができた。国見丘にヤソタケル(八十梟師)が軍団を従えて陣取っているのが見えた(『古事記』ではヤソタケルは土蜘蛛とされる)。これではヤマト入りは難しい。どうするか。

≪034≫  するとその晩、神武は夢を見た。天神(あまつかみ)があらわれ、こう告げた。「天香具山の社のなかの土をとって、天平瓦(あまのひらか)を80枚つくり、あわせて厳甕(いつへ)をつくり、天神地祇を敬って祇り、厳呪詛をおこないなさい。そうすれば敵は平伏するだろう」。

≪035≫  神武はさっそく、シイネツヒコ(椎根津彦)に蓑笠をかぶらせて老父の恰好をさせ、弟には老婆の恰好をさせ、天香具山の土をとりにいかせた。案の定、敵兵が道を埋めていたが、二人の姿を見ると「みっともないやつらだ」と笑い、口々に罵声を浴びせた。その隙をついて二人は山に入り、土をとって帰ってきた。神武は丹生の川上(吉野あたり)で八十平瓦(やそひらか)と厳甕をつくって、天神地祇に祈って敵の調伏をした。

≪036≫  事態は突破できそうだった。神武たちはいよいよ長髄彦を攻めた。すると長髄彦が使いをよこして、こんなことを言ってきた。

≪037≫  「すでにこの地には天神(あまつかみ)のクシタマニギハヤヒノミコト(櫛玉饒速日命)が降りてこられ、わが妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)を娶り、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命=可美真手命)をお生みになり、この地をヤマトと名付けられました。そこで私はニギハヤヒを主君として仕えているのです。いったい天神はお二人いるのでしょうか。ひょっとしたらあなたは天神の名を騙り、この地を乗っ取ろうとしているのではないですか」。

≪038≫  神武が答える。「天神の子はたくさんいるのです。もし、あなたが主君と仰ぐニギハヤヒが天神の子であるというなら、必ずその証拠の品があるはずでしょう。それを示してほしい」。

≪039≫  さっそく長髄彦は天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を差し出した。神武は納得する。ところが、長髄彦は戦さをやめる気はなかった。これを察知したニギハヤヒは事態がねじれていくのをおそれて、長髄彦を殺してしまった。

≪040≫  神武はニギハヤヒのこの処置を見て、ニギハヤヒが自分に忠誠を誓っていると判断し、和睦し、寵愛することにした。かくしてニギハヤヒは物部氏の祖となった。神武は、初代天皇ハツクニシラススメラミコトとして即位した。

≪041≫  これが、『日本書紀』が伝えている物部氏の物語の発端のあらましである。それは、神武のヤマト入りと即位の物語を決定づけるストーリーとプロットをもっていた(ちなみに『古事記』にもニギハヤヒの一族が神武に恭順を示した話は載っているが、長髄彦の誅殺にはまったくふれていない)。

≪042≫  この、すこぶる曰く付きの物語で見逃せないのは、ヤマトにはすでに神武以前にニギハヤヒが降りていた(入っていた)だろうということ、そして、その地を「そら見つ日本(ヤマト)」と名付けていたということ、かつ、ニギハヤヒは神武同様のなんらかの神宝を持っていたということだ。

≪043≫  この記述にしたがうと、『日本書紀』はなんと物部氏と天皇家を同等にみなしていたということになる。つまりニギハヤヒは天津神の一族の祖か、さもなくばアナザー天孫族の一族のリーダーなのだ。それだけではなく、ニギハヤヒのほうが神武のヤマト入りより先なのだ。

≪044≫  これは天皇家に先行する「もうひとつの天皇家」を想定させるものとして、驚くべきことではあるが、ただし、これだけでは合点がいかないことも多々ある。

≪045≫  ヤマトを守るために戦おうとしていた長髄彦の勢力からすると、神武一行を蹴散らすのは容易だったはずなのに、それをしなかったのはなぜなのか。のみならず、ニギハヤヒは長髄彦を殺してまで、神武に対する恭順を示したのはなぜなのか。長髄彦がニギハヤヒを守って神武に対決した理由も、これだけでは意味がよくわからない。

≪046≫  いや、そもそも二人の天神(天津神)がいることの理由がわかりにくくなっている。天皇家の祖先にあたるホノニニギ以下の天孫族が九州を基盤に東に上ってきたのに対して、なぜにまたニギハヤヒは単独で直接にヤマトに入っていたのか、その事情も見えない。『日本書紀』はニギハヤヒがヤマト(大和=日本)の命名者だと書いているのだから、ヤマト朝廷のルーツもニギハヤヒにありそうなのであるが、その関係が見えにくい。

≪047≫  このような謎を解くには、さまざまな物部伝承を調べなければならない。本書もさまざまな伝承から仮説の鍵を持ち出している。

≪048≫  たとえばそのひとつ、島根県の大田(おおだ)に物部神社がある。ウマシマジを祀っている。

≪049≫  ここの社伝では、ウマシマジは神武東征にあたって神武を助け、その功績が認められてフツノミタマの剣を賜ったとある。ウマシマジはその後、天香山命(ウマシマジの腹違いの兄)とともに兵を率いて尾張・美濃・越を平定し、さらに西に進んで播磨・丹波をへて石見に入り、そこの鶴降山(つるぶせん)で国見をして、八百山が天香具山に似ていたので、そこに居を構えたというふうにある。

≪050≫  神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ。この社伝通りだとすると、物部氏はずいぶん動きまわっていたことになる。しかし、この話でいささか解せないのは、それほどに統一ヤマトの成就に功績のあるウマシマジが、いったいなぜ大和から遠い石見あたりに逼塞するかのように収まってしまったのかということだ。

≪051≫  また、ひとつ。さっきも示しておいたように、物部系の事跡については『先代旧事本紀』という一書がある。平安期の延喜年間に書かれた。誰が書いたかはわかっていない。それはともかくとして、ここにはウマシマジは神武がヤマトに入ったのちに、天物部(あまのもののべ)を率いて各地を平定したことになっている。これは何なのか。

≪052≫  古代日本でアマという言葉をもつのは、「天なるもの」か「海なるもの」を示している。天ならば天孫系(天皇家ないしは渡来系)で、海ならば海洋部族の系譜だ。しかし、記述にはそのどちらとも言明されてはいない。こういうことはよくある。日本の事跡記述はデュアルなのである。

≪053≫  いずれにしても、天物部による各地の平定があらかた終わったあと、神武は即位し、ヤマト建国がなされた。『先代旧事本紀』はそのあとの出来事についても、気がかりなことを書いていた。

≪054≫  ウマシマジは天瑞宝(あまみつのたから)を奉献して、天皇のための鎮祭(しずめまつり)をとりおこなったというのだ。この天瑞宝が、物部氏の神宝として有名な「十種神宝」(とくさのかんだから)となったともある。このとき、ヤマト朝廷の「践祚」などに関する儀礼や行事が整ったというふうにも書いてある。

≪055≫  物部が天皇家に「十種神宝」を贈って、それが即位儀礼の中核になったとは、にわかに肯定しがたいけれど、では、ほかに初代天皇の即位に関する記述がどこかにあるかといえば、まったくお手上げなのだ。

≪056≫  天物部やウマシマジの地方での活躍は、『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないことだった。しかし、こうした記述をそのまま認めるとすると、これは物部氏の儀式を天皇家が踏襲したというふうになろう。

≪057≫  これは聞きずてならない。いや、胸躍ることである。なぜなら、『日本書記』神武紀は、ニギハヤヒの貢献をあえて重視したわけだ。物部氏の祖が初代天皇即位にあずかっていることは、認めたのである。聞きずてならないにもかかわらず、無視はできなかったのだ。

≪058≫  いいかえれば、古代日本の中央に君臨する記紀テキストと、傍系にすぎない物部氏の記述とは、互いに不備でありながら、互いに補完しあっていると言わざるをえないのだ。ただし、そこには奇妙な「ねじれ」がおこっている。その「ねじれ」の理由こそ、おそらくは「天皇家の謎」にも「物部氏の正体」にもかかわっている。そう見ていくと、いろいろの事跡や記録が気になってくる。

≪050≫  神武に恭順したのはニギハヤヒの子のウマシマジのほうで、そのウマシマジこそが各地の平定を引き受けたというのだ。この社伝通りだとすると、物部氏はずいぶん動きまわっていたことになる。しかし、この話でいささか解せないのは、それほどに統一ヤマトの成就に功績のあるウマシマジが、いったいなぜ大和から遠い石見あたりに逼塞するかのように収まってしまったのかということだ。

≪059≫  こういうこともある。天皇即位後の最初の新嘗祭では、造酒童女(さかつこ)が神事をしたあと、物部氏が参加する。こういう例は数ある他の豪族には見られない。物部氏だけが関与しているトップシークレットなのだ。

≪060≫  また、ひとつ。こういうこともある。『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒがヤマトに入ったときに、そこに猿女君(サルメノキミ)が同行していて、その猿女がその後の天皇の即位や鎮魂にあたって祝詞をあげたというふうにも書いているのだ。

≪061≫  猿女とは天の岩屋の前で踊ったアメノウズメの一族をいう。アマテラスによっては高天原パンテオンの収拾がつかなくなったとき(スサノオとの対立で)、これを救ったのが猿女たちだった。実はホノニニギの天孫降臨のときも猿女がかかわっている。その猿女がニギハヤヒの降臨にかかわっていた。

≪062≫  まあ、こういった話がいくらでも出てくるのだ。しかしながら、このような断片をたんに寄せ集めても、なぜ物部氏の儀式を天皇家が踏襲するのか、その真意はあいかわらずはかりがたい。「ねじれ」も浮上してこない。

≪063≫  まだまだ物部に関する記述は各方面にいろいろあるけれど、とりあえずはこのくらいにして、ごく基本的な材料は提供したということにしておく。

≪064≫  それでもすでに予想がつくように、これらの材料からはどうみても、物部氏が天皇家の君臨以前の王朝づくりにかかわっているのは確実なのである。ただ、「ねじれ」の原因が見えてこないのだ。

≪065≫  ぼくが本書をとりあげたのは、この「ねじれ」を暗示する出来事に関裕二が着目していたからだった。その着目点は一首の「歌」と「弓」にかかわっていた。

≪066≫  元明天皇が和銅元年(708)に詠んだ歌がある。『万葉集』に載っている。こういう歌だ。「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」。

≪067≫  元明天皇が誰かが弓の弦を鳴らしているのに脅えているらしい。岩波の『万葉集』の注解では、これから東北の争乱などを制圧するために、武人たちが軍事訓練をしているのを元明天皇は気になさっている。そういう解釈になっている。

≪068≫  しかし、東北の争乱を平定するための武人たちの訓練を天皇が脅えるというのは、おかしい。むしろ頼もしく思ってもいいくらいであろう。だからこの解釈は当たっていない。そこで、上山春平は「もののふ」は武人たちのことではなく、特定の物部氏のことだと見た。それなら「もののふの大臣」とは、石上朝臣麻呂のことなのである。当時の大臣だった。

≪069≫ 石上は物部の主流の家系にあたる。石上神宮は物部氏を祀っている。数々の不思議な儀式もあって、しばしば「物部の呪術」ともいわれている。

≪070≫  たとえば「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える。これは宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)とまったく同じ呪詞で、天皇家のオリジナルとは思えない。物部の呪詞がまじっていった。

≪071≫  そういう物部一族の頂点にいる石上朝臣麻呂が、兵士が弓の弦を鳴らすのとあわせて、楯を立てているというのだ。デモンストレーションである。おそらく天皇はそのデモンストレーションの真意に脅えているにちがいない。関はそのように推理した。

≪072≫  なぜそんな推理がありうるのか。実は、元明天皇は藤原不比等によって擁立された天皇だった。その元明天皇のあと、平城京の遷都がおこる。これによって不比等の一族の繁栄が確立する(857夜)。一方逆に、石上麻呂は、この歌の2年後に平城京が遷都されたときは、藤原京に置き去りにされた。そういう宿命をもつ。つまり中央から切られたのだ。不比等の仕業であったろう。

≪073≫  こういう事情を勘案していくと、元明天皇が恐れたのは、石上麻呂に代表される物部一族やその残党がおこしそうな「何か」を恐れていたということになる。その「何か」がデモンストレーションとしての「ますらをの鞆の音」に象徴されていたのであろう。それがつまり、弓の弦を鳴らす音だった。

≪074≫  古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。その呪術を石川麻呂が宮中で見せたのだ。天皇はギョッとした。いや、もっとギョッとしたのは藤原不比等だったろう。

≪075≫  なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。しかし天皇と藤原氏には、こんなところで三輪の神が威力を見せてもらっては困るのだ。

≪076≫  三輪の神とは何かというと、言わずと知れた化け物じみたオオモノヌシ(大物主神)である。そのオオモノヌシを石川麻呂が宮中で持ち出した。オオモノヌシの呪術は、すでに藤原体制が整いつつあった現行天皇家にとっては、持ち出されては困る「何か」であった。

≪077≫  かくて話はいよいよクライマックスにさしかかる。ニギハヤヒは三輪の神の謎にかかわっていたのだ。

≪074≫  古代日本では、弓の弦を鳴らすことはきわめて重要な呪術であった。その呪術を石川麻呂が宮中で見せたのだ。天皇はギョッとした。いや、もっとギョッとしたのは藤原不比等だったろう。

≪075≫  なぜなら、この呪術はもともとは三輪山の神を呼び出す呪術だったからである。タマフリの一種と見ればいい。しかし天皇と藤原氏には、こんなところで三輪の神が威力を見せてもらっては困るのだ。

≪076≫  三輪の神とは何かというと、言わずと知れた化け物じみたオオモノヌシ(大物主神)である。そのオオモノヌシを石川麻呂が宮中で持ち出した。オオモノヌシの呪術は、すでに藤原体制が整いつつあった現行天皇家にとっては、持ち出されては困る「何か」であった。

≪077≫  かくて話はいよいよクライマックスにさしかかる。ニギハヤヒは三輪の神の謎にかかわっていたのだ。

≪078≫  オオモノヌシについては、日をあらためて大いに議論しなければならないほど重大な神格をもっている。

≪079≫  いまはそこを省いて物部伝承の核心に向かっていくことにするが、それでも次のことを知っておく必要がある。オオモノヌシは古代日本形成期の時と所をこえて(時空をこえて)、二重三重に重要場面の中心人物になっているということだ。少なくとも二通りの重大なオオモノヌシがいる。出雲神であって、三輪神であるというデュアル・キャラクターとしてのオオモノヌシだ。A面とB面としておく。

≪080≫  A面のほうのオオモノヌシは出雲パンテオンで大活躍する。スサノオの6世孫にあたる。ただし名前がいくつもある。『古事記』ではオオクニヌシ(大国主命)、あるいはアシハラシコヲ(蘆原醜男)、ヤチホコ(八千矛)などとして、『日本書紀』では主としてオオナムチ(大己貴神・大穴牟遅神)として出てくる。

≪081≫  これらはまったく一緒だとはいわないが、まずは同格神ないしは近似神と見ていいだろう。しかも、これらには別名としてオオモノヌシの名も当てられている。いまはとりあえず「大国主」の名に統一しておいて話をすすめるが、それでも出雲神話における大国主は5つものストーリー&プロットに出てくる主人公のため、複雑をきわめる。

≪082≫  (1)因幡の素兎伝説、(2)根の国の物語、(3)八千矛の物語、(4)国作り神話、(5)国譲り神話、だ。出雲パンテオンは大国主だらけなのだ。

≪083≫  このうち、今夜の話にかかわってくるのは(4)と(5)である。(4)の「国作り」においては、大国主はスクナヒコナ(少名彦神)と協力して「蘆原中ツ国」を作ったということになる。「蘆原中ツ国」はヤマト朝廷ないしは原日本国のモデルだと思えばいい。もうちょっとわかりやすくいえば、いわば「出雲王朝」とでもいうべき国を確立させた。高天原の天孫一族(つまりは天皇の一族)に先行して、出雲近辺のどこかに国のモデルを作ったということだ。

≪084≫  ただし、この先行モデルがはたして本当に出雲地方の国のことだったのかどうかははっきりしない。別の地方の話かもしれないし、別のモデルが混じっているかもしれない。

≪085≫  (5)の「国譲り」においては、大国主はその国を、アマテラスあるいは神武、あるいはその後に続く天皇一族のヤマト朝廷作りのために、ついに譲ってしまったというふうになる。

≪086≫  話はこうだ。アマテラスは出雲をほしがった。そのためアメノオシホミミ(天忍穂耳命)を遣わしたが、戻ってきた。次に使者にたったアメノホヒノは大国主の威力に感化されて帰ってこない。そこでアメノワカヒコ(天稚彦)を使者とするのだが、殺されてしまった。その弔問のため、今度はアジシキタカヒコネが訪れたのだが、埒はあかない。

≪087≫  ついにタケミカヅチ(前出=のちの春日・鹿島の神)とフツヌシ(経津主命)が出向くことになった。タケミカヅチは大国主に出会うと、十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、これを逆さまに波がしらに突き立てて脅し、「お前の領有する蘆原中ツ国は、アマテラスの支配すべき土地だ。どう思うか」と問いつめた。大国主は、その返事はわが子のコトシロヌシ(事代主神)が答えると言う。コトシロヌシは中ツ国をアマテラスに献上してもいいと言う。

≪088≫  やむなく大国主は、ついでタケミナカタ(建御名方神=のちの諏訪の神)を交渉にあたらせた。が、タケミナカタはタケミカヅチに押し切られた。こうして出雲は「国譲り」されることになった。

≪089≫  かくてアメノオシシホホミにあらためて降臨の命令がくだるのだが、オシホホミは自分のかわりに息子のホノニニギを行かせることにした。これが真床追衾による天孫降臨になる。

≪090≫  こういう展開になっているのだが、ここでイミシンなのは、国譲りをしたA面の大国主が、国を提供するかわりに出雲神をちゃんと祀りなさいと約束させていることである(これが出雲大社のおこりだとされている)。このことは、実は大国主が実はオオモノヌシであって、三輪の神でもあるということにつながっていく。

≪091≫  そこでB面のオオモノヌシのことになる。これは三輪にまつわっている。ずばり三輪の大神としてのオオモノヌシだ。

≪092≫  この三輪の神話もいくつかにまたがる。蛇体にもなるし、オオナムチの和魂(にぎみたま)にもなる。神武記では、オオモノヌシは丹塗りの矢と化して、セヤダラタラヒメ(勢夜蛇多良比売)に通じたし、『古事記』崇神記では、イクタマヨリヒメのもとに通う素性の知れない男としてあらわれ、実はその正体が三輪山のオオモノヌシだったという話になる。いろいろなのだ。

≪093≫  なかで注目すべきなのは『日本書紀』の崇神紀にのべられている話で、ここに古代日本の天皇崇拝から伊勢信仰にいたる、まことに重要な秘密の数々が暗示されている。そこから物部の秘密も派生する。大略、こういう話だ。

≪094≫  ミマキイリヒコこと崇神天皇は、神武から数えれば第10代にあたる。都を大和の磯城(しき)の瑞籬宮(みずがきのみや)に移した。ところが疫病が多く、治世の困難が続く。

≪095≫  いろいろ考えてみると、アマテラスとヤマトノオオクニタマの二神を一緒くたにして、しかも天皇の御殿内部に祀っていたのが問題なのだろうという気になってきた。

≪096≫  そこでトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)に託して、アマテラスを大和の笠縫に祀った。またヌナキイリヒメ(淳名城入姫)にオオクニタマを託した。けれどもヌナキイリヒメは病気になった。どうもいけない。このとき、崇神の大叔母のヤマトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)が激しく神懸かった。トランス状態になった。

≪097≫  驚いた崇神はさっそく神占いをした。ヤマトトビモモソヒメの口を借りた神託は、「三輪の大神オオモノヌシを敬って祀りなさい」という意外なものだった。崇神はまだ納得がいかない。するとオオモノヌシは「わが子の太田田根子を祭主として祀れ」と言ってきた。

≪098≫  いったい大物主とか太田田根子とは何者なのか。けれども崇神は従った。太田田根子を捜しだしもした。こうして事態がしだいにおさまってきた。

≪099≫  やがてモモソヒメはオオモノヌシのもとに嫁いだ。けれどもオオモノヌシは昼のあいだは姿を見せず、夜に忍んでくるだけである。モモソヒメは堪えられずに、姿が見たいとせがむと、オオモノヌシは「翌朝の櫛匣を見よ」と言う。モモソヒメはそこに、おぞましい蛇の姿があるのを見た。オオモノヌシは蛇体だったのである。やがてモモソヒメは陰部を突かれ、死ぬ。巨大な箸墓(はしはか)に祀られた。いま、纏向(まきむく)遺跡のなかにある。

≪0100≫  オオモノヌシによって大和が安泰になったので、崇神は次には、各地に四道将軍を派遣した。各地を平定しようというのだ。

≪0101≫  北陸を大彦命に、武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(たにわのちぬし)を丹波に託した。なかでも吉備津彦は山陰山陽をよく支配した。のちの吉備の国である。かくて万事が治まってきた。こうして崇神はハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)となった。

≪102≫  ざっとこういう話なのだが、ここで周知の大事なことをあきらかにしておかなくてはいけないのは、1071夜の『天皇誕生』でも書いたように、記紀神話においてはハツクニシラススメラミコトは二人になっていて、それが神武と崇神であるということだ。

≪103≫  もっともこれにはすでに決着がついていて、実際の初代天皇ハツクニシラススメラミコトは崇神だったということになっている。ということは、神武の話や東征の話はあとから付会したものだということになる。神武天皇とはフィクションなのである。架空の人物なのだ。

≪104≫  つまり、これまでのべてきた神武がヤマト入りするにあたって、ニギハヤヒの力を譲ってもらったり、長髄彦を殺害したという話は、あとから辻褄をあわせた出来事だったのだ。さっきいろいろ書いておいた神武の話は、そのままか、ないしはそのうちのかなりの部分を、崇神やそれ以降の天皇家の出来事にあてはめなくてはいけない。

≪105≫  ということを断っておいて、さて、ここまでの話で、何が見えてくるかというと、こういうことになる。

≪106≫  まずは物部=石上の一族は「弓の弦を鳴らす呪術」を通じて、三輪に結びついていたということだ。物部氏は三輪と深い縁をもっていた。

≪107≫  これは、物部が三輪を支配していたことを物語る。いいかえればニギハヤヒは三輪の地の支配者だったということになる。先行ヤマトの支配者だ。そのニギハヤヒは三輪の大神オオモノヌシを奉じていた。

≪108≫  ところが、三輪の神のオオモノヌシは、もともと出雲(あるいはその近辺)と結びついていた。大国主とはオオモノヌシのデュアル・キャラクターだった。そして、その大国主が「蘆原中ツ国」という国のモデルをつくっていた。このモデルをアマテラスに象徴される天孫一族がほしがった。

≪109≫  すったもんだのすえ、大国主は国譲りを承認した。そのかわり、出雲と三輪にまたがる威力を称えつづけること、祀りつづけることを約束させた。天孫一族はこれを受容した。つまりヤマトは、こうして出雲を通してオオモノヌシを最重要視することになったのだ。

≪110≫  これらの事情が、のちに神武のヤマト入りにニギハヤヒがかかわった話に組みこまれた。おそらく、このような複雑な事情をもつ文脈を整えざるをえなくなったのが、崇神天皇なのである。だから、崇神まではヤマト朝廷はあきらかにオオモノヌシを大神と仰いだのだ。

≪111≫  いま、大神といえばアマテラスにしか使えない称号になっている。しかし、少なくとも崇神の時代前後は大神はオオモノヌシのことだった。しかしその後、アマテラスを大神(おおみかみ)と称することになると、オオモノヌシは「おおみわ」と称ばれる大神に格下げされた。これがいま、三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社である。今夜はそのあたりの説明は省くけれど、これは天皇(大王=おおきみ)の称号が「イリ彦」から「別(わけ)」に変わっていくあたりの変質で、もっと言うなら継体王朝以降に改変されたことだったろう。

≪112≫  さらにはっきりいえば、藤原氏が王権を牛耳ることになって、失われた歴史書『帝起』と『旧辞』(蘇我氏が焼亡させたということになっているが、これも真相ははっきりしない)を、新たに正史『日本書記』にまとめる段になって、アマテラスを一挙にオオモノヌシの優位においたのであったろう。そして、このとき、いっさいの「ねじれ」が生じることになったのだ。

≪113≫  だいたいは、こういうことだったのではないかと思われる。さあ、ここからは、さまざまな話を重ねて考えることができてこよう。

≪114≫  そもそもは、やっと崇神の時代にヤマト朝廷の基礎が築かれたのだろうということだ。それも、三輪を治めていた“オオモノ氏”の協力によるものだったろう。

≪115≫  その“オオモノ氏”の一族は、それでは最初から大和にいたのかというと、どうもそうではなく、出雲か山陰か山陽から来て大和の三輪山周辺に落ち着いたのであろう。そのことを暗示するひとつの例が、崇神による四道将軍・吉備津彦の派遣になっていく。吉備津彦がわざわざ山陰山陽の平定に派遣されたということは、そこにはすでに先行の国のモデルがあったということになる。

≪116≫  本書も、ここからは「三輪のオオモノヌシ」が実のところは「出雲のオオモノヌシ」(大国主)からの転身であること、しかし実際の国作りのモデルは大和ではなく、それに先行して出雲や吉備にもあったのではないかというふうになっていく。

≪117≫  さて、そうだとすると、出雲の国作りや国譲りの物語も考えなおすべきところがあるということになる。 そうなのである。本書は物部氏の本貫を吉備ないしは出雲にもっていく仮説だったのだ。なるほどそうであるのなら、太田の物部神社の伝承や、ウマシマジが丹波をへて石見に入ったという話もいささか合点がいく話になってくる。ニギハヤヒの一族は石見に逼塞したのではなくて、もとからその地方の勢力に深く関係していたわけだ。

≪118≫  そして、神武以前にニギハヤヒが長髄彦を伴ってヤマトを治めていたという、あのストーリー&プロットは、実は出雲を含む山陰山陽の出来事の投影だったということなのだ。 なお、大国主をめぐっては881夜で紹介したように、オオクニヌシ系とアメノヒボコ集団の対立と抗争という見方もあるのだが、ここではその視点は外してある。

≪119≫  それでは、いったい以上のような「物部氏の先行モデル」はいつごろヤマトに入ってきたのであろうか。いいかえれば「物部の東遷」とは、どういうものだったのか。天物部のような物部集団が移動したのだろうか。

≪120≫  それともモデルだけが動いたのか。そのモデル自体(システム?)のことをニギハヤヒとかフツノミタマというのだろうか。それこそは「神武の東遷」という物語そのもののモデルだったのか。今度は、こういう問題が浮上してこよう。

≪121≫  すでにのべておいたように、物部氏の祖のニギハヤヒは天磐船に乗ってヤマトに降臨したという。そして「そら見つ日本(ヤマト)の国」と、そこを呼んだ。 

≪122≫  このいきさつが何を物語っているかといえば、ニギハヤヒは神武のように西からやってきたか(天のアマ)、そうでなければ朝鮮半島や南方からやってきた(海のアマ)という想定になる。いったい物部はどこからヤマトに入ってきたというのだろうか。

≪123≫  そのひとつの候補が、出雲や吉備に先行していた物語だったのではないかというのが、本書の推論だ。これは十分に想定できることだ。

≪124≫  もっとも、このことについては、すでに原田常治の『古代日本正史』という本がセンセーショナルに予告していた。「ニギハヤヒは出雲から大和にやってきたオオモノヌシだ」という仮説だった。

≪125≫  しかしここで、もっと深くアブダクションしていくと、その出雲や吉備よりもさらに先行する出来事があるとも予想されてくる。神武がそうであったように、すべての物語は実は九州あるいは北九州から始まっていた(そうでなければ朝鮮半島であるが、この視点はここでは省略する)。

≪126≫  そうなのである。ここにはもっと大きな謎がからんでくるのかもしれない。古代史の最大の論争の標的になっている「邪馬台国はどこにあったのか」という論争が浮上してくるのだ。その邪馬台国のモデルが、いつ、どのように、誰によってヤマトに持ち込まれたのかという話が、根底でからんでくることになる。

≪127≫  これについては、もはや今夜に予定した話題をこえるので差し控えるが、すでに谷川健一の『白鳥伝説』や太田亮の『高良山史』などにも、いくつかのヒントが出ていた。 その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。

≪128≫  手短かにいえば、1011夜の『日本史の誕生』でも書いたように、中国の後漢が朝鮮半島をいよいよ制御できなくなったとき、日本に「倭国の大乱」がおこった。このとき卑弥呼が擁立されて邪馬台国ができたのであろうが、この擁立期ないしは、そのあとの邪馬台国と狗奴国との争闘後のトヨ(台与)の擁立のころに、物部氏とともに邪馬台国のモデルが東遷していったのではないかというのである。その時期こそ崇神天皇の時代にあたるのではないかというのだ。

≪129≫  これはヤマトトビモモソヒメの箸墓が、最近になって、とみに卑弥呼の墓ではないかという仮説ともつながって、はなはだ興味深い(ぼくはこの説に70パーセントは賛成だ)。しかし、どこまでが確実な推理なのかは、決めがたい。まあ、こんな仮説もあって、邪馬台国問題が大きく浮上してくるわけだった。 

≪127≫  これについては、もはや今夜に予定した話題をこえるので差し控えるが、すでに谷川健一の『白鳥伝説』や太田亮の『高良山史』などにも、いくつかのヒントが出ていた。 その仮説の大略は、邪馬台国を北九州の久留米付近の御井郡や山門郡あたりに想定し、そこにある高良山と物部氏のルーツを筑後流域に重ねようというものである。

≪128≫  手短かにいえば、1011夜の『日本史の誕生』でも書いたように、中国の後漢が朝鮮半島をいよいよ制御できなくなったとき、日本に「倭国の大乱」がおこった。このとき卑弥呼が擁立されて邪馬台国ができたのであろうが、この擁立期ないしは、そのあとの邪馬台国と狗奴国との争闘後のトヨ(台与)の擁立のころに、物部氏とともに邪馬台国のモデルが東遷していったのではないかというのである。その時期こそ崇神天皇の時代にあたるのではないかというのだ。

≪129≫  これはヤマトトビモモソヒメの箸墓が、最近になって、とみに卑弥呼の墓ではないかという仮説ともつながって、はなはだ興味深い(ぼくはこの説に70パーセントは賛成だ)。しかし、どこまでが確実な推理なのかは、決めがたい。まあ、こんな仮説もあって、邪馬台国問題が大きく浮上してくるわけだった。 

≪130≫  長くなってきましたね。このあたりで閉じましょう。 だいぶんはしょって話を進めてきたが、本書は物部と吉備の関係については、さらに詳しい推理を展開している。それは本書を読んでのたのしみにされたい。

≪131≫  ぼくとしては、これで、長年気になっていながらなかなか埒があかなかった「物部氏の謎」についての、とりあえずの封印を切ったということにする。 が、実のところは、これではまさに封印の結びをちょっと切っただけのことで、ここからはもっと驚くべき謎や仮説が結びの下の匣の中から飛び出てくるはずなのだ。物部の謎はパンドラの匣なのである。

≪132≫  そこには、まずはオオモノヌシをめぐる大問題がある。オオモノヌシの「祟り」は、古代日本の最初にして最大の祟りだが、それは崇神紀だけではなくて、たとえば出雲振根(いずものふるね)の悲劇などにもあらわれている。 ヤマト朝廷の確立は、ヤマト作りに貢献した者たちに必ずしも報いてはこなかった。そこには「ねじれ」があった。応神天皇に従っていた武内宿彌(たけのうちのすくね)がヤマト朝廷確立ののちに裏切られたという謎もある。これも「ねじれ」のひとつであった。

≪133≫  ねじれたというなら、出雲の物語の大半がヤマト朝廷をどのように優位におくかという編纂によって、すべてがねじれてしまったといっていいだろう。そこには「出雲オオモノヌシのヤマト的三輪神化」というテキスト変換による巧妙な説明はあるにせよ、そしてそこには「ニギハヤヒとは結局はオオモノヌシではないか」という、本書にすら示されなかった大仮説も潜むことになるのだが、それ以外にもいくらでも仮説は出てくるはずなのである。

≪134≫  いや、そうということだけではないほどに、「ねじれ」は古代日本の出発にかかわる巨大な謎になっている。そしてそこに、そもそもは物部氏の一族が藤原氏によって徹して裏切られたという、今日につづく天皇家の謎があったのである。

≪135≫  おそらく正史『日本書紀』が大問題なのだ。もとより『日本書記』は不備だらけなのであるが、この不備は、もともとは意図的だったかもしれないのだ。その意図を誰が完遂しようとしたかといえば、これはいうまでもなく、藤原氏だった。だとすれば、藤原氏は何によって改竄のコンセプトを注入したのかという、こちらの大問題がこのあと、どどっと控えているということになる。本書の著者は『藤原氏の正体』というものも書いている。857夜の上山春平とはずいぶん異なる仮説になっているが、気になる諸君はページを開いてみられたい。

≪136≫  いずれにしても、物部氏の謎は古代最大の謎の結び目だ。ぼくもそのうち、パンドラの匣から飛び出てくる幾多の問題を、気がむいた夜にひとつずつとりあげたい。「日本という方法」の発端はそこからいくらでも出てこよう。「千夜千冊」の遊蕩とは、そのことだ。今夜はその前哨戦の、そのまた前哨戦だったと思われたい。

≪137≫  附記¶関裕二の著書は次の通り。『天武天皇・隠された正体』(KKベストセラーズ)、『聖徳太子はだれに殺されたのか』(学習研究社)、『謎の出雲・伽耶王朝』(徳間書店)、『古代神道と天皇家の謎』『抹殺された古代日本史の謎』(日本文芸社)、『消された王権・物部氏の謎』『大化改新の謎』『壬申の乱の謎』『海峡を往還する神々』(PHP研究所)、『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』『呪いと祟りの日本古代史』『かごめ歌の暗号』(東京書籍)、『沈黙する女王の鏡』(青春出版社)など。

≪138≫  物部氏については、直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』(塙書房)、鳥越憲三郎『女王卑弥呼の国』(中公新書)、黛弘道『物部・蘇我氏と古代王権』(吉川弘文館)、畑井弘『物部氏の伝承』(吉川弘文館)、原田常治『古代日本正史』(同志社)、田中卓『日本国家の成立と諸氏族』(国書刊行会)、亀井輝一郎『古代豪族と物部氏』(吉川弘文館)、谷川健一『白鳥伝説』(集英社文庫)、太田亮『高良山史』(石橋財団)、大和岩雄『二つの邪馬台国』(大和書房)、小椋一葉『消された覇王』(河出書房新社)、神一行『消された大王・饒速日』(学研M文庫)など。吉備との関係については、門脇禎二ほか『吉備』(吉川弘文館)、前田晴人『桃太郎と邪馬台国』(講談社現代新書)、門脇禎二『出雲の古代史』(NHKブックス)など。

≪139≫  これらをもしまったく何も読んでこなかったのであれば、やはり『日本書紀』(講談社学術文庫のものをお勧めする)を読むのが最初だ。あとはお好みのままだが、やはり原田常治『古代日本正史』と大和岩雄の一連の著作は一度は開いてみてほしい。そのうちとりあげたい。

≪01≫  この本を、いずれも岩波文庫に入った淡島寒月の『雲庵雑話』や鶯亭金升の『明治のおもかげ』、あるいは篠田鉱造の『明治百話』シリーズや谷崎精二らの『大東京繁昌記』のように読んだわけではない。

≪02≫  古い東京を懐かしんで読んだのでもない。それなら永井荷風や葛西善蔵でも滝田ゆうや杉浦日向子の漫画ルポなどでもよい。そうではなくて、本書の後半に数珠つなぎに出てくる寄席話や義太夫話が読みたくて、読んだ。

≪03≫  馬場孤蝶は明治2年の高知生まれで、兄貴が自由民権家の馬場辰猪である。東京には明治11年に上京していて神田の共立学校(のちの開成中学)で英語を学んだ。兄貴がフィラデルフィアで客死して、孤蝶は明治学院に入り島崎藤村や戸川秋骨と同級になった。このころすでに寄席通いをはじめている。卒業後は「文學界」の同人になって樋口一葉や斎藤緑雨と親しくした。

≪04≫  明治39年からは慶應義塾で教えているから、ここで弟子筋にあたる西脇順三郎らが交じっていった。西脇は孤蝶を〝日本のアナトール・フランス〟と呼んだようだが、その意味はややわかりにくい。アナトールなんぞよりずっと洒落ていたのではなかったか。そういう勘は形而上学が好きな『あむばるわりあ』の西脇順三郎には見えなかったのだろうか。のちに飄然とした俳諧味に達した西脇だったら、どうか。

≪05≫  孤蝶の寄席通いは母親や姉の影響らしい。ぼくは父に連れられて人形町末広通いをしているので、ピンとこないが、女性に連れられるという趣向もあったのか。ともかく孤蝶はそのときは本郷近くの荒木亭に通っていた。

≪06≫  そのほか、日蔭町の岩本、神田の白梅、本郷の伊豆本、本郷菊坂の菊坂亭、小石川の初音亭、麹町の山長、九段坂の富士本、下谷数寄屋町の吹抜、両国横町の新柳亭、日本橋の木原亭、京橋の鶴仙、麻布十番の福槌、神楽坂の藁店亭など、ともかくまあよく出掛けている。泉鏡花が『三味線堀』で綴ったような寄席ばかりだ。しかし寄席の本命はやはりのこと、若竹だったようだ。

≪07≫  竹町の若竹に孤蝶が行きはじめたのは、円遊がステテコや茶番仕掛けをはじめた明治14年くらいのことだ。当時の真打たちは続話をしたはずである。ところが孤蝶は真打よりも中家あたりの、たとえば立川談志や五明楼玉輔の素咄、桂文治の芝居咄などをおもしろがった。それも噺の筋をよく憶えていて、本書にはその筋まで紹介されている。こういうところはなるほどアナトール・フランスである。

≪08≫  落語ばかり歓んだのではない。ぼくもそうだったのだが、寄席でおもしろいのは期待もしていない色物が予想外の出来だったときで、孤蝶もしきりに手品師の思い出に耽っている。柳川一蝶斎、帰天斎正一、ジャグラー操一などの芸人がおもしろかったらしい。十人芸と銘打って、西国坊明学という盲僧が義太夫や琵琶をたのしませながら客に謎をかけさせて三味線ひきひき、これを解いていったという芸など、見てみたかった。「縁かいな」(俗曲「四季の縁」のヴァージョン芸)の徳永里朝も見てみたかった。

≪09≫  このころは中世・近世同様に、盲人の芸人がまだまだ大活躍をしていた時期なのである。本書にも新内語りの鶴賀若辰という盲目の女芸人の、思い切って声を殺す風情がふれられている。

≪010≫  孤蝶の時代には寄席とともに、いまなら小劇場にあたる小屋がたくさんあった。芝の森元座、向柳原の開盛座、本郷の春木座、すこし大きくなって中洲の真砂座、赤坂演伎座などである。ここでは小芝居あるいは中芝居というものがかかっている。なぜこういう芝居が流行っていたかというと、孤蝶の観察では当時の民衆の知識や趣味がいくぶんまとまりつつあったせいだろうという。

≪011≫  そんな風潮のなかで女義太夫が大当たりをしていった。明治の大衆芸能を語るには女義太夫は欠かせない。最初は竹本京枝である。東の大関の京枝には西の大関の東玉が張り合った。そこへ明治22年ごろにチョンマゲ姿の竹本綾之助が登場して、連日連夜を満員にする。昇菊・昇之助という姉妹も人気になった。昇菊は足袋をはくのも書生たちにさせると噂がたった。これで男たちをどぎまぎさせた。ついで竹本小清が出て、孤蝶はこの人の《岡崎》や《鰻谷》にぞっこんだった。贔屓たちものりまくって、女義太夫のファンクラブ「どうする連」が結成された。寄席から「どうする、どうする」という声をかけたのに因んだ連中だ。「堂摺連」とも綴った。

≪012≫  女義太夫の大流行は、当時の浄瑠璃が今日のポップスやロックに近い感覚のものだったということがわからないと、その気分がわからない。そのころの浄瑠璃はとうてい古いものではなく、いまならCDが売れまくるベストヒット・ポップスに近かった。そこを孤蝶はこう書いている、「浄瑠璃そのものにも女義太夫その人にも、何だか新しい生命が篭っているような気がしたのである」と。

≪013≫  本書の白眉は2代目竹本越路大夫(のちの摂津大掾)についての思い出の個所にある。孤蝶は越路を、明治23年5月3日の若竹で初めて聞いた。いまでは信じられないが、午後1時から始まって夜の8時半まで、木戸銭は20銭か30銭だったらしい。ほとんど男とは思えないほどの美声だったという。《酒屋》を語った。「あとには園が」というところで、越路はふいに見台に手をかけて、膝でまっすぐに立ち、それから「繰り返したるひとりごと」まで悠揚せまらぬ調子を聞かせたらしい。

≪014≫  孤蝶はなんと1日おいた5月5日にもまたまた若竹に出掛け、そこでは今度は路大夫の《紙治の茶屋場》と越路大夫の《御殿》などを堪能した。このときの越路の「お末のわざをしらがきや」と「心も清き洗いよね」の清くて細かい節回しを、その後ずうっと忘れられないまま耳に響かせていたという。

≪015≫  どうも孤蝶はこの年だけで越路大夫を5、6回にわたって聞きに行っている。なんということか。うらやましいというより、ここまでくるとフェチである。芝の玉の井で聞いた《堀川》《鳥辺山》はこの世のものともつかぬほど気持ちのよい天上感覚だったらしい。同じころ、夏目漱石が越路大夫にぞっこんで、学校の講義を休んでまで聞きにきていたものだった。

≪016≫  寄席と義太夫。せめて今日の寄席で義太夫か新内か、あるいは荻江でも歌沢でもいいが、復活してくれないものか。

≪017≫  近頃の東京の寄席はどうも平ったい。テレビはもっとつまらない。ヨシモト芸人が多すぎる。笑いだけをとりたがる。落語を復活させたいなら、まずは「色物」と「粋」の復活なのである。ビートたけしの祖母の北野うしも、竹本八重子という女義太夫だったと聞く。

≪01≫  私の生涯のできごとでこの人との邂逅ほど重大なことはほかにない、と書いたのは檀一雄だった。そのように指摘された相手は坂口安吾である。一人の相手との邂逅をこのように指摘できること、そのように誰かから自分との邂逅を指摘されること、ともに貴重だ。しかし、この二人のあいだで交感されているものは友情や文学的同盟ではなくて、「日本の家」に対する憎悪と絶望であった。 

≪02≫  昭和18年、安吾は『日本文化私観』を書く。その後の一連のエッセイの原型になるものだった。 

≪03≫  最初に言っておくが、日本文化が好きな者、とくに伝統文化に深い関心を寄せる者には、安吾の『日本文化私観』と金子光晴の『絶望の精神史』(第165夜)は絶対の必読書である。この2冊を突破できずには、また、これらが指摘していることを理解できないでは、本当の日本文化などは議論はできないとおもったほうがいい。まして「日本流」とか「日本数寄」などとは言えない。 

≪04≫  安吾がここで何を書いたかというと、田能村竹田や遠州や桂離宮を骨董趣味にする日本人のインチキを暴いた。ブルーノ・タウトは日本を発見しなければならなかったが、日本人は日本を発見するまでもなく、体でわかるはずだということを書いた。その体でわかることを、日本人は無理をして黙っているからおかしくなる。安吾は「僕はそれを書く」と言っている。 

≪05≫  実際に、安吾はそれをズバリ書いた。たとえば世阿弥の『檜垣』は文学としてはかなり上出来だが、能舞台のほうは退屈きわまりないというふうに。 

≪06≫  安吾が隠岐和一に誘われて祇園で遊んだときのことである。昭和12年の冬だったらしい。当時の祇園には36人くらいの舞妓がいたらしいのだが、安吾の座敷にはそのうちの20人くらいが次々にあらわれた。そこで安吾は「これくらい馬鹿らしい存在はめったにない」と感じた。 

≪07≫  愛玩用の色気があるかといえばそんなものはなく、ただこましゃくれているだけ。子供を条件にしていながら、子供の美徳がゼロ。羞恥もない。安吾は呆れてうんざりしていたのだが、隠岐に誘われるままにそのうちの5、6人を連れて、12時をすぎて東山ダンスホールに遊びに行った。そこで安吾は驚いた。座敷ではなんらの精彩を放たない舞妓たちが、ダンスホールでは異彩を放つ。 

≪08≫  どんな客よりも、そこの専属ダンサーよりも、外国人よりも、圧倒的に目立っている。着物と日本髪とダラリの帯が現代のどんな風俗をも圧倒していた。こうして安吾は喝破する。日本人は日本の保存の仕方がまちがっている。日本人は日本の見方がまちがっているにちがいない。 

≪09≫  祇園の後日、安吾は亀岡に行く。大本教の本部があるところで、不敬罪によってその本部がダイナマイトで爆破された直後だった。爆破された廃墟を見ながら、安吾はその規模があまりにも中途半端なことに驚き、出口王仁三郎もまたインチキだったと感じた。一言でいえば、ここには芭蕉がいない、大雅がいない。きんきらきんの新興宗教の宮殿をつくりたいのなら、むしろ秀吉になるべきだと安吾は思った。すべてで天下一になりたいのなら、何事にもためらわず黄金の茶室も侘びの茶室もつくり、美女を集め、利休を殺し、大坂城を誇るべきなのだ。王仁三郎にはそのスケールがない。それならもっとスケールを小さくすればいいのに、そうするには今度は芭蕉や大雅がない。 

≪010≫  その後、しばらく京都に滞在した安吾は、嵐山に逗留したこともあって、しきりに嵐山劇場に通うようになる。小便の匂いのする場末の劇場で、へたくそな芸人しか出ていない。しかし、ここにはそれにふさわしいモノとコトがある。 

≪011≫  東京に帰った安吾は、あるとき小管刑務所の塀にさしかかった。大建築物である。この建築物にはまったく装飾がない。高い塀はただ続くだけである。ところが、これに感動した。いったいこれは美しいのだろうかと安吾は考える。そしてかつて、銀座から佃島まで散歩をしているころ、聖路加病院の近所にあるドライアイス工場に心を惹かれていたことを思い出した。 

≪012≫  ドライアイス工場は必要な設備だけで造作されているもので、そこにはなんらのデザインはない。しかし、図抜けて美しい。魁偉ですらある。聖路加病院にくらべてあまりにも貧困の産物ではあるけれど、聖路加病院が嘯く「健康の仮構」などがない。 

≪013≫  もうひとつ安吾は思い出す。ある春先の半島の突端に休んでいた軍艦を見たときのことで(そのころ軍艦はまさに日本の海防のために海を動いていた)、その軍艦は謙虚なほどに堂々と必要性を告示していた。安吾はおおいに感動してその春の軍艦を飽かず見つめていたという。 

≪014≫  こうして安吾は小管刑務所とドライアイス工場と軍艦の側から、自分の体に感じるものを日本文化の本質に向けてぶつけるようになったのである。その後に岡本太郎が試みたことに近い。 

≪015≫  昭和21年4月、安吾は「早稲田文学」に『堕落論』を書いた。つづいて11月、「文学季刊」には『続堕落論』を書いた。いずれも爆発的に評判をよんだ。 

≪016≫  視点は『日本文化私観』とまったく同じだが(安吾はくりかえし同じことを書くというビョーキがある)、今度は敗戦直後だったことが手伝って、日本人の目を洗った。「半年のうちに世相は変わった」と始まるこのエッセイは、一夜のうちに価値観を変更させられた日本人の魂を打ったのである。 

≪017≫  歯に衣着せずに、天皇についても書いた。「天皇制は天皇によって生み出されたものではなく、天皇はときには陰謀をおこしたこともあったものの、概して何もしておらず、その陰謀はつねに成功のためしがなく、その存在が忘れられたときに社会的に政治的に担ぎ出されてきた」という指摘だった。 

≪018≫  天皇を冒涜する者が天皇を利用するだけだというこの見方は、敗戦直後の日本人の心に沁みわたった。むろん反発も買った。しかし安吾は天皇を議論したかったのではなく、返す刀で日本人が武士道や茶道や農村文化に寄せる表面的な過保護感覚を斬りつけた。いや日本人の「ウソ」のすべてを暴きたかったのである。ジャン・コクトーのように、日本人は洋服など安易に着るべきではなかったと言いたかったのだ。 

≪019≫  『堕落論』には堕落についての哲学的な考え方や思想的な見方は一言も書いていない。そういうことは安吾にはではきない。だいたい安吾は難しい言葉をつかわない。素朴な言葉もつかわない。素朴ぶることや醇朴ぶることは、哲学ぶることよりもっと嫌いだった。粗野で粗暴な言葉をそのままつかった。また、実感の言葉をそのつど用いた。 

≪020≫  そういうふうにして、安吾はこのベストセラーで何を書いたかというと、「日本は堕ちよ」と訴えた。そして「戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのだ」と書いた。それだけである。 

≪021≫  もともと安吾は権謀術数には騙されない。文学界は権謀術数の巣窟だが、そのへんは早くから見抜いていた。また世の中で美談になる出来事にも騙されない。「きれいごと」には必ずやインチキやウソが充満していることを見抜いていた。それなら「堕落」あるいは「沈淪」こそが、事態の本質を見抜くための絶対不可欠の態度だというのである。 

≪022≫  こうして『堕落論』は戦争未亡人は恋愛して地獄に堕ち、復員軍人は闇屋となれと、煽ったのだ。 

≪023≫  安吾にはもともと政治や社会制度というものは「目のあらい網」だという実感がある。しかも人間はこの網からつねにこぼれるのだという見方があった。だから、そのこぼれた人間のほうから網を見ろと言っている。国と国の対立の解消や戦争の解消を言い出すのはかまわないが、そんなことをしたところで、つねに人間と人間の対立だけは残るということを指摘してみせた。 

≪024≫  ぼくは『堕落論』の半分は当たっているとおもう。いや、もう少し当たっているかもしれない。ただ、そこに逆説的な日本文化論があるとか、新たな日本人が因って立つ基礎が与えられているという期待はしないほうがいい。人間哲学があるというほどでもない。安吾は日本人の陥りやすいインチキに溺れる体質ばかりを徹底して暴いたのであって、そこにこそ何かを感じるべきなのである。  

≪025≫  ただし、安吾には『安吾歴史譚』や『信長』をはじめとするいくつもの日本史探訪ものがあって、それらのなかには「坂口安吾こそが信長を発見した」と言われるような、独特の史観のようなものがあり、その評判のなかには「司馬遼太郎的な歴史小説の原型はほとんど安吾によって先取りされていた」というフライング気味の指摘もあるのだが、たしかに安吾の史観は無類におもしろいのではあるけれど、そこに「日本」が際立ってくるような構想が控えているかというと、そういうものはない。既存の見方が覆されるだけなのである。 

