日本とは何か()


表示用スプレッドシート(コラバ免疫サポート)
読書・独歩 目次 フォーカシング

≪01≫  小泉首相の靖国参拝問題に加えて、天皇の皇位継承問題が急浮上している。女帝の即位を認めるかどうかという議論をきっかけに、天皇制そのものをどのように将来の日本に定着させるかという日本人自身への問いになっている。

≪02≫  こうした皇位継承問題の背景には、いまなおひとつの"神話"が生きている。日本の天皇あるいは天皇家は万世一系であろうという"神話"だ。このことを規定したのは明治憲法以前にはない。大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記したことをもって、最初の規定とする。明治憲法には第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とも規定された。

≪03≫  天皇は神の子孫であって、その神聖性がこの国を統治する資格を有するのだから、それゆえ何代にもわたって同一の一族から天皇が選出されるのだという意味である。このような世界に類を見ない皇位継承制度を実現できたのは、まさに第一条と第三条の規定条文によっていた。なにしろ明治憲法それ自体が欽定憲法なのである。規定の詳細は最初のうちは『皇室制規』によって、ついで井上毅らが参画して『皇室典範』によって決められた。

≪04≫  天皇と元号が一致するようになったのもこのときからである。主に岩倉具視の主唱によるもので、岩倉は水戸の藤田幽谷が『建元論』で提唱した一代一号論を採用して一世一元を制度化した。 そんな「天皇の歴史」はなかった。明治がつくったのである。

≪05≫  陽電子が発見されてその研究がすすんだとき、かのファインマンがおもしろいことを仮説した。

≪06≫  ほとんどの粒子には反粒子があるのだが、その粒子と反粒子が衝突すると互いに消滅(対消滅)し、その場にエネルギーが発生する。たとえば電子とその反粒子である陽電子がぶつかると、2つが消えてガンマ線が出る。この反応は物質がエネルギーに変換した例で、世界で最も恐ろしい関係式といわれるアインシュタインのE=mc²から導ける。

≪07≫  物質がこのようにエネルギーに変換されるのなら、この逆のプロセスもおこるかもしれない。事実、ある状況のもとでガンマ線が粒子と反粒子の対に変換することがある。ガンマ線がある条件のもとではガンマ線自身を消失させて、そこに電子と陽電子がひょっこりあらわれるのだ。

≪08≫  ファインマンはこのことを、陽電子が「時間を逆向きに動く電子」になったというふうにみなしてもかまわないのではないかと仮説した。これはおもしろかった。何事にも出現と消滅があるけれど、電子においては突然の時間の逆転が消滅なのである。時間の物理学についてはときどきこういう発想が出てくるから、ふっふっふなのである。

≪09≫  ファインマンの仮説はまだ証明されていない。しかし、このようなことが時間をめぐって許容されているというのは、時間そのものを相手にした議論としては、もう充分なほどの思考実験をしてきたことを告げているように思う。

≪010≫  たとえばブラックホールでは、時間が重力場の外に出ることすらできないと考えられている。そこにはシュワルツシルトの半径という、この世で一番厳格な半径ががんばっている。むろん証明されたわけではない。しかし、時間なんてそんなものではないかと思うのだ。ホーキングはいっとき、ブラックホールが少ないほうが「過去」で、ブラックホールがふえていくほうが「未来」だと考えたほうがわかりやすいんじゃないかと言ったほどだった。大半の科学が扱う時間に対称性が成り立っているからといって、科学が時間の不可逆性にしがみついていることはないのである。ぼくは漠然とそう感じている。

≪011≫  おそらく健全な科学では、時間というものは有史以来、特定の方向に向かって一様に流れているもので、宇宙がビッグバンこのかた膨張していることに由来するというふうに解釈するのだろうけれど、だからといってそれがどんな細部の現象にもあてはまると考えるのは、堅すぎる。そればかりか、生命にとっての時間や情報にとっての時間を考えると、K中間子で時間の対称性が破れたくらいのことは、とっくにおこっているとさえ言いたくなる。ようするに、時間をひとつの線的な現象として扱うのは、そろそろ限界にきているということなのである。

≪012≫  時間を考えるのは好きだ。時間に関する書物もおおむねおもしろい。どのくらい読んできたかわからないが、きっと百冊をこえているだろう。本気で時間の正体を究めたいと思って読んだのではない。緑陰でワッフルやパンケーキを紅茶とともにつまむように読んできた。シロップやバターの出来が悪いのもまじっていた。

≪013≫  インド哲学と蓮の研究で名高い松山俊太郎さんは「時間については500冊は読んだねえ」と豪語したあとに、「ところがね、読めば読むほどとんでもないことになってくるんだよ」と笑っていた。

≪014≫  古代インドでは時間は流れない。そういうことをあらわす言葉がない。「流れる」ではなくて、「静止」「持続」「消滅」があるだけなのだ。だからインド哲学や仏教の時間論は、経典の文中に「静止」「持続」「消滅」の同義語や反意語があるたびに言及されているといっていい。わかりやすいところでいうなら、たとえば「色即是空」という言説ですら時間論なのである。松山さんのようなインド哲学者が500冊の時間論を読んだとしても不思議はなかったのだ。

≪015≫  ぼくのばあいはどうだったかというと、最初に道元の「有時」をめぐる発議やアンリ・ベルクソンの瞬間と持続を対比させた時間論に色気を感じたのがよかったのか、そうではなかったのか、いまとなってはわからない。また、そのころ国際時間学会の会長をしていたジェラルド・ウィットロウの『時間 その性質』(法政大学出版局)や渡辺慧の『時』(河出書房新社)を当初に読んだのが薬効なかったのか、そうでもなかったのかも、判定しがたい。時間ワッフルなら手当たりしだいにむしゃむしゃやってきたぼくの嗜好がそもそも奈辺にあったのかは、いまや時の彼方の出来事の影響というしかないわけだ。

≪016≫  古代人は総じて、時間を循環的なもの、周期的なもの、もしくは円環的なものだと想定していた。また、古代ギリシアにおけるアイオーンやカイロスやクロノスのように、時間といっても民族や地域によってはいくつも種類があった。「永遠」と「瞬間」は異なる時間なのである。サンスクリット語のカーラは時輪と訳せるけれど、あれは時間をバームクーヘンのように重ねて眺められるようにしたものだ。時間は好きに選んだり、積み上げたりできたはずなのだ。

≪017≫  それがだんだん直線的な時間の観念ばかりが大手をふるようになっていったのは、おそらくユダヤ・キリスト教のせいである。とくにキリスト教が天地創造を特定時点での開始とみなしたのに辻褄をあわせて終末論というものをもちこんでから、時間はせっせせっせと直線を流れるようになった。時間は不分明な開始と忌まわしい終点をもったのだ。いまでは紙の上に鉛筆で左から右に向かってさっと1本の線を引き、そこに任意の一点を打って、「ここを現在とするとね」といえば、誰もが左は「過去」で、右が「未来」というふうに認識するようになってしまった。かつてインド仏教では「三世実有」とも「過未無体」とも言ったのに……。

≪018≫  科学において、キリスト教的な時間の流れの見方に乗ったのはアイザック・ニュートンである。ニュートンは絶対空間とともに絶対時間を確定し、tと-t(マイナスt)とのあいだの不可逆を樹立してみせた。

≪019≫  これはその後の科学と哲学の大半をのせる土台になっていく。世の家系図もダーウィンの進化論もこの「時間の矢」の絶対進行を疑わない。世の中の見方も、脱進機のついた機械時計の普及とともにこの矢を疑わなくなった。世界はたった一種類の時間の支配下に入ったのだ。

≪020≫  言い忘れないうちに書いておけば、このことに哲学的反旗をひるがえしたのがニーチェだった。ニーチェの「永遠回帰」の思想とは、キリスト教的な「時間の矢」に対決するためのものだったといってよい。ニーチェには古代ディオニソスの循環時間世界が蘇っていた。

≪021≫  もうひとつ言い忘れないうちに書いておけば、こと時間の科学や哲学に関するかぎりは、ニーチェは線状的なキリスト教型時間を壊すためにわざわざ永劫の循環時間をもちだす必要などなかったのである。いまでは時間の科学は「時空図」というX軸に空間をY軸に時間をあらわしたグラフ上にあらわすようになっていて、そこでは「過去」も「現在」も「未来」も同時に存在しうるようになっているからだ。これはアインシュタインの相対性理論を理解するにはどうしても手放せない。

≪022≫  物理学の法則の大半は微分方程式になっている。微分方程式がわからないではフィジカル・イメージはほとんど描像を結べない。これは科学が扱う物理量の大部分が時間とともに変化しているからで、そのために微分方程式がある。またそのため、科学は「時間とともに変化するものとは何か」をめぐっていくつかの劇的な結節点を迎えた。そして、その結節点のつど、奇妙な時間のふるまいとの闘いが何度も演じられた。

≪023≫  最初の結節点はおそらく数学が「瞬間」や「極限」や「無限小」に立ち向かったときで、これはニュートンやライプニッツが微積分の方法を発見(発明?)して、「限りなく微小な不可分割量」や「生成しはじめる増分」という考え方を白日のもとに引きずり出したせいだった。どんなすぐれた科学もそうであろうけれど、この考え方も当初はかなり分の悪いものだった。知覚の相対性に関心をよせた18世紀初頭の怪僧ジョージ・バークリー(ぼくがいっときハマった『人知原理論』岩波文庫の著者)は、無限小だなんてまるで「死んだ量の幽霊」のようなものじゃないかと揶揄したし、ニュートン力学のフランスへの普及に貢献したはずのヴォルテールでさえ、微積分は「存在さえ考えられないものを厳密にしようとしている技術」だと冷笑した。

≪024≫  しかし、やがて微積分法と微分方程式こそが自然界の摂理を牛耳っているだろうことがあきらかになっていった。いわゆる「ラプラスの魔」の存在だって、微分方程式の全能ぶりに惚れての発案だった。ラプラスは、自然の運動に関するどこか一点の運動方程式がわかれば、その次の瞬間の運動もその次の瞬間の運動も確定できるのだから、宇宙のどこかにはそうした運動のすべてを知っている全知全能の魔物(決定論の魔物)がいるということを“予言”したわけで、この魔物も微積分法が正当でなければその存在は許されないはずなのである。

≪025≫  そのうちコーシーが無限小という厄介を「極限」の概念に替え、さらにワイエルシュトラスがこれを洗練させると、微積分法は迷妄まじりの論理の矛盾を払拭したものになった。そのとき、時間が微分方程式に隠された科学の主語として全世界に躍り出たのである。けれどもここまでは、まだしも数学の冒険が先行していたドラマだった。時間をめぐる最も難解な結節点は、まったく意外なところから、熱力学第2法則によってやってきた。

≪026≫  熱力学第2法則は、「エネルギーを或るかたちから別のかたちに変えるどんなプロセスにおいても、エネルギーの一部は必ず熱となって散逸する」というもので、物理法則のなかではいつも特別扱いされてきて、最も深遠な法則だとみなされてきた。

≪027≫  熱力学の法則は、他の物理法則にくらべて格段の真相を秘めているものではあるけれど、言明していることは明確で単純である。熱力学第1法則の「エネルギー保存の原理」とともにくだいていえば、第1法則は「無から何かを生み出すことはできない」、第2法則は「その収支の辻褄はあわない」と言明したわけだ。第368夜にピーター・アトキンスの巧みな説明があることを紹介しておいた。

≪028≫  そのくらい紛れもないような法則なのに、では熱力学第2法則はどうして時間の問題に立ちはだかる結節点になったのかといえば、近代科学が地球の起源や宇宙の起源や原子の起源の解明に乗り出したためだった。

≪029≫  ジェームズ・ハットンは1795年の『地球の理論』(未訳)で、岩石や鉱物を分析すれば地球は少なくとも数百万年の時間をへてきたはずだと説いて、「現在というのは過去を含んでいるのだ」という仮説を発表した。斉一説という。これをチャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』(朝倉書店)に普遍化して採用し、この『地質学原理』を携えてダーウィンがビーグル号の航海に出て、かの進化論を確立した。地球や地質が時とともに変化してきたのなら、生物もそれに沿って進化してきたと考えたのだ。

≪030≫  これらはこの世のすべての発展・進化・進歩は時間とともに未来に向かっているという通念を世の中に植え付けた。ハットン、ライエル、ダーウィンは正真正銘の自然科学者ではあったけれど、そこには「時間とともに進歩するものがある」という明白な含意があった。進歩思想とでもいうものだ。それを社会の通念としてハーバート・スペンサーやトマス・ハックスリーが抜き出した。そのため近代社会のいっさいの進歩思想を支えるエンジンが、一挙にまわりはじめたわけである。

≪031≫  ところが、時間とともにすべてがうまく進むとはかぎらないのではないかという見方が出てきた。それが熱力学第二法則というものだった。このことに最初に気がついたのは、クラウジウスとともに熱力学の法則を導いたケルヴィン卿ことウィリアム・トムソンである。ケルヴィンは世界を斉一的な時間によって解明するのには無理があると考えた。それは効率の悪いこと、辻褄があわないことが時間とともにおきているという警告だったのだ。

≪032≫  このような熱力学の示唆を社会通念がうけいれるのは容易ではない。いまでも熱力学的な時間のことを理解している社会人なんて、ごくわずかしかいないだろう。

≪033≫  熱力学と時間の関係というのは「エントロピーの矢」をどう考えるかという問題である。「エントロピーの矢」が「時間の矢」や「情報の矢」とどういう関係にあるのかという問題である。

≪034≫  この問題は全物理学にとっても全生物学にとっても、かなりの難問だ。エントロピーの動向は平衡系と非平衡系ではまったく異なる様相となるし、閉鎖系と開放系でも異なっている。生物は非平衡開放系に属しているのだから、たんなる物理的熱力学的な現象とは区別しなければならない。だから、腰を入れて議論せざるをえない問題だ。

≪035≫  まだそういう哲人はあまり出現していないけれど、エントロピーと時間の関係は、科学を成立させている根拠を問題にする哲学にも関与する。それゆえ、時間の正体を究めたいのではなく、時間の議論に遊びたいという意向をもつぼくとしては、こういう問題をとりあげるには、今夜のようなワッフル気分をかなぐり捨てて、あらためて姿勢をたださなくてはならなくなってくる。

≪036≫  それに「エントロピーの矢」がどういうものであるかを理解するには、その前に時間の科学が20世紀になって未曾有の解釈の変更を迫られていたことを知っておかなくてはならない。このことも時間ワッフルを食べるお気楽な気分のままでは書きにくい。でも、そこにふれないでは「時間の矢」は見えてこないだろうから、少しだけ感想を書いておくことにする。

≪037≫  20世紀になって、時間の科学はめまぐるしい変転を見せてきた。次から次へと結節点がやってきた。そのため、ほんとうのところは時間の科学は自立できなくなったというほうがいいほどだ。

≪038≫  たとえば、原子核の物理学を拓いたラザフォードは原子の“生存時間”を問題にしたのだが、やがて量子力学が急速に拡充し、素粒子の相互作用があきらかになるにつれ、時間は極小粒子のふるまいによってあらわされているのではないかという考え方のほうがおもしろくなってきた。「有限」というものを極小に向けて考えようとすれば、その有限をあらわす現象(たとえばベータ崩壊)が時間そのものの発生の出来事に見えてくるからである。

≪039≫  いまさら説明するまでもないだろうが、アインシュタインが特殊相対性理論で披露した時間のふるまいも驚くべきものだった。特殊相対性理論は、「空間的にへだたった出来事には同時はありえない」という理論で、運動状態の異なる観測者によってなされた時間測定は一致しないということを告げた。ある観測者には「過去」であることが、他の観測者には「未来」になることがありうる。アインシュタインは、はっきりそう言明したのである。

≪040≫  これを時間のほうからいえば、時間は空間のなかで伸びたり縮んだりしているということになる。また観測者のほうからいえば、運動している観測者にはそれぞれの「固有時」というものがあるということになる。ここに、2000年にわたって疑いもしなかった「同時」の真実が崩れたのだ。

≪041≫  このとき、もはや時間を時間としてだけ追いかけることが不可能になったのだった。近代科学による時間の科学はここで立ち往生したのだ。物質が時空の曲率や重力場のシワそのものを意味することになったように、時間は空間とくっつき、分離不能のものになったのだ。ファインマンが陽電子は時間を逆向きに動いていると見たのは、電子の動向の裏側に時間がひっついてしまったということなのである。

≪042≫  だから21世紀に純粋な時間の科学だけにとりくみたいということは、あらかた不可能になったと諦めてもよかったのだ。ぼくがあらためて時間論だけを読書の旅から引き出しにくいというのも、このせいだ。むしろ古代に戻って「いくつもの時間」とつきあいなおす気分になったほうがいいくらいなのである。

≪043≫  とはいえ、2000年も続いた時間の観念をニーチェのように古代回帰してすませるわけにはいかない。かなりの超難問ではあるが、科学者たちは「いくつもの時間」の分類と縁組を検討するしかなくなった。それがいいかえれば、いったい、「時間の矢は何本あるのか」ということなのである。もうすこし正確にいえば、時間の方向は何をもってどのくらい区別できるのかということである。

≪044≫  ここで話が戻ってくる。時間の矢の本数を数える段になると、やはり熱力学がもたらす時間、すなわち「エントロピーの矢」が厄介なのだ。この矢は宇宙開闢以来の秘密を握っているからだ。

≪045≫  本書では、時間の方向を区別するには、少なくとも五本の「時間の矢」をもちださなければならないと書いてある。

≪046≫  第一の矢は「宇宙膨張がもたらした時間の矢」である。これはわかりやすい。宇宙の物質が過去には圧縮し、未来に向かって分散していることをあらわしている。

≪047≫  第二の矢は「熱力学の矢」で、これが「エントロピーの矢」にあたる。ちょっとだけ気分をただして、あとで少々案内したい。

≪048≫  第三の矢は「光の矢」で、もうすこし正確にいえば「電磁気学的な矢」ということになる。光を含む電磁波が過去から未来に向かっていることを示す。この矢が少しでも曖昧なそぶりをあらわすなら、過去のどの一点にも信号をおくることが可能になって、ほとんどの因果律が壊れてしまう。タイムマシンもすぐ作れることになる。だからこれが崩れることはめったにないだろう。

≪049≫  それでも1945年のこと、ホイーラーとファインマンはこの矢と宇宙膨張がどこかで関連していることを示唆して、物質がなんらかの理由で時間を“吸収”するという仮説をたてた。おもしろい仮説だったが、いまのところこの見方は証明されてはいない。もし実証されれば、「未来から収束してくる波動」というものを想定することになり、ぼくとしてはまたニヤッとしたくなるのだが……。

