日本を生きる

「道の思想」

月日は百代の過客にして行き…奥の細道

人世100年時代「過客(寿老人)」の
「住居(素舞)」から「束の間」「当面」の「面向き」を嗜みに
数寄間に去来場!
したわしい面影がしのばれて

参照資料(千夜千冊)

読書・独歩 目次 フォーカシング

人類生活の原理 「四大綱領」(しだいこうりょう)

短歌・長歌・俳句

昔、日本の歌「和歌」は5757・・・の反復の後に7をつけてしめる形式でした。これを「長歌(その後の短歌と比較して長いので)」と言います。


日本語はなぜ「七五調」なのか?〈前編〉   『日本語のリズム 四拍子文化論』別宮貞徳 筑摩書房  http://nobunsha.jp/img/shichigo1.jpg 

  “十七音の謎 2”HP http://www.d2.dion.ne.jp/~t_katou/onnonazo2.html  明治三十二年、高橋龍雄の「四拍子論」が世にはじめて出て、「四音歩説」、「等時音律説」などを交えながら、次第に七五調が、日本人独自の内在的なリズム=四拍子に立脚するものであることが、確かめられるようになっていきました。 

1.日本人が七五調を詠むリズム
2.日本語は二音節で一つの単位になっている。 

日本語はなぜ「七五調」なのか?〈後編〉

3.なぜ、五音と七音が撰ばれたのだろう。
4.手拍子は、四拍子。  

いずれにしても、上代よりそれこそ千年以上ぼくたちの血と遺伝子に深く刷り込まれた、四拍子と七五調は、日本という国と民族があるかぎり、もっとも自然で、もっとも心地よい不変のリズムを刻み続けることに間違いはありません。 

括弧で括る・纏める 操作して道具に学び、志操を格す

温故知新

慎みが失せた理由(慈しみと慎み)

括るとは、

1 入り口を締めくくる。「括約筋

2 前後から中のものを囲む。「括弧

3 ばらばらのものを一つにまとめる。「一括概括総括統括包括

纏めるとは

1 ばらばらのものを集めてひとかたまりのものにする。「作文を―・めて本にする」「一年分―・めて払い込む」

2 物事の筋道を立てて整える。「アイデアを―・める」

3 決まりをつける。互いの意志を一致させ

≪01≫  いささか甘酸っぱい思い出から話してみたい。大学3年の秋だったか、Kという美しい女優さんから「オーブツミョーゴー」という用語が洩れたのである。新宿文化アートシアターで演っていたウェスカーの『キッチン』を観た帰りだった。

≪02≫  デートをしてそうなったのではなく、大学新聞のためのインタヴューに行ったところ、その話がおわると「ねえ、これからお芝居を観るんだけど、行かない?」と誘われたのだ。彼女は連続テレビドラマのヒロインに抜擢されて人気を博した俳優座出身の女優さんで、すでによく知られていたが(だからインタヴューに行ったのだが)、そんな美女からのよもやのお誘いなのである。ジンセーにはこういうこともおこるのかと少しくらくらした。

≪03≫  けれどもとても話好きで、どうもあまりロマンチックではない。最初はいま見た芝居の話、次は日本の新劇の話、それから「あなたは学生運動をしているんでしょ」と言ってちらちら日本の将来や改革の話になってきたなと思っていると、ふいにオーブツミョーゴーってあるわよねと言いだした。私ね、いまそのオーブツミョーゴーのための活動をしているの。

≪04≫  えっ、オーブツミョーゴー? その活動? なんだか見てはならないものの扉の前に急に立たされている気になった。オーブツミョーゴーは「王仏冥合」である。日本という国を王法と仏法を重ねて自覚しながら体感しようとしたとき、どんな言動をそこに展開できるのか、そこから仏教活動をひろげていくにはどうするか、そういうことをシンボリックにあらわしている言葉が王仏冥合だ。この女優さんがその活動をしている?

≪05≫  案の定、活動というのは創価学会での広宣流布のことだった。突如としてこの夜の暗合がヴェールを脱ぎはじめ、くらくらした気分はすっかり失せていたのだが、しかしなぜかKはぼくを折伏しなかった。その後も会うことがなかった。

≪06≫  彼女が語るオーブツミョーゴーは、日蓮の教えを昇華したもので、法華経の本門の主張するところが国家や社会の指導原理となって寂光浄土が実現することを説いていた。当時はいわゆる「政教一致」のための今日的なスローガンだとみなされていたのだが、歴史的にはさまざまな変遷がある。中世と近代の両方にまたがる「王法と仏法」の紆余曲折がある。

≪07≫  こうして少々甘酸っぱかった芝居の夜のオーブツミョーゴーを波枕に、ぼくの日蓮読みが船出した。

≪08≫  日蓮を読むということは、並の読書体験ではいられない。自分の仏教認識の縁(よすが)が深まったり広がったりするというよりも、中世仏教がさしかかった屹立した懸崖に出会っている気にさせられる。それも日本人がどういう使命をもつべきなのかということが試されていると思わされた。これが、これまでの実感だ。たいへん特異なのである。

≪09≫  学生時代、これに近い気分にさせられたとしたら、レーニン(104夜)やトロツキー(130夜)や王陽明(996夜)、あるいは高校時代に頼山陽(319夜)や北一輝(942夜)を読んだときくらいのもので、仏教者のものを読んでそんな気を迫られるという体験はなかった。マラルメ(966夜)やヴァレリー(12夜)にギョッとさせられることがあったとしても、それで日本人を問われるということはない。親鸞(397夜)や清沢満之(1025夜)や暁烏敏(あけがらす・はや)からもそこを衝かれたという感じはしなかった。ところが日蓮はそこを強烈に衝いてくる。なぜ、そうなのか。なぜ、そこが衝かれるのか。

≪010≫  日蓮が安房の小湊に貧しい漁民の子として生まれたのは、承久の乱の翌年の承久4年(1222)のことで、時代社会を「武者ノ世」と「乱逆ノ世」がとげとげしく取りまいていた。後鳥羽上皇が流され、執権北条氏の徳宗政治はいたずらに平板だった。

≪011≫  とくに建長8年(1256)から文応元年にかけての5年間の地震・暴風雨・洪水・飢饉・疫病流行はすさまじく、日蓮も目撃することになった正嘉元年(1257)の鎌倉大地震では神社仏閣の大半が倒壊して、死者が数万に達した。

≪012≫  対策はない。王法と仏法はともにずたずたで、ましてこの二つをつなぐ力が、まったく動かない。日蓮は仏法があらぬ方向を向いてしまっている、この惨状は法華経確信の喪失や歪曲から来ていると見た。聞けば、すでに蒙古(モンゴル帝国としての元)は高麗に侵攻し、樺太にまでやってきているらしい。そこへもってきての元の皇帝からの使者である。

≪013≫  日蓮は『立正安国論』を書いて「自界叛逆」と「他国侵逼」(たこくしっぴつ)がおこりうることを訴える。予告通り、蒙古襲来(元寇)が二度にわたった。

≪014≫  こんなふうに当時の事情を説明すると、日蓮にはそういう時代の不穏を読む法力が漲っていましたからねなどと話をそちらに持っていかれそうなのだが、日蓮を知ろうとした者が衝かれるのはそこではない。正当であるはずの言動が迫害され、真の行者が受難するのはなぜか、そのことを根本的に開示しないかぎりは王法も仏法も地に落ちたままになる。そこを衝かれるのだ。

≪015≫  たとえば、日蓮は自分は「旃陀羅ノ子」として生まれたと言っている。ところが今日、この言葉は差別用語として多くのテキストからほぼ排除されていて、日蓮の激越な思想がそのことから放射されてきたことについては、宗門者たちも識者たちもふれないようになってしまっている。

≪016≫  旃陀羅(せんだら)はインド社会の被差別民チャンダーラの音訳である。だからこの用語が安房の日蓮にあてはまるとは思えないのだけれど、日蓮自身は「我ハ旃陀羅ノ子ナリ」と言いうること、そのことこそが法華経の一乗真実に到達できる立場の最強の存在証明であり、だからこそ王法と仏法の両方の懸崖にも挑めると見通したのだった。

≪017≫  けれども当時の鎌倉社会には、つまり日本には、そもそも王と仏をともに貫くものがない。日蓮のオーブツミョーゴーはここにおいて動き出したのである。この動き出しに、日蓮読者がついていけないのだ。

≪018≫  日蓮の法華思想の基本をごくごくシェーマふうにまとめると、次のABC三つの大要綱が宗旨にも言動にも裏打ちされているということがわかる。

≪019≫  (A)われらには法華経を「一乗真実・久遠実成・菩薩行道」とみなすという三大思想が貫通する。(B)われらには仏教の教えを「教・機(機根)・時・国・序(順序)」とみなす五綱教判が前提になっている。(C)われらには「本門本尊、本門題目、本門戒壇」を謳う三大秘法がめざされている。以上のABCは互いに重なりあい、絡みあう。

≪020≫  この(C)を強く打ち出したのは、日蓮最晩年の著作『三大秘法抄』(三大秘法稟承事)という文書だった。その後(C)は「三秘」と呼ばれ、①本門本尊、②本門題目、③本門戒壇がどういうものであるべきかを示した。

≪021≫  法華経の奥義は本門(ほんもん)にある。釈尊の永遠性はその「如来寿量品」に説かれている。日蓮は、このことを伝える力を末法の世で示していくには、強靭な信念を骨の髄からもたなければならないと覚悟していた。

≪022≫  そのためにはまずもって信仰の対象となるべき本尊を明示したい。最もふさわしいイコンは当然のことに釈尊(ブッダ)その人であろうけれど、それはすべての仏教者がそうでありたい崇高の対象だろうから、それだけでは法華経の本門性は感じにくい。「見宝塔品」では多宝如来と釈尊が一体になっていて、宝塔の中に妙法蓮華経が格納されている。その左右の釈尊と多宝如来が臨める。そこで、これらの合体した姿を本尊とみなしたい。これが日蓮による①本門本尊の決定だった。

≪023≫  この決定にもとづいて、唱えるべき題目は法華経を一念三千するべき「南無妙法蓮華経」とした。この題目は天台の迹門(しゃくもん)による「理の一念三千」に対する「事の一念三千」とみなされた。そこで①本尊と②題目を組み合わせて、独特の「南無妙法蓮華経」を大書した「大曼陀羅本尊」「文字曼陀羅」(俗にヒゲ曼陀羅)をつくりあげた。由来は『観心本尊抄』に説明されている。

≪024≫  ③本門戒壇は、これらのことをまっとうするための戒律を授受する戒壇をどうするかということである。けれども、戒壇は国が認めるものでもなければならず、そこには王法(国家)がかかわってくるので、かんたんには決まらない。そのため日蓮の時代もその後も、構想ばかりが先行し、もっぱら「理念としての本門戒壇」が論じられてきた。ここにオーブツミョーゴーをめぐる議論がくっついてきた。

≪025≫  日蓮は『三大秘法抄』をこう締めくくる。――この三秘は、二千余年の昔に釈尊が地湧千界の菩薩の上首として口決相承したことであるが、それはそのままの今日の私(日蓮)の行いと寸分ちがわない。ここに寿量品の「事の一念三千」があからさまなのだ、というふうに。

≪026≫  日蓮は法華経の説く地湧(ぢゆ)の菩薩たちを率いる上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)そのものだと自負したのだった。たいへんな自負である。とはいえ、③本門戒壇をつくるには予想外の苦心が必要だった。

≪027≫  戒壇とは、僧尼(比丘・比丘尼)が導師から戒律を授戒するための壇状の儀式壇のことである。中国で部派仏教のスクールが確立した。インドにはなかったものだ。

≪028≫  日本では、中国の戒律仏教のリーダーであった高齢の鑑真が招聘されて、最初の戒壇院が畿内用の東大寺、東国用の下野(しもつけ)の薬師寺、西国用の筑紫の観世音寺に設けられた。日本の授戒制度はこのいずれかに限られていたのだが、最澄が異を唱えた。これらは四分律にもとづく小乗戒にすぎず、梵網経にもとづく大乗戒(梵網戒)が必要だとして、比叡山に新たな戒壇院を設けた。これで在家にも戒律を授けられるようになった。

≪029≫  こうして日本の授戒は出家者用のハードエッジな東大寺型の戒壇院と、出家者と在家を区別しないソフィスティケートされた戒壇院とが並立したわけだが、当然、東大寺は天台に文句をつける。一方、大衆に門戸を開いた比叡山のほうには人気が集まった。けれどもそれはそれで、このあとの日本仏教を妻帯や肉食を許容するような、戒律に甘い仏教にしていった。

≪030≫  日本の僧侶たちが戒と律とにとことん甘いことは、日本仏教史が解明しそこねている問題である。ぼくは妻帯や肉食を平気にしたことに問題を感じてはいないけれど、さる密教者の大きな集会の際、講演・討議のあとにフラダンスチームがコンパニオンのように登場すると、その300人ほどの僧たちの半分ほどが一緒に踊りだしたのを見て、愕然とした。

≪031≫  日蓮は東大寺型の戒壇院には批判的で、自分たちは比叡山の大乗的戒壇院同様のものをさらに強化していきたいと考えていた。みずからを天台智顗や伝教大師最澄の後継者とも自認していた日蓮としては、大乗的戒壇院をさらに強いレギュレーションによって自派の力の誇示にもしたかった。

≪032≫  二つの考え方がありえた。ひとつは法華経を信奉する者が題目を唱えるそれぞれの場がそのまま本門の戒壇になるというもので、これは理壇(理の戒壇)と言われた。もうひとつは、戒律が発動する現場を孕む特定の寺院や場所に特有される戒壇こそが本門の戒壇になるというもので、事壇(事の戒壇)という。日蓮はこちらを本門戒壇にしたいと考えた。

≪033≫  この本門戒壇の方針については『三大秘法抄』にしか記述されていない。とりわけ次の一文が重視された。「戒壇とは王法仏法に冥(みょう)し、仏法王法に合(ごう)して、王臣一同に三秘密の法を持(たも)つ」ことであり、そのことのために「有徳王や覚徳比丘の乃至(むかし)を末法濁悪の未来に移すべく、霊山浄土の最勝の地を尋ねて建立する」ものである‥‥云々。

≪034≫  まさに日蓮は、本門戒壇を建立することがオーブツミョーゴーの実践そのものであると予告したのである。

≪035≫  ところが、いつしかこの著作は偽作だという風評がたつようになったのだ。早くに『立正安国論』をはじめとする著作や言述のなかで徹底的に非難されてきた浄土宗・真言宗・禅宗などからすると、勝手な戒壇は認められないと思ったせいでもあるが、日蓮の教えが戒壇を独占するような勢いをもてば日本仏教が片寄りすぎると見られたせいもあったろう。一方、日蓮宗派からすると、本門戒壇の成就には日蓮の構想した王法と仏法の合接がかかっている。これは王仏冥合の要の問題なのである。 こうして長らくのあいだ、本門戒壇は日本仏教史の議論の中で揺れつづけることになった。

≪036≫  黒田俊雄が指摘したように、日本の中世には「王法仏法相依思想」が渦巻いていた。鎌倉期以前に顕密は対応補完しあう(顕教・密教は二つでひとつ)というしくみが動いていたし、神仏習合(のちの本地垂迹)はまだ理論化には至っていないものの、さまざまな形をもって各地で促進されていた。

≪037≫  末法思想の影響のもと、天皇は百代で衰退するだろうという「百王思想」がはびこり、その危機からの脱出のために荼吉尼天による即位灌頂といった外法が王法とむすびつくといったことも試みられていた。つまりは、かなり混乱していたのだ。このあたりのこと、佐藤弘夫の『神・仏・王権の中世』(法蔵館)、末木文美士の『日本宗教史』(岩波新書)、阿部泰郎の『中世日本の王権神話』(名古屋大学出版会)などに詳しい。

≪038≫  それでも王法仏法相依思想は王仏冥合を胚胎させる土壌になった。ただし実際に王仏冥合が計画されたり、その制度が検討されたりすることはなかったのである。それに信長や秀吉が近世王法の実行者だとすれば、信長以降の日本では王法によって権門仏教の力は長らく抑えられたのだし、家康の寺請制度などは幕藩体制の中に仏法を細かく散りばめてしまうものだった。

≪039≫  では、中世の王仏冥合の理念はまったく浮上できなかったのかといえば、その通り、浮上できなかったのである。それを本格的に検討するようになったのは、ずっとずっとのちの、近代になって立ち上がってきた日蓮主義運動によるものだった。

≪040≫  明治中期、日蓮主義を研鑽する在家の蓮華会・立正安国会を組織した田中智学は、大正3年にこれを国柱会に組み立てなおすと、多くの共鳴者が輩出していった。国柱会というネーミングには、日蓮が『開目抄』のおわり近くに謳った「我、日本の柱とならむ。我、日本の眼目とならむ。我、日本の大船とならむ」というメッセージを引き継ぐ気概がこめられていた。

≪041≫  その智学の弟子に山川智応がいて、日蓮文書の詳細な解読に当たり、『三大秘法抄』は偽書ではなかったという見解を示した。最近のAIコンピュータによる文体解析でも、同様の結論が示されている。

≪042≫  国柱会が主導した日蓮主義運動は、山川智応、里見岸雄(智学の三男)によって開展していった。それは日本中世には「王仏冥合の国体思想」がすでに動向していたという強い見解となり、そこから法華経思想と日蓮思想が新たな「日本国体学」の骨格として過剰に強調されていくことになった。

≪043≫  かれらは仏教者というより、仏教思想者として日蓮主義謳歌のための著作を次々に発表していった。智学には『宗門之維新』『日蓮主義教学大観』『日本国の宗旨』などが、山川には『日蓮聖人研究』『法華思想史上の日蓮上人』『乙酉決答:日蓮主義の大東亜戦争観』などが、里見には『日蓮主義の新研究』『日蓮上人聖典の新解釈』『法華経の研究』『日本国体学総論』ほか、夥しい著書がある。  著作の中身は、いずれも法華経主義、日蓮主義、ユートピア主義、日本主義で満腔になっている。

≪044≫  これらに共鳴したのが、石原莞爾であり、いっときの宮沢賢治(900夜)であり、北一輝(912夜)や井上日召だった。そこには国体論、天皇主義、八紘一宇論、一人一殺のテロリズム、五族協和の構想、大東亜共栄圏がユートピックに出入りした。いずれも仏国土を謳うものではなく、法華ナショナリズムになっているわけでもなかったものの、その主唱者には法華経主義者が多かった。

≪045≫  なぜ、こんなふうになっていったのか。もしこうした言説や行動が日本仏教が選択し、到達したひとつの頂点だったとしたら、どう説明すればいいのか。残念ながら日本のオーブツミョーゴーは激しく歪んでいったのだと言わざるをえない。

≪046≫  実際には多くの伝統仏教の陣容は皇国主義やナショナリズムの趨勢には与していなかったし、王法の頂点に担(かつ)ぎ上げられた天皇制は、敗戦とGHQの介入によって「民主化」されたことによって、長らく魔法のように語られてきた王仏冥合の呪縛を解かれたのだったろう。けれども仏教界は、こうした趨勢を阻む勇気を持ち合わせていなかったとも言わざるをえない状況の中にいた。

≪047≫  ところで、こうした近代日蓮主義運動については、21世紀の足音が近づいてきてから、大谷栄一の『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館)や『日蓮主義とはなんだったのか』(講談社)が詳細に、かつ鮮やかに描き出すことになった。ぼくは千夜千冊に寺内大吉の『化城の昭和史』(378夜)をとりあげて、そのあたりの多少のマッピングをしてみたことがあったけれど、大谷の研究はすこぶる本格的なもので、まさに近代日本のオーブツミョーゴー問題をまるごと攫っていた。また最近は石井公成監修の『近代の仏教思想と日本主義』(法蔵館)などが多面的な裾野を炙り出していた。

≪048≫  とはいえしかし、智学の系譜の研究者や活動家による日蓮思想の解読が、そのまま日蓮の宗旨や著述や行動の解読になっているかどうかということは、いまだに同定しがたいままになっている。ましてその後の創価学会の活動これらの一端を底支えしているものかどうかというと、これまたなんとも説明しがたいものとして、不問のままなのである。

≪049≫  では、気分をあらためて日蓮の日々に戻っておく。いくつかの日蓮の言動と日蓮自身による説明とを照合しておきたい。それによって日蓮の言動がオーブツミョーゴーと交差するところとまったくそうではなかったところの事情も見えてくるだろう。

≪050≫  まず出家の動機であるが、3つにまとめられる。①生死無常の不安から脱出したかった(妙法尼御前御返事)、②国家や社会に対する疑問が募っていた(神国王御書)、③当時の仏教各派の混乱に対する疑問に挑みたかった(報恩抄)、である。特筆すべきなのは、日蓮には指導者にあたる者がいないこと、仏門に預けられたり促されたりしたわけではないことで、父母や知り合いや国土を育てた者に対しての知恩報恩を出家の動機としていることだ。

≪051≫  12歳のときに近くの清澄寺に入るのだが、ここでも宗派についたわけではない。入山したとみたほうがいい。清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩で、もとは不思議大師という行者の庵だったようだが、ここは慈覚大師円仁が天台の寺に仕上げたところであった。円仁は清澄山の切り立った崖の下で求聞持法の修行をした。日蓮はこうした機縁を重んじた。天台法華との縁(えにし)が始まったのである。

≪052≫  こうして16歳で得度した。智者をめざしたかったようだ。虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給へ」と捧げたところ、満願の日に智恵の宝珠を授かったと書いている(清澄寺大衆中)。

≪053≫  ここからは遊学の日々である。洛中、延暦寺、園城寺、南都、高野山などを巡った。その間、どこで誰の教えを受けたのか、どんな修行をしたのか、何を読んだのか、まったくわからない。一説には延暦寺横川での日々が長く、そこで多くの経典や天台本覚を学んだともおぼしいのだが(俊範という恵心院流の碩学に学んだという説もある)、おそらくは多くの時を一心に法華経を吟じることに費やしたのではないか。そうだとすれば、釈尊の呼びかけに耳を澄まし、釈尊にみずから応えるべき日々を積んだのだったろう。そして、法華経こそが白法隠没する末法の世に蘇り、その意義を死身弘法するべきことを覚悟した。『開目抄』の文脈からはそういう姿が縷々読みとれる。

≪054≫  かくて建長5年(1252)、十数年ぶりに清澄山に戻ってきた日蓮は、旭ケ森の一角で「南無妙法蓮華経」の大音声を放ったのである。法華の行者、もしくは殉教の如来としての第一声だった。

≪055≫  続いて清澄寺の道善房の持仏堂で、最初の説法をした。僅かな聴衆であったろうが、その苛烈なメッセージに山内が驚き、その噂はたちまち周囲に伝播された。

≪056≫  法然(1239)の念仏主義を罵倒したのだ。これを聞いた念仏信者であった地頭の東条景信は大いに怒り、日蓮は寺からも地域からも追放された。清澄寺を離れ、小湊の両親に会いにいった。妙法受持を勧め、父に妙日、母に妙蓮の法号を授けると、初めて日蓮を名のった。

≪057≫  日蓮は自分への仕打ちについて省みる。法華経「勧持品」には、法華経を末法に弘める者は悪口詈言され、刀杖(とうじょう)の害を受け、擯出(ひんずい)される(=居所から追放される)と認められていた。日蓮は「擯出の行者」としてのスタートを切ったわけである。

≪058≫  日蓮が最初の弘法の地として選んだのは鎌倉だった。変事や地震や疫病に苛まれていた鎌倉だ。時の執権は北条時頼だったが、出家して退いたのちも得宗として実権を維持していた。

≪059≫  しばらく松葉谷の草庵で状況と事態のよってきたるところを観察したのち、日蓮はいよいよ日本の近未来に向けてのドラフト『守護国家論』を書くと、続いて本気のプロポーザルを時頼に奉進する。『立正安国論』である。

≪060≫  国土を襲う不穏と災害を法華経によって食い止め撃破すべきこと、誤った信仰による迷妄を払うこと、そうしなければ「自界叛逆」(国内の戦乱)と「他国侵逼」(外国の侵略)から免れられないだろうことを説いた。プロポーザルは時頼からも周辺からもまったく無視された。一方、日蓮の無援孤立を見てとった念仏者たちは、こういう危険な男は抹殺するべきだとして松葉谷を襲撃した。

≪061≫  なんとか難から脱し、下総の富木常念のもとに潜伏した。1年余りだ。何人かの弟子を入信させると、日蓮はふたたび鎌倉に向かい、さらに激しい諸宗折伏の法戦を連打した。浄土教の僧たちとのディベートもおこなった。力の差は歴然である。論戦も勢いも日蓮が圧倒した。

≪062≫  伊豆流罪中、日蓮は『四恩抄』を書いて法難こそ自分が法華経の行者であることを証すものだとし、『教機時国抄』を著して、さきほどの(C)「五綱教判」をあきらかにした。

≪063≫  このあと日蓮は法難を受けては(小松原の法難、龍口の法難)、その苦境を乗り切っていくのだが、日蓮自身は法難のたびに蘇生しているような実感をもったようだ。

≪064≫  龍口(たつのくち)の法難については、「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ」と『開目抄』に書いている。龍口の法難のとき従来の日蓮がおわり、新たな日蓮になったというのだ。

≪065≫  コンヴァージョンというべきか。そうだとしたら『開目抄』は日本の『パンセ』(762夜)にあたっていたと思いたい。

≪066≫  『開目抄』は「五重の相対」(内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対)をのべて、教えを変更することの重要性、つまりはコンヴァージョン(回心・改心)を説いていたのである。

≪067≫  しかしさらに大きな法難がやってくる。佐渡流罪だ。このときは日蓮だけでなく、門下260余人に目が付けられた。日蓮研究史では、佐渡流罪以前を「佐前」、佐渡流罪中を「佐中」、佐渡以降の身延での日蓮を「佐後」という。佐中では『開目抄』や『観心本尊抄』が綴られた。門下のための曼陀羅本尊図顕も多く、のちに「佐渡百幅」として尊ばれている。

≪068≫  佐前・佐中・佐後をまたいで、あいかわらず幕府は揺れに揺れていた。皇帝フビライの外交干渉はしだいに強硬となり、これに日本が対処できないとみると、ついに元・モンゴル・高麗軍が日本に武装船団を送りこんできた。こんなことは日本史上では前代未聞のこと、わずかに寛仁3年(1019)に刀伊(女真の一部)の海賊が壱岐・対馬を襲ってきたくらいのもので、このたびは東アジア最大の巨大帝国が「戦争」を仕掛けてきたのである。日本はどうなるのか。日本国家の一部始終が見直されるべきだった。

≪069≫  日蓮はそれ見たことかとなどは思わなかった。むしろ戦況や戦闘を冷静に分析しようとしたり(一谷入道御書)、兵士たちの心情を配慮する一文を綴ったり、戦役の背景にひそむ意味を考察したりしている(撰時抄)。

≪070≫  『立正安国論』このかた、日蓮は辺土としての日本の将来を憂慮してきたほうだった。日本は法華仏国土になるべきだったが、とうていそうなりそうもない。あらためて仏法が乱れすぎていることに嘆然とした。『撰時抄』では、現在は釈尊の白法があまりに隠没しすぎたままになっているので、代わって南無妙法蓮華経の大白法がダイナミックに流布するしかあるまいと断じた。また念仏宗や真言宗を破折するだけでなく、ついに台密にも文句をつけた。あれほど慕っていたはずの円仁を、源信(1803夜)や安然とならべて指弾した。

≪071≫  慇懃無礼にも丁重に蒙古襲来を調伏してもらおうとしたのだが、日蓮は調伏ではなくて王法のための仏法の一部始終の入れ替えを迫ったのである。蒙古撃退の調伏は真言僧がおこなった。

≪072≫  身延山では7年を送っている。日蓮は弘安5年(1282)の61歳のとき、池上(のちの本門寺)で入滅するのだが、それまでの身延での日々はその半分がずっと体調おもわしくなかったようで、ひたすら門下の者や親しい者たちへの消息を綴り、報恩の思いを認(したた)めている。

≪073≫  これらは佐前・佐中・佐後を通じての“日蓮ブログ集”とでもいうべきものだが、身延時代のものにはしめやかな表現を感じる。さすがの日蓮も自身の往生の準備に入ったのかと思わせもするが、そうではない。半ばは八方に檄をとばしたのである。

≪074≫  いま、身延山には日蓮宗総本山久遠寺があり、山頂には日蓮が父母を忍んで建てたという奥之院思親閣がある。久遠寺は波木井実長(はぎい・さねなが)によって開基された。

≪075≫  周辺の鷹取山や七面山は日蓮宗徒の修行の場になっている。七面山には昔から久遠寺の裏鬼門を護る七面天女(七面大明神)が祀られてきたという伝承があり、日蓮宗もこれを法華経「提婆達多品」に出てくる龍女に比定したりして、のちに七面大明神画像を飾るようにもなった

≪076≫  実は日蓮宗には意外なイコノグラフィがさまざまに参集してきた。大曼陀羅本尊や七面大明神画像もそうだが、ほかにも伝教大師(最澄)や慈覚大師(円仁)譲りの法華守護神に日蓮の「神天上」思想が結びついたとおぼしい「法華三十番神像」があるし、日蓮が守護神と崇めた妙見菩薩・鬼子母神・十羅刹女を独特のイコンに仕立てた「北斗妙見菩薩像」や「鬼形鬼子母神像」もある。

≪077≫  これらは、そもそも法華思想が説かれた霊山会(りょうざんえ)において、十方三世の諸仏・菩薩・諸天が法華行者を守護する誓いをたてたという初源の物語にもとづいている。日蓮の数々の法難を守ったのも、これら十方三世のイコンたちだった。それゆえ多くの異風異体が参集しているのだが、その様相は王仏冥合というより、むしろ「異神冥合」という趣きがある。

≪078≫  行ってみればわかるけれど、身延は近くを富士川が流れて、どこもかしこもたいへん美しい。ぼくは3度訪れた。学生時代、南無の会の主宰による岩間日勇法主の講演会のとき、そしてわが未詳倶楽部の面々たちとの半日だ。そのときもそれぞれ感じたが、身延で日蓮を思うとか日蓮を偲ぶというのは、実はなかなか難しい。静かすぎるのだ。苛烈な日蓮の生涯が如実ではないように思われてしまうのだ。

≪079≫  そんな身延山中のことを思い浮かべながら、少々ながら、火中の栗を拾うようなつもりで今夜の千夜千冊を締めくくりたい。

≪080≫  日蓮には忖度がなかった。容赦もしなかった。有名な「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言にあからさまなように、既存4宗のありかたを激越に否定しただけでなく、時の権力にも妥協しなかったし、論争者の誤謬を許容しなかった。

≪081≫  端的に言って、法華ファンダメンタリズムなのである。法華経原理主義なのである。しかも諌暁(かんぎょう)を辞さない。諌暁は「諌(いさ)め諭(さと)す」ことで、もともとは法華経の中の釈尊の真意への信奉を導くことであるけれど、日蓮が生涯3度にわたって諌暁に徹したため、あえて諌暁運動というふうに呼ばれ、日蓮宗の活動の大きな特色になってきた。

≪082≫  しかし諌暁には苦難が伴う。受難がふりかかる。リスクがある。まさしく2度の流罪と4度の法難が襲ってきた。日蓮だけがそうなったのではない。弟子たちにも襲ってきた。けれども弟子たちは師にまして過激で、信仰戦線の手を緩めなかった。日蓮以降の傑僧たちのプロフィールを、少し追っておく。

≪083≫  将軍足利義教を相手に国家諌暁を厭わなかったのは、まずは日親である。火責め・水責め・大鍋責めを受け、世に「鍋かむり日親」と呼ばれた。

≪084≫  律宗の多い種子島出身の日典は都に遊学中に法華教学の日隆に折伏され、故郷に戻ると律宗批判をしまくった。石子詰めにあって絶命してしまうのだが、弟子の日良が遺志を継ぎ、さらに日増が口永良部島や屋久島の島民を法華に染めた。

≪085≫  家康は法華門徒を警戒していた。信長時代に延暦寺が法華門徒を攻め立て攻略した「天文法華の乱」(天文法乱)で二十一ケ寺の法華寺院は制圧されたものの、そのとき示した抵抗を知っていた。また、信長が「安土の宗論」でディベートが得意な日蓮宗の主張を破る方途を見いだしていたことも知っていた。

≪086≫  妙満寺貫首の日経(にっきょう)が破竹の勢いで折伏弘法を見せて、尾張の浄土宗寺院に詰問状を叩きつけたとき、江戸増上寺の源誉が家康に処置を頼んできた。宗論対決の場を装って痛めつけることにした。当日の朝に暴行を加え、半死半生となった日経は宗論では一言も発することができず、首尾よく浄土宗が勝利した。日経と弟子たちは六条河原に晒された。「慶長の法難」である。

≪087≫  しかし日経は流浪しながらも富山に正顕寺を創建し、不撓不屈の精神を貫いた。千葉の上総地方には「七里法華」とよばれる顕本法華宗の教勢がさかんなのだが、これは日経の法難が起源になっているという。

≪088≫  日蓮にはいつしか「不受不施」という心身の五体から発したようなアティテュードがあった。他宗の者から供養布施を受けない(不受)、日蓮宗信徒が異宗派の僧に施しをしない(不施)、このことに徹したのだ。

≪089≫  日蓮以降も不受不施は守られていったのだが、やがて為政者の意向がこれをゆさぶった。懐柔もあり、除外もあった。秀吉が催した方広寺大仏殿の千僧供養会には日蓮宗も招かれていた。そこには受派がまじっていた。不受派の日奥はこれを批判したが、家康が日奥を召喚して、受派と不受派を対決させて敗北させ、対馬に流した。13年ののち赦免された日奥は、身延山の受派を論難した。仲介を頼まれた幕府は日奥を流罪と決めたのだが、そのときすでに日奥は亡くなっていた。幕府はなんと遺骸を掘りおこし、対馬に流した。

