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時代と共に 未来を拓く
P94 そうした説法の特徴をまとめれば、次のようになる。
(一)主に「いいかい、・・・」あるいは「例えばだ・・・」という言葉を前置きにして、具体的にわかりやすい例えを持って説得するという点、
(二)話の場面状況に合わせて表情身振り手振りをふんだんに駆使する(「仕方話」を踏襲する)という点、
(三)より現実感を高める「効果音(擬音語や擬態語)」を用いるという点、
(四)話に挿入する背景描写が事細かで写実的であるという点、
(五)場面描写に際しては、主に「劇的現在」(過去の事柄を今現前で起こっているかのように現在時制で表現する手法)や「体言止め」を用いるという点、
(六)話の中に人物が登場する場合、その人物に成り代わった「直接話法」が盛り込まれているという点、
(七)話の内容は、自分の経験談(主に人生恋愛経験や旅先で見聞きしてきた事柄)、
(八) 聞き手の反応を伺いながらまの取り方にも留意し、説得力を増すために自ら相槌をうって念を押したりする、天性の語り上手な点が挙げられる。
≪02≫ P166 堅気になれるならやはり結婚はできない。本人もそれを熟知しながらも、恋の病に伏すのだけは終生の生きがいとして何者にも譲れない。
≪02≫ P174 さて、告白というのは自分の心の内を包み隠さず打ち明けることであり、それは本意として本音を吐くことである。しかしながら、他人から自分の本音を言い当てられたとしたらどうだろう。まさにそれは本音を吐かれるということであり、不本位で不愉快な気分に陥るのは当然である。
≪04 P179 ところで寅さんは、とある旅の空にある時、雲水から声をかけられて顔に女難の相が出ていると注意を喚起されたことがある。その時には即座にこう答えている。 「分かっております。物心ついてこのかた、そのことで苦しみ抜いております」(笑)
≪04≫ P182 「おじさんは生ま れつき人に親切だ。但し、少々押し付けがましくて、おまけに気が短いから、その親切が仇になって、最後にはもう喧嘩になったりする。いつも人の世話ばかり焼いて、世間では変人扱いされているおじさんだが、僕は近頃なぜかこの人に魅力を感じるんだ」
≪05≫ P182 恋する我が姿が、おじさんのそれとまるっきり同じで無様であることに気づいて打ち明けるセリフである。 「おじさん、世の中で一番美しいものは恋なのに、どうして恋をする人間はこんなに無様なんだろう。今度の旅で僕が分かったことは、もう僕にはおじさんのみっともない恋愛を笑う資格なんかないということなんだ。いや、それどころか今の僕には恋するおじさんの無様な姿が、まるで自分のことのように悲しく思えてならないんだ。 だから、僕はもう、これからはおじさんを笑わないことに決めた。だって、おじさんを笑うことは僕自身も笑うことなんだからな」 さらに男にとっての恋愛観を例えを用い、身を引くばかりで振られっぱなしのおじさんについて二者択一で分析を試みている。
≪07 P182 「つまりさあ、綺麗な花が咲いているとするだろう?その花をそっとしておきたいなあという気持ちと、奪い取ってしまいたいという気持ちが男にはあるんだよ。あのおじさんはどっちかって言うと、そっとしておきたいなっていう気持ちがの方が強いんじゃないかな」
仏教ではそうした恋愛をどのように捉えているのだろうか?
P184 「仏教者にとって愛は憎しみと背中合わせであり、いかなる愛もその中に憎しみを可能性として蔵していると考えられていた。愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなる。それは愛が本質的に自己を愛することを中心としているからである」 本質からして自分を愛する利己的なものそれが愛である。そして愛には憎しみが潜んでいる。というのも愛は裏切られると憎しみに変わる.からであり、可愛さ余って憎さが百倍とも言い、愛と憎しみは紙一重である。しかし寅さんの愛は決して憎しみに変わることはない。そこが大切なところである。 (そこに哀愁が漂う???)
P209 仏教では人の立場に引き換えて一助となることは「四摂法(四摂事)」という四つの徳目の中の一つに説かれている。 一、「布施(教えやものを施し与えること)」 二、「愛語(慈愛に満ちた言葉をかけること)」 三、「利行(善行で他人に利益をもたらすこと)」 四、「同事(人の立場に我が身をおいて助けの手を差し延べること)」 これらは菩薩が衆生を救うために修めていなければならないものとされるがこの中の同事の「同」は相手の立場に同化すること、すなわち自分を対象に準(なぞら)えるということである。他人と同じ状況に我が身を置き換えられて初めてその苦境が分かり、それに相応しい助力を注げる。 因みにこれと同様にその立場を入れ替えて推し量り、最も力説し、何より戒めるものが暴力の否定、不殺生である。
≪11≫ P259
人間としてエコとして最大の貢献はエゴを捨てることである。
≪12≫ P352
仏教では学問上の知識がないのを「馬鹿」と言うのではない。 「馬鹿」という語は元来サンスクリット語の「モーハ」から音写された「莫迦」の当て字である。そして、その当初の意味は「気絶」「悶絶」であり、やがて「無知」「迷い」を意味するようになった。
煩悩の三毒の中の「痴(愚痴。 理非の区別のつかないこと)」に相当するものであり、「無知」は「無明」ともいい、正しい「知慧(森羅万象の真実の姿を見抜くことのできる正邪の判断力)」の無い、真理に暗い状態を言う。 要するに
知識ではなくて智慧のないものを馬鹿と言う。
≪14≫ Pxxx さっきの説明と重複するがもう一度 振り返りたい.。仏教ではこのよう違うといい、そこは煩悩に迷わされる苦しみの世界、現実界になる娑婆であり、欲望が渦巻き穢れに満ちた穢土、他人の迷惑を耐え忍んで生きなければならぬ忍土であって、世間の価値観が支配的な世界である。そうした此岸に対して川を挟んであちら側を彼岸と言う。彼岸はあの世仏の世界理想会にある浄土のことであり人間の価値観は通用せず仏の価値観が存する世界、煩悩のない心の平安を得られる世界である。そして彼岸と此岸との間にある川を渡る船が仏の教え仏教であり、幸せになるためにはその教えを守って此方岸の迷える世界を捨てて彼方岸の安らぎの世界へと渡ればいいのだという、そう説くのが仏教である。