縄文道

神話の世界

読書・独歩 宇宙の間隙に移居する PartⅤ 神話の世界

19≪01≫  過ぐる日、旧知の関口宏さんから「やっと保阪さんとの近現代史がおわるので、いよいよ古代史の番組をやることにした。ついては松岡さんにお相手をお願いしたい」「テレビもやっぱり天皇のことをやらなくちゃいかんでしょう。ぼくがいろいろ聞き役になりますから、ひとつよろしくお願いします」という申し入れがあった。

≪02≫  保阪正康さんが出ずっぱりの『もう一度!近現代史』は、日本社会における「戦後史の欠落」を補うためのロングタームのBS番組で、かなり詳細なクロニクルにもとづいて2年近く続いたもの、維新から敗戦をへてサンフランシスコ講和の意味までを問うた。どのくらいの視聴者が見ていたのかは知らないが、日本の近現代が何を為して、どんな難問を抱えたのかを克明に浮き彫りにした。

≪03≫  その近現代史の番組をつくりながら、関口さんは「では、日本とはいったい何なのか、天皇とはいったい何なのだろうか」とずっと思っていたらしく、これはやっぱり日本神話にまで戻ってみなきゃならない、倭国が日本になっていったプロセスに介入しなければならないと感じたそうだ。

≪04≫  それにあたってどういうわけか、ぼくをパートナー講師に選んで古代史にとりくむ番組をつくろうと決めたようなのだが、これは困った。「えっ、古代史を1年間? ぼくが一人で?」。

≪05≫  とうていムリだ。その任ではありませんとお断りしたのだけれど、関口さんは諦めない。粘られた。プロダクション、TBSプロデューサーからの説得、さらには「サンデーモーニング」で長い付き合いのある田中優子(721夜)さんから「関口さん、困ってたわよ」というやんわりとした間接ネゴもあり、ついに「古代史専門の先生と二人で一緒に話していくのなら」という条件付きで引き受けることにした。

≪06≫  関口さんは古代史を新しい教科書のように審(つぶ)さに案内したいらしいのだが、そうなると「史実」を次々にトレースしなければならないのだろうが、ぼくはそういう教科書的なトレースをもとに実証的なことを説明するのにはめっぽう不向きなのだ。ぼくが関心があるのは、編集的世界観にもとづく「日本という方法」による新たな裁断(切り口の提示)をすることなのである。

≪07≫  けれども裁断や既存の日本史観に対する文句を言うばかりでは、関口さんも困るだろう。こうして新番組『一番新しい古代史』に、エース吉村武彦さんが登場することになったのである。

≪08≫  吉村さんは、いま日本古代史全般の解読を引き受けるのに最もふさわしい歴史学者だろう。日本古代の詳細に通じておられるのは当然だとして、厖大な史料やさまざまな諸学説をバランスよく目配りされているし、文化面に対する配慮にも鋭い指摘をしてきた。

≪09≫  なにより歴史文書にめっぽう明るい。テレビの連続歴史番組にはうってつけだ。ぼくも折にふれて『日本古代の社会と国家』(岩波書店)、『古代天皇の誕生』(角川ソフィア文庫)、『日本社会の誕生』(岩波ジュニア選書)などを読んできた。吉村さんからは番組スタートにあたってスタッフに『ヤマト王権』(岩波新書)と『古代史の基礎知識』(角川選書)が提示された。

≪010≫  今夜はそのうちの『ヤマト王権』を案内しようと思う。この本は岩波新書「シリーズ日本古代史」6冊のうちの2冊目で、シリーズ全体は①石川日出志『農耕社会の成立』、②本書、③吉川真司『飛鳥の都』、④坂上康俊『平城京の時代』、⑤川尻秋生『平安京遷都』、⑥古瀬奈津子『摂関政治』というふうになっている。新書による新たな定番をめざした教科書だ。

≪011≫  岩波新書には、ほかに「シリーズ日本中世史」全4冊、「シリーズ日本近世史」全6冊、「シリーズ日本近現代史」全10冊があって、これらで日本史がすべて新書で通観できる。

≪012≫  本書は古代史についての凡百の憶測をできるかぎり削ぎ、今日の古代歴史学の最前線の研究成果が納得できる範囲でヤマト王権成立の事情を書くと「こうなる」という、現在の歴史学が見せた手本になっている。本書と『飛鳥の都』を続けて読むと、最新の古代日本像が浮き出してくる。

≪013≫  ちなみに番組のほうは、BS・TBSで毎週土曜日のお昼からの1時間の放映だ。見やすい時間かどうかはわからないし、BSがどのくらい視聴されているのかも知らないが、関口・松岡・吉村は1歳ちがいの後期高齢者なので、はっきりいってジイサン番組である。だから昭和世代としての「日本感覚」は互いに共有しているようには感じるものの、だからといってどこまで「一番新しい古代史」に画面上で出入りできるかは、3人ともわからない。まあ試しに、ご覧いただきたい。

≪014≫  番組は縄文海進から始まって、東京に躑躅(ツツジ)が咲き誇るころは聖徳太子から白村江の海戦をへて大化改新にさしかかるあたりだろうか。

1≪015≫  さて、本書のタイトルになっているヤマト王権とは、われわれの祖国が紀元前後から他称「倭国」を脱して、4世紀前半に自称「ヤマト」(日本)としての“国柄”のヴィジョンと治国方針をもち、これを7世紀後半あたりまで存続させた王制型の政治権力機構のことをいう。大化改新前後までの王権のことだ。天武朝以後は「ヤマト」よりも元号「日本」が使われる。

≪016≫  ヤマト以前は? 倭あるいは倭国だ。とはいえその倭国も、当初は「分かれて百余国」だった小国の連合体のようなもので、それがやがて天皇一族の親政による統一王制の国になるにあたっては、東アジアの突端に位置した海国なりの紆余曲折があった。

≪017≫  紆余曲折はどんな民族のどんな建国期にもおこったことだけれど、とくに東アジアの海中に登場した日本列島にあっては、巨大中国の支配権の影響が大きい。これは「華夷秩序」の影響というもので、かなり強大だった。その力が朝鮮半島の統治事情を通して波濤のように及んできた。

≪018≫  そこで倭のリーダーたちはまずは「冊封」(さくほう)を希ったのだが(とくに倭の五王時代)、なんとかそこから脱することになった。こうして4世紀から7世紀にいたる300年ほどのあいだで「倭国」は換骨奪胎するかのように「ヤマト」(倭・大和・日本)に変じていった。昆虫のような変態を遂げたのだ。

≪019≫  そうなるにあたっては、鉄と稲と漢字と馬がほぼ同時に列島に伝わり、そこに渡来人の技術や思想が加わった。

≪020≫  だいたいはそういうことだけれど、長らく「謎の4世紀」と言われてきたように、倭国からヤマトへの変遷(変態)の経緯については、どんなふうに鉄・稲・漢字・馬をつかった「原日本」づくりに着手したのか(→たたら製鉄はどこで始めたのか)、地域豪族や渡来部族のどのグループが主要なはたらきを示したのか(→なぜ弓月君は集団をもって渡来していたのか)、不明なところが少なくない。

≪021≫  大きな理由がある。当時の倭国に関する動向が明示する文書史料が、『漢書』や『三国志』など、紀伝体で書かれた中国の史書にしかないからだ。銅鏡や古墳や七枝刀があるとはいえ、考古学史料も揃っているとはいいがたい。

≪022≫  というわけで、あれこれのアトサキの変遷については、ミニマムには次のことがわかっているにすぎない。

≪023≫  82年に成立した『漢書』地理志に初めて「倭人」が登場する。「それ楽浪海中倭人有り、分かれて百余国となす。歳時を以て来たり、献見すという」。紀元前108年、漢の武帝が衛氏朝鮮を叩いたのちの現在の平壌あたりに楽浪郡を設置して周辺の事情を調べたところ、そこから見て東方の海を渡ったところに倭人たちがいて、それぞれに小リーダーをもつ百余国をつくっていた。かれらのうちの強国は前漢の皇帝に定期的な朝貢をしていた。

≪024≫  ついで『後漢書』東夷伝に「建武中元2年(57)、倭の奴国(なこく)、奉貢朝賀す。使人自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」、また「安帝の永初元年(107)、倭国王師升(すいしょう)、生口百六十人を献じ、請見を願う」と出てくる。後漢になって奴国が冊封を願って使者をおくってきたり、倭国の王の師升が奴隷を献上してきたというのだから、当時はそれぞれの倭人の小国が競って、奴国のような強国が魏晋南北朝の中華秩序(華夷秩序)に縋(すが)ろうとしていた‥‥というのだ。

≪025≫  中華秩序や冊封体制が直接に倭国に及ぶには、中国と倭国のあいだにある朝鮮半島の勢力の拮抗と優劣の地図がものを言う。高句麗・新羅・百済・加耶諸国などの趨勢が関与する。つまりは対馬や北九州は南韓とつながっていたし、倭の小国のリーダーたちはそのことを重々承知していたから、中華パワーがダイレクトに押し寄せるのを、朝鮮勢力を緩衝力にすることで避けようとしていたのでもあろう。出先機関としての「任那日本府」がつくられたのも、そのせいだった。倭の連合体の消長と半島の帰趨はまさに一衣帯水だったのである。

≪026≫  一方、国内事情は国内事情として、北九州から山陽山陰をへて畿内にいたるベルト地帯で、さまざまな勢力地図が頻繁に動いていた。その推移や変遷は、しかしわが国の同時代史料には綴られてこなかった。のちのちの『記』『紀』や風土記などで後追いするしかない。

≪027≫  中国の史書だけで推移と変遷を再現するだなんて、なんらわが国独自の観察による決定打が放てないのだから古代史好きにとっては残念至極だが、長らく文字をもっていなかったわが国ではそんな不如意の事情が、卑弥呼や邪馬台国の時代においてもまだ続いていて、いったい倭国連合体が出現したのか、倭国という小国が抜きん出て覇権に向かったのか、ヤマト国家を意図したのは卑弥呼以降の大王(おおきみ)のうちのどの実在天皇なのか、いまだに結論が出ていないわけである。

≪028≫  ということは、どのように天皇一族が他の豪族を抑えて凱歌をあげたのかが、なかなかわからないということになる。その一族が「アマテラスを奉じた天孫族」だったとしても、そのとことを示す『記紀』の記述を立証できるエビデンスが、どうにも足りなすぎるのだ。アマテラス→ホノニニギ→ヒコホホデミ(山幸彦)→ウガヤフキアエズ→イワレヒコ(神武天皇)という系譜を示す材料が足りなすぎるのだ。

≪029≫  おまけに2代綏靖天皇から8代開化天皇までの実在性は乏しく、やむなく「欠史八代」とされているのだから(→そのため神武の存在もぶっとんでいるのだから)、そもそもの天孫一族の立ち上がりの事情が歴史に投影できないままなのである。

1≪030≫  ぼくは、最初のヤマト王権の萌芽を担ったのは10代の崇神天皇(ミマキイリヒコ)とそのチームで、それを外交的に敷延したのは15代の応神天皇(ホムダワケ)のチームだろうと思っているが、吉村さんは少し慎重である。

≪031≫  それというのも当時の「原日本」に朝鮮半島の政治力学や交易力がどのくらい関与しているのか、崇神と応神をめぐる記述だけではそこの経緯がまだまだ見えきっていないからだ。

≪032≫  とくに公孫氏の帯方郡設置(→これは大きい)と北九州との関係、倭の諸国と加耶・百済・新羅との関係、および出雲や吉備の盛衰と初期ヤマト王権との関係がすこぶる重要なのだが、これらについては記紀神話の中に組み入れられて、応神期から仁徳期にまたがるさまざまな国内外の出来事の勃発として語られているにもかかわらず(神功皇后の三韓征伐など)、多くは物語ふうに語られているので、なかなか歴史学的な説明が一貫できないでいる。

≪033≫  これは中国の史書に記述がなく、古代朝鮮の史書は高麗時代12世紀編纂の『三国史記』、13世紀末の『三国遺事』などの後世のものになるので、われわれはいきおい『日本書紀』ばかりに頼ることになるのだが、それだけでは考古史料の不足もあって、韓倭のダイナミックな実態が浮上してこないのだ。

≪034≫  吉村さんは、倭韓の交流の中で「都市」が動いたことに注目した。この時期における「都市」とは「市をつかさどる」という意味だ。倭国は朝鮮半島と密接につながりながら、さまざまな「市」を都(つかさど)ることをもって、次のヤマト派による統一に向かっていったのである。

≪035≫  統一をめざした原日本はどんな統治力をもったのか。『三国志』魏志倭人伝に「大倭」という言葉が出てくる。「国々に市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ」と綴っている。大倭が諸国の市を管理していたらしい。この大倭こそ、和語による読み方はわからないのだが、ひょっとするとヤマトの原形のようにも思われる。

≪036≫  また一方、『三国志』烏丸鮮卑東夷伝には「大人」と「下戸」という身分があったと記されていて(奴隷もいた)、これらの身分を統括し、大倭をさらに強化さていったのが初期ヤマト政権の前身を形成したのだろうとも予想できる。予想はできるのだが、日本側にはこれらの推移を示す史料がさきほども述べたようにもっぱら『古事記』『日本書紀』『風土記』程度になって、これらと発掘史料との照合がなかなかベストマッチングには至らない。記紀以前に『天皇記』『国記』、また『帝紀』『旧辞』があったのだが(聖徳太子時代に編述された)、それらが焼失したり消失してきたのも痛かった。

≪037≫  それでも中国の史書と記紀の記述はつながらないのかというと、そんなことはない。吉村さんは『日本書紀』の編者が中国史書を読んでいて、「謎の4世紀」以前の邪馬台国の動向について、神功摂政39年条で「倭女王」の表記をもって卑弥呼に神功皇后をあてていることに注意を促している。日本の歴史編纂においては、中国史書はそこそこ参照されているはずなのだ。しかし、辻褄があわないところを合わせたふしもある。

≪038≫  たとえば神功皇后は14代仲哀天皇の皇后であって「倭王」ではないし、また倭人伝で「夫婿なし」と書かれた卑弥呼は独身であって、子供がいた神功皇后とは比定できない。加えて倭人伝が記す倭国の交渉相手は魏であるが、神功皇后の対外交流の相手は新羅や百済や高句麗なのである。

≪039≫  だから卑弥呼は神功皇后に比定できない(あてはめられない)ということになるのだが、書紀の編者は当時の天皇には男性しかいなかったため、あえて神功皇后を「倭女王」とみなしたのだったろう。

≪040≫  こういう「あてはめ」がいろいろおこっていて、そこが初期ヤマト政権の確立プロセスの経緯をさらにわかりにくくさせてきた。天孫一族の「計画」(→これがメイン・プロジェクトであるはずだが)は、歴史学的にはなかなか確定しにくかったのである。やむをえなかった。けれどもわかりにくいながらも、天孫一族をとりかこむ面々はヤマトによる統一を望んだか、もしくは葛城や大伴や物部や蘇我のように、統一政権の誕生を積極的に手伝っていた。

≪028≫  ということは、どのように天皇一族が他の豪族を抑えて凱歌をあげたのかが、なかなかわからないということになる。その一族が「アマテラスを奉じた天孫族」だったとしても、そのとことを示す『記紀』の記述を立証できるエビデンスが、どうにも足りなすぎるのだ。アマテラス→ホノニニギ→ヒコホホデミ(山幸彦)→ウガヤフキアエズ→イワレヒコ(神武天皇)という系譜を示す材料が足りなすぎるのだ。

≪029≫  おまけに2代綏靖天皇から8代開化天皇までの実在性は乏しく、やむなく「欠史八代」とされているのだから(→そのため神武の存在もぶっとんでいるのだから)、そもそもの天孫一族の立ち上がりの事情が歴史に投影できないままなのである。

1≪041≫  王権の担い手やその協力豪族の事績を象徴するものとして、前方後円墳などの巨大古墳がある。大王(おおきみ)一族とその協力者たちによるメモリアルなシンボルの造成だ。古墳は文書のようには詳細を語ってくれないが、古墳の形状は時代の大勢がどこに向かっていたかを告げている。

≪042≫  もともと古墳は死者を埋葬する高塚で、その中に棺を埋め、「不樹」だった。土盛りが最終仕上がりで、内部は封印され、のちのちになって鬱蒼とした樹木が覆った。当初から形もさまざま、竪穴・横穴もさまざまで、各地の古墳の総計はかなりの数になった。全国の古墳数は今日のコンビニ店数を上回る15万基に及ぶ。平均するとどれもが十数メートル以下の規模だったけれど、しかし王権派の古墳はこれらに別して、はるかに凌駕する巨大性をもってその権威を示した。

≪043≫  はたして王権の威力が同時代人たちにどれほど認識されていたのかはわからないが、巨大古墳はその権威が時(=うつし世)を超えようとしていただろうことは、われわれもピラミッドやミナレットの遺跡からその時の威容を感じるように、古墳を前にすると感じられてくる。前方後円墳はそういう古代ヤマト王権の凱歌なのであろう。ちなみにこんな句がある。「水軍の古墳見て来て雛の酒」(巌谷小波)、「われ佇ちて古墳の松や秋の風」(飯田蛇笏)、「壁画古墳人馬つちふるごとくなり」(野見山朱烏)。

≪044≫  そうした凱歌を告げる初期の巨大古墳に、大和三輪地域の纏向(まきむく)遺跡や箸墓(はしはか)古墳があった。モモソヒメの墓だろうとか卑弥呼の墓だろうとかと話題にされているが、断定はできていない。もし箸墓が卑弥呼に関係しているだとすれば邪馬台国は大和にあったということになるのだが、そうみなすといろいろ矛盾も出てくるので決められない。纏向が大物主信仰やモモソヒメと関連があるのなら、そこは崇神天皇の拠点だったということになるけれど、こちらも決定打は放てない。

≪045≫  とはいえ崇神の時代には、初期ヤマト王権の発動を感じさせる四道将軍による全国征討活動、戸口調査の実施、課役(調役)を試みなどがおきているので、吉村さんは崇神が「初代の天皇」としてのハツクニシラススメラミコトであるかどうかは確定できないにしても、ほぼそれに近い王権をもったのだろうという見解を示している。ただ『書紀』に「任那に朝貢していた」とあるのは、後世の編集だったろうと注記した。

≪046≫  もうひとつ、古墳以外に初期ヤマト王権の推移を示しているものがある。それは歴代の遷宮である。遺跡は残っていないほうが多いものの、記紀には王宮の変遷については必ずその記録が示されている。

≪047≫  日本の古代天皇は大和・難波・飛鳥・近江など、代々が宮都を遷(うつ)していた。ユーラシアやヨーロッパの各地の王都の変遷は(→ローマからアーヘンまで)、部族や権力者としての王が変更してガラリと拠点が変わるのでわかりやすいけれど、日本の場合は天皇一族とおぼしい者が一代ごとに新たな即位をするたびに王宮を遷している。なぜなのか。同じ地で建て替えるより移したほうがさまざまなコスパがいいという実用的な理由もあるだろうけれど、おそらくは、①父子の別居が習慣になりつつあった、②死の穢れを転地によって浄めた、③即位のもつ「あらたまる儀式性」を告示したかった、といったことが重視されたのだろうと思われる。

≪048≫  倭国では王宮のことを「宮」と呼んできた。「御屋」(屋の美称)である。その宮があるところが代々の「宮処」(みやこ)だった。宮づくりにはそのつど名代(なしろ)や子代(こしろ)の部民が招集され、白髪部(しらかべ)、伊波礼部(いわれべ)、蝮部(たじひべ)、刑部(おさかべ)などの名をもらって、雑務・供膳・警護などをまっとうした。

≪049≫  王宮建設は王権の組織づくりへの着手でもあったのである。しかし、初期古代王権においてはそれが地域の拠点化にはつながらなかったようだ。吉村さんは、ヤマト政権は特定の地域を政治的・経済的な基盤にできなかったと見ている。特定の地域に腰を下ろしたのは平城京や平安京になってからなのである。

≪050≫  初期王権が「ヤマト」政権と呼ばれるのは、最初期の王宮が「大和」地域の近場(ちかば)での遷宮によって動いていたからである。崇神・垂仁・景行の3代の王宮は磯城(しき)の瑞籬宮(みずがきのみや)、纏向の珠城宮(たまきのみや)、日代宮(ひしろのみや)というふうに、三輪信仰が及ぶ程度のかなり狭い地域で移動した。この近場での集中が各地の征討のたびに政権が動揺してしまうことを防いだともいえた。

≪051≫  たとえば崇神天皇は神人分離を思いたって、祖国の霊を主宰するアマテラスを王権の地から離し、ついでは四道将軍を各地に派遣して、最初の王権一族が三輪信仰の地域とともにあることを知らしめた。

≪052≫  次の垂仁天皇のときは狭穂彦(さほひこ)の反乱がおこり、北部勢力とのあいだで多少の争いをおこしたようだったが、これを治めると、続く景行天皇の時期には『日本書紀』は遠征軍が九州→畿内の各地を征討したこと、『古事記』ではそれが主にヤマトタケルの活躍だったことが語られるように、大和や河内に王宮を構えた一握りの初期政権が、遠方の各地をコントロールするという機能を発揮したのだった。

≪053≫  各地の制圧はこのあと国造(くにのみやつこ)と県稲置(こおりのいなぎ)の設置となって、王宮を大きく移動させずとも地域管理ができる準備を整えるほうに向かっていった。つまりは「ヤマト」のセンター化が進んだのである。いわば王権のホールディング・カンパニー化であった。

1≪054≫  センター化(ホールディングス化)にあたっては渡来部族による技能や思想が加味された。おそらくは応神~仁徳期にその試みが飛躍的に促進し、次々に渡ってきた秦氏(はたうじ)、東漢氏(やまとのあやうじ)、西文氏(かわちのふみうじ)らの渡来部族が定住し(帰化し)、かれらは代々の王権のなにがしかのブレーンとして、またイノベーティブな技能集団として組み込まれていった(→弓月君による集団渡来もこの嚆矢のひとつだった)。

≪055≫  ヤマト王権ではこれらの帰化を「王化」とみなし、古語では「まうく」と呼んだ。王化は中国では冊封体制に入れることを意味したが、日本では蝦夷や隼人を服属させることも王化で、ヤマト王権のガバナンスが及ぶところを「治天下」あるいは「御宇」(あめのしたしらす)と認識することをもたらした。

≪056≫  この認識は、のちに徳川期の山鹿素行の『中朝事実』など以降は、東アジアのコアコンピタンスを日本が担うことによって、周辺国を五族協和させたり八紘一宇をしらしめることが王化であるとみなされる。王化思想の変遷は日本の東アジアにおける立ち位置の変遷を物語っている。

≪057≫  5世紀は「倭の五王」が南北朝の宋からの冊封授爵を求めつつも、総じては雄略天皇の治天下が胎動した時期になる。初期ヤマト王権が東アジアの権威の傘下で組み立てられようとしていた時期だ。

≪058≫  讚・珍・済・興・武の五王がどの天皇であったかは、武(ワカタケル)が雄略天皇であることを除いて確定していないが、讚・珍は「安東将軍・倭国王」の称号を、済と武は最初は「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」を、ついで「安東大将軍」の称号をもらっている。

≪059≫  使持節という称号は、中国天子の君命を受けたという証拠の節(しるし)をもっている監督官という意味、安東は東日本を治めているという意味で、これが西日本であれば平西将軍となった。注目すべきはここに「倭国の王は百済を管轄してよろしい」という称号が入っていないということだ。宋にとって百済をどう左右するかが微妙な時期だったのである。その管轄権利をおいそれと倭国に委ねる気はなかったのである。

≪060≫  こうした「授爵」の事情を見ると、倭の五王が百済をはじめとする半島の経営に強い関心をもっていたこと、とくに任那に執着していたこと、しかしながら中国側はその事情をよく見極め、倭から百済を外し、任那までは認めていたこと、また対馬や北九州などの西日本ではなく東日本でがんばってていなさいと律していたことなどが伝わってくる。

≪061≫  倭国の管理体制について、中国からのヒントをもらおうとしていたことも特筆される。武(雄略)は「開府儀同」三司の設置を希望したのだが、これはそういう名の役所をつくりますと要望したことにあたるのだが、当時の王権はそんな組織の仕立ても中国の権威を投影させようとしたのだった。吉村さんは、そこには初期ヤマト王権が「人制」(ひとせい)による職掌分担を試みていたことがうかがえるとした。

≪062≫  倭の五王の狙いは半ば成功し、半ば挫折する。とくに任那の経営がうまくいかない。任那は加羅諸国とともに「加耶」と総称された半島南端の地域だが、そこは鉄の一大産地として倭国にとってはことさら重要で、なんとかヤマト交易圏に立脚させたかったのだけれども(1491夜『古代の日本と加耶』参照)、それが容易ではない。

≪063≫  ここに登場してきたのが、子がいなかった25代武烈を継いだオオド王(男大迹)こと継体天皇である。オオドは越前と近江と密接なつながりのある応神5世の血筋の者で、自身が天皇の座に就くことなど思いもよらなかったのだが、大連(おおむらじ)の大伴金村(かなむら)が物部麁鹿火(あらかひ)と相談して、。オオドの即位を促した。継体は大和の盤余(いわれ)に遷都するのに20年をかけている。

≪064≫  継体が26代の天皇になったことについては、以前からその出自と活動の特異性ゆえに「王権の纂奪」とか「万世一系の変更の画策」とか「越前王朝の出現」と言われ、その風変わりな特徴が取り沙汰されてきた。実際にはどうだったのかはあきらかではないが、ぼくは日本海-琵琶湖-宇治川-淀川-大阪湾-瀬戸内海をつなぐ「水系の天皇」としての側面を、もっと強調して語ってもいいのではないかと思ってきた。