≪026≫  『堕落論』以降、安吾はまるで悪乗りするかのように、この手のエッセイを次々に発表した。 

≪027≫  『デカダン文学論』では漱石を槍玉にあげた。「漱石の知と理は奇妙な習性の中で合理化という遊戯にふけっているだけで、真実の人間、自我の探求というものは行われていない」「家庭の封建的習性というもののあらゆる枝葉末節のつながりへ、まんべんなく思惟がのびていくだけで、その習性の中にあるはずの肉体などは一顧だに与えられていない」というふうに。 

≪028≫  また『教祖の文学』では小林秀雄を俎上にのせて、自分はいままで小林の文章に騙されて迷わされてきたが、言い回しの「型」をつくったにすぎないのではないか。「小林はその魂の根本において、文学とは切れているくせに、文学の奥義を編み出し、一宗の教祖となる。これ実に邪教である」というふうに。 

≪029≫  『戯作者文学論』では荷風も血祭りにあげている。荷風の俗の衒いは戯作者としてはインチキである、というふうに。戯作者を任ずる安吾にとっては、荷風は俗物根性のフリをしているだけで、あんなものは「きれいごと」にすぎないというのだった。安吾にとっては荷風は、銀座・浅草を歩いてもドライアイス工場を発見できない男なのである。 

≪030≫  こうして安吾はこれらの歯牙を剥き出したついでに、フォークの背にご飯を乗せて食べる日本人の愚の骨頂を笑った。「親がなくとも子は育つ」はウソであって、「親があっても子は育つ」と言うべきだと笑った。 

≪031≫  こういうことを暴露しつつ、結局、安吾は日本人をダメにしているのは「家庭」であることを非難するのである。家庭を守ろうとする「良識」のすべてが日本をダメにしていったと詰ったのである。そこには、女を女にしていない日本人の家庭に対する痛烈な批判があった。 

≪032≫  坂口安吾は自身を堕落させることによって、ほとんど自暴自棄のように政治・社会・文学を斬りまくった。その妖刀はほとんど酔っ払いの風情ではあったのだか、そこにはまたいくつも真実の断片が舞い踊っていた。 

≪033≫  冒頭に書いたように、このような安吾を知らないままに日本文化をとくとくと語るのはよしたほうがいい。この程度の病原菌こそ日本には必要なのであって、こういう真理を衝いた暴言を相手にして初めて、日本を問題にすることができるのである。言ってみれば、「坂口安吾なき日本」や「嵐山劇場なき日本」だけでは、日本など問題にできないのである。 

≪034≫  しかし言うまでもないだろうけれど、『堕落論』やその手の一連のエッセイだけで坂口安吾を語るのは、安吾のおもしろさの半分にも達していないことも知ったほうがいい。ここではぼくが好きな『風博士』や『イノチガケ』や『白痴』や『青鬼の褌を洗う女』や『桜の森の満開の下』などを褒める余裕はないので、ただ一作だけをあげるにとどめるが、まあ、ともかくは『夜長姫と耳男』を読むべきだ。 

≪035≫  どんな話かということは、第602夜の坂口三千代『クラクラ日記』にかいつまんでおいた。坂口三千代はむろん安吾夫人のこと、「千夜千冊」でこのように夫婦の両方を採り上げるというのは、今度が初めてだ。  

≪036≫  ついでながら、かつてぼくは「bit」というコンピュータ関係の雑誌に頼まれて、『耳男はバーチャルリアリティの中で耳をさませるか』という文章を書いたことがある。フィリップ・K・ディックをもじって書いたもので、仮想現実などというものに騙されてはいけないということを書いた。そのとき、ふと坂口安吾が浮かんだのだ。われわれは満開の桜の下の殺戮や耳男の彫った化け物についての想像力をこそ重視したほうがいいのであって、本物と違わぬニセモノをパソコンで“体験”したからといって何の想像力も湧かないではないかということを書いてみたものだった。 

≪037≫ 参考¶
坂口安吾は全集(筑摩書房)もあるし、近頃はまたまた蘇っているのか文庫本も多いので、読むのは苦労しまい。坂口安吾を感じるには、安吾自身もずっと気にしていたのだが、太宰治や織田作之助や、それに対照する小林秀雄や平野謙とともに嚥下するのが、時代が見えておもしろい。斎藤慎爾の編集による『太宰治と坂口安吾の世界』(柏書房)には、戦後まもない「文学季刊」の座談会が収録されていて、太宰・織田・坂口・平野が侃々諤々している。この一冊には安吾が阿部定を訪ねて対話している珍しい記録も載っている。坂口安吾論もたくさんあるが、奥野健男のものなど読まないほうがいい。安吾の日本文化に対する見方について特集した『坂口安吾と日本文化』(至文堂)のようなものを薦める。 

≪01≫  明治42年に匿名のホーマー・リー将軍なる人物が『日米決戦論』(原題は『無知の勇気』)を書き、大正3年に日本の海軍中佐の水野広徳が『次の一戦』を書いた。両方ともフィクションだが、リーのものはアメリカが日本と戦ったら西海岸を破られるだろうと予想し、水野のものは日本軍はマニラを奇襲して緒戦を勝つが、太平洋上の艦隊戦で惨敗するというふうになっていた。 

≪02≫  このように日米が互いに互いを仮想敵国と想定するようになったのは、その背景に中国における権益問題があったからだった。問題の背景は日本が第一次世界大戦中に中国の袁世凱政権に突き付けた「対支二十一カ条の要求」の条件にかかわっていたのである。 

≪03≫  当時のアメリカはイギリスに次ぐ世界第2位の海軍国になろうとしていた。セオドア・ルーズベルトがアルフレッド・マハンの『歴史に於ける海上権の影響』を読んで、大海軍構想を描いた。 マハンの著書は日露戦争の日本海海戦立案者となった秋山真之も愛読していた。しかし、このときはアメリカはモンロー主義をとっていた。参謀会議の議長ヴリーランド提督は「モンロー主義と中国機会均等策と東洋人排斥がアメリカの国是である」と言って憚らなかった。実際にも移民日本人は1920年の排日移民法によって排斥されていた。 

≪04≫  アメリカは仮想敵国をとっくに日本に絞ったが、日本のほうは陸軍がロシアを、海軍がアメリカを仮想敵国にして内部で割れていた(日本の軍部はその後もつねに割れていく)。そればかりか日本の軍部はそのような仮想敵国があることを、一度も国民に知らせなかった。いまなおアメリカ大統領が「悪の枢軸」をアメリカ国民にも相手国にも世界にも真っ先に告げているのと、まったく異なっている。 

≪05≫  松本は、1926年に時事新報記者だった伊藤正徳が書いた『想定敵国』に日本の軍部が秘密主義をモットーにしている問題を指摘したことに注目しているのだが、日本ではこのような指摘すら希有だったのだ。 

≪06≫  ところで、「対支二十一カ条の要求」は、いまは「対華二十一カ条の要求」と教科書も学術書の多くも呼称しているのだが、松本はこういう"歴史の現在"を訂正する表現を叱正する。本書も「太平洋戦争」ではなくて、あくまで「大東亜戦争」という呼称にこだわっている。「太平洋戦争」(the Pacific War)はマッカーサーが「大東亜戦争」という呼称を禁じたために通用することになったのであって、日本は開戦以来一貫して「大東亜戦争」として戦い、敗北したというのが松本の譲らぬ思想史家としての立場だ。松本は「これは私の恣意ではない」と書いている。 

≪07≫  日本がいつアメリカと戦う気になったかということは、いまだ明白にはなっていない。 たとえば北一輝・大川周明と並んで「猶存社」の三尊とよばれた満川亀太郎は、『奪はれたる亜細亜』の最終章に「日米戦ふ可きか」をもうけて、いま日米が戦えば陸に中国と戦い、海に米国と戦って難渋するという予想を出していた。  

≪08≫  大川周明は楽観していて、『亜細亜・欧羅巴・日本』では日米はギリシアとペルシャのごとく、ローマとカルタゴのごとく、東西文明の対抗と宿命をかけて戦わなければならないとした。それは「昼の太陽を象徴する日章旗」と「夜の星を象徴する星条旗」の戦争になるはずだと、えらくシンボリックに比喩もした。 

≪09≫  二人とちがって、北一輝は日米が戦えば必ず第二次世界大戦になると読んでいた。日米両国が戦うだけでなく、アメリカにイギリスが最初に加担し、ついでロシアが加担するだろうと予想し、日米決戦だけが進むなどと考えるのは机上の空論だと断定した。さらに北はこのような事態になるのを避けるには「日米合同対支財団ノ提議」という文章のなかで、日米の中国での権益を分配するための手を最初から打っておけばいいと唱えた。 

≪010≫  これは第二次世界大戦になればイギリスが全体的な勝利を収めるだろうという予想に立ったもので、そうであるならばあらかじめ日米は権益をシェアしておくべきだというのである。 

≪011≫  大隈重信内閣が中国に突き付けた大正4年(1915)の「対支二十一カ条の要求」は、まとめれば、①青島と山東省のドイツ権益を日本が継承する、②満州の租借権の期限を99年にわたって延長する、③鉄鉱山を日中で共同経営する、④日本人の商工業者と耕作者のために土地の貸借権や所有権が得られるようにする、⑤必要に応じて中国全土における日本人警察官の配備ができるようにする、というふうになる。領土を拡大し、資源を確保し、軍備警護に手を出すという狙いである。 

≪013≫  ヨーロッパがつくりあげた帝国主義的侵略をまるごと踏襲した要求だが、どう見てもかなり過剰な要求だった。ところがこれに真っ先に反対したのは中国ではなくて、アメリカだった。このうち、⑤の条項をアメリカは絶対に認めないと「待った」をかけた。後から中国に進出したアメリカの権益をいちじるしく阻害するからだ。 

≪012≫  ヨーロッパがつくりあげた帝国主義的侵略をまるごと踏襲した要求だが、どう見てもかなり過剰な要求だった。ところがこれに真っ先に反対したのは中国ではなくて、アメリカだった。このうち、⑤の条項をアメリカは絶対に認めないと「待った」をかけた。後から中国に進出したアメリカの権益をいちじるしく阻害するからだ。 

≪014≫  この対支対米をめぐる事態にひそむ本質的な問題を、そのころ4人の日本人が正確に読んでいた、と松本は書く。北一輝と吉野作造と石橋湛山と中野正剛である。 

≪015≫  北は支那革命が進捗するという立場から批判し、吉野は日本が帝国主義陣営に参画しても利己的なテリトリーゲーム(縄張り争い)に参入してはならないと批判し、湛山はテリトリーゲームではなく、自由資本主義の市場競争にするべきだと批判した。湛山は青島の領有は絶対に日本の国益にならないと明確に主張した。 

≪016≫  中野正剛は「対支二十一カ条の要求」を日本の政治にし、そこに大アジア主義を加えていった犬養毅の帝国主義が、列強の帝国主義とは異なる"別個の帝国主義"になっていることを痛烈に批判した。犬養はおかしいというのだ。松本はアジア主義者であるはずの中野がそのような読みをしていることに着目し、そもそもは民族の抵抗を本質とすべきアジア主義以外のアジア主義に、日本がはからずも突進しようとしていることを見抜いた中野を評価する。 

≪017≫  しかし、日本は一番悪いほうへ進んでいった。アメリカと中国権益を争いつつ、いったいわれわれの国がどのようなアジア主義やどのような資本主義やどのような帝国主義に突入しているかを知らないまま、アメリカとの戦争を最も不利な条件で迎えざるをえない方向に向かって、これもはなはだ無自覚なままに突入していったのだ。 

≪018≫  それでもまだ、石橋湛山のように事態の本質を見抜いていた者はいた。湛山は「東洋経済新報」の社説に、大正9年に「日米衝突の危険」を書いて、日米は経済政策において密接な相互関係性をもっているにもかかわらず、日本とアメリカのあいだに中国をおくと、きわめて先鋭的に対立してしまう。このままでは日米は衝突するという危惧を開陳した。 けれども昭和6年の事態は満州事変まで踏み出したところで、引き返し不可能なところに進んでしまった。 

≪019≫  満州事変の作戦は関東軍作戦主任参謀の石原莞爾、同高級参謀の板垣征四郎、関東軍司令官の本庄繁の、ほぼ3人で、ほぼ3人だけで書かれた。 この3人はしかし、無自覚に戦争を仕掛けたわけではなかった。のちに石原は「日本が満蒙(満州と内蒙古)を領有することは中国の幸福につながると判断した」と明確にふりかえっている。 石原莞爾は明治44年に孫文が武昌で辛亥革命の狼煙をあげたときは朝鮮の守備隊にいて、兵卒たちを率いて近くの小山に上り万歳三唱を叫んだという。そう、自身で回顧している文章がある。 

≪020≫  孫文の革命はやがて袁世凱との妥協に変わり、袁の死後もいくらたっても革命が成就しない状況になっていた(そのころ、日本の政治家や知識人の多くは孫文の中国革命に賛同していた)。そこへ日本が「対支二十一カ条の要求」を出した。石原はこの要求の撤廃が必要だと感じた。日中関係と日米関係を好転させ、また中国革命を純化させると確信した。 

≪021≫  事態はそうは進まなかった。外相幣原喜重郎の方針は中国の内戦に干渉しないというものになった。石原は、この方針はアメリカの中国に対する門戸開放策と領土保全策に膝を屈するものであると見た。このままではなるまい。日本が何かを仕掛けなくてはまにあわない。昭和3年10月に、張作霖爆殺事件で辞職した河本大作のあとをうけて関東軍の作戦参謀として旅順に赴任した石原は、新たな作戦プランを次から次へと東京の参謀本部に提案しつづける。 とくに英米に依存してきた工業力を中国との交易を通して高めて自立させ、日本の国力をたかめることをしきりに提案し、それには満蒙を日本が領有して張作霖なきあとの張学良を掃討して武装解除させ、満州を平定するのが一番ではないかと申し送った。 

≪022≫  石原は昭和6年に「満蒙問題私見」を書く。いずれ日米は決戦せざるをえなくなるはずだが、おそらく持久戦になるだろうから、それには国防的見地から満蒙問題を早急に解決しておかなければならない。そうすることによってロシアの南下と東進を食いとめ、朝鮮の統治を安定させることもできる。こうなったからには、もはや日本が満蒙を領有することしかないと迫った。これによって一挙に中国を解放する契機にできるとも考えていた。 事態の打開を迫る石原の示唆をうけた参謀本部は、ようやく「満蒙問題解決方策大綱」をつくる。関東軍の計画を否定しないけれど、最初から満蒙を植民地にするのは無理だから、まずは満州に親日政権をつくるのはどうかというものだ。 

≪023≫  石原は反対した。ピントがはずれているというのである。当時、奉天総領事をしていた吉田茂も「対満蒙策私見」をのべて、「要地たる満蒙を開放せられざる異常に、財界の恢復反映の基礎なりがたし」とのべた。そこへ中村震太郎という大尉がスパイ容疑で中国軍に殺され、さらに満州で中国の農民と朝鮮人民が衝突するという万宝山事件がおきた。 ぐずぐずできないと見た石原は、東京に頼らずに作戦を実行する決断をした。関東軍が単独行動に出るらしいという情報は参謀本部にも流れ、これを抑える動きが出てきた。"留め男"の建川美次少将も派遣されてくる。慌てたロシア班長の橋本欣五郎が「ただちに決行すべし」の暗号電報を3度にわたって入れた。こうして予定を10日も早めて、9月18日午後10時20分、柳条湖付近の満州鉄道が関東軍の手で爆破された。 

≪024≫  双方の軍隊の予想せぬ動きも出て、事態は事変の激発となった。満州事変である。 この唐突な作戦決行に、日本政府と軍中央は事態の「不拡大方針」をとった。関東軍の満蒙領有は認めないというものだ。石原は土肥原賢二、板垣征四郎、片倉衷らと鳩首協議をし、やむなく国民政府のもとで親日地方政権をつくるという方針に後退することにした。のちに石原はこれをみずからの「転向」とよんだ。「王道楽土」と「五族協和」の理念が通るなら、満州国をつくるのもいいだろうという気になったというのだ。 

≪022≫  石原は昭和6年に「満蒙問題私見」を書く。いずれ日米は決戦せざるをえなくなるはずだが、おそらく持久戦になるだろうから、それには国防的見地から満蒙問題を早急に解決しておかなければならない。そうすることによってロシアの南下と東進を食いとめ、朝鮮の統治を安定させることもできる。こうなったからには、もはや日本が満蒙を領有することしかないと迫った。これによって一挙に中国を解放する契機にできるとも考えていた。 事態の打開を迫る石原の示唆をうけた参謀本部は、ようやく「満蒙問題解決方策大綱」をつくる。関東軍の計画を否定しないけれど、最初から満蒙を植民地にするのは無理だから、まずは満州に親日政権をつくるのはどうかというものだ。 

≪023≫  石原は反対した。ピントがはずれているというのである。当時、奉天総領事をしていた吉田茂も「対満蒙策私見」をのべて、「要地たる満蒙を開放せられざる異常に、財界の恢復反映の基礎なりがたし」とのべた。そこへ中村震太郎という大尉がスパイ容疑で中国軍に殺され、さらに満州で中国の農民と朝鮮人民が衝突するという万宝山事件がおきた。 ぐずぐずできないと見た石原は、東京に頼らずに作戦を実行する決断をした。関東軍が単独行動に出るらしいという情報は参謀本部にも流れ、これを抑える動きが出てきた。"留め男"の建川美次少将も派遣されてくる。慌てたロシア班長の橋本欣五郎が「ただちに決行すべし」の暗号電報を3度にわたって入れた。こうして予定を10日も早めて、9月18日午後10時20分、柳条湖付近の満州鉄道が関東軍の手で爆破された。 

≪024≫  双方の軍隊の予想せぬ動きも出て、事態は事変の激発となった。満州事変である。 この唐突な作戦決行に、日本政府と軍中央は事態の「不拡大方針」をとった。関東軍の満蒙領有は認めないというものだ。石原は土肥原賢二、板垣征四郎、片倉衷らと鳩首協議をし、やむなく国民政府のもとで親日地方政権をつくるという方針に後退することにした。のちに石原はこれをみずからの「転向」とよんだ。「王道楽土」と「五族協和」の理念が通るなら、満州国をつくるのもいいだろうという気になったというのだ。 

≪025≫  東京裁判によって、満州事変が「侵略戦争」の開始であって、その後の「日中戦争」や「太平洋戦争」の展開を前提にした世界戦争の布石であったというふうに"確定"された。つまり国際法に背いた戦争犯罪であると"裁定"された。 問題は、この見方をどう解釈するかである。日本は侵略戦争をしたのか、どうなのか。藤岡信勝を中心とする歴史教科書グループは、満州事変や大東亜戦争を「侵略」と規定したのは東京裁判史観にすぎないという立場を表明した。すでにそのように記述した検定教科書や分厚い『国民の歴史』という著作も登場している。松本健一はそこをどう見るか。 

≪026≫  松本は東京裁判が「勝者の裁き」であることは否定しないが、大東亜戦争はそもそも近代日本が選択した「武装された攘夷戦争」であって、それゆえその戦争が「侵略」とうけとられるのは、当時にしてすでに当然であったのに、日本人がそれを認識できなかったのが「日本の失敗」なのだと見た。日本は精神的鎖国状態に縛られたままだったのだと見るのだ。 

≪027≫  松本と同様の見方は、当時の中江丑吉にも見通されていた。中江兆民の長男である。袁世凱の顧問だった有賀長雄の秘書として大正の初期から北京に住んでいた。五四運動のさい、旧知の曹汝霖を救い、のちに潜行中の片山潜や佐野学を匿ってもいた。その中江は満州事変を知って「これは世界戦争のプロローグだ」と感じた。 そのころアメリカ国務長官だったヘンリー・スティムソンも、満州事変の5年後に『極東の危機』を書いて(日本語訳は第648夜に紹介した『暗黒日記』の清沢洌)、満州事変が国際法にそむく「侵略」であるとみなした。国際法といっているのは「国際連盟規約」と「支那に関する9カ国条約」と「不戦条約」(ケロッグ・ブリアン協定のパリ条約)のことである。日本はこの3つともに参加していた。侵略はあきらかなのだ。 

≪028≫  日本が満州事変の時点で、すでに「侵略」の意図をもっていたことは隠せない。その後、関東軍は"東洋のナポレオン"の異名のあった馬占山将軍を破ってチチハルを占領し、さらに錦州に入って、翌昭和7年には上海事変を策動し、国内では血盟団事件や5・15事件の矛盾をかかえながら、満州国を"建国"させた。 いったい、なぜ日本は侵略戦争に突入していったのか。なぜ、日米は決戦をせざるをえなかったのか。いまなお、日本ではこの問題をどのように"解釈"するかをめぐって議論が収まっていない。戦争責任の"犯人"を問う問題もくすぶっている。中国や韓国から靖国参拝に絡めていまなお"謝罪"が要求されてもいる。 この一連の流れは、昭和4年(1929)の10月24日にウォール街が大暴落をおこして、そのまま世界恐慌に突入していったという流れのなかでとらえたほうが見えやすい。発端はそこにある。そのような世界資本主義システムの劇的な変化の意味を、日本がちゃんと見抜けなかったと解釈したほうがいい。 

≪029≫  大恐慌によって何がおこったかというと、世界はいったん軍縮せざるをえなかったのである。その結果のひとつが昭和5年1月のロンドン軍縮会議にあらわれた。 日本はこの会議を前にして、補助艦(巡洋艦・駆逐艦など)の対英米比率7割を確保し、潜水艦は現状の7万8000トンを維持しようと決めて、若槻礼次郎全権首席と海軍代表財部彪(たからべたけし)海軍大臣をおくりこんだ。 それがロンドンでは維持できそうもなくなった。財部はその状況を日本に打電する。海軍は岡田啓介大将を筆頭に協議するのだが、いったんは妥協やむなしという結論となり、内閣もこれをうけて浜口雄幸首相が天皇に妥結の方向でいくということを伝えた。ところが、海軍の一部の者はこれが気にくわない(反対の急先鋒は末次信正海軍軍令部次長だった)。すったもんだのすえ、加藤寛治軍令部長がまたまた天皇のところへ行って、軍令部としては今回のロンドン会議の決定には反対であると申し上げておくと言った。 

≪030≫  二つの報告が天皇のところへ届いたのである。そこへ事態をさらに紛糾させることがおこった。 ロンドン軍縮会議の決定と調印はそのままだったのだが、このように天皇をさしおいて国家の最高の軍令が勝手に判断されていくことに対して、問題が噴き上げた。ちょうどそのとき開かれていた第58回特別議会で、犬養毅と鳩山一郎が「これは統帥権干犯だ」と言い出したのだ。統帥権は大日本帝国憲法の第11条と第12条に規定されている。 天皇がもつ統帥権(国軍がもつ総指揮権)によって軍備が決まるのに、それを海軍が適当に左右しているのはけしからん、憲法違反だということだった。いわゆる「統帥権干犯問題」である。のちに司馬遼太郎は、この瞬間に日本が「異胎の国」になったと指摘した。 

≪031≫  松本健一は、それもそうだろうが、そのような方向を招いたのは犬養や鳩山の政友会が統帥権という"魔法の杖"を政争の道具につかって、政党政治が政党政治を破壊してしまったともみなしている。本書は、このときの鳩山一郎の未熟な政治判断をかなりこっぴどく批判している。 ロンドン軍縮会議がもたらした統帥権干犯問題は日本を狂わせていく。ひとつは軍部を増長させたのだが、もうひとつは日本の政党政治がここにみずからの立脚点を崩して、軍部の台頭を許すようになった。議会閉会直後、海軍軍令部参謀の草刈英治は憤死した。石原莞爾が満州事変をおこすことを用意しはじめたのは、このときだった。 

≪032≫  ここまでの流れを大筋だけであらためて整理すると、こういうことになる。便宜のために略年譜にしておく。松本の本書にはこのような記述はない。松本は世間によくあるような昭和史の流れを追うということはしていない。 

≪033≫  大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、その渦中で日本は「対支二十一カ条の要求」を中国につきつけ、中国では反日の五四運動がおこった。一方、レーニンのロシア革命が成就して世界で初めてのプロレタリア独裁による共産主義国家が生まれた。大戦はヴェルサイユ条約で終結し、国際連盟が発足した。アメリカは参加しなかった。大正9年(1920)、海軍は八八艦隊計画に着手して、世界一の海軍をめざした。翌年、原敬が暗殺された。 

≪034≫  大正11年(1922)にワシントン軍縮会議が開かれて、世界大戦の不幸を回避するためのワシントン体制が確認された。日本は対英米10:10:6となった。世界第3位の海軍力であるが、これに不満をもった。日英同盟も破棄された。翌年、関東大震災が襲った。翌年アメリカで排日移民法が採択された。 

≪035≫  大正14年(1925)、ロカルノ条約が結ばれてヨーロッパの集団安全保障体制が敷かれた。中国では蒋介石による北伐が始まった。田中義一内閣時代になると、森恪(いたる)らによって東方会議が組織され、対中国積極策がひそかに策定された。昭和3年(1928)6月、張作霖爆殺事件がおこった。「満州某重大事件」として伏せられたこの事件によって、いよいよ満州に日本の関心が集中していった。パリ不戦条約に日本が調印したのはこの年の8月、昭和天皇が即位したのは11月である。石原莞爾が関東軍に赴任した。 

≪036≫  昭和4年(1929)、浜口内閣となり犬養毅が政友会総裁となったあとの10月、ウォール街で大暴落がおこり、世界は大恐慌の嵐にまきこまれていった。同じころトロツキーが追放され、ソ連は秘密裏にスターリン独裁に入った。翌年早々、ロンドン軍縮条約が主要国間で締結され、その結論をめぐって日本は「統帥権干犯」問題でおおいに揺れた。ナチスが第2党に躍進した。昭和6年(1931)、浜口が狙撃され、若槻礼次郎が首相となって、満州で万宝山事件がおこると、9月に関東軍が柳条湖で満州鉄道を爆破した。 ついでにこの先の日本がどうなったかというと、上海事変、満州国建国、5・15事件、リットン調査団報告をへて、昭和8年(1933)の国際連盟脱退というふうになる。 

≪037≫  本書はこうした昭和史の流れを、日本のナショナリズムの本質は何かという視点で検討している。とくに幣原喜重郎の国際協調路線が持続できなかった日本のA軸と、斎藤隆夫や吉田茂らの政治リアリズムのB軸と、憤懣やるかたなき恰好をとってつねに昭和史を動かしたナショナリズムのC軸との、鮮明な比較によって、従来にない組み立てを試みた。 これらの軸のちがいと、その重なりの狂いが、日米間の戦争をしだいに不可避にしていった。 

≪038≫  また松本は、西田幾多郎や高山岩男や高坂正顕らがどのように大東亜戦争を「世界史の哲学」として位置づけようとしたか、和辻哲郎や丸山真男がそもそも鎖国と開国をどうとらえていたのか、国体イデオロギーをどのように見ていたのかも検討し、それを佐久間象山の「東洋道徳・西洋芸術」や吉田松陰の開国議論、さらには太宰治や福田恆存の思想とくらべた。これは政治や外交の軸が狂おうとも、そこに日本人の意識に確固たるものがあればこれらの歯車の狂いを撥ねのけることもできたはずなのだが、そこに「世界史の哲学」の薄弱があったことを証明するものになっている。 

≪039≫  こうして本書は、昭和16年12月8日の「開戦の詔勅」が国際法にまったくふれなかったことを問い、その理由を日清戦争と日露戦争の「開戦の詔勅」の問題につなげ、日清日露の詔勅では「国際条規の範囲に於て」ということが明示されていたことを指摘する。 

≪040≫  一方、国際法がどうあれ、国内の意識が戦争に加担していくときに踏み外しがなければ、それはそれでひとつの物語になったはずなのだが、それがそうはならなかった問題を、東条英機の戦争思想が日本が"生きる"ためのものではなく、"死ぬ"ためのものになっていたこと、他方、これらのことが「日本という国の生と死をめぐる将来」を日本人自身も重大な問題としてうけとめえなかったことに結びつけ、「日本の失敗」がきわめて広範囲なものに及んでいたことに言及していった。 もとより松本の昭和論をめぐる議論は、他にも数々の著作や論文になっているので、本書の記述が松本の考え方を代表する唯一の構成になっているというわけではないのだが、ぼくには、この構成はいまこそ多くの日本人が読んでおくものと感じられた。 

≪041≫  すでに重光葵は、大東亜戦争について「この戦争には動機があっても目的がない」と指摘していたのである。 重光は戦後の昭和27年に発表した『昭和の動乱』で、こう書いていた。「自存自衛のために戦うと云うのは、戦う気分の問題で、主張の問題ではない。東亜の解放、アジアの復興が即ち日本の主張であり、戦争目的である。公明正大なる戦争目的が、国民によって明瞭に意識し理解せられることによって、戦争ははじめて有意義となり、戦意は高揚する。また若し、戦争の目的さえ達成せられるならば、何時にても平和詼復の基礎工作となるわけである」。 



≪042≫  これに対して東条英機は『戦陣訓』に、こう書いた。「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し、一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」。 

≪043≫  これでは、よく言って「禅」、わるくすれば脅迫だ。戦争をしない者たちが静かに庵室で禅定を結ぶならまだしも、これは戦争をするために戦場へ赴く者たちの思想や主張とはとうていなりえない。最初から他者や国民や他国への説明を放棄したといってよい。いや、たんに自己犠牲を迫って勝ち目のない戦争を乗り切ることを考えていたにすぎなかった。 のちに橋川文三は『日本浪漫派批判序説』のなかで、ナチズムの哲学がいわば「我々は闘わねばならぬ」であったとすれば、日本の軍隊は「我々は死なねばならぬ」と言ったに等しいと分析してみせたものだった。  

≪044≫  日本が国際ルールのもとでの繁栄と自由を選択した以上は、そのルールのなかでの充実だけが日本の政治なのである。それとはべつに禅や茶に遊ぶのは、まったく国際ルールに関与するものではない。自在に遊べはよろしい。 しかし、いったん柔道を国際ルールにしてオリンピックと世界大会を闘うのなら、その柔道を「日本精神」などと結びつけて何かを訴えたり、文句を言うべきではない。一人勝手に、柔道の心を畳の片隅で問えばいい。同様に、禅を宗教連盟の規約に入れたり、茶を国際ティーパーティ条約にしたいなら(そんなことはまだしていないが)、それで茶の輸出入や価格の暴騰暴落が国際的な経済摩擦問題になったとしても、そのルールの範囲内で闘うべきである。そこに利休の茶の心をもちこんでも意味がない。 

≪045≫  昭和史はそこを踏みまちがえた。おそらくいまもなお、踏みまちがえている。松本が言うのはそこなのだ。日本人は「日本の失敗」の問い方すらわかっていないのではないかと言うのだ。 

≪046≫ 附記¶松本健一の著作をあげるとかなり厖大になるので、ここでは絞る。昭和史に関するものは『第二の維新』(国文社)、『北一輝の昭和史』(第三文明社)、『大川周明・百年の日本とアジア』(作品社)、『昭和に死す・森崎湊と小沢開作』(新潮社)、『昭和天皇伝説』(河出書房新社)など。北一輝については『評伝北一輝』全5巻(岩波書店)がもはや記念碑である。本文で紹介したものは『秩父コミューン伝説』(河出書房新社)、『隠岐島コミューン伝説』(河出書房新社)、『秋月悌次郎・老日本の面影』(作品社)、『われに万古の心あり』(新潮社)、『蓮田善明・日本伝説』(河出書房新社)、『白旗伝説』(新潮社・現在は講談社学術文庫)など。他にぼくとしては、『中里介山・辺境を旅するひと』(風人社)、『開国のかたち』(毎日新聞社)を、とりわけ『竹内好論』(現在は岩波現代文庫)を薦めたい。竹内論は、近代アジアと現代日本をつないで論ずるに、きわめて批評が難しい対象であるとおもうのだが、果敢な登攀を試みている。 

≪046≫ 附記¶松本健一の著作をあげるとかなり厖大になるので、ここでは絞る。昭和史に関するものは『第二の維新』(国文社)、『北一輝の昭和史』(第三文明社)、『大川周明・百年の日本とアジア』(作品社)、『昭和に死す・森崎湊と小沢開作』(新潮社)、『昭和天皇伝説』(河出書房新社)など。北一輝については『評伝北一輝』全5巻(岩波書店)がもはや記念碑である。本文で紹介したものは『秩父コミューン伝説』(河出書房新社)、『隠岐島コミューン伝説』(河出書房新社)、『秋月悌次郎・老日本の面影』(作品社)、『われに万古の心あり』(新潮社)、『蓮田善明・日本伝説』(河出書房新社)、『白旗伝説』(新潮社・現在は講談社学術文庫)など。他にぼくとしては、『中里介山・辺境を旅するひと』(風人社)、『開国のかたち』(毎日新聞社)を、とりわけ『竹内好論』(現在は岩波現代文庫)を薦めたい。竹内論は、近代アジアと現代日本をつないで論ずるに、きわめて批評が難しい対象であるとおもうのだが、果敢な登攀を試みている。 

≪047≫  昭和史についてはそれこそ仰山な出版物が出回っているので(最近またとくにふえてきた)、ここでは司馬遼太郎『「昭和」という国家』(NHK出版)、秦郁彦『昭和史の謎を追う』上下(文芸春秋)、江藤淳監修『昭和史』(朝日出版社)、中村隆英『昭和史』ⅠⅡ(東洋経済新報社)、それに最近の半藤一利『昭和史』(平凡社)、坂本多加雄・秦郁彦・半藤一利・保阪正康『昭和史の論点』(文春新書)などをあげておく。 

≪01≫  すでに諸国の守護たちの力は荘園制と土地経営力の消滅とともに衰退しきっていた。これを一言でいえば、日本には中心政府が不在のままだったということになる。 

≪02≫  群雄割拠と一向一揆と土一揆はずっと平行していた。それが戦国時代の特徴である。この平行状態に終止符を打ったのは象徴的には「刀狩り」であろう。こうしたなか、新たな「権力の概念化」が要請されていた。今川や武田の武士団には「家訓」はあったが、その拡張にはまだ手がつけられていない。信長は最初にこれに着手した。 

≪03≫  信長の全国制覇のために打った手は、各領国の武士団と家臣団の制圧、一向宗と一向一揆との対決、イエスズ会士との交流によるキリスト教の統御、堺などの都市支配、延暦寺勢力の一掃、安土城の建設など、きわめて広範囲にわたるもので、その対策も大胆で迅速ではあったが、その国家理念は「天下」「公儀」「天道」といった抽象的なイデオロギーの断片で語られたにすぎなかった。 

≪04≫  自身こそが神仏も第六禅天魔も超える者だと思いすぎた信長についで、秀吉は信長の政策を踏襲しつつ、なんとか東アジア社会における国家のかたちを強化しようと試みた。また一方では豊国神社の起工にあらわれているように、かなり神道を流用して太閤神話を完成させようとした(信長も「總見寺」の建立で自身の神仏化を図ろうとしたが、死ぬのが早すぎた)。しかしそれも秀吉自身の無謀きわまりない大陸制覇の夢とともに潰えた。 

≪05≫  こうした信長・秀吉の未成熟な「権力の概念化」を見ていた家康がとりくんだことは、日本で最初の国家イデオロギーを確立することへの挑戦とならざるをえない。 

≪06≫  オームスの本書はそこに注目する。家康の時代に用意できた汎神論的なイデオロギーと家光や家綱の時代に用意できた儒学的なイデオロギーがどのように組み立てられたのか、そこを外からの目で強引に粗述してみようということである。 

≪07≫ 本書をめぐっては、その後、オームスと大桑斉によってシンポジウムが大谷大学で1週間にわたって開催され、さまざまな議論をよぶことになった。その記録と再編の一部始終は『シンポジウム「徳川イデオロギー」』という本にもなっている。しかしここでは、そうした後日の議論を勘定に入れないまま、本書に拾える重点をぼくなりに尾鰭をつけて案内したい。 

≪08≫  三人の先行者をあげておかなくてはならない。藤原惺窩と林羅山と天海である。三人の関係と徳川イデオロギーの関係はやや複雑だ。 

≪09≫  惺窩が名護屋にいたことは朝鮮文化や朝鮮使節との邂逅をもたらし、とくに赤松広通がアジア趣味の持ち主だったことが影響して、惺窩の目は大陸に向いた。そこで朱子学に目覚めた。しかし、すでにここまでの惺窩には神道も仏教も入っていたわけだから、その思想はしばらくすると儒学的仏教的神道とも神仏的儒学ともいえるものになっていった。林羅山・松永尺五・那波活所・堀杏庵らの門人を育てて後世の人材を育てた。 

≪010≫  人材は育てたが、こうした惺窩の思想が徳川イデオロギーの基盤になったとは考えにくい。なかんずく惺窩の朱子学解釈が徳川イデオロギーになったとはさらにいいにくい。惺窩はむしろ、のちの徳川社会にとっては有効な使い道となったわけではあるが、「聖人の道」についての考え方を拓いたといったほうがいい。オームスはそのへんのことを指摘してはいないが、のちに徳川の世が歪んでいったとき、「聖人の道」が失われていると見えたからこそ、江戸後期に陽明学や水戸学が燎原の火のごとく広がったわけだった。 

≪011≫  林羅山も最初は仏門(建仁寺)にいた。ただ惺窩とちがって仏教に反発して独力で朱子学にとりくみ、22歳のときに惺窩の門に入った。翌年、二条城で家康に謁見して博識を披露して、2年後には秀忠に講書した。 

≪012≫  以降、家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、「武家諸法度」や「諸士法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接、外交文書の起草などに関与した。このように羅山は幕政に深くかかわったのだが、このことと幕府が羅山の朱子学を御用イデオロギーとしたということとは、直接にはつながらない。羅山は僧侶の資格で任用されていたのだし、そのくせ排仏論を展開していたわけである。また惺窩が陸王学(陽明学)にまで視野を広げていたのにくらべると、羅山は朱子の理気哲学に没入していて、理屈ばかりを広げたがった。 

≪013≫  むしろ羅山は徳川時代の最初のエンサイクロペディストだったのである。『神道伝授』や『本朝神社考』では朱子の鬼神論にもとづいて神仏習合思想を批判し、『多識編』では中国本草学を紹介し、『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』では兵学を読解し、『怪談全書』では中国の怪奇小説の案内を買って出た。このように、羅山はあまりに広範囲に学術宗教を喧伝したので、のちに中江藤樹や山崎闇斎らに批判されたほどなのだ。  

≪014≫  だから羅山も、徳川イデオロギーのシナリオを書いたとはいいがたい。羅山が上野忍岡の私邸に塾を開き、その門人が多く輩出したこと、それがのちに昌平坂学問所の基礎になったこと、その私邸の一角に徳川義直の支援で孔子を祀る略式の釈奠(せきてん)をおこなったこと、こうしたことが羅山の御用イデオロギーの準備に当たったというのが、過不足ないところであろう。 

≪015≫  しかし羅山の嗣子となった林鵞峯になると、羅山との共著の『本朝通鑑』、その前の『日本王代一覧』などで、「日本」の正統性が奈辺にあったことを問うて、幕府のオーソドキシーとレジティマシーがどうなればいいか、その突端を開いていた。ここには徳川イデオロギーが少しだけだが、萌芽した。 

≪016≫  惺窩や羅山にくらべると天海は、あきらかに家康の神格化のために特殊なイデオロギーを注入し、駆使した。 南光坊天海が駿府で家康に仕えたのは73歳のときである。そのため天海の影響は象徴的か暗示的なものだと見られがちなのだが、それから30年近く、100歳前後の長命を誇ったことを含め、もし誰かが最初の幕閣イデオローグだったとするなら、天海こそが唯一その立場にあったはずなのだ。オームスもそう見ている。 

≪017≫  天海の生涯は妖怪変化というほどに、怪しくも妖しく、変化にも紆余曲折にも富んでいる。だいたい出身がはっきりしない。蘆名氏の支族三浦氏の出身といわれ、会津を本貫としているようだが、前半生の詳細はまったくわからない。少年期に台密を修め、14歳から諸国の霊山名山を遍歴し、会津の蘆名盛重に招かれてしばらく滞在し、さらに常陸の不動院や関東の諸寺に止住しながら50歳近くに比叡山に入ったという、はなはだ漠然とした経歴が浮かび上がるだけなのだ。その比叡山に入ったところが東塔の南光坊だったので、ともかくは南光坊天海なのである。 

≪018≫  家康に出会ってからは、川越の喜多院の住職や下野の日光山(輪王寺)の主宰を任された。こんな得体の知れない怪僧であるにもかかわらず(いやきっとそうだからこそ)、家康は天海がもたらす「山王一実神道」の理念と論理が気にいった。 

≪019≫  そもそも最澄が比叡山を開創したころは、京都の鬼門には「ヒの信仰」(日枝=比叡の信仰)とともに、地主神の二宮権現と大三輪明神を勧請した大宮権現の、山王二聖信仰というものがあった。 

≪020≫  それが円珍の時代に山王三聖信仰となり、明達が平将門の乱のときこれを日吉山王に祈って調伏したことで有名になった。『梁塵秘抄』ではすでに山王の神々の本地仏が謳われている。中世、この山王信仰が神道説として『耀天記』に採り入れられ、天台教学との結びつきを強くした。さらに南北朝期に慈遍が『天地神祇審鎮要記』を著して、そこへ伊勢神道や両部神道を入れこんだ。 

≪021≫  この山王神道説をもとに、天海が「山王一実神道」を創唱してみせた。天海は、家康を山王の真実(一実)をあらわす東方の権現とみなして東照大権現とし、その大権現はそもそも天照大神を本地とするという論理をつくりあげた。かつて吉田神道が本地仏と垂迹神の関係を逆転させて反本地垂迹説を唱えて成功したように、天海は天照大神に治国利民の法を授けたのが山王権現であり、その山王権現を東において受け取って、それを全国に照射しているのが大権現としての東照家康であるというふうに、畏敬の“筋”を組み立てたのだ。

≪022≫  これはいかにアクロバティックであろうとも、家康がどうしてもほしかった神格化のイデオロギーだった。これこそは信長も秀吉もうまくいかなかった神格の理論付けなのである。しかし家康は死ぬ。 

≪023≫  けれども、このアクロバティックな組み立ては、徳川イデオロギーの起源として、以降200年以上続くことになった。家光が家光の墓所を決めるにあたって、天海の案に従って日光を選び、そこに東照宮を建立して大権現を祀り、さらには日光二荒山に眠っていた補陀落観音浄土のゲニウス・ロキと習合させてしまったからである。東照権現は古来の土地と結びついたのだ。 

≪024≫  こうして天海は、皇室仏教としての天台比叡のイデオロギーを徳川家のイデオロギーに転換してみせたのである。山王一実神道が背景に天台を抱えていたこと、すでに中世にそこに伊勢神道が交じっていたこと、家康が京都ではなく東方に日本の拠点をおこうとしていたこと、これらを天海は見抜いて仕立てたイデオロギーだった。 

≪025≫  このため京都の鬼門に位置する天台比叡を江戸の鬼門にあたる上野に移し、そこに"東の叡山"としての東叡山寛永寺を建立したことも天海のプランになっていた。いま、われわれが見る上野の不忍池は、比叡から見る琵琶湖に当たっている人工池なのだ。 

≪026≫  オームスは、これによって京都は江戸に、朝廷は幕府に、伊勢は日光に置き換わったのだと見ている。むろん事態は容易にそのようになっていったわけではないのだが、天海が注入した権現思想は、かつて信長が望んだ「権力の概念化」の実現そのものとなっていった。 

≪027≫  本書は、徳川イデオロギーが幕府の命令によって形成されたというふうには書いてはいない。徳川イデオロギーは、惺窩の「聖人の道」や羅山の儒学や天海の山王一実神道をブレンドさせながら、家康から家綱におよんだ江戸初期に、のちの200年あるいは300年にわたって各所で唸りをあげるイデオロギー戦線のための、最初の根をはやしたのだ言っている。 

≪028≫  この根はいろいろなところに張りめぐらされた。惺窩の門下からも、羅山の門下からも、また天海の門下の戸隠に拠点をおいた乗因からも、根がはえた。むろん中江藤樹からも熊沢蕃山からも貝原益軒からも根がはえた。そこでオームスがとりあげるのは山崎闇斎である。 

≪029≫  もともと幕府がほしかったのは朱子学がもつ「上下定分の理」というものである。そこに語られる「名分」こそ、徳川社会の原理と合致した。羅山はそれを説くには博学すぎた。鵞峯はなかでは「上下定分の理」を説いてくれそうだったが、まだ甘かった。こうしたときに登場してきたのが山崎闇斎だったのだ。 

≪030≫  闇斎については第796夜にもふれておいたので、ここでは目くじらたてた議論の対象にしないことにするが、そのときは闇斎の弟子の佐藤直方と浅見絅斎のほうを重視したので、今夜はそこそこの案内をしておくにとどめる。ただし、オームスは闇斎こそは徳川イデオロギーの最も重要なところを用意したと言っている 

≪031≫  ちなみに、オームスはもう一人、鈴木正三をあげている。正三は家康の家臣の鈴木重次の長男に生まれた禅僧で、仮名草子の作家としてスタートを切るのだが大坂夏の陣のあとに旗本となって神田駿河台に住み、そのころまったく冴えなかった仏教思想をなんとか浮上させようとした。その禅風は「仁王勇猛の禅法」と、その念仏は「果たし眼の念仏」とよばれ、ぼくはかなり好きな禅僧なのだが、オームスが言うような意味で徳川イデオロギー形成に寄与したというふうにはおもえないので、割愛する。 

≪032≫  江戸初期は、沢庵和尚もその一人だが、こういう傑僧はそこかしこにいたはずなのである。けれどもそれをもって仏教イデオロギーの起爆とするには当たらない。かれらはいずれもソリストだった。仏教を国につなげようとは思っていない。 

≪033≫  山崎闇斎は京都の針灸医の子として生まれた。賢くはあったけれどもかなりの乱暴者だったので、両親がほとほと手を焼いたようだ。そこで7歳で比叡山に入れられ、15歳で妙心寺に移った。ところがなかなか仏教になじまない。羅山もそうであった。江戸時代初期とはこのように、やっぱり仏教がまことに冴えなかった時期なのである。 

≪034≫  その後、闇斎の人生を変える出来事がおこる。闇斎の風変わりなところに目をつけた土佐の一公子が、戯れに土佐の吸江寺に引き取ったのだ。闇斎はそこで小倉三省や野中兼山に出会って衝撃をうける。武士でありながら、儒学を修めていた。とくに兼山が朝鮮朱子学に傾倒して集書していことに感動した。闇斎は居ても立ってもいられずに、土佐南学派の谷時中を紹介してもらって、飛びこんだ。ついに全身で朱子学に服したのである。正保4年には『闢異』を書いて排仏尊儒をマニフェストする。 

≪035≫  その闇斎がたんなる儒者としてではなく、徳川イデオロギーの儒者としてどこが注目されるのかというと、寛文5年から保科正之に招かれてその師をつとめたことにある。 

≪036≫  保科正之は徳川秀忠の三男で、家光の異母弟にあたる。寛永期に信濃の高遠藩を、ついで山形藩を、さらに会津藩の藩主となって幕藩体制成立期の名君と称された。 

≪037≫  家光の死後は遺言によって4代家綱の将軍補佐となり、その後の10年にわたる幕政をほぼ中心的に仕切った。その保科正之を闇斎が指導した。いわば家康以来の朱子学路線はここにおいて、やっと初めて現場の幕政と結び付いたのだ。 

≪038≫  ついでながら、徳川幕藩体制はさまざまな要素が組み合わさって確立したものであるが、そこに3人名君と藩政モデルが出現したことが見逃せない。すなわち水戸の徳川光圀、岡山の池田光政、会津の保科正之だ。こではふれないが、池田光政の「花畠教場」からは、かの熊沢蕃山が出た。 

≪039≫  保科と闇斎の関係には、さらに特筆すべきことがある。家臣の服部安休が二人を吉田神道の奥義継承者であった吉川惟足に引き合わせたことだ。二人は急速に『日本紀』を、日本神話を、吉田神道を、さらには日本の秘密そのものを学ぶ関係になる。  

≪040≫  ここで闇斎が飛躍する。朱子学と神道をドッキングさせたのだ。実はそれ以前から、闇斎は伊勢に詣でたおりに名状しがたいインスピレーションを何度かうけていた。寛文9年には度会延佳や大宮司精長から中臣祓もうけていた。しかしそれはインスピレーションであって、まだ論理でも思想でもなかった。また朱子学とも無縁のものだった。吉川惟足の説明は徹底していた。それを聞いているうちに、闇斎はひらめいた。伊勢神道の奥にひそむものを朱子学の論法によって踏み分けられるのではないか。 

≪041≫  こうして登場してきたのが「垂加神道」である。もともと闇斎の朱子学には「敬」と「道」が生きていた。その朱子学のコンセプトと神道の奥義にひそむものが接近した。闇斎は自分にひらめく考えを「神垂祈祷・冥加正直」の「垂加」を採って、「垂加神道」と名付けた。それは闇斎の霊社号ともなる。吉川惟足が、卜部派の神道には「神籬磐境の伝」(ひもろぎうなさかのでん)を得たものに生きながら霊社号が降りるという秘伝があると言ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。 

≪042≫  闇斎はたんに神秘主義に走ったわけではない。『神道五部書』に狙いを定めて、これを解読していった。そこに「土金の伝」を見いだして、それを「敬」や「忠」に読み替え、それをもって北畠親房の『神皇正統記』に当たって、日本の「道」がどのように系譜されてきたかを調べた。また『大和小学』では、それらの論法で日本神話を解読してみた。そういうことのすべてが垂加神道なのである。ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。 

≪043≫  しかし、これが中国の朱子学とはとんでもなく離れたものになっていることはあきらかである。ただ日本の神々の畏敬に惚れていっただけではないかとも見える。しかし、そうでもなかったのだ。 闇斎は朱子学を日本が咀嚼するとは、中国の事例でなくて日本の事例によらなければならないと確信していたのである。 

≪044≫  垂加神道をこれ以上詳しく説明することは遠慮しておくが(オームスはかなり分け入っている)、こうした保科正之と山崎闇斎が神道にまで入りこんで、徳川イデオロギーとして何を準備したかについては、ちょっと確認しておかなくてはならない。 

≪045≫  思想としては、ここに神儒一体のイデオロギーが出現した。中身がどうであれ、これはまちがいない。次に、中国の朱子学を日本の朱子学にするための、かなり異様な方法が提案された。方法は異様であるが、ここには藤原惺窩の「聖人の道」は日本の為政者の「聖人の道」でなければならず、それは日本の神々の垂迹と合致していなければならないという方針が貫いた。 

≪046≫  それとともに、そこには上から下までの「名分」が通っていなければならないものだった。その名分が通っていく"通り"は、「垂加」するものなのである。この考え方もあまりにも神秘的でありすぎるけれど、そもそも「仁」も「徳」も儒学はそのようなスピリットにもとづいて組み立てられたものなのである。むしろ闇斎はそのスピリットの論理を日本にリロケーションするために儒学と神道を抱き合わせたのだった。 

≪047≫  こうした特別なイデオロギーは、当然ながら徳川社会の理論をつくろうとする者に影響を与えるか、ないしは反発を招くはずである。案の定、闇斎のイデオロギーには批判も出た。しかし、このことはたいそう象徴的な出来事であるのだが、寛文6年にこういうことがおきたのだ。保科正之が闇斎を理解しない山鹿素行を幕府内の反対を押し切って、江戸から追放してしまったのである。保科が『武家諸法度』の改訂を完成した3年後のことだった。  