≪049≫  それでも1945年のこと、ホイーラーとファインマンはこの矢と宇宙膨張がどこかで関連していることを示唆して、物質がなんらかの理由で時間を“吸収”するという仮説をたてた。おもしろい仮説だったが、いまのところこの見方は証明されてはいない。もし実証されれば、「未来から収束してくる波動」というものを想定することになり、ぼくとしてはまたニヤッとしたくなるのだが……。

≪050≫  第四の矢は今夜の冒頭に書いたような、たとえばK中間子が見せた「人工時空における逆時間の矢」である。このことはもっともっと議論されたほうがよい問題で、K中間子だけがあらわしたものではないはずだ。ひょっとすると、ここには物質の旋回性や対称性の問題がからまってきて、かなり複雑な様相を呈するはずなのだが、モリスは本書ではまったくふれなかった。

≪051≫  第五の矢についても、本書は言及していない。ただ「意識の矢」があるだろうと指摘しただけだった。むろんここにも生物時計のありかからセロトニン(神経伝達物質の一つ)の作用まで、ざっと一ダース以上の時間の区別が認められるはずである。

≪052≫  このほか本書はほとんど話題にしなかったのだが、第五の矢の手前に「生物を成立させている矢」というものが想定されてよく、これは今後の科学が必需品とするだろうと思う。さらにこのあたりの見方を広げていけば、おそらく「情報の矢」というものがあるはずなのである。しかし、この第六、第七の矢を今後に議論するにも、第二の矢にあげた「エントロピーの矢」が掴めなくてはならないわけである。

≪01≫  すでに諸国の守護たちの力は荘園制と土地経営力の消滅とともに衰退しきっていた。これを一言でいえば、日本には中心政府が不在のままだったということになる。 

≪02≫  群雄割拠と一向一揆と土一揆はずっと平行していた。それが戦国時代の特徴である。この平行状態に終止符を打ったのは象徴的には「刀狩り」であろう。こうしたなか、新たな「権力の概念化」が要請されていた。今川や武田の武士団には「家訓」はあったが、その拡張にはまだ手がつけられていない。信長は最初にこれに着手した。 

≪03≫  信長の全国制覇のために打った手は、各領国の武士団と家臣団の制圧、一向宗と一向一揆との対決、イエスズ会士との交流によるキリスト教の統御、堺などの都市支配、延暦寺勢力の一掃、安土城の建設など、きわめて広範囲にわたるもので、その対策も大胆で迅速ではあったが、その国家理念は「天下」「公儀」「天道」といった抽象的なイデオロギーの断片で語られたにすぎなかった。 

≪04≫  自身こそが神仏も第六禅天魔も超える者だと思いすぎた信長についで、秀吉は信長の政策を踏襲しつつ、なんとか東アジア社会における国家のかたちを強化しようと試みた。また一方では豊国神社の起工にあらわれているように、かなり神道を流用して太閤神話を完成させようとした(信長も「總見寺」の建立で自身の神仏化を図ろうとしたが、死ぬのが早すぎた)。しかしそれも秀吉自身の無謀きわまりない大陸制覇の夢とともに潰えた。 

≪05≫  こうした信長・秀吉の未成熟な「権力の概念化」を見ていた家康がとりくんだことは、日本で最初の国家イデオロギーを確立することへの挑戦とならざるをえない。 

≪06≫  オームスの本書はそこに注目する。家康の時代に用意できた汎神論的なイデオロギーと家光や家綱の時代に用意できた儒学的なイデオロギーがどのように組み立てられたのか、そこを外からの目で強引に粗述してみようということである。 

≪07≫ 本書をめぐっては、その後、オームスと大桑斉によってシンポジウムが大谷大学で1週間にわたって開催され、さまざまな議論をよぶことになった。その記録と再編の一部始終は『シンポジウム「徳川イデオロギー」』という本にもなっている。しかしここでは、そうした後日の議論を勘定に入れないまま、本書に拾える重点をぼくなりに尾鰭をつけて案内したい。 

≪08≫  三人の先行者をあげておかなくてはならない。藤原惺窩と林羅山と天海である。三人の関係と徳川イデオロギーの関係はやや複雑だ。 

≪09≫  惺窩が名護屋にいたことは朝鮮文化や朝鮮使節との邂逅をもたらし、とくに赤松広通がアジア趣味の持ち主だったことが影響して、惺窩の目は大陸に向いた。そこで朱子学に目覚めた。しかし、すでにここまでの惺窩には神道も仏教も入っていたわけだから、その思想はしばらくすると儒学的仏教的神道とも神仏的儒学ともいえるものになっていった。林羅山・松永尺五・那波活所・堀杏庵らの門人を育てて後世の人材を育てた。 

≪010≫  人材は育てたが、こうした惺窩の思想が徳川イデオロギーの基盤になったとは考えにくい。なかんずく惺窩の朱子学解釈が徳川イデオロギーになったとはさらにいいにくい。惺窩はむしろ、のちの徳川社会にとっては有効な使い道となったわけではあるが、「聖人の道」についての考え方を拓いたといったほうがいい。オームスはそのへんのことを指摘してはいないが、のちに徳川の世が歪んでいったとき、「聖人の道」が失われていると見えたからこそ、江戸後期に陽明学や水戸学が燎原の火のごとく広がったわけだった。 

≪011≫  林羅山も最初は仏門(建仁寺)にいた。ただ惺窩とちがって仏教に反発して独力で朱子学にとりくみ、22歳のときに惺窩の門に入った。翌年、二条城で家康に謁見して博識を披露して、2年後には秀忠に講書した。 

≪012≫  以降、家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、「武家諸法度」や「諸士法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接、外交文書の起草などに関与した。このように羅山は幕政に深くかかわったのだが、このことと幕府が羅山の朱子学を御用イデオロギーとしたということとは、直接にはつながらない。羅山は僧侶の資格で任用されていたのだし、そのくせ排仏論を展開していたわけである。また惺窩が陸王学(陽明学)にまで視野を広げていたのにくらべると、羅山は朱子の理気哲学に没入していて、理屈ばかりを広げたがった。 

≪013≫  むしろ羅山は徳川時代の最初のエンサイクロペディストだったのである。『神道伝授』や『本朝神社考』では朱子の鬼神論にもとづいて神仏習合思想を批判し、『多識編』では中国本草学を紹介し、『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』では兵学を読解し、『怪談全書』では中国の怪奇小説の案内を買って出た。このように、羅山はあまりに広範囲に学術宗教を喧伝したので、のちに中江藤樹や山崎闇斎らに批判されたほどなのだ。  

≪014≫  だから羅山も、徳川イデオロギーのシナリオを書いたとはいいがたい。羅山が上野忍岡の私邸に塾を開き、その門人が多く輩出したこと、それがのちに昌平坂学問所の基礎になったこと、その私邸の一角に徳川義直の支援で孔子を祀る略式の釈奠(せきてん)をおこなったこと、こうしたことが羅山の御用イデオロギーの準備に当たったというのが、過不足ないところであろう。 

≪015≫  しかし羅山の嗣子となった林鵞峯になると、羅山との共著の『本朝通鑑』、その前の『日本王代一覧』などで、「日本」の正統性が奈辺にあったことを問うて、幕府のオーソドキシーとレジティマシーがどうなればいいか、その突端を開いていた。ここには徳川イデオロギーが少しだけだが、萌芽した。 

≪016≫  惺窩や羅山にくらべると天海は、あきらかに家康の神格化のために特殊なイデオロギーを注入し、駆使した。 南光坊天海が駿府で家康に仕えたのは73歳のときである。そのため天海の影響は象徴的か暗示的なものだと見られがちなのだが、それから30年近く、100歳前後の長命を誇ったことを含め、もし誰かが最初の幕閣イデオローグだったとするなら、天海こそが唯一その立場にあったはずなのだ。オームスもそう見ている。 

≪017≫  天海の生涯は妖怪変化というほどに、怪しくも妖しく、変化にも紆余曲折にも富んでいる。だいたい出身がはっきりしない。蘆名氏の支族三浦氏の出身といわれ、会津を本貫としているようだが、前半生の詳細はまったくわからない。少年期に台密を修め、14歳から諸国の霊山名山を遍歴し、会津の蘆名盛重に招かれてしばらく滞在し、さらに常陸の不動院や関東の諸寺に止住しながら50歳近くに比叡山に入ったという、はなはだ漠然とした経歴が浮かび上がるだけなのだ。その比叡山に入ったところが東塔の南光坊だったので、ともかくは南光坊天海なのである。 

≪018≫  家康に出会ってからは、川越の喜多院の住職や下野の日光山(輪王寺)の主宰を任された。こんな得体の知れない怪僧であるにもかかわらず(いやきっとそうだからこそ)、家康は天海がもたらす「山王一実神道」の理念と論理が気にいった。 

≪019≫  そもそも最澄が比叡山を開創したころは、京都の鬼門には「ヒの信仰」(日枝=比叡の信仰)とともに、地主神の二宮権現と大三輪明神を勧請した大宮権現の、山王二聖信仰というものがあった。 

≪020≫  それが円珍の時代に山王三聖信仰となり、明達が平将門の乱のときこれを日吉山王に祈って調伏したことで有名になった。『梁塵秘抄』ではすでに山王の神々の本地仏が謳われている。中世、この山王信仰が神道説として『耀天記』に採り入れられ、天台教学との結びつきを強くした。さらに南北朝期に慈遍が『天地神祇審鎮要記』を著して、そこへ伊勢神道や両部神道を入れこんだ。 

≪021≫  この山王神道説をもとに、天海が「山王一実神道」を創唱してみせた。天海は、家康を山王の真実(一実)をあらわす東方の権現とみなして東照大権現とし、その大権現はそもそも天照大神を本地とするという論理をつくりあげた。かつて吉田神道が本地仏と垂迹神の関係を逆転させて反本地垂迹説を唱えて成功したように、天海は天照大神に治国利民の法を授けたのが山王権現であり、その山王権現を東において受け取って、それを全国に照射しているのが大権現としての東照家康であるというふうに、畏敬の“筋”を組み立てたのだ。

≪022≫  これはいかにアクロバティックであろうとも、家康がどうしてもほしかった神格化のイデオロギーだった。これこそは信長も秀吉もうまくいかなかった神格の理論付けなのである。しかし家康は死ぬ。 

≪023≫  けれども、このアクロバティックな組み立ては、徳川イデオロギーの起源として、以降200年以上続くことになった。家光が家光の墓所を決めるにあたって、天海の案に従って日光を選び、そこに東照宮を建立して大権現を祀り、さらには日光二荒山に眠っていた補陀落観音浄土のゲニウス・ロキと習合させてしまったからである。東照権現は古来の土地と結びついたのだ。 

≪024≫  こうして天海は、皇室仏教としての天台比叡のイデオロギーを徳川家のイデオロギーに転換してみせたのである。山王一実神道が背景に天台を抱えていたこと、すでに中世にそこに伊勢神道が交じっていたこと、家康が京都ではなく東方に日本の拠点をおこうとしていたこと、これらを天海は見抜いて仕立てたイデオロギーだった。 

≪025≫  このため京都の鬼門に位置する天台比叡を江戸の鬼門にあたる上野に移し、そこに"東の叡山"としての東叡山寛永寺を建立したことも天海のプランになっていた。いま、われわれが見る上野の不忍池は、比叡から見る琵琶湖に当たっている人工池なのだ。 

≪026≫  オームスは、これによって京都は江戸に、朝廷は幕府に、伊勢は日光に置き換わったのだと見ている。むろん事態は容易にそのようになっていったわけではないのだが、天海が注入した権現思想は、かつて信長が望んだ「権力の概念化」の実現そのものとなっていった。 

≪027≫  本書は、徳川イデオロギーが幕府の命令によって形成されたというふうには書いてはいない。徳川イデオロギーは、惺窩の「聖人の道」や羅山の儒学や天海の山王一実神道をブレンドさせながら、家康から家綱におよんだ江戸初期に、のちの200年あるいは300年にわたって各所で唸りをあげるイデオロギー戦線のための、最初の根をはやしたのだ言っている。 

≪028≫  この根はいろいろなところに張りめぐらされた。惺窩の門下からも、羅山の門下からも、また天海の門下の戸隠に拠点をおいた乗因からも、根がはえた。むろん中江藤樹からも熊沢蕃山からも貝原益軒からも根がはえた。そこでオームスがとりあげるのは山崎闇斎である。 

≪029≫  もともと幕府がほしかったのは朱子学がもつ「上下定分の理」というものである。そこに語られる「名分」こそ、徳川社会の原理と合致した。羅山はそれを説くには博学すぎた。鵞峯はなかでは「上下定分の理」を説いてくれそうだったが、まだ甘かった。こうしたときに登場してきたのが山崎闇斎だったのだ。 

≪030≫  闇斎については第796夜にもふれておいたので、ここでは目くじらたてた議論の対象にしないことにするが、そのときは闇斎の弟子の佐藤直方と浅見絅斎のほうを重視したので、今夜はそこそこの案内をしておくにとどめる。ただし、オームスは闇斎こそは徳川イデオロギーの最も重要なところを用意したと言っている 

≪031≫  ちなみに、オームスはもう一人、鈴木正三をあげている。正三は家康の家臣の鈴木重次の長男に生まれた禅僧で、仮名草子の作家としてスタートを切るのだが大坂夏の陣のあとに旗本となって神田駿河台に住み、そのころまったく冴えなかった仏教思想をなんとか浮上させようとした。その禅風は「仁王勇猛の禅法」と、その念仏は「果たし眼の念仏」とよばれ、ぼくはかなり好きな禅僧なのだが、オームスが言うような意味で徳川イデオロギー形成に寄与したというふうにはおもえないので、割愛する。 

≪032≫  江戸初期は、沢庵和尚もその一人だが、こういう傑僧はそこかしこにいたはずなのである。けれどもそれをもって仏教イデオロギーの起爆とするには当たらない。かれらはいずれもソリストだった。仏教を国につなげようとは思っていない。 

≪033≫  山崎闇斎は京都の針灸医の子として生まれた。賢くはあったけれどもかなりの乱暴者だったので、両親がほとほと手を焼いたようだ。そこで7歳で比叡山に入れられ、15歳で妙心寺に移った。ところがなかなか仏教になじまない。羅山もそうであった。江戸時代初期とはこのように、やっぱり仏教がまことに冴えなかった時期なのである。 

≪034≫  その後、闇斎の人生を変える出来事がおこる。闇斎の風変わりなところに目をつけた土佐の一公子が、戯れに土佐の吸江寺に引き取ったのだ。闇斎はそこで小倉三省や野中兼山に出会って衝撃をうける。武士でありながら、儒学を修めていた。とくに兼山が朝鮮朱子学に傾倒して集書していことに感動した。闇斎は居ても立ってもいられずに、土佐南学派の谷時中を紹介してもらって、飛びこんだ。ついに全身で朱子学に服したのである。正保4年には『闢異』を書いて排仏尊儒をマニフェストする。 

≪035≫  その闇斎がたんなる儒者としてではなく、徳川イデオロギーの儒者としてどこが注目されるのかというと、寛文5年から保科正之に招かれてその師をつとめたことにある。 

≪036≫  保科正之は徳川秀忠の三男で、家光の異母弟にあたる。寛永期に信濃の高遠藩を、ついで山形藩を、さらに会津藩の藩主となって幕藩体制成立期の名君と称された。 

≪037≫  家光の死後は遺言によって4代家綱の将軍補佐となり、その後の10年にわたる幕政をほぼ中心的に仕切った。その保科正之を闇斎が指導した。いわば家康以来の朱子学路線はここにおいて、やっと初めて現場の幕政と結び付いたのだ。 

≪038≫  ついでながら、徳川幕藩体制はさまざまな要素が組み合わさって確立したものであるが、そこに3人名君と藩政モデルが出現したことが見逃せない。すなわち水戸の徳川光圀、岡山の池田光政、会津の保科正之だ。こではふれないが、池田光政の「花畠教場」からは、かの熊沢蕃山が出た。 

≪039≫  保科と闇斎の関係には、さらに特筆すべきことがある。家臣の服部安休が二人を吉田神道の奥義継承者であった吉川惟足に引き合わせたことだ。二人は急速に『日本紀』を、日本神話を、吉田神道を、さらには日本の秘密そのものを学ぶ関係になる。  

≪040≫  ここで闇斎が飛躍する。朱子学と神道をドッキングさせたのだ。実はそれ以前から、闇斎は伊勢に詣でたおりに名状しがたいインスピレーションを何度かうけていた。寛文9年には度会延佳や大宮司精長から中臣祓もうけていた。しかしそれはインスピレーションであって、まだ論理でも思想でもなかった。また朱子学とも無縁のものだった。吉川惟足の説明は徹底していた。それを聞いているうちに、闇斎はひらめいた。伊勢神道の奥にひそむものを朱子学の論法によって踏み分けられるのではないか。 

≪041≫  こうして登場してきたのが「垂加神道」である。もともと闇斎の朱子学には「敬」と「道」が生きていた。その朱子学のコンセプトと神道の奥義にひそむものが接近した。闇斎は自分にひらめく考えを「神垂祈祷・冥加正直」の「垂加」を採って、「垂加神道」と名付けた。それは闇斎の霊社号ともなる。吉川惟足が、卜部派の神道には「神籬磐境の伝」(ひもろぎうなさかのでん)を得たものに生きながら霊社号が降りるという秘伝があると言ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。 

≪042≫  闇斎はたんに神秘主義に走ったわけではない。『神道五部書』に狙いを定めて、これを解読していった。そこに「土金の伝」を見いだして、それを「敬」や「忠」に読み替え、それをもって北畠親房の『神皇正統記』に当たって、日本の「道」がどのように系譜されてきたかを調べた。また『大和小学』では、それらの論法で日本神話を解読してみた。そういうことのすべてが垂加神道なのである。ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。 

≪043≫  しかし、これが中国の朱子学とはとんでもなく離れたものになっていることはあきらかである。ただ日本の神々の畏敬に惚れていっただけではないかとも見える。しかし、そうでもなかったのだ。 闇斎は朱子学を日本が咀嚼するとは、中国の事例でなくて日本の事例によらなければならないと確信していたのである。 

≪044≫  垂加神道をこれ以上詳しく説明することは遠慮しておくが(オームスはかなり分け入っている)、こうした保科正之と山崎闇斎が神道にまで入りこんで、徳川イデオロギーとして何を準備したかについては、ちょっと確認しておかなくてはならない。 