1≪065≫  新たなリーダーシップを嘱望された継体ではあったが、運悪く、百済が「任那4県」の割譲を求め、この交渉に当たった大伴金村は首尾をまっとうできずに4県を明け渡し、その手際の悪さで失脚した。

≪066≫  日本府の縮退や撤退の動向を前にして、継体は近江毛野を6万の兵士とともに加耶に差し向けようとするのだが、筑紫の磐井が新羅と組んでこの百済と倭国のアライアンスを阻んで乱をおこした。磐井の乱は1年に及び、やっと物部麁鹿火をして討伐させた。

≪067≫  そんなことで継体の治世はめざましい成果が思いのほか乏しく、むしろ百済によるの倭国接近が目立ったのである。任那割譲を得た百済の聖明王は倭国のもとに五経博士をおくり、続く欽明天皇のときには仏像や経典を提供してきた。倭国はヤマト王権を確立する直前、仏教の洗礼を受けることになったのだ。この「任那の放出」と「百済からの儒教と仏教のプレゼンテーション」は、まことにドラスチックな交換だった。

≪068≫  この日済間(日本と百済の間)におこった交換ニュームーブメントに真っ先に対応してみせたのが、そのころ台頭していた蘇我稲目とその子の蘇我馬子だった。馬子はさっそく氏寺をつくり、娘を出家させ、仏教による政権の強化を牽引した。馬子は嶋の大臣(しまのおとど)と呼ばれ、敏達・用明・崇峻・推古の4代をサポートした。一方、古来の神祇や言霊わ奉ずる物部尾興(おこし)とその子の守屋は、渡来した仏教信仰を「蕃神」(あだしのかみ)によるものとみなし、ここに崇仏派と神祇派が争うことになった。

≪069≫  ここから先のことは中学生にもよく知られている。厩戸皇子が登場し、馬子と組んで物部を撃破して、推古女帝を迎えて聖徳太子が十七条の憲法を謳って、ここに「日出る処の天子」による新たな王権が自立していったのである。飛鳥の都と遣隋使の時代の到来だ。

≪070≫  そうなったのは蘇我氏の仏教を背景にした権勢力と太子の独創的な施政力が格別であったことが大きかったせいではあるが、実際には東アジアにおける巨大な隋唐帝国の出現、その高句麗攻め、百済の後退、その百済による倭国への援助依頼、依頼に応じた斉明天皇時代の海洋進出の失敗(→白村江の敗北)という一連の他動的孤立化が導いたことでもあった。

≪071≫  それでもヤマト王権は、結果的には冊封体制をかいくぐって自立していったのである。中国が隋唐帝国という空前のアジア大国になったことにもとづく「やむなき自立」であった。自立してもなんとかなるという判断は聖徳太子の英断によるのだろうが、ぼくは遣隋使の小野妹子や遣隋使と遣唐使を体験した南渕請安らが繁栄する中国の実情を観察していたことが、かなり大きかったと見ている。

≪072≫  いま、われわれは古代ヤマト王権の上に居座っている。その消長と盛衰はまことにおぼつかないものであったにもかかわらず、ヤマト王権はその後の1500年以上にわたる「日本国」のアーキタイプと、いくつかのプロトタイプをつくってみせたのだ。

≪073≫  しかし、それは単一なものではない。複合的なものだ。われわれが居座っているプロトタイプはたんなる天皇制の座のことではないと言うべきだ。そこには稲と鉄と馬と漢字を輸入しての試みも、中国のレジティマシーを借りて冊封を希った「倭の五王」の試みも、加耶や日本府を出店として百済と共同経営をしてみようとした試みも、仏教という外来宗教を日本化(ヤマト化)してみた試みも、みんな入っている。多様なプロトタイプの組み合わせによって、われわれは「日本の原型」をつくったのだ。

≪074≫  かつてぼくはそれを、『日本という方法』(ちくま学芸文庫)では「外来コードの組み合わせによる内生モードの編集体制」というふうに説明した。ということは、日本には何かの“国柄”に関するオリジナル・モデルが先行していたのではなかったということだ。その大きな立体切断面のひとつがヤマト王権なのである。

≪075≫  今夜の千夜千冊では、本書に書かれた多くの歴史的必然をほとんど紹介できなかった。あまりに多彩であるからだ。できれば吉村さんの多くの著書をもって、とくに『古代天皇の誕生』(角川ソフイア文庫)などを補って、さらに充実した原日本の紆余曲折を理解していただきたい。ときにはBS・TBS『一番新しい古代史』を覗いてもらうのも手助けになるだろう。関口さん、こんなところでよろしかったですか。

身長160センチに満たなかった縄文人。

顔は上下に小さく、受け口だった。

弓矢をもち、イヌを飼い、狩猟と採取と栽培に挑み、

数々の土器を作って、精霊と交換していた。

縄文文化は一様ではない。

原始的でもないし、たんにアニミスティックなのでもない。

そこには縄文人独自の「物語」があった。

そこにすでに「聖呪」があったのである。

この原日本のルーツ。はたしてどう見ればいいのか。

小林達雄ふうに見ればいいのだ。

≪01≫  先だって両国のシアターXで開かれた「桃山晴衣さんを偲ぶ会」で、久々に小林達雄さんと会った。隣どうしの席だったのだが、たくさんの参会者による追悼と思い出話と、石川鷹彦らの演奏と(リューアーチャーこと石川と会ったのも30年ぶりくらいだった)、そして土取利行さんの慟哭を禁じえない「桃山晴衣の最後」の告白に聞き入っていたので、ほとんど会話を交わせなかった。 小林さんとは長い。講談社の『アート・ジャパネスク』の前からのお付き合いで、たくさんのことを教わってきたし、さまざまな交流も重ねてきた。そのなかに土取さんや桃山さんとの賑やかなの交流が交じっていた。こんなことを思い出す。

≪02≫  あるとき桃山さんが「ねえ、センセイ。縄文人の顔ってどんな顔?」と訊いたときは、小林さんは最初は「歯がカンシジョーコーゴー(鉗子状咬合)している」と言ったのだが、こんな専門語では何も伝わらないとみて、「ああ、縄文人って受け口なんだよ」と言いなおしたのである。桃山さんはわざと上下の歯を揃えて「私みたい?」と笑った。「いや、桃山さんは現代人っぽいよ。鋏状交合だからね」(上顎歯が下顎歯にかぶさる)と小林さんが言うと、桃山さんは「なんだ後白河時代の顔じゃないんだ」とがっかりしていた。

≪03≫  そのころぼくは、年に一度の“M's Party”(のちに玄月會)というものを催していたのだが、小林さんや土取さんや桃山さんはそのパーティでも多くの参会者と交じり、ときには朝まで残ってスタッフらと親しく交わってくれたりもしていた。パーカッションの異能者である土取さんが「縄文土器は楽器である」と確信できたのも、そのころだったと憶う。 縄文というと、このように、ぼくにはまず土取さんと桃山さんの生き方が思い出されるのである。二人が小柄だったことにもまつわっているのかもしれない。縄文人は男が157センチ、女は149センチほどだった。

≪04≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。

≪05≫  ただ縄文文化というもの、あまりにスケールが大きく、あまりに詳細で、かつあまりに多くの仮説が飛び交っていたので、われわれはすべからく達ちゃんファンでありながらも、その全体観を掴みかねていた。それが、小学館の大著『縄文土器の研究』と朝日選書の『縄文人の世界』によって、やっと小林縄文観に埋没できるようになった。そのあとは『縄文人の文化力』『縄文人追跡』などをへて、昨年の『縄文の思考』(ちくま新書)に至ると、もはや小林縄文観こそがゆるぎない定説になったことを感じたものだ。

≪01≫  先だって両国のシアターXで開かれた「桃山晴衣さんを偲ぶ会」で、久々に小林達雄さんと会った。隣どうしの席だったのだが、たくさんの参会者による追悼と思い出話と、石川鷹彦らの演奏と(リューアーチャーこと石川と会ったのも30年ぶりくらいだった)、そして土取利行さんの慟哭を禁じえない「桃山晴衣の最後」の告白に聞き入っていたので、ほとんど会話を交わせなかった。 小林さんとは長い。講談社の『アート・ジャパネスク』の前からのお付き合いで、たくさんのことを教わってきたし、さまざまな交流も重ねてきた。そのなかに土取さんや桃山さんとの賑やかなの交流が交じっていた。こんなことを思い出す。

≪02≫  あるとき桃山さんが「ねえ、センセイ。縄文人の顔ってどんな顔?」と訊いたときは、小林さんは最初は「歯がカンシジョーコーゴー(鉗子状咬合)している」と言ったのだが、こんな専門語では何も伝わらないとみて、「ああ、縄文人って受け口なんだよ」と言いなおしたのである。桃山さんはわざと上下の歯を揃えて「私みたい?」と笑った。「いや、桃山さんは現代人っぽいよ。鋏状交合だからね」(上顎歯が下顎歯にかぶさる)と小林さんが言うと、桃山さんは「なんだ後白河時代の顔じゃないんだ」とがっかりしていた。

≪03≫  そのころぼくは、年に一度の“M's Party”(のちに玄月會)というものを催していたのだが、小林さんや土取さんや桃山さんはそのパーティでも多くの参会者と交じり、ときには朝まで残ってスタッフらと親しく交わってくれたりもしていた。パーカッションの異能者である土取さんが「縄文土器は楽器である」と確信できたのも、そのころだったと憶う。 縄文というと、このように、ぼくにはまず土取さんと桃山さんの生き方が思い出されるのである。二人が小柄だったことにもまつわっているのかもしれない。縄文人は男が157センチ、女は149センチほどだった。

≪04≫ 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。

≪05≫  ただ縄文文化というもの、あまりにスケールが大きく、あまりに詳細で、かつあまりに多くの仮説が飛び交っていたので、われわれはすべからく達ちゃんファンでありながらも、その全体観を掴みかねていた。それが、小学館の大著『縄文土器の研究』と朝日選書の『縄文人の世界』によって、やっと小林縄文観に埋没できるようになった。そのあとは『縄文人の文化力』『縄文人追跡』などをへて、昨年の『縄文の思考』(ちくま新書)に至ると、もはや小林縄文観こそがゆるぎない定説になったことを感じたものだ。

≪06≫  どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。

≪07≫  たとえば土偶について、佐原真はヒトの形であると見ているのだが、小林さんは土偶はもっと抽象的で、あえてヒトの形になることを避けているんじゃないかと言うのだ(これは鋭い)。そうすると佐原さんが「顔を作ったのだっていくらもあるじゃないか」と切り返す。しかし、小林さんは「でも最初はない。中期の初頭までない。山形の西ノ浦遺跡の大きな土偶でもわざと顔をなくしている。顔が出てくるのはそのあとからだ」と反論する。 佐原さんもも引かない(二人とも意地っぱりである)。「幼児や子供はヒトをまず顔から描くように、縄文人もそうしたはずだ」と言うのだが(つまり稚拙にすぎないと言うのだが)、小林さんは「それなのに縄文人はあえて顔を避けている。だからこそここには何かの意味がある」と言い、「それって何?」と迫る佐原真に、「あれはヒトではなくて、精霊なんですよ」と言ってのけるのだ。

≪08≫  これはどうみても、達ちゃんの勝ちである。佐原真は「だったら神なんだね」と意地悪く念を押すのだが、そこには不満そうに「うーん、神でもいいけれど‥」と先輩をたてつつも、さらにミミズク土偶・山形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶の当部はたとえ顔に見えたとしても、たえず人の顔から離れようとしている造作になっていることを強調するのである。 ぼくはこういう小林縄文論が好きなのだ。たんなるアニミズム論にも片付けないし、たんなる文化人類学にもしていない。

≪09≫  約15000年前、地球は長い氷河期の眠りからさめて、しだいに温暖期に向かっていった。日本列島も12000年前には今日とほぼ近い気温環境に落ち着いた。人類は遊動的な旧石器時代から定住的な新石器時代にゆるやかに入っていくことになる。 このとき日本列島では同時に縄文人の定住が始まっていた。縄文生活は世界史的な新石器時代と並列していたのである。“同格”なのである。したがって人類が遊動的な旧石器時代をへて最初に突入したのは、世界各地の定住的な新石器文化と、そして日本列島における定住的な縄文生活だった。

≪010≫  ただし、各地の新石器文化の多くが農耕を開始していたのにくらべ、日本の縄文文化は栽培力をもってはいたが、いわゆる農耕をしなかった(縄文期から農耕があったという研究者もいるのだが、小林さんはあくまでその説には抵抗している)。そのかわり土器と漆と弓矢とイヌと丸木舟を駆使した。そこに特色がある。縄文人は弥生人のような農耕複合体をめざしてはいない。多種多様な資源をできるかぎりまんべんなく活用して、生活の安定をはかっていた。それを小林さんは「縄文姿勢方針」という。

≪011≫  この生活方針を束ねていたのは「物語」である。縄文コミュニケーションのすべてを支えた物語だった。それゆえ、一般には縄文土器が装飾的で、弥生土器は機能的幾何学的などと評されることが多いのだが、小林さんに言わせると、必ずしもそうではない。 むしろ縄文土器は物語的で、弥生土器こそ装飾的なのである。なぜなら、縄文土器は土器であることそのものが物語的であるからだ。これに対して弥生土器はまさに実用の上に装飾を表面的にくっつけている。そのため、縄文土器から文様を剥がそうとすれば、土器そのものを毀すしかなかったのである。 縄文生活と縄文土器と縄文文様と縄文物語はひとつながりなのだ。以上が小林縄文論の当初からの出発点である。まことに明快だ。

≪09≫  約15000年前、地球は長い氷河期の眠りからさめて、しだいに温暖期に向かっていった。日本列島も12000年前には今日とほぼ近い気温環境に落ち着いた。人類は遊動的な旧石器時代から定住的な新石器時代にゆるやかに入っていくことになる。 このとき日本列島では同時に縄文人の定住が始まっていた。縄文生活は世界史的な新石器時代と並列していたのである。“同格”なのである。したがって人類が遊動的な旧石器時代をへて最初に突入したのは、世界各地の定住的な新石器文化と、そして日本列島における定住的な縄文生活だった。

≪010≫  ただし、各地の新石器文化の多くが農耕を開始していたのにくらべ、日本の縄文文化は栽培力をもってはいたが、いわゆる農耕をしなかった(縄文期から農耕があったという研究者もいるのだが、小林さんはあくまでその説には抵抗している)。そのかわり土器と漆と弓矢とイヌと丸木舟を駆使した。そこに特色がある。縄文人は弥生人のような農耕複合体をめざしてはいない。多種多様な資源をできるかぎりまんべんなく活用して、生活の安定をはかっていた。それを小林さんは「縄文姿勢方針」という。

≪011≫  この生活方針を束ねていたのは「物語」である。縄文コミュニケーションのすべてを支えた物語だった。それゆえ、一般には縄文土器が装飾的で、弥生土器は機能的幾何学的などと評されることが多いのだが、小林さんに言わせると、必ずしもそうではない。 むしろ縄文土器は物語的で、弥生土器こそ装飾的なのである。なぜなら、縄文土器は土器であることそのものが物語的であるからだ。これに対して弥生土器はまさに実用の上に装飾を表面的にくっつけている。そのため、縄文土器から文様を剥がそうとすれば、土器そのものを毀すしかなかったのである。 縄文生活と縄文土器と縄文文様と縄文物語はひとつながりなのだ。以上が小林縄文論の当初からの出発点である。まことに明快だ。

≪012≫  もちろんのこと、土器の発明は日本列島だけのことではない。東アジア、西アジア、アメリカ大陸にもこの順でおこっている。しかしながら、なかで日本列島の土器製作は最も早くから始まっていて、しかも貯蔵用ではなく、もっぱら煮炊き用として広まっていった。せいぜい8000年前にしかさかのぼれない西アジアの土器は、貯蔵用の深鉢か盛付け用の浅鉢なのである。

≪013≫  初期の縄文土器が煮炊き用であったのは、ドングリや貝類などを食用にするためであった。煮炊き用だから、そのころの縄文コンロの形とあいまって丸底や尖った底でよかった。土に突っ込んでおけた。ごく初期の縄文土器に平底がないのはそのせいだが、それでもすぐに縄文人は方形平底にも挑戦した。ここには土器以前に先行していた編籠や樹皮籠の形態模写があったと思われる。

≪014≫  これでもわかるように、縄文土器の出現というもの、実に独特なのである。日本のその後の歴史から見て独特なだけではなく、世界に先駆けて独特であり、かつ他の地域との共通性を断っている。旧石器・新石器という世界史的な流れだけでは説明がつかないことが少なくない。これはなんとしてでも「日本という方法」の起源になりうるところなのだ。

≪015≫  しかし、そのような縄文研究は、さきごろになって手痛い挫折に遭遇することになった。2000年11月5日のこと、各新聞が大事件を報道した。東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一が石器を捏造していたことが発覚したのだ。当初の報道では捏造は2件だったが、その後の調査で疑惑は深まり、藤村のかかわった186カ所の遺跡に捏造の可能性があるということになってしまったのだ。

≪016≫  というわけで、牛歩の小林さんの縄文構想が縄文研究者たちにやっと舞い降りつつあった2000年前後に(研究成果を画した『縄文人の世界』は1996年発行)、日本考古学界は未曾有のターニングポイントを抱えたのである。が、だからこそ、ここからは縄文研究再生の大きな基礎が問われることになる。実証主義だけではかえって怪しいのだ。ぼくはそこにこそ小林達雄の縄文世界観にもとづいた物語編集力が必要なのだと思っている。

≪017≫  ふつう縄文土器は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期といふうに区分する。貝塚は早期にあらわれ、縄文海進は10000年前くらいの早期のおわりにおこり、このころには漆の使用が始まっている(図表参照)。 6000年前の前期には円筒形の土器文化が登場し、前期のおわりには大規模集落が出現した(三内丸山遺跡など)。中期に入ると関東・中部に環状集落が発達していった。クリの栽培が始まるのはこの中期の5400年前あたりだ。当時はおよそ26万人くらいが列島に定住していたと算定されている(小山修三の推計)。

≪018≫  6000年前の前期には円筒形の土器文化が登場し、前期のおわりには大規模集落が出現した(三内丸山遺跡など)。中期に入ると関東・中部に環状集落が発達していった。クリの栽培が始まるのはこの中期の5400年前あたりだ。当時はおよそ26万人くらいが列島に定住していたと算定されている(小山修三の推計)。

≪019≫  こうして4000年前の後期になると、土偶などの祭祀具があらわれ、環状列石(ストーンサークル)が各地に出現する。水場でトチのアク抜きなどもおこなわれるようになった。かくて約3000年前、亀ケ岡文化が花開いて、越後の一角に火焔土器が躍りだし、そして消えていくと、縄文時代は晩期に入っていくのである。

≪020≫  考古学的にはこのようになっているのだが、では、世界観としてはどうなのか。そこで小林さんはこれらの変化と遷移を縄文人の世界観から見て柔らかく区分けした。縄文人の観念の発動によって分けたのだ。草創期を「イメージの時代」に、早期を「主体性の時代」に、前期を「発展の時代」、中期・後期・晩期をまとめて「応用の時代」に。

≪021≫  ごくかんたんにいうと、「イメージの時代」というのは、編籠などを模しながら土器の可能性をさぐっていた時期で、文様も先行していた編籠などからの援用が目立つ。次の「主体性の時代」の大きな特色は、いったん挑戦した方形平底を捨てたことにある。大半が不安定な円形丸底になる。これは土器の製作能力からみると退行現象のように見えるのだが、小林さんはここに先行容器からの脱却という主体性の確立があったとみなしたのだ(日本にはこういうことは歴史的にしばしばおこっている。たとえば鉄砲を捨てたり、活版印刷をしなくなったり)。

≪022≫  それゆえ、撚糸文などの文様が低調なのは、装飾ではなく土器製作の自立に必要な粘土を堅くしめるためだったという説が出ているのだが、むしろここにはのちの「物語文様」につながる“未発の意味”が萌芽していたと見たほうがいい。それは押型文や貝殻沈線文でも同様なのである。小林さんは、そう、見たのだ。

≪023≫  「発展の時代」では、煮炊き用だった縄文土器にいよいよ盛付け用や貯蔵用が登場し、用途が一挙に多様化していった。文様にもさまざまなモチーフが登場し、文様帯とともに区画があらわれる。こうした特色は以前から指摘されてはいたのだが、小林さんはそういう分類だけではどうしても満足できなかった。これらは相互に何かを物語るためであったろうと見たのだ。

≪024≫  かくて中期以降、「応用の時代」が開花する。注口土器、壷、釣手土器などとともに甕棺や埋甕炉もあらわれ、後期には香炉形土器や異形台付土器が加わって、さらに異様な火焔土器や土偶が次々に出現したわけだ。まさに爛熟である。爛熟ではあるのだが、それはそれぞれの土地にもとづき、それぞれの集落の人々の観念と物語にもとづき、それぞれの時期にディペンドされた爛熟だったのである。

≪025≫  小林さんが「物語」にこだわったのは、小林縄文論が縄文コスモロジーの構想にもとづいているからだった。 そもそも縄文のモチーフは、「発展の時代」に文様を描く施文の方法や順序によって規格性をもちはじめ、その規格性が縄文土器の形態を固有なものにしていったのだが、小林さんはその定着した文様モチーフにはそれなりの「名」がついていただろうと想定した。つまり文様の各所に「意味」が発生しはじめたのだ。そうなると、その「意味」たちのアソシエーションがさらに文様の形態を指図していくというふうになっていく。

≪026≫  ここに特別の加工と加飾が「意図」をもってきた。S字文、剣先文、トンボめがね文などは、対称性よりも非対称性やデフォルメをめざし、いわば「観念の代弁力」をもっていったのである。縄文ゲシュタルトが動きはじめたと言っていいだろう。それは縄文人が「観念」の動向に関心をもち、その動向を「文様による物語」として記憶し、再生しはじめていたことを暗示する。

≪027≫  このように小林さんが縄文世界観の内に「物語」を発見したのは、もともとは後期の土器がモチーフの繰り返しに拘泥していないことに気が付いてからだった。器面を区画するにあたっても、その区画内を同一モチーフで埋めなくなっている。もっと驚くべきは、器面を一周することによって初めて構図の全貌が成立するようにもなっていることだった。

≪028≫  ぼくはかつて小林さんが勝坂式土器を手にしながら、その波状文の6つの山が一つの視野では見えなくなっていて、土器をまわすことによって初めてその意図があらわれてくるように作られているんですよと説明されたとき、アッと声をあげたものだった。そのとき小林さんは、「きっとここには物語だけではなく、それを歌ったり語ったりするためのメロディもひそんでいたんでしょうね」と言っていた。

≪029≫  その後、小林さんはこのような物語土器には、各地にそれぞれの「流儀」があること、その流儀のちがいこそが「クニ」の単位であったのではないかということも展望していった。 

≪030≫ 岡本太郎(215夜)が縄文力に感嘆し、そこに日本の原エネルギーの炎上を見抜いたことは、いまでは縄文学者にとっても語り草になっている。奔放な想像力にめぐまれた岡本太郎ならではの直観的洞察だった。 しかし、その後の日本人の多くはその縄文的原エネルギーを“漠然とした塊の力”のように受け取っていて、そこに何が発端し、何が終焉していったかということはほったらかしにしてきた。あえていえば直観ばかりが強調されすぎた。

≪031≫  たとえば火焔土器である。この異様な土器を日本人の大半が自慢をするのだが、この土器は縄文時代全体に及んでいるのではないし、日本列島の全域に発現したものでもない。全期を通して縄文土器の文様様式には、いまでは約70ほどの異同が確認されているのだが、なかで火焔土器はほぼひとつの「クニ」だけがある時期に生み出し、そして消えていったものだったのである。 このクニは小林さんが生まれ育った越後新潟を中心に、西南は越中富山を、東北には出羽山形を控えた範囲にまだかるクニである。信濃川沿いにみるとその領域は信濃の脊梁山脈までであるが、阿賀野川沿いには意外にも会津盆地までもが入っていた。このクニにのみ、火焔土器と三十稻場式土器が苛烈に燃え立ったのだった。

≪032≫  すでに中期、信濃川や阿賀野川の河岸段丘には中央広場をとりまくようにして竪穴住居を擁するいくつものムラがあった。このとき、一つの文様様式が壁にぶちあたっていた。諸磯式土器が十三菩提式をもって文様の細密化に行きづまり、なんらかの打開に向かう必要に迫られていたのだ。既存の観念力の衰退であろうか。それとも戦争で敗北したのだろうか(小林さんは縄文時代には戦争もあったことを仮説している)。 そこで越後縄文人は、さまざまな隣接のクニの様式を参考に、また遠方から運ばれてきた土器なども参考に、新たな土器創造に乗り出した。わかりやくくいうのなら大木式・阿玉台式・勝坂式などを“編集”して、新たなクニの物語とシンボルを形成することになった。おそらくはリーダーの交替もあったのだろう。

≪033≫  こうして中期から後期にかけて、あの強烈な火焔土器の原形が出現するのだが、そこではまず、新保式や新崎式が重用していた縄目文様を器面から追い出してしまうということをやっている。縄目に代わって隆線を偏重した。それとともに「突起」を燃え上がらせた。突起は4つに定まった。会津の火焔土器には3つの突起の土器があるのだが、それとも異なっていた。かつ、「鶏冠型」と「王冠型」の2種類を併用させた。