≪048≫  名君の誉れ高い保科としては、かなり思い切った処置である。しかし、このことこそ徳川イデオロギーがいよいよ実践されていった証しだったのではないかと、オームスは見た。まさに元禄の世になって、幕府は山鹿素行の思想に従った赤穂浪士を断罪したわけである。 

≪049≫  一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。 

≪049≫  一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。 

≪051≫  ついでに、もう一言。垂加神道が逆の作用をおよぼして、新たなイデオロギーを生んだという例も少なくない。その代表的なものが「復古神道」である。 

≪052≫  復古神道というのは、仏家神道(両部神道など)・社家神道(吉田神道など)・儒家神道(垂加神道など)のような外来思想の影響を交じらせた神道ではないもの、古来の純粋な信仰にもとづいた神道(そういうものがあっとしてだが)をさすときにつかわれる用語で、狭義には平田篤胤やその後の大国隆正の神道思想をさすのだが、広くは契沖・真淵・宣長らの神道思想をさすときもある。 

≪053≫  島崎藤村が『夜明け前』で「或るおおもと」を問うたときは、この古来の「おおもと」を問うたわけなのだ。 

≪054≫ 附記¶

本文にも書いたようにヘルマン・オームスの分析は、いまなお議論の渦中にある。あまりにも安易に、また楽観的に徳川の社会思想を見ているのではないかという批判も少なくない。その議論がどういうものであるかは『シンポジウム「徳川イデオロギー」』(ぺりかん社)を読まれるとよい。 

≪055≫  徳川時代の儒学思想の理解は、いずれにしてもかなり難度が高い問題である。たとえば今夜はオームスに従って山崎闇斎をとりあげたけれど、その闇斎から見れば林羅山や山鹿素行が問題になるのだが、これは逆の観点からも見られるわけであって、どうもいちがいに俯瞰できる視点が欠けたままなのである。俯瞰のためには、いまなお源了圓の『徳川思想小史』(中公新書)から子安宣邦の『江戸思想史講義』(岩波書店)までを、田原嗣郎の『徳川思想史研究』(未来社)から澤井啓一の『〈記号〉としての儒学』(光芒社)までを、一気に駆け抜けるしかないだろう。 

≪056≫  なお、天海の山王一実神道についてもあまり研究はないのだが、いまのところは曾根原理の『徳川家康神格化への道』(吉川弘文館)が詳しい。闇斎については原典に当たるのか、「日本の名著」(中央公論社)の現代語訳に当たるといいだろう。サブテキストとしては岡田武彦の『山崎闇斎』(明徳出版社)が詳しい。ついでに"おみやげ"を一冊。秋田裕毅の『神になった織田信長』(小学館)という一冊がある。日本人には『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)よりこちらのほうがおもしろいはずだ。  

≪01≫  読み進んでいたときの緊張と興奮をいまでも思い出す。足利義満が王権を簒奪する直前までの経緯と推理を展開したものだ。著者は、この問題を考えることが「天皇家はなぜ続いてきたか」という難問に応えるためのひとつの有効なアプローチだと思って、長きにわたった執筆に向かっていたのだという。 

≪02≫  あのころのバブルな日本を切り裂くような、充実した一冊だった。この本を読むか、読まないかで、日本を見る目や天皇制度を見る目がかなり変わるといっても過言ではない。あれから15年。いま、自民党政府は何かを急ぐように女帝の誕生を視野に入れた皇位継承の"しくみ"づくりを焦っていて、皇室典範の書き換えにとりかかろうとしているけれど、いったい「皇位」が何を意味するもので、天皇の祭祀が何を抱え、日本の歴史のなかでどのように天皇家が維持されてきたかを知る日本人は、実は極端に少なくなっているはずだ。バブルは経済から別のところへ押し寄せてきていると言ったほうがいい。 

≪03≫  靖国問題で少しは見えてきたかもしれないが、日本ではつねに「象徴」の位置と移動が問題なのである。それが靖国だけではなく、つねに日本史の各所各時におこっていた。かつては天皇の皇位が「王権」の象徴で、それが何度か民間の手にわたろうとしたときさえあったのである。おそらくそんなことなど、まったく考慮の外になっているにちがいない。しかし、歴史のなかの天皇家の存在はつねにそうした激しい動揺をうけていた。ときどきはそこからすべてを考えたほうがいいときがある。そういうときに読む一冊でもあろう。 

≪04≫  本書は義満の王権簒奪計画がどういうものであったかを"立証"して評判になった。けれども現代の日本人には、その"王権簒奪"の意味がわからない。 

≪05≫  それだけではなく、たとえばいま「天皇制」と「天皇制度」という両方の用語をつかったのだが、この国の大前提になっているはずの天皇家の存在や天皇家の祭祀の続行は、はたしてそれを「天皇制」という社会システムとして論じていっていいのかさえ、ちゃんとした見解が確立できないでいる。 

≪06≫  ちなみに著者は「天皇制」という用語が誤解を招くので、まったくつかわないという立場をとった。「天皇制」という用語はスターリン時代のソ連による「コミンテルン32テーゼ」(1932年の国際共産主義運動の綱領)のなかの一表現を、時の日本共産党が訳したときの用語であって、日本の歴史的な天皇制度をあらわす言葉にはふさわしくないという理由である。こういうことも、いまはほとんど議論されていない。 

≪07≫  その天皇制度が、足利義満の王権簒奪計画によっていっとき危機に瀕したのである。これまで歴史家が注目していなかったことだった。この計画は義満の急死によって不成功におわり、宮廷革命も未着手のままになった。しかしそのことがかえって、天皇家の存続の意味を強化し、皇家の維持を守る"しくみ"をはっきりさせていった。天皇家の存続は、義満による王権簒奪計画の失敗から初めて確固たるものになったのではないか。これが本書の告げるところなのである。 

≪08≫  内容をかいつまむ前に、ざっと前提を書いておくと、実は日本の天皇制度では、天皇が現実の政務を執らずに代行者が執政するという例は、古来このかた数多かった。推古天皇のときに聖徳太子が摂政に立った例など、その典型だ。しかし、古代天皇制度ではこれはあくまで例外措置ないしは臨時措置だった。そこにはずっと天皇親政という建前が意識されていた。 

≪08≫  内容をかいつまむ前に、ざっと前提を書いておくと、実は日本の天皇制度では、天皇が現実の政務を執らずに代行者が執政するという例は、古来このかた数多かった。推古天皇のときに聖徳太子が摂政に立った例など、その典型だ。しかし、古代天皇制度ではこれはあくまで例外措置ないしは臨時措置だった。そこにはずっと天皇親政という建前が意識されていた。 

≪010≫  それでも恒常的な律令官制と公卿による議定(ぎじょう)政治のフレームは健在で、天皇が百官に君臨するということには変わりはなかった。 

≪011≫  ところが1086年に白河天皇が退位して上皇による院政が確立すると、律令による太政官制に大きな変更が加わって、まったく新たな政体が誕生した。この政体が南北朝末期に後円融天皇が死去した1393年まで続いたのだ。その後も、後小松・後花園をはじめ現役退位して上皇になった天皇は何人もいるが、権力を保持した例はなく、院政とはいわない。 

≪012≫  院政とは上皇が実権をもって執政することで、この実権者のことを「治天の君」あるいは「治天」という。 

≪013≫  いったん治天による実権政治が始まると、天皇は治天になるための通過儀礼者のように見なされた。歴史学では王族のなかで実権を握った者を「国王」とよぶのだが、それをあてはめていうのなら、院政期における「日本の国王」は天皇から治天に移行したというふうにいえる。白河上皇以降、治天は鳥羽、後白河、後鳥羽というふうに絶頂を極めて、承久の乱(1221)にいたった。 

≪014≫  院政は好むと好まざるとにかかわらず、皇統の二重構造をつくった。それによって権力の延命がはかられたからだ。たとえば安徳天皇は平家一門に拉致されて神器とともに西海に沈んだけれど、治天の後白河は京都にいて神器抜きでも後鳥羽天皇を立てて、皇統とともに王統の延命をはかりえた。もし皇統の維持ということだけを考えるなら、治天をおくことはその延命維持装置になるわけなのである。 

≪015≫  しかしここにおいて、治天は暴走もすることになる。天皇がおとなしくしていても、治天は自由に動ける。それが後鳥羽院がおこした承久の乱なのである。これは失敗すれば二重構造すら危うくなりかねないリスクの高い選択である。治天はあくまで控えていてこそ、初めて皇統の実権を左右することができる。しかし後鳥羽院は鎌倉に軍旗をあげて闘いを挑み、そして完敗した。北条泰時は後鳥羽院以下の三上皇を島流しに処し、宮廷のなかの反鎌倉派を一掃した。 

≪016≫  天皇を動かし、天皇を利用するという立場からすると、こうした治天の失敗はチャンスであった。そしてそこだけをとってみれば、承久の乱のあとの泰時が上皇配流を平然としたということは、もし、その気さえあれば、天皇家を滅亡させることは可能であったことを意味する。しかし泰時はそれをしなかった。なぜなのか。のちの義満とちがってその気もなかったろうが、別の理由があったからだ。 

≪017≫  北条氏は頼朝のような王朝国家の侍大将ではなかったからこそ、天皇のシステムの外から三上皇に苛酷なことを強いることができたのだが、では北条氏の鎌倉幕府が天皇家に代わって日本を統治するだけの実力とネットワークをもっていたかといえば、もっていなかったのである。鎌倉幕府はまだ"東国国家"にすぎず、西については政治的にも軍事的にもほとんど支配を及ぼしていなかったのだ。 

≪018≫  結局、泰時は父親の義時と相談して、持明院宮守貞親王を治天に立てて後高倉上皇とし、その子の堀河天皇を皇位に擁立して王統の再建を扶けた。穏健策の選択だ。その後、北条政権が全国支配を意識するようになったのはやっと蒙古襲来の弘安の役のあとのこと、それでも蒙古襲来であきらかになったように、外交権は治天の側にあるという建前はくずさなかった。 

≪019≫  このような北条政権を見ていて、一挙に現役天皇による“天皇親政”を取り戻せると見たのが後醍醐天皇である。古代の王政を復古するという計画だ。元亨元年(1321)、後醍醐は院政を廃止して、王政を敷こうと決意した。天皇中央集権システムの確立をめざした。しかし、公家や寺社の既得権益を大幅に減らしたため各層から離反され、短時日に瓦解した。 

≪020≫  これで日本の天皇家が真っ二つに割れた。南北朝である。政治家も官僚も真っ二つに割れた。そこで足利尊氏がふたたび院政システムを復活させ、持明院統の光厳上皇を治天の君に立て、その弟の光明天皇を即位させ、幕府を開始させた。これが足利幕府なのである。 

≪021≫  足利幕府の政治システムは、黒田俊雄が名付けた「権門体制」による。公家と寺社と武家が協調しあって全国支配を完遂するというシステムだ。そのトップに治天の君をおき、そこから「院宣」を出す。それ以外の権力は治天にはわたさない。幕府が握る。 

≪022≫  では、改元と皇位継承と祭祀はどうするか。これこそは今日なお天皇制度として残っている天皇家固有の"権限"である。あとでものべるが、ここがはっきりしないと天皇制度はないも同然になる。しかし、これが意外にもジグザグなものだった。 

≪023≫  南北朝の二皇統迭立(てつりつ)の南北朝期を除いた時代はどうだったかというと、改元の権限は形式的には天皇家の権限となっていたものの、実質上は武家が仕切っていた。たとえば1308年の延慶の改元は「関東申し行うに就て、その沙汰あり」と言われたように鎌倉幕府の要請によっていたのだし、1368年の応安の改元は名目上(改元申詞)は天変地妖ということになっているが、実際には将軍義詮の死による“武家代始”だった。 

≪024≫  皇位継承も承久の乱後の三上皇配流が象徴しているように、皇位の決定権はすでに武家に移っていた。1242年に四条天皇の急死で治天の高倉院の系統が途切れたときも、摂政近衛兼経以下の廷臣は関東にお伺いをたてて、数十日の空位を呑んだものだ。このとき廷臣たちは佐渡院宮を推したのだが、泰時は断固として阿波院宮を立てて、それが後嵯峨天皇になった。 

≪025≫  このように北条政権が皇位継承に干渉できたのは、北条氏の政権の位が天皇から補任(ぶにん)されていない執権という位であったためである。これが征夷大将軍という立場になると、なかなか天皇には抗いにくい。しかし北条氏は平気で手を出せた。こうして皇位も武家に左右された時代がジグザグに続いたのだった。伏見宮貞成の『椿葉記』には「承久以来は、武家よりはからい申す世になりぬ」とある。 

≪026≫  ところが南北朝の両統迭立を通過してみると、必ずしも皇位に干渉することが政権の安定につながらないということがわかってきた。室町幕府もできればあまり皇位に干渉したくないという出発をした。それが義満においては皇位簒奪の意欲に転化してしまったのである。 

≪027≫  なぜ、義満にそんなチャンスがやってきたのか。その前に、天皇家がもつもうひとつの「司祭王」としての姿を見ておく必要がある。

≪028≫  祭祀は天皇家に残された数少ない皇室固有の儀礼である。現代でもそれは変わらない。すでに天皇は世俗的権力を衰退させ、後鳥羽院以降は征服王としての実力も失っていた。後醍醐の"偉大な実験"はあったものの、それもあっけなく潰えた。  

≪029≫  こうなると天皇家の側にしてみれば、なんとしてでも祭祀権だけはしっかり守らなければならないということになる。ところが、その維持がどの時代もかなり大変だったのである。ここに、王政を大前提に組み立てられた古代律令制で定められた国家の祭祀と応永9年(1402)の天皇家の祭祀とを比較列挙してみるが、これらのなかのいくつもが各時代において次々に欠陥儀礼と化したのだった。 

≪028≫  祭祀は天皇家に残された数少ない皇室固有の儀礼である。現代でもそれは変わらない。すでに天皇は世俗的権力を衰退させ、後鳥羽院以降は征服王としての実力も失っていた。後醍醐の"偉大な実験"はあったものの、それもあっけなく潰えた。  

≪029≫  こうなると天皇家の側にしてみれば、なんとしてでも祭祀権だけはしっかり守らなければならないということになる。ところが、その維持がどの時代もかなり大変だったのである。ここに、王政を大前提に組み立てられた古代律令制で定められた国家の祭祀と応永9年(1402)の天皇家の祭祀とを比較列挙してみるが、これらのなかのいくつもが各時代において次々に欠陥儀礼と化したのだった。 

≪032≫  上記の『神祇令』の儀礼のうち、応永年間で残ったものはなんと祈年祭・月次祭・鎮魂祭・大嘗祭・新嘗祭のたった四つだけである。そのうちの一代一度の大嘗祭(大祀とよばれた)も、仲恭天皇のように承久の乱の直前に大嘗祭をしないままに践祚(せんそ)した天皇や、南北朝の崇光天皇のように大嘗祭をおこなわないままに廃帝になった天皇も出現していた。 

≪033≫  しかも応仁の乱以降は、大嘗祭をしないままに即位した天皇が次々に出た。今日、一部では大嘗祭と天皇の権威が結びつけられて議論されているようだが、実は歴史的には必ずしもそうではなかったのである。 

≪034≫  ちなみに上記の祭祀儀礼のうち、*印をつけたもの以外はすべて神事である。宮中の財政難によって、これらの費用は頻繁に幕府が用意した。 

≪035≫  さて、以上のような天皇と治天と幕府の事情が進行するなか、足利義満が登場してくるのである。舞台の幕は、将軍義満が14歳、同い歳の後円融天皇が応永4年に践祚、幕政を管領(かんれい)の細川頼之が仕切っていたところで切って落とされる。 

≪036≫  義満が青年に達すると、管領は斯波義将に代わり、後小松天皇が即位して後円融は治天として上皇となった。歴史的にはここが日本史上において、治天の君である「最後の国王」と征夷大将軍である「最初の国王」が相並んだ瞬間になる。 

≪037≫  ここから皇統を必死に守ろうとする後円融と、王権を武家の手に奪取しようとする義満のあいだに、きわめて激しい権力闘争が約10年間にわたってくりひろげられる。 

≪038≫  二人のあいだの詳しい駆け引きと相克とスコアについては省略しよう。その前史は義満が権大納言のころ、天皇在位中の後円融から天盃を賜ったとき、「主上の御酌を取る云々」し、そこに居合わせた三条公忠が「此の如きの例、未だこれを聞かず」としるしたように、かなり横柄で傍若無人な義満の挙動があらわれていたという。 

≪039≫  その後、義満は左大臣に昇り、摂政の二条良基と組んで宮中の儀礼に口を出すようになっていく。後小松天皇の即位の日(大嘗祭)の日程も後円融に相談なく勝手に決めた。永徳3年に先帝の後光厳の聖忌仏事があったときは、僧侶たちが内裏に参入して、公卿や殿上人は義満に憚って参内しなかった。 

≪040≫  こういうことが打ち続くうち、後円融の自殺未遂事件という前代未聞のことがおこる。いろいろ伏線はあるのだが(本書にはそのへんのことも詳しく書いてある)、義満が治天を配流しようという噂が流れたことが引き金になったようだ。後円融は腹に据えかね、ついつい乱心に及んだ。これをきっかけに義満は天皇家が掌握していた王権を奪うチャンスがあると踏んだ。 

≪041≫  義満の王権簒奪計画はかなり手順を尽くしている。たとえば三位以上の公卿が発給できる御教書(みきょうじょ)を巧みに変更して、のちに「義満の院宣」ともいうべきものに仕立てた。院宣を治天以外の者が出せるわけはないのだが、義満はそれを企んだ。 

≪042≫  著者はこれをあえて「国王御教書」とよぶしかないものだと言う。このばあいの「国王」とは「天皇の上にくる令外の官」という意味になる。 

≪043≫  こうした手を国内で次々に打っておいて、義満は明に入貢して国際的に国王と認知される手続きを獲得しようと考えた。明の建文帝の遣使を北山第に迎える手筈を整えたのである。応永8年、義満は表文に「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」と認め、日本の国内が統一したので通交や通商を求めたいと書いた文書を使者に持たせて、中国に渡らせた。翌年、明から返詔が来た。その文中に「茲に爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐(いだ)き、波濤を踰越して遣使来朝す」とあって、義満を狂喜させた。  

≪044≫  義満が明の皇帝から「日本国王」と名指されたのである。義満は大満足だが、その写しを見た大納言二条満基は「書き様、以ての外なり。これ天下の重事なり」と日記に書いた。内心肝を冷やしたことだろう。まったくありえないことがおこったのだ。これでは天皇と治天と義満という3人の国王が出現することになる。応永10年、ふたたび義満は親書を明の皇帝に持たせた。永楽帝に代わっていたが、義満は自身の名称を「日本国王臣源」と記した。義満は3人目の国王になるつもりではなかった。たった一人の国王になろうとしていたのである。 

≪045≫  のちに、この「臣下」をあらわす表現は問題になった。『善隣国宝記』を書いた瑞渓周鳳は、国王と自称するのはともかくも「臣下」としたのはおかしいと批判した。いまふうにいえば"屈辱外交”ではないかというのである。 

≪046≫  実際にも、日本はここに明を盟主とする東アジアの冊封体制のなかに正式に組み込まれたことになる。見返りとして勘合貿易が認められ、明銭が明から頒賜されることになるのだが、一部の公家や僧侶からすると、そこまでして明に謙(へりくだ)ることはなかったというのだ。この問題は、今日の日本にも通じるところがあるのだが、政権の周囲から見ると、誰が盟主であろうとも、外国に屈服しているのだけは許せないという議論なのである。 

≪047≫  しかし義満の狙いはそんなことにあったわけではなかったのだ。義満は中国の冊封体制のなかに入ることによって、日本国内で天皇の上に出ることを成就したかったのだ。計画は着々と進んだ。応永11年には朝鮮も義満を「日本国王」と認め、回礼使・通信使による日朝外交ルートが成立した。義満はこれらすべてを国内宣伝に利用したかった。 

≪048≫  もはやとっくに後円融の出る幕はなくなっていた。後円融は失意のうちに死ぬ。義満は自身で将軍職を降り、みずら太政大臣になると、官位の叙任権に手をつける。官位の授与は祭祀権と並んで朝廷最大の権威の行使であり、天皇や治天の権威が社会に流れ出る最大の効果を発揮するときである。しかし義満はこの権威を剥奪して掌中に入れようとした。  

≪049≫  こうして義満はだいたいの構想を描きおえた。将軍職を譲った足利義持はそのまま幕府の機構の総括を担当させる。弟の義嗣のほうを天皇に据えたい。義嗣は後小松天皇に強く迫って禅譲させればいいだろう。 

≪050≫  なぜそこまで義満が構想してしまったかということは、いろいろ議論が分かれる。著者は義満が後円融亡きあとの後小松を与しやすい相手と見て一挙に事をはこんだこと、叙任権と祭祀権がすでにガタガタになっていたのでそこから手をつけたことの有効性、室町幕府と明の確立の時期がほぼ同じであったこと、後円融の気概が空転していたこと、そのほかいくつかの有利をあげる。 

≪051≫  しかし、本当の理由は義満自身の権力欲が狂い咲きしていたと言う以外には説明は埋まらない。もし義満がもう少し長生きしていたら、日本の天皇制度がなくなっていたかどうかも、むろん議論のしようはない。ともかくも未曾有の天皇乗っ取り事件は、義満の急死によって未遂に了ったのである。 

≪052≫  死後、義満に「太上天皇」の称号(尊号)が贈られたという記録を持ち出す歴史学者と、そんなものはなかったという歴史学者がいて、事件が未曾有のものであったわりには、実は最後の引き際もあまりはっきりしないのだが、また、そこまで義満が皇位に執着したわりには自分の死後のことをまったく伝達していなかったことにも疑問がのこるのだが、こうして当時から「義満僣上」とよばれた歴史は幕を引いたのである。 

≪053≫  そこで問題になるのは、これによって日本の天皇家の存続がかえって強化されることになったということのほうである。 

≪054≫  実際に義満の死後におこったことで目につくのは、守護の人事をめぐって斯波義将が旧来のシステムをさっさと旧に復していったこと、義持が日明関係に関心を示さず、応永18年には国交すら断絶状態になって義持自身は「日本国王」の自称を自粛したこと、その義持が急逝して後小松上皇が急激に力をもっていたことなどである。 

≪055≫  なかでも世襲によって維持されてきた全国の家職家業のしくみが、義満の宮廷革命で崩壊することを恐れた全国官僚の反発が意外に大きく、結局は義満の計画がまるで水を引くように雲散霧消していった最大の要因だったかもしれないと、著者は書いている。歴史学では「官司請負制」とよばれるこの家職家業の任官制度は、のちの明治維新の「有司専制」にいたるまで、またその後の日本の官僚システムにいたるまで、日本の最も根深い社会システムのひとつだったということなのだ。 

≪056≫  もうひとつ、義持が父の義満に対してかなりアンビヴァレンツな感情と憎悪をもっていたことも、その後の天皇制度の復活に陰ながら寄与しただろうとも、著者は書いた。 

≪057≫  やがて将軍が義持から義教に代わると、日本社会はしだいに下克上の機運が高まっていく。応永23年には義持の弟の義嗣が上杉禅秀の乱に連座して殺害され、応永35年には正長の土一揆が勃発した。 

≪058≫  義教の幕府はこれらを抑えるに奸賊征伐の「綸旨」をほしがった。日本社会はここに弱点があったのである。 

≪059≫  強大な政権があるときはいい。道長も頼朝も義満も信長も、こういうときは天皇家をものともしないですむ。しかし、政権が弱体になったとき、その凹凸を整え、社会を沈静できるのはやはり天皇制度なのである。義満の皇位乗っ取りの失敗のあと、足利幕府が下克上の前でほしがったのは、結局は「綸旨」という名に征伐される天皇制度の力だったのだ。これをふつうは「錦の御旗」とよんでいる。 

≪060≫  かつて日本史のすべての場面において、綸旨によっておこされた戦闘はすべて綸旨によって終息してきた。軍事面ばかりではなかった。官位の変更とその定着も、綸旨で始まり綸旨で終わる。 

≪061≫  このような天皇制度の威光は、義満後の日本社会が総じて強化していったものといっていい。嘉吉の乱のような前代未聞の下克上もこの天皇制度があることによってバランスを保った。さらにいうのなら、このあと日本列島は戦国の世に入っていくのだが、そのように全国で城取り合戦が打ち続いても、それでも日本がつねに日本でありえたのは(たとえば海外との均衡を保ちえた)、「国盗り」の国とはべつに、日本に「国王」としての天皇が国を律していたからでもあったと言えるのである。 

≪062≫  いったい天皇制度とは何なのか。日本の祭祀を続けるためのものなのか、官僚制を支えておくためのものなのか。義満の野望の失敗から学ぶものは少なくない。 

≪063≫ 附記¶今谷明の著者はおもしろい。つねに刺激がある。堅いものでは『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店)、『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局)が、柔らかいものでは『京都・1547年-描かれた中世都市』(平凡社)、『信長と天皇』(講談社現代新書)、『武家と天皇』(岩波新書)がある。とくに『武家と天皇』は本書が提起した視点をさらに大きく視座ともいうべきものに定着させた著作として、一読を薦めたい。 

≪01≫  20世紀最後の年だというのに、阪神タイガースに鳴り物入りで入ったタラスコもハートキーも、途中から日ハムから貰い受けたフランクリンも、まったく活躍しない。阪神から巨人に移ったメイは阪神を手玉にとっている。まったく腹立たしいことだ。 

≪02≫  ガイジン選手。日本のプロ野球にとってガイジン選手の当たり外れほど、その球団のシーズン運命を左右している出来事はない。けれども実際には、ガイジン選手の浮沈は表立っての話題にはならない。デストラーデ、ブライアント、バースなどの例外を別にして、たいていは“消耗品”扱いされている。 

≪03≫  ただし、巨人のばあいは、つねに法外な話題になってきた。ダメ・ジョンソンといわれた大リーガーが長嶋との宿命の対立をして以来ずっと、巨人のガイジン選手はクロマティにしてもガルベスにしても、良くも悪くも大問題になるようになったのである。 

≪04≫  いったい日本のプロ野球はどういうルールでやっているのか、球場でおこっていることは「野球」なのか「日本」なのか。 

≪05≫  こういう疑問は日本に訪れて帰っていった多くのガイジン選手によって、何十回となく囁かれてきた。それほど、日本プロ野球の本質はガイジン選手の目には異様に映ってきた。曰く練習のしかた、曰くペース配分、曰くフォーム改造、曰く作戦の立て方。いったい日米どちらの言い分がまともなものなのか。 

≪06≫  そこで本書の著者ロバート・ホワイティングが敢然と立ち上がったのである。著者は日本人を奥さんにもつ在日ジャーナリスト。なにしろガイジンから本音の話が聞けるところが強い。また、日本の謎を解きたいと真剣におもっているところが強い。 

≪07≫  たとえば、それまでまずまずのピッチングをしていた日本人のピッチャーがホームランを打たれて敗戦したとする。そのピッチャーは試合後のインタビューに答えて「ぼくの一番のまっすぐで勝負しましたから、いいんです」と言う。監督もコーチも解説者も「あれはしかたがない。いい度胸ですよ」と言う。ところが、これがガイジン選手にはわからない。だって、彼は打たれたのである。自分の得意のボールを投げようとも、単に打たれたのだ。それが日本人のあいだでは「度胸がよかった」という美談になっていく。 

≪08≫  なぜ、こんなふうになるのか。何が日本人とガイジン選手とのちがいなのか。それは日本とアメリカのちがいなのか。野球は野球ではないのか。ホワイティングはその疑問に答えるべく立ち上がったのである。 

≪09≫  ホワイティングには、すでに『菊とバット』『日米野球摩擦』『ニッポン野球は永遠に不滅です』といった著書がある。つまりホワイティングは日本野球に日本文化の本質を嗅ぎとるために著述活動をしているような変な人物なのである。 

≪010≫  しかし、それまでの本にくらべると、本書ほど全米で話題になった本はなかった。ニューヨーク・タイムスが「日米貿易摩擦の口論を中断して、書店に走ってこの本を買うべきだ」と書いたのをはじめ、本書は日米の貿易摩擦どころか、日米間によこたわるいっさいの社会文化問題の教科書のように取り沙汰され、売れに売れまくったのだ。 

≪011≫  もっとも、このようなアメリカ人によくわかる日本人論の本が、日本でウケるとはかぎらない。ぼくがアメリカにいたとき、ちょうどマイケル・クライトンの『ライジング・サン』が話題になっていたが、日本に帰ってみると、この本はまったく無視されていた。所変われば品変わるというけれど、まさにそんなもんなのだ。 

≪012≫  正直に見て、この本は「きっと日米間のコミュニケーション・ギャップを解消してくれる」とアメリカ人が騒いだほどの効果は日本では期待できないにしても、日本人がぜひとも読むべき本である。 

≪013≫  キーワードは「和」に対する理解の仕方というもの、本書はそこを日米両側の野球選手のインタビューや事例を次々にくりだし、なんとか浮き彫りにしようとしてくれている。 

≪014≫  読んでいくうちに、こういうことこそ日本人が取り組んで解明に乗り出すべきではなかったかという気にさせられる。プロ野球のとんでもない内幕がごっそり紹介されているのが、かえっておもしろいかもしれない。 

≪01≫  日本の「王権」をめぐる論考パラダイムは、網野善彦あたりを嚆矢に、赤坂憲雄・今谷明らの研究の出現によって一挙に確立された感があるが、それとはべつに長きにわたる天皇制をめぐる議論のパラダイムというものがあった。ところが二つのパラダイムはまったくといってよいほど重なってはこなかった。

≪02≫  実は天皇制度のほうも、近代以降の天皇制の確立を問題にするものと、近代以前の大嘗祭などのしきたりを研究する二つの系譜に分かれてしまっていて、ほとんど交じらなかった。困った傾向なのである。

≪03≫  本書は、30代前後の研究者が鈴木のもとに集まって編集構成されたものだけに、いささか深みと一貫性に欠けるきらいはあるものの、従来のパラダイムを破ろうとする意気ごみがはっきり感じられた。一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている。

≪04≫  そもそも日本は、唐・新羅との東アジア的な緊張関係をまともにかぶるなかで、それなりの国家としての体制をとらざるをえなくなった国である。

≪05≫  しかし、生産力も技術力もまだまともに発揮できないでいた日本が、隣国の百済のように没落しないようにするためには、できるかぎり迅速に社会的分業力と中央管理システムの両方をうまくくみあわせる必要に迫られていた。それには王権(大君=天皇制)こそが各地の生産と再生産システムに適合するようにつくられるべきだった。それに、技術力を導入するには海外のエリートに頼る必要があったが、かれらの専横を封じる手段も用意しておかなければならなかった。

≪06≫  これには官僚が対抗するだけでは足りない。どうしても神権をもった「王」を戴いておく必要があった。このようなことは、明治国家が海外列強に対して力を一挙にたくわえ、不平等条約を改善していくときの、あの手法にも援用されている。

≪07≫  明治国家がなぜ立憲君主を戴いたかというと、すなわちなぜ幕末維新の志士たちが、古代さながらの「祭政一致」と「王政復古」を考えたかというと、それは古代東アジア世界からの自立をはかろうとしたときとまったく同様の決断が必要になったからなのだ。

≪08≫  もうひとつは、中国の華夷秩序とどのように対応するかということである。

≪09≫  中国はこれをもっぱら「法」と「礼」をもって律していたから、それをそのまま日本に入れたのでは、中国とぶつかってしまうことになる。何かを譲らなければならない。今日の日本とアメリカの関係のようなものだ。そこで、日本的な“翻訳”に微妙な創意工夫をすることになる。

≪010≫  そこで生まれてきたというか、工夫されたのが「詔」と「召」ということである。すなわち「みことのり」によって、上からのオーダーと下からのプロダクションとを、上からのオーガニゼーションと下からのディストリビューションとを、何かで縦横にくるんでしまうことだった。「王民共同体」としての日本的王権システムが確立したのは、おそらくこうした背景による。

≪011≫  本書は、こうした王民共同体の原理を中世・近世にあてはめて説明することには、あまり成功していない。また近代日本や昭和日本が天皇を戴いてきた理由を明快に説明することも、遠慮しているところがある。

≪012≫  しかし、本書の示すようなパラダイムからしか、これからの日本史は浮上してこないこともはっきりしている。本書は平成時代の日本人が足かがりにするべき日本論の礎のひとつであろう。

≪013≫ 参考¶近代の天皇問題のスコープと王民共同体のその後の変遷については、編者の鈴木正幸に『近代天皇制の支配秩序』(校倉書房)、『近代の天皇』(吉川弘文館)、『皇室制度』(岩波書店)などがあるので、これらを参考にするとよい。また、網野善彦や赤坂憲雄などともに佐藤弘夫『神・仏・王の中世』(法蔵館)今谷明『武家と天皇』(岩波新書)など、さらには坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版)、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店)、山口昌男『天皇制の文化人類学』(立風書房)なども読みごたえがある。

≪01≫  意外におもうかもしれないが、島原・新町・吉原の三郭は、秀吉から家康に移った30年たらずのあいだに、次々に生まれた。 それ以前にも遊里はたくさんあった。遊女もいた。中世、長者の館というものが各地にあって、子君(こぎみ)とよばれる遊女がいて、そこに馴染み客の子夫(こづま)が通った。そういうところに白拍子が交じることも、追われた平家一門の女官の姿が交じることもあった。曽我の仇討ちで有名な虎御前は大磯の長者の娘であったし、その曽我兄弟の宿敵にあたる工藤祐経が泊まっていた宿の妻戸の鎹(かすがい)をはずしておいたのは、寵妓の鶴亀だった。遊女は度胸があったのである。 

≪02≫  室町に入ると、足利義晴のときになんでもお金にしたくって、幕府は傾城局をもうけて遊女から年間15文の課税をした。これが日本の公娼制の始まりになる。けれどもいつの時代でもこんな縛りはいくらでも抜け穴があったから、室町末期には辻に立つ君や風呂屋の湯女(ゆな)が繁昌して、料亭なども妓楼と化していくところも多かった。 

≪03≫  遊女たちは港町にも集まった。小田原、柏崎、敦賀、下関、堺などは中世から栄えた“女の街”だった。なかでも難波の港をいくつもかかえた大坂にはたくさんの遊里が早くから栄え、東に行けば江口・神崎・蟹島・河尻が、西に泉州堺の乳守・高須などが点在し、ちょっと中へ入れば天満・玉造・阿波座には早くから傾城屋があった。 ただし、これらは正式には遊郭とはいわない。歴史学では遊里や岡場所というふうに区別する。もっと穿っていうなら楽や公界ということになる。 

≪04≫  遊郭などに正式も勝手もなにもなさそうだが、そうでもない。岡場所や遊里とちがって、遊郭は許可制のものをいう。わが国の集娼制がおこるのは遊郭からなのである。 それは天正17年に京の万里小路に、原三郎左衛門と林又一郎が傾城街をつくるのを秀吉が許可したことに始まった。「新屋敷」とよばれた。原は秀吉の厩付奉行をしていたようで、商才もあった。この子孫が桔梗屋八右衛門、その家筋が島原をならした桔梗屋治助である。 


≪05≫  やがて新屋敷の範囲が広まると、この界隈は二条柳町の里とよばれ、それが秀吉没後に六条三筋町のほうに移り、さらに寛永18年に朱雀野にごっそり転じて島原遊郭となった。島原という名は地名ではない。洒落である。ちょうど島原の乱のあとの移転だったので、遊客たちがここに向かうのを戯れに“島原攻略”といったのが俗称となり、しまいに地名になった。だいたい日本の地名はこんなふうに定着する。 


≪06≫  島原は東西99間、南北133間、周囲には幅1間半の堀がめぐらされ、正門にあたる東口の前には「思案橋」と「衣紋橋」がかけられた。男たちはちょっと思案して、ついで意を決すると衣紋をなおして一夜の夢を求めて入っていったわけである。帰るときは門のそばの「さらば垣」を見送った。島原は「暗(やみ)なき里」であり、「ともしび曲輪」であったのである。羨ましい。この島原から吉野太夫、八千代、藤枝、三笠、薫、小太夫、金山、高雄、長門、花巻らの名技・太夫が育った。

≪07≫  大坂の遊郭は大坂城が完成した天正13年のときにできた。新町細見の『みをつくし』には、木村又次郎という浪人者が郭(くるわ)の庄屋を仰せつけられたと書いている。当初の場所は島の内だったというが、それが元和3年に新しい町割りで新町に移された。その新町に越してきたのがしばらく島原で経営の才能を磨いた林又一郎で、寛文年間に有名な「扇屋」を開いた。その後、瓢箪町、新京橋町、新堀町、佐渡島町と傾城屋がふえたので、のちにはこれらを総称して新町といった。五曲輪ともよんだ。 

≪08≫  江戸の吉原開設前後のことは斎藤月岑の『武江年表』から推理する。そこに喜多村信節の言葉が出てきて、それによると、そもそも江戸の地には「和尚」とよばれた遊女が34人、名だたる遊女だけでも百人をこえていたのが、いったんその活動が禁止され、そのあとで江戸普請が始まったのだという。遊女を追っ払って江戸城ができたといえば、当たらずとも遠くない。 

≪09≫  だから江戸の町ができたばかりは傾城屋は少ししかなくて、麹町に京の六条柳町からやってきた遊女がいくつかの傾城屋を開いていた程度だった。ところがその後はぞくぞくと遊女がふえて、麹町の遊女や大坂瓢箪町の遊女が京町に集まり、そこに総元締めのような三浦屋ができると、幕府は遊女の管理のためには三浦屋を使うようになっていたらしい。  

≪010≫  やがて慶長17年に、小田原出身の庄司甚内(のちに甚右衛門)が遊女屋をなんとか一カ所に集めるから、遊郭の許可をほしいと願い出た。この願書が町奉行の米津勘兵衛から老中に上申され、本多佐渡守から主旨はわかったから追って沙汰をすると言われ、それから5年もたって認可が降りたことまでは史実にのこっている。けれどもその謎の5年に何があったかは知られていない。そこで隆慶一郎が想像力をふくらませて、例の『吉原御免状』を書いた。第169夜に紹介した通りだ。

≪011≫  庄司甚内は下賜された二丁四方を町割りし、楼主を募って1年半をかけて家並をそろえて、元和4年に営業開始にこぎつけた。それが、のちの江戸町・京町・角町にあたる「吉原」である。 ところが明暦2年に幕府は移転を命じて、年寄たちに浅草寺裏の地を選ばせた。その直後に明暦の振袖火事が江戸を焼きつくし、これらの異変をこえて誕生したのが「新吉原」だった。いま吉原と総称しているのは、この新吉原のことである。 

≪012≫  新吉原には日本堤から衣紋坂・五十間道を通って入る。入口に大門(おおもん)、大門からは仲の町の通りがのびて、左右に茶屋が並び、その背後に妓楼が構えた。初期は揚屋がいくつか散っていたのだが、これはのちに一カ所に集まった。仲の町にはのちに『助六由縁江戸桜』で有名な桜が植えられた。江戸の夜桜はここから名物になっていく。 突き当たりが水道尻、そこを天神河岸といって下級女郎屋が25軒ひしめいた。周囲には島原を真似て幅5間の「おはぐろどぶ」がめぐらされ、大門口の外側は外茶屋である。 

≪013≫  遊郭にはさまざまな「格」がある。妓楼は遊女を抱えて見世を張る。総籬(そうまがき)・総格子の「大見世」は太夫の人気と座敷料で商っていて、ここで新造(遊女)を扱うようになるのは後期のことだった。半籬の「中見世」は呼び出しも新造も扱って、散茶見世ともよばれた。正面の格子の上半分をあけているのが「小見世」で、昼見世とか切見世ともいった。 

014≫  遊女にもピンからキリまで等級がある。太夫・花魁(一番多い寛政時代で13人)、格子(島原では天神)、呼び出し(仲の町の茶店に出ている)、囲(かこい)、散茶・昼三(以前の湯女)、座敷持(片仕舞)、部屋持、梅茶・埋茶、新造、局女郎・端女郎、鉄砲女郎などというふうになっていた。あんな小さなところにこれだけの上下の区別があるのは、日本文化としては坊主と遊女の世界だけである。 

≪015≫  このような自立したアジールともいうべき遊郭から、濃くて多様な「悪所の文化」が生まれた。 符丁や「ありんす言葉」や百太夫信仰などの、ほかではまったく見られない一時的民俗や、のちのちまで座敷文化に影響をおよぼした数々の風習が育った。賑やかで哀調をおびた三味線の清掻(すがかき)で始まり、限太鼓や引け四つの拍子木で締まるまでの遊郭の一日は、男も女も一度は覗いてみたい“名所”だったのである。 狂歌の名人だった石川雅望は『吉原十二時』で、その独特の一昼夜を鮮やかに描いている。歌麿の『青楼十二時』もさすがに艶やかだ。 

≪016≫  ところで、ぼくが叶うことならどこかの座敷で頬杖ついて浸ってみたいのは、島原の投げ節、新町の籬節(まがきぶし)、吉原の継節(つぎぶし)である。 投げ節は島原の柏屋又十郎が抱えた引舟女郎の河内が唄いはじめたものらしく、貞享・元禄の京ではこの歌を聞きたくて島原に通った町衆も多かった。弄斎節のバージョンともいわれるが、節回しそのほか、よくわからない。けれども伴蒿蹊の『近世畸人伝』にはゆかしいエピソードが紹介されている。 


≪017≫  白隠が京に逗留したおり、かつての名妓の大橋は法話を聞くためにその逗留先を毎日訪れていた。そこへある日、冷泉寂静が来て、白隠は大橋が昔日は島原の売れっ子太夫だったことをあかす。興味をもった寂静がそれならぜひにと投げ節を唄ってみせてほしいというと、大橋はもはや老いて声も嗄れていると辞退するのだが、たっての頼みに一節を唄ってみせたところ、白隠も寂静も遊郭に伝わる日々がもたらした風情の深さに感嘆して、しばし胸を詰まらせたというのである。 


≪018≫  白隠が京に逗留したおり、かつての名妓の大橋は法話を聞くためにその逗留先を毎日訪れていた。そこへある日、冷泉寂静が来て、白隠は大橋が昔日は島原の売れっ子太夫だったことをあかす。興味をもった寂静がそれならぜひにと投げ節を唄ってみせてほしいというと、大橋はもはや老いて声も嗄れていると辞退するのだが、たっての頼みに一節を唄ってみせたところ、白隠も寂静も遊郭に伝わる日々がもたらした風情の深さに感嘆して、しばし胸を詰まらせたというのである。

≪019≫  一方、新町の籬節のほうは、新地の遊女まがきが唄いだしたもので、元禄・宝永に流行したという。これがいったん廃れたのに、島原の夕霧太夫が招かれて新町に赴いたおり、ふとこれを唄ってみせたという話がのこっている。夕霧はまた伏見から淀川を下った船の中でも、即興の歌詞で籬節のようなものを聞かせたらしい。都半太夫の半太夫節に似ていたという話だ。 


≪020≫  夕霧太夫は書も和歌もそうとうの腕前だったというが、こうなると花魁や太夫というのは日本文化の「もうひとつの精華」でもあったということになり、しかも三都それぞれで粋と野暮との基準が異なっていたことが、なかなかなのだ。 『守貞満稿』や土佐浄瑠璃『通俗傾城三国志』にはこんなおもしろい比較が謡われている。 【京の太夫、たとえば吉野太夫や花月】髪に三つ笄、二つ櫛。黄小袖に緋繻子を重ね着。遊君らしくなく茶の湯にも連歌にも通じている。【大坂の花魁、たとえば夕霧太夫や梅が枝】二つ笄、三つ櫛で兵庫髷。決して上品ぶらずに客の持て成しに徹する。別れ方がうまい。【江戸の高尾太夫や小紫】洗い髪に大形の一つ櫛、簪(かんざし)は左右に3本ずつ。紅綸子の打掛の下に白衣裳。舞がうまくて唄が粋である。 

≪01≫  七〇年代半ば、渋谷の東急本店裏通りの借家、通称ブロックハウスに七~九人の男女と暮らしていたことがある。みんなが持ち寄ったもので日々を凌ごうという最低限共用ライフスタイルを試したのだが、一番集まったのが本とレコードだった。本ではマンガが圧倒的に多かった。 

≪02≫  子供のころに買ってもらったマンガも次々に持ちこまれたので、手塚も杉浦茂も『サザエさん』も水木しげるも『あしたのジョー』もあった。なかで女たちは山岸凉子、萩尾望都、土田よしこの『つる姫じゃ~っ!』、大島弓子、大和和紀『はいからさんが通る』などにご執心で、男たちは諸星大二郎の古代中国もの、つげ義春、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』、雁屋哲・由起賢二の『野望の王国』、花輪和一、丸尾末広などを固唾をのんで読んでいた。 

≪03≫  ブロックハウスには当時のパンクアーティストがのべつ訪ねてきていたが、かれらも深夜までマンガに熱中していた。そんなふうだったので、この時期はぼくもマンガ漬けになっていた。 

≪04≫  八〇年代になると、「少年ジャンプ」が三〇〇万部に達し、『キャプテン翼』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』の連載が当たりに当たる一方、大友克洋の『AKIRA』、高橋留美子の『めぞん一刻』、吉田秋生の『BANANA FISH』、さらには高野文子、三浦建太郎、井上雄彦が気を吐いた。「ジャンプ」は四〇〇万部を超えた。一方では、日本の大学から文学部が消えはじめていた。 

≪09≫  本書はこの手の本にしては大著だ。のちに国際交流基金賞をとった。いろいろな指摘・分析・推理・紹介がつまっている。多くのマンガ情報はこの本で初めて知った。ぼくのマンガ無知をいやというほど知らされた。 

≪010≫  それはそうだろうと思う。フレデリックが手塚を英語に訳したときは、右開きか左開きか、コマおくりをどうするか、オノマトペを訳すかどうか、すべてが暗中模索で、結局はアメリカの版元から「アメコミ調」にすることを求められたのだが、それではまったく理解されなかったのだ。それを手塚マンガを徹底的に“移行”するように試みてやってのけたのだから、さらにはその試みを赤塚不二夫から池田理代子にまで広げていったのだから、日本マンガに詳しくなるのは当然だったろう。ぼくが知らない業界事情や制作事情もいろいろ書いてある。 

≪011≫  たとえば六〇〇ページ一三〇万部の「コロコロコミック」のスローガンは「勇気・友情・闘志」と決まっていたらしい。五〇〇万部の「少年ジャンプ」の読者アンケートによる三大キーワードは何か。「友情・努力・勝利」らしい。なんと、ほとんど同じなのである。同性愛で押す「June」(ジュネ)はその成功を次々に分岐させて、「小説June」「ロマンJune」「コミックJune」に分化した。なぜ同性愛マンガが当たるかは、この路線をつくってきたサン出版の佐川俊彦がその秘密を明かしているらしい。「男同士の恋愛ものはキャラクターが女性が望む男性像と女性をミックスしてある。このようなキャラクターには、女性が女の欠点だとおもっている嫉妬深さなどを取り除いてあるんです」。ふーむ、なるほど。かくして少女マンガ誌は一九九五年時点で四五誌、レディスコミック誌は五二誌におよんだのである。 

≪012≫  本書には当然ながらマンガ家もぞろぞろ出てくる。著者がとくに注目しているのは次のマンガ家である。その選び方がおもしろい。あれこれ解説されてはいるが、一言批評を超要約しておいた。マンガ家に付いているフレデリック流の吹き出しのようなものだと思ってもらえばいい。本書に登場する順にしておいた。 

≪013≫ 漫画家一覧 

≪014≫  つげ義春を日本のウィリアム・バロウズに比肩させるなど、片寄りかげんに唸らせるところも多々あるが、総じて本書の議論はゆるやかなものが多い。ここまでガイジンがカバーしていることには驚くけれど、それがそんなに偏執的ではないことも、すぐわかる。あまりに日本マンガを愛しすぎたためだろう。 

≪015≫  これは何かに似ている。どこかわれわれの近くにある感覚に似ている。何だろう、何だろうと左見右見しているうちに少し気がついた。これは、日本人がセザンヌやシャガールやミロを見る目に、またはゴダールやジム・ジャームッシュやタランティーノを見る目に近いものなのだ。著者はその該博な知識をもって、次の著作では日本人が見るバスキアやハンス・ベルメールの目付きになってもらいたい。 

≪01≫  ひとつは久々に奈良に行った。コシノジュンコさんに頼まれての仕事であったが、駅を出たとたんに深い古都の呼吸がゆっくり遠近(おちこち)にゆきわたっているのがすぐ伝わってきて、やはりここにはときどき来なくてはいけないと感じた。 べつに聞きまわったわけではないが、京都の者は奈良にはちょっと言い難い感情のようなものをもっている。古くさい、辺鄙やね、行きにくい、じじむさい、それに、ええ店がない、おいしいもんがない、人がようわからん、そやけど、静かやな、懐かしい、空気がきれい、ただ、好きなとこが決まらへん、もの申してへんからや、侘びというより寂しいな。 

≪02≫  こういう印象が入り交じっている。ぼくはこのような感情に違和感をもってきたけれど、おそらく京都と奈良のあいだには、いまなお何かが融和していない。 ぼく自身は奈良で正月をおくるのが好きだったほど、この古都の風情が京都には絶対にないものだという確信があるのだが、さて、これをどう伝えるかとなると案外に難しい。その奥には、そもそも五感に響いている奈良が、修学旅行体験や学生時代の旅の中にうずくまったままになっていて、あまりに「遠いもの」の思い出のようになってしまっていることがあるからなのだろう。 そんなことを思い出しているうちに、和辻哲郎の『古寺巡礼』を久々に開く気になったのだった。 

≪03≫  もうひとつはこの二週間の数日を、中公文庫に入ることになった『遊学』のゲラ校正にあてていたのだが、何度か「若書き」ということを考えざるをえなかった。 ぼくが『遊学』のもととなった「存在と精神の系譜」を『遊』に書いたのは31歳のときである。古今東西の哲学者・科学者・芸術家たち142人を相手に、1日を読書にあて1日を執筆にあてるという日々だった。数カ月にわたったものの、一気に書いたという印象がある。当時、それなりに話題になったものではあったけれど、これを大和書房が大冊として刊行したいと言ってきたときに10年ぶりに読んで、そこに渦巻く渇望感や断定力や速度感に「若書き」を感じ、さあ、これはどうしたものかと思った。  

≪04≫  そこで少々の手を入れたのだが、今度、それをまた今度文庫にするにあたってゲラになったものを読むと、またまた「若書き」を感じてしまった。考えこんでしまうほどだった。文庫の解説を担当してくれた高山宏君によると、その「若書き」の清新なところがいいんだと言ってくれるのだが、どうも本人は変な気分なのである。そこで、文庫化にあたってもまたもともとの文意を活かしたままで加筆訂正をした。これが予想外の難行苦行だったのだ。 

