学ぶための「居間」
(和洋・こらば流)
健康・情報
こらば・VSFSF グーグルミート
≪01≫ この作品が出たときは、唸った。こういう感覚が出てきてほしいよなとおもっていたところへ、まさにドンピシャの人工虚構現実感覚のカレイドスコープだった。
≪02≫ ハイパー・ヴァーチャル=リアルなのである。冒頭一行目から次のように始まっているのも気にいった。「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった」。これで、この新人作家ウィリアム・ギブスンがレイ・ブラッドベリの再来であることがすぐわかったが、読みすすむとギブスンはブラッドベリではなかった。ブラッドベリよりずっとオーガニック・マシナリーで、ずっとヴァーチャル・ダンディだった。
≪03≫ この作品は出現したとたんに「サイバーパンク」(cyber punk)というニュージャンルをつくり、あっというまにSFの歴史を塗り替えた。そして、またたくまに文学史を飾る古典となった。
≪04≫ サイバーパンクと命名したのはブルース・ベスキで、それを広めたのはSF編集者のガードナー・ドゾワだったが、この用語はSFの領域を示しているのではなく、新たなスタイルをさしていた。ここには電子的未来の原郷が示されていたからだ。ここから、その後のデジタル・センセーションの大半のアイテムが電子銃のように飛び出していった。たとえば最近でこそ知られてきたけれど、「マトリックス」という言葉を共感覚幻想の意味につかったのは『ニューロマンサー』が最初だったのだ。
≪05≫ 舞台は、ニュー・イエン(新円)が乱れとぶ未来の日本の千葉シティである。主人公のケイスは、かつてコンピュータ・カウボーイで伝説のハッカーだったディクシー・フラットラインの際立つ弟子だというふれこみだ。話は、そのケイスが全身武装のブラック・ゴーグルの女モリイから「マトリックス」へのジャック・イン能力の修復をしてもらう代償に、コンピュータ複合体「冬寂」(ウィンターミュート)への潜入を依頼されるというところから始まる。
≪06≫ いったん始まったらどこにも停まらない。出てくるものは電子擬態をこらしたマシンの数々、アーティフィシャル・ホルモンを打ちこんだ人造感覚の持ち主たち、本物か虚偽か見分けのつかない映像網もどき、暗号と記号に満ちた会話とシステム、その手の電擬的なものばかりだ。1ページ進むたびに、いくつもの電界現象が仕組まれていて、そのVとRがごっちゃになったブレードランナー的疾走感がたまらない。だから筋書きのほうは容易につかめない。
≪07≫ 女サムライ然としたモリイ・ミリオンズの依頼によって「冬寂」に潜入したケイスは、そこがどこかが仕組んだAIであること、その黒幕がアミテージという男であること、「冬寂」のほかに「ニューロマンサー」というAIがあることなどを察知していくのだが、だからといってこれで話の筋が少しでも見えてくるなどということは、おこらない。だいたい登場人物がすぐに半アンドロイド化するのだから、人脈図がつくれない。
≪08≫ とにもかくにも想定しうるかぎりのサイバーセンスの大半がこの作品に萌芽し、装着され、解離されていったのだ。ギブスンがその試みをすべて言語でこなしたことにはただただ脱帽するばかり、それが千葉シティでおこっていて、場末にニンセイ(仁清)などという治外法権区、チャツボ(茶壺)という変てこバーもあるというのでは、こちとらは腰が浮くばかりだった。
≪09≫ きっと『ニューロマンサー』は生まれるべくして生まれた作品だった。そういう時代の足音が近づいていた。
≪010≫ 1979年に、デビッド・マーの『ビジョン』(産業図書)、ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(白揚社)、ラヴロックの『ガイアの時代』(工作舎)が揃い、それにちょっと自慢をいえば、ぼくが漆黒の反転文字による『全宇宙誌』(工作舎)を出していた。ウォークマン、PC8001、YMOが登場した年でもあった。ここが『ニューロマンサー』の出発点なのである。
≪011≫ ついで1980年、CD、CNN、トーキング・ヘッズ、キース・ヘリングとともにトフラーの『第三の波』(日本放送出版協会)がお目見得し、マトゥラーナとヴァレラの免疫学的自己創出理論が躍り出た。1981年は、エリッヒ・ヤンツの『自己組織化する宇宙』(工作舎)とMTVとウィザードリィ、1982年がATT分割とリドリー・スコットの《ブレードランナー》である。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きにしていた。まだ富士通のワープロ専用機「オアシス」が75万円もしていたころだ。
≪012≫ 1983年、パイオニア10号が太陽系を脱出したとき、地上ではHIVエイズウイルスが発見され、ファミコンとハッカーが登場していた。そして1984年、32ビットのマッキントッシュやTRONとともに『ニューロマンサー』が登場する。お膳立てはすべてできあがっていたのである。
≪013≫ タイトルの『ニューロマンサー』はニューロ・マンサー(神経的人間性)とニュー・ロマンサー(新浪漫派)が二重意味になっている。このあたりのネーミングも、当時のニューロダイナミックスやニューラルネットワークの研究前線を反映していた。
≪014≫ 作者のウィリアム・ギブスンはぼくの4つ下だから、ほぼ同世代である。ベトナム戦争の渦中にぶつかり、兵役を逃げたくてカナダに移住すると、ヒッピーやティモシー・リアリーやLSDやロックによるカウンターカルチャーを浴びた。
≪015≫ 1977年ごろからSFを書き出したようで、そうだとしたらパンクロックが歌枕になっていたはずだが、82年に書いた短編『クローム襲撃』(ハヤカワ文庫SF)が注目されると、そのまま『ニューロマンサー』に突入していった。その勢いはそのまま『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライヴ』(ハヤカワ文庫SF)のスプロール三部作になった。
≪016≫ サイバースペース(ギブスン自身の造語)に意識ごとジャック・インするという発想は新しいものではないけれど、「ガジェット」と総称される電脳界の道具立てにけっこう徹底したせいで、ぶっちぎりのSFスタイルを確立させた。なぜギブスンにそれができたのかはわからないが、1980年代前半に生命・情報・機械の区別がアップル・コンピュータや《ブレードランナー》やロックミュージック・シーンによって擬態的な重合をはたしつつあったこと、それらがハッキング・テクノロジーと裏腹のリバース・エンジニアリングにもとづいていたこと、もはや官能がマン・マシーン化しつつあったことが、大きかったのだろうとおもう。
≪017≫ ギブスンより思想的に正当かつ過激で、どこかに電脳ヒューモアを介入させているのが、ギブスンと『ディファレンス・エンジン』(ハヤカワ文庫SF)を共作したブルース・スターリングである。
≪018≫ セルビア人の作家ジャスミナ・テサノヴィッチと結婚してからはベオグラードに住んでいた。もともと父親の仕事の関係でインドなどの海外生活が多かったらしい。
≪019≫ 作品は、香ばしさには欠けるものの、いずれも読みごたえがある。逃げないのだ。『ニューロマンサー』の翌年に発表された『スキズマトリックス』(ハヤカワ文庫SF)は人類の宇宙進化を追うというSFの王道のサイバーパンク化を試みていて、好ましかった。無数のスペース・コロニー上で進化(分化)をしていった人類が生物機械的な変容をとげつつ、どんな生︲情報系をコミュニケートしていくのかという設定で、月の衛星軌道コロニーの住人のリンジーが、ノマド的な遍歴をする物語になっている。
≪020≫ どこかで書いていたか話していたのかとおもうが、スターリングのSFの師は60年代のJ・G・バラードで、その手法のルーツはマックス・エルンストやウィリアム・バロウズだった。主題をつねに人間の思考動向におき、組み立てはコラージュやカットアップやサンプリングを駆使する。きっとスターリングは「メディアとしてのサイバーパンク」を追求したかったのである。だから、今日のメディアの有様にはそうとう失望しているはずだ。多くのメディアがデッドメディアに見えていた。
≪021≫ 今日は2000年6月2日である。そこかしこに20世紀最後の黄昏がたちこめているはずだが、事態はぶじぶじと停滞しきっていて最悪だ。ポストモダン思想とサイバーパンクが何かを費いはたして「からっきし」を露呈させたと言われかねまい。
≪022≫ そんなふうに感じるとしたら、主題と主観によって社会や世界を見ようとしすぎたからだろう。これではすぐに「からっきし」がやってくる。そうではなくて、方法の世紀が始まろうとしていると見るべきなのである。主題の世紀がヴァニシング・ポイントに向かっていて、これに代わって「方法」を語る時が来ていると思えばいいのだ。
≪023≫ ポストモダン思想はともかくとして(こちらからも方法だけを探り出したほうがいいが)、サイバーパンクから移植されるべきは「準同型」や「擬同型」の方法思想というものだろう。“homo-morphism”や“quasi-homo-morphism”である。
≪024≫ すでにSF界ではさまざまな試行がされてきた。たとえばトマス・ピンチョンの『V.』(1963)ではVを捜すハーバート・ステンシルが収集した1898年からの雑多な情報集積が、ウィリアム・バロウズの『ワイルド・ボーイズ』(1971)ではバラバラに切り刻まれた文章がカットアップ手法によって組み替えられ、別様の可能態をあらわしうることが告げられていた。
≪025≫ サイバーパンク作品でも、ヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(1981)やルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(1982)が、脳に直接接続された部品やそれにつながるガジェットによって、準同型や擬同型がおこることを描いていた。ぼくがギブスン以上にうまいと感心したグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』(1985)では、DNAの再起動プログラムが「血」にまじっている。こういう試みは、そもそもが21世紀的なポストモダンでサイバネティックなヴァーチャル=リアルを標榜した「もどき」の手法なのである。もっと明解には大友克洋が『AKIRA』(1982)においてその相互擬体力を描ききっていた。文学史としては巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房)が解説してくれている。
≪026≫ 主題ではなく方法であるということは、方法の本質がアナロギア・ミメーシス・パロディアにあるのだから、事態は「ほんもの」と「にせもの」の見分けがつかず、生体と擬体と機体の区別が複雑に組み合わさり、かつての生命の機構が生︲情報系としてウイルスやミトコンドリアを探りあてていったように、外系と内系とが混ざっていくということなのである。いやいや、思想や文学を持ち出さずとも、この方法はすでにアートやポップスやファッションにおいて擬かれていた。
≪027≫ サイバーパンク。悪かろうはずがない。マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドが仕掛けたセックス・ピストルズからして、パンクは高度情報社会の裏道にどうしても必要なものだった。それはそもそもにしてファッションであり、ラディカル・スタイルなのである。だとしたら、以上の話はすべからく着脱自在でなければならないはずだった。今後のAIやロボットがサイバーパンクをいたずらにハードエッジにしていかないことを、希いたい。
≪028≫ 参考¶ウィリアム・ギブスンには『カウント・ゼロ』『クローム襲撃』(いずれもハヤカワ文庫)『ヴァーチャル・ライト』(角川文庫)などの著作もある。 またギブスンはブルース・スターリングと組んでも傑作を発表している。その代表作が千夜千冊0008『バベッジのコンピュータ』でも紹介した『ディファレンス・エンジン』である。
≪01≫ 1972年の初夏、暗緑色の函に入った『ダンセイニ幻想小説集』という本が書店の片隅に出現した。 松村みね子の翻訳で知られたダンセーニの『光の門』や『山の神々』が、一部の熱狂的なファンを沸かしたのは昭和初期のことである。以来、ダンセーニは『二壜のソース』などの異色ミステリー作家として、ときに「ミステリ・マガジン」などに紹介されるだけだった。それ以外は誰もダンセーニなどを噂にしなかった。ただ一人、稲垣足穂だけがしきりにダンセーニを口にし、文章のそこかしこに引いていた。
≪02≫ 松村みね子の翻訳で知られたダンセーニの『光の門』や『山の神々』が、一部の熱狂的なファンを沸かしたのは昭和初期のことである。以来、ダンセーニは『二壜のソース』などの異色ミステリー作家として、ときに「ミステリ・マガジン」などに紹介されるだけだった。それ以外は誰もダンセーニなどを噂にしなかった。ただ一人、稲垣足穂だけがしきりにダンセーニを口にし、文章のそこかしこに引いていた。
≪03≫ それが突如として『ダンセイニ幻想小説集』なのである。ぼくは躍りあがってこの本を手にし、まず、誰がこんな企画をたてたのか、翻訳者が誰なのか、まっさきに「あとがき」を読んだ。なんと40ページわたる「苦悶と愉悦の幻想軌跡」という濃厚な解説がついている。読んでみて新しい風を感じた。言葉づかいも70年代っぽくなっている。こういうことを書ける男が日本にいることに驚き、その男がこともあろうにダンセーニの解説に稲垣足穂をさえ紹介しようとしていたことに狂喜した。
≪04≫ これがぼくの荒俣宏との最初の出会いであった。 あまりに歓喜がすぎて、ぼくはすぐに荒俣宏を訪ねることになる。日魯漁業の計算機センターだかにいた彼は、室内ではパンチカードと格闘しながら、外ではビラを配っていた。組合運動だったのだろうか。
≪05≫ 待ち合わせた三原橋の角の喫茶店にあらわれた彼は、まさにケルト神話に出てきそうな大男であった。そして小さな椅子に窮屈そうに坐るなり、「えっ、ほんとに松岡さんですか、『遊』の松岡さんですよね」と素っ頓狂な声をあげた。ぼくは前年の夏に『遊』を創刊したばかりだったのである。「そうすか、うれしいなあ」と彼は笑いながら不思議そうな顔をしていた。ぼくも笑いながら「すごいね。だから会いにきたんです」と言った。すぐに荒俣宏が『遊』の執筆陣に加わったのはいうまでもなかった。
≪06≫ 本書は、そのロード・ダンセーニのモダン・クラシックスの古典『ペガーナの神々』のほうである。『幻想小説集』も読んでもらいたいが、まずは『ペガーナの神々』だ。やはり荒俣宏が翻訳している。
≪07≫ この薄明の神話以前の物語のはじまりは次のようになっている、「まだこの世がはじまらない前の、深い深い霧のなかで"宿命"と"偶然"とが賽をふって勝負をきめたことがあった」。
≪08≫ サイコロをふってどうしたかといえば、そこがこの物語の世界未然性とでもいうべきものなのだが、サイコロで勝った者はマアナ・ユウド・スウシャイのそばに行けることになり、そこでこう呟けるのだ。「さあ、わしのために神々をつくってもらおう」。
≪09≫ これは、有名な神々が生まれる以前の無名の小さな神々たちの物語なのである。だからマアナ・ユウド・スウシャイがどのようなものなのかは、まったくわからない。彼はペガーナで大いなる休息をしているだけで、ときにスカアルの太鼓に耳を傾け、またうたた寝をするだけなのだ。けれどもこのいつ終わるともしれないスカアルの太鼓が鳴りやむと、スカアルは「無」に向かって退場し、やっと主人公とおぼしいマアナ・ユウド・スウシャイの仕事が始まるのであった。
≪010≫ マアナは神々をつくる。「時」のまんなかにつくる。神々はやがて手話で話をはじめ、その手話の印相を止めては、それをひとつずつ太陽やら月やら星やらにしていった。この場面は手話文化に携わる人々がもっと注目してよい場面であろう。
≪011≫ ここから物語はえんえんと続く。えんえんと続くけれど、ケルト神話や北欧神話を下敷きにしているものの、ダンセーニが綴ることはまったく予想がつかない。
≪012≫ たとえばキブは手で言葉をつくらずに口で言葉をつくったために、すべての神から呪われる。また「時」やリンパン・タンは遊びをつくってそこに「死」をまじらせたし、ヨハルネト・ラハイは夢と幻を紡ぎだした。こんなふうに世界をつくりながら話が進むので、ダンセーニは忙しい。結局、物語はペガーナが終末に近いところまで進んでくるのだが、どうやらそこはふたたび「無」だか「薄明」だかに似ていて、物語はくるりと宙返りしてしまうのだ。
≪013≫ 本書にはもうひとつ「51話集」が併録されていて、こちらはダンセーニの特技であるコント集になっている。神話っぽいところもたくさんあるが、そうした神話っぽい主人公がそのへんの街頭に出て遊んでいることもある。こんなコントである。
≪014≫ ひとつ。ある夕刻、名声がガス燈の下で悪名に「あなたはだれです!」と声をかけたところ、「わたしは名声よ」と言うなりキャッと言って立ち去った。
≪015≫ ふたつ。ロンドンのピカデリーで変なことをしている連中がいると思って声をかけたら、「ピカデリーを縮めいやるのさ」と言って、根こそぎもっていってしまった。
≪016≫ みっつ。敬虔な地震が、上でなにやら春のように騒いでいるので遠慮していたら、かれらはみんな帰ってしまった。「すると、やつらは神々じゃなかったんだ」。
≪017≫ まさに稲垣足穂が『一千一秒物語』にしたくなったようなテイストばかり。ただし、このころのダンセーニはまだ話のはこびに磨きがかかっていない。いま紹介した三つのコントは、ぼくが勝手にタルホ流にというか、のちのダンセーニふうに、コンデンセーションをした。あしからず。
≪018≫ さて、1878年にアイルランド第三の旧家に生まれたダンセーニは、本名をエドワード・ジョン・モートン・ドラックス・ブランレットという。
≪019≫ エメラルドの島とよばれたターラの丘陵のミース州には、ノルマン人が攻めこむ以前からアイルランドに先住していた一族の居城がいくつかあった。そのひとつがダンセーニ城である。エドワードはロンドン生まれでイートン校と英国陸軍士官学校に学んだが、やはりその後は城主となってケルトの古典文化の芳香を体いっぱいに吸って遊ぶ。死ぬまで第18代男爵だったため、ロード・ダンセーニなのである。
≪020≫ 生まれついての素封家で、アイルランド文化に矜持をもっていたから、鷹揚で交友も広い。マーテロ塔でジェイムズ・ジョイスと一緒に暮らしていたオリヴァー・ゴーガティ、ダブリンの美術学校を出たウィリアム・バトラー・イエーツ、アイルランド民話研究でのちにイエーツとアベー座創設にかかわったイザベラ・グレゴリー夫人らは、ダンセーニがとくに親しく遊んだ「アイルランド・ルネッサンス運動」ともいうべき文芸復興の仲間たちである。もっともダンセーニはそんな交流がなくとも、ケルト・ルネッサンスの伝説から出てきたような男だった。
≪021≫ そのケルティックなダンセーニの処女物語集が『ペガーナの神々』になる。だからここには、その後のダンセーニ物語に登場するたいていの神々や変な人格神が顔を出している。
≪022≫ ペガーナはダンセーニがつくりあげた場所の感覚である。 どこにもそんな国はない。伝統神話にも出てこない。 けれどもアイルランド人ならば、そんな場所がどこかにありそうだとすぐにおもえる場所である。ペガーナはそこで登場を待っている物語の人物たちのための幕間のようなところ、出番の前に休んでいるところなのである。
≪023≫ これは荒俣宏君とも20年ほど前に話しあったことなのだが、ペガーナという言葉には「無への回帰」を象徴するスペルとシラブルが含まれていて、それを口でころばすと、アイルランドのミントの味がする。が、それもちょっとのあいだだけで、やがて消えていく。
≪024≫ そうなのだ。ペガーナはダンセーニがつくった「無に近いほど薄い薄い当初の国」なのである。そこには信仰以前の、霊気伝導以前の、いわば「存在の薄明現象」というものがある。
≪025≫ ダンセーニを読むことは、この「存在の薄明現象」に触知することである。薄い国に薄い物語がうつろっていくことを眺めることである。そこに、ひょっとしたらどこからかやってきた遊び好きな神々がいる。それらのアリバイはまことにおぼつかないが、それゆえに、まことにまことに根本偶然に富んだ原初の物語の秘密への参入を促してくれている。
≪026≫ 参考¶本書は『ダンセイニ幻想小説集』(創土社)ともども、古本屋で見つけるしかない。ダンセーニは戯曲の名手でもあって、これはどこかメーテルリンクに通じるものがあった。一方、幻想小説『エルフランドの女王』(月刊ペン社・絶版)などは、幻想怪奇なハワード・ラヴクラフトはもとより、ぼくが好きな短編作家フリッツ・ライバーなどに影響を与えた名作。
≪01≫ サルトルは「自分入りの未完了」が好きだ。「自分入りの未完了」のために全力を注ぐ。一九五二年に「ジャン・ジュネ全集」が刊行されたとき、その第一巻はジャン゠ポール・サルトル著『聖ジュネ――演技者と殉教者』になった。六〇〇ページ近い大部のサルトルの一冊がジュネ全集の第一巻を飾ったのである。
≪02≫ 前代未聞の編集構成だった。中身はジュネに対する最高のオマージュと分析ではあったが、随所に全文学史や全表現史の試みの未熟がちりばめられていて、あたかもジュネのレンズを通してサルトルが挑むべき「未完了」が、騒然華麗に立ち上がっているかのようだったのである。
≪03≫ サルトルは「転用・転位」「流入・流出・流用」「横断・横領・横行」が好きだった。ありったけの知を動員するためにそうした。はっきりいえば「乗っとり」の天才だ。これはサルトルが状況(situations)そのものであろうとしたからだろうと思う。ケアンズ゠スミスに『遺伝的乗っ取り』(紀伊國屋書店)があって、鉱物的生命が情報高分子としての生命になるにあたってジェネティック・テイクオーバーをしつづけたという仮説を発表したことがあるのだが、サルトルを読んでいるとしばしばこの仮説を思い出す。
≪04≫ 今夜、初めてサルトルについて書く。学生時代から人文書院のシリーズをこつこつと集め、小説は『嘔吐』を始めとしてそれほど好きではなかったが(『蠅』や『アルトナの幽閉者』や『恭しき娼婦』のような戯曲はそれなりにおもしろかったが)、それでも何かにつけてはサルトルを読んできたわりに、なぜにまたサルトルについて一度も何も書いてこなかったのかと、いま自分で自分を訝っている。
≪05≫ これはちょっとまずかったかなとも思っている。というのも、サルトルがそれなりに周辺で読まれている時期にサルトルを読み、その後にサルトルがまったく流行しなくなってからは(ありていにいえば、フランス現代思想が流行してからは)、ぼく自身はまだサルトルをときどき読んでいたのに、まるで周囲を憚るかのように、サルトルについての発言を何もしてこなかったのだ。
≪06≫ だからこれからいまさらに書くことは、ぼくがサルトルに長年にわたって抱いてきたごくごく個人的な印象で、今夜のためにあらためて読み直して書くものではない。
≪07≫ ぼくがサルトルを読み始めたのは学生マルクス主義の只中にいたときである。そのころサルトルを読むといえば「疎外とは何か」「社会に参加するとは何か」を考えることに等しかった。
≪08≫ 何から読んだか思い出せないが、ソ連の官僚制スターリン主義をどのように見ればいいかということが学生運動家たちの話題の最前線になっていて、埴谷雄高が『フルシチョフ主義の秘密』を書いたときみんなが焦り、そうか、問題はスターリン主義からはやくもフルシチョフ主義にまで進んでいたかという気になったことをうっすらおぼえているので、その前にすでにサルトルの『スターリンの亡霊』を読んでいたのだったろう。次が『弁証法的理性批判』で、その次が『ユダヤ人』だったろうか。
≪09≫ そのころ「疎外」については、公式マルクス主義見解が「資本主義社会では人間の生き生きとした主体性が根底的に疎外されている」という見方をとっていた。そこでは「物質が歴史の主導権を握っている」という唯物論が王座を占めていて、これでは弁証法的な歴史観そのものから人間が除外されかねない。そのため、ルカーチやルフェーヴルやサルトルはもっと存在くさい弁証法的思考をあらためて確立し、そこに人間を含む社会の全貌の流れをくみこもうとしていた。
≪010≫ かれらは、マルクス主義が弁証法を発展させたはずなのに、その当のマルクス主義のなかで弁証法が歪んでいったとみなしていたのである。とくにサルトルはエンゲルスが『自然弁証法』において人間を欠落させたことをこっぴどく批判した。へえっ、サルトルってやるもんだと思った。そんなとき『スターリンの亡霊』を読んだのだったと憶う。スターリニズムに対する激越な批判は、学生マルクス主義の末席にいたぼくには衝撃的であり、勇気ある発言だと思えた。もっとも、当時の学生のあいだでサルトルに人気があったのは別の理由だった。
≪011≫ 当時の学生にサルトルがウケた理由は「アンガージュマン」(engagement)にあった。社会参加とは何かということだ。第二次世界大戦が終わった一九四五年の秋、サルトルはメルロ゠ポンティ、ボーヴォワール、レイモン・アロンらと雑誌「現代」を創刊し、サルトルがその編集長になった。このときサルトルが掲げたスローガンが「アンガージュマン」である。
≪012≫ 人間はそもそも自由な存在だと見られているが、サルトルはそうではなくて、人間は時代と社会の状況に「拘束されている」と見た。自由はこの拘束とぶつかることからしか生まれない。そうだとすれば哲学者や学者や作家も、時代状況と徹底してかかわっていくことからしか、その使命を見出せないのではないか。雑誌「現代」はそこを訴えようとしていた。
≪013≫ サルトルは文学者としてもこの課題を実践すべきだと考え、大作『自由への道』にとりくんだ。哲学教師マチウ・ドラリュが第二次世界大戦下のパリで何かを「待機」していることを感じながらも葛藤にさいなまれ、最後になってふと気がつくと数人の兵士と教会の鐘楼に立てこもってドイツ軍をくいとめていたという物語である。
≪014≫ 七面倒くさいデキの作品だが(つまりヘタクソな作品だが)、サルトルはその評判の如何にかかわらず、他方で戯曲『恭しき娼婦』を発表して、今度はアメリカの黒人差別の実態と白人の横暴の意識を娼婦の目で暴き、つづいて休むまもなく『文学とは何か』を問うて、作家にアンガージュマンをよびかけた。
≪015≫ 日本でも江藤淳が『作家は行動する』(講談社文芸文庫)を書いて、このサルトルの呼びかけに応えていた。南米ペルーのバルガス゠リョサもこれに応じた。あのころは、このアンガージュマンが大流行していたのである。「おい、松岡、あしたのデモにはアンガージュマンしろよ」というふうに。
≪016≫ こうして、ぼくは実存主義とはずいぶん遠いところからサルトルに入っていったのである。もともと実存主義(existentialisme)はキルケゴールがデンマーク語で「実存」(現実存在)とした「続けて外に立つ者」(ex-sistere)からフランス語になった用語で、日本語にしたのは九鬼周造だった。そのころはそうした哲学史的事情に関心がなく、ただただ実存主義という言い方がどこかうさんくさく感じられていたように憶う。
≪017≫ 原因は『嘔吐』にあった。一九三一年、サルトルは『人間存在の偶然性に関する弁駁書』という抽象的なタイトルの思索的エッセイを書いた。これを読んだボーヴォワールが「言っていることはおもしろいのに、書き方がつまらない」と指摘して、それをサスペンス風の推理小説のように仕上げることを勧めた。そういうヒントに従うところは意外に柔順なサルトルは(惚れた女だからだろうが)、さっそくこれを書きあらためて、アントワーヌ・ロカンタンという主人公をつくりだし、とぎれとぎれのロカンタンの日記として作品にした。これが『嘔吐』である。
≪018≫ ロカンタンは三十歳の独身の学者という設定になっていて、以前は世界各地を冒険する活動的な若者だった。けれどもいまはブーヴィルという港町で静かに暮らし、ある人物の伝記のための資料を調べている。
≪019≫ そのロカンタンが自分の中でおこっているあることに気がつく。海岸でなにげなく拾った小石を見て吐き気がしたり、カフェの給仕のサスペンダーを見て気分が悪くなったり、ついには自分の手を見てもおかしくなる。そしてここからが現代文学史上ではそれなりに有名な場面になるのだが、あるとき公園のベンチに坐って目の前のマロニエの木の根っこを見たとき激しい嘔吐に襲われ、その嘔吐が「ものがそこにあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気がついていく。サルトルに言わせれば、この嘔吐が「実存に対する反応」だったのである。
≪020≫ ざっとこういう話なのだが、ぼくはこの展開に呆れ、ばかばかしく感じた。とても大江健三郎のようには、この作品を手放しで実感することができない。サルトルを応援しきれない。サルトルはやりすぎだ。そういう印象だった。それがいつしか実存主義の考え方にも親しめるようになっていた。その理由を書くのはちょっとややこしくなりそうなのだが、ごくあっさりと言うのなら、サルトルが「内面性」や「本質」というものに明確な拒否を突きつけていることを知ったからだった。
≪021≫ サルトルの実存哲学は、人間という存在に「本質」があると思いこむ思考法を拒否するところから出発している。そのかわり、世界や社会にポンと投げ出されてしまった「裸の実存」から思索を開始しようとした。ここまではハイデガーそっくりなのだが、そのとき、人間の「内」へ向かうのではなく「外」へ向かおうとした。
≪022≫ サルトルは自分を「私の外」へ関係づけることによって関係的な自己を発見する試みを執拗に展開していたのだ。ぼくもそれらを読むうちに、そういうことを感じてきて、この「外部と関係する」という見方に新しさをおぼえたのだった。
≪023≫ ただし『嘔吐』からはそのようなメッセージは伝わらない。アントワーヌ・ロカンタンがマロニエの根っこに嘔吐したのは物自体の実存を捉えたものだというけれど、また物自体にいちいち意味を見出そうとする者たちへの批判だとはいうけれど、そのように指摘したのではかえってサルトルの実存主義は狭くなる、つまらなくなる。サルトルはあくまで「人間」か「意識」を問題にすべきだったのである。唯物論の訂正をしたからといって、物自体に言及するべきではなかった。だいたいf64の写真家エドワード・ウェストンの木の根っこのモノクローム写真は、いくら見たって嘔吐を催さない。
≪024≫ というわけで、ぼくは『嘔吐』で吐き出された実存ではなく、内面の多様性を脱却しようとしたサルトルの見方のほうに新しさを感じたのである。
≪025≫ 総じていえば、他の多くの哲学者や思想家と同様に、サルトルも「意識とは何か」ということを追究しつづけた哲学者である。ただし、ここは強調しておいたほうがいいのだが、サルトルは意識の中身をまったく問題にしなかった。あえて「意識は世界との関係である」と突っぱねた。
≪026≫ 一九四五年の『実存主義はヒューマニズムである』には、有名なサルトルのテーゼが謳われている。「実存は本質に先行する」というものだ。ここにコップがあるとして、コップはそれがどのように使われるかという「本質」(essence)を前提にしてそこに存在する「実存」(existence)である。しかしながら人間は、何が「本質」かということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのである。
≪027≫ たとえばキリスト教や学校が教える人間像はそういうものではない。まるでコップのように、もともと人間には「本質」があるのだからそれを発見しなさい、それをめざしなさい、それを探求しなさいと教える。これはまったくおかしいのではないか。逆なのではないか。サルトルは「実存が本質に先行する人間像」をこそ探求すべきだと考えた。そこから新しいヒューマニズムを樹立しようと考えた。もっとも、このような見方がうまく樹立したかどうかとなると、おぼつかない。なぜそんなことを考えるようになったのかということは、サルトルの日々から察するしかない。
≪028≫ サルトルは父親を知らない子であった。一歳で軍人の父親は死んだ。母親はわが子を連れて実家に戻るのだが、ここでは母子はよそものだった。少年サルトルはませた。やむなく『ラルース百科事典』とエクトール・マロの『家なき子』とフローベールの『ボヴァリー夫人』で育ったようなもので、そこへ再婚があって見知らぬ義父がやって来たものだから、よけいにませた。このことはサルトルの思想形成のどこかに深くかかわっている。
≪029≫ サルトルが斜視であったことも、その思想のどこかの根幹をゆさぶった。「他人にどのように見られているか」ということを考え続けた。これは十円ハゲができたとか、顔を傷つけられたとか、スランプが続いているということとはかなりちがっている。生まれついてのスティグマだ。内面ではなく外見の傷だ。こういうコンプレックスを気にしすぎたためか、少年サルトルと青年サルトルはあえて逆にふるまった。つねに大胆に、行動的に、勝手にふるまおうとした。
≪030≫ そのひとつが十歳で入ったリセにおいて、サルトルが親友としてポール・ニザンを選んだことにあらわれる。ニザンとはその後にわたってずっと濃密な「奇妙な友情」をもちつづけるのだが、サルトルはニザンたちと徒党を組み、煙草をくゆらし酒を飲み、授業をさぼって、わざと他の生徒から恐れられるようにした。リセでのニザンは学校一のダンディだったのである。
≪031≫ のちにニザンはコミュニストとしての活動や小説『番犬たち』で知られ、フランス共産党から裏切り者扱いもされるのだが、サルトルは果敢な弁護をした。日本ではニザンの人気は高く、『ポール・ニザン著作集』全一一巻(晶文社)が早くに揃っている(ちなみにエマニュエル・トッドはニザンの孫にあたる)。
≪017≫ 原因は『嘔吐』にあった。一九三一年、サルトルは『人間存在の偶然性に関する弁駁書』という抽象的なタイトルの思索的エッセイを書いた。これを読んだボーヴォワールが「言っていることはおもしろいのに、書き方がつまらない」と指摘して、それをサスペンス風の推理小説のように仕上げることを勧めた。そういうヒントに従うところは意外に柔順なサルトルは(惚れた女だからだろうが)、さっそくこれを書きあらためて、アントワーヌ・ロカンタンという主人公をつくりだし、とぎれとぎれのロカンタンの日記として作品にした。これが『嘔吐』である。
≪018≫ ロカンタンは三十歳の独身の学者という設定になっていて、以前は世界各地を冒険する活動的な若者だった。けれどもいまはブーヴィルという港町で静かに暮らし、ある人物の伝記のための資料を調べている。
≪019≫ そのロカンタンが自分の中でおこっているあることに気がつく。海岸でなにげなく拾った小石を見て吐き気がしたり、カフェの給仕のサスペンダーを見て気分が悪くなったり、ついには自分の手を見てもおかしくなる。そしてここからが現代文学史上ではそれなりに有名な場面になるのだが、あるとき公園のベンチに坐って目の前のマロニエの木の根っこを見たとき激しい嘔吐に襲われ、その嘔吐が「ものがそこにあるということ自体」がおこす嘔吐であったことに気がついていく。サルトルに言わせれば、この嘔吐が「実存に対する反応」だったのである。
≪020≫ ざっとこういう話なのだが、ぼくはこの展開に呆れ、ばかばかしく感じた。とても大江健三郎のようには、この作品を手放しで実感することができない。サルトルを応援しきれない。サルトルはやりすぎだ。そういう印象だった。それがいつしか実存主義の考え方にも親しめるようになっていた。その理由を書くのはちょっとややこしくなりそうなのだが、ごくあっさりと言うのなら、サルトルが「内面性」や「本質」というものに明確な拒否を突きつけていることを知ったからだった。
≪021≫ サルトルの実存哲学は、人間という存在に「本質」があると思いこむ思考法を拒否するところから出発している。そのかわり、世界や社会にポンと投げ出されてしまった「裸の実存」から思索を開始しようとした。ここまではハイデガーそっくりなのだが、そのとき、人間の「内」へ向かうのではなく「外」へ向かおうとした。
≪022≫ サルトルは自分を「私の外」へ関係づけることによって関係的な自己を発見する試みを執拗に展開していたのだ。ぼくもそれらを読むうちに、そういうことを感じてきて、この「外部と関係する」という見方に新しさをおぼえたのだった。
≪023≫ ただし『嘔吐』からはそのようなメッセージは伝わらない。アントワーヌ・ロカンタンがマロニエの根っこに嘔吐したのは物自体の実存を捉えたものだというけれど、また物自体にいちいち意味を見出そうとする者たちへの批判だとはいうけれど、そのように指摘したのではかえってサルトルの実存主義は狭くなる、つまらなくなる。サルトルはあくまで「人間」か「意識」を問題にすべきだったのである。唯物論の訂正をしたからといって、物自体に言及するべきではなかった。だいたいf64の写真家エドワード・ウェストンの木の根っこのモノクローム写真は、いくら見たって嘔吐を催さない。
≪024≫ というわけで、ぼくは『嘔吐』で吐き出された実存ではなく、内面の多様性を脱却しようとしたサルトルの見方のほうに新しさを感じたのである。
≪025≫ 総じていえば、他の多くの哲学者や思想家と同様に、サルトルも「意識とは何か」ということを追究しつづけた哲学者である。ただし、ここは強調しておいたほうがいいのだが、サルトルは意識の中身をまったく問題にしなかった。あえて「意識は世界との関係である」と突っぱねた。
≪026≫ 一九四五年の『実存主義はヒューマニズムである』には、有名なサルトルのテーゼが謳われている。「実存は本質に先行する」というものだ。ここにコップがあるとして、コップはそれがどのように使われるかという「本質」(essence)を前提にしてそこに存在する「実存」(existence)である。しかしながら人間は、何が「本質」かということを前提にしないで生まれてきてしまった「実存」なのである。
≪027≫ たとえばキリスト教や学校が教える人間像はそういうものではない。まるでコップのように、もともと人間には「本質」があるのだからそれを発見しなさい、それをめざしなさい、それを探求しなさいと教える。これはまったくおかしいのではないか。逆なのではないか。サルトルは「実存が本質に先行する人間像」をこそ探求すべきだと考えた。そこから新しいヒューマニズムを樹立しようと考えた。もっとも、このような見方がうまく樹立したかどうかとなると、おぼつかない。なぜそんなことを考えるようになったのかということは、サルトルの日々から察するしかない。
≪028≫ サルトルは父親を知らない子であった。一歳で軍人の父親は死んだ。母親はわが子を連れて実家に戻るのだが、ここでは母子はよそものだった。少年サルトルはませた。やむなく『ラルース百科事典』とエクトール・マロの『家なき子』とフローベールの『ボヴァリー夫人』で育ったようなもので、そこへ再婚があって見知らぬ義父がやって来たものだから、よけいにませた。このことはサルトルの思想形成のどこかに深くかかわっている。
≪029≫ サルトルが斜視であったことも、その思想のどこかの根幹をゆさぶった。「他人にどのように見られているか」ということを考え続けた。これは十円ハゲができたとか、顔を傷つけられたとか、スランプが続いているということとはかなりちがっている。生まれついてのスティグマだ。内面ではなく外見の傷だ。こういうコンプレックスを気にしすぎたためか、少年サルトルと青年サルトルはあえて逆にふるまった。つねに大胆に、行動的に、勝手にふるまおうとした。
≪030≫ そのひとつが十歳で入ったリセにおいて、サルトルが親友としてポール・ニザンを選んだことにあらわれる。ニザンとはその後にわたってずっと濃密な「奇妙な友情」をもちつづけるのだが、サルトルはニザンたちと徒党を組み、煙草をくゆらし酒を飲み、授業をさぼって、わざと他の生徒から恐れられるようにした。リセでのニザンは学校一のダンディだったのである。
≪031≫ のちにニザンはコミュニストとしての活動や小説『番犬たち』で知られ、フランス共産党から裏切り者扱いもされるのだが、サルトルは果敢な弁護をした。日本ではニザンの人気は高く、『ポール・ニザン著作集』全一一巻(晶文社)が早くに揃っている(ちなみにエマニュエル・トッドはニザンの孫にあたる)。
≪032≫ サルトルの、このような故意に悪ぶった無頼行動はずっと続いたらしく、それがしだいに女性にも及んでいった。二十歳のときにはトゥルーズに住む薬局の年上の女性にぞっこんになり、夜中に薬局に忍んでは振りまわされることを好んだ。二四歳で大学教授の資格試験に合格するのだが、あいかわらず授業はほったらかしで、下級生の知的で美しいシモーヌ・ド・ボーヴォワールに夢中になった。
≪033≫ けれどもサルトルはなぜか(なぜかはわかるが)、周囲の誰とも同等でなければいられないようなのだ。そこで一九二九年の秋、ルーブル美術館のベンチに腰掛けて、ボーヴォワールに二年間だけの「契約結婚」を申し込む。二年間だけは二人でパリに住み、それがすぎれば二人とも自由に行動してもいい。二人が世界のどこかで再会したらそのまま一緒に共同生活をしようという、歯が浮くような申し出による「契約」だった。
≪034≫ このサルトルの提案は、いまではまったく虫のいい「男主義まるだし」の提案だったというふうに評価されている。フェミニスト側からのクレームだけではなく、文学批評家もそんなことを言う。しかしボーヴォワールはこれをすっかり引き受けた。以来、二人は生涯にわたってパートナーシップを続けるのだが、いっときサルトルは自分の提案を棚にあげて、正式な結婚を申し込んだ。これをボーヴォワールは毅然と断った。やむなくサルトルはその後は自由な女性との恋愛をできるかぎりボーヴォワールに話すようになるのだが、ボーヴォワールにとってはこれはまことに面倒なものだった。
≪035≫ ようするにサルトルという男は複雑な手立てがめっぽう好きで、誤解の評判や面倒なことをちっとも厭わない男だったのである。しかも、その複雑で面倒なことこそが、シンプルで自由なことだという変な確信をもちつづけた。もっとはっきりいうなら、サルトルの「負い目」は、すべて外洋に旅立つための航海術の武器となったのだ。
≪036≫ まあ、こんなことだけでサルトルの思想の背景を語れはしないけれど、だいたいはこんな感じなのである。
≪037≫ さて一九三一年のこと、サルトルはリセの哲学教師になるのだが、そこでレイモン・アロンからドイツにはフッサールという凄い哲学者がいて、現象学というものを深めていると聞く。ここからのサルトルを見ると、以上の背景のスケッチがまんざら関係がないともいえなくなってくる。このことを聞いて矢も盾もたまらなくなったサルトルはすぐに現象学にとりくみ、あまつさえベルリンに一年間の留学をして、フッサール現象学を学ぶ。そしてこのときに「意識が直接に物に触れている」という哲学をおもいつく。実は『嘔吐』の草稿もこのときに書いていた。ボーヴォワールがそれがあまりに堅すぎるので小説仕立てにさせる前の草稿だ。
≪038≫ ここで注意すべきは、フッサールの現象学とサルトルの実存主義の相異点である。フッサールにおいては意識は現象学的に還元されたものであって、意識の本質を「何かについての意識」というところに特徴づけていた。フッサールはブレンターノを借りてそれを「志向性」とよぶ。それがサルトルでは、意識と世界との関係づけそのものが意識の実質になっていた。いいかえれば、サルトルは「意識」そのものではなく、意識が世界と接するときの仕方にこそ関心があったのだ。そこが現象学と実存主義が分かれるところであった。
≪039≫ サルトルにとっての、この仕方とは何だったかといえば、それが本書のタイトルにあらわれている「方法の問題」なのである。
≪040≫ サルトルが『方法の問題』を書いたのはまだマルクス主義に半ば好意をもち、半ば批判をもっていた時期のことである。それゆえ本書は「弁証法的理性批判・序説」という位置づけがされていた。
≪041≫ サルトルにとっての弁証法は、ヘーゲルの弁証法とは異なって、個人が自由な実践をしていく契機のことをいう。自身が搦めとられている状況から存在のレベルを止揚するための実践のことをいう。この実践的な弁証法を行使するために、サルトルは自己にまとわりつく理性と闘うことにした。この理性は近代国家がつくりあげた社会的理性というもので、マルクス主義にとっても打倒の対象になったものだが、サルトルにとっても唾棄すべきものとなった。
≪042≫ すでにのべたように、サルトルはここで内面には向かわない。外に向かってアンガージュマンを試みる。なんとかして関係化を試みる。そうすると、そこには一人の自己では御しきれなくなる「場」があらわれてくる。それをサルトルはさまざまな組織性だろうとみなした。サルトルが問題にした「方法」とは、このさまざまな組織と接したときの方法のことだった。
≪043≫ サルトルは疎外された組織を「集列」(série)ととらえた。そこに属すると単なる他者になってしまう組織性が集列である。そこではバスに並ぶ群れや列のように、モノに支配されざるをえない人間の姿が見えてくる。もしバスが何百台もあるのなら、人々はバスを待ちはしないし、並びもしない。サルトルは人々をこのような集列に向かわせるのは、そこに社会的な稀少性があるからだろうと判断した。こうして、これらの社会的心理的な集列からの離脱こそがサルトルの方法的課題になってくる。
≪044≫ ここから先、サルトルが考えたことをぼくは十全には追ってはいない。だからおおざっぱなことしか見当づけられないのだが、サルトルは集列からの離脱には意外なことが必要だと考えた。いったん「溶融的集団性」(groupe en fusion)が生まれることが必要だろうと考えたのだ。溶融とは集列が崩れて互いにバラバラの自由に向かって動いていくことをいう。
≪045≫ たとえば一七八九年におこったバスチーユ解放の動向だ。人々はバスチーユ監獄に向かって走り出し、解放されたバスチーユからは囚人も看守も民衆も一緒になってパリの中心への流れとなっていく。そこでは多くの自己が年齢や職業や給与の軛から解かれている。各自はそれぞれの私であるのに、そこには他者もなく、差別者もなく、また同一者というものもない。そうであるのならその溶融性を通したあとに、互いの人間があらためて新たな自己としてのつながりを発見することもあるにちがいない。
≪045≫ たとえば一七八九年におこったバスチーユ解放の動向だ。人々はバスチーユ監獄に向かって走り出し、解放されたバスチーユからは囚人も看守も民衆も一緒になってパリの中心への流れとなっていく。そこでは多くの自己が年齢や職業や給与の軛から解かれている。各自はそれぞれの私であるのに、そこには他者もなく、差別者もなく、また同一者というものもない。そうであるのならその溶融性を通したあとに、互いの人間があらためて新たな自己としてのつながりを発見することもあるにちがいない。
≪047≫ これはすこぶる変わった考え方である。自由に向かうには理性がいる。しかしその理性は自己を内面に向かわせるから、外に出る。外に出ると集列が待っている。そこをいったん離れて、それぞれの自己が溶けあうような体験をしなければいけない。けれどもそれで高揚しすぎないで、ちょっとは自己規制をして新たな自由をつかみ、その自由をもって新たな場をつくるべきである……。