≪034≫  小林さんは、この2種類の突起は決して装飾過剰から生まれたものではないと見た。これらは越後縄文人の観念の独自性を物語るための、比類のない「記号」なのである。むろんそれがどんな物語記号や観念記号であるかは解明されていないのだが、ともかくもそのように見ないかぎりはこのクニの特別な事情は解けないと見たのだ。 しかしとはいえ、縄文のクニの独自性は土器のみでは決まらない。住居や言語や技法とも結びついている。とくにこの「火焔土器のクニ」では翡翠(ヒスイ)との関係が大きかったはずだった。

≪035≫  縄文人の生活は「炉」と切り離せない。ところが、この「炉」がクセモノなのだ。なぜならこの炉は意外なことに、暖房用でも調理用でもなかったからだ。調理は戸外でしていたのである。 遺跡をこまかく調べると、暖房用でも調理用でもないのに炉の火は、しかしたえず燃やし続けられた痕跡がある。そうだとすると、ここには実用だけではない「意味」があったことになる。何かの「観念」か「力」かが去来していたのであろう。そうとしか考えられない。ということは、すでにこれらの炉をもつ「イエ」そのものがなんらかの観念の住処であり、また祭祀の場でもあったはずである。

≪036≫  実際にも中期の中部山岳地帯の縄文住居の奥壁には、石で囲った特別な区画が設けられ、中央に長い石を立てている例もある。それも採石したばかりの山どりの石である。埋甕も入口近くの床面に埋められていた。ときには底を抜いたりもしてある。かつて金関丈夫(795夜)は胞衣壷か乳幼児の甕棺だったのではないかと推理した。木下忠もそういう推理をたてている。 ぼくが最も驚いたのは、こうした住居にはほとんど何も置いていなかったということだ。土器の小破片が稀に見つかる程度で、縄文人はあれほどの土器類をイエの中には持ち込んでいないらしいのだ。ウツなのである。ウツロであって、かつウツツなのである。ただし煮炊き用の土器にかぎっては、ときに床面にジカ置きしていたようだ。

≪037≫  多孔縁土器が2個1組で床面から発見された例もある(長野野々尻遺跡・岐阜糠塚遺跡)。素焼きの縄文土器は破損しやすいのに、完形品でそういうものが床面で保存されていたのは、よほど丁重な扱いを受けていたのであろう。 こうなると、「イエ」は「聖なる空間」で、そこに持ち込まれた少数の土器は聖器だったということになってくる。小林さんは、それらを「第二の道具」と総称した。

≪038≫  実は「火焔土器のクニ」では翡翠が採れた。日本における翡翠の原産地は新潟県糸魚川の山中に局限される。翡翠はそれまで身体装飾品につかわれていた滑石などと異なって、歯が立たないほど堅い。入手も困難だし、加工も難しい。それにもかかわらず糸魚川の翡翠は「火焔土器のクニ」のシンボルとして特産され、そして全国に流通した。火焔土器が流通しなかったにもかかわらず。 いったい、なぜこのようなことがおこっているのだろうか。まことに興味深いことばかりだ。

≪039≫  しかし、残念ながらそれらの謎はほとんど解けてはいない。小林縄文観にして、推理がつかないところは、まだまだヤマのように残っている。縄文学はこれからが本格的な本番なのだ。 ぼくが思うには、このような謎を解くには、もはやマルセル・モースやレヴィ・ストロース(317夜)の推論をあてはめているのではまにあわないだろうということだ。日本人が原日本の解明のために、独自な理論を仮説するべきなのである。そしてそのうえで、新たな歌を物語るべきなのだ。

≪040≫  小林達雄の縄文論はそのための「花伝書」であり、「梁塵秘抄」なのである。大きな出発点がここにあることはまちがいない。ただ、この「能」を、この「歌」を、誰かがもっともっと実感すべきなのである。たとえば土取利行さんのように、たとえば桃山晴衣さんのように。そういえば晴衣さん、昔、そんな話をしたことがありましたねえ。いささか懐かしい日々のことではあるけれど――。

≪01≫  日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本はむしろ多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代には多民族国家論や混合民族論の標榜と論証のほうがずっと多かった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、なんと戦後のことだったのだ。 

≪02≫  このような、ある意味では意外におもわれそうな“結論”を指摘するために、著者が本書で試みたことは重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ四十歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会科学の教授である(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。 

≪03≫  この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『〈日本人〉の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『〈民主〉と〈愛国〉』(ともに新曜社)を問うた。いずれも大著だが、目を洗われるところが少なくない。 

≪04≫  考えてみれば、明治政府が明治二八(一八九五)年に台湾を、その十五年後に朝鮮を併合したときに、すでに日本の総人口の三割におよぶ非日系人が“臣民”として大日本帝国の傘下に入れこまれていたのである。その後の日中戦争や太平洋戦争の渦中で「進め一億、火の玉で」と煽った一億とは、台湾や朝鮮を(ときには満州をも)含めた帝国人口のことであって、内地の人口のことではなかった。つまり帝国は多民族国家だったのである。そこで疑問が生ずる。では、日本人はいつどこで「均質な民族像」をもつようになったのか。本書はその疑問に挑んだ。 

≪05≫  日本が単一民族の国だという“神話”が戦後につくられたのだとすれば、それ以前はどうだったのかというと、明治期には、日本は多民族国家の議論にあけくれていたのである。 

≪06≫  日本人が日本民族について考察をはじめたのは新井白石あたりを嚆矢とするが、これを人類学として本格的な議論にのせたのは坪井正五郎・鳥居龍蔵・小金井良精らが明治中期に設立した人類学研究会「じんるいがくのとも」(のちに東京人類学会)の活動以降だった。坪井は混合民族説を主唱した。ただ、これがすんなりは通らない。とくに不平等条約の撤廃を志す動きのなかで巻きおこった外国人の居留をめぐる内地雑居論争をきっかけに、人種問題と定住問題が絡んで吹き出して、さまざまな見解のかたちをとった。 

≪07≫  田口卯吉は、外国人の流入は古代の朝鮮・中国からの渡来人以来のことだから日本はもともと単一民族国家ではないと見て、内地雑居を許可することを訴え、今後はアメリカのような移民国家になるべきだろうと主張した。これに反対した井上哲次郎はその反対の根拠として日本人は劣等人種なのだから、このさいは日本民族が一致団結すべきだと説いた。 

≪08≫  結局、内地雑居は不平等条約の改正とともに明治三二年(一八九九)より認められることになったのだが、論争はべつのかたちでさらに大きくなっていった。朝鮮併合問題の現実化と教育勅語がその火をつけたのである。 

≪09≫  明治の政治家や言論思想家たちは、ひとつの大きな難問をかかえていた。そもそも明治体制は立憲君主制と有司専制を前提にして生まれたものである。大日本帝国の臣民は天皇を祖先とする一大家族である。それを有司専制システム(官僚)が守って内閣がコントロールしていくというものだ。 

≪010≫  しかし、そうであるのならこの先、朝鮮や台湾の異民族が帝国に編入されるようになったとき、いったいどうやって国体の論理を維持できるのか。征韓論が紛糾した背景にも、そこはいったい日本の土地なのか外国の社会なのか、日本人としての居住領域をどこまで広げられるのかという議論があった。 

≪011≫  江戸時代の幕藩体制にとっては、身分や地域をこえて日本人が一大家族であるなどという思想はとんでもないことだった。徳川家からすれば、将軍も武士も農民も藩民も同じ祖先だなどという見方は許可できるはずはない。そこには士農工商も幕藩体制も参勤交代も必要だった。 

≪012≫  しかし黒船の来航によって、開国の日が近いことを知らされた。たちまち国論は開国か攘夷かで二分したのだが、この問題は保留され、幕府そのものの解体が先行課題となった。そこへ国学派や水戸学派による国体論が登場して、「葵」の幕藩体制に代わる「菊」の論理を提出し、それが尊王攘夷思想を支えて岩倉具視の手に落ちて、討幕にいたったわけである。 

≪013≫  そこまではいい。が、幕藩体制は解体したものの、そうして成就した明治維新政府にとっては、諸外国との協調を拒否する“菊”だけの国学思想などではとうてい列強に伍する国力をつくれない。そこで「明六社」の面々をはじめとした開明派の論客が登場して、新たな文明国家論ともいうべき試みに挑むのだが、そこにはさらに開化にふさわしい海外含みの新国体論とでもいうべきものが必要となっていた。 

≪014≫  こうして加藤弘之・穂積八束・井上哲次郎らが国体論の西欧的粉飾に向かっていったのである。とくに井上は木村鷹太郎らと組んで大日本協会を結成して「日本主義」を創刊し、ここに高山樗牛らも加わって「天下無双ノ国体」を標榜するにおよんだ。  

≪015≫  けれどもここには、「葵」や「菊」に相当するほどの明瞭なものがない。そのため、これらの議論に国民学習を謳った教育勅語(明治二三年)にひそむ国体論的表現を重ねることにした。教育勅語は井上毅が起草して元田永孚が手を入れた。その教育勅語の思想に、たとえば永井亨の『日本国体論』、筧克彦の『神ながらの道』、物集高見の『国体新論』、上杉慎吉の『国家新論』『国体論』などが上乗せされていったのである。 

≪016≫  この論調はやがて、加藤玄智が唱えた「日本人の同化力」の強調へ、国粋主義的社会学者として知られる建部遯吾による「十億日本人論」へ、さらにはのちの田中智学、鹿子木員信、里見岸雄、石原莞爾、亘理章三郎らへと、ゆれながらつながっていった。 

≪017≫  ここに交差してきたのが久米邦武の『日本古代史』、竹越与三郎の『二千五百年史』、大矢透の「日本語と朝鮮語との類似」、金沢庄三郎の『日韓両国語同系論』に代表される、いわゆる日鮮同祖論である。 

≪018≫  日本人と朝鮮人はもともと同じ民族で、それがのちに分かれたのだから、良くいえば一緒に、悪くいえば勝手に“祖国”を同じうしていけば、それでいいじゃないかというものだ。これには山路愛山・徳富蘇峰・大隈重信が同調した。 

≪019≫  さて問題は、このような論調はいったい日本人を単一民族と見ているのか、混合民族と見ているのかということだ。これらが国粋主義的なナショナリズムであることはその通りなのだが、著者の検証によると、その論点はいずれも混合民族論に依拠するものばかりであった。そこには単一民族説はなかった。それは「同化政策」という言葉ひとつにもよくあらわれている。すなわちこの時期、思想的な根拠は何であれ、日本は多民族国家をめざしていたというべきなのである。著者は言及していないけれど、ここには岡倉天心の「アジアは一つ」や、孫文による中国革命への共鳴がもたらした内田良平・宮崎滔天らの動きも関与していた。 

≪020≫  日本民族をどう見るかという議論は別の方面からも立ち上がっていた。 

≪021≫  第一には喜田貞吉の混合民族論がある。喜田は被差別問題に果敢に発言を開始した勇気ある学者だが、天皇観と被差別部落論を結びつけ、差別する多数者と分離する少数者のいずれをも批判して、結局は『韓国の併合と国史』などでは、「併合は復古であって、これまで辛酸をなめていた分家の兄弟が暖かい本家に戻ったようなものなのだ」というような議論に終始した。 

≪022≫  第二は、柳田国男の一国民俗学の登場だ。明治三三(一九〇〇)年に農務省に入った柳田は、その初期の研究調査の基本を「山人」においた。そのため各地にのこる民話や昔話を採集して、日本列島にどのような民俗の古層があるかを調べた。この山人とは、ありていにいえば当時の混合民族の定説になりつつあったアイヌをはじめとした先住民族のことだった。柳田の意図がどこにあったにせよ、当時の日本人主義に与えた影響が看過できないところになっていく。 

≪023≫  ところがその後、柳田は山人論を捨て南島論や稲作論に向かい、山人に代わる稲作を中心とした「常民」を主語とするようになった。しかしそこでもまた、常民と稲作と天皇家のつながりが強く指摘されたために、柳田民俗学はふたたび日本人の民族観に天皇家の投影をもたらすことになった。この常民を天皇から切り離すには宮本常一まで待たなければならない。 

≪024≫  第三には、アナキストであった高群逸枝が女性解放の視野から研究した女性史研究や古代研究が、しだいに混合民族論による民族同化思想となっていったことである。喜田のばあいもそのようなところがあったのだが、著者はここには「マイノリティの擁護のため生み出されたものが、結果として侵略の論理となるという悲劇があらわれている」と指摘する。 

≪025≫  だいぶん省いて伝えたが、このような喜田・柳田・高群にみられる論調は、時代を取り除いては検証しにくいもので、それを徹底して近代日本の現代化の過程によみがえらせた著者の労力は、脱帽に足る。  

≪026≫  このほか本書の後半では、ドイツ生まれの「優生学」が日本にもたらした混血をめぐる議論、永井潜を中心とする日本民族衛生学会の優良民族論と健康論の合体、古畑種基らの血液型議論、朝鮮総督府の設置の直後から強調された「皇民化政策」の動向、白鳥庫吉や津田左右吉の記紀神話論、和辻哲郎の風土論、さらには騎馬民族渡来説の流布などをとりあげ、いずれも日本ナショナリズムの高揚に寄与しながらも、そこには単一民族国家論がはなはだ稀薄であったことを立証している。 

≪027≫  では、いったいどこから「日本=単一民族国家」が妖怪のように徘徊してしまったのかということは、本書では触れられない。その論議は次の『〈日本人〉の境界』『〈民主〉と〈愛国〉』の大著につながっていく。きっと延々とつながっていくだろう。 

≪028≫  本書によって、われわれはこのような議論の端緒についたばかりなのだということを、いやというほど知らされた。たとえば森喜朗元首相の「日本は神の国だ」という発言のルーツを検証することは、簡単なことではなかったのである。 

≪029≫  しかも問題は、本書の最後にも書いてあることだが、「アメリカなどの人種思想家が支配や隔離政策を正当化したさいには、被差別者を、自分たちとは別種であると証明しようとした」のに対して、「大日本帝国の人類学はその逆に、被支配民族は自分たちと同種同文の兄弟だと主張していった」ということを、さてどのように受けとめたらいいのかということにも兆していた。また黄禍論の逆作用も兆していた。 

≪030≫  そのひとつのヒントではないけれど、本書の「あとがき」には次の言葉づかいがあった。「私は、本書でとりあげた多くの人びとの議論のなかに、限界はあったとしても、それなりに真剣な試行錯誤がふくまれていたと思っている。それに対し、見下したような立場から、一方的に非難する気にはなれなかった。もちろんだからといって、彼らがもたらした結果が免罪されてよいわけではないし、戦争責任の反省という意味では、もっと強く批判するべきなのかもしれない。しかし、他人を裁くことが自己の反省であるとは、私には思えなかった」。 

≪01≫  作曲家もいれば、経営者もいる。学生も医者もアイドル・ママもいる。カレー屋も来るし、市役所勤めも来る。とくにSEやプログラマーが多い。イシス編集学校の花伝所で師範代をめざす面々だ。 

≪02≫  このところ数期にわたって花伝所の花目付(教頭役)を担当している深谷もと佳は、ふだんは小田原のベテラン美容師さんである。しばしば美容師ならではのプロフェッショナルな「わざおぎ」の話を例に出して、編集術の極意を解く。 

≪03≫  編集術の説明に長けているだけでなく、本業の手際もいいようだ。ぼくの髪が伸びたのを見かねて(ぼくのアタマはいつも茫々していて、それなのにほったらかしなのだが)、ハサミ片手に本楼に出張すると、手際よく捌いてお手並みを見せてくれた。聞けば、編集学校の師範や師範代が何人も小田原に行ってカットしてもらっているという。 

≪04≫  深谷が最初に師範代になったときの教室名は「FMサスーン教室」だった。サスーンは鬼才サスーンのこと、FMは深谷がFMラジオでパーソナリティをしていたからだ。 

≪05≫  ちなみに30年以上も前、ぼくはなぜかサスーン・カンパニー主宰のカッティング・コンテスト日本大会決勝戦に神戸のポートピアホテルの大ホールに呼ばれ、ヴィダル・サスーンがカリスマ・プリンスよろしく見守るなかで基調講演をしたことがあった。与えられたお題は「日本人の黒髪の美について」。サスーン自身が選んだお題だ。ぼくが紹介した与謝野晶子の「その子二十(はたち)櫛に流がるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」にも感心していた。 

≪06≫  ところでその深谷が、最近は遊刊エディスト(https://edist.isis.ne.jp/)に「週刊花目付」というコラムを連載していて、今年6月の配信にジョン・キーツ(1591夜)の「ネガティブ・ケイパビリティ」(negative capability)についてのエッセイを寄せた。千夜千冊で『エンディミオン』をとりあげたとき、キーツがネガティブ・ケイパビリティを重視していることにふれ、その「負の包摂力」をとびきり称揚しておいたぼくの見方に絡めて、深谷なりにこれを「エディティング・ケイパビリティ」と読み替えていた。うんうん、そうそう、と思えた。 

≪07≫  キーツはシェイクスピア(600夜)の創作力の秘密をずうっと解明していた青年である。そしてあるとき、その創作力がネガティブ・ケイパビリティにもとづいていることに気がついた。シェイクスピアが自分の才能の度合いやアイデンティティの獲得にこだわらず、むしろ徹して不確実さや不思議さや懐疑の中にいられる能力を作劇につかっていることに気がついたのだ。  

≪08≫  こんなふうに書いている。「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。詩人はアイデンティティをもとめながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす」(詩人の手紙)。 

≪09≫  多くの詩人はアイデンティティが流動しているけれど、その宙吊りのふつつかな状態を支えようとしているからこそ、何かのケイパビリティ(才能・力量・手腕)を発揮できるのであって、キーツはその最大のモデルをシェイクスピアに発見したのだった。ハムレットの疑惑、オセロの嫉妬、マクベスの野心、リア王の忘恩を、それぞれ尋常ならざる深みをもって描けたのは、シェイクスピアが自分の才能が「詩」をもっていず、むしろ「負」や「傷」を認めていたせいだとみなしたのである。 

≪010≫  本書は、このシェイクスピアとキーツのネガティブ・ケイパビリティについての見方が、その後、どのように継承されてきたのかを追っためずらしい一冊だった。 

≪07≫  キーツはシェイクスピア(600夜)の創作力の秘密をずうっと解明していた青年である。そしてあるとき、その創作力がネガティブ・ケイパビリティにもとづいていることに気がついた。シェイクスピアが自分の才能の度合いやアイデンティティの獲得にこだわらず、むしろ徹して不確実さや不思議さや懐疑の中にいられる能力を作劇につかっていることに気がついたのだ。  

≪08≫  こんなふうに書いている。「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。詩人はアイデンティティをもとめながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす」(詩人の手紙)。 

≪09≫  多くの詩人はアイデンティティが流動しているけれど、その宙吊りのふつつかな状態を支えようとしているからこそ、何かのケイパビリティ(才能・力量・手腕)を発揮できるのであって、キーツはその最大のモデルをシェイクスピアに発見したのだった。ハムレットの疑惑、オセロの嫉妬、マクベスの野心、リア王の忘恩を、それぞれ尋常ならざる深みをもって描けたのは、シェイクスピアが自分の才能が「詩」をもっていず、むしろ「負」や「傷」を認めていたせいだとみなしたのである。 

≪010≫  本書は、このシェイクスピアとキーツのネガティブ・ケイパビリティについての見方が、その後、どのように継承されてきたのかを追っためずらしい一冊だった。 

≪011≫  著者の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)は福岡生まれの九州大学医学部出身の精神科医で、マルセイユに留学後にパリの病院で研鑽し、いまはメンタル・クリニックを福岡で開業している。 

≪012≫  その一方で医療を通した小説を書きつづけてきた。『三たびの海峡』で吉川英治新人賞を、『閉鎖病棟』で山本周五郎賞を、『逃亡』で柴田錬三郎賞を、『水神』で新田次郎賞をとった本格派の作家でもある(これらの作品はすべて新潮文庫に入っている)。『水神』がおもしろかった。 

≪013≫  その帚木があるときアメリカの精神医学雑誌がネガティブ・ケイパビリティを特集していたのを見て、人間の創造性はひとえに「負の包摂力」にかかわっていること、そのことに最初に気づいたのはジョン・キーツであったこと、キーツはシェイクスピアにそのことを学んだこと、これらのことを精神医学に採りこんだのはウィルフレッド・ビオンであったことを知り、愕然とするとともに痺れまくった。本書はその共感にもとづいて綴られた。 

≪014≫  世の中ではあいかわらず自己啓発型の本やセミナーが流行しているが、これはポジティブ・ケイパビリテイを求める連中が多いせいである。ビジネスマンはビジネスマンでロジカル・シンキングのスキルに向かわされ、ポジティブ思考こそが自分を充実させると思いこまされている。 

≪015≫  ビオンや帚木は数々の臨床体験やデータを通して、このようなポジティブ一辺倒の趨勢がかえって「鬱病」などのさまざまな精神疾患を次々につくってしまっていることに直面し、そうではなくて「負の才能」に付き合えることのほうがかえって認識力や表現力を豊かにするだろうことを、研究するようになったのだった。帚木にあっては、その見方を小説に生かした。 

≪016≫  ウィルフレッド・ビオンは20世紀イギリスを代表する精神医学者である。学生時代はラグビーや水泳部のキャプテンで、のちにジョン・リックマンの教育分析とメラニー・クラインの認識分析を学び、当時はまだ十分に認知されていなかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)の患者の多くに接した。 

≪017≫  ビオンを斯界で有名にしたのはサミュエル・ベケット(1067夜)を診たことだ。ダブリンで心身症になり、ナイーブになりすぎていた27歳のベケットは、主治医からロンドンでビオン先生に診てもらいなさいと言われ、2年間をビオンに従ったのだが、このことはベケットにとってもビオンにとっても大きな暗示と確証をもたらした。 

≪018≫  『ゴドーを待ちながら』でおなじみのように、ベケットの創作力の源泉は言葉やコミュニケーションの「不安定性」にかかわっていた。曖昧、不確定、やりとりの不成立、勝手な理解、共感の不成立。これがベケットの文学であらわされている(あるいはあらわしたかった)言葉の不安定性だ。 

≪019≫  しかしこの不安定性はベケット自身の心を内奥から動揺させるものでもあって、それゆえふつうに診断すればベケットは自分のきわどい言葉使いから離れていったほうが、心は休息できるはずだった。ポジティブになれるはずだった。 

≪020≫  ところがビオンはそういう診療をしなかった。むしろベケットの心が発見していたかもしれないネガティブ・ケイパビリティに着目した。 

≪021≫  のちに『注意と解釈』で、ビオンはキーツのシェイクスピア探求を分析して、われわれは「達成」と「代用」について本気で考えてこなかったのではないかということを指摘する。近代的自己は何が自分の自己達成で何が自己代用なのか、ついつい混乱してきたのではないかというのだ。 

≪022≫  この混乱は、エゴサーチ的なアイデンティティの追求に走りがちなセルフプロセスが生むもので、度が過ぎるとなにもかもを「自己充実のサプリ」に利用したくなってくる。達成と代用が捩れきってしまうのだ。 

≪023≫  なぜそうなってしまうのか。ビオンは、ここには「他者による代用」が共感できないということがおこっているとみなした。そのためポジティブな才能(ケイパビリティ)の充填と欠如ばかりが気になって、そのため不安が意識の前面にのべつ浮上する。やむなくこれを打ち消そうとするのだが、その方向があいかわらずアイデンティカルなので、いっこうに消えてはくれない。 

≪024≫  ビオンは、現代人はむしろ多少の疑念をともなってもいいから、不確定な情報とのやりとりを維持したまま、言葉やコミュニケーションが進行する観照的心境をもつことこそ必要だと気がつく。それはまさにキーツがシェイクスピアの作品に見いだしたもので、ベケットがその不確定な言葉をブンガクできるための才能だったのである。 

≪025≫  ビオンはのちに、こうした考え方を「コンティナー/コンテインド」理論として精神分析医の指針にまとめた。分析医は患者の心理をコンテイン(内含)するコンテナ車両とならなければならないというものだ。深谷もと佳も、花伝所がコンテナ車両(美容室?)になるような活動をしたいという方針をもったのである。 

≪026≫  ネガティブ・ケイパビリティに光をあてる見方は、ビオンがしばしば引用していたモーリス・ブランショの問いと答えをめぐる考え方にも躍如した。 

≪027≫  ブランショは斬新な『謎の男トマ』を書いた若手のころから、ジョルジュ・バタイユ(145夜)やエマニュエル・レヴィナスらとともに思索と表現の冒険を試みて、早くに『文学空間』(現代思潮社)を問うていた文学者である。『文学空間』はわが大学時代の愛読書だった。アラン・ロブ=グリエ(1745夜)らのヌーヴォー・ロマンを真っ先に擁護したり、ジャン=リュック・ナンシー(816夜)の『無為の共同体』にいちはやく反応したりした。ナンシーは西洋文明が「神の体」を想定してしまったことが近代的自己の「不安」をつくりだしていることに気づいて、むしろ世界中の「異質であって疎遠な身体」に思いを致すことを説いた哲学者だ。  

≪028≫  そのブランショには「性急な答えは質問を不幸にする」あるいは「つまらない答えが好奇心を殺す」という編集思想が貫かれていた。なぜこの考え方が編集思想かということについて、一言説明しておく。  

≪029≫  イシス編集学校では「問・感・応・答・返」という回路の循環をたいせつにしている。編集には一問一答型のQ&Aをクリアすることが求められるのではない。さまざまな問いが舞いながら多様な応答となってそれらに柔らかく対応していく状態をつくることに、つまり「問・感・応・答・返」を行ったり来たりすることに、認識や表現の「厚み」が育まれるとみなしてきた。 