≪05≫  和辻の『古寺巡礼』が出版されたのは大正8年(1919)で、30歳のときである。前年の5月に友人たちと奈良を旅行して、その感想を『思潮』に5回連載したものをまとめた。ぼくが「存在と精神の系譜」を書いたときとまったく同じ年代の執筆なのだ。 しかも和辻もまたこの文章の「若書き」が嫌だったようで、何度か手を入れ、結局、昭和21年の全集には書きなおした文章のほうを収録した。われわれはそれを読んでいるわけである。   

≪06≫  ところがあるとき、谷川徹三が元の文章と改訂後の文章とをくらべて、こういう感想を述べた。 「たしかに改訂版の方が段ちがいによくなっている。しかし和辻さんが削除した言葉には、感激による誇張があるにせよ、実感の生なましさが素直に出ていて、捨てがたいものがある。と同時に、後に学者として大成した和辻さんが、生来感覚の鋭敏な、感受性の豊かな、さらに感情量の豊かな大きな人であったことを証している点で、学者としての和辻さんの理解に資するものをも含んでいる。学者としての和辻さんは、それに溺れ、それに身を任せることを厳しく拒んだ。しかし、和辻さんの学問を豊饒にしたものが、ほかならぬ、その学者として和辻さんが拒んだものであったことを私は信じざるを得ない」。 

≪07≫  和辻の『古寺巡礼』は名文ではないし、伽藍塔頭や仏像に関する感想も、特段に鋭いというものではない。しかし、そこに漲る感受性といったら、これはたしかに説得力があるし、なんといっても自分の感情を偽っていない。ぼくは旧版は知らないが(ほとんどが知らないはずだが)、察するに、もっとナマ感受性をナマな言葉で書きつけていたのだろう。それはしかし本人には居ても立ってもいられなかったわけである。 

≪08≫  まあ、こういうようなことが重なって、今日の本を和辻の『古寺巡礼』にしたわけである。さっきざっと読み返してみたが、いまではぼくのほうが詳しいことも多く、その感想に教えられることは少なかったけれど、きっとここは「若書き」ではもっと直截で生硬な言いまわしだったのだろうなと感じられるところが多々あって、そういう箇所ばかりに奇妙な感慨をおぼえた。 

≪09≫  しかしあらためて感じたこともある。それは、古寺仏像をめぐって何かを語るという様式を、和辻が自分でオリジネートしたということである。和辻はイデーとエチカの人である。哲学者としては抽象を好み、感覚はモダン(近代)そのものにある。その和辻が“じしむさい”奈良の古寺仏像を前に、リアルタイムで何かを語る。いや正確にいえば、「そのように語っているような文章」を書いた。これは当時から大評判になったのであるが、このような様式と方法をおもいついたということが、画期的だった。 イデーとエチカの思索に耽るモダンの旗手が、古びた奈良で何を感じたか、そのことをどうにかしてでも書いてみようと思ったところが、和辻の発見なのである。 

≪010≫  なんであれ、新しい様式と方法に挑んだ者こそもっと評価されてよい。歴史はそこに拓いていく。蒸気機関車やウィリアム・クルックスに、桑田佳祐やたらこスパゲッティに、そして、徳富蘇峰や和辻哲郎に。 

≪011≫  和辻はその後も、『風土』と『鎖国』において、それまでだれも気がつかなかった問題を俎上にのせて、ひとつの「型」をつくりあげた。その主旨がその後の知識人にどのように継承されたかではなく(それをやっと継承したのは日本人ではなく、フランス人の風土学者オギュスタン・ベルクだった)、そのような「型」があることを最初に披瀝したことが評価されるのである。和辻は『日本精神史研究』で本居宣長の「もののあはれ」にふれたのであるが、これも宣長以降は誰もふれてこなかった話題だった。九鬼周造は、この和辻の開示があったから、「いき」をめぐる仕事にとりかかる気になれたと言っている。 そうした和辻の勇気のなかで、そろそろそのことを議論する者が出てきていいと思っているのは、和辻が「日本精神」を問題にしたことである。 

≪012≫  和辻がそのことを持ち出したのは昭和9年の「日本精神」という論文が最初なのだが、そのなかで、明治中期の日本民族主義の高揚は何だったのかを問うた。 日本人の「国民的自覚」はなぜ度しがたい保守主義のイデオロギーになってしまうのかということを問題にし、とくに日本人の衝動性を批判した。そして「日本精神」とは、そういうものではないのではないかという疑問を呈し、自分でひとつの答えを書いてみせたのだ。それは「日本を重層的にとらえることが、むしろ日本人の日本精神を明確にすることになる」というものだった。  

≪013≫  実はこの論旨はかなり不備なもので、いま読むとそれこそ「若書き」ではないかとおもえるのだが、また、この手の議論にありがちの「日本の特殊的性格」を言い出しているのが残念なのだが、それを別にすると、この議論の仕方もその後にずっとつづく日本人論のひとつの「型」をつくったものだった。 こういうところが和辻には随所にあったのである。日本人の「町人的性格」を問題にしたのも和辻だった。石田梅岩の心学をとりあげた最初であった。 これらの“発見”が、結局は『風土』では日本人のモンスーン性を浮き上がらせ、『鎖国』では誰もが目を伏せて語っていた鎖国に積極的な意味を持たせることになった。 

≪014≫  アインザームカイトというドイツ語がある。孤独のことだが、どちらかというと「ひとりぽっち」のニュアンスがある。漱石の『行人』の主題がこれだった。しかしこのアインザームカイトは世界に向かって「ひとりぽっち」なのであって、世界と無縁な孤独なのではない。 

≪015≫  和辻哲郎が生涯をかけたのは倫理学だった。『倫理学』全3巻を仕上げた。そこで追求されたのはアインザームカイトにいる人間がどのようにして「構造的契機」をもつかということだった。和辻倫理学の特色は、無知や孤立や絶望そのことを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なのである。これは和辻の『古寺巡礼』にすでに書かれていたことだった。  

≪016≫  和辻は、奈良は1500年の古都ではないと書いたのだ。むしろ奈良は、何度にもわたる焼亡をへて再建され、再興されたのだと書いた。それでいて古都の趣きを失わなかったのである。京都人たちはこのような奈良をいまなお“発見”できないでいるのかもしれない。 

≪01≫  大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。 

≪02≫  驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。 

≪03≫  たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。 

≪04≫  そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。 

≪05≫  そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。 

≪06≫  けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。 

≪07≫  それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。 

≪08≫  かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。 

≪09≫  五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。 

≪010≫  若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。  

≪011≫  それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。 

≪012≫  それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。 

≪018≫  明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行く。主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望していた。「空しく写生の奴」に堕しているというのだ。第98夜道元や雪舟の入宋入明体験と酷似して興味深い。道元も雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきた。天心においては、すでに東洋日本の山水画を凝視していた眼がルネサンス以外の西洋画に迷わせなかったのだろう。これはたとえば、あれほどルネサンスに精通していた第607夜矢代幸雄が帰国して東京で開かれていた宋元水墨山水の展示に腰を抜かすほど感銘したことにくらべると、天心の図抜けた早熟を物語る。  

≪019≫  明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。いまの芸大の前身である。天心はその校長であって、同時に帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立してそれらの牽引役をことごとくはたした。さらに高橋健三とは日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にもこぎつけた。まだなお28歳である。 

≪020≫  東京美術学校がいかに独創的で奇抜不敵であったかは省略する。天心の意匠指導によって教授陣がアザラシの皮の道服を着用させられたのだから、あとは想像がつくだろう。ともかくもここで「日本画」という概念と、その後の日本の美術界を二分する「日本画家という境涯」が初めて発芽した。それまで日本画という言葉はなかったのだ。大和絵か国画か和画だった。 

≪021≫  ぼくが感嘆したのは、この美術学校時代の天心の美術史講義である。帰国したフェノロサに代わって担当した。いまは平凡社ライブラリーで気安く読める『日本美術史』はごく端的にいって、民族主義・世間主義・個性主義・発展主義の4点がみごとに陰陽交差して噛みあって、当時としてはきわめて独創的なものになっている。世間主義というのは今日なら民主主義にあたるのだろうが、天心はこれを「世間にはびこる」と見た。 

≪022≫  ともかくもこのころの天心の境涯、すこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施してこれをみるみるうちに育てあげ(あまり知られていないが第758夜鴎外を美術解剖学の講師として招いたりもして)、他方では根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村・幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人とも遊芸の限りを尽くし、天心流の節会を遊んだ。料亭を借りきるばかりではない、明治25年の秋には隅田川に盃流しの宴を催した。ここにおいて、天心はすでに「教育と生活と表現と遊芸」をほぼ完全に融合させたのだ。それが「生の芸術」であり、「変装した道教」なのである。また美術学校の目標であった「特質ある傑物」を制作することだったのである。 

≪023≫  ここまでまとめていえば、天心はすでに美術・演劇・遊芸・教育をそのトップリーダーとの交わりを通してことごとく発信させていた。いわば文化行政のすべてにおいて試行しなかったものはなかったのである。なぜここまで手を打てたかということは、うまい説明がない。おそらくは天心が「不完全」こそ想像力が補える方法を生むという確信をもっていたこと、すべてはどのような領域においても「融合」しうるとおもえていたためではないかと、ぼくは読んでいる。 

≪024≫  しかし、そこまで融合がすすめばここには恋愛も加わってくる。予期せぬスキャンダルが待ちかまえていた。発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにある。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、どちらがどうとはわからないものの、二人には何かが芽生えたようだ。明治二十年のことである。その後の経緯ははぶくけれど、結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。橋本雅邦も高村光雲も追われたが、天心を慕う教官24名も下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水をはじめみずから辞表を書いて、殉ずることを厭わなかった。 

≪025≫  これでは学校は蛻(もぬけ)の殻である。さすがに天心は困ったが、奮然と舵を切りなおすと谷中初音町に木造2階建の南北両館の展観型の学舎をつくり、ここに新たに日本美術院を創設してみせた。天心は「官」から「民」に降りたのだ。実はこのときの天心はスカンピンだったのだが、大勢から資金を集めようとしてままならず、かつて奈良古寺調査に同道し、アメリカでもいろいろ世話になった医師であってコレクターだったウィリアム・ビゲローに、ポンと1万ドルを郵送してもらっている。 

≪026≫  この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛は「太陽」論壇にさっそく篆大の筆をふるった。これも有名になった「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」である。ちなみに、アメリカで星崎初子が妊娠して産んだ子が九鬼周造になる。九鬼は自分が母と天心のあいだの子ではないかという疑念を、ときどきもったという。 

≪027≫  その後、天心は遊蕩に走らなかった。ひとつには大観・春草に日本画の究極的な冒険を促した。世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄したのだが、この実験成果は大きい。 

≪028≫  またひとつにはインドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』『東洋の理想』『日本の覚醒』を書いたことである。実は『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものである。いずれも天心は世界と対峙したという実感をもったにちがいない。 

≪029≫  しかし天心はたんなる美学的なコスモポリタンになろうとしたのではなかった。グローバリズムなどを持ち出しはしなかった。ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明するのである。その意味はいろいろの態度と哲理と社会観と歴史芸術を含んだ。西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨は明快だったが、その含むところは多かった。のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されたのはこのせいである。 

≪030≫  けれどもどんな反応が世間からやってきても、天心はまったく迷っていなかった。世間主義についてはとっくに見抜いていた。世間に対決する構想には徹底した「表現の凱歌」をあげるべきだと考えていた。かくていよいよ五浦に日本美術院の精鋭が移るときがやってくる。六角堂を建設し、それぞれの住居を建てた。これを機に家族とともに五浦に移ったのは大観・観山・武山・春草である。名画を次々に生んだ五浦は大観によれば「赤貧を洗う日々」だったという。 

≪031≫  この先の点景は書かないですますことにする。天心の境涯はここからしだいに寂しくなっていくのだが、今夜はどうもそれを書く気分になれそうもないからだ。 

≪032≫  むろんその寂寞は天心が望んだことだった。それは最後の草稿になったオペラ『白狐』のシナリオに如実にあらわれている。とはいえ、この寂寞は天心ほどの者をも静慮させるのだ。剣持忠四郎や菱田春草が相次いで早逝したこともある。ラフカディオ・ハーンの日本における日々を海外の論客が叩いたこともある。天心はこれには真っ先に抗議してニューヨーク・タイムスに反論の寄稿をしたものだ。それでもハーンすら海外で理解されていないことは、いったん世界に対峙したと思えた天心の境涯のどこかに小さな穴がじょじょに大きな空洞になっていくだろうという予感をもたらした。つまりは天心は日本の将来に不安をもったのであり、ということは日本の本来が失われていくであろうことを直観したのであり、そのことが自身が努めた計画の実践に不如意があったかもしれないという自省をもたらしていたのだった。  

≪033≫  それを天心の言葉で端的にあらわすなら、「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」ということになろう。想像力が負の花を咲かせるのである。ほんとうは、ここから先こそぼくが書かなければならない天心なのだが……。 

≪034≫ モナドロジー 

≪035≫ なお、本書はいろいろの版が出ているが、日本語としては岩波文庫が、英文が併設されているものとしては学術文庫が入手しやすくよくできているので、二冊を併記しておいた。また、その後に五浦は修改がおこなわれ五浦美術館として(内藤廣設計)、また茨城大学五浦美術文化研究所による五浦美術叢書の刊行も始まった。実は『岡倉天心アルバム』というものすらこれまでなかったのだが、これも五浦美術文化研究所の監修で、やっと中央公論美術出版から陽の目を見ることになった。 

≪01≫  こんな魅力のある人は少ない。民族音楽の探求者としても、日本音楽の再発見者としても、その楽器愛においても、声の柔らかいところも、笑顔が最高だったことも、みんなとの遊び方も。 

≪02≫  残念ながらぼくは3度しか会っていないし、家に遊びにいって民族楽器をいじらせてもらったのも1回で終わってしまった。もっと会っておきたかった。 

≪03≫  小泉さんは急に死んでしまったのである。56歳だった。 少なめの著書は残っているし、ビデオもある。多くの者が影響をうけてもいるから、後継者も少なくない。けれども、もっと生きていてほしかった。ぼくが民族音楽に関心をもち、そのまま日本音楽にも現代音楽にも入っていけたのは、順にいえば杉浦康平(参考:自著本談『遊』)と小泉文夫と、そして武満徹のおかげだった。 

≪04≫  その小泉さんの紹介に本書が一番ふさわしいかどうかはわからない。ぼくは小泉さんの本をすべて読んできたが、いまの気分で『音楽の根源にあるもの』がいいか、『呼吸する民族音楽』がいいか、『音のなかの文化』がいいか、ともかく全部読んでもらいたいのだから、一冊を選べない。とりあえず『日本の音』にした。小泉さんの短すぎたけれど貴重きわまりない生涯については、岡田真紀さんの『世界を聴いた男・小泉文夫と民族音楽』(平凡社)を読んでもらいたい。坂本龍一が帯を書いている。 

≪05≫  本書は「世界のなかの日本音楽」というサブタイトルがついている。最初に「普遍性の発見」とあって、日本音楽は特殊でもないし未発達でもないことが強調される。 

≪06≫  このテーマは小泉さんの独壇場のもので、とくに4種のテトラコルドをもってさまざまな日本音楽の特質を”発見”したことが有名だった。「民謡のテトラコルド」「都節のテトラコルド」「律のテトラコルド」「琉球のテトラコルド」である。テトラコルドというのは2つの核音にはさまれた音階の枠のことをいう。 

≪07≫  日本音楽は主に5音音階をつかうのだが、わらべうた・三味線・尺八などの音楽ではこの4種のテトラコルドを絶妙に組み合わせてつかっている。5音音階とは1オクターブの中に5つの音があるということで、その成り立ちからみると、2つのテトラコルド、すなわち4度の枠でできあがっているというふうになる。 

≪08≫  「民謡のテトラコルド」では、下から数えて短3度のところに中間音がくる。わらべうたや民謡で最も重視されているテトラコルドだが、小泉さんはそれが朝鮮・モンゴル・トルコ・ハンガリーにも共通していることを“発見”した。のちにこれは「ラレ旋法」とも名付けられた。 

≪09≫  「都節のテトラコルド」では中間音が短2度のところにくる。このテトラコルドを二つ積み重ねると、いわゆる「陰音階」、すなわち都節になる。わらべうた「ひらいたひらいた」にはこの陰音階が最初に出てくる。 

≪≪010≫  ぼくが最初に惹かれていったのが、この都節のテトラコルドだった。ここからほくは常磐津に、富本に、さらに清元へと入っていったものだったけれど、小泉さんはそれがインドネシアやアフリカにもあることを、手元の楽器をつかってにこにこしながら説明してくれたものだ。そういうときの小泉さんは陽気な魔法使いのおじさんのようだった。 

≪011≫  「律のテトラコルド」は雅楽を成立させている枠組で、長2度の中間音をもつ。律というのは、古代中国の音楽理論であった「宮・商・角・微・羽」の5音音階で構成した「律」(ドレファソラ)と「呂」(ドレミソラ)の音階システムから派生して日本に定着したもので、しばしば「呂律がまわらない」などと日常にも言われる、その律である。『越天楽』『君が代』(言葉の景色『陸達唱歌』もどうぞ)が律の音階の代表だろう。いわば「ソレ旋法」である。 

≪012≫  この「律のテトラコルド」がひとつ落ちていって、のちに確立してきたのが「都節のテトラコルド」なのであることも、小泉さんが最初に言い出したことだった。 

≪013≫  「琉球のテトラコルド」は長3度の中間音をもつもので、日本では沖縄にしか見られないが、アジアに耳を澄ますと、台湾・インドネシア・インド・ブータン・チベットに同じテトラコルドが生きていることがわかる。元ちとせの歌がそうであるように、これは「ソド旋法」である。 

≪014≫  日本の伝統音楽は、たいていこれらのテトラコルドを組み合わせている。 

≪015≫  たとえば『通りゃんせ』は空間的にいえば、下に「民謡のテトラコルド」をおき、その上に「都節のテトラコルド」を櫛の歯のように差していった。上下の真ん中に共通の核音があることをいかした工夫なのである。こういう方法をコンジャンクションという。 

≪016≫  これに対して、沖縄の『たんちゃめ節』のように1音離れて接続させる方法をディスジャンクションという。 

≪017≫  このコンジャンクションとディスジャンクションの話もよくしてくれた。たしか、観世流の弱吟(よわぎん)は民謡と同じコンジャンクトからディスジャンクトに移っているところに特徴があるんですよといったふうに。 

≪018≫  このときは、もっと話が脱線していって、たとえば「松岡さんが好きだという森進一ね、あれは新内なんでです。西洋音楽のいっさいから自由になってますね」とか、「ピンキーとキラーズの『恋の季節』はね、あれは何だと思います? 『あんたがたどこさ』なんですよ。ラドレミソラのね」といった話も次から次に出て、ぼくはもう感心したっきりだったのである。 

≪025≫  ぼくもこんな話をよく聞いた。 「いま手鞠唄が唄われなくなったのはね、それは手鞠がゴムボールになったからですね。だってゴムボールはポンポン撥ねて速いリズムになっていく。これでは手鞠唄は合いません。あれは糸を巻いてつくったものなんですから」。 

≪026≫  「エスキモー(イヌイット)の歌を収集したんですが、あれはまさに呼吸音楽ですね。寒いからゆっくり息を吐いていたら凍えてしまうんです。だから早い呼吸で口元からリズムを出していく。エスキモーの人は体を鞴(ふいご)のような楽器にしているということなんですねえ」 

≪027≫  こういう話をする人がいなくなってしまったのだ。誰かがこんなことをまた言ってほしいものである。たとえば、こんなぐあいに。 

≪028≫ 「ねえ、浜崎あゆみっていますね。あれはちょっとブルースをまぜた豊後節ですね。でも豊後節にしてはハリがない」。 

≪01≫  そこでついつい華やいだ気分で花街を眺めたくなるのだが、しかるに本書は、全10章が起承転結の4部構成になっていて、それに附章「男色の世界」がつき、さらには古今の有名遊女芸者の名前一覧から詳細な参考図書案内まで、ついでに天平2年から昭和末年におよぶ「日本花街年表」が加わって、徹底して花街気分を殺して資料づくめで眺めようという集大成なのである。 

≪02≫  本書は資料厖大だが、全体の視点の軸は京都花街の歴史においてある。 これは藤本箕山の『色道大鏡』が「何事も、まず京を手本としてみれば、諸郭のことはそれぞれの作配にて、これをわきまふるにかたからず」と述べているところと同じ視点ということで、実際にも日本の公式遊郭は天正17年に京都二条柳町(その後に六条三筋町)をもって嚆矢とするのだし、そのずっと前の貞和3年の『師守記』には下北小路西洞院に傾城屋があった記録もある。京都の花街はその後も島原・墨染をはじめ変遷はしてきたものの、今日の祇園・先斗町に代表される華やぎが衰えたことはなかった。 

≪03≫  むろん江戸の吉原・元吉原をはじめ、全国には花街はそれこそ網の目のように張られていたけれど、さて歴史を通して一貫したものが今日まで流れているところというと、やはり京都の花街が視軸になってくるのだろう。 

≪04≫  こうした遊里の歴史は、かつては中山太郎『売笑三千年史』か、上村行彰の『日本遊里史』か、滝川政次郎『遊女の歴史』か、と相場が決まっていた。 みんなこれらをどこかで入手して読みこんだ。 ところが敗戦後の民主主義、男女平等の掛け声、さらには売春防止法あたりをきっかけに、しだいに遊里も廃れ、ついではフェミニズムが台頭するなかで、遊女を男の勝手なロマンティシズムのままに綴るテキストに非難が集中して、花街遊郭の研究などまったく学問の場からは追いやられていた。 それがやっと復活してきたのは江戸文化ブームあたりからで、そういう意味では田中優子や杉浦日向子たちの陽気で妖しい活躍が大きかった。二人は自身が遊女そのものの応援者でもあった。 

≪05≫  で、京都の花街であるが、なぜ今日にいたっても廃れていないかというと、いくつか理由がある。 まずは明治3年に東京遷都となって京都が死都と化すのではないかと心配されたとき、「万亭」の一力杉浦治郎右衛門と京都府知事になった槇村正直の乾坤一擲が大きかった。 

≪06≫  槇村・杉浦コンビの最初の乾坤一擲は、第2回京都博覧会の附博覧で「松之家」を会場とした明治5年の「都をどり」である。井上流八千代こと片山春子の振付は伊勢の「古市おどり」にヒントを得たものだったが、これが大当たり。すぐに毎年の行事となり、井上流は篠塚流に代わって祇園町の芸の指南を担当した。 

≪07≫  槇村・杉浦はさらに婦女職工引立会社を設立、娼妓解放令を徹底するとともに婦女子の就職運動に乗り出した。建仁寺裏の敷地を祇園町に払い下げたのも大きく、ここに歌舞錬場、婦人寮、病院、女紅場、茶園、養蚕場などが次々に建てられた。 

≪08≫  先斗町のほうは娼妓の多い色街だったのが、明治になって芸妓を中心に転換をはかったのがよく、明治28年からは「鴨川おどり」を継続させ、祇園が甲部・乙部に分かれたあとは乙部や宮川町とくんで芸妓救済所を設立したり、昭和2年には温習会の翠紅館をはやくも鉄筋コンクリートにして、たえず革新をはかってきた。 

≪09≫  このほか京都には、最も古い島原をはじめ、宮川町、五番町、上七軒、七条新地、辰巳新地、中書島、墨染、撞木町などの花街がずらりと揃っていた。 客も多かった。大正初期で宮川町だけで年間遊客が27万人、大正後期は宮川町が40万人をこえ、祇園乙部で30万人に達している。ちなみに同時期の甲部が15万人、五番町が3万6000人、上七軒で1万3000人になっている。迎える側も、昭和6年で芸妓娼妓の数は5000人をこえていた。これらが鎬を削りあい、妍を競いあって、つねに栄枯盛衰をくりかえしたのが、京都に花街風情を廃れさせなかった理由なのだろう。与謝野晶子や吉井勇には、そんな花街の歌が頻繁に詠まれた。 

≪010≫  昭和33年の売春防止法の実施以降は、その京都もさすがに廃業するところがどっとふえ、バーやスナックに転向するところも多かった。仕方がないことだ。いまでは祇園の舞妓といっても地方出身者ばかり、これも仕方のないことだ。 数年前、この男が祇園で遊ばなくなったら祇園も終わりかなと言われていた若旦那のM君が、もうつまらんわと言って祇園通いをやめた。古い女将の転業も相次いでいる。こんなぐあいなので、花街文化史とはいっても、京都にも大きな危機がおとずれている。 

≪011≫  けれども他方で、井上三千子さんは八千代さんになってますます芯が立ち、京舞も新たなウェーブを迎えているようだし、ぼくが贔屓の女将かつのさんは「山形」をあんじょうに賑わせている。歌舞錬場も改装されて座りやすくなった。二、三度寄ってみたところ、金沢の東の郭に出入りする芸者さんの意気地も、どうやらふたたびハリをもってきた。 きっと花街が日本からなくなるなんてことは、ありえないにちがいない、と思いたい。 

≪09≫  このほか京都には、最も古い島原をはじめ、宮川町、五番町、上七軒、七条新地、辰巳新地、中書島、墨染、撞木町などの花街がずらりと揃っていた。 客も多かった。大正初期で宮川町だけで年間遊客が27万人、大正後期は宮川町が40万人をこえ、祇園乙部で30万人に達している。ちなみに同時期の甲部が15万人、五番町が3万6000人、上七軒で1万3000人になっている。迎える側も、昭和6年で芸妓娼妓の数は5000人をこえていた。これらが鎬を削りあい、妍を競いあって、つねに栄枯盛衰をくりかえしたのが、京都に花街風情を廃れさせなかった理由なのだろう。与謝野晶子や吉井勇には、そんな花街の歌が頻繁に詠まれた。 

≪010≫  昭和33年の売春防止法の実施以降は、その京都もさすがに廃業するところがどっとふえ、バーやスナックに転向するところも多かった。仕方がないことだ。いまでは祇園の舞妓といっても地方出身者ばかり、これも仕方のないことだ。 数年前、この男が祇園で遊ばなくなったら祇園も終わりかなと言われていた若旦那のM君が、もうつまらんわと言って祇園通いをやめた。古い女将の転業も相次いでいる。こんなぐあいなので、花街文化史とはいっても、京都にも大きな危機がおとずれている。 

≪011≫  けれども他方で、井上三千子さんは八千代さんになってますます芯が立ち、京舞も新たなウェーブを迎えているようだし、ぼくが贔屓の女将かつのさんは「山形」をあんじょうに賑わせている。歌舞錬場も改装されて座りやすくなった。二、三度寄ってみたところ、金沢の東の郭に出入りする芸者さんの意気地も、どうやらふたたびハリをもってきた。 きっと花街が日本からなくなるなんてことは、ありえないにちがいない、と思いたい。 

≪01≫  船坂弘の道場で剣道着を半ば脱いだ三島由紀夫と話したのは、泉鏡花のこと、月岡芳年のこと、そして志賀重昂のことだった。この三人のところで日本が変わったというのである。 

≪02≫  「この三人のところ」というのは、この三人は少なくとも三島のいう「日本」を死守しようとした者たちだったが、この時期に他の「日本」は失われはじめたのではないかということである。この時期とは「明治20年代がおわると」という意味だ。 

≪03≫  「明治20年代がおわると」とは、明治33年が1900年だから、日本は20世紀に突入することになる。当時はそういう西暦感覚はいまほど強くなかったので、これはいいかえれば1900年の前が日清戦争、後が日露戦争なので、この日清と日露のあいだあたりから「佳き日本」が失われはじめたのではないかという意味になる。 

≪04≫  しかし、これは三島が感じていたというよりも、当時の日本人がなんとなく感じ、かつ何人かの勇猛果敢な思想者たちが痛切に焦慮していたことでもあった。 

≪05≫  志賀重昂が、三宅雪嶺・杉浦重剛・陸羯南・井上円了・島地黙雷ら13名と政教社をおこして、「日本人」という雑誌を創刊したのが明治21年(1888)である。  

≪06≫  雑誌名は主宰格の三宅雪嶺がつけた。「日本人」創刊祝いの日、徳富蘇峰も加わって、全員が後藤象二郎の邸宅に招かれた。このとき後藤が全員に大同団結を勧めた。勧めたというより煽ったのであろう。煽る理由があった。この3年前、福沢諭吉が「時事新報」に有名な「脱亜入欧」を唱えていた。鹿鳴館に象徴される洋風文化をかれらが嫌ったわけではないが、そうした風潮の底流に「日本」が軋みはじめているという感想を全員がもっていたからだ。 

≪07≫  もっと政治的に緊迫した事態も迫っていた。条約改正をどうするかという懸案の問題が急激に浮上していて、時の黒田清隆内閣の大隈外相がどのように条約改正にとりくむかということが風雲急を告げていた。すでに松方内閣の外務卿井上馨の改正案のときは、領事裁判権の撤廃の主張まではいいのだが、それとひきかえに外国人法官の任用を約束したという裏取引がすっぱ抜かれ、すでに日本の国力の脆弱が暴露されたばかりなのである。 

≪08≫  雑誌「日本人」はそのような風潮に「待った」をかけるためのものだった。 

≪09≫  つづいて帝国憲法が発布された明治22年に、陸羯南が日本新聞社をおこして新聞「日本」を創刊した。これは弱腰の条約改正案に鮮明な反対の狼煙をあげるためのもので、蘇峰・雪嶺も応援にかけつけたし、日本新聞社には池辺三山・中村不折・正岡子規らも入社してきた。杉浦重剛が編集監督をひきうけた。 

≪010≫  このような「日本」を標榜する思想や運動は、その後の歴史観からみると国粋主義あるいは日本主義ということになるのが”常識”なのだが、当時はこれを「国民主義」と言った。 

≪011≫  志賀重昂の『日本風景論』はこの国民主義の台頭と軌を一にしていたのである。 

≪012≫  こうして日本は日清戦争に向かって突進していった。条約改悪派もその反対派も、自由民権派もいよいよ生まれつつあった若き社会主義者たちも、ともかくもこの戦争だけは突破しようと一致した。まさに戦争の最中に発売された『日本風景論』は大ベストセラーになった。 

≪013≫  しかし、1900年をまたいで、日本が今度は日露戦争にとりくむところにくると、「日本及び日本人」にも「日本の社会主義」にも変質がおとずれる。かつて日清には賛同した内村鑑三や堺敏彦をはじめ、日露には「非戦」の立場をとる者が続出した。では、何が日本の主張で、何をもって日本人の社会というべきかということが、三島のいう「この三人」の明治20年代がおわると、一挙に問われることになったわけである。 

≪014≫  剣道場の三島の話から始めたせいで、なんだか明治の大所高所の話になってしまったが、志賀重昂を読むにはむろん、以上の大所高所も重要である。  

≪015≫  実際にも志賀重昂の生い立ちが、そもそも明治の大所高所と深い関係がある。父親が昌平黌に学んだ学者で、幕末に岡崎藩を脱藩して榎本武揚の五稜郭に奔ったため、藩邸に蟄居させられたような人物だったし、志賀重昂自身も明治7年に上京して、最初は芝の攻玉塾に入って英語を学び、東京大学予備門の入学試験に合格してもこれに従わず、大望を抱いて札幌農学校に入って「世界主義」とでもいうべきを抱いている。 

≪016≫  その意志は大きく、卒業後は同郷の玉置政治の丸善に勤めることになるのだが、明治18年にイギリスが朝鮮全羅南道の巨文島を占領したというニュースを聞くと、居ても立ってもいられなくなって、軍艦筑波に便乗して対馬へ、さらにはフィジー、サモアの南洋諸島からオーストラリア、ニュージランドまで赴いた。 

≪017≫  この世界体験は終生、志賀を動かしたようで、その後、志賀は3回にわたって世界周遊を企てた。 

≪018≫  しかし、そうして世界を見れば見るほど、志賀の心は「日本」に戻っていたようである。そういう志賀重昂をかつて土方定一は「国を愛するが故に故国にとどまった者は多いが、国を愛するが故に遠くに赴いた者は少ない」と書いた。 

≪019≫  ぼくはいっとき岡崎の美術館のオープニングの仕事をしたことがあって、頻繁に岡崎を訪れていたことがあるのだが、そのとき中根岡崎市長に案内してもらって、志賀重昂の遺品の数々をつぶさに見せてもらった。ぼくがひとつひとつをゆっくり見ていると、市長は「志賀重昂っていったって、いまは岡崎の人間も知りませんで」と言っていた。なんといってもボロボロになった「重昂世界旅行鞄」とでも名付けたい大きな鞄が印象に残っている。 

≪020≫  ぼくはいっとき岡崎の美術館のオープニングの仕事をしたことがあって、頻繁に岡崎を訪れていたことがあるのだが、そのとき中根岡崎市長に案内してもらって、志賀重昂の遺品の数々をつぶさに見せてもらった。ぼくがひとつひとつをゆっくり見ていると、市長は「志賀重昂っていったって、いまは岡崎の人間も知りませんで」と言っていた。なんといってもボロボロになった「重昂世界旅行鞄」とでも名付けたい大きな鞄が印象に残っている。 

≪021≫  わかりやすくいえばガイド。もうちょっと正確にいえば日本各地の地質風土気象植生をめぐる地理学的分析書。難しくいえば、きわめて精神主義的な日本論なのだ。 

≪022≫  こんなことが山岳や湖水や植物動物のいちいちと一緒に重なって書けるかとおもわれるかもしれないが、当時の猛者にはこういうことこそ書けたのだ。フィジカルな解読とメンタルな説得が同時進行できたのである。 

≪023≫  かつてぼくがとくに気にいったのは、日本風景の根本を水蒸気と火山岩に絞って説こうとしたところ、およびそのような日本風景を観照する眼を「瀟洒」と「美」とそして「跌宕」(てっとう)から説こうとしたところで、とくに「跌宕」が炯眼だった。 

≪024≫  これはまさに雪舟が描こうとした日本の「真景山水」そのものと通底する眼であったとおもわれたからである。 

≪01≫  さあ、どう書くか。相手は青山二郎だ。「俺は日本の文化を生きているんだ」というのが口癖の青山二郎である。「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と小林秀雄に言わしめた。こんな男はそうそういない。いまでは、すっかりいない。 

≪02≫  だいたい青山の前で日本の美術や文化を語ってみせるというのがたいへんなことだった。たいていは一喝されるか、馬鹿にされる。大岡昇平がそういう場面に参入して揉まれることを「青山学院」と名付けたのも、頷ける。なにしろ10代後半にすでに古美術を買っていた。早くに中川一政に絵を習っていた。柳宗悦とは当初から組んでいたが、さっさと民芸を捨てた。 

≪03≫  武原はんと結婚してからは、そういう青山のところへ作家たちが次々に教えを請うた。そこには中原中也も河上徹太郎も中島健蔵もいた。宇野千代も秦秀雄も永井龍雄もいた。生徒代表は小林秀雄である。その「青山学院」にあたるものが、いま皆無となった。 

04≫  そんな青山二郎を、どう書くか。白洲正子さんが「芸術新潮」に『いまなぜ青山二郎なのか』を連載しはじめたばかりのときは、よくよく考えてのことだろう、洲之内徹の『セザンヌの塗り残し』から入っていった。 

≪05≫  小林秀雄が「いま、一番の批評家」とよんだ洲之内の文章から入るというのは、よほどシャレている。しかし、さんざん青山二郎と付き合って、青山をジィちゃんと親しく呼んできたあの白洲さんにして、そういうふうに青山二郎の語りはじめを慎重にしたくなるというのが、怖い。 

≪06≫  白洲正子にして青山二郎には何度も叱られてきた。ある日、壷中居で手に入れた紅志野の香炉を見せたとたん、「何だこんなもの、夢二じゃないか」と一喝されている。紅志野が夢二だというのではなくて、白洲が夢二の描く夢見る少女まがいになっているという意味である。 

≪07≫  若き白洲さんが何かのとき、「私、親孝行でしょ」といささか自慢げに言ったときは、「馬鹿野郎、親なんて借りものだ」と叱られた。これは小林秀雄にも「そいつは正子さんがダメだ」とこっぴどく叱られた。そういうことを一言でも言ってはいかんというのだ。仮にも日本文化だ、骨董だという者が親孝行なんぞを口にしてどうするか、という叱正である。 

≪08≫  が、こんなことはいまは通じない。青山二郎は現在から離脱した人なのだ。 

≪09≫  青山二郎がほとんど解読可能な文章をのこさなかったのも、やりにくい。とくに陶芸についての文章があまりない。いや、いろいろ書いているが、すこぶる暗示的か、別のことを書いて煙に巻くような見立て文なのである。 

≪010≫  どんな調子かというと、「見れば解る、それだけの物だ。博物館にあればたくさんである」という具合で、とりつくシマがない。「民芸の理論を抽象化した物は、一つ見ればみな分かるという滑稽な欠点をもっている」と言われても、困るであろう。そういう調子が多いのだ。 

≪011≫  たとえば、桃山の陶芸について、「長次郎と光悦が茶碗に手を付けた。彼らは最後に美に手を付けたのである」と書く。その通りだが、この意味を敷衍するのは難しい。また、長次郎らが「茶を犠牲にしても、茶人の身になって見たかったのだ。これが鑑賞家の芸術である」と続けた。これもよくわかる言葉だが、その意味を説明しろといわれると、困る。青山二郎がたいそう昵懇だった北大路魯山人についても、「魯山人も最高ではないが、他の連中が人も作品も引っくるめて魯山人以下なのである」と書く。これでわかるといえば全部わかるが、その青山を批評する手立てはない。 

≪012≫  どうして青山が陶芸についてストレートなことを書かないのか、むろん文章の職人ではないのだからうまくは書きにくいのだともいえようが、もっと別な気分があったにちがいない。ぼくはしばらくその理由が見えなかったのだが、こんな一文があった。  

≪013≫  「陶器に就いてこれまで書いたことがないのは、私の見た眼と言ふか、感じ方と言ふか、私の考へが一度も固定してゐた事がないからである」。 なるほど、これは見事な弁明である。 

≪014≫  そもそも青山二郎は陶器を見ていない。見るのではない。観じるのである。何を観じるかというと、陶器の正体を観じる。「見るとは、見ることに堪えることである」とも言うし、「美は見、魂は聞き、不徳は語る」とも言った。 

≪015≫  これでは鑑賞の言葉なんて一息に呑みこまれてしまう。外へ出てこない。語るようではオワリなのだ。禅僧に「貴僧が悟られた説明をしてください」と聞くようなもので、これでは「馬鹿野郎」と一括されるのがオチである。 

≪016≫  そういう青山二郎なのである。そして、そこがぼくが惹かれる青山二郎なのである。そういう青山がときに光を洩らすようにつぶやく文句は、まことに極上。とうてい文筆家はかなわない。そのひとつに、こんな名文句がある。「眼に見える言葉が書ならば、手に抱ける言葉が茶碗なのである」。 

≪017≫  青山の文章は『青山二郎文集』に尽きているのかとおもったら、「利休伝ノート」という未発表のものがあった。これが本書には収録されている。おもしろい。 

≪018≫  利休は誰にも理解されなかったというのが、青山の基本的な視点である。また、利休の根本思想には茶道も礼儀もなく、その“なさかげん”が茶碗に残ったというふうに見た。鑑定を強いられ、それに我慢がならなくなったという見方もする。 

≪019≫  まさに青山らしい。最もおもしろいのは利休をトルストイに見立てたところである。どうも青山にはカトリシズムに対する共感があるようなのだが、一方で高潔なアナキズムにも共感をもっていたようだ。きっとそういうところが出たのであろう。 

≪020≫  なんだか何も書けなかったような気がするが、最後にひとつ。中原中也が「二兎を追うものは一兎も得ず」ということを言ったときの青山二郎の返答をしるしておきたい。「一兎を追うのは誰でもするが、二兎を追うことこそが俺の本懐なのだ」。 

岡野宏文・豊崎由美 『百年の誤読』

≪01≫ 読書にはリーダビリティが起伏する。 読み手の都合を持ち出すのも、読書なのである。 とするのなら、小杉天外は氷室冴子の少女小説で、花袋の『蒲団』は知り合いになりたくない男の話。 『城の崎にて』は名文なんかじゃなく、実篤の『友情』はただの妄想の産物で、『智恵子抄』は傲慢の成果にすぎなくなる。 本書は名うてのプロの本読みが、明治以来のベストセラーを片っ端から俎上に上げた辛口談義。 こういう読み方があることを、感じてほしい。 

≪02≫  本を読んでいると、中身やテーマや物語の進行の興味とはべつに「手抜きをしたな」「これはしんどい」「いいかげんにしろ」「このくだりは抜群だ」「この調子は読みたくない」「なんだよ、そうくるのかよ」「やられた」「いい気なもんだ」という気分がしょっちゅうおこる。 

≪03≫  映画やテレビドラマを見ていても、そういうことはのべつ気になるけれど、映像作品は上映側が鑑賞スピードを管理しているので、面白かろうと退屈だろうと、まだしも次々に事態が進むのだが、読書はそうはいかない。すべては読み手の負担になってくる。そこで途中で読むのをやめてしまったり、それでもガマンをして読み続けたりする。 

≪04≫  この裏切られた気持ちを断ち切るだけでも、疲れる。著者というもの、6~7割は一人よがりか、手抜きをしている。この不備と横着は読者に押し付けられるのだ。とくに評判作やベストセラーと付き合うのは、とんでもなくしんどい。そういう本にはロクな本がないからだ。逆に、難解であってもスイスイ読めることもあるし、長編を読んでもあっというまに時間がすぎることもある。 

≪05≫  つまり読書には必ずリテラルテイストというものが付きまとうのだ。買いたてのセーターを腕に通したときの感覚、評判のラーメンの最初の一口で麺を食いちぎったときのテイスト、その町を歩いてみたときの空間体表感覚。そういうものが必ずや感じられてしまう。 

≪06≫  これは読み手からいえば「リーダビリティ」(読感度)ともいうもので、ひらたくいえば「読み応え」のことだ。 

≪07≫  読んで応えてあげるのだから、「読み応え」は、当然、読み手当人の感知感覚感度にゆだねられている。だったら実感をがまんする必要なんて、ない。著者が何を書こうとも、まずいものはまずい、えぐいものはえぐいのだ。 

≪08≫  本書は、そういう読書のリテラルテイストやリーダビリティを、二人のプロの本読みが歯に衣着せぬ口調で喋りあった「編年順ベストセラー診断談義」だ。 

≪09≫  明治から現代までの売れ行きトップ本を、1年ずつ時代順に次々に歯牙にかけていくという手抜きのない進行になっている。めっぽうおもしろい。 

≪010≫  二人の本読みは岡野宏史と豊崎由美。これは絶妙なダブルスだった。対談形式をのこしたのもよかった。ボケとツッコミよろしく、軽いノリでロール交換しながらの丁々発止が、この本自体のリテラルテイストを軽快にした。数年前の「ダ・ヴィンチ」に連載された。 

≪011≫  明治以来の100冊以上のベストセラー1位の本を俎上にのせているが、以下はその一端だけしか紹介できない。できるだけ岡野と豊崎の口調のまま“プチサマリー”しておいたけれど、実際のテイストは現物本を手にとってもらうしかない。ぼくには、豊崎の寸鉄が肌を刺して心地よく、岡野の踏み堪え発言がいろいろ参考になった。 

≪012≫  ちなみに数字はベストセラー時の年号、(→)内はぼくの余計の一言。タイトルは言うまでもないだろうが、ガルシア・マルケス(765夜)の『百年の孤独』のパロディだ。では、どうぞ。 

  ◆1900徳富蘆花『不如帰』(ほととぎす)。黒田清輝の挿絵入りで発売された大衆小説。脱力するほどベタな構図だが、意外なほど楽しく読めた(→ラノベとは志が違うからね)。
  ◆1901国木田独歩(655夜)の『武蔵野』。読み進むのがつらかった。現在はまったく面影もない武蔵野を脳内散歩するなら癒される(→当時のモノクロ写真でもないかぎり、それもムリ)。

  ◆1903小杉天外『魔風恋風』。氷室冴子『クララ白書』や今野緒雪『マリア様が見ている』みたいな、学園もの少女コミックを先駆した三角関係版青春小説。でも紅葉にはとうてい及ばない(→同感だ)。
  ◆1905尾崎紅葉(891夜)の『金色夜叉』。昨今のつまらないエンタメ読むくらいなら、ゼッタイ読んだほうがいい(→その通り)。経済小説としても見事(→その通り)。
  ◆1907田山花袋『蒲団』。豊崎曰く、知り合いになりたくない作家の男勝手な話(→そうだろうね)。
  ◆1907押川春浪『東洋武侠団』。冒険SF小説の草分け的作品。無敵のヒーローの武器が巨大なトンカチで、野生児のくせに英語がわかるところがヘンに凄い。
  ◆1912長塚節『土』。粘着質の文体による貧乏アトラクション小説。あたしゃ読んでいて、このまま土に埋もれて息絶えるかと思った(→その気持ちよくわかる)。
  ◆1913中勘助(31夜)の『銀の匙』。さすがにうまい。掛け布団の日向くさいところに顔を寄せたり、ひらがなの「を」が女の人が坐っているように見えたり(→妥協できない幼な心がいいんだね)。
  ◆1914阿部次郎『三太郎の日記』。大正教養主義の本山のような本だが、逆エリート意識がおぞましすぎて虫酸が走る(→いまやこの手がブログを占めている)。
  ◆1915芥川龍之介(931夜)の『羅生門』。映像的で、カット割りとモンタージュの巧さと面白さにあらためて舌を巻きました(→文体稽古に使うといい)。 

  ◆1916森鴎外(758夜)の『渋江抽斎』。わたしたちに漢学の素養がないからなのかもしれないけど、自分にとって興味がない人の人生に、なぜこれほど詳しくならなきゃならないんだって思いだった(→それなら『阿部一族』から入ればよろしい)。
  ◆1917志賀直哉(1236夜)の『城の崎にて』。長らく名文の典型とされてきたけど、これって本当に巧いの? 感情移入のしすぎじゃないの? 阿川弘之が「極めてわがままな書き方」って評していたよね(→ハイ、当たっています)。
  ◆1919武者小路実篤『友情』。タイトルの口当たりとは真逆のブキミ本、あるいは猛烈な妄想型のトンデモ本。文章がこんなに雑な作家もいない(→ハイハイ、これも当たってる)。
  ◆1920賀川豊彦『死線を越えて』。あまりの能天気だけれど、ページを繰るのがもどかしいほど愉快。
  ◆1922島田清次郎『地上』。スキャンダルまみれの島田が大正期に飛ばした大ベストセラーだが、さすがに天才か狂気かと言われただけあってプロットも場面描写も高水準。ただし全体は通俗的(→ぼくは愉しんだ)。
  ◆1923井伏鱒二(238夜)の『山椒魚』。暢気なとうさんが手を入れ続けた話。つまらないところに拘ってしまった魅力。『点滴』『鯉』など、天然ぼけか意図したのかわからないところが、このとうさんの味(→そう、天然意図です)。
  ◆1927藤森成吉『何が彼女をそうさせたか』。コンデンスノベルならぬ圧縮戯曲のバカ本。 

  ◆1929小林多喜二『蟹工船』。まるでスプラッター小説みたいにエグい描写の連続だが、文章がヘタすぎる(→それが社会主義リアリズムの正体というものです)。
  ◆1931郡司次郎正『侍ニッポン』。桜田門外の変をバックにヒーロー新納鶴千代のオツム空っぽの大活劇。ラストで井伊直弼を斬るはずが、お恵の首を一刀両断にして「ハハハハ」と笑い、「新納とて愛し申した姫を切るは心苦しゅうござったが、娘を切ったのではない。わしのみれんを切ったのじゃ」と嘯いて、「これでいいのだ、おれは新しく生きていくのだ」なんて、あまりに身勝手きわまりない。
  ◆1935尾崎士郎『人生劇場』。川端康成(53夜)が「青春篇」を絶賛したのでえんえん当たった大河小説で、何度も映画になったが、青成瓢吉をとりかこむ学生・登場人物が大バカすぎて、いまは読みがたい(→ぼくは高倉健と鶴田浩二の飛車角と吉良常にぞっこんなので‥)。
  ◆1936吉川英治『宮本武蔵』。白髪の老人だった佐々木小次郎を青年剣士にしたように、日本人の大衆心理を知り抜いた傑作大河小説。もっとも偶然が多すぎる(→そこが和製デュマのようでいいんだけどね)。
  ◆1936堀辰雄(641夜)の『風立ちぬ』。この美しさっていうのは、何だろう。流麗な文章といい、描かれている愛情のこまやかさといい、観念のうるわしさといい、何度読んでも溺れそうになります(→うんうん、よかった。そういう作家なんです。ぼくの感想は恥ずかしながらIFとの失恋に結びついているので、千夜千冊を読んでいただきたい)。
  ◆1938火野葦平『麦と兵隊』。著者の豊崎は読むのがキツかったようで、『糞尿譚』のほうがお気にいり(→ぼくには『革命前後』を遺して服毒自殺した火野の生涯像が気になっている)。
  ◆1940織田作之助(403夜)の『夫婦善哉』。漱石(583夜)『それから』の代助のような東京型インテリの無為徒食より、上方の“だめんず男”の味がうんといい小説(→あんたら、頼りにしてまっせ)。

  ◆1941高村光太郎『智恵子抄』。おそらくコピペの詩。「僕」が傲慢すぎてイヤらしい。うさんくさい作品。
  ◆1942富田常雄『姿三四郎』。スポ根小説の草分け。主人公が350ページたってやっと登場するところ、ライバルたちのキャラクタライズ、修行大好きバカの主人公の描写、けっこう読ませた(→『弁慶』もいいよ)。
  ◆1943中島敦(361夜)の『山月記』。格調高い文章が昨今の“ぶっちゃけ言葉”が吹き荒れる時期、はたして読まれるか(→これを読まない日本人は破門)。
  ◆1948太宰治(507夜)の『斜陽』。これぞ太宰が開発発明してきた女語り以来の文体集大成。物語の織り上げぐあいも比喩のセンスもすばらしい、まるで“まつり縫い”みたい(→この着眼はいいね)。
  ◆1950谷崎潤一郎(60夜)の『細雪』。時代にも文壇にもおもねていない。大文豪の申し分ない作品。病気小説という面も、民度小説という面もある(→現代小説ベスト10に入ります)。
  ◆1954三島由紀夫(1022夜)の『潮騒』。比喩・描写・構成・文章が天才的な地中海型の神話的作品(→三島を10作くらい読むと戦後日本が見えてくる)。
  ◆1956石原慎太郎『太陽の季節』。江藤淳が批評したように書きっぷりが尊大で「無意識過剰」。女友達をエルザ、サリー、ミッチーだなんて呼ばせているのは、おい、フィリピン・バーかよと言いたくなる(→しょせん文芸能力ゼロの政治家です)。 

  ◆1957原田康子『挽歌』。ヤな女の怜子の話だが、理想中年の桂木なんて男はありえないし、「ママン、お金貸して。アン・ドゥ・トロワ3000円」なんてほざく女もありえない。
  ◆1958石坂洋二郎『陽のあたる坂道』。予想外におもしろかった。女性独特の嗅覚を教養主義を越えて礼讚しているところも、読ませる(→今後復活の兆しあり)。
  ◆1960謝国権『性生活の知恵』。ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』の焼き直し。同性愛に対する差別がいやらしい。
  ◆1961林髞『頭のよくなる本』。60年代に入るとベストセラーのばかばかしさの全パターンが揃う。その第1弾がカッパブックスのこの本。どうして頭がよくなるかさっぱりわからない本(→つまりタイトルだけで売れる時代になってきたんだね)。
  ◆1963山岡荘八『徳川家康』。全26巻だが、けっこう読み通せる。19巻目発売のこの年にベストセラートップに躍り出たという曰く付きの大長編。於大の方と華陽院がよく書けていて、女性キャラが立っていた(→ぼくは新宿の横田アパート時代に読み耽ったよ)。
  ◆1966三浦綾子(1013夜)の『氷点』。最初にプロットありきの小説なのでクリシェだらけ。フラナリー・オコナーの香りが足りない(→そう、そこそこ)。
  ◆1967多湖輝『頭の体操』。第1集だけで250万部のカッパブックス。それが20集。読者がみんな頭がよくなっていいのに、そうならないのはIQ主義にはまり、必然性と蓋然性のトリックに終始しているから(→モギケンの流行と同じ)。
  ◆1968司馬遼太郎(914夜)の『竜馬がゆく』。小学生が読んでもたのしい。お茶目が効いている(→原稿用紙の枚数を稼ぐ一行改行スタイルもここに始まった)。 

  ◆1971イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』。山本七平(796夜)の偽名デビュー作。インテリをいちびって日本教を浮上させた功績。
  ◆1972有吉佐和子(301夜)『恍惚の人』。この年はターニングポイントだ。あさま山荘事件・田中角栄日本列島改造論・川端康成自殺・横井庄一帰還・パンダ来日が重なっている。そこへ有吉が早くも「恍惚」を打ち出した。だが、まだまだ長閑なニッポンだった。むしろフェミニズムが目立つ小説(→うん、いい視点だ)。
  ◆1973小松左京の『日本沈没』。当時は災害シミュレーション小説・デザスター小説として読まれたが、小松の黙示録的なヴィジョンが書かせた本気のSF。ただし女がまったく書けていない(→ぼくが知るかぎり、小松さんの周囲にはボーイッシュな美女ばかりいた)。
  ◆1974五島勉『ノストラダムスの大予言』。25年後の1999年に人類が滅亡すると予言したのだが、この体たらく。人をだまして印税を稼ぐ本。
  ◆1976村上龍『限りなく透明に近いブルー』。村上春樹との二人ムラカミで、いよいよ文学のアメリカ化が始まった。離人症的な文体、あらかじめの喪失感、世界腐食感覚などをもって、よくもわるくもここに接触不可能領域みたいなものが流出し始めた(→それがJ文芸からJポップまで、まだ続いているよね)。
  ◆1977渡部昇一『知的生活の方法』。自己肯定とウルトラ保守のための知ばかり。「知的方法」と言いながらカードデータベース以外にはなんらか示されない(→この人の能力は日本的英語感)。
  ◆1980山口百恵『蒼い時』。残間里江子プロデュースの戦略的ベストセラー。あまりに手慣れたゴースト文章。
  ◆1981田中康夫『なんとなく、クリスタル』。ブランド時代を先駆した典型的なノリツッコミ小説。注にあたる奇数ページは読ませる(→蔦屋重三郎の「細見」の再来だったね)。 

  ◆1982森村誠一『悪魔の飽食』。グルーミーきわまりない日中戦争時代の731部隊もの。不気味な俳句が並んでいるのが正体不明。でも若い世代は読んだほうがいい。
  ◆1982穂積隆信『積み木くずし』。娘の暴走をとめた両親の話じゃない。家庭の歪みは成熟していない親からおこるというふうに読むべき一冊。
  ◆1983鈴木健二『気くばりのすすめ』。ひたすら想像力が欠如したオヤジ勝手な説教本。
  ◆俵万智(312夜)の『サラダ記念日』。実は古風な男女カンケーを短歌に仕立てたもの。だから文壇オヤジに受けた。むしろ男絡みじゃない歌のほうがいい(→そうそう、モノ派の歌とか)。
  ◆1988村上春樹『ノルウェイの森』。寓意と提示の文芸。豊崎はかつてはこの作品をクソミソに言ったらしいが、ここでは謝罪している。それはその後の辻仁成・片山恭一・柳美里らにくらべて、やっぱりよく書けていたかららしい。これは日本文学のレベルが低迷しているというより、レベルの下層部ばかりが厚みを増しているっていうこと。
  ◆1989吉本ばなな(350夜)の『TSUGUMI』。改めて読んだけどやっぱり面白かった。ありえないキャラとありえないシチュエーションで、ありそうな物語になっている。その後のティーンズ小説の元祖。ただし「あとがき」は不要だった。
  ◆1991さくらももこ『もものかんづめ』。日常ボキャブラリーをしこたま持っていて、それを抜群の効果で使う文章がやたらに巧い。「死に損ないのゴキブリのような姉」だなんて、誰が書ける? 健康ランドのお兄さんがたが「イカの背中」だなんて、誰が言える?