≪090≫  こんな仕打ちがありながら、またここでは説明を省くけれど、谷田部六人衆や福田五人衆などの悲話もありながら、日奥の不受不施派の活動はその後も衰えなかった。

≪091≫  あらためてふりかえると、日蓮没後の日蓮宗は驚くほど多様な法脈に分派した。 日蓮は示寂する前に六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)の集団指導体制を示すのだが、しばらくすると、日興が久遠寺の波木井実長の神祇信仰を非難して、日興が富士山麓に大石寺(現在の日蓮正宗総本山)と本門寺を創設した、ここから日蓮宗はさまざまな流派が分立していく。

≪092≫  いま京都には多くの法華寺院がある。ぼくも「アート・ジャパネスク」の編集制作のため、また裏千家の伊達政和君の案内にも誘われて、何ヶ寺も訪れた。けれども京都がそうなったのは、日像が延暦寺からの迫害を受けつつも、3度にわたる追放の苦難の末に京都開教をめざして妙顕寺を開いたときからのことだったのである。

≪093≫  近代日蓮主義運動の時期にも、さまざまな分派独立や日蓮系の新仏教宗団が生まれていった。 長松日扇の本門仏立宗、藤井日達が満州・インドに創建した日本山妙法寺、久保覚太郎・小谷喜美が創設した霊友会、そこから分派した佛所護念教団、庭野日敬がおこして世界宗教者平和会議(WCRP)や国際自由宗教連盟の設立を率先した立正佼成会、牧口常三郎・戸田城聖の創価学会などである。

≪094≫  分立分派は日本仏教史ではめずらしくないが、最後に特筆しておきたいのは「法華文化」の担い手がいずれも特異な才能を示したことだ。

≪095≫  狩野正信に始まる狩野派絵師の面々、茶屋四郎次郎や角倉了以・素庵と名ディレクターだった本阿弥光悦の仲間たち、大岡越前守・長谷川平蔵・遠山金四郎らの司法者、楽焼の長次郎や尾形乾山らの陶芸者、囲碁将棋をおこした本因坊算砂や大橋宗桂、近松門左衛門(974夜)や井原西鶴(618夜)、葛飾北斎や十返舎一九などだ。北斎にあっては『日蓮一代記』をものしている。法華宗は町衆の中に法華衆をつくったのである。

≪096≫  いずれもアーティストやディレクター、ないしは工匠たちだ。これらを法華アートの脈絡として研究議論する研究はないのだが、そろそろこのへんにも取り組んだほうがいい。ぼくは『山水思想』(ちくま学芸文庫)のなかで、同じ法華宗徒である狩野永徳と長谷川等伯の鍔迫りあいについて書いたことがあるけれど、もっと深部に入って調べてみたいと思ったものだ。

≪097≫  このように見てくると、日蓮の一徹はかえってのちの「多彩の開花」のための「結実の意志」だったのかと感じられてくる。法華衆たちが日本の芸術芸能の精華に打ち込んでいったこと、21世紀にこそもっともっと話題にされるべきである。

≪01≫  名を聞くより、やがて面影は推し測らるゝ心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家の、そこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。(第七一段)

≪02≫  いつしか『徒然草』を言葉のチューインガムのように嚙むことをおぼえた。本を嚙む。そういうことがありうるのである。嚙むうちに味がなくなるということもあるが、もう一枚同じガムを口にして、また発端に戻るということもある。そのように何度も嚙める本というものは、そうざらにはない。ぼくにはそういう趣味はないが、内田百閒や石川淳や井伏鱒二をそのように嚙む人がいることは承知している。

≪03≫  もっともぼくが本を嚙むにはオリジナルの日本語でありたい。その日本語も多言や饒舌であってはならない。少なさや不足、すなわち稀少であってほしい。それから日本のことを書いていてほしい。ぼくはワインを口で転ばせ舌で味わうことを自慢するより、味噌汁の菜を箸でそそっとたぐり、山葵醬油の厚揚げなどを1口2口、嚙んで味わいたいのである。そうなってくると古典である。それもいろいろ絞られてくる。和歌俳諧は断然だが、それは省く。

≪04≫  命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくきすがたを待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。(第七段)

≪05≫  パンフレットの文章をおもわせるような『徒然草』に似て、ときどき目を走らせたくなる本がいろいろある。たとえば『伊勢』『枕』『明徳記』『方丈記』『風姿花伝』、心敬の『ささめごと』、『宗長手記』『西鶴織留』、武蔵の『五輪書』、徂徠の『政談』、天心の『茶の本』などがつらつら浮かぶ。

≪06≫  素行の『聖教要録』、真淵の『語意・書意』、それに兆民の『一年有半』もそのたぐいだとおもう。いずれも短くて、濃くできている。文庫でいえばそれぞれ200ページをこえないだろう。そういう何度も嚙める本を大事に読んできた。が、どうも五回以上を読んでこなかった。

≪07≫  それが『徒然草』のばあいは全体を読み通すでもないのに、しばしば目を通す。段に分かれているので拾い読みしやすいといえばそうなのだが、それは『伊勢』も『枕』も同じこと、そこが特徴なのではなくて、その言葉をチューインガムにしたまま、散歩に出たり、車窓の外を眺められるのが『徒然草』なのだ。読み耽るわけではなく、口に入れたまま読める。それが本を嚙むということだ。

≪08≫  これを教えてくれたのは意外にも与謝野晶子である。晶子の『徒然草』現代語訳を読んで、その含蓄にひたすら驚いた。それがずっと残響して『徒然草』を何度も読めるようにしてくれた。ちなみにあえて断言しておくが、いまもって晶子を凌駕する現代語訳の文はない。

≪09≫  何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。たゞいふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。 古は「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て」と言ふべきを、「たちあかし白くせよ」と言ひ、最勝講の御聴聞所なるをば「御講の廬」とこそ言ふを、「講廬」と言ふ、口をしとぞ、古き人は仰せられし。(第二二段)

≪010≫  かつてのぼくには『徒然草』は煩わしかった。日本のアタラクシアを書いているはずなのに、この人にはアタラクシアがないと見えた。説教臭いのである。うるさいのである。もっと静かに観照できないのかとおもった。ところが、これはまちがっていた。若気の至り、見当ちがいだった。兼好こそは煩わしいものを遠ざけ、うるさいものをマスキングすることを発見していた。

≪011≫  そういうことにやっと気がついたのは、たとえば「“夜に入りて、物の映えなし”といふ人、いと口をし」で始まる第一九一段で、物事は昼に見るより夜に見たほうがよく見えるのだということを指摘しているあたりの感覚が、ふいにわかるようになってからである。そうか、引き算かと思った。

≪012≫  かくして「人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく」、「匂ひも、ものの音も、たゞ、夜ぞひときはめでたき」と書いた。夜の灯でかえって目立つ美しさを言っているのではなく、夜でなければ見えない色、聞こえない音を言っている。それには昼をマスキングする必要がある。どこかに隠す必要がある。その役を兼好は一人で『徒然草』全二四三段をもって引き受けてみせた。

≪013≫  兼好は昼の世を「愚かさ」として綴ったのである。名利や利や位に惑う愚かしさを告発し、そんなものは隠したいと思ったのだ。

≪014≫  名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。財多ければ、身を守るにまどし。害を買ひ、累ひを招く媒なり。身の後には金をして北斗を支ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。(第三八段)

≪015≫  煩わしくなるものを愚かしいとみなしたのである。第七五段がこのことを了解する支点となった段だろう。「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるゝ方なく、たゞひとりあるのみこそよけれ」と書き出して、世の連中がつれづれになれない感覚、すなわち「じっとしていられなくなる感覚」はどういうものかと問うた。

≪016≫  兼好が言うには、世間の動向に調子をあわせれば、心はたえず外界にとらわれて惑いやすく、人と交際すると交わす言葉はきまって相手に気を配っているのだから、めったに自分の心にはならない。そのうえ人間関係には喜怒哀楽が理由なく生じるから、そのようなものに巻きこまれている自分をおもうと「まどひの上に酔へり、酔ひの中に夢をなす」というのだ。

≪017≫  心が迷っているところへもってきて世間のことや相手のことに引きまわされるのだから、さしずめ酔っ払っているうえに悪い夢を見ているようなもの、その中途半端な夢に引っかかったら、いたずらに果てしなく迷うだけである。ここは伏せなさい、マスキングしなさい、一挙に断ちなさい、いっさいの見方を変えなさいというのだ。

≪018≫  これは一言でいえば、「侘び」と「つれづれ」を合わせた批評の確立である。無常論ではあるが、たんに無常を詠嘆するというのではない。所在がないということ(つれづれ)を過不足なく説明した。こんなことはそれまでどんな連中も書かなかった。近代における文芸批評を確立したかった小林秀雄が、あえて中世に戻って『無常という事』(角川文庫)で気にするのも当然だった。

≪019≫  老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時こそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。(第四九段)

≪020≫  兼好の無常観には、深いのか浅いのか、寄っているのか引いているのか、わかりにくいところがある。ペシミズムなのか面倒くさがりなのか、文句を言いたいのか諦めたいのか、はっきりしないところもある。

≪021≫  あるとき、秦宗巴の『徒然草寿命院抄』を読んだ。慶長年間に『徒然草』のブームともいうべきがおこり、烏丸光広が句読点や清濁をつけた版本を刊行し、松永貞徳のごときは公開の場で『徒然草』を講じたほどだったのだが、そんな気運があってのことか、宗巴は『寿命院抄』を著した。

≪022≫  注釈である。注釈ではあるが、仮名草子をつくれるほどの宗巴だから、ハンドリングはいい。正徹本と構成を変えているところもある。諸々おもしろかったが、その総論五条に『徒然草』の本質をまとめた段があって、こう書いていた。

≪023≫ 
一、兼好得道ノ大意ハ儒・釈・道ノ三ヲ兼備スル 
一、草子ノ大体ハ清少納言枕草紙ヲ模シ、多クハ源氏物語ノ詞ヲ用ユ 
一、作意ハ老・仏ヲ本トシテ、無常ヲ観ジ名聞ヲ離レ、専ラ無為ヲ楽シム事ヲ勧メ、傍ラ節序ノ風景ヲ翫ビ、物ノ情ヲ知ラシムル

≪024≫  儒・仏・道、とりわけ仏教と道教を借りて無常を観じ、無為の境地を遊んで「もののあはれ」の感想を、自然や物事の推移とともに綴ったものだというのである。いまの学者はなかなかこんなふうに竹を伐るようには要約できるものではないが、あまりに評価しすぎているところもある。

≪025≫  宗巴のあと、林羅山が『野槌』を、松永貞徳が『なぐさみ草』を、北村季吟も『徒然草文段抄』を書くので、それらの寛文期の注釈とくらべてみるとわかるのだが、宗巴のほうが一般性に富んでいる。しかしながらこの宗巴の指摘が兼好の本意を言いあてているかどうかといえば、検討の余地がある

≪026≫  無常変易の境、ありと見るものも存ぜず。始めあることも終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化なり。何事か暫くも住する。この理を知らざるなり。「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶は、人によりて、日によらず。(第九一段)

≪027≫  兼好はしばしば無常に言及する。いろいろ暗示的であろうとして、その暗示にとどまりたいようなところがある。「人は、たゞ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり」(四九)、「無常の来る事は、水火の攻むるよりも速やかに、遁れ難きもの」(五九)、「無常変易の境、ありと見るものも存ぜず」(九一)、また「閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや」(一三七)と綴った。「人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ」(二一七)、「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし、これ無常の調子」(二二〇)という表現もある。

≪028≫  おそらく「無常」という言葉をそのままつかっているのはこの六段だけだとおもうのだが、それ以外にも似たような指摘や話はいくらも出てくる。最後に近い第二四一段の「望月のまどかなること」でも、如幻の生を嘆いてみせて、無常観を説いた。

≪029≫  けれども、そこから宗巴のいうように、この無常が「もののあはれ」にまで進めるかというと、そこはあやしい。数えたことはないけれど、頻度をいうなら「無常」よりも「あはれ」のほうが多いだろう。とくに前半には「もののあはれ」という言葉づかいが多い。

≪030≫  しかし、兼好のいう「あはれ」や「もののあはれ」は世の連中と価値観を交わすときの合い言葉のようなものではなかったか。「どうですか、お忙しいですか」「儲かりまっか」「みなさん、お元気ですか」と言うように、「秋ですねえ、それで、もののあはれは?」と言っている。また、そのように「あはれ」を費いきることが兼好の気分だったようにも見える。兼好はけっこう現世的なのだ。

≪031≫  友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身つよき人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、慾ふかき人。善き友、三つあり。一つにはものくるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。(第一一七段)

≪032≫  兼好はリスクテイクを好まない。それなら無常観のほうはどうかというと、これは無常の背後にある仏教的事情よりも、無常の前後をよくよく凝視していた。宗巴の言うようには仏教の厭世観にとらわれていなかった。

≪033≫  兼好は「もののあはれ」を思索するほうへは、あえて進まない。では無常思想を狭めているかというと、まさに限界している。しかし、そこに限界していることこそが実は『徒然草』の本懐だった。視界がつねに絞られていることが、何度でも『徒然草』が読める所以になる。

≪034≫  これはきっと兼好にディマケーションがあるということだろう。ディマケーションとは「分界」ということであるが、大和絵でいえば画面に金雲をたなびかせて伏せ場をつくったり、絵巻に斜めの区切りを入れて転換をはかったり、等伯や宗達のように平気で余白をとって、他の事象との関係を自立させたりすることをいう。日本語にはこれを巧みにあらわす「配分」「配当」とか「割り当て」という言葉があった。日本に和歌俳諧などの短詩型文芸がおおいに発達したのも、このディマケーションによる。ここには律動と意味がふたつながらディマケーションした。

≪035≫  世の中をディマケーションできた兼好はいたずらなリスクヘッジに関心を示さず、それゆえ何事をも貪らなかった。この感覚は仏教一般の無常観というより、ぼくが見るにはナーガルジュナ(龍樹)の「中観」に近かったように思う。こんなふうに綴っている。

≪036≫  すべて人に哀楽せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくゝ心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪の芸をもちて堪能の座に連なり、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事のやまざるは、命を終ふる大事、今こゝに来れりと、確かに知らざればなり。(第一三四段)

≪037≫  兼好は、無常という光景や顚末を限界を通して語った。世の全貌に無常の網をかけようというのではなかった。無常は世の部分であって、だからこそその部分が超部分になっている。さきにあげた第二四一段の話も、よくわかるように、限りない願望と限りある無常とが比較並列されている。そのうえで限界としての無常が超部分になりうると綴った。

≪038≫  兼好は時の流れに目を凝らし、耳を澄ましたのである。目を凝らし耳を澄まして、それで何が見えてきたのか聞こえてきたのかということは、案外、熱心には綴らない。見えたものや聞こえたところを切り取って、その切り取りにあたっては前後を綴る。そういう文章編集の方法なのである。ただ、そのときにちょっと工夫をした。時の前後をゆするといったらいいだろうか。主題となりそうなことを、さらりと残香のほうに移すといったらいいだろうか。このフラクチュエーション(揺動)が『徒然草』をおもしろくさせた。それで時の価値が動くのだ。

≪040≫  それでは、今宵の結論を一言。『徒然草』は「滅びの文学」ではなく、「綻びの文学」である。それは「綻びのチューインガム」なのだ。

≪039≫  その「時の価値」が読み手のこちらにふいに上がりこんでくることがある。まるで縁側で一杯お茶を飲むかのような風情で、上がりこんでくる。そうすると、こちらも、まあ、一杯どうですか、すっかり秋めきましたなあと言いたい気分になる。そういう会話がこちらの手元に綻んでくるわけなのだ。そのお茶が兼好が点てた「無常というお茶」である。『徒然草』を読むとそういう気にさせられる。これは「綻び」なのだ。向こうからこちらに加わった綻びで、ゆるみで、つまりはフラクチュエーションなのだ。

≪01≫  井上靖74歳の最後の作品に近い。利休を描いた作品だが、正面から扱わず、本覚坊という半ばは架空に設定されたような弟子が遺した文書を通して利休の謎に迫るという手法をとった。 

≪02≫  しかもその文書をたまたま見出した著者が、適宜、手を入れ、読みやすくしたという恰好をとった。だから全編は本覚坊の喋り言葉にもとづいた告白小説になっている。そのため複雑に輻湊する利休の周辺の出来事が、つるつると細うどんを食べるような、淡泊ではあるが、滋味深い味に仕上がった。もはや日本桃山の謎を濃い味で綴る気にはなれなかったということなのだろう。 

≪03≫  本覚坊は実在していた。天正16年と18年の茶会記に名前だけは見えている。ただし、本覚坊の手記のようなものはいっさい遺ってはいない。つまりはこの作品は井上靖の最晩年の幻想が生んだ想像の時代記なのである。 

≪04≫  歴史を舞台にする日本の作家なら、一度は利休の死を扱ってみたいにちがいない。なぜ利休は殺されたのか。何が秀吉を怒らせたのか。そこにはだれがかかわっていたのか。  

≪05≫  これらの謎は物語にするにはうってつけである。ところが、これが意外に難しい。だいたい実朝、世阿弥、西行、一休、利休、宗達、芭蕉、歌麿、蕪村、秋成、北斎といった、日本を代表する「文化」を小説にするのは、よほどの工夫が必要である。実際にもいい作品がない。世阿弥には杉本苑子の『華の碑文』が、西行には辻邦夫の『西行花伝』があるものの、必ずしも容易ではなかった。たとえば山崎正和の戯曲『世阿弥』は、ぼくなどにはかなり不満なものだった。ぼくの印象では、一休と良寛を書いた水上勉が一等抜きん出ていたろうか。 

≪06≫  利休についても同断である。ただし、利休については野上弥生子の『秀吉と利休』が早くからの出色の成果となったため、その後、何度も利休をめぐる小説や評伝が試みられたにもかかわらず、あまり成功しなかった。  

≪07≫  野上の『秀吉と利休』は、利休が堺で朝の目覚めをする場面からはじまり、利休が自信に満ちて静かに自害するまでを、あくまで利休の意志において描いた大作で、利休より先に秀吉の勘気にふれて耳と鼻を削がれて殺された山上宗二が隠れた鍵を動かしていく。野上弥生子はこの作品を77歳から79歳にかけて『中央公論』に連載したのだが、井上靖にしても野上弥生子にしても、どうも利休に向き合うにはそれなりの“時熟”というものが要るらしい。 

≪08≫  ともかくも、この『秀吉と利休』のほかには、なかなか利休小説は成功しなかった。ぼくが読んだ範囲では三浦綾子の『千利休とその妻たち』が収穫だったが、これは主人公が妻のおりきになっている。そこで利休を深めるには、どうしても村井康彦らの研究で空腹を癒すということになる。 

≪09≫  そういうなかでは、『本覚坊遺文』は淡いものながらも何かの光を封印できた。連載当時から力作の評判が高かった『秀吉と利休』とは対照的である。 

≪010≫  その淡い光というのは「侘数寄常住」ということである。侘数寄に生きた男たちの心ということである。茶の湯を通して「侘数寄常住」を試みた侘数寄者たち、利休、有楽、宗二、織部、宗旦らを、井上靖はいまはすっかり遠のいてしまった日本の淡い光にしたかったのであろう。あくまで濃くはしたくなかったようだ。そのため、わざわざすべての出来事を本覚坊の丁寧な言葉づかいによる回想の中においた。「それからまた、師利休が東陽坊さまにお贈りした今焼茶碗をお取り出しになって、私の前にお置きくださいました」というぐあいなのだ。 

≪011≫  もともと井上靖は「唐大和上東征伝」を素材とした『天平の甍』において、すでに文意を抑制するという技法をもっていた。これは『敦煌』『楼蘭』にも効いた。 

≪012≫  それからまた、切れないはずのナイロンザイルが切れるという一事に、死んだ小坂と残った魚津のアンビバレンツな関係を絡ませて『氷壁』を描ききったように、井上にはもともと「運命」をスケッチするのが得意の技だった。これは『淀どの日記』『補陀落渡海』などにも延長されている。なにしろ秀吉・秀忠によって宗二と利休と織部が続けて三人にわたって殺され、右近と光悦と宗箇らが運命の行方を追いやられたのである。 

≪013≫  この作品にもこれらの技が生きている。もうひとつ、茶の湯の道具や作法のいちいちに分け入らなかったのが、よかった。茶数寄の用語はそこかしこに散りばめられてはいるのだが、ごくあっさりと処置されている。 

≪014≫  とかく茶の湯まわりの話はくどくなりすぎる。数寄者たちにもくどい連中が少なくない。くどくなっては、侘びはない。これはかつて川端康成が『千羽鶴』で警告したことだった。 

≪01≫ 野垂木 

≪02≫  著者は「てりむくり」の民間研究者だ。建築設計の出身のようだが、どんな人なのかは知らない。長らく放置されてきた日本独自の曲面デザインの問題に正面きってとりくんだ。ぼくが知るかぎり、類書はない。この一冊が唯一の研究書であって案内書だ。読書の愉しみはどんな領域であれ、こういう一冊に出会えることにある。どこかの町にいて、その町を知る三本足のカラスに出会ったようなものだ。 

≪03≫  表題の「てりむくり」は変わった用語だが、「照り起くり」と綴る。照りは反りのことを、起くりはゆるやかな起き上がりのことをいう。建築用語というより、昔から棟梁たちがつかってきた。「てりむくり」の典型はいまでも風呂屋や和風旅館の正面の唐破風のカーブの線でよく見かける。左右に広がった屋根の端が反った照りの流れを中央に受け、そこからむっくり起き上がった柔らかい起くりが構える。中央がなだらかな山、左右に流れた両端がすこし反る。この2つの曲線がくっついている。これが「てりむくり」である。西本願寺飛雲閣や東照宮陽明門や各地の唐門に端的だ。 

≪04≫  ぼくはこの唐破風がずっと好きだった。郷愁をすら感じる。五七五七七のリズムを生み出した和歌の完成度に通じるものがある。唐破風にはなんともいえない「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)がある。 

≪05≫  日本家屋の屋根は直線的で平面的な切妻をベースにして、寄棟屋根や入母屋屋根などのヴァージョンをつくってきた。そのなかにカマボコ形にふくらんだ起くり屋根の曲線と軒先に向かって反っていく照り屋根の曲線とがあった。 

≪06≫  起くり屋根と照り屋根の曲線は、相反する関係にある。その凸曲と凹曲との相反する曲線を巧みに接続させ連続させたのが「てりむくり」である。神社建築、神輿、唐門などの屋根にはたいていこの「てりむくり」が生きている。 

≪07≫  しかし「てりむくり」はたんなる波状曲線ではない。それなら反転曲線にすぎない。たとえばヨーロッパ建築にも、古代ギリシア期にイオニア式の柱頭を飾ったヴォリュートやバロック期の軒先や窓枠を飾ったカルトゥーシュという線がある。流水文様あるいは植物文様のような線で、これが複雑に組み合わさった装飾線はたしかにヨーロッパならではの景観を補助してきた。アールヌーヴォーにもこの線が乱舞した。けれどもこれらはあくまで装飾文様のための線で、それが屋根の表象に出てくることはない。 

≪08≫  日本の屋根の「てりむくり」は箕甲という二層構造の厚みが生んだ独得のカーブなのである。屋根の上側の野垂木の曲線と下側の軒裏の化粧垂木の曲線の幅がつくるものを箕甲というのだが、その曲面ウェハース型ともいうべき箕甲が、まことに優美で永遠な二重曲線性をつくった。デザインが先行したのではない。工法や技能がつくりだした表象なのである。ぼくが好きなのはこの二重てりむくり曲線なのである。  

≪09≫  おそらく「てりむくり」が出現したのは弘仁貞観 以降のことで、最初は密教寺院の軒先か、あるいは神仏習合がすすんだ神宮寺の前面にあらわれた。 

≪010≫  奈良時代の寺院は仏を安置する金堂中心の建物で、そこには僧堂や礼拝のための空間はつくられていなかった。それが密教導入後は多様な機能をもつ空間構造が要求されるようになったにちがいない。本書によれば、この多様なニーズにこたえる建築の工夫としては、ひとつには正堂(本堂)の前に礼堂を新たに一棟つくってしまう方法と、もうひとつは正堂の前面の庇を長くのばし、その軒下に生じた空間を拡充していく方法とがあった。後者は元の屋根をそのまま活用する方法なので、別棟を立てるよりもコストがかからない。庇を長くとったぶん孫庇を設ければ、そこに別空間もつくれる。  

≪011≫  どうもこの軒下空間の拡充の方法から「てりむくり」も生まれたのではないかというのだ。ただし、重い瓦屋根のまま長く延長するのは建築的強度に限界がある。そこで途中から檜皮葺の屋根をくっつける。接合する。そしてその檜皮葺の屋根に正面性をもたらすために、破風という様式を工夫した。そこにさらに和漢折衷の感覚が加わった。瓦屋根が本来もっているソリ(照り)に、檜皮のもっているムクリ(起くり)の曲面加工性をたくみに連続させたのである。   

≪012≫  著者は「てりむくり」が中国・韓国にも、インドや東南アジアにも、またイスラム寺院などにも見られないことを点検した。むろんヨーロッパにも装飾文様をのぞいてそんな様式はない。そうした点検のうえで、「てりむくり」は日本独自の“発明”だったと断言する。 

≪013≫  なぜ日本にこのような独自の曲面あるいは曲線が生まれたかという説明は、朝鮮の郷歌と異なる和歌が生まれた理由や、ステップロードの衣装とも東アジアの衣装とも異なる着物が生まれた理由の説明などと同様に、また茶室の躙口がどのように生まれてきたかの説明と同様に、正確に解明することはむつかしい。おそらくは神仏習合と本地垂迹が進み、「寺院の礼堂と同じ役割を担う拝殿が、神のいる本殿の前につくられ」、端的にいうのなら、仏教建築にひそむテリと自然信仰からおこった神祇建築のムクリとが習合したのであろう。まさに絶対矛盾的自己同一だった。 

≪014≫  しかし、いったん生まれた「てりむくり」はその後の日本人の心をとらえた。それだけではなく、明治以降に、国際社会に打って出ることになった日本が日本人の造形感覚の代表的なものとして、これを象徴的にプレゼンテーションしていくことになった。すなわち和漢折衷から生まれた「てりむくり」は、明治を迎えて和洋折衷の象徴にもつかわれたのである。    

≪015≫  近代の「てりむくり」は初期には国内各地に出現した「擬洋風建築」にあらわれる。大工棟梁の立石清重の設計による松本開智学校はその典型だ。 

≪016≫  つづいて海外の万国博の日本館にも「てりむくり」が頻繁に活躍した。とくに1904年のセントルイス博覧会では久留正道が寝殿造りの釣殿風のパビリオンに唐破風をつけ、日本フェア会場の入口にも日光陽明門を擬した「猫の門」をつくって、そこに千鳥破風と唐破風をくみあわせた。久留は1938年のシカゴ博でも平等院鳳凰堂を模した日本館をつくって、まだ若かったフランク・ロイド・ライトに強烈なインパクトを与えた建築家である。 

≪017≫  その後も、妻木頼黄、伊東忠太、岡田信一郎たちが唐破風の「てりむくり」を記念碑的な建築や東京歌舞伎座のような建物に頻繁に登場させるのだが、やがて日本が満州事変に向かうなか、多くの大日本帝国式の記念建築は「帝冠様式」とよばれる照り屋根だけのものになっていく。 

≪018≫  このあたりの事情については、すでに井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』をとりあげたときにもふれておいた。日本のファシズム建築は、これは強調しておいてよいことだろうが、九段会館(軍人会館)にみられるように、「てりむくり」の矛盾的造形を排除したといってよい。「帝冠様式」が「てりむくり」をかかえこめなかったことは、日本のファシズムが「絶対矛盾的自己同一」を許容しなかったことを暗示する。 

≪019≫  戦後、「てりむくり」は現代建築に蘇ってきた。最も多く「てりむくり」を導入したのは村野藤吾である。大阪の新歌舞伎座、日比谷の日本生命ビル、宝塚カトリック教会、箱根の樹木園休息所、小諸の小山敬三美術館、新高輪プリンスホテルなどには、大小の「てりむくり」が組み合わされていた。  

≪020≫  村野藤吾は、最初は大阪の新歌舞伎座の前面のように、実に36もの唐破風が連続するという大胆を主張するのだが、その後は、「てりむくり」を建築の基本構造のコンセプトにまで深めていった。それは「建築そのものを地表の皮膜の起くりととらえ、立ち上がった起くりはその根源で照りながら地表に還元されていると見立てている」というようなところにあらわれる。ぼくも何度か訪れた宝塚カトリック教会にはこの思想がよく具現化された。 

≪021≫  本書は、村野によって華麗に再生された現代建築における「てりむくり」の表現動向を、その後の世代の建築家の石井和紘、渡辺豊和、葉祥栄、鈴木エドワード、高松伸などの作例のなかにも追っている。その一方で、神輿や風呂屋や霊柩車などにみられる唐破風の「てりむくり」の実例もカバーする。ともかく本書一冊がまさに照り起くりそのものとしてうねっている。 

≪022≫  このような試みはもっともっとあらわれていい。「てりむくり」だけではない。たとえば躙口と床の間をもった四畳半に代表される茶室は日本にしか見られないものであるが、そこには朝鮮民家からの影響や中国山水画に描かれた点景にヒントを得ているところもありながら、それでもなお類例を見ない空間様式と遊芸様式の統合が確立されたデザインがある。さきほども書いたように、和歌という様式も、よくよく考えてみると不思議なもので、なぜ五七五七七というリズムが確立したのか、そこになぜ枕詞や縁語や歌枕が加わったのか、実ははっきりしていないのだ。 

≪023≫  空間様式や美術様式ばかりではない。空海の密教や山崎闇斎の垂加神道や三浦梅園の反観合一の条理学にも独自なものがある。これらは構法や工法がもたらした思想のようなところがある。   

≪024≫  べつだん日本の独自性を探しまわってこれを並べたて、それを誇る必要はないけれど、これまでの研究があまりにもそちらに向いてこなかったということも否めない。また、日本文化の独自性を誇ろうとするあまり、井上章一が建築史の観点からいつもそこを問題にしてきたのだが、勝手な推理や都合のよい応援事象を牽強付会にくっつけて、独自性の証拠にしてきたというザマが多かったことも否めない。 

≪025≫  だからともかくも、もっともっと突っ込んでいくべきなのだ。あまりにも見えないままになっていることが多すぎる。急に唐突な話をするようだが、わかりやすい例でいえば演歌だ。演歌が日本人のなにがしかの心情を象徴しているだろうことは多くが認めるところだが、さて、どのようにしてあのような演歌の特徴が確立していったのかということになると、中山晋平や古賀政男の研究をはじめ、ほとんど手をつけられていない。ぼくが影響をうけた小泉文夫さんはなんとかそこに着手しようとして、途中で急逝してしまった。武満徹さんも演歌を調べるには浄瑠璃から豊後節が出てきたところを考えなければいけないよねえと言っていた。 

≪026≫  実証だけが研究ではない。豊かな想像力も必要だ。もっと以前のことをいうなら、「日本」が「日本流」をつくりだすプロセスに共通OSのようなもの、プログラミング言語の文法のようなものがあったことも研究するべきである。 

≪027≫  ひるがえって、「てり」と「むくり」は音楽でいうなら陽旋律と陰旋律であり、言語でいうなら漢字仮名まじり文であり、衣裳でいうなら片身替りなのである。そこには日本の文法がある。そういう意味で、本書『てりむくり』は記述にやや説明不足があるものの、勇気ある一冊だった。あまり話題になっていないようだが、批評批判を含めて本書がもっと読まれることを期待している。 

≪023≫  空間様式や美術様式ばかりではない。空海の密教や山崎闇斎の垂加神道や三浦梅園の反観合一の条理学にも独自なものがある。これらは構法や工法がもたらした思想のようなところがある。   

≪024≫  べつだん日本の独自性を探しまわってこれを並べたて、それを誇る必要はないけれど、これまでの研究があまりにもそちらに向いてこなかったということも否めない。また、日本文化の独自性を誇ろうとするあまり、井上章一が建築史の観点からいつもそこを問題にしてきたのだが、勝手な推理や都合のよい応援事象を牽強付会にくっつけて、独自性の証拠にしてきたというザマが多かったことも否めない。 

≪025≫  だからともかくも、もっともっと突っ込んでいくべきなのだ。あまりにも見えないままになっていることが多すぎる。急に唐突な話をするようだが、わかりやすい例でいえば演歌だ。演歌が日本人のなにがしかの心情を象徴しているだろうことは多くが認めるところだが、さて、どのようにしてあのような演歌の特徴が確立していったのかということになると、中山晋平や古賀政男の研究をはじめ、ほとんど手をつけられていない。ぼくが影響をうけた小泉文夫さんはなんとかそこに着手しようとして、途中で急逝してしまった。武満徹さんも演歌を調べるには浄瑠璃から豊後節が出てきたところを考えなければいけないよねえと言っていた。 

≪026≫  実証だけが研究ではない。豊かな想像力も必要だ。もっと以前のことをいうなら、「日本」が「日本流」をつくりだすプロセスに共通OSのようなもの、プログラミング言語の文法のようなものがあったことも研究するべきである。 

≪027≫  ひるがえって、「てり」と「むくり」は音楽でいうなら陽旋律と陰旋律であり、言語でいうなら漢字仮名まじり文であり、衣裳でいうなら片身替りなのである。そこには日本の文法がある。そういう意味で、本書『てりむくり』は記述にやや説明不足があるものの、勇気ある一冊だった。あまり話題になっていないようだが、批評批判を含めて本書がもっと読まれることを期待している。 

