GMV懇話会RoadToDX

時代と共に 未来を拓く

エゴからエコへ、メタボからメタバへ

読書・独歩 目次 フォーカシング
表示用スプレッドシート(コラバ免疫サポート)

≪01≫  誰もが少年少女のころから物語で育ち、物語を求め、物語をつくりたいと思っている。けれども物語の本質はいつも謎に包まれている。そこでドイツにおけるメルヘン論を嚆矢に、神話研究や昔話分析や言語学を媒介にして、ナラトロジー(物語学)というものが確立されてきた。

≪02≫  ところがナラトロジーはいくつもの見解が入り乱れたままになっていて、その統一はまったくおこっていない。それはそうなのだ。ケルトの神話、琉球の昔話、古事記、ナバホ・インディアンの語り部の内容、奇跡劇、ファウスト伝説、プルーストの作品、チャップリンの映画、中上健次の文学、ポール・オースターの小説、宮崎駿のアニメーション、大島弓子のマンガは、それぞれの「氏と育ち」によって構成されてきたもので、ナラトロジーによって作られたものではない。つねに変幻自在をおこしてきた。

≪03≫  しかし、これらの物語に共通性がまったくないわけではない。あらゆる地域のあらゆる民族のあらゆる物語は、知らず知らずのうちに物語の共通構造を体現してきたともいえる。

≪04≫  たとえば物語には細かそうにみえても、モード(mode)というものがある。これは語り手の場面への介在の度合によって変化する。このとき、たいていの物語で内的焦点化(internalfocalization)か、外的焦点化(external focalization)がおこる。こういうことは共通しているのである。

≪05≫  そこで、物語を欧米のナラトロジー(物語学)の成果と概念で説明するとどうなるかという試みがいくつか実施されてきた。この数十年のナラトロジストの仕事はそればっかりだった。ナラトロジストによって用語がまちまちで、同じ物語要素が別の構造特性になっているなどということもしょっちゅうおこってきたが、また、そのような仕事によって琉球の昔話から大島弓子のマンガまで十全に説明できるというのではないが、それでもかなりの試みが交錯したので、そこに多少の濃い網目模様が浮かび上がってきた。

≪06≫  そこからは物語という目眩く結実のあらわな姿が見えてこなくもない。

≪07≫  以下、本書の用語をつかって物語の基本構造というものがどういうものなのかを粗述してみる。 ただし、このジェラルド・プリンスによる世界初の物語辞典はプロップ、トドロフ以来のナラトロジーのさまざまな成果をごっちゃにして、単にアルファベティカルに並べたものなので、用語はバルトのものもグレマスのものもジュネットのものも混在する。また、プリンスには物語構造を統一的に記述する方法のようなものは確立していないし、これをリクールやグレマスやジュネットらの別のナラトロジストに求めても統一感はないので、ここでは、ほくが勝手に説明のコンシステンシーをつくっておいた。

≪08≫  物語(narrative)は基本的には語り手(narrator)が聞き手(narratee)に伝える物語内容(content)と物語言説(discourse)から成り立っている。内容は「何かと誰か」の語り、言説は「いかに」の語りである。

≪09≫  その内容と言説は物語の複雑多岐性はどうであれ、それなりの物語(frame)をもち、物語軌道(narrativetrajectry)に乗っている。これが物語の「世界」(diegesis)である。聞き手はこの世界の提示を了解し、これから始まる物語を一貫した出来事の集積であることを受け入れる。つまりその物語には終わり(coda)があることを理解する。

≪010≫  語り手は多くのばあい、俯瞰的な目をもつ全知的な語り手(omniscient narrator)と、その場その場を遍在的な語り手(omnipresentnarrator)の視点を使い分ける。この語りの使い分けでいよいよ物語の展開(story)が始まる。

≪011≫  ストーリーは時間的な推移をもつ因果的な筋書きのことで、その ストーリーの中にさまざまなプロット(plot)とエピソード(episode)がある。

≪012≫  プロットはもともとは「罠」をあらわす言葉だが、このプロットに何を選ぶかによってストーリーは変幻自在な様相を呈する。クレインは「行動のプロット、性格のプロット、思考のプロット」があるとみた。プロットとは別にスクリプト(script)がある。スクリプトは台本を意味するように、特定の場面や人物に与えられた指図のことで、「レストラン」のスクリプトには客、ウェイター、レジ係、マスターなどが指図される。

≪013≫  映画ではこのスクリプトをいくつか特徴的にもたせることによって、登場人物や場面の特性をつねに際立たせるという手法を常套する。このプロットを一人の人物の「心」に適用したものが心理小説やサイコホラーになる。エピソードは一見周囲の物語事情から自立しているように見えるイベントである。

≪014≫  しかし、このようなストーリーには何層ものレイヤーがあっていい。とくにメタストーリー(metadiegeticnarrative)は多くの物語の背後でつかわれてきた。このメタストーリーにはしばしばシンボル・記号・暗号・場所・神界・海中を含む原世界(motherland)ともいうべきが見え隠れに設定される。境界マザー・往還マザー・流離マザーなどの「物語母型」(narrativemother)はこのメタストーリーの原図に潜在する。

≪015≫  物語はときに物語の「外」を想定していることがある。これを外的物語世界(extradiegeticworld)あるいは異質物語世界(heterodiegetic world)というが、大半のSFはこの「外」の想定あるいは実在によって物語をつくる。

≪016≫  物語の本質は広い意味での「紛糾」(complication)である。その解きほぐしと解決(resolution)である。そのため大半の物語構造は多くの階層や部分や要素でできあがっているのだが、それだけでは物語は機能しない。

≪017≫  そこで、そうした物語素(classeme)を相互につなげるための連結(linking)、連接(conjoining)、埋め込み(embedding)、交替(alternation)、協和(consonance)、混合(interweaving)、合成(compound)、入れ子(nesting)などの“関係付け”が必要になる。また、それぞれのプロットの並べ方を縫い合わせる手法が要求される。たとえば省略法(ellopsis)、不等時法(anisochrony)、錯時法(anachrony)、後成法(analepsis)、あるいはフラッシュバックやフラッシュフォワード、また会話、モノローグ、間接話法、自由間接話法、無媒介話法などの話法による“関係付け”である。

≪018≫  これらの手法によって、物語には、その物語を基本的に成立させた語り手と聞き手だけではない“物語内部の語り部”や“内包された読者”(impliedreader)をつくりうる。『フランケンシュタイン』で姉に手紙を書いているウォルトン、『嵐が丘』の間借り人、ホームズの聞き役になっているワトソン博士はそうした“内包された読者”であった。

≪019≫  こうして、これらを総合して物語構造(narrative structure)がある。一般的な物語構造は、 1)ストーリー(プロット、スクリプト、エピソード) 2)キャラクター(character) 3)シーン(scene) 4)ナレーター(全知的・遍在的) 5)ワールドモデル(世界・原世界・異世界)によって普遍的に構成されている。このうちの1つが欠けても物語とはなりえない。

≪020≫  なかでもキャラクターは物語を最も見えやすくも見えにくくもするもので、しかも時代によって劇的な変遷をとげてきた。かつてプロップは昔話のキャラクターは、「ヒーロー、悪者、贈与者、援助者、被探求者(多くは王や王女)、派遣者、偽ヒーロー」の、7つの役割で説明できるとした。

≪021≫  けれども物語構造はそのほかのことからも成り立っている。そのひとつが「テキスト相互関連性」(intertextuality)で、バフチンやクリスティヴァによって強調された。このばあいのテキストとは、物語を構成している適当な長さの読解単位レクシ(lexie)のことをいう。テキストの節そのものが物語の構造要素である。

≪022≫  ところで、このような物語構造を本当に知っているのは、物語の中の語り手や登場人物や聞き役ではない。物語の構造のすべてに通暁している「知」があるとすれば、それは作者を含めた「編集的全知」(editorialommiscience)というものなのである。

マッケンジー・ワーク 『ハッカー宣言』

≪01≫  いま、世界は二つの階級が激突する時代になっている。ひとつの階級をベクトル階級という。もうひとつの階級はハッカー階級である。数からいえばベクトル階級が大多数を占める。

≪02≫  ハッカーは少数か、さもなくば無名だが、新しい概念と新しい知覚と新しい興奮を、既存のデータから抽出することに熱心だ。ハッカーが踏みこむコード・ソサエティにおいては、ハッカーはそこに新しい世界の可能性を付与したいのだ。ハッカーは新しいものを世界に投げ入れる可能性をもっている。しかしハッカーはみずからが生産する何ものを所有しようとは思わない。むしろその何ものかがハッカーを所有すればいい。

≪03≫  けれども、このようなハッカーの立場と思想と行為はベクトル階級によって忌み嫌われる。叩かれ、潰される。ハッカーは知識と機知を自律性のために用いることによって情報を果敢に再編集するのだが、ベクトル階級はわざわざ多くの情報を元に戻して、その所有者や入手者とおぼしい者たちに権利と利益を守らせようと煽るからである。

 ここにおいてわれわれハッカー階級は、いくつものハッカー・マニフェストのうちのひとつのマニフェストを公表せざるをえない。

≪05≫  ここにおいてわれわれハッカー階級は、いくつものハッカー・マニフェストのうちのひとつのマニフェストを公表せざるをえない。

≪06≫  むろんこんな程度のプロフィールでは、この教授先生が何者であるかはわかりはしない。ぼくが知らないだけだろうけれど、正体は不明だ。ハッカーであるともハッカーでないとも、そこすらあきらかではない。けれども、そんなことはどうでもいい。ぼくはこういう著者ないしはオーサリング・チームがいたことだけで、とりあえずは満足なのだ。ただしあらかじめ言っておくけれど、本書のコンテンツの8割にはたいして教えられるものがない。マルクス主義のルサンチマンを思い出させる言質が唸っている。これは聞き飽きた。本書を「情報の共産党宣言」にするのは無理がある。

≪07≫  しかし残り2割は新しい。ハッカー思想の広がりを感じる。マルセル・モース、ヴァルター・ベンヤミン、グレゴリー・ベイトソン、ウィリアム・バロウズ、ジル・ドゥルーズ、ギイ・ドゥボール、ジャン・ボードリヤール、スラヴォイ・ジジェク、アントニオ・ネグリからの引用や参照も悪くない。そこで今夜はその新しい広がりの扇の模様だけを感想とする。

≪08≫  その前に、ハッカーという呼称が一部ではまだまだ過激な印象をもっているだろうから、ちょっとした用語の整理をしておきたい。

≪09≫  世の中でハッカーといえば、コンピュータ・プログラムのソースを自由に改変してしまう連中のことをいう(と思われている)。このハッキングは犯罪とみなされる。ベストセラーとなったクリフォード・ストールの『カッコウはコンピュータに卵を産む』以来、こうしたハッカーの犯行はたちまち世界中の話題になっていった。ジョナサン・リットマンの『FBIが恐れた伝説のハッカー』も、追跡者が日本人だったということも手伝って話題になった。

≪010≫  ハック(hack)という特殊用語がどこから出てきたかは、突き止められていない。一説にはMITの鉄道模型クラブのメンバーのあいだで流行したという。もともとハックは「雑だけれど、なんとか調子のいいものに仕上がった」というときに使う日常英語でもあった。冷蔵庫のありあわせの材料で手早くおいしい料理をつくるのがハックなのである。MITのクラブルームでは、それが「動きのよいものにする工作ぐあい」という意味で流行していったのだろう。

≪011≫  だからハッカーとは機転のきく奴だといった程度の意味だったのであるが、それがコンピュータ・ネットワークが一挙に広まるなか、PCに弱い連中のトラブルを便利屋めいてちょいちょいと解決しているうち、そういう機転のきくハッカーが、ネットワークをリバース・エンジニアリングしながら敵地の偵察までするようになると見なされ、ハッカーは「相手のプログラムをいじる当人」だという風説になってきた。

≪012≫  しかし、これはまちがいなのである。当初こそハッカーのハッキングにはネットワーク・セキュリティを破ったり、ウィルスを撒き散らす悪事が含まれていたのだが、そうした不法行為者はいまではクラッカー(cracker)とよばれる。またクラックツールを入手して悪事に遊ぶのはスクリプトキディというふうに呼称されるようになった。そのぶんハッカーはしだいにボヘミアン的キャラクターが色濃くなってきて、電子工作技術に熱中するギーク(geek)や、高い問題解決能力をもつウィザード(wizard)とも区別されるようになった。

≪013≫  こういうわけなので、本書でマニフェストしているハッカーとは、コンピュータの中に潜り込んで相手をかきまわす不埒な連中のことだけを指してはいない。これを狭義のハッカーとするのなら、本書ではそれよりずっと広義のハッカーを「われわれ」と呼称する。

≪014≫  この広義のハッカーは情報支配層としてのベクトル階級を打倒するか、勝手に情報の編集的自由に邁進しようとするか、あるいはそのいずれにもかかわりなく情報を表出することに堪能している者たちである。むろんボヘミアン・ハッカーも含まれるし、ギークやウィザードも含まれる。

≪015≫  しかし本書におけるハッカーの呼称には、実はもっと広い者たちが含まれている。芸術家や哲学者もハッカーでありうるし、プログラマーやウェブエディターもハッカーだし、主婦や商人でもハッカーでありうるわけなのだ。自分の持ち合わせに不足を感じ、それらが少しでも入手できるなら、それを活かして次の情報編集にとりくみたいと思っているのが、本書で「われわれ」と自称しているハッカー(ハッカー階級)というものなのだ。

≪016≫  こうした広義のハッカーは自分が何の誰兵衛であるかということよりも、多重多様で雁字搦めになっている支配情報が世界から次々に剥がれて、それらが自在に組み合わさって再編成されていくなかで自由に佇む者でありたい者たちである。本書に控えめの自己定義がないわけではなかった。それは「ハッカーはかぎりない関係性から好きな関係を抽出して、情報の多様性にひそむ潜在性をもっともっと謳いあげる」というものだ。ちょっときれいに語りすぎているきらいはあるが、その気持ち、わからなくはない。

≪017≫  さて、そうしたハッカーは、では何をもってベクトル階級と対立してしまうかということだが(ここに本書の主題がある)、それは、一言でいえばハッカーとベクトルとでは支配情報と自由情報の扱い方が真っ向から異なるからなのである。

≪018≫  その後のヴィリリオはもっぱら情報問題やメディア問題に立ち向かう。本書はその精華のひとつだが、『幻滅への戦略』ではさらに情報のグローバリズムに敢然と立ちはだかって、このままではすべての自由主義がイコール監視主義になるだろうことを警告した。

≪019≫  ヴィリリオがこのような思索や活動をするようになった背景には、根深いトラウマが関与しているようだ。生まれたのが1932年で、父親がイタリア人のコミュニスト、母親はフランス人だった。幼児期はパリ、その後はドイツ占領下のナントなのである。ナントは1942年に爆撃された中世都市である。この10歳の爆撃の記憶は、長ずるにしたがって大きくなっていったようだ。

≪020≫  直線コースで掴むなら、こういう順に考えてみればいいだろう。 第1に、もともと「土地」があったのだ。土地とは、自然からひとつの資源が切り離されたことをいう。その切り離しによって一部の人間の側に所有が生まれた。大土地所有の歴史を想定すればいい。第2に、その土地から「資本」が切り離された。資本も資源になった。この資源の切り離しによって、またまた資本所有という蓄積が生まれていった。山や田畑や牧羊地を所有した者の歴史を想定すればいい。資本の所有者はそこからの収穫の価格とそこでの労働の価格の格差に目をつけて、かなりの富(資本)を残した。これがカネである。

≪021≫  そして第3に、すでに土地から切り離された資本からさらにもうひとつの資源が切り離されたのである。それが「情報」だ。情報は土地と資本の二重の所有から切り離されたものなのだ。ということは、情報は自然に対する土地と資本による"二重の二重性"によって切り離されて、それらの周辺で初期には漂流しはじめたものだったはずなのである。すなわち情報は資源ではあるけれど、当初は土地や資本に従属していたものだったのだ。

≪022≫  しかし、やがて国家や地方自治体や金融機関をはじめとするシステムが整備されてくると、それまで漂流していた情報はしだいに管理されるようになっていく。情報にも所有者と所有の管理者が出現してきた。こういう事態の進行を主要につくりあげてきたのは、社会進化を引率してきたベクトル階級である。ベクトルたちは厄介なしくみを保身のためにつくりだすのに長けていた。また、情報を一般社会化し、一般民主化するのに長けていた。

≪023≫  こうしてベクトルは、漂流している情報を租税に分けて分類調査徴収し、定住人口と流動人口を切断し、郵便や電話が発達してくればそれらを登録させては情報管理をしてきた。これらを支配情報あるいは管理情報という。