≪030≫  深谷の言うエディティング・ケイパビリティは、ブランショの指摘に通じるところがあったのである。 

≪031≫  ビオンやブランショの考え方は、ドナルド・ウィニコットに受け継がれていった。ウィニコットもメラニー・クラインを母とする20世紀イギリスを代表する心理学者で、精神分析医が患者の心理をホールディングする(抱える)ことを強調して、ホールディングによるケアこそが、その次のキュア(治療)につながるとした。単調なQ&Aは、心身の負性という状態をホールディングするという作用を、ついつい殺いでしまうのである。 

≪037≫  以上で、帚木蓬生を借りながら今夜書きたかったことのだいたいが顔見世できたように思うけれど、念のため申し添えておきたい。  

≪038≫  第1に、ぼくが評価する才能の大半は、いちいち名前をあげないが(千夜千冊を見てもらえばわかるはずだから)、ほとんどネガティブ・ケイパビリティ(負の包摂力)に連座するものであるということだ。 

≪039≫  第2に、この才能は「安易な答えに走らない」という編集信条に支えられているもので、それこそはぼくが培ってきた編集力の大事な正体でもあるということだ。ということは、編集力は一問一答でも一問多答でも多問多答でもなくて、複問・複感・複応・複答・複返であるということになる。かつて詩人の岩成達也は、このようなエッシャー風の行ったり来たりを「半開複々環構造」と名付けたものだった。 

≪040≫  第3に、このような編集的なネガティブ・ケイパビリティは、認識においても表現においても、それから生き方や付き合い方においても、世界と他者と自己をまたぐ「別様の可能性」にもとづいていたということだ。プロセスのどこかで、別様の変成(へんじょう)の可能性に向かえるようにするのも才能なのである。誰だって「小さなシェイクスピア」の秘密を愉しむべきなのだ。 

≪041≫  というわけで、余裕があれば、キーツ、ユルスナール、須賀敦子を読んでいただきたい。 

≪042≫  本書は最後に、日本が満州事変に突入したときに決定的に欠けていたのが日本の指導陣のネガティブ・ケイパビリティだったという指摘でおわっている。この欠如はいまなお日米同盟の中で埋められないままにある。念のため。 

≪01≫   モンテスキューは「もし三角形に神がいたのなら、神には三辺があったろう」と言った。
神や神学を揶揄しているようでいて、その本質を突いたうまい言い草だ。
ぼくは自転車屋のイノダのおじさんから古いサドルをもらって、
これを京都中京の天井が低い2階の部屋にたいせつに飾っていたことがある。
ロバチェフスキー型の空間曲率をもった立体三角の神さまだった。
神に三辺があったって、おかしくはない。 

≪04≫  ひるがえって、われわれの誰にもひそむ「崇める」「敬う」「怖れる」「びびる」という気持ちは、実はそうとうに歴史が古い。フリッチョフ・カプラにカリフォルニア大学バークレーの宗教心理学者のガイ・スワンソンを紹介されたことがあるが、当時のスワンソンは50ほどの原始部族社会の「神意識」をあれこれ調査して、その部族のリーダーが崇めている「もの」や「こと」の大半が、その地域の神の性格にほぼぴったりつながっていると報告していた。 

≪05≫  今日の宗教学では、神は「人間を超越した威力の持ち主」で、その神はたいてい「人知ではかることができない隠れた存在」だということになっている。部族のリーダーは、自分がその「隠れた存在」と交信していると思ってもらえるようにふるまったのである。  

≪02≫  ダーウィンのノートには「宗教についてかなり考えた」という有名な覚え書きがある。晩年の『人間の由来』では、欲望や欲求はひょっとすると「遺伝する思考」なのかもしれないと考えて、それを「脳の分泌物」とみなしていた。ダーウィンはまた、しばしば「宗教は犬が飼い主を崇めている感情に似ている」と洩していた。犬が主人を慕って崇める感じになる様子と似たものが、人間と神のあいだに生じたのだろうというのだ。 

≪03≫  これはオックスフォード大学の海洋生物学者だったアリスター・ハーディ(313夜)の『神の生物学』(紀伊国屋書店)が強調したことでもある。あの本はおもしろかった。ハーディはさらに人間にひそむネオテニー性が神を想定するようになったと推理した。 

≪06≫  宗教学は「神が擬人化されてきたこと」に特色を見いだし、そこにアニミズムやシャーマニズムが先行していたと説明してきた。その擬人化にはあまり一貫性がなく、共通した法則がないことも、神の特色のひとつにあげた。 

≪07≫  たしかに、人生いろいろ、神さまいろいろ、だ。 古代ローマには畑を耕す神が入れ替り立ち代わりあらわれ、ポリネシアには盗人に手を貸す神さまがいる。神は「人の多様性」に合わせてつくられたダイバシティ(diversity)の代表群だった。いまさら国連くんだりのSDGsで多様性やジェンダーを大事にしなさいと言われるまでもなく、神さまこそが「格」も「性」のいろいろをみごとにグラデーションさせていたのだ。 

≪08≫  すでにしてホメロス(999夜)が「人間はみんな神々を必要としている」と述べていた。ということは、神々は古代スーパーマーケットに並んだサンプルから選ばれたわけではなくて、われわれの内側からお出ましになったわけなのである。そう考えざるをえない。 

≪09≫  いろいろ、お出ました。ピュリッツァー賞をとった文化人類学のアーネスト・ベッカーは『死の拒絶』(平凡社)のなかで、人間は「肛門をもつ神々」だと書き、人間の特徴が神々に分散したという見方をとった。うんこの神さまもリビドーの神さまも、当然ながらいたわけである。アマテラスは左目から、スサノオは鼻からお出ましになった。 

≪010≫  そうした神さまを崇め奉ってスーパーナチュラルな存在にしたのは、むろん人間の畏怖と知恵による。怖がって、押し上げて、聖像化して、犠牲を捧げた。だからその気になれば、サド(1136夜)やニーチェ(1023夜)やバタイユ(145夜)のように、そういう神を蕩尽することもできた。冒涜とはかぎらない。元に戻したのだ。無神論は反神論とはかぎらない。 

≪011≫  しかしひょっとすると、人間どうしのコミニュケーションの隙間から神々が出てきたということも考えられるのである。この説は、人類学と進化生物学のロビン・ダンバーが提案した。人類と神との戯れは、体毛を失った人類の毛づくろいのようなものだというのだ。毛づくろいしているうちに、いろんな神さまを造形してしまったわけである。  

≪012≫  日本の神々がマレビト(稀れなるもの)であることを告げたのは折口信夫(143夜)であるけれど、マレビトは必ずしも超越的であるわけではない。毛づくろいとは言えないまでも、夕方の道端とか村境のあたり、ごくごく身近かに神を感じることのほうが多い。泉鏡花(917夜)は薄暗い山中や市電の走る都会の片隅の気配に神を感じた。 

≪013≫  もっと身近かの人間(じんかん)に感じることもある。教科書によく出てくる志賀直哉(1236夜)の『小僧の神様』は、神田の秤屋(はかりや)の仙吉がいつか食べてみたかった寿司をある偶然から貴族院の男におごってもらうことになり、小僧がその男は神さまだったのかもしれないと思うようになったという話だ。  

≪014≫  神についての仮説はどれもこれも帯に短く襷に長い。なぜ初期人類や古代人が神々を必要としたり信仰と宗教を重視したのかという問題はいっこうに決着がついていないのだ。 

≪015≫  宗派ごとに教義とパフォーマンスが分かれているせいもあるだろうけれど、実は問題群が整理されていない。 

≪016≫  そもそも人類があんなにも神々を必要とした根本理由が説明できていないままなのである。かんたんに整理すれば、①何かが神々に審級したのか、②それとも脳に変異がおこったり、③言語に何らかの欠陥があるのでこれを神が補ったのか、④説明のつかない自然現象などの原因に神々を次から次へとあてはめたのか、⑤あるいは神がかった者たちの異様なふるまいが神を想定させたのか、そのへんがはっきりしない。 



≪017≫  まあ、何でもありだったのだろう。そのため「神さま問題」は宗教社会学上の検討対象として、エドワード・タイラーが「霊的存在に対する信仰」が神と宗教をつくったという観点にもとづき、エミール・デュルケムが「ほぼすべての社会制度は宗教から生まれた」という見解の上に立つことになった。つまりは神をめぐる議論は、カレン・アームストロングが大著『神の歴史』(柏書房)であきらかにしたように、全体としては「ホモ・レリギオース」(宗教的人間像)を解明する方面に向かったままなのだ。 

≪018≫  しかし、こういうアプローチでは神にまつわる気になる問題がうまく捌けない。第一に進化史と文明史と精神史がつながらない。第二にそこに造形史や表現史がまざらない。第三に、信仰の競いあいが神についての解釈を変容させてきた歴史が浮上してこない。、なかでとくに気になるのは造物主(デミウルゴス)について、古代宗教や古代哲学が紆余曲折したことについて切りこめないということだ。 

≪019≫  今日の宗教学ではユダヤ教の預言、ヒンドゥイズム、仏教、プラトン哲学、グノーシス、ヘルメス主義、初期キリスト教を同じマップの上で語れるようにはなっていない。これは怠慢だ。そのためキリスト教が正体不明の造物主の謎につけこんで、三位一体説や処女懐胎説を確立できた理由についても、切りこめない。 

≪020≫  神々の物語にトポス(神の居場所)が必要だったことも、あれだけミルチャ・エリアーデ(1002夜)が口を酸っぱく強調したにもかかわらず、残念ながらあまり議論されていない。 

≪022≫  1万2000年前の構築物だと算定されている。ぼくはめったに海外雄飛をしない輩であるが(それにこの肺呼吸力ではもはや行きたくとも行けなくなったが)、ショーヴェの遺跡とギョベクリ・テペだけはこの目で現地の様子を見たかった。 

≪023≫  9ヘクタールに及ぶ発掘遺跡には200本以上の石柱が立てられ、そのうちいつくつかは一対に向かい合わせに対比させられていた。なんだかたくさんのモノリスが結集しているようなのだ。いまのところギョベクリ・テペの設計意図がどういうものであったかはわかっていないけれど、発掘にかかわったクラウス・シュミットはその異様な発掘現場の光景に生活の痕跡がほとんど見当たらないことから、ここは「人類最古の祭祀場」であったのではないかと推測した。おそらくは死者や初期の神々のための祭祀場か、そのセンターなのである。 

≪024≫  最も古い遺跡が住居跡や集落跡ではなく、何らかの祭祀のためのものであったとすると、これまでの考古学上の常識や宗教学の枠組が大きくくつがえる可能性がある。これまでの常識では農業が定着するにつれ収穫のための信仰が深まり、豊饒や産出の神々が想定されていったとされていたのだが(そして農作とともに言語文化が確立していったと推理されているのだが)、話は前後がまるまるひっくりかえって、信仰や神々が先に芽生えて、そこの周辺から農業が形成されていったことになる。  

≪025≫  現在の研究では、農業革命は1万200年以降のことなのだ。ギョベクリ・テペはそれ以前の出現なのである。 

≪026≫  人類の歴史のなかで「神がどのように登場してきたのか」の、その「どのように」のところについては、これまた定説がないままだ。ただし確たる定説はないけれど、進化人類学からはさまざまな仮説大枠が組み立てられてきた。考古学上の証拠からではなく、知覚や脳の発達ぐあいから推測したのである。 

≪027≫  これは一言でいえば、脳の変化が神の妊娠をもたらしたという見方だ。もし神々がわれわれの内側からお出ましになったとすれば、その誘発や調整を脳のネットワークが受け持っていたとみなしたくなるのは、至極もっともだ。本書もこの見方をメインシナリオにしている。こんな推定だ。 

≪028≫  200万年前、ホモ・ハビリスが脳を肥大化させた(同じ体格の類人猿にくらべて3・5倍になった)。ついでホモ・エレクトスが地上で暮らすようになって両手両指を動かしながら二足歩行して、約150万年前には自分たちを認識する能力をちょっぴり身につけた。20万年前くらいには握斧(ハンドアックス)などの石器を使うようになり、この段階でおそらくは他者の考え方を少し実感できるコミュニケーション能力が生じただろうから、きっと10万年前には「自分たちの考えについて、そこそこ話し合える」ようになったのだろうと推測された。  

≪029≫  そうだとしたらというので、ここから進化人類学者や認知科学者たちは、人類はこの時期にいわゆる「心の理論」の母型を手に入れたのではないかと仮説した。人類は4万年前に「心性」を芽生えさせ、おそらくは「自伝的記憶」の持ち主になったというのだ。  

≪030≫  こうしてネアンデルタール人が23万年前から4万年前まで生存し、われわれホモ・サピエンスよりずっと大きな1480ccの脳で、しかしおよそイノベーティブではない石器改良にのろのろ挑み(ルヴァロア技法など)、けれどもなぜか「おもいやり」にはめざめたらしく、染料粘土オーカーなどをつかって死者の埋葬などを始めたのである。けれども、まだ何かがちぐはぐだった。イギリスの言語学者デレク・ピッカートンは「ネアンデルタール人には脳と文化にズレがある」と言った。

≪031≫  スティーヴン・ミズン(1672夜)は少し別の見解を提起した。『歌うネアンデルタール』(早川書房)や『心の先史時代』(青土社)に書いてあることだが、ネアンデルタール人は「歌」のようなプロト言語を口ずさんでいたのではないかというのだ。 

≪032≫  ホモ・サピエンスが「出アフリカ」を始めたのは約6万年前の出来事だ。5万年前には一部がインドネシア半島に達し、さらに葦と丸太による舟でオーストラリアに及んだ。もう一部の集団は東進してヨーロッパを横切り、4万5000年前にシベリアに到達した。 

≪033≫  このどこかで、ホモ・サピエンスは神々と言語を案出したわけである。ネアンデルタール人がやりのこしたことだ。ホミニン(ヒト族)は神々と言語をつくりだす脳や知覚器官(舌や歯並びや喉の具合)をなんらかのかたちで発達させたのだ。そして母音を発音し、そこに子音をまぜる発話力を身につけた。 

≪034≫  しかし、ミズンのプロト言語仮説がそうであったように、言語がどのように形成されたのかという問題は、そもそも「心」がどのように形成されのたかという問題と前後を争っていて、「心が先か、言葉が先か」が見極められていないままにある。ミズンはネアンデルタール人には言葉はつくれなかったと結論づけている一方で、かれらはHmmmmm(ヒムーン)という歌のようなプロト言語を互いに発していたと仮説して、この「心と言葉」の関係はマルチモーダルで、ミュージカルで、ミメティックたったろうと想定した。  

≪035≫  もしそうだとしたら、問題はもっとややこしい。もっとスリリングだ。われわれは「心が先か、言葉が先か、神が先か」という三つ巴の問題に出くわすことになる。 

≪036≫  いやいや、これらに先んじて脳がパターン認知力をもつようになったかもしれないというのが、本書のE・フラー・トリーが賛同している仮説だった。トリーはマギル大学とスタンフォード大学で精神医学と人類学を修めた大まじめな研究者で、本書では「神の登場」についての大きなマッピングをすることをめざしているのだが、脳のネットワークが生み出したパターン認知が神々を胚胎させたのではないかという説を採っている。 

≪037≫  脳のネットワークに生じたパターン認知力が「心か、言葉か、神か」のいずれかをイメージメントしたということ、あるいは「心か、言葉か、神か」をなんらかのセットでつなげたということは、十分に予想できる。 

≪038≫  ぼくはジェリー・フォーダーの『精神のモジュール形式』(産業図書)を読んだときから、その可能性に一票を投じてきたし、ハワード・ガードナーの『心の枠組:複数知能の理論』や『MI(多重知能)』(新曜社)にも一票を投じて、知能が「心」のマルチモーダル性を促進していったことを考えるようになった。それをぼくなりのマルチモーダルなエディティング・プロセスに適用もしてきた。デカルト以来の「心身問題」から脱出するには、これはそこそこ有効な見方になった。 

≪039≫  このような見方はその後もいろいろ試みられた。マイケル・シャーマーの『私たちはどのように信じるのか』(未訳)では、ヒトは進化によってすぐれたパターン探索型の生物になり、パターン・マッチングを通して因果関係を見つける機能をもつ「信念エンジン」をつくりだし、このエンジンが神を見いだしたのだと説くに至った。できれば「信念エンジン」より「類推エンジン」を作りだしたと見てほしいけれど、でも、まあまあだ。 

≪040≫  ダニエル・デネットもだいたいはこの説に近い。あまり出来はよくないけれど、『解明される宗教』(青土社)のなかで、宗教はもともとヒトに備わっていた「行為の主体を過敏に検出する装置」が生み出したと考えた。脳には「神さま検知器」が作動していたのだ。  

≪041≫  パスカル・ボイヤーの『神はなぜいるのか』(NTT出版)やジェシー・ベリングの『ヒトはなぜ神を信じるのか』(化学同人)も、おおむねこれらの見解を踏襲する。脳のどこかに「不可知なもの」を感知するしくみができて、この感知システムの全貌がわからないから、このしくみを「神」とみなしたのだろうという説だ。あまり詳しくないものの、本書にはこの手の仮説があれこれ紹介されているので、参考にされるといい。 

≪042≫  これまで千夜千冊ではいろいろな「神もの」をとりあげてきた。『ヨブ記』『パンセ』『白鯨』『カラマーゾフの兄弟』などは文芸的なアプローチである。 

≪043≫  フロイト(895夜)の『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫)、マリヤ・ギンブタス(555夜)の『古ヨーロッパの神々』(言叢社)、デュメジル(255夜)の『ゲルマン人の神々』(国文社)、リチャード・フォルツ(1428夜)の『シルクロードの宗教』(教文館)、フェルマースレン(445夜)の『ミトラス教』(山本書店)などは歴史もので、なんとか実証的であろうとしていた。神々の編集過程がよくわかる。 

≪044≫  アリスター・ハーディの『神の生物学』についてはすでにふれたが、こちらは仮説の提案だ。興味深い仮説としてはほかにもジュリアン・ジェインズ(1290夜)の『神々の沈黙』(紀伊国屋書店)、ニコラス・ウェイド(1667夜)の『宗教を生みだす本能』(NTT出版)などがある。ジェインズの「バイキャメラル・マインド仮説」(二心説)はすこぶる刺戟的だった。 

≪045≫  グルやメンターの古代的登場に大きなヒントをもたらす『バカヴァッド・ギーター』(岩波文庫)なども採り上げた。なかにはドゴン族の信仰を扱ったグリオール&ディテルラン(1555夜)の『青い狐』(せりか書房)や、バーナード・マッギン(333夜)の『アンチキリスト』(河出書房新社)などもある。最近の千夜千冊では、あえてグノーシス思想やヘルメス思想の本も採り上げている。 

≪046≫  しかしながら、脳科学から神や宗教の出現を解こうとしたものはあまり扱ってこなかったのだ。このアプローチにはよほどの研究力がないと危なっかしいと思ってきたからだ。たんに宗教を科学的に武装させたいというのではトンデモ本になりかねないし、シャーマニックな憑依やアニミスティックな生気論の強調だけでは、説得力が乏しい。 

≪047≫  そうしたなかでは、本書は比較的穏便に「脳の中の神の出現の可能性」をフォローしていた。“Evolving Brains,Emerging Gods”というタイトルもおおげさではない。パトリック・マクナマラの『宗教体験の神経科学』(未訳)やライオネル・タイガー&マイケル・マガイア『神の頭脳』(未訳)、ディーン・ヘイマー『神の遺伝子』(未訳)をとりあげているのもめずらしい。 

≪048≫  ただしこれらの著作は、神や祭祀や宗教が組み立てられていった背景、たとえばそのトポス性、その言説性、その多神性と一神性のちがい、啓示や悟りの自覚のしくみなどには、ほとんど言及できていなかった。FOXP2遺伝子のような特異分子の出現が神を示現させたとは、なかなか言い切れないのである。 

≪049≫  さて、あらためて「脳が神をつくったのか」と言われれば、それ以外にはないだろうと言うしかない。しかしながら、同時に「腸が神をつくった」とも「手が神をつくった」とも「粘土細工が神をつくった」とも言える。 

≪050≫  ぼくはどんな学問や思想も「タンパク質から考えるべきだろう」という方で、また「どんな構成論も細胞から考えなおすべきだろう」と思っているのだが、このことは神のルーツはタンパク質や細胞にまで、そう言って支障がないのならウイルスにまでさかのぼるということを意味する。 

≪051≫  けれども一方では、「なぜ神々は継続したのか」ということも考えなければならないはずである。脳が神をつくったのだとしても、その神は脳の中でずっと棲息したわけではない。脳の外に外部化されたのである。 

≪052≫  その「外」には何が待っていたのか。恐ろしい自然現象と動物と人間たちの誕生と死去があり、これを見つめる村と祭りがあった。これらがなければ神は継続できなかったか、あるいは繁殖できなかったか、ないしはワーキングメモリーにも、崇敬をともなう長期記憶にも、ならなかったのである。今夜、トルコ・アナトリアのギョベクリ・テペを特筆しておいたのは、そのためだ。 

≪053≫  いったん外部化された神々は、ほっておけば消えていく。原始人も古代人たちもそう考えて、神々が継続するための祭祀場や神殿をつくった。日本でいえばヒモロギ(神籬)だ。以来このかた、神は目立つところに、またその逆に気がつきにくいところに、君臨することになった。  

≪054≫  あとはどうやって神さまを敬愛するかということだ。ここからは「祈り」の歴史の日々になる。 

≪055≫  アリスター・ハーディがネオテニーと神の関係に注目したことも、あらためて議論されたほうがいい。われわれは幼児や子供のころ、すでに隣りのトトロや不可知的なるものの動向に目を付けたのである。ネオテニーの発現のしくみにこそ隠れたデミウルゴスが出入りしたはずである。けっこう小さくて、ちょっと変な恰好の可愛らしいデミちゃんだ――。「脳が、神をつくった」とも言えるけれど、実のところは「幼児が、神をつくった」とも言うべきだった。 

≪01≫  かつて六興出版という版元があった。かつてといってもそんなに古いことではなく、最近になって書店から見えなくなった。潰れたのかもしれない。『勢多唐橋』『前方後円墳と神社配置』『天武天皇出生の謎』『日本原初漢字の証明』といった、古代史をナナメから切り望むようなメニューが並んでいた。 

≪02≫  ときどき摘まみ読んでいたが、この『神仏習合』にはちょっと惹かれた記憶がある。さっきその理由は何だったんだろうかと思い返していたら、冒頭に聖林寺の十一面観音が出ていたせいだと承知した。第893夜に白洲正子の『かくれ里』をあげたときもふれておいたように、ぼくはこの観音には目がない。それなのに、第863夜を綴っていたときは本書を思い出さなかった。 

≪03≫  その理由もさっきちらちらと思い返していたのだが、本書では十一面観音の美しさが議論されているのではなく、この6尺9寸の端正な観音像がもともとは大神(おおみわ)神社の神宮寺だった大御輪寺にあったことを話題にしていたせいだった。 

≪04≫  古代日本の神祇信仰は磐座(いわくら)や磐境(いわさか)や神奈備(かんなび)といった、なんとも曰く言いがたいプリミティブな結界感覚から始まっている。 

≪05≫  アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。 

≪06≫  ところが氏姓社会が登場し、有力部族の筆頭にのしあがった蘇我一族の仏像信仰が登場してくると、二つの問題に直面する。日本人(倭人)はこの問題をやすやすと乗り越えていった。 

 というわけで、本書は十一面観音ではなくて、また聖林寺でもなくて、大御輪寺に最初の焦点をあて、そこからしだいに神仏習合・和光同塵の奥へ入っていこうという内容になっている。すなわち、大神神社は奈良末期平安初期から大御輪寺を併存させていたばかりでなく、平等寺や浄願寺といった神宮寺をもっていたという話が起点になっている。 

≪08≫  ぼくは訪れたことがないのだが、大神神社の近くには若宮の大直弥子神社があって、これがかつての大御輪寺だったのだという。そうだとすれば、奈良期における三輪信仰とはそもそもが三輪山という神体山を背景にした“三輪の神宮域”という寺社域だったのである。 

≪09≫  古代日本の神祇信仰は磐座(いわくら)や磐境(いわさか)や神奈備(かんなび)といった、なんとも曰く言いがたいプリミティブな結界感覚から始まっている。 

≪010≫  アマテラスやコトシロヌシといった人格神から始まったわけではない。「場所」の特定が最初だった。神社は、そこに神籬(ひもろぎ)や榊(境木)や標縄(しめなわ)などを示し、「ヤシロ」(屋代)という神のエージェントともいうべき「代」を設定することから発生した。 

≪011≫  やがてこの「場所」をめぐって自然信仰や穀霊信仰や祖霊信仰などが加わり、さらに部族や豪族の思い出や出自をめぐる信仰がかぶさって、しだいに神社としての様態をあらわしていったのだと思われる。この時期に、「祓い」の方法や「祝詞」などの母型も生じていったのだろう。アニミスティックな要素やシャーマーニックな要素がこうして神祇信仰として整っていく。 

≪012≫  ところが氏姓社会が登場し、有力部族の筆頭にのしあがった蘇我一族の仏像信仰が登場してくると、二つの問題に直面する。日本人(倭人)はこの問題をやすやすと乗り越えていった。 

≪013≫  ひとつは、部族的な信仰と氏族コミュニティが実質と形式の両面から離合集散をくりかえしていったことである。これによって「場所どり・信仰どり」ともいうべき神祇合戦がおこなわれた。 

≪014≫  もうひとつは、「仏」をどう扱うかという問題が急浮上した。神像をもたない神祇にとって、彼の地からやってきた仏像はかなり異色異様なものである。それをどう扱うか。 