≪01≫  慈円をどう読むか、ずっと課題だった。あの晦渋な文体をどう読むかではなく、慈円の意図をどう読むかということである。 

≪02≫  日本人として、日本の歴史を読む者として、この課題はまことに大きいものがある。ふりかえって、歴史家や国文学者が『愚管抄』を本格的に採り上げるようになったのは、せいぜいここ50年のことである。小林秀雄や保田與重郎や坂口安吾などの、戦前から独自の思索を示してきた歴史好きの文学者たちもこの課題を避けていた。慈円をこそ綴ってもよさそうな、その後の石川淳や花田清輝や梅原猛にも、慈円は薄かった。 

≪03≫  べつだん『愚管抄』が綴った「道理の歴史思想」を把握すること自体はそんなに難しいわけではない。その歴史思想を慈円という特異な人物が綴ったことを同時に視野に入れることが、ぼくにとっての課題だったのである。 

≪04≫  この課題に初めて本格的に挑んだのは、知るかぎりでは大隅和雄だった。『愚管抄を読む』(1986・平凡社)が、慈円の歴史思想の解読だけではない視野を提供していた。これを継いだのはおそらく五味文彦あたりだろうか。他の国史や国文の者たちはあいかわらず慈円に目が狭い。 

≪05≫  このことは近現代において最初に慈円に本格的な目をむけたのが筑土鈴寛(つくど・れいかん)であったにもかかわらず、今日、ほとんど筑土鈴寛の彫琢の成果が注目されていないことにもあらわれている。そこを大隈や五味は一歩も二歩も踏みこんだ。けれども、これらの成果はまだ日本思想の一角にくみこまれてはいない。 

≪06≫  保元元年に日本は「武者ノ世」「乱逆ノ世」になった。1156年である。ヨーロッパではリューベックとロンバルディアに都市同盟が結成され、中国では朱子が格物致知を説いていた。 

≪07≫  この年の7月2日、鳥羽上皇が亡くなり、7月11日の暁から明け方にかけて日本がめまぐるしく動いた。そこで、慈円も驚くほどの複雑な人間模様の対立が渦巻いた。 

≪08≫  まず左大臣藤原頼長(弟)と関白藤原忠通(兄)が衝突し、これを庇って鳥羽院に疎まれた崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)が対立し、これにそれぞれくっついて平忠正(叔父)と平清盛(甥)が刃を交わし、さらに源氏一族では源為義(父)と源義朝(子)が闘いあった。骨肉相争う朝廷政治の内紛に「武者」が初めて登場したときでもある。 慈円はこの保元の乱とともに生まれた。久寿2年(1155)のことである。 

≪09≫  3年後には平治の乱がおこる。慈円自身が「鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトハヲコリテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と『愚管抄』に書いたように、慈円は「乱逆」と「武者」の暴発とともに時代の波を生きた人物だった。同世代には平知盛・源義経・北条政子・建礼門院徳子・鴨長明がいる。 

≪010≫  しかし慈円ほどにこの「乱逆の世」を痛々しく感得し、これをつぶさに観照し、そこから日本の歴史というものを捉える試みに分け入った者はいなかった。こういうことをしたのは慈円が最初のことだった。 

≪011≫  こうした歴史観の披瀝をするにあたって、慈円は天台座主という仏教界の最高位にいた。 のみならず慈円は摂関家に生まれた名門でもあった。それも白河院から鳥羽院におよぶ三代の摂政関白を17年にわたって維持しつづけた“法性寺殿”こと関白藤原忠通の53歳のときの子であって、13人にのぼる兄弟には近衛基実や九条兼実など、その後に関白になっている者がずらり揃っていた。当時の日本社会の最高の地位にいた一門の者だったのである。 

≪012≫  日本人は、このような人物の歴史観に慣れていない。トップの座についたアリストクラシーの歴史観を受け止めない。聖徳太子や藤原冬継や北条泰時を軽視する。どちらかといえば西行や兼好法師や鴨長明の遁世の生き方に歴史観の襞をさぐったり、民衆の立場というのではないだろうが、『平家』や『太平記』にひそむ穢土と浄土のあいまに歴史を読むのがもっぱら好きだった。 

≪013≫ 為政者に対しても、将門や義経や後醍醐のような挫折者や敗北者に関心を示して、天智や頼朝や尊氏のような勝利者がどのように歴史にかかわったかということには、体温をもって接しない。系統から落ちた者をかえって熱心に読む。そのような傾向は、北畠親房の『神皇正統記』がいまのいままで、あまり議論になってこなかったことにもあらわれている。 

≪014≫  けれども『愚管抄』は、そうした従来の判官贔屓の好みだけでは読めないのである。 

≪015≫  もうひとつ、難点というのか、奇妙なことがある。慈円が天台座主だったからといって、『愚管抄』に仏教思想や天台教学や本地垂迹思想を読もうとしても、たいした成果は得られないということである。『愚管抄』はそういう仏教思想をつかわずに、日本の歴史というものを綴っていた。 

≪016≫  なぜそんなふうになったのだろうかというのが、ぼくが長年にわたって抱いてきた関心だった。 

≪017≫  慈円は1歳で母を亡くし、10歳で父を失い、13歳で出家した。20歳で大原に隠棲して天台法華を学び、翌年には比叡の無動寺に入って千日入堂をはたした。 

≪018≫  こういえば、いっぱしの仏道修行に励んだかのようだが、いや、実際にはそのような覚悟のある人物だったとおもわれるのだが、周囲の目がそうさせなかった。16歳ではやくも一身阿闍梨の称号を許され、いきなり法眼の位を与えられた。 

≪019≫  仏門や遁世を嫌ったのではない。慈円は25歳で比叡を下り、兄の九条兼実のもとに赴いて「遁世したい」ということを申し出るのだが、兼実に思い止まるように説得されてしまっている。隠棲への思いはあったのに、名門の出自を捨てるには至らなかったのだ。そればかりか、結局は比叡山延暦寺の中央に摂関家から送りこまれた管理者のエースとしての役割を負わされた。 

≪020≫  慈円が天台座主になったのは建久3年のこと、すなわち頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年のことだった。後白河院が亡くなったあと、この時期の政治の中心にいたのは、後鳥羽院と頼朝と、そして慈円の兄の兼実だったのである。  

≪021≫  しかし歴史はいつも支配者を変えていく。 慈円が座主になった4年後、兼実が失脚し、慈円も座主辞任を余儀なくされる。そこに頼朝の死が加わった。これで慈円が世をはかなむのなら日本人好みなのだが、そうはしなかった。慈円は九条家の権威の再興を試みて、後鳥羽院と親交を結び、47歳でふたたび天台座主に就いたのである。 

≪022≫  ここから先の慈円は、天下安泰を祈祷する日本国最高位の修法者になっていく。王法と仏法に橋をかける立場の頂点に立ったのだ。こうした自身の身を慈円は「サカシキ人」とよび、あえて「サカシキ人」としての思索と行動を深めることに任じていった。西郷隆盛や勝海舟ではなかった。木戸孝允や大久保利通なのである。 

≪023≫  けれども、ここでふたたび時代が動く。後鳥羽院が討幕に走って承久の乱となった。慈円は後鳥羽院に武家との対立を回避するように勧めるのだが、ついに時代を動かすことはできなかった。慈円はやっと思い知ったことであろう。 こうして上皇から離れざるをえなくなった渦中、『愚管抄』が綴られたのである。 

≪024≫  当然に日本の社会の中心におこったことを「上から見た記述」にしたと想定されるのだが、そうではなかった。 たしかに慈円の立場は情報のすべてを入手するに最も有利な地位にあったのだけれど、慈円はそれらの情報を摂関家のためにも、自分自身のためにも、また仏教や比叡山の立場のためにも、まったく“利用”しなかった。改竄もしていない。あくまで「道理」が見えてくるようにと、これらの情報を史実をあきらかにするためにのみ使って記述した。 

≪025≫  こんな歴史書は、それまでまったくなかったものだった。しかも一人の目で歴史を記述するということは、それまでだれも試みていなかった。いままでの正史は複数の者たちの記述の総合であって、いわば企業の社史のようなものである。けれども慈円はそれを一人で果たすことにした。この魂胆、この意図を読みきることが、慈円を読むことのおもしろさなのである。 

≪026≫  全7巻の『愚管抄』の構成は3部に分かれている。 第1部はあとから加わったとおぼしい「皇帝年代記」で、神武天皇から順徳天皇までが年代順に紹介されている。そして、その随所に「道理」としての天皇就任の次第が解説される。開巻冒頭に「漢家年代」として中国の王朝を列記しているのが異色である。あきらかに慈円は中国を意識しつつ、日本の特異な歴史性を浮き彫りにしたかったのだった。 

≪027≫  読んでいくと、日本の天皇の皇位継承の次第で道理が通っていたのは、第十三代の成務天皇までだというようなことがはっきり書いてある。では、そのあとの天皇を批判しているのかというと、そうではなく、仲哀天皇のときに御子がないため孫を皇位に就けてもいいという「新しい道理」ができたというふうに書く。「ナニ事モサダメナキ道理」があってもよいのだという見方なのだ。 

≪028≫  慈円にとって「道理」とは「それぞれにそうなる道理がある」という意味なのである。 第2部は、この道理の推移にもとづいて、いったいどのように日本の歴史が進んだかということを書いている。ここは説話なども駆使しての叙述になっていて、文体は『小右記』『玉葉』『明月記』などの日記叙述に似ているのだが、狙いはあくまで摂関家の歴史こそが日本の歴史だったという見方を貫くところにあった。 

≪029≫  こうして第3部、いよいよ慈円が直近の歴史の推移をどう見たかというところに入っていく。怨霊や末世の問題が避けられないなか、どのように政治の道理が推移するべきかを正面から議論して、後鳥羽院の政治の仕方に注文をつける。 

≪030≫  慈円は全巻を通して、歴史万象すべては相対的であるという見方をとっている。 

≪031≫  摂関家と仏門の頂点にいた慈円にとってすら、歴史はたえず流動するものであり、何を機軸にして見ても生起消滅の変化がおこるものだったのである。 

≪032≫  しかしそうした見方をしたうえで、慈円が絶対に譲らないものがあった。読みとるべきは、ここである。

≪033≫  その第1は、天皇は天皇の血筋から生まれる系統そのものであるという、日本歴史の“真相”を断言したことだった。『愚管抄』はこういうときは「正法」という言葉すら使っている。 

≪034≫  慈円は冒頭に「漢家ニ三ノ道アリ」と書いて、中国では皇道・帝道・王道こそが国の根幹になっていることをあきらかにする。しかし日本の歴史をつぶさに見ていくと、「コノ日本国ノ帝王ヲ推知シテ擬(なぞらえ)アテテ申サマホシケレド」、中国的な「歴史の道」はあてはまらない。日本には日本の「風儀」があると気がついていく。 

≪035≫  こうして慈円は日本の天皇には、「国王ニハ国王フルマイヨクセン人ノヨカルベキニ、日本国ノナラヒハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国ナリ」と宣言するのである。この皇統の「スヂ」(筋)の発見が慈円の自慢であった。 

≪036≫  第2には、日本という国の歴史には「顕」の歴史とは別に「冥」の歴史があるという見方である。 

≪037≫  これこそは『愚管抄』を貫く最も特異な歴史観で、いわば日本国史に「負の機能」を初めて強調したものだった。 ぼくの読者は、おそらくはぼくが歴史に「負の装置」や「負の機能」があると再三強調してきたことを知っておられようが、このような見方はいまだ歴史研究においては認められていない。しかしながら慈円はとっくにこのような見方を採っていた。 

≪038≫  もっとも慈円はこのような「負」を「冥」(みょう)ととらえ、「目に見えない歴史の力」というふうに見た。そして、この「目に見えない歴史の力」を大胆にもおよそ4種に分けたのである。 

≪039≫  一つは、時代を越える神々の力というもので、そのトップに伊勢大神宮=天照大神と春日大明神=天児屋根命(藤原氏の祖神)があると見た。 

≪040≫  二つ目は「冥の世」のものが「顕の世」に仮の姿であらわれたもので、慈円はこれを「化身」「権化」とよんだ。たとえば菅原道真はこの権者にあたっていて、道真が「冥」を担当したことによって藤原氏の「顕」が維持できたというふうに見た。「天神ハウタガヒナキ観音ノ化現ニテ、末代ザマノ王法ヲマヂカク守ラントオボシメシ云々」とある。 

≪041≫  三つ目はいわゆる怨霊で、人間の怨嗟が凝り固まって歴史を変化させたというふうに見た。藤原百川を殺した井上内親王から崇徳上皇まで、『愚管抄』は怨霊の歴史を明示的に史実に入れている。 

≪042≫  四つ目は天狗・狐狸のたぐいの邪悪な異類異物たちである。慈円はこうした異類の存在を確信していて、それゆえ、自身がその調伏をすることに意義を見出していた。 

≪043≫  第3に慈円が譲らなかったのは、むろん「道理」の力である。これは説明するまでもない。 

≪044≫  以上、「神の力」「冥の力」「道理の力」をもって、慈円は日本という国の特質をあきらかにする 

≪045≫  このような慈円の見方は、やはり日本に特異な歴史観であるとともに、慈円のような摂関社会と仏教社会の両方の頂点の立った者が歴史の激変をみずから体験したうえについに決断して採用した見方として、おおいに注目されるのである。 

≪046≫  慈円は鎌倉新仏教の動きには理解を示さないし、芸術や庶民のこともいっさい書いてはいないのだが、そういうこととは別に、まことに独自な歴史観を紡いでみせたのだった。これはマキアヴェリやチャーチルの記述が歴史の渦中にいた者として長く読み継がれ、さまざまに分析されてきたように、もっと注目されてよい見方であった。 

≪046≫  慈円は鎌倉新仏教の動きには理解を示さないし、芸術や庶民のこともいっさい書いてはいないのだが、そういうこととは別に、まことに独自な歴史観を紡いでみせたのだった。これはマキアヴェリやチャーチルの記述が歴史の渦中にいた者として長く読み継がれ、さまざまに分析されてきたように、もっと注目されてよい見方であった。 

≪01≫ 数年前、渋谷の一般向け「桑沢デザイン塾」で隔週5回にわたって「近代日本の秘密」という連続講義をした。定員50名のところをいつも80人くらいが押しかけてきてくれて、ときに100人を越えるときがあった。だいたい3時間、ときに4時間近くを映像を交えて喋りつづけた。 

≪02≫  そのうちの1回分の「二つのJ=五重塔から倫敦塔へ」のときに新渡戸稲造の話をした。3時間半くらいのあいだにたった15分程度をさいた程度だったが、しばらくして意外な報告を聞いた。渋谷の書店から『武士道』がすべてなくなっていたというのだ。 

≪03≫  新渡戸稲造が英文で『武士道』を刊行したのはちょうど1900年である。日本は明治33年で、世紀の変わり目ということもあるが、内外ともに象徴的なことがおこった。 

≪04≫  この年の出来事をおぼえるとよい。いろいろの目安になる。日本はちょうど日清戦争と日露戦争のあいだにあたっている。ここで日本近代のさまざまな意味が集約されていた。  

≪05≫  まず3人の日本人が海外に発った。夏目漱石はロンドンへ、日本画家の竹内栖鳳はパリへ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークに。ついでながら長岡半太郎はパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。 

≪06≫ 次に3つの重要な出版物が刊行された。内村鑑三が「聖書の研究」を、与謝野鉄幹が「明星」をそれぞれ創刊し、新渡戸稲造が『武士道』をフィラデルフィアで出版した。国内では泉鏡花『高野聖』と徳富蘆花『自然と人生』がこのあとの幻想派と自然派を分ける岐路になっている。 

≪07≫  世界史的には多くの重要なことがおこっているが、ごく絞ってみると、政治上ではドイツの3B政策と義和団事件が大きく、中国が大揺れになっている。孫文は恵州で蜂起したが、辛亥革命いまだならず。科学ではなんといってもプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射の3つが大きい。加えて、フロイトの『夢判断』とヴントの『民族心理学』が新たな世界の余地に光をあて、ヒルベルトが23の数学問題を提示した。 

≪08≫  芸術は枚挙にいとまがないほどだが、ぼくならクリムトの講堂画とプッチーニの『トスカ』と、横山大観・菱田春草が朦朧体を発表した3つをあげる。 こういう1900年に『武士道』が英文で発表されたのである。「日本とは何か」というための乾坤一擲のプロパガンダであった。 

≪09≫  もうひとつ目安をいう。1900年の出来事をヨコ一本の線で引き、ここへ数冊の英文による著作と、その周辺の出来事をタテに10年くらい交差させるといい。この時期、「日本とは何か」「東洋とは何か」「世界の中の日本とは何か」を訴えるのは、ひとつの思潮でもあったことがわかりやすく見えてくる。 

≪04≫  この年の出来事をおぼえるとよい。いろいろの目安になる。日本はちょうど日清戦争と日露戦争のあいだにあたっている。ここで日本近代のさまざまな意味が集約されていた。  

≪05≫  まず3人の日本人が海外に発った。夏目漱石はロンドンへ、日本画家の竹内栖鳳はパリへ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークに。ついでながら長岡半太郎はパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。 

≪06≫ 次に3つの重要な出版物が刊行された。内村鑑三が「聖書の研究」を、与謝野鉄幹が「明星」をそれぞれ創刊し、新渡戸稲造が『武士道』をフィラデルフィアで出版した。国内では泉鏡花『高野聖』と徳富蘆花『自然と人生』がこのあとの幻想派と自然派を分ける岐路になっている。 

≪07≫  世界史的には多くの重要なことがおこっているが、ごく絞ってみると、政治上ではドイツの3B政策と義和団事件が大きく、中国が大揺れになっている。孫文は恵州で蜂起したが、辛亥革命いまだならず。科学ではなんといってもプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射の3つが大きい。加えて、フロイトの『夢判断』とヴントの『民族心理学』が新たな世界の余地に光をあて、ヒルベルトが23の数学問題を提示した。 

≪08≫  芸術は枚挙にいとまがないほどだが、ぼくならクリムトの講堂画とプッチーニの『トスカ』と、横山大観・菱田春草が朦朧体を発表した3つをあげる。 こういう1900年に『武士道』が英文で発表されたのである。「日本とは何か」というための乾坤一擲のプロパガンダであった。 

≪09≫  もうひとつ目安をいう。1900年の出来事をヨコ一本の線で引き、ここへ数冊の英文による著作と、その周辺の出来事をタテに10年くらい交差させるといい。この時期、「日本とは何か」「東洋とは何か」「世界の中の日本とは何か」を訴えるのは、ひとつの思潮でもあったことがわかりやすく見えてくる。 

≪010≫ 明治期年表 

≪05≫  まず3人の日本人が海外に発った。夏目漱石はロンドンへ、日本画家の竹内栖鳳はパリへ、新劇を提唱する川上音二郎は貞奴とともにニューヨークに。ついでながら長岡半太郎はパリの第1回国際物理学会議に出席をし、翌年は滝廉太郎がライプチッヒへ行った。 

≪06≫ 次に3つの重要な出版物が刊行された。内村鑑三が「聖書の研究」を、与謝野鉄幹が「明星」をそれぞれ創刊し、新渡戸稲造が『武士道』をフィラデルフィアで出版した。国内では泉鏡花『高野聖』と徳富蘆花『自然と人生』がこのあとの幻想派と自然派を分ける岐路になっている。 

≪07≫  世界史的には多くの重要なことがおこっているが、ごく絞ってみると、政治上ではドイツの3B政策と義和団事件が大きく、中国が大揺れになっている。孫文は恵州で蜂起したが、辛亥革命いまだならず。科学ではなんといってもプランクの量子定数の発見、メンデルの遺伝法則の再発見、パブロフの条件反射の3つが大きい。加えて、フロイトの『夢判断』とヴントの『民族心理学』が新たな世界の余地に光をあて、ヒルベルトが23の数学問題を提示した。 

≪08≫  芸術は枚挙にいとまがないほどだが、ぼくならクリムトの講堂画とプッチーニの『トスカ』と、横山大観・菱田春草が朦朧体を発表した3つをあげる。 こういう1900年に『武士道』が英文で発表されたのである。「日本とは何か」というための乾坤一擲のプロパガンダであった。 

≪01≫ いまの大学生に、エートク、セッソン、トーハク、コーリン、タンユー、ブンチョー、コーカン、ジャクチュー、エーセンと並んだ片仮名を見せれば、100人が100人ともブランドかジャンクフードの名前とおもうにちがいない。仮に漢字をあてはめさせても、全問正解はまず一人もいない。 

≪02≫  岡本太郎は日本の伝統芸術に対して日本人が抱いている見方の多くが“節穴”だとみなした。エートク(永徳)、タンユー(探幽)、コーカン(江漢)と聞いて、その音だけでピンと背筋が張るものがなくなっている。これは、日本人が日本の伝統に関して何かに惑わされているせいではないかというのだ。 

≪03≫  美術史家たちがこれらの画家を真剣なナマの驚きをもって教えてこなかったことにも腹をたてる。これらの画家はジオットー、ミケランジェロ、ゴッホ、シャガール、ピカソ、ミロらに匹敵するはずなのに、そのことがとんとわからなくなった日本人にも(1950年代の日本人だが)、しこたま怒っている。 

≪04≫ そして、「日本人くらい一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方を見失っている国民はないでしょう」と書いた。 

≪05≫  本書をどのように読むか、ぼくはいろいろの連中に聞いてまわりたい。茶や花の家元はどう読むか、建築家やロックアーティストや日本画家はどう読むか、坊さんや神主たちはどう読むか。あるいは「日本は神の国」だと思っている連中はどう読むか。 

≪06≫  岡本太郎が光文社から『今日の芸術』を出したのは、ぼくが小学生のころだった。父が買っていたので、いつごろだったかは忘れたが、拾い読んだ。おそらく中学2年くらいだったろう。縄文土器というものの苛烈なエネルギーに煽られて、まるで日射病に罹ったような気分になった。本書『日本の伝統』は1956年でぼくが中学時代の出版だが、これは高校になってから読んだ。やはり父が買ってきた。当時のぼくはカメラをもって鎌倉に通っていて、禅寺や禅庭に関心を寄せていたのだが、そのようなことをしたきっかけに、本書があったように記憶する。 

≪07≫  ようするに、ぼくは岡本太郎の見方に憧れたのだ。こういうふうに日本を見ようと思ったのだ。ちゃんとした日本の美術史などまったく知らなかった時期で、そのぶんだけストレートに岡本太郎のアジテーションに入っていけたのであったろう。が、知識の度合いはともかくも、そこには僕を実感させ、納得させる何かがあった。とくに銀閣寺の銀沙灘のダイナミックな説明には武者ぶるいすらおぼえたものだった。 

≪08≫  おそらくぼくがそういう“タロー・インフレーションの季節”を初期にもっていたことを、最近のぼくの読者は意外におもうことだろう。だが、事実なのである。 

≪09≫  本書で岡本太郎が主張していることは、至極わかりやすい。「日本の伝統芸術を根本から見直せ」「日本を自分の眼で見てみろ」ということだ。これは文句ない。言ってみれば、いとうせいこう・みうらじゅんの『見仏記』(198夜)の目が今日の日本人には必要だということなのである。 

≪010≫  もうひとつ岡本太郎が強調していることは、日本美術のチョー審美主義的な解説に騙されるなということだ。本書では亀井勝一郎や竹山道雄の“古寺巡礼型の解説”にかなりいちゃもんをつけているのだが、これが和辻哲郎でも萩原朔太郎でも谷川徹三でも、だいたいは五十歩百歩。わざわざわかりにくくさせている。タローはそこを許さない。日本の伝統美にはもっと直截に訴えるものがあるはずだという見解なのだ。 

≪011≫  そこで例を出す。最初は何といっても縄文土器だ。 タローが縄文土器に発見したのは、非情なエネルギー、説明を拒否する呪術性、超自然を孕んだ四次元性、複合精神の横溢とアンビバレンスを恐れない非対称性などである。これらが縄文土器には唸るように渦巻いている。そこにはたしかに、若き日にソルボンヌ大学で哲学・社会学とともに民族を学び、ついでシュルレアリスムの画業に飛びこんでいったタローがむしゃぶりつきたいものがある。タローはそこで言う、こういうものこそが日本の芸術の根本にあるのではないか。 

≪012≫  タローはその一方で、尾形光琳の紅白梅図や菖蒲図の屏風にも感嘆した。ここには「生活にない緊張感」があり、「シンと冴えてすべてを拒否しているもの」がある。「鑑賞者は夢みることも許されない」。なるほど、痛快な見方である。さらにはこうも見た。「あらゆる幻想も思い出も拒否される」。この思い出も拒否されるという見方がタロー的で、独創的なのである。ようするに「画面以外になにものもない世界」がそこにある。こういう光琳を、タローは日本の伝統が創り出したということを評価する。 

≪09≫  本書で岡本太郎が主張していることは、至極わかりやすい。「日本の伝統芸術を根本から見直せ」「日本を自分の眼で見てみろ」ということだ。これは文句ない。言ってみれば、いとうせいこう・みうらじゅんの『見仏記』(198夜)の目が今日の日本人には必要だということなのである。 

≪010≫  もうひとつ岡本太郎が強調していることは、日本美術のチョー審美主義的な解説に騙されるなということだ。本書では亀井勝一郎や竹山道雄の“古寺巡礼型の解説”にかなりいちゃもんをつけているのだが、これが和辻哲郎でも萩原朔太郎でも谷川徹三でも、だいたいは五十歩百歩。わざわざわかりにくくさせている。タローはそこを許さない。日本の伝統美にはもっと直截に訴えるものがあるはずだという見解なのだ。 

≪011≫  そこで例を出す。最初は何といっても縄文土器だ。 タローが縄文土器に発見したのは、非情なエネルギー、説明を拒否する呪術性、超自然を孕んだ四次元性、複合精神の横溢とアンビバレンスを恐れない非対称性などである。これらが縄文土器には唸るように渦巻いている。そこにはたしかに、若き日にソルボンヌ大学で哲学・社会学とともに民族を学び、ついでシュルレアリスムの画業に飛びこんでいったタローがむしゃぶりつきたいものがある。タローはそこで言う、こういうものこそが日本の芸術の根本にあるのではないか。 

≪012≫  タローはその一方で、尾形光琳の紅白梅図や菖蒲図の屏風にも感嘆した。ここには「生活にない緊張感」があり、「シンと冴えてすべてを拒否しているもの」がある。「鑑賞者は夢みることも許されない」。なるほど、痛快な見方である。さらにはこうも見た。「あらゆる幻想も思い出も拒否される」。この思い出も拒否されるという見方がタロー的で、独創的なのである。ようするに「画面以外になにものもない世界」がそこにある。こういう光琳を、タローは日本の伝統が創り出したということを評価する。 

≪013≫  こうしてタローは日本の庭の美の解剖に入っていく。採り上げられるのは銀閣寺の銀沙灘と向月台。 

≪014≫  ただの砂盛りだが、幾何学を勝る抽象性がある。なのに、そこには「なまなましく変貌していく立体感」もある。表面をわずかに刻する線条が見る者の眼をその立体物に引きつけ、縛っていく。タローはこの構想力に驚愕をする。それは矛盾そのもののパワーをいかした虚と実を無限に生み出すドラマなのである。 

≪015≫  こんなふうに日本の伝統を語りたい。そう、タローは考えた。それには亀井勝一郎や竹山道雄では困るのだ。もっと荒々しく接近して、もっと病気の悪寒のように打ち震える見方や語り方が噴出してほしいのだ。 

≪016≫  かくてタローは「京都」に挑戦することにする。本書の後半は、世間の評判がなんとなくつくりあげてきた京都的幻想を打ち破り、タロー自身が自分の眼と言葉で京都を再構成できるかどうかという“実験”になっていく。 

≪017≫  「よきにつけ悪しきにつけ、今日の日本文化を決定し、現代日本的なものの源泉になっている京都をこそ、どうしても見極めなければならないと思いだしたのです」。  

≪018≫  よくもそんな挑戦をする気になったものだとおもう。旧来の京都派からしてみれば、「そりゃえらいことですな、まあ、やってみなはれ」という反応に見舞われるのがオチだろう。しかし、その“実験”をタローは執拗に組み立てた。 

≪019≫  結果はどうだったかというと、当時これを読んだぼくには衝撃的だった。ぼくが京都に生まれ育って感じていたものは、あくまで柔らかいもの、移りゆくものだったのに、岡本太郎は激しいもの、普遍的なものを探してばかりいたからだ。 

≪020≫  しかし、なんとなく釈然としないものも残った。やはり岡本太郎も京都を京都らしく見ているように写ったのだ。強引に京都にひそむ呪力のようなものを引き出そうとしているのだが、でも京都的なのだ。それが何であるかはずっとわからなかった。それがふと氷解したときがある。 

≪021≫  われわれはゴーゴリが書いたペテルブルグやリルケが書いたパリのように京都を見たっていいんじゃないか、あるいはターナーのロンドンやダリのポルト・リガトのように京都を描いてもいいじゃないか、そういうことがわかったときである。実は岡本太郎はゴーゴリやターナーやリルケのようには京都を見なかった。新しい伝統を探しすぎたのだった。 

≪022≫  おそらく、本書をいま初めて読んだとすれば、ぼくは昔ほど影響されないだろうとおもう。 実際にも、本書における言説にはそうとうに紆余曲折があるし、矛盾や煩悶を逆説的に肯定するのがタロー・ロジックだとしても、そのロジックだけでは日本を“解説”するにはムリがある。湿気を払いすぎたのだ。 

≪023≫  けれども冒頭にも書いたように、ぼくは岡本太郎によって初めて日本の語り方を知ったのだ。それ以前に中学校の図書館で小林秀雄の『無常といふ事』を読んだし、山本健吉の何かを読んだものだったが、それでは何も伝わってこなかった。ぼくに日本を教えてくれたのは岡本太郎だったのである。その鮮烈は色褪せない。それに、本書を読んでいったい誰がタローの日本愛に敢然と反論できるかというと、おそらくは多くが腰砕けになってしまうにちがいない。いまもって感想を聞いてみたいものである。 

≪024≫  岡本太郎の約50年前の日本への挑戦は、やはりいまなお有効なのだとおもいたい。 

1964年の東京オリンピックをテレビで見ていて、どうしても言いたいことが出てきた。
金銀銅のメダルをはこぶ女性たちが振袖を着ていたことだ。

スタジアムのアンツーカーの上を振袖を着た女性たちがよちよち歩いている姿は誰の演出か知らないが、
これほど不似合いで、いやらしい感じはめったにあるものではないと思った。
不釣合いなのではなく、滑稽なのだ。大まちがいなのだ。

 こう綴ってきて、戸井田は次のように締めくくる。
「私は襟をただすに対して、尻をまくることをぶつけたい」 


≪02≫  1958年上梓の『きものの思想』(毎日新聞社)である。日本エッセイストクラブ賞をとった。 この本での戸井田は、着物そのものの素材や仕立てや歴史をほとんど語っていない。ひたすら日本人がどのように着物を着てきたかということを自分の経験をまじえて語る。それがおかしくなってきたことを綴った。 

≪03≫  電話交換手や会社の受付嬢たちが正月になると訪問着で装っていることにも、PTAの茶話会の母親たちにも野次をとばした。とくに成人式はかなり醜悪だ。全員が襟元にふわふわのショールを巻き付かせる。振袖がダメなのではない。着物で歩けず、着物で振る舞うということができていない。こんな日本なんて見たくないというのだ。 ぼくも同様だ。女子アナやタレントたちが正月番組で赤い毛氈の段々で、訪問着や振袖で並んでいるのを見るのは、なんともうんざりさせられる。 

≪04≫  ずっと以前から、日本人のきもの感覚はかなりずたずたになっていた。『きものの思想』はそんな風潮に「襟をただせ」と言ってもむだだから、尻をまくってみせたのだ。戸井田は日本人に文句をつけたかったのだ。同じことは、バーナード・ルドフスキー(486夜)の『キモノ・マインド』にも述べられている。ルドフスキーは大の日本贔屓ではあるけれど、着物を愉しめなくなった日本人には手厳しかった。 


≪05≫  この十年ほど、ぼくの着物を見立て、しばしば着付けもしてもらってきた江木良彦さんも、まったく同じ気持ちでこの数十年をおくってきたという。紅白歌合戦をはじめ、テレビのタレントの着付けをするたび、現状日本への怒りがこみあげて仕方がなかったと、何度も言っていた。江木さんは太地喜和子、岩下志麻、吉永小百合、宮沢りえに照準をあてている。 


≪06≫  戸井田道三が書くものは、ちょっと合気道や酔拳じみていて、風を孕む草木のように柔らかく、そのくせ相手をへこませる決め技をもっている。けれども、決して気負いを見せない。そこがこの人の特徴だった。  

≪07≫  主題に近寄る言いっぷりや話のもっていきぐあいや、相手(話題)次第でどうにもなるところが上等なのだ。最初に読んだのは『能――神と乞食の芸術』(せりか書房)だったと憶うのだが、たちまち攫われた。 

≪08≫  乞食のことを「おもらい」と言うけれど、なぜ乞食は「もらえる」のか。もともと「もらう」は「もる」から出た言葉で、神々を前にした饗宴の場では大いに盛られる者が必要だったので、それを神と人のあいだを動く乞食(ほかひびと)がもられる役を引き受けたのである、つまり「おもらい」をした。 

≪09≫  芸能というのはそうやって発生した。『翁』はシテがすっぴんで平伏するところまでは舞台と客は同じ場だけれど、シテがおもむろに尉の面(おもて)を付けたとたんに、舞台にいるほうが神になる。これは猿楽が乞食(ほかひびと)の芸能であったことを暗示する。こんな語り口なのである。 