≪045≫  思想としては、ここに神儒一体のイデオロギーが出現した。中身がどうであれ、これはまちがいない。次に、中国の朱子学を日本の朱子学にするための、かなり異様な方法が提案された。方法は異様であるが、ここには藤原惺窩の「聖人の道」は日本の為政者の「聖人の道」でなければならず、それは日本の神々の垂迹と合致していなければならないという方針が貫いた。 

≪046≫  それとともに、そこには上から下までの「名分」が通っていなければならないものだった。その名分が通っていく"通り"は、「垂加」するものなのである。この考え方もあまりにも神秘的でありすぎるけれど、そもそも「仁」も「徳」も儒学はそのようなスピリットにもとづいて組み立てられたものなのである。むしろ闇斎はそのスピリットの論理を日本にリロケーションするために儒学と神道を抱き合わせたのだった。 

≪047≫  こうした特別なイデオロギーは、当然ながら徳川社会の理論をつくろうとする者に影響を与えるか、ないしは反発を招くはずである。案の定、闇斎のイデオロギーには批判も出た。しかし、このことはたいそう象徴的な出来事であるのだが、寛文6年にこういうことがおきたのだ。保科正之が闇斎を理解しない山鹿素行を幕府内の反対を押し切って、江戸から追放してしまったのである。保科が『武家諸法度』の改訂を完成した3年後のことだった。  

≪048≫  名君の誉れ高い保科としては、かなり思い切った処置である。しかし、このことこそ徳川イデオロギーがいよいよ実践されていった証しだったのではないかと、オームスは見た。まさに元禄の世になって、幕府は山鹿素行の思想に従った赤穂浪士を断罪したわけである。 

≪049≫  一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。 

≪049≫  一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。 

≪051≫  ついでに、もう一言。垂加神道が逆の作用をおよぼして、新たなイデオロギーを生んだという例も少なくない。その代表的なものが「復古神道」である。 

≪052≫  復古神道というのは、仏家神道(両部神道など)・社家神道(吉田神道など)・儒家神道(垂加神道など)のような外来思想の影響を交じらせた神道ではないもの、古来の純粋な信仰にもとづいた神道(そういうものがあっとしてだが)をさすときにつかわれる用語で、狭義には平田篤胤やその後の大国隆正の神道思想をさすのだが、広くは契沖・真淵・宣長らの神道思想をさすときもある。 

≪053≫  島崎藤村が『夜明け前』で「或るおおもと」を問うたときは、この古来の「おおもと」を問うたわけなのだ。 

≪054≫ 附記¶

本文にも書いたようにヘルマン・オームスの分析は、いまなお議論の渦中にある。あまりにも安易に、また楽観的に徳川の社会思想を見ているのではないかという批判も少なくない。その議論がどういうものであるかは『シンポジウム「徳川イデオロギー」』(ぺりかん社)を読まれるとよい。 

≪055≫  徳川時代の儒学思想の理解は、いずれにしてもかなり難度が高い問題である。たとえば今夜はオームスに従って山崎闇斎をとりあげたけれど、その闇斎から見れば林羅山や山鹿素行が問題になるのだが、これは逆の観点からも見られるわけであって、どうもいちがいに俯瞰できる視点が欠けたままなのである。俯瞰のためには、いまなお源了圓の『徳川思想小史』(中公新書)から子安宣邦の『江戸思想史講義』(岩波書店)までを、田原嗣郎の『徳川思想史研究』(未来社)から澤井啓一の『〈記号〉としての儒学』(光芒社)までを、一気に駆け抜けるしかないだろう。 

≪056≫  なお、天海の山王一実神道についてもあまり研究はないのだが、いまのところは曾根原理の『徳川家康神格化への道』(吉川弘文館)が詳しい。闇斎については原典に当たるのか、「日本の名著」(中央公論社)の現代語訳に当たるといいだろう。サブテキストとしては岡田武彦の『山崎闇斎』(明徳出版社)が詳しい。ついでに"おみやげ"を一冊。秋田裕毅の『神になった織田信長』(小学館)という一冊がある。日本人には『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)よりこちらのほうがおもしろいはずだ。  

≪01≫  読み進んでいたときの緊張と興奮をいまでも思い出す。足利義満が王権を簒奪する直前までの経緯と推理を展開したものだ。著者は、この問題を考えることが「天皇家はなぜ続いてきたか」という難問に応えるためのひとつの有効なアプローチだと思って、長きにわたった執筆に向かっていたのだという。 

≪02≫  あのころのバブルな日本を切り裂くような、充実した一冊だった。この本を読むか、読まないかで、日本を見る目や天皇制度を見る目がかなり変わるといっても過言ではない。あれから15年。いま、自民党政府は何かを急ぐように女帝の誕生を視野に入れた皇位継承の"しくみ"づくりを焦っていて、皇室典範の書き換えにとりかかろうとしているけれど、いったい「皇位」が何を意味するもので、天皇の祭祀が何を抱え、日本の歴史のなかでどのように天皇家が維持されてきたかを知る日本人は、実は極端に少なくなっているはずだ。バブルは経済から別のところへ押し寄せてきていると言ったほうがいい。 

≪03≫  靖国問題で少しは見えてきたかもしれないが、日本ではつねに「象徴」の位置と移動が問題なのである。それが靖国だけではなく、つねに日本史の各所各時におこっていた。かつては天皇の皇位が「王権」の象徴で、それが何度か民間の手にわたろうとしたときさえあったのである。おそらくそんなことなど、まったく考慮の外になっているにちがいない。しかし、歴史のなかの天皇家の存在はつねにそうした激しい動揺をうけていた。ときどきはそこからすべてを考えたほうがいいときがある。そういうときに読む一冊でもあろう。 

≪04≫  本書は義満の王権簒奪計画がどういうものであったかを"立証"して評判になった。けれども現代の日本人には、その"王権簒奪"の意味がわからない。 

≪05≫  それだけではなく、たとえばいま「天皇制」と「天皇制度」という両方の用語をつかったのだが、この国の大前提になっているはずの天皇家の存在や天皇家の祭祀の続行は、はたしてそれを「天皇制」という社会システムとして論じていっていいのかさえ、ちゃんとした見解が確立できないでいる。 

≪06≫  ちなみに著者は「天皇制」という用語が誤解を招くので、まったくつかわないという立場をとった。「天皇制」という用語はスターリン時代のソ連による「コミンテルン32テーゼ」(1932年の国際共産主義運動の綱領)のなかの一表現を、時の日本共産党が訳したときの用語であって、日本の歴史的な天皇制度をあらわす言葉にはふさわしくないという理由である。こういうことも、いまはほとんど議論されていない。 

≪07≫  その天皇制度が、足利義満の王権簒奪計画によっていっとき危機に瀕したのである。これまで歴史家が注目していなかったことだった。この計画は義満の急死によって不成功におわり、宮廷革命も未着手のままになった。しかしそのことがかえって、天皇家の存続の意味を強化し、皇家の維持を守る"しくみ"をはっきりさせていった。天皇家の存続は、義満による王権簒奪計画の失敗から初めて確固たるものになったのではないか。これが本書の告げるところなのである。 

≪08≫  内容をかいつまむ前に、ざっと前提を書いておくと、実は日本の天皇制度では、天皇が現実の政務を執らずに代行者が執政するという例は、古来このかた数多かった。推古天皇のときに聖徳太子が摂政に立った例など、その典型だ。しかし、古代天皇制度ではこれはあくまで例外措置ないしは臨時措置だった。そこにはずっと天皇親政という建前が意識されていた。 

≪08≫  内容をかいつまむ前に、ざっと前提を書いておくと、実は日本の天皇制度では、天皇が現実の政務を執らずに代行者が執政するという例は、古来このかた数多かった。推古天皇のときに聖徳太子が摂政に立った例など、その典型だ。しかし、古代天皇制度ではこれはあくまで例外措置ないしは臨時措置だった。そこにはずっと天皇親政という建前が意識されていた。 

≪010≫  それでも恒常的な律令官制と公卿による議定(ぎじょう)政治のフレームは健在で、天皇が百官に君臨するということには変わりはなかった。 

≪011≫  ところが1086年に白河天皇が退位して上皇による院政が確立すると、律令による太政官制に大きな変更が加わって、まったく新たな政体が誕生した。この政体が南北朝末期に後円融天皇が死去した1393年まで続いたのだ。その後も、後小松・後花園をはじめ現役退位して上皇になった天皇は何人もいるが、権力を保持した例はなく、院政とはいわない。 

≪012≫  院政とは上皇が実権をもって執政することで、この実権者のことを「治天の君」あるいは「治天」という。 

≪013≫  いったん治天による実権政治が始まると、天皇は治天になるための通過儀礼者のように見なされた。歴史学では王族のなかで実権を握った者を「国王」とよぶのだが、それをあてはめていうのなら、院政期における「日本の国王」は天皇から治天に移行したというふうにいえる。白河上皇以降、治天は鳥羽、後白河、後鳥羽というふうに絶頂を極めて、承久の乱(1221)にいたった。 

≪014≫  院政は好むと好まざるとにかかわらず、皇統の二重構造をつくった。それによって権力の延命がはかられたからだ。たとえば安徳天皇は平家一門に拉致されて神器とともに西海に沈んだけれど、治天の後白河は京都にいて神器抜きでも後鳥羽天皇を立てて、皇統とともに王統の延命をはかりえた。もし皇統の維持ということだけを考えるなら、治天をおくことはその延命維持装置になるわけなのである。 

≪015≫  しかしここにおいて、治天は暴走もすることになる。天皇がおとなしくしていても、治天は自由に動ける。それが後鳥羽院がおこした承久の乱なのである。これは失敗すれば二重構造すら危うくなりかねないリスクの高い選択である。治天はあくまで控えていてこそ、初めて皇統の実権を左右することができる。しかし後鳥羽院は鎌倉に軍旗をあげて闘いを挑み、そして完敗した。北条泰時は後鳥羽院以下の三上皇を島流しに処し、宮廷のなかの反鎌倉派を一掃した。 

≪016≫  天皇を動かし、天皇を利用するという立場からすると、こうした治天の失敗はチャンスであった。そしてそこだけをとってみれば、承久の乱のあとの泰時が上皇配流を平然としたということは、もし、その気さえあれば、天皇家を滅亡させることは可能であったことを意味する。しかし泰時はそれをしなかった。なぜなのか。のちの義満とちがってその気もなかったろうが、別の理由があったからだ。 

≪017≫  北条氏は頼朝のような王朝国家の侍大将ではなかったからこそ、天皇のシステムの外から三上皇に苛酷なことを強いることができたのだが、では北条氏の鎌倉幕府が天皇家に代わって日本を統治するだけの実力とネットワークをもっていたかといえば、もっていなかったのである。鎌倉幕府はまだ"東国国家"にすぎず、西については政治的にも軍事的にもほとんど支配を及ぼしていなかったのだ。 

≪018≫  結局、泰時は父親の義時と相談して、持明院宮守貞親王を治天に立てて後高倉上皇とし、その子の堀河天皇を皇位に擁立して王統の再建を扶けた。穏健策の選択だ。その後、北条政権が全国支配を意識するようになったのはやっと蒙古襲来の弘安の役のあとのこと、それでも蒙古襲来であきらかになったように、外交権は治天の側にあるという建前はくずさなかった。 

≪019≫  このような北条政権を見ていて、一挙に現役天皇による“天皇親政”を取り戻せると見たのが後醍醐天皇である。古代の王政を復古するという計画だ。元亨元年(1321)、後醍醐は院政を廃止して、王政を敷こうと決意した。天皇中央集権システムの確立をめざした。しかし、公家や寺社の既得権益を大幅に減らしたため各層から離反され、短時日に瓦解した。 

≪020≫  これで日本の天皇家が真っ二つに割れた。南北朝である。政治家も官僚も真っ二つに割れた。そこで足利尊氏がふたたび院政システムを復活させ、持明院統の光厳上皇を治天の君に立て、その弟の光明天皇を即位させ、幕府を開始させた。これが足利幕府なのである。 

≪021≫  足利幕府の政治システムは、黒田俊雄が名付けた「権門体制」による。公家と寺社と武家が協調しあって全国支配を完遂するというシステムだ。そのトップに治天の君をおき、そこから「院宣」を出す。それ以外の権力は治天にはわたさない。幕府が握る。 

≪022≫  では、改元と皇位継承と祭祀はどうするか。これこそは今日なお天皇制度として残っている天皇家固有の"権限"である。あとでものべるが、ここがはっきりしないと天皇制度はないも同然になる。しかし、これが意外にもジグザグなものだった。 

≪023≫  南北朝の二皇統迭立(てつりつ)の南北朝期を除いた時代はどうだったかというと、改元の権限は形式的には天皇家の権限となっていたものの、実質上は武家が仕切っていた。たとえば1308年の延慶の改元は「関東申し行うに就て、その沙汰あり」と言われたように鎌倉幕府の要請によっていたのだし、1368年の応安の改元は名目上(改元申詞)は天変地妖ということになっているが、実際には将軍義詮の死による“武家代始”だった。 

≪024≫  皇位継承も承久の乱後の三上皇配流が象徴しているように、皇位の決定権はすでに武家に移っていた。1242年に四条天皇の急死で治天の高倉院の系統が途切れたときも、摂政近衛兼経以下の廷臣は関東にお伺いをたてて、数十日の空位を呑んだものだ。このとき廷臣たちは佐渡院宮を推したのだが、泰時は断固として阿波院宮を立てて、それが後嵯峨天皇になった。 

≪025≫  このように北条政権が皇位継承に干渉できたのは、北条氏の政権の位が天皇から補任(ぶにん)されていない執権という位であったためである。これが征夷大将軍という立場になると、なかなか天皇には抗いにくい。しかし北条氏は平気で手を出せた。こうして皇位も武家に左右された時代がジグザグに続いたのだった。伏見宮貞成の『椿葉記』には「承久以来は、武家よりはからい申す世になりぬ」とある。 

≪026≫  ところが南北朝の両統迭立を通過してみると、必ずしも皇位に干渉することが政権の安定につながらないということがわかってきた。室町幕府もできればあまり皇位に干渉したくないという出発をした。それが義満においては皇位簒奪の意欲に転化してしまったのである。 

≪027≫  なぜ、義満にそんなチャンスがやってきたのか。その前に、天皇家がもつもうひとつの「司祭王」としての姿を見ておく必要がある。

≪028≫  祭祀は天皇家に残された数少ない皇室固有の儀礼である。現代でもそれは変わらない。すでに天皇は世俗的権力を衰退させ、後鳥羽院以降は征服王としての実力も失っていた。後醍醐の"偉大な実験"はあったものの、それもあっけなく潰えた。  

≪029≫  こうなると天皇家の側にしてみれば、なんとしてでも祭祀権だけはしっかり守らなければならないということになる。ところが、その維持がどの時代もかなり大変だったのである。ここに、王政を大前提に組み立てられた古代律令制で定められた国家の祭祀と応永9年(1402)の天皇家の祭祀とを比較列挙してみるが、これらのなかのいくつもが各時代において次々に欠陥儀礼と化したのだった。 

≪028≫  祭祀は天皇家に残された数少ない皇室固有の儀礼である。現代でもそれは変わらない。すでに天皇は世俗的権力を衰退させ、後鳥羽院以降は征服王としての実力も失っていた。後醍醐の"偉大な実験"はあったものの、それもあっけなく潰えた。  

≪029≫  こうなると天皇家の側にしてみれば、なんとしてでも祭祀権だけはしっかり守らなければならないということになる。ところが、その維持がどの時代もかなり大変だったのである。ここに、王政を大前提に組み立てられた古代律令制で定められた国家の祭祀と応永9年(1402)の天皇家の祭祀とを比較列挙してみるが、これらのなかのいくつもが各時代において次々に欠陥儀礼と化したのだった。 

≪032≫  上記の『神祇令』の儀礼のうち、応永年間で残ったものはなんと祈年祭・月次祭・鎮魂祭・大嘗祭・新嘗祭のたった四つだけである。そのうちの一代一度の大嘗祭(大祀とよばれた)も、仲恭天皇のように承久の乱の直前に大嘗祭をしないままに践祚(せんそ)した天皇や、南北朝の崇光天皇のように大嘗祭をおこなわないままに廃帝になった天皇も出現していた。 

≪033≫  しかも応仁の乱以降は、大嘗祭をしないままに即位した天皇が次々に出た。今日、一部では大嘗祭と天皇の権威が結びつけられて議論されているようだが、実は歴史的には必ずしもそうではなかったのである。 

≪034≫  ちなみに上記の祭祀儀礼のうち、*印をつけたもの以外はすべて神事である。宮中の財政難によって、これらの費用は頻繁に幕府が用意した。 

≪035≫  さて、以上のような天皇と治天と幕府の事情が進行するなか、足利義満が登場してくるのである。舞台の幕は、将軍義満が14歳、同い歳の後円融天皇が応永4年に践祚、幕政を管領(かんれい)の細川頼之が仕切っていたところで切って落とされる。 

≪036≫  義満が青年に達すると、管領は斯波義将に代わり、後小松天皇が即位して後円融は治天として上皇となった。歴史的にはここが日本史上において、治天の君である「最後の国王」と征夷大将軍である「最初の国王」が相並んだ瞬間になる。 

≪037≫  ここから皇統を必死に守ろうとする後円融と、王権を武家の手に奪取しようとする義満のあいだに、きわめて激しい権力闘争が約10年間にわたってくりひろげられる。 

≪038≫  二人のあいだの詳しい駆け引きと相克とスコアについては省略しよう。その前史は義満が権大納言のころ、天皇在位中の後円融から天盃を賜ったとき、「主上の御酌を取る云々」し、そこに居合わせた三条公忠が「此の如きの例、未だこれを聞かず」としるしたように、かなり横柄で傍若無人な義満の挙動があらわれていたという。 

≪039≫  その後、義満は左大臣に昇り、摂政の二条良基と組んで宮中の儀礼に口を出すようになっていく。後小松天皇の即位の日(大嘗祭)の日程も後円融に相談なく勝手に決めた。永徳3年に先帝の後光厳の聖忌仏事があったときは、僧侶たちが内裏に参入して、公卿や殿上人は義満に憚って参内しなかった。 