≪048≫ ずいぶんまわりくどい。こういう社会的組織観はひどく可能性に乏しいものに見えてくる。 そのような刹那的な集団暴走のような最中に新たな自己発見がおこったり、そこに新たな方法の自覚がおとずれたりするとは思えない。あまりにサルトルは折紙をいじくりすぎているか、楽観しすぎているか、急ぎすぎている。案の定、メルロ゠ポンティはサルトルを批判し、多くの思想戦線もサルトルを嗤おうとした。
≪049≫ かくてサルトルはひたすら小集団の一員となって、自分のまわりにおこる溶融の実践を試みるしかなくなっていた。サン・ジェルマン・デ・プレのカフェに集ってきたジュリエット・グレコらの黒いとっくり首のセーターの集団は、こういう中から生まれてきたものだった。ゴダール、トリュフォーたちもいた。かれらは、メディアからは「実存主義の群れ」と噂されて話題になったけれども、だからといってそのことでサルトルの「方法の問題」が実証されたというわけではなかった。こうしてサルトルはしだいに孤立を深めていったのである。
≪050≫ ところが、ずいぶんたって予想外のことがおこったのだ。一九六八年五月のこと、パリのカルチェ・ラタンの学生暴動をきっかけに、フランスの若者たちが突如として解放を求めて一斉に走りはじめたのだ。いわゆる五月革命である。
≪051≫ この学生を烽火とした「溶融的事態」は一挙に世界に飛び火して、まず先進国の大学を襲っていった。ベルリンでもサンフランシスコでも、東京でも沖縄でも、学生たちは一斉に「集列」から離れはじめたのだ。バスチーユどころではなかった。それはまさに自主的な方法の模索への決断をあらわしているようだった。パリは「解放区」とよばれ、ルノーでは工場の解放がおこり、ド・ゴールはたちまち辞職解散に追いこまれた。日本では多くの大学でバリケードが築かれ、校舎が解放され、「全共闘の運動」が広がって、ついに東大は入学試験を中止せざるをえなくなった。
≪052≫ サルトルは五月革命をはじめとするいっさいの解放闘争めく動向に断固たる支持を表明し、激越なメッセージを世界に送りはじめた。けれども、学生たちはこの動向がかつてサルトルの言った「集列の解体」であり、「溶融の拡張」であるとは思っていなかった。かれらは勝手にそれぞれの集団のセクトを誇り始めたのだ。
≪053≫ そこへもうひとつの動向が重なった。同じ一九六八年の八月にソ連がチェコスロヴァキアに侵入し、「プラハの春」が蹂躙されたのである。これはサルトルが予想し、こうあってほしいと思っていたことだったのだろうか。
≪054≫ さて、ここから時代や社会がどのように動いたかは、サルトルのその後とともにわれわれが考えるべき問題になる。
≪055≫ たとえば、ベトナム戦争に対して立ち上がった民衆の動きは、以上の出来事と関係があったのか、なかったのかということがある。サルトルは一九七三年に民衆の意見を反映する「リベラシオン」という新聞を独力で発行しようとするのだが、それはどうなったのかということがある。サルトルはこのあと毛沢東主義に加担していくのだが、いったいそれはどういう意味だったのかということもある。そのマオイズムの行く先には何が待っていたのかということも油断ならない。日本でYMOが結成されたのはこの毛沢東主義への追随だったけれど、日本ではそうした感覚の動向はどうなっていったのかということも放ってはおけない。
≪056≫ あるいはまた、一九七九年にベトナム人がボートピープルとして国外脱出を企てて、それにサルトルはいちはやく支持をおくったのだけれど、そのボートピープル救済の運動はその後、さまざまなNPOとなり今日に至っているものの、それらはいったいサルトルの考え方とどこでつながっているのかということも、いまなお議論は出尽くしていない……等々。
≪057≫ こうしたことは、いまもってあまり検討されていないままにあるように思う。なぜなのか、理由をさがすのはそれほどむずかしくない。多くは「サルトルの誤り」として片付けられてしまったからだった。
≪058≫ しかし、はたしてそれですむものかどうかは、サルトルの思想的生涯とともにそろそろ振り返って根こぎされるべきである。たしかにいったんは、サルトルの終焉が「知識人の終焉」として語られたことはあったが(リオタールのように)、ここにはどうやらそれだけではすまないものがある。とくに残された問題は、いったいこれからは、どこに、何をもって「方法の問題」を見出せるかということなのである。
≪059≫ 二つほど付け加えておきたい。サルトルについてはぼくの読みの全体が「出し遅れの証文」みたいなものだから、まあ勘弁していただきたい。想像力と読書力についてのことだ。
≪060≫ サルトルに『イマジネール』という本があり、日本では『想像力の問題』などとして刊行されているのだが、ここに、われわれの想像力はアナロゴン(類同的代替物)をもって外側化されているという見方が提案されている。ちょっとおもしろい。想像力は思いついては消えていくのではなく、アナロゴン(この言い方は洒落てはいないが)として絵なり音楽なり文章なりとなって、ずっと維持されていくというのだ。ぼくはここにはコンティンジェントな見方が足りないとは思うけれど、サルトルが「未完了」と「横どり」に向かっている姿を感じられて、好ましかった。
≪061≫ 読書力については、サルトルの見方はマラルメやプルーストに近い。主に『文学とは何か』に書かれている見方なのだが、読書は「ジェネロジテ」(générosité)の行為だというのだ。ジェネロジテは日本語になりにくいけれど、惜しみなく与えるというニュアンスの言葉で、かつてデカルトも『情念論』で使っていた。出し惜しみしないことによって得られる高貴な自由といった意味もある。
≪062≫ 読書力については、サルトルの見方はマラルメやプルーストに近い。主に『文学とは何か』に書かれている見方なのだが、読書は「ジェネロジテ」(générosité)の行為だというのだ。ジェネロジテは日本語になりにくいけれど、惜しみなく与えるというニュアンスの言葉で、かつてデカルトも『情念論』で使っていた。出し惜しみしないことによって得られる高貴な自由といった意味もある。
≪063≫ サルトルはこのジェネロジテを説明用語にして、読書は著者のものでも読者のものでもなく、相互贈与関係になっていると見たのだった。互いに呼びかけに応えあっていくこと、それが読書なのである。そうだとしたら、ぼくはサルトルとのジェネロジテの半ばくらいでうろうろしてしまったということなのだろう。
≪01≫ 久しぶりにパリに行って、慌ただしく仕事(平家物語についての講演)をして帰ってきた。同行した者たちから「松岡さんはまるで心ここにあらぬという感じでパリにいましたね」と口々に言われた。みんなでパリの街をあれこれ動いていたときの印象らしい。ある女性からは「まるで死に場所を探しているようだ」とも言われた。
≪02≫ パリを歩くと困ってしまう。そこがボードレールやヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーやココ・シャネルの街、ベンヤミンの街であることが困るのだ。東京の下町を歩いても、そうならない。永井荷風も葛西善蔵も辻潤も見えなくなるほど光景が様変わりしているからだ。パリはほとんどが元のままだ。
≪03≫ 往時の景観がよく残っているはずの京都を歩いていても、こういう気持ちはおこらない。それにぼくは京都ではエトランゼになりえない。パリはそうはいかない。自分でも意外なのだが、神経を尖らせて歩く。それでもこの程度のトポスの記憶ならまだしもかなり軽症なのである。ここに紹介するライナー・マリア・リルケのパリは、あまりにも鮮烈すぎて魂を直撃してしまっていた。
≪04≫ 日本人にはあまり知られていないようだけれど、リルケはプラハの人である。明治八年(一八七五)に生まれた。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこむ。悲しい日々だったらしい。やむなく陸軍士官学校までは進んだが、ここで挫折した。
≪05≫ リンツの商業学校に通いつつ詩作をはじめ、恋をし、恋人を失い、もの思いに耽った。プラハ大学で法律と芸術を習ううちに、またまた悲しくなって『ヴェークヴァルテン』(「人生と小曲」または「いのちとうた」)という詩集を自費出版した。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいる。リルケはこの詩集を貧しい人々にちょっぴり配ったり病院へ送ったりしてみた。
≪05≫ リンツの商業学校に通いつつ詩作をはじめ、恋をし、恋人を失い、もの思いに耽った。プラハ大学で法律と芸術を習ううちに、またまた悲しくなって『ヴェークヴァルテン』(「人生と小曲」または「いのちとうた」)という詩集を自費出版した。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいる。リルケはこの詩集を貧しい人々にちょっぴり配ったり病院へ送ったりしてみた。
≪07≫ これらはいずれも寂しすぎる詩だった。ついでロシアに旅行した。ツルゲーネフに惹かれたからだ。『初恋』(角川文庫・岩波文庫)のウラジーミルにわが身を重ねたのだ。そのとき二十世紀がやってきた。二五歳だった。
≪08≫ ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていた。とうていウラジーミルの感傷にはいられない。クレムリンの復活祭の日の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと感じた。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがある。ただその音を共有してくれる者がなかなか見つからない。
≪09≫ それでもロシアには新たに感じるものがあった。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのだが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのである。この独特の直観はついに『時祷詩集』(新潮文庫『リルケ詩集』)という大作になる。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていた。『時祷詩集』は辛くて途中で何度か放棄したほどに、痛哭で神々しい。
≪010≫ リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚してからだ。ヴォルプスヴェーデに住んだ。彫刻家との結婚はリルケを少し変えた。クララは弟子をとるアーティストだったが、クララとともに出会った芸術家たちとの交流のほうに惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いた。それならヴォルプスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはパリに行く。すべてを残してパリに芸術と孤独を求めに行った。
≪011≫ それがマルテのパリなのである。マルテとしてのリルケは、今度は寂しさよりも厳しさがほしい。四年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれた。内面に入ってみた。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったろうに、自分より大きい厳しさが必要だったようだ。セザンヌのアトリエにも出入りした。図書館に通ってロダン論も書いた。リルケの姿勢は、日本の志賀直哉、有島武郎、武者小路実篤らの白樺派に飛び火した。
≪012≫ ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』(弥生書房)という結晶になる。眼の力が一本の樹林を持ち上げ、それを天の前に立てると形象が生まれていくというような、リルケにしか彫琢しえない詩群だ。美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いた。安部公房は二二歳のときにこの詩集を耽読して創作に向かい、「ポーは文学だが、リルケは世界だ」と唸ったものだった。
≪013≫ けれどもリルケには、一連の詩篇を書き上げることは、一連の投影を了えたことに当たっていた。もっと大きな体験がほしい。そこで徹底してみたのが、パリを生命の行方として凝視することだった。
≪014≫ こうして『マルテの手記』が綴られた。詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていた。第一行目にして、こうなのだ、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。
≪015≫ 『マルテの手記』のパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たことになってる。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコブセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にした。
≪016≫ しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのである。実際にも手記に登場してくるパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っている。
≪017≫ リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・ザロメへの手紙にも書きつらねている。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名だ。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのである。こういうところがぼくのパリ散歩にも響いているのだが、さらに困るのは、マルテことリルケの姿勢があまりに過敏で真摯であるということだ。
≪018≫ そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっている。そのうえで、細部にいたるまで心を観察するという手記になっている
≪019≫
ぼくは見ることを学んでいる。
何が原因かはわからないが、
何もかもがこれまでより深くぼくの中に入りこみ、
いつもはそこが行きどまりだった場所でも、
立ち止まることがない。
ぼくには自分でも気づかなかった内側がある。
何もかもがいまやそこに入っていく。
≪020≫ そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』(抄録=講談社文芸文庫)のような日本人はいない。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、陸軍幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記だ。もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは二十世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだった。
≪021≫ 明治四四年(一九一一)、リルケはイタリアに遊んで、ホーエンローエ公爵夫人の招きをうけてアドリア海に臨むドゥイノの館に滞在した。哲学者のルドルフ・カスナーと知りあい、アンドレ・ジッドを紹介された。
≪022≫ それから一九一四年まで四度にわたってドゥイノの館に滞在しているあいだに、連作詩『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳・岩波文庫)を書きはじめた。ついに何かの霊感や天啓に誘引されたのだ。
≪023≫ 連作は戦火で中断されるのだが、人間の無力とはかなさを謳った「嗟嘆」の連作詩はその後も書きつづけられ、リルケ独自の全一天使の歌となっていった。
≪024≫ ドゥイノ滞在中に第一次大戦がヨーロッパを覆ってきた。リルケは少年時代のように逃げるのはやめた。応召してオーストリア軍に加わった。ところが軍隊はリルケを弾き出した。軍隊で動くには、リルケは病弱すぎた。ミュンヘンに行った。戦争の四年間をミュンヘンで、できるだけ創作に携わらないようにして、たとえば翻訳に従事するようにした。リルケはこの戦争から弾かれた時期を「旱魃期」と名付けている。
≪025≫ たんなる翻訳ではない。翻訳のレパートリーを見て、ぼくは驚いた。ゲラン、ポオ、ジッド、ヴァレリー、そしてミケランジェロだ。たしかにリルケは「僕は変化する印象だ」と綴っていた。けれども、その変化はつねに懸崖に向かっていたではないか。そうでなければ、翻訳にこんなような顔ぶれを選ばない。あまりに鋭い相手ばかりになっている。とくにヴァレリーには本気でとりくんだようだった。大正十三年(一九二四)には、そういうリルケのもとへヴァレリーが訪ねている。
≪026≫ いったいなぜここまでリルケは突きつめるのか。とことん挑むのか。手を抜かないのか。言葉の錬磨のためなのか、あるいは精神の凡庸を嫌ったのか、それとも持ち前の気質というものなのか。
≪027≫ ヴァレリーに傾倒したのは、詩人には「雷鳴の一撃」があることを確信できたからだった。それが夜におこることを確信していたからだ。ノヴァーリス、ヘルダーリン、ワーグナー、そしてヴァレリー同様に、リルケは夜の覚醒にのめりこむ。「夜の散歩」「夜の詩圏から」「強力な夜に抗って」などの詩がある。こんなぐあいだ。
≪028≫
この本来の夜の中へ
ニセモノの粗悪な模造の夜を引っぱりこみ、
それで満足しなかった者がいただろうか。
私たちは神々を、
発酵したゴミ溜めのまわりに放置している。
なぜなら神々は誘いかけてくれないからだ。
神々は存在するだけで、
存在以外のものではない。
過剰な存在でありながら、香りを放たず、
合図も送らない。
神の口ほど沈黙したものはない。
≪029≫ ところで、どうしても気になることが、ひとつある。それはリルケが別れた母親を憎悪していたということだ。そのことを何度も書いている。なぜそんなふうになったのか、理由はほとんど説明していない。
≪030≫ この感覚はぼくにはない。母は「いとしきもの」である。リルケがルー・ザロメを思慕し、また思慕されるのはよくわかるのだが、そこに母への憎悪が介在していたとすると、ぼくにはリルケを議論する資格がまったくないことになる。もっともリルケがそうであれば、ぼくにはリルケの内面体験を読むことが、ときにショーペンハウアーやニーチェを読むとき以上の、かけがえのない感情的な律動になりうるのでもあった。
≪031≫ かくして、もしもリルケを読んでいなかったら、ぼくはとっくにニーチェにもジル・ドゥルーズにも愛想をつかしていただろうと思うのだ。そして、パリではもっと陽気にはしゃいでいたことだろう!
≪032≫ かくして、もしもリルケを読んでいなかったら、ぼくはとっくにニーチェにもジル・ドゥルーズにも愛想をつかしていただろうと思うのだ。そして、パリではもっと陽気にはしゃいでいたことだろう!
≪01≫ 金髪碧眼の美青年だ。そのことを自分でも得心している。だから友人の画家のバジル・ホールウォードが「君の肖像画を描いてみよう」と言ってきたとき、ドリアン・グレイは悦んでモデルを引きうけた。ギリシアの殉教者のような肖像がみごとに画布に出現した。
≪02≫ そういうドリアン・グレイを、房のついた黒檀のステッキ片手のヘンリー・ウォットン卿がしきりに煽っていく。「君は20歳になったようだが、まだ少年だ。私のそばにいなさい。美と若さは奔放な芸術生活に支えられるのだから、もっと好きに遊びなさい」と煽る。グレイはウォットン卿の暗示にかかったように、奔放な舞台女優のシビル・ヴェインに惚れた。婚約もした。けれどもシビルがこの恋にあまりに真剣になってくると、グレイは幻滅した。シビルを捨てたグレイが家に戻ってみると、肖像画の自分の顔が少し醜くなっていた。目が血走っていた。
≪03≫ 哀しんだシビルは自殺した。それでもあいかわらずウォットン卿とオペラを見にいくグレイを、バジルは非難して「あの肖像画に変わったことがおきていないか」と質す。図星を突かれたグレイは肖像画を屋根裏部屋に隠した。
≪04≫ 20年がたっても、ドリアン・グレイは若々しく、官能に溺れている。その噂を確かめたくてバジルがグレイを訪ねると、なるほど白皙のグレイはまだ美しい。けれども肖像画のほうはまったく逆だった。異様に醜くなっている。激しく責めるバジルを、腹を立てたグレイは殺してしまう。さすがに罪の重さに慄くグレイは麻薬に手を出し、アヘン窟に出入りする。肖像画はますます悪化していった。
≪05≫ 20年がたっても、ドリアン・グレイは若々しく、官能に溺れている。その噂を確かめたくてバジルがグレイを訪ねると、なるほど白皙のグレイはまだ美しい。けれども肖像画のほうはまったく逆だった。異様に醜くなっている。激しく責めるバジルを、腹を立てたグレイは殺してしまう。さすがに罪の重さに慄くグレイは麻薬に手を出し、アヘン窟に出入りする。肖像画はますます悪化していった。
≪06≫ 切羽つまったグレイは、醜悪の極みに至った肖像画を破壊することにした。悲鳴があたりをつんざいた。駆けつけた者たちがそこに見たのは、美しい肖像画と醜い老人の姿だった……。
≪07≫ 『ドリアン・グレイの肖像』を読んだときの感慨をまざまざと思い出すには、あまりにも時がすぎた。昨夜もう一度、読もうかとおもったが(ちらちらページを繰ってみたが)、ワイルド文学を批評するというならともかくも、物語を思い出すために読むことはないなとも感じた。その程度にはドリアン・グレイはずっとわが胸中で生きている。
≪08≫ それに、ぼくがこの本を読んだ学生時代に惑溺したのは筋書きやドリアン・グレイの個性などではなくて、ヘンリー・ウォットン卿の言いまわしだった。あの、青年をたぶらかす快楽主義と悪魔主義と耽美主義に、けっこう擽られたのだった。
≪09≫ 学生時代、サド裁判があった。初めて公聴券をもらって公判という場に行ってみた。サドの『悪徳の栄え』(現代思潮社)の翻訳が猥褻罪に問われて開かれた裁判だ。まだ若かった澁澤龍彥と版元の石井恭二が裁かれていた。埴谷雄高や吉本隆明が弁護のための証人に立った。
≪010≫ 証言を聞いていると、裁かれていたのがマルキ・ド・サドであることがわかった。しかし、当時の思想者たちが議論していた「サドは有罪か」という問題にはそれほど関心がなかったぼくは、ただ澁澤龍彥を見るために公聴券を手に入れたのだった。当時の澁澤がぼくの当面のヘンリー・ウォットン卿だったからだ。
≪011≫ その後、澁澤さんとは土方のアスベスト館や神田の美学校で出会い、さらに鎌倉の書斎で話しあうことになった。その澁澤さんと最初に話してみたかったのはドリアン・グレイのことだったのに、一度もその話題をかわさなかった。話題を持ち出せなかったというより、持ち出さなくてもいいように感じた。澁澤さんはちっとも悪魔主義的ではなかったのだ。
≪012≫ オスカー・ワイルドが近代資本主義社会に最初に公然と登場してきた正真正銘のホモセクシャル・アーティストであったことは、いまではゲイ・フェミニズム史のほうからお墨付きが出ているほどだ。
≪013≫ ダブリン大学のトリニティ・カレッジにいたころからの審美主義少年で、オックスフォード大学に来てからも自室を華美に飾りつけ、フリルのシャツを見せびらかし、5分ほどの会話にも必ず奇抜なメタファーを使ってみせるような、ディレッタント・ダンディだった。
≪014≫ 知力は際立つほど切れまくっていたのだと推う。ハイスクール時代すでにラテン語に出入りし、オックスフォードではジョン・ラスキンの講義をおもしろがり、ギリシア語にも美術史にも堪能になって、首席で卒業した。衒学いちじるしいものがあったのだろう。それが1882年にアメリカ旅行をして名うてのゲイ詩人ウォルト・ホイットマンに出会って、自身にひそむ男色性を露呈することをためらわなくなった。
≪015≫ 美意識をフリルのシャツだけでなく華麗な言葉にすることは、オックスフォード時代に師事したウォルター・ペイターの影響をうけていた。当代随一の審美者である。マシュー・アーノルドの「甘美と光明」(sweetness and light)を承知したペイターは、文体だけが魂で(soul in style)、文体をもって知性を表明すべきであることを(mind in style)、たとえば『享楽主義者マリウス』(南雲堂)などをもってワイルドに教えた。
≪016≫ 10年後、ワイルドは1891年の『ドリアン・グレイの肖像』で一躍スター作家になった。まさにペイターとマリウスをトランスミューテーションした作品だった。
≪017≫ ところがこのあとワイルドは、この作品を九回も読み返したというワイルド・ファンの21歳のアルフレッド・ダグラスに出会い、身も心もとろけてしまったのである。この16歳年下の青年のためにはどんな薔薇の毒を盛り付けてもかまわないと、身の毛もよだつようなことを思うようになる。ワイルドはダグラスをヒュアキントス(ヒヤシンス)とみなし、自身をアポローンと準えた。これは当時の世情からすると、かなり危険な賭けだった。案の定、ワイルドはダグラスの父に責められて獄中の人となる。『獄中記』(角川ソフィア文庫)に詳しい。
≪018≫ ペイターやマリウスに倣ってウォットン卿を描くことが真骨頂だったはずで、ウォットン卿になることでこそ知的に煌めく人生になったはずなのに、どこかでボタンを掛け違えたのだ。これは予定していたワイルドではない。むしろダグラスの文学だ。
≪019≫ 当初のワイルドはドリアン・グレイを変貌させる仕掛けをつくり、その美学と哲学だけを誇りたかったのだろうと想う。男色趣味もあらわにはしていない。文芸表現のいっさいを「芸術がつくる美の変貌の魔法」にゆだねてみせていた。
≪020≫ ワイルドは46年間の生涯を通して極上の偏見をもちつづけた。その多くは「美」と「悪」と「芸術」と「男」と「女」と、そして「魅了」にかかわっている。「魅了」についてはこんな偏見に達していた。「本当に魅力的な人間は、二種類しかいない。何もかもを知り尽している人間か、まったく何も知らない人間か、そのどちらかだ」。「私は信条よりも人間を好む。そして信条のない人間を最も好む」。
≪021≫ ワイルドがディレッタントな逆説を好んだことはよく知られている。アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と書いたのに対して、すかさず「自然が芸術を模倣している」と言ってのけ、「経験というものは、誰もが自分の過ちにつける名前のことだ」とか「不完全な人間こそ、愛を必要とする」とか「軽薄な者だけが自らを知る」といった名言を連発した。
≪022≫ が、ぼくが見るに、ワイルドは逆説に強かったというよりも「穿ち」が冴えていた。その「穿ち」は世の中にまかりとおる原因と結果の関係のどうしようもない固定性に鋭い変更を迫り、あわよくばワイルドの審美人生哲学を一気に正当化してしまおうというような、王手飛車取りめく「穿ち」だった。「民主主義というのは、人民の人民による人民のための脅しである」や「戦争では強者が弱者という奴隷を、平和では富者が貧者という奴隷をつくる」などが、その王手飛車取りの真打ちだ。
≪023≫ この感覚はどこかアナキズムの芳香を放っていた。そうなのだ、ワイルドはほんとうは無政府、無所有、無分配でいきたかったのだ。
≪024≫ ところで『ドリアン・グレイの肖像』には序文がついている。小説のエピグラムとしてはやや奇妙なものだが、ワイルドらしい宣言だ。「すべて芸術は無用である」と書いたのだ。
≪025≫ 「すべて芸術は表面的であり、しかも象徴的である」「芸術家たるものは道徳的な共感などほしくない」とも書いた。そして警告もした。「象徴を読みとろうとするものは危険を覚悟すべきである」と。なぜ象徴を読みとろうとすると危険なのだろうか(危険を覚悟しすぎたのはワイルド自身だった)。
≪026≫ そのことについては、『幸福な王子』をもって少々補っておきたい。この童話はワイルドの童話集の中でも最も知られているもので、翻訳も西村孝次訳・井村君江訳ほか、各版元でいろいろ試されている。話はこういうものだ。
≪012≫ オスカー・ワイルドが近代資本主義社会に最初に公然と登場してきた正真正銘のホモセクシャル・アーティストであったことは、いまではゲイ・フェミニズム史のほうからお墨付きが出ているほどだ。
≪013≫ ダブリン大学のトリニティ・カレッジにいたころからの審美主義少年で、オックスフォード大学に来てからも自室を華美に飾りつけ、フリルのシャツを見せびらかし、5分ほどの会話にも必ず奇抜なメタファーを使ってみせるような、ディレッタント・ダンディだった。
≪014≫ 知力は際立つほど切れまくっていたのだと推う。ハイスクール時代すでにラテン語に出入りし、オックスフォードではジョン・ラスキンの講義をおもしろがり、ギリシア語にも美術史にも堪能になって、首席で卒業した。衒学いちじるしいものがあったのだろう。それが1882年にアメリカ旅行をして名うてのゲイ詩人ウォルト・ホイットマンに出会って、自身にひそむ男色性を露呈することをためらわなくなった。
≪015≫ 美意識をフリルのシャツだけでなく華麗な言葉にすることは、オックスフォード時代に師事したウォルター・ペイターの影響をうけていた。当代随一の審美者である。マシュー・アーノルドの「甘美と光明」(sweetness and light)を承知したペイターは、文体だけが魂で(soul in style)、文体をもって知性を表明すべきであることを(mind in style)、たとえば『享楽主義者マリウス』(南雲堂)などをもってワイルドに教えた。
≪016≫ 10年後、ワイルドは1891年の『ドリアン・グレイの肖像』で一躍スター作家になった。まさにペイターとマリウスをトランスミューテーションした作品だった。
≪017≫ ところがこのあとワイルドは、この作品を九回も読み返したというワイルド・ファンの21歳のアルフレッド・ダグラスに出会い、身も心もとろけてしまったのである。この16歳年下の青年のためにはどんな薔薇の毒を盛り付けてもかまわないと、身の毛もよだつようなことを思うようになる。ワイルドはダグラスをヒュアキントス(ヒヤシンス)とみなし、自身をアポローンと準えた。これは当時の世情からすると、かなり危険な賭けだった。案の定、ワイルドはダグラスの父に責められて獄中の人となる。『獄中記』(角川ソフィア文庫)に詳しい。
≪018≫ ペイターやマリウスに倣ってウォットン卿を描くことが真骨頂だったはずで、ウォットン卿になることでこそ知的に煌めく人生になったはずなのに、どこかでボタンを掛け違えたのだ。これは予定していたワイルドではない。むしろダグラスの文学だ。
≪019≫ 当初のワイルドはドリアン・グレイを変貌させる仕掛けをつくり、その美学と哲学だけを誇りたかったのだろうと想う。男色趣味もあらわにはしていない。文芸表現のいっさいを「芸術がつくる美の変貌の魔法」にゆだねてみせていた。
≪020≫ ワイルドは46年間の生涯を通して極上の偏見をもちつづけた。その多くは「美」と「悪」と「芸術」と「男」と「女」と、そして「魅了」にかかわっている。「魅了」についてはこんな偏見に達していた。「本当に魅力的な人間は、二種類しかいない。何もかもを知り尽している人間か、まったく何も知らない人間か、そのどちらかだ」。「私は信条よりも人間を好む。そして信条のない人間を最も好む」。
≪021≫ ワイルドがディレッタントな逆説を好んだことはよく知られている。アリストテレスが「芸術は自然を模倣する」と書いたのに対して、すかさず「自然が芸術を模倣している」と言ってのけ、「経験というものは、誰もが自分の過ちにつける名前のことだ」とか「不完全な人間こそ、愛を必要とする」とか「軽薄な者だけが自らを知る」といった名言を連発した。
≪022≫ が、ぼくが見るに、ワイルドは逆説に強かったというよりも「穿ち」が冴えていた。その「穿ち」は世の中にまかりとおる原因と結果の関係のどうしようもない固定性に鋭い変更を迫り、あわよくばワイルドの審美人生哲学を一気に正当化してしまおうというような、王手飛車取りめく「穿ち」だった。「民主主義というのは、人民の人民による人民のための脅しである」や「戦争では強者が弱者という奴隷を、平和では富者が貧者という奴隷をつくる」などが、その王手飛車取りの真打ちだ。
≪023≫ この感覚はどこかアナキズムの芳香を放っていた。そうなのだ、ワイルドはほんとうは無政府、無所有、無分配でいきたかったのだ。
≪024≫ ところで『ドリアン・グレイの肖像』には序文がついている。小説のエピグラムとしてはやや奇妙なものだが、ワイルドらしい宣言だ。「すべて芸術は無用である」と書いたのだ。
≪025≫ 「すべて芸術は表面的であり、しかも象徴的である」「芸術家たるものは道徳的な共感などほしくない」とも書いた。そして警告もした。「象徴を読みとろうとするものは危険を覚悟すべきである」と。なぜ象徴を読みとろうとすると危険なのだろうか(危険を覚悟しすぎたのはワイルド自身だった)。
≪026≫ そのことについては、『幸福な王子』をもって少々補っておきたい。この童話はワイルドの童話集の中でも最も知られているもので、翻訳も西村孝次訳・井村君江訳ほか、各版元でいろいろ試されている。話はこういうものだ。
≪027≫ ある町の柱の上に「幸福な王子」と呼ばれる像が立っていた。かつてこの国で幸福な生涯をおくりながら若くして死んだ王子を記念して建立されたものだった。両目には青いサファイア、腰の剣には赤いルビーが輝き、全身は金箔に包まれていて、心臓が鉛でつくられていた。
≪028≫ 町の者たちはそんな王子像をとても自慢していたのだが、みんなが知らないこともあった。この像には死んだ王子の魂が宿っていて、王子がこの町の貧しさと不幸を嘆き悲しんでいることだ。
≪029≫ 一匹のツバメがエジプトに飛び立つ前に、王子像の足元でひとときの眠りをとろうとしていた。そこに王子の大粒の涙が落ちてきた。気になったツバメが涙の理由を尋ねてみると、王子はツバメに不幸な人々に自分の宝石をあげてきてほしいと頼む。ツバメは言われたとおり、ルビーを病気の子がいる貧しい母に、両目のサファイアを飢えた劇作家と幼いマッチ売りの少女に運び、両目を失って世の中が見えなくなった王子には町の人々の話を聞かせた。王子はまだたくさんいる不幸な人々に自分の体の金箔を剝がして持っていってほしいと言った。
≪030≫ やがて冬がきた。王子はみすぼらしい姿になり、ツバメはずいぶん弱っていた。ツバメは最後の力をふりしぼって飛び上がり、全身で王子にキスをすると力尽きた。そのとたん、王子の鉛の心臓が音をたてて割れた。
≪031≫ 何も知らない町の役人たちは、ぼろぼろの王子像を柱からはずし、鉱炉で溶かすことにした。鉛の心臓は溶けなかったので、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。そのころ、下界を眺めている神さまが、天使たちに「あの町で尊いものを持ってきなさい」と命じた。天使が持ってきたのは鉛の心臓と死んだツバメだった。こうして王子とツバメは天国で一緒になった。
≪032≫ この話は、自分を犠牲にして人々に幸福を分け与えた王子のお話だということになっている。実際にも、多くの読者が「美しい犠牲」を称えた。ところがいつのまにか、この話はハッピーエンドなのだろうかという疑問や議論がおこってきた。メリーバッドエンドにも読めるからだ。
≪033≫ ハッピーエンドかバッドエンドかなどということは、問題ではない。実は童話を読むと、ツバメがけっこう複雑に描かれている。なるほど王子はほぼ善意をあらわしているのだが、ツバメは自分の事情にもこだわっていて(エジプトに飛んでいく予定が遅れることを気にしている)、そのぶん王子や民衆と交わす会話も、折紙細工のように折れたり曲がったり、重なったりする。シテの王子はワキのツバメによって、どうにでもなったのである。ワイルドはその関係を書いた。
≪034≫ そうだとすると「ぼろぼろな王子」になりつつあったのは、シテとしてのワイルド自身だったのである。ツバメはそういうワイルドを観察するワキなのだ。幸福でも不幸でもない。34歳でこの『幸福な王子』を書き上げたワイルドはこの童話を発端にして、自分自身の変容を含んだ物語の大半を「もどき」に仕立てていくことにしたのだったろう。それをぼくは「穿ち」から「擬き」への造作変更だったと思っている。
≪01≫ 高田博厚に「左手」という作品がある。 1972年に制作されたらしい。ごつい手だ。指は短く、何か地上を歩きまわっている夜行性の小動物のようなのだが、親指だけは平たくて、そして広い。むろん高田自身の左手である。
≪02≫ かつて高村光太郎が「短い、太い、切つたやうな指をもってゐる手であつて、一寸考へると、あの指がどうしてこんな繊細な技術に耐へるのかと思ふほどであるが、それがまつたく萬能の指なのである」と何かに書いていたのは、これかとおもえた。
≪03≫ 1992年は、その高田博厚の彫刻的全貌を見るにもってこいの年だった。1987年に86歳で亡くなった高田の大回顧展は、その翌年にさっそく福井県立美術館で開かれていたのだが、ぼくはこれを見損なった。だから1992年の東京ステーションギャラリーと、同年、長野県豊科町に多くの高田作品を展示する豊科近代美術館が開館したのは、ぼくの高田体験にとってすこぶる大きなものとなった。
≪04≫ 一言でいえば、人間であるということの自由が懐かしさをもっていることに、なんだか圧倒された。「多寡をくくってはいかん」、これが正直な感想である。人間であることに多寡をくくってはいかんということだ。
≪05≫ それまで実は、高田博厚はぼくにとってのちょっとした試練だったのである。彫刻ではない。その文章が、である。
≪06≫ 高田はあれこれ文章を書いている。請われて書いたというより、好きだったのだろう。
≪07≫ 31歳のときにフランスに渡って7年後から在欧日本人のために淡徳三郎とともに「日仏通信」を出しつづけたのだが、すでにそこにあれこれ書いていた。謄写版刷りで、しかも日刊だった。
≪08≫ それが1934年で、昭和9年からのことだから、そしてその後まもなくヨーロッパも日本もしだいに戦火にまきこまれていったのだから、そのような落ち着かない日々のなかでこそ、高田はあれこれ書きつづけていたのだった。そこにわれわれが体験しえない「時代の意味」というものがある。
≪09≫ 本書もその当時の文章や片山敏彦らへの音信で構成されている。高田の最初の本でもある。
≪010≫ ただ、高田が書いていることは、ぼくが早稲田大学のフランス文学科に入った前後のフランス選良意識のひとつにぴったり重なっていて、ぼくはそれを脱却したくてずっと思索をしてきたのに対して、高田はずっとそこにとどまって生きてきた。
≪011≫ それゆえ、その高田博厚を読むのは、ぼくにとってのちょっとした試練だったのである。
≪012≫ この『フランスから』にもときどき出てくるが、たとえばマイヨールが「形が私を歓ばし、それで私は形を造る。けれども私にとっては、形はイデーを現す手段にすぎない。私が探しているのはイデーなのです」などと言ううとき、「うん、おっしゃるとおりだが、ぼくはそのようなことをわざわざ言うのが嫌なんだ」という気になるのである。
≪013≫ また、アランが「魂と肉体とは一つとなっており、抽象の中に魂を失うよりは、自分の肉体と共に失うことを選ぶ」と言うとき、たしかにそれはそうだが、だから何だっていうのだろうとおもってしまうのだ。
≪014≫ とくに高田が傾倒したロマン・ロランが芸術をあまりにも真っ正直に肯定する態度は、羞かしくてしかたがなかったものである。
≪015≫ おそらくこのような反発は、ぼくが若い頃に加担したいとおもっていたボードレールやヴァレリーやリラダンの感覚、あるいはコクトーやサティやルイ・マルの感覚からすると、許しがたいものだったのである。
≪016≫ しかし、にもかかわらず高田の文章はぼくにとって、なにかしらの必要なものなのだ。読書には、ときおりそういう体験が熾烈に要求されるものである。
≪017≫ 結局、高田からぼくが学ばなければならないのは、タンジブルということ、すなわち高田流にいうのなら「触知的」ということだ。
≪018≫ 触知的とは、言葉を彫刻のように見えるものにする、裸にすることである。この、ぼくが長いあいだ忘れてきたことを、本書と高田の彫刻群は軽々と告示してくれたのだった。彫刻群とは、次の彫像のことをいう。
≪019≫ 制作順にいうなら、こういうふうになる。小山富士夫像、中原中也像、高村光太郎像、大内兵衛像、武者小路実篤像、梅原龍三郎像、西田幾多郎像、高橋元吉像、富岡鉄斎像、萩原朔太郎像、岸田劉生像、新渡戸稲造像、内村鑑三像、宇野重吉像。
≪020≫ このような日本人が選ばれた。この彫像たちに、ぼくが学ばなければならない触知の時間がたまっている。
≪021≫ 参考¶高田博厚の本は『ルオー』(みすず書房)が有名である。もうすこし深い思索の跡がたどれるものとしては『分水嶺』(岩波書店)や『思索の遠近』(読売新聞社)がある。
≪01≫ 小説や随筆には文体が蠢く波になって、その流れにのるものたちを日々の裂け目や見知らぬところへ運んでいる。とはいえ作家の文体は、たいていは作家の個性か隠された素性をあらわしているもので、ヘミングウェイには猟銃のようなスタイルが、川端康成には素焼のような文体が、中上健次には地域アニミズムの熱度のような文章が、つきまとう。こういう文体はたいてい作家本人の喋り方にもあらわれる。町田康の文体は町田町蔵のふだんと変わらない。
≪02≫ 作家の個性から零れ落ちたスタイルをはずす文体もある。理知的な文体、話しこむ文体、パスティーシュの文体、病理的文体、言辞にはまっていく文体、日記的文体、推理小説の文体など、いろいろだ。ゴーリキーからブレヒトへ、サリンジャーから村上春樹へというふうに、同種感染する文体というものもある。なかで「時の場」に冒され、「物」と「心」がつながっていく文体がある。これはぼくが好きな文体で、ナラティヴの対象によって変化する。
≪03≫ トルーマン・カポーティにはほぼ最初から「昼の文体」と「夜の文体」があった。『草の竪琴』(新潮文庫)や『夜の樹』(新潮文庫)はピュアな陽光が眩しい寓話性を帯びている「昼の文体」である。『遠い声 遠い部屋』や『ミリアム』(新潮文庫『夜の樹』収録)は裸電球で部屋の中の一つひとつの事物を青白く照らしているような「夜の文体」になっている。あとで少しだけぼくの印象を言うけれど、カポーティにはもうひとつ、『冷血』(新潮文庫)に集結した文体があって、こちらはドス・パソスのドキュメンタリーな目を犯罪心理の奥にまで照射するような文体だった。
≪04≫ 幸か不幸か、ぼくは「夜の文体」にかぶれた。それほど『遠い声 遠い部屋』に感応させられた。
≪05≫ これが初の長編なのか、なんという早熟なのかと思ったのではない。あの空気の粒々のような文章に感服した。カポーティはこんなふうに少年の魂が書けるのか。町のひとつずつの描写が声を出して呟いているではないか。「ぐらぐらした生姜色の家」だなんて、うますぎる。
≪06≫ 片隅に放置されたオブジェの書き方も手がこんでいる。「火山のようにぱっくり開いた口の中で金歯がびかりと光り、伸びたり縮んだりをつづける小さな通信販売のアコーディオンは、襞のついた紙と真珠貝でできた肺のようである」だなんて。
≪07≫ やたらメディアに派手な恰好で出たがって、あんなに俗っぽく見えていた男に、まるで静寂から聞こえてくるエレミア書の響きのような作品が書けるのはなぜなのか。
≪08≫ カポーティが『遠い声 遠い部屋』を書いたのは二三歳のときである。さらさら書いたのではない。各地を転々として二年をかけた。どの一行にも破綻がなく、透明度が維持されている。初期作ならこのような集中はどんな作家にもありうることなのだが、あの文体は群を抜いている。
≪09≫ 舞台は、アメリカ南部のヌーン・シティとよばれている小さな町だ。訳せばさしずめ「白昼街区」といったふうになる。そこに、父親を探している少年のジョエル・ノックスがやってきて、だんだん近づきつつある大人への予感に怯えていく様子が克明に描かれる。カポーティ自身が南部の町ニューオリンズの生まれだった。両親とは四歳のときに別れたままになっている。そのため幼いころからルイジアナ、ミシシッピ、アラバマを転々とした。親戚の家にあずけられもした。
≪010≫ 親戚をたらいまわしにされた少年の心境はとてもびくびくしたものになる。そのくせ大人の世界に対しては鋭く、瞬時の観察を怠らない。きっと実際のカポーティは扱いにくい少年だったろう。こういう少年がそれでもしだいに年上の者を知り、羞ずかしがりの少女に出会い、勝手に優しいおばさんに声をかけられていく。
≪011≫ どうなっていくかは決まったようなものだ。大人への恐怖をもちつつ、自身に萌芽する自我の充電と成熟に慄くばかりなのである。その一方で傷つきやすい観察力が研ぎすまされていく。その「あわい」がたまらない。
≪012≫ そのようなネオテニーな少年の目で眺められた世界を、ではどう描くか。カポーティは用意周到だった。「どんよりと曇った日だった。空は雨に濡れたブリキ屋根のようで、やっと姿を見せた太陽は魚の腹のように青白かった」というふうになる。こういう描写は随所にあらわれる。それらは、成長にとどめを刺したい少年の、フラジャイルな心の文字で綴られた「夜の文体」であって、いわば「電気で濡れた文体」だ。原文を見るとわかるけれど、英文では頭韻や脚韻さえ踏んでいた。
≪013≫ 一冊の本との出会いには、いろいろなことがおこる。その一冊を書いた作家や著者のほうにも、いろいろのことがおこっている。お互いさまだ。書き手もきわどい事情の中にいるかもしれないし(たいていは追いつめられている)、読み手もけっこう唐突にその本に出会う(たいていは無責任に読む)。
≪014≫ その本が文学作品であっても、まさか文学史の解説のように読むなどということはありえない。そんな読者はよほど凡庸な研究者だけである。読んでどうなるかというのも、読者の勝手だ。退屈もするし、清々しくもなるし、うるうるもする。
≪015≫ ぼくのばあいは、たまたま本屋で手にした本を読むこともあれば、評判に惹かれて読むこともある。本屋を一時間めぐって三冊しか選べないこともあるし、買っておいたのにずっと放ってある本を何かの拍子で読むこともある。それがおもしろくて、ついつい同じ作家や著者をたてつづけに読むことも少なくない。
≪016≫ のちになって注意することは、その本をどの時期に、どんな気分で読んだのかということだ。その時期と気分によっては、別様のことに気をとられてその本のおもしろさがまったくつかめず、十年以上もたってふたたび手にしてみて、しまったと思うこともけっこうおこる。これはこれで、読者の役得だ。
≪017≫ 作家によっては出来と不出来が著しいことがある(かなり多い)。うっかり不出来な作品から読んでしまうと、次に出会うまでにけっこうな月日がたってしまう。これは読書というものが最初からかかえているリスクだ。作家を怨んでもしょうがない。