≪010≫  オノコロ列島深層紀行という不思議な副題がついている『あとの祭り』(河出書房新社)という本の冒頭には、カナダの女子学生と恐山に向かう道中が綴られていて、そこで日本語の「いく」はどうもgoでもcomeでもないという問答になる。 

≪011≫  そのうち「ゆかし」というのは「行きたかったところ」なのか、あるいは「来たかったところ」のことだろうが、日本人はそういうことをあからさまに言いたくないところがあって、だから『伊勢物語』に伊勢と謳いながらも伊勢のことを少しも書かなくしたのではないか、本来の「ゆかしさ」「なつかしさ」とはそういうものではないかというような、まことに自在な左見右見を見せる。 

≪012≫  こんな調子の文章を、いったい戸井田とはどういう見者(ヴォワイアン)なのかと思いつつ、ずうっと読ませてもらってきた。 

≪013≫  その後、戸井田の書いたものの大半が今福龍太(1085夜)によってまとめられて、「戸井田道三の本」全4冊という結構になった。鮮やかな編集構成で、1「こころ」、2「かたち」、3「みぶり」、4「まなざし」と名付けられた。今福ならではの濃厚な解説もつく。『きものの思想』は2「かたち」に、『あとの祭り』は4「まなざし」に入っている。 

≪014≫  戸井田は昭和63年に78歳で亡くなった。子供のころから肺結核で、人生の半ばを喀血と病床をなだめすかしてきたようなところがあった。それでも各地の芸能を見るのはがまんができず、どんな辺鄙なところにも出掛けた。大事な演者の能狂言は欠かさず見た。 

≪015≫  そうやって生きてきた戸井田が73歳のときに『老後の初心』という文章を、岩波の「文学」に書いた。73歳というのは、いまちょうどのぼくの年齢だ。最近読みなおして、いろいろ感じさせられた。3「みぶり」に収録されている。  

≪016≫  『観阿弥と世阿弥』を14年前に書いたけれど、あれは61歳のときの考察だった。そのときあたかも常識的な前提のように『花伝書』は観阿弥の考え方を、『花鏡』は世阿弥(118夜)の考え方をあらわしていると書いたものの、どうもあれはまちがっていた。世阿弥は観阿弥を背負ったのだから、それらはやはり世阿弥のものなのだ。  

≪018≫  世阿弥がそうなれたのは、『隅田川』に子方を出さないほうがいいだろうと元雅に言ったら、元雅はそれは私にはできませんと答えたので、「して見てよきにつくべし、せずは善悪定めがたし」(申楽談義)と応じられたような、そういう日々をずうっとおくってきたからだ。 

≪020≫  そしてこう付け加える。最近はデジタル時計が出回っていて時刻を数字で示してるけれど、それでは時刻はわかっても時間は見えてはこない。初心を忘れないためには、いつも時間がくりかえし見えていなければならない。 

≪017≫  跡継ぎの元雅に死なれて「一座、破滅しぬ」と嘆息した世阿弥が、佐渡に流された72歳のときに、『金島書』で金春禅竹を手紙指導していたことを思うと、自分がいまどの程度のことを書けるのかと訝ってしまう。  


≪019≫  それは「年の功」というもので、自分には73歳のいま、この「年の功」が生きているとは思えない。世阿弥の年格好にくらべて、そんなふうに書いているのである。

≪021≫  自分はいま、世阿弥が『花鏡』で「老後の初心を忘るべからず」「命には終わりあり。能には果てあるべからず」と言ったことを、あらためてつくづく思い知らされている。自分はデジタル表示とはまったく無縁な人生だったのだろう、と。 

≪022≫  73歳の戸井田が自分には「年の功」が生きているとは思えないというのは、謙遜ではないようだ。 能役者のように芸を積んでいないからではなく、積まなくとも戸井田ならば戸井田らしい「当分の知恵」のようなものがあるはずだが、本人としては内心忸怩たるものがあり、とくに大事なことを忘れるようになって、これでは世阿弥の忠告には程遠いので、つまりは「年の功」がないと感じるのだろうと言うのだ。   

≪023≫  何を感じるのか。それは、1「こころ」に収録されている『忘れの構造』(もとは筑摩書房)を読むと少しはわかる。1984年の刊行で、戸井田は1988年に亡くなったから最晩年の本だが、まことに奇妙な味がのこる話ばかりを書き綴ったロング・エッセイだ。いまはちくま文庫にも入っている。   

≪024≫  あるときバス停で待っていたら傍らを通り抜けていく女性がいた。互いにふっと顔を見合わせたのだが、どこかで逢った貌(かお)に思えた。出来事はほんの一瞬だったが、のちにその女性が誰だったかが気になった。そう思うと口紅の色が印象的によみがえってくる。  

≪025≫  いったいこういう気分になるのは何なのだろうと思い、戸井田はそこから「忘れる」とか「忘れている」という状態には、きっとそれなりの「忘れの構造」というものがあるのだろうと思う。 

≪026≫  いったいわれわれは何かを思い出そうとするとき、よく袋の中をさぐるようにとか、抽斗(ひきだし)の中をひっくりかえして探すとかと言うが、戸井田は自分の体験をいろいろ覗いてみて、そこにはヒキダシ型とマリモ型の二つがあると感じる。 

≪027≫  ヒキダシ型というのは、何かの見聞をとりあえずヒキダシの中に放りこんでおくというもので、そのヒキダシもいくつもあるので、いざ思い出そうとするとどのヒキダシも未整理なので、結局はなかなか記憶の再生と結びつかないというやつだ。 

≪028≫  なぜ、そうなるのか。「そのこと」をヒキダシに入れたときの刷り込みがほとんどおこっていないためで、「そのこと」が何であるかというよりヒキダシに入れたということで済ましてしまっていたことが原因だったから、忘れてしまうのである。人によっては抽斗ではなくて、棚だったり箱だったりクローゼットの中のハンガーだったりするが、まあいったんそこに投じてしまうと、なかなか所在を主張してくれない。 

≪029≫  ただし、こういうことは誰にでもおこることだろうから、「忘れの構造」としてはたいへんありきたりだ。  

≪030≫  一方のマリモ型というのは、「つながり」を忘れたくないのでマリモのようなものに託しておくというもので、マリモでなくとも糸巻きや毛糸のかたまりでもいい。メガネや鍵を忘れたのではなく、何かと何かの「つながり」を忘れないようにと思って、その毛糸の束に入れておくというやつだ。 

≪031≫  戸井田が挙げている例では、自分は「サルタノヒコと蜜柑」とか「鹿と海」ということを未解決な関係問題として大事にしたいのだが、当面はさっぱり見当がつかないからとりあえずマリモのようなものにくっつけて、そのまま頭の中の湖水だか水槽だかに入れておくのだという。  

≪032≫  なるほど、そう言われてみるとはっとする。たしかにぼくにもマリモ型かどうかはわからないが、気になる関係構造の断片を中途半端な折り紙や組み立て途中の木工細工の部品として、ごちゃごちゃの大工道具箱のようなところへ入れてきた。のちには、メモ・ダイヤグラムっぽいドローイングにしておく癖ともなって、そういう紙っぺらが何百枚とたまっている。 これはよくいえば未然のマンダラのようなものだけれど、たまってくると、たしかにぐちゃぐちャのマリモなのである。   

≪033≫  マリモ型はいかにも「忘れの構造」の様相を呈しているような気がする。きっとここにもいくつものマリモやヒドラやオコゼのように形がいるはずである。 

≪034≫  そう推測してみると、バス停の女性は、ヒキダシ型に片付けられたのではなく、マリモ型になっていたにちがいない。そのマリモにはバス停の女性だけでなく、若い頃からの気になる女性たちがあれこれ入っているのだろう。口紅の色もヒキダシのどこかを探しても出てくるものではなく、マリモの中で他の女性たちの口元や唇とともに一緒くたになっていたということなのだ。 

≪035≫  そんな話をいろいろ書いていて、戸井田は「忘れの構造」にはそれなりの記憶の文化のアーキタイプかプロトタイプか、もしくはステレオタイプが投影しているのだろうという関心をもつわけである。 

≪036≫  なかなかおもしろい見方だった。とくにマリモ型はおもしろい。きっとわれわれの記憶の湖水には、さまざまな複合マリモや連結マリモがぷかぷか浮沈を繰り返しているのだろう。ただ、そのことと戸井田が「年の功」がないと感じていることとはうまく対応していなかった。「大事なことを忘れる」のは年齢や体験のせいではないはずであるからだ。 

≪037≫  1「こころ」には『日本人の神さま』という、日本の少年少女にぜひとも読んでもらいたい文章も収録されている。1980年に筑摩から「ちくま少年図書館」の一冊として刊行されたもので、のちに文庫に入った。 

≪038≫  これは日本の各地の生活の日々に出入りする神々の話を、日本人の「記憶の水脈」として辿ったり、浮上させたりしているエッセイふうの神さまの案内である。神話に出てくるような神々ではなくて、井戸神や石の神やイロリの神やオシラさまが主人公になる。とくに土まわりの神、つまり産土(うぶすな)の神や、水まわりの神、つまりカッパや竜神や水神さまの話が、とてもよく書けている。  

≪039≫  こういうものを書くと戸井田がうまいのは、日本人そのものがもっている「忘れの構造」と芸能の関係を戸井田がよくよく知っているからだ。 

≪040≫  ふつう、知識というものは明示的な構造のかたちをとっていて、学者や研究者はそのかたちを持ち出して教えたがるものである。戸井田はそうではなく、暗示的な構造にもとづいてどんな話もする。エクスプリシットな知ではなく、インプリシットな知の持ち出しに徹したのだ。 

≪042≫  こういうものは学術的ではないし、実証的でもないので、なかなか評価されないのだが、ぼくはこのような方法で「知」というものが授受されることこそが大事だと思ってきた。どこかでピンとくればいいのだ。あっ、あの口紅の色というふうに残ればいいのだ。 

≪041≫  そのようになっている知を、戸井田に従って出会っていると、知識は辞書的には入ってこずに、ところとごろに灯火(ともしび)がともるように感じられてくる。そのかわり、それをいざ取り出そうとすると、なかなか文脈をそろえて取り出せない。いわばマリモがいくつもかたちをあらわしてくるというふうなのだ。   

≪043≫  この暗示的な学習はできるだけ子供の頃からなじんでおくべきだ。現代人は大学に入ってから必ずダメになるので、とくに大学に入る前に大いになじんでおいてほしい。そのために受験制度がなくなるなら、むろんあんなものは、とくにセンター入試などは全廃したほうがいい。それくらい大事な学習感覚なのだが、戸井田はそれがうまいのだ。 

≪044≫  というようなわけで、
今夜は戸井田道三の不思議な魅力を伝えたくて綴ってみた。どこかで戸井田の本を手にとってみることをお薦めする。 擱筆する前に、言わずもがなの余計な話を一言加えたい。「年の功」のことだ。 

≪045≫  ぼくもぼくなりに歳を重ねるうちに感じてきたことがある。ただし、自分に「年の功」が出ているなどと思えたことはない。それよりも意外だったのは、歳をとるというのは突然にやってくるということだった。  

≪047≫  たとえば或る日に顔の皺が気になっていたとしても、そう見えたときにああ歳だなと思うのではなく、それからずいぶんたってふいにその皺が気になり、そのときは他のこともひっくるめて一挙に歳をとる。そんなふうなのである。  

≪046≫  どうも最近腰が痛くなっている、老眼がひどくなってきた、世事にかまけるのが億劫だ云々というふうに、いろんなことがぽつりぽつりおこって、しだいに歳をとる実感が増していくというのではなく、急に老け込んだ気になるのだ。  

≪048≫  突然に歳をとるまでに、人にはよるだろうが、3年とか5年とかが過ぎている。皺はそのあいだずっと似たような皺なのだが、いざ歳とったと合点したときは、その皺も歳をとる。 

≪049≫  能では年老いた老人の面(おもて)のことを「尉」(じょう)という。『高砂』や『蟻通』に出てくる小尉(こじょう)、『頼政』『遊行柳』の三光尉、『綾鼓』『天鼓』『木賊』(とくさ)などの阿古父尉(あこふじょう)など、いろいろがある。いずれも皺だらけで、眼もくぼんでいる。 

≪050≫  皺尉(しわじょう)という能面もいくつかあって、これは一説には玉手箱をあけた八千歳の表情をあらわしているという。 

≪051≫  しかし、これらの尉たちは、いずれも深い。ときに神の化身であったり、何もかもを知り尽くしていたり、植物の精だったりもする。そのルーツは「翁」(おきな)としての「年の功」の象徴でもあったのである。  

≪052≫  ぼくはかつて観世寿夫(1306夜)さんに翁面を見せてもらって、驚いた。白式尉も黒式尉も深々と笑っている。まことの永遠なのである。父尉は微妙な笑みをたたえていた。まったく何も言えなくなったことを憶えている。 

≪053≫

わかりやすくするために老眼や皺や能面の話をしたけれど、
実はこれが記憶をめぐる「文化」や「文明」の問題に大きくかかわっている。
歳をとると、そのへんのことが自分を包んでいると思うようになるからだ。 

≪054≫ 
 きっと戸井田もしだいに歳を感じながらそのことを実感したのだろうと察するが、ぼくが思うに、文化や文明に関する文章というものも歳をとる。
 古くなって歳をとるのでなく、かつて気になった文化の皺や文明の視力が、実は重大な意味をもっていたことに気がつくのだ。 

≪055≫ 
 もしそうだとすると、「年の功」にはそういう感じ方ができるということも含まれるのではないかと思える。

 それは「始原の淵」から数えた文化と文明の「年の功」なのである。 

川瀬武彦 『まねる』 を読んで 

≪01≫  このテクノライフ選書というシリーズは一九九四年から刊行されているもので、日本機械学会のメンバーが母体になっている。創立百周年を前に企画された。日本機械学会はぼくも一度だけ招待講演を頼まれた。村上陽一郎さんの推薦だった。なんとも好ましい雰囲気の学会で(学会というのはだいたいは退屈で味がない)、あたりまえのことだが、メンバーの全員が機械じみている。 

≪04≫  本書は世阿弥の『花伝書』にふれながら、システムダイナミクスが構築してきたモデリングの発想を案内しようとした一冊だ。システムダイナミクスは、なんであれ「ふるまい」を対象にする。「ふるまい」といってもニュートン力学にもとづいた星のふるまいから自転車やコマのふるまいまでがある。これらを統一的に眺めようとするには、ふるまいをシステムとして捉える。 本書も、まずはふるまいをシステムとみなすにはどうすればよいかということから入る。しかし何かがそこにふるまっているとして、その「ふるまい」をどのようにモデリングをして、システムとみなせばいいか。 

≪02≫  リーダーは早稲田の土屋喜一さんで、東北大学の猪岡光さんや東大の廣瀬通孝君らも世話人になっていた。機械じみた連中と機械じみた話をしていると、自分がすぐに機械じみた生もののシステムだということが感じられて、くすぐったくなってくる。そうするとときどきグリスをさしたり、検針をしたりするかなあという気分になってくる。これがいい。日本にロボット・ブームをもたらしたのもこの学会のメンバーたちのグリスや検針のせいなのだ。 

≪05≫  システムがシステムであるには、要素とよばれるものの集合と要素のあいだに定義された関係の集合を必要とする。そのためには、最初にその対象のふるまいを要素に分ける。これを機械工学では「レティキュレーション」(reticulation)という。ふつうに訳せば「切断」になる。ただし切断といっても、切断した要素がバラバラになったのではダメである。reticulationの語源はラテン語の「網」であり、ということは切断しながら網目状の構造を与えるという感覚が重要なのだ。こうすることで、切断とともに「接続」という見方が生まれてくる。 

≪03≫  そういう工学プロの連中が計画してこのシリーズを執筆分担しただけに、なかにはときどきハッとするものがある。『あやつる』『アミューズメントマシン』『燃える』『感じる』『日本の機械工学を創った人々』『飛ぶ』『逆に考え、逆に解く』『はかる』など、ちょっと覗いてみたくなる。エンジニアばかりが書いているわけではない。ヴァイオリニストの千住真理子の『生命が音になるとき』なども入っている。 

≪06≫  これはしばしば「ダイヤコプティクス」(diakoptics)とよばれる考え方で、もともとは一九六〇年代に電気回路設計に関して確立されたメソッドだった。すべての電気機械というものは、それが交流機械であれ直流機械であれ、たった一つの原始機械から結線のしかたを変えるだけで実現できるとしたもので、しかもこの結線は、原始機械と対象の電気機械におけるコイルの両端の電圧、およびこれを流れる電流の線形変換としてあらわせるはずだというものである。 

≪07≫  この原始機械の考え方が機械工学ではモデリングの中心になっていく。電気機械でいえば、固定子と移動子と端子によって成立しているシステムだ。 モデリングにあたっては、こうした原始機械をモデルとして図示する必要がある。しばしばリニアグラフがつかわれる。もともとはオイラーが発想したものだ。リニアグラフは「頂点」とよばれる点と「枝」とよばれる線で描かれる。これによってシステムのモデルはいったん空間的な配置におきかわる。これがものすごく便利なのである。ついでこのリニアグラフが複雑になっていくと、その一部の重なりを太い線で表示するボンドグラフというものになっていく。 

≪01≫  「ギーリィとニンジョーを秤りにかけりゃ、ギーリが重たい男の世界」。高倉健だ。御存知『唐獅子牡丹』の歌い出しである。ぼくは高倉健にはどんなばあいも無条件に脱帽で、村田英雄や北島三郎にも義理人情は出てくるといったところで、健さんとは較べてほしくない。 

≪02≫  健さんの任侠ものは『昭和残侠伝』をはじめ、十数本の映画をそれぞれ何度見たかわからないくらいだが、話の筋は実はほとんど似ている。まさにギリとニンジョーがみしみし絡んで、最後はギリのために自分を捨てるという筋書きなのだ。が、これがなんともたまらない。 

≪03≫  港湾労働などに携わっている小さな組の親分が、別の新興の組の乱暴に耐えている。乱暴はますますエスカレートし、それでもガマンをしているのだが、やがて殺される。そこへ組の客分のような健さんがふらりと帰ってくる。 

≪05≫  客分の健さんは何度か若い衆の血気を制するが、そこへ昔なじみの任侠(たいていは鶴田浩二)がやってきて、健さんがガマンをしているぶん、自分で使命を引き受け始める。それでも健さんはお嬢さんの制止にもあって、行動を控えつづける。が、事態はますます悪化する。ついに観客がこれ以上はガマンができないという映画の終盤、主題曲の前奏が流れはじめると、健さんが棚の奥に仕舞いこんでいたドスを取り出し、黙って準備を始める。それをお嬢さんが気がついて「行かないで」と言う。すがる。が、健さんは歯を食いしばったまま、何も言わない。そして、白い布にくるんだドスを片手に着流しで夜の町に出ていく。 

≪04≫  健さんは親分のお嬢さん(たいていは藤純子)に慕われるが、何かにこらえるようであまり応じない。組の若い衆は報復に駆られて短慮の行動に出るものの(たいていは長門裕之)、必ず無残に返り討ちにあう。これが何度もおこる。 

≪06≫  主題曲がトランペットをまじえた前奏をおえて、いよいよ「ギーリィとニンジョーを」というところへさしかかると、町角に例の任侠男が立っている(鶴田浩二である)。二人は目と目をあわせて何も言わないが、静かに並んで歩きだす。映画によってはここで雪がちらついてくる。最高潮である。そして、たった二人の殴り込み。 

≪07≫  健さんがもろ肌ぬぐと、背中に唐獅子牡丹の刺青が波打つ。場末の映画館であればここで観客に拍手がおこり、壮絶な斬り合いが10分つづく。やがて本望を遂げ表へ出てくると、警察が待っている。脇でお嬢さんが走り出ようとする。健さんは黙ってかれらに引率され、カメラが高く上がって、夜の町をしょっぴかれていく健さんを見送る。終わり。 

≪08≫  健さんがギリとニンジョーを秤りにかけたのはあきらかである。お嬢さんとのニンジョーはもちろん、組の連中に対するニンジョーもすべてギリによって封印される。 

≪09≫  そのギリが重たいものかどうかというと、たいていはたいして重くない。かつて組の親分に一度か二度の恩義をこうむった程度なのである。それでもギリがしだいに燻し銀のように光りはじめ、健さんはそれに従って殴りこむ。 

≪010≫  いったい、この義理とは何か。その義理と比較される人情とは何か。義理人情というふうに四字熟語になることもあるが、この義理と人情がわからなければ高倉健に憧れてしまうわれらの心情もわからない。 

≪011≫  ところが、これらを適確に言いあてるのはかなり難しい。仮に日本人の根底に流れている心情だろうといってみても、その根底がいつごろからかたちづくられたのか、はっきりしない。まさか縄文弥生ではあるまいし、王朝期でもないだろう。では、鎌倉武士の一族郎党に義理と人情が秤りにかけられていたかというと、鎌倉武士たちの御恩奉公・一所懸命のしくみにそんなものが芽生えたとはおもえない。  

≪012≫  足利時代や信長・秀吉では、あまりにも家族や家来の裏切りが多すぎて、これはこれで義理人情を浮き出させるのは困難だ。 そこで江戸の社会があやしいということになるのだが、そうなると、そこには儒教や朱子学、武士道や町人思想、あるいはこれこそは縁が深いのだろうが、侠客や凶状持ちがからんでくる。西鶴にも『武家義理物語』の著作が見えている。「意地」や「意気地」とも関係があるかもしれない。「義理の柵(しがらみ)、情(なさけ)の綱」(春色辰巳園)などというはやり言葉からすると、川柳や歌舞伎や落語にも何かの動因があるだろう。かなり多様な背景から絞り染められた心情なのだろうという推測がつく。 

≪013≫  そうなると、この問題を解くには江戸の社会や江戸の思想の専門家が登場する必要がある。こうして源了圓さんが登場してきた。本書は江戸思想史の専門家、源さんの49歳のときの労作である。ただし、任侠の義理人情にはまったくふれてはくれなかった。 

≪014≫  これまで義理については、社会学者桜井庄太郎の「義理とは、当事者が平等の関係にあるばあい、すなわち当事者の地位の差なきばあいのポトラッチ的・契約的社会意識である」が有名だった。   

≪015≫  あまりに文化人類学的でおもしろくない。これは従来の津田左右吉の「義理とは意地である」や福場保州の「義理は体面の哲学である」のような印象批評を脱したものではあるが、よくあることだが、なんだか急に学者用語が出てきただけという印象でもある。学界的に少し議論が進んだと言われたのが、有賀喜左衛門の「義理は公事(おおやけごと)、人情は私事(わたくしごと)」という分類だったが、これもそれほどのものではない。 

≪016≫  そこで、姫岡勤は「好意に対する返礼としての義理」と「契約に対する忠実としての義理」があると考えたり、ルース・ベネディクトが「世間に対する義理」とは別に「名に対する義理」を持ち出したり、また法学者の川島武宜が「義理には継続性や包括性が欠けている」といった視点を加えた。が、それがどこからきたのかはわからない。  

≪017≫  で、江戸社会である。順番にいうと、まず林羅山の『藤原惺窩先生行状』に義理が出てくる。「人の履むべき道」という意味でつかわれていて、朱子学が日本に義理を導入した雰囲気を伝える。 

≪018≫  つづいて中江藤樹に「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」(文武問答)と出てくる。儒教がしだいに浸透していくさまが見える。 

≪019≫  これが大道寺友山では一気に「義理を知らざるものは、武士とは申しがたく候」(武道初心集)となる。これは町人文化が台頭し、「利欲にさとき町人」が跋扈してきたため、これに対して「利欲にさときものは義理にうとく候」と見て、武士の真骨頂を称揚するためのものだった。 

≪020≫  これで義理が一般化したかというと、源了圓は実はそうでもないと言う。むしろ、このような義理に関する朱子学的な解釈が急速に薄れ、新たな義理の意味が広まっていくのが江戸社会だったというのである。そのスタートは仮名草子の『七人びくに』や西鶴『武家義理物語』であり、その展開は近松の戯曲をまって完全な日本化をはたした。 

≪021≫  これは、かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と言ったひそみに倣っていえば、源は「江戸文化の草化現象」ともいうべきものだろうと言う。 

≪022≫  朱子学や儒学が正統的な位置から滑り落ちて(いいかえれば正当儒学をあえて滑り落として解釈する連中が次々に登場して)、まったくそれとは異なった日本的な義理人情の思想の様相を呈したというのだ。つまり江戸社会独得のジャパナイゼーションである。これは当たっている。しかし、源はそのきっかけを仮名の誕生のようなはっきりしたものでは説明していない。むしろ西鶴や近松の文芸がそれを担ったというのである。  

≪023≫  西鶴が描いた義理は「情緒道徳」だった。一方、近松は義理をストレートに描いたというよりは一心に「情けの美」を描き、そこに観客が義理と人情の葛藤を読んだ。 

≪024≫  このちがいは当時有名だった遊女・夕霧の描き方のちがいにもあらわれる。西鶴は『好色一代男』で夕霧を「命を捨る程になれば、道理を詰めて遠ざかり、名の立ちかかるれば了簡してやめさせ、つのれば義理をつめて見ばなし」と書いた。“気丈婦”なのである。これに対して近松は『夕霧阿波鳴渡』で、夕霧を弱々しい「投げ入れの水仙清き姿」として描く。 

≪025≫  このちがいを拡張すると、西鶴になくて近松にあるのは仏教的無常感だということになるが、そこに日本人の義理と人情が高倉健ふうの男のものにも、その男が女性化する道行心中ふうの女のものにもなる。そういう幅が出ているということになる。  

≪026≫  源はそこから近松に依拠して、江戸の義理人情を次の4つのパターンに分けた。 1.法律上の近親関係ゆえに生じる道徳的義務 2.世間の義理にもとづく習俗 3.人の世の常として他人におこなうべき道(儒教の義理) 4.パーソナルな信頼・約束・契約にこたえる義理 

≪027≫  どうもこんなふうに分類されると、近松の芝居が見えなくなってしまうようだが(健さんの行動についてはもっと見えなくなるが)、実際には源の分析は充分に細部にわたっていて、それなりによくわかる。ただし、源の説明は理屈に勝ちすぎて、芝居からうける情緒をとらえているとはいいがたい。そこは、日本文化を研究するときのよくおこる問題なのである。 

≪028≫  本書はこのあと人情本・読本を例に、とくに馬琴における義理人情の描き方を紹介し、さらに泉鏡花の『婦系図』と尾崎士郎の『人生劇場』をとりあげる。 

≪029≫  つまりは、義理人情は文芸的なるものがつくりだしていったということなのだ。いいかえれば、義理も人情も文芸的なるもの以外には表象されにくい。あるいは文芸的に表象された義理と人情のかたちこそがミームとして伝播していったということになる。 

≪030≫  このことは、義理人情を学問の言葉では説明しにくいということになるはずなのだが、そこがまさしく本書の苦しいところでもあって、困りはてているのがよくわかる。が、なんとかその範疇に収めようとしている。それは、義理と人情を学問の言葉に片付けようとする著者のやむをえない態度によるものだから非難にはあたらないが、できればそんな範疇に押しこめてはほしくなかったという感想もある。 

≪031≫  ぼくがおもうには、義理人情は思考からも行動からも「はみ出てきたもの」に関係がある。そして、いったんはふと薄くなったか、壊れかけそうになってしまったものでありながら、どうしても振り切れないものなのだ。ついに捨てられなかったものなのだ。その振り切れぬ捨てられぬものの、その余情を実感するとき、そこに義理人情が浮上する。 

≪032≫  義理人情は最初から措定されている心情なのではない。行ったり来たり、濃淡をもって動いている。おそらくは見て見ぬふりをしたいのに、それでも絡みついてくるものなのである。いわば風情の実感なのである。 

≪033≫  そこを、むろんのこと学者は俊成や心敬のようには感覚的には書けないし、日本人である以上はベネディクトのように外からの粗い目でも書けない。ついついパターンにあてはめては、それを微妙に調整するようになる。しかし、そろそろそんなふうな見方だけでは“日本流”の説明は不可能なところにきているとも言わなければならない。固定的にとらえない日本人の心情というものも研究されるべきなのだ。  

≪034≫  それには、本書にはふれられていない任侠や落語や俗曲の世界を掬う必要があろう。  

≪035≫  とくにヤクザをはずしてはいけない。高倉健を研究するべきである。また常磐津・清元・新内を放っておいてはいけない。この、最初は当道に属する者たちによる創作的な音曲世界が、やがて下級武士や町人に滲んでいった表現感覚を扱わないでは、義理人情は見えてはこない。 

≪036≫  ということは、義理と人情とは、とりあえずはそのようによばれている「日本人にひそむ矛盾」のことなのだ。しかもそれは「肯定したい矛盾」なのである。いつか、そのことについては別の本、たとえば近松や馬琴を、あるいは万太郎や清張をとりあげて、説明してみたい。 

≪037≫  
本書は労作ではあるのだが、こうした日本文化に関する心情的な要素の分析についてはいまだしの読後感を拭いがたく、そのことを伝えるだけの紹介になったことを忸怩とするところでもある 

≪01≫  弁解したくなることがときどきある。そんなことをしないほうが潔いけれど、つい一言加えたくなる。余計なことをしたときや、その逆に余計を加えなかったときだ。そういうときは残念だ、念が残るのだ。もっと早く気が付けばよかったと感じたときも、しまったとおもう。本との出会いにもそうしたことがある。 

≪02≫  本書については、本を見たとたんにハッとした。「そうか、やはりこういう本はあったのだ」という敬意と感嘆と焦燥である。過日、フランセス・イエイツにヴァールブルク研究所の図書館システムを聞いたときと同様のものだった。それとともに、この本を知っていたらぼくも少しは加速していただろうということ、また、力は及ばなかったものの、ぼくも似たような試みに夢中になっていたのだということを弁解的に付け加えたくなった。 

≪03≫  なぜというに、本書はぼくが1978年につくった「遊」の「相似律」特集号にかなり近いものだったのだ。ただし、ぼくは視覚的な相似感覚による遊びを重視したのだが、ルネ・ユイグは多様な現象間によこたわる「本性の同一性」(connaturalite)について本格的な議論を展開していた。ユイグはさまざまな実在の奥底にあるひとつの世界性(Unus Mundus)を確信し、この大著を構想して叙述した。ぼくも似たようなことを考えて「相似律」を展開したが、そこには理屈はなかったのである。それに、なんといってもユイグの試みは7年ほど早い! 