≪015≫ しかしながら、欽明天皇が百済の聖明王から招来された仏像を「きらきらし」と言い、初期の仏像が「蕃神」とも「漢神」(からかみ)とも呼ばれたように、日本人にとっての「仏」は最初から“神”だったのである。仏教は当初から神祇の範疇としても捉えられる土壌をもっていた。 

≪016≫  もっとも蘇我と物部の争いのように、トップで「仏」をとるのか「神」をとるのかという二者択一になっていくと、支配層にとっては決定的なマスタープランの選択になっている。 

≪017≫ そこで聖徳太子の時代に仏教こそが「三宝」となり、以来、日本の支配者は鎮護国家のもとの「三宝の奴」となったのだが、では日本各地でヤシロ化していった場所でも神仏の激しい選択がおこなわれたかというと、そういう過激な競合はおこらなかった。むしろここでは神と仏は融合していったのである。  

≪018≫  その最も決定的な証拠が神宮寺や神願寺であった。本書は神仏習合のイデオロギーではなくて、この神宮寺と神願寺の事例を各地に追い求めて、神仏習合の実態がいかに底辺で成立していたかを検証する。 

≪019≫  時代が進むにつれ、日本の各地は産土神(うぶすながみ)で埋められていった。初期は神体山を中心に山宮が想定され、ついで里宮が、田畑が重要になってくるとここに田宮が加わった。海辺では沖合の奥津宮、途中の島などに想定された中津宮、岸辺の辺津宮が組み合わされた。 

≪020≫  一方、時代が進むにつれ、各豪族が氏族寺を建てていく。蘇我の法興寺(飛鳥寺)、巨勢の巨勢寺、大軽の軽寺、葛城の葛城寺、紀氏の紀寺、秦氏の蜂丘寺(広隆寺)、藤原の山階寺(興福寺)などである。これに百済寺や四天王寺などの大官大寺が加わった。 

≪021≫  こうなると、寺院塔頂に勤務する僧侶・尼僧たちの規約が必要になる。僧正・僧都・律師などが決まり、服装をはじめとする服務規定が生じていった。とくにどのような経典を読み、どのように儀典をおこなうかが重要になってきた。詳細はともかく、こうして鎮護仏教システムが中央官僚によって築き上げられ、東大寺の華厳ネットワーク(国分寺・国分尼寺)のように中央から地方へというシステムの流出が試みられはじめたのである。 

≪022≫  が、まさにその時期、地方では神宮寺が次々に発生していったのだ。スタートは8世紀のことだった。気比神宮寺、若狭比古神願寺、宇佐八幡神宮寺、松浦神宮弥勒知識寺、多度神宮寺、伊勢大神宮寺、八幡比売神宮寺、補陀洛山神宮寺(中禅寺)、三輪神宮寺、高雄神願寺、賀茂神宮寺、熱田神宮寺、気多神宮寺、石上神宮寺、石清水八幡神宮寺などである。いずれも7世紀から9世紀のあいだに登場した。 

≪023≫  神宮寺や神願寺が建立された事情には、たいてい“神託”が関与している。その“神託”を読むと、神が苦悩しているので仏の力を借りたいというような主旨がのべられている。  

≪024≫  こうして神宮寺では「神前読経」がおこなわれ、「巫僧」が出現し、寺院の近くの神社を「鎮守」と呼ぶようになっていく。のみならず石清水八幡の例が有名であるが、神に菩薩号を贈るということすら進んで試みられた、「八幡大菩薩」がその賜物だ。 

≪025≫  かくして、これらの地方に始まった神仏習合の流れが、やがては本源としての仏や菩薩が、衆生を救うためにその迹(あと)を諸方に垂(た)れ、神となって姿をあらわしたのだという「本地垂迹」や「権現」の考え方に移行していった。 

≪026≫  この動きはとまらない。11世紀半ばには「熊野の本地」に知られるように、各地で「本地仏」を争って決めていくというようなことさえおこる。春日五神はそれぞれ釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊の本地仏となり、熱田神は不動明王にさえなったのだ。 

≪027≫  なんとも逞しいというか、なんともご都合主義的だというか、それとも、なんとも編集的だというべきか。  

≪028≫  注目するべきはこのような本地垂迹説を編み出したのは、すべて仏教の側の編集作業だったということである。 

≪029≫  もうひとつ注目しなければならないことがある。それについては別のところで書きたいのだが、このような本地垂迹が進むなかでついにこの編集に逆転がおこり、神社の側からの逆本地垂迹がおこったということ、それこそが度会や伊勢や吉田による「神社神道」というものとなっていったということである。 

≪030≫  聖林寺の十一面観音だけでなく、仏像を見るときは、それがどこから旅をしてきたかということを見なくてはいけない。  

仏は永遠の姿で表現されるのが多いのに、なぜ神はしばしば「翁」の姿をとるのだろうか。

山折さんはこの疑問から発して、これを新たな主題に拡張し、

神と仏のあいだに出入りする「翁」という化人の不思議な存在の意味と、

その歴史的変容の意味を追いかけた。

本書は、日本の神仏や民俗を不得意とする者にとって、ちょっと高級な入門書となるにちがいない。 

≪01≫   山折さんとは、何かの会議やコンファレンスなどで顔をあわせるほかは、めったにお目にかからない。けれどもいつも親しみを感じてきた。先だっても8月のニドム軽井沢セミナーで一緒になったけれど、たしか20年ぶりくらいだったはずなのに、なんだかいつも会ってきたかのような気になった。 

≪02≫  学問的な研究というものは、ふつうは「おもしろみ」をとくに意識はしていない。そんなことより目くじら立ててでも、重箱の隅をつついてでも、どんな些細なことであれ、それなりに独自の主題を奉じて、それがいかに他人の見解とは異なるかを声高に言い立てたほうがずっといいということになっている。それはそれでたえずオリジナルな研究成果を生み出す原動力となっているのだが、それがまたアカデミズムの通例というものだが、そのような学問の見せ方を、ぼくは必ずしも評価してこなかった。些細なオリジナリティばかりを読み聞かされるのは、やりきれない。 

≪03≫  そういう学界事情のなかにあって、山折さんはいつも大胆な組み立てで、必ずや「おもしろみ」や「あやうさ」を披露してくれるのだ。それを学界ではどのように見ているのかは知らないが、ぼくは日本のアカデミズムでももっとこのようなリプレゼンテーションがふえたほうがいいと思ってきた。 

≪04≫  そういう山折さんの数あるリプレゼンテーションのなかから、今夜はあえて35年前の傑作『神と翁の民俗学』をとりあげることにした。これはもともと『神から翁へ』( 青土社)と題されていたものを加筆訂正して表題を変えたものだが、中身は一貫して「なぜ日本の神々の多くは翁の姿をとっているのか」というテーマをめぐっている。 

≪05≫  山折さんが「神と翁の関係」に関心をもったのにはいろいろ理由があったようだが、ひとつは、神がこの世にあらわれるときに老人の姿をとることに謎を感じたということと、もうひとつには、それならどうして仏は若々しい青年の姿で描かれることが多いのかという疑問をもったからだった。 

≪06≫  神と仏の関係は、神仏習合・本地垂迹・神本仏迹・神仏分離・廃仏毀釈をはじめとした、日本の社会文化の根底にかかわる「地」(グラウンド)の問題になっていて、宗教史と思想史を専門とする山折さんにとっては、そこをなんとか切りくずしていくことが年来の課題だった。そこへ新たに「神と翁と仏」という「図」(フィギュア)があらわれた。このとき神と仏のあいだに「翁」が浮上したのだ。山折さんは、ひとまずは自分の眼前に「仏は若く、神は老いたり」という警句のような命題を掲げて、いろんな思索をめぐらした。  

≪07≫  そのうちいったんは、仏が若々しいのは、大乗仏教の経典が「永遠の仏」ということを説いたからで、そのため「死滅しない仏陀」というヴィジュアル・イメージが全面化したのだろうと推理した。だったら、神が老人や老翁に見立てられるのはどうしてなのか。なぜ神は老いなければならないのか。若いままではまずいのか。山折さんは、人間はその最終段階にやっと神との同化がおこるというふうに考えたからではないかという仮説をたててみた。 

≪08≫  こうして山折さんの興味深い探索が始まるのだが、その出発点には、柳田国男がどちらかというと「童子」に興味をもったのに対して、折口信夫が「翁」に関心を寄せつづけていたという、日本を代表する2人の民俗学者による際立つ対比があった。 

≪09≫  よく知られているように柳田は、桃太郎や瓜子姫などの昔話の起源をめぐって「小サ子」をめぐる伝承に研究の目を寄せた。そして、そこに母子神信仰や水神信仰の関与があることを指摘した。そこにはダイダラボッチなどの巨人伝説との「大きいもの・小さいもの」の関連も指摘されていた。 

≪010≫  こうした童子神を研究したのは、柳田ばかりではない。神話学者のカール・ケレーニイもそのあたりに深入りして、童子神を「母」と結びつけた。それはユングの「幼児元型」とも結びついていた。一方、図像学者のエルヴィン・パノフスキーが「盲目のクピド(キューピッド)」に着目して、やはり童子神から発するイコノロジーの展開を組み立てたことについては、ぼくもたっぷり千夜千冊しておいた。しかし、これらは総じて「小さいもの」「幼児」「母」という連鎖はもっていても、そこに老人や翁が介在するわけではない。 

≪011≫  これに対して折口は、『翁の発生』において、翁の面影の奥には「山の神」とともに「マレビト」の面影についての信仰があることを指摘して、独自の「日本という方法」の愁眉をひらいたのである。それならいったい、翁とは何なのか。何者なのか。たんなる爺さんであるはずがない。 

≪012≫  能には『翁』という特別の演目がある。「能にして、能にあらず」と言われてきた。 

≪013≫  上演にあたっては演者は「別火」の日々をおくり、身を潔斎する。別火については宮田登さんの『ヒメの民俗学』(青土社→ちくま学芸文庫)を紹介したときに詳しいことを書いておいたのでそれを読んでもらいたいが、神事にかかわる者たちの禁忌のひとつだった。関係者だけの特別の火を用いるのである。準備の日々は別火でおくる。それで『翁』上演の当日になると、別火とともに鏡の間に「翁かざり」をし、尉面を祀って酒をくむ。尉面には白式尉・黒式尉・父尉がある。いずれも翁面である。シテは、この翁面をあらかじめ付けてはいない。直面で舞台に出てきて、面箱から翁面(白式尉)を出して恭しく付ける。こんなことをする能は『翁』以外にはない。 

≪014≫  この『翁』を役どころから見ると、2人の老人と1人の稚児が登場する。能舞台で最初に舞うシテの「翁」と、最後に舞いおさめる「三番叟」が老人なのである。中どころで舞う「千歳」はツレで、これが稚児になっている。老人2人は面を付け、稚児は直面である。ここに、老人と童子のきわめて劇的な対比があらわれてくる。 

≪015≫  しかし、ここからが肝心なところになるのだが、この翁舞はもともと古くは3人の翁によって演じられていた。世阿弥の『風姿花伝』はそこを強調する。翁舞は、稲積の翁、代継の翁、父の尉の3人の老翁が舞い勤めるものだった。  

≪016≫  世阿弥は、翁舞が3人になっているのは、仏教でいう「法身・報身・応身」の如来の姿を象っているからだという説明もする。仏の三化身のことだ。実際にも、このように3人で舞うからこそ、能楽界では「式三番」と言うと伝えてきた。 

≪017≫  それなら当初に3人で舞っていたものが、なぜそのうちの1人が稚児になったのか。世阿弥の「法身・報身・応身」説だけでは牽強付会にすぎて、説明にはなりにくい。どうして三翁パターンは二翁・一稚児パターンになったのか。この謎がのこった。 

≪018≫  ここから山折さんの推理の翼が広がっていく。それは能勢朝次の『能楽源流考』(岩波書店)や天野文雄の『翁猿楽研究』(和泉書院)や山路興造の『翁の座』(平凡社)などの推察とは異なる新しいものだった。まずは、翁と童子の物語や場面のある事象を引っぱってきたい。山折さんは八幡神と稲荷神に目をつけた。 

≪019≫  八幡神は「武の神」である。発生には諸説があるが、そのひとつの縁起に『扶桑略記』欽明天皇32年の条があり、そこに八幡大明神が筑紫にあらわれた話がのっている。 

≪020≫  稲荷神にも似たような話がいくつもある。ぼくも『空海の夢』(春秋社)に書いたことだけれど、弘仁7年のこと、空海は紀州の田辺で「異相の老翁」に出会った。老翁がしきりに仏法紹隆・仏法擁護を誓うので空海もそれに応え、二人は京の教王護国寺(東寺)での再会を約した。それから7年後、弘仁14年になって、その「異相の老翁」(化人)が稲を背負い、杉の葉をさげ、2人の女と2人の童子を連れて教王護国寺を訪れた。それが稲荷大明神であったと、『稲荷大明神流記』は記しているのである。稲荷とは稲を荷なっている恰好の神をいう。 

≪021≫  山折さんはこの稲荷神が2人の童子を連れているという事例から、不動明王が脇侍として2人の童子、コンカラ(矜羯羅)童子とセイタカ(制吒迦)童子を連れていることに思いを馳せる。不動明王が翁だとか、その変形であるというのではない。しかし、不動明王には生と死の両義性とともに、「忿怒」の形相と「童子」の肌をあわせもっているという忿怒相と童子相との対同性がある。これは見逃せない。 

≪022≫  そういえば金春禅竹はその『明宿集』に、翁面はつねに鬼面と一体のものとして伝承されてきたと書いていた。どこか不動明王の姿とつながるものがある。それならどうして山中の修行者の前に翁と童子が出現したり、変身したりするのだろうか。翁は神の変身なのか、零落なのか。それとも仏の化身で、童子の伴身を促すものなのか。 

≪023≫  ここまでの例は、主として「山の翁」の伝承をあらわしている。日本の神話や説話や昔話にはもっと別の翁たちもいる。  

≪024≫  たとえば、日本神話に何度も登場するシオツチは、「塩土老翁」として神話上でも重要な役割をはたしている。塩を守る「海の翁」というべきものである。釜石の塩釜(鹽竈)神社にはシオツチが祀られている。 

≪025≫  ホノニニギが日向の高千穂に天孫降臨し、そののち笠狭の御碕に到着したとき、そこで事勝国勝長狭という者に会う。略してナガサというが、これがシオツチで、ホノニニギに「どうぞ自分の国にとどまるように」と勧めた張本人だった。つまりシオツチは海洋系の老翁なのである。  

≪026≫  この話は、天孫一族が出雲のスサノオ=オオクニヌシ系とはべつに、海洋系の連中ともちゃっかり取引をしていたことを物語るのだが、ここではそのことよりも、翁の類型には「山の翁」とともに「海の翁」があることを伝えてくれる。では山の翁と海の翁は別々の者たちなのか。実は、そうでもない。 

≪027≫  いわゆる神武東征神話には、大和に入ろうとしたイワレヒコ(カムヤマトイワレヒコ=のちの神武天皇)が、磯城と高尾張を拠点としていたヤソタケル(八十梟帥)の頑強な抵抗にあったという話が含まれている。 

≪028≫  イワレヒコが困っていると夢に天津神があらわれて、天香具山の土で器を作ってそこに神酒を入れ、天神地祇を祀りなさいと言った。また土地の豪族のオトウカシ(弟猾)も同じことを進言した。イワレヒコがオトウカシとシイネツヒコ(椎根津彦)に土取りを託したところ、二人は蓑笠をつけて「老嫗」と「老父」に変装し、みごと敵陣を突破して天香具山の土を持ち帰った。これで神武はヤソタケルを討つことができた。 

≪029≫  話はこれでおわらない。老父に変装したシイネツヒコとは、もとは「珍彦」(渦彦)という国津神で、曲浦という海浜で釣魚を生業にしていた者だったのである。シイネツヒコは海のリーダーから山のリーダーに転身していたのだ。ということは、山の翁と海の翁といっても、そこにはけっこう転身も交換も交流もあったということになる。 

≪030≫  こうして山折さんは、記紀や風土記の伝承を通して、「翁」が記紀においては国津神としての神の系類に近づけて示され、風土記のような民俗的記録ではおおむね人間の領域に近づけた示し方をされていることに気がついていった。 

≪031≫  しかし、この山と海とをまたぐ2つの記述には微妙な「ゆれ」もある。「ゆれ」もあるのだけれど、あえていうのなら、その「ゆれ」こそが「翁」の不可思議な性格を特色してきたのではないか。そういうふうに考えた。 

≪032≫  だいたいこのあたりで、山折さんの“翁像”はあらかた結像しつつあったようだ。ただしもうひとつ、たいそう気になることがのこっている。それは、各地の老翁の伝承には、しばしば門付や乞食に身をやつす老人の話がけっこうあるということだ。たとえば『伊勢物語』第八一段である。 

≪033≫  左大臣の源融が、賀茂川のほとりの邸宅に時の親王たちを招いて宴をひらいていた。親王たちが邸宅や庭の美しさを褒め称える歌を次々に詠んでいたところ、それまで床下の座あたりをうろうろしていた乞丐の老人が、最後にこんな歌を詠んだ。「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここに寄らなん」。 

≪034≫  この邸内にしつらえられた塩釜の景色はとてもよい眺めで、いつのまにか陸奥の塩釜に来てしまったような気がした、朝凪の海に浮かんでいる舟があるなら、ぜひこの浦に寄ってほしいという意味の歌である。 

≪035≫  乞丐とは、わかりやすくいえば「乞食」のことだ。当時は「かたい」とも「ほかいびと」とも言った。『伊勢物語』には「かたゐをきな」というふうにある。「かたい」は社会的には総じて賤民扱いをされてきたのだ。その賤民扱いをされているような「かたい」が、『伊勢物語』では殿上の源融の歌会に居合わせたり、歌を詠んだりしている。なぜ、そういうふうになるのか。これはちょっとした謎である。 

≪036≫  『伊勢物語』よりややくだった『今昔物語』の巻十五に、「比叡山僧長増往生語」という段がある。 

≪037≫  比叡の長増という僧は、師が往生したというので、そのあとを追うようにして姿をくらました。どこかへ死出の旅路にたったと思われた。それから数十年後のこと、長増の弟子だった清尋が伊予に下ってその地で庵を結んでいると、そこへ身なりの貧しい老人がやってきた。笠をかぶって腰には蓑を巻きつけ、杖をついている。そして「かたい」として物乞いをする。よくよく見ると、それは自分の師匠の長増だったという話だ。 

≪038≫  この話の「かたい」は、シイネツヒコが蓑笠で「翁」に身をやつしている姿と酷似する。そればかりか、門付をする者が、よくよくその身分を聞くとかつての高僧だったとか、高貴な者だったという話のパターンを踏襲もしている。そもそも「蓑笠をつける」というのは、日本民俗学に詳しい者ならすぐ見当がつくだろうが、神々があえて落ちぶれた姿をしてみせる「神のやつし」なのである。さらに杖をもっているというのは、「神のもどき」なのである。ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)にそのへんのことは詳しく書いておいた。 

≪039≫  以上のことからおよそのことが推理できる。『伊勢』の「かたゐをきな」は、高貴な身分をやつしている者かもしれなかったということだ。いや、「かもしれない」どころではない。あえて強くいうのなら、老法師や老翁の姿には、つねにそうした「聖と賤とをまたがる面影」が付与されているというべきなのである。  

≪040≫  こうして、ここに八幡神、稲荷神、シオツチ、シイネツヒコなどが伝える物語と、童子が出たり入ったりすることと、能の『翁』の伝えようとしている意味とが、スパークするようにつながってくる。やはり、日本には神と仏と、そして翁とがいたわけなのである。 

≪041≫  このような見方はどのように結着すればいいのだろうか。山折さんは、その結着はあいかわらず折口信夫の考え方が握っているとみた。  

≪042≫  本書の第4章は「メシアとしての翁」という、はなはだ大胆なチャプター・タイトルになっている。そのサブタイトルは「折口信夫論の試み」だ。  

≪043≫  山折さんは何を書いたのか。ここで述べられていることにはベルイマンの映画《野いちご》の話から、エリクソンの熟年論にいたるまで、いろいろな興味深い例示もあるのだが、集約すると、こういうふうになる。 

≪044≫  柳田国男の『遠野物語』の序文に、「翁さび飛ばず鳴かざるをちかたの 森のふくろふ笑ふらんかも」という歌が示されているが、この「翁さび」の意味の大半をうけとめ、展開できたのは折口信夫だった。折口は、「翁さび」とは翁が「神のもどき」を見せていることであり、そのように「神のもどき」をする神とは、マレビトとしての来訪神であることを証した。 

≪045≫  折口の分析はそれにとどまらなかった。「翁さび」とは「神さび」と同様、そのものらしく振る舞うことで、そこには翁として神事を振る舞う意図がふくまれているはずだというのである。たとえば『続日本後紀』には、「翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でて舞ひてむ」という尾張の浜主の歌があるのだが、これは神事演舞の扮装演出に言及しているのであって、したがって「翁さび」とは、そのように翁らしい振舞ができているかどうかを問うたのだ、そう折口は判断したのだった。   

≪046≫  さて、そうなると、能の『翁』に象徴される様式や振舞の意図の背後には、日本の芸能の根源によこたわる「祭りの本質」がひそんでいたということになる。折口はこのことを『翁の発生』と『大嘗祭の本義』で示した。たいへん有名な論文で、すこぶる直観的連想性に富んでいるのだが、わかりやすく要約すると、こうである。 

≪047≫  日本の祭りは四季に応じていると見られがちだろうけれど、もともとは大晦日の一夜のうちにおこなわれた“一続きの祭り”が母型になっていたはずだ。 

≪048≫  その日の宵のうちにおこなわれるのが「あき祭り」で、深夜におこなわれるのが「ふゆ祭り」、そして暁方におこなわれるのが「はる祭り」なのだ。それがのちに暦が導入され、各季節の祭りに分化していった。  

≪049≫  このうち「あき祭り」は収穫に対する感謝であって、宵のうちにやってくる来訪神としてのマレビトに、その家の主人が田畑の成績を報告することを主旨とした。次の「ふゆ祭り」は、その来訪神がその家の主人のために生命の言祝(寿ぎ)と健康の祝福を与えた。すなわち、「あき祭り」と「ふゆ祭り」は、来訪神と主人とのあいだの問答と応酬で成立している。つまり、ここには客と主の応接がある。 

≪050≫  こうして、夜中の「ふゆ祭り」によって家の内外に魂の力が漲ると、そこから夜明けの「はる祭り」としての再生復活のステージになっていく。「ふゆ」に充塡された魂の力が「はる」をもって晴れわたり、また張っていく。そして、野山に芽吹きと開花をもたらしていく。 

≪051≫  このような一連の出来事が、そもそも日本の祭りの母型にあったはずなのである。そうだとすれば、ここで最も重要になるのは、再生の力をもたらした来訪神としてのマレビトの面影だったということになる。折口は、この来訪神はたいていの場合、「神のもどき」としての「老体」や「翁」に身をやつしていたと考えた。それは、祭りの庭に招かれて、共同体の繁栄と再生を約束する“メシア”の役割をもっていたのである。翁はメシアであることを暗示する姿だったのである……。 

≪052≫  どうだったろうか。ぼくはこれをもって、本書の案内をとじることにするが、途中、大幅な中抜きをしていることを白状しておかなければならない。第2章にあたる「古代における神と仏」というところを、すべて中抜きした。たいへん痛快な分析もあるのでぜひ本書に当たって読まれることを勧めておく。 

≪053≫  それはそれ、本書は日本の神仏や日本の民俗風習なんて苦手だと思う諸君には、やや高級ではあるが、高級であるがゆえに、そういう諸君がいちはやく入門すべき核心を描いている一冊ではないかと思う。最初に書いたように、山折さんはめずらしく研究成果を「おもしろく」「あやうく」書ける人なのだ。 

≪01≫  アフリカの帰りにノルマンディの海岸町に滞在していた山口昌男は、ミラノ小劇場がパリで久々に公演していると新聞で知ると、すぐにパリに飛んでコンメーディア・デラルテのアルレッキーノを見て、一挙に思索の翼をはばたかせた。『道化の民俗学』(1975)はこの中世以来の道化的で異装的な人格アルレッキーノの解析から始まっている。 

≪02≫  古代日本の混沌をめぐる意識は、記紀神話よりも風土記のなかにひそむ「草木、言語(ことと)ひし時」といわれた記述に旺盛している。この草木が語った物語のなかの混沌の神々、たとえば麻多智と夜刀神などは、物語のなかで周辺に押しやられていながらも、たいていは別の次元の象徴的秩序を構成する役割も担っている。 

≪03≫  山口はこのような例を持ち出して、しだいに「負の価値」というものの発生の仕方に注目していった。いわずとしれた『文化と両義性』(1975)の切り口だ 

≪04≫  神話や説話において、また村落社会や都市文化において、反対物や敵対物がその対立物を潜在的に意味している例は、少なくない。洪水は稔りの対比的象徴であり、死(タナトス)は生(エロス)の暗示物であり、異常は正常の、よそ者は共同体の、敗走は勝利の、周縁は中心の、それぞれ本質を反映的に衝いている。 

≪05≫  このような「負」や「闇」こそが「常」や「正」や「央」の物語の深部を暗示しているという構造を、山口はその文化人類学的な研究の歩みの当初から気がついていた。 

≪06≫  しかし問題は、この「負」や「闇」をどのように語ればよいのかということだ。闇が光の対照であるからといって、その闇の文化を光の都市の言葉で語るわけにはいかない。それでは闇は闇でなくなるし、光すら輝かない。異人やよそ者や異端者が中心組織や正統社会の逆説的な本質を告げているからといって、それらをいちいち内部に招じ入れこもうとすれば、構造そのものが分裂したり、死滅する。 