≪040≫  こういうことが打ち続くうち、後円融の自殺未遂事件という前代未聞のことがおこる。いろいろ伏線はあるのだが(本書にはそのへんのことも詳しく書いてある)、義満が治天を配流しようという噂が流れたことが引き金になったようだ。後円融は腹に据えかね、ついつい乱心に及んだ。これをきっかけに義満は天皇家が掌握していた王権を奪うチャンスがあると踏んだ。 

≪041≫  義満の王権簒奪計画はかなり手順を尽くしている。たとえば三位以上の公卿が発給できる御教書(みきょうじょ)を巧みに変更して、のちに「義満の院宣」ともいうべきものに仕立てた。院宣を治天以外の者が出せるわけはないのだが、義満はそれを企んだ。 

≪042≫  著者はこれをあえて「国王御教書」とよぶしかないものだと言う。このばあいの「国王」とは「天皇の上にくる令外の官」という意味になる。 

≪043≫  こうした手を国内で次々に打っておいて、義満は明に入貢して国際的に国王と認知される手続きを獲得しようと考えた。明の建文帝の遣使を北山第に迎える手筈を整えたのである。応永8年、義満は表文に「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」と認め、日本の国内が統一したので通交や通商を求めたいと書いた文書を使者に持たせて、中国に渡らせた。翌年、明から返詔が来た。その文中に「茲に爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐(いだ)き、波濤を踰越して遣使来朝す」とあって、義満を狂喜させた。  

≪044≫  義満が明の皇帝から「日本国王」と名指されたのである。義満は大満足だが、その写しを見た大納言二条満基は「書き様、以ての外なり。これ天下の重事なり」と日記に書いた。内心肝を冷やしたことだろう。まったくありえないことがおこったのだ。これでは天皇と治天と義満という3人の国王が出現することになる。応永10年、ふたたび義満は親書を明の皇帝に持たせた。永楽帝に代わっていたが、義満は自身の名称を「日本国王臣源」と記した。義満は3人目の国王になるつもりではなかった。たった一人の国王になろうとしていたのである。 

≪045≫  のちに、この「臣下」をあらわす表現は問題になった。『善隣国宝記』を書いた瑞渓周鳳は、国王と自称するのはともかくも「臣下」としたのはおかしいと批判した。いまふうにいえば"屈辱外交”ではないかというのである。 

≪046≫  実際にも、日本はここに明を盟主とする東アジアの冊封体制のなかに正式に組み込まれたことになる。見返りとして勘合貿易が認められ、明銭が明から頒賜されることになるのだが、一部の公家や僧侶からすると、そこまでして明に謙(へりくだ)ることはなかったというのだ。この問題は、今日の日本にも通じるところがあるのだが、政権の周囲から見ると、誰が盟主であろうとも、外国に屈服しているのだけは許せないという議論なのである。 

≪047≫  しかし義満の狙いはそんなことにあったわけではなかったのだ。義満は中国の冊封体制のなかに入ることによって、日本国内で天皇の上に出ることを成就したかったのだ。計画は着々と進んだ。応永11年には朝鮮も義満を「日本国王」と認め、回礼使・通信使による日朝外交ルートが成立した。義満はこれらすべてを国内宣伝に利用したかった。 

≪048≫  もはやとっくに後円融の出る幕はなくなっていた。後円融は失意のうちに死ぬ。義満は自身で将軍職を降り、みずら太政大臣になると、官位の叙任権に手をつける。官位の授与は祭祀権と並んで朝廷最大の権威の行使であり、天皇や治天の権威が社会に流れ出る最大の効果を発揮するときである。しかし義満はこの権威を剥奪して掌中に入れようとした。  

≪049≫  こうして義満はだいたいの構想を描きおえた。将軍職を譲った足利義持はそのまま幕府の機構の総括を担当させる。弟の義嗣のほうを天皇に据えたい。義嗣は後小松天皇に強く迫って禅譲させればいいだろう。 

≪050≫  なぜそこまで義満が構想してしまったかということは、いろいろ議論が分かれる。著者は義満が後円融亡きあとの後小松を与しやすい相手と見て一挙に事をはこんだこと、叙任権と祭祀権がすでにガタガタになっていたのでそこから手をつけたことの有効性、室町幕府と明の確立の時期がほぼ同じであったこと、後円融の気概が空転していたこと、そのほかいくつかの有利をあげる。 

≪051≫  しかし、本当の理由は義満自身の権力欲が狂い咲きしていたと言う以外には説明は埋まらない。もし義満がもう少し長生きしていたら、日本の天皇制度がなくなっていたかどうかも、むろん議論のしようはない。ともかくも未曾有の天皇乗っ取り事件は、義満の急死によって未遂に了ったのである。 

≪052≫  死後、義満に「太上天皇」の称号(尊号)が贈られたという記録を持ち出す歴史学者と、そんなものはなかったという歴史学者がいて、事件が未曾有のものであったわりには、実は最後の引き際もあまりはっきりしないのだが、また、そこまで義満が皇位に執着したわりには自分の死後のことをまったく伝達していなかったことにも疑問がのこるのだが、こうして当時から「義満僣上」とよばれた歴史は幕を引いたのである。 

≪053≫  そこで問題になるのは、これによって日本の天皇家の存続がかえって強化されることになったということのほうである。 

≪054≫  実際に義満の死後におこったことで目につくのは、守護の人事をめぐって斯波義将が旧来のシステムをさっさと旧に復していったこと、義持が日明関係に関心を示さず、応永18年には国交すら断絶状態になって義持自身は「日本国王」の自称を自粛したこと、その義持が急逝して後小松上皇が急激に力をもっていたことなどである。 

≪055≫  なかでも世襲によって維持されてきた全国の家職家業のしくみが、義満の宮廷革命で崩壊することを恐れた全国官僚の反発が意外に大きく、結局は義満の計画がまるで水を引くように雲散霧消していった最大の要因だったかもしれないと、著者は書いている。歴史学では「官司請負制」とよばれるこの家職家業の任官制度は、のちの明治維新の「有司専制」にいたるまで、またその後の日本の官僚システムにいたるまで、日本の最も根深い社会システムのひとつだったということなのだ。 

≪056≫  もうひとつ、義持が父の義満に対してかなりアンビヴァレンツな感情と憎悪をもっていたことも、その後の天皇制度の復活に陰ながら寄与しただろうとも、著者は書いた。 

≪057≫  やがて将軍が義持から義教に代わると、日本社会はしだいに下克上の機運が高まっていく。応永23年には義持の弟の義嗣が上杉禅秀の乱に連座して殺害され、応永35年には正長の土一揆が勃発した。 

≪058≫  義教の幕府はこれらを抑えるに奸賊征伐の「綸旨」をほしがった。日本社会はここに弱点があったのである。 

≪059≫  強大な政権があるときはいい。道長も頼朝も義満も信長も、こういうときは天皇家をものともしないですむ。しかし、政権が弱体になったとき、その凹凸を整え、社会を沈静できるのはやはり天皇制度なのである。義満の皇位乗っ取りの失敗のあと、足利幕府が下克上の前でほしがったのは、結局は「綸旨」という名に征伐される天皇制度の力だったのだ。これをふつうは「錦の御旗」とよんでいる。 

≪060≫  かつて日本史のすべての場面において、綸旨によっておこされた戦闘はすべて綸旨によって終息してきた。軍事面ばかりではなかった。官位の変更とその定着も、綸旨で始まり綸旨で終わる。 

≪061≫  このような天皇制度の威光は、義満後の日本社会が総じて強化していったものといっていい。嘉吉の乱のような前代未聞の下克上もこの天皇制度があることによってバランスを保った。さらにいうのなら、このあと日本列島は戦国の世に入っていくのだが、そのように全国で城取り合戦が打ち続いても、それでも日本がつねに日本でありえたのは(たとえば海外との均衡を保ちえた)、「国盗り」の国とはべつに、日本に「国王」としての天皇が国を律していたからでもあったと言えるのである。 

≪062≫  いったい天皇制度とは何なのか。日本の祭祀を続けるためのものなのか、官僚制を支えておくためのものなのか。義満の野望の失敗から学ぶものは少なくない。 

≪063≫ 附記¶今谷明の著者はおもしろい。つねに刺激がある。堅いものでは『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店)、『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局)が、柔らかいものでは『京都・1547年-描かれた中世都市』(平凡社)、『信長と天皇』(講談社現代新書)、『武家と天皇』(岩波新書)がある。とくに『武家と天皇』は本書が提起した視点をさらに大きく視座ともいうべきものに定着させた著作として、一読を薦めたい。 

≪01≫ 好きな日本語は「残雪」。 remainig snow? leftover snow? lingering snow? いや、どれも残雪に及ばない。 中原中也賞のビナードが ベン・シャーンのペン画を借りて、第五福竜丸を絵本にした。 これ、日本人がしていないことである。 ああ、ハロー注意報。 おお、東京の山猫大明神。

≪02≫  1954年3月1日、アメリカ国防省がマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験をした。ヒロシマの原爆の1000倍の威力である。キノコ雲は35キロの上空に達し、大量の放射能が風と潮流に乗って太平洋を汚染した。

≪03≫  マーシャル諸島の住民は被爆、ビキニ環礁近くで操業していた日本の漁船の第五福竜丸の23人の船員たちが死の灰を浴びた。かれらは2週間かかって静岡県の焼津に帰港して、この恐怖の体験をポツリポツリと語り始めた。けれども、語りおわらずに死んだ船員もいた。「第五福竜丸事件」という。昭和29年のことだ。

≪04≫  それから3年後、ベン・シャーンが月刊誌「ハーパーズ」に挿絵を描いた。物理学者ラルフ・ラップの第五福竜丸についての記事に添えた挿絵だったが、ベン・シャーンはそれを“Lucky Dragon Series”として連作にした。そして、主人公を第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉にし、次のような一文をつけた。

≪05≫  「放射能病で死亡した無線長は、あなたや私と同じ、、ひとりの人間だった。第五福竜丸のシリーズで、彼を描くというより、私たちみなを描こうとした。久保山さんが息を引き取り、彼の奥さんの悲しみを慰めている人は、夫を失った妻の悲しみそのものと向き合っている。亡くなる前、幼い娘を抱き上げた久保山さんは、わが子を抱き上げるすべての父親だ」。

≪06≫  それから50年たって、アーサー・ビナードがベン・シャーンの絵に詩をつけ、絵本にした。それが本書である。こんなところに“Always”の懐旧はない。

≪07≫  アーサー・ビナードは2001年に、詩集『釣り上げては』で中原中也賞を贈られた。ほうー、そういう詩人が出現したかと、すぐ読んだ。中也より、ずっと社会の響きをもっていた。

≪08≫  この人、いまではちょっとした有名ガイジンである。日本語で詩や絵本やエッセイを書く混血アメリカ人として知られる。混血というのはフランスやアイルランドの血がまじっているせいだ。

≪09≫  が、有名ガイジンであることは、どうでもいい。なんといっても外国語感覚がいい。ミシガン州で生まれ育ってカウボーイに憧れ、中学で陸上に凝り、英語吹き替えの「ウルトラマン」に熱中したのちは、20歳でミラノに行ってイタリア語を、22歳でマドラスに入ってタミル語ととっくみ、東京に来てからでもすでに十数年、日本人よりずっと深々と日本語の「をかし」と「もどき」を味わっている。

≪010≫  謡曲もやる。『羽衣』をお披露目したそうだ。落語も好きだ。ちゃんと三遊亭円窓について稽古もしたし、前座として「猫の皿」の一席をしたようだ。翻訳はもちろん玄人はだし。いわむらかずおの傑作絵本『14ひきのシリーズ』の翻訳をし、山之口貌の『ねずみ』の翻訳にも、菅原克己の現代詩にも挑戦する。 何冊かのエッセイ集の内容も、日本語の「妙」を題材にしていることが多い。

≪011≫  青森が好きで青森にはよく行くそうだが(百足町の町づくりにかかわってもいる)、津軽弁でいう「えぱだ」に感じ入っているのだ。「えぱだ、さびさね」と言えば、「妙に淋しいね」という意味になる。

≪012≫  ビナードは、日本文化や日本語がもつ、この「えぱだ」が好きなのだ。だから、正体の知れない日本語にぶつかると色めいてくる。ゴキブリの語源が「御器かぶり」にあることを知って狂喜した。

≪013≫  エッセイ集のひとつ『日本語ぽこりぽこり』は、講談社エッセイ賞をもらった。その前の『空からやってきた魚』には俳句まがいの句、短歌まがいの歌も随所に詠まれていて、ほほえましい。

≪014≫  俳号もつけた。アーサーをもじって「朝田男」「朝之介」、好きなアメンボにちなんで「水蜘蛛」「あしたか」「飴坊」などなどを考案したが、「飴坊」はアメリカを揶揄したようでまずいなとか、いろいろ悩んだすうに、自転車がめちゃくちゃ好きなので「ペダル」にした。

≪015≫  この俳号は実にいい。もっとも苗字を何にしての「ペダル」なのか、そこを知りたいが。で、ペダルはこんな句を詠んだ。「冬の川 たが自転車か たが靴か」。いまは40歳になっている。

≪016≫  そういうアーサー・ビナードが、あるときベン・シャーンの第五福竜丸の悲劇を描いた絵を知って、絵本にしたのである。そのまま紹介したほうがいいだろうが、全部を引用するのは版元に悪いので、ちょっと覗き見してもらおう。

≪017≫  最初に、「ひとは 家をたてて その中にすむ」とあって、鯉のぼりの絵がある【1】。いい絵だ。次に「ここ 日本の 焼津という まちも 家がいっぱい」で、「マグロは いつも およいで とまることはない。マグロの すむ家は 海のあちこち」【2】となって、焼津漁港のすばらしいスケッチになる【3】。

≪018≫  ここから漁師たちのプロフィールに入って、「1954年1月22日 第五福竜丸という りっぱな船に 23人の漁師がのって 焼津の みなとから 海にでた」【4】となって、死の灰に出会うドラマに漕ぎ出していく。こうして「いきなり 西の空が まっ赤に もえた」からは、被爆の現場を描く場面と文章になっていく。なかで、久保山愛吉さんの2枚の肖像画が対比されているところが、胸を打つ【5】。歴史に残響する強烈な肖像だ。

≪019≫  最後に「ひとびとは 原水爆を なくそうと 動きだした。けれど あたらしい原水爆を つくって いつか つかおうとかんがえる ひとたちもいる。実験は その後 千回も 2千回も くりかえされている」というふうに静かに告訴し、見開きいっぱいに「どうして 忘れられようか 畑は おぼえている」【6】と括ると、ベン・シャーン得意の麦畑が広がるようになっている。ざっと、こういうものだ。

≪020≫  ベン・シャーンについては、あれこれ説明するまでもないだろう。リトアニアに生まれて、20世紀早々に移民の子としてアメリカに移住したのが7歳のとき、その後は石版工として働きながら、ニューヨーク大学、ニューヨーク市立大学に学び、ナショナルアカデミーでデザインを習得した。

≪021≫  時代は世界大恐慌の真っ只中。ベン・シャーンは欧米社会の矛盾を絵にしたいと思った。ドレフュス事件を描いた。画壇はその絵にドキッとした。とりわけ1931年からおこったアナキストのサッコとヴァンゼッティの裁判や、労働運動家のムーニイの投獄に逆上して、「声なき慟哭」をあらわしたともいうべき連作を発表したことが話題になり、その後は、その独特の手法と主題によって、多くのクリエイターの社会性を打撃しつづけた。

≪022≫  日本語になったものなら、バーナーダ・シャーンが編集した『ベン・シャーン画集』(リブロポート)を見れば、その絵の意図のすべてが伝わる。日本では粟津潔さんが強烈な影響をうけている。

≪023≫  そのベン・シャーンの数々の絵を、ビナードはまともに背負って(引き受けて)絵本にした。なんら変化球にしていない。そのまま受け止めた。しかも余韻をのこすことに腐心した。そのことは『ここが家だ』というタイトルにも表象されている。この感覚がみごとだった。

≪024≫  ぼくはこういうコラボレーションを見ると、胸がいっぱいになる。原水爆反対の絵本だから胸がいっぱいになるのではなく、一人の画家の連作の絵が一人の詩人の絵本になったことに、ときに嗚咽する。しかも、このコラボレーションは実際のコラボレーションではない。時代をまたいだコラボレーションなのだ(ベン・シャーンは1969年に死んでいる)。

≪025≫  ぼくは「遅ればせ」という言葉が好きで、いつかこのことを説明する日もあると思うのだが、この数年をかけて構成した「ジャパン・マザー・プログラム」の100ステップくらいの次第のなかにも、この「遅ればせ」を入れておいた(実はいま、小布施に住んでいるハート・ララビーさんに英訳をしてもらっている)。

≪026≫  「遅ればせながら、私儀、只今、やはり参上致しました」。これが大事なのである。準備ができれば、いつだっていい。いくら遅ればせだっていい。そこに参上するべきなのだ。「遅ればせ」は「遅れ馳せ」。そこに駆けつけることをいう。

≪027≫  いまからでも、コラボレーションをやるといい。時代をまたいだコラボレーションは、やろうと思えば、誰でもできる。相手はプラトンからジョン・レノンまでいる。空海から北園克衛までいる。誰と組んだって、いい。その成果を出版したりCD化するとなると許可も必要になるが、それも努力次第だ。いつか許可もとれるだろう。なによりも、自分がうけた感動をなんとか新たな物語や音楽にしてみたいと思うことが重要だ。

≪028≫  なぜアーサー・ビナードがこういうコラボレーションができたのかといえば、きっといろいろ理由があっただろうが、やはり心を打った日本語の短歌や俳句や詩を、納得のいく英語にしたいと思いつづけ、それを試みてきたことが大きかったのではないかと思う。

≪029≫  たとえば、ビナードはあるとき宮柊二の短歌に出会って、おおいに感心した。「自転車を道に駆りこし修道女えごの木下(こした)に降りて汗拭く」。これは自転車大好きなビナードだから感心したともいえるが、次の2首に唸っているのは、さすがだ。

≪030≫   藤棚の茂りの下の小室に     われの孤(ひと)りを許す世界あり  あたたかき饂飩(うどん)食ふかと吾が部屋の     前に立ちつつわが妻が言ふ

≪031≫  ビナードは日本語をたんに読んでいるのではない。翻訳しようとしているのでもない。真髄に迫ろうというのでもない。その表現の「本来」から、自分を含めた社会の「将来」を見据えている。そのための翻訳コラボレーションなのである。ここが、たいしたものなのだ。だから本気のコラボレーションができる。