≪024≫  むろん民間の側にも自主的な情報の収集と管理と発信はあった。出版社や新聞社や通信社がベクトルの異なる情報編集を始めた。けれども、それらのメディアも結局は産業であり、巨大な事業体にならなければ撤退するか摩滅した。かくして情報は、いつのまにかベクトル階級による情報と、それを受ける大衆が享受する情報とに分離されたのである。そしてその二つのあいだに、知識人やアーティストや職人が挟まれるようになっていった。

≪025≫  話は一気にインターネットにとぶ。 このネットの登場は政府やマスメディアが用意したものではなかった。アメリカ国防省から派生したアーパネットが"父親"になっているとはいえ、インターネットはクライアント・サーバ方式によってしだいに没中心的な自主的ネットワークになっていった。どこにもホストマシンがないものになっていった。誰もが情報の出店を勝手にもてるものになっていった。

≪026≫  インターネットはいわば"父親殺し"をしたのである(これは本書に書いてあることではなく、ぼくが勝手に形容したものだ)。アンチ・オイディプスになったのだ。

≪027≫  やがてインターネットは支配情報や管理情報のためのメインシステムとは異なるアナザーシステムに向かって爆発的に自己成長していった。あとは知る通り、ネット社会は寄合所帯の寄合で、編集情報の編集所に変貌していった。つまりは、ここでは誰もがハッカーになりうるようになったのだ。そこは、土地と資本と所有にもとづく市場ではなかったのである。

≪028≫  ところが、いつしかこのネットにもリアル市場の波が押し寄せた。ということは、インターネットは他方では、誰もがハッカーであることを自覚できないメディアになっていったのだ。ネットそのものが情報であり、ネットそのものがメディアであり、ネットそのものが市場になってきたのだった。

≪029≫  情報はインターネットによって、支配情報と自由情報の区分を失った。所有と非所有の境界は曖昧になってきた。すべては欲望情報の対象になったのだ。しかしだからこそ――と、本書は宣言するのだが、誰が何をハッキングしているかということが、誰がどの情報を新たに管理しようとしているかよりももっと鮮明にならなければならないのである。

≪030≫  けれども、はたしてそんなことが可能なのだろうか。どのようにして支配情報と自由情報のゲートを作れるのか。どこが欲望情報の市場ではないと言えるのか。本書はそれを可能にするべきだと言っているのだが、これはかなり困難なことである。

≪031≫  いま、ネットにいる「われわれ」はハードウェアとソフトウェアのあいだに立つウェットウェアになっている。このウェットウェアは、しだいに著作権や知的所有権のハンガーに掛けられようとしている。そうでないばあいは、価格の対象になってきた。売上げの対象になってきた。欲望情報が渦巻いているのだから、そこに価格がついてくるのは当然だ。が、それでいいのか。

≪032≫  はたしてこのように社会情報情勢が進んでいるなかで、ハッカー宣言程度の狼煙をあげることでまにあうのかどうか、心もとないものがある。本書の8割がマルクス主義的情報社会論であることを勘案すると、事態はそんなに甘くはないように思われる。しかしそれでもなお、ぼくとしてはこうしたハッカー領域が確認されていくことをおもしろいことだと、とりあえずは実感している。

≪033≫ 附記¶クリフォード・ストールの『カッコウはコンピュータに卵を産む』(草思社)はカリフォルニア・バークレーのローレンス・バークレー研究所の研究員がきがついた国際的ハッカー事件の追跡ドキュメント。当時はハッカーといえば、こういう軍事機密や国家機密のサイトを襲う侵入者のことをさしていた。一方、クラッキングの元祖はアメリカの公衆電話網の内部保守システムを潜り抜ける方法を発見したジョン・T・ドレーパーだと言われている。彼は"キャプテン・クランチ"の異名をとった。同じくハッカー・ドキュメントとしてジョナサン・リットマンの『FBIが恐れた伝説のハッカー』(草思社)も話題になった。これは下村努が闇のハッカーのケヴィン・ミトニックを追跡する話。

≪034≫  インターネットについては、ぼくも早々に金子郁容・吉村伸と『インターネット・ストラテジー』(ダイヤモンド社)という一冊をまとめたことがある。まだ日本にインターネットが上陸してまもないころだ。ぼくはそこではそのころ勃発していたオウム事件に絡めて、「情報はサリンにもなりうる」ということを強調した。

 ≪01≫  思索に速度がある。カボチャを皮ごと丸煮していた。言い切っている。バイクでウィリーして走っていた。 

≪02≫  一行目に「わたしの体は電子的処女である」とあり、二行目で「わたしはシリコンチップも、網膜インプラントや内耳インプラントも、ペースメーカーも内蔵していない。メガネすら掛けてはいない。しかしわたしは、ゆっくりと着実にサイボーグになりつつある」というふうになる。 

≪03≫  あれこれの電子装置を身に付けていなくたっていい、われわれは生まれながらのサイボーグになりうるというのだ。アンディ・クラークならではの言い分だった。この言いっぷりがいい。ダナ・ハラウェイ(1140夜)のアニムスが男のほうにも引き取られた感じもあった。 

≪04≫  ここでサイボーグと言っているのは、人間と技術の共生体のこと、生物的な脳と非生物的な回路にまたがって「心と自己をもつような思考推論システム」のことをさす。 

≪05≫  そんなものがありうるのかとか、コンピュータ技術やロボット技術がそこまで及ぶのかなどと思ってはいけません。生物と非生物にまたがるハイブリッドな認知体というなら、もともと人類史は神々や悪魔や怪物をはじめ、宗教施設やシャーマニズムやアニミズムとして、また物語や哲学のなかの構想では数学や記号を駆使したローギッシェ・マシーネとして、サイボーグの前駆体ともいうへきものをずうっとリプリゼンテーションしてきたのだし、人類史以前の生体進化のなかでもさまざまな異様な生痕化石をのこしてきたのだ。 

≪06≫  しかし、これらをサイボーグの前史とみなし、その延長上に「われわれは生まれながらのサイボーグである」や「ゆっくりと着実にサイボーグになりつつある」といったクラークの言い切り宣言を組み込もうとすると、いささか鍛え抜かれた工学的思考と存在論的な哲学が必要になってくる。 

≪07≫  トマス・リッド(1658夜)の本を紹介した夜の千夜千冊に書いておいたように、「サイボーグ」(cyborg)という用語と概念は、過(すぐ)る1960年にネイサン・クラインとマンフレッド・クラインズが提案した(注1)。“cybernetic organism”(サイバネテイックな有機体)あるいは“cybernetically controlled organism”(サイバネテイックな方法でコントロールされる有機体)などから採った造語だ。 

≪08≫  当初のサイボーグの定義は「自己調節機能とフィードバック機能をそなえた有機的システム」だったので、初期のサイボーグ化の試みには、化学物質を体内に注入する浸透ポンプをずるずる引きずったラットや、内耳(蝸牛)インプラントを差し込まれたマウスや、ダグラス・マクリリー(注2)によって脳幹インプラントを陥入された気の毒なネコなどが登場した。けれどもこんな実験動物いじめのような代物を、誰もサイボーグとは見なかった。 

≪09≫  ところが、ところがだ。そのうちサイボーグの構想と思想は勝手な一人歩きを始め、各方面にさまざまなヴィジョンをまきちらすようになったのだ。人間が万能化して、勝手なサイボーグとしてふるまう幻想と可能性とがまきちらかされたのだ。ロボットとサイボーグとレプリカントの区別など、まだまだついてなかったけれど。 

≪010≫  最初に走りだしたのは元気なコミックや先読みが好きな映画だった。まとめていえばサブカルズだ。この分野ではアメコミのスーパーヒーローや手塚治虫(971夜)の鉄腕アトムを旗印にちらつかせながら、未来社会の圧倒的活躍者としての「意識をもつロボット」が無節操なほどに扱われるようになった。日本では早くに横山光輝の『鉄人28号』(1956年連載開始)や石森章太郎の『サイボーグ009』(1964年に連載開始)が話題になったが、ファンたちはサイボーグの意味などいっこうに知っちゃいなかった。 

≪011≫  ついで『ヴァリス』に至ったディック(883夜)らのSF界が騒ぎだした。これは先行していたアシモフやブラッドベリ(110夜)を下敷きにして、やがてラリー・ニーヴンのリングワールドや、スターリング(62夜)、ギブスンのサイバーパンクに向かって化けていった。ここから鬼才グレッグ・イーガンの『順列都市』(ハヤカワSF文庫)と『万物理論』(創元SF文庫)が飛び出した(注3)。このあたりのことについてはフレドリック・ジェイムソンの好著『未来の考古学』(作品社)などを読まれるといい。 

≪012≫  一方、当然ながら機械ロボットの製作、人工知能の開発、ロドニー・ブルックス(1665夜)以降のロボティクスの展開、VRやARやALの研究開発、コンピュータ・ネットワークの設計が次々に組み立てられて、サイボーグに計算構造や推論機構をもたせようとする試作が続いた。 

≪013≫  もっとナマの身体に引き寄せようとする試みもあった。1980年からステラークが身を賭して実験してみせたサイバー人体装置が際立っていたが(注4)、1998年から2002年にかけてケヴィン・ワーウィックが自分の左腕にシリコンチップを埋め込んだ電極配列人体の一連の実験(注5)、さまざまな修復医療(restrative medicine)の成果やアフォーダンス研究や軍事機能のサイボーグ性なども耳目を集めるようになって、サイボーグを開発するというヴィジョンは賑やかな様相を呈していったのである。 

≪014≫  こんなふうになってきたのは、必ずしも技術が革新されたからではない。サイボーグ性と生物学や脳科学の親和性が高かったせいだ。大きくいえば、①身体にひそむセンサーとフィードバックの関係がもともと精度の高いしくみであること、②脳にはきわめて柔らかい可塑性があること、③人類にとっての道具性はダブテーリング(dovetailing 嵌入接合)をおこすということなどが、互いに重なるように連続して認識されるようになって、それがサイボーグの思想と技術に影響を与えたのである(注6)。 

≪015≫ (注3)グレッグ・イーガンはオーストラリア出身のSF作家。医療機関のプログラマーでもあった。量子力学・認知科学・数学理論にめっぽう強く、ぼくがこの10年間で読んだSFでは最も完成度が高い作品を連打した。とくに『万物理論』には脱帽した。新海誠の『君の名は。』はイーガンの『貸金庫』からの影響をまるこど受けたアニメーションだった。 

≪016≫ (注4)オーストラリアから来日したステラークは驚くべきサイバー・アーティストだった。1980年に法政大学で公開実験をみせたあと、ぼくの仕事場(工作舎)にやってきて、にやにやしながらビデオを見せながら、「新たなサイボーグ思想は身体が皮膚を脱ぎ捨てるべきだ」といったことを、数時間にわたってしゃべり続けた。 

≪017≫ (注5)ケヴィン・ワーウィックはオックスフォードのラドクリフ病院で、手首の100本の電極配列と腕に通したワイヤーをつなげ、何かをするたびにどんなふうに神経インパルスが伝導されるのか、それを「盗聴」するという実験に挑んだ。 

≪018≫ (注6)人類にとっての道具性がダブテーリングであったというのは、われわれは文字を書くときにペンや紙を意識せず、外界や対象を見ているときはメガネを意識しないようになっていることをいう。 

≪019≫  初期のサイボーグ探求は、有機体(生体-われわれ)が「外部の情報とワイヤード(接続)される」ことを前提にしていた。 

≪020≫  しかし、ワイヤードされた有機体がサイボーグ化しているとみなすのは、それによって生体情報がいくぶん拡張したり、外部の環境周辺情報が知覚レベルの閾値を破って入ってくるという意味では、サイボーグ化のための数歩を踏み出しているともいえるものの、それをもってサイバネティック・オーガニズムの発露だと見てもらっては困る、もっと深く考えたいというのが、本書のクラークの見方だ。 

≪021≫  われわれはとっくの昔から下着と服を着て、メガネを掛け、腕時計をして、テレビで遠方の画面を愉しみながら、最近では同時にスマホで他人と交信をする有機体なのである。また歯を矯正し、腎臓や胃を手術し、血液検査で体内要素のデータを確認し、体内で悪さをする細菌やウイルスをたえば抗生物質などのクスリで操作している有機体なのだ。 

≪022≫  その気になれば幻覚キノコやLSDなどで、拡張現実や周辺認知の変容を体験することもできる。かつてのシャーマンはいつだってアルタード・ステート(変成意識)に変容できた。他方、ひょっとすると痺れや痛みがわれわれの有機力を変化させるかもしれないのに、われわれはアスピリンやバファリンやロキソニンでこれらを退散させてもきた。  

≪023≫  けれども、そうした意識状態の解放や制御がたまさか現出したからといって、それらをもってサイボーグ化の前哨戦だ、サイボーグの一種だとみなすのはどうか。安易ではないか。もっと「現れる存在」から考えなおしたほうがいいのではないか。クラークはそこを議論してきた哲人だった。とくに深い思索者ではない気がしたが、とてもセンスのいい哲人だ。 

≪024≫  アンディ・クラークはエジンバラ大学の哲学教授で、つねに前進的な構想をもって広範な知的ロビー活動をしているWebデザイナーでもある。 

≪025≫  日本では『認知の微視的構造』(産業図書)が最初に紹介されて、PDPモデルについての突っ込んだ解説がしてあったので、この本をコネクショニズムを議論する者たちがみんな読んでいた(注7)。 

≪026≫  その後、いくぶん哲学的な『現れる存在』(NTT出版)と『生まれながらのサイボーグ』(春秋社)をたてつづけに書いた。『現れる存在』は1997年の本だが、いまだに熱くて冷たいバイブルのように読まれている。“Being There”というタイトルがすこぶる象徴的で、一貫して「プレゼンスとは何か」ということに着地しようとしていた。 

≪026≫  その後、いくぶん哲学的な『現れる存在』(NTT出版)と『生まれながらのサイボーグ』(春秋社)をたてつづけに書いた。『現れる存在』は1997年の本だが、いまだに熱くて冷たいバイブルのように読まれている。“Being There”というタイトルがすこぶる象徴的で、一貫して「プレゼンスとは何か」ということに着地しようとしていた。  

≪028≫  一言、池上の考え方について紹介しておく。池上が生命の特質として掴まえているのは「自律性」と「相互作用性」と「存在感」の3つだ。  

≪029≫  これは次のような見方にもとづいている。(1)ランダムな動きをしている集団や系が複雑性を増していくと、あるところで生命的な「自律性」をもったふるまいが出てくる。そこには創発がある。そこをどう捉えるか。(2)物理現象にはさまざまな要素と力がはたらいている。それらをマクロからミクロに向けて階層的に解釈するのは可能なことであるが、階層化を詳しくしていけばいくほど、そこには複雑な交換や入り混みや重なり具合などの相互作用がおこっていることが見えてくる。その「相互作用性」をどう捉えるか。(3)生命はこうした自律的な相互作用によってなんらかの「存在感」をもった。存在感ははなはだ主観的なものだ。なぜ客観的な科学現象や化学作用から、われわれは主観的な存在感を感じられるのか。そこをどう捉えるか。 

≪030≫  これら3つの捉え方が重なっているところに池上にとってのALの研究課題があるのだが、それはアンディ・クラークが思索してきたことと交差していた。 

≪031≫ (注7)PDPモデルは並列分散処理(Parallel Distributed Processing)モデルのことで、ニューラルネットワークに機能するだろう特徴をコネクショニストモデルとして取り出した。脳神経系の情報処理に複数の処理ユニットが同時並行的に作動しているということをモデル化したわけだ。デビッド・ラメルハートとジェームズ・マクレランドがまとめた。科学技術思想ではコネクショニズムとよばれる。 

≪032≫ (注8)アーティフィシャル・ライフ(AL)はサイボーグの思想や技術には必ずしも重ならない。コンピュータなどによって生命現象に似たふるまいを創発させること、われわれが知っている生命(life-as-we-know-it)を、「可能な生命」(life-as-it-could-be)というビッグピクチャーの中に捉えることが研究開発になっている。 

≪033≫ (注9)先だって池上高志と対談をした。即身成仏を説いた空海について話を聞きたいというのだが、話しているうちに高野山でアンディ・クラークらを呼んでシンポジウムをしようということになった。即身成仏の思想はALの思想とどこかで重なるところがあるのではないかというのだ。カバラ的人体、チャクラ的人体もその系列に入るというなのだが、さあ、どうなることやら。 

≪034≫  さて、本書のクラークは電子社会に漲りはじめている技術の組み合わせを前提に、われわれが「生まれながらのサイボーグ」になりうる可能性がどういうものであるかを綴っている。 しばしば紆余曲折しすぎるのといささか楽観的だと思えるところが多々あるのだが(とくにドナルド・ノーマンの認知科学的デザイン論に加担しているあたり)、読んでいるうちについついその気にさせられる。  