≪018≫ ぼくがカポーティを初めて読んだのは一九六六年に発表された『冷血』だった。一家殺人事件を題材にしたもので、あまりに話題になっていたからだが、実はこの本にはほとんどなじめなかった。当時は(一九六〇年代の後半は)、ちょうどアンチロマンやアンチテアトロなんぞを読んでいて、ずいぶんなトンチンカンなのだが、カポーティのこの作品をまるでベケットやデュラスのつもりで読んだせいだったろう。『冷血』はかつて試みられたことがないノンフィクション・ノベルの先駆けであったのに、ぼくはその「潔癖なまでに見つめられた事実」がスタイリッシュすぎることが、気にいらなかった。
≪019≫ それでカポーティを食べなくなってしまった。スキャンダラスな自己宣伝めいたカポーティ像も気にいらない。蝶ネクタイ、角縁メガネ、低くて太った体軀、女優の背中にやたらに手をまわしている男。加えて「輝かしい破壊の天使」とか「麻薬常用者にしてアル中の天才」といった見えすいたキャッチフレーズが必ずつきまとっていた。それならウィリアム・バロウズやマイルス・デイヴィスが断然なのだ。
≪020≫ いまにして思えば、これらのカポーティの印象の大半はアメリカの雑誌の“やらせ”に近いもので、それを鵜吞みにしていた日本のメディアや批評家も騙されたということなのだろう。ぼくもまた、どうせ『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)や『冷血』の二番煎じなら、ほかのものも読まなくてもいいやという偏見の中にいた。
≪021≫ それが、ゲイ・カルチャーに関心をもつにつれ、急激にカポーティが読みたくなり、それであらためて出会ったのが『遠い声 遠い部屋』だったのである。中身はゲイ・カルチャーとは関係がなかったが、瑞々しく、すばらしかった。
≪022≫ 本との出会いには、たいていこういうことがあるものだ。おかしなことだと思われるかもしれないが、「夜の文体」から入って『冷血』に行っていれば、ひょっとして『冷血』の乾いた文体に瞠目したかもしれなかったのである。
≪023≫ まあ、小説を愉しむとはそういうもので、行ったり来たり、はぐらかされたり、差し違えたり、心を洗われたりなのである。ぼくには『遠い声 遠い部屋』で、たとえば「通信販売のアコーディオンは、紙と真珠貝の肺だった」にめぐりあったことこそが、なんとも嬉しいことだったのだ。
≪024≫ ひとつ、付け加えておきたいことがある。それは「昼の文体」を支えたのはミス・スックという老女だったということだ。この老女はカポーティが親戚の家を転々としていたときに出会った年長の遠縁の女性で、おそらく少年カポーティの初期の「精神の印画紙」をつくりあげたようなのだ。短篇『感謝祭のお客』(新潮文庫『夜の樹』所収)や『クリスマスの思い出』(文藝春秋)には、その二人だけの印画紙づくりのエピソードが綴られている。
≪025≫ この話を知ったとき、すぐに大田垣蓮月と富岡鉄斎の、また高場乱と頭山満の心と技の蜜月を想い浮かべたものだったけれど、実際のミス・スックは女丈夫などではなくて、とても優しくて傷つきやすかったのだという。カポーティはアルコールと薬物中毒で後半生を苦しんでしまったが(五九歳で没した)、ミス・スックとの日々の輝きをずっと大事にした作家生涯でもあったはずである。
≪01≫ アルベール・カミュはメルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』に激しい怒りをおぼえ、ボリス・ヴィアンの家で大論争をくりひろげると、絶交状態までのぼりつめた。カミュは、いつまでも甘いコミュニズムにすがっているメルロ=ポンティの姿勢が気にいらなかったのである。これは親友サルトルやニザンとの奇妙な関係にもつねにあらわれていた衝突だった。
≪02≫ 戦後まもなくのフランス思想界の論争といったら、まさに1冊ずつの書物をめぐっての絶交を辞さないほど激しいものだった。日本にもそういう時代の、そういう日々があったけれど、それはぼくがおもうにおおむね1965年くらいまでで、かの「政治と文学論争」と「スターリン批判」とともに終わっていた。
≪03≫ メルロ=ポンティはベル・エポックの時代を南仏ロシュフォールの陽光のなかで育った。ピエール・ロティと同じ故郷である。よく読んでみると『知覚の現象学』にもちょっとした回想部分があって、南仏にいたころの「当時の至福な想い」は環境のみならずひとつひとつの事物を輝かせていたと書いている。
≪04≫ ところが、めずらしい例なのだが、子供のころの故郷であまりに充たされたせいか、長じてのメルロ=ポンティは環境的な思考にはかえって関心がなくなっていた。3歳で父親を亡くしもしたので、そのためかもしれないが、むしろ知覚の設計回路に入りこむ(もしくは迷い込む)ほうを好むようになった。「上空飛行的思考」(pensée du survol)を避けるようになったのだ。それゆえ、「知覚の上空を飛行するのではなく、その中に沈潜することを自らに課すような哲学」、すなわちベルクソンの哲学、ありていにいえば『物質と記憶』の解読が青年メルロ=ポンティの最初の課題になったのである。
≪05≫ 時代の思想は第一次大戦以降はナチズムの台頭とコミュニズムの拡張に席巻されていた。メルロ=ポンティも沈潜ばかりしていられず、やむなく現実や現象に対応するようになっていく。こうした若々しいジグザグを好む探索を見ていると、そこにはその後の哲学思考の原型があらわれているのがわかる。ベルクソン哲学にフッサール現象学とゲシュタルト心理学がくっつき、そこにマルクス主義が接ぎ木されたのだ。
≪06≫ 接ぎ木は接ぎ木ではおわらなかった。それはやがて「知覚」と「身体」と「行動」、あるいはそれらの相互の「関係」というかっこうをもって独得に思想化されていった。そうした着想の苗床になるべき体験があったのである。2つの講義を聞いたことによる体験だ。
≪07≫ ひとつは1929年にパリ大学で年老いたエドムント・フッサールの講義だった。この体験で得たものはのちに『デカルト的省察』としてまとめられている。もうひとつはアレクサンドル・コジェーブがパリ高等研究院で5年にわたってひらいたヘーゲル『精神現象学』の講義だった(この講義は日本についての言及もあったため、その後、フランスのジャパノロジストの注目するところとなった)。この2つの講義の衝撃がメルロ=ポンティの思索の内奥にこびりつき、関係の存在学を花開かせるトリガーになった。コジェーブの講義の会場にはレイモン・アロン、ジャック・ラカン、ジョルジュ・バタイユらがしょっちゅう顔を見せていた。
≪08≫ 1938年にはそうした苗床に芽が吹いて『行動の構造』がまとまった。この年はフッサールが死んだ年でもあって、その4万ページにおよぶ速記原稿や多様な原稿がナチスの侵害や戦争によって失われることが危惧された。厖大な遺稿はフライブルクからベルギーのルーヴァン大学に移され、哲学研究所のヴァン・ブレダ神父が管理した。メルロ=ポンティはその研究所を最初に訪ね、フッサールの弟子のオイゲン・フィンクと交わり、未完の草稿を閲覧した。
≪09≫ ルーヴァンに移されたフッサールの遺稿のことを「後期フッサール」というのだが、この「後期フッサール」の批判的研究を糧として論述されはじめたのが、今夜とりあげた『知覚の現象学』である。
≪010≫ メルロ=ポンティの前半期の思想は1942年の『行動の構造』(みすず書房)に結実している。大きくは2つある。
≪011≫ 第1には、身体の自覚がない哲学は人間についての言及をもたらさないという見方を確立したことだ。実存哲学者のガブリエル・マルセルが『存在と所有』という本で「自分の身体」を持ち出したことにヒントをうけて、人間は自分の身体をつかって何を知覚しているのか、何を身体にあずけ、何を意識がひきとっているのかという問題に突き進んでいったことがきっかけだった。マルセルは「自分の意のままにならない身体感覚」がありうることを不随性(indisponibilite)とよんだのだが、そこにメルロ=ポンティは関心をもったのである。
≪012≫ 第2には、知覚と行動のあいだは相互射影的な関係をもっているだろうという見方の確立だ。これについてはゲシュタルト心理学からの影響が大きかった。それまで、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっていると考えられた。要素還元主義である。
≪013≫ ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる形態的で全体的な特性に対応しているという仮説をぶちあげた。この形態的な特性のことをゲシュタルトという。
≪014≫ ゲシュタルトという見方はメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準めいたものがあらわれてくる。何か「補うもの」が動いていたのだ。これは見捨ててはおけない。知覚と行動のあいだ、また意識と身体のあいだには形態変換をともなう“補いのパースペクティブ”のようなものがはたらいているのではないか。メルロ=ポンティはそのことに気づいたのである。それらはどこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。
≪015≫ このような見方はデカルト的な心身二元論を決定的に打破するものとおもわれた。それとともに、ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトを自然界や対象界にあるものとみなしたことにこだわらず、ゲシュタルトの正体が知覚や意識の内側にもあるはずだということを予感させた。
≪016≫ のちに、この意識にとってのゲシュタルトこそが言語というものを生み出すパターンなのではないかということも、メルロ=ポンティによって提案される。こうしてメルロ=ポンティは「後期フッサール」を読み替えたのである。
≪017≫ 現象学の狙いは、われわれの意識や思索や反省、あるいは科学による研究や哲学による熟考が始まる以前に、すでにそこにあったであろう“見なれた世界”にたちかえるということにある。
≪018≫ メルロ=ポンティは、それならば、「現象学的世界とは、先行しているはずのある特定の存在の顕在化ではなくて、存在そのものの創設なのではないか」というふうに読み替えた。これはフッサールですら現象学的還元ということの目標をさだめそこなったことを暗示した。
≪019≫ ここから『知覚の現象学』はしだいに大胆な知覚論や身体論に分け入っていく。たとえば、「私の身体」は私によって意識されるとされないとにかかわらず、おそらくある種の「身体図式」(schema corporel)のようなものをもっていて、これがいろいろな知覚や体験の変換や翻訳をおこなっているとみなしたのだ。いわば身体の中に“哲学の編集部”をおいたのだ。ついでこの身体図式がもたらすものからは、しばしば「風景の形態」や「芸術の様式」に似たようなものが、身体の「地」に対する「図」のように立ち上がっていると考えた。
≪020≫ そして、これらのゲシュタルトのようなもの、あるいはスタイルのようなものを媒介にして、「私の習慣的な世界内存在」がつくられているのではないかとみなしたのだ。これがいわゆる「間身体性」(intercorporéité)とよばれるものである。自分と他人は自己や他者の個々によって成立しているのではなく、その「あいだ」に媒介する「間身体」ともいうべきものによって、相互同時に意図されるのだという考え方だった。
≪021≫ きっと言語もそのようなものなのではないか。おそらく言語は、身体が「身体図式」を用いて外部の世界に向けておこなっているのではないか。言語が意味をもつのもそういうゲシュタルトっぽいものが支えているためだろうと、そんなふうにも考えた。言語は何かの「地」に対して浮き上がってきた何かの「図」をつなぎとめるしくみであったろうというのだ。
≪022≫ もっとも、このあたりの考察は『知覚の現象学』ではまだぶよぶよしていた。いくぶんの深化はのちの『シーニュ』などを待たなければならない。
≪023≫ 本書には、序文がついている。そこには、「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験である」というすばらしい1文が書きつけられている。まさにメルロ=ポンティは「更新されつづける関係化」を考えつづけた哲学者だったのである。この関係は、底辺と端緒との両方で更新しつづける両義的な関係だ。根っこと葉っぱの両方にまたがる関係だ。
≪024≫ 知覚と身体をめぐるエディティングとデザイニングには、この根っこと葉っぱの両方が必要なのである。
≪025≫ 現象を現像に換えられるのは???人の手が加わって 造化の完成は、人手で人本位に為る
≪01≫ ミラン・クンデラは、ぼくがこの10年間で最も”尊敬”することになった作家である。もっとも、この10年間というのはぼくの勝手な読間時期であって、クンデラ自身は1960年代にはすでに活躍していた。
≪02≫ その理由はいろいろあるのだが、最初に『冗談』を読んだときは何かがピンときていたものの、惹かれる理由がいまひとつはっきりしなかった。たとえばボルヘスやカルヴィーノを読んだときの”急激な尊敬”とはまったく違っていた。
≪03≫ 念のために言うと、チェコの作家であること、共産党に入党し除名をされたこと、その後「プラハの春」で指導的な役割をしたことなどは、この作家の作品行為に対する”尊敬”には関係しない。プラハの芸術大学の映画科を卒業し、その後は同大学の世界文学の教諭となって、その門下にミロシュ・フォアマンらの「チェコのヌーヴェル・ヴァーグ」の担い手たちを次々に輩出させたことも、ぼくには好ましいことであるけれど、超一流作家としてクンデラを”尊敬”することとは直接つながらない。
≪03≫ 念のために言うと、チェコの作家であること、共産党に入党し除名をされたこと、その後「プラハの春」で指導的な役割をしたことなどは、この作家の作品行為に対する”尊敬”には関係しない。プラハの芸術大学の映画科を卒業し、その後は同大学の世界文学の教諭となって、その門下にミロシュ・フォアマンらの「チェコのヌーヴェル・ヴァーグ」の担い手たちを次々に輩出させたことも、ぼくには好ましいことであるけれど、超一流作家としてクンデラを”尊敬”することとは直接つながらない。
≪04≫ やがてはっきりしてきたのは、ぼくはクンデラの言葉に対する極度に深い編集感覚を”尊敬”していたということだった。
≪05≫ いや、もう少し正確にいうと、言葉の原郷から発現するものをぴったり表出する方法を確立していること、そこに深すぎるほどの作家としての滋味を感じた。それは『生は彼方に』を読んだあたりでほぼつきとめられていたのだったが、本書『存在の耐えられない軽さ』によってさらに動かぬものとなった。この作品はやはりとんでもなくよくできているのだ。
≪06≫ しかし、しかしである。 そのように”尊敬”するにいたったのはクンデラの術中にはまっているかもしれないと、何度も自信がぐらついたのだ。こんなふうに”読まされている”のは、ぼくがクンデラの仕掛けた虚構としての言語社会の鏡像に入りこんでしまったからなのか、それともそれを越えてクンデラが本当の告白だけをしているのか、あるいはだれにも理解されずに言葉を紡ぐ深遠にいるのか、そのあたりの”判読”でずいぶん迷ったのだ。
≪07≫ その理由を書くのは”尊敬”の理由を書くよりどうやらずっと難儀しそうなので、できれば書かずにすませたいが、それでは大事なところを避けて通るようなので、せめて次のようなクンデラの小説作法の一端を紹介して、そこから、ぼくのちょっとした悩みの見当が奈辺にあったかを暗示しておきたいとおもう。
≪08≫ 読んでもらえばすぐわかるように、『存在の耐えられない軽さ』の第1行目には、「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」と書いてある。
≪09≫ こんな始まりかたはとても小説の冒頭とはおもえない。いったい何をする気だという感じがする。まして、ニーチェである。けれども、『冗談』も『生は彼方に』も、そして『不滅』も、クンデラはいつもこのように、自分の思索の奥底に揺動するものから、物語を書きはじめるのである。そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。
≪010≫ これでは小説家に説教されているようで、とうてい気楽に小説を読むわけにはいかない。少なくともぼくは、ニーチェに導かれて小説を読みたくはない。
≪011≫ それでもまだクンデラは手をゆるめない。次の行ではこの物語の主題をあっさり明示してしまう。いや、臆面なく、あるいはぬけぬけとといったほうがいいかもしれないが、「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?」というふうに。
≪012≫ これでは、『存在の耐えられない軽さ』という標題がそのまま主題であるんですよというカラクリを冒頭からキャプション説明しているようなもので、とうてい物語にはなりそうもない。ふつうなら、こんな書き出しの小説なんて、絶対に読む気はおこらない。なんという理屈だとおもいたくなるに決まっている。少なくともぼくはそういう性(たち)だった。
≪013≫ ところが、そのように読者が気まずい思いをするかしないかという直前、それは小説を読みはじめてせいぜい数分後であるのだが、クンデラはすばやく次のように書いて(まさに読者の退屈な表情を測ったかのように)、そのまま虚構と現実のあいだにわれわれを連れ去ってしまうのだ。
≪014≫ 「私はトマーシュのことをもう何年も考えているが、でも重さと軽さという考え方に光を当てて初めて、彼のことをはっきりと知ることができた。トマーシュが自分の住居の窓のところに立ち、中庭ごしに向こう側のアパートの壁を眺めて、何をしたらいいのか分からないでいるのを私は見ていた。トマーシュがテレザと会ったのはその三週間ほど前のことで、ある小さなチェコの町でであった。二人は一時間も一緒にいたであろうか。彼女はトマーシュを駅まで送り、彼が汽車に乗り込むまで、待っていた」。
≪015≫ これがクンデラなのである。 ここから先は一瀉千里、われわれはトマーシュとともにクンデラの正確な思索の揺動をたどってしまうのだ。 どうだろうか。ぼくがちょっと悩んだ理由がおわかりいただけただろうか。
≪016≫ ようするに、クンデラは小説の書き方を小説にするべく、小説という散文様式を選び、その選び方そのものにクンデラの思想と物語の展開とを重ねているわけなのだ
≪017≫ だから、クンデラの言葉のすべての選び方の目にぼくの目を合わそうとしたとたん(それ以外の読み方があるとはおもえないが)、ぼくはまんまクンデラの術中にはまってしまう(と見えてしまう)わけなのだ。
≪018≫ しかし、結局はそれでいいわけなのだろう。最初の数分こそいつもギョッとさせられるが、読みはじめたらやはり停まらないのは、それでもクンデラは作家が作品の中でどのように言葉を選ぶかという意味で、完璧なストーリーテラーであるからだ。
≪019≫ 以上で、ぼくの悩んだ事情の説明はおわる。よろしいかな。ただし、これではあまりにサービスが足りなすぎるだろうから、少しだけ”付け足しの解説”をする。
≪020≫ クンデラは小説を「反叙情的な詩」ととらえている作家なのである。もともとは詩人だった。セルバンテス、フローベール、ゴーゴリ、カフカ、ジョイス、ゴンブロヴィッチ、ブロッホ、セリーヌ、ナボコフを評価しているのはそのためだ。
≪021≫ しかしクンデラは、「小説」というものなど世界に存在しないと考えている。クンデラにとっては、フランス人の小説、チェコ人の小説、日本人の小説というものがあるだけなのだ(これはものすごく正しい)。そのうえで、作家というものは自分が「書こうとする世界の様式」を問いつづけるために書くのだと結論づける(これもものすごく正しいのに、なかなか実行されていないことだ)。加えて、何を言葉として選択したのかということを読者に伝える以外に、作家が読者に伝えるものなどないのだと宣言をする(まさにこの宣言がクンデラだ)。
≪022≫ だからクンデラは、ひとつだけ例をあげておけば、チェコスロバキアを舞台に書いていることがほとんどなのだが、小説の中では一度も「チェコスロバキア」という合成語をつかわなかった。どうしても地域の特定な呼び方をしたいときは、あるいはさせたいときには、「チェコ」か「スロヴェニア」か、あえて「ボヘミア」と書いた。
≪023≫ それが自分の体に入っている言葉だったからである。また、作品に責任をとれるところだった(こういうところは、日本では井上ひさしのような作家をのぞいて、日本の作家にも徹底されていないところだ)。
≪024≫ こんな選択自身が、クンデラをして作品を律義につくりあげさせてきたわけなのである。これで、さっきよりはもう少しはおわかりいただけただろうか。ぼくとしては、これだけでも『存在の耐えられない軽さ』の秘密の大半を説明したことになるのだが……。
≪025≫ が、余計なことを言うと、もう半分のことがこの作品にはひそんでいる。さらに”付け足し解説”をしておくのだが、それは「キッチ」とは何かの秘密にかかわっていた。
≪026≫ 「キッチ」とはキッチュのことだ。そういえば、ああ、わかったとおもう人が多いだろうが、クンデラはその「ああ、わかった」を非難する。
≪027≫ ヘルマン・ブロッホが『キッチ』を書いたとき(この本のすごさを最初に教えてくれたのは杉浦康平だった)、これがフランス語で「キッチュ」と訳され、がらくたを愛する感覚というふうに解釈された。日本でいえば風呂屋のペンキ絵とか駄菓子の包装絵のようなものである(当時、日本人の誰もがそうおもっていた)。けれどもそれはまったくの誤解であるとクンデラは言う。
≪028≫ クンデラによると、キッチとは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」(『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳)のことなのだ。
≪029≫ このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていた。それは「軽さ」を標榜する感覚だった(日本でいえば「軽チャー」である)。それはそれでいい。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものなのである。
≪030≫ そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたものだ)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした。
≪031≫ どうだろうか。わかってもらえただろうか。本書はキッチという「未熟を装う存在」を書くために選ばれたクンデラの方法の様式だったのである。
≪032≫ 参考¶ミラン・クンデラの作品は次のものが日本語になっている。『冗談』(みすず書房)、『おかしな恋』(学研『世界文学全集』第46巻にそのうちの1篇が、『へるめす』第19号に2篇が訳出された)、『生は彼方に』(早川書房)、『笑いと忘却の書』『微笑を誘う愛の物語』『不滅』(いずれも集英社)、そして『小説の精神』(法政大学出版局)。いずれも「存在の耐えられない軽さ」がテーマだといってよい。
「新・心と脳の地形図 千夜千冊」で、検索結果より、下記の五冊を掬った。その中に、
こらば流『スクリーニング』照会編と併せて
(動機 同期 同気 同機 動悸) + 正確(正確 性確 生確 制確 精確 正格 性格 生格 制格 精格)心・技・体確
確かには、客観(さ)基準は有、主観基準(み)は無
憎しには、客観(さ)基準は有、客観(み)基準も有
五月雨をあつめてはやし、最上川 人生の機微を「さしみ」に渡る世渡義は
極めて囃し 最上のものかわ???
≪02≫ 自分、自己、パーソナリティ、人格、人倫、アイデンティティ、自己意識、自我なども、いったいこれらは心のヴァージョン用語なのかどうか、何と何が関連したり分岐したりしているのかが明確にはされていない。
≪02≫ 自分、自己、パーソナリティ、人格、人倫、アイデンティティ、自己意識、自我なども、いったいこれらは心のヴァージョン用語なのかどうか、何と何が関連したり分岐したりしているのかが明確にはされていない。
≪03≫ 「心はイシキだ」「心はセイシンだ」と言われても、日本語としてはピンとこない。おそらく哲学用語としても一般用語としても、「心」ほど曖昧で多様な言い方がされてきたものはないように思われる。心理学も同断だ。混乱したままなのである。そこで本書も“Naming The Mind”という
≪04≫ 著者のカート・ダンジガーはドイツ出身の理論心理学者である。オックスフォード大学などで化学・哲学・心理学を修め、オーストラリア・インドネシア・南アフリカなどで教鞭をとったのち、トロントに移住してヨーク大学で理論心理学の領域の確立に勤しんだ。
≪05≫ 理論心理学は病状判定よりも研究蓄積にもとづく理知的な心理学で、理論物理学のように理論心理学なのである。ウィリアム・グラッサーの「選択理論」が提起されてからは、たいていの心理行動は本人の選択によるものだという見方に傾いた。
≪06≫ 本書は、そういう理論心理学の目から見た“Naming The Mind”の歴史を追っている。ただしサブタイトルの「心理学の社会的構成」は当たっていない。むしろ心理学がどんな概念用語を用意して「心の正体」を憶測してきたかという歴史の一端が描かれているといったほうがいい。読んでいくと、心理学者たちのやや鼻持ちならない矜持と偏向と傲慢が出入りしてきたことがよくわかる。ほんとうは「心」のことなんて、誰だって好きな言葉で言いあらわしていいようなものなのに、学問はこれをやたらに面倒なものにしてしまったのである。
≪012≫ 心を自己意識に結び付けたのは、あきらかに近世哲学や近代心理学である。デカルトやロックが登場してからのことだ。おかげでとても面倒な議論が勃発しつづけることになった。しかし、かつては哲学も「おココロさま」に近いことを考えていた。
≪013≫ 古代ギリシアには「心」(mind)、「意識」(consciousness)、「自己」(self)にあたる言葉はなかったのである。そのかわりプラトンやアリストテレスはこれらをひっくるめて(もっと他のものも入るが)、「プシュケー」(psyche)と捉えた。
≪014≫ プシュケーには「成長の力」「感覚の力」「運動の力」「欲望の力」「思考の力」が宿ると考えられた。プシュケーはそうした力を宿す「蛹」なのである。そこからいつかは成長変化した蝶が出る。だから、そこには何かを可能にする力(デュナミス)があるとみなされた。デュナミスというのはダイナミズムのことだから、プシュケーはそういう五つの可能力を秘めた種をもっているということになる。のちのちこの“psyche”がスペルを変えて“psychology”(心理)にまでなった。
≪015≫ 一方で、アリストテレスはプシュケーのうちの「思考の力」が動くときは、これが「理性」(reason)や「ロゴス」(logos)を伴うものだとも見た。理性がロゴスをもって相手にするもの、それは「ヌース」(nous)であった。精神的で形のないものがヌースなのだが、ギリシア的なヌースはその後のヨーロッパ的な知性や精神のルーツにあたっていった。アナクサゴラスは世界を支配しているのがヌースだとみなし、プロティノスは万物はヌースから流出していると考えた。
≪016≫ プシュケーにはよくわからないものもまじっていた。これは古代ギリシア人が総じて「フロネシス」(phronēsis)と呼んでいたもので、「思慮」と訳されることが多い。思念・思い・イメージ思考などを含んでいる。
≪017≫ フロネシスはなんとかして「おココロさま」の外に取り出したいものだった。そこでソフィア(叡知・知恵)とテクネー(技能・技術)が重視され、ソフィアとテクネーをつかって掘削や取り出しにとりくむ者があらわれた。詩や演劇や音楽や数学が芽生え、修辞学が工夫された。そういう試みをいろいろくだしてみると、フロネシスとは今日でいう感情(affections)や情動(emotions)や情念(passions)に近いものだった。これはのちにロゴス(logos)に対するパトス(pathos)とみなされもした。パトスはのちのパッション(passion)やペーソス(pathos)になる。
≪018≫ その後、こうしたプシュケーやヌースのさまざまな動きの総体を、ヘレニズム以降のラテン語でまとめて「アニマ」(anima)と呼ぶことになった。哲学的にはプシュケーとアニマは必ずしも同一のものではないが、ひっくるめればアニマなのである。日本語では「魂」になる。
≪019≫ アニマが動き出すことを信じて、そのアニマのままに行動しようとすると、アニミズムが生まれる。アニミズムは「物」にもアニマが宿るとみなすので、物活論になる。その動き出すアニマの動きをそのまま動画化していくと、アニメーションになる。いわゆるアニメだ。このようにいまなお民間信仰を支える各種のアニミズムが各地に動き、映画・マンガ動画をへて発展してきたアニメが沁み出しつづけているわけなのである。アニメーションはアニマ・モーションのこと、今日のアニミズムやアニメーションには、頻繁に「おココロさま」が登場する。「おココロさま」はぼくが子供たちのためにつくりだしたアニマの正体だ。
≪020≫ 以上のような見方を発展させようとして、さまざまな難しい提案や分析に走っていったのが、その後のヨーロッパの全哲学である。わかりやすいかそうでないかはべつにして(だいたいはわかりにくい)、すべての哲学が「心」をめぐっていたと言っていいだろう。そこにはキリスト教も神学もスコラ哲学も倫理学も含まれていた。
≪021≫ トマス・アクィナスやスコラ哲学はもっぱら情念(passion)に注目した。希望・絶望・恐怖・勇気・欲望・痛み・愛情・嫌悪などが情念として人の心を占めているものだと考えた。一方、デカルトは『情念論』(岩波文庫)で、驚異・愛情・嫌悪・欲望・喜び・悲しみの六つを重視して、それぞれ原因をもつと考えた。デカルトは、のちの心理学のように運動(motion)と行為(action)とを分けなかったのだ。
≪022≫ そのうち、情念は社会の構成力にも機能しているのではないかと思われるようになっていく。十八世紀イギリスのマンデヴィル、アダム・スミス、ハッチソン、ロック、ヒュームらは情念を情動(emotion)と捉えなおし、「心」の動きと社会の動きを関係づけたのだ。「心」の動きは道具的理性とみなされ、ここからプライベート(私)とパブリック(公)が分けられていった。
≪023≫ こうしてロックが『人間悟性論』の中で、ついに「意識」と「自己」を別々に扱ったのである。「自己」(self)という言葉が一人歩きしたのは、このときだった。ロックは「点的自己」(punctual self)という言い方さえした。ダンジガーはこの時代に、「理性は主人から使用人になった」と述べている。
≪024≫ 意識や自己を社会思想から議論するのは限界があった。だいたいそんな社会意識を分析するような思考では「アニマ」の所在がさっぱりだ。近代になって、ここに登場してきたのがアニマの構成物に切りこもうとした生理学と心理学である。新しい切り口である。ヨハネス・ミューラーが先頭を切った。
≪025≫ 近代社会がつくった生理学と心理学は「心」の用語を、感覚や知覚の領域を占めるであろう状態用語としてつくりだした。態度(attitude)、動機(motive)、気質(temperament)などだ。また、このような心の状態は「刺激」(stimulus)と「反応」(response)がもたらしているはずだと見て(S‐R説)、そこには知覚における「興奮と抑制」がおこっているはずだとみなした。
≪026≫ 最初にこのことを言い出したのは、ミューラーの助手をしていたエミール・デュ・ボワ゠レイモンである。この見方がのちのちまでニューロンやシナプスのしくみと「心」を関係づけることになる。デュ・ボワ゠レイモンには『自然認識の限界について・宇宙の七つの謎』(岩波文庫)というすこぶる興味深い本がある。科学はイグノラムス(ignoramus)ということ、すなわち「われわれは知らない」ということを知るべきであり、知らないことがあったっていいのだと主張した。こういう見方をイグノラビムス(ignorabimus)という。「心のことはほっておきなさい」というのだ。
≪036≫ いったい、こんなことで「心」は納得できるような名前をもらってきたのだろうかといえば、むろん、そんなことはおこっていない。名付けはしたが、これらは大半が亜種の名付けだったようなのだ。ダンジガーも、心理学は自然種(natural kinds)を指摘しえないと断言している。心理学的カテゴリーはせいぜい関連種(relevant kinds)を列挙するばかりなのである。
≪037≫ つまりは、われわれは「心の別名」ではなく「心の代用品」を見せられてきたのだ。このことについては、ぼくがお気にいりのイアン・ハッキングが、それがそもそも人間の本性や構成についての命名がもたらす「人工種」(human kinds)の宿命というもので、どんな心の代用品もずっと昔からループせざるをえないものなのだと見抜いていた。
≪038≫ 本書にはフロイトやラカンらの見方は登場していない。だから「自我」や「エス」は議論になっていない。「アルター・エゴ」や「鏡像自己」も扱われていない。理論心理学はポストモダン思想をカバーする気がなかったのである。
≪039≫ これはあまりに狭すぎた。ぼくとしてはそれどころか、ジョン・C・リリーの「意識の中心」やティモシー・リアリーの「コンテリジェンス」などを、またフィリップ・K・ディックの「ヴァリス」やウィリアム・ギブスンの「マトリックス」をそろそろ心理学も議論してもいいだろうと思う。けれども、そんなことはまだまだ遠いことだろう。
≪01≫ ゆっくり丁寧な挨拶のあと、大辻清司さんから「ついては、うちの学校で写真の授業をしてもらいたい」と言われた。大辻さんは桑沢デザイン研究所の写真科の主任教授で(その後に造形大学に移ったが)、出会ってまもなくのころだった。ぼくが「遊」の2号を編集していたときで、「ピンときました。いま写真について喋れるのは松岡さん、この人だと思ったんですよ」と言われる。
≪02≫ すぐさま「カメラなんてちゃんといじったことないですよ。むりです」と断ったら、「いえいえ、イメージについての講義を担当してほしいんです」「写真とイメージの関係です。写真家たちがどういうふうにイメージと格闘しているか、そこを学生たちに話していただければいいんです」とおっしゃる。これは買いかぶられたなと思ったけれど、大辻さんが妙にシュールで不思議な人だったこともあって(戦後の前衛写真の草分けで、コンポラ写真の名付け親)、結局は引き受けた。
≪03≫ 開講までに3ケ月ほどあったので、あらためて世界の写真の変遷とめぼしい写真集をできるかぎり見た。次に奈良原一高、田村彰英(当時は田村シゲル)、森永純、横須賀功光、有田泰而を訪れて、いろいろ話した。そんな程度でとりあえずは授業に臨んだのだが、写真だけを相手に「イメージ」をめぐる考え方や見方を話すのは、たいへんタフなエチュードになった。
≪04≫ たとえばこんな授業をした。学生に渋谷近辺で撮った写真のプリントを提出させ(桑沢の校舎は渋谷NHK前にあった)、目の前でプリントを裏返して「何を撮ったのか」と訊く。「帽子を撮りました」「ふうん、どこで?」「帽子屋のウィンドーのガラスの外から」「どんな帽子をいくつ、どんなふうに撮ったの?」「7つくらいかな、いや10個以上かな」「何色が多かった?」「グレー、黒もあった」「外の天気は?」「晴れてました」「ガラスの映りこみは避けた?」「できるだけ」。ここでやおらプリントを表にして「この写真の何を感じてもらいたいの?」。
≪05≫ みんな曖昧にしか答えられない。カメラが全部収めてくれたのだから、それでいいと思いすぎているのだ。せめて被写体ひとつにつき20分ほどじっくり撮ろうとしていたら、それなりのことも点検できたろうが、パッパッと撮ったのである。それでも、あらためて撮った「当時」を問われてみると、アタマの中にあのときレンズが向いた形に「吹き出し」が生ずる。ぼくと学生はその吹き出しと写真の「あいだ」の出来事を交わすのである。
≪06≫ こんな授業もした。自転車にカメラを取り付けさせて(どこでもいい)、好きな界隈をゆっくり走りながらリモートボタンでいろいろ写真を撮り、それらをプリントしてタイトル、狙い、感想、キャプションを付けるというものだ。
≪07≫ これは自分でファインダーを覗いていないので、自転車の前輪が向いている漠然としたアングルの中でシャッターを切るため、撮りたい対象がちょん切れてしまったり、よけいなものが入ったり、ピンボケになる。そんな写真ではあるが、学生たちは自転車の座高からなんらかのヴィスタを捉えたつもりで、それがモノクロ写真のイメージならこうなるだろうということを撮る。そこではわれわれの視覚体験がどんなズーム性やフォーカスや濃淡をもとうとしているのか、既視感や意外性はどうか、それらについての何かをちょっとは考えたはずなのである。
≪08≫ 言うまでもないことだけれど、絵画やデザインや写真や楽曲はそれ自体として「何か」をあらわしている。この「何か」は興味、共感、技法のため、違和感、思い出にまつわるもの、メッセージ、自分の故郷、創作衝動、いろいろだ。そこには「なんらかのイメージ」があらわされている。
≪09≫ イメージは、日本語では印象などという。イメージや印象には表象・形象・心象などが含まれる。われわれは任意の表現活動を通して、さまざまなイメージを抽出し、組み立て、会話をしてきた。ターナー(1221夜)や黒田清輝やアッジェのように写生的なイメージになることもあれば、カンディンスキーやモホリ・ナギ(1217夜)や北脇昇やモンドリアンのように、図解やコンポジション(構成)そのものがイメージになるということもある。
≪010≫ 作品になるからイメージがお出ましするのではない。隣りのアパートの風情、八百屋に並ぶ野菜や果物たち、新聞に載った網点のモノクロのニュース写真、雨の中を走る自動車の光りぐあい、コンビニのケースで冷えているアイスキャンデー、ガールフレンドが着ている服装にも、イメージがくっついている。そこからも表象・形象・心象がやってくる。写真はこういうものを撮り、そこに掴みかけたイメージを矩形にカットアップして、DPEする。
≪011≫ ただ日常的に出会っているものたちは、それぞれ即時的なイメージをもってはいるものの、時々刻々通りすぎていくし、ほぼ砂上の指絵のように消えていく。アタマの中に強い表象・形象・心象を残さない。仮りに残すものがあったとしても、めったに再生できない。ときたま夢の中で再生されたりすることもあるけれど、これはほとんど説明がつかない。
≪012≫ そこでスケッチをしたり写真を撮ったりする。そうすると意外なことがおこる。岸田劉生(320夜)の《麗子像》がそうであるように、ふだんしょっちゅう接しているはずの自分の娘を描いてみたのに極端な顔貌イメージを強調することになったり、ジャコメッティ(500夜)の人体彫塑がそうであるように細くなったり長くなったり、エドワード・ウェストンの写真がそうなったようにピーマンの接写が女体に見えてきたりする。
≪013≫ 桑沢の学生たちにも、視覚とイメージと表現のあいだにはさまざまなズレや強調や歪曲や補填がおこることを感じてもらいたかったのである。
≪014≫ 桑沢体験はぼくのイメージ探検の始まりでもあった。のちに編集工学では「注意のカーソル」の動きや辿りに着目して、「イメージとマネージの関係」をさぐることを奨め、マネージメントに対するに“イメージメント”の重要性を説くのだが、そういうことを思いついたのは桑沢の授業をなんとか工夫しようとしていたことから生じたものだった。
≪015≫ イメージ化されたものは必ず知覚組織によってそれなりにマネージされているし、その過去にマネージされた知覚や記憶によって新たなイメージが引っ張られているのだから、われわれはイメージをたえずイメージメントしているわけなのである。そのイメージングのプロセスをもっと徹底して取り出したほうがいいという奨めだ。
≪016≫ しかし20代後半でのイメージ探検は難渋をきわめた。のちのちわかってはきたが、いったいわれわれは何をもってイメージと見ているのか、いつどのようにイメージング・プロセスを振り返れるようになったのかということは、知覚や脳をめぐる研究をもってしても、また表現をめぐる研究によっても、けっこうな難問だったのである。
≪017≫ ちなみに余談だが、桑沢ではそのうち「どうも松岡正剛というセンセイがおもしろい授業をしているようだ」という評判が立ったらしく、グラフィック科やファッション科の学生が聞きたいと言ってきた。だったらそうしてあげようと思って教務科に話すと「それはダメです、越境させないでください」とにべもない。やむなく特定日をもうけて別教室で広く話すことにした。自腹も切った。そこにやってきたのが戸田ツトム、工藤強勝、木村久美子、横山登たちだったのである。戸田と木村は工作舎のメンバーになった。もともと写真科にいた田辺澄江も工作舎に来た。彼女は写真家と結婚し、いまは工作舎の代表をしている。
≪018≫ もう少し、若い頃のことを書いておく。 学生時代、レンブラント(1255夜)の画集に収録されていた《ガリラヤ湖で嵐に遭うキリスト》のスケッチを見て、とても引っぱられたことがあった。すばやくペンを走らせたものだろうに、完璧な「絵」になっていた。なぜレンブラントにこんなことができるのか。気になった。
≪019≫ その後、グラフィックデザイナーの宇野亜喜良や杉浦康平(981夜)や建築家の磯崎新(898夜)と仕事をするようになって、そのラフなドローイングや模式的なスケッチに痺れた。簡単な走り描きのようなものなのにコア・イメージがちゃんと伝わってくる。みんなレンブラントに近いことをしているのだと感じた。
≪020≫ そこでスケッチやデッサンというもの、いわば「イメージング以前」「イメージング以降」が気になってきたのだが、よくよく思い出してみると、そうしたことは、ぼくの子供時代の日々にも出入りしていたのである。以来、いろいろのことを思い返し、それらが編集工学の素材や食材になっていった。
≪022≫ 子供時代だけのことではない。あらためて点検してみれば、われわれのイメージの歴史はおびただしい画像、図、輪郭、絵、イコン、フィギュア、映像、図式、モデリングされたもの、プロフィール、似像、模像、スケッチ、ドローイング、カリカチュア、フィギュア、イラストレーションなどで埋められてきた。なかには視覚的な断片にすぎないものやわかりにくい図像も少なくないが、それでもそこからはイメージやその前駆体が伝わってきた。その場合、学習とアートとデザインと商品はたいてい混じっていた。
≪023≫ また、そうしたイメージは先行するものを逃さず、必ずや次世代ではもっと印象深いイメージ表現に達してきた。カラヴァッジョ(1497夜)はゴッホになり、ゴッホはピカソ(1650夜)になり、ブルーノ・ムナーリ(1285夜)はソットサス(1014夜)や倉俣史朗に、倉俣は川崎和男(924夜)になったのである。
≪024≫ 時代をこえて、いったい何が伝わってきたのか。工作舎時代のぼくはしだいに『相似律』や『全宇宙誌』や『アート・ジャパネスク』にとりくむことになる。
≪025≫ 本書は「イメージはどのようにして意味をもつのか」ということに挑んだ一冊である。著者のゴットフリート・ベームはドイツの美術史家で、遠近法の研究、ルネサンスの肖像画をめぐるイコノロジー、セザンヌの画法などを探索して、夙(つと)にこれらについてまとめ、2005年からはバーゼルのスイス国立科学財団(SNSF)に所属してイメージをめぐる研究チームを主導してきた。バーゼルは世界中の300近いトップ・ギャラリーが集まる「アート・バーゼル」の聖地である。
≪026≫ ベームはイメージをつくっている主要なものを「像ないしは図像」(Bild)とみなし、画家やアーティストたちが自分の作品でどんなふうに像や図像を扱ってきたのかを分析した。本書にはそのビルト分析の成果がいかされている。
≪027≫ 分析にあたっては解釈学(Hermeneutic)に依拠した。シュライアマハーに始まりハイデガー(916夜)やガダマーやリクールに及んだ、あの解釈学だ(ロムバッハ1782夜参照)。とくにガダマーの『真理と方法』(法政大学出版局)を導きの糸とした(ガダマーとの共同研究もしている)。この大著は第1部で芸術がとりくむイメージを対象にしていた。
≪028≫ ベームもガダマーに倣って芸術作品をとりあげることによってイメージの正体を浮き彫りにしようとした。たとえばヤン・ファン・アイクの《アルノルフィーニ夫妻像》、アンリ・マティスの《ダンス》、エル・リシツキーの《プロウン・ルーム》、ジャン・デュビュッフェの《形而上学》などなどだ。本書にはそのほか100例以上の視覚作品が登場する。
≪029≫ ガダマーやベームは、対象や現象それ自身が存在することによって何かを「見せていること」(Zeigen)を重視する。それは「見え」「様子」「アピアランス」でもあるが、外見的なことだけではない。「ぼくのおばあちゃんがそこにいる」ということには、外見だけではないものが含まれる。おばあちゃんもイメージやイメージの束なのである。
≪030≫ そうした「もの」や「こと」が「見せていること」は、われわれに何かの反応を促し、知覚・認知・記憶・表現をゆさぶり、なんらかのイメージングをキックしている。それなら、それらを言葉や図像やスケッチやデッサンにあらためて表現転化するということにはどんなしくみが作動しているのか。二人はそこを議論のスタートにおいた。
≪031≫ 大前提にしたのはとても大事なことだった。すなわち「語ることは示すことである」けれども、とはいえ「見せることは語ることではない」という前提だ。
≪032≫ アーティストやデザイナーは「見せる」という行為をおこす。その「見せる」には「語る」ための習慣や文法や解釈とは異なることが出入りする。左脳的ではない右脳的な反応によるとも推察されているが、それだけではない。そこには絵筆や粘土やカメラなどの道具もかかわるし、それよりなにより「見せる」が成立できるのは作品を成立させている何かが「見る解釈」をもたらしているからなのだ。
≪033≫ そもそも「語る」も「見せる」も意味を誕生させていて、その意味は「語る」においても「見せる」においても共通するはずなのである。おそらく「歌う」「聴く」にも共通するだろう。イメージとしてそこに示されているものは意味であるか、その意味の半ちらけか片寄りか、ないしは重なりなのである。
≪034≫ つまりはイメージの正体は意味を暗示するものだったのである。ぼくはのちに、そこには「単語の目録/イメージの辞書/ルールの群」が総動員されるとみなした。
≪035≫ われわれには対象のイメージを通して、そこにひそむ意味を掴むメタ・ホドス(方法)が内在しているのである。ヴィゴツキーはそれらを認知道具と呼んだが(1540夜参照)、それをわかりやすくいえば「感知力」(Gespür)とでもいうものだ。
≪036≫ ただしこの感知力は直立二足歩行をして脳を肥大化させたわれわれに内在しているだけに、認知道具が掴んだイメージを外にあらわそうとすると(言葉やスケッチや楽器によつて)、さまざまな差異が生じる。とんでもないものにもなる。子供のころの図工の授業で写生やデッサンに各自の著しいちがいが出たように、素材や大きさによってもちがってくるし、その当人の中でも野菜を見るときと飛行機を見るときでは、感知力の外在化にちがいがあらわれる。