≪032≫  ということは、安易な妥協をしていないということでもある。たとえば、斎藤孝の『声に出してみたい日本語』を買って読んでみた。好きな能の文句も出てくるので、嬉しくなって声に出してみたら、『高砂』や『鶴亀』の解説のところで、「どちらもとことんめでたい状況を歌っている。覚えておくと、めでたい席で使えて便利だ」とあるのに、おおいに失望した。能をチラシ広告の文句のように「使えて便利だ」などというシンケイが信じられないと怒るのだ。

≪033≫  こうした“有効本”の全部が悪いわけではないが、その多くがどこかインチキくさいことくらい、本当は日本人がとっくに気がついていなくてはいけない。それはたいていベストセラーになる。『日本人のしきたり』とか『日本のこころ』といったたぐいの本でも同じこと、遅ればせでもいいから、気がつきなさい。

≪034≫  では、最後にアーサー・ビナードが全身でぶつかっている「日本」の一例を紹介しておこう。それは、「火鉢」と「七輪」(七厘)の差はどこにあるかという問題だ。どうやら、いまなおこの問題に深入りしているようだ。しかし、このちがいの「あわい」にたゆたいつづること、これがアーサー・ビナードの「家」なのだ。結構、結構。

≪035≫ 附記¶アーサー・ビナードの著書をどうぞ。詩集『釣り上げては』(思潮社)、絵本に『はらのなかのはらっぱ』(フレーベル館)。翻訳絵本に『ダンデライオン』『どんなきぶん?』(福音館書店)、小熊秀雄『焼かれた魚』(パロル舎)、『カーロ、せかいをよむ』(フレーベル館)、いわむらかずお『14ひきシリーズ』(童心社)。エッセイ集では『出世ミミズ』(集英社文庫)、『日本語ぽこりぽこり』(小学館)、『空からやってきた魚』(草思社)、『日々の非常口』(朝日新聞社)など。いずれも、いつ読んでも味が利く。遅ればせで、いい。

≪01≫  日本の「王権」をめぐる論考パラダイムは、網野善彦あたりを嚆矢に、赤坂憲雄・今谷明らの研究の出現によって一挙に確立された感があるが、それとはべつに長きにわたる天皇制をめぐる議論のパラダイムというものがあった。ところが二つのパラダイムはまったくといってよいほど重なってはこなかった。

≪02≫  実は天皇制度のほうも、近代以降の天皇制の確立を問題にするものと、近代以前の大嘗祭などのしきたりを研究する二つの系譜に分かれてしまっていて、ほとんど交じらなかった。困った傾向なのである。

≪03≫  本書は、30代前後の研究者が鈴木のもとに集まって編集構成されたものだけに、いささか深みと一貫性に欠けるきらいはあるものの、従来のパラダイムを破ろうとする意気ごみがはっきり感じられた。一言でいえば、「王権」と「公」(おおやけ)の関係が民族的な公共性の発現とともにつくられていったことを、どのように説明できるのか、その点への挑戦が試みられている。

≪01≫  七〇年代半ば、渋谷の東急本店裏通りの借家、通称ブロックハウスに七~九人の男女と暮らしていたことがある。みんなが持ち寄ったもので日々を凌ごうという最低限共用ライフスタイルを試したのだが、一番集まったのが本とレコードだった。本ではマンガが圧倒的に多かった。 

≪02≫  子供のころに買ってもらったマンガも次々に持ちこまれたので、手塚も杉浦茂も『サザエさん』も水木しげるも『あしたのジョー』もあった。なかで女たちは山岸凉子、萩尾望都、土田よしこの『つる姫じゃ~っ!』、大島弓子、大和和紀『はいからさんが通る』などにご執心で、男たちは諸星大二郎の古代中国もの、つげ義春、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』、雁屋哲・由起賢二の『野望の王国』、花輪和一、丸尾末広などを固唾をのんで読んでいた。 

≪03≫  ブロックハウスには当時のパンクアーティストがのべつ訪ねてきていたが、かれらも深夜までマンガに熱中していた。そんなふうだったので、この時期はぼくもマンガ漬けになっていた。 

≪04≫  八〇年代になると、「少年ジャンプ」が三〇〇万部に達し、『キャプテン翼』『キン肉マン』『北斗の拳』『ドラゴンボール』の連載が当たりに当たる一方、大友克洋の『AKIRA』、高橋留美子の『めぞん一刻』、吉田秋生の『BANANA FISH』、さらには高野文子、三浦建太郎、井上雄彦が気を吐いた。「ジャンプ」は四〇〇万部を超えた。一方では、日本の大学から文学部が消えはじめていた。 

≪09≫  本書はこの手の本にしては大著だ。のちに国際交流基金賞をとった。いろいろな指摘・分析・推理・紹介がつまっている。多くのマンガ情報はこの本で初めて知った。ぼくのマンガ無知をいやというほど知らされた。 

≪010≫  それはそうだろうと思う。フレデリックが手塚を英語に訳したときは、右開きか左開きか、コマおくりをどうするか、オノマトペを訳すかどうか、すべてが暗中模索で、結局はアメリカの版元から「アメコミ調」にすることを求められたのだが、それではまったく理解されなかったのだ。それを手塚マンガを徹底的に“移行”するように試みてやってのけたのだから、さらにはその試みを赤塚不二夫から池田理代子にまで広げていったのだから、日本マンガに詳しくなるのは当然だったろう。ぼくが知らない業界事情や制作事情もいろいろ書いてある。 

≪011≫  たとえば六〇〇ページ一三〇万部の「コロコロコミック」のスローガンは「勇気・友情・闘志」と決まっていたらしい。五〇〇万部の「少年ジャンプ」の読者アンケートによる三大キーワードは何か。「友情・努力・勝利」らしい。なんと、ほとんど同じなのである。同性愛で押す「June」(ジュネ)はその成功を次々に分岐させて、「小説June」「ロマンJune」「コミックJune」に分化した。なぜ同性愛マンガが当たるかは、この路線をつくってきたサン出版の佐川俊彦がその秘密を明かしているらしい。「男同士の恋愛ものはキャラクターが女性が望む男性像と女性をミックスしてある。このようなキャラクターには、女性が女の欠点だとおもっている嫉妬深さなどを取り除いてあるんです」。ふーむ、なるほど。かくして少女マンガ誌は一九九五年時点で四五誌、レディスコミック誌は五二誌におよんだのである。 

≪012≫  本書には当然ながらマンガ家もぞろぞろ出てくる。著者がとくに注目しているのは次のマンガ家である。その選び方がおもしろい。あれこれ解説されてはいるが、一言批評を超要約しておいた。マンガ家に付いているフレデリック流の吹き出しのようなものだと思ってもらえばいい。本書に登場する順にしておいた。 

≪013≫ 漫画家一覧 

≪014≫  つげ義春を日本のウィリアム・バロウズに比肩させるなど、片寄りかげんに唸らせるところも多々あるが、総じて本書の議論はゆるやかなものが多い。ここまでガイジンがカバーしていることには驚くけれど、それがそんなに偏執的ではないことも、すぐわかる。あまりに日本マンガを愛しすぎたためだろう。 

≪015≫  これは何かに似ている。どこかわれわれの近くにある感覚に似ている。何だろう、何だろうと左見右見しているうちに少し気がついた。これは、日本人がセザンヌやシャガールやミロを見る目に、またはゴダールやジム・ジャームッシュやタランティーノを見る目に近いものなのだ。著者はその該博な知識をもって、次の著作では日本人が見るバスキアやハンス・ベルメールの目付きになってもらいたい。 

≪01≫  大胆にもたった十箇条のモナドロジーに集約してみたが、ここに天心の『茶の本』の精髄はすべて汲みとられていると思う。こういう要約はぼくには自信がある。ただしここにあげたのは天心の言葉(翻訳)そのままだ。だから十ヵ所の文章を切り取ったといったほうがいい。読みとりはいくらも深くなろう。たとえば01は欧米の日本を見る目にたいする痛烈な皮肉であり、03は茶の湯の特色を「生の術」「変装した道教」と言い切ったのであるが、また09ではそれを「無始と無終の即興劇」と見抜いたのだが、そう言われて愕然と納得できるものが、むしろわれわれに欠けつつあるといったほうがいい。 

≪02≫  驚くべきは08で、「数寄」あるいは「数寄屋」を一言で「パセイジ」と喝破しているところ、この第908夜ヴァルター・ベンヤミンふうの断条などぼくはこの20年にわたっていろいろな機会を通してつねに強調してきたことだが、それを得心できる学者も茶人もまことに少なかったのである。数寄とは、好くものに向けて多様な文物の透かしものを通過{パセイジ}させていくことなのである。それを二つの櫛の歯を空中で互いに交差させるように実感することなのだ。しかし、以上の十箇条のなかで最も天心の美学思想を天に届かせているのは、10の「不完全」をめぐる瞑想的芸術観であろう。これは、往時は第850夜与謝蕪村や浦上玉堂に発露して、のちのちには第356夜堀口捨巳やイサム・ノグチに飛来するまで、日本人がついぞ世界にむけて放てなかった哲学だった。天心はそこを、「想像のはたらきで未完成を完成させるのです」と言っている。 

≪03≫  たった十箇条にしてみても、『茶の本』において天心が月明の天空に放った矢は十戒のごとくエメラルド板を穿ったのだ。 

≪04≫  そもそも『茶の本』は虫の翅のように薄い一冊である。原文は英文でもっと短い。ここにとりあげた村岡博訳の岩波文庫で、本文は60ページに満たない。しかしながらここに含蓄された判断と洞察はいまなお茶道論者が百人かかってもかなわないものがある。 

≪05≫  そこで推理すべきは、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたかということである。それをどんな覚悟をもって端的に濃縮しきれたのかということである。 

≪06≫  けれども、それを推理するのはたいそう難しい。たとえばぼくには、天心の文章についてはほとんど読みきったという自負がある。ぼくが最初に買った全集は内藤湖南・南方熊楠に並ぶ岡倉天心全集で、以来このかた、その文章はひととおり読んできた。なかには数度にわたって読んだものも少なくない。評伝や評論のたぐいも目につくものは片っ端から読んだ。第289夜松本清張の天心論はいじわるで、大岡信のものはやさしすぎた。参考になったものも少なくないが、それにもかかわらず、言いたいことが天心の濃縮とは逆を進んでいるせいなのか、『茶の本』の要訣を結ぶようにはいかないのである。横溢感もしくは欠乏感がありすぎるのだ。 

≪07≫  それでも、それを搾って絞って言っておくべきことが何であるかは、だいたい見当がつく。それをここにごく少々お目にかけたいのだが、その前に、このように天心がぼくに近寄った理由の一端を先に書いておく。 

≪08≫  かつてぼくは、天心を理解するにあたって五浦(いづら)に行かなくてはならないなどとはおもっていなかった。それまでは『茶の本』『東洋の覚醒』『日本の覚醒』をこの順に読んで、胸の深部に太い斧を打たれたような衝撃を感じはしていたが、その天心の実像や思索の内側に入りこもうという気分はなかった。それが26歳の早春、思い立って上野から常磐線急行に乗って勿来(なこそ)へ、勿来からバスを乗り継ぎ平潟(ひらかた)を抜けて五浦を訪れた。天心を知り尽くしたいと思ったのだ。 

≪09≫  五浦は、日本美術院研究所の跡を示す一本の石柱と天心旧居跡と墓所と天心記念館が風吹きすさぶ茨城の海岸を割っていたばかり、まさに茫漠と懐旧に浸るしかない風景だった。何もなかったといってよい。鉄筋コンクリートの記念館は寂しすぎたし、天心が愛した釣舟「竜王丸」も朽ちかけていた。なにより天心がいない。天心だけでなく、観山も大観も春草もいない。そこからはいっさいの体温の記憶すら消し去られていたかのようだったのだ。それは、まるで「われわれはかれらのことをもう忘れました」と言っているかのようだった。 

≪010≫  若すぎた早春の勝手な感想ではあったけれど、こういうときに小さくも衝動的なミッションが到来するのだろうか。ぼくは自分で自分なりの天心を復活させ、五浦から失われたものを自分の内に蘇生させなければならないと思ったのだ。すなわち、五浦に開く茫漠たる「この負」こそがぼくが継承すべき哲学や芸術や、そして五浦にかかわった天心・観山・大観・武山・春草の勇気そのものの空気だと感じられたのだ。  

≪011≫  それからどのくらいたったか。天心とその周辺の逆上をやっと語れるときがきた。40歳をすぎていた。しかしなんとかそうなるには、斎藤隆三と竹田道太郎が別途にしるした分厚い『日本美術院史』に記載された大半の出来事と人物の隅々ににわたる交流のこと、天心が文久2年に生まれて大正2年に52歳で死ぬまでの、明治社会文化の根本的な動向と、そして見えにくい細部の経緯をあらかた身につける必要があったのである。天心をうけとめるとは、こんなにも辛いものかと思ったものだった。 

≪012≫  それではごくごく手短に、できるだけわかりやすく時を追いつつ書くことにするが、天心には「境涯」という言葉がふさわしいので、その「境涯」を折り紙したい。 

≪01≫ 読書にはリーダビリティが起伏する。 読み手の都合を持ち出すのも、読書なのである。 とするのなら、小杉天外は氷室冴子の少女小説で、花袋の『蒲団』は知り合いになりたくない男の話。 『城の崎にて』は名文なんかじゃなく、実篤の『友情』はただの妄想の産物で、『智恵子抄』は傲慢の成果にすぎなくなる。 本書は名うてのプロの本読みが、明治以来のベストセラーを片っ端から俎上に上げた辛口談義。 こういう読み方があることを、感じてほしい。

≪02≫  本を読んでいると、中身やテーマや物語の進行の興味とはべつに「手抜きをしたな」「これはしんどい」「いいかげんにしろ」「このくだりは抜群だ」「この調子は読みたくない」「なんだよ、そうくるのかよ」「やられた」「いい気なもんだ」という気分がしょっちゅうおこる。

≪03≫  映画やテレビドラマを見ていても、そういうことはのべつ気になるけれど、映像作品は上映側が鑑賞スピードを管理しているので、面白かろうと退屈だろうと、まだしも次々に事態が進むのだが、読書はそうはいかない。すべては読み手の負担になってくる。そこで途中で読むのをやめてしまったり、それでもガマンをして読み続けたりする。

≪04≫  この裏切られた気持ちを断ち切るだけでも、疲れる。著者というもの、6~7割は一人よがりか、手抜きをしている。この不備と横着は読者に押し付けられるのだ。とくに評判作やベストセラーと付き合うのは、とんでもなくしんどい。そういう本にはロクな本がないからだ。逆に、難解であってもスイスイ読めることもあるし、長編を読んでもあっというまに時間がすぎることもある。

≪05≫  つまり読書には必ずリテラルテイストというものが付きまとうのだ。買いたてのセーターを腕に通したときの感覚、評判のラーメンの最初の一口で麺を食いちぎったときのテイスト、その町を歩いてみたときの空間体表感覚。そういうものが必ずや感じられてしまう。

≪06≫  これは読み手からいえば「リーダビリティ」(読感度)ともいうもので、ひらたくいえば「読み応え」のことだ。

≪07≫  読んで応えてあげるのだから、「読み応え」は、当然、読み手当人の感知感覚感度にゆだねられている。だったら実感をがまんする必要なんて、ない。著者が何を書こうとも、まずいものはまずい、えぐいものはえぐいのだ。

≪08≫  本書は、そういう読書のリテラルテイストやリーダビリティを、二人のプロの本読みが歯に衣着せぬ口調で喋りあった「編年順ベストセラー診断談義」だ。

≪09≫  明治から現代までの売れ行きトップ本を、1年ずつ時代順に次々に歯牙にかけていくという手抜きのない進行になっている。めっぽうおもしろい。

≪010≫  二人の本読みは岡野宏史と豊崎由美。これは絶妙なダブルスだった。対談形式をのこしたのもよかった。ボケとツッコミよろしく、軽いノリでロール交換しながらの丁々発止が、この本自体のリテラルテイストを軽快にした。数年前の「ダ・ヴィンチ」に連載された。

≪011≫  明治以来の100冊以上のベストセラー1位の本を俎上にのせているが、以下はその一端だけしか紹介できない。できるだけ岡野と豊崎の口調のまま“プチサマリー”しておいたけれど、実際のテイストは現物本を手にとってもらうしかない。ぼくには、豊崎の寸鉄が肌を刺して心地よく、岡野の踏み堪え発言がいろいろ参考になった。

≪012≫  ちなみに数字はベストセラー時の年号、(→)内はぼくの余計の一言。タイトルは言うまでもないだろうが、ガルシア・マルケス(765夜)の『百年の孤独』のパロディだ。では、どうぞ。

≪013≫  ◆1900徳富蘆花『不如帰』(ほととぎす)。黒田清輝の挿絵入りで発売された大衆小説。脱力するほどベタな構図だが、意外なほど楽しく読めた(→ラノベとは志が違うからね)。 ◆1901国木田独歩(655夜)の『武蔵野』。読み進むのがつらかった。現在はまったく面影もない武蔵野を脳内散歩するなら癒される(→当時のモノクロ写真でもないかぎり、それもムリ)。 ◆1903小杉天外『魔風恋風』。氷室冴子『クララ白書』や今野緒雪『マリア様が見ている』みたいな、学園もの少女コミックを先駆した三角関係版青春小説。でも紅葉にはとうてい及ばない(→同感だ)。 ◆1905尾崎紅葉(891夜)の『金色夜叉』。昨今のつまらないエンタメ読むくらいなら、ゼッタイ読んだほうがいい(→その通り)。経済小説としても見事(→その通り)。 ◆1907田山花袋『蒲団』。豊崎曰く、知り合いになりたくない作家の男勝手な話(→そうだろうね)。 ◆1907押川春浪『東洋武侠団』。冒険SF小説の草分け的作品。無敵のヒーローの武器が巨大なトンカチで、野生児のくせに英語がわかるところがヘンに凄い。 ◆1912長塚節『土』。粘着質の文体による貧乏アトラクション小説。あたしゃ読んでいて、このまま土に埋もれて息絶えるかと思った(→その気持ちよくわかる)。 ◆1913中勘助(31夜)の『銀の匙』。さすがにうまい。掛け布団の日向くさいところに顔を寄せたり、ひらがなの「を」が女の人が坐っているように見えたり(→妥協できない幼な心がいいんだね)。 ◆1914阿部次郎『三太郎の日記』。大正教養主義の本山のような本だが、逆エリート意識がおぞましすぎて虫酸が走る(→いまやこの手がブログを占めている)。 ◆1915芥川龍之介(931夜)の『羅生門』。映像的で、カット割りとモンタージュの巧さと面白さにあらためて舌を巻きました(→文体稽古に使うといい)。 