≪07≫  しかるに70年代後半から80年代にかけて文化人類学やその亜流思想が普及していくと、多くの社会文化論が闇や異端ばかりを照らし始めた。人類学者や民俗学者もそのお先棒をかついだ。またマスメディアもミニコミも、片言節句の異端的発言に耳をそばだて、これをアンプリファイしてみせた。 

≪08≫  『道化の民俗学』や『文化と両義性』の10年後、山口は『文化人類学の視角』(1986)に別役実や中村雄二郎や上野千鶴子との対談を入れ、いったい排除や闇や差別についてどのような語り方がありうるのかを実験的に語りあっている。 

≪09≫  たとえば中村とは、その対談の冒頭で「ニューサイエンスが困るのは、隠れた部分を説明しつくそうとすることだ」という数学者の談話を紹介しつつ、これは今日の演劇や政治やマスコミにもあてはまるのではないか、いや学問にもあてはまるのではないかと問うていた。 

≪010≫  たしかにそうなのである。「負」は文化のなかで最も重要な特質なのであるけれど、その語り方というものがなくては、それらはかえってしだいに特権的なものとなっていく。異端者の言動や思いつきの片言節句がいつも注目を浴びるようになってしまっては、それにかかわる構造そのものが混沌に目鼻をつけると死んでしまう中国の伝説のごとく、構造は歪み、ばらばらになり、ときにはそのまま分裂するか腐敗してしまう。 

≪011≫  負のほうが正しいとか、異端にも一理があるとか、排除された者こそ救われるというのは、かえって事態の本質を見えなくさせ、歴史や歴史的現在が抱えもっている構造を見失わせることになりかねない。けれども、その手の議論のほうが、本来の負の歴史の意味を語る者より圧倒的に多くなっていったのだ。 

≪012≫  そんなことでいいのか、いったいこのように「敗走が勝利であるかのような語り口」のままに歴史の現代化が進んでいいものか。ここには何か「語りの問題の過誤」がひそんでいるのではないか。王も道化もいなくなり、自我と大衆とメディアばかりになってしまった時代、もっと別の語りがあってもいいのではないか。山口はきっとそう考えたのであろう。 

≪013≫  こうしてまた10年後のことである。満を持して山口が発表したのが『「敗者」の精神史』と『「挫折」の昭和史』だった。連載時が日本のバブル崩壊の渦中で、刊行が両書とも1995年である。 

≪014≫  両書は近代史と昭和史のなかの敗者や挫折者を扱っている。数えていないのでわからないが、人名索引を見るかぎり、それぞれ500人、1000人の人物が登場する。 

≪015≫  両書において著しいのは、これらのなかで敗者や挫折者を描くにあたって、山口がほとんど文化人類学的な用語や規定を用いなかったことだ。分析もしていない。そればかりか、何をもって異端とし、何によって挫折したのか、その原因と結果に光をあてることもしなかった。また、闇や敗者に同情もしなかった。それにもかかわらず両書はその詳細な記述によって、時代社会における「負」や「闇」を浮き彫りにした。 

≪016≫  いや、「負」や「闇」の社会構造的な浮き彫りではない。「負の知」というべきものだけの、みごとな浮き彫りなのである。詳細に描かれた社会構造的な動向は、その「負の知」のための背景や地謡いになっているだけなのだ。  

≪017≫  なるほど、こういう方法があったかと思った。 小説ならば、この方法はずっと昔からあった。敗北や挫折を描くことなど、物語作家たちにはお手もので、物語というモダリティそのものがそうしたことを可能にしてきた。そもそも、かの風土記がそうであったように。 

≪018≫  しかし学問や研究にはこの方法は採用できないと思われてきた。しかも対象は日本の近代社会である。それを山口昌男が可能にしてみせた。かつて新井白石や頼山陽や柳田国男がそうしていながら、現代の学者には思いつけないか、忘られてしまった方法である。 

≪019≫  たとえば、こういう例ならば、あった。ぼくが勝手に想像するのであるけれど、伊藤整はかの長大な『日本文壇史』において、それをなしとげたのではなかったか。伊藤はそこではそれぞれの小説の価値をいっさい論じようとはしなかったし、作家たちを比較することすらしなかった。ただひたすらに文壇の動向を、厖大な資料を駆使して編年的に交差的に描いただけなのである。 

≪020≫  評判はどうだったのか。その成果や方法はすこぶる普遍的なものであったのに、それは伊藤がそもそも小説家で、その小説家の伊藤が文壇という内幕の歴史を書いたのだから、そういうことも可能なのだろうという程度に受け止められただけだった。ましてよもや、そこに学問や研究の方法が示されていたとは思われなかった。 

≪021≫  が、これはおかしい。批評家たちがまちがっている。伊藤整にこそ方法の徹底があったのに――。 山口が伊藤を意識したかどうかは、知らない。いずれにしても山口は伊藤の方法をも内包して近代の歴史の「負」を書いた。伊藤のようには“全部”を書こうとしなかった。 ポストモダンな時代、こういう方法の実験こそが日本の研究者に求められていたことだった。そう、ぼくは思っている。 

≪022≫  ここで少々ながら、個人的な事情をはさむ。 ぼくが山口昌男に会ったのは、どこかの画廊だったかと憶う。磯崎新がその画廊に入ってきてざっと作品を見回ったあとにぼくを見て、「この人、山口昌男だよ。彼、松岡正剛」と、あの大工のような口調で紹介してくれたのだ。 

≪023≫  そのあと画廊かバーかで、山口さんと軽い雑談を交わした。中井英夫がいたような、いないような。そのとき何かの脈絡で、文化人類学を松岡はどう思うのかよ、というような例の口調で磯崎さんが聞いた。そこでぼくが山口さんの黒々とした太い眉毛をじっと見ながら、「フィジカルイメージを研究しないでしょう。でも、文化ってフィジカルなんですよ」といったバカな答え方をした。磯崎さんも山口さんもかなりシラけたようだった。 

≪024≫  以来、山口さんとはほとんど話を交わしていなかった。利賀村に行くたびに出会ってはいたが、挨拶程度しか交わしていない。 それがいつしか話しこむようになった。きっかけは『間と世界劇場』に収録した「主と客の転位をめぐって」という対談だ。 そこでは、相撲の話から当麻寺の話へ、軍配が返るという例から桟敷の話へ、「見る」と「見せる」の両方を成立させるために主客の転位がおこったのではないかという話などが相次いだ。驚いたのは、山口さんはぼくがそれまで書いてきたものを次々に集約して説明してくれるということだった。どうもぼくのものをちゃんと読んでくれている。のみならず、会話のなかでのその要約の挟み方が水際だっている。 

≪025≫  ふつうはぼくがエディターシップを発揮するところ、これはまさに主客転倒なのである。そこで思った。山口昌男は思想をあれこれの方法で強化しようとしているのではなく、あきらかに方法を思想にしているのだということを――。 その後は何度も話しこんだ。いま山口さんは札幌大学の学長さんだが、そこで特別講義もした。実は、札幌に来ないかと勧められもした。『知の編集工学』が文庫になるときはちょっぴり皮肉な解説まで書いてもらった。 

≪026≫  では、ここからは本書のご案内になる。 本書『「敗者」の精神史』にフィーチャーされた厖大な人物譜のうちから、ひとつふたつだけとりあげておく。何を山口昌男が描きたかったかが、これで多少はわかるのではないか。 

≪027≫  淡島椿岳は明治5年ころ、横浜にピアノやヴァイオリンが入るとまもなくこれを習い、神田今川橋の貸席で「西洋音楽機械展」を開いて、日本人としてはおそらく初めてだったろうピアノを弾いてみせた。 

≪028≫  また椿岳は下岡蓮杖に次いで小さなジオラマ興行も試みた。そんな“記録”をのこしたからといって、とくに業績をあげたわけではない。もともとは日本橋馬喰町の軽焼屋の養子に育ち、絵を四条派の大西椿年に習い、洋画を川上冬崖に学んだ。画技に長けた人物なのだが、ひたすら時代の先端にはみ出したものに手を染め、それで少しばかり遊んで飽きると、趣味も妾も取り替えて、妾についてはその数が160人をこえた。それだけだった。 

≪029≫  その椿岳の子に淡島寒月がいた。寒月は山東京伝を読むうちに西鶴を知り、明治の東京から消え失せていた西鶴本を入手すると、この場面だけはやたらに有名だが、これを湯島聖堂の図書館で出会った露伴に教えた。寒月は“三分趣向”と自嘲するほどその興味の幅がキリスト教からエジプト学に及んで広かったものの、その中心は古物収集である。玉川鵜飼三二の影響だった。 

≪030≫  玉川は木村蒹葭堂に憧れてコレクターになった。明治13年に向島の植半で「竹馬会」を開いて、古物持ち寄りの趣向を広めた。大槻如電もその持ち寄り会に出入りして、遊んだ。 

≪031≫  江戸中期の蘭学医に大槻玄沢(磐水)がいて、その次男の大槻磐渓が奥羽列藩同盟にかかわって終身禁固刑に処せられた。磐渓の次男が如電で、三男が『言海』の大槻文彦である。如電はのちに石井研堂が明治事物研究をするときにサポートをしたり、宮武外骨の応援を買って出ているが、それ以上のことはしない。 

≪032≫  寒月も如電も韜晦、すなわちミスチフィカシオンをかこっただけなのだ。 

≪033≫  こうした明治の“韜晦の夜”をついに本名では知られぬままに走り抜けた者もいる。東海散士こと紫四朗である。 

≪034≫  会津藩の出身で、幕末の京都守護職の周辺にいたが、拘禁されて東京に戻され、放免後は横浜のイギリス人の書生、下北の牧場通訳、弘前の東奥義塾、会津の日新館などを転々として、横浜税関局長の柳谷謙太郎の家にころがりこんだ。これが縁でアメリカに遊学することになり、なんとハーバード大学とペンシルヴァニア大学に学んだのだが、その結果は『佳人之奇遇』という小説一本にまとまっただけである。しかも高橋太華が大半のゴーストライターをした。しかしこの小説が蘆花・魯庵・子規・独歩を動かした。 

≪035≫  けれども紫四朗は文学者としてではなく、政界に打って出ようとして押川方義らと朝鮮半島に渡り、そこで姿を消した。 

≪036≫  近代日本において、会津藩は維新に破れた者の系譜をもつ。山本覚馬もその一人であった。 

≪037≫  嘉永6年に砲兵術を学ぶために江戸へ出て江川太郎左衛門や佐久間象山から兵学を収めて会津の日新館に戻り、幕末には京都で蛤御門の変の戦闘に臨んだが、捕縛されて幽閉。このあいだに半ばの失明状態になった。 

≪038≫  維新の時代になると、京都府の実権者の槙村正直(木戸孝允の腹心)から顧問として呼び出され、古物博覧会やウィーン万国博や物産奨励などを手助けし、やがて京都府会の議長に推されると多くの施策に手腕を示すのだが、結局は京都近代史では陰の努力をしたと述べられたにすぎなかった。むしろ覚馬は妹の八重子が新島襄に嫁いだこともあって、もっぱら同志社大学設立の功労者と称えられている。  

≪039≫  しかし、私人覚馬こそが京都を“第二の奈良”にさせなかった張本人なのではないかと、山口は淡々と言う。いまなお旺盛な京都のベンチャースピリットは覚馬が植えつけたのかもしれなかったのである。 

≪040≫  覚馬だけではない。寒月も如電も玉川も散士も、いや本書や続編に登場する多くの人物たちを、その役割が小さいとか、その係累が思想的に明確ではないからという理由で、近代史の一点から取り除こうとすれば、その歴史衣裳の総体がすべての縫製の糸を引き抜かれたかのように跡形もなくなったかもしれない。 

≪041≫  しかしだからといって、かれらを歴史の主人公にする小説的な記述によってこの“跡形”を描こうとすれば、その総体は奇怪で異様なものになるだけではなく、そもそも「負」の本来の意味が消えていく。すでに第864夜に案内したように、あの辣腕の物語作家の長谷川伸ですら相楽総三の闇の動向を描くにあたっては、小説的技法を使わなかったのだ。 

≪042≫  ざっとこういう調子なのである。 ただし、これらのことを記述するために費やされた情景や記録や点検についての叙述は、ぼくがいま書いたものの100倍くらいにのぼっている。それが100人、1000人にわたってえんえん続くのだ。 

≪043≫  したがって本書の記述は従来の研究書からみると錬磨されたものではなく、あまりに付加的であり、それゆえにまた即製的であるように見える。が、これはもちろん山口の計算によっている。  

≪044≫  それは「負の知」というものを描くには、その負は負そのものではいられないのだから、どのように歴史と社会のなかで引き算されていったかを描く必要があったからだった。歴史の総体から引き算された負を描くこと、それはヴァルター・ベンヤミンのパサージュではないけれど、都市をまるごと歴史化しながら、そこからもう一度、そこに埋没して消えていったコードとモードを再生するような作業であろうと思われる。 

≪045≫  まして「負」を連鎖させて描くのは、わざわざ自立してつくられた枯山水をつなげて叙景するようなもの、簡単ではない。しかし、かつては自立した和歌を大伴家持や紀貫之がつなげて新たな叙景にしてみせたのである。学問とて、そういう試みがもっとなされていいわけだった。 

≪045≫  まして「負」を連鎖させて描くのは、わざわざ自立してつくられた枯山水をつなげて叙景するようなもの、簡単ではない。しかし、かつては自立した和歌を大伴家持や紀貫之がつなげて新たな叙景にしてみせたのである。学問とて、そういう試みがもっとなされていいわけだった。 

≪01≫  よくスピーチや談話の枕につかわれる無責任な話として、ときには海外では笑い話として持ち出される話がある。 日本人に「あなたの宗教は何ですか」と訊くと、たいていは答えに窮するというのだ。たしかにそうらしい。さっと答えが出る日本人は少ない。仏教か、神道か。それとも別の宗教か、あるいは無宗教か。どうも日本人は宗教をどのように自分の問題としてうけとめているのか、わからない。 

≪02≫  おそらく多くの日本人は無宗教という感覚にいるだろうものの、とはいえ、仏教や神道を否定する感覚をもっている者がどのくらいいるかというと、かなり低いはずである。初詣をするひとときでも敬虔な気分になっていないとはいえないし、葬儀や法事において仏前で手を合わせていることに躊躇をもっているわけではない。仏教の僧侶ですら多くは神社を否定しないし、他宗派すら否定しないことが少なくない。 

≪03≫  それなのに「あなたの信仰する宗教は何か」と問われると、日本人からは答えがなくなっていく。神道に奉じている神職たち(ようするに神主さん)も、あらためて「神を信仰しているか」と言われると、困るはずである。  

≪04≫  ぼくは何度か神社神道の会合や青年神職の全国大会などに出席して、多くの神職と話しあってきたけれど、かれらが「神を信仰している」という言葉で自身の立場を表明する場面には、めったにお目にかからなかった。「神を」というときの、その神そのものが多様多岐であるし、仮に神名を特定できたとしても、その特定の神をはたして「信仰する」と言えるのかどうかというと、どうも信仰にはあたらない気がするという意見が多い。  

≪05≫  では、日本人は「いいかげん」で「はっきりしない」と断罪されるのか。神も仏も恐れない無宗教民族なのか。むろんそんなことはない。むしろ歴史の中ではつねに神仏とのかかわりを強調しすぎるくらいに強調してきた民族でもあったのである。 

≪06≫  どんな大問題が孕んでいるのかというと、まずは、日本人の信仰的生活感に対して、ヨーロッパの学問や政治や風習が確立してきた「宗教」あるいは「信仰」という概念をもって規定を与えようとするのが難しい。合わないのだ。 

≪07≫  これまではどう説明しようとしてきたかというと、日本文化特殊論を持ち出すか、それとも国際的に確立されている宗教学をもってむりやりにでも厳密な特色を炙り出すか、そのどちらかだった。ユニバーサリズムか、パティキュラリズムか、そのどちらかになっていた。が、どうもどちらも役に立たない。 

≪05≫  では、日本人は「いいかげん」で「はっきりしない」と断罪されるのか。神も仏も恐れない無宗教民族なのか。むろんそんなことはない。むしろ歴史の中ではつねに神仏とのかかわりを強調しすぎるくらいに強調してきた民族でもあったのである。 

≪09≫  ごく一言でいえば、本書はこのような疑問をもった日本人に対して、歴史の中からひとつの積極的な手がかりをつくろうとしたものだった。 

≪010≫  当時、本書は研究者たちのあいだで話題になり、たとえば西田長男さんはぼくにも「あの本はよかったね、あれが新しい出発点になる」と言っていた。西田さんは『日本神道史研究』全10巻がある神道研究の第一人者であった。  

≪011≫  けれども、本書が出てまもなく高取正男さんは亡くなり、このような問題を包括的に相談できる唯一の思索的研究者である西田さんも、まもなく亡くなった。 

≪09≫  ごく一言でいえば、本書はこのような疑問をもった日本人に対して、歴史の中からひとつの積極的な手がかりをつくろうとしたものだった。 

≪010≫  当時、本書は研究者たちのあいだで話題になり、たとえば西田長男さんはぼくにも「あの本はよかったね、あれが新しい出発点になる」と言っていた。西田さんは『日本神道史研究』全10巻がある神道研究の第一人者であった。  

≪011≫  けれども、本書が出てまもなく高取正男さんは亡くなり、このような問題を包括的に相談できる唯一の思索的研究者である西田さんも、まもなく亡くなった。 

≪012≫  いま、この問題を継続的に議論されているとは言いがたい。誰もが難問すぎて避けるようになってしまったのだ。この「千夜千冊」第65夜で紹介した鎌田東二君の『神道とは何か』でも、「センス・オブ・ワンダー」の感覚こそが神道だという立場が採用され、神道は神教ではないことが主唱されていた。そして、それを日本語でいうと「ムスビ」とか「ありがたさ」とか「かたじけなさ」というものになるというふうに、とうてい宗教学には通用しないような用語になってしまうのだった。 

≪013≫  実は海外では、日本学の半分の研究者たちが日本は仏教国だと考えている。理由がある。江戸時代初期に、キリシタン禁圧と宗門人別改めと寺檀制度の確立によって、日本人すべてが仏教徒ということになったからである。 

≪014≫  もう半分の研究者たちは、日本をシントーイズムの国だとみなしている。シントーイズムは「神道イズム」のことで、簡単にいえば神社信仰あるいは神祇信仰をいう。 

≪015≫  しかし、これらの見方はいまひとつなのである。最初の仏教国判断は、当時の江戸幕府による政治の決断であって、日本人の信仰形態であるわけではない。そう、決めただけのことなのだ。また日本がシントーイズムの国だというのは、明治以降の天皇万世一系主義を重視したり、民衆の鎮守の森の感覚を重視しすぎていて、それらをもってシントーイズムと断定するわけにもいかない。 

≪016≫  仏教国でも神道国でもないとしたら、何なのか。そこで浮上してくるのがシンクレティズムだという判断になるのだが、これまた宗教学的にはけっこう無理がある。 

≪017≫  たしかに、日本社会の歴史では、仏教と神道は交じってきた。これを総じて「神仏習合」とはいうが、それではそのように習合した宗教を信仰しているのかというと、すなわち日本人の宗教はシンクレティズムだったのかというと、高取さんは堀一郎とともに、日本の神仏習合をシンクレティズムと定義することはできないと言う。せいぜい修験道がシンクレティズムにあてはまる程度ではないかという結論なのである。 

≪018≫  本書が古代中世のさまざまな事例を紹介しているように、日本人の習合感覚は神仏の習合だけにはかぎらない。 称徳天皇や桓武天皇の時期はあきらかに神仏儒の習合になっているし、礼儀の感覚がシントーイズムに入ってきている例がかなりある。また、本書ではまったくふれられてはいないけれど、そこに道教の影響が大きく関与していることも少なくはない(吉野裕子さんによる有名な伊勢神宮における「太一」信仰については紹介されているが)。 

≪019≫  そうだとすると、シンクレティズムを「重層信仰」というふうに訳せば、それはそういう面もあるわけだが、重層的であるのはひとつひとつの神仏を信仰したどこかの民族や地域の慣習を離れて、それらの神仏などのイコンを日本人が重層したというのではなく、それらのイコンを含めた礼拝感覚やタブー感覚を日本的に重層させた直後から、やっと信仰めいたものが始まっていったというのが実情なのである。 

≪020≫  実は仏教だって儒教がたくさん交じっている。仏壇の発達や仏式葬儀の仕方には、儒教からの影響が濃い。が、だからといって仏式葬儀が仏教ではないとはいえない。 

≪021≫  こういうふうに、カーブやフォークやチェンジアップのような変化球が、神仏両面において数多く日本の信仰形態には入りこんでいると言わざるをえないわけである。 

≪022≫  これは研究者のあいだでは意見が統一しているのだが、日本の近代化のプロセスでは、キリスト教社会でいわれるような「宗教の世俗化」にあたるものが認められない。もともと世俗化されていたからである。とくに神道はそういうものだった。  

≪023≫  それでは神道は、のちに世俗化されたのではなくて、もともと世俗宗教(secular religion)として発生したり確立されていったのかというと、それもあたらない。 そこで著者は、あまり明快ではないのだが、おおむね次のようなガイドラインを提出する。  

≪024≫  神道は(そのようによぶしかないから神道と言うだけだが)、常民の日常的な習俗とともに培われてきた民俗的な信仰やトーテミズムを含むものの、それをもって神道と言うわけにはいかない。しかしながら、両部神道や伊勢神道や唯一神道のように、独自の教説によって成立したものも神道の本来というものではなく、それらは広い意味での神道の一部にすぎない。 

≪025≫  神道は民俗的な習俗をふまえながらも、伝統的な神に対するある自覚にもとづいたものであるはずであって、誰もが「それが神道である」と言えない領域に発達していったものなのである。 

≪026≫  その理由はイデロギー的には説明がつかない。むしろ、日本の歴史の一つずつの”事件”に応じて形成されていったものだった。本書の書名の「神道の成立」とは、そういう意味なのだ。 

≪027≫  ざっといえば、こういうことになる。だから、本書で神道の定義が読めると期待しても肩透かしに出会う。そのかわり、実に多様な”事件”の組み合わせが少しずつ「神道」を成立させていったことが、深く暗示されるのでもある。 

≪028≫  ざっといえば、こういうことになる。だから、本書で神道の定義が読めると期待しても肩透かしに出会う。そのかわり、実に多様な”事件”の組み合わせが少しずつ「神道」を成立させていったことが、深く暗示されるのでもある。   

≪029≫  ひとつは、藤原不比等の一族とは袂を分かって大中臣を名のった意美麻呂、清麻呂の父子が関与した事情のプロセスに「神道」が芽生えていた。またひとつは、大伴家持の「族(やから)に喩す歌」にうたわれた「隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらべ)に 極め尽して 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)」に「神道」が見えていた。

≪030≫  さらにひとつは、各地にのこる産屋の風俗と大嘗祭の神衣(かんみそ)の秘事との関係に、もうすこし冒険的にいえば、それらと寝殿における大庭(おおば)や塗籠(ぬりごめ)の出現との関係に、それぞれ「神道」の超部分が覗いていた。あるいは儒教儀礼の「郊祀」のありように「神道」の外来性のひとつが響いていた。 

≪031≫  神道とはそうした”事件”のたびに登場した超関連的なつながりが生んだものなのではないかというのが、高取さんが遺したメッセージだった。 

≪032≫  われわれは、結局、こう答えるべきなのかもしれない。「あなたの宗教は何ですか」「われわれはそのような質問に対する回答をもたないような日々をこそ送ってきているのです」と。 

≪033≫  べつだん宗教学にあてはまらない祈りの日々があったっていいのである。宗教学のほうがいずれベンキョーをして態度を改めればいいだけのことなのだ。高取さん、少し早く亡くなりすぎました。 

≪04≫  慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。 

≪05≫  ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった。  

≪06≫  なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。 

≪07≫  この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。 

≪08≫  しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたということを前提にしている。そこに”筋”がある。 

≪09≫  けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこして将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。 

≪010≫  どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。 

≪011≫  これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。 

≪012≫  こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。 

≪013≫  一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。 蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要しているバカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと言ったのだ。 これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。 

≪014≫  ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。 

≪015≫  もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象となる「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てくるようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。 

≪016≫  これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。 

≪017≫  中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。 もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これなら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということになる。 

≪018≫  これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということになれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。 

≪019≫  それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。 

≪020≫  これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。 

≪021≫  けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみようとすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしまうのだ。  

≪022≫  それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。 

≪023≫  しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。 

≪024≫  もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。 

≪025≫  以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。 これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。   

≪026≫  当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。 

≪027≫  幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。 山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。 

≪028≫  いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。 しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。 

≪029≫  日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、第409夜の高取正男の『神道の成立』や第777夜の黒田俊雄の『王法と仏法』にも述べておいたように、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。 

≪030≫  しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。 

≪031≫  ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。 

≪032≫  天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。 

≪033≫  考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るかもしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。 

≪034≫  幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。 闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や第741夜に紹介した野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。 

≪035≫  闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にしていながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったのだ。 

≪036≫  闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。 

≪037≫  闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。  

≪038≫  内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。 が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。 

≪039≫  山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ)のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。 

≪040≫  いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティマシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。 

≪041≫  では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。 

≪042≫  で、ここからが重要な“転換”になっていく。 絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。 

≪043≫  これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。 が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。   

≪044≫  むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないところは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。 

≪045≫  この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰した。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝帝室から亡命した日本乞師・朱舜水(第460夜参照)の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。  

≪046≫  しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。 もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。 

≪047≫  安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。 

≪048≫  この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底して、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。  

≪049≫  しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。 

≪050≫  話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、このあたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。 