≪037≫ この外在化のちがいをもたらしているイメージングの基礎の単位のようなもの、そこに立ち上がってきたもの、それが本書で「図像」(ビルト)とされたものである。
≪038≫ 定義上のことでいえば、本書で「図像」(ビルト)と言っているのは「なんらかの手法によってそこに呈示されたイメージ」のことである。
≪039≫ 日常的なドイツ語では、ビルトは絵画、写真、映画やテレビの映像、トランプの絵札、ファッション的なフィギュアやシルエット、眺めた風景や光景、比喩的に見えるもの、何かとそっくりなであることを連想させるもの、似像、肖像などをさす。英語では日常的につかう意味での「ピクチャー」にあたると思う。
≪040≫ もともとビルトの本来の語義には「面影」が去来する。ゲーテ(970夜)が植物や人間や世界を相手にとことん探索したかったものも(原植物や原イメージ)、面影としてのビルトだった。しかし本書では、ビルトはこれまで主要な画家や写真家が扱ってきたものすべてがビルトだったとみなしている。ビルトがイメージの正体なのである。
≪041≫ かくして本書はアーティストたちがどのようにビルトに注目してきたのか、そのビルトがそれぞれの時代のアーティストによって、どのように雄弁になったのか、あるいは引き算されたのか、いろいろ例をあげ、その作品にいちいちふれながら解釈学的なビルトやイメージの捻出の仕方を案内した。そこを好きに摘まむように読んでいくのが本書のおもしろさになっている。
≪042≫ さきほどちょっと紹介しておいたが、たとえばアイクの《アルノルフィーニ夫妻像》は室内に無表情な夫妻が立っているだけなのに、ずっと見つめていても飽きない。中央の壁に掛けられた凸面鏡の中に描きこまれた内景が、この夫妻のいる部屋を覗く者の視線に重なるため、ガダマーのいう「付帯現前化」や「共現在化」が生じて、いくつもの物語が想像されてくる。ビルトは物語を喚起する力をもっているのである。
≪043≫ マティスの1909年の作品《ダンス》はとても自由だ。緑と紺の色面の背景の中で5人の裸婦が愉しそうに互いに手をつないで時計回りに踊っているだけなのだが、見る者の気分を開放させる。この絵には元絵があった。似たような踊りあうダンスのシーンが3年前の《生きる喜び》の中に小さく描かれていた。それが《ダンス》ではいっさいの装飾性が省かれて、4メートル大の絵になった。それでどうなったのか、ダンスというビルト(=イメージ)だけが圧倒的な力で示されたのだ。
≪044≫ 1923年のリシツキーの《プロウン・ルーム》はいまなおデザインの可能性を告示しつづけている。四角形の部屋の三方の壁に配置されている形象要素がもたらすイメージの構成的可能性を狙ったもので、「プロウン」(PROUN)とは当時のロシア的芸術刷新プログラムのことだった。その後のモダンデザインの可能性の多くがここから出てきた。ピエト・モンドリアンの《マダムB》はリシツキーのビルトを色面に変換させたものだった。
≪045≫ デュビュッフェの1950年の《形而上学》は、巨大な人の形をした輪郭の中に不定形なノイズのうごめきのようなものが充ちている絵のようでありながら、そこには幼童性ともいうべき原始的な感知力がそのままあらわれているように見える。最近は「アール・ブリュット」(生の芸術)の名で発達障害者などが描くヴィジュアルイメージが注目されているが、デュビュッフェの作品が知られるようになったときは「アンフォルメル」と呼ばれた。ビルトは混沌や雑多からイメージを引き出してくるのでもあった。
≪046≫ 表出や表現についての科学は、まだできあがっていない。アーティストやミュージシャンは「ひらめき」やインスピレーションによると言いたがるし、認知科学は芸術行為には踏み込めないままにある。
≪047≫ しかし、幼児の喃語から漱石(583夜)の文学作品まで、ココ・シャネル(440夜)の洋服デザインからマイルス・デイビス(49夜)のジャズづくりまで、ダンテ(913夜)の神曲の細部からバッハ(1523夜)の楽譜の細部まで、パウル・クレー(1035夜)の造形思考から阿久悠の作詞まで、多くのことはコードとモードとノードの組み合わせとして、ほぼ見えていることなのである。けれども、その秘密をイッキツーカンして、ではイメージとは何か、面影とは何か、ビルトとは何かと問われると、とたんにとんでもなく面倒なものになる。
≪048≫ 時代文化が流れこんでいること、表現者の体験や心理が混じっていること、作品についての評判が乱入していること、本人の説明が曖昧であること、批評言語がまちまちであること、いろいろの邪魔もありすぎる。
≪049≫ けれども、いつまでも慌てふためかないほうがいい。諸君はまず自分の子供時代からの表出と表現のプロセスをふりかえり、自分の好きな歌や陶芸品や絵やファッションがどのように出来ているのかを何度も注視し、そこに出入りする情報がどんなふうに編集されているのか、たえず「目利き」してみるべきなのである。目利きするとは、目に聞き、耳に尋ね、松のことは松に習うことなのである。
≪050≫ ところで、イメージやビルトをめぐっては、そういうことを言葉にするのはかっこ悪いという偏見がはびこってきた。多くのヴィジュアライザーは自分がつくりだしているイメージを、意味として扱うことが得意ではなく、また言葉にしたがらなかったのだ。避けてきた。「アートは言葉じゃないんだからさ」とか、「写真に言葉はいらねえよ」と嘯いていた。
≪051≫ すでに書いておいたように、ガダマーやベームはイメージを呈示する力には、文学であれ詩歌であれ、絵画であれ写真であれ、音楽であれマンガであれ、ほぼ似たような「感知力と解釈力」が動いてるとみなした。けれども、視覚派の多くはイメージングの方法を言葉にするのを嫌がったのだ。
≪052≫ 残念なことだけれど、そうなったことについては同情すべき理由もある。ひとつにはヴィジュアルメージを見せている作品は「見せる」ためのものであって「語る」ためのものではないからだが、もうひとつには、イメージを言葉で説明しようとしてきた批評の歴史が「美学」や「市場」にとらわれてしまって堅すぎたり、流行を追いすぎたせいだった。つまらない批評をふやしすぎたのだ。
≪053≫ はっきりいえば、プラトン(799夜)とアリストテレス(291夜)、あるいはソシュールとデリダのイメージ論があまりに非視覚的なロゴス中心主義だったからだった。これには同情する。アーティストやクリエーターは、だんだん口を鎖(とざ)すか、本気を喋らないようになったのだ。
≪054≫ それでも「見せる」と「語る」をなんとか近づけようとした者たちもいる。ぼくの拙(つたな)い桑沢の授業のような工夫を、うんと本格的に試みてきた者もいた。かれらには「目利き」が躍っていた。
≪055≫ 千夜千冊で採り上げた例でいえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)、ジョン・ラスキン(1045夜)、内藤湖南(1245夜)、パウル・クレー(1035夜)、ジャコメッティ、岸田劉生(320夜)、ワイリー・サイファー(1777夜)、ロザリンド・クラウス(1778夜)、ドナルド・ノーマン(1564夜)、森村泰昌(890夜)、ヴィレム・フルッサー(1564夜)たちだ。
≪056≫ かれらは「あらわされる」ということがつねに「意味」を示してきたことを知っていた。そして「見せる」や「語る」には、そもそもわれわれには直示(Deixis)と像性(Bildichket)とが揺動していることを知っていた。だからイメージングやイメージメントの秘密を言葉や文章にしていった。イメージの哲学は、ここから組み立てなおさなければならなかったのである。
≪057≫ Info:⊕『図像の哲学 いかにイメージは意味をつくるか』⊕ ∈ 著者:ゴットフリート・ベーム ∈ 訳者:塩川千夏・村井則夫 ∈ 発行所:一般社団法人 法政大学出版局 ∈ 製本:誠製本 ∈ 印刷:平文社 ∈ 発行:2017年
≪01≫ 江戸末期から明治初期にかけて、釈雲照という真言僧がいた。文政10年(1827)の出雲生まれ、慈雲飲光(じうんおんこう)がいっとき住職をしていた松江の千手院で出家すると、高野山に入って密教灌頂(かんじよう)を受け、さてこれからという修学期の途中に「御一新」が断行された。
≪02≫ 激震が走った。仏教界は突然の神仏分離と廃仏毀釈を突き付けられて、むろん激昂もしたが、多くは狼狽した。そこへもってきて、ながらく禁制されていたキリスト教が波濤のごとく宣教師とともにやってきた。各地にバンドが形成され、ミッションスクールの準備がすばやく進み(札幌農学校、同志社大学など)、日本側でも若いキリスト者が次々にあらわれてきた。仏教界は焦り、ふてくされた。只事ではない。雲照は高野山を降りることにした。
≪03≫ 文明開化の機運に迅速な対応を見せたのは浄土真宗である。本願寺派は明治五年に梅上沢融(うめがみたくゆう)・島地黙雷・赤松連城らをヨーロッパに派遣し、大谷派は宗主の大谷光瑩(こうえい)みずからがリーダーとなって石川舜台(しゅんだい)・松本白華・成島柳北(なるしまりゅうほく)・関信三らとヨーロッパ視察に向かった。続いて今立吐酔(いまだてとすい)はペンシルベニア大学へ、南条文雄と笠原研寿はオックスフォード大学に留学した。
≪04≫ 帰国した島地黙雷は建白書を神道国教化に走る政府に突き付け、信教の自由や政教の分離を訴えた。ただそのためには、仏教の正当性や普遍性を訴えることが必要だった。御一新が示す「国家」(大日本帝国)と仏教方針が矛盾しないことを何らかの方法で強く主張する必要がある。では、どんな正当性や普遍性をもって説明すればいいのか。そこが問題だった。その後の黙雷については、あとで紹介する。
≪05≫ 雲照はどうしたか。師の慈雲が提示していた「十善戒」を軸に仏教戒律の重要性を謳って宗門改革に着手したいと思い、明治10年代からの俗に「徳教の争乱」といわれる国民道徳論争のムーブメントに参入していった。
≪06≫ 十善戒とは、密教修行が重視する身・口・意に発する「不殺生、不偸盗、不邪淫」(身)、「不妄語、不悪口、不両舌、不綺語)(口)、「不貪欲、不瞋恚、不邪見」(意)を厳守することをいう。わかりやすくは世にはびこる十悪を十善に転じていこうというものだ。そのためには戒律を守るべきであるとした。雲照には、日本人が近代社会のなかで徳教を身につけるには「善」を確立するための戒律をこそ身につけるべきだと思われたのである。かつて慈雲がこのことを『十善法語』12巻で説いていた。雲照はこれを近代日本に貫かせたかった。
≪07≫ ちなみにぼくは若い頃からの慈雲尊者の書の大ファンで、「十善戒」の書をふくめ、その決然の意気と、筆と筆法に惹かれてきた。とくに梵字の書がおもしろい。慈雲は梵語梵学(サンスクリット)にも長けていた。そういうことがあったので、慈雲が提唱した「雲伝神道」も気になってのちに覗いたのだが、これには驚いた。日本の神道には密教の曼陀羅観に近いものがいくつもあるのだから、神道と密教は習合するべきで、日本はこの方向に断乎進むべきだというのだ。平田篤胤の復古神道に近いともいえるけれど、そこに密教が強く絡んでいるところが大胆至極なのである。
≪08≫ おそらく雲照には、慈雲の「善」の思想と雲伝神道ならば御一新の日本にも受け入れられるだろうという判断が動き、それならば、仏教独自の「善因を積むことは悪果を招かなくてすむ」という因果応報の考え方を提唱するべきだと確信したにちがいない。雲照は一念発起し、『大日本国教論』を書き、十善戒こそが大日本に正当性や普遍性をもたらすと強調した。
≪09≫ 雲照の戒律運動には、痛烈な反論が出た。加藤弘之が文句をつけたのである。外務大丞、東京開成学校綜理、東京帝国大学総長を次々に任じた学識界のリーダーだ。ドイツ語・英語が堪能で、天賦人権論にもとづく啓蒙思想と社会進化論を確信していた。
≪010≫ 加藤には、大学が西洋知と東洋知の両方をまたぐ宗教研究の先駆にならなければならないという方針があった。東大に曹洞宗の原坦山を招いたのは加藤だった。坦山は福田行誡(ぎょうかい)らとともに諸宗同徳会盟をつくって廃仏毀釈の停止を求め、それとともにこんな危機をもたらした仏教界は僧侶興学に向かうべきだと檄を飛ばしていた猛者だった。
≪011≫ その加藤が当時の「哲学雑誌」に「仏教のいわゆる善悪の因果応報は真理にあらず」という内容の論文を発表し、いまさら「十善戒」程度の考え方が近代日本にまかり通るのはおかしいと断じたのである。天地間の自然の摂理に善悪の別を定めるなどというのは根本的にまちがっているとも述べた。
≪012≫ 加藤の言い分は、善を行なえば幸福を導くという考え方は自然の摂理に背いている、これは仏教が昔ながらの「業」「三世」「輪廻」などに囚われた因果応報論にいつまでもこだわっているからだ、そんな仏教がもちだす戒律などなんら社会的な効果をもちえないという、はなはだ唯物論的なものだった。
≪013≫ 仏教界が騒然とした。時の学識第一人者から上段の太刀が浴びせられたのである。仏教が持ち出す普遍性が疑われ、近代社会から不適合の烙印を捺されたのだ。雲照は憤然とし、弟子たちは同誌に反論を書いた。相手にならなかった。
≪014≫ 応援団もあらわれた。清沢満之(1025夜)は、今日の仏教こそが「十善十悪」と「三世因果」を遵守すべきだと擁護した。井上円了は『破唯物論』を書いて、加藤の西洋哲学理解にも問題があると批判した。近角(ちかずみ)常観は仏教の因果応報を客観視しないで宗教的自覚として捉えればいいんだという見方を出した。近角はぼくの父の故郷、近江湖北の出身の真宗大谷派の学僧で、本郷にいまも残る求道会館を建て、多様な仏教思想文化に寄与した。
≪015≫ しかし加藤は譲らなかったし、海外の仏教学者たちも日本仏教の善戒思想や因果思想には疑問を投げかけた。雲照の勢いは衰えていく。
≪016≫ 本書は、日本仏教が明治維新によって西洋世界と出会い、そのロジカルな歴史観や宗教観の圧倒を前にしてどう向き合えたのか、日本仏教が国際化をめざしてどんな波濤に揉まれたのかということをテーマに組まれた1冊である。執筆構成は龍谷大学アジア仏教文化研究センター(BARC)の明治仏教班による。
≪017≫ 明治初期を代表する14人の僧侶・仏教学者・宗教運動家・作家を扱い、それぞれの活動と思想と人脈が紹介されている。年齢順に、東陽円月(浄土真宗)、原坦山(曹洞宗)、釈雲照(真言宗)、島地黙雷(浄土真宗本願寺派)、南条文雄(浄土真宗大谷派)、小泉八雲(作家)、前田慧雲(浄土真宗・宗学者)、中西牛郎(漢学者)、釈宗演(禅宗)、忽滑谷快天(曹洞宗)、高楠順次郎(仏教学)、木村泰賢(96夜)(インド哲学・仏教学)である。執筆者は分担された。
≪018≫ 今夜は冒頭で、このなかの亀山光明による釈雲照の項目をぼくなりに案内してみたのだが、ハンス・マーティン・クレーマ(ハイデルベルク大学教授)による島地黙雷の分担論文が興味深かったので、以下その話をもとに「西洋世界に晒された日本仏教」の問題をかいつまみたい。
≪019≫ 世界史上、初めて「宗教」(religion)という概念が確立したのは19世紀後半のヨーロッパで科学(science)と出会うことによって「宗教」が自立した。「仏教」(Buddhism)という概念と呼称が成立したのもそのころだ。仏教はヨーロッパで”発見”されたのだ。それまでブッディズムという言葉もなかった。
≪020≫ ドイツの宗教学者ミハエル・ベルグンダーは、近代における宗教概念が確立するにあたっては、ヨーロッパの宗教は科学と「対立するか、両立するか」を迫られ、まずは「両立」を選択したとみなした。しかし宗教を科学と両立させるには、宗教みずからが領域分離(separation of domains)をおこすのか、同一性(identification)に向かうのかという第二の選択をクリアしなければならない。
≪021≫ 領域分離を選べば、宗教は自然世界を説明する権能(オーソリティ)を放棄して、これを自然科学に譲ることになる。近代キリスト教はここで悩んだ。悩んだあげく、プロテスタント教会は、物理世界の真理は近代科学の管轄下におかれるだろうものの、宗教にはそれとは別の真理があると主張した。少し遅れてカトリック教会もこの判断を受け入れた。
≪022≫ 同一性を選択するとどうなるのか。科学が物理世界を説明する権能を完全に独占することを認めず、かつそれとともに科学は宗教についても意義のある説明をするべきだという立場をもつことになる。こちらの立場を選んだのは当時の「神智学」(theosophy)だった。ヘレナ・ブラヴァツキーが唱導した普遍宗教観や心霊主義や、その唱導に応じて節制されたヘンリー・オルコットの神智学協会がこの立場の先頭に立った。
≪023≫ この2つの選択を通して、近代社会は「宗教」と「非宗教」を分けていく。宗教として認知されたのは領域分離を選んだ団体や思想だった。ヨーロッパの宗教学は、仏教が宗教であるとすれば領域分離をしたはずだとみなした。一方の同一性を選んだほうは、宗教学からは「エゾテリズム」(神秘主義)のラベルが用意された。クレーマは書いていないが、このエゾテリズムの流れはもともとはグノーシスや新プラトン主義やユダヤ教カバラとして潜在的に活動していたものである。
≪024≫ では、仏教はどちらの道を進むと考えたのか。日本の近代仏教はどちらかを選んだのではなかった。これらの境界突破をめざそうとしたのである。いわば独自路線を選んだのだ。とくに浄土真宗がその先頭を切った。
≪025≫ 本書は「イメージはどのようにして意味をもつのか」ということに挑んだ一冊である。著者のゴットフリート・ベームはドイツの美術史家で、遠近法の研究、ルネサンスの肖像画をめぐるイコノロジー、セザンヌの画法などを探索して、夙(つと)にこれらについてまとめ、2005年からはバーゼルのスイス国立科学財団(SNSF)に所属してイメージをめぐる研究チームを主導してきた。バーゼルは世界中の300近いトップ・ギャラリーが集まる「アート・バーゼル」の聖地である。
≪026≫ ベームはイメージをつくっている主要なものを「像ないしは図像」(Bild)とみなし、画家やアーティストたちが自分の作品でどんなふうに像や図像を扱ってきたのかを分析した。本書にはそのビルト分析の成果がいかされている。
≪027≫ 分析にあたっては解釈学(Hermeneutic)に依拠した。シュライアマハーに始まりハイデガー(916夜)やガダマーやリクールに及んだ、あの解釈学だ(ロムバッハ1782夜参照)。とくにガダマーの『真理と方法』(法政大学出版局)を導きの糸とした(ガダマーとの共同研究もしている)。この大著は第1部で芸術がとりくむイメージを対象にしていた。
≪028≫ ベームもガダマーに倣って芸術作品をとりあげることによってイメージの正体を浮き彫りにしようとした。たとえばヤン・ファン・アイクの《アルノルフィーニ夫妻像》、アンリ・マティスの《ダンス》、エル・リシツキーの《プロウン・ルーム》、ジャン・デュビュッフェの《形而上学》などなどだ。本書にはそのほか100例以上の視覚作品が登場する。
≪029≫ ガダマーやベームは、対象や現象それ自身が存在することによって何かを「見せていること」(Zeigen)を重視する。それは「見え」「様子」「アピアランス」でもあるが、外見的なことだけではない。「ぼくのおばあちゃんがそこにいる」ということには、外見だけではないものが含まれる。おばあちゃんもイメージやイメージの束なのである。
≪030≫ そうした「もの」や「こと」が「見せていること」は、われわれに何かの反応を促し、知覚・認知・記憶・表現をゆさぶり、なんらかのイメージングをキックしている。それなら、それらを言葉や図像やスケッチやデッサンにあらためて表現転化するということにはどんなしくみが作動しているのか。二人はそこを議論のスタートにおいた。
≪031≫ 大前提にしたのはとても大事なことだった。すなわち「語ることは示すことである」けれども、とはいえ「見せることは語ることではない」という前提だ。
≪032≫ アーティストやデザイナーは「見せる」という行為をおこす。その「見せる」には「語る」ための習慣や文法や解釈とは異なることが出入りする。左脳的ではない右脳的な反応によるとも推察されているが、それだけではない。そこには絵筆や粘土やカメラなどの道具もかかわるし、それよりなにより「見せる」が成立できるのは作品を成立させている何かが「見る解釈」をもたらしているからなのだ。
≪033≫ そもそも「語る」も「見せる」も意味を誕生させていて、その意味は「語る」においても「見せる」においても共通するはずなのである。おそらく「歌う」「聴く」にも共通するだろう。イメージとしてそこに示されているものは意味であるか、その意味の半ちらけか片寄りか、ないしは重なりなのである。
≪034≫ つまりはイメージの正体は意味を暗示するものだったのである。ぼくはのちに、そこには「単語の目録/イメージの辞書/ルールの群」が総動員されるとみなした。
≪035≫ われわれには対象のイメージを通して、そこにひそむ意味を掴むメタ・ホドス(方法)が内在しているのである。ヴィゴツキーはそれらを認知道具と呼んだが(1540夜参照)、それをわかりやすくいえば「感知力」(Gespür)とでもいうものだ。
≪036≫ ただしこの感知力は直立二足歩行をして脳を肥大化させたわれわれに内在しているだけに、認知道具が掴んだイメージを外にあらわそうとすると(言葉やスケッチや楽器によつて)、さまざまな差異が生じる。とんでもないものにもなる。子供のころの図工の授業で写生やデッサンに各自の著しいちがいが出たように、素材や大きさによってもちがってくるし、その当人の中でも野菜を見るときと飛行機を見るときでは、感知力の外在化にちがいがあらわれる。
≪037≫ この外在化のちがいをもたらしているイメージングの基礎の単位のようなもの、そこに立ち上がってきたもの、それが本書で「図像」(ビルト)とされたものである。
≪034≫ 日本仏教が内憂外患に立たされたと見るのは、単純すぎる。内とも外とも闘って隘路を切り拓こうとした一群がいたというのが実情だ。たとえば、本書がとりあげた14人の中には、海外に向かった者たちがいた。
≪035≫ 東陽円月はハワイ開教に挑み、南条文雄はオックスフォード大学でマックス・ミュラーの指導のもとでサンスクリット文献の研究に入りこみ、高楠順次郎もミュラーに学びサンスクリット語とパーリ語を修得し、ベルリン大学、キール大学、コレージュ・ド・フランスにも学んで、チベット語、ウラル・アルタイ語、ヴェーダ文学、ウパニシャッド哲学を渉猟した。
≪036≫ また釈宗演はシカゴ万国宗教会議の日本代表となり、木村泰賢はイギリスとドイツに留学して原始仏教やアビダルマ仏教やインド六派哲学の解明を先駆した。すでにのべたように黙雷もヨーロッパ視察をした。
≪037≫ こう見ると国際派が目立ったように見えるのだが、むろんそんなことはない。土着的な日常生活の中の仏教を守りたいと思ったほうが圧倒的に多かった。そして、その中に仏教思想を独創的なものに転換しようとした者たちがいた。
≪038≫ たとえば椎尾弁匡(しいおべんきょう)のように社会事業にとりくんで「共生」(ともいき)を主唱した例、泉鏡花(617夜)や高山樗牛や倉田百三のように小説の中に仏教の聖性をあらわそうとした例、加藤咄堂・森田正馬(1325夜)・古沢平作のように保健精神、坐法、精神修養、精神医学と仏教を結んだ例、太田垣蓮月・平塚雷鳥(1206夜)・岡本かの子・高群逸枝のように仏道信仰をいかした女性たちの例、そのほか救済活動や児童教育に仏教をいかした例などもあった。
≪039≫ 本書のなかでは、忽滑谷快天(ぬかりやかいてん)や中西牛郎がユニークだ。この二人の話をしておく。
≪040≫ 幕末生まれの忽滑谷(1864~1934)は曹洞禅の学僧で、『修証義』を英訳するような語学才能もあったのだが、曹洞宗の宗門からはつねに失格者の烙印を捺されてばかりいながらも、最後は駒沢大学の初代学長になった。富永仲基の『出定後語』(1806夜)を復刊させたのも忽滑谷だった。
≪041≫ しかし異端視された。『正法眼蔵』(988夜)は宇宙と人間の真理を説いているのだから「常識宗」として認識されるべきであるとか、曹洞禅は中世の瑩山紹瑾(けいざんしようきん)以来、密教的な要素や稲荷信仰などをとりこんできたのだから、近代仏教としての曹洞禅はもっとスピリチュアルになっていったほうがいいとか、やや大胆に、やや大声で汎神論的な主張をしたためだった。
≪042≫ 忽滑谷が旧仏教を新仏教として衣替えをしようとしたように、中西牛郎(1859~1930)も新仏教を提唱した。肥後の士族で、漢学者でもあった中西は明治14年に父親とともに熊本で神水義塾をおこした。その主旨は「仁義忠孝の道を講明し、経世有用の才を育成し、広く欧米百科の学を研究する」というものだったから、およそ仏教とは無縁で、むしろ国権思想に片寄っていた。
≪043≫ それが同志社で英学とキリスト教を学び、赤松連城・南条文雄・八淵蟠龍と出会って仏教界の人脈を広げ、西本願寺の門主・大谷光尊(明如)に引き合わされているうちに、何かが変化した。『宗教革命論』を著し、雑誌「國教」「経世博議」の主筆となって、まさに「新仏教」を主張するようになったのである。
≪044≫ 中西は、宗教というものは「自然教」(natural religion)と「顕示教」(revealed religion)の両方の側面を発揮するべきで、前者は科学や哲学などの知的営為が加わって検討可能なものになっていいが、後者は道理に超絶したものを感得することに意義があると見て、こういうことはコントの人道宗、スペンサーの不可思議宗、トマス・アーノルドの経験宗ではなかなか獲得できないものだと説明しはじめた。
≪045≫ それで中西は何を示したかというと、宗教は多神教から一神教へ、一神教から汎神教に至る方向をもっていて、自分が考える新仏教は「道理宗教」としてパンシーズム(万物皆神教)になるだろうと言うのだ。しかも、このような新仏教はユニテリアンのキリスト教を一歩進めれば見えてくるだろうと予告した。
≪046≫ これで西本願寺とは縁が切れた。中西は清沢満之の精神主義を批判して、自分の提案する宗教は「システマチック・ブッヂーズム」というものになるだろうと言い出して『組織仏教論』をまとめると、人間は必ずブッダの救拯を必要とすると結論づけたのである。
≪047≫ 中西はいわば「宗教の脱キリスト教化」を思いついたのだったろうと論者の星野靖二は書いている。しかしほとんどの者がついてこなかった。晩年は天理教に近づき、台湾に渡り、72歳で没した。
≪048≫ 日本近代仏教の揺曳は多様だったともいえるし、本格的に一度も束ねられなかったともいえる。ついに欧米の求める「宗教」に合接することも、また迎合することもできなかったのである。
≪049≫ 矜持のせいだったのか。頑固だったのか。そもそも仏教が「宗教」から逸脱していたのか、それとも「日本化」にわかりにくさが生じたのか。もし「日本化」になんらかの特色が出ていたのだとしたら、近代仏教は原始仏教以来の「ブッディズム」に回帰しようとして、その日本化フィルターの解説を怠ったように見える。もし原始仏教以来の「ブッディズム」にこだわるのなら、その後のインドや中国が仏教を積極的に持ち出さなくなった理由を説明すべきだったのかもしれない。けれども、そのいずれをも深化させられなかったのである。
≪050≫ それでもよかったのかどうか。いいわけではなかったはずだが、なんとか捲土重来をはかろうとしているうちに、昭和日本がかなり変質していった。そのため、一方では軍国主義・国家主義と日蓮主義が結びつき、他方では大本教をはじめとする新興宗教が抬頭し変転していった。
≪051≫ それからあとは戦争だ。国家そのものが焦土と化してしまい、戦後になっては、今度は仏教界の多くが民主主義や資本主義と向き合い、ポピュリズムの趨勢に包囲されることになったのである。
≪052≫ ぼくがこうした実情を一覧したのは、「現代日本思想大系」(筑摩書房)の第7巻「仏教」でのことだった。1965年の刊行で、吉田久一が編集構成していた。初めて島地黙雷・井上円了・清沢満之・姉崎正治・福田行誡・村上専精・田中智学・金子大栄・曽我量深の文章に出会って、瞠目したことをいまでもまざまざと思い出す。しかしそれとともに、そこには日本の近代仏教思想の隘路が意地のようにこびりついていたことも思い出せる。本書がその感想を覆してくれると期待していたのだが、残念ながらそういうふうには、読めなかった。他日を期したい。
≪01≫ いま、世界には5100ほどの言語がある。ネトルとロメインの『消えゆく言語たち』(新曜社)を紹介したときにも書いておいたように、約30年前は6000語あった。多いと思うか、そんなものかと思うかはわからないが、500年前にはその倍の12000語くらいあった。ここまで減ったのだ。死んでいるのだ。
≪02≫ その現行5100語のうちの30パーセントがアジアで、30パーセントがアフリカで、20パーセントがオセアニアで使われている。しかし世界の人口の45パーセントは中国語、英語、スペイン語、ロシア語、ヒンディ語の5大言語で賄っている。この5言語が世界のほぼ半分の言語を牛耳っている。なかで英語は殺害力をもって、その多数派言語の中の王者のようにふるまい、少数派の国語たちにも浸透していった。
≪03≫ 一方、世界中にはびこっているのは、プラスチック・ワード(plastic word)というペットボトルのような言葉なのである。プラスチック・ワードとは、意味が曖昧なのにいかにも新しい内容を伝えているかのような乱用言語のことだ。
≪04≫ 合成樹脂のようにできた言葉だから、一応の成型はいくらもできるが、体温も生活も感情もない。たとえば「アイデンティティ」「マネージメント」「コミュニケーション」「インフォメーション」「マテリアル」「グローバル化」「トレンド」「セクシャリティ」「パートナー」「コンタクト」「イニシアチブ」「ソリューション」などなどだ。これらはその用語を発しさえすれば、それにまつわるいっさいの状況の進展や当事者の方向をどこか特定方向に押し出していく。押し出しながら中味を充実させることなく、圧倒的な猛威をふるっていく。
≪05≫ 1981年のこと、ウヴェ・ペルクゼンはベルリン学術研究所でこの現象について、イヴァン・イリイチと議論した。米ソ対立が続き、ヨーロッパは欧州共同体を模索していたが、先進国の社会のほうはどこか変てこに転げつつあった。市場と企業だけが前のめりに、つんのめっていた。
≪06≫ 2人はヨーロッパの中で学習力や教育力が落ちていることを感じていた。イリイチは民族格差と男女格差が広まっていると見ていた。作家であって言語学も専攻していたペルクゼンのほうは「言葉の力」が失われているせいだと思い、さて、どうしたものかと困っていた。イリイチはそういう問題をどうしたら告発できるかねと問うたのだが、ペルクゼンは告発ではなく、まずこの現象について考えてみたいと思った。それで書いたのが本書である。
≪07≫ 最初、ペルクゼンは本書のタイトルを『レゴ・ワード――静かな独裁制』にしようと思ったらしい。レゴ・ブロックのように組み立てられていく言葉で、一見、多様自在な様相を呈するが、しかしその部品はもともとレゴにすぎない、そんなレゴまがいの言葉がまかり通っていることを揶揄したかったからだ。
≪08≫ イリイチは「アメーバ語」でもいいじゃないかと言った。アメーバは仮足で動きまわるから、本体をはっきりさせない乱用言語にふさわしいというのだ。レゴとアメーバではずいぶん印象が異なる。
≪09≫ そんなときロラン・バルトの『現代社会の神話』(みすず書房・著作集3)を読んでいたら、世界はどんどんプラスチックになろうとしていると書いていた。「諸々の実質の階層秩序は廃止されている。たった一つの実質がすべての実質に取って代わっているのだ。世界全体がプラスチック製にされる可能性がある」と。これでペルクゼンは「プラスチック・ワード」でいくと決めた。バルトはこう書いていた。「プラスチックというのは、ひとつの実質であることをこえて、無限の変形という観念そのものなのである」。
≪010≫ 言葉にはその周辺をとりまくアウラがある。そのアウラは言葉の意味にしたがって、デノテーション(外示作用)にもコノテーション(内示作用)にもはたらく。デノテーションは言葉が指示的なしくみをつくろうとする方に動き、コノテーションは言葉によって感知や連想がはたらく方に動く。
≪011≫ ところがプラスチック・ワードは、さまざまな意味の輪郭を描くようでいて、そうはならない。プラスチック・ワードには内部の多様性がない。どんな部分も他の部分と同じものになっていて、ただその組み立てを変えているからだ。プラスチック・ワードにはアウラがないのである。
≪012≫ ペルクゼンはひとまず、プラスチック・ワードに共通する特徴をあげてみた。「リアリティ」「アイデンティティ」「エコ」「セクシャリティ」「トレンド」などの使われ方を調べてみたのだ。驚くべき特徴がまじっていた。こういうものだ。
≪013≫
◎きわめて広い応用範囲をもつ。
◎多様な使用法がある。
◎話し手には、その言葉を定義する力がない。
◎多くは科学用語や技術用語に起源をもつ。
◎同意語を排除する。
◎歴史から切り離されている。
◎内容よりも機能を担っていく。
◎コンテキストから独立していく。
◎たいてい国際性を発揮する。
◎その言葉をつかうと威信が増す。
≪014≫ 多くのプラスチック・ワードが役所の文書、企業の計画書、流行雑誌のヘッドラインに乱れ飛んでいた。そうしたものでは、まずプラスチック・ワードが掲げられ、しばらく現状説明があって、途中にプラスチック・ワードが必需品であることが述べられ、また現状変革のための条件の説明に入り、最後にまたまことしやかにプラスチック・ワードで締めくくられる。一見、体裁はととのっているようだが、何の説明も深まってはいない。内容がなく機能に偏り、話し手には中枢概念(プラスチック・ワード)を説明する力がない。しかも、すべてが歴史から切り離されているのだ。
≪015≫ プラスチック・ワードは空虚な定型語なのだろうか。そうではない。どうやら他の言葉を植民地化しているようなのである。だったらプラスチック・ワードはスローガンやキャッチフレーズのようなものなのか。そうではない。その言葉によって鼓舞ではなくて封鎖がおこっているのだ。
≪016≫ ペルクゼンは思い出した。これはトクヴィルが『アメリカの民主政治』(岩波文庫・講談社学術文庫など)でとっくに述べていたことに似ているのではないか。トクヴィルは1835年の時点で、アメリカ英語が「抽象化」「擬人化」「曖昧化」という傾向に走っていることを指摘していたのだ。こうしてペルクゼンは、プラスチック・ワードには歴史的次元や同意語社会を溶けさせるような作用があることを発見する。その例として「インフォメーション」(情報)をあげた。
≪017≫ 古典ラテン語の“informatio”は「教育、伝授、指示」という意味をもっていた。また、それによって喚起される「想像、表象」もあらわしていた。中世ラテン語でこれに「調査、探求」が加わった。このラテン語を英語が借用して19世紀半ばに“information”とした。
≪018≫ 借用語の英語「インフォメーション」は「調査・探求・知らせ・報告」という意味で使われた。19世紀はとくに新聞が普及したので、ここにニュース性や報知性という意味がたちまち加わっていった。かつての「教育、伝授、指示」は変形されたのである。それでもまだインフォメーションは新聞の活動力とともにあったのだが、やがてラジオ時代、テレビ時代をへてコンピュータ通信時代がやってくると、その通信回路に流れているインフォメーションが情報になってしまった。エンコード(符号化)とデコード(復号化)のあいだの回路で、情報は意味をもたなくなった。のみならず、インフォメーションは情報機器から生ずるものにさえなった。情報内容は情報機器に内属し、取り込まれてしまったのだ。
≪019≫ これで“information”の中味から「教育、伝授、指示」の意味と作用が剥落しただけでなくて、「想像、表象」が消滅した。インフォメーションは完全なプラスチック・ワードと化したのである。
≪020≫ ざっとこんなことが書いてある本だ。あえてちょっとだけリクツっぽい要約をしておいたのだが、実際の本書には煮え切らないところが多い。説得力も足りない。プラスチック・ワードを捕捉したようでいて、かなり取り逃がしているところがある。イリイチのように告発する気になっていたほうがよかったかもしれない。
≪021≫ しかし、捕捉しきれないところがプラスチック・ワードの食えない特徴というもので、根っからの嫌なところでもあった。
≪022≫ ペルクゼンはヘルマン・ヘッセ賞を受賞した小説家でもある。その嫌な特徴をあらわすために、あえて本書のような記述っぷりを文芸的に選んだのかもしれない。1988年の執筆だったということも、警世感がいまひとつだった理由ともなろう。そこでもう少し、今日ふうの捕捉ならぬ補足をしておきたいと思う。
≪023≫ プラスチック・ワードとはやや異なるが、バズワード(buzzword)として、世の中に流通しっぱなしになっている言葉がある。専門的な用語に聞こえるが、実は意味不明のまま流通している言葉のことをいう。“buzz”という音感と意味は、ブザー音や蜂がぶんぶん唸っている風情のことだ。
≪024≫ とくにIT業界でバズワードがリストアップされてきた。いくら説明を聞いても、その用語を使う以外の説明の領域にまで到達できなそうな言葉のことである。たとえばマルチメディア、ニューメディア、ユビキタス、web2・0、スマート、インテリジェント、クラウドなどがバズワード扱いされた。企業用語のビジネスモデル、マネタイズ、ステークホルダー、ディシプリン、コンプライアンスなども烙印を捺された。
≪025≫ バズワードはプラスチック・ワードに似ている。似てはいるけれど、たんに「中味が過疎な言葉」というのではない。いまや「バズった」と使われているように、「いま、その言葉じゃないだろ」というふうに相手を詰るたびに、浮上する。プラスチック・ワードは説明をしたくて空疎化したのだが、バズワードはそこに近寄らないためのレッテルになったのだ。
≪026≫ 1930年代のアメリカで最初にバズワードという言葉が世に出てきたときは、「人を唸らせるような気の利いた言葉」や「人気になった言葉」のことだった。それがすっかり転落していったのである。最近では「使い方をまちがった言葉」のすべてが「バズった」の対象になった。2017年の日本のバズワードランキングには「プレミアム・フライデー」、「忖度」、「働き方改革」などが入っていた。
≪027≫ シグナルワード(signal word)というものがある。「危険」(Danger)とか「警告」(Warning)とか「注意」(Caution)というやつで、町にも工場にも製品にも掲示されている言葉のことだ。禁止ではなく、「ここは危ない」という警戒心を促しているのだが、実は何を警戒したらいいのか、いまひとつ中味がわからない。自動販売機には「警告。転倒することがあります」と付され、UFOキャッチャーには「注意。この中にはぜったいに入らないでください」と、産業ロボットには「危険。衝突のおそれがあります」とある。何が危険で、何が警告で、何が注意かはよくわからない。けれどもそれを怠って事故がおこったら、当事者が責任をとらされる。
≪028≫ バズワードもシグナルワードもプラスチック・ワードではない。「まちがい領域」を示すだけの目的に成り下がった言葉なのである。ようするに、コミュニケーションを進行させるとか深化させるのではなく、肝心の領域に入らないための用語なのである。いわば編集不能をつくりだすためのワードなのだ。
≪029≫ ペルクゼンはプラスチック・ワードが言語文化の縮退や思考力の低迷を招くことを感知した。そのうえで、言語が言語を撥ねつけていく構造に関心をもったのだろうと思う。しかしもしそうだとしたら、禁句、ジャーゴン(隠語)、言葉狩り、おねえ言葉、いじめ用語などの、言語文化の多様ではあるが、相互陥落をおこしかねない言語的自己撞着の解明のほうにも、もっと突っ込んでいくべきだったのである。
≪01≫ 結論から先にいうと、ぼくの「編集の先達」は世界中の本たちだった。書店や図書館や古本屋に通ってたくさんの本を矯めつ眇めつ眺めて出会っているうちに、編集の醍醐味が伝わってきた。本をよくよく見てさえいれば、世界観のつくり方やカットアップの仕方や、アナロギア・ミメーシス・パロディアをどう案配するかが伝わってきた。
≪02≫ 編集は本づくりにあるだけではない。書いたり読んだりすることも編集である。それゆえ技法としての編集力は、書き手のメッセージやコンテンツの内容だけを相手にするのではなく、そこにメソッドとメディアをくっつける。編集にはメッセージ(Message)とメソッド(Method)とメディア(Media)という三つのMが一緒に動く。編集力はこの3Mによってむくむくと顕在化する。それをみごとに体現しているのが本なのである。
≪03≫ 3Mによる編集力はすぐれた言語表現者とともに、さまざまな芸術的表現者によっても発揮されてきた。
≪04≫ そういう編集力の見本はたくさんある。空海にもライプニッツにもヴィーコにも、藤原公任にもモーツァルトにも荻生徂徠にも、オスカー・ワイルドや菊池寛やジャコメッティや、北大路魯山人にもデュシャンにも阿木燿子にも躍如する。かれらは実に多様な編集手本を見せてくれた。ぼくはそのつど食い入るように見つめた。手本は文学だけでなく、アート作品や工芸や商品にもあったのである。
≪05≫ たんなる創造力ではない。表現力でもない。表象力あるいはメディエーションを伴う想像的編集力だ。ぼくはそのうち、こうした編集的な3Mを顕在化させるスコープの仕事をまとめて「編集工学」と呼ぶようになるのだが、明確にそういうふうに呼ぼうと思うまでには紆余曲折があった。
≪06≫ しかし、いまあらためてまとめていうとすれば、編集工学は「遊」を編集しているうちに芽生え、バルトとフーコーに暗示を受けて船出して、LisaとマッキントッシュのGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェース)を見たときに化けた。そんなふうに、かいつまめる。
≪07≫ そのへんの出会いと考え方についての経緯を順を追って話したことがないので、少しレトロスペクティブに説明しておく。
≪08≫ 一九七一年夏、「遊」は「読み/書き/語り」にひそむ相互的な互換性を「関係の束」として感じながら行き来してもらうにはどうしたらいいのか、どんな表象空間(=メディア=インターフェース)を用意すればいいのかという模索から生まれた。「オブジェ・マガジン遊」と銘打ったのは誌面の中でさまざまなオブジェクトを動かしたいという意図があったからで、あとから想うとスモールトークによるオブジェクト指向をやや先取りしていたようなところがあった。
≪09≫ 雑誌の編集制作は連載ものやコラムを別にすると、次号あるいは次々号の特集を組み立てることから始まる。毎号、何十ページかの紙の束の中に特異な仮想空間をつくるのである。そのためいろいろな事前準備をする。企画をたて構成ができたら、ラフなサムネールとページ割りにもとづいて、複数の執筆者に原稿を頼んだりインタヴューをしたりする。対談も入れる。
≪010≫ 原稿は「書きもの」だから、これはフォーマットにあわせて整理して、ページ状の仮想空間の中の柱にする。記事のタイトルは書き手(執筆者)が予定した言葉を尊重するけれど、少し変えることもあれば、サブタイトルで編集構成を強調して編み出すようにすることも多い。インタヴューや対談は「語りもの」なので、声を文字に変換するためテープをおこして中身や分量を案配して、対談時やインタヴュー時の臨場感を再現する。臨場感を失ったインタヴュー記事はつまらない。「えーっと」「それでね」「とかなんとか」といった口語通りにすれば臨場感が出るわけではない。むしろ「声の文字」「耳の言葉」にすることを努力する。
≪011≫ 「書きもの」にも「語りもの」にも、大小の見出し(ヘッドライン)が必要である。見出しは編集トリガーであって、読者の止まり木であり、関心と注目のための手摺りである。それとともに日本料理が皿や小鉢や椀にさまざまな器を使うように、タイトルとヘッドラインも「言葉の器」による盛り付けを心がける。だからタイトルやサブタイトルは記事によってボリュームやスタイルが異なるし、見出しは文頭や文中に入れるとはかぎらない。肩に付いたり、袖に付いたり、裾に付いたりする。フォントも変わる。
≪012≫ こうして特集全体を一連の「読みもの」として仕上げる。「読みもの」ではあるが、これは小さなスペクタクルでもあるので、テキスト、写真などのヴィジュアル、ヘッドライン、キャプション、図解などがページをまたいで連鎖的あるいは断続的に組み合わさっていくように仕立てる。
≪013≫ ときには引用やクロニクルや参考図版も入れる。執筆者や登場人物たちには顔写真やプロフィールが絶必だ。書き手や語り手は表情をもっている。
≪014≫ こんな作業が次々に編集され、ページデザインされる。それは「読み/書き/語り」を相互に互換させる「仮想的編集体」とでもいうべきものの出現なのである。「遊」ではそういう特集タイトルとして「叛文学非文学」「相似律」「存在と精神の系譜」「呼吸+歌謡曲」「観音力+少年」「世界模型+亜時間」「盗む」「仏教する」「日本する」といったタイトリングを施した。
≪015≫ 編集制作をしているうちに気が付いた。もともとテキストや画像データは、どれ一つとして孤立してなんかいないということだ。それぞれが「互いにつながりあおう」としているのではないか、編集とはその「つながり」を掬いとる作業ではないかと思えた。アルス・コンビナトリアである。
≪016≫ 何によってつながっているのか、当時はまだそれが「情報の編集の仕方」によるつながりだとは言えなかったのだが(そのころは「意味」のつながりだと思っていた)、それでも、そのつながりをエラボレートする(入念に仕上げる)つど、ぼくが考えている「編集性」は、非線形的で重畳的で、多分にアナロジカルなものだろうという確信をもった。
≪017≫ 一方、本と知識がもたらしている成果から学ぶべきことが、いろいろあった。テキストが個別テキストの流れを超えて自在につながりあっていることは、ロラン・バルトの『S/Z』(みすず書房)やミシェル・フーコーの『知の考古学』(河出書房新社)がいちはやく示唆していた。
≪018≫ 『S/Z』はバルザックの短編小説とその注解で構成されたもので、バルトはテキストを超テキストないしは互換テキストとして扱いたがっていた。そうか、そういうことかと膝を打った。『S/Z』はバルザックのテキストよりもバルトが書き入れた注解のほうが多く、その注解で元テキストが分断され、横超され、意図的に再統合されていたのである。
≪019≫ フーコーの『知の考古学』はもっと意図が明確だった。一冊の書物が示したテキストは、それ自体として網目(ネットワーク)が言及する結節点なのであるというテキスト像を持ち出していた。フーコーはそこにエノンセ(言表体)というモジュールさえ現出させていた。この見方に大きく影響された。少し遅れてジャック・デリダは『グラマトロジーについて』(現代思潮新社)で、テキストの単線的な書き方と非線形的な書き方を対比して、「意味は継時的な秩序、すなわち論理的な時間の秩序や音声の不可逆的な時間制にしたがってはいない」ことを指摘した。これらのことはぼくにはある程度は自明のことだったのだが、強い援軍を得た気分になった。