≪04≫  ユイグが本書を構想したとき、そこには「物質の現象学」がいつしか「生命の現象学」になっていくというマグナ・カルタのような図式があった。 

≪05≫  これはかつてマルクスが「物質の経験の学」をいかに「意識の経験の学」につなげるかという構想に賭けたように、ダーウィンの進化論が出現して以来というもの、かなり多くの研究者たちの計画の下敷きとなった図式であった(マルクスとダーウィンは同時代人)。ぼくはこの図式を安易につかうことには躊躇があるのだが、他方、そうした試みが世の中に出現したと聞くと、たいていはそれを取り寄せたり、それを眺めたり、それを読みこんだりしてきた。 

≪06≫  こうした試みは気宇壮大であるだけに、どこかに綻びが生じて失敗してしまうことが多い。あるいは言いすぎたり、独りよがりになることが少なくない。その代表がダーウィニズムを世界に広げたのはこの人だといわれているハーバート・スペンサーの社会進化論である。それに対してフランシス・クリックやクリスチャン・ド・デューブの反撃と成功はかなりめずらしい。 

≪07≫  そこで、こうした試みに挑戦するには、物質と意識の両方にまたがる連続的時空を見るための覗き窓をつけることになる。その窓はたとえばDNAでもよいし、たとえば時間というものでもよい。あるいはエーテルの風といったものや脳の歴史といったものでもよい。しかし、覗き窓の設定のしかたによっては叙述はすぐに暗礁にのりあげ、主旨はズタズタになる。あまり歩留まりのいい仕事ではないわけだ。 

≪08≫  ところがルネ・ユイグが設定した覗き窓は抜群だった。「かたち」と「ちから」の両方をオペラグラスのような双眼の覗き窓にしてみせた。結果はご覧のとおり、日本語版でも600ページをこえるすばらしい1冊になっている。おそらくユイグが大成功した理由は次の点にある。 

≪09≫  [1] まず、ユイグは芸術から入った。そのほうが「かたち」が見えやすいからだ。芸術家たちはたいていが「かたち」をもっている。
その「かたち」の中からあらわれてくるものは、もっと深いところからやってきたものである。 

≪010≫  [2] ついで、そのような「かたち」の性質を刻印するために、さまざまな現象、土地や大河や都市を空から眺めて見くらべるという方法をとった。これはなかなか賢明な方法で、ぼくも世の中が上から見られた写真によっていかに酷似していくかということに注目していた。それをユイグは方法論的にちゃんと提示した。 

≪011≫  [3] その次に、ここが大事なところなのだが、「かたち」は心理を通過すると歪みうるという点にカメラを寄せた。たとえば印象主義の絵画は「かたち」よりも「うごき」をつくっている。あるいは精神疾患をもつ患者の絵には「かたち」の変形がおこっている。そのような「かたち」もまた「かたち」なのである。そのためここにトロンプ・ルイユや錯視図形やゲシュタルト心理学の成果を挿入することを忘れていない。 

≪012≫  [4] ここまで準備しておいて、ユイグはそもそも「かたち」というものが自然の中でどのように発生し、決定されてきたかを旅をしてみることを勧める。なぜ地球は楕円軌道を動くのか。なぜ直角三角形は3辺の比率をもっているのか、なぜ流体は渦巻をもっているのか、といったふうに。そして、これはぼくも「相似律」でやったことだが、たとえば雪の結晶の六角形と亀の甲羅の六角形とミツバチの巣の六角形をつなげていく。だいたいこのあたりでユイグの勝利は見えているのだが、ここでユイグは手を緩めなかった。 

≪013≫  [5] 鉱物の結晶構造や放散虫の形態のように、「かたち」の行き着く先の構造を並べたて、そこにひそむ動向に問題の目を移していった。つまりダーシー・トムソンの研究がそうであったように、「かたちの成長」と「成長のかたち」の区別に介入していったのだ。そしてそれを、たとえばドラクロアやセザンヌやピカソが芸術表現を変えていった例と比較して、いよいよ読者を科学と芸術の虚実皮膜の「あわい」に連れ去っていくのである。 

≪014≫ [6] こうなれば、いよいよ建築家たちの仕事も勘定に入れられる。かれらは「かたち」を生き物のように扱ってきたからだ。ガウディやザハ・ハディドがそういう例だ。また、アラビアやペルシアやケルトの文様を扱える。文様はけっしてじっとしていないからだ。ぼくも「相似律」では文様の動向を入れていたが、ユイグはそのような建築や文様を扱いつつも、そこにウィリアム・ターナーやモーリス・ルイスまで、クロード・モネからサム・フランシスまでというふうに、つねにアート・イメージの変容を挿入するのを忘れなかった。用意周到なところだった。 

≪015≫  [7] 仕上げは「かたち」の奥の「ちから」の話で、すべての現象をリンキングしていくという芸当になる。この仕上げは必ずしも充実しているとはいいがたかったけれど(なぜなら図版ではどうしても「かたち」が見えてしまうからだが)、それでもロジックとしてはかなり抑えこんでいて、読ませる。つまりは、「本性の同一性」で森羅万象の婚姻関係が結ばれるのだ。 

≪016≫  ざっとこういうカラクリになっていて、本書は470点に及ぶ図版を見ているだけでも、大いに参考になる。その選択の妙、並べかた、キャプションの付けぐあい、図版のサイズ。いずれもほぼ上出来だ。 

≪017≫  日本語版は鈴木一誌のエディトリアル・デザインによるもので、これは原書とはちがうが、それだけにいろいろの工夫が見られて力強い。ちなみに原書のサブタイトルは「原子からレンブラントへ」というもの。これもなかなか憎い。ぼくも「相似律」に「エデンの園からきつねうどんへ」とでも付けておくのだった。 

≪018≫  ユイグは1937年にルーブル美術館の絵画部長になった。《モナ・リザ》をナチスから守ったのはユイグだった。その後、美術史にのめりこみ、1951年にコレージュ・ド・フランスの造形芸術心理学の教授となり、大著『見えるものとの対話』全三巻(美術出版社)をものした。 

≪019≫  ぼくはこの大著も、そのあとの『イメージの力』(美術出版社)もざっと読んでみたのだが、それほど感心しなかった。イメージについての議論は美術史やデザイン史を出入りするだけでは、深まらない。知覚や脳科学や表現技法に関する見地が出入りしないと、迫ってこない。ユイグにはそこが欠けていた。それが『かたちと力』で「かたち」の発生と変化に踏みこんで、見方のサイエンスが出てきた。「かたち」と「ちから」がコレスポンデンス(照応)した。 

≪020≫  自然界における形状は鉱物でも植物でも動物でも、必ずや力の関与によって生まれている。そこには対称性と平衡力の成立と破れがおこり、熱力学や空気力学や水力学が出入りする。このこと自体はアートでもデザインでもないが、そこに色をともなって形成された花や魚類や鳥たちは、詩となり写真となり映像となってアートに変相し、印刷されたりVRとなってデザインに直結する。 

≪021≫  おそらく『かたちと力』はユイグのパーソナルワークではなくて、時間をかけたスタッフワークによって究まったのだとおもう。470点の図版はそうした複合的な選別とフィルターによって配当されたのだろう。 

≪022≫  その按配は後半になって劇的な説得力をもった。たとえば、第8章の液体から微小な表現力があらわれるところ、第9章の均衡と不均衡の2拍子のリズムが人の目を欺く不動性を見せるところ、第10章の矛盾をかかえこんだエントロピーがコンティンジェント(偶発的な)な根底的な偶有性をもつところ、最終章の自然や生命はちっともサスティナブルなどをめざしていないことを告知するところ、すなわち、アートとデザインは「本来の矛盾の体現」に向かっているのにちがいないと表明するところなどだ。 

≪023≫  それにしても、こういう本、やっぱりぼくとスタッフで作ってみたかった。余計なことにこそ、たじろいではならなかったのである。 

 仕口を見る。継ぎ目とチリ際の出来を見る。
 詰めて、配って、開いて、締めて。
 何であれ、差し障りがあるようではいけません。
 あとは景色になったかどうか。
 映りがいいか、和らかくなったのか。
 製図は不要、泣き言不要、芸術とりわけ不要。
 隅と縁との大勝負だけ。
 ここには、ちょっと懐かしい京都の職人の本音が吐露される。 

≪02≫  この本はすべて笠井一子さんの聞き書きだけでできている。喋っているのは、数寄屋大工、左官、表具師、錺師、畳師、簾師、石工、庭師の8人。いずれも京都を代表する名職人の棟梁である。十数年前の取材だが、すでに鬼籍に入った名棟梁もいる。 

≪03≫  こういう名人たちの話というもの、何を感じるといいかというと、「景色の掴み方」を感じるのがいい。職人の仕上げはなんであれ景色に向かっている。その景色がいいかどうかは、茶碗でも植栽でも同じこと(これはぼくの編集でも同じだが)、ただし、施主や注文主が気にいるように、かつ自分の職人芸が納得できる景色をつくる必要がある。自分勝手はあきまへん。そのためにいっさいの準備と工程があるわけで、その景色を棟梁たちがどこで勝負をかけているのか、そこが聞きどころなのである。 

≪04≫  一番手は90歳直前の中村外二(そとじ)。50年前、ぼくの中京の家にも遊びにいらしていた。いま、連塾にいつも来てくれている三浦史朗さんはまだ若手の数寄屋建築家の図抜けたホープであるが、「日本」を意匠にするにはまずもって数寄屋を叩きこまれたくて、最初に外二さんのところで修行した。 

≪05≫  【仕口・性・差し障り】 中村外二さんは言わずとしれた数寄屋大工の第一人者で、この人がいなかったら、日本の「和」なんてものはとっくにぐちゃぐちゃに倒壊していた。その棟梁が仕事を通して一番重視しているのは「仕口」(しくち)だ。仕口は木と木の接合部分のことをいう。木は一本一本が性(しょう)や表情をもっていて、それをみっちり組み合わせていくのだが、そこに仕口がおこる。その仕口に外二さんの数寄屋の秘密がある。  

≪06≫  弟子をとるときは、人を見る。人を見るには掃除をさせる。それでだいたいのことがわかる。中村棟梁のところでは弟子が人前で仕事をするようになっても、あいかわらず5年は掃除を続けさせるらしい。そもそも建築は人格なのである。その人格も、材木に「本と末」があるように、本末がわからないようでは、すべてダメである。本末がわからないと「障り」(さわり)が出てしまう。人も家も「障り」があるようではいけません。だから「差し障り」をどうするか。それがすべてなのである。 

≪07≫  【半坪・手際・貫・加減】 森川邦男さんは茶席用や京壁施工の左官屋さんの棟梁である。5寸か7寸の鏝(こて)をあてがわれ、半坪くらいの小さな壁で稽古をするのが、子供時代からの修行だった。それが1坪になると、とんでもなく難しい。この「半坪から1坪への飛躍」が、その後のすべてにつながっている。だから、それをまず徹底して体に染みこませる。  

≪08≫  こうして、やっと「手際」というものが感じられるようになる。手でいろいろの際が見えてくる。しかし手際がよくなってきたからといってそれだけでは半人前、次は土加減やスサ加減が勝負になっていく。だいたい茶室の壁はたいへん薄いものだから、「貫」(ぬき・木の芯)の具合、下地竹や木舞竹(こまいだけ)の具合ひとつで、壁が死ぬ。 

≪09≫  左官はその「加減」をチリ際で会得する。チリとは、何かと何かが接して関係しあっている一筋のところ。万事、この一筋の勝負なのである。 

≪010≫  【継ぎ目・泛け・逃げ場】 伏原佳造さんは5代目の表具師。ぼくが通っていた初音中学のすぐそばにあった。いまも同じ場所に「春芳堂」があって、朝から晩まで紙張りをしている。貼りではない、張りだ。それだけが仕事なのだが、しかし容易ではない。 

≪011≫  たとえば茶室の障子は席障子というが、これにはわざわざ紙を重ねて継ぎ目を見せる。石垣張りという。けれども紙(ほとんど美濃紙)は湿気で生きているから、逃げ場をつくってやらなくてはならない。 

≪012≫  この伸縮の狂いと遊びを勘定に入れるのは襖や屏風でも同じこと、胴張り、蓑掛け(重ねて張る)、蓑しばり、泛(う)け掛け(薄い紙を張る)、いずれも中央を土台からほんの少しだけ浮かして張っていく。それを何種類かの刷毛(はけ)で案配するわけである。そうするとふっくらと柔らかく仕上がる。 

≪013≫ 【ツメ・間・映り】 3代目の森本安之助さんは錺(かざり)師である。錺金具をつくる。ぼくは『日本流』(朝日新聞社)で親父さんのほうをとりあげたことがある。  

≪014≫  親父さんは伊勢神宮の式年遷宮に3度にわたって従事して、最初は3年半の準備を、次は6年半をかけ、平成5年の遷宮には10年の支度(したく)がかかったという。慣れたからだんだん早くなったかというと、その逆で、だんだん支度の手間がふえていった。これは「ツメ」がしだいに見えてきたからなのだ。 

≪015≫  錺(かざり)は板金からつくっていく。鋳物ではない。だから凹凸や曲折の「間」を読んでいく。その「間」が慣れるにしたがって間延びする。そこでツメがふえて、支度がふえる。 

≪016≫  では、そこまでしていると錺師の個性なんかはないと思われるかもしれないが、それが甘い。職人の個性は注文でしっかり磨かれる。注文を聞けないプランナーやクリエーターはそこで落第なのである。それは「好み」の世界がわからないからである。森本さんはその好みが反映した仕上げを「映り」と言っている。まさに景色の問題だ。 

≪017≫  【隅・縁・拾い】 京都にはいまもけっこうな数の畳屋がある。以前は400軒ほどで、いまはそれでも250軒ほどはあるはずだ。なかに数寄屋畳師がいる。6代目の高室節生さんのところは表千家の注文が多い。楽吉左衛門さんのところの畳も、たしか高室さんの仕事だったと憶う。 

≪018≫  畳は京間畳が基準で、64目でできている。表面に62目で、両側の縁に1目ずつが隠れる。厚みは数寄屋畳で1寸8分。これを畳床(たたみどこ)の上に藺草(いぐさ)の二配・四配・六配(一配は両こぶしを並べた長さ)の長さのちがいによって表と裏から針を上下に巧みに縫いあわせ、さらに畳縁(たたみべり)を付けて仕上げていくわけだ。 

≪019≫  ところが、これが長方形とはかぎらない。部屋はどんなきっちりした部屋でも、どこかが歪んでいる。たとえば四辺の長さが同じでも部屋の対角線は少し狂っているし、家というもの、実は多少の傾斜もある。畳師はそこを「畳のほうで拾ってあげる」のだ。畳は実は四角形ではなかったのである。こうして畳の「隅」と「縁」とが微妙に生きていく。 

≪020≫  【配り・うつろい・化粧】 簾(すだれ)は暖簾(のれん)とともにぼくの好物に近い。だから京都の簾屋さんや暖簾屋さんは、いつも気になる。四条大橋近くの平田翠簾商店はなかでもよく目立つ。平田佳男さんはその7代目だ。  

≪022≫  その葭をふつうは鋏でちょんちょん切って整えていくのだが、平田さんのところは特別な鋸引きをする。これがたいそう手間がかかる。しかし、簾は人の目がいくところ、人がそこを通過するところ、だから仕上げは女のファウンデーションのようにしっかりとして、かつ美しく目配りがされていなければいけない。それを文字通り「化粧」というらしい。 

≪021≫  簾の素材は琵琶湖のもの、とくに近江八幡の葭(よし)が一番である。葭は中が空洞だから水分が滲み通らない。それでも茶室の簾用の味六葭(みろくよし)などは、季節がいいときに刈り取っておかないとうまくない。 

≪023≫  簾は「うつろい」の代名詞でもある。平田さんのところの簾は瓢亭にも熱海の蓬莱にも修善寺の浅葉旅館にも入っているが、いつも目配りとうつろいを担っている。では、平田さんの弟子になるための修行についての一言。「弟子は泣き言をもらすようでは失格です」。 

≪024≫  【錆・肌理・粘り】 イサム・ノグチ(786夜)の影響はいろいろなところに及んでいる。北白川の石工である西村金造さんもその一人で、イサム・ノグチがこしらえた石膏の雛型を何倍もの大きな石に彫っているうちに、何かが変わった。曲線の使い方が心に残っているという。 

≪026≫  だいたい石屋は錆のためにいろいろなことをする。火を炙るときもあれば、砥石や針金でこするときもある。蓮弁を彫るとか仏像を彫るというのは、むしろ年季が入ればできてくることで、自分でノミ(鑿)やセットウ(石頭)を焼いてつくれば、おのずから彫れるようになる。それより肝腎なのは「肌あい」や「肌理」(きめ)をどうするかなのである。ともかくいろんなことを世話してやるうちに、石に「角もち」や「粘り」が出てくる。きれいに仕上げるだけではハンパなのである。 

≪025≫  西村さんは屋号「兵右エ門」の4代目で、小さいころから比叡山の近所でとれる白川石や銀閣寺近くの太閤石で育った。山中で勝手に割れた山疵(やまきず)のある石はほれぼれとする。だから子供のころから、そういう石に苔がむしてくるようにと水をかけていた。これを石屋たちは「苔がのる」とか「錆」とか「汗をかく」という。錆のためには水道水をかけてもおいしくない。バケツに汲んでおいて、せめて一晩寝かせてから掛けてやる。  

≪027≫  しかし、石の出来具合はいつまでもベンキョーだ。イタリアへ行っても韓国に行っても、教会の礎石や新羅文化の名残りばかり見る。むろん日本の傑作も何度も見る。西村さんの目では、灯籠で凄いのは石清水八幡のもの、平等院鳳凰堂のもの、東大寺三月堂のもの、近江の河竹御辺(かわたけみかべ)神社のもの、大徳寺高桐院のものが絶品であるようだ。 

≪028≫  【目安・和らげ・光の粒】 いま、庭師がふたたび脚光を浴びている。若い世代にもいいセンスの持ち主が出てきているが、製図やCGに頼りすぎている。ところが、京都の庭師が手掛けたものは、庭を見ただけでわかる。「光の粒の置きかた」がちがうのである。明貫厚(あけぬき・あつし)さんはそういう庭師だ。京都現代美術館、何必館(かひつかん)、ミホ・ミュージアム、鶴屋吉信本店などを手掛けた。佐野旦斎がつくった俵屋旅館の庭の手入れもやっている。 

≪030≫  庭師は図面が前提ではない。施主のためのプレゼンテーションに使うけれど、あくまで目安にすぎない。庭は生きものを相手にするのだから、自然に倣うしかないし、座敷からどの方角を見る庭かによって、廂(ひさし)の長さ、窓の大きさで、すべて変化する。遠近のために近くに大きな木を植える必要が出てくるときもある。 

≪029≫  たとえば何必館の庭はミュージアム・ビルの中の庭である。建築家が用意した庭はたった20センチの土だった。これでは小さいものしか植えられない。そこで50センチの土盛りをして、それを速水御舟の『名樹散椿』の土の線にした。こうして一本の紅葉と二つの石の配置ができあがったのだが、仕上げてみると左の石が不要に見えた。そこで日本画家の下保昭さんにそれを言ったところ(明貫さんは下保さんの自宅の庭も手掛けた)、庭師は一木一草に行き着こうとしすぎる。そこまで最初から設(しつ)えても、そのあとどうするのかと言われた。一晩眠れず、さんざん考え抜いた。のちのち折口信夫(143夜)を読んでいて、やっとピンときた。人の心を動かす力が庭には必要なんだということを。 

≪031≫  だいたい、庭は堅くてはいけない。では、どこで和らげていくかということだが、その気分はふだんの習練でしか磨けない。左官は「練り方三年」というけれど、庭師は「根まわし二年」「水まき三年」なのである。 

≪032≫  以上が、8人の名人たちの言いざまだ。それぞれが別々の仕事をしているようでいて、似たことを言っているのは歴然とする。ようするに手を抜かないということ、最初から最後まで「構え」と「配り」なのである。 

≪033≫  最後の明貫さんが中村外二さんの話もしていて、そこでいかに中村棟梁が弟子を叱りまくっていたか、しかし木出しから木割りまで、すべてを細かく立ち会っていたか、仕上げにあたっては、鴨居であれ落掛(おとしがけ)であれ、それを見ながらもうあと3厘落とせ、5厘落とせと言い続けていたかを、懐かしそうに振り返っている。あんなに材木を生きたまま知っている人はいなかったとも述懐していた。 

≪034≫  その明貫さんが、もうひとつ言い残している。「意外に茶人というのは感覚音痴の人が多いんじゃないですか」と言っているのだ。茶人は感覚音痴。これはまさに、そうである。茶人たちは「お茶というものさし」ですべてを見ていて、それ以外の見方ができなくなっている。だからむろん職人にもなれないし、まして芸術家にもなれないままにある。こういうことを庭師は黙って見抜いているわけだ。まことに、おっかない。われわれは、ときに職人の目に晒されるべきだった。 

≪01≫  

日本舞踊ってわかりにくいですね、あれっていったいどこがいいんですか、とよく訊かれる。
いい踊りもあるが、くだらない踊りも多い。
そんなことはあたりまえである。 

≪02≫  「でも、ぼくは日本舞踊そのものがわからないんですよ」と言う者もいる。こういう連中に答える気はない。サッカーってどういうものですか、交響曲ってどういものですか、あれってどこがおもしろいんですかと訊かれ、それはねと縷々説明したところでしょうがない。 

≪03≫  何度も見てもらうしかないし、そのうち、どこでそのサッカーや交響曲に本人が夢中になったかなどということは、外からはわからない。おそらく本人も困るだろう。 

≪04≫  踊りのどこがおもしろいなんてことも、都合よく外には取り出せない。もっとも、そのように言いたくなる理由が少しはある。 

≪05≫ 井上さたは「動かんやうにして舞ふ」(佐多女芸談)と言った。日本の踊りはまず動かないことから始める 

≪06≫  世阿弥はそこを「動十分心、動七分身」と言った。まずは動かないという否定があるわけなのだ。そこからちょっとだけ「程」というものが出る。その「程」を少しずつ「構え」というものにする。構えは体に言い聞かせるもので、これはまだ踊りでも舞でもない。ある観念が体の各部に降りたことをいう。それが構えである。その構えがフリ(振り)を生む。 そこから舞踊になっていく。 

≪07≫  けれども、もともと日本の舞踊は声をもたない。そこにも否定がある。声は別の者が出す。三味線をはじめとする音も別の者が用意する。だから踊り手はそういうものからもともと抉(えぐ)られていて、その抉られた負の存在が声や音を得て、動く存在になっていく芸なのである。 

≪08≫ 声も音も出さないが、たまに楽器をもつことはある。が、それを鳴らすということはしない。『道成寺』『浅妻舟』『羽衣』『鏡獅子』などでは羯鼓をもつし、『女太夫』では四竹をもつが、鳴らさない。だから本物の音が鳴る楽器をもつ必要はない。たしか6代目菊五郎だったとおもうが、本物の楽器をもって出て、やっぱり張り子にしておけばよかったと言った。 

≪09≫  もうひとつ決定的なのは、顔の表情もないということである。ここにも否定がある。消去がある。日本舞踊の踊り手がジプシーダンスやエアロビクスのようにこちらを向いてニヤリと笑えば、それでおじゃんである。 

≪010≫  面もつけない。そこは能仕舞とちがっている。しかし、能を受け継ぐことは多いので、面をつけないのに、まるで面があるかのようになっている。だから素面(直面)なのに、目を使わない。日本舞踊は目で踊るのでもなく、目が舞うのでもない。  

≪011≫  このような日本舞踊を、いったいどんなふうに思想的に見ればいいかというと、主観と客観を分けていないということなのである。それがひとつ。もうひとつは、すべての象徴性が比喩そのものであるということだ。そして否定と消去が当初にうずくまる。 

≪012≫  こういう異様な日本舞踊について、坪内逍遥や正宗白鳥までのころはともかく、戦後になっては、いい本はない。 

≪013≫  むろん解説書や入門書のたぐい、ときに舞踊史のようなものはあるにはあるが、これらはほとんど思想をしていない。あとはいくつもの芸談があるだけなのだ。その芸談もコツが語られているばかりではないから、仰山を読む必要がある。 

≪014≫  そこで郡司正勝さんの『おどりの美学』を選んでみた。唯一ではないかもしれないが、少なくともぼくには本書を越えるものはほとんど見当たっていない。郡司さんなら名著『かぶきの美学』か、晩年の傑作『童子考』だろうが、あえて本書を選んだ理由がそこにある。もっともここには、郡司さんの原点も見える。 

≪015≫  郡司さんは舞踊の専門家ではなく、歌舞伎の専門家である。けれども、歌舞伎がわからなければ踊りがわからないということが大きく、その視線が本書においても生きている。 

≪016≫  そもそも出雲の阿国のかぶき踊りが、歌舞伎の母体にも日本舞踊の母体にもなっていた。その後、歌舞伎界では踊りのことを所作事とか景事とか振事とよんでいた。また長唄ものを所作事といい、浄瑠璃ものを段物ということもあった。 

≪017≫  その構成はおおむねオキ・クドキ・チラシでできている。もう少し詳しくは、「オキ(置)→出(出端)→道行→クドキ→カタリ→総踊り→チラシ」というふうになったりする。『関の扉』はだいたいこの順で進むが、チラシのところが立ち回りになる。こういう構成がどこか歌舞伎的なのだ。 

≪018≫  しかし、舞踊は歌舞伎ではない。 セリフもないし、謡いもない。第一、人間の対立がない。ごく柔らかな対比はあるが、けっして対立を見せない。そこは能とちがっている。いつかそのことも考えてみたいとおもっているが、いまのところその理由はつきとめていない。おそらく享保のころに舞踊の自立が兆すのであるが、このときに振袖などの衣裳と身体との独得の2重奏とでもいうべき関係が生じ、そのあたりから1人の踊り手の内面の表現に舞踊の意図が芽生えたのだろう。 

≪019≫  着物のついでにいうが、日本舞踊のことは、着物のことが見えなければわからないことも多い。たとえば、手を上げるという所作ひとつが、まっすぐ上に、しかも急に上げれば着物の袖から二の腕がニョッと出る。そこで袖に手を添え、手もゆっくりと曲げてかざすというふうになる。そういうことは着物の形状の発達との関連なのである。 

≪020≫  着物の文様や図柄も踊っている。桜か紅葉か桔梗なのか、その着物がどんな意匠になっているかということも、踊りを変えた。そういうこともある。衣裳と意匠が肉体を殺した、そういうことだっておこってきたのが舞踊の歴史というものなのだ。 

≪021≫  舞踊には振付というものがある。享保に死んだ中村伝次郎が振付師の元祖といわれるが、そのあと2代伝次郎の舞扇、藤間流をおこした藤間勘兵衛、中村座の中村弥八、明和の西川扇蔵、市山七十郎などが、次々に日本舞踊の「型」をつくっていった。 

≪022≫  これは宝暦のころの豊後節から常磐津や一中節、富本や河東節が派生していったことと関係があって、その節回しと歌詞の特徴が振付になっていった。 

≪023≫  振付による「型」がフリを生む。そこでカタとフリとが稽古の中心になるのだが、それですうっと踊れるわけではない。カタとフリがつくるのは「曲」の拍子と形の関係までのこと、その次にはというか、その中間にはというか、「間」というものがあり、さきほどのべた「程」がある。 

≪024≫  そこで「型」の稽古を積んだうえで、また「間」や「程」に戻って稽古する。ここが難儀なところで、真行草もあり、芸の品が出るわけなのである。「拍子はおぼへやすく、程はつもりがたし」というのは、そこである。 

≪025≫  とくにウツリ(移り)が難しい。「曲」から「曲」へ、「間」から「間」へと移っていく。地唄舞などでは、手がとまるとおもううちから足がうごいて、間がはずれず、しかも間にのらないという絶妙のウツリを見せることがある。見ていて夢中に引きこまれるところである。 

≪026≫  このことを、「一声の匂ひより、舞へ移るさかひにて妙力あるべし」などという。すでに世阿弥が『花鏡』に言っていた。 

≪027≫  諸君、まあ、黙って踊りを見てみることだ。だだし、条件がある。
名人と呼ばれている人の踊りを最初から見ることだ。
そのあとで何でも見ることだ。そしてまた、名人芸を見ることだ。
ジダンや中田のいるサッカーを見ることと変わりない。 

≪01≫  仕草を芸能芸術として扱った。 こんな芸術論は世界でもきわめてめずらしい。ヨーロッパ人なら詩学とか詩法と名付けるだろうが、それなら言葉のための芸術論である。世阿弥の『花伝書』(風姿花伝)は所作や様態の芸術芸能論で、しかも600年前だ。ブルネッレスキがやっと古代ローマのウィトルーウィウスを発見し、ファン・アイク兄弟が出てきたばかり、アルベルティの『絵画論』ですら『花伝書』の35年あとになる。 

≪02≫  文芸論や建築論や絵画論ならまだしも、『花伝書』は人の動きと心の動きをしるした芸能論である。証拠がのこらないパフォーマンスの指南書であって、それなのにそこには楽譜のようなノーテーションやコレオグラフはひとつも入っていない。ただひたすら言葉を尽くして身体芸能の真髄と教えをのべた。ただの芸能論ではない。観阿弥が到達した至芸の境地から人間と芸術の関係をのべている。人間の「格」や「位」の学習論にもなっている。 

≪03≫  おそらくは観阿弥の日々を世阿弥が記録して、それらを削り、言葉を加え、さらに磨きをかけたのだったろう。それが世界史的にもめったにあらわれぬ達人の世界観となり、極上の人間観になった。それがまた人後に落ちぬ秘伝であることもめずらしい。秘伝というのは口伝のことで、他人に口外しない。言挙げを憚かった日本では秘伝・口伝がとくに大事にされた。それを示した文書やメモは「折紙」とも呼ばれ、和歌・連歌・武芸でも家宝のように大事にされた。いわゆる「折紙付き」である。能はその折紙すら残さない秘伝であった。 

≪04≫  ちなみに「達人」という言葉は『花伝書』の序にすでに用いられている。名人の上に達人がいた。観阿弥・世阿弥の父子はあきらかに達人を意識した。 

≪05≫  本座に一忠がいた。南北朝期の田楽の名人で、猿楽を凌ぐ田楽能と呼ばれた。観阿弥は一忠を追ってそれを上回る達人になろうとした。けれども52歳で駿府に死んだ。だから世阿弥には名人と達人のモデルがあったということになる。一忠が観阿弥の名人モデルで、観阿弥が世阿弥の達人モデルである。生きた「型」だった。 

≪06≫  そのモデルを身体の記憶が失わないうちにまとめたものが『花伝書』である。観阿弥が口述をして、それを世阿弥が編集したことになっている。きっと観阿弥がわが子世阿弥に英才教育を施し、死期が近づくころに、何度かの口述をしたのだろうと思われる。それを世阿弥はのちのち何度も書きなおす。 

≪07≫  実は『花伝書』は長らく知られていなかった。 明治42年に安田善之助所蔵の古伝書群が地理学者の吉田東伍にあずけられ、それが『世阿弥十六部集』の校刊となって耳目を驚かせたのであって、それまでは数百年にわたってあまり知られていなかった。東伍は『大日本地名辞書』11冊の編著でも知られるが、能楽研究や早歌研究にも造詣が深かった。『風姿花伝』を『花伝書』と名付けたのは東伍だった。 

≪08≫  十六部集の刊行まで、『花伝書』は能楽の家に口伝として記憶されたまま、半ばは文字のない文化の意伝子として能楽史を生々流転していたということになる。現在では各伝本とも7章立てに構成されているが、その各章の末尾に秘密を守るべき大事のことが強調されているのが、その、文化意伝子を意識したところだ。「ただ子孫の庭訓を残すのみ」(問答)、「その風を承けて、道のため家のため、これを作する」(奥義)、あるいは「この條々心ざしの藝人より外は一見をも許すべからず」(花修)、「これを秘して伝ふ」(別紙口伝)といった念押しの言葉が見える。 

≪09≫  こうした秘密重視の思想の頂点にたつのが、別紙口伝の「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり」である。人口に膾炙してしまった一節だが、その意味するところは、いま考えてみても、そうとうに深い。加うるに、このあとにすぐ続いて「この分目を知ること、肝要の花なり」とあって、分目をこそ観阿弥・世阿弥は必ず重視したことが伝わってくる。このこと、すなわち「秘する花の分目」ということが、結局は『花伝書』全巻の思想の根本なのである。この根本にはいつも戦慄をおぼえる。 

≪010≫  正式には『風姿花伝』といった。世阿弥の捩率(ねじれ)の効いた直筆「風姿華傳」の文字も残っている。うまい字ではないが、おもしろい書だ。 それにしても『風姿花伝』とは、おそらく日本書籍史の名だたる書名のなかでも最も美しく、最も本来的な標題ではなかろうか。風姿はいわゆる風体のこと、『花伝書』には風姿という言葉は見えないが、その本文にない言葉をあえて標題にした。「風姿の花伝」、あるいは「風姿が花伝」なのである。風姿が花で、その花を伝えているのか、風姿が花伝そのものなのか、そこは判然としがたく根本化されている。 

≪011≫  世阿弥はよほどの文才をもっていた。観阿弥の言葉をそのまま写したのではないだろう。川瀬一馬をはじめ一部の研究者たちは、世阿弥は観阿弥の話を聞き書きしたにすぎないと言うが、聞き書きをしたことがある者ならすぐわかるように、そこには聞き書きした者、すなわち世阿弥の編集的創意が必ずや入っている。世阿弥はその創意がとりわけて格別だったはずだ。そんなことは『花伝書』を読めば、すぐわかる。 

≪012≫  では、少々ながらガイドをしておくが、『花伝書』は現代語で読んではいけない。もともと古典はそうしたものだが、とくに『花伝書』にはろくな現代語訳がない。だから、『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。  

≪013≫  キーワードやキーコンセプトは実にはっきりしている。第1に「花」である。何をもって「花」となすかは読むにしたがって開き、越え、迫っていくので、冒頭から解釈しないようにする。この「花」を「時分」が感じる。時を分けて見えてくるのが「風体」である。 

≪014≫  その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年ならばすぐに「時分の花」が咲くものの、これは「真の花」ではない。能のエクササイズには「初心の花」というものがあり、この原型の体験ともいうべきが最後まで動く。それを稽古(古えを稽えること)によって確認していくことが、『花伝書』の「伝」になる。 

≪015≫  第2のコンセプトは「物学」だ。「ものまね」と読む。能は一から十まで物学なのだ。ただし、女になる、老人になる、物狂いになる、修羅になる、神になる、鬼になる。そのたびに物学の風情が変わる。それは仕立・振舞・気色・嗜み・出立、いろいろのファクターやフィルターによる。 

≪016≫  第3に、「幽玄」だ。この言葉は『花伝書』の冒頭からつかわれていて、観阿弥や世阿弥が女御や更衣や白拍子のたたずまいや童形の無垢な姿を例に、優雅で品のある風姿や風情のことを幽玄とよんだのである。それは芸能の所作にあてはめた幽玄であって、その奥には俊成や定家の歌に発した「無心・有心・幽玄」の余情の心がはたらいていた。そういう心の幽玄は『花伝書』の奥に見え隠れするもので、明示的には書かれていない。われわれが探し出すしかないものなのである。もし文章で知りたければ、世阿弥が晩年に綴った『花鏡』のほうが見えやすい。 

≪017≫  第4には「嵩」と「長」がある。これは能楽独得の「位」の言葉であって、「嵩」はどっしりとした重みのある風情のことで、稽古を積んで齢を重ねるうちにその声や体に生まれてくる位である。風格に近い。 

≪018≫  これに対して「長」は、もともと生得的にそなわっている位の風情というもので、何かに長じていることをいう。これらがしばしば「幽玄の位」などともよばれた。けれども世阿弥は必ずしも生得的な「幽玄の位」ばかりを称揚しない。後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれる才能を、あえて「闌けたる位」とよんで重視した。『花鏡』にいう「闌位」にあたる。 

≪019≫  第5に「秘する」がある。「秘する花」である。これは「家」を伝えようとする者にしかわからぬものだろうとおもう。しかし、何を秘するかということは、観世一族の家のみならず、能楽全体の命題でもあったはずで、その秘する演出の構造をわれわれは堪能する。 

≪020≫  このように「花」「物学」「幽玄」「嵩」「長」を動かしながら、『花伝書』はしだいに「別紙口伝」のほうへ進んでいく。そして進むたび、「衆人愛敬」「一座建立」「万曲一心」が掲げられ、その背後から「声の花」や「無上の花」が覗けるようになっている。それらが一挙に集中して撹拌されるのが「別紙口伝」の最終条になる。 

≪021≫  この口伝は「花を知る」と「花を失ふ」を問題にする。そして「様」ということをあきらかにする。問題は「様」なのだ。様子なのである。しかしながらこのことがわかるには、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義であること、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」ということを知らねばならない。そうでなければ、「花は見る人の心にめづらしきが花なり」というふうには、ならない。そうであって初めて「花は心、種は態」ということになる。 