  ◆1994永六輔『大往生』。死の井戸端会議みたいな本。この岩波新書以降、各社の新書が一斉に何でもありに変わっていった。
  ◆1995松本人志『「松本」の「遺書」』。しゃべり芸人がエバリ文体で人を笑わせられるわけがない。このあたりをふくめ、ともかくも90年代以降のベストセラーたちはめちゃくちゃになっていった(→吉本系は映画もつまらない)。
  ◆1997渡辺淳一『失楽園』。おやじには最高の、中身は最低の文学。直喩ばかりでしか綴れない低俗文章。「凜子は久木を受け入れるために美しい孔雀となった」「規制緩和が必要なのは男女のあいだかもしれない」「(男女が夜明けを待って)横浜から見て千葉は東の方向にあたる」というおバカな調子。こんなものを読んでいる自分に呆れるばかり(→読まなくてよかった)。
  ◆1999乙武洋匡『五体不満足』。読むことのバリアフリーをつくった突破口。この本で障害者についての著述を一般書として批評してもよくなった。
  ◆2000大平光代『だから、あなたも生きぬいて』。転校・いじめ・割腹自殺未遂・ヤクザの組長の妻‥そして弁護士へ。波瀾万丈のノンストップジェットコースター自伝。プロの読み手を試す本(→たしかに自伝の読みには当方の情報インテリジェンスが試されるね)。
  ◆2002斎藤孝『声に出して読みたい日本語』。音読が大事なのは当然だが、著者が名作や名文についてわかっていないところが問題(→この人にそれを期待するのは酷です)。
  ◆2004片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』。シリアスな仮面をかぶった無自覚な軽薄小説。中身は『ノルウェイの森』のパクリ。

≪01≫ 日本の演奏家たちが「6/8のアレグロ」を苦手にするのはなぜなのか。たとえばベートーベンの第七の第1楽章のアレグロである。シューベルトの『冬の旅』の「郵便馬車」の6/8の伴奏部だ。 

≪02≫  苦手なだけではなく、日本人の音楽作品の全体にアレグロが少ないのはなぜなのか。また、日本の歌曲がやたらに「延音」を好むのはどうしてか。さらにまた和音の低音部より上声部に敏感に反応するのはどうしてか。 

≪03≫  著者はそういう疑問をずっともっていたらしい。 しかし、もともと日本嫌いの著者がヨーロッパ音楽の正統に入って、けっして日本音楽をふりかえろうとしなかったのは、日本の戦前の戦争主義や侵略主義が嫌いで嫌いでたまらなかったせいだったという。それがやっと日本音楽に耳を傾ける気になったのは、敗戦によってやっと日本の価値観が変貌し、そこから日本人の「よきもの」があらわれてくるという期待をもったからだった。 

≪04≫  ただし、そこからが容易ではない。 だいたい著者は日本音楽がいつも「長ったらしく」「すきまだらけ」に聴こえていた。日本音楽の全体が長唄なんじゃないかとおもえるほどだった。そのなかから日本人に特有の音楽の特質を取り出すにはどうすれば、いいか。本書はその探索を随想ふうに巧みに綴って、飽きさせない。 

≪05≫  話は、芭蕉が蛙が水にとびこむ音や岩にしみいる蝉の声に耳を傾けたこと、それが俳句となっていまなお鑑賞されつづけていることから始まる。 

≪06≫  これは枕で、すぐに東西の鐘の音のちがい、尺八が「声の禅」とよばれてきたこと、ヨーロッパの音楽がことごとく知的構成と対応しているのに対して、日本では音が消えてからの「しじま」さえ聞こうとしているという話になる。それなら、日本の音楽は「間の音楽」であって、かつ「思いわびる音楽」なのである。けれどもどうして、そうなったのか。 

≪07≫  著者は「間」を見るには、日本人の体にしみついたリズムを見る必要があるとして、手足の動きを観察する。たとえば、夏祭の神楽に出てくる「ひょっとこ踊り」の「抜き足・差し足・しのび足」、あれは何なのだろうか。「すたすた歩き」って何なのだろうか。これらには能や剣道が重視する「摺足」の延長があるようだ。 

≪08≫  この摺足は、しかしよく考えてみるとわざとらしいもので、日常の足の動きとは思えない。あんな歩き方で町を歩く日本人は一人もいない。 

≪09≫  では、摺足はあくまで芸能化され武道化されてきた足のハコビであって、日本人の体に染み付いたリズムから来たものではないのかと考えてみて、ハッと気が付いた。われわれは西洋の靴をはくようになって摺足をしなくなったのであって、ひょっとすると、底が地面にぴったりあっている草鞋や草履をはいているころは、むしろ摺るように歩かないと、かえって履物が脱げてしまうのではないか。また、そのため母趾を必要以上につかってしまう日本人の歩き方が靴をはいているいまなお目立っているのではないか。そう思うようになってきた。 

≪05≫  話は、芭蕉が蛙が水にとびこむ音や岩にしみいる蝉の声に耳を傾けたこと、それが俳句となっていまなお鑑賞されつづけていることから始まる。 

≪06≫  これは枕で、すぐに東西の鐘の音のちがい、尺八が「声の禅」とよばれてきたこと、ヨーロッパの音楽がことごとく知的構成と対応しているのに対して、日本では音が消えてからの「しじま」さえ聞こうとしているという話になる。それなら、日本の音楽は「間の音楽」であって、かつ「思いわびる音楽」なのである。けれどもどうして、そうなったのか。 

≪07≫  著者は「間」を見るには、日本人の体にしみついたリズムを見る必要があるとして、手足の動きを観察する。たとえば、夏祭の神楽に出てくる「ひょっとこ踊り」の「抜き足・差し足・しのび足」、あれは何なのだろうか。「すたすた歩き」って何なのだろうか。これらには能や剣道が重視する「摺足」の延長があるようだ。 

≪08≫  この摺足は、しかしよく考えてみるとわざとらしいもので、日常の足の動きとは思えない。あんな歩き方で町を歩く日本人は一人もいない。 

≪09≫  では、摺足はあくまで芸能化され武道化されてきた足のハコビであって、日本人の体に染み付いたリズムから来たものではないのかと考えてみて、ハッと気が付いた。われわれは西洋の靴をはくようになって摺足をしなくなったのであって、ひょっとすると、底が地面にぴったりあっている草鞋や草履をはいているころは、むしろ摺るように歩かないと、かえって履物が脱げてしまうのではないか。また、そのため母趾を必要以上につかってしまう日本人の歩き方が靴をはいているいまなお目立っているのではないか。そう思うようになってきた。 

≪010≫  かくてひるがえって考えてみると、ヨーロッパの音楽は多く三拍子系のリズムをもっている。

≪011≫  これは何かに似ている。そうなのだ、馬のギャロップに近いリズムであって、これこそは3/8や6/8のアレグロにぴったりあう。だからヨーロッパでは馬や馬車の生活のリズムが長く尾を引いたのだろう。それに対して日本には、著者が聞いたかぎりでは「南ー無・阿ー弥・陀ブ」と「南ン妙・法蓮ン・華経ー」くらいしか、三拍子はない。

≪012≫  日本だって馬をつかっていたし、馬子唄もあるのだから、これはちょっと説明がつかない。けれども、日本はむしろ牛や牛車のリズムを前提にしてリズムをつくって、それを馬子唄にもってきたのであろうと考えれば、辻褄があう。 

≪013≫  しかも、こうした馬と牛のリズムの差は、馬や牛の足の動きからくるのではなく、きっと腰と股の動きからくるのであろう。実際にもヨーロッパのリズムはたいてい腰の使い方に依拠している。ならば日本人はどこでリズムをとっているのか。著者は、ハイヒールで歩く日本の女性たちの不格好な姿を見ながら、これはきっと母趾の使い方とリズムが関係していたのではないかと、そんなことをなんとなく考える。 

≪014≫  音楽はリズムだけでは決まらない。そのリズムも体の動きだけでは決まらない。そこには舌と唇の動きが関与する。 たとえばトランペットと尺八の音のちがいはむろん楽器の素材や構造のちがいにももとづくけれど、それ以上に舌と唇の使い方のちがいが、トランペットと尺八を作ったと考えたほうがよい。 

≪015≫  ヨーロッパではハーモニカを唯一の例外として、「フー」の息で吹奏される楽器は、ない。トランペットもフルートもオーボエも、だいたいは「tu」か「du」で、吹く。それがタンギングというものであって、ピアノにおけるタッチ、弦楽器におけるボーイングにあたるアタックになる。 

≪016≫  ところが日本では、尺八も笛も篳篥(ひちりき)もフーで吹く。アタックもフーでする。そうすると、いきおい息の切れ目が音の切れ目になっていく。実際にも日本音楽の多くがそうなっている。ヨーロッパはこんなことはしていない。ヨーロッパでは音楽のために人間が服従する。だからタンギングを徹底的に練磨して、切れ目などをつくらないようになる。ダブル・タンギングはそのようにして発達した。 

≪017≫  このことをホルンと法螺でくらべているうちに、著者は、日本の音が「唸り」を大事にしていることに気が付いていく。尺八も唸るし、民謡も唸るし、演歌も唸る。おそらくは、唸りをともなう抑揚が日本音楽の根幹にあるのだろうことに合点していく。 

≪018≫  ということは、そもそもこれはヨーロッパの言語と日本語とのちがいにも関係があるのではないか。子音だけでも言葉が通じるといわれるヨーロッパの言葉と、母音を引っ張って子音につなげる日本語とのちがいが、ここで音楽的にも重要なはたらきをしていたにちがいない‥‥。 

≪019≫  こんな調子で話は次々に進んでいく。 とくに説得力をもたせるような書き方もめんどうな概念もつかっていないのだが、音の味とでもいうべきが効いた文章に促されて読んでいるうち、ついつい納得させられる。 

≪020≫  後半、「からたちの花」の冒頭部を素材にしてしだいに展開される「日本の耳」の議論は、しだいに7音階のヨーロッパ音楽と5音階の日本音階の水と油のような根本的なちがいに到達して、盛り上がる。 

≪021≫  ただし、だからヨーロッパがいい、日本がいいという話にはならない。二つの融合はそうとうに難しいという話なのである。 

≪022≫  ところで、本書は角田忠信の日本人の脳には虫の音を聞き取る機能が備わっているという例の「日本人の脳」になって、終わっている。これは本書がその後あまり読まれなくなった理由ではないかと危惧したくなるような“勇み足”であるのだが、ぼくとしてはその“勇み足”をふくめて、本書を多くの日本のミュージシャンや日本文化論者が読むことを薦めたい。 

≪023≫  推薦の理由はいろいろあるが、日本語がだんだん早口になっていくとしたら(実際にもどんどんそうなっているのだが)、きっと今後の日本語は抑揚を強調したりアタックを強くする喋り方が流行することになるだろうという予想など、かつて誰もできなかったものだったという説明で、十分だろう。 

≪01≫  夏休みプレゼント第二弾。 意外にも意外にも、『鬼の日本史』だ。 このレポートは、これからお盆を迎える諸君、鳥居火や大文字の送り火に見とれたい諸君、盆灯籠や精霊流しに心鎮めたい諸君、盂蘭盆や川施餓鬼や二十日盆に今年は気持ちを向けてみたいと思っている諸君、とくに精霊流しがどうして水に流されていくのかを知りたい諸君のために、贈りたい。 こういう本をゆっくり採り上げるチャンスがなかったので、ちょうどいい。 

≪02≫  その前に、著者の成果を紹介しておくと、この人は『隠された古代』でアラハバキの伝説や鎌倉権五郎のルーツを白日のもとに曝した人である。おもしろかった。それだけでなく続けさまに『閉ざされた神々』『闇の日本史』『鬼の太平記』、そして本書、というふうに(いずれも彩流社)、日本各地に伝わる隠れた神々の異形の物語を探索してきた。そういう民間研究者だ。たいていの神社を訪ねたのではないかとおもわれる。 

≪03≫  そこには土蜘蛛から河童まで、スサノオから牛頭天王まで、稗田阿礼から斎部広成まで、出雲神話からエミシ伝説まで、ワダツミ神から鍛冶神まで、一つ目小僧から酒呑童子まで、歪曲と誇張の裡に放置されてきた“鬼”たちが、斉しくアウトサイダーの刻印をもって扱われる。これは負の壮観だ。 

≪04≫  負の壮観なだけではなく、負の砲撃にもなっている。ときには負の逆襲や逆転もおこっている。ぼくは『フラジャイル』のあとがきに、著者からいくつかのヒントを得たことを記しておいた。むろん肯んじられないところも多々あるけれど、むしろぼくとしては、これらの負の列挙にたくさんの導入口をつけてくれたことに感謝したい。著者はごく最近になって、ついに『鬼の大事典』全3巻(これも彩流社)もまとめた。 

≪05≫  まずは、この偉業、いやいや異業あるいは鬼業を、諸君に知らせたかった。 

≪06≫  では、質問だ。これから始める真夏の夜の「超絶日本・オカルトジャパン不気味案内」(笑)の直前肝試しにいいだろうので聞くのだが、上に書いたアラハバキって、知っているだろうか。 

≪07≫  アラハバキは「荒吐」「荒脛」と綴る正体不明の“反権王”のことをいう。江戸時代にはすっかり貶められて土俗信仰の中に押し込められていた。しかし、愛知三河の本宮山の荒羽羽気神社はアラハバキを祭神として、鬱蒼たる神域に囲まれた立派な社殿をもっている。だから何かが、きっとある。が、ここに参詣にくる人は、ほとんどアラハバキの正体を知ってはいない。 

≪08≫  推理を逞しくすれば、アラハバキは「荒い脛穿(はばき)」だから、脛巾のこと、すなわち脚絆にまつわる神だろうということになる。ということは遠出の神か道中安全の神か、ちょっと捻って解釈しても、足を守る神なのかなというあたりになろう。ところが、そんなものじゃない。 

≪09≫  アラハバキを「荒吐」と綴っているのは、知る人ぞ知る『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)という東北津軽に伝わる伝承集である。そこには「荒箒」という綴りも見える。ホウキというのだから、これはカマドを浄める荒神箒のことかと思いたくなるが、一面はそういう性格もある。ただし東北のカマド神は京都に育ったぼくが知っているカマド神とはまったく異なっていて、かなり異怪な面貌の木彫だ。 

≪010≫  まあ、最初から謎めかしていても話が進まないから、ここで著者がたどりついた正体をいうと、これはナガスネヒコ(長脛彦)なのだ。 

≪011≫  ナガスネヒコって誰なのか。これも知っている人は少ないかもしれないが、ただのナガスネヒコなら、長い脛(すね)の持ち主という意味だろうから、大男ということで、ダイダラボッチ型の巨人伝説の一人ということになる。 

≪012≫  けれども記紀神話の読み取りでウラを取ろうとすると、そうはいかない。『日本書記』では、物部の祖先のニギハヤヒがナガスネヒコを誅殺して、イワレヒコ(神武天皇)に恭順の意をあらわしたというふうになっている。そして、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶ったと記録されている。恐いですね。 

≪013≫  なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。 

≪014≫  ところが、である。ここが日本神話の謎多きところになるのだけれど、『古事記』ではナガスネヒコが殺されたとは記していないのだ。 

≪015≫  このように記紀の記述に違いがあるときは、だいたい記述に疑わしいものが交じっていると考えたほうがいい。おそらく『書紀』にも粉飾があるのだろう。この見方、おぼえておいてほしい。よろしいか。  

≪016≫  さあ、そう思って『東日流外三群誌』を読むと、ナガスネヒコが津軽に落ち延びてアラハバキ王になったと書いてある。その証拠のひとつに、津軽の小泊にいくつもの荒磯神社があって、そこにはアラハバキ神としてのナガスネヒコが祭神になっている。 

≪017≫  それを荒生神とも荒木神ともよぶ。つまりは荒い呼吸をする猛々しい神だ。世の荒木クンたちの先祖だね。 

≪018≫  そもそもナガスネヒコは神武以前の奈良盆地にいた割拠リーダーの一人だったはずである。奈良五條市今井町には荒木山を背にした荒木神社があって、大荒木命あるいは建荒木命あるいは祭神不明となっている。 

≪019≫  このあたりはいまでも「浮田の杜」といって、かつては足が地につかないほどの浮き土があった。京都の伏見淀本町にも同じく「浮田の杜」があり、「淀」も「浮」も同じ意味だったということが察せられる。  

≪020≫  こうしたことから、どうもアラハバキあるいはナガスネヒコは、こんなふう荒れた土地を開墾したか、まるごと管理していたか、いずれにしても処置しにくいことを収められる荒っぽい一族だったということが推理されてくる。そのナガスネヒコを大和朝廷の先触れたちが利用したのであろう。けれどもナガスネヒコはそれを知ったか、利用価値がなくなったかで、北へ向かう「化外の人」となったのだ。 

≪021≫  それともひょっとして、そもそも北のどこかにエミシ王国のようなところがあって、その一部が流れて畿内あたりに来ていたのを、ニギハヤヒが目をつけたのか‥‥。と、まあ、これ以上のことは、『隠された古代』を読んでもらうということになる。 如何でしたかな。以上が枕の話です。 

≪022≫  ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。 

≪023≫  そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。 

≪024≫  では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。 

≪025≫  大和朝廷を作りあげた一族は、天孫降臨した一族だということになっていることは、知っているだろうね。天孫降臨なんてカンダタの糸ではあるまいに、空中から人が降りてくるわけないのだから、これは海の彼方から波濤を蹴立てて日本列島にやってきた一群だということになる。 

≪026≫  侵略者とはかぎらない。騎馬民族ともかぎらない。馬に乗ったまま来られるはずもないから、なんであれ波浪を操れる一群とともにやってきた。ここまではいいですね。 

≪027≫  で、この天孫降臨した一群のリーダーの名は、記紀神話ではニニギノミコトというふうになっている(正式にはヒコホノニニギノミコト)。ついでに言っておくけれど、このニニギから何代も下って登場してきたのが、ニニギの血統を受け継いだイワレヒコ、つまりカムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇だね。 

≪028≫  もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。 

≪029≫  それでは話を元に戻すが、そのニニギがそうやって上陸した九州のどこかで、ニニギはアタツヒメという女性と出会い、これを娶ったのである。一夜の契りなのにすぐに妊娠したというので、その貞操が疑われたという女性だ。 

≪030≫  この女性は誰かというと、薩摩半島の西に野間半島があって、そこに阿多という地域があるのだが、その阿多の女というので、アタツヒメとなった。ここは阿多の隼人が君臨していた地域で、アタのハヤトは大豪族だった。  

≪031≫  もっともアタツヒメは俗称で、別名は諸君もよく知っているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜)なのだ。絶世の美女で、姉はイワナガヒメというひどいブスだったというのだが、むろんあてにはならない。 

≪032≫  ところが、出雲神話ではこの姉妹はオオヤマツミノカミ(大山津見)の娘だということになっている。これは困る。オオヤマツミの子はアシナヅチ・テナヅチで、その娘は例のヤマタノオロチの犠牲になりそうになった可憐なクシナダヒメ(櫛名田)だ。そのクシナダを娶ったのがスサノオだ。なぜ、そんな娘がニニギの近くに出没することになったのか。 

≪033≫  ところがまた他方、『日本書紀』では、ニニギが娶ったのはカアシツヒメ(鹿葦津)で、その別名がコノハナサクヤヒメだったと記している。どーも混乱している。何かがおかしい。 

≪034≫  まず、オオヤマツミは字義通りでいえば山を司る神のようなのだが、それだけの意味の神なのかという疑問がある。 

≪035≫  たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。 

≪036≫  そこで本書の著者は阿多の野間半島に注目して、そこに野間神社があることを知った。そして野間神社を調べてみた。そうすると、東宮にはコノハナサクヤヒメが、西宮には「娘媽神女」が祀られていた。「ろうま」と読む。こりゃ、何だ? あまり聞いたことがない女神だろう。日本っぽくもない。「娘媽神女」とは何なのか。それに、なぜ二人の女神が一対になっているのだろうか。どーも、怪しい。  

≪037≫  さあ、ここからがめくるめく推理と謎が一瀉千里に走っていく。やや急ぎたい。 

≪038≫  娘媽神女の正体はわかっている。またの名を「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」といって、中国福建省や広東省などの華南地方の海岸部一帯で信仰されている女神のことをいう。中国出身なのだ。娘媽は漢音ではジョウボ、呉音ではナウモと読む。慣用音ではニャンマとかニャンニャンともいう。 

≪039≫  つまり海の民の象徴だ。東シナ海・南シナ海を動かしていた海洋一族に深い関係がある。 

≪040≫  ぼくもドキュメンタリーを見たことがあるのだが、この海の民たち(蜑民とよばれることもある)は、地元に派手な媽閣廟を構え、船の舳先にはこれまた極彩色の娘媽神を飾って遠海に船出していく、潮風が得意な冒険の民なのだ。 

≪041≫  そうだとすると、ニニギが日本に上陸したときは、この娘媽神にまつわる海の一族がなにかと協力していはずだ。海域から考えてもそうにちがいない。いや、ニニギがその一族のグループの一つだったかもしれない。そういう可能性もある。それならニニギが娶ったアタツヒメも、きっとその一族の流れなのである。 

≪042≫  とするのなら‥‥アタツヒメとは実はワタツヒメであって、ワタツミ(海津見・綿津見)の一族のことなのではないか。ワタとは海のことをいう。 

≪043≫  おそらくは、そうなのだ。ニニギはワタツミ一族とともに九州のどこかに“降臨”し、そこで子孫をふやしたのである。 

≪044≫  ということはオオヤマツミ(山の司祭)はオオワダツミ(海の司祭)こそが原型で、その後に列島の内陸に入っていって、山をも圧えたのだろう。コノハナサクヤヒメもきっと本来は娘媽神型の海女神であったのが、オオワダツミがオオヤマツミに変じるにしだかって、山の花を象徴する陸上型の美女に変身していったのだ。 

≪045≫  だいたい日本には、おかしなことがいっぱいおこっている。その痕跡がいろいろのところに残っている。 

≪046≫  たとえば信州の最高峰のひとつの穂高には、船が祀られている。そして舟を山に上げる祭りがおこなわれている。なぜ船なんぞが山の祭にあるのかといえば、そこに、古代の或る日、海の民が到達したからだ。そこにコロニーをつくつたからだ。 

≪047≫  加えてもうすこし証拠をあげておくと、あのあたりの安曇野という地名は、もとは渥美半島から北上して山地に入ったアヅミ一族の名残りの地名なのである。アツミ→アヅミノというわけだね。アヅミとはアマ族のこと、つまり海の民たちの総称だ。 

≪048≫  こういうことが、各地でいろいろの呻き声をあげているというべきなのだ。 

≪049≫  だんだん話が広がってきたね。が、ここまではまだまだ序の口の話なのである。著者は野間半島で、もうひとつの発見をする。そこには天堂山という山があって、その名は唐人によって、天堂山、天童山、また天道山と名付けられたという記録があった。 

≪050≫  ここでやにわに「天道」が浮上する。ここからちょっとややこしくなっていく。ちゃんと付いてきなさいね。 

≪051≫  天道童子を知っているだろうか。これがなんとも妙な話なのである。まあ、聞きなさい。 

≪052≫  『天道童子縁起』の文面によると、天武天皇が没した686年に9歳だった天道童子は、故郷の対馬を出て都(藤原京)に上って巫祝の修行を積み、大宝3年(703)に帰島したというふうになっている。 

≪053≫  その後、霊亀2年(718)に元正天皇が重病に罹ったとき、すわ一大事と陰陽博士が占ってみると、対馬に天道法師という者がいて、これを召して祈らしめよと卜占に出た。知らせをうけた天道童子はさっそく都に飛んで、すぐさま病気平癒をなしとげた。こうしてその後は、その誉れを称えられて、天道童子は母とともに対馬の多久頭(タクツ)神社に祀られているという。母子神になったわけだ。 

≪054≫  変な話だよね。でも、ここにはいろいろ気掛かりな暗示が含まれているようだ。たとえばこの天道童子を生んだ母親は、ウツロ舟に中で日輪を飲み込んだときに懐妊したということになっている。 

≪055≫  むろんこんな話はあとからいろいろくっつけた牽強付会であろうけれど、それでもいろいろ気になることがある。ひとつはこの話が対馬と朝廷をつないでいること、ひとつはウツロ舟が関与していること、ひとつはタクツ神社という奇妙な名はそもそも何を意味しているのかということだ。 

≪056≫  対馬と朝廷が関係していることは、天武持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことを暗示する。しかもこのころ朝廷は罪人や問題人を対馬に流して、そこで管理させていた。 

≪057≫  次のウツロ舟というのは、古代の海の民が乗っていた丸木舟のことで、記紀神話では「天磐楠舟」(あめのいわくすふね)とか「天鳥船」(あめのとりふね)と出てくる。これは知っている諸君も多いだろうが、楠などの内側を刳り貫いたのである。つまりはウツなるウツロの舟だ。 

≪058≫  なぜこのウツロ舟が重要かというと、まずもって天孫降臨の一族はこのウツロ舟で、その舳先にサルタノヒコを案内役としてやってきたと記述されているからだ(ということはサルタノヒコももともとは海洋関係者だったということだよね)。もうひとつは、日本の伝承や伝説の多くには、幼児を流すときにたいていこのウツロ舟が使われているということだ。あとで説明するが、実はこれはヒルコ伝説につながっていく。 

≪059≫  のこる問題はタクツ神社の意味だ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、著者は「タクツ神」は「謫つ神」であろうと推理した。「謫」って、わかるよね。流された者、流竄の者のことをいう。そう、ワーグナーのオペラの主人公たちである。 

≪060≫  うーむ、もしそういうことならば、これはたいへんな逆転劇になる。なぜなら「謫つ神」だとすると、天道童子は「流された者」ということになるからだ。となると、どうなるか。 わかるかな、この逆転と逆倒の意味が――。 

≪061≫  三つくらいのヨミ筋が考えられるんだね。 

≪062≫  第一の仮説は、天道童子は9歳で都に上がって修行を積んだのではなく、もともと呪能のあった者がしだいに力を得たので、対馬に流されたか、海の民の平定のために派遣されたのだ。なぜ対馬かといえば、朝廷はなんとか対馬を支配したかったのである。こういうヨミだ。 

≪063≫  第二の仮説は、タクツ神はもともと対馬の氏神か氏の上で、当然に海洋神だった。その子孫の天道童子はなんらかの目的で朝廷に交渉に行った。おそらくは海の民が本来もっていた物語や機能や職能を認めさせたかったのだろう。それを奏上しに伺った。ところが、朝廷はこれを拒絶したか、利用した。そういう経緯だ。 

≪064≫  第三の仮説は、さらに過激なものになる。実はタクツの一族は漂着民であって、タクツ神とはもともとそのような漂着・流民のシンボルを集約していたのではないか。すなわち、ニニギが日本に来たときニニギの一族は海の民を利用したのだけれど、その後はその力が疎ましくなって、再び海に流そうとしたのではないか。それは、ひっくるめていえば、“流され王”型のヒルコ伝説を総称している物語の原型のようなものではないかというものだ。 

≪065≫  いやいや、どれが当たっている仮説なのかということは、このさい問題ではない。 

≪066≫  どうであれ、ここには日本の確立をめぐる二つ以上の勢力の協力と対立とが、その逆の、激突と融和とが、また、懐柔と反発とがひそんでいるのではないかということなのだ。ふーっ。 

≪067≫  ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。 

≪068≫  もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。 

≪069≫  さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。 

≪067≫  ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。 

≪068≫  もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。 

≪069≫  さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。 

≪070≫  そうなのだ、実はこれらの女神たちは、もともとのルーツは違っていても、どこかで同じ係累の女神たちになっている。これは日本ではミヅハノメ(罔象女・弥都波能売)に一括内包される者たちなのだ。 

≪071≫  ミヅハノメというのは、水にまつわるいっさいの女神のことをいう。「罔象」という字義は「形、小児のごとき水中の妖しき女」という意味をもつ。不気味だね。これを折口信夫は「水の女」と総称したけれど、和名では「水の端の女」という意味だ。 

≪072≫  このミヅハノメはおそらく日本で一番多く祀られている女神で、そこから水分神(ミクマリ)、丹生明神(ニブツヒメ)、貴船神、宗像三神、水垂明神、淡島、竜女神、弁天、トヨタマヒメ、乙姫などが次々に“分派”し、あるいは逆に、それらが次々にミヅハノメになった。みんながみんな水々しい神々で、水源や河川や海辺に深い関係をもっていて、しかも女性の姿を象っている。  

≪073≫  このうち一番遠いところから漂流するかのように日本に定着したのが弁財天だ。インドからやってきた。本名はサラスヴァティという。娘媽神が次に遠くからやってきたけれど、すでに話してきたように、これは日本の女神に変換されて定着した。それがアタツヒメで、さらにコノハヤサクヤヒメにまで変換していった。 

≪074≫  さてと、このような水の女神や海の女神は、シャーマニックな呪能や職能に富むばあいが多く、どこかで必ずや「禊」(みそぎ)とかかわっている。そうだね。 

≪075≫  ということは、そこには水に流れていくものたちの運命や宿命、あるいは蘇生や流産もかかわっていたということなのだ。たとえば『中臣祓』という祝詞では「根の国・底の国に坐すさすらふものの姫」というような言い方をする。そこには水子のイメージも重なっている。とくに淡島(淡島様)はウツロ舟に乗せられて流されるという儀式を必ずともなっている。 

≪076≫  流し雛を見るとき、日本人ならその意味するところが感覚的にではあれ、なんとなく了解できるはずだよね。 

≪077≫  一方、男神で水や海に関係が深い神々も多い。代表的にはオオワタツミ(大綿津見)や海幸彦や宇佐八幡や八幡神だけれど、このほか塩土神やアドベノイソラなどがいる。イソラは海中から出現した神で、顔中にワカメのようなものが覆っている。それが形象化されて、顔に布を垂らして舞う芸能ができたくらいだ。 

≪078≫  が、こうしたなかでも最も注目すべきはエビス神やヒルコ神だろうね。二神は名前が違っているけれど、まったくの同一神だ。足が萎え、流謫されている。つねに漂流しつづける神様だ。しばしばウツロ舟で流される。 

≪079≫  でも、いったいどうしてエビス=ヒルコは流されたのか? 何か罪を犯したのだろうか。ここで、これまでの話がことごとく結びついていく。 

≪080≫  まずもって日本列島が海に囲まれた国であることが、大きな前提になる。花綵列島といわれるように、たくさんの島が点々としている。このすべての島嶼を潮の流れが取り巻いている。そこには干満があり、緩急があり、高潮があり、津波があり、そして夥しい漂流漂着がある。椰子の実も鉄砲も、これに乗ってやってきたわけだよね。 

≪081≫  なかで、古来の人間の漂着がやはり図抜けていて、この国の歴史に決定的な影響を与えてきた。とくにこの国に君臨した天孫族の一群の到来は、それ以前に流れ着いた一族たちとの葛藤と摩擦と軋轢をつくっていった。わかりやすくいうのなら、ナガスネヒコが先に来ていて、あとからニギハヤヒやイワレヒコがやってきたのだ。 

≪082≫  この、先に定着していた一族たちのことを「国津神」といい、あとからやってきた連中のことを「天津神」という。このあとからの連中が天孫降臨族である。 

≪083≫  国津神の一族には服属をした者たちもいたし、抵抗した者たちもいた。また天津神に組み込まれた者たちも少なくない。そのような宥和服属の関係が、主に記紀神話に記された物語になっている。 

≪084≫  けれども、服属できず、また抵抗した者たちの物語は、徹底的に貶められ、換骨奪胎されて、地方に流された者の物語に、あるいは山中に押し込められた者の物語になっていった。これらが本書でいう「鬼」の物語の主人公なのだ。 

≪085≫  他方、国の歴史は子孫を誰がつくるかという歴史でもあるわけだね。そこには女性たち、母になる者たちの歴史が加わった。娘媽神も弁天もミヅハノメもコノハナサクヤヒメの物語も、そのような婚姻の事情がどのようであったかを物語っていた。 

≪086≫  婚姻し、子孫を生めば、たいていのばあいはそこで名前がすげ替えられた。オオヤマツミの子供たちがいくつもの名の娘になっているのは、このためだ。記紀や風土記で名前や係累が異なっているなんてのは、当然のことなのだ。  

≪087≫  日本人は優美なところも残虐なところもあるけれど、事実を徹底的にリアルに記録するという能力には残念ながら欠けていた。 語り部も史部(ふみべ)も、またそれらの伝承者も、どこでどんな相手に話をするかで、いろいろ工夫というのか、ヴァージョンを変えるというのか、ともかく「柔らかい多様性」とでもいうような話法や叙事性をつくってきてしまったんだね。 

≪088≫  それに、初期の日本には文字がなかったから、語り部の記憶も完璧というわけにはいかない。加えて蘇我氏のところで、『古事記』『日本書紀』より古い史書がみんな焼かれてしまった。 そういうわけで、古い時代の各地の信仰や一族の動向を推理しようとすると、なかなか難しい。それでもふしぎなもので、そういう動向のいつくもの本質が、地名や神名や神社名に残響していたりするわけだ。 

≪089≫  ともかくも、そのような残響をひとつひとつ掘り起こして組み合わせていくと、そこに大きな大きな或る流れが立ち上がってくるわけだ。それは、海からやってきた者たちの歴史、陸地を支配した者たちの歴史、排斥されていった者たちの歴史、忘れられていった者たちの歴史‥‥というふうな、幾つかの流れになってくる。 

≪090≫  それをぎゅっと絞って、対比させるとどうなるかというと、「国をつくった歴史」と「鬼になった歴史」というふうになる。本書はその「鬼になった歴史」をいろいろな視点で綴ったわけだった。 

≪091≫  では、ここに綴られた物語で、最もドラスティックな仮説を一言だけ紹介して、この真夏の精霊流しの話を終えることにする。 

≪092≫  それは、そもそもアマテラス信仰にまとめられた系譜の物語の原型は、実は海の一族が最初にもってきた物語だったのではないかというものだ。アマテラスの原義がどこにあるかという議論はまだ決着がついていないから、結論的なことなど言えないのだけれど、本書の著者はアマテラスは「海を照らすもの」の意味だったと考えている。字義がどうであれ、ぼくもそういう可能性がそうとうに高いと思っている。  

≪093≫  ここでは話せなかったけれど、中世に傀儡子(くぐつ)たちが伝承した説話や舞曲や人形語りがあるのだが、これらはどうみても、海洋型のものなんだねえ。鈴鹿千代乃さんたちが研究していることだ。 

≪094≫  日本神話の中核部分の原型は、ことごとく海にまつわっていたんだねえ。そのこと自体は驚くべきことではないだろう。 それよりも、そのような原型の物語はつねに改竄され、奪われ、変更され、失われてきたわけだ。その後も神仏習合や本地垂迹をうけるなかで、大半の“流され王”たちがまったく別の様相のなかに押し込められ、ときに悪鬼や悪霊のような扱いとなったということに、驚くべきなんだろう。そのうえ、そのような変遷の大半をわれわれは看過したり軽視したり、また侮蔑するようになってしまったわけだ。これは悲しいね。 

≪095≫  ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などとして、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水として、さらに「千夜千冊」では数々の負の装置として、いろいろ持ち出している。けれども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているのかと思いたくなるほどだ。 

≪096≫  あのね、話というのは、そもそもそこに凹んだところと尖ったところがあるんだね。尖ったところは、どちらかといえば才能がほとばしったところか、さもなくば我田引水なんだ。 

≪097≫  だからこそ絶対に逃してはいけない大事なところは、凹んだところなんですね。そこは痛切というものなのだ。その痛切を語ってあげないと、歴史や人間のことは伝わらない。なぜなら、その痛切は我田からではなく、他田から引かれてきた水であり、そこに浮かんだ舟のことなのだ。 

≪098≫  その舟には自分は乗ってはいないで、誰かが乗っている。それが弁天だったり淡島だったり、ミヅハノメだったり百太夫だったりするわけだ。つまり知らない人たちなのだ。 だからそこには、ぼんやりとした灯りがふうーっと流れるだけなのだ。それが流し雛であって、精霊流しなんだね。 

≪099≫  さあ、見えてきましたか。鬼というのは、このように語られなくなった者たちの総称のことだったわけだ。異様異体の外見を与えられ、申し開きができない歴史に閉じ込められた者たちのことなんである。 

≪0100≫  えっ、だから、ほら、語りえないものは示しえない、ということだっけ。戦艦大和はどう沈んでいったっけ。葉隠って、どの葉に隠れることだっけ。 では、しばらくのあいだ、ぼくも真夏の夜の夢にまどろむことにします。おやすみ、なさい! 

≪01≫  サントリー音楽財団の仕事で秋山邦晴さんに頼まれて早坂文雄を調べているうちに、しばらく新日本音楽の大胆なムーブメントに関心が及んだことがある。新日本音楽は大正9年(1920)に本居長世と宮城道雄が有楽座で開いた演奏会の斬新きわまりない感興に対して、吉田晴風が名付けた名称である。 

≪02≫  すでに宮城は明治42年に《水の変態》を作曲して、大正2年に入って《唐砧》で洋楽を絶妙に採り入れた。《唐砧》は近代日本音楽史上最も重要な曲のひとつである。最近のレコードやCDでは箏の高低2部と3弦の3部合奏曲になっているが、初演の時は3弦も高低2部になっていて、箏と3弦の四重奏曲だった。 

≪03≫  宮城はつづいて傑作《春の夜》、3拍子の《若水》、セレナーデ風で尺八にカノンを入れた《秋の調》、さらには室内管弦楽の構成を和楽器に初めて移してこれに篠笛を加えた《花見船》、合唱付きの管弦楽様式による《秋韻》などを次々に発表した。圧倒的な才能の発揮であった。いま、われわれが《さくら変奏曲》や《君が代変奏曲》に聞くのは、そうした実験曲をずいぶん柔らげたものである。 

≪04≫  その宮城が、尺八の吉田晴風・中尾都山・金森高山、箏曲の中島雅楽之都、邦楽全般の研究者の田辺尚雄・町田嘉章らと4つに取り組んだのが「新日本音楽」だった。画期的だった。  

≪05≫  宮城の新日本音楽は、いまこそ日本中で議論すべき栄養分をたっぷり含んでいる。またこの活動に前後して、長唄の四世杵屋佐吉がおこした「三弦主奏楽」の試みも、大正8年(1919)の《隅田の四季》以来、驚くべき成果を次々にあげたのだが、ここにもいまこそ日本が考えるべき栄養分がしこたま注入されていた。加えてそこに、東京盲学校出身の山田流箏曲家たちの献身的な活動があった。 

≪06≫  こうした背景のなかに宮城道雄の作曲活動と器楽活動が位置するのだが、その影響はほとんど半世紀におよび、邦楽界はもとより現代音楽の黛敏郎や武満徹までを籠絡するほどの起爆力をもっていた。洋楽邦楽を問わず、宮城の試みたことの影響のない日本音楽など、おそらくないといっていい。それとともに、これからのべるように、宮城道雄は余人の想像を絶する耳目の感覚が研ぎ澄まされていて、それが音楽のみならず言葉にまで染み出してくるのでもあった。 

≪07≫  本書『雨の念仏』は宮城道雄のそうした隠れた一面をみごとな文章にした最初の随筆集である。昭和10年に刊行された。 

≪08≫  ぼくの叔父に札幌の小川光一郎がいて、生まれついての盲人だった。のちに「聖書」の点字訳や日本ヘレン・ケラー財団で大事な仕事もしていたようだが、ぼくの子供のころは、いまはこのような言葉をつかうことが憚られるのだが、ただの「目の見えないおじさん」だった。その叔父が鋭い知覚力でデパートの5階の風鈴の音を1階で聞き分けていたり、「地下鉄の音ほどひどい音はない、あれは目に見えない音ばかりでできている」と言ったりしていたのを、子供ごころにびっくりしながら聞いていた。 

≪09≫  宮城道雄の耳はそれどころではあるまい。だいたい耳なのか、見えない目が見ている能力なのか、わからないほどである。本書にもたいていの時計の時刻が当たったという話が出てくるのだが、こういう感覚があの音楽をつくりだしたのかとおもうと想像を絶するものを感じる。  

≪010≫  たとえば「軒の雫」という随筆では、田端の自笑軒(一中節の相弟子・宮崎直次郎が開いた懐石料理屋。芥川龍之介はここで結婚披露宴をもった)に行く話が綴ってあるのだが、着いたときには雨がしとしと降っていたので、その雨の音が「昔の雨」のように聞こえて、さぞかし古い茶室のような部屋なのだろうと思ったというくだりがあって、ハッとさせる。帰りは女中が雪洞をもって送ってくれたので、宮城はその紙仕立てにさわらせてもらって、その温かさで玄関への露地の侘びた結構を観察するのである。 

≪011≫  本書にはこういう話がいろいろ綴られている。宮城の音楽を聴くのとはまた別趣の味がある。たとえば、あるとき素人のお弟子さんが変な音を出すので、箏にさわってみたら妙に冷たい。そこで近くの冷蔵庫にさわって、その箏の状態を測った。こういうことは、さすがにレコードをいくら聴いてもわからない。  

≪012≫  またたとえば、田辺尚雄・中尾都山・大橋鴻山らと伊勢神宮に参拝したときのことが書いてある。外宮に先に参ろうとして進むと、玉砂利に歩く人の数が見える。ニワトリが放してあるようだが、その鳴き声は里のニワトリと違うように思われた。大きな杉の木があったのでさわってみると、その高さがわかる。しかしみんなからはその木をいくら下から見上げても、上の方は見えないということだった。鳥居をくぐるとあきらかに古代からの時間を感じた。 

≪013≫  内宮に参拝するときは五十鈴川を渡った。想像していた通りの音の流れだったそうで、あきらかに人為が入っていない自然音なのだそうだ。ついで神楽殿で神楽を聴くことになったのだが、周囲の参拝客が多くて御簾がするっと降りた。とたんに神楽の厚みが薄くなった。無理に頼んで御簾を上げてもらい、神楽が周辺の神域に染みていく速度を感じていた。 

≪014≫  伊勢の参拝をめぐるエッセイなら、ぼくも江戸の旅行記から戦後の建築家の文章までを読んできたが、この見えない伊勢に音を聞き、高さや大きさや澄みぐあいを感得した宮城道雄の短い文章を超えるものはなかった。 

≪015≫  宮城道雄の生涯は思いがけないことの連続である。明治27年に神戸三宮の居留地の中で菅家の長男に生まれた。生後まもなく眼病を患って、4歳のときに母と離別して祖母に育てられ、7歳で失明した。 

≪016≫  暗闇を救ったのは絃や笛の音だった。8歳のときに生田流の中島検校(2代)に箏を習い、続いて3代の中島検校に師事した。13歳の夏に一家の収入を支えるために日本が統治しつつあった仁川に渡って、昼間は箏を、夜は尺八を教えて家族に仕送りをした。そんななか、はやくも従来の箏曲にあきたらなくなり、作曲を試みるようになった。《水の変態》がそのひとつで、14歳のときの作品である。朝鮮総督府をまとめていた伊藤博文が注目した。  

≪017≫  大正2年に京城(日本植民地時代のソウルの呼称)で入り婿として喜多仲子と結婚すると、妻の生家の宮城姓に改姓し、その後は一度も芸名を用いなかった。本名で通したのだ。これは邦楽界ではめずらしい。その京城で出会ったのが琴古流尺八家の吉田晴風である。2人は生涯の友となる。  

≪018≫  帰国後の宮城は妻の病死、貧しさなどで苦労するのだが、その輝くような才能は邦楽界にも洋楽界にも学界にも注目されるところとなって、葛原しげる、高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らが支援や協同作業に乗り出した。こうして「新日本音楽」のムーブメントがおこる。尺八の中尾都山(都山流の創始者)とは全国演奏旅行をし、昭和になると始まったラジオ放送にも積極的に出演した。第1回NHK放送文化賞は宮城道雄だったのである。 

≪019≫  昭和4年に《春の海》を発表した。箏と尺八の二重奏曲で、これまでの和楽・邦楽からは予想のつかない曲想と構成となった。《春の海》はフランスのヴァイオリニストのルネ・シュメーが尺八パートをヴァイオリンにして宮城とデュエットしたレコードが海外でも評判となったのだが、いまではこちらのほうが日本的な「お箏の曲」を代表すると思われている。 

≪020≫  ぼくはそのように宮城の新日本音楽を聴かない。《春の海》も《砧》もクラシック・ピアノの名曲に並んだのだと見る。それほどよくできている。ときにドビュッシーを想わせることもある。ただ宮城自身はこれらに満足していなかったのだろうと思う。そこで十七絃の箏を創案し、さらに八〇絃を試作した。残念ながらこれらの活用は、宮城が列車からの転落事故で62歳で亡くなったため、後進に譲られることになった。ぼくはそこに宮城の新日本音楽の真骨頂を感じるのだ。これを受け継いだのは広瀬量平、池辺晋一郎、三善晃、一柳慧であり、1980年6月に菊地悌子・宮本幸子・沢井一恵が開いた十七絃奏者のリサイタルだったのである。 

≪021≫  もうひとつ、言っておきたいことがある。新日本音楽には多分に文芸的香りが漂っていたということだ。こういう文芸性はもともと箏が好きだった内田百閒が宮城に弟子入りし、その宮城が百閒の文章指南を受けていたことにも投影されている。本書『雨の念仏』の文章は、《春の海》や《砧》そのものなのである。 

≪022≫  宮城は春の朝がとても好きらしい。南風が頬をなでる感覚が格別で、いつも仕事をする気になるという。「四季の趣」という随筆は、そういう宮城の独自の季節感が綴られている。 

≪023≫  春は昼過ぎに頬を照らす日差しに、遠くから省線の走る音が交じるのがよく、そこへ庭先のアブなどが羽音を入れてくると気分がさらによくなってくるという。だいたい騒がしいのは嫌いだった。表通りを人声が動いていても、それを家の中で聞いて点字で本を読んだりしている距離感が楽しいのである。また春は朧月がよくわかるという。そこへ春雨が柔らかく降ってきて月を隠したらしめたもので、雨垂れの音を聞きながら作曲に入っていく。 