≪020≫ テキスト思想はそれでいいとして、では、そうした平行交差するパラテキスト状態を紙の束の上ではどうあらわせばいいのか。「遊」では、それを杉浦康平さんや戸田ツトム・木村久美子・森本常美・海野幸裕君らと相談して、とりあえずは複合的なレイアウトに仕立てたが、ほかに手はあるのか。もっとリアルタイムにその平行交差を実感できる手はないのか。コンピュータやワードプロセッサーは編集の支援ツールとしてどこまで進化できるのか。そんなことを模索しつづけていた。
≪021≫ ①
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≪022≫ ②
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≪023≫ ③
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≪024≫ ④
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≪025≫ ⑤
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≪025≫ ⑤
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≪027≫ ⑦https://1000ya.isis.ne.jp/file_path/1717_img013.jpg
≪028≫ 編集力は機械にも充当できる。とくに楽器、ロボット、コンピュータだ。しかし多くは操作的で、編集的になっているというものは乏しかった。そこへ突如として登場してきたのがアップル・コンピュータのPCシステムだった。
≪029≫ 若いウォズニアックとジョブズが一九七七年に試作したアップルⅡは専用フロッピーディスクドライブがついていて、外部モニターにつなぐだけで起動した。一九七九年に発表された表計算ソフト(VisiCalc)は大ヒットして、八〇年には一〇万台、八四年には二〇〇万台が出荷された。
≪030≫ ついでLisaが発表された。支援ツールというより「プレ編集マシーン」めいていた。ギョッとした。Lisaをぼくに見せてくれたのは、当時「遊塾」(ぼくの無料塾)に来ていた電通の秋山隆平君だったが、そこには驚くべきしくみが提示されていた。続いてマッキントッシュのプロトタイプが発表された。複数のテキストや画像がマルチウィンドウで表示され、さまざまなコンテンツはすべて枠組をもっていて、ユーザーはそこにカーソルを当てて動かせた。テキストの部分(単語)にリンクを張り、部分どうしを複数のノードで結べるようにもなっていた。
≪032≫ これでは「遊」は休刊だ。工作舎を出て、数人で松岡正剛事務所をつくり、そこで一から組み立てなおすことにした。紙の「遊」の試みは十年で了った。
≪031≫ これらは青年ジョブズがゼロックスのパロアルト研究所(PARC)で見たGUIを採り入れたもので、ぼくが紙の束で考えていたことをやすやすと乗り越えていた。とくにマウスによってカーソルが動くのが卓抜で、「やられた!」と思った。「紙ではできない。目が動くポインターになっている」と呻くしかなかった。
≪033≫ 松岡正剛事務所には電子淑女とぼくが呼んでいた北里大出身の渋谷恭子がいた。彼女はたいへんアクティブで、電電公社やオムロンやNECといった企業のおもしろそうな部門に行っては、ぼくが挑むべき仕事をとってきてくれた。IQもやたらに高い。
≪034≫ 電電は民営化の最終準備に入っていて、記念出版物『情報の歴史』(NTT出版)の構成編集と、情報文化フォーラムの仕切り役を頼んできた。フォーラムの成果は『情報と文化』(NTT出版)にまとめた。実はNTT出版という版元づくりも手伝った。オムロンとは「花鳥風月ナビ」というソフト開発をした。
≪035≫ そんなとき思いがけなく翻訳の仕事を頼まれた。リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』(日本実業出版社)だ。訳しているあいだに、そのワーマンからモントレーのTEDに招待され、四日間を楽しんだ。テッド・ネルソン、アラン・ケイ、ビル・アトキンソン、ジャロン・ラニアーらと話しこめた。
≪036≫ ネルソンはとっくに「ハイパーメディア」(hypermedia)と「ハイパーテキスト」(hypertext)という構想を提唱していて、この構想はもともとはヴァネヴァー・ブッシュの「メメックス」(Memex)の考え方にもとづいていると言った。アトキンソンは「ハイパーカード」(hypercard)というものを開発中なんだと言った。スーパーではなくハイパー。スーパーメディアではなくハイパーメディア。
≪037≫ ハイパーというのは日本語にしにくいが、幾何学では次元数が自由であることを、素粒子物理学では粒子が予想のつかない奇妙なふるまいをすることをいう。ハイパーキューブといえば変換が自在な高機能立体のことだ。
≪038≫ ビル・アトキンソンのハイパーカードはテキストや画像をもつカードそのものがノードになっているというもので、カードにはボタンも埋め込めた。いわば遺伝型(ジェノタイプ)と表現型(フェノタイプ)の両方をもっている情報単位カードなのである。プログラムにはHyperTalkを使うが、いったんハイパーカードができれば、それを使っていくらでもオーサリングができた。そうやってつくったファイルはスタックとしてさまざな活用場面を広げられるのである。
≪039≫ これはオチオチしていられない。一九八七年の暮、なにはともあれ「編集工学研究所」(Editorial Engineering Laboratory)をスタートさせた。「編集する」と「工学する」を突き合わせたわけだけれど、その突き合わせのアクチュアリティは、さきほど述べたように「遊」のころの「読み/書き/語り」の編集現場の渦中で感じていたものだ。松岡正剛事務所もそのまま残し、編工研のことは渋谷と太田剛に任せた。金子郁容・宮之原立久・川崎隆章と、なによりも当時のNTTの研究者たちが手伝ってくれた。
≪040≫ しばらくして、こんなニュースが届いてきた。一九九〇年五月、エルヴサム・ホールで「テクノロジーと人文科学の将来」をめぐる学会が開かれたとき、ヒリス・ミラーがこう言ったというのだ。ミラーはイエール大学の脱構築派の旗手だった。「関係は……複合的で、非直線的で、非弁証法的で、非常に重層決定されたものである。この関係を定義するには伝統的なパラダイムはそぐわない」。そりゃ、そうだろう。そんなことは当然だと思ったが、これで多くのことがピンときた。
≪041≫ ミハイル・バフチンがテキストの読み方として重視したのは、リンケージ(連鎖性)、インターコネクション(相互関連性)、インターウォーヴン(異質混交性)だったのである。デリダはそれを「リンク(連鎖)、ウェブ(クモの巣)、ネットワーク(網の目)、マトリクス(母型)によって読む」というふうに言い換えたのである。これらはその後、ハイパーテキストとして電子ネットワーク空間に投射された。
≪042≫ 八〇年代後半から九〇年代にかけては、日本がバブルに沸いてそのまま壊れていった時期だ。この時期は、一方では新たな認知意識の枠組がコンピュータ・ネットワークにかかわる技術や技能によってもたらされるのではないかという予感が急速に充ちはじめていた時期でもある。この時期に産業図書が次々に放った一連の本はたいへん刺激に充ちていた。
≪043≫ デイヴィッド・マーの伝説的な論考『ビジョン』、シャンジュー&コンヌがニューロンの正体に迫った『考える物質』、マーヴィン・ミンスキーがフレーム=エージェント理論を解きあかした『心の社会』、ハワード・ガードナーが人工知能研究探索をめぐった『認知革命』、ジョンソン゠レアードが認知の枠組を整理した『メンタルモデル』、リチャード・ローティのコア・コンピタンスにあたる『哲学と自然の鏡』、日本の脳計算研究をリードした川人光男の『脳の計算理論』、ペシス・パステルナークが二分思考批判をやってのけた『デカルトなんかいらない?』、下條信輔の実験心理学レポート『視覚の冒険』、加えて、アナロジーの力に注目したバーバラ・スタフォードの鮮やかな『アートフル・サイエンス』や、そしてデイヴィッド・ボルターの『ライティング・スペース』などだった。
≪044≫ 片っ端から読んだ。いずれも興味深く、すばらしいエクササイズやトレーニングになった。ぼくの編集工学はこれらの本に鍛えられ、しだいに構想がふくらみ、その構想をどうやって「関係の束」や「表象のメディア」にすればいいかという展望をもつにいたった。
≪045≫ 今夜とりあげたのはその一冊、ボルターの『ライティング・スペース』である。ニューパラダイムに向かって翼を広げた一冊で、著者はノースカロライナ大学で古典論や文学理論を修め、ジョージア工科大学でメディア論を教えている当時の気鋭の研究者である。NTTの情報文化フォーラムの大事な一員を担ってくれた黒崎政男君のグループが翻訳した。さらっとした翻訳で、あまり用語の意義にこだわってはいない。
≪046≫ タイトルに狙いがあらわれている。ライティング・テクノロジーがPCネットワーク上のハイパーテキストに向かう歴史的推移を証し、編集工学的なライティング・スペースの可能性をさまざまに提示した。
≪047≫ ライティング・スペースという言い方には、紙と電子をまぜまぜしたいというニュアンスがあらわれている。まだインターネットが登場してくる前の著作ではあるが、その先駆性ゆえの示唆をいろいろもたらした。
≪048≫ ボルターはライティング・スペースとしてのコンピュータが、これまでの文学者たちのさまざまな実験的な試みをあますところなく吸収できるだけではなく、それが電子的なハイパーテキストになることによって、新たなエクリチュールを感じさせるものになるという視点で、一冊をまとめた。
≪049≫ 冒頭、三人の本が案内される。ヴィクトル・ユゴーの『ノートル゠ダム・ド・パリ』(岩波文庫)、フランセス・イエイツの『記憶術』(水声社)、エリザベス・アイゼンステインの『印刷革命』(みすず書房)だ。これで本書の狙いがよくわかる。
≪050≫ 『ノートル゠ダム・ド・パリ』は伽藍(カテドラル)が知識と情報を刻んだ石造りのメディアであったということを、『記憶術』は中世の書物が「書き写し」と「読み移し」によって記憶と再生をリバースできる構成をもった紙のメディアであったことを、『印刷革命』はグーテンベルク以降の活版印刷が同一コンテンツが多くの読者に同時に読まれる可能性を孕んで書物・新聞・雑誌を新たな情報メディアにしていったことを、それぞれ告知していたのである。
≪051≫ それなら、電子メディアはこれらの先行力をどう統合できるのか。ボルターは「ことごとく」と回答する。
≪052≫ 書くとは、書き手の思考を外在化することである。その書き手は自分自身がそのテキストを最初に読む読み手でもあって、そのため、そこには当初から「書き手が読み手になっている」という再帰的な関係が成立する。
≪053≫ この「書き手≒読み手」の関係モデルは、やがて書物や新聞や雑誌を通して第三者の読み手にも移行して、3M(メッセージ・メソッド・メディア)をともなった「読み手≒書き手」モデルをつくる。この途中に媒介しているのが編集モデル(editing model)である。ここには「書きながら読み」「読みながら書く」という相互編集的なコミュニケーションが成立する。
≪054≫ しかし、ここには「書き手どうしがつながっていく」とか、「読み手どうしが重なっていく」というコミュニケーション・モデルは立ち現れてはいない。さらには、書かれたものや読まれたものが、次々にリンケージしていくとか、それらの情報体験がツリー状に蓄積されていくとかいうことは、メディア的に意図されてはいない。
≪055≫ ハーバード大学で社会学を修めたテッド・ネルソンが、六〇年代半ばに「ザナドゥ」(Xanadu)という仮想システムで提起したのは、以上のことをハイパーテキスト空間として実現できるようにしようというものだった。一九四五年にヴァネヴァー・ブッシュがマイクロフィルムによってさまざまなテキスト体験を習合させる「メメックス」を提唱したことを発展させて、これをコンピュータ・ネットワーク上に出現させようとしたものである。
≪056≫ 驚くほど画期的な構想だ。こんな構想をどうして六〇年代に思いつけたのか、ぼくはサンフランシスコのマリーナに係留されているネルソンのクルーザー・ハウスを訪ねてあれこれ話しこんでみて、びっくりした。ネルソンは人なつっこく話しながら、ぼくの話を次々に色別のポストイットに書き込むだけでなく、自分でそのとき思いついたことも書き込んで、それらをテーブルの各所や自分の洋服の左腕の袖や胸のあたりに、のべつ貼りまくるのである。
≪057≫ とてもおかしな異才だった。いったいどうしてそんなことを熱心にするのか聞き込んでいくと、彼には重度の注意欠陥障害があって、子供のころから思考が散漫になるらしく、それを「保持」したり「再生」したりできるようにするため、体中をインターフェースにしているのだという。これで得心した。なるほど仮想システム「ザナドゥ」はその拡張電子版だったのである。こうしたネルソンの思想はその後の『リテラリーマシン』(アスキー)という一冊にまとまっている。
≪058≫ ボルターがハイパーテキスト状のライティング・リテラシーには「トポグラフィックな特徴がある」と言っていることは、とても重要だった。ただしトポグラフィックの意味をちゃんと説明していない。
≪059≫ トポグラフィ(topography)はもともとは地勢や地形や地誌のことをあらわす用語なのだが、画家たちが風景や光景をトポグラフィックに描くというふうに言うと、俄然、ダイナミックな意味が躍る。ボルターは気がついていないようだが、ジョン・ラスキンがウィリアム・ターナーの絵を評したときに「ターナリアン・トポグラフィ」という表現をつかった。ターナー独特の地形的風景の描き方をそう呼んだのだ。そこでは「ヴィスタ」(vista)が「眺め解釈」の単位になっていて、今日のAIの画像認識に近い考え方が出現していた。
≪060≫ ぼくはこれが大いに気にいって、それからしばしばトポグラフィック・イメージという言葉をつかうようになった。観測者や書き手や読み手やユーザーがそこに接すると変化する精神地形のようなものである。陶芸家が「やきもの」をつくるたびにおこっていることである。最近では脳科学研究や医療分野で「光トポグラフィ」という分野が登場して、近赤外光を用いて大脳皮質の機能をマッピングする装置もある。変換観測ができることがトポグラフィックなのだ。
≪061≫ ハイパーテキストやハイパーメディアは、思考や情報をトポグラフィックな網目の中の出来事に変えていく。それも発信者と受信者のアリバイを問わない「交信の途中」からそうさせていく。ぼくはこの「相互変容がつくりだす創発」こそが編集工学がめざしていることだと確信した。だとしたら編集工学はつねに「交信の途中」を受け持たなければならない。そう、考えた。
≪062≫ 九〇年代の日本は「失われた十年」になったが、ハイパーメディアは大きく前進してインターネット時代に突入していった。コンピュータ・ネットワークそのものが他の別の多くのコンピュータ・ネットワークとつながりあい、「ネットワークのネットワーク」時代がやってきた。たちまちWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)が生まれ、アプリケーション・プロトコルにHTTPやIRC(チャット)やFTP(ファイル転送)が適用され、ストリーミングも自在になってきた。
≪063≫ いったい何がおこりつつあるのか。一九九五年、金子郁容と吉村伸とぼくは三度にわたって語りこみ、今後のインターネットの可能性を自由に予想議論する『インターネットストラテジー』(ダイヤモンド社)を上梓した。
≪064≫ 紙のエンサイクロペディアは「知の取引自在のエンサイクロメディア」に変わっていくだろうこと、銀行から家族にいたるまで、どんなお財布もとことん電子管理されていくだろうこと、電子ウィルスにまつわる技術とハッキングにまつわる技術がこれからの未到技術をリードしていくだろうこと、云々かんぬん……。吉村君は村井純らとともに日本にインターネットを導入したIIJの創立者の一人である。
≪065≫ インターネットについて予想議論をし、さらにその後の展開の中に身をおいてみると、踏んばっておかなければならないことが見えてきた。それはネットでは利用者の編集力が確実に奪われていくだろうということだ。まだグーグルもアマゾンも本格活動していなかったし、ウィキペディアもスタートしていなかったけれど、ネットが自動編集力のようなものを強力に掌握していくことは目に見えていた。そこで、どうしたらネット時代に編集力を養えるようにできるのか、いろいろ思索した。
≪066≫ 二〇〇〇年一月、初めて新書をまとめた。若い編集者の勧めのままに書いた『知の編集術』(講談社現代新書)だ。編集力を鍛えるための編集稽古のしくみをまるまる説明したものだったが、評判がいい。その勢いで数ヵ月後にネットの片隅に「編集の国ISIS」を立ち上げた。
≪067≫ 「編集の国」はネットの各所からここに移住(越境?)してきてもらえるようにしたもので、いくつかのイシューやイベントとともに「イシス編集学校」と「千夜千冊」をスタートさせた。なんとか編集力についての関心を盛り上げ、誰もが編集術のおもしろさに出入りできるようにしたかったものだ。渋谷恭子が建国資金(技術開発費)をソニー・エンタテインメントやNTTドコモや資生堂に声をかけて集めてくれた。
≪068≫ イシス編集学校は「守」「破」「離」の三つのコースプログラムが同時に走っていて、ネット上の教室に一〇人くらいのネット学衆が集まり、教室ごとに就く師範代から次々に出されるお題をハイパーテキスト状に応えていくという方式にした。
≪069≫ これは『知の編集術』で提唱した「編集稽古」ができる場で、「守」は四ヵ月にわたって三五番から五〇番ほどのお題が出るように仕組んだ(現在は三八番の「編集の型」を学ぶ稽古になっている)。「破」は文体編集術や物語編集術を学べるようにした。配信と回答のためのアプリは開発したが(エディット・カフェ)、その他のコミュニケーションにはあえて自動性を省いた。編集学校のライティング・スペースはすべて人力なのである。
≪070≫ 「千夜千冊」についてはとくに説明するまでもないだろうが、ネットだからこそ昔ながらの「紙の本」を執拗に紹介しつづけることにしたのである。書店に出回っていようといまいと好きに選書し、千夜千冊サイトを開けるとそこにはびっしり文字が充満し、かなりの関連図版や関連図像が掲示されているようにもした。一〇〇〇夜目の良寛まで、毎日毎晩更新したものだ。当初は一〇〇〇人ほどのアクセスだったけれど、一年をすぎると七〇万アクセスに達していた。
≪071≫ 翌年、『知の編集工学』(朝日新聞社↓朝日文庫)も書いて、編集工学とはどういうものなのか、初めて概要を説明した。ここでは編集用法と編集技法を区別して、従来のコミュニケーション・モデルの変更を訴えた(エディティング・モデルと名付けた)。この本で強調したのは、編集を通して認知革命がおこるということだ。
≪072≫ このような踏み出しというか踏んばりをしたのだが、そのとたん、世界のIT技術とIT市場があきれるほど異様な速度で爆発していった。一言でいえば圧倒的なパワーによるグーグル・アマゾン時代が到来したのである。ユーザーたちはグーグル・アマゾンが用意した便利な編集装置の中で自由に遊びまわり、消費活動に勤しみ、ランキングとリコメンデーションにたちまち酔っていった。自分で編集などしなくていい世界が整っていったのだ。二〇〇一年にラリー・サンガーとジミー・ウェルズが創始した「ウィキペディア」もあっというまに巨大な電子百科に膨らんだ。ウィキはごくごくおおざっぱなこと以外は、査読や編集はしない方針だった。
≪073≫ これらのことの多くは『インターネットストラテジー』で予想し議論したことではあったものの、残念なこともいろいろおこっていた。炎上やハッキングがおこったことではない。個人情報が漏洩したりネット犯罪が頻発したりしたことでもない。そんなことは予想済みのことだった。そうではなくて、のちのツイッターやフェイスブックやラインが判で捺したかのごとくそうなったように、ネット社会はユーザーにできるだけ編集やライティングの負担をかけないように進捗(しんちょく)していったのだ。
≪074≫ それでどうなっていったのか。ネットの全体は巨大なハイパーテキスト世界を形成しているにもかかわらず、一人ひとりがハイパーテキスト化やハイパーメディア化をおこす編集能力はガタ落ちになっていったのだ。ぼくはネットの中では、いまだに一人のバルトにも一人のフーコーにも、ネットらしい徂徠や魯山人にも、ネットならではの阿木燿子にも出会えていない。
≪075≫ 編集工学は「編集する工学」であって「工学する編集」である。二つは不即不離で、分かちがたい。しかしながら「工学する」の大半は、いまやICT(情報通信技術)の中身や最前線とほぼ同義になってきた。そのうちAIやAL(人工生命)やロボット工学を大きく取り込むことにもなるだろうし、おっつけ、すべての情報処理プロセスのデータがビッグデータ化され、すべてのプロセスがブロックチェーン化するだろう。
≪076≫ そうだとすると、そうした工学シーンを前提にしつつも、いよいよ「編集する」の技法と意義と思想こそが深く理解され、体感されるべき時代が到来しているということなのである。「工学する」にくらべて、残念ながら「編集する」が立ち遅れてしまったままなのだ。
≪077≫ そうなったことについては、理由がある。ひとつにはICTが超高速に発展してきたからであるが、もうひとつには「編集する」が長いテキスト・ライティングの歴史の中で哲学から文学にいたるまで、自由自在な試みを先行してきたため、その特徴を編集工学的に把握する作業を怠っていたせいだった。
≪078≫ それでは、ぼくが編集工学的に「編集する」をどうしたかったかといえば、すでに述べてきたように、発想と思索と表現のいずれにも3Mと3Aを組みこむべきだということだ。ロジカルなデジタル・システムの枠組の上に、徹してアナロジカル・シンキングができるようにすることだ。一言でいえば「子どもが連想によって学習し、類推によって表現してきた」ということを、最前線のライティング・スペースに組み込んでいくということだった。
≪079≫ そのためには、発想と思索と表現のいずれの「あらわれ」と「あらわし」もハイパーテキスト状にしておくこと、どのノードやどのリンクからも「連想の翼」がはばたくようなコノテーション(内示的意味)の辞書とデノテーション(外示的意味)の辞書を充実させておくこと、そのうえでコンピュータ・ネットワークの有利なしくみを適用していくということである。
≪080≫ 「あらわれ」と「あらわし」をハイパーテキスト状にしておくには、おそらくたくさんのテキストをまたぐためのマザーテキストが必要である。そのマザーテキストにはたくさんのアンカー(錨)が埋められていて、これを読む者はアンカーにもとづいて「世界」の解読に向かって飛び出していく。
≪081≫ こういうマザーテキストをもった連想力に富んだ学習システムがつくれないだろうかと考えたすえ、イシス編集学校の「離」コースでその実現を試みたのである。総匠に太田香保を、指南陣に選りすぐりの師範や師範代を配し、おそらく世界のどこにもない複合的でハイパーなライティング・スペースが出現したのではないかと思う。そのあらましは、一五一九夜のブルーメンベルク『世界の読解可能性』のところに案内しておいた(本書三三八ページ以降)。
≪078≫ それでは、ぼくが編集工学的に「編集する」をどうしたかったかといえば、すでに述べてきたように、発想と思索と表現のいずれにも3Mと3Aを組みこむべきだということだ。ロジカルなデジタル・システムの枠組の上に、徹してアナロジカル・シンキングができるようにすることだ。一言でいえば「子どもが連想によって学習し、類推によって表現してきた」ということを、最前線のライティング・スペースに組み込んでいくということだった。
≪079≫ そのためには、発想と思索と表現のいずれの「あらわれ」と「あらわし」もハイパーテキスト状にしておくこと、どのノードやどのリンクからも「連想の翼」がはばたくようなコノテーション(内示的意味)の辞書とデノテーション(外示的意味)の辞書を充実させておくこと、そのうえでコンピュータ・ネットワークの有利なしくみを適用していくということである。
≪080≫ 「あらわれ」と「あらわし」をハイパーテキスト状にしておくには、おそらくたくさんのテキストをまたぐためのマザーテキストが必要である。そのマザーテキストにはたくさんのアンカー(錨)が埋められていて、これを読む者はアンカーにもとづいて「世界」の解読に向かって飛び出していく。
≪081≫ こういうマザーテキストをもった連想力に富んだ学習システムがつくれないだろうかと考えたすえ、イシス編集学校の「離」コースでその実現を試みたのである。総匠に太田香保を、指南陣に選りすぐりの師範や師範代を配し、おそらく世界のどこにもない複合的でハイパーなライティング・スペースが出現したのではないかと思う。そのあらましは、一五一九夜のブルーメンベルク『世界の読解可能性』のところに案内しておいた(本書三三八ページ以降)。
≪082≫ 以上が約二五年ほど前の、ぼくの仕事が「編集する」と「工学する」の出会いとなったパサージュをめぐるスケッチだ。はなはだプライベートな出来事にまじえて綴ったけれど、これはテッド・ネルソンが「ザナドゥ」を提示したときからの交景なのである
≪01≫ 現代アートはデュシャン(57夜)が男子用便器をさかさまにしてR・マットと署名したときに始まり、ウォーホル(1122夜)がキャンベルスープの缶を並べてシルクスクリーンに刷ったときに事故現場のように確立した。コモディティにならないようにしてきたのが美術の歴史のはずだったのに、現代アートは日用品から始まったのである。この日用品アートは当初は「レディメイド」と呼ばれた。
≪02≫ たとえばリチャード・ハミルトンは雑誌広告のページをコラージュして展示し、リキテンスタインはコミックの一場面を印刷の網点ごと拡大した。これは広告やマンガ雑誌から現代アートが鬼っ子のように生まれたようなものだった。瓢箪から駒だ。ジョセフ・コスースは椅子と椅子の写真と辞書の「椅子」の項目の解説コピーとを並べて飾り、高松次郎は4脚の椅子とテーブルがそれぞれ直角に見えるように錯覚するような仕掛けを見せた。家具屋からアートが生まれたようなものだ。
≪03≫ 中原浩大はレゴでフィギュア彫刻をつくり、村上隆はフィギュアの美少女を巨きく再生した。フェリックス・ゴンザレス゠トレスは色とりどりのチョークあるいはキャンディをギャラリーの片隅に山積みした。
≪04≫ いずれも世の中で知られている日用品をなんらかの方法で「変換」して、アートにした。すでに消費されたものがトリックよろしくアートに生まれ変わっていったのだ。消費されたものが対象になるのだから、すぐさまゴミや廃棄物もアートになった。
≪05≫ スージー・ガンシュはプラスティック食器やコーヒーの蓋を素材にし、イギリスのティム・ノーブルとスー・ウェブスターの2人組は家庭ゴミや金属スクラップを組み合わせてシルエットを見せた。最近では長坂真護がガーナの不法投棄された電子製品のアート化をはかって話題になっている。
≪06≫ 生理的排泄物もアートになった。テレンス・コーは自分の排泄物を金メッキしたオブジェを出品した。2007年のアート・バーゼルでのことだ。もっと以前、平川典俊は1998年に女性の排泄物が本人とともに展示されるという仕掛けを発表した。平川は女性たちの排泄物を写真にもしていて、ぼくのニューヨークのガールフレンドも「まんまとおしっこしているところを撮られました」と笑っていた。
≪07≫ さまざまな「変換」がアートを生み出した。こういう現代アート作品は「なんでも鑑定団」には出てこない。「なんでも鑑定団」は手持ちの美術作品に相場の値段をつける番組だけれど、現代アートは「変換」という概念制作の行為とその成果物に値段がついたのである。ウォーホルの作品には100億円以上の値がついた。まことに特別で、面妖で、トリッキーだというのは、そこなのである。それでは、なぜそんな「変換」に価値がつくのか。
≪08≫ 本書は、そのような仕掛けをつくりだした今日のアートワールドの現状を丹念に炙り出したもので、①マーケット、②ミュージアム、③クリティック、④キュレーター、⑤アーティスト、⑥オーディエンスに分けて、それぞれの特徴を鮮やかに案内しながら、その問題点を少し辛口で掘り下げた。加えて現代アートが確立させてきた美術史的な意味をまとめ、絵画と写真に迫っている危機がどんなものかもレポートしていた。
≪09≫ よくできた1冊で、最近は現代アートについての入門書や解説書はかなりあるし、ときに雑誌でも特集されるようになっているようだが、ぼくはこの1冊をぜひとも勧めたい。
≪010≫ 著者の小崎哲哉は世界中の現代アートの実情に詳しいだけではなく、なかなか渋いジャーナリスティックな慧眼の持ち主で、ずいぶん前から現代の社会状況を「狂気の時代」と捉えてきた。この狂気は20世紀がつくってきたものなので(また訂正ができず、その上塗りをしてきたので)、小崎は2002年に『百年の愚行』(Think the Earth)を並べ、2014年にその続編を構成刊行した。2020年には美術展示と政治介入をめぐる『現代アートを殺さないために』(河出書房新社)を上梓した。「ソフトな恐怖政治と表現の自由」というサブタイトルがついている。
≪011≫ 本書はウェブマガジン「ニューズウィーク日本版」に2015年秋から不定期連載した「現代アートのプレイヤーたち」がもとになったもので、現代アートに関するゴシップとセオリーとを綯いまぜにしている。以下、メモ書きのようになってしまうけれど、視点と論点と登場人物を紹介したい。
≪012≫ 【富豪のマーケット】 大きなアートフェスティバルにはだいたいコラテラル・イベント(同時開催イベント)が付く。2009年にヴェネツィア・ビエンナーレに付随して開館したプンタ・デラ・ドガーナは鳴り物入りだった。スーパーコレクター、フランソワ・ピノーのとびきりのコレクションを展示するためのもので、かつての税関の建物を27億円で改装した(安藤忠雄が設計)。ピノーは、グッチ、サンローラン、バレンシアガ、プーマなどのブランドを統合するファッション・コングロマリット「ケリング」の元会長である(資産1兆7000億円)。コレクションにはジェフ・クーンズ、工藤哲巳、ダミアン・ハースト、リチャード・セラ、ヤン・ヴォー、村上隆、ソフィ・カルなどがずらりと揃う。ピノーは1998年にオークションハウスのクリスティーズも970億円で買収した。
≪013≫ ピノーに現代アートの精髄を揃えさせる手引きをしたのは(たとえばゲオルク・バゼリッツやジグマー・ポルケの新作すべての落札)、パリのギャラリストのエマニュエル・ペロタンだと言われている。
≪014≫ ケリングだけでなく、カルティエ、ルイ・ヴィトン、プラダ、エルメスも、それぞれアートコレクションをしてきた。なかでもベルナール・アルノーを総帥とするルイ・ヴィトンは、セリーヌ、ジバンシィ、フェンディ、ダナ・キャラン、香水のゲラン、宝飾のブルガリ、百貨店のボン・マルシェなどを傘下にLVMHグループを築いて、またたくまに巨大軍団となった。
≪015≫ 2014年、アルノーはブローニュの森にルイ・ヴィトン美術館を開館させた(フランク・ゲーリー設計)。ウォーホル、ゲルハルト・リヒター、クリスチャン・ボルタンスキー、ピエール・ユイグ、ドミニク・ゴンザレス゠フォルステルなどが並んだ。シュザンヌ・パジェの構成展示ディレクションだった。
≪016≫ 【ギャラリー/ディーラー】 現代アートは大富豪によってコレクションされるけれど、そのマーケット・フィールドを用意してきたのがギャラリストやアートディーラーである。現代アート業界では、ギャラリーはアーティストの代理人として新作を売るプライマリー・ギャラリーと、これらを受けて作品を売買するセカンダリー・ギャラリーでできている。オークションハウスはセカンダリーになる。
≪017≫ この領域も生き馬の目を抜く闘いが連続していて、大きな成果をあげるには実力がものを言う。ぼくがニューヨークでナム・ジュン・パイク(1103夜)や河原温と話しこんでいたころまでは、レオ・カステリがディーラーの帝王だった。ポロック、デ・クーニング、ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、フランク・ステラ、ブルース・ナウマン、ジュリアン・シュナーベルの名を世に広めたのは、ほとんどカステリだ。
≪018≫ 21世紀になるとラリー・ガゴシアンが帝王になった。世界に15のギャラリーを有して、「アートのスタバ」と言われている。2007年に村上隆がマリアン・ボエスキーからガゴシアンに移籍した。
≪019≫ セカンダリーを構成するのはオークションハウスだけではない。昔ながらの町のギャラリーから地方自治体のミュージアムまで、さまざまなアートフェスティバルの主催者まで、いろいろ混在する。だからアートシーンの評判は、新聞の美術欄の記者、アートマガジンのエディター、批評家、大学の美術研究者、ミュージアムのキュレーター(学芸員)、ウェブのコラムニストまでの混成力なのである。
≪020≫ これらがまとめて「アートワールド」と呼ばれる。アーサー・ダントー(1753夜)が名付けた。この見方については、ジョージ・ディッキー(イリノイ大学哲学教授)が「芸術制度論」をぶつけた。アート作品は知性をそなえたアーティストが特定の社会制度に寄与したもので、その行為によってアートワールドができあがると説明した。ダントーはそれではアートワールドが騎士道の集団になると一笑に付したのだが、アート業界の不正や人種差別問題や政治と芸術の関係を見ていると、この議論はまだ決着がついていないと言わざるをえない。
≪021≫ 【迷走するミュージアム】 どうみても美術とミュージアムは切っても切れないように感じるだろうが、実際には本来のミュージアム(ムセイオン)は神との交歓の場であると同時に博物館や図書館であって、また研究施設や資料保管施設でもあったので、また近代美術館がはたした役割には教育や学習機能もふくまれていたので、美術作品を展示していればそれですむというわけにはいかない。
≪022≫ 本書では、 2015年の香港のM+(エムプラス)美術館館長ラーシュ・ニットヴェ(テート・モダン初代館長など歴任)の突然の辞任事件、それにまつわるアイ・ウェイウェイ(艾未未)の天安門撮影写真の騒動のこと、2015年のバロセロナ現代美術館のバルトメウ・マリ館長による開幕前日の展覧会中止発表の経緯、同じく2015年のMOT(東京都現代美術館)でおこった会田誠と会田家の作品撤去問題、そしてMoMA(ニューヨーク近代美術館)とテートモダン美術館の迷走ぶりなど、さまさまな難産とボタンの掛けちがいを報告している。
≪023≫ 最近はクリス・デルコン(元テート・モダン館長)が「ミュージアム3・0」と言ったように、作品を展示して集客を得るだけのミュージアムではあきたらず、人権や表現の自由や地域貢献を配慮するミュージアムが要請される。こういう騒音や変革提案が目白押しになってきたところを見ると、ひょっとしてミュージアムをつくりすぎたのではないかという気になる。
≪024≫ 【お呼びでないクリティック】 アメリカでは1962年創刊の「アートフォーラム」と1976年創刊の「オクトーバー」というアートマガジンが競いあってきた。「アートフォーラム」は初期はクレメント・グリーンバーグがモダニズム論を展開して、展覧会批評も独占気味だったのだが、これに飽き足らないエディターが離れて「オクトーバー」をポストモダン風に編集構成するようになった。
≪025≫ 社会学者のサラ・ソーントンは『現代アートの舞台裏』(武田ランダムハウス)で、「アートフォーラム」を「ヴォーグ」や「ローリングストーン」誌に比肩して、コネやカネでは作品を掲載しない方針をもっていたと評した。実はぼくもエイズが問題になったころ、4回ほど原稿を書いた。しかし、その後この雑誌はジョン・シードから専門用語だらけでつまらないと、ハル・フォスターからは美術批評家は絶滅危惧種だと揶揄された。
≪026≫ 「アートフォーラム」だけではなく、アート・クリティックが期待されなくなったのである。ジェリー・ソルツは「今日ほどアート批評がマーケットに影響を及ぼさなくなったのは、この半世紀で初めてのことだ」と書いた。
≪027≫ こうして美術批評が危機を迎えた。もっとも今に始まったことではない。ニューヨーク・タイムズのベテラン美術記者が「アートがミニマルになればなるほど、説明がマキシマムになる」と書いたのは60年代後半のことだった。
≪028≫ 実はアート・ムーブメントを示す用語も払底している。バロック、ロココ、印象派、キュビズム、未来派、表現主義、アンフォルメル、コンセプチュアル・アート、シミュレーショニズム……といった呼び名(様式についての呼称)がずうっと提唱されないままなのである。なんたらイズムという呼称がいいわけではないものの、あまりにもネーミングがなくなった。
≪029≫ ぼくは村上隆の「スーパーフラット」などおもしろいと思ったけれど、残念ながら継承されていない。小崎は「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」、ボリス・グロイスの「セカンダリー共闘作戦」、ニコラ・ブリオーが言い出した「リレーショナル・アート」なども紹介していたが、いまいちだ。ブリオーの『関係性の美学』(「藝文攷」で翻訳)を走り読みしたかぎりでは、「リレーショナル」の意味の追求が甘く、あまり充実していない。
≪030≫ だいたいブリュノ・ラトゥールの「モノ論」や「人新世」の思想から派生した創造性論の多くが貧弱なのである。1766夜(ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について』)など読んでいただきたい。ぼくはこれらの美術議論にはフェティッシュが決定的に欠けていると思う。アートはもっとフェチを取り戻さないとまずい。
≪031≫ 【キュレーターの力】 1986年にベルギーで開かれた「シャンブル・ダミ」展(ゲストルーム展)は大いに話題になった。ジョセフ・コスース、ボルタンスキー、ダン・グレアム、ブルース・ナウマン、ジャン゠リュック・ヴィルムートなど、それにぼくが当時贔屓にしていたパナマレンコらが集められた。ヤン・フートのキュレーションである。50をこえる個人住宅を会場にして、いわゆるサイトスペシフィック・アートの先駆けともなった。そのフートがドクメンタⅨを手掛けたところ、何かに右顧左眄していていまいちだった。ぼくはあまり感心しなかった。
≪032≫ しかしその後のフートは「オープン・マインド」展から亡くなる直前の「ミドル・ゲート・ヘール」展にいたるまで、気を緩めなかった。フートの幅広くてキツツキのような資質がどこからきたのかわからないが、ヨーゼフ・ボイスとの交流が大きかったのではないかと息子が言っている。
≪033≫ 1989年、パリで「大地の魔術師」展が開かれた。ポンピドゥーセンターの館長ジャン゠ユベール・マルタンの指揮によるキュレーションだ。欧米のアーティスト50人、非欧米のアーティスト50人が招集された。アジアからはホアン・ヨンピン、河原温、ナム・ジュン・パイク、シェリ・サンバらに声がかかった。アウトサイダー・アートが注目された。ただしこのとき、マルタンは欧米のアウトサイダー・アートを組み込まなかった。
≪034≫ マルタンはインディペンデント・キュレーターに人文科学系を積極的に採り入れることを推奨し、レヴィ゠ストロース(317夜)、マルク・オジェ、ジェームズ・クリフォード、ボードリヤール(639夜)、フーコー(545夜)らの名をあげた。マルタンはその後も「アルテンポ」展(2007)、「世界劇場」展(2012~14)にとりくんで、気を吐いた。
≪035≫ ヴェネツィアで開かれた「アルテンポ」展では、民族人類学的な仮面や石像や木彫品のあいだにジャコメッティの彫像がひっそりと立ち、ハンス・ベルメールの人形、白髪一雄のフットペインティング、ヤン・ファーブルの髑髏、蔡國強の火薬絵画が並んだ。「世界劇場」展はタスマニアのホバートのミュージアムMONAで開かれ、パリのラ・メゾン・ルージュにも巡回したもので、エロスとタナトスに徹したコンセプトが通されていた。ぼくはのちにマリーナ・アブラモヴィッチと再会したとき、「世界劇場」で流されたマリーナとウーライが唇を重ねる映像を見せてもらい、その場で涙ぐんでしまった。マリーナは「マルタンは世界をよく見ているわね」と言っていた。
≪036≫ キュレーターには資質も必要だが、おそらく誰と話しこんだのか、どんな現場を通過してきたのかが問われるのだと思う。
≪037≫ 【アーティストの咆哮】 本書の5章「アーティスト」で言及されているのは会田誠、村上隆、アイ・ウェイウェイ、アブラモヴィッチ、ヴォルフガング・ティルマンス、ジェフ・クーンズ、ヒト・シュタイエル、ハンス・ハーケ、アルフレッド・ジャー、ゲルハルト・リヒターたちである。いずれも苦悩し決断し、抗い、投企した。
≪038≫ いちいち紹介しないけれど、小崎はアーティストの肉声もアートになりうること、現代アートがますます政治や社会から切り離せなくなっていることを強調し、1989年に亡くなったベケット(1067夜)の『ゴドーを待ちながら』をボスニア・ヘルツェゴビナの戦火の中のサラエヴォで上演したスーザン・ソンタグの話で結んでいる。
≪039≫ 9・11と3・11によって、われわれはディストピアめく現実感覚をどのように表現したらいいのか、いまなお問われている。そうしたなか、小崎は現代アートを構成するものは「インパクト」「コンセプト」「レイヤー」ではないかと提示する。これは写真家の杉本博司(1704夜)が「視覚的にある強いものが存在し、その中に思考的な要素が重層的に入っているということが、現代アートの2大要素だ」と語ったことを、少し分解したものだ。とくにレイヤーが入っているのがいい。
≪040≫ ぼくは実は山本耀司には現代アートの戦略が充実しているとも見てきたのだが、そのヨウジに躍如しているのが「レイヤード」だった。ただしヨウジには、それに加えて「場面」と「怒り」も秘められている。だったら小崎の「インパクト」「コンセプト」「レイヤー」に、新たに「シーノグラフィック」(場面的)と「アングリー」を加えてもいいのではないかと思う。どちらにせよ、アーティストの咆哮はとうてい鳴りやまないものであってほしいと思う。
≪041≫ 【現代アートが抱えもつ動機】 現代アートの作家たちは、どんな動機と問題意識で作品をつくるのか。この問いに回答を見せることは、なかなか厄介なことだと思うのだが、小崎は思い切りよく7つのフラッグを提示した。
≪042≫ すなわち、(1)新しい視覚と感覚の追求、(2)メディウム(媒体)と知覚の探求、(3)制度への言及と異議、(4)アクチュアリティと政治、(5)思想・哲学・科学・世界認識、(6)私と世界・記憶・歴史・共同体、(7)エロス・タナトス・聖性、である。
≪043≫ 驚くほど、よく配慮されている。説明の仕方にはよるだろうが、そうとうにカバーできている。あえていえば伝統との刺し違え、電子ネットワークとプロトコルのこととハッキングについて、憂鬱と疾病の問題、サル学のこと、ジェンダーのめぐりかた、そして衝動と欲望の問題がどこかに入ってきてもいいのかもしれない。 例示されたアーティストを紹介して一口メモを加えておく。
≪044≫ (1)新しい視覚と感覚の追求は、インパクトをどうするかということだ。巨大でハイパーリアルな人体をつくるロン・ミュエク、複数の乳房をもつ気球を彫刻するパトリシア・ピッチニーニ、極端に小さな作品をつくる須田悦弘やハム・ジン。ここにはヴィクトル・ヴァザルリやブリジット・ライリーらのオプティカルなインパクトや、かつてのルイジ・ルッソロなどのノイズによるインパクトも入ってくるだろう。
≪045≫ (2)メディウムと知覚の探求は、いわゆるメデイアアートともかぶってくるが、スキャナーを通したり、見る角度をマスキングして視野の変換を見せたりするアートとともに、ストッキングなどの伸縮性のある素材に重しを入れたエルネスト・ネト、味覚もとりこむミラルダやシェ・リン(謝琳)、数々のVRやARによる仮想現実アートが例示できる。
≪046≫ (3)制度への言及と異議は、美術館や展覧会そのものへの挑戦から、社会経済制度への挑戦までが入る。
≪047≫ (4)アクチュアリティと政治には、きわどい動機が動く。サンティアゴ・シエラは報酬を与えて失業者に刺青を入れさせたり、移民たち133人を金髪に染めるようなことをした。シアスター・ゲイツはシカゴの貧民地区サウスサイドで廃屋をリノベーションして、コミュニティハウスをつくった。戦争、テロ、貧困、人種差別、いじめ、環境問題につらなるアートは今後もあとを断たない。
≪048≫ (5)思想・哲学・科学・世界認識は、きわめて重大な動機になりうるが、かんたんではないように思う。トーマス・ヒルシュホーンが、スピノザ、ドゥルーズ、バタイユ、グラムシに捧げた作品など、とうてい思想力があるとは思えなかった。ここはやっぱり荒川修作だろう。
≪049≫ (6)私と世界・記憶・歴史・共同体は、文学やマンガならいくらでも例がある。荒木経惟(1105夜)、ナン・ゴールディン、ソフィ・カル、自分が育った家をテーマにしているス・ドホ、母親が集めていた瓶・箱・食器・薬などを展示したソン・ドン(宋冬)などがエントリーする。収容所の記憶をアート化したボルタンスキー、ダニ・カラヴァン、アンゼルム・キーファー、アルトゥル・ジミェフスキなどもこの動機だ。しかし、最も雄弁なのは草間彌生とルイーズ・ブルジョワだろう。
≪050≫ (7)エロス・タナトス・聖性は、永遠の動機である。フランシス・ベイコン(1781夜)やロバート・メイプルソープ(318夜)が圧倒的だが、ぼくも何度かコラボしたビル・ヴィオラ、「私は死にます」と話す世界中の男女を撮影したヤン・ジェンジョン(楊振中)、自分自身の死の姿を何度も展示したヤン・ファーブルの例もある。小崎はブランクーシの「無限柱」シリーズをあげ、さらに内藤礼と西沢立衛の《母型》が嗚咽を誘うほど強烈だったと感想を述べていた。
≪044≫ (1)新しい視覚と感覚の追求は、インパクトをどうするかということだ。巨大でハイパーリアルな人体をつくるロン・ミュエク、複数の乳房をもつ気球を彫刻するパトリシア・ピッチニーニ、極端に小さな作品をつくる須田悦弘やハム・ジン。ここにはヴィクトル・ヴァザルリやブリジット・ライリーらのオプティカルなインパクトや、かつてのルイジ・ルッソロなどのノイズによるインパクトも入ってくるだろう。
≪045≫ (2)メディウムと知覚の探求は、いわゆるメデイアアートともかぶってくるが、スキャナーを通したり、見る角度をマスキングして視野の変換を見せたりするアートとともに、ストッキングなどの伸縮性のある素材に重しを入れたエルネスト・ネト、味覚もとりこむミラルダやシェ・リン(謝琳)、数々のVRやARによる仮想現実アートが例示できる。
≪046≫ (3)制度への言及と異議は、美術館や展覧会そのものへの挑戦から、社会経済制度への挑戦までが入る。