≪035≫  気になる要点だけを紹介すると、クラークが「われわれは生まれながらのサイボーグだ」と確信したのは、1998年前後のことだったという。そのころクラークはセントルイスのワシントン大学で哲学・神経科学・ITをごっちゃにいじりまわしていた。そのうち自分の「心」がPCやソフトウェアや電子事務用品に漏出しているように感じた。とくに共進化しあうテクノロジーの重なりに身をおいていると、マインドウェア・アップグレードがおこっているような気分になった。 

≪036≫  そんなときふいに、われわれの心身機能はヴィゴツキーの言う認知道具なんだ(注10)、そのように知覚できるように脳の可塑性が応えてくれているんだ、それならわれわれはすでにサイボーグになっているのだろうという直観がやってきたらしい。「わたしたちの心は融合するように作られた道具であって、道具がわたしたち自身なのである」とクラークは書いている。 

≪037≫  そうだとすれば、われわれは自分自身の一部と道具の一部とコンピュータ・プログラムの一部を、いつしかソフトウェア・エンティティにしていたにちがいない。生物的リソースと非生物的リソースはどこかでとっくにまじってきたのだった。これは、もともとわれわれがダブテーリング(嵌入接合)を好んできたということをあらわしていた。 

≪038≫  そうだとすれば、われわれは自分自身の一部と道具の一部とコンピュータ・プログラムの一部を、いつしかソフトウェア・エンティティにしていたにちがいない。生物的リソースと非生物的リソースはどこかでとっくにまじってきたのだった。これは、もともとわれわれがダブテーリング(嵌入接合)を好んできたということをあらわしていた。 

≪039≫  こうしてクラークはわれわれが「外科手術なしのサイボーグ」であって、「縫合線をもたないサイボーグ」であると認識する。

≪040≫  クラークは、「フランケンシュタインの怪物にならないですむサイボーグ」の可能性に少しでも近づくため、ブラッドリー・ローズやポール・ドーリッシュがウェアラブル・コンピューティングやタンジブル・コンピューティングの開発に向かっていることに注目した。着用可能な認知支援装置の試作だった(注11)。 

≪041≫  ローズは100個のキーを備えた入力装置に記憶エージェント(RA)をつなぎ、そこに利用者が探測したい項目に動きまわれる末端ファイルスペースを連動させて、これをヘッドアップディスプレーの部品になるように工夫した。 

≪042≫  ドーリッシュのタンジブル・コンピューティングの考え方は、ロンドンの王立美術大学のダレル・ビショップによる認知キットや、MITメディアラボのセンステーブルやメタデスクや、ヨーヨー・マとニール・ガーシェンフェルドの電子チェロなどの試みをへて、さまざまな拡張現実(AR Augmented Reality)の実験に向かう主導原理になった。しめしめ、これ、これ、だ。

≪043≫  ふりかえってARのルーツは、20世紀初頭に劇作家ライマン・フランク・ボームが、現実社会のあれこれのデータを重ね合わせて表示する「キャラクター・マーカー」という電気デバイスを考案したことに始まっている。意外に早い。ついで50年代後半に開発されたモートン・ハイリグの「センソラマ」(Sensorama)が60年代に、多感覚入力デバイスによって没入できる「体験劇場」(Experience Theater)として広まると、万国博などのパビリオンで多用されて話題になった(注12)。ARというよりVR(ヴァーチャル・リアリティ)のお目見えだ。 

≪044≫  日本では各地に急造されたテーマパークや御当地タワーの高層階に設けられた映像シアターで「360度映像」などとして上映されたので、懐しいと思う諸君も多いだろう。  

≪045≫  これらのシミュレーターには体験をよりアクチュアルにさせるため、映像の立体化、音響のサラウンド化、劇場空間の振動なども加わっていったのだが、ARやVRが巨大投影型になるのには物理的に限界があった。そこに登場してきたのが、かのアイバン・サザランドが開発したヘッドマウント・デイスプレー(HMD)である(注13)。ここに仮想現実や拡張現実は一気に脳髄知覚に向かうことになっていく。 

≪046≫  しかし、ウェアラブルでタンジブルで、かつVRでもARでもありうるシミュレーター・システムやHMDが、はたしてサイボーグ性をどこまでもちうるかというと、はなはだ疑問だったのである。 

≪047≫ (注10)レフ・ヴィゴツキー(1896~1934)はベルラーシ出身の夭折した天才的な認知心理学者。ドミナント反応の研究、障害者教育、芸術心理学、発達心理学にとりくみ、人間の才能を「認知道具」として理解すべきだという見方を提唱した。また多くの学習は「知の転移」によってこそダイナミックになっていくという確信を発表した。ぼくはまだヴィゴツキーの千夜千冊をしていないけれど、そうとうに影響をうけてきた。 

≪048≫ (注11)ウェアラブル・コンピュータ(wearable computer)はラップトップやスマホのようなポータブル型ではなく、腕時計型・メガネ型・アクセサリー型の着用可能なデバイスをもつコンピユーティング・システムをいう。最近は眼球にはめこむコンタクトレンズ型も開発されている。体内埋め込み型とは異なって着脱自由にさせるところが工夫。  

≪049≫ 注12)「センソラマ」は今日にいうマルチモーダル・インターフェースの先駆だった。フルカラーの映像ディスプレー、ステレオ式のサウンドシステム、ファン、香りの放出、動作式の椅子などが用意された。 

≪050≫ (注13)ヴァネヴァー・ブッシュの「メメックス」をアイバン・サザランドが革新的なインターフエースをもつ「スケッチパッド」にしてみせ、これがダグラス・エンゲルバートの独創的なオンラインGUIにつながった。そのサザランドがハーバード大学期にコーエン・サザランド・アルゴリズムを開発し、VRおよびARの理論的基盤をつくり、ヘッドマウント・デイスプレー(HMD)の試作に及んだのである。   

≪051≫  本書の半ば、ダニエル・デネット(969夜)のSF短編『わたしはどこにいるのか』の話、デューク大学のミゲル・ニコレリスとMITのタッチラボとのサルをつかった共同研究の話、遠隔作動するテレロボットの話が出てくる。   

≪052≫  デネットのSFは、ある秘密実験を受けた「私」が目をさますと、脳が外部の栄養タンクに移し替えられていて、無線回線で自分とつながっているらしいことを知らされるのだが、食欲を満たそうとしたり何かの行動をおこそうとすると、「私」がここにいるのかタンクにいるのか決定できないという根本的な逡巡を描いたものだ(注14)。 

≪053≫  ニコレリスの実験はサルの前頭皮質に96本のワイヤーを埋めこんで、サルが四肢を動かすときの信号を盗聴し、60マイル離れたMITタッチラボのロボとアームを動かすためにそのサルの脳が発する信号を用いた。実験は成功した。それは遠隔作動する産業ロボットのように、「ここ」と「むこう」を同時化させていた。 

≪054≫  クラークがこれらの話を紹介して考えたいことは、そもそも「プレゼンス」とは何か、また「テレプレゼンス」とは何かということである(注15)。    

≪055≫  何が問われているのだろうか。いったいわれわれは現実感をどのようにもっているのか、保持しているのか、また変更しているのかということなのだが、しかし「プレゼンス」の意味をわかりやく説明するのがそもそも難しいように、これは考えてみるとけっこうな難問だったのである。 

≪056≫  われわれは疲れきったり泥酔したりしてどこかに眠りこけても、目が覚めた瞬間はどこにいるのかしばし戸惑うが、目を動かしたり手に触ってみたりして、たちまち現実感を手に入れる。けれども高熱時や薬物を投与されたときなどは、この現実感がやや長めに失われたり、錯誤される。また、睡眠中の幻想的な体験感覚はその様子がかなり異常なものであってもそうとうリアルにも感じられるし、そのくせそれが「うたかた」のようにおぼつかないものであることも感じる。 


≪058≫  なぜ、われわれはとって一番大事なはずの現実感がこんなにも限界だらけで、錯誤がおこりやすく、総じては「不測の認知」で包まれてしまったのか(注16)。 

≪057≫  もっと単純な例を出すと、われわれは毎日スーパーや最寄りの駅でたくさんの他者と行き交っているのだが、その質量感や個別認識は「私」においてかなり遮断されていて、漠然としたものの中にいるばかりになっている。それは見知らぬ大衆だからというのなら、われわれはどこかの医院の待合室でいつも多くの同病相憐れむ患者たちと会っているし、親しい者のパーティにも出掛けているのだけれど、よほどのことがないかぎりその状態をプレゼンスとして認知したり体感することが叶わない。 

≪059≫  プレゼンスもテレプレゼンスも、ナマの実感からはなかなか説明がつかない。では、プレゼンスの「際」や「臨界点」を確認するわれわれの認識のありかたに、お先まっくらになるような根本的な限界があるのか。 

≪060≫  哲学者たちはこのような問題を「心身問題」と名付けて、ずうっと議論をしつづけるという気の遠くなるような道を選んだのだが、ここにはいまなおそんなに成果が出ていない。クラークも何度か通ったこの道については、いつまでもとどまることに見切りをつけたはずである。 

≪061≫  こうしてここに、コンピュータ技術や通信技術や神経系への刺激やその盗聴などの生理学が、さまざまな手助けを申し出るということになる。 

≪062≫  もしセンシティブなロボットがつくれたならば、そのロボットがスーパーや駅や待合室で体験している「プレゼンスのデータマップ」が見えるのではないか。もし世の中の靴音という靴音に関するデータが集められて、その靴を履く該当人物との関連情報がストックできるのなら、靴音アイデンティティとでもいうべき新たな認知地図システムが入手できるのではないか(注17)。 

≪063≫  実際にも、こんな手助けが試みられてきた。カリフォルニア大学バークレーのジョン・キャーニーとエリック・パウロスが試作したPRoP(Personal Roving Presence)は人間の徘徊するプレゼンスを代行してくれる。 

≪064≫  これは視線、姿勢、動線、環境把握のデータがやりとりできる徘徊ロボット、ないしは「うろつきアバター」だった。メルロ=ポンティ(123夜)の「間身体性」の意味が哲学的にわからなくとも、PRoPのログが「間身体性」のまざまざとした実態なのである(注18)。 

≪065≫  ブリュッセル自由大学のフランシス・ヘイライヘンは人々の集団的行動を計測できる「トランジティビティ・システム」を開発した。サイトAからBやCに移動する動向が、現実にはおこらなかったショートカット・プロセスの提示とともに把握できるというものだ。クラークはこれを「トラフィカ・サイバネティカ」と名付けた。 

≪066≫  たいそう心強く、何かが見えてきそうである。おもしろそうにも思える。そうした実験の数々は本書にも他の本にもおびただしいほどの事例として紹介されているのだが、ところがここで注意しておかなけれはならないことが、二つある。 

≪067≫  ひとつは、それらを理解するわれわれ自身がナマであるので、さまざまなデータの集積やロボットのセンシング・マップが入手できたとしても、これをナマのわれわれがすぐに解釈することには限界が出てくるだろうということだ。もうひとつは、それらの実験データは別々の条件と技術と目的によって組み立てられてきたものが多いのだから、これらを合成したり統合したりする方法の思想をもたなくてはならないということだ。これを怠ると、いったいプレゼンスとテレプレゼンスにつて納得のいくどんな決着をつけていいのか、わからなくなってしまうにちがいない。 

≪068≫  かくて、クラークはわれわれ自身が継続的な「生まれながらのサイボーグ」でありつづけるしかないのではないかと言うに至ったのだ。 

≪069≫  MITのニール・ガーシェンフェルドは、以上のような試みをまとめて「ノンフィクション・コンピュータ技術」と呼んだ。なるほど、そういうふうに言ってもいいだろう。 

≪070≫  しかしぼくは、これらはハイパーエディティング・エンジアリングとして総括されていくのがいいと思う。このこと、高野山でアンデイ・クラークも賛同してくれるのではあるまいか。 

≪071≫ (注14)ダニエル・デネットの功績は巨きい。『解明される意識』『ダーウィンの危険な思想』『解明される宗教』『心の進化を解明する』(いずれも青土社)は大いに話題になった。それまでグレーゾーンとしてほっておかれた「問題」を正面に捉えてみせたのである。しかしぼくはその判定力や展望力に一抹の疑問をもってきた。デネットは認知哲学の基礎に「志向姿勢」をおいているのだが、人間の認知には「すっきりできない志向」がもっと混っているだろうというのが、ぼくの見方なのだ。 

≪072≫ (注15)プレゼンス(presence)とは存在感のことであるが、どこかに進んできたときにそこで感じる現前性がプレゼンスなのである。これに対してテレプレゼンス(telepresence)は、遠隔地においても人物や情報の臨場感をつかめることをいうので、その遠隔地点には仮想現実が成立していると、みなされてきた。この用語の発案者はマーヴィン・ミンスキー(452夜)だった。ハインラインのSF小説『ウォルド』に出てくるテレプレゼンス・マスタースレーブ・マニピュレーター・システムがヒントになったらしい。

≪073≫ (注16)ぼくは認知生物学や認知哲学が「抜き型」の発想を導入していないからだと思っている。プレゼンスもテレプレゼンスも主体と対象の、「地」と「図」の、知覚体と情報体の相互の抜き合わせによって生じていると思うべきなのである。 

≪074≫ (注17)新たなサイボーグ論には「障害をもつ主体」や「欠損している身体」についての認知インターフェースから入ってくる必要がある。また「ネオテニーなどによる遅延」や「知覚における保留」も勘定に入れたほうがいいと思われる。ぼくのそうした思想はすでに『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)に提示してある。 

≪075≫ (注18)徘徊ロボットの研究こそ「間身体性」の哲学になる。それにまつわっていれば、「言葉のいいまちがえ」や「文脈の誤読」なども新たなサイバネティクスが探り入れるべきだろう。 

≪01≫  上智大学神学研究科がわれわれ編集組読相派にもたらしてくれたものは少なくないけれど、当時はまだ若かったフランシスコ会の司祭であった小高毅さんによるオリゲネスの本邦初訳は、とりわけ快挙というにふさわしい。

≪02≫  実は困っていた。オリゲネスはヨーロッパ思想史のどんな書物の劈頭にもその名が出てくる教父であるのに、どうもその実像がわからない。「全ヨーロッパの思想はプラトンとオリゲネスの注解にすぎない」、あるいは「ヨーロッパ2000年の哲学史はプラトンの註にすぎないが、ヨーロッパ2000年の思想はすべてオリゲネスが用意した」などと、ヨーロッパ思想史のどんな本の冒頭にも書かれているにもかかわらず、プラトンはともかくオリゲネスについては、日本ではキリスト教の研究者をのぞくと、あまりに語られてこなかったのだ。

≪03≫  たとえば、オリゲネスの次にはプロティノスがヨーロッパ思想史の主要舞台に登場するのだが、日本ではプラトンからプロティノスまでがひとっとびなのだ。

≪03≫  たとえば、オリゲネスの次にはプロティノスがヨーロッパ思想史の主要舞台に登場するのだが、日本ではプラトンからプロティノスまでがひとっとびなのだ。

≪05≫  エウセビオスの『教会史』(講談社学術文庫)によれば、オリゲネスは二世紀のアレクサンドリアの人である。ここにはオリゲネスを筆頭にアタナシオス、キュリロスらのすぐれたキリスト者が登場したが、アレクサンドリアがそのような古代キリスト者の最初の思想を生んだ意外性については、いまひとつ日本人にはピンとこないものがある。

≪06≫  もともとアレクサンドリアはアレクサンドロス(アレキサンダー大王)に因んでつくられた当時の世界最大の人工都市で、かつ学芸都市であり、かつまたきわめて流動的な移民都市だった。そこにはマケドニア人とギリシア人とユダヤ人が密集していた。約70万巻の書籍を収納した「ムセイオン」が完成したころには、だいたい人口100万人にまで膨らんでいた。

≪07≫  そういう古代の大都市アレクサンドリアにユークリッド、アルキメデス、アリスタルコスらが陸続と登場し、アリストテレス型の学芸の贅を尽くしたのは当然で、それこそがヘレニズムの牙城というものだった。『旧約聖書』のギリシア語訳(70人訳聖書)もそのころできあがっている。

≪08≫  が、その成果をオリゲネスが受け継いだのではない。アレクサンドリアの学芸は紀元前でいったん衰退した。アレクサンドリアの繁栄と過熱はキリスト出現以前のことであり、『新約聖書』到達以前のことだったのである。