≪024≫  夏は夜である。蚊遣りの匂いと団扇の音がいい。家々が窓や戸をあけるので、物音も広がっている。蚊の音さえ篳篥に聴こえる。さらにおもしろいのが扇風機の音だった。あの唸りには波の音がするらしい。その波打ち際に一人で放っておかれたような寂寞の気分になれる。「時々私は、扇風機の音にじいっと聴き入っていることがある」。こんなことを綴ったのは、きっと西はオスカー・ワイルドだけ、東は宮城道雄ただ一人であったろう。 

≪025≫  夏は耳も暑くなる。カラスも言葉が多くなる。セミは言葉ではなく音楽を鳴らす。ただしその音は日本中どこでもそうなのだが、ドの音とシの音しか鳴らさない。つまり半音ちがいの音楽だけを奏でつづけているのである。 

≪026≫  初秋になってすぐわかるのは風の気配というもので、そのとたんに空気の密度が澄んで、それをそのままうまく運ぶとこちらの頭も澄んでくる。作曲も秋にいちばん多くなる。秋も深まると、空をまわるトビが2羽でゆっくり掛け合うのがおもしろい。こういう感覚が満ちてきたら、夜長に虫の声を聞く。草ひばりなど引っ張るような音で、鉦たたきもスタッカートのようで、馬追いも始めにシュッ終わりにチュッと羽根が動くのがおもしろいのだが、実は閻魔蟋蟀が平凡なようでいて、含みがあっていい。シの半音下がった音で鳴き始め、あとはラを半音下げた鳴き方になっていく。これを聞いていると空気が冴えわたってきて、なんとも優しい気持ちになれる。 

≪027≫  こうして夜空に向かって、体というのか、頭というのか、自分の感覚の全貌をそこへ向けると、秋の月の煌々と冴えた光が見えてくるものなのである。そしてそのまま寝所に入ると、以上のすべてがくりかえし再現される。 

≪028≫  冬は蜜柑である。まだ出たての皮が硬くて、それでも撫でると光沢が指に伝わってくる蜜柑に出会うと、ああこれが冬だとわかる。そこは障子が閉め切られ、長火鉢に火がおこっている。意識はしだいに狭いものにむかって集中する。 

≪029≫  冬が進むと、いよいよ寝床に入ったまま不精をしたくなり、布団の中のおなかの上で点字をまさぐる。また、点字を打ちもする。寒ければ寒いほど、こういうときは奥のことを感じられるようになって、とてもいい。こんな夜は決まって内声が聴こえているもので、ふと、こんな音楽がほしいなと想像すると、それも向こうのほうから聴こえてくる。 

≪030≫  雪が降る。人々がいうように「しんしん」という音はない。けれども雪が激しくなってくると、細かい音が鳴ってくる。これは雨とちがってまことにおもしろい。積もった雪の上を人がさくさく歩くさまにも、よく耳を傾けている。それはまるで舟が艪を漕ぐキュキュッという音なのだという。つまりは水が聞こえてきたわけなのだ。そのほか餅をつく音、屠蘇を祝う声、獅子舞の馬鹿囃子、節分の豆の音、物売りの声……。こういうものをなくすようであれば、日本は必ずダメになる。日本の音楽というものは、こういうものと踵を接して育っていくものなのだ。 

≪031≫  宮城の随筆はざっとこういう調子である。 

≪032≫  これを昭和初期に綴っていたかとおもうと、その後の日本の軍靴の歴史の暗澹や敗戦後の民主主義の空騒ぎが何だったのか、宮城道雄の「新日本音楽」が忘れられてしまったことも思い合わせて、がっかりするような感情が押し寄せる。 

≪033≫  日本の近現代思想史というものは、松本健一や樋口覚や酒井直樹や加藤典洋といった努力があるものの、概しておそろしく貧しく、鶴見俊輔などの例外はあってもそこに俳句から建築までが、俗曲から日本舞踊までが織り交ぜられるということはほぼ皆無なのである。中里介山にふれても宮城道雄にふれず、添田唖蝉坊に言及しても石井漠のダンスに心を致さないということばかりなのだ。ようするに身体論はあっても、手の伸ばしや足の引きがなく、知覚論はあっても目の寄りや耳の伏せがない。 

≪034≫  これは日本人の肌や手や目の端や耳に残る昭和の思想にわれわれがまだ届いていないということなのである。ぼくにはそのいっさいの欠如を宮城道雄の日々で補えるようにおもう。 

≪035≫  本書の最後には、標題になった「雨の念仏」という随筆が入っている。まことに心が洗われる。それでいて今日の仏教というものの総体が宮城道雄一人に届いていないことを知らされる。こんなふうなごくささやかな話だ。 

≪036≫ あまりに多忙だったので、土曜の夜に葉山の隠れ家に行ったところ、角の家でどなたかが死んだらしく、大勢の弔い客が来ているという話である。とりあえず家に入ったものの、なんだか落ち着かない。そのうち差配のおばさんが来て、角の家の不幸がどのようなものだったかをぼそっと話しはじめた。そこに雨が降ってきて、「人間、金持ちでもあんなふうに死んだら、何にもならないわよねえ」とおばさんが話をつづける。宮城はそれをずっと聞いている。 

≪037≫  一区切りがついたところで、おばさんが帰ると言い出すのを聞いたとたん、寂しくなってきた。もう少しいてほしいと言うと、おばさんの親戚の家でも不幸があったのでこれから行かなければならないのだと言う。 

≪038≫  人っ子ひとりいなくなった家で雨の音を聞いていると、そこに幽かに念仏が交じっている。さらに波の音や自動車の音が重なっている。なんという寂しい夜なのか。それが宮城道雄の「雨の念仏」だったという話である。 

≪01≫  すごいタイトルである。日本の本質は中空構造にあるのではないか、中心はカラッポなのではないかというメッセージを直裁に突き出したタイトルである。 

≪02≫  このタイトルを見たとき、この手の日本論に関心がある者は、誰もがロラン・バルトの『表徴の帝国』を思い出した。バルトは日本に関する乏しい知識にもかかわらず、東京のど真ん中に皇居があることを見て、ただちに日本の中心が穿たれていることを喝破したものだった。もっともたいした説明はしていない。 

≪03≫  しかし、河合隼雄はロラン・バルトに触発されたのではなかったようだ。日本人の子供に自殺が多いこと、親子の関係が歪んでいること、父性の失墜がはげしいこと、そうしたさまざまな社会病理に悩んでいるころ、マーク・ヴォネガットの『エデン特急』とハイゼンベルクとパウリの『共時性をめぐる対話』を読んで、現代人の病理が「科学の知」とはあいいれないはずの「神話の知」と深い関連をもっているのではないかと見て、その「神話の知」に入りこみ、そこから日本社会の構造のルーツをさぐろうとした。これが河合の入力方法だった。 

≪04≫  日本の「神話の知」は日本神話の中にあるはずである。けれども多くの日本神話研究を読んでも、現代の日本人の病理にかかわるような問題は出てこない。そこで河合は自分なりに日本神話の謎解きにかかわっていく。その謎解きのひとつの結論が本書となった。最初は『中央公論』や『文学』に発表された論文だった。 

≪05≫  なぜ河合が日本神話に関心をもったかということは、本書にのべられている。 

≪06≫  臨床家をめざす河合は心理療法をマスターするためにヨーロッパに学びに行くのであるが、それをもちかえって日本人にあてはめてみると、なるほどある程度は適用が効くものの、かんじんのところが日本人にはあてはまらない。どうも日本人の心のありかたが西洋人とは異なっている。 

≪07≫  そこでしだいに日本人全体の心の深層構造を知りたくなって、だんだん日本神話に関心をもち、その深みにはまっていったというのである。 

≪08≫  ごくかんたんにいうと、河合が注目したことは、『古事記』の冒頭に登場する三神タカミムスビ・アメノミナカヌシ・カミムスビのアメノミナカヌシと、イザナギとイザナミが生んだ三貴神アマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちのツクヨミとが、神話の中でほとんど無為の神としてしか扱われていないということである。 

≪09≫  アメノミナカヌシもツクヨミも中心にいるはずの神である。それが無為の存在になっている。これはいったい何だろう、おかしいぞという疑問だった。 

≪010≫  もうひとつ、典型的な例がある。天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれた三神は、海幸彦ことホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、山幸彦ことホオリノミコト(火遠命)であるのだが、兄と弟の海幸・山幸のことはよく知られているのに、真ん中のホスセリの話は神話にはほとんど語られない。 

≪011≫  このことから河合は日本神話は中空構造をもって成立しているのではないかと推理した。簡単にいえば“中ヌキ”である。この推理はいささか性急なものであるが、当時のぼくには、このような直観的な見方こそがある種の本質をつけることがありうると見えた。 

≪012≫  河合は書いてはいないが、神話構造だけではなくて、日本には多くの中空構造がある。だいたい神社がそうなっている。神社というものは中心に行けばいくほど、何もなくなっていく。一応は中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるのだが、そこにはたいていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていない。また、鏡があるが、これはまさに反射するだけで、そこに神という実体がない。そればかりか、そもそも日本の神々は常住すらしていない。どこからかやってきて、どこかへ帰っていく訪問神なのである。折口信夫が客神とかマレビトと呼んだほどだった。 

≪013≫  古代において井戸が重視されていたこと、死者を葬るのは山中他界といって山の途中であったこと、宮中というものが大極殿と内裏に分かれてしまっていること、こうしたことも日本の社会構造や文化構造に中心が欠けていることを暗示する。

 そのようなことはぼくも以前から感じていたのだが、そこを河合は『古事記』の叙述にひそむ神話的中空構造としてズバリ抜き出したのだった。 

≪014≫  その後、この中空構造論は本気で議論されてはいない。理由はよくわからないが、あまりにも当然のことだと見えたのか、研究上の議論にはならないと見えたのか、それとも河合がその後はあまりこの話をしなくなったせいかとおもわれる。しかし、ぼくはこの議論をもっとしたほうがいいと思っている。 

≪015≫  なぜそのように思うかということは、すでに『花鳥風月の科学』(淡交社)にも『遊行の博物学』(春秋社)にも、また『日本流』(朝日新聞社)、『日本数寄』(春秋社)にも書いた。日本の祭りの構造やウツロヒの問題、あるいは床の間や民家構造や書院の意味、さらには歌合わせ・連歌・枯山水といったことを説明するには、どこかで中心がウツである文化のしくみにふれるべきであると思われるからだ。 

≪016≫  ただし、日本は中空構造をもっているとともに実は多中心構造でもあるとも考えるべきである。日本が一つの中心をもったことはない。都が頻繁に遷都されてきたように、中心はよく動く。中心はうろつきまわる。天皇すら南北朝がそうであったように、二天をいただくことがある。天皇家と将軍家の並立もある。中心は穿たれているとしても、そこは複合的なのである。そうも言うべきなのだ。そのあたりについては本書ではふれられていない。 

≪017≫  ところで河合は日本の深層が中空構造をもっていることを、必ずしも肯定しているのではない。そこには長所と短所があると言っている。 そこで、こんなふうに説明した。 

≪018≫ [1]中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあるときは、それは有効であるが、中空が文字どおりの無となるときは、その全体のシステムは極めて弱いものとなってしまう。 

≪019≫ [2]日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつのである。 

≪020≫  結局、河合はこのような推理のうえで、日本が中空構造に気がつかなかったり、そこにむりやり父性原理をもちこもうとすることに警鐘を鳴らした。 

≪021≫  中空構造仮説が独創的であるわりには、この警鐘はふつうすぎるところがあるが、ぼくとしてはこの議論をひとまず継承するところから、日本社会を史的に問題にしていくことを勧めておきたい。 

≪01≫  日本の支配者は彗星が接近しただけで変わることがある。執権北条貞時もそうして引退した。天人相関説による。地上の悪政があると、それが天上の彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすというものだ。 

≪02≫  このような日本に元(モンゴル)が攻めてきた。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)は文永弘安の2度だけではない。サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふくめると、1264年から1360年までの約100年のあいだ、蒙古襲来は繰り返しおこっている。こうした襲来は、為政者や神社仏閣のあいだでは「地上と天上の相関」によって解釈された。 

≪03≫  そうだとすれば、蒙古襲来という地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるということになる。それゆえ台風(暴風雨)によって異国人の襲来を撃退できたのは、まことに天人相関説の“実証”に役立った。が、実際には神風ばかりに頼ったのではなかった。地上で天上を扱っているともいうべき神社に祀られている神々も、実はわざとらしく闘った。巫女たちもさかんに神託をもたらした。 

≪04≫  本書には、蒙古襲来の状況下、そうした神々が異様な闘いを展開していたという各神社の記録がいろいろ紹介されている。その記述には、これまでの中世史ではみえなかったいくつもの視点が提示されている。 

≪05≫  永仁元年(1293)に鶴岡八幡宮に一人ずつが銭指一連を出しあって700人もの民衆がかけつけたときは、鎌倉を大震動が襲ったためだった。マグニチュード7を上回る関東大震災級の地震だったらしい。旱魃・地震・津波などで動いたのは、民衆たちでもあったのである。そしてかれらもまた、やはり「神々の加護」を旗印に闘おうとした。 13世紀と14世紀の日本には、こうした神を味方につけて天変地異に乗じようとする動きが際立っている。 

≪06≫  とくに1310年の紅梅殿事件で見せた北野社による理不尽な暴挙や、祇園社の居住者追放事件などに始まった一連の騒動は、いささか異常であった。何が異常かというと、国内のちょっとした敵対者たちを異国人同様の「悪党」とみなし、これを寺社権力が徹底して差別するようになったのである。これを一言でいえば「在地人の既得権侵害と悪党弾圧のムーブメント」ということになるのだが、そこに、数百年にわたって沈静していた神話的な力がにわかに復活し、そうしたムーブメントが“神の戦争”と解釈されたこと、そのことが異常だった。 

≪07≫  結局、蒙古襲来をきっかけに、“神の戦争”を名目とし、殺生禁断を建前とする寺社領域の拡張と寺社造営とが全国的に広まったため、山野河海をネットワークしながら生活の場としてきた民衆やそのリーダーたちが苦境に立たされたのである。悪党とはそうした苦境に立たされたリーダーのことでもあった。本書は、そうした風潮が「神国日本」のイデオロギーをつくりあげたのではないかと主張する。 

≪08≫  神領興行法というのは、武士や民衆が神領の内部にもっていた諸権利を剥奪して社家に戻すという徳政令である。一円神領興行法ともいった。この命令は西の宇佐八幡宮と東の伊勢神宮を先頭に、全国に適用されている。とりわけ伊勢神宮の神領は関東を中心に次々に拡張していった。 

≪09≫  下宮を拠点とする伊勢神道(度会神道)が確立していったのは、この勢力拡張を背景にしていた。ただし、伊勢神道とはいえ、この時期の“神道”とは神仏両方の勢力のことをいう。もう少し正確にいえば、この時期に日本の神仏の組み替え(神本仏迹)が遂行されたのである。それによって神祇観を批判するいっさいの反体制宗教勢力が消えていくことになる。著者は、それこそが「中世神国思想の成立」の意味だったろうという。 

≪010≫  この神国思想に拍車をかけたのは、従来なら後醍醐天皇だということになっている。もちろんそういう色彩は濃いのだが、後醍醐の建武親政は蒙古襲来以来の公武の秩序を壊し、時計をふたたび百年前に戻して、諸国一宮国分寺の本家を廃止して、新たなしくみで荘園制を復活することにもあった。

≪011≫  しかし、後醍醐の親政は挫折する。そして南北朝の争乱をへて、時局はふたたび幕府の手に戻る。それは蒙古襲来によって一大勢力と化した神本仏迹のシステムが幕府の管理に移っていったことと、「神国日本」の管理が武家の手に移ったことを意味していた。その流れはこれ以降、信長から家康にいたるまで変わらぬところとなっていく。

≪01≫  篠田一士に『二十世紀の十大小説』という快著がある。いまは新潮文庫に入っている。円熟期に達した篠田が満を持して綴ったもので、過剰な自信があふれている。  十大小説とは、
 プルーストの『失われた時を求めて』、ボルヘスの『伝奇集』、カフカの『城』、芽盾の『子夜』、ドス・パソスの『USA』、フォークナーの『アブロム、アブサロム!』、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』、ジョイスの『ユリシーズ』、ムジールの『特性のない男』、そして日本から唯一“合格”した藤村の『夜明け前』である。 

≪02≫ モームの世界文学十作の選定や利休十作をおもわせるこの選び方にどういう評価をするかはともかく、篠田はここで『夜明け前』を「空前にして絶後の傑作」といった言葉を都合3回もつかって褒めそやした。日本の近代文学はこの作品によって頂点に達し、この作品を読むことが日本の近代文学の本質を知ることになる、まあだいたいはそんな意味である。 

≪03≫  ところが、篠田の筆鋒は他の9つの作品の料理のしかたの切れ味にくらべ、『夜明け前』については空転して説得力をもっていないとしかおもえない。褒めすぎて篠田の説明は何にも迫真していないのだ。 

≪04≫  どんな国のどんな文学作品をも巧妙に調理してみせてきた鬼才篠田にして、こうなのだ。『夜明け前』が大傑作であることは自身で確信し、内心言うを俟たないことなのに、そのことを彷彿とさせる批評の言葉がまにあわない。 

≪06≫  いや、のちに少しだけふれることにするが、日本人は島崎藤村を褒めるのがヘタなのだ。『破戒』も『春』も『新生』も、自我の確立だとか、社会の亀裂の彫啄だとか、そんな言葉はいろいろ並ぶものの、ろくな評価になってはいない。先に結論のようなことを言うことになるが、われわれは藤村のように「歴史の本質」に挑んだ文学をちゃんと受け止めてはこなかったのだ。そういうものをまともに読んでこなかったし、ひょっとすると日本人が「歴史の本質」と格闘できるとも思っていないのだ。  

≪05≫  これは日本文芸史上の珍しいことである。漱石や鴎外では、まずこんなことはおこらない。露伴や鏡花でも難しくはない。むろん横光利一や川端康成ではもっと容易なことである。それなのに『夜明け前』では、ままならない。もてあます。挙げ句は、藤村と距離をとる。 

≪07≫  これはまことに寂しいことであるが、われわれ日本人が藤村をしてその寂しさに追いやったともいえる。 ともかくもそれくらい『夜明け前』を論じるのは難しい。それでも、『夜明け前』こそはドス・パソスの『USA』やガルシア・マルケスの『百年の孤独』に匹敵するものでもあるはずなのである。まずは、そのことを告げておきたかった。 

≪08≫  さて、『夜明け前』はたしかに聞きしにまさる長編小説である。第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているくせに、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を、ほぼ全面的に、かつ細部にいたるまで執拗に扱った。  

≪010≫  しかし藤村がしたことは、そうではなかったのだ。『夜明け前』全編を通して、日本人のすべてに「或るおおもと」を問うたのである。その「或るおおもと」がはたして日本が必要とした「歴史の本質」だったのかどうか、そこを描いたのだ。 

≪09≫  これを大河小説といってはあたらない。日本近代の最も劇的な変動期を背景に一人の男の生活と心理を描いたと言うくらいなら、ただそれまでのこと、それなら海音寺潮五郎や司馬遼太郎だって、そういう長編歴史小説を何本も書いてきた。そこには勝海舟や坂本龍馬の“内面”も描写されてきた。 

≪011≫  それを一言でいえば、いったい「王政復古」とは何なのかということだ。いま、このことに答えられる日本人はおそらく何人もいないとおもわれるのだが、当時は、そのことをどのように議論してよいかさえ、わからなかった。 

≪012≫  藤村がこれを書いたときのことをいえば、「中央公論」に『夜明け前』の連載が始まったのが昭和4年、藤村が最晩年の56歳のときだった。つまり、いまのぼくの歳だった。 

≪013≫  昭和4年は前の年の金融恐慌につづいて満州某重大事件がおき、翌年には金輸出解禁に踏みきらざるをえなくなった年、すなわち日本がふたたび大混乱に突入していった年である。ニューヨークでは世界大恐慌が始まった。 

≪014≫  そういうときに、藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。  

≪015≫  藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。  

≪016≫  とりあえず、物語を覗いておく。 主人公は青山半蔵である。父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父にあたる。『夜明け前』は明治の青年にとっての“父の時代”の物語なのである。 

≪019≫  その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが淡々とではあるが、脈々と生きている。 

≪017≫  物語は「木曽路はすべて山の中である」という有名な冒頭に象徴されているように、木曽路の街道の僅かずつの変貌から、木の葉がそよぐように静かに始まっていく。   


≪020≫  半蔵はそういう江戸の風を学びたいと思っていた青年である。そこで、隣の中津川にいる医者の宮川寛斎に師事して平田派の国学を学ぶことにした。すでに平田篤胤は死んでいたが、この国のことを馬籠の宿から遠くに想うには、せめて国学の素養やその空気くらいは身につけたかったのである。残念ながら宣長を継承する者は馬籠の近くにはいなかった。 

≪018≫  その街道の一隅に馬籠の宿がある。馬籠は木曽十一宿のひとつ、美濃路の西側から木曽路に入ると最初の入口になる。そこに本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役などからなる百軒ばかりの村をつくる家々と、六十軒ばかりの民家と寺や神社とが淡々とではあるが、脈々と生きている。 

≪021≫  そこへ「江戸が大変だ」という知らせが入ってくる。嘉永6年のペリー来航のニュースである。さすがに馬籠にも飛脚が走り、西から江戸に向かう者たちの姿が目立ってきた。けれどもニュースは噂以上のものではなく、とんでもなく粉飾されている。 物語はこの“黒船の噂”が少しずつ正体をあらわすにつれ、すばらしい変化を見せていく。 

≪022≫  半蔵は32歳で父の跡を継いだ。すでに村民の痛ましい日々を目のあたりにし、盗木で追われる下民の姿などにふれて、ひそかな改革の志を抱いていた半蔵は「世直し」の理想をかすかながらも持ちはじめていく。 

≪023≫  だが、そんな改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。このあたりの事情について、藤村はまことにうまく描写する。安政の大獄、文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、そこで憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のままに、描写する。たとえば木曽寄せの人足730人と伊那の助郷1700人が動いて馬籠を通って江戸表に動くといった木曽路の変化をとらえ、また、会所の定使いや牛方衆の口ぶりやかれらのちょっとした右往左往を通して、その背後の巨大な変貌を描いていく。 

≪024≫  だが、そんな改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。このあたりの事情について、藤村はまことにうまく描写する。安政の大獄、文久の変、桜田門外の変などを馬籠にいる者が伝え聞く不安のままに、そこで憶測をまじえて国難を案ずる半蔵の心境のままに、描写する。たとえば木曽寄せの人足730人と伊那の助郷1700人が動いて馬籠を通って江戸表に動くといった木曽路の変化をとらえ、また、会所の定使いや牛方衆の口ぶりやかれらのちょっとした右往左往を通して、その背後の巨大な変貌を描いていく。 

≪025≫  そんなとき、京都にも江戸にも大騒動がもちあがった。皇女和宮が降嫁して、徳川将軍が幕政を奉還するという噂である。半蔵もさすがに落ち着かなくなってくる。しかも和宮は当初の東海道下りではなく、木曽路を下る模様替えとなったため、馬籠はてんやわんやの用意に追われた。 

≪026≫  村民たちは和宮の降嫁道中に沸き立った。加えて、三河や尾張あたりから聞こえてくる「ええじゃないか」の声は、半蔵のいる街道にも騒然と伝わってきた。半蔵は体中に新しい息吹がみなぎっていくのを実感する。 

≪027≫  ここから、ここからというのは第1部の「下」の第9章くらいからということだが、藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく。 

≪029≫  そして藤村はいそいで書き加えた。「その声こそ彼が聞こうとして待ち侘びていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんな風にして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居宣長が書き遺したものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒をもって任ずる長州の志士達ですら意外とするところであろうと彼には思われた」と。 

≪028≫  たとえば長州征伐、たとえば岩倉具視の動き、たとえば大西郷の噂、たとえば池田屋の事件。なかで藤村は、半蔵が真木和泉の死や水戸浪士の動きを見ている目が深くなっていくことをやや克明に描写する。これは読みごたえがある。さすがに国学の解釈にもとづく描写になっている。そして半蔵が“思いがけない声”を京都の同門の士から聞いたことを、伝える。「王政の古に復することは建武中興の昔に帰ることであってはならない。神武の創業にまで帰って行くことであらねばならない」。 

≪030≫  かくて「御一新」である。半蔵はこれこそは「草叢の中」から生じた万民の心のなせるわざだろうと感じ、王政復古の夜明けを「一切は神の心であろうでござる」と得心する。 半蔵が日々の多事に忙殺されながらも国学の真髄に学び、ひそかに思いえがいてきたこの国の姿は、やはり正しかったのだ。 

≪031≫  けれども、世の中に広まっていった「御一新」の現実はそういうものではなかった。半蔵が得心した方向とはことごとく異なった方向へ歩みはじめてしまっていた。それはたんなる西洋化に見えた。半蔵は呆然とする。ここから『夜明け前』のほんとうの思索が深まっていく。 

≪032≫  木曽福島の関所が廃止され、尾州藩が版籍奉還をした。いっさいの封建的なものは雪崩を打つように崩れていった。 

≪033≫  本陣もなくなった。大前・小前による家筋の区別もなくなった。村役人すら廃止された。享保このかた庄屋には玄米5石があてがわれていたが、それも明治5年には打ち切られた。 

≪034≫  それらの変化はまさに半蔵が改革したかったことと同じであるはずだった。しかし、どうも事態はそのようには見えない。そんなおり、父が死ぬ。 

≪035≫  いちばん半蔵がこたえたのは、村人たちが「御一新」による改革をよろこんでいないことだった。その理由が半蔵には分析しきれない。なぜ、日本が王政復古の方向に変わったのに、村が変わっていくことは受け入れられないことなのか。もしかして、古の日本の姿は、この村人たちが愛してきた暮らしや定めの中にあったのか。半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であり、藤村の友でもあった柳田国男の疑問でもあった。 

≪036≫  もっと答えにくい難問も待っていた。平田派の門人たちは「御一新」にたいした活動をしなかったばかりか、維新後の社会においてもまったく国づくりにも寄与できなかったということである。半蔵がはぐくんできた国学思想は、結局、日本の新たな改変にかかわっていないようなのだ。 

≪037≫  それでも半蔵は村民のために“新しい村”をつくろうとした。努力もした。 

≪038≫  しかし、その成果は次々にむなしいものに終わっていく。山林を村民のために使いやすいようにしようとした試みは、山林事件として責任を問われ、戸長免職にまで追いこまれた。半蔵は自信を失った。そこへもってきて、挙式を前に娘のお粂があろうことに自殺騒ぎをおこした。いよいよ日本の村における近代ならではの悲劇が始まったのである。 

≪039≫  それは青山半蔵だけにおこった悲劇ではなく、青山家の全体の悲劇を迎えるかどうかという瀬戸際の悲劇でもあった。そして、その悲劇を「家」の単位でくいとめないかぎりは、馬籠という共同体そのものが、木曽路というインフラストラクチャーそのものが瓦解する。民心は半蔵から離れていかざるをえなかった。誰も近代化の驀進に逆らうことなど不可能だった。  

≪040≫  半蔵はしだいに自分が犠牲になればそれですむのかもしれないという、最後の幻想を抱くことになる。 

≪041≫  半蔵は「一生の旅の峠」にさしかかって、すべての本拠地とおぼしい東京に行くことを決意する。そこで一から考え直し、行動をおこしてみるつもりだったのだ。43歳のときである。 

≪042≫  縁あって教部省に奉職するのだが、ところがそこでも、かつて国の教部活動に尽くしたはずの平田国学の成果はまったく無視されていた。維新直後の神祇局では、平田鉄胤をはじめ、樹下茂国、六人部雅楽(うた)、福羽美静らの平田国学者が文教にも神社行政にも貢献し、その周囲の平田延胤・権田直助・丸山作楽・矢野玄道らが明治の御政道のために尽力したばかりのはずである。 

≪043≫  それがいまやまったく反故にされている。祭政一致など、神仏分離など、ウソだったのである。半蔵はつぶやく、「これでも復古といえるのか!」。 

≪044≫  この教部省奉職において半蔵が無残にも押し付けられた価値観こそは、いよいよ『夜明け前』が全編の体重をかけて王政復古の「歴史の本質」を問うものになっていく。が、半蔵その人は、この問いに堪えられない。そしてついに、とんでもないことをする。  

≪045≫  半蔵は和歌一首を扇子にしたためて、明治大帝の行幸の列に投げ入れたのだ。悶々として詠んだ歌はこのようなものだった、「蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや」。このときの半蔵の心を藤村は次のように綴る。 

≪046≫  その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどの止むに止まれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗(おさきのり)と心得、前後を顧みるいともまなく群衆の中から進み出て、その御馬車の中に扇子を投進した。 そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままにそこにひざまずいた。 「訴人だ、訴人だ」 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互に呼びかわすものがある。その時半蔵は逸早く駆け寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争って殆ど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。 

≪047≫  結局、青山半蔵が半生をかけて築き上げた思想は、たった1分程度の、この惨めな行動に結実しただけだった。 それは難波大助から村中孝平におよぶ青年たちの行動のプロトタイプを、好むと好まざるとにかかわらず先取りしていた。「日本の歴史」を問おうとした者は、藤村が鋭く予告したように、こうして散っていっただけなのである。 

≪048≫  これですべてが終わった。木曽路に戻った半蔵は飛騨山中の水無神社の宮司として「斎の道」(いつきのみち)に鎮んでいくことを選ぶ。 

≪049≫  その4年後、やっと馬籠に戻った半蔵は、なんとか気をとりなおし、村の子弟の教育にあたろうとする。自分の息子も東京に遊学させることにする。この東京に遊学させられた息子こそ、島崎藤村その人である(このとき以来、藤村は父の世界からも、馬籠からも離れていき、そして『夜明け前』を書くにいたって接近していったのだが、おそらくはいっときも馬篭の父の悲劇を忘れなかったにちがいない)。 

≪050≫  しかし、馬籠の現実に生きている人々はこのような半蔵をまたしてもよろこばない。半蔵は酒を制限され、隠居を迫られる。そうしたある日、半蔵がついに狂うのである。明治19年の春の彼岸がすぎたころの夜、半蔵はふらふらと寺に行き、火をつけた。狂ったのだろうか。藤村はこの最も劇的な場面で、よけいな言葉を費やさない。 

≪051≫  半蔵の放火は仏教への放火だった。我慢に我慢を重ね、仏教に背こうとした放火であった。仏に反逆したのではない。神を崇拝するためでもない。神仏分離すらまっとうできなかった「御一新」の体たらくが我慢できなかったのだった。 

≪052≫  こうして半蔵は長男に縄で縛られ、息子たちや村人が用意した座敷牢に入れられる。幽閉の日々である。わずかに古歌をしたためるひとときがあったものの、そのまま半蔵は死んでいく。まだ56歳だった。すなわち、藤村がこの作品を書いた歳である。こうして物語は閉じられる。時代は「夜明け前」にすぎなかったのである。 

≪053≫  青山半蔵は島崎正樹である。むろん多少の潤色があるものの、ほぼ実像に近い。 藤村がそのような父の生涯を描くにあたって、かなり綿密に資料にあたっていたことはよく知られている。馬籠に遺る村民たちの記録や文書もそうとう正確に再現された。しかし、それだけならこれは鴎外が『阿部一族』や『渋江抽斎』を仕立てた手法とあまり変わらない。けれども藤村は父の生涯を描きながらも、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視した。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめた。 

≪054≫  なぜ、藤村はこの問題を直視する気になったのか。 藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。血のことを言っている。自分の父親が「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」と言って死んでいったのだ。これが藤村にのしかからないわけがない。 それでも『若菜集』や『千曲川のスケッチ』を書くころまでは、父が抱えた巨大な挫折を抱えるにはいたっていないはずである。父が死んだのは藤村が15歳のときで、その後もしばらくは父親がどんな人生を送ったのか、まったく知らないままだった。 

≪055≫  藤村が父の勧めで長兄に連れられ、次兄とともに9歳で上京したのは明治14年のことである。 泰明小学校に入り、三田英学校から共立学校(いまの開成中学)に移って木村熊二に学んだ。ついで明治学院に進んで、木村から洗礼をうけた。19歳、巌本善治の「女学雑誌」に翻訳などを載せ、20歳のときに植村正久の麹町一番町教会に移った。ここまではまだキリスト教にめざめた青年である。明治女学校で教鞭をとったとき、教え子の佐藤輔子と恋愛したことに自責の念を感じているのがキリスト者らしい。  

≪056≫  ただし、この時期の日本のキリスト教は内村鑑三がそうであったように、海老名弾正がそうであったように、多分に日本的な色彩の濃いもので、のちに新渡戸稲造がキリスト教と武士道を結びつけたように、どこか神道の精神性と近かった。このことは、青山半蔵が水無神社の宮司になって、それまでの日本の神仏混交にインド的なるものや密教的なるものが入りこんでいることに不満を洩らすこととも関連して、藤村自身が青年キリスト者であった体験を、その後少しずつ転換させ、父が傾倒した平田国学の無力を語っていくときの背景になっているとおもわれる。 

≪057≫  つづいて透谷の自殺に出会ってから、藤村は少しずつ変わる。キリスト者であることに小さな責任も感じはじめる。 けれどもロマンティックではあれ、まだまだ藤村は情熱に満ちている。仙台の東北学院に単身赴任し、上田敏・田山花袋・柳田国男らを知り、『若菜集』を発表、27歳のときに木村熊二の小諸義塾に赴任したときも『千曲川のスケッチ』を綴って、その抒情に自信をもっていた。 

≪058≫  それが30歳をすぎて『破戒』を構想し、それを自費出版したのちに二人の娘をつづけて失ってからは、しだいに漂泊と韜晦の二つに惹かれていったかに見える。36歳のときの『春』や、そのあとの芭蕉の遍歴に自身の心を託した『桜の実の熟する時』の岸本捨吉の日々は、そのあらわれである。 

≪059≫  こうして、藤村は自分の生きざまを通して、しだいに父親の対照的な人生や思想を考えるようになっていく。島崎正樹すなわち青山半蔵は、藤村とちがって断固として馬籠にとどまり、日本の古代の英知を透視して、そして傷ついていった人だった。青年藤村には歴史がなかったが、父には歴史との真剣な格闘があった。 

≪060≫  もともと自分を見つめることから始まった作家である藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていった。 

≪061≫  しかし、たんに歴史と文学を重ねるというだけなら、それこそ露伴や鴎外のほうが多様であったし、小説的だった。藤村が描いた歴史は、あくまで“父の時代”の歴史であり、その奥に父が抱いた王政復古の変転の歴史というものだった。 

≪062≫  このことを藤村ほど真剣に、かつ深刻に、かつ自分の血を通して考えた作家は稀有である。それは、日本の近代に「過誤」があったのではないかという苦渋をともなっている。藤村の指摘はそこにある。そして、そのことをこそ物語に塗りこめた。 

≪063≫  では、過誤ではない歴史とは何なのか。過誤を避ければ苦渋がないかといえば、そんなことはもはや日本の歴史にはおこりそうもなく、たとえば三島由紀夫の自決のようなかたちでしかあらわれないものかもしれないのだが、それでも藤村は結果的ではあるけれど、唯一、『夜明け前』をもってその過誤を問うたのだった。答えがあるわけではない。むしろ青山半蔵の挫折が答えであった。 

≪064≫  いやいや、『夜明け前』には答えがある、という見解もある。このことをいちはやく指摘したのは保田與重郎であった。 

≪065≫  いまは『戴冠詩人の御一人者』(昭和13年)に収録されている「明治の精神」には、次のような意見が述べられている。「鉄幹も子規も漱石も、何かに欠けてゐた。ただ透谷の友藤村が、一人きりで西洋に対抗しうる国民文学の完成を努めたのである」。 実はこの一文には、篠田一士も気がついていた。篠田はこの保田の一文に気をとられ、自分の評価の言葉を失ったとさえいえる。しかし、さすがに『夜明け前』を国民文学の最高傑作だというふうには言うべきではないだろう。そこは徳富蘇峰とはちがっている。 

≪066≫   国民文学ではないとして、もうひとつ保田の意見のやりすぎがある。それは藤村が西洋に対抗したわけではないということだ。 ぼくが見るに、藤村にはラファエロ前派もあるし、ギリシア文学もある。藤村がフランスに行ったとき、リモージュで思いに耽るのは、そうしたヨーロッパの浄化の力というものだった。ただ、藤村は晩年になるにしたがって、それらのヨーロッパを日本の古代的なるものや神道的なるものと直結させるようになっていった。突拍子もないことではない。白井晟一などもそうやった。 

≪067≫  そういうわけだから、『夜明け前』を国民文学とか西洋との対決とはいえないのだが、それでもこの作品は日本の近代文学史上の唯一の実験を果たした作品だったのである。われわれは半蔵の挫折を通して、日本の意味を知る。もう一度くりかえてしておくが、その“実験”とは、いまなお日本人が避けつづけている明治維新の意味を問うというものだった。 



≪068≫  どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。 

≪069≫  ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。 

身長160センチに満たなかった縄文人。顔は上下に小さく、受け口だった。
弓矢をもち、イヌを飼い、狩猟と採取と栽培に挑み、数々の土器を作って、精霊と交換していた。
縄文文化は一様ではない。原始的でもないし、たんにアニミスティックなのでもない。
そこには縄文人独自の「物語」があった。そこにすでに「聖呪」があったのである。
この原日本のルーツ。はたしてどう見ればいいのか。小林達雄ふうに見ればいいのだ。 

≪01≫  そのころぼくは、年に一度の“M's Party”(のちに玄月會)というものを催していたのだが、小林さんや土取さんや桃山さんはそのパーティでも多くの参会者と交じり、ときには朝まで残ってスタッフらと親しく交わってくれたりもしていた。パーカッションの異能者である土取さんが「縄文土器は楽器である」と確信できたのも、そのころだったと憶う。 縄文というと、このように、ぼくにはまず土取さんと桃山さんの生き方が思い出されるのである。二人が小柄だったことにもまつわっているのかもしれない。縄文人は男が157センチ、女は149センチほどだった。

≪02≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s1283-01-g02.jpg 

≪03≫  どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。 

≪04≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。 

≪05≫  ただ縄文文化というもの、あまりにスケールが大きく、あまりに詳細で、かつあまりに多くの仮説が飛び交っていたので、われわれはすべからく達ちゃんファンでありながらも、その全体観を掴みかねていた。それが、小学館の大著『縄文土器の研究』と朝日選書の『縄文人の世界』によって、やっと小林縄文観に埋没できるようになった。そのあとは『縄文人の文化力』『縄文人追跡』などをへて、昨年の『縄文の思考』(ちくま新書)に至ると、もはや小林縄文観こそがゆるぎない定説になったことを感じたものだ。 

≪06≫  どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。 

≪07≫  たとえば土偶について、佐原真はヒトの形であると見ているのだが、小林さんは土偶はもっと抽象的で、あえてヒトの形になることを避けているんじゃないかと言うのだ(これは鋭い)。そうすると佐原さんが「顔を作ったのだっていくらもあるじゃないか」と切り返す。しかし、小林さんは「でも最初はない。中期の初頭までない。山形の西ノ浦遺跡の大きな土偶でもわざと顔をなくしている。顔が出てくるのはそのあとからだ」と反論する。 佐原さんもも引かない(二人とも意地っぱりである)。「幼児や子供はヒトをまず顔から描くように、縄文人もそうしたはずだ」と言うのだが(つまり稚拙にすぎないと言うのだが)、小林さんは「それなのに縄文人はあえて顔を避けている。だからこそここには何かの意味がある」と言い、「それって何?」と迫る佐原真に、「あれはヒトではなくて、精霊なんですよ」と言ってのけるのだ。  

≪08≫  これはどうみても、達ちゃんの勝ちである。佐原真は「だったら神なんだね」と意地悪く念を押すのだが、そこには不満そうに「うーん、神でもいいけれど‥」と先輩をたてつつも、さらにミミズク土偶・山形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶の当部はたとえ顔に見えたとしても、たえず人の顔から離れようとしている造作になっていることを強調するのである。 ぼくはこういう小林縄文論が好きなのだ。たんなるアニミズム論にも片付けないし、たんなる文化人類学にもしていない。 

≪09≫  約15000年前、地球は長い氷河期の眠りからさめて、しだいに温暖期に向かっていった。日本列島も12000年前には今日とほぼ近い気温環境に落ち着いた。人類は遊動的な旧石器時代から定住的な新石器時代にゆるやかに入っていくことになる。 このとき日本列島では同時に縄文人の定住が始まっていた。縄文生活は世界史的な新石器時代と並列していたのである。“同格”なのである。したがって人類が遊動的な旧石器時代をへて最初に突入したのは、世界各地の定住的な新石器文化と、そして日本列島における定住的な縄文生活だった。 

≪010≫  ただし、各地の新石器文化の多くが農耕を開始していたのにくらべ、日本の縄文文化は栽培力をもってはいたが、いわゆる農耕をしなかった(縄文期から農耕があったという研究者もいるのだが、小林さんはあくまでその説には抵抗している)。そのかわり土器と漆と弓矢とイヌと丸木舟を駆使した。そこに特色がある。縄文人は弥生人のような農耕複合体をめざしてはいない。多種多様な資源をできるかぎりまんべんなく活用して、生活の安定をはかっていた。それを小林さんは「縄文姿勢方針」という。 

≪011≫  この生活方針を束ねていたのは「物語」である。縄文コミュニケーションのすべてを支えた物語だった。それゆえ、一般には縄文土器が装飾的で、弥生土器は機能的幾何学的などと評されることが多いのだが、小林さんに言わせると、必ずしもそうではない。 むしろ縄文土器は物語的で、弥生土器こそ装飾的なのである。なぜなら、縄文土器は土器であることそのものが物語的であるからだ。これに対して弥生土器はまさに実用の上に装飾を表面的にくっつけている。そのため、縄文土器から文様を剥がそうとすれば、土器そのものを毀すしかなかったのである。 縄文生活と縄文土器と縄文文様と縄文物語はひとつながりなのだ。以上が小林縄文論の当初からの出発点である。まことに明快だ。 

≪012≫  もちろんのこと、土器の発明は日本列島だけのことではない。東アジア、西アジア、アメリカ大陸にもこの順でおこっている。しかしながら、なかで日本列島の土器製作は最も早くから始まっていて、しかも貯蔵用ではなく、もっぱら煮炊き用として広まっていった。せいぜい8000年前にしかさかのぼれない西アジアの土器は、貯蔵用の深鉢か盛付け用の浅鉢なのである。 

≪013≫  初期の縄文土器が煮炊き用であったのは、ドングリや貝類などを食用にするためであった。煮炊き用だから、そのころの縄文コンロの形とあいまって丸底や尖った底でよかった。土に突っ込んでおけた。ごく初期の縄文土器に平底がないのはそのせいだが、それでもすぐに縄文人は方形平底にも挑戦した。ここには土器以前に先行していた編籠や樹皮籠の形態模写があったと思われる。 

≪014≫  これでもわかるように、縄文土器の出現というもの、実に独特なのである。日本のその後の歴史から見て独特なだけではなく、世界に先駆けて独特であり、かつ他の地域との共通性を断っている。旧石器・新石器という世界史的な流れだけでは説明がつかないことが少なくない。これはなんとしてでも「日本という方法」の起源になりうるところなのだ。 

≪015≫  しかし、そのような縄文研究は、さきごろになって手痛い挫折に遭遇することになった。2000年11月5日のこと、各新聞が大事件を報道した。東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一が石器を捏造していたことが発覚したのだ。当初の報道では捏造は2件だったが、その後の調査で疑惑は深まり、藤村のかかわった186カ所の遺跡に捏造の可能性があるということになってしまったのだ。 

≪016≫  というわけで、牛歩の小林さんの縄文構想が縄文研究者たちにやっと舞い降りつつあった2000年前後に(研究成果を画した『縄文人の世界』は1996年発行)、日本考古学界は未曾有のターニングポイントを抱えたのである。が、だからこそ、ここからは縄文研究再生の大きな基礎が問われることになる。実証主義だけではかえって怪しいのだ。ぼくはそこにこそ小林達雄の縄文世界観にもとづいた物語編集力が必要なのだと思っている。 

≪017≫  ふつう縄文土器は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期といふうに区分する。貝塚は早期にあらわれ、縄文海進は10000年前くらいの早期のおわりにおこり、このころには漆の使用が始まっている(図表参照)。 6000年前の前期には円筒形の土器文化が登場し、前期のおわりには大規模集落が出現した(三内丸山遺跡など)。中期に入ると関東・中部に環状集落が発達していった。クリの栽培が始まるのはこの中期の5400年前あたりだ。当時はおよそ26万人くらいが列島に定住していたと算定されている(小山修三の推計)。 

≪018≫  こうして4000年前の後期になると、土偶などの祭祀具があらわれ、環状列石(ストーンサークル)が各地に出現する。水場でトチのアク抜きなどもおこなわれるようになった。かくて約3000年前、亀ケ岡文化が花開いて、越後の一角に火焔土器が躍りだし、そして消えていくと、縄文時代は晩期に入っていくのである。 

≪019≫  考古学的にはこのようになっているのだが、では、世界観としてはどうなのか。そこで小林さんはこれらの変化と遷移を縄文人の世界観から見て柔らかく区分けした。縄文人の観念の発動によって分けたのだ。草創期を「イメージの時代」に、早期を「主体性の時代」に、前期を「発展の時代」、中期・後期・晩期をまとめて「応用の時代」に。  

≪020≫  ごくかんたんにいうと、「イメージの時代」というのは、編籠などを模しながら土器の可能性をさぐっていた時期で、文様も先行していた編籠などからの援用が目立つ。次の「主体性の時代」の大きな特色は、いったん挑戦した方形平底を捨てたことにある。大半が不安定な円形丸底になる。これは土器の製作能力からみると退行現象のように見えるのだが、小林さんはここに先行容器からの脱却という主体性の確立があったとみなしたのだ(日本にはこういうことは歴史的にしばしばおこっている。たとえば鉄砲を捨てたり、活版印刷をしなくなったり)。 

≪021≫  それゆえ、撚糸文などの文様が低調なのは、装飾ではなく土器製作の自立に必要な粘土を堅くしめるためだったという説が出ているのだが、むしろここにはのちの「物語文様」につながる“未発の意味”が萌芽していたと見たほうがいい。それは押型文や貝殻沈線文でも同様なのである。小林さんは、そう、見たのだ。  

≪022≫  「発展の時代」では、煮炊き用だった縄文土器にいよいよ盛付け用や貯蔵用が登場し、用途が一挙に多様化していった。文様にもさまざまなモチーフが登場し、文様帯とともに区画があらわれる。こうした特色は以前から指摘されてはいたのだが、小林さんはそういう分類だけではどうしても満足できなかった。これらは相互に何かを物語るためであったろうと見たのだ。 

≪023≫  かくて中期以降、「応用の時代」が開花する。注口土器、壷、釣手土器などとともに甕棺や埋甕炉もあらわれ、後期には香炉形土器や異形台付土器が加わって、さらに異様な火焔土器や土偶が次々に出現したわけだ。まさに爛熟である。爛熟ではあるのだが、それはそれぞれの土地にもとづき、それぞれの集落の人々の観念と物語にもとづき、それぞれの時期にディペンドされた爛熟だったのである。 

≪024≫  小林さんが「物語」にこだわったのは、小林縄文論が縄文コスモロジーの構想にもとづいているからだった。 そもそも縄文のモチーフは、「発展の時代」に文様を描く施文の方法や順序によって規格性をもちはじめ、その規格性が縄文土器の形態を固有なものにしていったのだが、小林さんはその定着した文様モチーフにはそれなりの「名」がついていただろうと想定した。つまり文様の各所に「意味」が発生しはじめたのだ。そうなると、その「意味」たちのアソシエーションがさらに文様の形態を指図していくというふうになっていく。 

≪025≫  ここに特別の加工と加飾が「意図」をもってきた。S字文、剣先文、トンボめがね文などは、対称性よりも非対称性やデフォルメをめざし、いわば「観念の代弁力」をもっていったのである。縄文ゲシュタルトが動きはじめたと言っていいだろう。それは縄文人が「観念」の動向に関心をもち、その動向を「文様による物語」として記憶し、再生しはじめていたことを暗示する。 

≪026≫  このように小林さんが縄文世界観の内に「物語」を発見したのは、もともとは後期の土器がモチーフの繰り返しに拘泥していないことに気が付いてからだった。器面を区画するにあたっても、その区画内を同一モチーフで埋めなくなっている。もっと驚くべきは、器面を一周することによって初めて構図の全貌が成立するようにもなっていることだった。 

≪027≫  ぼくはかつて小林さんが勝坂式土器を手にしながら、その波状文の6つの山が一つの視野では見えなくなっていて、土器をまわすことによって初めてその意図があらわれてくるように作られているんですよと説明されたとき、アッと声をあげたものだった。そのとき小林さんは、「きっとここには物語だけではなく、それを歌ったり語ったりするためのメロディもひそんでいたんでしょうね」と言っていた。  

≪028≫  その後、小林さんはこのような物語土器には、各地にそれぞれの「流儀」があること、その流儀のちがいこそが「クニ」の単位であったのではないかということも展望していった。 岡本太郎(215夜)が縄文力に感嘆し、そこに日本の原エネルギーの炎上を見抜いたことは、いまでは縄文学者にとっても語り草になっている。奔放な想像力にめぐまれた岡本太郎ならではの直観的洞察だった。 しかし、その後の日本人の多くはその縄文的原エネルギーを“漠然とした塊の力”のように受け取っていて、そこに何が発端し、何が終焉していったかということはほったらかしにしてきた。あえていえば直観ばかりが強調されすぎた。 

≪029≫  たとえば火焔土器である。この異様な土器を日本人の大半が自慢をするのだが、この土器は縄文時代全体に及んでいるのではないし、日本列島の全域に発現したものでもない。全期を通して縄文土器の文様様式には、いまでは約70ほどの異同が確認されているのだが、なかで火焔土器はほぼひとつの「クニ」だけがある時期に生み出し、そして消えていったものだったのである。 このクニは小林さんが生まれ育った越後新潟を中心に、西南は越中富山を、東北には出羽山形を控えた範囲にまだかるクニである。信濃川沿いにみるとその領域は信濃の脊梁山脈までであるが、阿賀野川沿いには意外にも会津盆地までもが入っていた。このクニにのみ、火焔土器と三十稻場式土器が苛烈に燃え立ったのだった。 

≪030≫  すでに中期、信濃川や阿賀野川の河岸段丘には中央広場をとりまくようにして竪穴住居を擁するいくつものムラがあった。このとき、一つの文様様式が壁にぶちあたっていた。諸磯式土器が十三菩提式をもって文様の細密化に行きづまり、なんらかの打開に向かう必要に迫られていたのだ。既存の観念力の衰退であろうか。それとも戦争で敗北したのだろうか(小林さんは縄文時代には戦争もあったことを仮説している)。 そこで越後縄文人は、さまざまな隣接のクニの様式を参考に、また遠方から運ばれてきた土器なども参考に、新たな土器創造に乗り出した。わかりやくくいうのなら大木式・阿玉台式・勝坂式などを“編集”して、新たなクニの物語とシンボルを形成することになった。おそらくはリーダーの交替もあったのだろう。 