≪014≫  ◆1916森鴎外(758夜)の『渋江抽斎』。わたしたちに漢学の素養がないからなのかもしれないけど、自分にとって興味がない人の人生に、なぜこれほど詳しくならなきゃならないんだって思いだった(→それなら『阿部一族』から入ればよろしい)。 ◆1917志賀直哉(1236夜)の『城の崎にて』。長らく名文の典型とされてきたけど、これって本当に巧いの? 感情移入のしすぎじゃないの? 阿川弘之が「極めてわがままな書き方」って評していたよね(→ハイ、当たっています)。 ◆1919武者小路実篤『友情』。タイトルの口当たりとは真逆のブキミ本、あるいは猛烈な妄想型のトンデモ本。文章がこんなに雑な作家もいない(→ハイハイ、これも当たってる)。 ◆1920賀川豊彦『死線を越えて』。あまりの能天気だけれど、ページを繰るのがもどかしいほど愉快。 ◆1922島田清次郎『地上』。スキャンダルまみれの島田が大正期に飛ばした大ベストセラーだが、さすがに天才か狂気かと言われただけあってプロットも場面描写も高水準。ただし全体は通俗的(→ぼくは愉しんだ)。 ◆1923井伏鱒二(238夜)の『山椒魚』。暢気なとうさんが手を入れ続けた話。つまらないところに拘ってしまった魅力。『点滴』『鯉』など、天然ぼけか意図したのかわからないところが、このとうさんの味(→そう、天然意図です)。 ◆1927藤森成吉『何が彼女をそうさせたか』。コンデンスノベルならぬ圧縮戯曲のバカ本。 

≪01≫ 日本の演奏家たちが「6/8のアレグロ」を苦手にするのはなぜなのか。たとえばベートーベンの第七の第1楽章のアレグロである。シューベルトの『冬の旅』の「郵便馬車」の6/8の伴奏部だ。

≪02≫  苦手なだけではなく、日本人の音楽作品の全体にアレグロが少ないのはなぜなのか。また、日本の歌曲がやたらに「延音」を好むのはどうしてか。さらにまた和音の低音部より上声部に敏感に反応するのはどうしてか。

≪03≫  著者はそういう疑問をずっともっていたらしい。 しかし、もともと日本嫌いの著者がヨーロッパ音楽の正統に入って、けっして日本音楽をふりかえろうとしなかったのは、日本の戦前の戦争主義や侵略主義が嫌いで嫌いでたまらなかったせいだったという。それがやっと日本音楽に耳を傾ける気になったのは、敗戦によってやっと日本の価値観が変貌し、そこから日本人の「よきもの」があらわれてくるという期待をもったからだった。

≪04≫  ただし、そこからが容易ではない。 だいたい著者は日本音楽がいつも「長ったらしく」「すきまだらけ」に聴こえていた。日本音楽の全体が長唄なんじゃないかとおもえるほどだった。そのなかから日本人に特有の音楽の特質を取り出すにはどうすれば、いいか。本書はその探索を随想ふうに巧みに綴って、飽きさせない。

≪01≫ 日本の演奏家たちが「6/8のアレグロ」を苦手にするのはなぜなのか。たとえばベートーベンの第七の第1楽章のアレグロである。シューベルトの『冬の旅』の「郵便馬車」の6/8の伴奏部だ。

≪02≫  苦手なだけではなく、日本人の音楽作品の全体にアレグロが少ないのはなぜなのか。また、日本の歌曲がやたらに「延音」を好むのはどうしてか。さらにまた和音の低音部より上声部に敏感に反応するのはどうしてか。

≪03≫  著者はそういう疑問をずっともっていたらしい。 しかし、もともと日本嫌いの著者がヨーロッパ音楽の正統に入って、けっして日本音楽をふりかえろうとしなかったのは、日本の戦前の戦争主義や侵略主義が嫌いで嫌いでたまらなかったせいだったという。それがやっと日本音楽に耳を傾ける気になったのは、敗戦によってやっと日本の価値観が変貌し、そこから日本人の「よきもの」があらわれてくるという期待をもったからだった。

≪04≫  ただし、そこからが容易ではない。 だいたい著者は日本音楽がいつも「長ったらしく」「すきまだらけ」に聴こえていた。日本音楽の全体が長唄なんじゃないかとおもえるほどだった。そのなかから日本人に特有の音楽の特質を取り出すにはどうすれば、いいか。本書はその探索を随想ふうに巧みに綴って、飽きさせない。

≪05≫  話は、芭蕉が蛙が水にとびこむ音や岩にしみいる蝉の声に耳を傾けたこと、それが俳句となっていまなお鑑賞されつづけていることから始まる。

≪06≫  これは枕で、すぐに東西の鐘の音のちがい、尺八が「声の禅」とよばれてきたこと、ヨーロッパの音楽がことごとく知的構成と対応しているのに対して、日本では音が消えてからの「しじま」さえ聞こうとしているという話になる。それなら、日本の音楽は「間の音楽」であって、かつ「思いわびる音楽」なのである。けれどもどうして、そうなったのか。

≪07≫  著者は「間」を見るには、日本人の体にしみついたリズムを見る必要があるとして、手足の動きを観察する。たとえば、夏祭の神楽に出てくる「ひょっとこ踊り」の「抜き足・差し足・しのび足」、あれは何なのだろうか。「すたすた歩き」って何なのだろうか。これらには能や剣道が重視する「摺足」の延長があるようだ。

≪08≫  この摺足は、しかしよく考えてみるとわざとらしいもので、日常の足の動きとは思えない。あんな歩き方で町を歩く日本人は一人もいない。

≪09≫  では、摺足はあくまで芸能化され武道化されてきた足のハコビであって、日本人の体に染み付いたリズムから来たものではないのかと考えてみて、ハッと気が付いた。われわれは西洋の靴をはくようになって摺足をしなくなったのであって、ひょっとすると、底が地面にぴったりあっている草鞋や草履をはいているころは、むしろ摺るように歩かないと、かえって履物が脱げてしまうのではないか。また、そのため母趾を必要以上につかってしまう日本人の歩き方が靴をはいているいまなお目立っているのではないか。そう思うようになってきた。

≪010≫  かくてひるがえって考えてみると、ヨーロッパの音楽は多く三拍子系のリズムをもっている。

≪011≫  これは何かに似ている。そうなのだ、馬のギャロップに近いリズムであって、これこそは3/8や6/8のアレグロにぴったりあう。だからヨーロッパでは馬や馬車の生活のリズムが長く尾を引いたのだろう。それに対して日本には、著者が聞いたかぎりでは「南ー無・阿ー弥・陀ブ」と「南ン妙・法蓮ン・華経ー」くらいしか、三拍子はない。

≪012≫  日本だって馬をつかっていたし、馬子唄もあるのだから、これはちょっと説明がつかない。けれども、日本はむしろ牛や牛車のリズムを前提にしてリズムをつくって、それを馬子唄にもってきたのであろうと考えれば、辻褄があう。

≪013≫  しかも、こうした馬と牛のリズムの差は、馬や牛の足の動きからくるのではなく、きっと腰と股の動きからくるのであろう。実際にもヨーロッパのリズムはたいてい腰の使い方に依拠している。ならば日本人はどこでリズムをとっているのか。著者は、ハイヒールで歩く日本の女性たちの不格好な姿を見ながら、これはきっと母趾の使い方とリズムが関係していたのではないかと、そんなことをなんとなく考える。

≪014≫  音楽はリズムだけでは決まらない。そのリズムも体の動きだけでは決まらない。そこには舌と唇の動きが関与する。 たとえばトランペットと尺八の音のちがいはむろん楽器の素材や構造のちがいにももとづくけれど、それ以上に舌と唇の使い方のちがいが、トランペットと尺八を作ったと考えたほうがよい。

≪015≫  ヨーロッパではハーモニカを唯一の例外として、「フー」の息で吹奏される楽器は、ない。トランペットもフルートもオーボエも、だいたいは「tu」か「du」で、吹く。それがタンギングというものであって、ピアノにおけるタッチ、弦楽器におけるボーイングにあたるアタックになる。

≪016≫  ところが日本では、尺八も笛も篳篥(ひちりき)もフーで吹く。アタックもフーでする。そうすると、いきおい息の切れ目が音の切れ目になっていく。実際にも日本音楽の多くがそうなっている。ヨーロッパはこんなことはしていない。ヨーロッパでは音楽のために人間が服従する。だからタンギングを徹底的に練磨して、切れ目などをつくらないようになる。ダブル・タンギングはそのようにして発達した。

≪017≫  このことをホルンと法螺でくらべているうちに、著者は、日本の音が「唸り」を大事にしていることに気が付いていく。尺八も唸るし、民謡も唸るし、演歌も唸る。おそらくは、唸りをともなう抑揚が日本音楽の根幹にあるのだろうことに合点していく。

≪018≫  ということは、そもそもこれはヨーロッパの言語と日本語とのちがいにも関係があるのではないか。子音だけでも言葉が通じるといわれるヨーロッパの言葉と、母音を引っ張って子音につなげる日本語とのちがいが、ここで音楽的にも重要なはたらきをしていたにちがいない‥‥。

≪019≫  こんな調子で話は次々に進んでいく。 とくに説得力をもたせるような書き方もめんどうな概念もつかっていないのだが、音の味とでもいうべきが効いた文章に促されて読んでいるうち、ついつい納得させられる。

≪020≫  後半、「からたちの花」の冒頭部を素材にしてしだいに展開される「日本の耳」の議論は、しだいに7音階のヨーロッパ音楽と5音階の日本音階の水と油のような根本的なちがいに到達して、盛り上がる。

≪021≫  ただし、だからヨーロッパがいい、日本がいいという話にはならない。二つの融合はそうとうに難しいという話なのである。

≪022≫  ところで、本書は角田忠信の日本人の脳には虫の音を聞き取る機能が備わっているという例の「日本人の脳」になって、終わっている。これは本書がその後あまり読まれなくなった理由ではないかと危惧したくなるような“勇み足”であるのだが、ぼくとしてはその“勇み足”をふくめて、本書を多くの日本のミュージシャンや日本文化論者が読むことを薦めたい。

≪023≫  推薦の理由はいろいろあるが、日本語がだんだん早口になっていくとしたら(実際にもどんどんそうなっているのだが)、きっと今後の日本語は抑揚を強調したりアタックを強くする喋り方が流行することになるだろうという予想など、かつて誰もできなかったものだったという説明で、十分だろう。

≪01≫  夏休みプレゼント第二弾。 意外にも意外にも、『鬼の日本史』だ。 このレポートは、これからお盆を迎える諸君、鳥居火や大文字の送り火に見とれたい諸君、盆灯籠や精霊流しに心鎮めたい諸君、盂蘭盆や川施餓鬼や二十日盆に今年は気持ちを向けてみたいと思っている諸君、とくに精霊流しがどうして水に流されていくのかを知りたい諸君のために、贈りたい。 こういう本をゆっくり採り上げるチャンスがなかったので、ちょうどいい。

≪02≫  その前に、著者の成果を紹介しておくと、この人は『隠された古代』でアラハバキの伝説や鎌倉権五郎のルーツを白日のもとに曝した人である。おもしろかった。それだけでなく続けさまに『閉ざされた神々』『闇の日本史』『鬼の太平記』、そして本書、というふうに(いずれも彩流社)、日本各地に伝わる隠れた神々の異形の物語を探索してきた。そういう民間研究者だ。たいていの神社を訪ねたのではないかとおもわれる。

≪03≫  そこには土蜘蛛から河童まで、スサノオから牛頭天王まで、稗田阿礼から斎部広成まで、出雲神話からエミシ伝説まで、ワダツミ神から鍛冶神まで、一つ目小僧から酒呑童子まで、歪曲と誇張の裡に放置されてきた“鬼”たちが、斉しくアウトサイダーの刻印をもって扱われる。これは負の壮観だ。

≪04≫  負の壮観なだけではなく、負の砲撃にもなっている。ときには負の逆襲や逆転もおこっている。ぼくは『フラジャイル』のあとがきに、著者からいくつかのヒントを得たことを記しておいた。むろん肯んじられないところも多々あるけれど、むしろぼくとしては、これらの負の列挙にたくさんの導入口をつけてくれたことに感謝したい。著者はごく最近になって、ついに『鬼の大事典』全3巻(これも彩流社)もまとめた。

≪05≫  まずは、この偉業、いやいや異業あるいは鬼業を、諸君に知らせたかった。

≪06≫  では、質問だ。これから始める真夏の夜の「超絶日本・オカルトジャパン不気味案内」(笑)の直前肝試しにいいだろうので聞くのだが、上に書いたアラハバキって、知っているだろうか。

≪07≫  アラハバキは「荒吐」「荒脛」と綴る正体不明の“反権王”のことをいう。江戸時代にはすっかり貶められて土俗信仰の中に押し込められていた。しかし、愛知三河の本宮山の荒羽羽気神社はアラハバキを祭神として、鬱蒼たる神域に囲まれた立派な社殿をもっている。だから何かが、きっとある。が、ここに参詣にくる人は、ほとんどアラハバキの正体を知ってはいない。

≪08≫  推理を逞しくすれば、アラハバキは「荒い脛穿(はばき)」だから、脛巾のこと、すなわち脚絆にまつわる神だろうということになる。ということは遠出の神か道中安全の神か、ちょっと捻って解釈しても、足を守る神なのかなというあたりになろう。ところが、そんなものじゃない。

≪09≫  アラハバキを「荒吐」と綴っているのは、知る人ぞ知る『東日流外三群誌』(つがるそとさんぐんし)という東北津軽に伝わる伝承集である。そこには「荒箒」という綴りも見える。ホウキというのだから、これはカマドを浄める荒神箒のことかと思いたくなるが、一面はそういう性格もある。ただし東北のカマド神は京都に育ったぼくが知っているカマド神とはまったく異なっていて、かなり異怪な面貌の木彫だ。

≪010≫  まあ、最初から謎めかしていても話が進まないから、ここで著者がたどりついた正体をいうと、これはナガスネヒコ(長脛彦)なのだ。

≪011≫  ナガスネヒコって誰なのか。これも知っている人は少ないかもしれないが、ただのナガスネヒコなら、長い脛(すね)の持ち主という意味だろうから、大男ということで、ダイダラボッチ型の巨人伝説の一人ということになる。

≪012≫  けれども記紀神話の読み取りでウラを取ろうとすると、そうはいかない。『日本書記』では、物部の祖先のニギハヤヒがナガスネヒコを誅殺して、イワレヒコ(神武天皇)に恭順の意をあらわしたというふうになっている。そして、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹を娶ったと記録されている。恐いですね。

≪013≫  なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。

≪014≫  ところが、である。ここが日本神話の謎多きところになるのだけれど、『古事記』ではナガスネヒコが殺されたとは記していないのだ。

≪015≫  このように記紀の記述に違いがあるときは、だいたい記述に疑わしいものが交じっていると考えたほうがいい。おそらく『書紀』にも粉飾があるのだろう。この見方、おぼえておいてほしい。よろしいか。

≪016≫  さあ、そう思って『東日流外三群誌』を読むと、ナガスネヒコが津軽に落ち延びてアラハバキ王になったと書いてある。その証拠のひとつに、津軽の小泊にいくつもの荒磯神社があって、そこにはアラハバキ神としてのナガスネヒコが祭神になっている。

≪017≫  それを荒生神とも荒木神ともよぶ。つまりは荒い呼吸をする猛々しい神だ。世の荒木クンたちの先祖だね。

≪018≫  そもそもナガスネヒコは神武以前の奈良盆地にいた割拠リーダーの一人だったはずである。奈良五條市今井町には荒木山を背にした荒木神社があって、大荒木命あるいは建荒木命あるいは祭神不明となっている。

≪019≫  このあたりはいまでも「浮田の杜」といって、かつては足が地につかないほどの浮き土があった。京都の伏見淀本町にも同じく「浮田の杜」があり、「淀」も「浮」も同じ意味だったということが察せられる。

≪013≫  なぜこんなことがおこったかというと、ナガスネヒコはそれ以前に神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)を殺してしまった。だいたいナガスネヒコの一族は、神武の軍勢が大阪湾から難波・河内・大和のルートに入ろうとするときに、これを阻止して暴れた一族なのだ。そのためナガスネヒコは大和朝廷のために殺された。

≪020≫  こうしたことから、どうもアラハバキあるいはナガスネヒコは、こんなふう荒れた土地を開墾したか、まるごと管理していたか、いずれにしても処置しにくいことを収められる荒っぽい一族だったということが推理されてくる。そのナガスネヒコを大和朝廷の先触れたちが利用したのであろう。けれどもナガスネヒコはそれを知ったか、利用価値がなくなったかで、北へ向かう「化外の人」となったのだ。

≪021≫  それともひょっとして、そもそも北のどこかにエミシ王国のようなところがあって、その一部が流れて畿内あたりに来ていたのを、ニギハヤヒが目をつけたのか‥‥。と、まあ、これ以上のことは、『隠された古代』を読んでもらうということになる。 如何でしたかな。以上が枕の話です。

≪022≫  ということで、入門肝試しだけでもこんなに長くなってしまったのは、このような話は今日の日本人にとっては、まったく何の知識もないことになっているからだ。嘆かわしいね。いや、あまりにも勿体ない。

≪023≫  そこで、以下には『鬼の日本史』のごくごく一部の流れだけを抜き出して、諸君の好奇心と真夏の精霊流しにふさわしい物語を、一筋、浮き上がらせることにする。あらかじめ言っておくけれど、こういう話には、正解も誤解もない。どの立場に依拠するかで、歴史も伝承もとんでもなくワインディングするものなのだ。

≪024≫  では、少しくぞくぞくっとしながら、日本の奥に出入りする「本当の精霊流し」とは何かという話に目を凝らしてみてほしい――。

≪025≫  大和朝廷を作りあげた一族は、天孫降臨した一族だということになっていることは、知っているだろうね。天孫降臨なんてカンダタの糸ではあるまいに、空中から人が降りてくるわけないのだから、これは海の彼方から波濤を蹴立てて日本列島にやってきた一群だということになる。

≪026≫  侵略者とはかぎらない。騎馬民族ともかぎらない。馬に乗ったまま来られるはずもないから、なんであれ波浪を操れる一群とともにやってきた。ここまではいいですね。