≪09≫  それが新たな容姿をもって復活してくるのは、キリストとほぼ同世代のフィロンが登場したころ、ここにネオプラトニズムとグノーシス主義が芽生えてからのことだ。フィロンはユダヤ人であるが、この復活アレクサンドリアの哲人はユダヤ教というよりも、ネオプラトニズムとグノーシスに通じていた。フィロンだけではない。多くのヘレニックなユダヤ人はそういう趣向をもっていた。

≪010≫  つまりは、ここにはまだキリスト教団が進出していない時期、はやくも異教異端の炎が燃え上がっていたということになる。

≪011≫  2世紀、パンタイノスとクレメンスとオリゲネスを生んだアレクサンドリア教会が産声をあげたのは、こうした背景のなかでのことである。オリゲネスがネオプラトニズムとグノーシス主義の渦中で「原点としてのキリスト教」を確立しようとしたのは、こういう事情と関係している。もっともオリゲネスはアレクサンドリア教会で活動や執筆をしたわけではなかった。伝道師に任命されてからは、パンタイノスが開いた「ディダスカレイオン」(キリスト教を学ばせる学校)をクレメンスから継承して、そこで参会者を集めて口述著述した。口述を始めたのが218年だった。

≪012≫  ディダスカレイオンは学校というよりも私塾である。オリゲネスは教会活動や学校での教授活動よりも、ディダスカレイオンでの口述を重視した。そのほうが性にあっていた。本当の思考というものは、アリストテレスもアウグスティヌスも空海も宣長もそうだったけれど、往々にして私なる塾から生まれる。

≪013≫  エウセビオスの『教会史』(講談社学術文庫)によれば、オリゲネスは二世紀のアレクサンドリアの人である。ここにはオリゲネスを筆頭にアタナシオス、キュリロスらのすぐれたキリスト者が登場したが、アレクサンドリアがそのような古代キリスト者の最初の思想を生んだ意外性については、いまひとつ日本人にはピンとこないものがある。

≪014≫  もともとアレクサンドリアはアレクサンドロス(アレキサンダー大王)に因んでつくられた当時の世界最大の人工都市で、かつ学芸都市であり、かつまたきわめて流動的な移民都市だった。そこにはマケドニア人とギリシア人とユダヤ人が密集していた。約70万巻の書籍を収納した「ムセイオン」が完成したころには、だいたい人口100万人にまで膨らんでいた。

≪015≫  そういう古代の大都市アレクサンドリアにユークリッド、アルキメデス、アリスタルコスらが陸続と登場し、アリストテレス型の学芸の贅を尽くしたのは当然で、それこそがヘレニズムの牙城というものだった。『旧約聖書』のギリシア語訳(70人訳聖書)もそのころできあがっている。

≪016≫  が、その成果をオリゲネスが受け継いだのではない。アレクサンドリアの学芸は紀元前でいったん衰退した。アレクサンドリアの繁栄と過熱はキリスト出現以前のことであり、『新約聖書』到達以前のことだったのである。

≪017≫  それが新たな容姿をもって復活してくるのは、キリストとほぼ同世代のフィロンが登場したころ、ここにネオプラトニズムとグノーシス主義が芽生えてからのことだ。フィロンはユダヤ人であるが、この復活アレクサンドリアの哲人はユダヤ教というよりも、ネオプラトニズムとグノーシスに通じていた。フィロンだけではない。多くのヘレニックなユダヤ人はそういう趣向をもっていた。

≪010≫  つまりは、ここにはまだキリスト教団が進出していない時期、はやくも異教異端の炎が燃え上がっていたということになる。

≪019≫  2世紀、パンタイノスとクレメンスとオリゲネスを生んだアレクサンドリア教会が産声をあげたのは、こうした背景のなかでのことである。オリゲネスがネオプラトニズムとグノーシス主義の渦中で「原点としてのキリスト教」を確立しようとしたのは、こういう事情と関係している。もっともオリゲネスはアレクサンドリア教会で活動や執筆をしたわけではなかった。伝道師に任命されてからは、パンタイノスが開いた「ディダスカレイオン」(キリスト教を学ばせる学校)をクレメンスから継承して、そこで参会者を集めて口述著述した。口述を始めたのが218年だった。

≪020≫  ディダスカレイオンは学校というよりも私塾である。オリゲネスは教会活動や学校での教授活動よりも、ディダスカレイオンでの口述を重視した。そのほうが性にあっていた。本当の思考というものは、アリストテレスもアウグスティヌスも空海も宣長もそうだったけれど、往々にして私なる塾から生まれる。

≪013≫  エウセビオスの『教会史』(講談社学術文庫)によれば、オリゲネスは二世紀のアレクサンドリアの人である。ここにはオリゲネスを筆頭にアタナシオス、キュリロスらのすぐれたキリスト者が登場したが、アレクサンドリアがそのような古代キリスト者の最初の思想を生んだ意外性については、いまひとつ日本人にはピンとこないものがある。

≪014≫  もともとアレクサンドリアはアレクサンドロス(アレキサンダー大王)に因んでつくられた当時の世界最大の人工都市で、かつ学芸都市であり、かつまたきわめて流動的な移民都市だった。そこにはマケドニア人とギリシア人とユダヤ人が密集していた。約70万巻の書籍を収納した「ムセイオン」が完成したころには、だいたい人口100万人にまで膨らんでいた。

≪015≫  そういう古代の大都市アレクサンドリアにユークリッド、アルキメデス、アリスタルコスらが陸続と登場し、アリストテレス型の学芸の贅を尽くしたのは当然で、それこそがヘレニズムの牙城というものだった。『旧約聖書』のギリシア語訳(70人訳聖書)もそのころできあがっている。

≪016≫  が、その成果をオリゲネスが受け継いだのではない。アレクサンドリアの学芸は紀元前でいったん衰退した。アレクサンドリアの繁栄と過熱はキリスト出現以前のことであり、『新約聖書』到達以前のことだったのである。

≪017≫  それが新たな容姿をもって復活してくるのは、キリストとほぼ同世代のフィロンが登場したころ、ここにネオプラトニズムとグノーシス主義が芽生えてからのことだ。フィロンはユダヤ人であるが、この復活アレクサンドリアの哲人はユダヤ教というよりも、ネオプラトニズムとグノーシスに通じていた。フィロンだけではない。多くのヘレニックなユダヤ人はそういう趣向をもっていた。

≪018≫  つまりは、ここにはまだキリスト教団が進出していない時期、はやくも異教異端の炎が燃え上がっていたということになる。

≪019≫  2世紀、パンタイノスとクレメンスとオリゲネスを生んだアレクサンドリア教会が産声をあげたのは、こうした背景のなかでのことである。オリゲネスがネオプラトニズムとグノーシス主義の渦中で「原点としてのキリスト教」を確立しようとしたのは、こういう事情と関係している。もっともオリゲネスはアレクサンドリア教会で活動や執筆をしたわけではなかった。伝道師に任命されてからは、パンタイノスが開いた「ディダスカレイオン」(キリスト教を学ばせる学校)をクレメンスから継承して、そこで参会者を集めて口述著述した。口述を始めたのが218年だった。

≪020≫  ディダスカレイオンは学校というよりも私塾である。オリゲネスは教会活動や学校での教授活動よりも、ディダスカレイオンでの口述を重視した。そのほうが性にあっていた。本当の思考というものは、アリストテレスもアウグスティヌスも空海も宣長もそうだったけれど、往々にして私なる塾から生まれる。

≪021≫  こうしてオリゲネスの思索はしだいに聖書研究に傾注される。ただし邪魔がいた。その邪魔によって聖書を字句通り読むことが妨げられていた。それがグノーシスである。これは手ごわい敵だった。当時、グノーシスを根底批判できるキリスト者なんて一人もいなかった。

≪022≫  いったいギリシア思想の究極の裏面をあらわしているのか、それともキリスト教に隠れた恐るべき神秘なのか、その真の正体をいまもって明確に指摘しえないグノーシスについては、ここでぼくが安易に説明するところではないのだが、一言でいえば、キリスト教をその叡知のかぎりで追究することによって、逆にキリスト教の全体を内部崩壊させる刃を秘めているものと考えればいいだろう。内なる寄生者が外なる宿主を食いやぶりかねないもの、それが「知識」の両刃の剣としてのグノーシスだったのである。

≪023≫  そこで、ちょっと乱暴な言い方をするのなら、オリゲネスはそのグノーシスと全面対決することを覚悟したのだろう。そのために去勢までしたとも噂された。いわゆるオリゲネス閹人説である。

≪024≫  こうした覚悟がオリゲネスに芽生えた理由はさだかではないが、おそらくはアレクサンドリアに新たな事件がおこったことと関係がある。215年前後のこと、カラカラ帝がアレクサンドリアを訪れた。このとき学生たちがこのローマ皇帝に猛反発をした。怒った皇帝は学校を閉鎖し、学生を虐殺し、教師を追放しようとした。オリゲネスは知人たちの勧めで、このときカッパドキアに落ちのびたのだ。

≪025≫  オリゲネスはそこで娘に救われ、さらにパレスチナまで赴いている。この逃亡と巡礼がオリゲネスを変えたようだ。それとともにグノーシスとの全面対決姿勢がゆっくり融和された。グノーシスを吸収しつつもキリスト教思想を確立しきってしまうこと、それがオリゲネスの新たな目標になったのだ。

≪026≫  のちにポルフュリオスが書いたように、その試みはへたをすれば「外国の寓話にギリシアの理念を導入した」ともとられかねないものだったが、しかしオリゲネスは聖書解釈に戻ってこれをなしとげた。グノーシスからの摂取をあえて断片におさえ、さらに暗示にとどめるように工夫しきったのである。もっと正確にいえば(キリスト者の側からの言い方をすれば)、オリゲネスはグノーシスを本来の意味における「知識」(もともとグノーシスとは「知識」という意味である)として使える方法をつくりだしたのだ。

≪027≫  もしこのような試みをオリゲネスが確立しなかったなら、その後のキリスト教思想もヨーロッパ思想もどうなっていたかはわからない。グノーシスによって崩されていたかもしれない。だからこそオリゲネスの試みは「ヨーロッパ2000年の思想の原点」と言われたのだ。最初の聖書神学の誕生だったのだ。

≪028≫  オリゲネスはそういう新たな知的拠点づくりの表現にあたっては主として3つのスタイルをとった。スコリア(評注)、ホミリア(聖書講話)、コンメンタリウム(注解)である。この方法は、グノーシスを捨てないでグノーシスに犯されないための有効な方法だった。こんなことができたのは、オリゲネスが若い日にプラトンやギリシア語(コイネー)に通じていたせいだと思う。

≪029≫  次に、キリスト教の神学的10原則ともいうべきを打ち立てた。小高毅さんの説明を借りつつまとめなおすと、ざっと右次のようなものである。

≪01≫  マクルーハンが『機械の花嫁』(1951)をひっさげて登場したとき、英語圏の学者たちはこれを嘲笑し、罵倒した。その後の誤解も甚だしい。 

≪02≫  マクルーハンの著書は『グーテンベルクの銀河系』(1962「千夜千冊」第70夜参照)や『メディアの理解』(1964)をはじめ、だいたいがベストセラーにはなったものの、そのつど非難の嵐にも巻き込まれていた。何を言っているかわからない、論理がない、飛躍ばかりだ、例題ばかりだ、云々侃々。 

≪03≫  レヴィンソンはまずその誤解を解くことと、マクルーハンの思考法にきわだった特質があることから本書を書いた。そしてマクルーハンがアナロジーとメタファーをもって思考していたことを強調する。なぜそうしたのかは、レヴィンソンのあれこれの説明を読むよりステファヌ・マラルメが1886年にとっくに書いたこと、すなわち「定義することは殺すこと、暗示することは創造すること」を思い出したほうがよい。 

≪04≫  マクルーハンは「ホット対クール」「透過光対反射光」「聴覚的空間対視覚的空間」といった刺激的な対比を好んだ。 

≪05≫  そして「ラジオがホットで、テレビがクールだ」といった当時の学識にとっては愕然とする解答をいくつも用意した。たとえば、テレビにとって映画のスクリーンにあたるものは何かという問いに、何と答えればいいだろうか。おそらくは多くがブラウン管と答え、もうちょっと知識がある者なら、そこに透過光としての特色を付与したくなるにちがいない。 

≪06≫  ところがマクルーハンは、こう答えた。「テレビの場合は、映画のスクリーンにあたるのは視聴者である」。 

≪07≫  では、パソコンはどうか。パソコンにおけるスクリーンは画面だろうか。インターフェースだろうか。パソコンにおけるスクリーンはマクルーハンにとってはユーザーの意識なのである。 

≪08≫  こういう解答には共通する特徴がある。それはマクルーハンが、われわれの意識の焦点をなんとかコンテンツからメディア自体に移させようとしていたということだ。 

≪09≫  マクルーハン自身も「メディアのコンテンツなんていうものは、強盗が精神の番犬の気をそらすために携える血のしたたる肉のようなものだ」と言ってのけたことがある。 

≪010≫  とくに「テレビが先に登場していたら、そもそもヒトラーなぞは存在しなかったろう」は有名だ。そればかりか、実は「ユーザーがコンテンツなのだ」とさえ言い切ったのである。 

≪011≫  こういう考え方はあきらかにメディア決定論である。しかも、そう言ってよければ、メディア絶対主義である。 

≪012≫  レヴィンソンはその一刀両断に感動しながらも、このあたりからマクルーハンの解釈をやや質的に変化させようと試みる。レヴィンソンは、マクルーハンが電子メディア時代をある程度は予告していたとはいえ、今日のようなウェブ・ネットワークでつながったデジタル・コンテンツ時代まで読みきってはいないとみて、ここからはマクルーハンに代わってみずからがデジタル・マクルーハンになっていく。
そして「コネクテッド・エデュケーション」の企画者と啓蒙者になっていく。 

≪013≫  レヴィンソンがデジタル・マクルーハンになるにあたってマクルーハンから継承した思想がある。それはマクルーハンの次の言葉によくあらわれている。 

≪014≫  「私がずっと追求してきた「モザイク的手続き」は、場を通った光を待つものであって、場の上に光をあてようとするものではありえない」。 

≪015≫  このマクルーハンの方法の魂はすばらしい。ぼくも諸手をあげて賛成する。 

≪016≫  なぜなら、ここには第1に、学習と手続きは一緒のことだということが明示されている。第2に、その手続きと学習には「場」が必要であることも断言されている。第3に、その「場」はドアや躙口や木戸のように通過するものであって、そこで絵を読むためのものではないことも予告されている。 

≪017≫  まさにそうなのである。 このことを前提にしない学習理論もコンピュータ理論もつまらない。相手にしないほうがいい。 そうではあるのだが、ただし問題はこの「場を通った光を待ちながら学習するという方法」をどのように実現するかなのである。そして、その「場」と「光」とは何なのかということなのだ。 

≪018≫  だいたい「場を通って」というときの「場」の設定が難しい。この「場」はコンピュータ・ネットの中のレイヤーなのか、通過学習をするためのテンプレートなのか、それともネットにぶらさがっている教室なのか、自然にユーザーが離合集散するラウンジなのか、それともオフラインのユーザー・コミュニティをも含むのか。 

≪019≫  ぼく自身はこれらの「場」の問題を「ISIS編集学校」の実験と実践を通してしだいに解決しつつあるのだが(編集学校をお知りになりたい方はこちらへ)、マクルーハンとデジタル・マクルーハンは、この問題にはまだ目をつぶったままのようである。 

≪020≫  けれども、ぼくも「光」のほうの決着がつかないでいる。裸のコンテンツではない、先生の声や笑顔でもない、パソコンの中にリアルビデオが入るのでもない、ましてアーカイブからの情報の引き出しでもない、けれどもまさか「意識」とは言えまい、というところまでは見当がつくが、実はそのいずれをも取り込んだもののようにも思えるため、やや逡巡している。 

≪021≫  いまはきっと「文楽」のようなありかたではないか、と予想をつけているのだが、さて、それをどうデジタル・マクルーハンにしていくか。 

≪022≫  ところで、マクルーハンは電子メディアを「肉体のない悪魔」とみなすことが多かったため、そこにはエロスよりもタナトスが醸し出されると見たけれど、レヴィンソンはデジタルメディアにはエロスではなくリビドー(性衝動)が出入りすると見る。 

≪023≫  まあ、当たっているだろう。けれどもちょっと面倒なのは、電子メディアに接触しつづけているユーザーのリビドーがアタマの中の何に対応しているかということである。 

≪024≫  このことは本書だけでは解けない。むしろ時代を戻って、ロックのリビドー、何台ものカメラによるスポーツ中継のリビドー、ファミコンのリビドー、親指ケータイ・オンデマンドリビドーといったものを見当する必要がある。 