≪047≫ (4)アクチュアリティと政治には、きわどい動機が動く。サンティアゴ・シエラは報酬を与えて失業者に刺青を入れさせたり、移民たち133人を金髪に染めるようなことをした。シアスター・ゲイツはシカゴの貧民地区サウスサイドで廃屋をリノベーションして、コミュニティハウスをつくった。戦争、テロ、貧困、人種差別、いじめ、環境問題につらなるアートは今後もあとを断たない。
≪048≫ (5)思想・哲学・科学・世界認識は、きわめて重大な動機になりうるが、かんたんではないように思う。トーマス・ヒルシュホーンが、スピノザ、ドゥルーズ、バタイユ、グラムシに捧げた作品など、とうてい思想力があるとは思えなかった。ここはやっぱり荒川修作だろう。
≪049≫ (6)私と世界・記憶・歴史・共同体は、文学やマンガならいくらでも例がある。荒木経惟(1105夜)、ナン・ゴールディン、ソフィ・カル、自分が育った家をテーマにしているス・ドホ、母親が集めていた瓶・箱・食器・薬などを展示したソン・ドン(宋冬)などがエントリーする。収容所の記憶をアート化したボルタンスキー、ダニ・カラヴァン、アンゼルム・キーファー、アルトゥル・ジミェフスキなどもこの動機だ。しかし、最も雄弁なのは草間彌生とルイーズ・ブルジョワだろう。
≪050≫ (7)エロス・タナトス・聖性は、永遠の動機である。フランシス・ベイコン(1781夜)やロバート・メイプルソープ(318夜)が圧倒的だが、ぼくも何度かコラボしたビル・ヴィオラ、「私は死にます」と話す世界中の男女を撮影したヤン・ジェンジョン(楊振中)、自分自身の死の姿を何度も展示したヤン・ファーブルの例もある。小崎はブランクーシの「無限柱」シリーズをあげ、さらに内藤礼と西沢立衛の《母型》が嗚咽を誘うほど強烈だったと感想を述べていた。
≪051≫ だいたい以上が本書が伝えようとしていたことのメモである。最後に、現代アートの現状はこんなふうになっているという感想が箇条書きになっている。
① アートワールドは矛盾に満ちている。
② アートマーケットは過熱するばかりだ。
③ 美術館とアーティストは圧力にさらされている。
④ 作品の特権的な私有化や囲い込みが進んでいる。
⑤ 巨大美術館はポピュリズムに陥っている。
⑥ 批評と理論は影響力を失っている。
⑦ 自治体は不勉強で不見識だ。
⑧ 今後のアートはインスタレーションを志向する。
⑨ アーティストは「方外」であっていい。
アーティストにとっては③と⑨が、業界にとっては②と④が、文化にとっては⑤と⑦が問題だ。
ぼくはひたすら⑨に期待する。ただし、「方外」とともに「数寄」と「作事」にもっと堪能してもらいたい。
≪01≫ 今夜はプルーストである。早稲田の仏文科に入ったのはプルーストをフランス語で読みたかったからだった。同級生に波野クン(のちの中村吉右衛門)がいた。それなのにその野望は叶わず(語学力が追いつかず)、結局は伊藤整や井上究一郎の訳で読んだ。今夜は鈴木道彦個人全訳の『失われた時を求めて』を選んだ。
≪02≫ 原文をクリアできなかったのにこんなことを言うのも横着だが、鈴木道彦による編訳二巻本『失われた時を求めて』(集英社)はよくできていた。この二巻本が出たころだったと思うのだが、ジル・ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』(法政大学出版局)をちょうど読んだばかりだったので、むずむずして久々に原作を読みたくなったのだ。ふつう、要約やダイジェストといえば隙間や行間がどこかへ消えてなくなってしまうのだが、鈴木の訳芸はそこをちゃんとつくっていた。井上訳よりも洩れていくものが少ない。ちなみにドゥルーズは『失われた時を求めて』を文学機械とみなし、記憶と現在意識と創作的出来事の差異を自律的に吸収反復していく装置になっていると言った。たしかに差異を吸収している。けれども、そこばかりを強調するのは、愉しんで読んだのかどうか、心配になった。
≪03≫ ぼくも、いまさらこの大作を紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの味や、敷石に躓いて思い出したヴェニスの寺院の石段から話すつもりはない。だからそのかわりに、いくぶんプルースト風に静岡の一軒のカフェの話から書くことにする。以下、プルーストの「私」と松岡正剛の「ぼく」が脈絡に応じてまじっていく。あしからず。
≪04≫ その店は「コンブレ」という名の店で、静岡に残るただ一軒の倉俣史朗のデザインによるカフェである。ぼくはその呉服町の店へ、甲賀雅章クンという地域文化のリーダーに誘われて初めて行った。ぼくも壇上に参加したデザイン・シンポジウムの二次会場にあてられたカフェだ。
≪05≫ 外階段を上がって店に入ったとたん、亡くなっていた倉俣さんが透明樹脂の色椅子をいじっている姿が蘇ってきた。そして、ああそうだ、そうかもしれない、こういうことかと思ったのだ。それは『失われた時を求めて』の発端が「私」の故郷コンブレー(コンブレ)への回帰から始まっていたということに符合していて、プルーストはあの長すぎる記憶の物語の冒頭で、コンブレーは狭い階段で結ばれた二つの階でしかないとか、夕方の七時にしか存在していないなどと書いていたことが、ほんの一瞬だが、静岡の店の嬌声につながったからだった。
≪06≫ カフェ「コンブレ」は静岡中のデザイナーがみんな集まってきたかというほどに混雑していた。ぼくは次々に見知らぬデザイナーたちから声をかけられながら、倉俣さんの「時」を追憶しかけては、そのまどろみを破られていた。そしてなんだか急に納得して、ぼくも騒然たる夜の盛り上がりの一員になっていった。
≪07≫ その納得というのは、いつか書くかもしれないプルーストをめぐるぼくの断章は、この静岡呉服町の一脚の透明な色椅子に始まってもいいだろうなということ、また、どこかでエットーレ・ソットサスや内田繁のデザイン人生に大きな重なりを見せている倉俣史朗は、このように人々の根源的な郷愁を引きつけた遊びを各地の内装のなかでしつづけているだろうという納得、あるいは川崎和男や井上志保がそのことを書きたくてしかたのないほど空中に浮かんでいる倉俣史朗の意匠とは、この夜の密集にも沈黙しつづける「失われた時」のことだったのかというような、そういう納得だ。
≪08≫ そのときである。立席者がひしめく満員のフロアーの片隅から一人の初老の男がにこやかに近づいてきて、ぼくの腰に手を触れたのだ。そして、こう言った。「コンブレって、いいでしょ。ここ、あたしの時間なのよね」。
≪09≫ コンブレーは「私」が幼年時代を過ごした田園の村である。そこには、「われわれ」もそのように幼年時代の一点を思い出せばきっとそうであるように、二つの散歩道があって、ひとつはスワン家の方へ、もうひとつはゲルマント家に向かっていた。
≪010≫ ユダヤ人で株式仲買業で、ジョッキー・クラブの伊達男とよばれていたスワンには一人娘のジルベルトがいて、「私」はジルベルトを見かけたときから初めて異性を感じた。これは横浜山手町の「ぼく」の家の隣のエンジェリカ・レリオにあたっている。一方のゲルマント家にはゲルマント公爵夫人がいて、「私」の内なる高貴なものに震える何かを象徴していた。「ぼく」の少年期には残念ながらそういう高貴な夫人は見当たらないが、もしかしたらそれは母であり、もしかしたらそれは足利からお菓子をわんさと持ってときどき遊びに来てくれた正子さんであるかと思われた。
≪011≫ やがて少し長じた「私」はパリに出て、「ぼく」は京都から横浜に出て、スワン家に出入りする。この思い出のなか、つねにヴァントゥイユのピアノ・ソナタが流れている。ここでは述べないが、この作品では、たいてい音楽と絵画が決定的な役どころをもって「私」の記憶を遠くに運ぼうとしているのだ。
≪012≫ ここまでが第一部「スワン家の方へ」で、かつてこのタイトルをもじって、土方が《澁澤さんの家の方へ》という暗黒舞踏会を開いたものだった。
≪013≫ ところで、コンブレーをこのように切れ切れに思い出したプルーストである「私」は、これらのことを、半ばまどろみながら、半ばベンガル花火を見るように、「私」のすべての面倒を見てくれているフランソワーズの柔らかい手のなかで、睡神モルフェウスのふるまいのように辿っているだけなのである。この記憶を辿る手法のなかには、すでにプルーストの入念な実験が始まっていた。それこそは倉俣史朗や内田繁が試みた「記憶という方法」の、最初の最初の、まだ湯気が出ているような先駆であった。
≪014≫ こういうことは、もちろんしばしばくりかえされている。「ぼく」にとっても静岡呉服町の夜半の記憶には、そのどこかに痩身で楚々とした仁科玲子の姿が交じっていて、そのときはうんと遠くにいた彼女が、いつしかまわりまわって「ぼく」の事務所にくるようになったのは、あるときセーヌ川の船の上でのパーティで、「そろそろだよね」と、何が「そろそろ」かを示さない会話をほんのちょっとしたことが機縁となっていて、そこからプルースト的ブーメランが「われわれ」の頭上をぐるぐると飛んだのだった。コンブレはその船上にも、赤坂稲荷坂の三階のぼくの小さな書斎にもあったわけである。
≪015≫ 第二部「花咲く乙女たちのかげに」では、いささかこれみよがしな数々のサロンが登場する。なかでもヴェルデュラン夫人のサロンは特別で、スワンは娼婦オデットとともにここに出入りする。
≪016≫ 「私」は、それまではまるでお伽の国の主人公だったスワン夫妻とも、お目当てだったジルベルトとも、親しくなった。ブーローニュの森のなかの遊園地にも一緒に行くことになった。スワン夫人はまるで世の中の「美の種類」を集めているようだった。おばあさんと一緒に出掛けたノルマンディの避暑地バルベックの海岸では、ゲルマント家の人々とも出会った。そこには貴公子ロベール・ド・サン=ルーと、その伯父の社交界の大立者シャルリュス男爵がいた。
≪017≫ ここでの第二章「土地の名・土地」は第一部でも同じ章立てがもうけられていたのだが、プルーストがこの作品全篇をこめてゲニウス・ロキの解読にあたっていることをあらわしている。プルーストは「付近」というゲニウス・ロキを先取りして文学にしてみせた張本人だったのだ。
≪018≫ ゲニウス・ロキとは地霊のことである。そうしてみればいまならこう言ってのけられるはずなのだが、倉俣史朗のデザインの本来は、この「付近」をこそコンセプトにしたデザインだったということなのである。
≪019≫ さて、ある日、「私」は海岸で華やかな少女たちの一団と遭遇し、そのことに強い印象をうけた。彼女らは光を発する彗星集団のようだった。すでに「われわれ」がフェリーニやヴィスコンティの映像で教えられてきた、あの花のような一団だ。
≪020≫ 画家エルスチールになんとか仲介してもらい、「私」はその少女の一団の一人アルベルチーヌと知り合うようになった。彼女は「ぼく」が五色沼で出会ったトチハラにちがいない。理想の少女と出会えた「私」の心は激しく高揚していたが、アルベルチーヌは「私」の柔らかな接吻を拒み、そのうちバルベックに雨の季節がやってきて、どこかへ出発してしまった。「私」の夏の季節が終わったのだ。
≪021≫ こうしてプルーストは「名」の記憶を過ぎて、少しずつ「物」の世界を思い出していく。呉服町にも朝がくる。「ぼく」のトチハラは銀色の東横線を自由が丘で降りたまま、いなくなった。
≪022≫ 第三部は「ゲルマントの方」である。「私」の家族がゲルマント家の館の一部に引っ越したのだ。これはいくぶん寂しいことで、コンブレーの散歩道の向こうに輝くゲルマント家の幻想はこれでもろくも壊れていった。
≪023≫ けれどもゲルマント公爵夫人のしだいに若返るかのような美しい容姿だけは、あいかわらず「私」の心をときめかせた。夫人の甥で好ましい性格のサン=ルーに頼み、「私」は夫人の行く先々に姿をあらわしたいと思うようになっていた。サン=ルーにはユダヤ人の娼婦との恋の問題がある。
≪024≫ その一方、「私」にはそのようなゲルマント家の変化を話してみせるフランソワーズの言葉づかいがヒントになって(たとえば「気の毒がる」をラ・ブリュイエールのように「出し惜しみする」という意味でつかう)、くすくす笑いながらも、これらのエクリチュールの変化をフランソワーズぐるみで愛するようになっていた。そのうち「私」のおばあさんが死んだ。最後は一枚の毛布すら沖積世の土砂のように重かったらしい。
≪025≫ そんなときアルベルチーヌが「私」のところに訪れてきた。家というものは奇妙なもので、人々はそこに誰が住んでいるかという格式によって、その家と交際をしたがる。「私」はアルベルチーヌとついに接吻をし、そういうものなのだろうと思うけれど、そこからは一転して、にわか仕立ての恋人のような関係になっていった。このころから、シャルリュス男爵がどうにも理解しがたい言動をとりはじめた。
≪026≫ 第四部「ソドムとゴモラ」にさしかかったとき、まだ触知してない何かがやってきたという気持ちになった。
≪027≫ シャルリュス男爵は男色家だったのである。仕立屋のジュピアン、ヴィオロン弾きのモレルに熱をあげている。すでに『禁色』を読んでいた「ぼく」は、最初は三島のソドミズムのほうが強烈で、むしろプルーストは軟弱に見えていた。のみならず稲垣足穂のA感覚からすれば、ワイルドやコクトーやジュネはともかくも、プルーストはどう見てもゲイ感覚の王城からずれていた。しかし、このような感想はやっぱり早計で、プルーストがとんでもない葛藤を用意していたことがすぐにわかってきた。
≪028≫ ひとつは、シャルリュス男爵の恋の相手の脚は華麗なキャミソールをからげてこの世のものともつかぬほど美しく、その顔は未知のスパニッシュダンサーのように妖艶になりうることを「私」が目撃してしまったということ、もうひとつは、どこかアルベルチーヌには妖しい秘密があるらしいことを感じてはいたのだが、そのアルベルチーヌにも同性愛の傾向があったということだ。
≪029≫ さすがに「私」はこの葛藤に苦しんだ。嫉妬もした。あまりの嫉妬に、情けないことに「私」は母にアルベルチーヌと結婚する許しを乞うた。「私」は泣いていた。
≪030≫ すでにプルースト派には知られていることであるが、プルーストは若い母にはいつも恋情をもっていた。そして、これをこそいまさら言っておかなくてはならないが、プルーストは男色の囚人だったのである。このことについては最近になって原田武の『プルーストと同性愛の世界』(せりか書房)が刊行され、囚人としての一部始終があからさまに証されている。
≪031≫ 第四部は、こうした妖しい出来事が、ラ・ラスプリエール荘を中心に目眩く夜会のように繰り広げられる。「時」はいつだってこんなふうに時ならず連打された夜の節会でおこるのだ。「ぼく」の少年期のばあいは、それは決まって高倉押小路の家か、法然院か詩仙堂か、もしくは寺町の「スマート」という喫茶店での出来事だった。
≪032≫ さて「ぼく」は、第五部の「囚われの女」のところで、しばらく『失われた時を求めて』を読むのを中断していた。その後にぽつぽつ続きを読んだものの、中断のせいか、ほんとうにこの部分がそうなのかはわからなくなっているのだが、ここで「私」がアルベルチーヌを監視し、閉じこめるようにして暮らし(つまりは「私」が十九世紀末ストーカーのはしりになって)、あげくにアルベルチーヌが失踪してしまうというのは、どうも納得のしがたい展開に見えたのだ。
≪033≫ 同じく第六部「消え去ったアルベルチーヌ」も、失踪したアルベルチーヌが落馬して死んだという噂を聞いたというだけでは、何かが充実しなかった。「私」はさすがに絶望するのだが、「ぼく」は絶望とはほど遠い。「私」がこの絶望から逃れるのには、「私」の中のアルベルチーヌの記憶を消し去っていくしかないというのも、腑に落ちない。まして、そのためには自分の死というものを、記憶の一般性に拡散していけばいいというプルーストの判断も、承服しがたかった。
≪034≫ が、どのようなきっかけかは忘れたが、おそらくはアルベルチーヌが自動ピアノの「ピアソラ」でヴァントゥイユの曲を「私」に聞かせているくだりあたりから少しずつということだったと思うけれど、「ぼく」はまたプルーストの“旋法”に嵌まっていったのである。のみならず、このあたりからプルーストのこの叙述の方法に、「記憶という方法」や「方法としての記憶」がぴたりと狙いどおりに進んでいることに、わくわくするようになっていた。
≪035≫ 記憶と忘却の関係とはどういうものなのか。記憶にも方法があるのだが、きっと忘却にも方法がある。どのように忘れるかということが、「われわれ」の現在をつくっているわけなのである。倉俣史朗もこの両方を駆使したうえで、「コンブレ」や、そして未詳俱楽部が白石加代子とともに訪れた東京湾岸天王洲のビル最上階の、あの「ラピュタ」を意匠したはずだ。「われわれ」は何かを忘れさせてくれるデザインに、たいてい時間を感じるものなのだ。
≪036≫ 最後の第七部は有名な「見出された時」である。ここではすでに、かつては貴公子の、いまは「私」の親友となったロベール・ド・サン=ルーがジルベルトと結婚していて、それなのにロベールが不毛な情事に耽って、妻のジルベルトを苦しめていることになっている。不毛な情事とは、またもや同性愛のことである。すでに第一次世界大戦が始まっていた。
≪037≫ プルーストである「私」はここまで書いてきて、自分の文学的才能に本気で思い悩んでいる。体もすぐれず、サナトリウムでの療養生活でもしないといられないほどの体調とノイローゼになっていた。そこでパリを発つことにした。
≪038≫ パリは戦火に見舞われ、かつての社交界は没落の一途を辿っていった。新たな輝きは、ひたすら消費を誇るプチ・ブルジョワジーか、ヴェルデュラン夫人とボンタン夫人の手中に落ちた。それでもシャルリュスはいよいよ凄惨に、いよいよ倒錯を深めてやまない。ジルベルトを悩ませつづけたサン=ルーは愛国者となり、ワーグナーの思いに匹敵する戦争をなしとげるのだという気概のもと、前線であっけなく戦死した。
≪039≫ こうして、さしもの戦争も終わりを告げたのである。全員が病気だったのだ。しかし、いったい何が終わりを告げたのか。「私」の心は索漠としたままであり、何も前途に見えるものなどなかった。「ぼく」は銀座の中島商事ビルにいた未亡人に誘惑されるがままだった。
≪040≫ 時間が流れた。「私」はすっかり追憶からも現実からも遁がれたままにいる。そこへ一枚のマチネー(午後の集い)の招待状がきて、ゲルマント太公妃の屋敷に赴いた。
≪041≫ どうやら仮面舞踏会が開かれているようだ。屋敷の前で車を降りた「私」は、ふと中庭の不揃いの敷石に躓いた。そのときである、その感覚がヴェニスの寺院の敷石の感覚に通じ、そのままヴェニスについてのすべての記憶が蘇り、自分でも信じられないほどの大きな歓喜が体を満たしたのだ。それはプチット・マドレーヌの味が幼い日々のコンブレーを蘇らせたのと、まったく同じ連動連想の現象だった。≪037≫ プルーストである「私」はここまで書いてきて、自分の文学的才能に本気で思い悩んでいる。体もすぐれず、サナトリウムでの療養生活でもしないといられないほどの体調とノイローゼになっていた。そこでパリを発つことにした。
≪042≫ プルーストは書く。皿に匙の触れる音、ナプキンの固い手ざわり、髪から零れる香油の匂い、コンブレーの眼鏡屋……。いや、いや、もっといくつもの触知を並べていたが、これらはすべて過去と現在をまたいでそこにありうるものなのだ。こうして、「われわれ」は超越的な時間のなかに溶け合えるのだ。「私」はついに確信できた。
≪043≫ 「ぼく」もわかった。ジル・ドゥルーズは『失われた時を求めて』はシーニュの生産のための文学機械だと言ったけれど、いやいや、それだけではない、ドゥルーズは見落としている。この方法こそが芸術というものにかつて見いだされたことのないものをひそめていたということを。そこには「クオリアの文学」ともいうべきが萌芽していたということを。≪039≫ こうして、さしもの戦争も終わりを告げたのである。全員が病気だったのだ。しかし、いったい何が終わりを告げたのか。「私」の心は索漠としたままであり、何も前途に見えるものなどなかった。「ぼく」は銀座の中島商事ビルにいた未亡人に誘惑されるがままだった。
≪044≫ ゲルマント家のサロンでは、すでに変わり果てた知己の顔が雑然と戯れていた。みんなが仮面をかぶり、みんながかつての役割を脱いだのだ。そこには「時」があるばかりで、静岡の「コンブレ」同様に、昨日と明日の区別のつかない人々が酔いしれていた。そこへジルベルトと故ロベールとのあいだに生まれたサン=ルー嬢が紹介された。「私」はハッとした。この少女の裡にこそ「スワン家の方」と「ゲルマント家の方」の両方の散歩道が重なっているではないか。「私」はその両様のイメージを見た。
≪045≫ これですべての準備が終わったのである。もう何も新しく加わる必要はなくなった。「私」は忠実なフランソワーズに愛され、世話をされ、しだいに近づきつつある死の床で、いよいよ念願の『失われた時を求めて』に取り組もうと思っている……。
≪046≫ プルーストの幼年時代にとって、その精神に大きな影響を与えたのはブーローニュの森から帰って始まった喘息である。ぼくの妹がひどい喘息だったので(いったん死にかけた)、この発作が何をもたらすかはよくわかる。
≪047≫ コンドルセ中学では、プルーストは半分を文才に、半分をシャンゼリゼなどで戯れる乙女にひたすら見とれることに費やした。十七歳で社交界への出入りをスタートすると、プルーストは生涯の半分以上を、この社交スタイルで貫いた。すなわち、サロンの夫人に次々に憧れ、どこかで新たな恋に出会うことばかりを考えた。ぼくの中島商事ビルの未亡人は「もう、こんなことやめましょう」と言った。
≪048≫ ところがちょうどオスカー・ワイルドがパリに滞在したころの二十歳前後から、プルーストは自身の内なる男色に目覚めた。ついでは二二歳のとき、審美倒錯詩人にして世紀末頽廃の代表者であって、かつ名だたる男色伯爵でもあった三八歳のロベール・ド・モンテスキューを知り、「異常」に惹かれてしまっていた。モンテスキューは、御存知、ユイスマンスの『さかしま』のモデルであって、プルーストが造形した倒錯者シャルリュス男爵のモデルである。このあたりの世紀末男色事情の雰囲気については、第五七二夜の『コルヴォー男爵』にも書いておいた。ヨーロッパの世紀末は、この男色感覚がどのように都市に侵入していったかという事件簿なのである。
≪049≫ 二十代のプルーストについて、そのほかのことでぼくが関心をもつのは、両親の庇護のもとにかなり贅沢な晩餐会を開いていること、ドレフュス事件で熱烈な弁護活動に加担したこと(アナトール・フランスの牽引のもとに)、そしてジョン・ラスキンの著作を耽読していることである。とくにラスキンについては、その著作を手引きにして各地の寺院をめぐり、その経済倫理学の翻訳も引き受けていった。その姿勢は当時のフランスが採用しようとしていた政教分離政策への反対表明にまで至っている。ラスキンからプルーストへ。この回路こそ、もっともっと研究されてよいものだ。
≪050≫ マザコン・プルーストの三十代は、母親の死が最大の事件である。その悲嘆はかなりのもので、喘息がらみでサナトリウム療養に入っている。読書をするか、運転手アゴスチネリによる自動車での寺院めぐりか、やっと書き始めた自伝づくりか、そんなことしか三十代のプルーストの関心にない。
≪051≫ が、プルーストはもともとバイセクシャルだったから、つねに夫人にも娘にも少女にも心を惹かれつづけた。
≪052≫ こうして三八歳、ある日、紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味をきっかけに、失われた「時のクオリア」をいかに綴るかという方法的模索に入っていったのである。コンブレーはここで蘇ったのだ。この方法を思いつこうとしたことは、プルーストのこれまでの全生活の点検でもあって、その細密きわまりない点検自体が、プルーストが発明した「クオリアの文学」となったものである。
≪053≫ たとえば間歇性の喘息症状であったことは、その記憶を間歇的に思い出すことにつらなり、その喘息にしばしば瞬間的な窒息がともなったことは、プルーストが考える文学作品は「記憶を辿る文学」ではなく、「思い出せない記憶にさえ思い出が広がる文学」というものであることを、思いつかせたのだった。
≪054≫ プルーストの四十代はほとんどの日々を『失われた時を求めて』に費やした。五一歳、書き継ぎに書き継いだ大作にようやく終息を感じると、プルーストはベッドの上で校正をしたまますっかり疲れ切って、呼吸困難のうちに終息していった。ぼくはその一瞬の終息を、あの夜の「コンブレ」の透明な色椅子にも見た思いがする。
≪01≫ イタリア南西部ティレニア海沿岸にカンパニアという町がある。ナポリ、カプリ島、ポンペイに近い。古代ローマ時代中期、ここに「プラトノポリス」(プラトン・シティ)という理想都市をつくる計画があった。挫折した。
≪02≫ 計画したのはプロティノスである。プロティノスは一貫してプラトン(799夜)を称揚し、かつまたその新たな哲理的展開に執心しつづけ、そのことから示唆されるものを高潔な神殿都市のように組み立てたいと思っていた。「プラトノポリス」はそのプロポーザル(企画書)だった。
≪03≫ しかし挫折した。挫折したのは時のローマ皇帝の側近から反対されたためだ。時の皇帝というのはガリエヌスという軍人で、プロティノスは当初は気に入られていたようだが、やりすぎたのだろうか、そのうち側近に邪魔された。よくあることだ。
≪04≫ プロティノスが「プラトノポリス」といった哲学的神殿都市を構想したのは、ヨーロッパ哲学のその後の輝かしさを予告するものだった。ルネサンスのマルシリオ・フィチーノはガリエノス以上の庇護者であるメデイチ家を得て「プラトン・アカデミー」の主宰者となり、哲学的神殿都市を「ヘルメス全集」として翻訳構成して、書物の中に成就した。
≪05≫ プロティノスはヘルメス知やグノーシス知に関心をもったのではない。あくまでプラトンの再構築にとりくんで新プラトン主義の仕上げをしたかった。フィチーノはプラトンを象徴的記号のように広く意味づけたけれど、プロティノスのプラトンはまさしくプラトン哲学そのもののことだった。
≪07≫ 今夜はそのプロティノスと新プラトン主義をとりあげる。いまさらながらという気はしないではないけれど、いまとなっては学生時代にケプラー→ブルーノ→クザヌス→プラトンとさかのぼり、そこから少し体を捩ってプロティノスの新プラトン主義やヘルメス知を渉猟していたことが妙に懐かしい。
≪08≫ ぼくの編集思想の発端はヘレニズムとバロックに注目することで鍛えられたところが多いのだが、とくにヘレニズム期にアレキサンドリア図書館が出現したことに刺戟を受けた。新プラトン主義登場はそういう観点から言っても編集的な思想史を検証するうえで欠かせないものだったのだ。
≪09≫ 日本の近代的哲学者たちが、プロティノスに言及していたことも気になった。たとえば西田幾多郎(1086夜)は『働くものから見るものへ』や『直観と意思』のなかで、次のように書いていた。「私は昔、プロチノスが自然が物を創造することは直観することであり、万物は一者の直観を求めると云つた直観の意義を、最能く明にし得るものは、我々の自覚であると思ふ」と書いて、知ることは直観が働くことだという思想に傾いていた。
≪012≫ プロティノスはエジプトのリコポリスに205年前後に生まれ、28歳くらいに哲学を志してアレクサンドリアに出た。何人かの師匠を求めたけれど気にいらず、ヘレニックな学風のアンモニオス・サッカスを選んでその哲学塾に通った。
≪013≫ アンモニオスはアレクサンドリアを代表するプラトーニコス(プラトン主義者)だったが、著作をのこさなかったのでその言説がどういうものかわからないのだが、その多くをプロティノスが踏襲した。これまたよくあることだ。
≪014≫ 39歳のとき、青年皇帝ゴルディアヌス3世が進軍したペルシア(ササン朝ペルシア)遠征軍に加わった。戦いたかったというより、おそらく君主に従いたかったのではないかと思うのだが、遠征はレサエンの戦い(243年)で敗退し、若き皇帝の死とともに遠征軍は解体した。プロティノスも命からがらアンティオキアに逃げている。
≪015≫ そこで心機一転すると、40歳でローマに移って私塾を開いた。私塾ではアンモニオスの新プラトン主義的な教えを色濃く投影した講義をしたはずだが、そのことに触れることなく自分の言説を次々に披露していったため、当時から「プロティノスはアンモニオスを剽窃しているにすぎない」と非難された。これもよくあることだ。
≪≪017≫ プロティノスの生涯については、弟子のポルフュリオスが書いた短いながらもよくできた『プロティノス伝』で、上に書いたようなことがあらかたわかる。プロティノスは師を語らなかったけれど、弟子たちはよく師を語った。
≪018≫ のみならず弟子たちは、師の著作をわかりやすく広めようとした。論文のすべてをポルフュリオスがみずから編集して301年に刊行した。論文は54篇で、これを分類して9つで一組にグルーピングした。ギリシア語で9つのグループやまとまりをエンネアスと言ったので、著作集は『エンネアデス』と呼ばれた。今夜とりあげた中公クラシックス版の書名は田中美知太郎によって『エネアデス』になっているが、いまは『エンネアデス』のほうが通っている。
≪021≫ 『プロティノス伝』は水地宗明の訳で『プロティノスの一生と彼の著作の順序について』として、本書に収録されている。冒頭からして興味深い。
≪022≫ 「われわれの時代に現れた哲学者プロティノスは、自分が肉体をまとっていることを恥じている様子であった。そしてこのような気持ちから彼は、自分の先祖についても両親についても生国についても、語ることを肯んじなかったのである」というふうだ。また続いて、この哲人が肖像を描かれたり彫塑されたりすることを頑なに拒んでいたことも記されている。
≪023≫ プロティノスは人間が到達する最高の属性を「ヌース」(知性)とみなし、おそらくそのことを日々、高度な精神性によって体現していたようなのだが、そのぶんヌースが俗化することやカリカチュアライズされることを嫌ったのだろうと思う。当時の言葉でいえばエイドーラ(イドラ)としての「似像」からは真理があらわれないと見たのである。
≪024≫ 融通がきかないといえばまさにその通りで、似像なんかとんでもないと感じていたのであろう。一心不乱の真理探究派なのである。そのため似像にまつわる思索や技法、たとえば推理や憶測や比喩に関心をもたなかった。このことはプロティノスの欠陥でもあるが、師のアンモニオス・サッカスのエクリチュールについてほとんど語ろうとしなかった理由になっているようにも思う。
≪025≫ 自分の生い立ちや自分の趣味について語ろうとしないのだから、それよりなにより「自分が肉体をまとっていることを恥じている」のだから、師についても安易なムダ口をたたきたくなかったのである。
≪026≫ けれども、プラトンについては語り続けた。プラトンの深部まで降りていけたからだった。思想というもの、これを深部で語るか表層的に語るかで、その特色を大きく変えるものなのである。
≪027≫ プロティノスの新プラトン主義はプラトンのイデア論を受け継ぎつつも、その二元論性を克服しようとしたものだった。森羅万象をめぐる英知の由来を一元化したかったのだ。これをプロティノスの「発出論」というのだが、しかしすべては一元化できない。どこかで幹も小枝も分岐する。そこで、存在するものに段階あるいはレイヤー(階層)を想定することにした。
≪028≫ プラトンは「感覚すること」と「思考すること」を分けていた。目に見える美しさは色や形にあるけれど、その「美しさ」というものは思考が担当すると考えた。プロティノスはそこをもう少し突っ込んだ。存在するものには「感覚される領域」(コスモス・アイステートス)と「直知される領域」(コスモス・ノエートス)とがあって、前者の感覚界はたくさんあるが、後者の直知界はひとつの世界として実在しているとみなしたのである。
≪029≫ 直知界はひとつの世界であるが、そこには「一」(ト・ヘン)、「知性」(ヌース)、「魂」(プシュケー)が階層をなしていると見たわけである。なかで「一」(あるいは一者)を神に匹敵するほどのものとして重視した。それが「ト・ヘン」(to hen)である。
≪030≫ ト・ヘンはプラトンが『パルメニデス』で説いた究極概念のひとつであるが、プラトンにおいては語りえぬものとされていた。プロティノスはト・ヘンは語りえぬ一元性の起源になって森羅万象を司っているとしても、ト・ヘンからはヌース(nous 知性)が流出しているのだから、そのヌースによって世界の説明がつくと考えた。これがプロティノスの有名な「発出する知性原理」であった。
≪031≫ プロティノスは知性が世界像を引き受けると考えた。流出するヌースが世界を自動的に賦活するものと考えた。そして、その賦活するものを編集哲学にしていった。実際にも『エネアデス』にはそういた説明が充ちている。
≪033≫ さて、『エネアデス』の中にはとても特異な1章がある。グノーシス主義批判に当てられているところで、『プロティノス伝』では「世界創造者は悪者であり、世界は悪であると主張する人々に対して」と括られている。翻訳では「グノーシス派に対して」となっている。
≪034≫ なぜこんな特異な1章がもうけられたかということについて、プロティノス本人は自分の話の聴講者のなかにグノーシス主義を重んじる者がいて、弟子たちがこれに惑わされないようにするために書いた、またかれらはプラトン以上に英知の世界に到達したと自負しているが、それが誤りであることを述べておきたくて書いたと言っている。
≪035≫ ただ、このようなプロティノスのグノーシス批判については、実はプロティノスの思想自体が「擬装されたグノーシス」だったのではないかという説や、プロティノスはもともとグノーシス主義の影響を強くうけていたので、それを払拭するためにあえてこの章を書いたのではないかとという説がなされてきた。実際にはどうだったかはわからない。
≪036≫ プロティノスはこの章で、まずは世界をト・ヘン(一者)、ヌース(知性)、プシュケー(魂)の3層以下にしてもならず、3層以上にしてもならないと言明し、グノーシス派がヌースとプシュケーのあいだの中間者として多くのアイオーンを入れこんでいることを戒める。ついで、グノーシス派が神を侮辱していること、世界創造者をデミウルゴス(実はヤルダバオート)に帰着させようとしたこと、英知(知性、ヌース)に関して一貫した説明ができていないことを、詰(なじ)る。
≪037≫ あまりに激越なグノーシス批判なので、まるで降りかかった火の粉を必死に払うかのような読後感があるのは、否めない。しかし、プロティノスとグノーシス派を決定的に分かつところは鮮明なのである。それはプロティノスが一元的な英知に向かおうとするのに対して、グノーシス派はあくまで二元論にこだわっていたということである。
≪038≫ プロティノス以降、ヨーロッパ思想にはしばしば新プラトン主義(ネオプラトニズム)的な言説が出入りするようになった。新プラトン主義という呼称はドイツ聖書解釈学のシュライアマハーによる(1782夜参照)。
≪039≫ 新プラトン主義を真っ先に採り入れ、キリスト教的一元論に三位一体の階層とその縫合をたくみにもちこんだのはアウグスティヌス(733夜)だった。ついでボエティウスが神学一般にとりこむと、これをトマス・アクイナスが『神学大全』に高めて総合化し、そのさまざまな理解の仕方をめぐってはディオニュシウス・アレオパギタ(=アレオパギデス)の多様な著作がこれらをおもしろがらせていった。
≪040≫ アレオパギタの著作は一種の神秘主義文献として「偽ディオニュソス書」として流布したもので、『神名論』『神秘神学論』『天上階序論』『教会階序論』などがある。
≪041≫ なぜ新プラトン主義がこうしたキリスト教思想の改装に寄与したかというと、もともとはキリスト教思想とあいいれなかったかもしれないアリストテレスの形而上学を、プラトンについての拡大解釈のもとでうまく言い聞かせられるかのように思えたからだった。
≪042≫ しかし、キリスト教神学とアリストテレスを新プラトン主義によって辻褄のあるものにするのは、容易ではなかった。ぼくはそのことをトマス・アクイナスがボエティウス解釈の工夫に苦慮する文章を読んでいて感じたことがあるが、トマスが述べる工夫の説明にはなかなか微妙な味わいがあった。どのように微妙だったのかは、説明しにくい。
≪044≫ パリ郊外にサン・ドニ修道院がある。ベネディクト派を代表する修道院であり、大聖堂と墓所にはほとんどの歴代フランス王が祀られ、埋葬されている。12世紀前半、ここにシュジェールという修道院長が就任した。国王ルイ6世とは学友で、サン・ドニ図書館を充実させ、大聖堂をヨーロッパ初のゴシック建築で完成させた。1144年のことだ。
≪045≫ シュジェールはアレオパギデスの『天上階序論』を読み耽り、プロティノスの新フラントン主義に共鳴し、低次の世界は必ずやアナゴジカルな方法によって高次な世界になりうるということを『統治論』に書いた。中世建築に新プラトン主義が刻まれたのである。詳しくは森洋が訳編した『サン・ドニ修道院長シュジェール』(中央公論美術出版)を見られたい。この本はたいへんおもしろい。
≪048≫ 新プラトン主義が神学の砦から展出して「人文学」として開花するのはルネサンス期になってからである。その準備はフランチェスコ・ペトラルカがアウグスティヌスを読み耽り、プラトンを愛読しているうちにもたらした。『わが秘密』(岩波文庫)にあからさまな文体をもってまとまっている。
≪049≫ ペトラルカはこれまで千夜千冊するのをうっかり忘れていた文人だが、ダンテ(913夜)、エラスムス、ラブレー(1533夜)とともに、ぼくが「ルネサンス詣で」をするときの必読書だった。モンペリエ大学とボローニャ大学で学びながらも、あえて書記と読書と恋愛と登山に徹したのが好ましく、詩集『カンツォニエーレ』(『ペトラルカ恋愛詩選』水声社)には蕩(とろ)けさせられたものだ。初めて山に登って山頂からの眺望を愉しむという趣向を発見したのがペトラルカだった(それゆえ「登山の父」ともくされてきた)。
≪053≫ 近世近代においては、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義、カトリシズム、合理主義、ユダヤ=キリスト教異端思想、グノーシス、神秘主義はのべつまぜっかえされてきた。40代までぼくはこれらはマジック・リアリズムの多様なあらわれだとみなしていたのだが、またそれがゲーテ(970夜)とドイツ観念哲学とロマン派の波打ち際に寄せていったのろうと思っていたのだが、これは胡乱な見方だった。
≪054≫ 大きなスプリングボードを用意したのはやはりバロックで(たとえばロバート・フラッドの両界宇宙観)、そこからコメニウスの汎知学やヴィーコ(874夜、千夜エディション『神と理性』第2章)の知識学が張り出して、そのあとはヤコブ・ベーメの神秘思考、ウィリアム・ブレイク(742夜)の詩などに飛んで、総じてはシェリングの思索とヘーゲル(1708夜)の哲学史観に集約されたのだった。
≪055≫ ヘーゲルに打ち寄せた新プラトン主義はブーレ、テンネマン、ティーデマンの哲学史と相俟ってモダン哲学の基礎に流れ込んでいった。これは一言でいえば「本質を一者にまとめる」というもので、そのための弁証法的思弁の方法が付き添った。しかし弁証法はマルクス主義がむしりとっていった。これでプラトン主義も新プラトン主義も20世紀には無力になったかに見えた。
≪056≫ しかし、そうではなかった。以上のプロティノスからヘーゲルに及んだ動向は新たなパンドラの函に詰めなおされたのだ。
≪058≫ プロティノスと新プラトン主義の考え方は、万物が一者から流出しているという思想をヨーロッパ哲学史の中に植え付けた。何もかもが一者から流出してくるという思想は、ヨーロッパの一神教的な考え方と結びつき、あらゆる神学論争に出入りした。
≪059≫ そのため「世界」は一様なプロトタイプとして説明されるべきだという思想に強靭な力をあたえた。ここからは今日におよぶ普遍哲学やグローバリズムも派生した。いいかえれば、新プラトン主義は「逸脱」や「反世界」の可能性を殺いでいったのである。
≪060≫ ぼくの青年時代はこうしたプラトン的なるものにかなり覆われて、それゆえの編集的世界像のつくりかたを目覚めさせてくれたのであるが、50代にさしかかるころ、いやいや待てよというふうになった。世界と反世界を同時に語る方法をもつべきだろうと思うようになったのである。それがリバース・エンジニアリングを伴うインタースコア的な編集的な方法観というものである。プラトン的であって、かつグノーシス的なのだ。
≪01≫ これはアメリカの若者の魂の状態に対する変な告発書である。当たっているかどうかは、わからない。ブルームは教育者の一人として憂慮すべき現状を嘆くのだが、それがアメリカの混乱から来ているのか、教育者としての反省から来ているのかは、鮮明ではない。それにこの本は1980年代の後半までの現状を背景にしているので、その後のアメリカの変化は勘定に入らない。
≪02≫ けれども、ぼくはこの本で、ちょっとした鍵と鍵穴がガチャリと音をたてて閉ざされたドアを動かしたかのように、「アメリカの問題」の隠れた影はここにあったかと思わせるヒントを感じることができた。いまではそれが性急な判断だったような気がしないでもないのだが、ええい、かまいはしない、とも思っている。もっと正直にいえば、90年代以降のアメリカにはほとんど本気の関心がもてず、その後のアメリカの現状についての本をまったく読む気がしなくなったので、ぼく一人に関しては、この時点で「アメリカン・マインド」は終焉したままなのである。
≪03≫ いや、案の定、そのあとは湾岸戦争だ、ブッシュ親子の最悪のアメリカがやっぱり始まっていったよね、などとは言わない。そのことにすら関心がもてないのだ。
≪04≫ アメリカには「コンフォーミズム」というものがある、と思われてきた。寛大が生んだ同調主義である。いい意味では寛容思想とも順応思想ともいわれる。ブルームはこのことが、アメリカ独特の「相対主義」をつくったと見ている。しかし、ここから先に問題があった。
≪05≫ ふつう、相対主義はどこの国にもある。各民族の文化は相対的なもの、さまざまな価値は相対的なもの、という見方はどこにもある。しかしアメリカではその相対主義を子供のころから叩きこんで、だからこそ、ほれ、どんなライフスタイルでもつくることができるんだという、極端な個人的相対主義を確立した。この刷りこみがアメリカ人に何を派生してしまったかというと、まわりまわっての「われわれには他者はいらない」という信条なのである。それがいつのまにか国全体に及んだ。
≪06≫ しかも、この信条には、これは自民族中心主義ではない、これは排他主義ではないという但し書きも、最初からちゃんとついていた。そのように仕立てられていた。そこは用意周到だったのだ。が、さあ、これが厄介なのだ。
≪07≫ ヨーロッパにおいては、文化相対主義はナポレオンとヒトラーに象徴されるヨーロッパの普遍主義や知的帝国主義を崩すことになった。それがアメリカではそうならなかったのである。
≪08≫ どのアメリカが、と問いたいところだが、ブルームは大学の学生にそうした傾向があると見た。最初に書いたように、それが当たっているかどうかはぼくにはわからないが、ブルームはそのことを少なくとも30年間にわたる大学の現場で感じたというのだ。イエール大学、コーネル大学、トロント大学、シカゴ大学の4つの大学現場での実感らしい。
≪09≫ 実感にはいろいろの不満が交っている。アメリカの学生のノートは真っ白である、アメリカの学生が読んでいる本はろくでもない、そのかわり音楽のことは一人一人の趣味が確定できるほどに細分化されている、そのわりには大半の学生は素直で、叱られてもピンとこないし、どんなことを仕出かしていても実は内向的なのである・・・云々。
≪010≫ まあ、そうかもしれないが、そんな程度の特徴ならフランスにもイタリアにも日本にもあてはまる。そんな不満はたいしたことじゃない。
≪011≫ ブルームはこうした役に立たない指摘にページを費やして、本書の一部をつまらなくさせているのだが、その一方、白人の学生と黒人の学生にはまったく「絆」というものがない、アメリカの白人学生は黒人やスペイン人が秘める民族性の本能的深さに対応できないで、「どうでもよいアメリカ的アイデンティティ」に走っている、そこへもってきて男女はまったく同じスタイルを求めあっていて、それがそのままに「ミー世代主義」をつくった、もはやアメリカには「慎みぶかさ」というものがなくなった、という指摘になると、ひょっとするとこれはアメリカ特有の病気かという気もしてくる。
≪012≫ しかし、ここまではまだ、とくにお節介を焼きたくなるようなことではないのだ。うーん、そこまで言うのかと思わせたのは、こうした病気は「ドイツ・コネクション」に原因があるというところからなのである。
≪013≫ ブルームのいう「ドイツ・コネクション」とは、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、フロイト、ハイデガー、ウェーバーらのドイツ思想が、アメリカでアメリカ流に変容したスタイルのことをいう。いや、"思想"の変容ではない。思想はどうでもよかったのだ。アメリカ人は学生時代にこれらを"スタイル"としてアメリカナイズして、しかも自分たちがそうしたということに気がついていない、ということなのだ。
≪014≫ まるでブルームがドイツ思想を"赤狩り"しているかのようであるが(まさにブルームはときどき頑固な保守主義者の典型にも見えるのだが)、そういうことではないらしい。ドイツ思想、とりわけ「ニーチェのニヒリズム」と「フロイトのディープエゴ」が、アメリカでは思想の咀嚼ではなくて、ライフスタイルになったということが問題らしい。
≪015≫ この指摘は、とんでもなく片寄っているか、それともアメリカにだけはあてはまるかの、どちらかだろう。が、ぼくは素直に後者だろうと受け取った。
≪016≫ ブルームが言いたいことは、こうである。 ドイツ思想は20世紀ドイツにおいては、結局、ヒトラーのナチズムの中に改竄されていった。アメリカ人はそのように理解した。なぜなら、大量のユダヤ人がアメリカに脱出してきたからだ。
≪017≫ そこで主たるアメリカの知は、ナチス以後のドイツ思想から"思想"を除去して、そのかわりにナチス以前のドイツ人、とりわけニーチェが見抜いた「神に代わるもの」と、フロイトが見抜いた「理に代わるもの」とを評価するようになった。それを大学で教えてきた。ところが学生たちは、それを"思想"として、ではなく、アメリカ流に"スタイル"にすることを選んだのではないか――。
≪018≫ ぼくなりに強調して集約してみると、こういう解釈なのだ。そうだとすれば、ここには、二つのことがおこっていることになる。アメリカはドイツ思想をまともに血肉化しなかったということ(あるいは、できなかったということ)、また、アメリカはそれ以来、どんなことをも"スタイル"にするようになったということ、この二つだ。
≪019≫ アメリカがライフスタイルの国だということは、おそらくアメリカ人もアメリカ論者も、また外国人たちも認めていることだろう。ハリウッド映画が半世紀にわたって、そのことしか描いてこなかったことも、知れわたっている。