≪027≫  で、この天孫降臨した一群のリーダーの名は、記紀神話ではニニギノミコトというふうになっている(正式にはヒコホノニニギノミコト)。ついでに言っておくけれど、このニニギから何代も下って登場してきたのが、ニニギの血統を受け継いだイワレヒコ、つまりカムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇だね。

≪028≫  もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。

≪028≫  もっともこれからの話はそこまでは下らない。ニニギは大和朝廷派の血筋をもったルーツだということがわかっていれば、いい。しかし、そこにはニニギの一族に取って代わられた者たちもいたということだ。それをわすれちゃいけない。アラハバキ伝説もそんな敗北の歴史をもっていた。でも、もっともっと別の宿命を背負った者たちもいたわけだ。

≪030≫  この女性は誰かというと、薩摩半島の西に野間半島があって、そこに阿多という地域があるのだが、その阿多の女というので、アタツヒメとなった。ここは阿多の隼人が君臨していた地域で、アタのハヤトは大豪族だった。

≪031≫  もっともアタツヒメは俗称で、別名は諸君もよく知っているコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜)なのだ。絶世の美女で、姉はイワナガヒメというひどいブスだったというのだが、むろんあてにはならない。

≪032≫  ところが、出雲神話ではこの姉妹はオオヤマツミノカミ(大山津見)の娘だということになっている。これは困る。オオヤマツミの子はアシナヅチ・テナヅチで、その娘は例のヤマタノオロチの犠牲になりそうになった可憐なクシナダヒメ(櫛名田)だ。そのクシナダを娶ったのがスサノオだ。なぜ、そんな娘がニニギの近くに出没することになったのか。

≪033≫  ところがまた他方、『日本書紀』では、ニニギが娶ったのはカアシツヒメ(鹿葦津)で、その別名がコノハナサクヤヒメだったと記している。どーも混乱している。何かがおかしい。

≪034≫  まず、オオヤマツミは字義通りでいえば山を司る神のようなのだが、それだけの意味の神なのかという疑問がある。

≪035≫  たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。

≪036≫  そこで本書の著者は阿多の野間半島に注目して、そこに野間神社があることを知った。そして野間神社を調べてみた。そうすると、東宮にはコノハナサクヤヒメが、西宮には「娘媽神女」が祀られていた。「ろうま」と読む。こりゃ、何だ? あまり聞いたことがない女神だろう。日本っぽくもない。「娘媽神女」とは何なのか。それに、なぜ二人の女神が一対になっているのだろうか。どーも、怪しい。

≪037≫  さあ、ここからがめくるめく推理と謎が一瀉千里に走っていく。やや急ぎたい。

≪038≫  娘媽神女の正体はわかっている。またの名を「娘媽神」「媽祖」「天妃」「天后」といって、中国福建省や広東省などの華南地方の海岸部一帯で信仰されている女神のことをいう。中国出身なのだ。娘媽は漢音ではジョウボ、呉音ではナウモと読む。慣用音ではニャンマとかニャンニャンともいう。

≪035≫  たとえば『伊予国風土記』には、「オオヤマツミ一名は和多志大神」とあって、この神は「百済国より渡り来坐して」というふうに出てくる。これなら海を渡ってきた神だということになる。ワタシ大神というんだからね。では、コノハナサクヤヒメとはいったい何者なのだろうか。≪039≫  つまり海の民の象徴だ。東シナ海・南シナ海を動かしていた海洋一族に深い関係がある。

≪040≫  ぼくもドキュメンタリーを見たことがあるのだが、この海の民たち(蜑民とよばれることもある)は、地元に派手な媽閣廟を構え、船の舳先にはこれまた極彩色の娘媽神を飾って遠海に船出していく、潮風が得意な冒険の民なのだ。

≪041≫  そうだとすると、ニニギが日本に上陸したときは、この娘媽神にまつわる海の一族がなにかと協力していはずだ。海域から考えてもそうにちがいない。いや、ニニギがその一族のグループの一つだったかもしれない。そういう可能性もある。それならニニギが娶ったアタツヒメも、きっとその一族の流れなのである。

≪042≫  とするのなら‥‥アタツヒメとは実はワタツヒメであって、ワタツミ(海津見・綿津見)の一族のことなのではないか。ワタとは海のことをいう。

≪043≫  おそらくは、そうなのだ。ニニギはワタツミ一族とともに九州のどこかに“降臨”し、そこで子孫をふやしたのである。

≪044≫  ということはオオヤマツミ(山の司祭)はオオワダツミ(海の司祭)こそが原型で、その後に列島の内陸に入っていって、山をも圧えたのだろう。コノハナサクヤヒメもきっと本来は娘媽神型の海女神であったのが、オオワダツミがオオヤマツミに変じるにしだかって、山の花を象徴する陸上型の美女に変身していったのだ。

≪045≫  だいたい日本には、おかしなことがいっぱいおこっている。その痕跡がいろいろのところに残っている。

≪046≫  たとえば信州の最高峰のひとつの穂高には、船が祀られている。そして舟を山に上げる祭りがおこなわれている。なぜ船なんぞが山の祭にあるのかといえば、そこに、古代の或る日、海の民が到達したからだ。そこにコロニーをつくつたからだ。

≪047≫  加えてもうすこし証拠をあげておくと、あのあたりの安曇野という地名は、もとは渥美半島から北上して山地に入ったアヅミ一族の名残りの地名なのである。アツミ→アヅミノというわけだね。アヅミとはアマ族のこと、つまり海の民たちの総称だ。

≪048≫  こういうことが、各地でいろいろの呻き声をあげているというべきなのだ。

≪049≫  だんだん話が広がってきたね。が、ここまではまだまだ序の口の話なのである。著者は野間半島で、もうひとつの発見をする。そこには天堂山という山があって、その名は唐人によって、天堂山、天童山、また天道山と名付けられたという記録があった。

≪050≫  ここでやにわに「天道」が浮上する。ここからちょっとややこしくなっていく。ちゃんと付いてきなさいね。

≪051≫  天道童子を知っているだろうか。これがなんとも妙な話なのである。まあ、聞きなさい。

≪052≫  『天道童子縁起』の文面によると、天武天皇が没した686年に9歳だった天道童子は、故郷の対馬を出て都(藤原京)に上って巫祝の修行を積み、大宝3年(703)に帰島したというふうになっている。

≪053≫  その後、霊亀2年(718)に元正天皇が重病に罹ったとき、すわ一大事と陰陽博士が占ってみると、対馬に天道法師という者がいて、これを召して祈らしめよと卜占に出た。知らせをうけた天道童子はさっそく都に飛んで、すぐさま病気平癒をなしとげた。こうしてその後は、その誉れを称えられて、天道童子は母とともに対馬の多久頭(タクツ)神社に祀られているという。母子神になったわけだ。

≪054≫  変な話だよね。でも、ここにはいろいろ気掛かりな暗示が含まれているようだ。たとえばこの天道童子を生んだ母親は、ウツロ舟に中で日輪を飲み込んだときに懐妊したということになっている。

≪055≫  むろんこんな話はあとからいろいろくっつけた牽強付会であろうけれど、それでもいろいろ気になることがある。ひとつはこの話が対馬と朝廷をつないでいること、ひとつはウツロ舟が関与していること、ひとつはタクツ神社という奇妙な名はそもそも何を意味しているのかということだ。

≪056≫  対馬と朝廷が関係していることは、天武持統朝の交易にすでに対馬が絡んでいること、また、海の民の能力が必要とされていたことを暗示する。しかもこのころ朝廷は罪人や問題人を対馬に流して、そこで管理させていた。

≪057≫  次のウツロ舟というのは、古代の海の民が乗っていた丸木舟のことで、記紀神話では「天磐楠舟」(あめのいわくすふね)とか「天鳥船」(あめのとりふね)と出てくる。これは知っている諸君も多いだろうが、楠などの内側を刳り貫いたのである。つまりはウツなるウツロの舟だ。

≪058≫  なぜこのウツロ舟が重要かというと、まずもって天孫降臨の一族はこのウツロ舟で、その舳先にサルタノヒコを案内役としてやってきたと記述されているからだ(ということはサルタノヒコももともとは海洋関係者だったということだよね)。もうひとつは、日本の伝承や伝説の多くには、幼児を流すときにたいていこのウツロ舟が使われているということだ。あとで説明するが、実はこれはヒルコ伝説につながっていく。

≪059≫  のこる問題はタクツ神社の意味だ。これはちょっとわかりにくいかもしれないが、著者は「タクツ神」は「謫つ神」であろうと推理した。「謫」って、わかるよね。流された者、流竄の者のことをいう。そう、ワーグナーのオペラの主人公たちである。

≪060≫  うーむ、もしそういうことならば、これはたいへんな逆転劇になる。なぜなら「謫つ神」だとすると、天道童子は「流された者」ということになるからだ。となると、どうなるか。 わかるかな、この逆転と逆倒の意味が――。

≪061≫  三つくらいのヨミ筋が考えられるんだね。

≪062≫  第一の仮説は、天道童子は9歳で都に上がって修行を積んだのではなく、もともと呪能のあった者がしだいに力を得たので、対馬に流されたか、海の民の平定のために派遣されたのだ。なぜ対馬かといえば、朝廷はなんとか対馬を支配したかったのである。こういうヨミだ。

≪063≫  第二の仮説は、タクツ神はもともと対馬の氏神か氏の上で、当然に海洋神だった。その子孫の天道童子はなんらかの目的で朝廷に交渉に行った。おそらくは海の民が本来もっていた物語や機能や職能を認めさせたかったのだろう。それを奏上しに伺った。ところが、朝廷はこれを拒絶したか、利用した。そういう経緯だ。

≪064≫  第三の仮説は、さらに過激なものになる。実はタクツの一族は漂着民であって、タクツ神とはもともとそのような漂着・流民のシンボルを集約していたのではないか。すなわち、ニニギが日本に来たときニニギの一族は海の民を利用したのだけれど、その後はその力が疎ましくなって、再び海に流そうとしたのではないか。それは、ひっくるめていえば、“流され王”型のヒルコ伝説を総称している物語の原型のようなものではないかというものだ。

≪065≫  いやいや、どれが当たっている仮説なのかということは、このさい問題ではない。

≪066≫  どうであれ、ここには日本の確立をめぐる二つ以上の勢力の協力と対立とが、その逆の、激突と融和とが、また、懐柔と反発とがひそんでいるのではないかということなのだ。ふーっ。

≪067≫  ところで、海の民とか水の神といえば、日本中にはたくさんの弁天様がいる。しかも半裸のような姿になっている。弁財天のことだよね。一番有名なのは江ノ島の弁天様だけれど、なぜ、あんな水っぽいところに祀ってあるんだろう。海の塩でも好きなんだろうか。

≪068≫  もうひとつ、宗像三神って知っているだろうか。九州福岡の宗像神社に祀られているイチキシマヒメ、タキツヒメ、タギリヒメの3人の女神のことだ。住吉の神々と並んで日本で最も有名な海の女神たちである。実はこの福岡には名島弁財天という有名な神社があって、貝原益軒の『筑前風土記』という旅行記にも「多々良浜名島に弁財天祠あり。昔は大社なり。宗像三神を勧進せしるなるべし」と書いている。

≪069≫  さすがに益軒は、弁財天と宗像三神が一緒になっているところに注目したわけだ。意味深長だねえ。

≪070≫  そうなのだ、実はこれらの女神たちは、もともとのルーツは違っていても、どこかで同じ係累の女神たちになっている。これは日本ではミヅハノメ(罔象女・弥都波能売)に一括内包される者たちなのだ。

≪071≫  ミヅハノメというのは、水にまつわるいっさいの女神のことをいう。「罔象」という字義は「形、小児のごとき水中の妖しき女」という意味をもつ。不気味だね。これを折口信夫は「水の女」と総称したけれど、和名では「水の端の女」という意味だ。

≪072≫  このミヅハノメはおそらく日本で一番多く祀られている女神で、そこから水分神(ミクマリ)、丹生明神(ニブツヒメ)、貴船神、宗像三神、水垂明神、淡島、竜女神、弁天、トヨタマヒメ、乙姫などが次々に“分派”し、あるいは逆に、それらが次々にミヅハノメになった。みんながみんな水々しい神々で、水源や河川や海辺に深い関係をもっていて、しかも女性の姿を象っている。

≪073≫  このうち一番遠いところから漂流するかのように日本に定着したのが弁財天だ。インドからやってきた。本名はサラスヴァティという。娘媽神が次に遠くからやってきたけれど、すでに話してきたように、これは日本の女神に変換されて定着した。それがアタツヒメで、さらにコノハヤサクヤヒメにまで変換していった。

≪074≫  さてと、このような水の女神や海の女神は、シャーマニックな呪能や職能に富むばあいが多く、どこかで必ずや「禊」(みそぎ)とかかわっている。そうだね。

≪075≫  ということは、そこには水に流れていくものたちの運命や宿命、あるいは蘇生や流産もかかわっていたということなのだ。たとえば『中臣祓』という祝詞では「根の国・底の国に坐すさすらふものの姫」というような言い方をする。そこには水子のイメージも重なっている。とくに淡島(淡島様)はウツロ舟に乗せられて流されるという儀式を必ずともなっている。

≪076≫  流し雛を見るとき、日本人ならその意味するところが感覚的にではあれ、なんとなく了解できるはずだよね。

≪078≫  が、こうしたなかでも最も注目すべきはエビス神やヒルコ神だろうね。二神は名前が違っているけれど、まったくの同一神だ。足が萎え、流謫されている。つねに漂流しつづける神様だ。しばしばウツロ舟で流される。

≪077≫  一方、男神で水や海に関係が深い神々も多い。代表的にはオオワタツミ(大綿津見)や海幸彦や宇佐八幡や八幡神だけれど、このほか塩土神やアドベノイソラなどがいる。イソラは海中から出現した神で、顔中にワカメのようなものが覆っている。それが形象化されて、顔に布を垂らして舞う芸能ができたくらいだ。

≪079≫  でも、いったいどうしてエビス=ヒルコは流されたのか? 何か罪を犯したのだろうか。ここで、これまでの話がことごとく結びついていく。

≪080≫  まずもって日本列島が海に囲まれた国であることが、大きな前提になる。花綵列島といわれるように、たくさんの島が点々としている。このすべての島嶼を潮の流れが取り巻いている。そこには干満があり、緩急があり、高潮があり、津波があり、そして夥しい漂流漂着がある。椰子の実も鉄砲も、これに乗ってやってきたわけだよね。

≪081≫  なかで、古来の人間の漂着がやはり図抜けていて、この国の歴史に決定的な影響を与えてきた。とくにこの国に君臨した天孫族の一群の到来は、それ以前に流れ着いた一族たちとの葛藤と摩擦と軋轢をつくっていった。わかりやすくいうのなら、ナガスネヒコが先に来ていて、あとからニギハヤヒやイワレヒコがやってきたのだ。

≪082≫  この、先に定着していた一族たちのことを「国津神」といい、あとからやってきた連中のことを「天津神」という。このあとからの連中が天孫降臨族である。

≪083≫  国津神の一族には服属をした者たちもいたし、抵抗した者たちもいた。また天津神に組み込まれた者たちも少なくない。そのような宥和服属の関係が、主に記紀神話に記された物語になっている。

≪084≫  けれども、服属できず、また抵抗した者たちの物語は、徹底的に貶められ、換骨奪胎されて、地方に流された者の物語に、あるいは山中に押し込められた者の物語になっていった。これらが本書でいう「鬼」の物語の主人公なのだ。

≪085≫  他方、国の歴史は子孫を誰がつくるかという歴史でもあるわけだね。そこには女性たち、母になる者たちの歴史が加わった。娘媽神も弁天もミヅハノメもコノハナサクヤヒメの物語も、そのような婚姻の事情がどのようであったかを物語っていた。

≪086≫  婚姻し、子孫を生めば、たいていのばあいはそこで名前がすげ替えられた。オオヤマツミの子供たちがいくつもの名の娘になっているのは、このためだ。記紀や風土記で名前や係累が異なっているなんてのは、当然のことなのだ。

≪087≫  日本人は優美なところも残虐なところもあるけれど、事実を徹底的にリアルに記録するという能力には残念ながら欠けていた。 語り部も史部(ふみべ)も、またそれらの伝承者も、どこでどんな相手に話をするかで、いろいろ工夫というのか、ヴァージョンを変えるというのか、ともかく「柔らかい多様性」とでもいうような話法や叙事性をつくってきてしまったんだね。

≪088≫  それに、初期の日本には文字がなかったから、語り部の記憶も完璧というわけにはいかない。加えて蘇我氏のところで、『古事記』『日本書紀』より古い史書がみんな焼かれてしまった。 そういうわけで、古い時代の各地の信仰や一族の動向を推理しようとすると、なかなか難しい。それでもふしぎなもので、そういう動向のいつくもの本質が、地名や神名や神社名に残響していたりするわけだ。

≪089≫  ともかくも、そのような残響をひとつひとつ掘り起こして組み合わせていくと、そこに大きな大きな或る流れが立ち上がってくるわけだ。それは、海からやってきた者たちの歴史、陸地を支配した者たちの歴史、排斥されていった者たちの歴史、忘れられていった者たちの歴史‥‥というふうな、幾つかの流れになってくる。

≪090≫  それをぎゅっと絞って、対比させるとどうなるかというと、「国をつくった歴史」と「鬼になった歴史」というふうになる。本書はその「鬼になった歴史」をいろいろな視点で綴ったわけだった。

≪091≫  では、ここに綴られた物語で、最もドラスティックな仮説を一言だけ紹介して、この真夏の精霊流しの話を終えることにする。

≪092≫  それは、そもそもアマテラス信仰にまとめられた系譜の物語の原型は、実は海の一族が最初にもってきた物語だったのではないかというものだ。アマテラスの原義がどこにあるかという議論はまだ決着がついていないから、結論的なことなど言えないのだけれど、本書の著者はアマテラスは「海を照らすもの」の意味だったと考えている。字義がどうであれ、ぼくもそういう可能性がそうとうに高いと思っている。

≪093≫  ここでは話せなかったけれど、中世に傀儡子(くぐつ)たちが伝承した説話や舞曲や人形語りがあるのだが、これらはどうみても、海洋型のものなんだねえ。鈴鹿千代乃さんたちが研究していることだ。

≪094≫  日本神話の中核部分の原型は、ことごとく海にまつわっていたんだねえ。そのこと自体は驚くべきことではないだろう。 それよりも、そのような原型の物語はつねに改竄され、奪われ、変更され、失われてきたわけだ。その後も神仏習合や本地垂迹をうけるなかで、大半の“流され王”たちがまったく別の様相のなかに押し込められ、ときに悪鬼や悪霊のような扱いとなったということに、驚くべきなんだろう。そのうえ、そのような変遷の大半をわれわれは看過したり軽視したり、また侮蔑するようになってしまったわけだ。これは悲しいね。

≪095≫  ぼくも、そのようなことについて『フラジャイル』のなかで「欠けた王」などとして、また『日本流』では負の童謡として、『山水思想』では負の山水として、さらに「千夜千冊」では数々の負の装置として、いろいろ持ち出している。けれども、ぼくが予想しているのとは程遠いくらい、こういう話には反響がない。寂しいというよりも、これはこういう話には日本人が感応できなくなっているのかと思いたくなるほどだ。

≪096≫  あのね、話というのは、そもそもそこに凹んだところと尖ったところがあるんだね。尖ったところは、どちらかといえば才能がほとばしったところか、さもなくば我田引水なんだ。

≪097≫  だからこそ絶対に逃してはいけない大事なところは、凹んだところなんですね。そこは痛切というものなのだ。その痛切を語ってあげないと、歴史や人間のことは伝わらない。なぜなら、その痛切は我田からではなく、他田から引かれてきた水であり、そこに浮かんだ舟のことなのだ。

≪098≫  その舟には自分は乗ってはいないで、誰かが乗っている。それが弁天だったり淡島だったり、ミヅハノメだったり百太夫だったりするわけだ。つまり知らない人たちなのだ。 だからそこには、ぼんやりとした灯りがふうーっと流れるだけなのだ。それが流し雛であって、精霊流しなんだね。

≪099≫  さあ、見えてきましたか。鬼というのは、このように語られなくなった者たちの総称のことだったわけだ。異様異体の外見を与えられ、申し開きができない歴史に閉じ込められた者たちのことなんである。

≪100≫  えっ、だから、ほら、語りえないものは示しえない、ということだっけ。戦艦大和はどう沈んでいったっけ。葉隠って、どの葉に隠れることだっけ。 では、しばらくのあいだ、ぼくも真夏の夜の夢にまどろむことにします。おやすみ、なさい!