≪025≫  われわれは、なぜかこの10年というもの、いやパソコンが登場してからの、インターネットが出現してからのわれわれが体験していることを、どうも検証できない病気にかかっているようだ。そろそろ症状を自己申告したほうがいいのではあるまいか。 

SNS。ソーシャル・ネットワーク・サービス。

この蠱惑的なサイバー領域にユーザーはわんさと群がり、多くの起業家がはまり、それなのに、僅かな成功例を除いて次々に討ち死にしている。

そんななか武田隆のエイベック研究所は長期にわたって企業コミュニティをつくってきた。

いったい何がかれらを成功に導いたのか。

その秘訣を武田本人が本書にあかした。

ソーシャルビジネスって何なのか。 

≪01≫  かつて福澤諭吉(412夜)は「ソサエティ」を「人間交際」と訳したものだった。実にうまい翻訳だ。それに倣えば最近の「ソーシャル」は「社交的」と訳すのがいいかもしれない。 

≪02≫  SNS(ソーシャル・ネッワーク・サービス)の元祖は、スタンフォード大学の卒業生が始めたフレンドスターだった。やがて雨後のタケノコのように類似ソフトや類似サービスが試みられて、「人脈の見える化」が進んだ。その後発の後発として数年前に大当たりしたのがフェイスブックだ。 

≪03≫  人脈? その「見える化」? 何をいまさら「人脈の見える化」かと思うだろうけれど、人口の密集する都市社会では、実は自分の趣向や好みに応じた人脈はできにくい。ニンゲンたちがあまりに細かく枝分かれ、重なりあっているため、かえって気にいった出会いが遠くなる。異なった点の稠密な集合から似たものどうしの点をつなぐ線を発見するのが、難しいのだ。 

≪04≫  だからこそ合コンや結婚相談所や出会い系サイトなどがハヤってきた。都市ではつながりのための「もうひとつの場」が必要なのだ。そうなると、その「場」がもたらす「名簿」こそが新たなヒューマン・キャピタルになってくる。リクルートを起業した江副浩正が最初に集めまくったのも、各大学の卒業名簿だったものだ。 

≪05≫  SNSの出現は、異なった情報をユニバーサルに扱うのではなく、マルチバーサルに扱っている。そのうえでそこから必要な“引っ張り出し”をつくろうとしているSNSの方法は、そうか、ああすれば成功するのかという、ひとつの例だった。 

≪06≫  しかし、マルチバーサルな“引っ張り出し”によって新たな(いわゆるソーシャルな)「つなぎ」や「絆」が結ばれていくには、それなりに適切な社会的なエディティング・フィルターが考案される必要があった。 

≪07≫  かつてハンナ・アーレント(341夜)は、そのエディティング・フィルターにあたるものは必ずや「アテンション」(注意・注目)によっておこるだろうと見抜いた。  

≪08≫  おおむね社会的ニンゲンは、自分の出身や所属組織をあきからさまにする以外に、自分の属性をうまく明示することが難しい。仮に出身や属性を安易に社会化してしまうと、今度はしだいにそのレッテルに束縛されることになる。差別もおこる。だから子供の頃から通信簿や病名は伏せられる。ときに親の職業も伏せられる。そういう社会史も長かった。 

≪09≫  では、代わりにどうするのか。どうなったのか。大衆社会の浸透とともに、だいたいは「ラーメンが好き」「山登りが趣味」「どこそこの店によく行く」といった、自分の自分らしさをあらわすロイヤルティの説明にふさわしそうなエディティング・フィルターを、自他に負荷がかからない程度につかうようになった。 

≪010≫  アーレントは、そのフィルターがそもそもアテンションの交差によるものだと見たわけである。編集工学ふうにいえば「注意のカーソル」が交差するところに、異質なものの集合から新たな縫合がおこると見たわけだ。 

≪011≫  このような傾向がウェブ2・0以降、一挙にオンライン上でもののみごとに加速していった。エジプトやリビアのジャスミン革命にまで及んだ。それがソーシャル・メディアの“社会的”ではない“ソーシャル”という特色だった。こうして気がつけばSNS時代になっていたわけである。 

≪012≫  SNSはひとえに人のつながりを重視する。それはアテンションによるつながりで、マルチバーサルな「ヘテロジニティ」(heterogenety)で成り立っている。  

≪013≫  加えてSNSは、そのアテンションの交差の記録がすべからくデシタルデータで消えないものだったので、その交差の“生きざま”の大半を測定可能なものにした。さらにはインターネットの特性である「レビュー」機能や「足あと」機能によって、参加ユーザーが充実した情報を実感しうるようにした。また「ロングテール」の積み重ねが意外な加算力を生むことも示した。グーグルやアマゾンの圧倒的な勝利はこれらのことにいちはやく気がつき、それを疑いなく徹底実践していったことによる。  

≪014≫  そのことを「ワイアード」の編集長でもあったクリス・アンダーソンは『フリー』(NHK出版)のなかで、「オンラインでおこっているのは、注目と評判が測定可能になったことだ」と述べ、さらにここには「注目の経済」(アテンション・エコノミー)がおこっていると言った。 

≪015≫  一方、SNSはそのぶん「フラット、オープン、オンリー」をめざしたために、収益化モデルを限定することになった。勝ち抜けのビジネスパターンが絞られてしまった。グーグルの勝利はそれを一挙に先行させたことによる。それは後発の事業参入者が苦戦を強いられたことにもなった。 

≪016≫  ところが、そうした収益化モデルではないビジネスモデルも実はありえたのである。エイベックはそこを突いていた。 

≪017≫  本書は、エイベック研究所の武田隆が自身の会社成長の苦労と矜持を跡付けながら書いた一冊である。この手の本にはたいていは自慢しすぎ、訳知りのノウハウ解説、針小棒大の誇張がつきまとうものであるが、めずらしく好感をもって読めた。きっと担当編集者のアドバイスが効いたのではないかと思う。 

≪018≫  エイベック研究所のビジネスモデルは、オンラインの「企業コミュニティ」を提案してこれをじっくり育て、企業の増収増益に寄与することにある。この企業コミュニティは「スポンサード・ソーシャルメディア」というもので、エイベックはこのビジネスモデルを研究開発するために数年をかけ、15億円をつぎこんだ。  

≪019≫  かくして本書にも詳しく紹介されている花王、ユーキャン、ドクターシーラボ、週刊アスキー、レナウン、カゴメ、ベネッセなどで企業コミュニティを成功させ、マーケティング効果を収めた。 

≪020≫  成功の秘訣はいろいろあったようだが、そのひとつに「20名の法則」の発見があった。ユーザーとユーザー、企業とユーザーと事務局の関係構築には、その場がどのように活性化するのか、その具合を適確につかむ必要があるのだが、エイベックはおよそ参加ユーザー20名前後のところで、その場が急に不活性になることをつきとめ、これを超えると「思いやり」がゆきとどかなくなるだけではなく、かえってマイナス効果も生じることに気がついたのだ。 

≪021≫  これは不特定のユーザーが出入りするソーシャルメディアを使いながらも、そこに独自の「縮み思考」を導入した例として、特筆される。 

≪022≫  そもそもソーシャルメディアは広告やマーケティングにはあまり向いてないのではないかとされてきた。実際にも、日本の一般的なバナー広告のクリック率はわずか0・09パーセントの平均点で、よくって1・3パーセント程度なのだ。 

≪023≫  またソーシャルメディアには不毛なコミニュニケーションが孕んでくる危険が付きまとうとも見られてきた。BBS(電子掲示板)やニフティ・サーブやホームページのブームに始まって、ブログ、ミクシイ、2ちゃんねる、フィエスブック、ツイッターというふうに進化してきたSNSは、その危惧をいまなお除去しきれていない。そのためハヤリのサイトが休業に追いこまれる例も少なくない。  

≪024≫  バナー広告がダメなら、企業がクチコミ発信者を雇って一般ユーザーを装わて企業宣伝の一翼を担わせようという手もいろいろ試みられた。だが、これもなかなかうまくいなかった。むしろ企業のわざとらしい「偽装」はたいていが炎上を招いた。  

≪025≫  ウォルマートの例だが、一般カップルがウォルマートを使ってアメリカを横断するというブログを偽装したときは、たちまち炎上した。マイクロソフトも新商品の発売にあたってブロガーに記事を書かせたのだけれど、すぐにその「やらせ」に批判が集中し、マイクロソフトは謝罪した。 

≪026≫  そこで、企業自身が自社のウェブサイトにソーシャルメディアを開設し、そこにコミュニティを形成する方式が注目されるようになったわけである。エイベックはその泰斗となった。 

≪027≫  武田は日大の芸術学部の出身だ。大学時代に武邑光裕に師事し、大きな影響をうけた。武邑はぼくも早くに出会っていろいろ話しこんだメディアアート学の異才で、当時すでにサイバーカルチャーの先端を切れ味よく解読していた。『メディア・エクスタシー』『デジタル・ジャパネスク』などの著書がある。その言動にはいささか神秘主義のコクと香りが漂っていたが(それがまた魅力でもあったが)、あの切れ味は最近のメディア論者たちにはまったく見当たらない。それほどユニークだった。 

≪028≫  この武邑の授業のなかで、武田はまだ生まれたてほやほやのインターネットを見た。びっくりしたし、ピンときた。ここに飛び込もうと決断した。武田はすぐさま学生ベンチャーを起業した。1994年のことだ。以来エイベックは、ずっとオンライン・コミュニティにフォーカスを絞って仕事をしてきた。 

≪029≫  その基本方針は、次の図にある。タテ軸にネットワークの「拠りどころ」を、ヨコ軸にユーザーの「求めるもの」をとったマップだ(図参照)。 

≪030≫  単純な図だが、これによって4つの象限エリアを見えるようにして、どこにどのようなはたらきかけをすれば、重複と過疎化を排除する「集合知」が活性していくかを定められるようになった。ネットユーザーたちは匿名性がいいのか実名性がいいのか、関係構築をはかりたいのか、情報交換だけをしたいのか、この4象限がその濃淡をあらわした。 

≪031≫  エイベックが次に研究したのは、ソーシャルメディアを「公」と「私」のどこに位置づけるのかということだ。結論は「公」でも「私」でもなく、その両方である「共」をめざすというものだった。 

≪032≫  この結論は大きい。ネットワーク社会というもの、なかなか一筋縄ではいかない。炎上やフレーミングがしょっちゅうおこるし、たえず「繭化」(コクーン化)がおこる。ビョーキも多い。日本から300万人以上が参加しているネットワークゲーム「ラグナロク・オンライン」などでも、けっこうなネトゲ廃人を輩出している。宮台真司(1458夜)が言うように「仲間以外はみな風景」となる場合も少なくない。 

≪033≫  これらは「公」と「私」が両極に片寄って極端化しているためで、あいだの「共」が欠けるのだ。かくて武田は「共」のためのソーシャルメディアの探求に乗り出し、企業に行きついた。企業こそは、そもそもが多様な個人を集合離散させているネットワーク・ハブだとみなしたのだ。その企業をスポンサーとして説得できれば、ソーシャルメディア型のコミュニティが育つはずだと考えた。 

≪034≫  これは、その後のミクシィやフェイスブックがあくまで個人による個人のためのメディアにとどまっていて、それらがいくらハヤってもそこに企業がつながることが難しいという隘路を突破するものだった。 

≪035≫  もっとも、武田はそのような企業をつかむために、12年間で2000社を自分でまわってきたという。そのうえで約300社と大小さまざまな仕事をするようになったという。 

≪029≫  その基本方針は、次の図にある。タテ軸にネットワークの「拠りどころ」を、ヨコ軸にユーザーの「求めるもの」をとったマップだ(図参照)。 

≪030≫  単純な図だが、これによって4つの象限エリアを見えるようにして、どこにどのようなはたらきかけをすれば、重複と過疎化を排除する「集合知」が活性していくかを定められるようになった。ネットユーザーたちは匿名性がいいのか実名性がいいのか、関係構築をはかりたいのか、情報交換だけをしたいのか、この4象限がその濃淡をあらわした。 

≪031≫  エイベックが次に研究したのは、ソーシャルメディアを「公」と「私」のどこに位置づけるのかということだ。結論は「公」でも「私」でもなく、その両方である「共」をめざすというものだった。 

≪032≫  この結論は大きい。ネットワーク社会というもの、なかなか一筋縄ではいかない。炎上やフレーミングがしょっちゅうおこるし、たえず「繭化」(コクーン化)がおこる。ビョーキも多い。日本から300万人以上が参加しているネットワークゲーム「ラグナロク・オンライン」などでも、けっこうなネトゲ廃人を輩出している。宮台真司(1458夜)が言うように「仲間以外はみな風景」となる場合も少なくない。 

≪033≫  これらは「公」と「私」が両極に片寄って極端化しているためで、あいだの「共」が欠けるのだ。かくて武田は「共」のためのソーシャルメディアの探求に乗り出し、企業に行きついた。企業こそは、そもそもが多様な個人を集合離散させているネットワーク・ハブだとみなしたのだ。その企業をスポンサーとして説得できれば、ソーシャルメディア型のコミュニティが育つはずだと考えた。 

≪034≫  これは、その後のミクシィやフェイスブックがあくまで個人による個人のためのメディアにとどまっていて、それらがいくらハヤってもそこに企業がつながることが難しいという隘路を突破するものだった。 

≪035≫  もっとも、武田はそのような企業をつかむために、12年間で2000社を自分でまわってきたという。そのうえで約300社と大小さまざまな仕事をするようになったという。 

≪036≫  企業のホームページの変遷は、時期とともに、企業の特性とともに急速にしてきた。花王を例にとると、花王が企業サイトをもったのは1994年である。編集制作費用をかけ、良質なコンテンツを提供しようとした。  

≪037≫  大いに当った。これはメディア的な手法だった。まだインターネットにウェブサイトが少ない90年代は、それでもコンテンツが目を引きさえすれば消費者の訪問を保持することができたのだ。それが2000年代になると、一般の新聞・雑誌・メディア業者が一斉にウェブに進出していったため、コンテンツだけを誇ろうとしても企業がアクセス数をとることが難しくなった。とくにリピーターがとれない。 

≪038≫  そこで検索サイトを利用して、キーワード検索するユーザーを企業サイトに飛ばせるような工夫をするようになった。花王も2003年にそのようにした。同社に蓄積されている情報を顧客が検索しやすいように編集し、辞書として使えるように切り替えたのだ。花王ウェブ制作部長の石井龍夫は、これを「ツールの時代」と呼んで、それ以前の「メディアの時代」と区別した。他社のウェブサイトも軒並みにそうするようになったのだが、そのぶんどんな作業もシステムと不即不離に融合するようになっていった。 

≪039≫  そのころ、約2年に及んだ開発期間をへてやっと企業コミュニティのα版にこぎつけていたエイベックは、それまでの企業サイト制作事業からの撤退を決めていた。 

≪040≫  ソーシャルメディアの第2世代「ツールの時代」の企業サイトは、しかしだんだん運営費用がかさんでいった。まずウェブ担当者が知らなければならないシステム技能やソフト機能が加速的にふえ、情報ストックを維持するコストに荷重がかかっていった。のべつ新たなシステムに作り替えなければならなくなったのだ。 

≪041≫  おまけにネット上に次々に「お役立ち辞書」がふえていったので、消費者のアテンションを特定企業に引き付けておくことが至難になってきた。それにつれ消費者との双方向のコミュニケーションの“果実”がとれなくなってきた。 

≪042≫  こうして2007年、花王は第3世代の「場の時代」に移行することを決める。それがエイベックが用意した、企業と顧客が双方向で対話する企業コミュニティだったのである。 

≪043≫  石井も「いまや企業は顧客と対話する時代に入った」と判断した。たとえば花王の看板商品メリーズの消費者のための「ピカママ」は、メリーズの利用についての説明ではなくて、利用者が子供の誕生日を入力すると、同じ月齢のお母さんたちが集まるサークルに入れるようにし、そのコミュニティが盛り上がった度合いに応じて、花王からのプレゼントが贈られてくるというふうなったのだ。 

≪044≫  エイベックの戦略は、企業の公式サークルとはべつにユーザーサークルを次々につくりあげていくというものだ。 

≪045≫  カゴメのユーザーサークルでは、トマトジュース用の特別トマトの苗を「凛々子」と名付けて贈るようにした。ただ贈るのではない。ユーザーたちはその苗を育てた記録を見せあってコミュニケーションをする。収穫から次の苗を育てるまでの冬の期間は、みんなで川柳大会を開いた。 

≪046≫  ユーキャンでは、一方で「合格通知」や「質疑応答」を公式サークルで受けておき、他方で受講者がオーナーになって双方向コミュニケーションができる場をつくっていった。レナウンの場合はダーバンを取り扱う店舗たちに企業コミュニティの中心を担ってもらった。 