≪022≫  こうして口伝は、能には「似せぬ位」があるという秘密事項にとりかかる。物学をしつづけることによって、もはや似せようとしなくともよい境地が生まれるというのだ。そこでは「似せんと思ふ心なし」になる。かくて「花を知る」と「花を失ふ」の境地がふたつながら蒼然と立ち上がって、『花伝書』の口伝は閉じられる。 

≪023≫  ぼくは何度この1冊を読んだかは忘れたが、いつも最後の「別紙口伝」のクライマックスで胸がばくばくしてきたものだ。  

≪01≫ 見るといっても、離見の見。 花といっても、
時分の花。 能は感じるものであるけれど、感じてもなお、能は却来(きゃくらい)なのである。 
世阿弥の能は夙にそのことを告げていた。 
けれども、花伝書が読めるようになったのが やっと明治中期以降のこと、まして世阿弥にとりくむ能楽師など、ほとんどいなかった。 
そこで観世寿夫が能の本来に挑み、若くして“昭和の世阿弥”と呼ばれるようになった。 
海外演劇や現代アートともすすんで交わった。
そして志半ばのまま、53歳で亡くなった。 
どうしても観世寿夫から語り直さなければならないことがある。 

≪02≫  見るといっても、離見の見。花といっても、時分の花。能はひたすら感じるものであるけれど、感じてもなお、能は却来なのである。 

≪03≫  観世寿夫はぼくの憧れの人だった。当時すでにして〝昭和の世阿弥〟と呼ばれていた。見て、聞いて、そして接してみて、その深さと前衛性と覚悟と柔らかい高さに、心底、敬服した。以下、失礼ながら「寿夫さん」と言わせてもらう。 

≪07≫  それだけで何かが痺れてきた。「段取りをアタマに踏む」。もう、これで十全ではないか。それでもぼくは「で、どうですか」とでも、愚かなことを訊いただろうか。そこはまったくおぼえていないのだが、たしか、「音がね、声のことですが、どういうふうに動くかというのが、まだ入っていないのでね」というようなことを言われた。 

≪04≫  いまから30年以上前の1976年8月のこと、寿夫さんの能の取り組みをかたわらで固唾をのんで拝見したことがあった。所は利賀村(富山県)。その年の眩しいくらい暑い夏のなか、鈴木忠志の早稲田小劇場「利賀山房」が開場したのだが、ぼくはその一部始終を映像記録するために数日前から工作舎のスタッフとともに利賀村に入っていた。以前から知り合いのチューさん(鈴木忠志)に頼まれて『劇的なるものをめぐって』(のちに工作舎発行)という本をつくるためでもある。 

≪08≫  翌日の《経正》の舞台は圧倒的だった。静かでテンポのよい修羅物だが、熱かった。それから2年後、胃癌が発見され、癌はリンパ節に転移して寿夫さんを蝕み、やはり暑かった夏の一日、青山銕仙会の装束や面の虫干しに立ち会っているとき、激しい腹痛で倒れてしまった。わずか53歳の「闌位の花」だった。 

≪05≫  そこへ、オープニング記念に《経正》(経政)を舞うために寿夫さんが招かれ、農家を改造して醤油などで黒光りさせた変形舞台に向かったのである。 

≪06≫  まだ朝の風が静かに吹き通っていた刻限、寿夫さんが誰もいない醤油舞台を前に、静かに考えこんでいる場面に出くわした。しばらく黙って様子を見ていたら、寿夫さんもこちらに気がついて会釈をされた。思わずふらふらと近寄って「この舞台をどういうふうに使われるのですか。経正ですよね」みたいなことを言ったところ、寿夫さんはオールバックの髪に少し手をやって、「いま、その段取りをアタマに踏んでましてね」と言われた。 

≪09≫  本書は荻原達子さんが、『観世寿夫著作集』全4巻(平凡社)から世阿弥を出入りするエッセイ・講演・論文を絶妙に選抜した1冊である。とてもよくできている。元の著作集はそこそこ読んでいたけれど、どちらかというと早逝した寿夫さんを惜しむように拾い読みしていたので、そこから立ち上がってくる「能の知」に分け入るというような読み方をしていなかった。それが本書ではことごとく動きだし、リンキングし、新たなレティキュレーションとアーティキュレーションが交差した。 

≪010≫  いまぼくは、寿夫さんが利賀山房で「声がどういうふうに動くか」と言ったことについて書いたけれど、あのころはその真意がほとんどわかっていなかった。せいぜい舞台の空間を声や囃子の音がどんな反響で動いていくのかということだろうとしか理解していなかったのだが、そんなことではなかったのである。本書にある「無相真如」というエッセイをあらためて読んだとき、やっと了解できた。寿夫さんはこんなことを書いていた。 

≪011≫  謡曲《芭蕉》に「それ非情草木いっぱ、まことは無相真如の体、一塵法界の心地の上に、雨露霜雪の象を見す」というくだりがあるとき、これを役者がヒジョーソーモク、ムソーシンニョ、イチジンホーカイ、ウロソーセツと謡っても、とうてい観客はそこに妥当する四文字熟語は思い当たらない。では、どうするか。寿夫さんはそれでいいのだと言う。それが能というものだと言う。何かを呑み込まなければ、能は始まらない。その何かとは花伝書なのである。 

≪012≫  能にはたいそうシンプルではあるが、筋書きがある。筋書きがあるから、みんなそこに引っかかる。能楽堂に行くと、これから始まる演目の粗筋をパンフレットなどで読んでいる観客が少なくない。 

≪013≫  たしかに筋書きがわからないでは不安になろうけれど、しかし、その筋書きは曲に入るための手掛かりであって(つまりはプロノーム=認知の手摺であって)、曲が進むにしたがってどうでもよくなるし、亡霊になったシテの生前の人生が何であるかもどうでもよくなっていく。シテの正体が芭蕉の精か式子内親王かということよりも、そこで謡われていく言葉と音と律動が呪能的とさえいえるような「祈りの抑揚」になっていくことが眼目なのである。役柄のステレオタイプ(典型)はむろん、能としてのプロトタイプ(類型)さえどうでもよくなって、われわれの奥なるアーキタイプ(原型)が動きだすからだ。 

≪014≫  寿夫さんは、そこが大事なんだと言う。声がどう動くかということは、べつだん音の響き方なんぞを問題にしているということではない。利賀村の舞台は初めての空間だから、そのことにも多少の計算はあるだろうが、それよりも、そのような呪能的な声を寿夫さん自身が明日の夜にどのように演ずるか、そのことを思案していたようだった。 

≪015≫  本書にはそういうふうに、ハッと思い当たる話がいろいろ詰まっていた。そこには分母としての「能の地」と分子としての「能の図」が仕分けられている。 

≪016≫  ぼくは去年(2008年)の晩秋、NHKの教養講座での8回分の話をもとにして平凡社新書に『白川静』を書いた。いろいろのことを案内したが、大きくいえば白川静は「漢字マザー」を発見的に注目したのだということ、東洋的思考にひそむアーキタイプを動かしたのだということ、この2点を特筆しておいた。ぼくなりに白川さんが到達した「東洋日本」の分母に読者を誘うことを心がけたのだった。 

≪017≫  観世寿夫も、そうだったのである。世阿弥の「能マザー」を動かして、われわれを「われらが奥なるアーキタイプ」に誘おうとしてくれたのだ。そのごくごく一端が利賀山房の1日にもあらわれていたのだった。 

≪018≫  話のついでに、能の声のことを書いておく。 世阿弥は舞台に臨む能の声について、「一調・二機・三声」と言った。能の役者というもの、最初にこれから発する声の高さや張りや緩急を、心と体のなかで整え、次にそのような声を出す「機」や「間」を鋭くつかまえて、そして声を出しなさい。そう、指南した。 

≪019≫  こんな演芸的芸術は世界中にもほかにない。まるで禅機を動かすことを要求しているようであり、あたかも裂帛の気合を尊ぶ武道のようでもある。けれども禅や武道が観阿弥や世阿弥の時代に広まっていたわけではなかったし、2人がそのような名人や達人の心や芸に接して何かのインスピレーションをおぼえたのでもなかった。観阿弥親子は自身で「一調・二機・三声」を創発させたのだ。 

≪020≫  これを『風曲集』でいえば、「出る息、入る息を地体として、声を助け、曲を色どりて、不増不減の曲道息地に安位するところなるべし」ということになる。まさに「地の能」があって、そのうえに出る息・入る息の「図の能」が動くのだ。 

≪021≫  このようなことを、たんに発声にあたっては腹式呼吸を訓練すればいいなどと受けとってはならないというのが、寿夫さんが早くに体得したことだった。「息のつめ」あるいは「体のつめ・びらき」というふうに体得した。息と体はくっついていた。 

≪022≫  能には、見たり聞いたりしていればそれなりにわかってくることがある。それには、杓子定規に観能するというのではなく、何でも見るのがいい。ぼくもそう思って、松濤の観世能楽堂から歩いて3分のところに引っ越したことがある。普段着でちょいちょい覗きたかったからだ。50番か60番くらいにさしかかってくると、風味や奥行のようなものがしんしんと伝わってくる。体の動きのキレやタメも見えてくるし、能の声というものも、聞こえてくるというのか、見えてくる。  

≪023≫  ときには失望することもある。ぼくの経験では、謡いの1文字ずつの〝字の声〟がのびてしまうのが不満を感じることで、その〝字の声〟が体の弛緩ともなって、鑑賞者にもやや耐えられないときがある。能はすこぶるギリギリの芸能なので、こうした〝字の声〟の扱いは微妙精妙なのである。 

≪024≫  世阿弥は『音曲口伝』(音曲声出口伝)に、「惣じて音曲をば、いろは読みには謡はぬ也」と指摘して、1文字ずつを「い・ろ・は」というふうに切って読まないようにしなさいと言いつつ、「まなの文字のうちを拾いて、詰め開きを、てにをはの字にて色どるべし」と書いた。まな(真名)の文字、つまり漢字になっているところを掴まえて発声し、あとを「てにをは」といった活用語尾や助詞で調節しなさい。その緩急自在や縦横呑吐が大事だというのである。 

≪025≫  「祝言ノ声」は明るく喜びに満ちた声にする。祝い事や結婚式などでもこの声が活躍する。「望憶ノ声」のほうは遠いところから響いてくる記憶を呼びさますような声をいう。懐かしく、また時を超えるようで、ぼくが大好きな声だ。けれどもこれも、だからといって祝言ノ声が弾みすぎては能にならないし、望憶ノ声が暗く沈みすぎてもいけない。世阿弥は望憶ノ声の調子が下がりすぎることを戒めていた。 

≪026≫  寿夫さんのシテとしての声は5、6曲しか聞けなかった。だから生意気なことなどほとんど言えないけれど、いまでもやや高めの艶を思い出すことができる。それが開口ただちに始まって、それから鎮み、横たわり、そうかと思うとたちまち変じて、急激な「声の姿」をともなって動いていく。それでいて全容は一度として激しくはなく、上品で、凜然としつづけている。 

≪027≫  そういう寿夫さんに何を感じたかというと、「意味」を感じた。ああ、この人は能のもつ意味を謡っている、ああ、この能には意味が舞っていると感じた。能の風味は意味なのだと思ったのだ。 

≪028≫  声のことだってこのように深いわけであるが、能はそれに加えて、そこに拍子や旋律が交じっていく。フシ(旋律)はともかく、なんといっても拍子がまたまた複雑だ。 

≪031≫  そもそもは小鼓や大鼓や太鼓といった打楽器の伴奏があっての拍子と、無伴奏のときの拍子がある。無伴奏のばあいは声や足が拍子をとる。打楽器があるときも、打つ手と謡いの拍子が合うところ、合わさないところ、拍子には無関係にするところがある。その案配をいろいろ変えなければならない。 

≪029≫  寿夫さんも「能の拍子は謡いの詞章の字数およびフシによる伸び縮みを基準にして数理的に配分されているので、譜面上の計算は記号(符合)が読めさえすれば可能なわけであるが、音と音との間隔の振幅がはなはだしいため、これを体得することは相当にむずかしい」と書いている。 

≪032≫  中ノリは2字を1拍にあてるので、8・8調が基本になる。「いか・にも・だい・じを・のこ・さず・つた・えて」というふうに、かなりリズミカルになるため、1曲のなかでも多くは曲の終わりでつかわれる。動きもかなりきびきびとする。 

≪034≫  これらがだいたいの拍子の割り振りではあるのだが、実は能の詞章は7・5調もしくは8・8調でありながら、これが自在に3・5、5・4、ときに6・6、6・8というふうになる。破れるのである。能はこの「破」をうまくいかして、拍子を内外に出入りさせて曲調をつくっていく。とうてい一様ではないのだ。コノテーション(内示性)とデノテーション(外示性)が内外から啄まれているとしか言いようがない。ぼくが「意味」というのは、ここなのである。  

≪030≫  そもそもは小鼓や大鼓や太鼓といった打楽器の伴奏があっての拍子と、無伴奏のときの拍子がある。無伴奏のばあいは声や足が拍子をとる。打楽器があるときも、打つ手と謡いの拍子が合うところ、合わさないところ、拍子には無関係にするところがある。その案配をいろいろ変えなければならない。 

≪033≫  大ノリは1字が1拍になる。「さ・な・が・ら・ま・み・え・し」というふうにはっきりしている。西洋音楽にいう4拍子に近く、そのぶん示威的な舞踊性にふさわしい。亡霊や神懸かりした役があらわになるには、この拍子が説得力をもつ。 

≪035≫ 能がおもしろいのは、筋書きや舞の美しさにとどまらないものが、名状しがたく出入りしているからである。  

≪036≫  出入りしているものはいろいろある。声や拍子もそうであるけれど、もちろん体にもいろいろの〝もの〟が出入りする。霊やら魂やら気配やら、むろん感情も沈潜も、逆上も思慕も出入りする。それを世阿弥はまとめて「二曲三体」とも言った。 

≪037≫  応永27年(1420)、58歳のころの『至花道』にその見方が明示され、翌年には『二曲三体人形図』としても著された。《井筒》などのいわゆる複式夢幻能が完成するのはこのあとだったから、この「二曲三体」は世阿弥の円熟がもたらした「能に出入りするもの」の根底的な決定打であった。序破急でいうのなら序、守破離でいうのなら守であった。 

≪038≫  二曲というのは「歌」と「舞」である。その「歌」というのが、これまで少々述べた声や詞章や拍子に依っている。「舞」は体の動きのことで、その根本はカマエとハコビのみに依っている。そのくらいカマエとハコビは徹せられてきた。稽古はそのカマエとハコビを丸呑みに体得してしまうことに始まり、そしてそこに終わる。そのことを寿夫さんがどのように書いているかを、少しだけだが紹介する。 

≪039≫ カマエとハコビ。  

≪040≫  これは能のからだを動かすうえで最も基本になるパフォーマンスである。能、ことに夢幻能においては、演者はあの吹き抜けの舞台で、一人の生身の肉体であることを超越してそこにいたい。空間というものが演者によって変貌していってほしい。そのために演者の姿は舞台に根が生えたような存在感を伴わねばならない。ただ立っているだけで、ひとつの宇宙を象りうる存在感がいる。どうやってそれを持つか。  

≪041≫  舞台で立っているということは、能の場合、前後左右から無限に引っ張られている、その均衡の中に立つということなのだ。逆にいえば、前後左右に無限に力を発して立つことになる。無限に空間を見、しかも掌握する。それがカマエである。 

≪042≫  ハコビというのは、歩み、止まり、動き、騒ぎ、ためらい、静まるということだが、それをまたどんどん引き算しきっていく。寿夫さんはそのことについても、「演者は歩くことにおいても、歩くという行為を超越して歩きたい。それがハコビである」と書いている。 

≪043≫  世阿弥はカマエとハコビによって「型」が作られ、「型」が動くと考えた。しかし、「型」が歌舞二曲によって能になるには、他方では、そこに「三体」が見据えられていなければならないとした。老体・女体・軍体だ。この三体は世阿弥の「物学」の基本中の基本になっている。かつて世阿弥は『風姿花伝』(花伝書)においては「物学条々」で九種の役柄をあげていたが、晩年になって二曲三体論が確立すると、これを三体に絞りあげた。 

≪044≫  世阿弥が三体についてのべたキーワードは、あたかもちりちりと灼けた燠火のようである。めらめらと燃えさかるものではない。それを四文字熟語でいうのなら、老体は「閑心遠目」によって、女体は「体心捨力」で、軍体は「体力砕心」をもって、それぞれ演じなさいというものだ。 

≪045≫  二曲から入って三体へ。これが世阿弥が教えた能の稽古の根本だったのだ。そこからあらゆる変化多様が出ていった。 

≪046≫  総じて、能にはこういう〝もの〟が出入りしているわけである。この〝もの〟は「霊」という字をあてる。「もの狂しい」「ものめずらしい」「ものすごい」の〝もの〟である。寿夫さんはそこに根を下ろして、そのうえで現代の能の器量を打ち立てようとしたのだけれど、実はこのように「世阿弥に戻る」という姿勢を示したのは、能役者では寿夫さんが初めてだったはずだ。 

≪047≫  その時代その時代で、能役者たちがどのように世阿弥の著作を読んできたかという変遷は、わからない。ほとんど読まれてこなかったとおぼしい。能が「式楽」となった徳川時代でも、世阿弥の伝書を見ていたのは観世と金春の家くらいのことで、とくに明和あたりからはその著作の存在すら知られなくなった。 

≪049≫  昭和に入ってからは、今度は戦争である。世阿弥を読むどころか、日本人は観能の余裕さえ失った。こうして敗戦まもなく、焼け残りの東京の片隅でやっと世阿弥が本気で読まれるようになったのである。その先頭に立ったのが能役者のほうでは、まだ20代半ばの観世寿夫・栄夫・静夫の兄弟だった。 

≪051≫  というわけで、能と世阿弥は直結していると思われがちだが、それを能楽界にもたらしたのは昭和20年代後半の若き観世寿夫だったのである。 

≪048≫  明治に入って文明開化が吹き荒れると、武家の式楽だった能楽界には激震がおこり、茶の湯や歌舞伎とともにその存続が危ぶまれた。このようななかから梅若実・宝生九郎・桜間左陣といった名人が次々に輩出して伝統が復活されていったのだが、名人たちはそのころ続々と〝再発見〟された世阿弥の伝書には目もくれない。そこでは激しい稽古が重視され、「世阿弥を読んだからといって能が舞えると思うな」という体得の道のようなものが先行していた。文字を読むなんてことは〝逃げ〟だったのだ。 

≪050≫  寿夫さんはエッセイ「能と私」のなかで、自分を変えた3つの出来事として、太平洋戦争、世阿弥との出会い、外国人による能の見方をあげている。まさにその通りで、寿夫さんたちが能勢朝次らの能楽論や世阿弥論に教えられ、今日の世阿弥の語り方が定着したといっていい。 

≪052≫  寿夫さんのお父さんは観世雅雪(七世観世銕之丞)といった。おじいさんは名人として知られた観世華雪(六世銕之丞)である。おじいさんをかなり尊敬していたことは、本書でも著作集でもよく伝わってくる。寿夫さんは長男で、すぐ下の弟が現代劇にも映画にもテレビにも活躍した観世栄夫だ。ぼくは栄夫さんのほうに早くに出会えた。その下の弟に幸夫、静夫がいたけれど、幸夫は早く亡くなった。 

≪053≫  生まれは大正14年(1925)の11月だから、その生涯はぴったり昭和と重なっている(三島由紀夫ともぴったり重なっている)。幼稚舎から慶應に通い、17歳のときに本格的に囃子の稽古にとりくんだ。太鼓は柿本豊次、大鼓は亀井俊雄、小鼓は大倉流の鵜沢寿と幸流の幸祥光、笛は寺井政数。錚々たる顔ぶれだ。名人の亀井からは《道成寺》を相伝された。シテ方では例を見ない打ち込みぶりである。 

≪054≫  この囃子稽古では、太鼓の稽古場で横道萬里雄に出会ったのが大きかった。その後、横道さんとはずっと親交を深め、多くの示唆をうけている。本書の平凡社ライブラリーの解説も横道さんが書いている。きっと寿夫さんの凄みをうかがい知るには参考になるだろうから、その一部を紹介しておこう。 

≪055≫  寿夫さんが《野宮》を演じたときの話だ。六条御息所の霊が後ジテになっている。終わり近く、「神風や伊勢の内外の、鳥居に出で入る姿は、生死の道を神や受けずや思ふらん」という詞章がある。ふつうは、「出で入る姿は」というところで、片足を作り物の鳥居から一歩踏み出しかけて、すぐまた引っ込めるという所作をする。これは当て振りで、盛りをすぎた女の心の葛藤をあらわしているといえばそうなのだが、寿夫さんはこれには満足できなかったのか、鳥居の前を左右に行きつ戻りつしてみせた。 

≪056≫  これが凄かったらしい。女の心のためらいがバアーッとあらわれた。「型」を守って「型」を出たのである。「破ノ舞」の留メでは、するすると正先に出て片足を踏み出し、すっと引っ込めて後退し、膝をついて合掌した。この「型」は、境界を乗りこえようとして躊躇する心情をあらわしているのだが、それを「鳥居に出で入る」という当て振りに終わらせたくなかったのだ。  

≪057≫  そういうことを寿夫さんはさまざまなところで工夫した。武智鉄二が《智恵子抄》を演出したときは、エロティシズム大好きの武智は光太郎と智恵子が肉体的に触れ合うことを要求した。しかし寿夫さんは、光太郎が智恵子と向き合って座したまま、少し左半身をうしろへ引きつつ、右手にもった扇の先をじりじりと体の前に出し、智恵子の扇の先とぴったりくっついたところで動作をとめ、それを見せてから体をゆっくり離していった。ベッドシーンとしては最高の能だったという。 

≪058  こんなふうに横道萬里雄は盟友観世寿夫の演技を語るのだ。そのほかいろいろ寿夫さんの〝昭和の世阿弥〟ぶりを彷彿とさせるくだりもある。ちなみに、この解説を書いた2001年、横道は何を指摘したかというと、現在の能の盛況があるとしたら、その大半が観世寿夫の遺産で成り立っていて、そう思うと、現在の能楽界の現状はその先が見えず、ただ暗中模索の様相にとどまったままにあるということだった。 

≪059≫  寿夫さんが敗戦を迎えたのはちょうど20歳のときである。一挙に真剣きわまりない研鑽と活動を開始した。世阿弥に戻ることを志した。 

≪061≫  能楽塾(初代塾長・桑木巌翼)に入塾して、安倍能成・田辺尚雄・土岐善麿・野上豊一郎・野々村戒三の講義を熱心に聞いたのも大きく、ただちにみずから銕仙会研究会を発足させると、昭和23年には野口兼清・観世華雪の監督のもとに、松本恵雄・波吉信和・三川泉らと多摩川能楽堂で稽古会も始めた。ここには尾上九朗右衛門・南博・藤波光夫・大谷広太郎・中村又五郎たちも加わって、昭和24年に発足した「伝統芸術の会」になっていく。 

≪063≫  最も特筆すべきは昭和25年11月に始まった「能楽ルネッサンスの会」で、そこから世阿弥の伝書を読みこむ読書会がもたれた。西尾実をリーダーにおこなわれたこの読書会は5年にわたり、世阿弥の伝書のほぼすべてを読了したようだ。寿夫さんは全回に出席したようで、ほかに栄夫・静夫、野村万之丞・万作兄弟、浅見真高・近藤乾之助たちが、また小西甚一・表章・横道萬里雄らがいた。 

≪060≫  当初こそ、空襲によって観世の舞台と自宅が焼亡して、自由が丘・大曲の観世会や観世宗家に仮り住まいをしたり、玉川用賀の三井別邸などに身を寄せたりしていたが、昭和21年(1946)からは銕仙会の定式能を再開し、大磯の川崎慶一の家に若手が集まって稽古や談義に励むようになっていく。 

≪062≫  東京文理科大学に行って能勢朝次の「世阿弥の能楽論」を聴講したのも、この時期である。ぼくはまだ見ていないのだが、浅見真高・喜多節世・橋岡久馬・横道萬里雄らが創刊した「焚火」にも同人として参加している。ともかく研究熱心、稽古熱心、交流熱心なのである。 

≪064≫  こうして昭和26年に催された長老たちの審査による第1回「能楽賞の会」では、寿夫さんがダントツとして称賛をうけ、頭角をあらわしていた。それでも稽古熱心・研究熱心は変わらない。東大の川崎庸之の「日本思想史」を聴講し、田中一松・吉沢忠・宮川寅雄らの「文化史懇談会」では日本美術をしきりに学んでいた。 

≪065≫  本書には随所に鋭い世阿弥研究のあとが見える文章が収められているのだが、それが能楽師の現場の勘や直観からくるだけのものでなく、世阿弥のテキストの精査からきていることはすぐわかる。古典文学者の小西甚一がその勉強ぶりをふりかえって感想を述べているが、のちにその小西と吉野の天河神社に古い能面を見に行ったおりには、観世十郎元雅が奉納した阿古父尉を手にして、おおいに感動したという。 

≪066≫  寿夫さんは芸の異種格闘技にも果敢にとりくんだ。断絃会が主催したアルベール・ジロー作詞・シェーンベルク作曲の《月に憑かれたピエロ》(武智鉄二演出)に、アルルカン役として出演したのは30歳のときである。さきほど紹介した《智恵子抄》の光太郎には32歳のときに扮して、斬新な現代能を表現した。 

≪069≫  ついでその翌年、岩波ホールの《トロイアの女》の老人兼メネラオスを見た。鈴木忠志の演出で大当たりした芝居で、2回見た。こちらは世阿弥のいう「めづらしきもの」だった。ただ、いささかチューさんに押し込まれているような気もして、多少の疑問が残った。それよりも最後の年となった昭和53年(1978)1月の岩波ホール《バッコスの信女》のディオニソスのほうが、ぼくには寿夫さんだった。 

≪067≫  草月アートセンターでストラヴィンスキーの《兵士の物語》を作舞・出演し、武満徹や福島和夫のミュージック・コンクレート《水の曲》や《蜘蛛》を作舞・出演をしたのは35歳のとき、フランスで半年間にわたってジャン・ルイ・バローのもとに学んだのは37歳のときである。  

≪070≫  むろん能にも打ち込みつづけた。寿夫・栄夫・静夫の3兄弟による「華の会」、野村万之丞・野村万作・桜間龍馬・山本真義・茂山七五三・茂山千之丞らとは東西の能狂言師が交じっての「黒の会」をはじめ、さまざまな試みにとりくみ、古典にも根っこを下ろそうとしていた。しかし、その志半ばにして倒れたのだ。 

≪068≫  ぼくがそういう異種格闘技に挑んだ寿夫さんを最初に見たのは、昭和48年(1973)に「冥の会」がベケットの《ゴドーを待ちながら》を作ったときで、48歳の寿夫さんはウラジミールを演じた。実はさっぱり感動できなかったことを憶えている。演出の石沢秀二のせいか寿夫さんのせいかはわからない。 

≪071≫  芸事とは、面白くもあるが、また危ういものである。だからこそ世阿弥は芸のための「方法の知」の一部始終を残そうとした。観世寿夫もきっとそうだったろう。本書を含む『観世寿夫著作集』は、他方で忌野清志郎やマイケル・ジャクソンやプロレスラーの三沢光晴を惜しみつつあるわれわれが、そのわれわれこそが格闘してでも読むべきものだと思われる。 先頃、亡くなった夫人の関弘子さんは、夫の著作集が仕上がったとき、概略、こんなことを書いていた。 

≪072≫  私は観世寿夫に入門しました。異例の稽古法でした。能の専門家になるのでもない相手にも、大変なエネルギーを注ぎこんでいました。ギリシア悲劇をやるときは、周りが危ぶむなか、ギリシアをやって犯されるような能なら、そんな能は捨てると言っていました。しかし寿夫は、シテを舞った日には、必ず失敗だと言って帰ってきました。 

≪074≫  まことにしみじみとした哀惜であり、なんとも凜然とした寿夫頌である。ギリシア悲劇をやって犯されるような能なら、そんな能は捨てるだなんて、骨に沁みてくる。今宵、七夕の夜である。叶うことならば諸君を、天なる寿夫に会わせたい。 

≪073≫  寿夫は能のことしか頭にも体にもない人でした。日常的な事柄や個人的話題やスキャンダルめいた話は嫌いでした。物欲もなく、名誉欲もなく、他人を羨むなどということもありませんでした。そして、いつも、「努力ってものはよろこばしくやるものだと思う」と言っておりました。 

守って破って離れる、のではない。
守破離は、守って型に着き、破って型へ出て、離れて型を生む。
この思想は仏道の根本にも、それをとりこんで日本的な様式行為をつくった禅にも茶にも、
また武芸にも、開花結実していった。
しかし守破離の概念の出自と変遷は、いまだ本格的な研究がされていないままなのだ。 

≪02≫  あのころ、守破離について裏千家の伊住政和(宗晃)さんとずいぶん話してきた。伊住さんは「守破離の心こそは茶の心をあらわしていると、ぼくは思ってるんです」と何度も言っていた。それは確信に近く、次代の数寄文化の担い手が何をめざそうとしているかを感じさせた。が、残念ながら早逝した。まことに惜しい。あのころ、二人でいろいろの資料も集めていた。 

≪03≫  茶の湯における守破離を本気で説いたのは、紀伊新宮の水野藩士の子だった川上不白である(1100夜)。16歳で京都に入って如心斎千宗左に入門し、たちまち高弟になると、如心斎およびその弟の裏千家一燈宗室の指図指南のもとに、台頭する町人文化にふさわしい茶道のありかたを苦心した。寛延3年(1750)に江戸に下向すると上野池之端に江戸千家を興し、心技稽古のための「七事式」を普及させ、やがて守破離の解釈導入に及んだ。禅や能や剣からの応用である。 

≪04≫  そのころ、不白はこう書いた。『不白筆記』には「弟子ニ教ルハ守、弟子ハ守ヲ習尽シ能成候ヘバ、オノズト自身ヨリ破ル。離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ルコトナリ」とある。師が守を教え、弟子がこれを破り、両者がこれを離れてあらたに合わせあうというのだ。 

≪05≫  イシス編集学校の3コースを、ああ、そうだ、不白に倣って「守・破・離」でいこうと決めたのは2000年6月開校の、およそ半年ほど前のことだった。そう心に決めて、宮之原立久と「守」と「破」のプログラムとシステムの全容をほぼ組み立てた。 

≪06≫  最初はぼくの数度にわたる長々とした口述で“お題”が決まっていった。それを教頭の宮之原君が書きおこし、ぼくがまた手を加えた。このとき、この学校のしくみをあらわす言葉は、編集稽古・指南・師範代といった“和語”でいこうとも決めた。そこで大川雅生には“頭取”になってもらった。また、教室名はすべてオリジナルの命名にしようと決めた。 

≪08≫  ところが、編集学校は「守破離」でいくぞと内外に歌ったにもかかわらず、「離」のプログラムがいっこうにまとまらない。「知の読み方」を独得のアーキテクチャに工夫しようと思っていたのだが、概要が仕上がったのはずっと遅れた2004年の秋だった。開講ができたのが翌年の6月。そのくらいに「離」に至るのは難しかしかった。守・破と異なり、離はすこぶる相互複合的で、かつ身体記譜的でなければならないと感じたのだ。 

≪07≫  最初の師範代候補をリストアップし、交渉に当たったのは太田香保である。「どんな人がいいですか」と聞かれ、「ぼくと一緒に新たな試みに挑みたいという人なら、誰でもいいよ」と答えたはずだ。かくて第1期の「天下布文教室」「メソッドファンド教室」「桃太郎遊学教室」など、あの伝説的な13教室がデビューした。名古屋の太田眞千代が「黎明教室」を立ち上げ、その後の“指南の伝統”の基礎をつくった。彼女は2児を育てた主婦で、どんな職能ももっていなかったのだが、それがこの学校の最も優秀な指南モデルとなりえた。よし、これだと思った。以来、これまで20期にわたって361の教室が登場している。いまではトヨタ、電通、大日本などの大企業の師範代たちも、この主婦モデルを継承してくれている。 

≪09≫  生みの時間はかかったが、そのかわり、それこそ不白のいう「離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ル名人」にふさわしいものになったとも言える。その後、師範代の養成講座にあたる「花伝所」を設け、花伝師範や錬成師範を誕生させ、さらに去年からは「遊」コースを開設した。歌人でもある小池純代の「風韻講座」がいま2期目を迎えたところだ。 

≪010≫  こういう試みをしてきてみると、稽古というものが茶事の稽古であれ、能仕舞の稽古であれ、編集稽古であれ、歌のお稽古であれ、必ず師弟相承にもとづいた「すがた」や「かたち」をとるべきものであろうことが、よくわかる。 

≪011≫  5世の清元延寿太夫の話をまとめた井口政治の『延寿芸談』(三杏書院)に、こんな言葉がのっている。「鴬を飼ったことがありますか。私は日暮里に住んだ頃、鴬を飼ってみて知ったことですが、美しい声の鴬と悪い声の鴬を同じ籠に飼ってみますと、やがて悪い声の鴬はいつか美しい声になっているんです」。  

≪012≫  1237夜にも書いたことだが、いまやコミュニティの形成といっても、なかなか一筋縄にはいかなくなっている。ブログも電子コモンズもつくれば、それでいいというものじゃない。かえって悪しきフレーミングがおこり、孤立が深まることもある。ミスリードもあるし、のさばる連中も出る。そこに必要なのはたんなる学習や指導要領ではなくて、相互の継承の“具合”なのである。学習ではなくて継承。だから編集学校には師範・師範代とともに、総匠・学匠・番匠といったオーガナイザー・ファシリテーター・メンターの役割も欠かせない。だからこそ守破離というふうに、その「相互の継承」がしだいに深まっていくことが欠かせない。そこに教える者と学ぶ者の卒啄同時がおこる。 