≪051≫  天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。 

≪052≫  こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。 

≪053≫  「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。 

≪054≫  徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。 

≪055≫  このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。 

≪056≫  山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。 

≪057≫  が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。 

≪01≫  日韓共催FIFAワールドカップ2002の日本代表ゴールキーパーは、全試合を楢崎正剛がつとめた。 ぼくと同じ「正剛」という名前のゴールキーパーがいることは前から知っていたが、気持ちをこめて楢崎正剛君の雄姿をテレビ観戦したのは初めてだった。なかなかタッパもあって面構えもよく、真剣そのもののプレーだったが、どこか不器用に見えた。しかし、同名の誼みなのか、妙に愛着をおぼえた。 

≪02≫  楢崎正剛君がなぜ正剛という名をつけられたかは知らないが、日本中にいまいる正剛君の大半はおそらく中野正剛から採ったのではないかとおもう。 

≪03≫  ぼくのばあいは、父が「他人に殺されるくらいの気概の持ち主になれ」という乱暴な理由で中野正剛の名を選んだ。あとで述べるように中野正剛は暗殺されたのではなく自害したのだが、そのへんのことはどうでもよかったのだろう。 

≪04≫  ちなみに妹は敬子というのだが、これも原敬から採った。原敬はまさに東京駅駅頭で暗殺された。父は3人目もつくったが、この弟は流産まがいで死んだ。きっと利道とか有礼とか多喜二とかと付けたかったのではないかとおもう。わが子に「殺される者の名」をつけるなんて、まったく変な考え方をする父だった。 

≪05≫  それはそれとして、ぼくはこの「正剛」という名前が好きにはなれなかった。どうも堅すぎる。「正と剛」というのも桃太郎じゃあるまいし、意味が強すぎる。フラジャイルとは反対なのである。それに「松岡正剛」と四文字を並べると、「岡」の字が二つも入っている。なぜこんな面倒な名をつけたのか、息子はいっこうに納得しなかったのだ。いま正剛よりもセイゴオを好むのは、そんな理由によっている。セイゴオはいかにも無国籍で、いい。 

≪06≫  しかし、父が正剛にこだわったのは(あるいはたんに思いついたのは)、ぼくが昭和19年の1月という戦争の渦中で生まれたことが決定的な背景になっていた。前年、中野正剛は東条英機との対立が激化していて、ぼくが生まれる3カ月前には東条の指金の憲兵隊によって拷問をうけたうえ、自宅に帰ってきて自決した。2日後の青山葬儀場には2万の会葬者が駆けつけた。そのなかに父も交じっていたらしい。 

≪07≫  とくに愛国主義者でもない一介の旦那衆であった父は、どうやら戦争反対者だったようだ。そこへ戦況悪化の昭和19年1月にぼくが生まれることになる。父は何かを託して正剛とつけたのではなかったか。 

≪08≫  父は中野正剛について一度だけだが僅かな説明をしたことがあった。きっとぼくが「中野正剛ってどんな人?」とでも訊いたのだろうが、父は「東条英機の戦争に反対して殺されたんや」と言っただけだった。ぼくが黙っていると、「中野正剛はそれを議会で弾劾して殺されたんや」と付け加えた。しかし、この父の説明は半分は当たっていたが、半分はまちがっていた。 

≪09≫  たったこれだけの会話。 しかもそれ以来というもの、ぼくはまったく中野正剛に関心をもたなかった。自分の名の由来など、またそれにまつわる人物のことなど、子供というものはたいして関心をもたないものである。 

≪010≫  けれどもそういうぼくにも、先の戦争の次第について学習するときがおっつけやってきた。戦争史についてはまったく読まなかったものの、橋川文三や丸山真男や吉本隆明の国家主義や超国家主義の論考をしきりに読んで、懐かしいというのか、こわいもの見たさというのか、照れ臭いというのか、久々に中野正剛の名に何度か出会うことになった。 

≪011≫  こうして、いつかは“原点正剛”を知らなくてはなるまいとおもうようになったのであるが、またまた時間がすぎた。 

≪012≫  やっと緒方竹虎の『人間中野正剛』に出会ったのは、工作舎を出て数年たったころのことだったろうか。すぐに正剛の四男中野泰雄の『政治家中野正剛』や『アジア主義者中野正剛』も併せて読んでみた。 

≪013≫  ところが読めば読むほど、中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。 

≪014≫  明治19年(1886)、世は鹿鳴館華やかなりし時代、正剛は福岡西湊の黒田藩の船頭方に生まれた。近くに同郷の貝原益軒が愛した山容が望めた。 

≪015≫  欧風政策一本槍の伊藤博文・井上馨の条約改正が失敗し、代って黒田清隆・大隈重信が交渉にあたることになった年である。その大隈は玄洋社の刺客来島恒喜に爆弾を投げられて隻脚になった。 

≪016≫  そのころはそういう歴史も知らなかった正剛は、9歳で日清戦争を知り、14歳で好きな柔道道場を仲間とつくるために玄洋社の平岡浩太郎に援助を頼んで、おもしろがられるようになっていた。このときの一級下にいたのが本書の著者の緒方竹虎(のちの第4次吉田茂内閣の官房長官・自民党総裁)である。二人は夜な夜な徳富蘇峰の『静思余禄』や松村介石の『立志之礎』を読み耽ける。 

≪017≫  ついで正剛と竹虎は早稲田大学へ。学長は鳩山和夫。ポーツマス講和会議に国民の不満が爆発して、日比谷に焼き打ち事件がおこって戒厳令がしかれている。19歳で日露戦争を体験するにおよんでアジアに目覚め、牛込の中国同盟会の事務所にあたる民報社に孫文や黄興や宋教仁を、さらに漢字新聞「泰東日報」の主宰者で振東学社の金子雪斎を、また末永節の紹介で頭山満を訪ねた。 

≪018≫  当時(明治43年)の雑誌「冒険世界」が発表した番付では、各界痛快男子の筆頭は、政治家は大隈重信、軍人は乃木希典、文士は大町桂月、学者が三宅雪嶺で、力士は常陸山、そして筆頭豪傑が頭山満であった。 

≪019≫  早稲田卒業後、正剛は日報社入社後に、朝日新聞の記者となる。竹虎も朝日に入った(のちに政治部長・編集局長・副社長)。そのころの主筆は池辺三山で、夏目漱石が『虞美人草』と『三四郎』を東西の朝日に連載していた。漱石の月給200円、正剛が60円。桐生悠々はそのころの正剛を「紋付袴で出社し、覇気横溢、犬養木堂を崇拝していた」と書いている。 

≪020≫  馬好きの正剛は筆名を「戎蛮馬」あるいは「耕堂」と称して、以来、徹底して痛快な記事を書きつづける。伊藤博文は「ビスマルクを気取る柔弱の鉄血宰相」、井上馨は「貨殖侯」、桂太郎が「閥族の禍根」で、原敬が「陰類悪物の徒」、山県有朋にぶらさがっていた林有造・竹内綱・大江卓については「政界の醜業婦」と罵った。「国民新聞」を主宰する徳富蘇峰についてさえ、その中国革命論を痛罵した。加えて、朝鮮を併合して総督府をおこうとする政府の政策を猛然と批判して、朝鮮における言論の自由と憲兵制度の撤廃を訴えた。このころの正剛のスローガンは「内なる民主主義、外なる民族主義」だったのである。 

≪021≫  かくしてまさに筆鋒逆巻くジャーナリストの先頭を走るのだが、これが朝日での立場を孤立させた。そこで正剛は東則正の「東方時論」に転出をして、そこで若山牧水・吉野作造・長島隆二たちを知る。アジアの民族自決を夢見る正剛は、ここを拠点に「東方会」を開き、財界の木村雄次・金子直吉、陸軍の林銑十郎・荒木貞夫、外務省の小村欣一・木村鋭一、大蔵の富田勇太郎、学界の塩沢昌貞・杉森孝次郎らと集って、アジアの未来を語りあった。顧問格には三宅雪嶺がいた。正剛はそのころ雪嶺の娘を妻に娶っていた。 

≪022≫  時代はやがて第一次世界大戦からロシア革命へ、米騒動からシベリア出兵へ、国際連盟成立から尼港事件へと進む。 そうしたなか、正剛は大正6年(1917)の総選挙に福岡から出馬する。しかし松永安左エ門・宮川一貫と争って敗北。やむなく1919年のパリ講和会議に「東方時論」特派員として随行するのだが、西園寺公望以下の日本全権たちの不甲斐なさに失望。これで世界における日本の位置の重要性を痛感した正剛は、大正9年にふたたび福岡から立候補、今度は松永安左エ門との一騎打ちに勝った。  

≪023≫  ここからが正剛の政界時代になっていく。 革新倶楽部に所属しての意気軒高のスタートだったようだ。尼港事件問題で議会で初演説したそうした中野正剛の面影を、マンガ家岡本一平は「おもいのほか荘重に論歩を運び、悲憤慷慨の推進力で演説を進行させた」と風評している。 

≪024≫  その後の正剛はシベリア出兵に反対したり、参謀本部の廃絶を主張するというような、さかんに激越な政策論鋒を見せ、ソ連からは「偉大なリベラリスト」と激賞されるようになるのだが、大正13年の選挙で再当選すると憲政会に入り、ここで崇拝する犬養木堂と離れてしまうことになる。加えてウラジオ・ハバロフスク・満州を視察して、心がしだいに満州に飛んでいく。世の中は護憲三派の蜜月から田中義一の陸軍機密費事件へと時代が急旋回しはじめた時期である。 

≪025≫  どうもこのあたりから中野正剛は、せっかくの恩義の哲学のようなものからさかんに逸脱するようだ。緒方竹虎もそこを頻りに残念がっている。とくに正剛は陸軍機密費事件を弾劾して、政友会と陸軍を敵にまわし、正剛本来の超然たる姿勢を失って政界抗争にも巻きこまれていったのがまずかった。 そんなおり、正剛は少年期からのカリエスを悪化させ、手術にも失敗して、左足を大腿部から切断してしまう。 

≪026≫  こうして時代は昭和に入る。 昭和2年の満州某重大事件(張作霖爆殺)にはあいかわらず弾劾をもって臨んで田中義一と正面対決をし、逓信省の政務次官となっては電信電話事業の民営案に積極的にとりくんだ中野正剛も、実際には軍部や関東軍の策謀であったにもかかわらず、ついに勃発した昭和6年の満州事変の前後になると、さすがに読み違えが目立ってくるようになる。 

≪027≫  ここには、若槻礼次郎内閣の弱腰外交に対する内務大臣安達謙造の動きがあった。安達は若槻にこのままでは日本は乗り切れないとみて(幣原外交の失敗と井上財政政策の失敗)、ここは一番、民政党・政友会を連動させた挙国一致内閣をつくるしかないと進言し、協力内閣構想をうちあけたのであるが、この協力内閣構想がまったくうまく進捗しなかった。しかもこの構想に関与した正剛も挙国一致内閣をヴィジョンにしながらもあえなく挫折するという体験をする。このディストーションがどうやらあとまで響くのである。 

≪028≫  かくて若槻に代わって犬養政友会内閣が出現したときは、もはやすべてが手遅れになっていた。 正剛も民政党を脱会、このあとは「ソーシャル・ナショナリズムによる社会国民党の結成」に夢をつなごうとするのだが、そのとき満州国の成立が伝わると、ついにそこにこそ自分の国家構想を移行できるのかという錯覚に陥ってしまったのか、ソーシャル・ナショナリズムはすっかりファシズムの様相を呈してしまうことになっていく。 

≪029≫  社会国民党の結成も幻想と消え、民政党脱党組による国民同盟ができただけになる。総裁は安達謙造、幹事長が山道襄一。その方針では安達と正剛もしだいに対立していった。そこで正剛は『国家改造計画綱領』を書いて東方会を復活させて、ついには安達とも袂を分かつのだが、これが中野正剛という人物がこのあとずっと孤立無援になっていく最後の分岐点だった。 

≪030≫  『国家改造計画綱領』は北一輝の超国家主義による改造計画に対する国家主義からの別案である。ぼくも吉本隆明編集の筑摩現代思想体系の『ナショナリズム』の巻の収録で読んだのだが、そのころは、超国家主義と国家主義と社会主義のどこが異なるイデオロギーの核心になっているのかさえ、見当がつかなかった。けっこう施策には似ているものが多かったのである。 

≪031≫  さて、ここから先の中野正剛の活動にはさすがに目を覆いたくなるものがある。一方ではヒトラー、ムッソリーニに傾倒するかとおもえば、他方では安倍磯雄・麻生久の社会大衆党と歩み寄って東方会との合同に向かうというような、かつて正剛に批判された徳富蘇峰さえもが自重を望んで軽挙妄動を慎むべきだと一文を寄せるにおよんだような、そういう独断専行に嵌まっていった。 

≪032≫  そういうときに、日本は日米開戦に踏み切ったのだった。すべては国家改造どころではなくなっていた。正剛は戦争よりも、なんであれ国をつくりたかったのだが、事態は戦争の仕方の選択だけに時代を押し流していった。 

≪033≫  しかし、ここにさらに独断専行を国家的に遂行した男がいたのである。それが東条英機であった。 

≪034≫  正剛はこの東条が許せない。東条もまた正剛が許せなかった。立場からいえば二人が鎬を削ったとはいえないのであるけれど、正剛からすればこれが最後の決戦場だったのだろう。三木武吉と鳩山一郎と語らった正剛は、数々の重臣工作を敢行しながら、早期講和内閣の道をさぐっていくことになる。ぼくの父が多少とも気にいった中野正剛がいたとすれば、この活動をした正剛である。 

≪035≫  けれども、大政翼賛会に渋々与しながらも断固として抵抗を続ける正剛を、東条は憲兵隊に連行させ、詰問を加え、そして自決に至らしめた。緒方竹虎は本書においてはこの東条と正剛の対立の詳細を綴っているのだが、ぼくにはいまのところその正否は判じがたいものになっている。 

≪036≫  はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。遺書は「護国頭山先生」という表書きで、仏壇に入れた。「頭山、三宅、徳富、盟友諸君。東方会、猶興居、感慨無窮」と始まっている。 

≪01≫  この本は幸田露伴の『連環記』のようにしたかった、と著者自身が書いている。『連環記』は、恵心僧都源信が比叡山で活躍していたころの慶滋保胤が仲間を集めて二十五三昧会を催していた事情を綴った物語で、次から次へと挿話と場面が連環するという結構である。 

≪02≫  露伴の『連環記』がやたらに好きだという作家や文学者は、けっこう多い。ぼくが知っているだけでも江戸川乱歩、石川淳、花田清輝、山本健吉、篠田一士、司馬遼太郎が絶賛しつくしている。 

≪03≫  それは、そうだろう。あれは極上だ。それなのにいまや誰も『連環記』を読まなくなった。いやいや露伴全集を覗く者など、いまどきめったにいない。ぼくはスタッフから「明治文学を読むにはどうしたらいいですか」とヒントを求められると、たいてい露伴を読みなさいと勧めるのだが、みんな挫折してしまうようだ。 

≪04≫  それはともかく、本書との出会いにはちょっとした経緯がある。まず著者の山本健吉についてだが、小学校3年のころから俳句に遊んでいたぼくは、この人を長らく“歳時記の専門家”としてしか見ていなかった。それがあるとき、父の書棚に並んでいた『芭蕉』上中下3冊を高校の終わりころに拾い読みした。新潮社が刊行していた一時間文庫という洒落たシリーズだった。  

≪05≫  父は健吉さんというふうに言っていた。読んではみたものの、この本は著者のせいでおもしろいのか、もともとの芭蕉のなせるわざなのか、そこがわからなかった読書におわったので、それからずいぶんのこと健吉さんを放ってあったのだ。それが、20代半ばをすぎたころだとおもうのだが、そのころ光り具合がよかった「季刊芸術」という雑誌に「三つの古語についての考察」が連載されていた。 

≪06≫  三つの古語というのは「もののあはれ」「いろごのみ」「やまとだましひ」である。当時のぼくにはこの組み合わせはちょっとしんどかったけれど、これは面影日本の根本にかかわる三つのキーワードだ。そこまでのことなどまださっぱりわかっていなかったけれど、何かが気になって毎号読んで、それなりに柳田・折口との距離やら「たましひ」を吞んだ日本人論のおこしかたなどを覗き見た。 

≪07≫  ところが、この連載は尻切れトンボだったのである。そこでなんとなく収まりが悪いままになって、それからもときどきは健吉さんものには出会ってはいたものの、そのまま消化不良が続いていた。それがやっと本書によって、あの連載の「続き」に決着がついたという順序なのである。 

≪08≫  本書『いのちとかたち』は、健吉さんが満を持して「日本の面影の本質とは何か」という思索の奥へ降りてみた試みになっている。 

≪09≫  サブタイトルにも「日本美の源を探る」がつかわれた。それを「もののあはれ」「いろごのみ」「やまとだましひ」という三つの古語をキーワードにしながら考えている。いろいろヒントをもらったが、総じては次のような感想をもった。 

≪010≫  よく和魂洋才という。明治には大流行した言葉で、いくら文明開化で洋風が流行しようと、魂は「和」をもっていたいという意味だ。しばしばこの言葉で日本のありかたも安易に説明されてきた。しかし、いうまでもないことだが、かつては「和魂漢才」という言葉だけがあった。 

≪011≫  こちらは、わが国は遣唐使以来、海の向こうの巨きな「漢」(中国)にいろいろなことを学んできて、いまなおその成果を「漢才」として尊重はしているけれど、これを捌くにあたっては「和魂」を大事にしていきますよというメッセージである。小野道風が王之に学んだ漢才の書を和様書にしてみせたあたり、平仮名がだいたい確立したあたりで、漢才と和魂が相並ぶようになったことを受けた言い分である。唐絵に対するに倭絵が見えてきたのも大きい。 

≪012≫  ここで「魂」とか「才」は何のことかといえば、「魂」は中国由来の魂魄のひとつで、もともとはわれわれに宿っているものだが、われわれが何かの極限に近づかなければ、それが魂や魄となっては出てこない。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気のことをいう。たとえばわれわれが死ねば、これはまさしく極限なのだから体から魂魄は飛び立つ。古代人はそう理解した。 が、これでは魂のつかいどころがない。そこで早々に日本人は魂をつかうために魂振りや魂鎮めなどをした。 

≪013≫  一方の「才」のほうはもともとは人に宿っているものではなかった。才とは木や石や草に宿っているものをいう。かつてはサエとかザエといった。その才を引き出すことが「能」である。「才」と「能」の2つでひとつの才能なのである。 

≪014≫  だから洋才というばあいは、ほんとうは西洋の素材から日本人が引き出すべきものをさす。油絵の具やカメラやアルミニウムから何かを引き出せば洋才だ。漢才なら漢字や漢詩や中国の衣服や瓦から何かを引き出すことをいう。 

≪015≫  それがしだいに、人にも宿る「魂」と「才」とを一緒くたに語るようになった。そして、似絵の藤原隆信が《源頼朝像》や《平重盛像》で何を描いたかというと、「魂を描いた」というふうに見た。画材や手法は漢画(唐絵)に学んだ。漢才を借りた。 

≪016≫  しかし日本の画人たちは魂を剝き出しに描くのではなかった。何かをする。その何かがどんな何かであるのかはあとでぼくなりに暗示するが、その何かをしてできあがった肖像を「影」とよんだ。いまでも写影・撮影・影響・御影などという言葉があるように、画人は「影」を映し出し、写し出そうとしたのだった。かつてはこの映り出てきたものを「影向」ともいって、そこに気韻が生動すると見た。 

≪017≫  この手法こそが和魂漢才のルーツのあらわしかたになる。このことがわからないと、日本の絵画に陰影がないことがわからない。そもそも「影」の起源は「たましひ」の動向にあるのだから、陰影など必要がなかったのである。だからその「かげ」から、たとえば「かがよひ」「かげろふ」「かがみ」(かげみ)などが出てきた。「かぐやひめ」といえば、そういう影向をおこした姫の象徴なのである。 

≪018≫  さて、そのようになってみると、ひとまず和魂は取り出しにくいもの、漢才はそれを取り出すための道具的なものということになるのだが、それとともに「魂」が「影」として映し出され、「才」もまた石や木だけではなく人にも潜むとなれば、これは和魂と漢才を別々に語るのでは何も説明したことにはならない。むしろ外来的で中国的な才能の全体を「漢」と見なし、それを感じさせないほどにあらわされたものやあらわしたものを「和」と見たほうがいい。 

≪019≫  こうして室町期の『菅家遺誡』あたりで和魂が自立していったのである。蒙古襲来時の神風の自覚や南北朝期の後醍醐旋風などの影響も大きかった。そのうち、わが国の心を「やまとごころ」と言うのなら、漢才がもたらしてきたものにも「からごころ」ともいうべきものがあって、そこにこそ明白な一線があっていいのではないかと思うようになった。江戸の国学はその立場からの構想になる。 

≪020≫  本書は、それなら「からごころ」に「やまとだましひ」が対置できるようになったのはなぜなのかということを、考えた。そんなことを言いだしたのは国学者たちが初めてだったから、むろん賀茂真淵や本居宣長の思索のなかでのことである。宣長は「漢意」を「からごころ」と和風に訓み、「古意」に「いにしへごころ」という訓みを与えたのだった。 

≪021≫  もともと「やまとごころ」「心だましひ」「世間だましひ」などという言葉は、平安中期にはつかわれていた。日本主義的な意味はない。世事を円滑に進めていく才能や、専門的な技能を日々に応用する知恵のことを言った。 

≪022≫  「やまとだましひ」は『源氏物語』少女の巻に早い。初出かもしれない。そこにはたとえば、「なほ才をもととしてこそ、やまとだましひの世にもちゐらるる方も強うはべらめ」とある。この『源氏』の用例では、何人もの女性たちを愛しても、それぞれ円滑ななりゆきをつくっていける才能のことを暗示した。 

≪023≫  「やまとごころ」という言葉のほうの初出は赤染衛門の歌にある。女性たちにだって「やまとごころ」があります。私たちはそういう心を子供に教育できるものだと自信をもっているのですと詠んでいる。 

≪024≫  夫の大江匡衡が「はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母せむとは」と詠んだのに対し、妻の赤染衛門が「さもあらばあれやまと心しかしこくば細乳につけてあらすばかりぞ」と応えた歌である。匡衡は「ち」を「知」と「乳」にかけたのだが、赤染衛門はそんな学才などなくたって「やまとだましひ」や「やまとごころ」は子に伝えられるものですと切り返したわけだった。 

≪025≫  だいたい日本の学習の本道は感染教育であり、感染学習である。それゆえ歌にも禅にも能にも茶にも門人がいて門弟ができた。そこに師弟が生まれ、それなりの「道」がつくられていった。赤染衛門はそういう感染教育なら、それがとりわけ「やまとごころ」によってこの国に伝わる魂を伝えるという感染なら、女性こそが得意ですと言ったわけである。 

≪026≫  王朝期の「やまとだましひ」や「やまとごころ」は、わかりやすくいえば王朝社会のコミュニケーション能力のことだった。ただそれは漢才に頼るものではなく、昔ながらの言葉づかいや和歌や仮名によってもあらわせるものだと解された。 

≪027≫  津田左右吉はさすがにこうした平安期に発していた和魂漢才の意味をとりちがえなかった。漢字漢文漢詩にもとづく漢才に対して、どのように和魂としての「やまとだましひ」を対応させるかを、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』(洛陽堂→岩波文庫)の第一巻で説いた。 

≪028≫  そのうち、使い方に変化があらわれていく。武家社会が誕生し、「力」のコミュニケーションが尊ばれるようになると、ひとつながりに扱われていた和魂漢才は分断して、2つが並び称されることが少なくなっていった。 

≪029≫  加えて神仏習合が進んで本地垂迹説などが唱えられるようになると、むしろ「和」(神)こそが「漢」(仏)を司るものだと考えられて、中世神道が確立していったのである。かなりの日本化だった。こうして近世、国学や和学が芽生えて、契沖や下河辺長流らが万葉研究を深め、荷田春満は「古道論」を唱え、真淵や宣長は『源氏』を「古意」で読み解くようになる。 

≪030≫  なかで宣長が『古事記伝』で試みたことこそ決定的だった。日本の古事を理解するには、漢字で書かれた『古事記』を「漢意」を排して読まなければならない、そのための方法を自分が確立すると宣言し、それをやってのけたのだ。漢字漢文的思考性を排除すること、それが漢意を排するということだ。かくしてここに「やまとごころ」は「いにしえごころ」として、あえて「からごころ」に対置されたのである。 

≪031≫  宣長の「古意」の研究には、復古主義や国粋主義は主張されていない。あくまでも「高き直き心」としての日本の古文や古意をあきらかにしようと試みた。宣長は『源氏』を「もののあはれ」の表明だったと解いて、そこにも本来の「やまとごころ」が発露していたとみなしたのである。 

≪032≫  ところが宣長を継承したはずの平田篤胤では、これらが復古神道として組み立てなおされた。さらには霊性が強調され、「やまとごころ」や「やまとだましひ」に霊能性が認められるようになった。それでも、そこには日本の祖霊の心が響くのであって、その思想がナショナリズムになることなどはなかった。 

≪033≫  では、この見方がとりちがえられて、たとえば国体思想などと結びつき、またたとえば和魂漢才が和魂洋才にスライドしていった原因をつくったのはどのへんかというと、健吉さんはきっと大国隆正あたりのことだったろうというのである。大国は平田篤胤の門下生にあたる。 