≪047≫  そもそもコミュニティがうまくはこぶには、欠かせないものが二つある。「役割の設定」と「報酬の設定」だ。プラクティスとインセンティブである。しばしば報酬(インセンティブ)ばかりが重視されるけれど、実はコミュニティにおいては参加者に役割(プラクティス)を与え、それにやりがいを感じてもらうことがもっと効果的なのである。 

≪048≫  また、参加者のなかに“活発者”を発見することも欠かせない。ふつう、どんなコミュニティでも活発な発言者はせいぜい5パーセントくらいなものなのだが、この5パーセントこそがその場の命運を握るのだ。かれらは他者のために「もてなし」をしたい“活発者”なのである。つまりこの利他的な連中こそがネットワークの“ハブ”なのだ。 

≪049≫  エイベックではこれを「サポーター」と名付け、その正体をつきとめることに全力を上げた。ドクターシーラボが化粧品の通信販売を14億円に延ばしたときは、「ミッピイ」さんというサポーターが大きな“ハブ”の役割をはたした。 

≪050≫  これを社会学やマーケティングでは「関与モデル」の活性化という。自分がかかわっている出来事や変化が「わが事化」すること、それが「関与モデル」の一騎当千の作用力なのである。「わが事化」とは、それにかかわることのレリバンシーが高まることをいう。 

≪051≫  企業にはどうであれ、ブランドというものがある。ブランドはもともとは家畜にほどこす焼印に由来したものだが、これを「商標」とみなしていては今日の社会や市場では、もはやまにあわない。  

≪052≫  以前のブランドはメーカー企業の有名商品が誇るものだった。その後は消費者がすすんでつけるステータス・バッジのようなものになった。80年代からのDCブランドなどは、その象徴だった。みんながシャネルやグッチのバッグを見せびらかすようになった。だから企業や広告代理店は顧客を囲い込む作戦をあれこれ立て続ければなんとかなった。そしてシャネルやエルメスのように、消費者や顧客の「憧れ」を維持させていればよかった。 

≪053≫  しかし、21世紀のネットワーク社会になると、そんなものではなくなってきた。いまや企業は顧客を囲い込むのではなくて、顧客に囲い込まれるべきなのである。広告代理店にはできない相談だ。 

≪054≫  そうした顧客が企業にもたらす継続的な価値を、マーケティングの用語ではLTV(ライフタイムバリュー)という。文字どおりは顧客生涯価値だが、その顧客がブランドにもたらした利益を累計したものをさす。そこにブランドに対するロイヤルティ(帰属意識)が見える。だからLTVを高めることは企業の市場命令だ。 

≪055≫  けれどもネット社会では、これがなかなかつかめない。売行きだけでも売り場だけでもまったくわからない。POSデータでもわからない。空疎なビッグデータがたまるばかりで、なかなかその中味が解読しきれない。顧客が何をもってブランドに満足しているかのかを、詳しく知る必要があるからだ。顧客満足度の特性をつかむ必要があるからだ。そこに企業コミュニティが機能した。 

≪056≫  もっとも、企業コミュニティが機能しただけでは、そこでLTVに見合うことがどのようにおこっているのかは、まだわからない。そのためエイベックではコミュニティ活動におけるKPI(Key Performace Indicator)を測ることにした。交流量と感謝量の両方のインディケータで満足感や帰属感を推計するものだ。 

≪057≫  武田は、このへんから企業コミュニティのマネタイズ・モデルがつくれそうだという自信をもったようだ。それまで企業は広告かユーザー課金でしかリターンは得られないと思ってきたのだが、もしこのマネタイズ・モデルが実証されれば、きっと企業は企業コミュニティにお金をかけてくれるだろうと踏んだのだ。 

≪058≫  そして、それがそうなったのである。「交流量×感謝量」が「新規獲得×継続利用」につながりうることが実証されたのだ。 

≪059≫  むろん何もかもがうまくいくはずはない。たとえば、どんなコミュニティにも「荒れ」がある。これにも対処できなくてはならない。  

≪060≫  それには、まさかのときのためのリスク対策マニュアルが用意されているのはむろんだが、ひとつには常連グループを重視しておくことが、もうひとつには空気が読めて、それを言語化できるモデレーターに「頼みの綱」を渡しておくことが、さらに重要なのだということがわかってきた。 

≪061≫  武田は、このモデレーターが優秀なレベルで一人か二人いさえすれば、ざっと10万人程度のコミュニティを十分動かしていけるのではないかと言っている。なぜなら、そのモデレーターの言語力は、たとえ1回100文字くらいのメッセージであっても、多くの者が「自分に向けられたもの」と思えるようになるからだ。 

≪062≫  マーケティングとは市場とのコミュニケーションであり、その編集である。そこにはリサーチとプロモーションという両輪がつねに回っている。このことをインターネットに結びつけ、ソーシャルメディアに噛ませるには、けっこう大変な努力が必要だったろうと思う。 

≪063≫  エイベックも順風満帆の日々ばかりではなかったようだ。とくに長い時間をかけて作成した「顧客関係性マップ」がまったく売れなかったときは、キャッシュも底をつき、社員の生活も貧困を極めるようになった。一日の食事がみたらし団子一本になったり、一個のおむすびを昼に半分、夜に半分食べるようになったりした。 

≪064≫  役員は6カ月にわたって無報酬になり、社員の給与も半分になった。やむなく消費者金融に通ってみたが、何かがまちがっているのだと思えるようになるまで時間がかかった。武田たちは満身創痍で脱出口を探す。そうして得たものが、これまでのエイベックのすべてを支えてきたものになる。 

≪065≫  それは、「深い答えは、どんなときも深い質問から生まれてくるものだ」ということだった。 

≪066≫  ソーシャルメディアに欠けていたのは、それだったのだ。武田たちはそれ以来、いつも「一番大事な質問は何か」ということを自分たちで問い、そしてコミュニティに向けていくようになった。そしていまは、次の段階にさしかかっている。その質問の束から「物語」を発見することこそが、企業の将来に寄与するものだと確信するようになったという。 

≪067≫  ぼくもこの一冊からはいろいろ見せてもらった。今夜はその一部始終を紹介できなかったけれど、この本で新たな自信をもつ若いソーシャル・アントレプレナーが出てくるのではないかと思う。ゆっくりマーキングしながら読んでみてほしい。 

≪01≫  文化とは、われわれが自分自身をめぐって自分自身に語る物語の総体である。このように「文化」を定義したのはクリフォード・ギアーツだった。そうだとすれば、物語を語れなくなっているとき、その人の文化、あるいはその共同体の文化はいちじるしく衰退していることになる。 

≪02≫  案の定、ウァルター・ベンヤミンはとっくの昔に、「物語を適切に語れる人になかなか出会えない。譲り渡せない何か――われわれが持っているもののなかでも一番に確実なもの――すなわち、体験を交換する能力が奪われたかのようである」と書いた。 

≪03≫  ベンヤミンのいう物語は自分自身に語る物語ではなく、他人に語る物語である。その物語能力を感じなくなったという。ただしベンヤミンはこれで引き下がったわけではなかった。人々が物語を語れなくなったぶん、それは「情報」となったか、ないしは「情報」と取り替えられたのだとみなした。 

≪04≫  体験を交換する能力が物語だとすると、メディアとは体験を情報パッケージの中の知識単位に変換することである。これが著者のメディアの定義のひとつだ。 

≪05≫  ここで「情報」とは、「多くの人がこういうことを知っているわけではない」という価値をくだされたメッセージのことをいう。とくにデキのよい定義ではないが、著者はこういうふうに見ておいたほうがわかりやすいと考える。この著者はイギリスの文学者であって教育学者で、格別にセンスがいいというわけでもないが、メディア・セオリーについての組み立てがある。  

≪06≫  さて、ベンヤミンが言うように、物語が語れなくなったぶん情報が登場しているのだとすると、情報そのものは物語を含んでいないか、物語の断片か、物語をそうとうにこまぎれなものにしたものだということになる。ということは、この情報をうまく集めて再構成すれば物語がある程度は再生するはずだということになるのだがこれがそうはいかない。 

≪07≫  だいたいいったん断片化した物語要素の数々は、順列組み合わせからみても、元の物語を再生するとは思えない。物語になるとしても、それぞれどこかが違った物語もどきがたくさん出てくるにちがいない。つまり、ここには共通した再構成の方法がない。

≪08≫  そこで、たいていの場合は(というよりも歴史的な順でいうと)、物語は解体して情報となり、その情報が再構成されるにあたっては必ずやメディアを通過したはずなのである。すなわち、ベンヤミンの期待を裏切った物語性は、コモディティ・フォームをメディア技術ごとに変えて、そのメディアの中の情報連鎖として生まれ変わっていったのである。 

≪09≫  ここまでのことは、フレーゲからパースにおよび、さらにソシュールとヴィトゲンシュタインとレヴィ=ストロースが試みた理論によって、だいたいの説明がつく。ようするにセミオティックス(記号論)が到達していたところだ。 

≪010≫  そこでロラン・バルトが登場する。バルトがしたことは第714夜にも書いておいたが、テクストとなった言語そのものが放つ快楽の中に、いつのまにかわれわれが取り込まれていることを、神話・文学・数学・写真・ファッション・広告などのさまざまな例示を通して証したことだ。もっと思いきっていえば、「個人が言語を話すのではなく、言語が個人を話している」と考えたのだ。 

≪011≫  では、「個人が言語を話す」と「言語が個人を話す」のあいだには何の関連もないかというと、むろんそんなことはない。そこに見渡されている関連の廊下というもの、それが「モード」というものだった。 

≪012≫  これは、「意味」というものはそれを乗せている「乗り物」と密接な関係があると言っているわけなのだ。 

≪013≫  こうなると、すでに物語の全容性を失った情報は、モードというコミュニケーション渡り廊下の様式を借りて、語り手と受け手のあいだを、どのようにも往復しているという構図が見えてくる。といことは、モードによるコミュニケーションの往復は、かつての物語に代わる“もうひとつの話し方”を生じているかもしれないということになる。そして、このモードを成立させている多少とも技術的な成果が加わった乗り物こそ、メディアなのだろうということになる。 

≪014≫  つまり、われわれは、映画メディアというメディアがもつモード物語性(=モダリティ)の中で監督が提供する映画内ストーリーという物語を享受し、服装メディアというそれ自体がもっている物語性を知ってのうえで(フレアスカートは女っぽいとか、軍服に似た洋服はアクティブな制度感があるとか)、その洋服からそれを着ている個人の生活的ないしは美意識上のストーリーを感じているということなのだ。 

≪015≫  しかし、ここでちょっと注文がつく。このようなモードを媒介にした情報と物語の関係は、そんなに交換的なのか、対応的なのかという注文だ。 

≪016≫  ウンベルト・エーコはこの交換の厳密性には疑問をもっていて、そのため物理学でいう「場の理論」(フィールド・セオリー)のような作用をメディア・セオリーに導入した。 

≪017≫  エーコが「記号的な意味のもつ根源的な保存力」に異常な関心を示していることは、第241夜の『薔薇の名前』をめぐる複雑な構想によっても示しておいた。そこでも示唆したように、エーコはコミュニケーションやメディアの作用には、その下敷きとして「場」のようなものの力が広く、深く、はたらいていることを見抜いたのだ。 

≪018≫  エーコとは別にこの「場」に気がついたのは、ジャック・ラカンとミシェル・フーコーである。 

≪019≫  ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と喝破したことで有名だが、そこに「意味を解釈する自己」の問題を浮上させて、この「自己」がコミュニケーションにもメディアにもかかわっているとみた。これまた有名な「鏡像過程」の仮説であった。 

≪020≫  幼児が自分を知るうえでひとつの“証拠”となるのは、鏡に映った像を自分だと知れるかどうかということである。そしてその鏡の中の自分と実際の自分が一致することを知ると、自己と世界とのあいだの連結は強くしっかりしたものになる。ところがラカンは、そのようにいったん連結したかにみえた自己鏡像世界は、幼児が成長するにしたがって、しだいに鏡に映った自分など(たとえば太っている、目が小さい)、自分がこうありたい自分とは異なっていると思いはじめ、そこに心理的な満足が得られなくなっていくことに気がついた。 

≪021≫  この鏡像過程がメディア・セオリーに向けて示していることは、自己形成過程そのものに「物語」(自分が思い描く自分像)と「情報」(ここでは鏡に映ったデータとしての自分の情報)とのズレの関係がはからずも生まれているということだ。 

≪022≫  一方、フーコーは第545夜に書いておいたように、自己形成される主体などにこだわることを嫌った思想家だった。むしろ、言説は自己主体などで規制されているのではなく、その場に関与する権力によってチャージされ、それによって好むと好まざるとにかかわらぬコミュニケーションが進行するのであると考えた。 

≪023≫  つまりフーコーは、情報を乗っけている自己メディアの領域を決めているのは社会的なパワーだとみなしたのだ。 

≪024≫  これで理論はだいぶんダイナミックに動いたことになる。しかしながら、ここまではまだ半分なのである。メディア・セオリーは、以上の議論ではまだまったく注目されていないいくつかのもの、すなわち「もっと巨大な自己」や「外から導入される反復力」や「脳に刺激を与える快感」、および「いつでも自分でつながるネットワーク情報網」などにも目を配らなくなっていた。 

≪025≫  ここに出てくるのが、放送から週刊誌にいたるマスメディアであり、広告やコマーシャルフィルムであり、食欲を満たす町や体を熱するスポーツやドラッグの作用なのである。ぼくは最近はここにどうしても「お笑い」も勘定したいと思っている。むろん、ここにさらに、最後になって登場してあっというまにその力を拡張したコンピュータ・ネットワークという情報コミュニケーション状態が加わる。 

≪026≫  本書は後半でこれらをひとつずつ検討するが、残念ながら、まだこれらのすべての怪物を解読するメディア・セオリーは出てきていない。むしろ情報社会のなかでどんどん明確になってきたのは、ハロルド・ラスウェルがあきらかにした情報コミュニケーションを決定づける5つのインディケータばかりだ。  

≪027≫  誰が? 何を? どういうメディアで? 誰に? それでどういう効果があったのか? 

≪028≫  5W1Hから、「いつ?」や「どこで?」が消えていることに注目してほしい。メディアにとっては「いつ」は決まっているのである(たとえば番組の時間割)。また「どこで?」は無益な質問なのだ。週刊現代がどこで読まれようと、浜崎あゆみがどこで聞かれようと、かまわない。そのテレビ番組は携帯でも、自動車でも、録画でも、見られていさえかればどこだってかまわないわけなのだ。これでは日本テレビが視聴率を買いたくなっても責められない。 

≪029≫  では、不満を含めて、さっとまとめたい。以上のメディア・セオリーの試みの積み重ねで決定的に欠けているのは、ひとつは「編集とは何か」ということである。 

≪030≫  これはその奥に、コミュニケーションとは「エディティング・モデル」の相互交換的で、相互記譜的な編集過程ではないかというぼくなりの理論があるのたが、このあたりは『知の編集工学』(朝日文庫)などを読んでもらいたいということにしておく(エディティング・モデルの交換仮説については、あれからだいぶん進展しているが、その進展はぼくの努力というより「ISIS編集学校」にかかわる有能な諸君のおかげである)。 

≪031≫  もうひとつ、メディアには必ずコンベンション(約束事)が融合しているはずだということだ。このことはずいぶん以前にエルンスト・ゴンブリッチが芸術と鑑賞行為を例にして言いかけたことだったが、その後はちゃんと議論されてはいない。 

≪032≫  たとえば茶事には「もてなし・しつらい・ふるまい」というコンベンションがあって、そこに関与するすべてのコミュニケーションとメディアが支えられている。ラグビーにはつねに「ルール・ロール・ツール」がコンベンショナルにかかわっている。こういうことをどう考えていくかである。 

≪033≫  最後に気になっていることについて、一言。
エドワード・サイードがそのことを生涯を賭けて絶叫したのだが、民族や国民や言語社会の総体とその複合化と支配化が複雑に進むなか、いったいメディアはこれらの情報をどのようにメディア化していくのかということだ。このままでは、メディエーションそのものが民族や国民や言語社会そのものになりつつあるのではないか。 では、おやすみなさい。 

≪01≫  われわれはずいぶん以前から知識と情報にかこまれた「知識社会=情報社会」の中で暮らし、日々、「知識経済=情報経済」を活用してきた。ピーター・ドラッカーの見立てではマネジメントとは知識労働のことであり、どんな企業もそのおかれている環境は「知識社会」なのである。 

≪02≫  ふりかえってみても、情報の商品化は資本主義と同じくらいに古く、系統的に収集された人口情報を政府が利用したのは古代ローマや古代中国にさかのぼる。カール・ポランニーが何度も指摘したように、知識や情報はとっくの昔から社会に埋めこまれ、社会に溶融してきたのだ 