平時と有事の組み合わせが、世界の歴史をつくってきた。

日本の歴史ももちろんそうだった。

ただし古代日本は、なぜか「北の有事」ばかりを重視した。

中央が北方の蝦夷(エミシ)を征圧し、その俘囚を王民として取り込んだのである。

それでも蝦夷に反抗がおこる場合は、征夷大将軍をもってその有事を鎮圧した。

そのうち将軍が、源頼朝から徳川慶喜にいたるまで、「国の有事」を仕切ることになった。

天皇も関白も執権もいたにもかかわらず、いったいどうして「北の有事」を仕切る将軍職だけが全国を統率する大権をもつようになったのか。

ここには、日本列島にひそむ「もうひとつの歴史」が有事の名のもとに見え隠れする。 

母国とは何か。

それは探し続けるものである。

九州宗像に住む森崎和江は、その母国を北上の果てに探した。

安倍一族の原郷である。

なぜ陸奥の北上川の奥にまで母国のかけらを探しに行ったのか。

前九年の役で滅びた安倍一族の魂が北九州の宗像の杜にまで届いていたからだ。 

日本という方法   松岡正剛著

まず「おもかげ」についての歌をあげます。

『万葉集』巻三に、「陸奥の真野のかやはらとう けども面影にして見ゆといふものを」という笠女郎の歌がある。大伴家持に送った歌です。実 際の陸奥の真野の草原はここから遠いから見えないけれどそれが面影として見えてくるという 歌です。 もう少し、深読みすると、いや、遠ければ遠いほど、その面影が見えるのだとも解釈でき る。「面影にして見ゆ」という言い方にそうした強い意味あいがこもっています。

家持が女性に贈った歌にも面影が出てきます。「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかも せん人目しげくて」。家持が坂上青梅郎女に贈っている。人目が色々あってなかなか会えない けれど、面影ではいつも会っていますよという恋歌です。

また紀貫之には「こし時と腰つつ居 れば夕暮れの面影にのみにわたるかな」という歌がある。今来るぞ、もう来るぞと思っていれ ば、恋しい人が夕暮れの中に浮かんでくると言う歌意でしょう。これもまるで、面影で見た方 が恋しい人がよく見えると言わんばかりです。

今引いた三つの歌は、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように浮かん で見えるということを表しています。これは突然に何かが幻想として出現したとか、イリュー ジョンとして空中に現出したということではありません。そのことやその人のことを、「思え ば見える」という、そういう面影です。 プロフィールといっても人とは限らない。景色もあれば言葉もある。思い出や心境もある。 それゆえこの面影は美しいこともあれば、苦しいこともあります。『更級日記』の作者は、 「面影に覚えて悲しければ、月の興も覚えずくんじ臥しぬ」と、面影が見えることが恋しくて 眠れない様子を綴っています。面影が辛いのです。

26 08 次にうつろいの歌を見てみます。「うつろい」は古くは、「うつろひ」と表記し ます。再び『万葉集』を引きますが、「木の間よりうつろふ月のかげを惜しみ徘徊に小夜更け にけり」という作者未詳の歌があります。早くも「月のかげ」という「かげ」が出てきまし た。歌の意味は、木々の間から漏れる月影を見ているうちに、小夜が更けたということです。

ここで「うつろふ」と言っているのは、月の居所が移っているということで、その移ろいに応 じて自分の気分も移ろっているわけです。ではもう一つ、また家持の歌。「紅はうつろうもの ぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも」

27 02 このように「うつろい」はつきかげや花の色の変化の様子を示しています。とい うことは、元々の「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと 関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落としているうちに変化し てしまうもの、そういうものに対して「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本 質とみなしたものと関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落とし ているうちに変化してしまうもの、そういうものに対して「うつろい」という言葉が使われて いる。容易に編んでアイデンティティが見定めがたい現象や出来事、それが「うつろい」の対 象なのです。

21 18 これらの言葉の使われ方をよく見ていると、対象がその現場から離れている時、 また対象がそこにじっとしていないで動き出している時に、わざわざ使われていることに気が つきます。すなわち面影が「ない」という状態と面影が「ある」という状態とつなげているよ うなのです。つまりは「なる」というプロセスを重視しているようなのです。 私はそこに注目します。

この「面影になる」ということは、そこに「面影がうつろう」とい うこと、「ない」と「ある」を「 なる」がつないでいることに注目するのです。そこに「日本 という方法」が脈々と立ち現れていると見るのです。


次の時代をつくる「志」の研究 奈良本辰也著

はじめに――なぜ今陽明学なのか

高潔な日本人はどこへいった

幕末の志士の「狂」を学ぶ

陽明学――時代の変革を促す「知行合一」の思想

中江藤樹が追求した「孝の道」

人間関係を重視する学問

行動のない知は、知たりえず

大塩平八郎の知行合一

行動の中で真理を見出す

「狂」の意味するもの

新しい時代をつくる力とは

社会とのかかわり合いをもとうとする学問

例1 吉田松陰――幕末を駆け抜けた「狂」の先駆者

十有五にして学に志す

みなぎる気魄

遊学で志を高める

富士山が崩れ落ち、利根川の水が涸れようとも

例2 高杉晋作――幕府を滅亡にみちびいた たった一人の反乱

革命児の誕生

松下村塾の暴れん坊

晋作、江戸へ出る

志の芽生え

やらなければいけないことはやる

志が同志を呼ぶ

例3 坂本龍馬――回天の舞台回しを演出した海をみて育った男

動乱を「わが天地」とする自由人のセンス

「落ちこぼれ」に自信を与えた剣の腕

龍馬丸進水――「国際認識」の大転換

藩を超え「日本」を丸ごととらえる視点を教えた勝海舟

回天の事業を成し遂げる男の「器量」

〈コラム〉「志」を遂げるために必要な同志のつくり方と付き合い方の研究

よき師友との出会いが人生の命運を握る「鍵」

周囲が放っておかない光る男の「底力」とは

他人の感化で開かれる能力

人をひきつける魅力をつくるのは苦労

自分を磨く方法は 結局第一級の人物と出会うこと

例4 山形有朋――陸軍を設計・施行した男の意志

吉田松陰が認めた「小助の気」

騎兵隊の軍監

戊辰戦争の華々しい戦果

陸軍創設への道

例5 乃木希典――時代に準じた武人の「志」

乃木の殉死に対する評価

文学志望から武人へ

青年時代の武人乃木

蜂起する反政府軍と乃木

殊勲者の経歴

日露戦争の偉業

例6 西郷隆盛他――戦略・戦術を欠いた「志」

反乱の論理

相克する理想

西郷起たず

参謀に人を得ず

第Ⅰ部 司馬遼太郎から梅棹忠夫へ 4

司馬遼太郎の手紙 4

大きな幸福――梅棹学について 4

第Ⅱ部 民族と国家、そして文明 4

21世紀の危機――少数者の反乱が地球をおおう 4

バスク独立運動の背景 4

国家誕生と同時に発生した 4

世界冷や飯組の蜂起 4

人間の分類感覚 4

文化が少数者を生む 4

「日本人はけったいな奴や」 5

仏教、キリスト教も部分的普遍 5

「世界紛争地図を作ろう」 5

民族の現像、国家のかたち 5

少数民族を脅かしてきた旧ソ連と中国 5

両刃の剣を素手でつかんでいるようなもの 5

文化とは「不信の体系」だ 6

イランとトルコの対抗意識 6

民族主義は引火性に富んでいる 6

個別的な解決しか方法はない 6

日本人には言語の格闘術がない 6

アイヌやオホーツク人の位置 6

先進国から帝国主義は消えたが 6

地球時代の混迷を超えてーー英知を問われる日本人 6

民族の時代 6

崩壊した帝国 6

ヨーロッパと民族 6

一神教とアニミズム 6

恨みと差別 6

民族と言語 6

ふたつの国 6

実体のない「アジア」 7

日本文明の危機 7

第Ⅲ部 日本及び日本人について 8

日本は無思想時代の先兵 8

国民総大学出になったら 8

史上最初の無層化社会 8

軍事能力に秀れた日本人 8

思想というのは伝染病 9

室町時代の日本に戻る 9

大企業は昔の藩と同じ 10

解散経営学のすすめ 10

戦争をしかけられたら 10

世界の交差点で酒盛り 10

日本人の顔 11

幕末志士の顔 11

写真の迷信 11

絵に描かれた日本人 11

くの字型の基本姿勢 11

時代で違う美人 11

表情とポーズ 11

和服の着付け 11

侍の衣食住文化 11

一九二〇年の前とあと 11

留守居役のサロン吉原 11

写真資料の重要性 11

大阪学問の浮き沈み 12

町人が支える学問 12

喧嘩堂と山片番頭 12

不経済の経済性 12

大阪下町、京山の手 12

虚学の世界 12

創造への地熱 12

つねに世界へ窓開く 12

破壊力が形成力に 12

文化と経済力 13

理屈よりもセンス 13

拡大する西日本 13

第Ⅳ部 追憶の司馬遼太郎 13

知的会話を楽しめた人、司馬遼太郎 14

司馬遼太郎さんとわたし 14

「語り」の名手、「知」の源泉は・・・ 14

一人ひとりの人間への愛情があった 14

日本文明は今が絶頂では・・・・ 14

司馬遼太郎を読む――『韃靼疾風録』など 15

壮大な構想 15

遊牧民への共感 15

「公」の意識を 15

コメント1 同時代の思索者――司馬遼太郎と梅棹忠夫   米山俊直 15

同時代の二人 15

司馬遼太郎の終戦まで 15

梅棹忠夫の終戦まで 16

戦後の活躍 16

司馬の明治-昭和観 16

梅棹の明治-昭和観 17

二人の違い 20

コメント2 知の饗宴 20

であい 20

時代の中で 21

旅の効用 21

交点とベクトル 21

なぜ民族問題か 21

日本論の方向 21

語り残したことなど 21

仏教のこころ    認知社会心理学への招待  五木寛之著


第一部 仏教のこころ

仏教ブームとはいうけれど

睡眠薬より仏教史

仏教を求めるこころ

ブッダは論理的に語った

ブッダが答えなかったこと

乾いた論理と湿った情感

人々は仏教に何を求めるか

いのちを救うことができるのか

あまりにも定説化したブッダ論

悲泣するこころの回復

今仏教のこころを求めて

第二部 仏教をめぐる対話

河合隼雄さんとの対話

神と仏はずっと一緒に信仰されてきた

”パートタイム・ブディスト”ではない

カルロス・ゴーン対エコノミック・アニマル

心の働きか?念仏の経験か?

「ゆく年くる年」に宗教意識を感じてみる

玄侑宗久さんとの対話①宗教は「雑」なもの

仏教の中の俗なもの

自力の限界に他力の風が吹く

宗派の垣根は消えつつある

地域社会の中の「隠し念仏」

テロリストは救われるか

うさん臭さは宗教の生命

グローバル・スタンダードと洋魂

はかないものをいとおしむ

玄侑宗久さんとの対話② 死後のいのち

平易な言葉で語る仏教

日本人に欠け落ちてきた身体性

身体から脳を活性化する

循環・回帰の道へ

第三部 わがこころの仏教

仏教の受け皿

意識の深部のツケモノ石

すべては民衆のなかからはじまる

空海はすでに密教を知っていた

親鸞の夢告げ

親鸞が苦しみぬいた瞬間

再び親鸞の夢想を思う

親鸞が描いた物語

煩悩を抱えて救われる道

蓮如への旅

蓮如へのふたつの思い

浄土は地獄に照り返されて輝く

蓮如の不思議な人気

夕暮れの〈騙り部〉の思い

寛容と共生をめざして

ミックスされた文化の中で

「シンクレティズム」の可能性

「アニミズム」は二十一世紀の新しい思想

「寛容」による他者との共生

あとがきにかえて

日本人の神     大野晋

Ⅰ 日本のカミ 3

カミ(神)の語源 3

カミ(神)観念 3

日本のカミとは 3

支配する神 3

恐ろしい神 3

神の人間化 3

神の人格化 3

カミへの日本人の対し方 3

Ⅱ ホトケの輸入 3

ホトケの語源 3

仏像と仏神 3

仏教の受容 3

神の祭祀 3

僧尼令の禁止事項 3

カミとホトケに対する人間 3

Ⅲ カミとホトケの習合 4

神宮寺と天皇 4

御霊会と権現 4

『源氏物語』のカミとホトケ 4

本地垂迹 4

神道とは 4

両部神道と山王神道 4

伊勢神道 4

吉田兼倶と卜部神道 4

Ⅳ カミとホトケの分離 4

林羅山と山崎闇斎 4

国学の日本研究 4

契沖 4

荷田晴満 4

賀茂真淵 4

本居宣長と日本語 4

『古事記』とカミ 4

ホトケから「神の道」へ 5

平田篤胤 5

仏教排撃と尊王論 5

Ⅴ ホトケのぶち壊しとGodの輸入 5

開国と王政復古 5

神仏分離令 5

廃仏毀釈 5

ゴッドとゼウスの翻訳 5

天主・上帝・神 5

Godと神の混同 5

Ⅵ カミの輸入 5

稲作と弥生時代 5

古代日本語の特徴 5

タミル語と日本語 5

神をめぐる言葉 5

人に害をなすモノ(鬼) 5

化物と幽霊との違い 6

ツミ(罪)・ワル(悪)・トガ(咎) 6

ミ・ヒ(霊、日・昼)・イツ 6

ヲ(男)・メ(女)・ウシ(主人)・ムチ(貴) 6

カミの対応語 6

南インドのカミと日本のカミ 6

Ⅶ 日本の文明と文化 カミの意味は変わっていくか 6

文明の輸入 6

風土と文化 6

日本の文化の特徴 6

神と自然 6

こころと社会    認知社会心理学への招待  池田謙一・村田光二

Ⅰ (こころ)の仕組みと働き 3

第1章 認識する〈こころ〉 3

一 認知ーー世界の能動的構成 3

二 記憶の働きーー 生きている「過去」 3

三 知識の構造ーーネットワークとスキーマ 3

第2章 働く知識 3

一 社会的知識の形成ーー「人」を知ること 3

二 人のカテゴリーかと社会的スキーマ 3

三 社会的スキーマの活性化とステレオタイプ化 3

第3章 推論する〈こころ〉 3

一 社会的推論の働きーー「新しい世界」を描く 3

二 社会的推論の制約ーー前提とヒューリスティーー 3

三 共変の認知と帰属と予期ーー因果を推論する 3

第4章 決める〈こころ〉 3

一 目標と動機づけーー経験の質に向けられた目標 3

二 「決める」と「 決まる」ーー 意思決定の二面性 3

三 シュミレーションーー可能的事故と行動のシナリオ 3

四 選択可能な世界ーー「夢と現実の落差」を埋める 3

五 意思決定の社会性 3

第5章 働きかける感情 4

一 感情の多次元性ーー感情の情報処理 4

二 感情の状況性・社会性 4

Ⅱ (社会)に関わる〈こころ〉 4

第6章 〈こころ〉と〈こころ〉 4

ーーコミュニケーションーー 4

一 コミュニケーションの目標ーー他者との接点 4

二 コミュニケーションの制御ーー相手の反応を予想する 4

三 メッセージとインターフェイスーー意味を通じ合わせる道具立て 4

四 コミュニケーションと認知的制約ーー協調的な会話が可能な理由 4

五 コミュニケーションと意味の共有ーーコミットメントが心を通わせる 4

第7章 集団の中の〈こころ〉 4

ーー同調・規範・勢力ーー 4

一 同調の及ぼす影響力ーー「裸の王様」の”シースルーファッション” 4

二 規範形成と社会的制約ーー赤信号、渡れますか 4

三 パーソナルな影響力としての勢力ーー「決 まる」勢力・「決める」勢力 4

第8章 〈こころ〉をつなぐ〈社会〉 4

ーーコミュニケーション・ネットワークとマスメディアーー 4

一 社会的な情報の流れーー「情報環境」の多層性 5

二 コミュニケーションネットワーク 5

三 マスメディア 5

四 対人コミュニケーションとマスコミュニケーション 5

第9章 〈社会〉を動かす〈こころ〉 5

ーー社会過程と社会変容ーー 5

一 シンボルと社会的カテゴリー化ーー世論形成とシンボル過程 5

二 システム認知と社会受容ーー社会を見る「目」 5

三 価値の変容をめぐる社会の心理ーー社会目標について

活眼活学      安岡正篤