≪013≫  初代の沢村宗十郎は「師匠は釣鐘のごとし、弟子は撞木(しゅもく)のごとし」と言った。本気で鐘をつけば、その音は里から山にまで届く。鐘はそこにあるだけで、音を出すのを仕向けるのは撞木のほうなのだ。ただし、「さあ、ここを突きなさい」と鐘も言う。それを撞木が突いていく。その鐘の音はうんと遠くでも、よくわかる。この宗十郎の言葉、いまでも肝に銘じている。 

≪014≫  先日の土曜日(7月12日)、朝日新聞社ビルの朝日ホールで「夏の感門之盟」を開いた(→写真参照)。初めてネオンを点(とも)した。18期の「破」、8期の「花伝所」、4期の「離」のそれぞれの修了を画するためだ。外は真夏のように暑かった。 

≪015≫  編集学校では修了を記念はするが、卒業式とはいわない。守は卒門式、破コースは突破式、花伝所では放伝式、離は退院式。離が「お大事に」と言いたくなるような“退院”となっているのは、1年にただ1度、実質12週間だけ、二つの「院」に最大15名ずつが“入院”を許可されて稽古と指南が連打されるからだ。とはいえ突破や退院においても、修了ばかりが重要なのではない。師弟相承を通過した互いのエヴァリエーションこそが眼目だ。そこに、「型が動いている」ことを、集いあった会衆がそれぞれ実感することが、大事大切なのである。 

≪016≫  宮城道雄(546夜)は、芸道は「型に入って型に出ることに尽きます」ということを頻りに言っていた。そのためにはまず師の門に入る。この当初の師弟相承で「型が動いている」という実感が如実に出てくることを、宮城は何度も強調した。熊倉功夫(1046夜)は、「型は変移するが、前の型を否定して新しい型が生じるのではなくて、つまり排他的なのではなくて、新旧の型が相対的ないし補完的な価値をもち、重層的に積みあげられていく」と書いている。まったくそのとおりだ。 

≪017≫  イシス編集学校も、やっと守破離のそれぞれが充実してきた時期に入ってきた。オールウェーズなあのころ、に浸ってばかりもいられない。朝日ホールでそんなことを思い返していた。 が、肝心の「守破離とはどういうものか」ということは、いまだ世の中ではあまり知られていないままである。「型が動く」ということも芸道はともかく、たとえばeラーニングの場面などや研修の現場では、まだほとんど研究されていない。そのことがちょっと気になってきた。 

≪018≫  もっともこれには理由があって、守破離の概念変遷や文化思想の変遷を論じた研究がほとんどないからだ。ぼくもこれまでは深くは書いてこなかった。「千夜千冊」では1100夜の『型の日本文化』にふれた程度で、そのときも不白の著作と若干の能や武芸からの参照を付け加えたにすぎなかった。それでもぼくなりの定義は書いておいた。「型を守って型に着き、型を破って型へ出て、型を離れて型を生む」というものだ。この「守って型に着く・破って型へ出る・離れて型を生む」の「に・へ・を」の助詞の変化に、守破離の動向が如実する。 

≪019≫  巷間においては、また茶道界においても、あいかわらず守破離をめぐる研究は僅かなものである。あのころの伊住政和さんの意図、もうすこし実現にさしかかっていてほしかった。 そういうなかでは本書はまだしも守破離をタイトルにも全面に出しているのだが、『守破離の思想』とは名付けられてはいるわりにもっぱら武芸のほうが中心で、茶道史を略述しながらも、たとえば不白についてはまったくふれられていないというふうに終わっている。 

≪020≫  著者が禅や武道を嗜んだ著述者のせいもある(もともと「空手ジャーナル」に連載された原稿だった)。だから守破離に対する思いは強い。そういう思いのこもった著述にはなっている。が、あまりにエビデンスが少なすぎた。そこで今夜は本書の武芸論を含め、やや広めに守破離をざざっと案内しておきたい。ついでに源了圓の『型』や『型と日本文化』(創文社)、鎌倉能をおこした中森晶三の『けいこと日本人』(玉川大学出版部)などもとりこんでおく。不白の茶が守破離をとりいれたことについても、その時代背景とともにあとで少々付言しておくことにした。 

≪021≫  あのころ、能の序破急がいつしか守破離に発展した。そう、考えてまちがいはない。観阿弥・世阿弥の序破急は、能構成をさしていた。序は初番がカタの一貫した曲想曲趣で、二番はそのカタとクセが強くなる。破は三番で基本から精細のほうに移って、四番・五番はあたかも序を砕くほどに放埒だ。こうして挙句の能となるのが急である。この急は連歌でいえば名残りの折にあたる。極限に向かって出でて、急になる。 

≪022≫  このように観阿弥・世阿弥の能構成はあくまで序破急なのである。だから守破離は出てこない。出てこないのだが、すでに「離」を重視していたはずである。そこが注目なのだ。 世阿弥(118夜)は『花鏡』に我見と離見をくらべ、「我が目の見る所は我見なり。見所より見る所の風姿は離見なり」と説いて、場における「離見の見」をみごとに集約してみせた。世阿弥にとっての「離」とは“見所同心”なのである。自分だけでは離にならない。「離見の見」は場とともにある。心はその場の見所のほうにおいていく。世阿弥はそのことをすでに指摘した。この見方を「目前心後」(もくぜんしんご)とも言った。 

≪023≫  こうして、いつしか能の序破急と守破離の「破」がちょっとだけだが、しかしかなり深々と交差した。また世阿弥の「離見」が能の分野の外に流れだした。それなら守・破・離を3つ並べて順に語るようになったのはどこからのことだったかというと、遺憾なことながらその来歴が確定できない。おそらくは仏教、とりわけ禅に始まっていたと思うのだけれど、ぼくにも確証はない。ただ、次のようなことなら言える。 

≪024≫  仏教においては、「守」はそもそも「摂」や「守一」であって、本来のことを学ぶべく精神を集中していく技法のことを示していた。つまりは「万法帰一」の帰一になろうとする心掛けが、当初の「守」だった。「守」は摂取であり、守一なのである。 

≪025≫  「破」はどうか。仏教語にあっては「破」は勇ましい。熟語も多い。ネガティブな破戒や破門や破僧もあるが、むしろ「破執」(はしゅう)が捕らわれの心をや知見を破ることを、「破邪顕正」(はじゃけんしょう)が誤った見解の打破を、「破情」が迷いを捨てるという意味をそれぞれあらわしているように、「破」は何かを破ることによって、その奥に蟠っていた本来がガバッと顕在してくる動向を示していた。 

≪026≫  とりわけ「破迹顕本」(はしゃくけんぽん)は、ブッダが菩提樹の下で垂迹に執する気持ちを突破して本来の心をあらわすことを意味した。つまりは禅では「破相三昧」こそが無相三昧なのである。たんなる型破りが破ではない。仏教は「破」をもって本来に向かってターンオーバーをおこす。そこは能と同じなのだ。 

≪027≫  では、仏教にあっては「離」はどう意図されてきたかというと、これこそさらに、ラディカル(=根源的)だった。『阿含経』にすでに「離」とは解脱のことだったのだ。「世離」とか「永離」とか「離相」と漢訳すれば、まさにニルヴァーナを意味していた。そのニルヴァーナになんとか触知するための修行が「離垢」(りく)という決断の行為で、自身にまとわりついてくるいっさいの穢れとおぼしいものとの闘いとなる。たとえば「離垢地」「離垢清浄」「離垢三昧」などは、いずれも菩薩の境地の第二位にさえあたっている。離垢は念彼観音力でもあった(1249夜)。 

≪028≫  仏教において「離」の方法思想をさらに重視したのは、ナーガルジュナ(龍樹)とヴァスバンドウ(世親)であろう。『中論』と『倶舎論』は“離論”だったのだ。ここをさらに踏みこんで、仏教哲学で最もエキサイティングな「離言真如」や「離言法性」といった話題を提供してもいいのだが、そこまで今夜は語っている暇はない。簡潔にもしにくい。ここには存在学の最も痛快な議論が躍如しているからだ。いずれ、とりあげよう。 

≪029≫  ちなみに「離婁」(りる)という言葉がある。仏教では「とてもよく見通しがきく人」のことをいう。つまりはアルチュール・ランボオ(690夜)のいうヴォアイアン(見者)のことだ。これはさしずめ、探してやまない“上海リル”や集うて諤々「羅リル例会」なのである。ぼくの周辺にもそんなリルたちが、やっとふえてきた(笑) 

≪030≫  さて、禅は、菩提達磨(ボーディ・ダルマ)に発して六祖の慧能で母型をつくった。その慧能がいくつもの偈をのこしていて、そこに「種・花・果」の3段階の精神階梯が示されている。 慧能以降、各地の禅林の問答商量ではしばしばこれを「守・破・離」にあてた。ありうることだ。ただしこれは、一人ずつの座禅や公案による透体脱落がもたらすものであって、そこにはいまだ日本の一期一会や一座建立の思想は与していなかった。それが一山一寧の中国禅が夢窓礎石(187夜)の日本禅に変化したように(『山水思想』ちくま学芸文庫368ページ以降参照)、「種・花・果」が日本的な座の共有によって守破離的に変容していったのだ。連歌が普及し、会所や寄合が世の中にふえていってからのことだったと思われる。 案の上、世阿弥の『申楽談義』では、「種・花・果」は「苗・秀・実」になっている。こちらのほうがいい。「場」がくっついている。つまりは、日本の守破離は「場」の確立や普及とともに出番がやってきたわけなのだ。 ついで、ここに茶の湯が加わってきた。ということは、一休の禅を学んで村田珠光が草庵の発想をもたらし、連歌師だった武野紹鴎が一座建立、一味同心を学んで茶の次第をつくったのだから、ここで禅と能と連歌と茶が劇的に交じったのである。場とともに。境とともに。 それは、利休に向かってまとめて侘茶とよばれてきたけれど、まさに利休の侘茶は守って型に着き、破って逸格・破格の型へ出て、そのうえで三畳台目や二畳台目に引き算を重ねることで、ついに離れて新たな究極の型を生んでいったものだった。これは、戻していえば世阿弥の「一期の境」なのである。 ともかくも守破離の思想は、これでやっとの準備が整ってきたわけである。このあと利休以降の茶の湯が、織部や遠州、少庵や宗旦、金森宗和や薮内剣仲などをへてどうなっていったかについては省くけれど、その後は、上田宗箇や片桐石州の武家茶道が開花し、ついで幕府の御茶頭システムが「数寄屋頭・数寄屋組頭・数寄屋坊主」などに改変されるなか、それで何がおこったかというと、宗旦の3人の子が出現したのである 

≪031≫  3人はあたかも古代の四道将軍のように、各地の重要拠点に散った。三男の江岑(こうしん)宗左は紀州徳川家に、四男の仙叟(せんそう)宗室は加賀前田家に、次男の一翁(いちおう)宗守は高松松平家に仕官をはたした。このことと、宗旦の弟子の杉木普斎・山田宗偏・藤村庸軒らが活躍したことが、このあとの遊芸と武芸の深度と測度に大きな影響力をもったのだ(何人かの組み合わせの宗旦四天王がいた)。 宗旦こそが偉大なオーガナイザーだったのだ。それなら江岑宗左・仙叟宗室・一翁宗守が総匠・別当・学匠で、普斎・宗偏・庸軒が花伝師範・錬成師範・番匠・別番といったところだろうか。 宗旦の撒いた種や植えた苗は、茶の湯を見えるような「すがた」と「かたち」にし、それが全国に広まっていったのだ。茶書の版行も一挙にふえた。かくてここに如心斎藤宗左と一燈宗室の兄弟があらわれて、ぼくが徳川文化で最も重要視する宝暦・天明をふくむ時期、茶道の範囲を上回る決定的な役割をはたす。その成果のひとつが「七事式」で、そこにかかわったのが紀州出身の川上不白だったのである。 冒頭にも書いたように、不白は16年にわたって千家で茶を学び、その後は七事式を江戸にもちこんだ。そのあと、駿河台に住んで黙雷庵を、神田明神に住んで蓮華庵と花月庵を組むと、さらに池之端に江戸千家を拠点化して、ついに大江戸に茶の湯を定着させた。宝暦4年からの4年間で自会・他会あわせて約80会の茶会が催され、明和3年から翌年に書けての自宅の黙雷庵では勧進茶会を含む約130会の茶会をひらいた。 

≪032≫  茶の湯が徳川社会に広まっていったことは、禅・能・茶が連動して列島を動いたということである。「型」が動いたということだ。そこに交差してくるのは、新たな文化動向のめぼしいものいっさいで、ここには浄瑠璃・豊後節・長唄・清元、武芸百般、礼法、煎茶文化、そのほか日本儒学・陽明学・国学の学芸などが含まれる。なかで不白の活躍期、(90歳まで生きた)武芸者たちがじょじょに守破離の実践思想にめざめていった。 

≪033≫  その千葉周作に『剣法秘訣』がある。稽古とは何かを説いたもので、そこに「序破急の拍子を追うよりも、守破離の筋目を通すことが稽古に欠かせない」という、守破離の思想にずばり突っ込んだ興味深い説明が示されている。 

≪034≫ 守破離といふことあり。守はまもるをいふて、その流の趣意を守ることにて、一刀流なれば下段星眼、無念流なれば平星眼にてつかひ、その流派の構へを崩さず、敵を攻め打つをいうなり。破はやぶるといふて、左様の趣意になじまず、その処を一段破り、修業すべきとのことなり。離ははなるるといふて、右守破の意味も離れ、無念無想の場にて、一段も二段も立ちたる処にて、この上なき処なり。右守破離の字義、よくよく味はひ修業肝要なり。  

≪035≫  序破急は拍子であって、守破離は筋目なのだ。うーん、なるほど、これはまことに適確な言い方だった。拍子も筋目もどちらも肝要だが、筋目を知って拍子を打てばもっといい。周作はそのことに感づいていたのだ。 

≪036≫  その後の周作は、江戸の三大道場のひとつとなった玄武館道場を神田お玉が池に開き(ほかは新明智流桃井春蔵の士学館道場と神道無念流斎藤弥九郎の練兵館道場)、その門からは坂本龍馬・清川八郎などの多くの俊英と弟子を輩出させた。かなりの師範力だったようだ。ぼくはかつて『剣法秘訣』の「理より入るは上達はやく、技より入らんするは上達おそし」を読んで、おおいに唸ったものだった。 「形(型)は理に学んで、そのうえで打ちを技で磨きなさい」というのである。そうか、理がスピードで、技がマインドなのか。 

≪037≫  千葉周作はあきらかに守破離の思想をもっていた。そこまでは、いい。では、それ以前はどうだっかというと、これがまたまたはっきりしない。しかしながら、周作におよぶ武芸の薫陶は、ずっと以前から塚原卜伝から宮本武蔵(443夜)まで、柳生宗矩(829夜)から山本常朝(823夜)まで、すでにさまざまな武芸の錬磨と実践と、極意をめぐる武芸書がのこされてきたのだ。これらについてはけっこう千夜千冊もした。 が、それらには守破離の具体的な言及はない。似たような稽古のための用語は多様にあるのだが、いまだこれだという文章には出会わない。むしろ川上不白に「守は下手、破は上手、離は名人」などがあって、これはあきらかに武芸達者からの援用であろうという相互影響が刻印されるのだ。 さりながら、当然なことではあるけれど、ぼくがまだ点検できていない武芸者もたくさんいる。本書がフィチャーしている例でいえば、たとえば針ヶ谷夕雲(はりがや・せきうん)である。もとは柳生由来の新陰流に入魂していたのだが、あるとき臨済禅の虎伯大宣に「相抜け」の徹底を示唆されて、「離想流」にめざめた。離想流!  

≪038≫  念のため言っておくが、「相抜け」というのは「相打ち」ではない。打ち合いに一瞬の生死を懸けて極度の相互性に入り、その瞬時に抜けることをいう。つまり、ここが離想なのだ。その夕雲の口述に『天真独露』があった。65歳のときの弟子に28歳の小田切一雲がいて、『夕雲間剣術書』(剣法夕雲先生相伝)をのこしたのだ。一雲自身は「無住心流」を名のった。 一雲の記述で夕雲の「相抜け」を見ると、どうもここには「万法帰一」の仏教観が滲み出ている。「守」と「離」がつながっていて、そのあいだに「相抜けの破」があるというふうなのだ。うーん、うーん、「破」は相抜けだったのか。 

≪039≫  こういうふうに拾っていけば、きっと守破離はさまざまな武芸者の場面に出入りしていたことが判明するだろう。武芸の例など剣をふるうことなんだから、今日の知の学習や技の継承などに役立つまいと思う向きがあるとしたら、これは勘ちがい、大まちがいだ。剣にもスポーツにも編集稽古にも、これらは「的中」という感覚におきかえられるからである。世阿弥なら「感当」と、中江藤樹は「時中」と言った、あの正解のない感覚だ。相互に的中感を奪いあう。稽古とは、結局はそういう「中」に「当てる」こと、なのだ。 ところで、中森晶三の『けいこと日本人』は、なぜ稽古がおもしろいか、現代に必要かということを、端的に示していた。師弟相承のしくみのある稽古事は「夢の共有」をもたらすからだというのだ。 ずいぶん甘いことを言っているようにも思うが、そうではない。なぜ能のエキスパートがそんな薔薇色のことを言うかといえば、稽古事には「初心」というものが刻印されること、もうひとつには「玄人も素人もまざっていける」からだという。とくに素人が玄人を凌駕していく可能性がある。それが稽古をつける側にもつけられ側にも「夢の共有」のような醍醐味になるというのだ。 

≪040≫  同じことを源了圓(233夜)の『型』では、世阿弥の『風姿花伝』の「上手は下手の手本、下手は上手の手本」をあげて説明した。上手と下手は「中」を媒介にくるりとまわるのだ。ちなみに源のこの本は日本の「型」の問題を知るには必読書のひとつで、型にも基本型と複合型があること、学ぶ型と演ずる型があること、型がなければ心は動けないといったことを、主として芸能と武芸の両方を渉猟して考察したものである。実は、川上不白の守破離を、世阿弥の序破急にあてはめようとした最初の試みにもなっていた。 あのころ、ぼくは伊住政和さんと守破離を何かの「すがた」と「かたち」にして広めようとしていた。それがいったん挫折して、イシス編集学校になったのである。いまは、紅いネオンにISISと点っているのです、伊住さん。 

≪01≫ 神道は神教ではない。 そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。静かなものである。そこがわからないと神道の感覚はなかなかわからない。 

≪02≫  ところが、中世近世の神道の歴史には、神道を神教にしたがった“神道家”たちの主張の歴史が、そうとうに交じっていた。言挙げばかりであった。 

≪03≫  たとえば、度会家行・延佳によって確立された「外宮の神学」と『神道五部書』による伊勢神道、卜部吉田兼倶による唯一神道と反本地垂迹論、家康を大権現にするために企画された天海の山王一実神道、山崎闇斎の垂加神道などなど、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。 あげくが明治維新後の国家神道なのである。 

≪07≫  鎌田東二は国学院の出身で、若いころからぼくのところに遊びにきていた俊英である。『遊』もよく読んでくれていた。 

≪08≫  ぼくが7人と8匹で住んでいた渋谷松濤の通称ブロックハウスにも、汗をかきかきよく訪れてきて、そのころブロックハウスで満月の夜に開いていた「ジャパン・ルナ・ソサエティ」での俳句会などにも顔を出し、「お月さまぼくのお臀にのぼりませ」などという“名句”を披露してくれていた。この句はその夜の句会の一席になっている。 

≪09≫  もっとも当時の鎌田君は立川密教やオカルティズムやニューポップスに関心をもっていて、水神祥のペンネームでしきりに大胆な仮説を書いていた。彼の友人にも密教関係者が多かったとおもう。  

≪010≫  しかし、鎌田君の本来はそもそもは少年期のころから神々との交流にあったようで、しばらくするうちに日本各地のミステリースポットや世界の聖地をまわるようになっていた。世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。 

≪011≫  ついで、30代半ばで神職の資格を得てからは、“神界のフィールドワーカー”としての活動に積極的に徹するようになった。いわばフリーランスの神主になったのである。いまもそうだとおもうけれど、そのころから石笛や法螺貝を携帯し、いつでもその笛を吹いて心を鎮めているようだった。 

≪012≫  そのうち、彼こそが“神道の現代的解説者”としての期待を担うことになったのである。 

≪013≫  そのような期待に応えて講演や執筆をする“解説者”は、実は鎌田君のほかにも出てきているのだが、ぼくが見るかぎりでは、やはり鎌田東二の気っ風が群を抜いている。 

≪014≫  本書は、自分の息子がいつのまにか高校生になってしまったことに驚く著者が、ペダンティックな宗教的表現を捨てて、それこそ高校生にも伝わるように神道の心を平易にまとめようとした神道入門書である。 

≪015≫  その努力はなかなか功を奏していて、ところどころにまことにわかりやすい、しかも本質的な、鎌田東二ならではの説明が顔をのぞかせている。 

≪016≫  本書では、神道は「センス・オブ・ワンダー」を感じることだという立場が採用されている。 

≪017≫  「センス・オブ・ワンダー」はレーチェル・カーソンの著書のタイトルでもあるが、神道はもともとその感覚をもってきた、そのように、鎌田君はつかまえた。これを神道用語でいえば「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということになる。 

≪018≫  このセンス・オブ・ワンダーを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。 

≪019≫  むろん、このことは日本だけに特有しているものではない。そこには「環太平洋祭祀文化圏」とでもいうものが広がっていて、日本はそのアジアと太平洋に広がる祭祀文化圏との共鳴のもとに、それなりに独自な神道を発展させていった。 

 ≪020≫  しかし、なぜ日本の神道は独自なものになったというふうに見えるのか。鎌田君も神道が韓国や台湾のものとずいぶんちがっていることを認めている。 

≪021≫  本書では、そうした日本の神道が独自なものになっていった歴史の全プロセスは、実は「神神習合」のプロセスによるものだったというふうにとらえている。 

≪022≫  神仏習合、本地垂迹、反本地垂迹、儒教理論による神道論、宣長や篤胤の神道論、黒住教や大本教などの神道派新興宗教の動向‥‥。これらは結局は「神神習合」のプロセスのあらわれだったというのである。 ようするに多神なのである。 

≪023≫  多神教なのではない。ただ、多神なのである。 なぜ多神になったのかといえば、日本がハイブリッド型のクレオール文化として成長してきたからだと、鎌田君は言う。その理由や説明は入門的な本書では省かれている。 

≪024≫  そのあたりの説明は省かれているものの、そうしたハイブリッドでクレオール的な文化を雑多にとりいれた日本のような国では、むしろ一つの主張にこだわらない神道のような祈りが発達してきたという理由については、本書ではなんとなくわかるように綴られている。鎌田君もそのへんのことを理屈で説明したくはなかったのであろう。 

≪025≫  一方、「きよきもの」「あかきもの」を重視する神道が、歴史のなかではしばしば汚濁にまみれてきたことは、否定することができない。 

≪026≫  それならキリスト教だって、たとえば魔女裁判をはじめ、異教弾圧の歴史をくりかえしてきたではないかと言うだろうが、成功しているかどうかは別として、キリスト教はそうした歴史の矛盾を克服するための神学をつねに検討し、みずからグローバリズムに身をさらしてその昇華を試みてきた。 

≪027≫  マックス・ウェーバーの有名な仮説になるが、プロテスタンティズムは資本主義の“倫理”さえつくりだしたのである。 

≪028≫  それに対して神道は、たしかに日本人の感情には浸透しているような気がするものの、そこに国際性を求めようとはしなかったし、市場をつくろうとしたわけでもなかった。 

≪029≫  また、社会の事件を克服するための神道的苦闘を強いられてもこなかった。しかも大東亜共栄圏を旗印としたときは、アジアに対して神社をおしつけたところもあった。 

≪030≫  それなのに、ここが不思議なところでもあるところだが、神道には心を洗うものがある。神道に名状しがたい清潔感があること、神道が宗教とはちがうものをもっていそうなことについては、すでにラフカディオ・ハーンをはじめとする海外の知識人たちが何度も指摘してきたことだった。 それもまた否定できないことなのである。 

≪031≫  神道を理解するにあたっては、仏教と比較するのがわかりやすいときもある。 

≪032≫  仏教とのちがいは神道側もしきりに説明しようとしてきたし、国家神道が断行されたときも、廃仏毀釈という神仏分離の問題がおこっている。 

≪033≫  ただし、この問題をうまく説明するのは、なかなか難しい。日本の宗教史というものは、つねに神仏習合型に発展してきたからで、そこに神道と仏教を截然と区分するのは困難なのである。 

≪034≫  そこで、だいたいはこの問題は避けて議論されるのが“常識”だった。 が、鎌田君はこの問題にもわかりやすい説明をしてみせた。生活感覚のなかで「神と仏」は次のようなちがいをもってきたのではないかというのだ。 

≪035≫ 

 1. 神は在るもの、仏は成るもの。 
 2. 神は来るもの、仏は往くもの。 
 3. 神は立つもの、仏は座るもの。 

≪036≫  この比較は言い得て妙である。これらの感覚的な「ちがい」は、たしかに『梁塵秘抄』や『閑吟集』のようなものを読んでいても感じられてくる。おそらくは、日本人の多くにもピンとくるものだろう。 

≪037≫  詳しくは折口信夫などを読むのがよいだろう。あきらかに神はどこからかやってきて、そこにありつづけ、気がつくとそこに立っているものなのだ。 

≪038≫  もっとも、ここには触れられてははいないが、神はまた帰ってしまうものでもあった。 

≪039≫  いずれにしても、このような神仏感覚のちがいを前提に、神道と仏教はときに反目し、ときに習合し、ときに溶融さえおこして、つまりは鎌田君のいうところの「神神習合」をおこしてきたということになる。 

≪040≫  21世紀の日本の将来を考えるのなら、そろそろ勇気をもって神道を議論することが必要だろう。 

≪01≫  世阿弥は「型」と「稽古」を重んじた。 二曲三体を指定して、我見と離見を組み合わせ、 「時分の花」と「離見の見」によって 芸能のあれこれを深々と指南した。 そこに無文と有文が区別され、 一調・二機・三声が生じ、驚くべき「却来」という方法が萌芽した。 これら、ことごとく編集工学のヒントになっている。 今夜は久々に世阿弥の伝書を透かせて「能は編集されていた」ことを示唆しておきたい。 けだし能というもの、次のようになっている。 型を守って型に就き、型を破って型を出て、型を離れて型を生む。 

世阿弥は「型」と「稽古」を重んじた。

二曲三体を指定して、
我見と離見を組み合わせた。

「時分の花」と「離見の見」によって
芸能のあれこれを深々と指南した。

そこに無文と有文とが区別され、
一調・二機・三声が生じ、
驚くべき「却来」という方法が萌芽した。 

≪03≫  たった4行に集約してしまったが、これら、ことごとく編集工学や編集技能のヒントになっている。完成された能楽にヒントを得たというよりも、世阿弥が能を仕立てあげ、そのプログラムやカリキュラムを作っていった考え方に、ヒントをもらったのだ。そこで今夜は久々に世阿弥の伝書を透かせて「能は学習されていた」「能は編集されていた」ことを示唆しておきたい。とくに型と稽古の関係だ。けだし能というもの、次のようになっている。型を守って型に就き、型を破って型を出て、型を離れて型を生む。能の曲は「序・破・急」を強調しているが、能というシステムは「守・破・離」を入門者に示すのである。 

≪04≫  『花伝書』(風姿花伝)の序に、「稽古は強かれ、情識はなかれ」というふうに示されている。「年来稽古条々」には、24、5歳のころの稽古について「一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに稽古のさかひなり」とある。 

≪05≫  稽古とは何か。字義通りには「古を稽える」ということである。古典に還るというのではない。「古」そのものに学ぶこと、そのプロセスにひたすら習熟すること、それが稽古だ。『花伝書』には「年来稽古条々」「物学条々」「問答条々」という条々三篇とよばれる章句があるのだが、稽古条々はその第1にあげられた。 

≪06≫  イシス編集学校(佐々木千佳局長)をつくるとき、そのカリキュラムの実践をしてもらうことを思いきって「編集稽古」と名付けた。この名を思いついたのは1970年代に工作舎で「遊」を編集していたころだが、実際に公表したのは2000年1月に刊行した『知の編集術』(講談社現代新書)を書いたときだった。その1冊中に「編集稽古」の名を冠したエディトリアル・エクササイズを28番ぶん入れておいた。 

≪07≫  それまでエディトリアル・エクササイズは約10年をかけて、100前後のものを工夫していた。それらの多くはリアルな場でのグループ・エクササイズで、ゲーム感覚もとりいれていた。イシス編集学校はネット上の学校なので、それはしにくい。そこでリテラルなエクササイズとして〝お題〟が際立つ編集稽古を導入した。それによって編集術の「型」を稽古できるようにしたわけだ。 

≪08≫  編集学校での編集稽古はネット上の教室の中で師範代が対応する。師範代による指導でありコーチングなのだが、これをぼくは「指南」と名付けた。理解、暗示、示唆、誘導、提示を含めるためだ。師範代になるにはISIS花伝所(田中晶子所長)でネット学習とリアル交流を七週間ほど体験し、これに合格しなければならない。師範代になると教室を担当する。1教室に10人前後の学衆(生徒)がいる。そういう教室が1期ごとに10数教室ずつ動く。師範代を何期か経験すると、師範になれる。2013年現在で420人の師範代が教えている。 

≪09≫  もとより花伝所の名は世阿弥の『花伝書』に肖った。もっとも『花伝書』は通称で、もともとは『花傳』あるいは『風姿花傳』といった。 

≪010≫  というわけで、今夜は西平直の『世阿弥の稽古哲学』をとりあげて、世阿弥がどのように型と稽古を組み立てたのか、そのことをぼくはどのように解釈して編集の仕事にとりいれたのかということを、ふりかえっておこうと思っている。 

≪011≫  ハイデガーの研究者であって教育心理学の著書の多い西平は本書において、井筒俊彦が東洋哲学の奥に「共時的構造化」が動いているのをつきとめたことにヒントを得て(井筒『意識と本質』岩波文庫)、世阿弥の伝書をくまなく当たりながら、稽古の背景と本質に迫った。これを借りながら、芸能と学習の方法に共通するものはどういうものなのか、少し辿ってみたい。 

≪012≫  日本の古典芸能では、稽古は型を学ぶものと決まっている。これを疑う者はいないだろう。ところが最初に意外なことを言っておくが、実は能の「曲」には型がない。型があるのは「節」なのである。節が型なのだ。ここに世阿弥の稽古哲学のキモがある。「曲」ではなく「節」を学ぶ。これは型を生かした学習のヒントになる。 

≪013≫  世阿弥は稽古とともに「物学」を重視した。それはひたすら節をまねて、そのうえで自在に曲をあらわすことだったのだ。節が型で、曲が心なのである。「節は形木、曲は心なり」(音曲口伝)。 

≪014≫  これも意外だろうが、世阿弥は「型」という言葉をつかっていない。「形木」という言い方をした。形木は大工や職人が使う木製のテンプレート(鋳型)のことだ。けれども周知のように、その後の能楽界はそれを「型」と呼んだ。たぶん明治以降のことだろう。以来、能はつねに型の稽古から始まってきた。こうして「古」が「型」になっていった。そこには共時的構造がある。『五音曲条々』には「その形木に入りふして習得すべし」とある。稽古の基本はまずは型に入ることなのである。 

≪015≫  型はスタティック(静的)なものではない。また、この型とあの型とは截然と分かれてはいない。分かれもしない。昭和の世阿弥こと観世寿夫が説明したように、能を演ずるとは「型と型をいかにつなぐか」ということであり、「型から型への変化をどう連続させるか」なのである。 

≪016≫  世阿弥は習得者たちに型と稽古を意識させるようにした。「稽古は勧急(緩急)なり」(花鏡)というふうに注意を促し、この緩急をもって進む意識のことを「用心」とみなした。意識するとは用心することなのだ。意識そのもののことについては「智」とも「我見」とも「意」とも称んだ。 

≪017≫  世阿弥にとって、意識とは「意識が向かうところ」あるいは「その先」に進むことだった。習得者たちは「用心のその先」に注意を向ける。編集工学の稽古にとって、これは大きなヒントになった。「用心のその先」とは、心身のどこかにひそむ〝注意のカーソル〟が外の何かに向かっていくことなのだ。 

≪018≫  稽古は、〝注意のカーソル〟が心身の中のどこをどのように動くかを徹底して確認するためにある。その緩急の確認に型が必要だったのである。その型の前後で用心が動くべきなのである。「智外に非のあらんことを、定心に用心すべし」(遊楽習道風見)。 

≪019≫  能の稽古は「物学」から入る。ミメーシスだ。ミミクリーである。模倣である。これを世阿弥は「似する」とも言った。 

≪020≫  しかし世阿弥自身は、似する(まねる)のは師匠に学んでからにしなさいと言って、勝手にまねることに警鐘を鳴らした。「至りたる上手の能をば、師によく習ひては似すべし。習はでは似すべからず」(花鏡)。勝手にまねるのは歳に応じて任意でもいいけれど、本気でまねたいのなら必ずや師について稽古をしてからにしなさいというのだ。 

≪021≫  一方、世阿弥は芸を「有文」と「無文」に分けた。文(あや・彩・綾)をあらわす「有文」の芸と、アヤのない「無文」の芸である。 

≪022≫  古代ギリシアの表現力、古代ローマの文章や演説のレトリック(修辞法)はむろんのこと、漢詩や万葉などもアヤによって成り立っていた。そうでなければ、漢詩の韻、万葉の枕詞、係り結びなど生まれもしなかった。その方法はギリシア・ローマの古典の技法でいえば「アナロギア・ミメーシス・パロディア」にあたる。畢竟、世界のどんな文芸も芸能も有文を核として発展してきた。 