≪031≫  こうして中期から後期にかけて、あの強烈な火焔土器の原形が出現するのだが、そこではまず、新保式や新崎式が重用していた縄目文様を器面から追い出してしまうということをやっている。縄目に代わって隆線を偏重した。それとともに「突起」を燃え上がらせた。突起は4つに定まった。会津の火焔土器には3つの突起の土器があるのだが、それとも異なっていた。かつ、「鶏冠型」と「王冠型」の2種類を併用させた。 

≪032≫  小林さんは、この2種類の突起は決して装飾過剰から生まれたものではないと見た。これらは越後縄文人の観念の独自性を物語るための、比類のない「記号」なのである。むろんそれがどんな物語記号や観念記号であるかは解明されていないのだが、ともかくもそのように見ないかぎりはこのクニの特別な事情は解けないと見たのだ。 しかしとはいえ、縄文のクニの独自性は土器のみでは決まらない。住居や言語や技法とも結びついている。とくにこの「火焔土器のクニ」では翡翠(ヒスイ)との関係が大きかったはずだった。 

≪033≫  縄文人の生活は「炉」と切り離せない。ところが、この「炉」がクセモノなのだ。なぜならこの炉は意外なことに、暖房用でも調理用でもなかったからだ。調理は戸外でしていたのである。 遺跡をこまかく調べると、暖房用でも調理用でもないのに炉の火は、しかしたえず燃やし続けられた痕跡がある。そうだとすると、ここには実用だけではない「意味」があったことになる。何かの「観念」か「力」かが去来していたのであろう。そうとしか考えられない。ということは、すでにこれらの炉をもつ「イエ」そのものがなんらかの観念の住処であり、また祭祀の場でもあったはずである。 

≪034≫  実際にも中期の中部山岳地帯の縄文住居の奥壁には、石で囲った特別な区画が設けられ、中央に長い石を立てている例もある。それも採石したばかりの山どりの石である。埋甕も入口近くの床面に埋められていた。ときには底を抜いたりもしてある。かつて金関丈夫(795夜)は胞衣壷か乳幼児の甕棺だったのではないかと推理した。木下忠もそういう推理をたてている。 ぼくが最も驚いたのは、こうした住居にはほとんど何も置いていなかったということだ。土器の小破片が稀に見つかる程度で、縄文人はあれほどの土器類をイエの中には持ち込んでいないらしいのだ。ウツなのである。ウツロであって、かつウツツなのである。ただし煮炊き用の土器にかぎっては、ときに床面にジカ置きしていたようだ。 

≪035≫  多孔縁土器が2個1組で床面から発見された例もある(長野野々尻遺跡・岐阜糠塚遺跡)。素焼きの縄文土器は破損しやすいのに、完形品でそういうものが床面で保存されていたのは、よほど丁重な扱いを受けていたのであろう。 こうなると、「イエ」は「聖なる空間」で、そこに持ち込まれた少数の土器は聖器だったということになってくる。小林さんは、それらを「第二の道具」と総称した。 

≪036≫  実は「火焔土器のクニ」では翡翠が採れた。日本における翡翠の原産地は新潟県糸魚川の山中に局限される。翡翠はそれまで身体装飾品につかわれていた滑石などと異なって、歯が立たないほど堅い。入手も困難だし、加工も難しい。それにもかかわらず糸魚川の翡翠は「火焔土器のクニ」のシンボルとして特産され、そして全国に流通した。火焔土器が流通しなかったにもかかわらず。 いったい、なぜこのようなことがおこっているのだろうか。まことに興味深いことばかりだ。 

≪037≫  しかし、残念ながらそれらの謎はほとんど解けてはいない。小林縄文観にして、推理がつかないところは、まだまだヤマのように残っている。縄文学はこれからが本格的な本番なのだ。 ぼくが思うには、このような謎を解くには、もはやマルセル・モースやレヴィ・ストロース(317夜)の推論をあてはめているのではまにあわないだろうということだ。日本人が原日本の解明のために、独自な理論を仮説するべきなのである。そしてそのうえで、新たな歌を物語るべきなのだ。 

≪038≫  小林達雄の縄文論はそのための「花伝書」であり、「梁塵秘抄」なのである。大きな出発点がここにあることはまちがいない。ただ、この「能」を、この「歌」を、誰かがもっともっと実感すべきなのである。たとえば土取利行さんのように、たとえば桃山晴衣さんのように。そういえば晴衣さん、昔、そんな話をしたことがありましたねえ。いささか懐かしい日々のことではあるけれど――。 

 日本という国家が気になるなら、議論の仕方をおぼえなさい。
 国家に縛られたくないのなら、「日本という方法」を学びなさい。
 どちらも嫌なら、えらそうな話をしなさんな。
 勝手に給料もらってるか、フリーターしているか、家族と一緒にロハスしてなさい。
 今夜は、あえて「国家の条件」をめぐって、正面切りたい者のための一書からのご案内。 

日本という国家が気になるなら、議論の仕方をおぼえなさい。
 国家に縛られたくないのなら、「日本という方法」を学びなさい。
 どちらも嫌なら、えらそうな話をしなさんな。
 勝手に給料もらってるか、フリーターしているか、家族と一緒にロハスしてなさい。
 今夜は、あえて「国家の条件」をめぐって、正面切りたい者のための一書からのご案内。 

≪02≫  藤原正彦の『国家の品格』(新潮新書)が売れて、そのあとそれが横にすべって坂東真理子の『女性の品格』(PHP新書)になったけれど、北京オリンピックの女子ソフトボールが金メダルで、星野ジャパンが韓国にもアメリカにも完敗し、なでしこジャパンが4位で、反町ジャパンは全敗しているのを見ていると、これは現在日本というもの、むしろ斎藤茂太(803夜)の「女は鼻息、男は溜息」なんである。 

≪03≫  それはともかくとして藤原の本についてだが、これは「欧米の論理と日本とは合わない」「英語で日本は語れない」「祖国愛をもつといい」「武士道を復活したい」「美意識は戦争を超える」といったことを平坦に書いていて(語っていて?)それが愛国の心情の発露の本として受けたらしい。心情は心情でそれで結構だが、「国家」についての説明は、誤解を招きやすい安易な説明ばかりに終始していて、何が国家の品格かがわからないだけでなく、何をもって国を愛する精神としているのかさえ説明できていなかった。とくに日本文化の説明は表面を撫でてすらいない。 

≪04≫  著者は数学者で、新田次郎の子息。ぼくはこの人の数学エッセイを3冊ほど読んでいるけれど、そっちはそれなりにおもしろかった。だから、この本も武士の惻隠の情とでもいうものを発揮したかったのだろうと思ってあげたいのだが、そのわりには武士道についての解説がひどかった。新渡戸稲造(605夜)の真意になんら接近していないし、近世の武士道(実際には士道とか武芸論)にも及んでいない。山本常朝の『葉隠』(823夜)など、ちゃんと読みなさい。 

≪07≫  が、今夜は今夜、ずいぶん前に読んだ鷲田小彌太の『日本とはどういう国か』をあえてとりあげて、これを下敷きにした国家日本の議論案内を試みることにした。視点はできるだけぶれないようにするが、以下は議論の仕方の案内であって、議論を深めるつもりも、議論をふっかけるつもりでもない。では、適当なところから話を始めよう。 

≪08≫  その前に、本書をとりあげたもうひとつの理由について一言。この本は五月書房の橋本有司君の編集で、橋本君はぼくを網野善彦(87夜)さんと出会わせてくれた恩人でもあり、かつぼくの『山水思想』(いまはちくま学芸文庫)の熱心な担当編集者でもあった。しかし、この2冊を最後にガンで亡くなってしまった。だから哀悼を兼ねたいのでもある。 

≪05≫  とはいえ、いまどき日本という国家を論ずることは、オリンピックについてすらすこぶる厄介なことになっていて、読者の多くがこの手の本を読みたくなることには、バカバカしいほど同情したくもなる。が、こういう本を読んで「日本がわかった」などとは決して思わないほうがいい。 

≪06≫  ぼくはふだんは、日本という国家を議論しはしない。国家という主題を論(あげつら)わない。ぼくの関心はあくまで「日本という方法」にある。 世界史上の国家の相互関係についてならば、大いに議論する。かつて70年代の終わりに「遊」誌上にその名もずばりの『国家論インデックス』というものを発表したことがあるのだが、そのときは世界のさまざまなステートを歴史をまたいで25ステートに及ばせてとりあげ、しかも「生命の国家」や「情報の国家」や「無名の国家」などを相互にダイナミックに動かした。国家を論ずるのに、日本だけを議論したいとは思わなかったのだ。それがぼくのラディカル・スタンスだ。今夜は言挙げしないけれど、「日本という方法」は日本という国境には決して縛られないのである。 

≪09≫  国家とは何か、とくに日本という国家はどういうものなのかという問題は、一筋縄の議論では語り尽くせない。 たとえば、一国の首相の靖国参拝は国家の意志なのか。北朝鮮を経済封鎖しないのは国益なのか。憲法改正や女帝の設定は国家の国事行為なのか。株主主権と新自由主義のために日本という国家も必要な制度をつくらなければならないのか。今日の政治家が、こういう問題を日本という国家の問題としてちゃんと説明できるのかといえば、おそらくお手上げだろう。 

≪010≫  政治家だけでなく、知識人の多くもマスメディアも「国家」を主語とした議論は避けている。政治家は「是々非々」といい、知識人は「枠組」を取り出し、マスメディアは「失態」と「結果」ばかりを窺う。『国家の品格』もそうだが、「国家の正義」や「国家の信条」などを持ち出すのは、いまどきそうとうにおかしな議論のやりかただと、日本では思われている(中国はあいかわらず「国家としての中国」だが)。 

≪011≫  とくに日本の来し方行く末を睨んで国家を議論することには、多くの者にひどい躊躇揺動がある。できればみんな「市民」とか「この国」とか「県民」とか「われわれ」「私たち」とか、そうでないばあいはなるべく「地球」とか「環境」とかと言っていたいのだ。 

≪012≫  が、本書の著者はそういう多くが躊らう問題にやや野蛮なほどにとりくんだ。「国家とは何か」「日本とは何か」という二つの壁に同時登攀を挑んだ。ただし、きっと一気に書いたのだろう。そのためか展開はかなりラフで、いくつもの曲折もあるのでいちがいに批評しにくいのだが、とりあえず日本が国家でありつづけるための条件、また日本が国家でありそうでそうなりえない事情をあげることには、けっこう徹していた。 

≪013≫  もっとも、この本は小泉時代前半の執筆だったので、情況認識が当時のものに影響されている。そこは差し引きしておいたほうがいい。また、本書の見方は「歴史教科書を考える会」の連中とも微妙に共鳴しているので、そのあたりは納得しがたいところも少なくない。そのことをアタマに入れておいてもらったうえで、今夜は著者の議論の仕方に沿いながら、ぼくの見方も多少は交えつつ、議論の視点を整理して並べてみる。 

≪014≫ ① 国家とは歴史的な存在である。 歴史から切り離された国家はありえない。日本は敗戦したが、国家は存続した。ドイツも敗戦したが、連合国に無条件降伏したのではない。敗戦にともなう政府交渉は許されず、征服されて国家は崩壊した。したがって、戦前のナチス・ドイツと戦後に東西分裂したドイツとは、国家としての連続性はない。 

≪015≫  日本ではその連続性がいまだ問題として残されたままになっている。そのことをアジア諸国に指摘されると(その後はアメリカの下院からも言い出された)、目くじらをたてて怒る連中が少なくないのだが、もし分断したいなら「戦後憲法による日本」と「大日本帝国憲法による日本」とを完全無欠に切り離すしかない。この二つの間にポツダム宣言受諾と東京裁判という、ドイツとは異なる事情が介在したからだ(東京裁判については1150夜参照)。戦前と戦後の分断は容易ではないのだ。 

≪016≫  それなのに日本人は万世一系はともかくも、明治以来の200年ほどの日本というナショナル・ステートあるいはネーション・ステート(国民国家)の継続を、国民的に感じすぎている。もしどうしてもそうしたいのならその歴史観のままに戦前・前後をつなぐ見方を新たに確立しなければならないのだが、それがまったくうまく繋がらないままになっている。そうならばむしろ、その前の徳川社会や北条社会や藤原社会と繋げてみたほうがいいのだ。 

≪017≫ ② 国家は国民である。国民は共通言語を話す国土にいる。 日本語と日本の関係はきわめて国家的で、かつ国民的である。『世界と日本のまちがい』(春秋社)にも少し語っておいたことだが、たとえばイギリスは11世紀にフランスのノルマンディ王に抗戦して征服され、宮廷も共通言語もいったんフランス化された。300年後、百年戦争を勝ち抜いて、14世紀にやっと英語を取り戻した。けれども11世紀以前の英語と14世紀以降の英語には断絶と相違が生じた。イギリスには“二つの英語”があるわけだ。  

≪018≫  これは日本に古文と現代文があることでも理解できるだろうが、しかし日本にも、この二つのあいだには極端な断絶があり、イギリスのようには共存していない。もしもつなげたいなら、リービ英雄(408夜)よろしく古語(よく大和語とか倭語といわれる)を現代生活にもっと採りこんでいくしかない。そこは白川静(987夜)さんが、つねに「日本の漢字は国字である」とあえて強調してきたところなのである。 

≪019≫  またイギリスには、これも『世界と日本のまちがい』に書いておいたことだけれど、ヘンリー8世以降はイギリス国教会というローマ・カトリックとも、むろんプロテスタンティズムとも異なる宗教がずっと大きな下敷きになってきた。それが揺らいできたのは1960年代からで、それを心配したのが、かつて紹介したジョン・ヘリックの『神は多くの名前をもつ』(1227夜)だったのである。 こうして日本という国家を論じるには、まずもって日本語あるいは国語を議論できなければならないということになる。 

≪020≫ ③ 国家とは国家権力のことである。 日本国家と日本社会は異なっている。これをごっちゃにしてはいけない。国家は社会そのものではないし、社会を超越することもある。国民に財産の一部を拠出させる納税の義務を負わせ、他国の侵略に備えるために兵役の義務を負わせるとき、国家は社会の上に立つ。 

≪021≫  このように国家が「権力」(パワー)をもつのは、軍事力・経済力・教育力を保持しているためである。この権力には、必ずいくつもの「権威」(オーソリティ)と、国民の「義務」がつきまとう。一般的なネーション・ステートの場合は、権力は軍事力・警察力・司法力に象徴され、義務は「納税の義務」「兵役の義務」に代表される。このことは国家があきらかに社会より超越したものだということをあらわしている

≪022≫  そもそも権力はいくつかの国家装置によって支えられている。直接的な国家装置は軍隊・警察・刑務所などの「暴力」にかかわっている。間接的な装置は立法府(議会)、行政府(内閣)、司法府(検察庁・裁判所)、地方行政体が管理する。これに、最近はやたらに問題になっているさまざまな特殊法人がくっついている。 もうひとつある。国家装置は公立学校とつながっている。義務教育も国家装置だし、国立大学も国家装置になっている。これは国家がいまでもイデオロギー構造に深くかかわっていることを示す。とくに義務教育をコントロールして、教科書検定に文部科学省が100パーセント介入しているのは、日本の教育が国家装置であることを証左する。それを、かつての教育勅語の時代にくらべてずっと民主的になっているではないかなどとは、思うべきじゃない。 

≪023≫ ④ 国家は国益をめざしている。 トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』(944夜)以来、国家にとっての最大の国益は国民の生命と財産を守ることである。これがなければ他の国益は何の意味もない。つまり戦後憲法ふうにいえば基本的人権を保証すること、これが国益の大前提になる。そのうえでさまざまなことが国益に適うかどうかを判断していく。 

≪024≫  国益とはそういうものだ。地球温暖化を防止するための京都議定書にアメリカが批准を拒否しているのは、アメリカの国益(国内産業のトータルな利益)にそぐわないからであり、イランが核保有を撤回しないのもイランの国益にそぐわないからなのだ。 

≪025≫  いま、日本は国益を見失っているのか、国益の何を守っているのか、わからなくなっている。証券化されたサブプライムには手を出し、国内の家畜飼料の高騰には手をこまねいた。そうなってしまっている理由には、ひとつはグローバル・キャピタリズムと新自由主義に政府の方針が埋没したということがある。これについても『世界と日本のまちがい』に説明したことなので、ここでは省くが、このことをどのように議論したらいいかということは、まだほとんど確立されていない。反グローバリズムでもナショナリズムでも国益についての勝ち目はないだろう。 

≪026≫ ⑤ 国家は自立する。自存する。その自立自存のための道義をもっている。 道義とはモラル・プリシプルのことをいう。日米開戦は敗北必死だった。アメリカは日本を戦争に引きこむことを国益とした。イギリスも同意した。日本はこの包囲網の前で戦争回避も努力した。が、ハル・ノートの前後、開戦に踏み切った。包囲網の前で屈服して戦争を回避することは不可能ではなかったが、戦争を選択した。 

≪027≫  これが道義である。その道義によって日本は無謀な戦争に突入してしまった。真珠湾を急襲した山本五十六は日本がアメリカと戦っても勝ち目がないことを知っていたが、最終的には道義を選択した。 

≪028≫  戦争をするかどうかという場合であれ、国家においてはこうした道義が動くときもあると覚悟していなければならない。いかに惨敗しようと、星野ジャパンにもこの道義はあった。これは福沢諭吉(412夜)が西郷隆盛(1167夜)を例に持ち出した大義名分がどこにあったかという問題であって、はっきりいえば「痩我慢」をするかどうかなのである。が、そうやって通した道義が何をもたらすかといえば、戦争に勝利しようと敗北しようと、自立自存の心を残すだけである。それを星野仙一は「みんなオレの責任だ」と言い、福沢諭吉は「一身立って、一国立つ」と言った。それでよければ、国家は道義を立てるべきである。 

≪029≫ ⑥ 国家は道義でもあるが、意志ももつ。国家意志は目的をもつ。目的のない意志は無意志だ。 アメリカが朝鮮戦争の勃発にそなえて日本に再軍備を迫ったとき、吉田茂は憲法9条とソ連の介入を盾にとって、これに強硬に反対した。結果は自衛隊(最初は警察予備隊)の設置となったものの、この吉田ドクトリンの発動によって、アメリカは日本の軍事力を予想以上に肩代わりせざるをえなかった。  

≪030≫  わかりやすくいうのなら、これが軍事費の負担を軽減させ、日本を国内の安定と高度成長に導いた。このことはひとつの国家意志の発動であるとみなせる。一方、石橋湛山(629夜)は早くから「小国主義」を唱えて、病気のため実際の首相時代は短かったが、日本は拡張主義を戒めた方針をもつべきだと考えた。ところがそれは「一国主義」でもあって、実際には国際関係の緊張から逃れられなくなってしまった。が、これもまた国家意志のあらわれのひとつなのである。 

≪031≫  国家意志には自己判断と自己決定と、そして自己責任がともなう。かつての東欧諸国はどんな決定にもクレムリンり承諾を得なければならなかった。そこには国家意志はない。いま日本は自衛隊のインド洋派遣についても、北朝鮮に経済封鎖をしつづけるかどうかについても、牛肉の輸入の仕方についても、あいかわらずアメリカの承諾をもらおうとしている。これは日本に国家意志が欠如していることを物語る。もっとも、日本は対米従属であるというのがいまや一部の連中の国家意志になっているというなら、何をか言わんや。 

≪032≫ ⑦ 国家の意志の発動や目的の遂行には責任がともなう。この責任をはたすには「力」がいる。 国家における最大の責任は国民の生存を守るという国益を保持することであるが、そのためには地震の被害を早急に回復させ、外国の脅威から自国を防衛する責任をはたさなければならない。だから軍事力も必要になる。   

≪033≫  日本は戦後憲法で「交戦力としての軍事力」を放棄したが、国を守る軍事力を放棄したわけではない。しかも国防力においては、現在の日本は軍事大国である。しかし、それは日本の単一軍事力で成立しているのではない。10をこえるアメリカの軍事基地との組み合わせによって、キマイラのごとくに成立しているにすぎない。しかもアメリカの駐留軍は、沖縄問題やその地での暴行事件で顕著なように、ほとんど日本政府や地方自治体の意志には決して従わない。アメリカが日本に基地を置いているのは、日本の国防のためではなく世界戦略上の軍事上の必要性のためであるからだ。 

≪034≫  他方、国家の責任は、国家が国民に何を強いるかということと裏腹になる。すなわち国民にどのような義務を生じさせるかということが、国家の責任になる。日本は兵役義務を国民に強いていないが、納税の義務は強いている。ここに日本が日米安保同盟を破棄できない理由と、その結果、経済大国をめざすしかなくなった理由があった。 

≪035≫ ⑧ 国家は国際関係である。 かつてはインターナショナリズムが、いまはグローバリズムが流行している。インターナショナリズムはソ連によって指導されたコミンテルンが提案実行し、これにわずかにウィルソンの提案の国際連盟が別案を出した。 

≪036≫  インターナショナルなシステムは、ナショナルな単位をインターさせるわけであって、その単位は一国ずつの国家にある。一方、グローバリズムは一国ずつから発しないシステムのことで、それゆえ自由市場による金融資本主義が最も典型的なグローバリズムだということになる。しかし、今日のグローバリズムはいまなおグローバル・ワンによるグローバリズムで、本来の、たとえばバックスミンスター・フラー(354夜)が提唱したような、宇宙船地球号的なグローバリズムなどではない。二酸化炭素の排出量を取引の材料にするためのグローバリズムなのである。 

≪037≫  それゆえ今日のグローバリズムは、どこかの国家がグローバル・ワンであることを標榜し、それが各国に国家の壁をこえて波及していくことをいう。アントニオ・ネグリ(1029夜)らはそれを「帝国」と名付けているが、この帝国は20世紀のアメリカ型グローバル・ワンの帝国で、かつての帝国ではない。 

≪038≫  まだいろいろ規定しうるけれど、とりあえずざっとあげた。むろん、このような国家の条件は単立しているわけではない。当然、組み合わさっている。したがって、国益の決定にもさまざまな問題が複合的に絡む。けれどもその前に、やはり国家とは何かということを問いつめておく意識がないかぎり、その組み合わせはちっともおこらない。 そこで、以上の条件をもう少し詳しく見ることにする。すべてを俎上にあげられないが、いくつかをとりあげたい。 たとえば、②の国民と日本語の関係だが、これは国家と国民と国語という問題とみなせる。3つははたして完全に重なっているのかというと、そうはなりえない。そこが議論の難しいところなのだ。 

≪039≫  国語については、第1080夜にイ・ヨンスクの『「国語」という問題』を、第955夜に柄谷行人の『日本精神分析』を、さらに第992夜の『本居宣長』でも多少のことを論じておいたので、ここでは本書の著者があげている視点だけを検討するが、このばあい、日本語が中国語や朝鮮語などの近隣諸国の国語とまったく異なる特色をもっていることが大前提になる。それを国語学では孤立語ともいうのだが、言語学では日本語は膠着語とみなされている。 

≪040≫  そのほかいろいろの特色はあるが、結論をいえば日本の言語は変遷してきたと見たほうがいい。少なくとも「国語」は明治中期以降に確立したもので、それ以前は国語ではなく、また国民生活上のフォーマットでもなかったといったほうがいい。そのことを早くに議論したのが契沖から富士谷成章をへて宣長におよんだ国学的国語論とでもいうべきものだったが、これは明治近代ではほとんど無視された。 

≪041≫  ということは日本の「国語」は近代国家とともにできたということで、これは認めたほうがいい。さきほど引いた例でいえば、イギリスの国語だって14世紀以降の英語が国語なのである。それ以前は、日本もそうなのだが、地域言語の複合体だったのだ。 ところが近代国語はこれらを統合する。ルールもつくる。1963年にマレーシアが国語をつくったときは、マレー語のしくみの上に英語の語彙を直訳して移植した。日本語のばあいはヘボン式でローマ字対応させ、その発音で国語を取り決めていった。当用漢字や仮名遣いも近代国語ゆえに決まったことである。 

≪042≫  が、しかし、こういうふうに国語が確立したことと、それが日本にふさわしいかどうかということは、別問題なのである。ウォルフレンは日本の「システム」が曖昧だということを問題にしたが(1131夜)、それはシステムの問題ではなく、国語の問題でもあったのである。だから日本語が曖昧だからといって、また逆に単純だからといって、それで日本語や日本人の思考がおかしいということにはならない。今日の国語で源氏や西行や近松は読めないし、説明できないからといって、それで日本語がおかしいということにはならないわけなのだ。 

≪043≫  近代国家や現代国家が規定している国語は、そういう日本語本来の特色とは別のものなのである。もし国民の歴史というものが百年単位で続いているとするなら(むろんそうであるが)、日本人と日本語の本来と、国民と国語のフォーマットとは、必ずしも重ならないのだ。それでいいのである。日本語は変遷しているし、実は国民意識だって変遷している。そういうことを無視して、国民や国語を論じてもダメである。ということは、それをちゃんとやらないで日本という国家を論じても何も方針は出てこないということになる。 

≪044≫  次に、④の国益についてだが、日本の国益については、しばしば議論されるのが鎖国であろう。これまで何度も鎖国は是か非か、新たな鎖国はありうるのか、部分的鎖国は可能なのかといった議論がされてきた。 なぜそんなふうに鎖国が気になるかといえば、日本の歴史のなかで鎖国ほど国益を確保したものとみなせるものがなかったからだった。しかし、日本人の多くは徳川幕府が選択した「国策としての鎖国」の意味をあまり考えない。 

≪045≫  1038夜の『秀吉の野望と誤算』のときにも、『日本という方法』(NHKブックス)にも書いたように、そもそも鎖国対策は、秀吉がまきちらした戦後処理から出たものである。秀吉は“日明戦争”をおこそうとして朝鮮半島に攻めのぼったのだが、連戦連勝のあげく海戦で敗退した。これは道義から出た戦争ではない。1590年に関東の豊饒が滅んで信長が天下一統をはたすと、国内戦争がなくなった。これで万々歳かというと、そうはいかない。正規軍だけでも100万人といわれる膨大な戦闘要員が残った。いわば戦争エネルギーである。秀吉はこれを海外に向けたのである。ルソン討伐も計画した。それが秀吉のシナリオだった。むろん無謀な侵略戦争であった。 

≪046≫  家康はこの秀吉がまきちらした戦後処理に徹した。軍備を縮小し、あれほど開発され、技術も磨いてきた鉄砲隊を解消し、「武家諸法度」によって武力縮退を実現した。交易はオランダと組んで有効な作戦を展開し、あとはアウタルキー(自給自足)に徹した。これが徳川日本における「国益としての鎖国」なのである。家康は戦費の封印もはたしたわけである。 これに対して、1990年の湾岸戦争で日本は110億ドルにのぼる戦費を支出した。戦闘員の出兵の代わりに支払ったのだが、これが国益にならなかったことは、いまや自明になっている。 

≪047≫  ⑦の国家の責任という問題も厄介だ。戦後社会にとって、日本が問われた最大の責任は「戦争責任」だった。日本は戦争責任をとっただろうか。 日本は開戦をして、敗北した。国際法では、勝っていれば国家の責任は問われない。勝利国に問われることがあるとすれば、戦争中の相手国での犯罪であるが、その責任は国家はとらない、その犯罪行為をおこした個人や機関の責任当事者がとる。 

≪048≫  これに対して敗戦国は責任を国家が負う。賠償金の支払いもそのひとつである。しかし、そのときは国家の最高責任者も敗戦の責任を負う。大日本帝国憲法では天皇が最高責任者である。それなら天皇が戦争責任を負う。天皇は責任をとっただろうか。とらなかった。とろうとしたかもしれないが、とれなかったというべきかもしれない。天皇は黙して語らなかったということにおいて責任をはたしたという見方もあるが、実際には、戦勝国が天皇の責任を免除したのである。  

≪049≫  天皇の戦争責任を免除したのはGHQのもとに開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)である。ここで別の被告たちが決定された。その被告を裁くことによって、連合国側は国際法によって日本の国家としての戦争責任を断罪することにした。その被告に天皇は入らなかった。天皇だけでなく戦時内閣の首相や大臣で入らなかった者も多くいた。そして被告が裁かれた。これがいわゆるA級戦犯である。戦争犯罪者である。 1150夜の『東京裁判』にも書いたように、ここまでが事実経過だった。しかし、この事実経過の結論の解釈をめぐって、日本のその後の国家の責任や国益や道義がたえずゆらぐことになった。たとえば靖国参拝問題である。 

≪050≫  靖国神社にはA級戦犯が合祀されている。それを一国の首相が参拝するのは、戦争責任をごまかすものだと非難されるわけである。戦争責任とは侵略戦争をしたということだから、靖国参拝は侵略戦争を認めようとするのかということになる。一国の首相は、戦没者を慰霊しているだけだと言う。これではまったく議論は噛み合わない。 

≪051≫  いや、噛み合っていないのは議論ではなく、東京裁判で日本という国家が受けとめた結果についての問題なのてある。そうだとすると、東京裁判で日本は国家として何を問われ、何の責任をはたしたのかということを理解しておかなくてはいけない。 

≪052≫  東京裁判以前、国際法は戦争遂行のプロセスで生じる戦時法規から逸脱した行為を戦争責任と規定していた。ところが東京裁判では「平和に対する犯罪」と「人道に対する犯罪」が加わった。これはポツダム宣言後に加わった法規だった。これはきわめて異例のことである。戦争犯罪のみならずどんな犯罪の責任も、あらかじめ規定された法規以外でこれを裁くことはできないはずなのだが、ところが東京裁判ではその慣例が破られた。パル判事がそのことを指摘して裁判の無効を訴えたことは有名だが、すでに採決は下されたのだ。日本はいまだこの異例の中にいるままなのである。 

≪053≫  もうひとつだけ、ふれておく。⑧の「国家は国際関係」だが、これはいまやインターナショナリズムに代わってグローバリズムの問題ということになっている。 グローバリズムとは、グローバル・キャピタリズムのことである。なぜこんなものを日本がまるごと受容することになってしまったのかというと、1970年代に日本は高度成長を終えて、低成長時代に入った。それまでの日本は「下請け制・終身雇用制・年功序列・親方日の丸主義」の4本柱で“日本的経営”を拡張し、工夫して、やっとこさっとこ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とよばれる日本的経済構造をつくりあげていた。ところが、これが「二重構造」だと批判されていった。現代資本主義と前近代的な家内制ふう産業構造が溶接されていて、こんなものはやがて日本の発展を阻害するだろうというのだ。 

≪054≫  日本はいまでも中小企業や零細企業が支えている。それがかつては大企業に組みこまれて機能していた。それを中小企業は大企業に従属しているとか搾取されてるとかと見ることもできるのだが、実際にはそれでうまく機能していた。そこで日本的経営だっていいじゃないかと思われてもいたのだが、それが破棄されてしまったのだ。けれどもここに注意しなければならないことがある。 

≪055≫  この日本的経営による日本的資本主義は、そもそもは戦時中の「戦時経済」(国家総力戦体制)が産み落としたものだった。1940年に発足した第2次近衛内閣が「新経済政策」を掲げ、株主の権利を制限するために商法を改正し、所有と経営を分離した。 実は「下請け・終身雇用・年功序列・親方日の丸」の4本柱は、この商法のもとにこそ発展してきたものだった。これがいわゆる「日本株式会社」の実態なのである。一言でいえば「民有国営」の国家社会主義に近い。これを下敷きに1960年に池田内閣が「国民所得倍増計画」に踏み切った。立案者は下村治だった。実質GDPを2・7倍に、工業生産を3・8倍に、輸出を2・6倍にしようというものだ。これは「戦時経済」の延長なのである。日本は戦時型で高度成長をやってのけたのだ(いまの中国と同じである)。  

≪056≫  しかしながら、この日本株式会社の成就は軍事面をアメリカが肩代わりするという日米安保同盟が片方にあって成立するものでもあった。そのアメリカが日米株式会社のやりかたに文句をつければ、たちまち変更を迫られるものでもあった。 

≪057≫  アメリカは世界経済を支配するためには、アメリカによるドルを中軸においたグローバル・スタンダードを押し付ける。これを日本は受容した。ジャパン・バッシングがおこったのは、そのときだった。日本のバブル景気はあえなく潰え、「失われた10年」が始まった。そこへ日米構造協議がくまなく作用して、いつのまにか日本はグローバル・キャピタリズムの一翼として会計監査をうけるコンプライアンスの奴隷になっていったのである。  

≪058≫  本書を素材に議論したいことはまだまだあるが、北京オリンピックの聖火が消えた名残りの話としては、このくらいにしておく。本書そのものはもっと多くの論点をラフに提供しているのだが、ただ、それらを総合すると、なんだか「強い矛」と「強い盾」とが組み合わさっているようで、よくわからないところもあるので、あとは読者の判断にまかせたい。   

≪059≫  たとえば著者は本書でどんな日本国家を提案しているかというと、日米同盟を維持し、「脱亜入米」をまっとうし(アジアとは組むなというのである)、そのうえで憲法第9条を破棄しなさい。自衛隊を国軍に編成しなさい。つまり「平和はタダじゃない」というのだが、これでは国軍の確立だけが新規の提案で、あとは大半が現状維持なのだ。日本を洗濯したということにはならないだろう。 

≪060≫  ちなみに星野ジャパンは“国軍”ではあったが、それで負けたのである。日本が国の勝負に出るにはまだ早すぎるということだろう。そうでなければ上野由岐子のように、手のマメを潰しても剛球を投げつづける主戦級が国家の先頭を走るしかない。 

≪061≫  本書を素材に議論したいことはまだまだあるが、北京オリンピックの聖火が消えた名残りの話としては、このくらいにしておく。本書そのものはもっと多くの論点をラフに提供しているのだが、ただ、それらを総合すると、なんだか「強い矛」と「強い盾」とが組み合わさっているようで、よくわからないところもあるので、あとは読者の判断にまかせたい。 

≪062≫  たとえば著者は本書でどんな日本国家を提案しているかというと、日米同盟を維持し、「脱亜入米」をまっとうし(アジアとは組むなというのである)、そのうえで憲法第9条を破棄しなさい。自衛隊を国軍に編成しなさい。つまり「平和はタダじゃない」というのだが、これでは国軍の確立だけが新規の提案で、あとは大半が現状維持なのだ。日本を洗濯したということにはならないだろう。 

≪063≫  ちなみに星野ジャパンは“国軍”ではあったが、それで負けたのである。日本が国の勝負に出るにはまだ早すぎるということだろう。そうでなければ上野由岐子のように、手のマメを潰しても剛球を投げつづける主戦級が国家の先頭を走るしかない。 

≪01≫  最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の研究』などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解で、論旨も不均衡な一書でもあるのだが、あえてそうした。 

≪02≫  本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。 

≪03≫ 

 このとき幕府は藤原惺窩や林羅山らを擁して儒教儒学を政治思想に採り入れようとしたのだが、要約していえば中国思想あるいは中国との“3つの交差”をなんとかして乗り切る必要があった。慕夏主義、水土論、中朝論、だ。いずれも正当性(レジティマシー)とは何かということをめぐっている。 

≪04≫  慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。 

≪05≫  ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。  

≪06≫  なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。 

≪07≫  この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。 

≪08≫  しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたということを前提にしている。そこに”筋”がある。 

≪09≫  けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこして将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。 

≪010≫  どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。 

≪011≫  これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。 

≪012≫  こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。 

≪013≫  一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。 蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要しているバカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと言ったのだ。 これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。 

≪014≫  ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。 

≪015≫  もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象となる「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てくるようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。 

≪016≫  これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。 

≪017≫  中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。 もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これなら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということになる。 

≪018≫  これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということになれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。 

≪019≫  それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。 

≪020≫  これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。 

≪021≫  けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみようとすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのだ。  

≪022≫  それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。 

≪023≫  しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。 

≪024≫  もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。 

≪025≫  以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。 これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。   

≪026≫  当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。 

≪027≫  幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。 山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。 

≪028≫  いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。 しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。 

≪029≫  日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、第409夜の高取正男の『神道の成立』や第777夜の黒田俊雄の『王法と仏法』にも述べておいたように、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。 

≪030≫  しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。 

≪031≫  ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。 

≪032≫  天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。 

≪033≫  考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るかもしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。 

≪034≫  幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。 闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や第741夜に紹介した野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。 

≪035≫  闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にしていながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったのだ。 

≪036≫  闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。 

≪037≫  闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。  

≪038≫  内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。 が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。 

≪039≫  山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ)のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。 

≪040≫  いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティマシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。 

≪041≫  では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。 

≪042≫  で、ここからが重要な“転換”になっていく。 絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。 

≪043≫  これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。 が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。   

≪044≫  むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないところは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。 

≪045≫  この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰した。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝帝室から亡命した日本乞師・朱舜水(第460夜参照)の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。  

≪046≫  しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。 もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。 

≪047≫  安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。 

≪048≫  この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底して、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。  

≪049≫  しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。 

≪050≫  話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、このあたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。 

≪051≫  天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。 

≪052≫  こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。 

≪053≫  「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。 

≪054≫  徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。 

≪055≫  このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。 

≪056≫  山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。 

≪057≫  が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。 

平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。

日本の歴史ももちろんそうだった。

ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。

中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、その俘囚を王民として取り込んだのである。

それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。

そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、「国の有事」を仕切ることになった。

天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが全国を統率する大権をもつようになったのか。

ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が有事の名のもとに見え隠れする。 

≪01≫ 平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。 日本の歴史ももちろんそうだった。 ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。 中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、その俘囚を王民として取り込んだのである。 それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。 そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、「国の有事」を仕切ることになった。 天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが全国を統率する大権をもつようになったのか。 ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が有事の名のもとに見え隠れする。 

≪02≫  世界は、平時を有事が破り、有事が平時に組み込まれていくことによって多様な歴史をつくってきた。 平時が「常」で「ふだん」、有事が「非常」で「まさか」。平時が柔らかい「日常」だとすれば、有事が激しい「異常」であった。 

≪03≫  東日本大震災は25000人近い死者・行方不明者を呑みこみ、津波の及ぶところすべての住宅・仕事場・公共施設をことごとく打ち砕いた。船は数千艚が瓦解あるいは陸に乗り上げて、いつもは陸をわがもの顔に自在気ままに動きまわっていた自動車たちは、数万台が木の葉のごとく揉みしだかれ、あっというまに使い物にならなくなった。生活と仕事が根こそぎ奪われたのだ。 

≪04≫  そこへもってきてレベル7の福島原発事故がいまだ止まらない。1号機のメルトダウンは早々におこっていたようだし、これでは2号機・3号機・4号機だって、このあとどんな“想定外”の事態が勃発してもおかしくない。 

≪05≫  自衛隊が出動し、大半は無言の隊員たちではあるけれど、終始、不屈で劇的な活躍をした。被災者と放射線汚染圏の住民は避難施設に移動した。こちらも無言に近い。この無言は「無念」に裏付けられている。作物は乱され、牛馬は飼糧に見放され、福島の風評被害は日本中どころか、世界をかけめぐった。 

≪06≫  まさに国家危急の有事。国難である。 しかし、こうした事態のすべては、福島原発事故を含めて「北の有事」に発したものだった。普天間基地問題の「南の有事」では腑抜けになった日本政府も、この「北の有事」には驚天動地した。 

≪07≫  古来、有事とみなされてきたのは、戦争・自然災害・疫病流行・飢饉・財政危機・革命・クーデターなどだった。けれども有事は、それだけじゃない。ほかにもさまざまにあり、さまざまに歴史を動かしてきた。 

≪08≫  気候の変異、株価の暴落、通貨の変動、流民の移動、民衆の暴動のいずれもが有事だし、火事・殺人・政変・テロ・企業スキャンダル・鳥インフルエンザも、それぞれ有事なのである。そもそも世の中のニュースというニュースが「有事さがし」しかやってはこなかった。そのニュースが気になるようなら、文明というものは有事をおこしたがっていく方向にばかり、歴史をつくってきたとしかいいえない。 

≪09≫  それでも何をもって有事とみなすかは、時代や民族によって、地域や習慣によって、社会情勢や経済水準によって、さらには技術リスクの判断基準や為政者の資質によって、おおいに変化する。たとえばレイチェル・カーソン(593夜)が『沈黙の春』で一羽の鳥の変事を書いたときは、誰もその背景にとてつもない環境有事があるとは思っていなかった。 

≪010≫  一方、有事はいつまでも有事にとどまらないともいうべきである。世間を驚愕させ、危機に陥れた有事は、やがて平時の中に組み込まれ、過去を現在に縫い直していったのだし、ノアの洪水やポンペイがそうであり、原爆ドームやベルリンの壁がそうであったように、平時と有事はさまざまなかたちで歴史共存するようになってきた。 

≪011≫  個人の日々の中にも平時と有事がある。 誰がいつ、どこで交通事故や火事に出会うかわからないし、いつなんどき家族や恋人に変事がおきてもおかしくはない。「まさか」の偶然事は有事の兆候で、「たまたま」は有事の予告なのである。  

≪012≫  だからといって、個人の有事がいつもは個人的であるとも、生活的であるとも、かぎらない。個人はしばしば、気候や環境や社会や国家の有事と無縁ではいられない。地震も公害も口蹄疫も、戦争も自爆テロも、首切りも会社の危機も失業も、個人の有事はすぐさま公共の有事にも、隣接の有事にもなっていく。 

≪013≫  漱石(583夜)はそれらのことをはやくも見越していて、『私の個人主義』(岩波文庫など)に、大意、次のように書いたものだった。「日本はそれほど安泰ではない。貧乏である上に、国が小さい。従っていつどんな事が起こってくるかもしれない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです」。 

≪014≫  漱石がそうしてきたように、国の行方を案じて、自身の脳天に有事の鶴嘴を打ちこむということは、必ずしも少ないことではなかったのである。大伴家持は「北の有事」のなかで個人の平時を狂わされていった古代人であるけれど、それでも「すめらぎ(天皇)の御代さかえむと東(あづま)なる みちのく山に金(くがね)花咲く」と詠まざるをえなかった。 

≪019≫  征夷大将軍は「征夷する大いなる将軍」という意味で、なんとも奇怪な名称であるにもかかわらず、建久3年(1192)の頼朝着任から慶応3年(1867)の慶喜の大政奉還にいたる約800年にわたって、日本の国政の中心を担うことになった。 

≪020≫  日本には倭国時代から天皇がいた。「治天の君」として院政を仕切る法皇もいた。関白も摂政もいた。執権や天下人も太閤もいた。けれども、鎌倉殿このかたは日本社会の実質システムの中心に、本来は有事と臨時のリーダーである将軍こそが君臨しつづけてきたわけである。将軍が「日本国王」であり、「デファクト・スタンダードの主権者」であったのは、紛れもない事実だったのだ。 

≪021≫  そもそも将軍という官位は「有事の大君」だった。「有事の大権」を発動できるプレジデントだった。そのことを如実にあらわしているのが征夷大将軍という格別な名称なのである。 それが何がきっかけで「征夷する大いなる将軍」が国の大政の中心を担うのかといえば、「北の有事」が「国の有事」とみなされたからなのだ。 

≪022≫  本書はその「北の有事」が「国の有事」になっていった理由を、征夷大将軍の変遷を通じてさまざまな角度と背景から解読した最初の本だった。東北史研究の最もラディカルな研究者であった高橋富雄さんならではの、しばしば唸らせるような独自の分析がいろいろ詰まっていた。 

≪023≫  高橋さんの学問的な業績については文末を見ていただくとして、ここでは省くけれど、その研究姿勢は一貫して凄かった。東北を背負い、蝦夷(エミシ)を愛し、奥州藤原氏や平泉文化を解明しつづけた。ぼくが30代半ばに『辺境』(教育社新書)でガツーンときたことは『蝦夷』(1413夜)のところでも書いておいた。 が、その高橋さんでも言及できなかったことは、いろいろあった。 

≪024≫  そこで以下では、本書のほかの高橋富雄著作とともに、高橋崇(1413夜)の『蝦夷の末裔』(中公新書)や『坂上田村麻呂』(吉川弘文館)を、新野直吉の『古代東北の覇者』(中公新書)を、また、工藤雅樹の『古代蝦夷の英雄時代』(新日本出版社・平凡社ライブラリー)や『平泉藤原氏』(無明舎出版)、たいへんよくまとまっている「戦争の日本シリーズ」の鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』や関幸彦の『東北の争乱と奥州合戦』(吉川弘文館)を、さらには安田元久の『源義家』(吉川弘文館)や大石直正・入間田宣夫ほかの『中世奥羽の世界』(東京大学出版会)などを参照しながら、「北の有事」と征夷大将軍の関係を概略的に案内する。 

≪025≫  征夷の「夷」は夷狄(いてき)すなわち外国の敵ということである。古代日本は中華思想を輸入して、この名称を外敵にあてがった。 しかし本来の海外の外敵の対処にはもっぱら太宰府があてられていて、それとはべつの“国内の外敵”にのみ征夷将軍や大将軍の名がつかわれた。陸奥の蝦夷にのみ征夷の対象が向けられたのだ。 

≪026≫  ということは、つまりは「北の有事」に備える軍事総司令官が征夷大将軍だったのである。 ただし、この官職は頼朝から始まったことではない。最初の征夷大将軍に任命されたのは大伴弟麻呂で、これが延暦12年(793)のことだった。『日本紀略』に「征東使を改めて征夷使となす」と説明されている。征東使や征東将軍を改めて征夷使とし、その長官に征夷将軍を、さらにそのトップに征夷大将軍が設けられたわけだった。 

≪027≫  二代目が坂上田村麻呂である。大伴弟麻呂が征夷大将軍になったときの征夷副使近衛少将だった田村麻呂が、4年後の延暦16年に征夷大将軍に抜擢された。その田村麻呂が新たに胆沢(いさわ)城を築き、ここに多賀城から鎮守府を移して、勇猛果敢なアテルイ・モタイらの蝦夷(エミシ)の反乱を平定したことは、前々夜(1413夜)にも書いた。 

≪028≫  というわけで、征夷大将軍の初登場は平安初期のことだったのである。そしてそれは、「征東使を改めて征夷使となす」と説明されていたように、その前の時代の征東使のころの役割の強力なヴァージョンアップだったのだ。 

≪029≫  征東使とは何かといえば、これは征夷使ともいわれ、蝦夷征討のために臨時に派遣された者をいう。その長官が征東将軍とか征夷将軍とかとよばれた。  

≪030≫  この名でわかるように、あくまで臨時の軍事リーダーだった。最初の征夷将軍は和銅2年(709)に任命された佐伯石湯にまでさかのぼる。 

≪031≫  つまりは蝦夷討伐のための臨時長官が征夷将軍であり、プレ征夷大将軍だったのである。では、蝦夷を討ったのは臨時の軍事リーダーやその一団ばかりだったかというと、そうではなかった。そこにはいくつかの前史があった。そのへんのこと、本書にもいろいろ説明がなされているが、鈴木拓也の『蝦夷と東北戦争』にさらに詳しい。 

≪032≫  そもそも日本の古代国家は、律令制にもとづいて「国・軍・里(郷)・保」という国内行政機構をもっていた。その行政機構にあわせて全国に公戸皆兵制を敷くことにより、その基盤を成立させていた。 すべての「戸」から兵士一人を徴兵して、これをもって軍制・軍団・軍令を形成し、発令するのが原則だったのである。これを日本歴史学では軍団兵士制という。 

≪033≫  『令義解』などでみると、この軍団の編制は兵1万・5千・3千を単位にして、1万軍には将軍1・副将軍2・軍監2・軍曹4・録事4をおき、その上に大将軍が立つようになっていた。3軍もろともの編制であれば、大将軍の下に将軍3・副将軍4・軍監4・軍曹10・録事8がついた。  

≪034≫  将軍や大将軍は非常大権をもち、大毅(たいき)以下が軍令に従わなかったり軍務に怠慢であったりすれば、死罪以下の刑に処してよいとされた。大毅は千人の兵を率いるのだから、将軍・大将軍は文字通りの生殺与奪の大権を行使できたのである。 

≪035≫  もっとも将軍・大将軍に非常の大権があるからといって、将軍・大将軍がその地の平時の軍政に当たるわけではない。それをするのは鎮守府の鎮守将軍で、平時の管轄をするのは国府であった。平時の軍政は鎮守府の将軍・軍監・軍曹が担当した。だから将軍の官位は国司に準じ、軍監は掾(じょう)に準じ、軍曹は目(もく=さかん)に準じた。 

≪036≫  これで古代律令下の軍団兵士制はうまくいくはずだった。 けれども、どうしても徴兵がゆきわたらない。数が揃わない。そのため、何度かのルール変更がなされていった。最初は陸奥・出羽・壱岐・対馬などの辺要諸国以外の全地域に健児(こんでい)をおいて、30人から100人程度の郡司の子弟を中心にした精鋭を選抜によって補完するようにした。これはいわゆる「健児制」だ。 

≪037≫  が、それでは不十分だった。そこで導入されたのが「編戸(へんこ)制」あるいは「柵戸(きのへ)制」だった。戸主のもとに造籍を通じて「戸」をふやすことにした。造籍とは水増しだ。とはいえ水増しにも限界がある。10年たっても各地に新しい子がふえてはこない。成長してこない。これでは軍事力強化にならない。 

≪038≫  かくて踏み切られたのが「俘囚(ふしゅう)制」だった。 ヤマト朝廷の宇内の領域に入らない者たちを、まずはネゴシエーターが征圧し(この先蹤が阿部比羅夫だったろう)、それでも言うことをきかないなら軍事的に征圧し、そのうちの服属を誓った者たちを俘囚として取り込み、これを編戸や柵戸にまわすというものだ。 

≪039≫  王化されていない土地の民を取り込んで、これを煽(おだ)てて“王民の兵士”に仕立てていくというやりかただった。 ここにおいて、いよいよ蝦夷の地と蝦夷の民こそが俘囚編戸の大きな対象になったのである。そのぶん陸奥東北一帯は「化外(けがい)「境外」「外蕃(げばん)」などと呼ばれ、そこは「まつろわぬ民」がいる“外国”とみなされた。 

≪040≫  その内域と外域を分け隔てるためにつくられたのが「柵」(城柵)である。王民化した俘囚が「和(にぎ)蝦夷」などとよばれ、それでも抵抗をつづける蝦夷たちが「荒(あら)蝦夷」とやや懼れられてよばれたことについては、1413夜でも説明した。 古代国家はヤマト朝廷の支配にまつろわぬ者たちを制圧し、この「俘囚の民」をもって軍事組織の底辺にあて、とりわけ陸奥・出羽の蝦夷を服属させた「俘囚の民」が駆り出したのである。「和(にぎ)蝦夷」がさかんに公戸皆兵制に次々に組み込まれていったのである。 

≪041≫  こうして陸奥の地に国府とはべつの鎮守府がおかれるようになり、そこに将軍・副将軍以下の兵団が設置されていくようになった。 

≪042≫  天平宝字年間には、鎮守府の官員に国司なみの給与がわたされたとあるから、そうとうに優遇されたはずである。ちなみに大伴家持は最晩年に陸奥に赴任してそこで死んでいったのだが、それは鎮守将軍に任命されたため、その役割をはたすためだった。藤原氏による大伴一族追い落としの計略だったにちがいない。 