≪020≫ このことが何を意味しているかというと、「すべての価値はライフスタイルに帰着する」ということである。価値がライフスタイルにあるとは、思想の価値より、会社の価値より、平和の価値より、ライフスタイルのほうがずっとすばらしい価値をあらわしているということだ。つまりアメリカは、すべての価値に勝る価値として、「アメリカというライフスタイル」を選んだということなのである。では仮にそうだったとして、なぜそうなったのか、なぜこのことが大学教育と関係があったのか、なぜこのことが「ドイツ・コネクション」のアメリカ化なのか、ということである。
≪021≫ ブルームは、そこでマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がアメリカにこそ定着したことを傍証する。プロテスタンティズム(ピューリタニズム)は勤勉と日々の倫理をモットーとする。アメリカでは建国以来、この"思想"が全土を覆ってきた。
≪022≫ そこに資本主義がぴったり重なった。工場労働と生産主義とに励み、夜と日曜日は家族と神と談笑をする。このスタイルこそがアメリカの前提になったのだ。
≪029≫ 諸君がブルームの議論をどう見るかは、好きにしたらよい。ぼくはいまさらアメリカにいちゃもんをつけるために、煙草の吸えないNYに行く気はない。が、やはり付け加えておかなければならないだろう。それじゃあ日本はどうなのか、ということだ。
≪030≫ 残念ながらというか、案の定というか、日本もまたいまや「ライフスタイル絶賛」に突入している。ようするに個々人のちょっと目立ったライフスタイルに、マスメディアもケータイ文化もリトルマガジンも屈服することをはっきり選び始めたのだ。浮きうきと――。「個人主義」「アイデンティティ」「自分さがし」を筆頭に、「私の城」「こだわり」「おたく」「オレ流」「自分らしさ」「マイブーム」なんてところが光を浴びて跋扈した。これらは、アメリカですらすでに"ミーイズム"として批判を浴びせられたものであるのだが、日本ではまだまだ新鮮なままなのである。
≪031≫ ところが日本では、これを大学問題としては受け止めてはいない。教育一般の改良が語られているにすぎず、「ドイツ・コネクション」にあたる「何か」があると分析した者もまだいない。20年遅れのアメリカが大手を振っているばかりなのである。
≪01≫ ぼくの「好き勝手なヨーロッパ学」とでもいうべきものがあるとすれば、いくつかの事蹟や現象や人物にときどき執着したことにもとづいているのだろうとおもう。
≪02≫ 関心をもった順にいうと、最初は未来派とゲーテと数学者ガウスとパリ・コミューンあたりだったとおもう。ついで中世のダンス・マカブル、フンボルト兄弟、修道女ヒルデガルドの体験、七二人訳聖書、ウィリアム・ブレイク、ダダ、古代都市アレキサンドリア、ピタゴラス教団、照明学派イシュラーク、ダンテ、原始キリスト教団、ウィリアム・ターナー、ケルト神話、それにつづいてイギリス国教会、バロック、ブルームズベイリー・グループ、文学キャバレー、ドビュッシー、アーサー王伝説、ファン・アイク兄弟、写真技術の歴史、ジョン・ラスキンなどに興味が集中した。
≪03≫ これらはひとつとして大学で習ったものがない。すべて20代の読書で耽った。一冊の本がありさえすれば、いつだってわれわれはケルト神話にも飛べるし、フンボルトの観相学にも遊べるし、パリ・コミューンにも入れるものなのだ。
≪04≫ ぼくは、いまおもうとほとんど夢遊病だとしかおもえないような理由で、早稲田大学のフランス文学科に入った。マルセル・プルーストをやってみたいという動機である。
≪05≫ もっとも、この動機はすぐに挫折した。挫折したというより、実はフランス文化を教える日本人に失望したのだが、いまおもうと、失望というには早すぎた。
≪06≫ ともかくそういう挫折と失望があったので、それで、次から次へとヨーロッパの事象や人物に関心の的が移っていったのである。とくに理由はない。その後、40代が近づくにつれ中国の山水画やインド哲学や日本文化に異常な関心をもつようになるけれども、当時は世界史やヨーロッパの歴史を通観するというのではなくて、ただひたすら興味のある人物や文物に自分の注意と焦点をカーソル・オーバーさせては、それに関連する本を数冊ずつ読むということをやっていた。
≪07≫ あえて理屈をつければ、ぼく自身の中にひそむ”何かの魂”と一番近いものを探して、ぼくの日々から一番遠い世界に蹲っているものに関心をもったということなのだろうか。それは仏文科で習うことよりよっぽど興奮できるものたちばかりだった。
≪08≫ それらのひとつにテンプル騎士団があったわけである。 十字軍や教皇の歴史やエルサレムの歴史に関心があったわけではない。ただテンプル騎士団が気になっただけだった。
≪09≫ ここでは書かないが、テンプル騎士団はいまのぼくには蹲っているものではなくなっている。それは、ドルイド僧からカタリ派からエックハルト神学へという橋の、またカリフの理想都市構想からラテン王国の構想をへてピューリタンたちが新大陸に抱いた構想へという橋の、さらにはトルコ文化とフランス革命を比較したいという奇妙な道筋にかかる橋の、それらの橋の交差するあたりに、海市のごとく見えている。
≪010≫ けれども、かつてはテンプル騎士団は、その和訳である「聖堂騎士団」という異様な響きのせいなのか、ただたんにぼくにその単一世界に入ってみたいと思わせただけなのである。
≪011≫ 本書もひたすらテンプル騎士団の事歴だけが書いてある。そもそもクセジュ文庫というのは、ぼくのような怪しい空想や連想などしないものなのだ。だからこそ、忠実で威厳のある読書対象となるのでもあった。
≪012≫ しかし、読書という「いそしみ」には、しばしばこのような歴史への端座をもってその記すところに耳を傾けるということもあるもので、それは、ああだこうだと茶を飲みおわっていっとき夕刻の蝉時雨を聴くようなものなのだ。それはそれで大事なひとときなのである。
≪08≫ それらのひとつにテンプル騎士団があったわけである。 十字軍や教皇の歴史やエルサレムの歴史に関心があったわけではない。ただテンプル騎士団が気になっただけだった。
≪09≫ ここでは書かないが、テンプル騎士団はいまのぼくには蹲っているものではなくなっている。それは、ドルイド僧からカタリ派からエックハルト神学へという橋の、またカリフの理想都市構想からラテン王国の構想をへてピューリタンたちが新大陸に抱いた構想へという橋の、さらにはトルコ文化とフランス革命を比較したいという奇妙な道筋にかかる橋の、それらの橋の交差するあたりに、海市のごとく見えている。
≪010≫ けれども、かつてはテンプル騎士団は、その和訳である「聖堂騎士団」という異様な響きのせいなのか、ただたんにぼくにその単一世界に入ってみたいと思わせただけなのである。
≪011≫ 本書もひたすらテンプル騎士団の事歴だけが書いてある。そもそもクセジュ文庫というのは、ぼくのような怪しい空想や連想などしないものなのだ。だからこそ、忠実で威厳のある読書対象となるのでもあった。
≪012≫ しかし、読書という「いそしみ」には、しばしばこのような歴史への端座をもってその記すところに耳を傾けるということもあるもので、それは、ああだこうだと茶を飲みおわっていっとき夕刻の蝉時雨を聴くようなものなのだ。それはそれで大事なひとときなのである。
≪013≫ 長らくイスラム教徒の手に落ち、ついではセルジューク・トルコ の支配下におかれたエルサレムを、十字軍が奪還したのが1099年である。これでエルサレム巡礼がやっと再興しそうになったのだが、この巡礼ルートにはあいかわらず危険がともなっていた。
≪014≫ テンプル騎士団が結成されたのは、この巡礼ルートの守護のためだった。1120年ころのこと、初期の9人の仲間にはシャンパーニュ伯ユーグ、クレルヴォー修道院長ベルナールの伯父モンペール、アンジェ領主フールクらがいた。かれらは自分たちのことを「キリストの貧しき騎士たち」とよんで、この仕事に障害を捧げることをエルサレム大司教とエルサレム王に誓った。
≪015≫ 誓いをたてること、それがこのような騎士団が最初にやることである。王はこの騎士たちのためにソロモン王の神殿とよばれていた神殿を与えた。以来、かれらは「タンプリエ」(神殿を守る騎士たち)とよばれることになる。
≪016≫ こうした騎士団がヨーロッパで初めて誕生したわけではない。すでに聖アウグスティヌスの戒律を遵法する「ヨハネ騎士団」(オスピタリエ)がある。
≪017≫ テンプル騎士団の最初の”出陣”は、予想に反してバルセロナ解放をめざした。不正をしていると見えた相手なら、そこがたとえ地の涯であろうと、騎士団は正義を行使しに出掛けたのだ。
≪018≫ が、テンプル騎士団が脚光を浴びたのはルイ7世の第2回十字軍遠征のときである。このとき、のちに騎士団総長になるフランス管区長デ・バールが130人の騎士を集めて駆けつけた。そのうち40人がアスカロンに突入を果たす。
≪019≫ アスカロンは当時のイスラム圏にとっての地中海沿岸最後の拠点である。イスラムの太守であったトルコ軍はこのアスカロンを守るために周辺の巡礼道を脅かし、エルサレム王ボードワン3世はアスカロンをつぶそうとする。そこへ先頭をきって突入を果たしたのがテンプル騎士団なのである。
≪020≫ しかし実は、テンプル騎士団の歴史はすべてが「殉死の歴史」でもあって、このあとも騎士たちは十字軍結成のたびにこれに参画して、勇猛に突入をくりかえすのだが、ことごとく撃退されたのである。とくにイスラムの英雄サラディンの前にも全員虐殺の憂き目を負っている。
≪021≫ それでも騎士団は、その後も、リチャード獅子心王の封臣を総長とした第3回十字軍、イノケンティウス3世が発動した第4回十字軍、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌがエジプトを攻撃した第5回十字軍、フリードリヒ2世登場後の第6回十字軍というふうに、平均して10年おきに行軍に加わっていく。
≪022≫ けれども、テンプル騎士団の軍事的成果はつねに乏しいままだった。にもかかわらず、それは軍隊としての軍事訓練と軍事作戦に一日の長がなかったというだけで、とくに不名誉なことではなかったというところに、この騎士団の宿命的ともいうべき歴史上の独自性がひそんでいた。まるで10年おきに結成されては全滅していく白虎隊のようなのだ。
≪023≫ 殉死が目的であったわけはない。それは結果にすぎず、テンプル騎士団の名声はむしろ別なところにあった。名声はその神秘的な組織性と象徴性にあったのだ。
≪024≫ まず、騎士団は総長(メートル)によって統括されている。誰が総長になるかということが、当時の騎士道の全幅の条件に照らされて決定された。
≪025≫ 総長は側近プリュドム(賢者)、従軍司祭、蹄鉄従士、歩卒などによって守られる。かれらこそ殉死を覚悟の親衛隊である。
≪026≫ 騎士団メンバーはすべて修道騎士である。すなわち修道僧。ただし延暦寺の荒法師のような連中ではなく、厳格な規律戒律を実行することに誇りをもっている。とくに総長に対しては有期契約による絶対服従を誓った。その総長が健康その他の不如意で執務につけない場合は、互選によってセネシャルという総長代行がつく。
≪027≫ 全員が特異な城館に住んでいたことも噂になった。信仰共同体であり、精神軍事組織なのである。おまけにマントは白く、制服は黒または茶の同型衣。朝は「主の祈り」を13回唱え、各時課に7回、晩課に9回を祈り、いくつかの特殊な”マントラ”をもっていた。その他の生活は軍隊式である。
≪028≫ 騎士団は各地に支部をもち、それぞれ下部組織コンフレリー(信心会)と騎士団領と馬と船をもつ。民間からはこのコンフレリーに入りたがる者が続出したという。のみならず、騎士団とコンフレリーの全体はきわめて多様な経済活動をしていたようで、各地で市を開催するほか、ブドウ酒やパンやチーズなどの独自の自製品を大量にもち、かつ独自の貸付制度や為替手形のような制度も発案して、金融にも手を広げていた。
≪029≫ テンプル騎士団は第22代の総長ジャク・ド・モレーの火あぶりをもって解体する。14世紀初頭、教皇クレメンス5世、フランス国王フィリップ美王時代である。
≪030≫ 解体の理由はテンプル騎士団が秘儀に耽り、男色を奨励し、魔法をつかったというもので、いわば魔女扱いならぬ魔男扱いをされたせいである。金融活動や職人組合をはじめとする各種の互助会活動に目がつけられたとも憶測されている。
≪031≫ いずれにしてもテンプル騎士団の全財産は没収され、ヨハネ騎士団に移される。そのぶん、この騎士団にまつわるあることないことの伝説がヨーロッパ中を席巻し、そこから例の鉄仮面物語、怪傑ゾロ伝承の原型、三銃士物語の原型などが派生した。
≪032≫ ぼくはその後はあまり追いかけてないのだが、騎士団には行く先々に書きつけた特殊な壁文字、すなわち「秘文字」もあったといわれる。かつて北原白秋、日夏耿之介、塚本邦雄が詩文の中に憧れたことである。
≪01≫ かつては「話し言葉」だけが世界を占めていた。互いの声と身ぶりがコミュニケーションのすべてだった。やがて文字を発明した部族や民族が各地に出現した。その文字はたちまち伝播していった。けれども、その文字の大半はなお声をたてて読む文字だった。
≪02≫ そこは音読社会だったのである。そこには「文字の声」が溢れていた。そのうち近世近代にむかって「書き言葉」が社会文化の主流を占めるようになった。黙読社会の登場である。この「書き言葉」による社会文化はたちまち世界を席巻する。いくつもの出来事が併行していたものの、大きくいえばアコースティックな聴覚文化からヴィジュアルな視覚文化への切り替えが断行されたのだ。
≪03≫ 書くということは言葉を空間にとどめることである。こうすることで、たしかに言語の潜在的な可能性はほとんど無限に拡張して、思考は文字言語をつかうたびに組み立てなおされていく。視覚は言葉を鳥瞰させ、文字列がもたらしている意味の砲列をたやすく分類させる。それによって「書き言葉」が告げている意味が理解されやすくなったかどうかはべつとして、ともかくすべて目に見えるようになった。
≪04≫ 言葉を視覚化することは、情報を一語一語の単位で切断することを便利にさせた。かつてはさまざまな名称をもっていた情報としての事物や行為は、こうして特定の定義を与えられ、役割を限定され、多義的な状況から退く。職名の定着や看板の発達はこうした視覚文字文化の勝利の一端を物語る。
≪05≫ これに対して声や音というものは、その情報が口から発せられるたびに前へ前へと進もうとする。それゆえ発話を聞いている者は、つねに語られていく最前線の一点に集中することになる。そのためかつては語り部がそのような技能を有していたのだが、その後は会話の途中の言葉によりいっそう記憶に残りやすい言葉や詩句をいろいろしこませておく必要があった。いまなおだれしもがスピーチや講演をするときに留意することであろう。
≪06≫ こうして言葉は「話し言葉」から「書き言葉」に進捗していった。特定の地域的な音声言語(フィレンツェの言葉や北京語や東京弁)がさまざまな理由で文字言語として昇格し、国語化し、活版印刷を得て普遍化していった。この“革命”にはあともどりがなかった。「書き言葉」は次々に独自の工夫をしくんで圧倒的な文化の多様性をとりこみ、かつての「話し言葉」によるさまざまな可能性に、決定的な変更を加えてしまったのである。
≪07≫ のみならず「書き言葉」の権威は人間の心の内側を記録に残させ(日記など)、人間関係の悪化を記録にとどめさせた(讒言・訴状など)。「書き言葉」は社会の諸関係にときに排除を加え、ときには法による規制を加えて(たとえば文書の重視)、新たな言語文化による社会をつくりなおしてしまったのだ。
≪08≫ そもそも言葉には「声」がつきまとっていた。文字にも「音」がついていた。これは表音文字も表意文字も同じことだ。言葉は声と口と耳を内在させているというべきなのである。
≪09≫ 原題にあるように「声の文化」とはオラリティ、「文字の文化」とはリテラシーのことをいう。オングはその両者の関係に執拗な関心を向けてきた。オングの研究は多くの先行研究の成果を編集したものであるが、そこには「声の文化」に対する並々ならぬ愛着が満ちている。けれどもオングは懐旧を謳いたかったわけではない。録音テープや電話やラジオやテレビなどのメディアが、かつてなく複雑な「第二の声の文化」をつくりつつあることにも注目している。ただその注目は、古代中世的な「声の文化」の偉大な特質を見極めている目にくらべると、いかにもつけたしのような印象をうける。そこに古代との共通項を見いだすにはいたっていない。
≪010≫ それでも本書は、今日の言語文化を考えるときの、マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』やアンドレ・ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』と並ぶ見過ごせない拠点になっている。
≪011≫ 情報文化の歴史をふりかえってみると、各部族や各民族や各宗派が「話し言葉」をどのように文字で記録するかがいちばん重要な出来事だったことがわかる。このときもしも、「話し言葉」と「書き言葉」の連携にそれほどの変異をおこさないようなスムーズな移転ができていたのなら、オラリティとリテラシーは分断されることなく、その後もたいした矛盾を孕まないで手を携えて進めたはずである。しかし、そうはいかなかったのだ。
≪012≫ その最も劇的な変異がギリシア人によるアルファベット表記システムの確立だった。ミルマン・パリーの研究であきらかにされたように、それ以前のホメーロスの時代には、六脚韻(hexameter)による記憶と表現が口頭による物語(叙事詩)のオラリティを支えていた。『イーリアス』や『オデュッセイアー』は六脚韻の決まり文句(formula)を駆使し、評定・集結・挑戦・略奪・結論の光景をみごとに組み立てていた。挿話の末尾にその挿話の発端の要素をくりかえすということも徹底されていた。ここにはオラリティとしてのエコノミーが躍如していた。
≪013≫ やがてギリシア人は、セム人がつくりだしたアルファベットをつかって新たな記録文字のルールを発明した。このとき決定的だったのは、セム語の記録には子音文字と半母音文字しかなく、母音はそれを読む者がアタマの中あるいは口で補って読むようになっていたのを、ギリシア・アルファベットは母音文字を文字列の中に入れてしまったということである。
≪014≫ これはこれで画期的な書き言葉の出現だった。しかし、すべては見える文字として露出されたのである。文字を読むことは文字が示したものを見て読みさえすればよく、その言葉の表出のプロセスをつくりだした者のしくみを、読む者が次々に継承し記憶する必要がなくなったのだ。こうして人々は見て読み(look up)さえすれば、何でも読めるようになれるというリテラシーを獲得していった。そのかわり、オラリティがつくりだした「原初の創造の構造」など継承する必要もなくなったし、またそれを伝承できる能力ももてなくなっていた。
≪015≫ 声の文化に特有な記憶の継承は、しだいに薄弱にならざるをえなくなる。それでもそのことを専門とする朗唱職人や手書き職人がいるかぎりは、オラリティの根本にひそむ文化の原初力が一気に廃れることはなかったはずなのである。とくに書記職人が写本文化を維持しているかぎり、クラフト・リテラシー(書記文字文化)ともいうべきが、オラリティの原型を保存したはずだった。
≪016≫ なぜならこうした写本職人は文字の綴りを写すときに、必ずぶつぶつと声を出していたからだ。すなわち、ここまではまだスクリプト文化はオラリティとリテラシーの両面をもっていた。それならば文章の書き手もまた、自分の文章を職人たちが写本してくれることを前提として書けていたはずなのである。実際にも11世紀の聖アルバヌスのエドマーは「書きながら文章を練っていると、自分自身にむかって口述しているような感じがする」と述べていた。そこには「身体を通過する響き」というものがまだ生きていた。
≪017≫ しかし、やがてこうしたスクリプト文化は新たなテクスト文化に席巻されてしまう。それが活版印刷革命だったのである。マクルーハンも『グーテンベルクの銀河系』で述べたことだ。
≪018≫ 印刷革命が何をもたらしたかは、あらためてくりかえさない。音読社会が後退して黙読社会が登場した。かつての雄弁術すなわちレトリックがグロッサ(舌)の技術に支えられていたものを、しだいにグロッサリー(単語集)の技術の支配に変えていったのだ。人を魅惑させるグラマーな話しぶりは書き言葉の文法に変じ、息継ぎのリズムは句読点に定着していったのだ。
≪019≫ かくして、話していたときは「知るもの」であったはずの知識や情報は、綴られるものとしての「知られるもの」になった。べつだん、それで悪かろうはずはない。「書き言葉」がつねに人間のコミュニケーションの原型との相互作用を継承しているのならば、それこそは新たな記録文化と再生文化の王道なのである。けれども、事態はそうとばかりにはいかなかったのだ。
≪020≫ 言語社会の分断や切断や、対立や分化があまりにも進行することになった。法律用語の社会や学術言語の社会は職人社会や芸能社会の言葉と通じあえず、コミュニティの言葉は国家の言語に反映できず、バジル・バーンステインが指摘したように、「洗練された言語の社会」と「制限された言語の社会」に割れてしまったのだ。
≪021≫ ここからは「国民の言語の基準」や「国語の表記」がどのように形成されていったかという問題にもなるのだが、この問題は本書では扱われていない。そのかわりにオングは、こうした分断されてしまったオラリティとリテラシーの関係がどのように相互作用を維持してきたかという数少ない現象に目をむけ、今後の言語文化の展開に示唆を与えようとしている。
≪022≫ オングはとくにラテン語がロマン諸語になり、さらにイタリア語・カタルーニャ語・フランス語になっていった過程と、活字文化が成立したのちも女性文章家たちだけが、テクスト文化による文法に加担せずに、比較的に自由な言葉づかいをしていったことに、われわれの注意を突き付けた。この、女性文章家の言語活動については、オングにとってはおもいもよらなかったことなのだろうが、日本における女手と仮名文化の成果こそが検討されてよかった。
≪018≫ 印刷革命が何をもたらしたかは、あらためてくりかえさない。音読社会が後退して黙読社会が登場した。かつての雄弁術すなわちレトリックがグロッサ(舌)の技術に支えられていたものを、しだいにグロッサリー(単語集)の技術の支配に変えていったのだ。人を魅惑させるグラマーな話しぶりは書き言葉の文法に変じ、息継ぎのリズムは句読点に定着していったのだ。
≪019≫ かくして、話していたときは「知るもの」であったはずの知識や情報は、綴られるものとしての「知られるもの」になった。べつだん、それで悪かろうはずはない。「書き言葉」がつねに人間のコミュニケーションの原型との相互作用を継承しているのならば、それこそは新たな記録文化と再生文化の王道なのである。けれども、事態はそうとばかりにはいかなかったのだ。
≪020≫ 言語社会の分断や切断や、対立や分化があまりにも進行することになった。法律用語の社会や学術言語の社会は職人社会や芸能社会の言葉と通じあえず、コミュニティの言葉は国家の言語に反映できず、バジル・バーンステインが指摘したように、「洗練された言語の社会」と「制限された言語の社会」に割れてしまったのだ。
≪021≫ ここからは「国民の言語の基準」や「国語の表記」がどのように形成されていったかという問題にもなるのだが、この問題は本書では扱われていない。そのかわりにオングは、こうした分断されてしまったオラリティとリテラシーの関係がどのように相互作用を維持してきたかという数少ない現象に目をむけ、今後の言語文化の展開に示唆を与えようとしている。
≪022≫ オングはとくにラテン語がロマン諸語になり、さらにイタリア語・カタルーニャ語・フランス語になっていった過程と、活字文化が成立したのちも女性文章家たちだけが、テクスト文化による文法に加担せずに、比較的に自由な言葉づかいをしていったことに、われわれの注意を突き付けた。この、女性文章家の言語活動については、オングにとってはおもいもよらなかったことなのだろうが、日本における女手と仮名文化の成果こそが検討されてよかった。
≪023≫ あらためて本書を読んで、見落としていたことがあったことに気がついた。とくに「活版印刷は言葉を一種の商品にしていった」という指摘が気になった。
≪024≫ オングが言いたかったことは、認識活動が「商品」や「市場」になってしまったのではないかということである。つまり活字や書物の“中”へ言葉を入れるということは、その言葉が製造過程と市場過程の“中”に言葉というものを知らぬまに追随させていったことになるのではないかという指摘だった。たしかに、こういうふうになっている。
≪025≫ オングはこのことを単純に非難しているのではない。すべてが商材として(情報を含めて)売買の対象になっていきつつあることに、失望しているのだ。実際にもオングは、社会がそのように生産主導的なるものから消費全般的なるものに変換してしまったのだという諦念のようなものをのべている。言葉も文字もひたすら消費されていくだろうという進行に対する失望と諦念だ。
≪026≫ しかし、はたして事態は最悪なままなのだろうか。オラリティが生産的で、リテラシーが消費的であるのだろうか。
≪027≫ ぼくは必ずしもそうでもないのではないかと感じている。むしろ言語文化ならなんでも「言論は自由なんだ」などと嘯く社会が蔓延していることのほうが、本来のオラリティとリテラシーの深い相互作用を奪っているのではないかとおもわれる。
≪01≫ ピーター・ドラッカーの『現代の経営』(ダイヤモンド社)が日本で翻訳発表されたのが1965年だった。「目標管理」を提唱し、マネジメント・ブームに火をつけた。翌年、『会社という概念』(東洋経済新報社)が翻訳され、事業部制などの企業の分権制が話題になった。3年後、『断絶の時代』(ダイヤモンド社)がベストセラーになって、「知識社会の到来」「起業家の重要性」「グローバル化の可能性」がおおっぴらになった。
≪02≫ ドラッカーばかりがマネジメントのバイブルではないが、日本のビジネスマンはやたらにドラッカーを読む。なぜそんなに人気があるのかと思って、ぼくも読んでみたが、社会と市場と組織と個人の関係をうまく摘んでいる。一言でいえば、ビジネスマンのための社会生態学なのである。
≪03≫ 日本にも経営学者はかなりいる。故あって今井賢一さんと親しくなって、野中郁次郎さんや伊丹敬之さんらの一橋グループと密な交流をするようになった。しかし、社会生態学的にマネジメントを浮き彫りにしている学者は少ない。ぼくが読んだかぎりでは、金井壽宏が一人、愉快な言説を遊弋していた。
≪04≫ 金井クンと呼ばせてもらう。たんにぼくが10歳ほど年上だというだけではなく、この「金井クン」という呼称を含めて本人の全貌に愛情を感じているからだ。その理由はべつに隠すわけじゃないのだが、男と男の愛情だから、説明しにくい。
≪05≫ 本書はその金井クンのヒット作で、資生堂の、当時は社長だった福原義春さんが「日本の経営学者の本を一冊だけ選ぶのなら、この本だ」と太鼓判を捺した。これはぼくが推薦するよりよっぽど効能のある太鼓判、いや太閤判だ。
≪06≫ 何が書いてあるのか、ビジネスに関係のない読者のためにざざっと短絡的な案内をするつもりだが、その前に「エピローグ」にこんなことが書いてあるので、それを紹介しておく。
≪07≫ 例によって「本書を書くにあたって感謝したい人々」の名前が列挙されているのだが、そこにさりげなく、次の一文が挟んであった。「学界などという枠を離れた世界では、なんといっても松岡正剛氏から、ほとんどデモーニッシュな知的刺激を得た。知らないことがあまりに多く、深く考えているつもりでも深さの足りないことがあまりに多いことを、わたしにわからせてくれた」というふうに。
≪08≫ 過分の感謝状である。まずはっきりさせたいのはデモーニッシュなのは松岡正剛なのか、知的刺激がデモーニッシュなのかということである。それによっては、ぼくの金井クンへの愛情関係に微妙なヒビが入る。両方にかかる言葉なのだろうか。しかしそうなると、ぼくは金井クンとはいつもハロウィーンの祭礼の仮装者のようにしか出会ってこなかったということになって、これは困るのだ。ぼくは金井クンとはいつも「ほおずき市」の少年どうしのように会っていたつもりなのだ。
≪09≫ もうひとつ「わたしにわからせてくれた」だが、もしそうであったのなら、こんなに嬉しいことはない。それならデーモンだってかまわない。ぼくはきっと言葉をもったお化けちゃんなのである。ただ気になるのは、いったい経営学者のヒット作の本の紹介に、こんなお化けちゃん云々などというワケのわからない話をしてよかったかどうかということである。
≪04≫ 金井クンと呼ばせてもらう。たんにぼくが10歳ほど年上だというだけではなく、この「金井クン」という呼称を含めて本人の全貌に愛情を感じているからだ。その理由はべつに隠すわけじゃないのだが、男と男の愛情だから、説明しにくい。
≪011≫ このイキのいいモジュール・フレーズだけでも、経営者は頭のなかで鈴のように転がしたいところだろうが、これはあくまでインデックスなのである。でも金井クンはこの鈴の音だけでも聞こえるようになってほしいので、こういう切れのいいフレーズを惜し気もなくモジュールの意匠にしてみせた。
≪012≫ 経営管理とは「他の人々を通じて事を成し遂げる方法」のことである。ただし、このことを完遂するには、さまざまな障害を突破するのか、回避するのか、解釈を変えるのか、そこをブレークスルーしていく必要がある。プロジェクトやパフォーマンスのために事態をいろいろ編集しなければならない。
≪013≫ 本書はそれを端的に、かつ丁寧に説く。その説き方に、モジュールとはべつにキーワードをふんだんに使った。経営学からはマクレガーのXY理論とかリスキーシフト現象とか、心理学からはアブラハム・マズローの自己実現欲求とかセリグマンの学習性無力感とかアービング・ジャニスの集団浅慮とかも動員されるけれど、そこに割りこんで金井クンの独創的なキーワード、たとえば「思い込みサイクル」「他者依存要因」「裏マネジメント」「例外による管理」「躾」「初々しいもの」「翻訳者と防波堤」などが、ズバズバ突き刺さる。これが、 よかった。
≪014≫ 加えて、専門用語やキーワードについては横組ゴシックの適用感覚に富んだ解説がつく。ぼくはこういう下馬評のような解説を書物や雑誌のなかに付けるのが大好きで、情報や知識は複合的に出たり入ったりするべきなのである。世の中というものはたいてい下馬評でクライテリア(判定基準)を下準備して、そのうえで自分が何に賭けるか、何を決めるか、未知のマネージに向かって突き進んでいく。こうしたフォローをおさおさ怠りなくサービスするのを見ていると、金井クンはそうとうの編集達人なのである。
≪015≫ ついで金井クンは「資質・行動・状況・運」というリーダーシップの条件を検討するほうへと読者をしだいに誘う。
≪016≫ これが実は甘い汁なのだ。むろん読者はこれに乗ってくる。ところがここからが胸突き八丁で、こうして誘いこんだうえで、ところで組織には「職務の寿命」と「集団の寿命」とがあるんですよ。しかもこの2つはちがいますねと脅かしておいて、みなさんは「変化の当事者意識」をもってますか、それはいったいどういうものですか、と殴りこんでくる。
≪017≫ この「変化の当事者意識」をめぐってから、本書のスピードが上がっていく。このあたりがニューウェーブ・マネジメントの核心的な折り返し点なのだ。すなわち「変化」が本書のホットワードなのだ。ホットワードということは、この「変化」という言葉はいくらでも言い換えられて、よくよく了解されるべきだということである。そこで金井クンは企業における変化、ビジネスマンの意識の変化の掴みどころ、つまりはプロセス・コンシャスな分岐点の自覚というものに、話をもっていく。
≪018≫ 世においても、現象においても、「変化するもの」は多様である。その変化の中に「経営」「人間」「リーダー」「変革者」のいずれもが介在する。しかし問題は、その変化を当事者がどのように察知し、何をもって理解し、その変化を新たな行動と組織の意味にどう転化していけるかということである。
≪019≫ ちょっとエクササイズめいて説明すると、変化を感得するための初級コースは、自分から離れて相手の話の「聞き上手」になることだ。そうすれば、どこで相手の話の変化が始まったかが、多少はわかる。次は、「私は〇〇だ」「うちの会社は××だ」という言い換えを、どのくらいできるかを試してみることだ。それが30くらいこなせれば、さらに特定の製品や商品を言い換えてみるとよい。中級コースになると、自分の見方を人に伝えてもらうことである。これはAからBへ、BからCへと伝わっていくうちに、何かが変わっていくことが観察できる。逆に何が不動点として残留していくかということも見えてくる。これは社会におけるコミュニケーションの観察にもなって、また、組織におけるコンフィギュレーション(構成)の見取り図にもなってくる。
≪020≫ では上級は? これは一人ずつが実際にネットワーカーとして機能してみなくては体験できないエクササイズというものになる。金井クンはネットワークはマネジメントを越えると言いたいのだ。マネジメントにこだわってばかりだから、マネジメントが活性化しない。そこにネットワークをとりいれる。いや、自分がネットワーカーになる。それがマネジメントを変えるのだ。
≪021≫ こうして読者は気がつくと、まんまと金井クンが用意したニューウェーブ・マネジメントの波頭に乗っていたことを知る。それがなんとも気持ちよく、愛情に富んだものであることも知る。本書はそういう本なのである。
≪022≫ ところで神戸大学大学院の経営学者である金井クンには、当然ながらいろいろ立派な著書がある。いずれも軽快で、リズムがよろしい。
≪023≫ ただし、ひとつ注意しておきたいことがある。それは金井クンの本を二冊同時に読んではいけないということだ。実は、ぼくが最初に『変革型ミドルの探求』(白桃書房)を読んでいる最中に、もう一冊『ウルトラマン研究序説』(中経出版)が送られてきた。あまりに食指が動く本だったので、この二冊を代わるがわる読んでしまったのだが、いったい自分が変革型ミドルを理解しているのか、ウルトラマンの変身を理解しているのか、わからなくなった。
≪024≫ ついでに、もうひとつ。本書もそうなのだが、金井クンはどんな話だってマネジメントやネットワークの現場にあてはめられる編集達人なのである。実際にどんな現場にも飛びこんでいく。いまは上手だが英語がまだ堪能でなかったころも、平気でアメリカ社会に割りこんで、ビジネスマンたちをつないでいくネットワーカーになっていた。この能力は学者っぽくない。見えないネットワークを創発できるのだ。だから、そろそろ神戸大学のほうをお忍びにして、イシス編集学校の師範になるべきではないだろうか。これは男と男の愛情関係から言っていることである。
≪01≫ マキャベリ(610夜)は本を読むときに正装で威儀をただしたいと思って、著者専用のテーブルを用意していたらしい。けっこうなことだ。ぼくは正装こそしないが、本によって季節によって時刻によって、態勢や飲みものや音楽を変えるし、ときに服装も変える。
≪02≫ 17世紀の説教師で機知の形而上学を駆使した詩人のジョン・ダンは「読書するとは自分をそこに“passing over”(移入)する」ことなのだから、読書こそ人間進化の証しだと確信していた。うんうん、そのとおりだ。みんな読書によって進化してほしい。
≪03≫ もっとも、読中の“passing over”には「意識のカーソルイン」がズレることももあれば、「読解のマウスオーバー」が跳びすぎることもあるので、ダンが言うようにはいちがいに「読中自己」と「本の中身」とは重ならない。
≪04≫ マルセル・プルースト(935夜)は、読書こそが格別な知的行為だととらえていて、本を読みだすと一種の知的な聖域に入るように感じていたらしい。さすが、マドレーヌを紅茶に浸しただけで失われた時をどんどん遡及できるプルーストだ。
≪05≫ 読書はたしかに聖域っぽいところに分け入るような気持ちをもたせてくれることがある。できればこういう人物がもっともっとふえてもらいたいけれど、ぼくが本を聖域と感じたのは子供から中学生までで、その後は本におけるダブルページの進行を、戦場とも五線譜とも店舗とも見てきたし、読書そのものを対話とも姦通とも格闘とも感じてきた。読書は正装で聖域に向かうものとはかぎらないのだ。
≪06≫ マキャベリ、ダン、プルースト。 いずれも「ブックウェアの解明と拡張」を志すぼくにとってはありがたい見方だったが、けれどもこれらは「読書する気持ち」を説明しているにすぎない。読む者の気分の高揚を重視しているにすぎない。
≪07≫ むろん「読書する気持ち」がそこはかとなく高揚したり、それなりの矜持に及ばないかぎりは、読書はなかなか深まらないし、広がらない。しかしとはいえ、たとえどんなに読書が神聖な行為に感じられようと、正装しようと自堕落に読もうと、本そのものはリアル書籍であれ電子書籍であれ、文字と図像あるいは画像と、紙や紙まがいの電子面でできているわけで、われわれはそれに目を走らせているわけなのだから、威儀をただすとか聖域に入るというだけでは「読書とは何か」という問いに答えているわけではない。
≪08≫ この問いに答えるには、そもそも「文字の羅列を読む」とはどういうことかということ、「意味を読む」とはどういうことなのかということを議論しなければならないはずなのである。
≪09≫ ところが、このような問題はずっと置き去りにされてきた。ほったらかしにされてきた。 いったい友達と言葉を交わしたりすることや、ベッドであれこれ思い悩んで言葉が行ったり来たりすることや、町の看板や店の名前を追っているときやコンビニで商品の棚を見ているときなどの知覚のはたらきと、ページをめくって文字を追いながら本を読んでいることとは、さて、どこがちがうのか。そういうことがまったく考えられてこなかったのだ。
≪010≫ ほったらかしにされてきたことについては、いろいろ理由がある。 ひとつには読書をなんとなく高級な知的行為だと棚上げしすぎてきたからだ。これは知識人や学校で国語を教えている者たちの責任だ。あるいは読書感想文コンクールをしておきさえすれば、読書に関する知的な目盛りをつくれているんだと思いこんでいる連中の責任だ。
≪011≫ 読書はべつだん高級ともかぎらないし、いつも知的だともかぎらない。うんとカジュアルなときもあれば、自堕落な読み方もある。感想文で上品な感動を書けば、それで読書がよくできましたというわけじゃない。
≪012≫ はっきり言うが、読書は上等なフランス料理ではないと思うべきなのだ。ラーメンだったりおにぎりだったり、ジャンクフードだったり蕎麦だったりするわけで、だからこそいろいろな本たちによって食欲ならぬ“読欲”が満たされるのだ。が、満腹になる必要はない。「お茶漬けさらさら読書」があってよく、「三球三振の読書」や「フォアボール読書」があったっていいはずなのだ。
≪013≫ もうひとつには、読書の不思議やメカニズムやダイナミズムを研究する連中がいないか、仮にいたとしても、あまりに軟弱か、かなり見当はずれが多かったからだった。「読書の科学」や「読書の思想哲学」はいまのところ、ほとんどできあがってはいない。もっともっと認知科学や脳科学からの応援をくりだしてくれないと困るのだ。
≪014≫ そんなふうに思っていたころ、一方ではメアリー・カラザースの『記憶術と書物』(1314夜)やアルベルト・マングウェルの『読書の歴史』(383夜)のような読書技能の変遷に分け入る試みが登場し、他方で本書のメアリアン・ウルフのようなディスレクシアの研究から「脳の読書」の一端に挑み、応分の視点をいくつか提供することに成功する例が、ちょっとずつ出てきてくれた。
≪015≫ ほかにも、たとえばピーター・シリングスバーグの『グーテンベルクからグーグルへ』(慶応義塾大学出版会)やアリス・ダイナグナンの『コーパスを活用した認知言語学』(大修館書店)のように、電子コーパスを「編集」することによってテキストを読む方法をあれこれ議論する試みや、メタファー重視の認知読書論や編集文献学(scholarly editing)によって読書のしくみに分け入る試みなども登場した。なんとか少しは「編集」と「読書」がつながってきたのだ。
≪016≫ こうして突端はそれなりに拓かれてきたのだが、それでもどうにも出遅れていると感じられたのは、脳科学がなかなか読書行為の解析に入ってきてくれないということだった。認知科学者たちも、どうしても意味論解析あたりどまりなのだ。
≪017≫ なかで本書が、本を読むときに動いているのは目と手とニューロンなのだから、本を読むとはどういう認知行為の進展なのかを問わなければならないと定めての、それなりに意欲的な一冊となったわけである。
≪018≫ ただし、最初にぼくの読後感を言っておくと、この本の内容はすでにぼくの中では既存の知識とさまざまに結びつきあって、もはや本書の主張だけを取り出せなくなっているということである。ウルフの書きっぷりも自身の研究成果と他の研究成果をごっちゃにしていた。そのため本書を3年前くらいに読んだときの印象すら、混濁状態だったのである。
≪019≫ つまりはぼくが考えてきたこととウルフが書いていること、またウルフが引いてくる数々の研究例の成果の、区別がつかなくなったのだ。困ったことだが、まさに読書というもの、そういうふうになることが少なくない。
≪020≫ ただ、それでは本書の著者にも、この本をつくった版元のインターシフトにも、礼を欠くことになるだろうから、以下はなんとかケジメをつけるようにしよう。というのも、インターシフトの宮野尾充晴君は、かつてぼくの「遊塾」に参加して、その後は工作舎に入ってしばらく「遊」の有能なエディターとして活躍してくれたかわいい後輩なのである。
≪021≫ 宮野尾君はその後はフリーのエディターをして、いよいよ版元を起こす気になって、そこで本書もそのひとつとして世に問うた。そしてマイケル・ガザニガの『人間らしさとはなにか』やブレイクスリーの『身体脳』なども翻訳刊行した。だから本書を刊行したことに激励もしておきたい。
≪022≫ が、ま、そういうことはこのくらいでいいだろう。今夜は本書が諸君に提供する最も革新的なところだけを案内することにする。
≪023≫ その前に、もう一言。 この『プルーストとイカ』のイカとは、初期の神経生理学者たちが神経系の解明に乗り出したとき、必ずやイカのぶっとい神経束を取り出して研究していたことを暗示する。日本では松本元さんがヤリイカ神経系の取り出し使いの名人だった。プルーストのほうは、説明するまでもない。たいへん純度の高い読書家で、本を読むことと失われた時を求めることと、それらのことを綴ることをできるかぎり一致させようと試みた。
≪024≫ というわけで本書のタイトルは、「プルーストが読書しているときにもイカの神経が動いている」という意味なのだ。それがときに神聖な気分になるのは読み手の気持ちの問題だろうという洒落なのだ。
≪025≫ もう一言。 メアリアン・ウルフはタフツ大学の「読字・言語研究センター」の所長という、本書を書くのにふさわしい立場のセンターであるのだが、専門も所属も小児発達学部で、もっぱら「ディスレクシア」にとりくんできた研究者なのである。
≪026≫ ディスクレシアとは「読字障害」のことで、軽度のディスレクシアなら多くの者が罹っている。有名な話だが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(25夜)、グラハム・ベル、エジソン、オーギュスト・ロダン、アントニオ・ガウディ、アインシュタイン(570夜)はディスレクシアだった。これらの名から想像されるのは、ディスレクシアはひょっとして脳の一部のツイスト・トラブルではあっても、かえって別の才能の共振に役立っているのではないかということだ。
≪027≫ ウルフはそうした天才研究と読書研究を結びつけたかったわけではない。自分の子供が重度のディスレクシアで、家系にもディスクレシアが引きずられていたことを正面から受け止め、ディスクレシアを含む「脳が本を読んでいる」という研究に本気でとりくんだのだった。
≪028≫ われわれの脳は当初から文字を読む回路をもってはいなかった。言葉を喋り、図標アイコンをつくり、文字の並びを見るようになるにしたがって、脳のほうも進化して、気が付いたら本を読むようになっていた。そう、とらえたほうがいい。
≪029≫ こんなことができるようになったのは、人間の脳が多目的なしくみを学ぶにふさわしいオープンアーキテクチャだったからである。われわれにはもともと、目や耳や指先や足の裏が何かを感知して、「注意のカーソル」がなんらかの動きをもつと、次に待っている情報や知識をせっかちに獲得したくなるというニューラル・ネットワーク上の認知的なはたらきが備わっている。そういう刺激を受けながら人間の脳は進化した。
≪030≫ すなわち脳は、感覚刺激の多様性をたくみに使って自分を複雑に成長させたのである。それなら脳は、文字の並びを見たときには何を惹起しているのか。問題はそこから始まる。
≪031≫ 認知科学者のデヴィッド・スウィニーは、“bug”という3文字の単語を被験者たちに見せ、かれらがその3文字からどんな妄想をもつかということを調べたところ、誰もが平均7~8の「虫」に類する言葉やイメージをたちどころに検出していたという実験結果を報告した。
≪032≫ われわれはこういうときに単純検索など決してしていない。それをしているのはグーグルだけだ。一般的な社会人はわずかな文字の並びから、のべつたいへんな妄想と付き合って、これを大慌てに処理しているわけなのである。この妄想を正確には「連想」という。
≪033≫ “bug”という3文字の並びがわれわれにさまざまなコトやモノを連想させるということを、ちょっと難しめにいうと「読字には意味次元がたくさん含まれている」というふうに言うことができる。読字という作用が脳になんらかの塑型化をもたらしていて、それが3文字を見たときに起動したわけなのである。
≪034≫ このことは文字と文化の発生と波及の関係史を見てみれば、ある程度はそこで何がおこったのかの見当がつく。 ウルフも本書の第2章に「古代の文字はどのように脳を変えたのか」を設けて、楔形文字やアルファベットの歴史と読字能力の発現を解いた。わが人類史のどこかで、きっとわれわれは3文字の並びに賦活できるようなニューロン回路を形成したようなのだ。それには、文字か文字に似たものがそこに現前していなければならなかった。
≪039≫ クレイトークンを読んでいる古代人の脳は覗けない。けれども、おそらくは絵記号や文字を見たり、声に出そうとしているうちに、なんらかの特異な接続回路が生まれたにちがいない。
≪040≫ ワシントン大学の神経科学科のマイケル・ポズナーとマーカス・ライケルが、ひとつながりのシンボルめいた文字を「意味があるもの」と「ないもの」とをまぜて被験者に提示する実験を重ねたところ、意味のありそうな文字を見たときは網膜細胞が後頭葉の特定ニューロンを発火させ、意味のないものに対しては後頭葉の視覚野しか賦活させないことがわかった。そうだとしたら、古代でも現代でも、脳がクレイトークンめいたものに対応するときのしくみは、そう変わっていないだろうということになる。