≪03≫  西ヨーロッパでは十二世紀以降、都市の興隆と大学の設立と職人組合の発生がほぼ連動しておこって、「知」の体系化にとりくみはじめた。そのアーキタイプはまずは修道院のスクリプトリウム(ヴィヴァリウム)にあったけれど、そのうちボローニャ大学とパリ大学がその後の大学のプロトタイプに発展すると、オクスフォード大学、サラマンカ大学、ナポリ大学、プラハ大学、パヴィア大学、クラクフ大学、ルーアン大学、グラスゴー大学というふうに、ルネサンスまでにたちまち約五〇の都市大学が出現した。 

≪04≫  都市大学はだいたいが似たことばかりをやっていた。図書館をつくり、自由学科(リベラルアーツ)を教え、真理についての自尊心をもち、その知識をもって社会に打って出た連中は、たいていが政治と経済と文化のガバナンスの中心人物になるというふうになったのだ。 

≪05≫  つまりは、これらの大学は知識を発見するためのものでなく、あきらかに知識を伝達ないしは拡張するためのもので、そのために「主題」が選定され、その主題にもとづいて行動できる人材が有望視されたのだ。 

≪06≫  この主題はもっぱら中世の「スコラ」(教会と修道院の付属学校の学習プログラム)にもとづいていた。だから、こうした流れは良くも悪くも、一種の「知識のマネジメントシステム」を中世このかた形成していたわけだ。そのマネージ・ルールは規範となるべき「テキストを共有する」というものだった。 

≪07≫  しかしそれから時代がめぐって、産業革命がおこり、近代代理国家が確立し、すべての知識がネーションステート(国民国家)の管轄のもとに組み立てられるようになると、知の大半が官僚機構とそっくりな階層構造に入れられるように仕切りなおされた。 

≪08≫  他方では、それらの「管轄された知」から逸脱するとみなされたものは、おしなべて表現社会や芸術社会のものと扱われ、それはそれで〝創造力のある知〟などとメディアでもてはやされ、結果としてはマネージとイメージが切り離されたのだ。 

≪09≫  こうして「テキストを共有するマネージ派」と「自由テキストをばらまくイメージ派」とが、情報社会のなかでしだいに対立するようになって、これを統合できるのは「欲望と商品を結びつけている市場だけだろう」ということになったのである。強力な市場主義の登場だった。このとき知識はことごとく商品化もされた。 

≪010≫  が、それだけではすまなかった。さらに時代がデジタル・イノベーションに向かってすすんでいくと、知識もグローバル化に屈服するかのように靡くようになり、国際会計基準がそうであるように、知識もやたらにデファクト・スタンダード化してしまったのだ。これではグーグルが勝つのは当たり前だった。  

≪011≫  それで何が抜け落ちていったかといえば、各民族各地域の言葉によって編まれてきた「記憶」と「本」というものが、それぞれの知識の共同体から追い落とされそうになってきたわけだ。 

≪012≫  本書はケンブリッジ大学の文化史学者ピーター・バークが、近代直前までの知識の系譜がどのようにつくられてきたかを述べた一冊である。よく書けている。 

≪013≫  これを読めば、たとえば「体系」「博識」「著者」「権威」「目次」「検索」といった言葉の最初の語用例の背景の歴史はむろん、知的所有権をブルネレスキが最初に獲得した理由とか、知識の取引にいかに経済力が必要であったかという時代社会の「富の意味」の隠れた力とか、書物が収納されたアーカイブがその都市一帯にもたらした絶大な経済文化的な効力などなどが、手にとるようにわかる。 

≪014≫  が、バークがあきらかにしたことは、そういうことだけではなかった。社会の中から知識や情報を持ち出してくるには、それなりの方法が必要になるのだが、そしてその方法にはさまざまな技能的な工夫と手続きがついてまわるのだが、その工夫と手続きをともなう方法にこそ「もうひとつの知」が必要だったということを明示したことだ。 

≪015≫  もとよりぼくも、知識を配分することなんかよりも、その知を凹凸をもって動的に出入りさせる「方法のための知」こそが、知を知たらしめていると思ってきた。そんなことは大学でベンキョーする必要はない。第一、大学はそういうことを教えない。それよりも「本」を本気で扱ってみたほうが、「方法の知」はたちまち見えてくる。本の入手から読み込みをへて、その本をどこかに提示しておき、その提示された本を何度も自分や他人に出入りさせてみるということをいささかでも続けてみれば、「知」を活性化させるにはこれを出入りさせるエディティング・インターフェースこそが重要で、その「出入りの知」をもって「分類の知」を動かすことこそが、本来の知の歴史の中央に列することではないかと確信できるはずなのだ。 

≪016≫  それには、市場の本や流通資金で集まった本をいじっているだけではダメだ。自分で本を集め、騙され、また本に手を出し、読み込み、さらにはその本たちをなんとかして新たな「テキスト共同体」のなかで相互的にリトリーヴァル(検索)できるようにすること、そのことが不可欠だ。 

≪017≫  さてさて、このところ、編集工学研究所(E)と松岡正剛事務所(M)はゴートクジ赤堤への移転にともなって、全員が約六万冊の本たちを限定された書棚空間にえっちらおっちら配架する作業に追っかけられている。 

≪018≫  数万冊の本をA地点からB地点へ移すだけなら、その作業の七割くらいは物理的な手続きですむのだが、話はもう少しややこしくて、もうちょっと複雑だ。そのため最近のぼくのアタマとカラダはこの問題で悩ましく悶え、それでも辛うじて踏んばっている状態にある。今夜はその話もしておきたい。というのも、六万冊の本の移動には、それなりの知識社会学の応用が試されるからである。 

≪019≫  本というのは一言でいえば、中身にいろいろのコンテンツを入れこんだ紙冊子というものである。放っておけば世間の中でも一個の人格の中でも、必ずやばらばらになってしまうだろう情報コンテンツを、古来このかた版元や著者や編集者たちが「一冊」ずつの単位でパッケージにしていった。それが「本」というものだ。本はたいそうよくできたコンテンツ・パッケージなのである。 

≪020≫  そんなふうにたくさんの情報や知識が詰まっているわりには、一冊ずつの本はかなりのチビである。けれども本は、その中身も外見もアナログでできているから、チビなのに重い。それが数百冊、数千冊になると、むちゃくちゃ重いだけでなく、それなりのカサになる。ずらずらとした知の配列にもなっていく。 

≪021≫  しかもその本は捨てるか売るか、燃やすかでもしないかぎりは、その場からなくならない。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)は本の知識が権力者の邪魔になったのでこれを燃やしていく計画を推進しはじめたのだが、本好きだった一人ずつが「プラトンさん」「ヘミングウェイ君」「ケプラー先生」になっていったので、ようするに「生ける本」になったので、その独裁国家の手先となっていた主人公もついに本に魅了されていく物語だった。 

≪022≫  すなわち、本は複製力のある物理的実体であるにもかかわらず、記憶の領域にも入りこんで、アタマやカラダの装いを変化させもするわけだ。 

≪023≫  本にはいろいろな面倒もつきまとう。なんといっても、本は放っておけばたまるばかりだ。草森紳一ほどの溺読者ならともかくも、たまった本をうず高く積み上げるだけでは、いつか崩れ落ちてしまうから、これは本棚に収容するしかない。 

≪024≫  ところが本を活用するための収納本棚のほうにも言い分がある。そもそも本棚にはタテとヨコのグリッドによる格子組があって、その本棚を置く建物のほうにも床と壁によるタテヨコの区切りがあるので、ここで本の分量と本棚と建物の容量がぶつかりあうわけだ。たいていどちらも譲らない。 

≪025≫  これにどう折り合いをつけるかというと、答えはひとつだ。本がソフトウェアで、本棚がハードウェアだとすれば、この両者がぶつかりあうところに、本を相互に出入りさせるための新たな〝ウェア〟ができあがるとみなすのだ。それが「ブックウェア」というものだ。 

≪026≫  その硬軟両者が遭遇するブックウェアを、どう案配するか、どのように活力のあるものにするかというのが、ぼくが二十代後半に工作舎をつくったときからの長きにわたる格闘だったのである。その工夫の日々の一端は和泉佳奈子とともにつくった『松丸本舗主義』(青幻舎)に書いておいた。新宿のローヤルマンションの十階に黒い本棚を製作したときからの話だ。 

≪027≫  けれどもいまは、赤坂からゴートクジ赤堤に仕事場を移転するにあたって、その格闘の歴史そのものが大きな転換を迎えざるをえなくなっていて、それでぼくのアタマとカラダがこの問題で悩ましくも悶えている最中なのである。 

≪028≫  知の区分の仕方には、むろんいろいろな方法がある。たとえばレヴィ゠ストロースは歴史社会の「知」を扱うにあたっては、自然と文化で分けるのではなく、「生なもの」と「修繕されたもの」によって見るべきだと考えた。修繕(ブリコラージュ)されたものというのは、「編集が進んだもの」という意味だ。ユルゲン・ハーバーマスは知識をコミュニケーション行為に照らし合わせて「人間の関心」と「公共圏」の関係で分けた。ミシェル・フーコーは知を「考古学・系譜学・制度学に入れなおす試み」としてとりくんだ。分け方はいろいろで、どれが正解かということはない。 

≪029≫  もともと知識は種々雑多にできている。概念を組み立てた大系になっている知識もあるし、しぐさになっている知識も、思いつきばかりの知識もある。ファッションやヘアースタイルやフードやスポーツになっているアップデートな知識もある。会話やニュースや音楽だって、れっきとした知のレパートリーなのである。 

≪030≫  それでも「記憶の知」と「記録の知」はやっぱり異なるが、その記録の仕方は時代・民族・言語・領域によってまちまちだ。記憶のほうも千差万別に取り出されてきた。まさに雑華荘厳だ。 

≪031≫  そこでジョルジュ・ギュルヴィッチは「知覚的、社会的、日常的、技術的、政治的、化学的、哲学的」という七つに分けて知識のグラデーションをつけることを提案した。一九二〇年代のフランス社会学を代表する「知の層位社会」の研究者だ。これだけ多方面な組み合わせをすれば、それなりに有効だろう。これらを仮に「見える知」と「見えない知」にグラデーションをつけながら分けてみてもいいだろう。 

≪032≫  ところが、どっこい、どっこいなのである。そういう試みをしてみると、知というものはたいていはどこかでつながっていて、どこにも分類や分断をしたくなることなんてないこともわかるものなのだ。これを解消するには、「知の色立体」や「情報知識の色環」のようなものを想定するしかない。 

≪033≫  こういう問題に悩んだのは、ぼくが最初であるはずがない。十九世紀末に「知識の社会学」の確立を提唱したオーギュスト・コントは、それらの悩ましい正体をまとめて「名称なき歴史」と言っていた。 

≪034≫  コントの提唱を継いだエミール・デュルケムやマルセル・モースらも、それなりの見方を工夫した。知識を「時間的な知/空間的な知」「聖なる知/不浄なる知」「人格にまとまっていく知/集合的な表象になる知」などという区分に分けながら、その歴史に分け入ったのだ。その後のアナール学派の連中もこの見方を踏襲した。リュシアン・フェーヴルは知識にひそむ集団的心性に注目し、これを「知識の共有された時空」だとみなした。つまりはみんながみんな、知の分類や知の配当に悩んできたわけだ。  

≪035≫  本を、著者やタイトルや版元をもった情報商品あるいは学術商品として並べるだけなら、こんなにも悩むことはない。おもしろくもなんともないが、図書館の十進分類法にしたって、アルファベット順にしたってかまわない。グーグルやアマゾンの巨大倉庫での並べ方だっていいだろう。 

≪036≫  ただしそうするのなら、その本を取り出して「読む」ときの空間を独自に作る必要がある。これをネグレクトするのはいけない。本は知的な編集インターフェースの「あいだ」で出入りしているべきなのだ。それにはレヴィ゠ストロースからリュシアン・フェーヴルにいたる悩ましい試みを無視してしまっては、よろしくない。 

≪037≫  ぼくが五十年近くにわたってそれなりに格闘してきたのは、そういう「リバースリーディング・スペース」としてのブックウェア空間をどう作るかということだった。リバースというのは、本棚から本を取ってきて〝読みニケーション〟をそこでしてしまえるかどうかという、そのリバースである。ちなみに松丸本舗での実験店舗には五万冊が入ったのだが、その本棚以外のスペースがあまりに小さすぎて、このリバース型のインターフェース機能をとることがほとんどできなかった。 

≪038≫  というわけで、松丸本舗が五万冊、赤坂にためた本が六万冊。ただしゴートクジは赤坂よりもだいぶん広い。よし、よし、だ。さあ、それなら六万冊をゴートクジに引っ越すにあたっては、なんらかの転換装置が必要だということなのである。ぼくは移転先がゴートクジに決まったその夜から、この転換をめぐって悩むことになった。 

≪039≫  この悩ましく響いているものの正体を、かんたんに説明してあげる気にはなれない。なかなか微妙なものであって、きわめてドラマティックな性格のものだと言っておく。かつまた読書社会の飛躍や二一世紀の新人文学的テキスト共同体の発現にとっても、はなはだラディカルな問題を提起できるはずのものだとだけ言っておこう。 

≪040≫  ゴートクジの物件は、京都三角屋の三浦史朗くんが今年(二〇一二年)の夏の初めに捜し当ててくれたものだった。不動産屋とともに現場で待っていた三浦くんは、にこにこしながら「松岡さんにぴったりかもしれない」と言ってくれた。ぼくはすぐに「京都からの贈りもの」だと感じた。 

≪041≫  藤本ペコちゃん(藤本晴美)の紹介で数年前に出会えた三浦くんは、京都きっての数寄屋棟梁だった中村外二や朝比奈秀雄のピカピカの弟子筋になる。そこで至高の工法を身につけたのち、ニューヨークのブティックから愛知の知多半島の素封家の瀟洒な数寄屋建築まで、いろいろの物件を多種多彩に仕上げてきた。当代きっての異能の建築師だ。十文字美信や糸井重里が自分の家屋やスタジオの設計を託したくてやっとめぐりあえた建築師でもある。 

≪042≫  三浦くんは、当然、ゴートクジを「松岡さんが好きになる時空間」というふうに思ってくれたので、さっそく一階の高さ四メートルのスペースや三階のぼくの書斎スペースのラフスケッチを提案してくれた。視界がすばらしい屋上にも仮設の「かこい」ができそうだというので、方丈ロフトふうの絵を描いてくれた。つまりは、ごっつい枠組みだけの倉庫ビルのような三階建ての構造に、柔らかな木工組みによる柔らかな知的空間が出現できるように提案してくれたのだ。そこには「松岡正剛という生き方」への三浦くんなりの想像的愛情が溢れていた。 

≪043≫  しかし、しかしながらであるのだが、次のようにも言わなければならなかった。EとMの空間は、本こそ長年にわたってぼくが好んで収集してきたものであり、そのほかにも手塩にかけてきた建具や机などが幾つもあるとはいうものの、物理空間としてのスペースは、さまざまな動機と機能が組み合わさって渾然一体になっている「会社」にほかならない。経済がたちゆかなくなれば、あるいは人気がなくなれば、すぐに機能不全に陥るカンパニーなのだ、というふうに。 

 ≪044≫  E&Mは編集制作の現場であって、赤堤通の一角で家賃を払っている会社である。また、みんなのPCが立ち並ぶ仕事場なのである。 加うるに、内外の人物が出入りするコミュニケーション空間であり、個性や人生の一部始終が出入りするエゴイスティックな空間で、それでいてイシス編集学校の偉大なる拠点であって、そのうえで、ぼくが千夜千冊したり、着替えたり、食事をしたり妖しい電話をかわしている窪みなのである。そこに大量の本が長年にわたって棲息してきたわけだった。 

≪045≫  ぼくにとっては、本の中からカンパニーが生まれてきたようなものなのだが、さすがに二五年もたてば、本たちはカンパニーの付属物にすぎなくなったのだ。六万冊の「質」やぼくの「ライフスタイル」は、その系列の資産勘定のどこかの一隅に配されているものなのだ。 

≪046≫  それゆえ三浦くんの「和」の提案を受容するには、以上の諸要件をどこか縮退させていくか、解釈を変じるか、もしくはもっと大きなスペースが必要だった。というわけで、当初の三浦案はいったん保留させてもらうことにした。残念ながら「セイゴオ数寄屋の夢」の大半は先送りにさせてもらったのだ。 