≪034≫  大国隆正は平田篤胤や村田春門から国学を学んだ津和野藩士で、天照大神や天皇を軸に「対外応接」する教化色の強い思想を広めて幕末維新の国事にもかかわった。宣長の思索の奥にあるものより、また篤胤の好んだ幽冥なるものより、ひたすら外国人を圧倒するための近代国学にとりくんだ。天皇を「四海万国の総主」として「大帝爵の国体」を宣揚することが、最も重要な「撫民の術」だとも主張した。 

≪035≫  山本健吉はこういうものは国学ではないのではないかと言う。少なくとも宣長の国学とはほとんど関係がない。宣長の思索の奥にあるものとは、まさに日本人にさえ取り出すことが容易ではないもので、それでもそれがいったん感得されたならば、赤染衛門が言ったように、和魂から和魂へと伝わっていくものなのである。 

≪036≫  それならば、その宣長の思索の奥にあったもの、日本人が取り出しにくいのにそれが日本人の魂であるようなものとは何なのかということになる。 

≪040≫  本書は、こうした稜威をめぐる重要な一節を挟んでおきながら、なぜかそこに深まらないで(そこが本書の不満であったけれど)、ふわりと枕詞や歌枕の話に移行するためにあれこれの引用をしはじめるのだが、ぼくにはそれもまた次の理由でおもしろかった。 

≪041≫  それは、枕詞や歌枕が「歌」という様式をつかって稜威に入るための比類のない装置であるように見えたからである。 

≪042≫  本書はそこまではっきりと踏みこんで言わずに、枕詞や歌枕を「生命の指標」と言うにとどめているのだが、ぼくは日本語と和歌の本来の関係にひそむ「言葉としての稜威」という力からみて、そういうこともあっていいと考えた。どうみても「たらちねの」「ひさかたの」「たまきはる」といった言葉の呪力は歌のためにつかう言葉の蘇生というよりも、それらの言葉に託された意味の再生を願った「文頭の稜威」のための装置にちがいない。そう思えたのは本書からの収穫である。 

≪043≫  触れるなかれ、なお近寄れ。 これが日本である。これが稜威の本来の意味である。限りなく近くに寄って、そこに限りの余勢を残していくこと、これが和歌から技芸文化におよび、造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものなのだ。 

≪044≫  アンドレ・マルローは根津美術館の《那智瀧図》と本物の那智の滝を竹本忠雄に誘われて見たときに、その感動が日本の本質にかかわる何かであることを直観したようだった。竹本もマルローの感動に気がついて、二人は「ル・サクレ」(神秘)、「ル・トレ」(後退)というフランス語でこの感動の奥にあるものを説明しようとした。 

≪045≫  マルローが「とうとさ」や「あとずさり」という言葉で日本の奥を説明しようとしたことは鋭かった。たしかに日本の魂魄は奥に隠れていて、それが影向しては、また後退していってしまう。その去来と加減というものが日本の大切になっている。稜威とはまさにその大切の近くで消息していることなのである。 

≪046≫  しかし、それを誰がどのように説明しきれるか。どこに稜威があると指摘できるのかといえば、それは覚束ない。少なくとも天皇霊に稜威があるなどというのは、あまりに中心に因りすぎた短慮である。もっとたくさんのところに稜威の面影は遊んでいる。本書もそのことを、能や茶や花に言及し、世阿弥の能や芭蕉の旅にも探ろうとはしたが、そこに至らず、志が拡散していった。 

≪01≫  こういう本を採り上げるについて、先に一言書いておいたほうがいいだろう。 こういう本とは、ぼくが仮に「アダムスキー本」とよんでいるもので、超古代史もの、UFOもの、偽史伝もの、予言ものなどをいう。巷間ではしばしば「カルト本」などともいわれる。だいたい見当はつくだろう。 

≪02≫  ぼくの知っているかぎり、このような本、たとえばヴェリコフスキーの『衝突する宇宙』、チャチワードの『失われたムー大陸』、デニケンの古代遺跡をめぐる一連著作、日本でいうなら吾郷清彦の『古事記以前の書』や古田武彦の『邪馬台国はなかった』、最近よく売れた本の例でいえばグラハム・ハンコックの『神々の指紋』といった本を、これまでまったく読んだことも覗いたこともない読書人やメディア関係者というのは、まずいない。誰もが一度や二度は手にとっている。本棚の片隅に眠っているばあいも多いことだろう。 

≪03≫  それにもかかわらず、このような本が一般的なメディアで書評の対象になるということは、ほとんどない。書評どころか、知識人たちのエッセイに登場することもない。理由はただひとつ、「いかがわしい」からである。 

≪04≫  しかし、「いかがわしい」というだけなら、世界の全刊行書籍のうちのおそらく半分以上はいかがわしい。 

≪08≫  明治以降に西洋思想が流れこんだとき、この内容をうけて日本の原始古代史にあてはめた一連の比較文化研究ともいうべきものの大半が流産してしまった。 

≪09≫  これには、バイロン研究者としては有名な木村鷹太郎が日本神話とギリシア神話の類似に着目して書いた荒唐無稽きわまりない『世界的研究における日本太古史』(明治45年)、無政府主義者で大杉栄らの友人だった石川三四郎が記紀神話のルーツをヒッタイト神話やユダヤ神話に求めた『古事記神話の新研究』(大正10年)、あるいは小谷部全一郎がジンギスカン=義経説につづいて打ち鳴らした『日本及日本国民之起源』(昭和4年)などがある。まだまだいろいろあった。 

≪010≫  いずれも今日ではまったく認められていないが、当時はたいていがベストセラーで、そこそこ学者たちも巻きこまれていた。けれども、その内容の多くは外国語を先駆して読めた学者たちの、あまりにも牽強付会な推理ばかりだった。 

≪011≫  ようするに海外事情に暗い日本人に、日本のルーツを国際化するためかのような眉唾な話をふんだんに取りこんだのである。これでは長持ちするはずはなかった。 

≪012≫  それでもまだ、この手の話は荒唐無稽でも、痛快なところもあった。ところがここに決定的な“事件”が加わった。 

≪013≫  茨城で教派神道系の宗教法人皇祖皇太神宮天津を主宰していた竹内巨麿が発表した「天津教古文書」が、学界からの猛攻撃をうけてしまったことだ。 これがいわゆる「竹内文書」である。 

≪014≫  謳い文句によると、神代文字で綴られていた文書を武内宿禰の孫といわれる平群真鳥が武烈天皇期に勅命をうけて漢字まじりで翻訳したという文書なのだが、当時の三上参次・黒板勝美らの史学者の頂点いる学者たちの逆鱗にふれたばかりか、竹内巨麿がその発表内容で不敬罪で起訴され、さらに岩波の「思想」が昭和11年に狩野亨吉をして「天津教古文書の批判」を書かせ、木端微塵に粉砕してしまった。そういう“事件”だった。 

≪015≫  なにしろ日本の古史古伝には日本神話がかかわっている。安易なあてはめは、良くも悪くも警戒されたのだ。以来、この手の本はなかなか浮上してこなくなる。 

≪016≫  こうして長らく、偽史伝を扱うこと自体がタブー視されてしまったのである。ぼくは偽書や偽史もまたひとつの史書史料であるとおもっているけれど、学界はそういうことを「でっちあげ」として絶対に許さなくなっていった。 

≪017≫  それでも昭和30年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古史古伝書に言及するタブーは少しずつ破られてきた。が、ちょうどそのころに欧米の「失われた大陸ブーム」やUFOブームが浮上し、さらにはヒッピー・ムーブメントに付随したオカルト・ブームが重なってきた。  

≪018≫  あるいはそれまでに、偽史偽書をめぐる本格的研究があってもよかったかもしれないのに、その日はオカルト・ブームによってまたまた遠のいてしまったのである。まあ、いろいろ不幸が重なったわけだ。 

≪019≫  で、本書のことになる。 この本は日本の古史古伝に関しての案内である。むろん著者の言いたい仮説は書いてあり、本書にとりあげた古史古伝をいずれも認めたいという切実なものなのだが、その言い分をむりやり通すという態度は見せていない。 

≪020≫  したがって本書は比較的よくできた日本の偽史偽伝のガイドブックとして読める。偽史や偽書というものが日本でどのように扱われてきたかについてのサポート・レポートにもなっている。そういう意味では珍しい本なのだ。著者についてはぼくは知らないのだが。 

≪021≫  ここで古史古伝というのは、“超古代史研究家”の吾郷清彦による定義づけによめもので、本書もそれが基本的に援用されている。それによると、次のようになっている。 

≪022≫  『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』が古典三書、それに『先代旧事本紀』(旧事紀)を加えて古典四書、別して「竹内文書」「九鬼文書」「宮下文書」を古史三書とし、さらに別の範疇として「上記」(うえつふみ)、「秀真伝」(ほつまつたえ)、「三笠紀」を古伝三書というらしい。 

≪023≫  これがこの“斯界”の研究者たちの“常識”になっている。むろん“斯界”では通用しているが、一般的には、つまり歴史学界では認められていない。それはともかく、ごくかんたんに1行解説をすると、次のようになる。 

≪024≫ ★「神代文字」で書かれたとみられる古史古伝 

≪025≫  上記=頼朝の妾腹の子の豊後守護代・大友能直が関与したというので「大友文書」ともいう。その宗像本といわれる写本を明治初年に幸松葉枝尺が筆写し、それをさらに抄訳した吉良義風の『上記鈔譯』が明治10年に出た。最近になって吉田八郎『上つ記』、吾郷清彦『ウエツフミ全訳』が刊行された。 

≪026≫  秀真伝=平田篤胤が『神字日文伝』(文政2年)の巻末に「疑字篇」に示した出雲に伝わるホツマ文字にあたる文書を、昭和41年に松本善之助が“発見”し、さらに宇和島の小笠原家で完本が見出されたというもの。この完本のもとは近江三尾神社の神宝を天保14年に小笠原通当が『神代巻秀真政伝紀』12巻として著したものだったという。  

≪027≫  三笠記=「秀真伝」同様、宇和島小笠原家で松本善之助が“発見”したもので、「神載山書記」ともいう。やはりホツマ文字で綴られていた。 

≪028≫  カタカムナ文書=上津文字で綴られたとみられているが、どうもこれがカタカムナ文書だと特定できている文書はないようにおもわれる。斯界では楢崎皐月による『カタカムナのウタヒ』を基本資料にしている。 

≪029≫ ★一部に「神代文字」が出てくる古史古伝 

≪030≫  九鬼文書=九鬼家伝来の文書を九鬼隆治が、元大本教幹部の三浦一郎を通して『九鬼文書の研究』(昭和16年)として一部公開したもの。春日文字が見られるという。  

≪031≫  竹内文書=上記にふれたように、昭和10年以前に天津教の竹内巨麿によって公表された。 

≪032≫  宮下文書=富士文書・徐福文書ともいう。三輪義熈が30年をかけて『神皇紀』(大正11年)として翻訳刊行したといわれるもの。 

≪033≫  物部文書=岩手の小保内樺之介が陳述したという『天津祝詞の太祝詞の解説』にもとづく文書。阿比留草文字で綴られたといわれる。 

≪034≫  東日流外三郡誌=つがるそとさんぐんし。津軽の『市浦村史資料編』の中に収録されている。昭和50年に公開されたばかりで、かなり話題になった。寛政年間に編纂されたものだが、ナガスネヒコ(長髄彦)、アラハバキ(荒吐王)を主人公とする物語は興奮すべきものをもっている。 

≪035≫  だいたいこんなふうになっている。異論も異説もあるが、ともかくこういう見取図だ。 

≪036≫  では、これをどう読むかということだが、これらの内容には、さすがにしばしば腰を抜かすものが少なくない。“疑わしい”あるいは“いかがわしい”といえば、いくつもそう見える。しかし、そこをどう見るか、である。 

≪037≫  たとえば「お筆先」をどう見るか。新井白石や頼山陽や徳富蘇峰の記述をどう見るか。秩父困民党蜂起や東京ローズや松川事件をめぐる記述をどう見るか。もっとグローバルにいえば、マタイ伝やカバラ文献をどう見るか。アヘン戦争やイラン・コントラ問題や天安門事件をどう見るか。そういうことにかかわってくる。  

≪038≫  それらはある意味ではそれなりの編集が時間をかけてされてきたことによって、歴史の確固たる文献になってきた。あるいは教典になってきた。あるいは、なりつつある。 

≪039≫  けれども、ここにあがった古史古伝の多くは、未整理であり、他人の手も時間の手もほとんど加わっていない。それに、楔形文字や線文字Bのように、学者たちが解読しようともしない文字で綴られていると主張しすぎている。 

≪040≫  おそらくはそういった理由がいろいろ動いて、これらには何かを訴えるところも少なくはないにもかかわらず、これらは一介の民間史伝者の“よまいごと”として片付けられてきた宿命の裡にあるわけなのであろう。そのため、実は一度は目をむけた人が多いにもかわらず、公然と放置されてきたのだった。 

≪041≫  が、ともかくも本書のようなものに一度くらいは目を通すことを勧めたい。どんな感想をもつかは各自に覗いてもらう以外はないが……。 

≪042≫  とくに本書は、これらの古史古伝文書の成立の経緯とそれに対する批判も案内しているので、この手の本のガイダンスとして読むことを勧めたい。 

≪043≫  著者は古代史研究家で、『謎の竹内文書』『謎の東日流外三郡誌』(いずれも徳間書店)がある。なお、明治期に日本の偽史がさかんに書かれた背景と事情については、長山靖生の『偽史冒険世界』というすこぶる興味深い本があるので、そちらを覗かれたい。 

≪01≫ した した した。 こう こう こう。こう こう こう。
 さあ、この一冊をどう綴るか。ぼくにとっての「とっておきの珠玉の一冊」が十冊ほどあるとしたら、本書がまさにそのうちの一冊である。 

≪02≫  珠玉の一冊であるというには、この作品がひたすら凝縮されたものだということがなければならない。長大なものではなく、織りこまれた一片の布切れのようでありながら、そこからは尽きぬ物語の真髄が山水絵巻のごとくにいくらも流出してくるということである。 

≪03≫  ついで、この作品が日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いていることを言わねばならない。この一作だけをもってしても折口の名は永遠であってよい。したがって、ここには主題から文体におよぶ文芸作品が孕む本格的な議論のすべてを通過しうる装置が周到に準備されているということである。 

≪04≫  次に、『死者の書』がかかえこんだ世界というものが、われわれの存在がついに落着すべき行方であって、そのことを折口がとっくの昔から見据えていたということ、しかもその存在の行方を描くには、いっさいの論争や議論から遠のく視点をもって叙述しなければならないことを知っていたということ、そこにもふれなければならない。 

≪05≫  しかしまた、やはりこの一篇の作品は、折口信夫という桁外れの国文学者であって民俗学者である思索がたまさかもたらした数少ない創作物であって、それをいくら説明したからといって、それとは別の折口の思索が、折口信夫全集全巻としてふんだんに残っていることを言っておく必要もある。 

≪06≫  折口が短歌の、というよりも和歌の、類い稀な名人であることも言う必要がある。琉球の民俗の魂を謳える数少ないアカデミック・シャーマンであったことも、ホモセクシャルな感性を生涯にわたって維持してきたことも、ふれないわけにはいかないだろう。 

≪07≫  けれども、ここでは『死者の書』こそが折口信夫なのである。ここに折口信夫をめぐる以上のいっさいは集約されるのである。ここではそのことだけを記したい。 

≪08≫  『死者の書』の舞台は当麻寺を麓にもつ二上山である。 ここは日本のミステリーラインともいうべき笠置・生駒・二上・葛城・金剛・高野・吉野・熊野のうちの二上にあたっていて、大津皇子伝承や中将姫伝説がのこっている。折口はこれらに取材し、古代の人の観念そのものとなっていく。 

≪09≫  物語は「めざめ」から始まる。太古の雫が「した した した」と垂れる塚穴の底の岩床でめざめたのは、死者である。この死者は射干玉(ぬばたま)の闇の中で徐(しず)かに記憶を呼び戻し、かつての耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。 

≪010≫  死者の姉は伊勢の国にいる巫女だった。思い出せば、死者のおれは磯城の訳語田(おさだ)の家を出て、磐余(イワレ)に向かっていたようだ。そこには馬酔木が生えていて、そのとき鴨が鳴いたのまでは憶えている。姉がおれを呼んでいた。そこへ九人九柱の神人たちの声が聞こえてきた。どうやら藤原南家の郎女(いらつめ)の魂を呼んでいるらしい。 

≪011≫  物語の冒頭は、こうした幽明さだかならない時の境界をゆらめく記憶の断片が、あちらこちらに少しずつ湧き出して、まるで霧の谷の姿がうっすら見えてくるように始まっていく。 

≪012≫  ここで折口は語り部を用意する。 そのころ、日本各地には語り部の一族というものがいた。そして、それぞれが独得の語り方と語り口というものをもっていた。エクリチュールではなく、古代プロトコルと古代モダリティというものである。それをコトワザという。  

≪013≫  たとえば中臣の語り部には志斐語りがあった。古事(ふること)を語る者の様式である。ここ、二上の当麻あたりにも当麻真人に起源する「氏の語り部」が残照していた。いま、うらびれた万法蔵院でも、そうした「前の世」の伝承を姥から聞かされる姫君がいる。中臣藤原の一族が分かれていった話であった。「ひさかたの 天二上に 我がのぼり 見れば とぶとりの 明日香 ふるさとの神南備隠り‥」。 

≪014≫  折口はこの語りのなかで、耳面刀自が大織冠の娘御で、祖父(おおおじ)が南家の太政大臣であったこと、その娘御が大津の宮の人に心を染めていたこと、その昔、天若日子(アメノワカヒコ)とよばれる王子がいて、その複雑無念の経緯(いきさつ)がところどころと伝えられてきたことなどを、とぎれとぎれに説明させる。 

≪015≫  それをどこかで聞いている死者のおれが、またいるのである。死者は蘇りを待っているようなのだ。ただ、その死者には子代(こしろ)も名代(なしろ)も、ついてはいない。ひたすら胸騒ぎが高まるばかりなのである。  

≪016≫  こうして物語はしだいに二上当麻の記憶を整序しはじめる。そのつど月が「こう こう こう」と照る。 そんなところへ小さな事件がおこる。南家の郎女が神隠しにあったのである。藤原仲麻呂(恵美押勝)の姪だった。このときから、物語の目はしばしば神隠しにあった姫君の、さまよう目にも変わっていく。 

≪017≫  ここから先、折口の自身の語りが独壇場である。淡海三船の孫娘が登場し、このとき四十をこえたばかりの大伴家持の慌ただしい周辺が叙述され、義淵僧正や南都仏教の状況が拾われて、額田部の子古(こふる)の仕業が見えてくる。 

≪018≫  読者はやっと、この舞台がいつの時代を「現在能」としているのかを教えられるのである。そしてすべての語りが複式に動いていたことを知る。古代史に詳しい者も、このあたりでやっと折口の意図に応じて愁眉をひらく。 

≪019≫  ここまでが話の前半である。胸つかえるほどの吐息の物語の前哨だ。ところが、ここまでで読者の多くは読み筋をなかば放棄してしまうと聞いた。 

≪020≫  これまでぼくも本書を多くの者に薦めてきたのだが、その薦めに応じて『死者の書』に向かってくれた者の大半が、どうも話の筋がつかめず、しかも古代語が散りばめられすぎていて、なんだかよくわからなかったと言っていた。なかには多少とも折口民俗学を齧ってきた者は、「松岡さん、折口信夫はこの作品にかぎっては混乱しているんじゃないですか」とも言い出した。 

≪021≫  混乱であろうか。もし混乱があるとしたら、それはこの時代の人々の語りそのものの混乱なのである。筋書をもたない者の古事伝承の方法に、折口は従ったまでのことなのだ。しかし、そのように見るのも、実は当たらない。 

≪022≫  ぼくにはこれほど、この時代の世が彷彿としてくる物語を読んだことがないと見えている。それどころか、この『死者の書』の叙述の仕方だけが、古代の魂の物語を知る唯一の縁(よすが)ではないかとおもえるほどなのだ。 

≪023≫  たとえば彷徨する郎女がどのようにして天若日子を直観するかといえば、また大伴家持が多聞天というものとどのように交感するかといえば、まさに『死者の書』の後半が綴るごとくであったはずなのだ。 

≪024≫  物語は後半、中将姫手伝承の渦中に徐々に入っていく。そこに綴られるのは、もはや人の物語ではなく、郎女が織る曼陀羅そのものとなる。  

≪025≫ おそらく折口には、この物語を書く前、このたった一枚の当麻曼陀羅があっただけなのだ。中将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。折口はこれを見つめ、これを読み、そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。そういう意味では、この作品は「古代の音の物語」でもあった。折口が耳を澄ました向こうから聞こえてくる者たちの物語なのである。 

≪026≫  しかし、実際には、折口が見つめていたのは一枚の『山越阿弥陀図』だった。冷泉為恭の筆のものである。このことについては折口自身が『山越しの阿弥陀像の画因』で証かしている。「私の物語なども、謂はば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」というふうに。けれども折口は同時に、「日本人総体の精神分析の一部に当たることをする様な殊になるかも知れぬ」とも書いていた。 

≪027≫  そういうことをいろいろ重ねあわせると、『死者の書』の母型のようなものは、もともとは大正10年ころに折口が『神の嫁』という断片を綴ったときに構想されたものだったということがわかる。『神の嫁』は横佩垣内(よこはきかきつ)の大臣家の姫の失踪事件を扱ったもので、完成はしなかった。 

≪028≫  ところがそれが、いつしか滋賀津彦の出来事をよび、さらに日本の穆天子(ぼくてんし)の状況というものはどういうものかという問題意識とつながって、ついには中将姫伝説の目眩く蓮糸曼陀羅に結晶していった。そこへ山越阿弥陀の美術がまちがって解釈されている記事をあれこれ読んで、これは訂正しなければならないと思ったようである。 

≪029≫  そして、小さな物語を綴ることにした。このように思い立った折口は、「これを綴ることが昔の人の夢を自分に見させてくれた供養になるのではないか」と思ったそうである。 むろん供養だけで、こんなにも記憶語りにおいて確実な物語が綴れるはずもない。おおむね、次のような構想が去来した。 

≪030≫ 折口がこの作品で語ろうとしたことは、日本人がもってきた知識や映像が次々に重なって焼き付けられたときに現れる「民俗」というものである。 

≪031≫  そこにはさまざまな儀式も関与すれば、信仰もかかわってくる。古代の人物の思惑や欲望にもかかわってくる。その内存外来のイメージを、ひとつの物語結界のような枠組においてみる。その枠組は『死者の書』では葛城郡二上当麻にあてられた。日本で最も古い神の伝承をもつ地域である。 

≪032≫  能の『当麻』にもあるように、ここには奇妙な尼や得体のしれぬ化身の人が右往左往する。謡曲なら「朝顔の梅雨の宮」やそこに出入りする化尼である。しかもここには若くして追放された大津皇子の無念の悔恨がわだかまる。そういった二上当麻を追い求めると、しだいに死の香りが漂ってくる。 

≪033≫  そこで折口は、そうした化尼(けに)を語り部の嫗(おみな)に仕立て、そのうえで構想の全貌の入口に一人の「死者の耳」をおくことにした。ぼくが感心するのは、この耳である。 

≪034≫  折口はさらに物語の背景に古代日本人にまつわる二つの観念を埋めこんだ。ひとつは山中他界の観念だった。これは山越阿弥陀や当麻曼陀羅につながっている。もうひとつは日想観である。夕陽が沈むところに浄土があるというものだ。これも浄土曼陀羅につながっていた。そして、この二つが物語をうごかしているという点に、本書が『死者の書』とよばれる根拠も発酵する。 

≪035≫  しかし、これだけでは『死者の書』はできなかった。ここにはやはり「神の嫁」と「女の旅」という民俗がかかわった。本書は日本の女が見た古代の魂の物語なのである。 

日本人の神     大野晋

Ⅰ 日本のカミ 3

カミ(神)の語源 3

カミ(神)観念 3

日本のカミとは 3

支配する神 3

恐ろしい神 3

神の人間化 3

神の人格化 3

カミへの日本人の対し方 3

Ⅱ ホトケの輸入 3

ホトケの語源 3

仏像と仏神 3

仏教の受容 3

神の祭祀 3

僧尼令の禁止事項 3

カミとホトケに対する人間 3

Ⅲ カミとホトケの習合 4

神宮寺と天皇 4

御霊会と権現 4

『源氏物語』のカミとホトケ 4

本地垂迹 4

神道とは 4

両部神道と山王神道 4

伊勢神道 4

吉田兼倶と卜部神道 4

Ⅳ カミとホトケの分離 4

林羅山と山崎闇斎 4

国学の日本研究 4

契沖 4

荷田晴満 4

賀茂真淵 4

本居宣長と日本語 4

『古事記』とカミ 4

ホトケから「神の道」へ 5

平田篤胤 5

仏教排撃と尊王論 5

Ⅴ ホトケのぶち壊しとGodの輸入 5

開国と王政復古 5

神仏分離令 5

廃仏毀釈 5

ゴッドとゼウスの翻訳 5

天主・上帝・神 5

Godと神の混同 5

Ⅵ カミの輸入 5

稲作と弥生時代 5

古代日本語の特徴 5

タミル語と日本語 5

神をめぐる言葉 5

人に害をなすモノ(鬼) 5

化物と幽霊との違い 6

ツミ(罪)・ワル(悪)・トガ(咎) 6

ミ・ヒ(霊、日・昼)・イツ 6

ヲ(男)・メ(女)・ウシ(主人)・ムチ(貴) 6

カミの対応語 6

南インドのカミと日本のカミ 6

Ⅶ 日本の文明と文化 カミの意味は変わっていくか 6

文明の輸入 6

風土と文化 6

日本の文化の特徴 6

神と自然 6