≪023≫  文意や文脈はむろんアヤだけでは成り立たない。アヤの奥には多くの言葉と意味のうごめきがあり、多様な状況判断も加わっていく。世阿弥よりずっとのちのことになるが、本居宣長は、言葉の意味と用法に「ただの詞」と「あやの詞」があって、「ただの詞」は「ことはり」(理)に必要だと言った。世阿弥も芸能には「まことの花」が必要だと言った。ちなみに尼ヶ崎彬は『花鳥の使』(勁草書房)のなかで、タダとアヤをくっつけているのが型だと見極めた。無文と有文は不即不離なのである。 

≪024≫  そこで能楽の稽古では、有文と無文によって稽古の仕方を分けた。芸の習得者は稽古を積むにあたっては、まずは有文を磨き、そのうえで無文に至る。無文には幼い者が演じるときの「訳知らずの無文」やビキナーズ・ラックともいうべき「不覚の無文」がある。また「有文を極めすぎたる無文」(風曲集)もある。世阿弥はそれらを超えて、真に「まこと」に達した芸には「さびさびとしたるうちに、何とやらん感心のあるところ」(花鏡)が生まれると見た。 

≪025≫  このさびさびとしたるがいわゆる「冷えたる曲」である。世阿弥と同時代の心敬の「冷えさび」に通じる。 

≪026≫  能は言葉だけでできてはいない。体も同時に動く。これはフリというものだ。所作ともいう。古今東西の多くのダンスアートやパフォーミングアートと同様に、このフリや所作には「見る」と「見られる」の関係が生じる。 

≪027≫  世阿弥はこれを「見」と言った。そして見についてもさまざまな見方があることを説いた。たとえば『花鏡』には、こう書いた。「舞に目前心後といふことあり。目を前に見て、心を後ろに置けとなり。これは以前申しつる舞智風体の用心なり。見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかれば、わが目の見るところは我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にてみるところは、すなはち見所同心の見なり」と。 

≪028≫  舞い手はどこを見ればいいのか。どこを感じていればいいのか。どこを見せればいいのか。世阿弥は見所同心と離見を指南する。見所とは観客のいるところだ。我見とは舞い手が実際に見ているものやことをいう。これに対して離見とは自分から離れていく見方をいう。 

≪029≫  こうして舞い手は、目を前のほうに見すえつつも、心を後ろのほうに置くという「目前心後」を心掛ける。ここに「見所同心」という風体と心境が生まれる。フリや所作もそういう風体になる。これが「離見の見」である。イシス編集学校では、世界読書の奥義を通して「離見の見」を求める「離」というコースをもうけた。 

≪030≫  かつてレヴィ=ストロースが「離見の見」というコンセプトに魅せられて〝Le Regard Éloigné〟という本を書いた。日本では『はるかなる視線』(みすず書房)と訳されたが、これは違訳だった。「離見の見」はたんに自分を離れることではなく、「他者のまなざしを、わがものとする」ということであり、さらには「わが心を、われにも隠す」ということなのだ。 

≪031≫  さてところで、能を見る者には「目利き」と「目利かず」がいる。目利きは下手な芸を好まない。目利かずは上手を好まず、下手な芸や粗野な芸をよろこぶ。世阿弥はそういう下手な芸を「非風」と名付けた。 

≪032≫  いまでも芸能人やお笑いタレントたちの下手くそな芸をよろこぶ風潮がテレビにあふれている。テレビだけではない。落語家なども笑いのウケ狙いに走る者が少なくない。イラスト業界では「へたうま」さえもてはやされた。当初、世阿弥を悩ませたのは、この目利かずがよろこぶ非風をいったいどうするかということだった。 

≪033≫  目利かずを惹きつけてこそ、名手であろう。それなら下手な芸(非風)も稽古する必要があるのだろうか。いや、そうではあるまい。世阿弥は「是風」が非風を抱きこむべきだと考えた。それを「却来」といった。 

≪034≫  却来は禅語である。禅林では「きゃらい」と読む。自身が悟りを得るだけでなく、その得たものをもって俗世におりて人々を悟りに誘う覚悟をすること、それが却来だ。仏教的には菩薩道に近い。世阿弥は却来を禅語よりもかなり柔らかくとらえた。芸を究めた者がすうっと下におりることを意味した。編集工学を究めようとしてきたぼくにとって、却来はすばらしい方法の魂を暗示してくれた。  

≪035≫  かくして万端の準備をあらかた了えた世阿弥は、推挙すべき稽古の順に独自な組み立てをしていった。最初は中くらいの芸の稽古から入って、やがて上位に達し、そのうえで最後に下位の芸を習得するという方法だった。これによって是風が非風を包みこめることを示した。また、そのような気持ちになれることを「衆人愛嬌」といった。 

≪036≫  いったい芸の出来不出来はどこで決まるのだろうか。名人や達人は何をもって、そうみなすのか。世阿弥は曲の中にそれが始まっていると見て、芸そのものに「位」(芸位)をつけた。仏道のプログラム九品に倣って九位に分けたのだ。 

≪037≫  あまりうまいネーミングではないけれど、上三位が妙花風、寵深花風、閑花風。中三位が正花風あるいは有主風、広精風、浅文風。下三位が強細風、強麁風、麁鉛風というふうになる。このうちの広精風が「三体」に当たり、浅文風が「二曲」に当たる。しばしば二曲三体といわれる。稽古はこの中位の二曲三体から入るのだ。 

≪038≫  二曲は「歌」と「舞」である。三体は「老体」「女体」「軍体」をいう。幼き者あるいは未熟な者は、まず二曲を稽古する。「二曲をよくよく学得しぬれば、舞歌一心一風になりて、安久長曲の達人となるべし」(二曲三体人形図)。 

≪039≫  稽古では二曲で芸の下拵えをして下敷きをつくり、三体によって応用に向かう。世阿弥は、二曲は「まねるもの」(似するもの)、三体は「うつすもの」「わたすもの」と言った。まねる、似する、うつす、わたす。ここに芸の発祥を見たのである。この下敷きのことを世阿弥は「下地」とも名付けた。このような下地からの確実な出発がなければ「器」、すなわち芸の器量の基本はつくれなかった。 

≪040≫  幼き者のことは「児姿」とも「童形」とも言われる。『花伝書』では七歳のころから稽古を始めるといいと書いた。幼い者にはそれなりの幽風がひそんでいるとみなされたのだ。「遊楽習道風見」には「さるほどに、幼き芸には物まねの品々をば、さのみには訓べからず。ただ舞歌二曲の風ばかりたしなむべし」とある。 

 ≪041≫  児姿や童形がおのずからもつ「花」が、いわゆる「時分の花」である。世阿弥は声変わりする前の少年に理想の「時分の花」を見たが、むろんそれはまた舞い手や能楽師が終生にわたってめざすものでもあった。 

≪042≫  年齢とともに獲得された花は、いっときの自分(時分)を超えた「まことの花」とよばれた。『花伝書』年来稽古条々では、44~45歳でも「失せざらん花」があるのなら、これは「まことの花にてはあるべけれ」と認めた。無文の花である。花は「はなやか」に通じ、次第を追って幽玄に昇華する。『花伝書』の問答条々にははやくも「何と見るも花やかなるして、これ幽玄なり」とある。 

≪043≫  では、いったい無文や幽玄に近づくには、どうすればいいのか。あらためて芸の出発点に戻らなければならない。 

≪044≫  『花鏡』第一条に「一調・二機・三声」がある。一調は調子のこと、二機は機会やはずみのこと、三声はむろん発声のことだ。まとめて「息づかい」というものだ。この「一調・二機・三声」をいつでも実感できるようになることが、能における「時分の花」を開かせる出発点であって結露点となった。 

 ≪045≫  機はタイミングやオケージョンを捉える機会であって、その機をいかせるような体や声に用意しておくべき「はずみ」のことでもある。それが「発することを主どる」ということだ。ときに機は向こうからもやってくる。ふいに、くる。そのようなセレンディピティに存分な勘をはたらかせることについても、世阿弥は見落とさなかった。「やってくる機」に対するに「迎える機」というものだった。 

≪046≫  こうして「せぬひま」という、すこぶる重要な機会が見えてくる。「せぬ隙」と書く。隙間なのだが、その隙間ですべてが決するわけなのだ。『花鏡』の次の文章に秘訣が暗示されている。 

≪047≫  見所の批判にいはく、「せぬところが面白き」など云ふことあり。これは為手の秘するところの安心なり。まづ、二曲をはじめとして、立ちはたらき、物まねの色々、ことごとく皆、身になす態なり。せぬところと申すは、その隙なり。  

 ≪048≫  このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心を綰ぐ性根なり。舞を舞いやむ隙、音曲を謡ひやむところ、そのほか、言葉、物まね、あるゆる品々の隙々に、心を捨てずして、用心をもつ内心なり。 

≪049≫  この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かようなれども、この内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、わが心を我にも隠す安心にて、せぬ隙の前後を綰ぐべし。これすなはち、万能を一心にて綰ぐ感力なり。 

≪050≫  以上、ざっと型と稽古に即して案内してみたが、芸の習得者のほうはそのように型と稽古に励むとして、それでは、これを教えるほうの師はどんな心得をもつべきなのか。編集学校でいえば師範や師範代が基本的に心得るべきこととは、何なのか。 

≪051≫  世阿弥は『花鏡』で、こう言っている。師の条件は3つある。それは、第1には「下地の叶ふべき器量」をもつこと、第2に「心にすきありて、この道に一行三昧になるべき心」をもてること、第3に「この道を教ふべき師」がいることである、と。「心にすきありて」とは数寄の心をもつという意味である。 

≪052≫  芸の師と芸の習得者は、片方の長所だけでは成り立たない。世阿弥は稽古や修業には陰陽和合の気持ちが重要で、それによって初めて「相応成就」が実っていく。能に学び、能を愉しむことは、相思相愛することであって、相互編集の世界をまっとうすることなのである。本書の著者はそれを「二重写し」になることと言っている。 

≪053≫  まさに、そうであろう。
能も編集も「キアスム」(交差の配列)であり、「キネステーゼ」(運動と知覚の重合)であり、「インタースコア」(相互記譜)なのである。 

≪054≫能はドラマであって、身体芸術であり、共同体の活動報告であって、記憶の再生である。
これまでその性格と特徴がさまざまに論じられてきたが、世阿弥は「万曲のおもしろさは、序破急成就のゆえと知るべし」(拾玉得花)と言った。
結局は序破急が成就してこそ能なのである。  

≪05≫  1日の能は序破急でできていて、1曲の能も序破急でできている。それも通りいっぺんの序破急ではない。
たとえば《高砂》では次のように構成されてきた。

序一段=ワキ次第・詞・道行
破一段=シテツレ一声・サシ・下歌・上歌
破二段=シテワキ問答・地初同
破三段=クリ・サシ・クセ・ロンギ・中入
急一段=ワキ待謡・後シテ・神舞・キリ 

≪056≫  なぜこんなふうにジグザグに進むのか。
世阿弥は一言、それこそは「却来」のためであり、「堺に移る」ためであるからだと答えた。
世阿弥ほど「移る堺」を編集構成できた芸能者はいなかった。
能は境い目を渉るトランジットの芸能でもあるのだ。
型を守って型に就き、型を破って型を出て、型を離れて型へ生む。
やはり、これである。 

≪01≫  師が言った、「それが射るのです」。また「それが満を持しているのです」と。私は思わず尋ねた、「それとは誰ですか、何なのでしょうか」。 

≪02≫  ヘリゲルが師からいったん破門され、ふたたび弓の稽古に通うようになったときのある日の場面だ。それまでの一年半ほどの弓の稽古で、ヘリゲルはいつも的(まと)を射ることしか眼中になかったのだが、師はたえず「的を中(あて)ると思わないように」と指導していた。それがヘリゲルにはまったく納得できず、師から厳しく咎められていた。ところがその日の稽古では、師が「それです」「それが射るのです」と言ったのである。 

≪03≫  「それが満を持している」とはどういうことか。ヘリゲルはそう言われても何が「それ」で、何が「満を持している」のかがわからない。 

≪04≫  日本の弓道では「射法八節」(しゃほうはっせつ)といって、弓道場で定められた位置に立って弓を射放つまでの動作を八節に分けている。その六節と七節に「会」および「離」があって、この「会」「離」の心得の絶妙のどこかに「それ」が「満を持する」が漲っているとおぼしい。 

≪05≫  射法八節にどんなふうに「会」と「離」が出てくるかということはあとでかんたんに説明するが、当時40歳を少しすぎたばかりのドイツ人のヘリゲルは「それ」や「満を持する」と言われても納得できたかどうなのか自分でもわからないまま、日本での5年ほどの弓道稽古をおえるのである。そして日本を去った。 

≪06≫  それから二十数年後、64歳になっていたヘリゲルは師の謎のような指南と稽古の意図を順ぐりに思い出すかのように『弓と禅』を綴った。ドイツ語の原題を『弓道における禅』(Zen in der Kunst des Bogenschiessens)という。短いものだが、全編ほとんどを師の教えがどういうものだったかを書いている。 

≪07≫  では、そこまでヘリゲルを追いこんだ師とは誰なのか。仙台の二高(東北帝国大学)で弓道を教えていた阿波研造(あわ・けんぞう)だった。名うての武術家である。石巻に生まれ、雪荷派(せっかは)の弓術とともに剣道その他の武術全般を修め、自身で大射道教を設立し、「弓禅一味」「射禅見性」を唱えていた。  

≪08≫  『弓と禅』を読むとは、この峻厳で清澄きわまりない阿波研造が、他の弟子同様に自分より少し若いヘリゲルに何を暗示しようとしたか。そのことを弓も知らない、禅も知らない、日本文化も知らないヘリゲルがどう感じていたかを読むことだ。時は大正から昭和に移る時、ドイツから船で数カ月かけてやってきた40歳前後のガイジンが、さてどんな感想をもったのか。ラフカディオ・ハーンやアーノルド・フェノロサやジョサイア・コンドルの日本体験と何が違うのか。  

≪09≫  なにしろヘリゲルが出会ったのは弓なのである。日本画や三味線との出会いとは異なる。もちろんアーチェリーとはまるで違う。古来の武術の初体験なのである。力道山がプロレスに向かっていたり、アンディ・フグが極真空手にとりくんだのともワケが違うだろう。さしずめラストサムライとの出会いに近い。 

≪010≫  原文や英語の『弓と禅』に惹かれたガイジンたちもその「深さ」に痺れた。もはや有名な話になっているが、ゴディバのジェローム・シュシャンやアップルのステイーブ・ジョブスは愛読書にしていた。1983年に筑波大学の弓道研究室がおこなった海外の武術家に対する読後調査でも、84パーセントが「精神修養の参考になった」と答えている。早くに鈴木大拙(887夜)は「西洋の読者は、まさに奇妙な、なにか近づくことが出来ないように思われる東洋人の経験について考える、より親しいやり方を見出すであろう」と書いた。 

≪011≫  印象の軽重はあれ、多くの者が『弓と禅』をおそらくそんなふうに読んできたと思うのだが、このことは弓道にも武道にもいささか遠くなった昨今の日本人にとっても同じであるはずだ。スポ魂マンガ家の多くが一度は読んでいるとも聞いたし、為末大君の話では、日本のアスリートたちは「ゾーンに入る」ということを『弓と禅』をヒントにしているとも聞いた。 

≪012≫  今夜は柴田治三郎が訳した『弓と禅』を岩波文庫版ではなく、魚住孝至の角川ソフィア文庫の新訳で届けたい。解説もいい。ちなみにこの文庫を編集したのは、いま「千夜千冊エディション」を担当してくれている伊集院元郁君だった。 

≪013≫  オイゲン・ヘリゲルはドイツの哲学者である。1907年にハイデルベルク大学で神学を修め、ついでウィンデルバント、エミール・ラスク、リッケルトから新カント派の哲学を学んで博士号をとると、折からの第一次世界大戦に従軍し、大学に戻ったときは私講師として、日本からの留学生の大峡(おおはざま)秀栄とともにアウグスト・ファウストの『禅――日本における生ける仏教』を翻訳した。この本のことは三木清(1550夜)の『読書遍歴』(小山書店→新潮文庫・講談社文芸文庫『読書と人生』)に出てくる。三木はハイデルベルクに留学し、ファウストにもヘリゲルにも出会っていた。 

≪014≫  ファウストを訳していたころ、ヘリゲルは自分が青年期から読み耽っていたマイスター・エックハルトが「離脱」(Abgeschiedenheit)こそ神学思想の根本だと説いていたことに再会した。ただ当時のヘリゲルはその真意がわからなかったらしく、そのためエックハルト研究と神秘主義研究とを放棄していたのだが、ファウストで禅に触れて、ひょっとすると「離脱」についてのヒントは禅の中にあるのかもしれないと思った。 

≪015≫  そんなヘリゲルが1924年5月に東北帝国大学に招かれて、日本の青年たちに哲学とギリシア語とラテン語を教えることになったのである。妻とともに来日すると、さっそく禅を学びたいと勇んだのだが、周囲の日本人からは禅はキリスト神学のようには学べないと諭(さと)され、やむなく日本文化や武芸のあれこれを観照し、その不思議な佇まいに憧れていた。通訳には長らくヘリゲルを扶けた小町谷操三があたった。阿波研造の門人だった。 

≪016≫  来日まもなくして、身重のまま同行していた妻が死産のすえ亡くなった。翌年、新たにグスティと再婚すると、彼女がたいへんな日本文化びいきだったことも手伝って、二人で弓を習うことにした。弓道は禅を体感するための近道だとの助言もあった。大正15年(1926)春のことだ。グスティは生け花と水墨画も習った。 

≪017≫  指定された道場に行ってみると、師の阿波研造は静かな人であるのに、ただならない気を発していた。夫婦ともにこのおっかない日本人に「弓から禅へ」のことを学べるとよろこんだ。ただし、わかりやすい指導が何もない。一応の技法は稽古しておぼえたものの、ほとんど褒めてくれない。夫婦はドイツと日本の此彼の差を噂しあった。とくに矢を的に中(あ)て「やった」という顔をすると、必ず咎められる。指南はたいそう暗示的で、とりわけ的中するたびに「会」から「離」への心得がなってないと叱られる。 

≪018≫  なぜ叱られるのか。『弓と禅』には、その問感応答返の様子が実に淡々と綴られていて、ヘリゲルがいちいち戸惑っている様子、なかんずく心に浮かぶ西洋人ならではの疑念を払おうとしても払いきれない様子がよく伝わってくる。なにしろ師は「的を見るからダメなのだ」と言うのだ。的を見ないで、どうするのか。この国にはウィリアム・テルは通じないのか。 

≪019≫  ヘリゲルもグスティも日本を知りたいと思っている。それなのに師はそれを遠ざけているかのようにふるまう。二人は日本人の解説能力を疑いたくなったが、それが日本というものだとも言い聞かせた。 

≪020≫  日本語には弓道から転用された慣用句がいろいろある。「一矢を報いる」「白羽の矢を立てる」「手筈(てはず)を整える」「矢継ぎばや」「矢のような催促」がそうだし、「図星」「的確」「目的」「的中」「手ぐすね」も弓道用語だ。手ぐすねは「手薬煉」と綴るのだが、弓の弦を補強するための練り粉のことをいう。 

≪021≫  とくに「目的」という日本語が弓道からきていることは、示唆深い。ステイーブ・ジョブスにはプロジェクトのチームが当初に設定した目的を上回るためには「的にとらわれない弓禅の気概」が有効だったのである。ぼくはそれならオブジェクトやターゲットを「目当て」と言い直した数学者の高木貞治こそ思い出したい。高木はドイツに留学してヒルベルトに学んだのだが、ピンポイントのオブジェクトをむしろ「目当て」として緩くみなすことに気が付き、そこから数論や関数論を独自に導いた。 

≪022≫  というわけで、弓にまつわる認知道具はそれぞれたいそう意味深長なのだが、ここで弓道の「射法八節」がどういうものかを、全日本弓道連盟の指南書などにしたがって、簡略に説明しておく。 

≪023≫  (1)「足踏み」(あしぶみ)では両足を外八文字に踏み開き、腰と体をしっかりと安定させる。末弭(うらはず:弓の上部先端)は床上10センチほどに留めたままにする。(2)「胴造り」(どうづくり)は左右の肩を沈めて、背柱と頂(うなじ)をまっすぐ上に延ばし、気持ちの多くを丹田に移す。膝のうしろをできるだけ伸ばす。(3)次に「弓構え」(ゆがまえ)で矢を弓の弦(つる)に番(つが)え、的に顔を向けて物見を定め、左右の肘を軽く張って大木を抱える気分をもつ。ついで矢の下に革の総縁(ゆがけ)を付けた親指をさしこんで、弦溝(つるみぞ)に弦をセットする。このとき鼻筋で的を二つに割る。 

≪024≫  (4)「打ち起し」(うちおこし)はいよいよ弓を両手で頭上に挙げて、ゆっくり息を吸い。上体と下半身をひとつにつなげる。弓と矢を同時に掬いあげる気持ちをもつ。(5)かくて「引き分け」(ひきわけ)で弓を両手でぐいっと引き分けながらゆっくり下ろし、弦道(つるみち)を外から的中線に移して、狙いを定めて右肘によって弦をキリキリと引く。正面打ち起しと斜面打ち起しがある。狙いを定めることを物見という。 

≪025≫  (6)ここから「会」(かい)になる。矢を軽く頬に添え、口割り(鼻と唇のあいだ)に高さが決まると「引き分け」のいっぱいの漲りを実感して、ひたすら発射の機会を待つ時に入る。詰合いや仲合いなどの微妙な調整はあるものの、呼吸は詰めず、おのずから発射に至るのを待つ。力は漲っていてもそれを感じない。(7)こうして胸郭を開き、無心のままに矢が放たれる。これが「離」(はなれ)である。矢は射られるのではなく高速に離れていく。最後の(8)「残心」(ざんしん)は矢を放ったあとの静かな気持ちのことをいう。気合はそのままで弓倒し(ゆだおし)に入り、物見を静かに外して心を戻して万事を了(お)える。 

≪026≫  これが「射法八節」の要訣だ。八節すべてがみしみし音がするような「耐える技」の連続だが、とりわけ「会」から「離」への移行が難しく、師が「それが満を持する」と声をかけたところだった。まさに「武道」の「道」がうんうん唸っている。 

≪027≫  さて、このような弓道が確立したのは近世から近代にかけてのことで、当初の弓術はもちろん戦闘用だった。また儀礼用でもあった。弥生時代すでに日本独特の長弓が用いられ、そこに中国からの「射をもって君子の争いとなす」という射礼思想が入ってきて朝廷の弓の儀式が生まれ、武家の誕生とともに「弓取り」が武芸の頂点であるという見方が広まった。源平時代は「海道一の弓取り」をめざすことが武者の誉れだった。 

≪028≫  南北朝に入って、武家社会の弓法を小笠原貞宗・常興がそこに馬術と礼法を加えて「たしなみ」の次第をまとめると、ここに流派が誕生していった。とくに日置弾正政次による日置(へき)流が実射の儀礼化を整え、吉田重賢がこれを継ぐと、出雲派、雪荷派、印西派、大蔵派などが分派した。尾張・紀州には竹林坊如茂(なおしげ)の竹林派普及、剣術の拡散とあいまって全国に弓術各派が林立した。 

≪029≫  しかし鉄砲の伝来は弓術の戦闘性を剥ぐもので、徳川幕府の武家諸法度はやたらの実践を戒めた。ついに幕末には講武所の稽古科目から弓道がはずされた。そこで弓術家たちは森山香山の大和流、本多利実の本多流などの武道的な弓道に邁進することになる。 

≪030≫  かくて明治維新からは武術全般が遠のくことになるのだが、中期からは古武道の大半を収容した大日本武徳会のもと(平安神宮境内の武徳殿が本部)、弓道が心身鍛練の法として重視されていく。阿波研造はこの武徳会で師範の皆伝を得た名人の一人だった。 

≪031≫  阿波は本多利実の門に入り、正面打ち起しの新射法を会得すると、参禅をしながら独自の大射道教を掲げて、門下に14000人を輩出した。ぜひともその詳細を知りたくなる武道者なのだが、その資料の大半が仙台空襲やその後の管理不行きとどきで散逸し、なかなか実像が見えてこない。遺稿の一部が櫻井保之助の『阿波研造・大いなる射の道』に収録され、ごく最近(2013)になって池沢幹彦による『弓聖 阿波研造』(東北大学出版会)が刊行された。 

≪032≫  ともかくもヘリゲルはそういう阿波研造の40代に学び、その稽古の日々を篤実に追想してくれたのである。なかなか疑念が払えなかった記述に、かえって阿波の凄みを感じさせている。 

≪033≫  ヘリゲルが「会」と「離」を得心できなかったことで、習練の未熟を非難されることはない。そんなことは初級・中級者はむろん、チャンピオンクラスでもいつでもおこりうる。むしろ上級者ほど「ゆらぐ得心」に向き合っている。 

≪034≫  ぼくはドキュメンタリー番組「アスリートの魂」で、“的中の怪物”と言われた増渕敦人(天皇杯優勝者・高校教員)が当時74歳の名人・岡崎廣志に特別の稽古をつけてもらっている迫真場面を見たことがあるが、岡崎は増渕が射貫く所作を見て、ただちに「技術はもっているのだから余計なことをするな」「もっと上にいけるのに、小さく止まっている」「的に中てるのではなく、空間を表現してみなさい」と教えた。上には上がいるものなのである。 

≪035≫  話はとんで385夜にも書いた山岡鉄舟の剣の逸話だが、鉄舟は浅利又七郎と何度手合わせしても勝てない。あるとき一本をとったと思えたが、寸前に又七郎の剣先が胴着の一部を裂いていたことを知った。高橋泥舟(896夜)にこのことを話すと「そりゃあ、相手が本物だ」と言う。鉄舟はこのことが忘れられず、なにごとかを覚悟するように日に夜を継いで座禅に徹し、あるとき弟子と手合わせしてみたら「参りました、先生にはスキがありません」と言う。そこで又七郎に三拝のうえ手合わせをしてもらって数分、なんと又七郎が「余、及ぶところにあらず」と一礼をした。明治13年3月30日のことだ。 

≪036≫  上には上がいる話とも、どちらが上ともつかない話とも感じられるけれど、ヘリゲルはそういうことが日本の武術にはのべつ内発していることを、実にうまく書いている。時の名人に弓道を習っていながらも、理解しがたい疑念をもっていたから、こういう文章が書けたのだろう。そこがドイツ人のドイツ人らしいところでもあった。 

≪037≫  実際、ヘリゲルは恐ろしい推測をしたことがある。きっと師は「慣れ」によって狙いをもたなくてよいと言っているのではないかと思ったのだ。あるときそのことを師に告げてみたら、では今夜遅くに道場に来なさいと言われた。夜の9時、師は道場の蝋燭を消し、一本の蚊取線香の点火だけの暗闇の中、静かに引き分けると甲矢(はや)を放ち、的を射た。ヘリゲルはぎょっとしたが、師はついで乙矢(おとや)を放って甲矢の筈を打ち抜いた。炸裂音でそのことが伝わった。的に近づいてみて、打ち抜きを確かめ、ヘリゲルはその場にへたりこんでしまった。 

≪038≫  このときのことを、ヘリゲルはやっと“gelockert!”(力を抜いて!)ということが了解できたような気がしたと書いている。 

≪039≫  こうして「それ」がやってきたわけである。ある日、ヘリゲルの矢が放たれた瞬間、師が「それがあらわれました」と言い、お辞儀をしなさいと命じた。ヘリゲルは一礼などそこそこに的のほうを見た。矢は的の縁(ふち)をかすっただけだった。どうしてこれが「それ」なのか。 

≪040≫  怪訝な顔をしていると、「これが正しい射です」「それが満を持したのです」。そしてこう言った、「今日はこれで十分です。そうでないと次の射で特別に苦心してしまいます」。意味がわからない。 

≪041≫  数日後、ズバッと的を射た。自分でも「それ」によるものだと感じられた。にんまりできた。けれども師はこう言った、「射に失敗しても、そのことに腹を立てないようにすべきことは、前からご存じでしょう。射がうまくいっても悦ばないことを付け加えなさい。快と不快のあいだを行き来することから離れなさい。これがどんなに大事なことか、はかりしれません」。 

≪042≫  ヘリゲルは師にこの日のことを「私はそもそももはや何も理解していないのではないかと恐れます。最も単純なことすら、困惑させます。弓を引き分けるのが私であるのか、私をいっぱいに引き絞らせるのが弓であるのか、的に中てるのが私であるのか、的が私に中るのか」と書き、そして次のように続けた。‥‥「それ」は身体の目には精神的であり、精神の目には身体的です。それは二つであるのか、どちらであるのか、弓と矢と的と私とは互いに絡まりあっていて、もはや分けることができません。分けようという要求すら失せました。 

≪043≫  ヘリゲルは5年後にドイツに戻された。1929年(昭和4年)だ。張作霖が爆殺され、ニューヨークで株が暴落し、世界恐慌が吹き荒れた。帰国後、エルランゲン大学の教授になったものの、ドイツの哲学界は現象学や解釈学や実存思想に傾いて、新カント派は見向きもされなくなっていた。 

≪044≫  ヘリゲルは弓道の稽古を続け、1936年2月にはベルリンの独日協会で「武士道的な弓道」という講演をして、その原稿を小町谷に訳してもらって阿波に送ったりしている。小町谷は師が「日本の弓道がこのように外国に紹介されたことをとても喜んでいた」と伝え、ヘリゲルも「やっと安心した」と書き送った。 

≪045≫  第二次世界大戦が始まると、ヘリゲルはエルランゲン大学の学長に任ぜられるのだが、周囲はナチス一点張りになっていた。ヘリゲルは大学を護るための活動をナチスにも認めさせるような努力をしたようだが、戦後は「消極的な同調者」だったというレッテルが貼られた。  

≪046≫  つまりドイツに帰ってからのヘリゲルは不遇をかこったのである。そこで書き残しておこうとペンを執ったのが『弓と禅』だった。その後、肺癌などにかかり、アルプス山中のガルミッシュ・バルテンキルヘンにわずか二間を借りて夫婦で暮らし、1955年4月に71歳で息を引き取った。  

≪047≫  できれば禅についての詳しい本を書きたかったようだが、これは叶わなかった。もうひとつ、「それ」を“Es”と訳したことについて気がかりだったのだが、これも訂正できずにおわった。遺稿はヘルマン・タウンゼントが編集した『禅の道』(Der Zen Weg)にまとめられている。 

≪048≫  今夜の一冊が今年最初の千夜千冊だ。できれば大晦日にリリースしたかったのだが、風邪気味で見送った。年をまたいで『弓と禅』を選べたのは、「それ」と「離」の掴まえかたに敬意を表してのことだ。日本の「道」とは、こういうものなのである。 

≪049≫  竜頭蛇尾になるけれど、一言申し添えたい。 いま日本は劣化しつづけている。政治、思想、伝統芸能、ラップ、宗教、大学、みんな劣化している。見ないで言うのもなんだけれど、年末年始のテレビ番組はサイテーだった。笑えばすむなどと思ってほしくない。ぼくは以前に「有吉を使ったときにNHKは終わった」と書いたことがあるのだが、そのことを先だっての大晦日のNHKラジオ「ヤマザキマリの忘年会」で話したところ、むろん削除された。有吉がダメなのではない。そのことでNHKが大事に締めていた矢筈が効かなくなったのだ。 

≪050≫  「ヤマザキマリの忘年会」では、美術番組に女優を使うのをやめなさいとも言った。マリちゃんは同意してくれたが、これも女優の責任ではない。バロックやピカソ(1650夜)をわかりやすくするために女優を使っているのだろうが、これでは「わかる」に近づけない。これは「あしらい」の取り違えだ。「あしらい」とは「待遇」のこと、「遇」の発現に心を致すための用意をしておくことである。少し前のオリパラの開催式や閉会式も7割がた勘違いをしていた。勘違いはいくつもあるが、たとえば海老蔵とピアノ演奏の組み合わせが「あしらい」と「間」の間違いだった。 

≪051≫  かつて司馬遼太郎(914夜)が『アメリカ素描』(新潮文庫)を書いたとき、アメリカの「アタシの」文化が日本をダメにするだろうと予告していた。「アタシの」文化というのは「ミー文化」のことである。最近のあたしのマイブームはイカスミのパスタでね、あたしが好きなマフラーをカレシが気にいらないの、アタマにきたわ、というのがミー文化の流行だが、司馬はこれが日本にはびこるだろうと感じたのだ。そして、これをずらっと揃えればうまくいくと演出家が考えているのが、テレビ番組やオリパラ演出の劣化なのである。的中(視聴率)ではなく「空間を表現する」にならなくなっていく。日本舞踊も大学教員もそのデンだ。 

≪052≫  サブカルズが自在なことをやってみせるのは、大いに結構なのだ。けれどもこれを拡散させるメディアで広めたくなるにつれ、劣化がおこる。
有吉やマツコや指原は、「それ」にふさわしい「埒」(らち)を提供してあげるのが演出なのである。とくに日本文化の認識においては、「それ」を「日本」とするときに「埒」を失っていくことがモンダイなのである。 

≪053≫  大拙はドイツ語・英語版の『弓と禅』の序文にこう書いた。「あらゆる道の稽古において、我々が気づく最も重大な特色の一つは、それらが実用的な目的だけの純粋にアスレテイックな楽しみのために行われているのではなく、心の修練を意味し、実歳に心を究極のリアリティに接触するようにもたらすことを意味するのである」 

本日の一冊

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九相図 - Wikipedia