≪041≫ その後、もっと大事なことが見えてきた。被験者の脳は意味のある文字や単語を見いだしたときは、ニューロンの活動をふだんの2倍にも3倍にも活性化していたのだ。謎めくクレイトークンを少しでも読めれば、それが何かの足掛かりとなってニューロンたちは興奮したのだ。
≪042≫ このことは、「言葉を読むという行為が第一次視覚野を側頭葉と頭頂葉の言語システムと概念システムに接続させている」、あるいは「文字を読むと視覚と聴覚を担当する連合野が“言語化”する」というふうに、大脳生理学的にはとりあえず解釈された。
≪043≫ ついでは行動神経学のノーマン・ゲシュヴィントが「それはきっと“連合野の連合野”とでもいうべきところでおこっていることだろう」と示唆し、その部位は脳後部の3つの脳葉の接合部に位置する「角回領域」であろうというふうになった。「角回領域」は以前から読み書き障害につながる部位ともくされていたところだった。
≪044≫ さらに決定的なことがわかってきた。ひとつは、MITのジョン・ガブリエルとカリフォルニア大学のラッセル・ポルドラックが、文字を読む行為をしているあいだ、角回領域がすこぶる活性化していることをはっきり突き止めたことだった。
≪045≫ もうひとつは、フランスの神経科学者スタニスラス・デハーネがかなり以前から予想していたことなのだが、われわれの読み書き能力は「ニューロンのリサイクリング」によるものではないか、人間進化の早い時期に生まれた“物体認識のためのニューロン回路”の再利用ではないかということが、しだいに確実な見方だろうと考えられてきたことだ。
≪046≫ つまり、読み書きの脳力は視覚専用回路ではなくて、物体認知用のニューロンをリサイクルして、視覚刺激を概念の形成や言語の理解につなげていったのではないかということだ。本書の著者ウルフは、この部位は37野と接続する小さな回路だったろうと推測している。
≪047≫ 37野が何をきっかけに、どのように覚醒したかはわかっていない。アーサー・クラーク(428夜)やスタンリー・キューブリック(814夜)ならモノリスにヒトザルが触れたせいだということになるが、脳考古学はそれに代わる仮説に到達していない。とりあえずは古代人がどのように言語システムを獲得したかということを追ってみることになる。
≪048≫ 紀元前3300年前後、個別的な用途しかなかったシュメールの刻印が楔形文字のシステムに発展し、エジプトの初歩的な象形文字がヒエログリフのシステムに発展した。
≪049≫ ついでシュメール語の全体が書記意識の対象となり、めざましい発展をとげた。ピクトグラム(絵文字)的なるものがロゴグラム(表語文字)的なるものに移行しだしたのだ。数百字に達したシュメール文字とその綴りとが、オラルな音声を再生できる音節をもちはじめたのだ。
≪050≫ この、意味性と音声性の利用法をひとつの書記体系がもつことを、言語学ではロゴシラバリー(logosyllabary)という。今日の各国各民族の国語は必ずロゴシラバリーをもっている。これはいいかえれば、当時のシュメール人の脳にロゴシラバリーを分別できる認知回路ができつつあったことを暗示する。
≪051≫ シュメール語は紀元前1600年までには死滅した。そのかわり、アッカド語がこの認知回路を継承したようだった。アッカド語はたちまち地中海沿岸のリンガフランカ(国際共通語 lingua franca)となり、『ギルガメシュ』などの叙事詩を生み残した。 エジプトのヒエログリフもイノベーティブだった。まずは一行ずつの綴りの方向を変えた。いわゆる牛耕法の発見だ。
≪052≫ ついで、筆記体を2種類にふやした。デモクリフ(民衆文字)の発生だ。このとき、さらに重要な工夫が生まれた。今日でいう「音素」にあたるものが文字の中に認知されたのだ。そして、そこから子音だけを標記できるサブセットが工夫されていった。言語学者ピーター・ダニエルズが「子音のための不完全なアルファベット」と名付けたものの誕生だった。
≪053≫ こうして、アッカド語の楔形文字、エジプト文字、さらにはクレタの線文字Aと線文字Bなどが各地で併走していくなか、エジプトのワディ・エル・ホル(恐怖の渓谷)で発見された“正体不明の最古のアルファベット”を媒介に、ついにウガリット文字の書記体系が確立されたのである。 ウガリット文字には、文字に一定の順序リストがある「アベセダリー」が萌芽していた。
≪054≫ アベセダリーをもったウガリット文字は、やがて紀元前2000年ころに原カナン文字となり、そのあとはみんなが知っているように、そこからフェニキア文字の子音システムが生まれ、これらが媒介してギリシャ語のアルファベットになった。
≪055≫ アルファベットは文字数を30字前後に制限することで世界を制覇した。楔形文字は900字、ヒエログリフは3000字を超えた。アルファベットはわずか26文字だ。そのくせ言葉のもつ最小の音の単位を綴りであらわした。アルファベット型の表音文字は、こうして認知モデルと言語スキルの合体に成功したのである。
≪056≫ しかし、脳の回路はアルファベットのような表音文字のためにのみ開かれたわけではなかった。表意文字としての漢字を操る中国人や日本人の脳は、アルファベット脳とは別の発展をとげたのだ。本書には、英語脳・中国語脳・日本語脳に関するアニャ・イシェベッカ、泰羅雅登、中田力(1312夜)、藤井幸彦、イングリッド・クウィーらの興味深い研究成果がいろいろ紹介されている。
≪057≫ ようするに脳は勝手に読書力を発達させるのではなく、表音文字であれ表意文字であれ、民族的な言語文字システムの汎用性によって、なんとでもなりうるわけだったのだ。
≪058≫ 言語脳はいくつだってつくれたわけなのだ。このことは、ピッツバーグ大学のチャールズ・ペルフェッティが率いる認知科学グループが開発した「汎用読字システム」(universal reading system)が、英語脳・中国語脳・日本語脳がつかっている前頭葉、側頭・頭頂葉、後頭葉などの選択モデルを援用していることでも実証されている。
≪059≫ とはいえ、世界の言語と文字がどのように発達してきたかということを研究するだけでは、脳がどのように“読書しているか”の決定的な秘密は得られない。
≪060≫ そこで、もうひとつの研究が必要になる。 それには、「類」の研究ではなく、「個」の研究に入っていかなければならない。いったい幼児や子供はどのように文字を読むようになったのかという研究だ。
≪061≫ この研究は児童心理学の発展と深化とともに成果をあげていった。そして、生後6カ月くらいでスタートをきる「視覚システム」と、その後の学習しだいで発達する「注意システム」と、意味のシソーラスやネットワークによってもいくらでも発達しうる「概念システム」との、おそらく3つの研究の成果が複合的にくみあわさっていくことが期待されていった。
≪062≫ ハーバード大学の認知科学者スーザン・ケアリーやロシアの言語学者コルネイ・チュコフスキーらによれば、ふつう、2歳児から5歳児までの子供は一日平均2~4語ずつをおぼえるという。 とすると5歳くらいの子には数千語の言葉が動いているということになる。けっこうな言葉の数だ。
≪063≫ しかし、この子たちのアタマに動く言葉はそのままでは音声言語のザップ・マッピング状態にあって、文字の並びを読むようにはできていない。これらの音声言語が書記言語になるには、絵本や母親の読み聞かせが必要だし、子供が何度も指で文字を追ったり、それを声にしたりする必要がある。読字の能力はあくまで学習によって獲得されるのだ。
≪064≫ ウルフは、子供の読字学習が劇的にリテラル・リーディングを発達させるのは、むろん環境や個性のちがいはあるものの、平均すれば5歳前後であろうことをつきとめた。そこでは、①文字と音韻とのつながりを知覚すること、②綴りや単語の並びをパターンでおぼえる能力がつくこと、③言葉が意味やメッセージをもっていると実感できること、④文章のつながりによって物語が想定できること、これらの5つの才能が一挙につながっていくのだと見た。
≪065≫ ウルフはまた、これらがうまくつながりあったときに、ニューロンの格別な励起が示されていることを確認した。認知科学では、このような脳の賦活のことを、総じて「表象能力の発生」とか「イメージングの確立」とかというふうによぶ。
≪066≫ 以上のウルフがつきとめたことをぼくなりにいえば、「リテラル・イメージングの編集回路がつながった」というふうになる。あるいは「イメージとマネージの連絡がついた」というふうになる。
≪067≫ 子供においてどのように「読み」が誕生したかということをさらに追求するには、子供において「読み」が欠落するとはどういうことかを研究できればいい。ここで登場してくるのがディスレクシア(読字障害)なのだ。かつてはこの障害は「語盲」(word blindness)とよばれた。
≪068≫ すでに書いておいたように、ウルフの娘がディスレクシアだった。なぜ娘はこんなふうになったのか。母親として認知科学者としてあらゆる文献や症例研究を調べたウルフは、いくつかの中間結論に達した。
≪069≫ 第1に、おそらく脳はもともと文字を読むようにはつくられていなかったにちがいない。第2に、したがって脳には“読字中枢”のようなものはない。第3にそれゆえ、脳が文字を読めるようになったのは、別の視覚や聴覚の認知回路が文字注目と結び付いたからだろう。第4に、もし先天的に「読み」に障害があるとしたら、それは認知回路自体の遺伝子的な障害なのではないか。そして第5に、実際の多くのディスレクシアの原因はいくつかの回路の接続障害や処理速度障害だったのではないか。
≪070≫ これらを総合すると、認知回路の障害はそもそもの視覚回路や聴覚回路に原因があったか、それらの接続や処理のしくみに原因があったのだろうということになる。
≪071≫ 実際にもディスレクシアの子供たちの多くは、個々の音節と音素を知覚として結びつけられていないことがわかった。すでに1944年にパウル・シルダーが「読字障害は文字をその音と関連づけられないこと、また話し言葉を音に分解できないことである」と指摘していたが、まさにそうだったのである。
≪072≫ こうして、ディスレクシア克服のための学習プログラムがさまざまな努力によって試みられ、そのプロセスを通して「文字を読む脳」の正体が少しずつ浮上していった。
≪073≫ ディスレクシアはいろいろな障害によっておこる。 まずは、目の前の文字を左半球の言語野や視覚野に伝達できないという伝達回路の損傷がある。次には、聴覚障害によって音素が認知できなくなっているという障害だ。ワシンシン大学のヴァージニア・バーニンガーは注意や記憶を再認できない障害も関与しているだろうことをつきとめた。
≪074≫ 二つ以上の文字がフリッカー(ちらつき)によって重なったり動いたりするため、読字の処理に不都合がおこっている場合があることもだんだんわかってきた。ケンブリッジ大学のウーシャ・ゴスミワはディスレクシアの子供たちがそもそも自然音声のもつリズムに鈍感だと報告した。アクセントやビートパターンの把握が鈍くなっているため、それが「読み」を停滞させるのだ。
≪075≫ イスラエル認知心理学者ツヴィア・ブレニッツはさらに突っ込んで、視覚力と聴覚力がほぼ正常でも、ディスレクシアは視覚認知のプロセスと聴覚認知ののプロセスに時間のギャップが生じることによってもおこりうることを調べあげた。非同期(asynchrony)が読書の邪魔をしているのだ。
≪076≫ 一方、物体認知に手間どる子供がディスレクシアになりやすいこともはっきりしてきた。これは前頭葉と後頭葉の言語野のあいだになにがしかの離断があるせいだった。そのため「島」(シンシュラ)とよばれる接続領域や、側頭葉と頭頂葉をつなぐ37野が不活性になる。
≪077≫ しかしなぜ物体認知が「読み」の障害をおこすのか。最初はわからなかった。そこでウルフの共同研究者のパット・バウアーズは「類型をとらえることに問題が生じているのではないか」という仮説をたてた。たいへん鋭い仮説だ。たしかに、類型(プロトタイプ)がわからないと、大半の「読み」が漠然としてしまうことを、ぼくは自分自身の永年の編集工学的なエクササイズでも実感してきた。
≪078≫ これらの“発見”でわかるように、ディスレクシアを克服するには障害をカバーするようなこと、たとえば小気味よい音読をエクササイズをしたり、音楽やリズムとともに本を読んだりすることが有効なのである。
≪079≫ しかし、そのようなエクササイズは実はディスレクシアの障害者だけでなく、読書の能力を発揚させたい多くの読者にも有効だったはずなのだ。
≪080≫ ぼくが感心したのは、ジョン・ホプキンス大学の小児神経科のマーサ・ブリッジ・デンクラとMITのリタ・ルーデルとが共同開発した「高速自動命名エクササイズ」(RAN:Rapid Automated Naming)だ。次々にあらわれる物体の名前を即座に言ってみるエクササイズだが、そこには見慣れないものもまじっているため、しだいにネーミング感覚が鍛えられていく。ウソだと思うなら、試してみるといい。
≪081≫ 命名(ネーミング)がいかに重要な知的行為の基本になっているかは、すでにヴァルター・ベンヤミン(908夜)が何度も強調してきたことだった。ベンヤミンは命名が人間の行為のなかで最も基本になっているとさえ考えた。
≪082≫ ぼくはこのことに大賛成で、編集工学でもネーミングが編集力の大きなエンジンになると断言してきた。ネーミングをしようとすると、アタマの中の既存の言葉や文字が或る一点をめざして動員されるのだ。
≪083≫ 実は、ぼくが多くの読者に奨めている「マーキング読書法」も、このネーミング・スキルを強化するためのものにもなっている。ページにあらわれる気になる言葉をマーキングするだけなのだが、そのとき、その言葉が自分のアタマの既知の領域と未知の領域をつないでくれるのだ。
≪084≫ 以上、本書が示した気になるところだけを紹介した。 最初に言っておいたように、本書はぼくのなかでは他のさまざまな研究成果とごっちゃになっているのだが、ウルフがときにプルースト、ときにイカとなって、「読書」という得体の知れない出来事の只中になんとか入りこもうとしたこと、やはり特筆に値するものだった。
≪085≫ そういう本書についてはこれまですでに立花隆、養老孟司、山形浩生、竹内薫らが絶賛してきた。わが朋友の佐倉統(358夜)など「感動のあまり3度涙した」とまで褒めている。ディスレクシアの子をかかえた認知科学者の努力が涙をさそったのだろう。
≪086≫ 最後にひとつ付け加えたい。 本書にはいわゆる「認知言語学」に関する代表的な分析方法や代表的な用語があまりつかわれていない。これはウルフの特別のこだわりによるものだろう。しかし、「読書の正体」をさらに鮮明にさせるには、現状の認知科学の成果から、いまだ右往左往をくりかえす認知言語学の模索のすべてを、たとえばマイケル・トマセロから山梨正明までの模索を、やはり動員するしかかないはずなのである。いずれそうした本を千夜千冊しようと思っている。おたのしみに。
≪01≫ この本の原著が発表された1968年は多くの現代史家がターニングポイントとよんでいる年である。このことは本書を語るうえで欠かせない。
1968年はニクソンがベトナム北爆を停止した一方、ソンミでは大虐殺が進行し、マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された。こうしたドラスティックな動きのもと、主要都市の多くの大学でバリケード蜂起がおこり、パリのカルチェラタンが解放区になったほか、反体制運動が頂点に達していった。日本の全共闘運動もこの年に爆発する。
三島由紀夫が市ケ谷で割腹したのは1970年であるが、その直接の引き金になったのは、この1968年に頂点を迎えた反体制的な、そして三島にとっては頽廃的な状況だった。ぼくは24歳、世代的には全共闘世代の兄貴分であるが、これらの運動の飛沫の大半を浴びていた。
文化的にもターニングポイントを暗示することが象徴的におこっている。スタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を発表、スチュアート・ブランドが『ホールアース・カタログ』をつくり、フィリップ・K・ディックは『電気羊はアンドロイドの夢を見られるか』(映画『ブレードランナー』の原作)を発表して、時代の転換を予告したものだった。ボードリヤールの『物の体系』、羽仁五郎の『都市の論理』もこの年であるし、アラン・ケイがパソコンの発想を得たのもこの年だった。
リン・ホワイト・ジュニアがこういう年に『機械と神』を発表したのは、本書にもこうしたターニングポイントを感じさせる内容が横溢しているからだ。
≪02≫ ホワイトはこの本で地球の危機を予告し、環境破壊によって生態系に回復しがたい不順があらわれているのは、なにも20世紀の後半になって顕著になったことではなく、キリスト教的ヨーロッパ社会がとっくの昔におこした犯罪だということを告発しているのであるが、その解決策の暗示のひとつとして聖フランチェスコの精神に戻るべきだと提案する。
この「アッシジの聖フランチェスコに戻れ」は、実は当時のカリフォルニア型のヒッピー・ムーブメントのなかで高らかに合唱されていた合言葉でもあった。リン・ホワイト・ジュニアその人もカリフォルニア大学で歴史学の教鞭をとっていた。
この符牒は偶然ではない。そのためルネ・デュボスは『目覚める理性』のなかで、ホワイトが安易に聖フランチェスコの精神によって生態系の危機の克服を訴え、ヒッピー・ムーブメントを助長しているのは危険ではないかと批判した。
デュボスのファンであるぼくとしては、この批判にも加担したいところだが、ヒッピーの守護神となったホワイトの見方にも耳を傾ける必要がある。
≪03≫ ホワイトの考え方は第2章で準備され、第3章と第4章でよく主張されている。
ホワイトはおおむね次のようなことを言っている。
欧米の思想文化はギリシア的な思考類型が土台になっている。この土台を成立させたのは「ユダヤ教の異端化あるいは通俗化の系譜としてのキリスト教」だった。キリスト教会は欧米の思想文化の母体ではないにしても、子宮の役割をはたしてきた。ところが、この300年でキリスト教は危機に陥った(これがホワイトの強い指摘になっている)。外的な攻撃にさらされたわけではない。内部の危機に見舞われ、しかもその危機に気がつかなかったのである。
キリスト教の特徴は歴史と神話を同時に解決しょうとしているところにある。なにしろマリアの処女懐胎を捏造し、天使に階級をつけてしまった宗教なのだ。
それが問題なのではない。そういうものが宗教なのだから。しかし、その後のキリスト教はこのような確信を現代史という歴史のなかで普及する力を失った。しかも、もっと由々しいことには、その現代史のなかでキリスト教はいまなお社会的に君臨し、あまつさえ科学技術社会と資本主義競争を許容し、その恩給を受けつづけているということである。
≪04≫ ホワイトは、そこで視点を一転し、現代史が生態学的危機に陥っていることを告発し、それが「キリスト教」「西洋」「科学技術社会」「資本主義」の分かちがたい大合唱になっていることにメスをふるいはじめる。
ホワイトがこれを書いたときはまだはっきりしなかったものの、この大合唱が地球環境の危機を生態学的にもたらしていることは言うまでもない。かれらは反省すべきなのである。
そこまではいい。ところがホワイトはここで第1には「東洋」を持ち出し、第2には「聖フランチェスコ」を持ち出して、そこへの回帰を促すのである。そして西洋には意志が勝ちすぎていて、それを東洋の知性(?)によって補うべきだという、当時のニューエイジ・サイエンスないしはフラワーチルドレンまがいの着想に入っていってしまう。また、小鳥たちに語りかけたらしい聖フランチェスコの環境主義に加担してしまう。
こうなると、まずは東洋思想というものがもっている「知性」のほんとうの意味と東洋思想が生態学的危機に有効かどうかということを、本格的に議論しなければならなくなってくる。ついでキリスト教が現代史に突き刺さっていないにもかかわらず、何人かの聖人の思想には生態学的人間像がひそんでいたのだということを浮き彫りにしなければならなくなってくる。
が、ホワイトは『機械と神』ではその議論をしなかった。避けたとは見えないが、別のお話に終始した。そこがルネ・デュボスには気にいらなかったのである。とくに一点だけとりあげておくが、ホワイトの主張では、それがかつての自然神学とどこがちがうのか、まったくはっきりしてこないのだ。
≪05≫ しかし、本書は現代思想やニューエイジ・サイエンスやフェミニズムの流れを見るうえでも、一読すべき本である。 とくに最終章になって「魔女の必要性」が掲げられていることなど、なかなかドキッとさせる。ホワイトは現代人にひそむ神経症的残虐性に気がついていて、それならナヴァホ・インディアンに効力をもっている魔女にも目を注ぐべきだと言っているのだが、これは当時の日本で桐島洋子らが魔女の必要を説いたことと近いもの、あるいはフェミニズムの一端ともつながるものを感じさせて、いま読むと考えさせられる。
≪01≫ フッサールは『イデーン』を一九一三年から数年にわたって書いていた。第一次世界大戦のあいだ考察しつづけたのだ。そして、あとがきにこんなことを書いた。「筆者は今老境にいたって、少なくとも自分自身としては、完全に、次のように確信するにいたっている。すなわち、自分こそは一人の本当の初心者・端緒原理を掴んでそこから始める人間であると、こう自ら名乗り出てもよいであろう、と」。
≪02≫ 謙遜しているのか自慢しているのかといえば、そうとうの自負を言挙げしているのだが、前半部と後半部に分かれた『イデーン』を発表したのは五五歳前後のことだから、七九歳で往生するフッサールがこの時期に老境に入ったとはいえない。それでも「そろそろ自分で自分の成果を確信していることを言ってもいい歳だろう」と書いた。年齢のことはともかくも、自分がこれまで考えてきたこと、思想の方法として確立したことはきわめて独創的なもので、これまで誰も思いつかなかったことだという自負を宣言したのである。
≪03≫ 研究者や思索者には、大なり小なりこういう自負が芽生えることがあるけれど、アカデミズムに晒されているうちに自分がさまざまなものに塗れていることに気が付き、自負を表明することなどできなくなっていくことのほうがずっと多い。科学研究ではその有効性がのちに証明されて、自負などと関係なく自分の科学領域での寄与が明確になるのだが、人文科学や社会科学ではなかなかこういうことはおこらない。しかし、フッサールは自分が提起した哲学的方法に自信をもったのである。自ら名乗り出てもよいと思ったのだ。
≪04≫ 何をフッサールは自負をもって開拓したのか。「現象学」(Phänomenologie)の可能性を開拓した。とくに「現象学的還元」(Phänomenologische Reduktion)という方法によって現象学の端緒原理がいくらでも広がりうることを示した。
≪05≫ 世界ではつねに何かがおこっている。この「おこっている」を「現象している」と言うとすると、われわれをとりまくものすべてが「現象している」とみなせる。宇宙は現象し、生命は現象し、社会も現象している。われわれ自身の体においても何かがずうっと現象している。腸も腎臓も、タンパク質も遺伝子もウイルスも現象している。その多くは事象の連続ないしは断続である。
≪06≫ こうした現象はしかし、われわれが知覚するか認識しなければ(あるいは観測しなければ)、「それは現象しているのだ」とは言えない。けれども困ったことに、われわれの思考や思索もまた現象しているのである。そこには心や意識が絡まっている。外の現象と内の現象がどこまでつながっているのかはわからないが、われわれが現象するとともに世界も現象し、世界が現象するとともにわれわれも現象しているわけなのだ。
≪07≫ ところがまたまた困ったことに、われわれに現象している心や意識は取り除けない。そのため客観の動向と主観の動向はなかなか分けられない。 さあ、どうするか。フッサールが持ち出したのが「現象学的還元」という魔法のような「方法の杖」だった。
≪08≫ アリストテレスからヘーゲルにいたるまで、客観と主観は分けられないままに現象を記述する工夫をしてきた。これがヨーロッパ二〇〇〇年の哲学のジョーシキというものであり、「西の世界観」の骨髄というものだった。
≪09≫ ありていにいえば、そのうちの半分は「神の現象」をめぐっていた。オリゲネス、テルトゥリアヌス、アウグスティヌス、スピノザはそのことを記述した。残り半分はわれわれの思索や経験の現象を記述しようとした。ライプニッツやデカルトやロックやヒュームやカントやヘーゲルがそれを試みた。しかしそのような記述がはたして現象を正確に記述してきたのかどうかはわからない。それを確かめる方法がなかったのだ。
≪010≫ そこで近代科学はそこにさまざまな測定器具を介在させ、数学による明示化を構築して、客観の現象を記述できるようにした。自然科学の基礎がこうして成立した。
≪011≫ それなら、われわれの心や意識や認識行為に映っている現象を言葉で記述するには、どうしたらいいのか。数学だけではそこまで及ばない。何かの「掴み」が必要だ。フランツ・ブレンターノはそのような認識行為に映っている現象には「志向性」(Intentionalität)があるはずだとして、志向性を記述すればいいと考えた。これはのちに記述心理学に発展した。ブレンターノの弟子でもあったフッサールはいっそ「現象そのもの」を取り出せないかと考えた。そして研究テーマを一挙に「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst)においた。
≪012≫ 学生時代のフッサールは数学を研究していた。一八七六年からはライプツィヒ大学で天文学を、七八年から八一年まではベルリン大学で数学を専攻し、ヴァイアーシュトラースやクロネッカーから変分法を学んだ。
≪013≫ 数学が「厳密な学」を記述するための最も信頼に足る基礎を提供していることはわかっていた。ただ、そういう数学が世界や意識の現象の何をモデル化しているのか、つきとめられてはいない。数学が無矛盾性を確立できているのかどうかも検証できないでいた。それでもクロネッカーは「自然数を産出する構成のプロセス」に数学のモデルを求め、ヴァイアーシュトラースはおそらく「数」そのものが数学を保証しているだろうと見ていた。カントールもその見方を発展させようとしていた。
≪014≫ フッサールはヴァイアーシュトラースが示す根本主義(Radikalismus)に惹かれ、その見方によって「厳密な学」をもっと一般化できないかと考えた。そんなときブレンターノの講義を聴いてハッとした。ブレンターノは「心は対象的な現象がおこっていくことについて志向性をもつ」と言っていた。フッサールはあらゆる数が「数える」という志向的な作用を伴っていることに着目し、数の概念と志向性の関係に言及して、一八九一年の教授資格論文に『算術の哲学』を書き、これを出版するのだが、その内容についてフレーゲからクレームがついた。
≪015≫ ゴットロープ・フレーゲはぼくが最も瞠目してきた記号数学の天才である。発想が図抜けている。あの概念記法はとてもすばらしい。そんなフレーゲがフッサールの心理主義が混じった甘い数学論を許すはずがない。『算術の哲学』の心理主義的な記述をこっぴどく批判した。
≪016≫ これがよかった。フッサールはブレンターノの暗示にもヒントを得て哲学に転じることを決意する。すばらしい転機だったと思う。フッサールは『論理学研究』(一九〇〇~〇一)をへて、いよいよ現象学の確立に向かったのである。こう書いた。「論理学的な諸理念とそれらによって構成される純粋諸法則が与えられているというだけでは、とうてい満足できない。こうして(この満足できないところを徹底して見つめると)、論理学的な諸理念つまり諸概念と諸法則を認識論的に明晰判明なものにするという大きな課題が生じてくる。ここに現象学的分析が始まるのである」。
≪017≫ ゲッティンゲン大学に移ってから書いた『イデーン』Ⅰはフッサール現象学の開闢を告げた。フッサールは「与えられた体験を超え出るような諸要素を持ち込まずにいったん遮断する」にはどうしたらいいかということを考える。『イデーン』はそのことばかりを考えた著作だ。
≪018≫ ふつう、「思考する」とはなんらかの対象に向かっていくことをいう。接近していくことをいう。思考はおそらく意識の持続がもたらしているのだろうが、そこにはさまざまな対象(目標)への接近がおこる。フッサールの現象学用語では、このように何かに接近して思考することを「ノエシス」(noesis)という。思考する対象のことを「ノエマ」(noema)という。ノエマは意味や真実の対象である。
≪019≫ けれどもそういう接近はいつもうまくいくとはかぎらない、恋するってどういうものか、仲良くするってどうなることか、野菜と果物とは何がちがうのか、雑音とは何か、宇宙に果てはあるのか。われわれはこういうことをしょっちゅう考えるのだけれど、考えているうちに行き止まりになったり、不鮮明になったりしていく。そのため思考がうまくいかないときには、ついつい思考の内側に生じているとはかぎらない概念(思考がもたらした要素によって組み立てた概念とはいえない概念)によって、この思考を補充する。こういうことがしばしばおこる。
≪020≫ 神の思し召しだとか、進化のせいだとか、平和の理念を提示しようだとか、社会にも音楽にも雑音があるのはそれとは別の秩序があるからだとか、そんなことをいろいろ考える。「神」「理念」「秩序」といった言葉が外挿されるのだ。しかしそれでは、思考が向かっているプロセスを純粋に追究しているとはいえない。そのうち外挿概念がいろいろ跋扈して、主観(思考)と客観(対象)が入り交じり、考えていることと新たな言葉とがごっちゃになってくる。ついには「世界観」などどうでもよくなってくる。これでは、そこでおこっている現象に沿ったとはいえない。現象に向き合えたとはいえない。
≪021≫ では、どうすれば思考の純度を保ったまま、この現象をそのまま追究できるのか。記述できるのか。難問だったが、ここでフッサールは「与えられた体験を超え出るような諸要素を持ち込まずにいったん遮断する」という哲学的な思考方法の必要を強く感じたのである。
≪022≫ 遮断は棄却ではない。放棄や放置でもない。生じてきた「考え」(ときには邪魔なものや行き過ぎたもの)をいったんカッコに入れて、あとから取り出せるようにしたい。それが遮断だ。いったん判断停止することを、積極的につくる。ドイツ哲学ではこれを「エポケー」(判断停止)とも名付ける。この遮断によって現象と直截に向き合っていく方法を、フッサールはのちに「現象学的還元」とよんだのである。思考のプロセスのどこかでその進行を遮断することによって、現象を追究することを保持しつづけようとする方法だ。
≪023≫ これまでのヨーロッパ哲学の方法を総ざらいしてみると、遮断が必要なのは超越者や超越的な概念であることが多いということが判明した。「神」や「善」によって思考のプロセスをどこかで片付けてしまうのだ。
≪024≫ フッサールは超越者や超越的概念について検討し、エポケーをつくるべきは超越者や超越的概念であることが多いのだから、現象学的還元という方法は自己認識を究めるための超越論的な還元であろうとも、他者とのあいだに成立する間主観的な還元であろうとも考えた。こうして「超越」(Transzendenz)という用語がフッサール現象学に出入りする。『イデーン』には、こう書いている。「(現象学的還元という方法によって)われわれは本来的には何も失っていない。むしろ絶対的存在全体を獲得したのである。この絶対的存在は、正しく理解されるならば、すべての世界内の超越物をおのれの内に含んでおり、それらをおのれの内で構成するものである」。
≪021≫ では、どうすれば思考の純度を保ったまま、この現象をそのまま追究できるのか。記述できるのか。難問だったが、ここでフッサールは「与えられた体験を超え出るような諸要素を持ち込まずにいったん遮断する」という哲学的な思考方法の必要を強く感じたのである。
≪022≫ 遮断は棄却ではない。放棄や放置でもない。生じてきた「考え」(ときには邪魔なものや行き過ぎたもの)をいったんカッコに入れて、あとから取り出せるようにしたい。それが遮断だ。いったん判断停止することを、積極的につくる。ドイツ哲学ではこれを「エポケー」(判断停止)とも名付ける。この遮断によって現象と直截に向き合っていく方法を、フッサールはのちに「現象学的還元」とよんだのである。思考のプロセスのどこかでその進行を遮断することによって、現象を追究することを保持しつづけようとする方法だ。
≪023≫ これまでのヨーロッパ哲学の方法を総ざらいしてみると、遮断が必要なのは超越者や超越的な概念であることが多いということが判明した。「神」や「善」によって思考のプロセスをどこかで片付けてしまうのだ。
≪024≫ フッサールは超越者や超越的概念について検討し、エポケーをつくるべきは超越者や超越的概念であることが多いのだから、現象学的還元という方法は自己認識を究めるための超越論的な還元であろうとも、他者とのあいだに成立する間主観的な還元であろうとも考えた。こうして「超越」(Transzendenz)という用語がフッサール現象学に出入りする。『イデーン』には、こう書いている。「(現象学的還元という方法によって)われわれは本来的には何も失っていない。むしろ絶対的存在全体を獲得したのである。この絶対的存在は、正しく理解されるならば、すべての世界内の超越物をおのれの内に含んでおり、それらをおのれの内で構成するものである」。
≪01≫ 自分という自己を知るには(つまり自分で自分の自己知を相手にするには)、内側を覗きこむ場合と、外から攻めていく場合とがある。哲学史はめんどうくさい用語をつかうのがたいそう好きなので、内側から覗きこむ方法を「内観主義」といい、外から攻めていく方法を「外在主義」という。
≪02≫ 内観によって自分を覗きこむことを奨励してきたのは、修行や沈思黙考を重視する宗教、内省的な思索の記述を好む省察哲学、プルースト以来の「意識の流れ」を扱う文学、および数々の心理学などである。だが、これらはなかなか科学にならない。実証的ではない。
≪03≫ 言語的な思索における論理的実証を心掛けようとしたヴィトゲンシュタインは、心がそれ自身に注意を向けるという想定は「ありうるとすれば、きわめて奇妙なこと」だとみなした。ここに登場してきたのが、実験心理学や脳科学や認知科学だった。けれども、これらをどのように解釈するかは、われわれに任せられている。
≪04≫ われわれはさまざまな感覚や経験や思考によって「自分」をかたちづくってきたと思っている。そういうふうにかたちづくられた「自分がある」とも実感している。その自分が、生まれついてこのかたいろいろなことを体験し、友達や金魚やスイトピーや歴史の教科書やユーミンの歌や仕事と出会い、さまざまな感情や知識をもつようになって今日に至っているとも、思っている。そういう現在自己には、いくつもの過去自分や他人がまじっている。
≪05≫ けれどもそう思ったところで、自分がどういうものか、自分の心がどういうものなのかはなかなかあきらかにならない。
≪06≫ 自分の正体や心の本質などというディープなことはともかくも、いったい自分は何を体験したのか、何を獲得したのか、どんな知識とまぜこぜになったのかと問うてみると、履歴書ふうのことならいろいろ列挙できそうなのに、これまで生きてきたあいだに「自分にくっついたあれこれのこと」がどういうものだったかを示そうとすると(自己知の特色を示そうとすると)、あまりに素材が多すぎて、うまく言いあらわせない。
≪07≫ 認知哲学や認知科学は心にひそむものの「取り出し」に挑んできた。欧米の学問だから、出発点は残念ながらデカルトである。デカルトが物と心を分けて心身二元論を説いたことを批判的に問うところから始めた。物と心を分けたから心の中味を取り出せなくなったと詰ったのだ。
≪08≫ どうしたら取り出せるのか。第二次世界大戦の渦中にひとしきりチューリング・マシンとサイバネティクスと情報通信理論の議論がピークを迎えたあと、最初にギルバート・ライルの『心の概念』(みすず書房)が「取り出し問題」をぶちあげた。
デカルトのように「心は自然界や物質界とは別の独立したものだ」というふうに機械論的にみなすと、心が体という系に包まれているという相互関係の説明がつかなくなり、心が「機械の中の幽霊」のような様相になってしまう。
≪09≫ デカルトは心を実体的に扱いすぎた。心は機械の部品ではなく、おそらくは可変的な傾向のようなものなのだから、メカニックな説明では扱えない。
デカルトはカテゴリー・ミスを犯していると言ったのである。
≪010≫ ライルの影響はさまざまに広がった。スマートやファイグルのように心と脳を同一視する者、パトナムやアームストロングのように心は知覚機能の因果化がもたらしているものだとみなす者(心脳同一説)、デイヴィッドソンやデネットのように心にはもっと合理的な説明がつくはずだと考える者(機能主義)、いろいろ出た。
≪011≫ 逆にデカルトに戻って心や言語を部品から説明できるようにするべきだというチョムスキーやサイモンのような立場の者もあらわれた。
≪012≫ いやいや、「取り出す」のではなく「作り出す」のはどうかという一群もあらわれた。この連中は「心のモデル」や「意識のロジックモデル」を作っていった。
≪013≫ こうして「プログラムとしての心」の候補が次々に提出された。それらは「パーセプトロン」とか「フレーム」とか「電子神経方程式」とかと呼ばれつつ、しだいに人工知能として、またロボットとして構成され、その機能や作用がナマの人間と比較されるようになった。
≪014≫ そこに、脳科学、言語認知学、実験心理学によるデータが次々に加えられていった。そうなると自己知の森に対する大きな方針も問われることになってきた。
≪015≫ こうしたなか、ウィルフリド・セラーズのような内観主義とジェリー・フォーダーの表象主義が大きな潮流の分岐点になっていったのである。そして、これらに続くフレッド・ドレツキは『行動を説明する』『心を自然化する』(いずれも勁草書房)で、外在的に「外」から自己や心に出入りする表象を捉える方法を模索した。
≪016≫ いったい心身を「外」から攻めて、外在的に(外側から)自己や心を見るとはどういうことなのか。そんなことができるのか。
≪018≫ 最初に言っておくが、ドレツキは少し古いタイプの認知哲学者である。ミネソタ大学卒業後、ウィスコンシン大学、スタンフォード大学で教鞭をとりながら、認識、心、意識、自己知、情報、表象などととりくんで思索の成果を理知的にまとめてきた。『行動を説明する』では、いったい生物の信念や欲求があるとしたら、それはどんなものであるかを議論した。生物の信念や欲求を意味論的な特徴をもてるように説明する方法はあるのかと問うた。
≪017≫ にわかに想定しにくいだろうが、ドレツキはそのための「表象主義テーゼ」というものを考えた。そしてこのテーゼには、譲れぬ前提があって、そこには、①「すべての心的事実は表象的事実である」、②「すべての表象的事実は情報的機能に関する事実である」が含まれていると仮定した。勝手に仮定したのだ。
≪19≫ 生物の行為や行動を子細に説明するというなら、エソロジスト(動物行動学者)の粘り強い観察でもそこそこのことがわかる。生物医学的なデータを継続して収集してその変化を見るという手もある。ドレツキはそれでは満足せずに、生物としての人間がそのような行動をしているときの「内部表象」のようなものを想定した。
≪020≫ 生物に内部表象があるなどというのは、もちろん勝手な想定だ。哺乳動物ですらキリンやシマウマやサルにそんなものがあるかどうか、あやしい。まったくないとは言えないかもしれないが、あるとも言えない。
≪021≫ しかし、あるだろうと想定してみたらどんな特徴があらわれてくるかというふうに、ドレツキは仮定した。そのうえでそれを人間にあてはめて考えた。そういう思考法なのだ。
≪022≫ ドレツキは、取り出しにくい「自分にくっついたあれこれのこと」をこそ内部表象と呼んだわけである。あらかじめ、そう呼ぶことにしたのだ。しかし、ふつうに考えていては内部表象には手がつけにくい。そこで外側からこれに手を入れていく。この方法が外在主義だ。
≪023≫ ここには、「あるシステムSが性質Fを表象するのは、Sがある特定の対象領域のFを表示する機能をもつとき、そしてそのときのみである」という考え方が貫かれる。「Sがある特定の対象領域のFを表示する機能をもつとき」というのは、「Fについての情報を与えるとき」ということだ。もしも「自分という心のシステム」があるのなら(みんな、あるだろうと思っているわけだが)、それは知覚器官や脳機能によってなんらかの情報化がおこっているからで、それ以外ではないというふうにみなすということだ。
≪024≫ このようにみなせば、われわれの知覚的表象は体温計や速度装置やラップトップコンピュータやテレビの表象状態やカラオケで歌うこととはちがって、その表象を有するシステムが表象される対象を意識することを引きおこしている(引き出している)、とみなせるはずである。
≪025≫ つまりドレツキは、経験はシステムに内属しているのだから、それ自体が表象なのだとみなしたのだ。これが一見乱暴な表象主義テーゼというものだった。
≪026≫ このテーゼは、われわれがディズニーランドで経験したものを心のどこかで表象としていたとしても、脳の中の電気的活動や化学的活動をいくら精密に観察しても、その当のものは見えてはこないことを主張する。
≪027≫ それがディズニーランド経験にくっついたものであるかもしれないと感じるのは、その活動記録にどんな「読み取りラベル」を付したかということにかかっているのである。このことは脳のクオリアさえ「読み取りラベル」がないかぎり言い当てられはしない。もっとありていにいえば、表象とは「内なるもの」を「外なるもの」によって置き換えないかぎりは言及できないものなのだ。自分という自己知の範囲のなかで内部表象を問題にするには、このような方法でしか一人称権威を損なわせないようにする手はないはずなのだ。そういう見方だ。
≪028≫ 人類にはいろいろの概念的資源が貯まっているが、個人にはそれらを活用する能力が備わっているとはかぎらない。個人という自分ができることは、概念的資源がなんらかの置換的知識に転出されていて(教科書とか写真とか噂話とか)、それらの転出トークン(象徴)によって自分の記憶を類的なものとして補綴することである。この補綴行為のときにメタ表象性が登場する。
≪029≫ われわれにメタ表象性があるということは、実はクオリアを機能的に定義することはできないということを示す。ネッド・ブロック、ジェリー・フォーダー、S・シューメイカー、E・ビジャッキらが同じ見解を述べていった。
≪030≫ このような見方は、エトムント・フッサールが「超越論的現象学」として提案した方法にも、どこか似ていた。認知科学はふたたび哲学に回帰しつつもあったのである。
≪031≫ われわれが自分の心を想定するとき(つまり自分を自覚しようとするとき)、そこにはたいてい「志向性の立ち上がり」(intentionality)のようなものと、われわれの心のどこかをのべつ流れたり滞留したりしている「意識のあいまいな動向」(consciousness)のようなものとの、二つを感じる。志向性はフッサールが師のブレンターノから継承した考え方だった。
≪032≫ しかし「志向性の立ち上がり」も「意識のあいまいな動向」も、同じく自分の経験がもたらしているのだから、これらが別々に感じられるとしたら、それは内部表象の扱いを分別しているからなのである。
≪033 そこでドレツキやその賛同者たちは、表象の中に内在的特徴と志向的特徴が一緒くたになって作用しているのだと仮説した。知覚と経験の質のようなものを感じるクオリアのようなものがあるとしたら、それはこれらの特徴を一緒くたにした表象によるものなのだとみなしたのである。
≪034≫ そんな程度のことで心の特質やクオリアの本体に迫れるとは思えそうもないが、しかしそれを担う内部表象に「取り出しラベル」がくっついているとしたら、いや、「取り出しラベル」によってしか内部表象を観察できないのだとしたら、この見方には多少の可能性があった。
≪035≫ ざっとは、ドレツキによる「心を自然化する」という試みには、以上のような考え方や見方がはたらいた。本書のタイトルにもなった「心を自然化する」とは妙な言い方だが、心や自己知をできるかぎり自然主義的な解釈のなかで処理するという狙いを言いあらわしているのだと思えばいいだろう。
むろんのこと、こういう見方は一種の哲学的理科主義である。
≪036≫ さあ、この試みをどう見るかだが、いくつかおもしろいところがある。表象を知覚が反応した「情報のタグ」が外部に出てきたところでのみ扱うというところは、それなりに冷たくていい。内観主義の介在を避けるには必要な作業仮説だった。
しかし、ここには問題もある。
≪037≫ そもそも心の自然化には、思考の自然化と経験の自然化があるはずで、その両方が表象によってのみ担われていると見るのは、ムリがある。
いっとき日本でも話題になったトマス・ネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)が指摘したことだが、コウモリの感覚器官や脳についてどれほど詳細な知識を得たとしても、コウモリがコウモリであることの説明や理解にはならないように、われわれは自己をめぐる表象を、われわれの実在性や心因性から独立する自然科学の方法によって記述することは、なかなかできない相談なのである。
≪038≫ できない相談なのだが、それならぼくはどうして今夜の千夜千冊にドレツキの外在的表象主義の一端をとりあげたのかというと、それは、心や魂の問題は「外に出す」ことによってしか議論できないだろうと、あるいは、「内」を外にするときのインターフェース(膜的なるもの)そのものに心や魂の特性の一部を付与しないかぎり議論にならないのではないかと、ぼく自身が昔から考えてきたからなのである。
≪039≫ すべてを脳の中にとじこめていてはしょうがない。
脳から何かを引っぱり出して、それからそれを脳のどこかに戻してやらなければならない。
≪040≫ だから認知科学の試みの半分くらいは、フランシス・クリックやクリストフ・コッホのNCC(特定の意識的知覚が生じるために必要なひとまとまりの最小神経メカニズム)のようなものを、あえてわれわれの内部性と外部性の境界(膜があるところ)にまで、まずは引っ張り出してくることなのである。では、その「外」とは何なのか。部屋なのか、絵画なのか、文芸作品なのか、仮想空間なのかといえば、この問題はまだのこされている。
≪041≫ もうひとつ、付け加えておきたい。それは、だからといって内観主義を葬り去ってはまずいだろうということだ。内側を覗くばかりの内観主義には限界があるが、内側に紛れている外側を観照する方法だって、あるはずなのだ。内観は少し残しておくべきなのだ。
さらには荘子やホワイトヘッドや湯川秀樹がそうしたのだが、そもそも内側にはいろいろ隙間や非局所性や外部痕跡があって、それらを含めてネクサス状態が広がっていると見ることも可能なのである。
≪042≫ 内側に残る痕跡を見つめて、これを外在化するためのインターフェースを想定していくこと、これがぼくの「心」が好むやり方なのである。