≪043≫  按察使(あぜち)という制度もあった。特別に按察使が設定されて、出羽国を含めた陸奥全体の管理を兼ねた広域行政指導府の面倒をみた。これはさしずめ3・11以降の岩手・宮城・福島3県の上に、“東北日本臨時統括府”といった上部ボード機能が置かれるようなものだろう。坂上田村麻呂のあとをうけて東北経営を任せられた藤原緒嗣は、そういう陸奥出羽の按察使だった。 

≪044≫  ついでにいえば鎮守府の和名は、本居宣長(992夜)の『歴朝詔詞解』によれば「えみしのまもりのつかさ」と読まれたらしい。鎮守府とはいえ、そこには北の蝦夷を統括するという意志がはたらいていたことを物語る。 

≪045≫  これらが平時の蝦夷管理システムだった。 ところが、これに対して緊急有事のシステムがさらに用意されていったのである。それこそが征東使や征夷使という臨時のリーダーで、その統括長官が征夷大将軍なのである。 

≪046≫  征東使や征夷使は、国の非常事態に処するための有事のリーダーだった。日本の国事というものは朝廷が体現していたから、征東使や征夷使はその出征にあたっては朝廷のシンボルである天皇から節刀(せっとう)が親授された。節刀があるということは、天皇の大権が臨時委任されたことを意味した。 

≪047≫  そういう役割の征東使や征夷使の呼び名には、古代においては二つのジグザグとした前史があった。 ひとつは、和銅2年には征蝦夷将軍、養老4年には持節征夷将軍、養老5年には征夷将軍、神亀1年には征夷持節将軍の名が冠せられたという前史で、もうひとつは、和銅2年に陸奥鎮東将軍が、宝亀11年のには征東大使が、宝亀12年に持節征東大使が、延暦3年に持節征東将軍が、そして延暦7年には征東大将軍という官職が発令されたという前史だ。 

≪048≫  実は征夷大将軍とは、これら二つの前史の名称の“統合”なのである。そして、征東使や征夷使がいよいよ征夷大将軍になったとき、「北の有事」は「日本の有事」にすっかり吸収されることになったわけである。 高橋富雄は「ここで東北経営の歴史が切り替わった」と書いている。 

≪049≫  以上をまとめると、平時の軍政のトップに仮の将軍としての按察使なるものがいて、その下に陸奥守としての将軍と、副将軍格の鎮守将軍がいたということになる。位階も按察使が正五位上(のちに従四位下)、陸奥守が従五位上で、鎮守将軍は従五位下だった。 

≪050≫  だいたいは、そういうことだ。そしてこれが全面的に有事の臨時システムに切り替わったとき、征東使や征夷使を強化した有事のトップリーダーとしての征夷大将軍の出征が発令されたのである。 

≪051≫  しかしながら意外にも、この古代的な征夷大将軍の歴史は短いものにおわった。早くも延暦23年(804)、坂上田村麻呂は2度目の征夷大将軍に任命されながら、その征夷計画の実施は中止されたのだ。 

≪052≫  桓武天皇晩年に重大な御前会議が招集され、エミシ征討か平安教造営かの論議がされたうえで、「都の造営」が採択されたのだ。「北の有事」が「都の造営」に吸収されたのだ。いってみれば、東北大震災や福島原発問題より、東京オリンピック開催予算や東京電力の組織充実のほうが採択されたようなものだったろう。 

≪053≫  この中止された征夷計画は、それでも6年後の弘仁2年に文屋綿麻呂によって実行に移されている。綿麻呂は“陸奥の中の陸奥”ともいうべき、閉伊(へいい)と弍薩体(にさたい)に向かった。ここは岩手東部山岳地帯と青森南東部で、綿麻呂の軍は奥入瀬川を渡るところまで進軍した。 

≪054≫  ただ、このときの綿麻呂は征夷大将軍ではなく、征夷将軍だった。実際にも、その後の元慶2年(878)に秋田城下で「俘囚の大乱」があって、出羽国最大の有事となったにもかかわらず、朝廷は従5位上右中弁の藤原保則を正5位下に叙し、出羽権守に任じて鎮定にあたらせたにすぎなかった。平安王朝の征夷政策は、律令国家の支配領域をほぼ北上盆地にまで拡大したところで、一応のピリオドを打ったのだ。 

≪055≫  というようなことで、古代律令制下の征夷大将軍の役割は、ここでいったん途切れたわけである。高橋富雄は、このときに「古代征夷大将軍の役割が中断された」と見たわけだ。 

≪056≫  古代律令型の征夷大将軍が田村麻呂と綿麻呂の出征をもって中断されたのは、東北38年戦争がようやく収まったと判断されたからだった。  

≪057≫  ところが、ところがだ、それから80年ほどすると、源頼朝が征夷大将軍をまったく新たな制度にして蘇えらせたのだ。その前には木曾義仲がその官職を名のった。征夷大将軍が“復活”したのだ。 

≪058≫  なぜ、こういうことがおこったのか。 いろいろ理由が考えられるけれど、一番に見るべきことは、そこにふたたび「北の有事」が認められたということである。そこには安倍一族や清原一族の動向が、奥州藤原4代の動向がおこっていて、それを源氏の棟梁が収拾することになったからだった。 

≪059≫  古代律令制がくずれ、平安朝の“規制緩和”がすすむと、各地の支配は地方官の受領(ずりょう)に委ねられるようになり、9世紀を通して中央集権力が衰えるとともに受領の国内支配における裁量権が拡大していった。受領というのは任国に赴いた国司の長官で、多くは「守」(かみ)、あるいは「介」(すけ)の名をもった。 

≪060≫  これらは宇多・醍醐朝の「延喜・天暦の改革」によって大いに進行し、それにもとづいて、①中央財政の構造改革、②土地制度の改革(荘園整理令)、③富豪層と王臣家の指摘結合の分断、④受領による国衙機構の改編などに向かっていったのだが、それが一方では各地に群盗の出没や在地領主や任官たちの武装反乱を促進してしまった。 

≪061≫  朝廷はすぐさま令外官(りょうげのかん)として押領使などを派遣したものの、そんなことでは事態はいっこうに収まらない。もはや中央からの鎮圧では無理だったのである。平安期の貴族社会では考えられない武力勢力が台頭していたからだ。 

≪062≫  なかでも平将門や藤原純友などの猛者によって朝廷に対する謀反が勃発し、これが大乱の兆しをもたらすと(承平・天慶の乱)、この不穏を平定する力としては、“武力に対しては武力を”ということで、東国や西国からのしてきた「兵」(つわもの)の軍団にその解決を頼むしかなくなっていた。 

≪063≫  平将門は下総で決起し、常陸の国府を襲撃したのち上野・下野の国府も占領して新政権の樹立を狙った。藤原純友は伊予の日振島を根拠に瀬戸内海の海賊を率いて、伊予の国府や太宰府を襲った。どちらも、とうてい中央でも受領でも抑えられない力になっていた。 

≪064≫  ここに登場してくるのが、新たな勢力のイニシエーターとなった平高望(高望王)、藤原利仁、藤原秀郷(俵藤太)たちだった。なかで藤原秀郷(ひでさと)はのちのちの「奥州藤原四代」につながっていく。 

≪065≫  この承平・天慶の乱(935~941)のあと、頼朝が征夷大将軍を“復活”させるまでに、実は時代社会を変更させる“何か”がおこっていったのだ。  

≪066≫  まずは列島各地で多田源氏(源満仲)、伊勢平氏(平維衡)、武蔵七党(横山党・児玉党)などの武士団が、次々にあらわれた。 ついで武蔵の押領使だった平忠常が房総半島一帯を巻き込んでおこした大きな反乱(1028~31)を、源頼信が平定して源氏の東国進出の橋頭堡をつくることになった。これがきっかけで兵(つわもの・もののふ)のパワーはふたたび東北に舞台を移し、いわゆる前九年・後三年の役(1051~1087)の奥州十二年合戦になっていく。 

≪067≫  ふたたび東北が「有事の戦場」になったのだ。 前九年・後三年の役は、奥州安倍一族と清原一族の主導権争いに、源頼義などの源平を代表する武将が絡んだ合戦である。承平・天慶の乱とともに日本の中世の本質を見極めるにあたっても、また「兵」(もののふ)の登場という点からも、そして「北の有事」の新たな意味を知るうえでも、前九年・後三年の役はきわめて重大な経緯をもっている。  

≪068≫  発端は、胆沢の鎮守府を掌握した安倍氏が多賀の国府にあった中央政権の出店を侵犯したことにあった。これを「奥六群」をめぐる争いという。胆沢・和賀・江刺・稗貫・志波・岩手が奥六郡である。 

≪069≫  奥六群のことは奥州藤原氏や平泉文化の謎を解く重要な背景になることでもあるので、次夜以降でも詳しく書きたい話題のひとつなのだが、その地がなぜ重要かというと、ここが「北の有事」を「国の有事」として引き取った頼朝を棟梁とする源氏勢力起爆の大きなトリガーになっていったからだ。 

≪070≫  ごくかんたんに案内しておくが、前九年の役は「北」の安倍一族と「東」の源頼義との出会いと合戦である。 

≪071≫  安倍頼時の祖父の時期に安倍氏の勢力が奥六群におよび、それが安倍頼時の時期に衣川の外に向かって広がり、しかも租税も収めず力役も務めないという勢力になっていた。そこで源頼義が追討将軍に任ぜられ、頼時を継いだ安倍貞任(さだとう)・宗任(むねとう)と壮烈な合戦を交わしていった。勝敗はなかなかつかない。源頼義はここで「出羽の俘囚」のリーダーであった清原武則と連携して戦力を増強して、これをもって安倍氏を滅亡させたという戦役だ。その物語は『陸奥話記』(むつわき)がしるして、安倍一族の最期を語り、読む者を躍らせる。 

≪072≫  後三年の役のほうはその清原一族の内紛に発した戦役で、そこに陸奥守に赴任した源義家(八幡太郎義家)が介入して清原清衡を応援し、家衡・武衡を討ち取っていくという合戦だった。 

≪073≫  これが前九年・後三年の奥州十二年合戦のあらましなのだが、この結果、何がどうなったかというと、(A)源氏の戦果がめざましく全国に鳴り響き、(B)これによって陸奥の「奥六郡」と出羽の「山北(せんぼく)三郡」の支配権を得た清衡が清原姓から藤原姓に代わり、(C)新たに藤原清衡として支配地南端の平泉を拠点に奥州藤原4代の基礎をつくったわけである。 

≪074≫  さて、このあと時代は「西の平家」と「東の源氏」による源平争乱が続くわけで(すなわち保元・平治の乱)、それがとどのつまりは源氏の勝利になっていくのだが、その最終場面で次のことがおこったのだ。 ①頼朝と弟の義経が対立した。②義経が平泉の藤原秀衡を頼った。③秀衡が途中で死んだ。④泰衡が義経を衣川に討った。⑤そこへ頼朝軍が攻めこんで奥州藤原一族の終焉がおとずれた。 

≪075≫  中世奥州最大のドラマである。いったい奥州藤原氏とは何なのか、平泉文化とは何だったのかというドラマだ。 1週間前、平泉が世界遺産に登録されるだろうという報道があった。これは、3・11以降の岩手県の“蘇生”にとっても、奥州藤原氏の物語と中尊寺や毛越寺などの中世浄土の景観、および平泉を中心とした陸奥文化の歴史が21世紀に何をもたらすのかということを日本と世界が理解するにあたっても、すばらしい契機になると思われる。 

≪076≫  だからここでも、そのことをぜひとも源平の争乱のもうひとつの意味として議論していきたいところだが、それはいずれ千夜千冊するとして、ここでは頼朝がこの直後に征夷大将軍になっていったということを、おおざっぱな論点だけを追って説明しておきたい。 

≪077≫  頼朝が征夷大将軍を復活させた経緯の背景で、高橋富雄が最初に注目するのは、木曽義仲が征夷大将軍を名のったことである。このことはあまり歴史家のあいだで議論されてこなかったことだった。 

≪078≫  木曽義仲こと源義仲が征夷大将軍に任ぜられたのは寿永3年(1184)である。その直前、義仲は平氏打倒の兵を挙げ、寿永2年に倶利加羅峠で勝利を収め、京都に入って後白河法皇の治世を回復させる試みに着手した。その功で左馬頭(さまのかみ)に任ぜられ、さらに「朝日将軍」の号を下賜されると、翌年に半ば強引に征夷大将軍となった。 

≪079≫  このとき義仲は平氏をこれ以上は追討せず、むしろ平氏とともに頼朝に向かうことを決意していた。 ところがその後、法皇は頼朝と連携するほうを重視した。そのため義仲は法住寺殿を襲撃して法皇を幽閉するのだが、ここから源平さまざまに入れ乱れ、ついに義経によって宇治川に追われ、近江粟津にわずか30歳で戦死した(巴御前はその後に行方を消した)。 

≪080≫  高橋富雄はこのとき義仲が「頼朝という東の棟梁を征夷する」としたことこそ、次にその「征夷」のシンボルを頼朝が逆転して握ることになるきっかけになったと見た。 

≪081≫  頼朝はどうしても征夷大将軍の官位がほしかったのだ。そのためにこそ義経をして義仲を討ったのだ。 そこで後白河法皇に願い出るのだが、朝廷はこれを許可しなかった。なぜなら、鎌倉の地においてそこを動かぬ者が、有事の非常大権である大将軍の官位を得ることはできないと判断したからだった。 

≪082≫  そこで頼朝は次の手を思いつく。奥州平泉を征討したい、ついては勅許を願いたい。そういう申し入れを思いついた。文治5年(1189)のことだった。朝廷は泰衡追討使の宣下を与え、頼朝はこれを首尾よく果たし、「北の有事」に凱旋したことを誇示できた。 

≪083≫  こうして建久1年(1190)についに上洛すると、頼朝は権大納言を、続いて右近衛大将の任命を受ける。右大将になったことによって、「幕府」を開くことを決断し、あとは征夷大将軍の節刀を受けるだけというところまでこぎつけた。かくて建久3年(1192)に征夷大将軍の任命がくだり、頼朝にすべての軍事公権が与えられたのだった。 

≪084≫  しかし、ここでよくよく考えておくべきは、そこにはもはや「北の有事」はなかったということだ。征夷大将軍の名は幕府のプレジデントとしての名称になっていったのだ。そのかわり、頼朝は、新たな4つの権力の上に君臨することになる。 

≪085≫  この4つの権力を滝川政次郎は、①征夷大将軍としての軍事権力、②日本66カ国の総守護・総地頭としての権力、③関八州の分国主としての権力、④鎌倉御家人の封建的主従関係の棟梁としての権力、と見た。 

≪086≫  高橋富雄はこれを、①征夷大将軍としての幕府主権様式、②諸国総守護職・総地頭職としての諸国総追捕使の軍事警察権、③東海・東山両道に固有宗主支配を行使する東国行政権、④鎌倉御家人を従者としてコントロールする鎌倉殿の支配権、という4つの権力の支配を得たと見た。 

≪087≫  いずれの言い方でもいいのだろうが、これはその後の日本の武家の支配体制の根本方針になるものだった。すなわち「将軍」あるいは「将軍家」がこの4つの権力を掌握し、それをさまざまに発展させることこそ、「国の有事」を司るということになったのだ。 

≪088≫  それなら、「北の有事」はどうなったのか。また、鎌倉幕府以降の「将軍」はどんな変遷を遂げたのか。いずれも高橋富雄が生涯をかけて探求した問題であったけれど、今夜はこのへんまでにとどめておく。いずれ、どこかでぶり返して案内してみたい。 

母国とは何か。

それは探し続けるものである。

九州宗像に住む森崎和江は、その母国を北上の果てに探した。

安倍一族の原郷である。

なぜ陸奥の北上川の奥にまで母国のかけらを探しに行ったのか。

前九年の役で滅びた安倍一族の魂が北九州の宗像の杜にまで届いていたからだ。 

≪02≫  このところ「母国」という言葉をときどき発してみている。かつて「母なる空海」という言葉を突如として思いついて以来、ぼくのなかではしばしば出入りしていた“母系カテゴリー”なのだが、それを「母国」というふうに切り出すようになったのは、3・11以降のことだ。 

≪03≫  たとえば「東北復興は母国再生にならなくちゃね」「これは東北と沖縄を一緒に母国として見るということなんだと思う」というように。けれども、多くの反応はこの言葉をやんわり通り過ぎさせるだけで、そこに佇まない。いまさら母国ですか、おおげさ、うーん母国ねえ、東北は東北だろ、愛国っぽい、松岡さんもそういうことを言うようになったか、結局は日本論でしょ、お母さんで行きますか、ナショナリズム? 祖国じゃなくて母国なんだ、「方法日本」のほうがいいと思うけど、ちょっとめめしい‥‥。そんな感じだ。 

≪04≫  母国という言葉に慣れないのか、何かが嫌なのか、坐りが悪いのか、照れくさいのか。どうもまともに受け止めない。 

≪05≫  20年ほど前のことになるが、ぼくは高橋秀元や田中優子(721夜)や高山宏(442夜)らと物語の「型」を研究していた。そのなかで、世界中の物語にはそんなに多くはない数の「母型」があることに気づき、これを「ナラティブ・マザー」とか「物語のマザータイプ」と名付けた。  何をもってナラティブ・マザーとしたか、その一端については『知の編集工学』(朝日文庫)に案内してある。 

≪06≫  一方、ユング(830夜)がその心理学のなかで、民族や宗教にひそむ「アーキタイプ」(元型)と呼んだものがあるのだが、それについては典型(ステレオタイプ)や類型(プロトタイプ)に対する原型(アーキタイプ)のほうに分類し、それらいずれにも共通していながら、もうちょっと漠然とした時空間に漂っていたり、どこかに埋め込まれているイメージの母体のようなものをあえて母型と呼び、これを「マザータイプ」とか、たんに「マザー」と捉えるようになっていた。 

≪07≫  文化人類学などでは、ふつうは母型をマトリックスと見るのだが、それだけでは不十分だと感じたのだ。あまり厳密なものではないし、むしろ厳密に規定しないほうがいいと思うけれど、しかし、われわれにはどうしてもこうした母型やマザーに逢着するときがあったり、その近くをうろうろしたくなることがあるはずなのである。 

≪08≫  他方、ぼくはグレートマザー(太母神)の伝説が好きで、これは最初は『ルナティックス』(ちくま学芸文庫)を連載しているときにのめりこみ、小アジアのディアーナ(ダイアナ)伝説を月女神や月知学に敷延していたのだが、その後にバッハオーフェン(1026夜)の大著『母権論』を読んでからは、世界中のマトリズム(母的思考)に対するパトリズム(父権的思考)の圧迫を知るようになった。 

≪09≫  そうしたなか、「母国語」や「母国」や「母なる大地」や「母音」「母体」「分母」という言葉に、しだいに深遠な愛着をもつようになっていったのだ。ぼくはいつかこの言葉を強く発しなければならないと感じてきた。 

≪010≫  これらの用語は、毫も民族主義的なニュアンスや国家的ニュアンスを含まない。ひょっとするとフェミニズムですらないのかもしれない。われわれの「胸の津波」を直撃する“何か”なのである。 

≪011≫  どうやら、みなさん勘違いをしているようだが、母国とは、必ずしもたんに生まれ育ったクニや民族性の中だけで見いだせるようなものではないのだ。母国は何も告示してはくれない。母国というのは探さなければ見つからないものなのである。 

≪012≫  ここに取り上げた森崎和江の『北上幻想』には「いのちの母国をさがす旅」という副題がついている。「いのちの母国」「母国をさがす」「さがす旅」というふうに。  

≪013≫  そうなのである。母国は探していくものなのだ。ときに容易に見つからず、ときにあてどもなくもなり、ときに見失う。それがふいにどこからか顕現もする。とても小さな母国に触知することもあるし、とても大きいときもある。見えないままのときもある。それが母国というものなのだ。 

≪014≫  森崎さんは生まれは韓国慶尚北道で、育ちは久留米で福岡県立女子専門学校の出身である。すでによく知られてきたと思うけれど、詩誌「母音」の同人となって詩を書きはじめ、谷川雁と出会って炭鉱労働者たちと「サークル村」の活動を開始、「無名通信」などを出し続けた。 

≪015≫  だから森崎さんの故郷といえばおそらく慶州でも福岡でもあって、実際にも『慶州は母の叫び声』(ちくま文庫)という本もある。いまは宗像神社のすぐ傍らに住み続けられている。 

≪016≫  しかし森崎さんはそれでも母国をずっと探してもいて、『北上幻想』では東北にひそむ安倍一族の行方を尋ねたのだった。前九年の役で滅びたあの安倍一族の母国を‥‥。 

≪017≫  実はおとといの5月28日の「連塾ブックパーティ」巻2で、ぼくはほぼ冒頭にこの『北上幻想』を紹介した。そうしたかったのだ。 

≪018≫  舞台のスクリーンにこの本の表紙を映し出し、たった2分程度ではあったけれど、なぜ3・11以降の東北に母国を探すことが必要なのか、その重要性を訴えた。 

≪019≫  この連塾はまた、これまで連塾に“出演”してもらった多くのゲストたちに3・11メッセージ「百人百辞百様」を提供してもらう場にもなっていて、青山スパイラル1階のガーデン回廊にそれらのA4判1枚ぶんのメッセージをやや拡大して、美柑和俊君のデザインによってずらりと公開もしていたのだが、そこへのぼくのメッセージも「母國」を墨書したものだった。「國」という字の「戈」の上部を囗(くに)がまえの上に突き出した書になっている。けっこう思いをこめた。 

≪020≫  それほどにここのところ、ぼくは母国にこだわりたかったのである。それは森崎和江がずっとずっと以前から静かに叫び続けていたことでもあったのだ。 

≪021≫  森崎さんが住んでいる宗像の社には、宗像の女神たちが祀られている。海の沖津宮、島の中津宮、浜の辺津宮があって、それぞれが宗像三神にあてがわれている。「みあれ祭」では、沖津宮からイチキシマヒメを舟に迎え、中津宮からタギツヒメを迎えて宗像七浦の海人族がお供をして、辺津宮に鎮座するタゴリヒメに合流する。 

≪022≫  宗像三神はすべてが海の女神であり、アマテラスがスサノオと誓約(うけひ)をしたときにアマテラスの吐く息から生まれた女神たちである。その末裔は海流に乗り、海人たちの活動に応じて、日本の列島・群島のそこかしこに散っていった。 

≪023≫  その逆に、宗像三神と交流した記憶が九州に届いてもきた。そのひとつ、中津宮の大島は「お言わずさま」ともよばれ、そこにはなぜか安倍貞任と宗任の墓がある。森崎さんは長らくそのことに名状しがたいものを感じてきたようだ。陸奥(みちのく)の俘囚の物語に消えたはずの安倍氏の末裔がここに流れてきたのだろうか。それとも宗像神と安倍氏とはもともとどこかでつながっていたのだろうか。あるいは、その後の歴史にわれわれが失った母国の一族を結びつける何かの動向があったのだろうか。 

≪024≫  こうして森崎さんの宗像三神の相方(あいかた)を求め、そこに母国の脈絡を尋ねる旅が始まったのである。途中、若狭の小浜にも安倍一族の墓があったけれど、森崎さんの母国幻想が最もふくらんだのは、北上の安倍一族の消息だったのである。 

≪025≫  安倍一族の消息はたしかに日本列島各地に残響している。『筑前国風土記』には安倍宗任には3人の子があったと記され、長子は肥前松浦に渡って松浦党の祖になり、次男は薩摩に行き、そして三男が筑前大島に渡ってきて、宗像の杜に拠点をおいたと説明されている。 

≪026≫  一方、宗任たちは前九年の役で坂上田村麻呂に捕縛され、いったんは京中に連れてこられようとしたのだが、都には入れず、伊予に流されたときに逃亡を企てたので、治暦3年(1067)に太宰府に再配流されたなどという記録もある。『再太平記』では後三年の役の折に、八幡太郎義家が宗任を筑紫に下らせたというような物語をつくっている。 

≪027≫  これらは、たんなる安倍一族の伝承にとどまるものではない。津軽のアラハバキの伝説や悪路王の伝説とともに、われわれの北方伝承を組み立てている母国のモジュールそのものなのである。そこには、山内丸山の産女(うぶめ)の土偶から、安倍一族の子孫という安倍康季が「奥州十三湊日之本将軍」を標榜した物語までが含まれて、われわれの“北なる母国”を形成してきたわけなのだ。 

≪028≫  森崎さんはそのような思いの一端を「歌垣」という詩では、こんなふうに詠んでいる。  降りつむ雪と響きあう  北東北の山のエロス  いのちの子らが光ります 

≪029≫  ところで、今夜はもう一冊、『北上幻想』に並べておきたい本がある。それは谷川雁の『北がなければ日本は三角』(河出書房新社)だ。 

≪030≫  谷川についてはいずれじっくり千夜千冊したいので、ここでは詳しくはふれないが、さきほども書いておいたように、森崎とは闘う同志としてしばらく筑豊にいた。1958年に森崎が筑豊の炭坑町に移住をしていたとき、谷川は上野英信や森崎や石牟礼道子(985夜)らと文芸誌「サークル村」を創刊しつつ、大正炭坑に行動隊を結成し、ラディカルきわまりない戦闘を辞さなかったのである。 

≪031≫  谷川自身は熊本県水俣の生まれで、熊本中学・五高をへて東大の社会学科に入り、戦後は西日本新聞社にはいるのだが日本共産党に入党したことで解雇され、大西巨人や井上光晴らと左翼活動をしながら「九州詩人」「母音」などに詩を書いていた。 

≪032≫  そのあと中間市に移住して、そのときから炭坑労働者たちと活動をともにするのだが、やがて60年安保のときに共産党を離脱、吉本隆明らと「六月行動委員会」をつくり、大正炭坑の争議では大正行動隊を過激に組織したりした。 

≪033≫  ぼくはそういう谷川に、早稲田時代からかなりの影響をうけてきた。『原点が存在する』『戦闘への招待』『影の越境をめぐって』など、いずれも貪り読んだ。実は「遊」を創刊するためにつくったちっぽけな母体に「工作舎」という名をつけたのも、谷川雁の『工作者宣言』にかぶれたところも多かった。そこに「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」と書いてあったことは、いまなおぼくのアクティビィティの中核に唸り声のように響いている。  

≪034≫  しかしその後の谷川は詩も書かず、思想書も、文人としての活動も、社会批評もしなくなった。TECという情報教育システムにとりくんで、なぜかいっさいの沈黙を守ったのだ。  

≪035≫  そうした事情についてもいずれ書きたいが(実は子供向けの創作や表現活動をしていたのだが)、その谷川が70歳になってやっと書いたのが『北がなければ日本は三角』だったのである。 

≪036≫  これは「西日本新聞」に連載されたもので、谷川が初めて幼児期と少年期をふりかえったエッセイだった。まことに淡々と「です・ます調」で綴られた回想記ではあるのだが、このタイトル『北がなければ日本は三角』が異様にも突き刺さる。   

≪037≫  これは谷川が小学生のときに、転向してきた女生徒から掛けられた謎なのである。いや、女生徒はもっと単純な意味で言ったのかもしれないが、谷川はこれを終生大事な謎にしてきたようなのだ。いったいどういう意味かは、谷川も証していない。しかし、たしかに日本は、北がなければ三角なのである。 

≪01≫ この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。 ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。 縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。 

≪02≫  梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。 

≪03≫  けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。 

≪04≫  このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。 

≪05≫  しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。  

≪06≫  人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。 

≪07≫  そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。 

≪08≫  こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。 

≪09≫  あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。 

≪010≫  梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。 

≪011≫  けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。 

≪012≫  文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。 

≪013≫  梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。 

≪014≫  それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。 

≪015≫  本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。  

≪016≫  とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。 

≪017≫  春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。 

≪018≫  ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。 

≪019≫  多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。 

≪020≫  3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。 

≪021≫  さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。 

≪022≫  花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。 

≪023≫  梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。 

≪024≫  門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。 

≪025≫  案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。 

≪026≫  花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。 

≪027≫  賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。 

≪028≫  が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。 

≪029≫  翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。 

≪030≫  梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。 

≪031≫  とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。 

≪032≫  柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。  

≪033≫  村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。 

≪034≫  実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。 

≪035≫  こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。  

≪036≫  盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。   

≪037≫  たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。 

≪038≫  梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。 

≪039≫   あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。  

≪040≫  梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。 

≪041≫  8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。 

≪042≫  佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。 

≪043≫  宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。 

≪044≫  翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。 

≪045≫  それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。 

≪046≫  この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。 

≪047≫  ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。  

≪048≫  こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。 

≪049≫  国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。 

≪050≫  郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。 

≪051≫  そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。 

≪052≫  もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。 

≪053≫  亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。 

≪054≫  8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。 

≪055≫  ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。 

≪056≫  青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。 

≪057≫  梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。 

≪058≫  太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。 

≪059≫  金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。 

≪060≫  太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。 

≪061≫  久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。 

≪062≫  実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。  

≪063≫  津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。 

≪064≫  梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。 

≪065≫  生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。 

≪066≫  次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。 

≪067≫  加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。 

≪068≫  梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。 

≪069≫  これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。 

≪070≫  しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。 

≪071≫  八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。 

≪072≫  しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。 

≪073≫  秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。 

≪074≫  次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。 

≪075≫  仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。 

≪076≫  そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。 

≪077≫  羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。 

≪078≫  湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。 

≪079≫  帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。  

≪080≫  こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。 

≪081≫  会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。 

≪082≫  越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。 

≪083≫  崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。 

≪084≫  よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。 

≪085≫  その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。 

≪086≫  梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。 

≪087≫  会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。 

≪088≫  南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。 

≪089≫  もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。 

≪090≫  時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。 

≪091≫  最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。 

≪092≫  空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。 

≪093≫  平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。 

≪094≫  恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。 

≪095≫  恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。 

≪096≫  古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。 

≪097≫  調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。 

≪098≫  伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。 

≪099≫  山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。 

≪100≫  このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。 

≪101≫   このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。 

≪01≫  オギュスタン・ベルクとはこれまで2度にわたって話しこんだ。 そのつど漠然と教えられることが多かった。精緻な言葉ではない。あくまで漠然としていた。しかしながら、「漠然とした暗示」は、「鋭利な指摘」よりずっと効果が高いことがあるものなのだ。ベルクの会話にはつねにそれが満ちていた。 

≪02≫  ベルクが書くものはどうか。そこにも「漠然とした暗示」が溢れている。必ずしも論理や理屈だけでは攻めてはこない。それでいて、全体のことも部分のことも、そして超部分のことも、じっくり伝わってくる。これはベルクが「日本」を相手にしているからだろうか。 

≪03≫  ベルクの『空間としての日本文化』(Vivre l’espace au Japon)を読んだとき、日本語だけにあってフランス語にはめったにないオノマトペイアの特徴をたくみにつかって、これからのべる日本文化論の入口にアプローチしようとしている冒頭に虚をつかれた。 

≪04≫  このぶんではずいぶん意外な論法で押しまくられるなとおもったが、その後の議論の調子はゆっくりとして、はなはだ悠揚迫らない。ひたすら静かに日本語の特質に入っていく。そこで、なんだこれなら一安心とおもっていると、たとえば「おもかげ」などという、日本人でもその説明をちゃんとできない概念について、まことに適確な分析を始める。 

≪05≫  そしてついには「日本人の公は私の中にある」といった、日本人にとっても最も重大で、かつややこしい「公私の感覚」の底辺を深くえぐっていくような議論を、まるで畳職人のように仕上げてしまうのであった。ようするに、すべてはベルクのペースなのである。 

≪06≫  が、これが外(ほか)でもない日本論なのだ。ベルクが見た日本の風土なのだ。われわれに関する問題なのだ。 

≪07≫  そういうベルクが2冊目に発表した日本文化論が『風土の日本』である。さすがにぼくも警戒をして読んだおぼえがある。 

≪08≫  結論から先にいう。 ぼくは本書を警戒して読んだにもかかわらず、ベルクの術中にはまってしまっていた。 

≪09≫  一茶の「夕立やかみつくやうな鬼瓦」から話が始まっているのが、よくなかった。フランス人が一茶をさらりと出して日本のことを出すなんて、とんでもない。ベルクは日本人の気象感覚をヨーロッパ人と比較するためにこの句を持ち出しているのだが、一茶の感覚がぞっこん好きなぼくは、その手練にやすやすとのってしまったのである。 

≪010≫  これで、もういけない。「花冷え」「晩春」「入梅」「残暑」といった感覚の内奥を、ぼくは存分に知っていながらも、その存分に知っている感覚の裏地のようなものをフランス人から次々に教えられてしまった。 

≪011≫  むろんちょっとは抵抗もする。「風景の共感覚」などという言葉にだまされないぞとおもってもみる。が、その「風景の共感覚」の例として、「石山の石より白し秋の風」なんぞをすっと出されるので、またまた気分がよくなってくる。困ったものである(ちなみに、この句が誰の句かは、「千夜千冊」の読者は御存知ですよね。もし知らないのなら、諸君はベルクからではなく、日本の古典からやりなおすべきである)。 

≪012≫  こういうわけで、なんのことはない、結局のところ、ぼくはベルクとは共同戦線を張ることにした。二人で、近ごろ不毛な日本文化論を驀進しようじゃないかということになったのである。ぼくが『日本流』や『日本数寄』をたてつづけにまとめようとおもったのは、この会話がひとつのきっかけになっている。  

≪013≫  だいたい日本人は、『古今集』で扱いが9番目にすぎなかった「月」が、『新古今集』で最も多い歌題になったからといって、ああ、そんなものかとしか思わないだらしないところがある。 

≪014≫  また、仮にそういう問題に研究者たちが関心をもっても(そういう人はたくさんいるが)、かれらはそこから日本文化の本質を導きだしたりはしない。ところが、オギュスタン・ベルクはそこから“日本のゲシュタルト”まで進み、そこにレヴィ=ストロース、ピアジェ、フーコー、ドゥルーズを通過して、さらには和辻哲郎から唐木順三までを駆使して、われわれの心情の底流を言葉で埋め尽くしてしまうのである。 

≪015≫  それだけではなく、本書ではとくに古田織部の表現性と富士谷御杖の言語論の考え方が強調される。新古今の確立はここまで流れをいたすのだ。 

≪016≫  ときには、日本人の学者がこういう本を読むべき理由が、こういうところにもある。 

≪017≫  もともとベルクが日本研究の出発点にしたのは、和辻哲郎の『風土』である。 

≪018≫  ベルクは「風土」を“milieu”ととらえた。あいだにあるもの、である。その風土の概念を、ベルクは多彩な知識を援用してヨーロッパの哲学や地理学と照らしたうえで、ふたたび独自な概念として上昇させ(たとえば風土性=mediance)、そこに加えてベルク自身の風土観念を仕込ませていった。 

≪019≫  こうしてできあがったのが「通態」(trajet)や「通態性」(trajectivitet)という概念である。 

≪020≫  気象や植物などの空間を構成するものと、そこにいると精神や観念がふと能動的になる場所的なものとが、互いに作用しあい、組み合わさってつくられる風土的な特性のことをいう。なかなか暗示的である。 

≪021≫  ベルクはこの「通態性」をもって、日本人のわれわれが「ふるさと」とよんだり、「おもかげ」とよんだり、あるいは「みやび」「さび」「あはれ」とよぶものを解明しようとしたのであった。 

≪022≫  実のところ、この最後の試みは、まだ成功しているとはいいがたい。 

≪023≫  実際にも「通態」の真価は、その後の環境論をめぐる著作『地球と存在の哲学』(ちくま新書)などで初めて発揮されていて、それがふたたび日本論や日本風土論に適用されてはいないように見える。 

≪024≫  ベルクは、日本論を手がかりにして、もっと普遍的な問題のほうに行ってしまったのだろうか。そういう気もする。 

≪025≫  そうだとすれば、それは一面、寂しいことであるが、一面、日本論とはむしろそういう寂しい方向を本質的にもつべきものだとも、いえるのである。かつてフランスやドイツに学んだ九鬼周造がそうだったように。ぼくが『日本流』に綴ったように。 

日本という方法   松岡正剛著

まず「おもかげ」についての歌をあげます。

『万葉集』巻三に、「陸奥の真野のかやはらとう けども面影にして見ゆといふものを」という笠女郎の歌がある。大伴家持に送った歌です。実 際の陸奥の真野の草原はここから遠いから見えないけれどそれが面影として見えてくるという 歌です。 もう少し、深読みすると、いや、遠ければ遠いほど、その面影が見えるのだとも解釈でき る。「面影にして見ゆ」という言い方にそうした強い意味あいがこもっています。

家持が女性に贈った歌にも面影が出てきます。「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかも せん人目しげくて」。家持が坂上青梅郎女に贈っている。人目が色々あってなかなか会えない けれど、面影ではいつも会っていますよという恋歌です。

また紀貫之には「こし時と腰つつ居 れば夕暮れの面影にのみにわたるかな」という歌がある。今来るぞ、もう来るぞと思っていれ ば、恋しい人が夕暮れの中に浮かんでくると言う歌意でしょう。これもまるで、面影で見た方 が恋しい人がよく見えると言わんばかりです。

今引いた三つの歌は、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように浮かん で見えるということを表しています。これは突然に何かが幻想として出現したとか、イリュー ジョンとして空中に現出したということではありません。そのことやその人のことを、「思え ば見える」という、そういう面影です。 プロフィールといっても人とは限らない。景色もあれば言葉もある。思い出や心境もある。 それゆえこの面影は美しいこともあれば、苦しいこともあります。『更級日記』の作者は、 「面影に覚えて悲しければ、月の興も覚えずくんじ臥しぬ」と、面影が見えることが恋しくて 眠れない様子を綴っています。面影が辛いのです。

26 08 次にうつろいの歌を見てみます。「うつろい」は古くは、「うつろひ」と表記し ます。再び『万葉集』を引きますが、「木の間よりうつろふ月のかげを惜しみ徘徊に小夜更け にけり」という作者未詳の歌があります。早くも「月のかげ」という「かげ」が出てきまし た。歌の意味は、木々の間から漏れる月影を見ているうちに、小夜が更けたということです。

ここで「うつろふ」と言っているのは、月の居所が移っているということで、その移ろいに応 じて自分の気分も移ろっているわけです。ではもう一つ、また家持の歌。「紅はうつろうもの ぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも」

27 02 このように「うつろい」はつきかげや花の色の変化の様子を示しています。とい うことは、元々の「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと 関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落としているうちに変化し てしまうもの、そういうものに対して「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本 質とみなしたものと関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落とし ているうちに変化してしまうもの、そういうものに対して「うつろい」という言葉が使われて いる。容易に編んでアイデンティティが見定めがたい現象や出来事、それが「うつろい」の対 象なのです。

21 18 これらの言葉の使われ方をよく見ていると、対象がその現場から離れている時、 また対象がそこにじっとしていないで動き出している時に、わざわざ使われていることに気が つきます。すなわち面影が「ない」という状態と面影が「ある」という状態とつなげているよ うなのです。つまりは「なる」というプロセスを重視しているようなのです。 私はそこに注目します。

この「面影になる」ということは、そこに「面影がうつろう」とい うこと、「ない」と「ある」を「 なる」がつないでいることに注目するのです。そこに「日本 という方法」が脈々と立ち現れていると見るのです。


次の時代をつくる「志」の研究 奈良本辰也著

はじめに――なぜ今陽明学なのか

高潔な日本人はどこへいった

幕末の志士の「狂」を学ぶ

陽明学――時代の変革を促す「知行合一」の思想

中江藤樹が追求した「孝の道」

人間関係を重視する学問

行動のない知は、知たりえず

大塩平八郎の知行合一

行動の中で真理を見出す

「狂」の意味するもの

新しい時代をつくる力とは

社会とのかかわり合いをもとうとする学問

例1 吉田松陰――幕末を駆け抜けた「狂」の先駆者

十有五にして学に志す

みなぎる気魄

遊学で志を高める

富士山が崩れ落ち、利根川の水が涸れようとも

例2 高杉晋作――幕府を滅亡にみちびいた たった一人の反乱

革命児の誕生

松下村塾の暴れん坊

晋作、江戸へ出る

志の芽生え

やらなければいけないことはやる

志が同志を呼ぶ

例3 坂本龍馬――回天の舞台回しを演出した海をみて育った男

動乱を「わが天地」とする自由人のセンス

「落ちこぼれ」に自信を与えた剣の腕

龍馬丸進水――「国際認識」の大転換

藩を超え「日本」を丸ごととらえる視点を教えた勝海舟

回天の事業を成し遂げる男の「器量」

〈コラム〉「志」を遂げるために必要な同志のつくり方と付き合い方の研究

よき師友との出会いが人生の命運を握る「鍵」

周囲が放っておかない光る男の「底力」とは

他人の感化で開かれる能力

人をひきつける魅力をつくるのは苦労

自分を磨く方法は 結局第一級の人物と出会うこと

例4 山形有朋――陸軍を設計・施行した男の意志

吉田松陰が認めた「小助の気」

騎兵隊の軍監

戊辰戦争の華々しい戦果

陸軍創設への道

例5 乃木希典――時代に準じた武人の「志」

乃木の殉死に対する評価

文学志望から武人へ

青年時代の武人乃木

蜂起する反政府軍と乃木

殊勲者の経歴

日露戦争の偉業

例6 西郷隆盛他――戦略・戦術を欠いた「志」

反乱の論理

相克する理想

西郷起たず

参謀に人を得ず

第Ⅰ部 司馬遼太郎から梅棹忠夫へ 4

司馬遼太郎の手紙 4

大きな幸福――梅棹学について 4

第Ⅱ部 民族と国家、そして文明 4

21世紀の危機――少数者の反乱が地球をおおう 4

バスク独立運動の背景 4

国家誕生と同時に発生した 4

世界冷や飯組の蜂起 4

人間の分類感覚 4

文化が少数者を生む 4

「日本人はけったいな奴や」 5

仏教、キリスト教も部分的普遍 5

「世界紛争地図を作ろう」 5

民族の現像、国家のかたち 5

少数民族を脅かしてきた旧ソ連と中国 5

両刃の剣を素手でつかんでいるようなもの 5

文化とは「不信の体系」だ 6

イランとトルコの対抗意識 6

民族主義は引火性に富んでいる 6

個別的な解決しか方法はない 6

日本人には言語の格闘術がない 6

アイヌやオホーツク人の位置 6

先進国から帝国主義は消えたが 6

地球時代の混迷を超えてーー英知を問われる日本人 6

民族の時代 6

崩壊した帝国 6

ヨーロッパと民族 6

一神教とアニミズム 6

恨みと差別 6

民族と言語 6

ふたつの国 6

実体のない「アジア」 7

日本文明の危機 7

第Ⅲ部 日本及び日本人について 8

日本は無思想時代の先兵 8

国民総大学出になったら 8

史上最初の無層化社会 8

軍事能力に秀れた日本人 8

思想というのは伝染病 9

室町時代の日本に戻る 9

大企業は昔の藩と同じ 10

解散経営学のすすめ 10

戦争をしかけられたら 10

世界の交差点で酒盛り 10

日本人の顔 11

幕末志士の顔 11

写真の迷信 11

絵に描かれた日本人 11

くの字型の基本姿勢 11

時代で違う美人 11

表情とポーズ 11

和服の着付け 11

侍の衣食住文化 11

一九二〇年の前とあと 11

留守居役のサロン吉原 11

写真資料の重要性 11

大阪学問の浮き沈み 12

町人が支える学問 12

喧嘩堂と山片番頭 12

不経済の経済性 12

大阪下町、京山の手 12

虚学の世界 12

創造への地熱 12

つねに世界へ窓開く 12

破壊力が形成力に 12

文化と経済力 13

理屈よりもセンス 13

拡大する西日本 13

第Ⅳ部 追憶の司馬遼太郎 13

知的会話を楽しめた人、司馬遼太郎 14

司馬遼太郎さんとわたし 14

「語り」の名手、「知」の源泉は・・・ 14

一人ひとりの人間への愛情があった 14

日本文明は今が絶頂では・・・・ 14

司馬遼太郎を読む――『韃靼疾風録』など 15

壮大な構想 15

遊牧民への共感 15

「公」の意識を 15

コメント1 同時代の思索者――司馬遼太郎と梅棹忠夫   米山俊直 15

同時代の二人 15

司馬遼太郎の終戦まで 15

梅棹忠夫の終戦まで 16

戦後の活躍 16

司馬の明治-昭和観 16

梅棹の明治-昭和観 17

二人の違い 20

コメント2 知の饗宴 20

であい 20

時代の中で 21

旅の効用 21

交点とベクトル 21

なぜ民族問題か 21

日本論の方向 21

語り残したことなど 21

仏教のこころ    認知社会心理学への招待  五木寛之著


第一部 仏教のこころ

仏教ブームとはいうけれど

睡眠薬より仏教史

仏教を求めるこころ

ブッダは論理的に語った

ブッダが答えなかったこと

乾いた論理と湿った情感

人々は仏教に何を求めるか

いのちを救うことができるのか

あまりにも定説化したブッダ論

悲泣するこころの回復

今仏教のこころを求めて

第二部 仏教をめぐる対話

河合隼雄さんとの対話

神と仏はずっと一緒に信仰されてきた

”パートタイム・ブディスト”ではない

カルロス・ゴーン対エコノミック・アニマル

心の働きか?念仏の経験か?

「ゆく年くる年」に宗教意識を感じてみる

玄侑宗久さんとの対話①宗教は「雑」なもの

仏教の中の俗なもの

自力の限界に他力の風が吹く

宗派の垣根は消えつつある

地域社会の中の「隠し念仏」

テロリストは救われるか

うさん臭さは宗教の生命

グローバル・スタンダードと洋魂

はかないものをいとおしむ

玄侑宗久さんとの対話② 死後のいのち

平易な言葉で語る仏教

日本人に欠け落ちてきた身体性

身体から脳を活性化する

循環・回帰の道へ

第三部 わがこころの仏教

仏教の受け皿

意識の深部のツケモノ石

すべては民衆のなかからはじまる

空海はすでに密教を知っていた

親鸞の夢告げ

親鸞が苦しみぬいた瞬間

再び親鸞の夢想を思う

親鸞が描いた物語

煩悩を抱えて救われる道

蓮如への旅

蓮如へのふたつの思い

浄土は地獄に照り返されて輝く

蓮如の不思議な人気

夕暮れの〈騙り部〉の思い

寛容と共生をめざして

ミックスされた文化の中で

「シンクレティズム」の可能性

「アニミズム」は二十一世紀の新しい思想

「寛容」による他者との共生

あとがきにかえて

日本人の神     大野晋

Ⅰ 日本のカミ 3

カミ(神)の語源 3

カミ(神)観念 3

日本のカミとは 3

支配する神 3

恐ろしい神 3

神の人間化 3

神の人格化 3

カミへの日本人の対し方 3

Ⅱ ホトケの輸入 3

ホトケの語源 3

仏像と仏神 3

仏教の受容 3

神の祭祀 3

僧尼令の禁止事項 3

カミとホトケに対する人間 3

Ⅲ カミとホトケの習合 4

神宮寺と天皇 4

御霊会と権現 4

『源氏物語』のカミとホトケ 4

本地垂迹 4

神道とは 4

両部神道と山王神道 4

伊勢神道 4

吉田兼倶と卜部神道 4

Ⅳ カミとホトケの分離 4

林羅山と山崎闇斎 4

国学の日本研究 4

契沖 4

荷田晴満 4

賀茂真淵 4

本居宣長と日本語 4

『古事記』とカミ 4

ホトケから「神の道」へ 5

平田篤胤 5

仏教排撃と尊王論 5

Ⅴ ホトケのぶち壊しとGodの輸入 5

開国と王政復古 5

神仏分離令 5

廃仏毀釈 5

ゴッドとゼウスの翻訳 5

天主・上帝・神 5

Godと神の混同 5

Ⅵ カミの輸入 5

稲作と弥生時代 5

古代日本語の特徴 5

タミル語と日本語 5

神をめぐる言葉 5

人に害をなすモノ(鬼) 5

化物と幽霊との違い 6

ツミ(罪)・ワル(悪)・トガ(咎) 6

ミ・ヒ(霊、日・昼)・イツ 6

ヲ(男)・メ(女)・ウシ(主人)・ムチ(貴) 6

カミの対応語 6

南インドのカミと日本のカミ 6

Ⅶ 日本の文明と文化 カミの意味は変わっていくか 6

文明の輸入 6

風土と文化 6

日本の文化の特徴 6

神と自然 6

こころと社会    認知社会心理学への招待  池田謙一・村田光二

Ⅰ (こころ)の仕組みと働き 3

第1章 認識する〈こころ〉 3

一 認知ーー世界の能動的構成 3

二 記憶の働きーー 生きている「過去」 3

三 知識の構造ーーネットワークとスキーマ 3

第2章 働く知識 3

一 社会的知識の形成ーー「人」を知ること 3

二 人のカテゴリーかと社会的スキーマ 3

三 社会的スキーマの活性化とステレオタイプ化 3

第3章 推論する〈こころ〉 3

一 社会的推論の働きーー「新しい世界」を描く 3

二 社会的推論の制約ーー前提とヒューリスティーー 3

三 共変の認知と帰属と予期ーー因果を推論する 3

第4章 決める〈こころ〉 3

一 目標と動機づけーー経験の質に向けられた目標 3

二 「決める」と「 決まる」ーー 意思決定の二面性 3

三 シュミレーションーー可能的事故と行動のシナリオ 3

四 選択可能な世界ーー「夢と現実の落差」を埋める 3

五 意思決定の社会性 3

第5章 働きかける感情 4

一 感情の多次元性ーー感情の情報処理 4

二 感情の状況性・社会性 4

Ⅱ (社会)に関わる〈こころ〉 4

第6章 〈こころ〉と〈こころ〉 4

ーーコミュニケーションーー 4

一 コミュニケーションの目標ーー他者との接点 4

二 コミュニケーションの制御ーー相手の反応を予想する 4

三 メッセージとインターフェイスーー意味を通じ合わせる道具立て 4

四 コミュニケーションと認知的制約ーー協調的な会話が可能な理由 4

五 コミュニケーションと意味の共有ーーコミットメントが心を通わせる 4

第7章 集団の中の〈こころ〉 4

ーー同調・規範・勢力ーー 4

一 同調の及ぼす影響力ーー「裸の王様」の”シースルーファッション” 4

二 規範形成と社会的制約ーー赤信号、渡れますか 4

三 パーソナルな影響力としての勢力ーー「決 まる」勢力・「決める」勢力 4

第8章 〈こころ〉をつなぐ〈社会〉 4

ーーコミュニケーション・ネットワークとマスメディアーー 4

一 社会的な情報の流れーー「情報環境」の多層性 5

二 コミュニケーションネットワーク 5

三 マスメディア 5

四 対人コミュニケーションとマスコミュニケーション 5

第9章 〈社会〉を動かす〈こころ〉 5

ーー社会過程と社会変容ーー 5

一 シンボルと社会的カテゴリー化ーー世論形成とシンボル過程 5

二 システム認知と社会受容ーー社会を見る「目」 5

三 価値の変容をめぐる社会の心理ーー社会目標について

活眼活学      安岡正篤