 ≪047≫  E&Mが移転するにあたっては、東亨くんの提案も同時進行していた。東くんもやはり藤本ペコちゃんの紹介だった。当時は乃村工藝のバリバリで、ぼくの仕事では「連塾」の舞台まわりやホワイエの仕立てを引き受けてくれていた。その後、帝京大学の図書館MELICに登場させた「共読ライブラリー」のための黒板本棚を作ってもらったりするうちに、「本棚で空間を作り上げていく仕事」に、もうちょっと広くいえば「知が組み上げていく空間」に大いなる開発意欲を発揮しはじめた。東組というスペース・エディティングを標榜するチームも立ち上げた。 

≪048≫  E&Mが引っ越すことが決まってからというもの、その東くんにも何かと仕事場のアイディアをいろいろ出してもらうことになった。設計図面は東くんの仲間である一級建築士の林尚美さんが、心くばり豊かなアイディアを随処にこめて描いてくれた。こうして三浦案とともに東・林案がそれぞれぼくの手元に届くようになったのだ。 

≪049≫  ゴートクジのスペースプランを本気で決めなければならなくなっていたころ、ぼくは十月二七日に南禅寺の龍淵閣で中村文峰管長らとともに講演をすることになった。会場に入って話しはじめ、ふと見ると客席に三浦くんと東くんがいるではないか。別々の席に座っている。えっ、二人とも来ているのか。ぼくはその日は南禅寺や夢窓疎石にちなんだ「山水を読む」という話をしたのだが、話しているうちについつい別のことを考えてしまっていた。このあと、ゴートクジのことのすべてをこの京都でこそ決めるべきだと思ったのだ。そこで講演と食事会がおわるやいなや、同行していた和泉佳奈子とともに、堺町三条のイノダコーヒ本店に三浦くんのクルマで赴くと(三浦くんは京都在住)、四人で丁々発止の京都密談をした。 

≪050≫  いま実行しているゴートクジ・プランの大半は、この京都イノダ密談で決めたものなのである。ぼくは三浦くんの提案を別途いかしつつ、なんとか東くんのスペース・エディティングと融合できる方法に辿りつくことを心した。 

≪051≫  あらかたのプランは決めたものの、実際に六万冊をどのように配架していくかとなると、まだまだけっこうな難問が残っていた。いや、その前に赤坂から赤堤に現物を移動させなければならなかった。赤坂から赤堤までの、つまりは赤「坂」から赤「堤」へという程度のささやかな移動だが、これはこれでけっこうな「知識の移転」なのである。小さいながらもそれなりに大胆な変化をともなう「知識社会」のブリコラージュ(修繕≒編集)なのだ。 

≪052≫  もっとも重さと多さと埃っぽさをべつとすれば、今回の知識移転はもっぱら「本を移し替える」ということだけなのだから、物理的な作業手順はシンプルだ。和泉と渡辺文子が中心になり、次のような手順で移転を敢行することになったのである。 

≪053≫  赤坂のすべての既存収納本棚を区割りしてそれぞれ番号を付け、区割りごとの写真を撮っておく。ついで本たちを次々に梱包し、約二〇〇〇箱となった段ボール函にこのアドレスと写真を一函ごとに貼り付ける。これをいったん日通に運び出してもらって倉庫に預け、一方でゴートクジ三階建ての通称「ISIS館」の二階と三階のあちこちに、カラの本棚を次々に配置する。地震対策のためにこれらにはビス打ちをする。 

≪054≫  ここまでは赤坂にあった既存の本棚の組み替えで、林さんとスペースエディターの東くんの仕切りにもとづいた。二人とも「本による知の空間」が新たに出現することに大いに好奇心を注いでくれた。天井高四メートルの一階については、京都イノダ会議にもとづいて、いささか凝ることにした。玄関ホールと、ぼくがとりあえず〝本棚劇場〟と呼んでいるスペースとに分けて、まったく別々の本棚空間を組み上げたのだ。 

≪055≫  玄関ホールはすべて木工で組み上げた。ぼくなりの三浦くんへのカウンタープレゼントだった。大小四パターンの本箱ユニットを提示した。三浦くんはみごとな指図を引いて、熊谷俊次さんを棟梁とする大工連が仕上げた。 

≪056≫  三浦くんは丁寧にも、木工書棚の奥板に一枚一枚の和紙を貼った。玄関ホールがほぼ四畳半であることを見てとった三浦くんは、ここをいちはやく〝本の茶室〟に見立てたのである。ぼくもこの発想に大いに共感し、ちょっと不思議な「躙口」や「床の間」を作ってもらうことにした。こうして、会社の玄関に“本の茶室”が出現するという前代未聞が姿をあらわした。 

≪057≫  一方の〝本棚劇場〟は鉄骨でバッチリ組み上げることにした。こちらは東くんの指揮と手作業のもと、外山貴洋くんたちが業者を巻きこんでダイナミックに組み立てていった。1トンの荷重に耐えられる通称「ネステナー」という鉄骨モジュール(五角パイプ)が基本単位になっている。南北の壁をそれぞれ四メートルの二階建の本棚にして、その一方を舞台仕立ての〝本棚劇場〟にした。ちびステージも作った。背景に本がぎっしり並んだホリゾントがある舞台だ。能舞台でいうのなら、本舞台の松羽目と橋掛りの背景がすべて本棚になっていると思ってもらえばいい。「本楼」と名付けた。 

≪058≫  かくて二〇一二年十二月三日、本を詰めた二〇〇〇箱の段ボール函が、次々にトラック横付けで届いたのである。まずは二階ぶん、三階ぶんとして。これで何がおこるかといえば、「送り出された知」が「迎え入れる知」に変わる。それがたった半日くらいでの高速変換だ。 

≪059≫  とうていスタッフだけではまにあわない。ここからは編集学校の自主参加組からゴートクジ近隣組まで、ぼくが脅迫して呼んだキレイどころからこの日を待ち望んでいた助っ人まで、ともかくも玉石混交・素人玄人の混成人海戦術での大リレー作戦になっていった。目印にしたがってカラ本棚の前に次々に積み上がっていく段ボールを片っ端から開けていき、これをひとまず本棚に詰めこんでいく。けっこうランボー、けっこうゾンザイだ。それしかない。ひたすら迅速でなければならない。小森康仁が獅子奮迅の活躍をした。佐々木千佳は女手なのに段ボールを一人で持ち上げていた。 

≪060≫  が、本番はここからなのである。どの本棚のどの棚に、どの程度の本をどんな順に並べていけばいいのか。厳密な手筈はない。あえて大雑把にしておいた。これをその棚の前に立った担当者が否応なくも、とりあえず文脈的に並べていかなければならない。 たいへん申し訳ないことだけれど、その棚の前に立ったのがウンのつきなのだ。一人でだいたい一〇〇〇冊くらいを相手にしなければならない。編工研のスタッフは日常業務をネグっているわけにはいかないから、この作業にも助っ人の諸君に「本の文脈づくり」の順番がまわる。 

≪061≫  とりあえずの大きい配当は、ぼくと和泉が予想した配当図にもとづくのだが、実際に本棚一段ぶんに一〇〇冊程度の単位で本を並べるのは、そうそう容易なことじゃない。ここからはまさに知識との格闘が、知識との交際が始まっていく。 

≪062≫  格別力も必要だ。ぼくとともに長らく本と遊んできてくれたブックウェア・プロフェッショナルな高橋秀元・木村久美子・太田香保たちの強力なディレクションが力を発揮した。明大の田母神顯二郎教授も学生を引き連れてやってきてくれた。けれども一応のアドレスをつけておいても、本の数と本の厚みと棚の長さや高さはなかなかぴったりは収まらない。何度も何度も修正することになる。とはいえ、ここでへこたれていては本棚編集はムリなのだ。 

≪063≫  人類が培ってきた「名称なき歴史」や「知識の共有の時空」は、いまではあらかた学問や学科になっているのだろうと思われている。しかし、それは学問を買いかぶりすぎているし、あまりに分類知に惑わされすぎている見方なのである。 

≪064≫  学問にも学科にもなっていない知識はそうとうあるはずで、早い話が人々がふるまっている素振りだって、そこらじゅうの廃棄物やゴミだって知識なのである。仮に、すべての知識はそれなりに言葉(用語)になっているとみなすとしても、むろん多くの知識と言葉は交差しあってはいるけれど、言葉ばかりを拾いすぎるのは、あまりにも無定型すぎるのだ。それでは「意味の型」がない。「意味の束」が生まれない。 

≪065≫  ただし、この「本」は主題や主張をもっているものばかりをさすとはかぎらない。いずれ千夜千冊するつもりのハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』(法政大学出版局)では、本は「世界という書物」であるとみなされて、どんな本にもあらゆるメタファーがおよぶかぎりのものが含まれていると理解されている。 

≪066≫  これでいい。ブルーメンベルクは、書物によって「書物になっていない世界」すら書物のように読める、と言ったわけだ。ぼくもまさしくそのように「本」と「世界」の関係のなかで、知識を眺望してきたわけだった。 

≪067≫  さて、このへんで本書に戻って、もう少し踏みこんでみよう。 本書にはいくつもの示唆に富む指摘がひそんでいるのだが、そのひとつに、ヴィクトール・シクロフスキーが「オストラネーニエ」(ostranenie)と名付けた作用についての言及がある。「オストラネーニエ」は、あまりぴったりではないが、おおむね「異化」と訳されてきた。これを異才ブレヒトが演劇手法に適用し、「異化効果」(V-Effekt)として世に広めた。英語では“alienation”、フランス語は“distanciation”、中国語はなかなかふるっていて“間離化”などと言われる。トマス・ミュンツァーやヘーゲルやチュービンゲン哲学の解読者だったエルンスト・ブロッホには主著『異化』(現代思潮社)があり、ぼくは学生時代に耽読したものだ。 

≪068≫  「オストラネーニエ」「異化」という手法は、知識や情報、現象や対象を際立たせるという意図をもっている。フランシス・ベーコンはこれを種族・洞窟・市場・劇場に作用させるべきだと言い、モンテーニュは国々の法律・国民気質・政治システムに用いるべきだと書いた。ヴィーコにいたっては、すべての民族と国民に必要なのは「オストラネーニエ」「異化」であるはずだというふうに見た。 

≪069≫  たいへん痛烈な技法だ。しかしこれは、察しのいい諸君にはきっと見当がついただろうけれど、編集工学が重視してきた「編集」にすこぶる近い。それも「地」と「図」を相互に動かしていく編集に近い。オストラネーニエは、いったん並べた分母の知の流れに、新たな図を加えながら編集的相互作用を際立たせるということなのだ 

≪070≫  本棚に本を並べるにも、このオストラネーニエ編集、すなわち「異化編集」が有効なのである。「間離編集」だ。 

≪071≫  ただしその前にしておくことがある。まずは、大量の本たちをシマに分けることである。この作業はゼッタイに必要だ。このシマがなければ「意味の模様」の根幹がつくれない。このときは模様を植物にするのかペイズリーにするのか、動物を並べるのか、それを最初に決めなければならない。こうしてルネサンス文化、イギリス十九世紀、自由民権運動、パンク小説、ポルノグラフィ、劇画関係、三島由紀夫、ジャズ、日本の遊芸といったシマができる。シマがふえてくれば、これを大きく本棚に割り振っていく。ここまではサクサクとやる。 

≪072≫  ところが本棚には単立性と分量の限界がある。たとえば昭和文学をずらりと並べたい棚を、横光利一や斎藤茂吉から川端康成や太宰治に向かって順に並べようと思っても、なかなかうまくはいかない。棚から本がはみ出すし、どう並べてみても文芸感覚が納得できるものにはなりえない。 

≪073≫  そういうときは、どうするか。横光・川端・稲垣足穂・龍胆寺雄・林不忘らを時代順にまじめに並べるより、タルホは別のクラスターとして自立させ、林不忘はほかの大衆文化のほうに〝間離〟させたほうがいい。斎藤茂吉や大手拓次や中原中也は一緒にして詩歌の棚をつくったほうがいい。これは地模様から特別な柄を抜き出し、別のところに自立させる異化編集なのである。そうすると、ここに新たな異化連鎖がおこりうる。仮にタルホのクラスターを入れた本棚に余裕があるのなら、そこへ久生十蘭や夢野久作全集を添わせてしまうのだ。 

≪074≫  こういうことは賞味期限のある食品や季節が決まってくる服飾では、なかなかできないことだ。コンテンツ・パッケージの「本」ならでは、賞味期限のない「本」ならではの異化であり、そこからの派生的編集なのである。そして、この異化や間離や派生から、新たな分母をつくる棚が生まれてくるわけなのだ。 

≪070≫  本棚に本を並べるにも、このオストラネーニエ編集、すなわち「異化編集」が有効なのである。「間離編集」だ。 

≪071≫  ただしその前にしておくことがある。まずは、大量の本たちをシマに分けることである。この作業はゼッタイに必要だ。このシマがなければ「意味の模様」の根幹がつくれない。このときは模様を植物にするのかペイズリーにするのか、動物を並べるのか、それを最初に決めなければならない。こうしてルネサンス文化、イギリス十九世紀、自由民権運動、パンク小説、ポルノグラフィ、劇画関係、三島由紀夫、ジャズ、日本の遊芸といったシマができる。シマがふえてくれば、これを大きく本棚に割り振っていく。ここまではサクサクとやる。 

≪072≫  ところが本棚には単立性と分量の限界がある。たとえば昭和文学をずらりと並べたい棚を、横光利一や斎藤茂吉から川端康成や太宰治に向かって順に並べようと思っても、なかなかうまくはいかない。棚から本がはみ出すし、どう並べてみても文芸感覚が納得できるものにはなりえない。 

≪073≫  そういうときは、どうするか。横光・川端・稲垣足穂・龍胆寺雄・林不忘らを時代順にまじめに並べるより、タルホは別のクラスターとして自立させ、林不忘はほかの大衆文化のほうに〝間離〟させたほうがいい。斎藤茂吉や大手拓次や中原中也は一緒にして詩歌の棚をつくったほうがいい。これは地模様から特別な柄を抜き出し、別のところに自立させる異化編集なのである。そうすると、ここに新たな異化連鎖がおこりうる。仮にタルホのクラスターを入れた本棚に余裕があるのなら、そこへ久生十蘭や夢野久作全集を添わせてしまうのだ。 

≪074≫  こういうことは賞味期限のある食品や季節が決まってくる服飾では、なかなかできないことだ。コンテンツ・パッケージの「本」ならでは、賞味期限のない「本」ならではの異化であり、そこからの派生的編集なのである。そして、この異化や間離や派生から、新たな分母をつくる棚が生まれてくるわけなのだ。 

≪075≫  もうひとつ、大事なことがある。本棚たちが何を「意図」しているのか、その大きなメッセージを感じさせるようにすることだ。 

≪076≫  カール・マルクスは知識は経済的な下部構造が押し上げたイデオロギーの体系だとみなし、そのイデオロギーを下部構造にもとづいた唯物弁証法によって読み解くという方法をつくりだした。このマルクス的方法によって本棚をつくるとすれば、下のほうに大きな下部構造にあたる経済や資本の棚をつくり、そこから社会現象の棚が積み上がり、やがて言語や意識に関する棚が上乗せされていくというふうになる。  

≪077≫  マックス・ウェーバーはそれとはやや逆に、さまざまな社会的文脈の寄り集まった流れがどのように経済的な帰結をもたらすかという方法を採った。このウェーバーの方法に倣うなら、大きくヨコに広がる数段の棚にまず社会の文脈をあらわす流れをどーんとつくる必要がある。そこに各国別、産業別、宗教別の棚を付随させていく。そんなふうになるだろう。  

≪078≫  しかしマックス・シェーラーやカール・マンハイムは、マルクスやウェーバーとは異なって、そうした原因と結果の順逆からあえて離れることを意図した。ヴァルター・ベンヤミンはもっと屋台ふうの参集力に注目した。「パサージュ」だ。そこに浮上するのは「スタイル」なのである。かれらはスタイルやテイストによって知を組み替えようとした。これはまったく新しい構成の意図になっている。 

≪079≫  が、残念ながら、このようにスタイルやテイストを意図した本棚構成はまだ見たことがない。ずっと以前、京大の人文研の吉田光邦所長に、人文研の棚を「スタイル」にする可能性を提案したことがあったけれど、「うん、うん、それはすばらしいけれど、さあ誰がやれるのか、京大にはそういう人材がまだ育っていないなあ」と笑われた。 

≪080≫  ことほどさように、本棚から「意図」を発揮させるにあたってもいろいろ方法があるのだが、しかし、このように構成方法をめぐってみることにこそ何かの挑戦が待っているはずなのだ。ぼくが松丸本舗の「本殿」でやってみせたのは、これだった。「遠くからとどく声」「男と女の資本主義」などを思い出していただきたい。 

≪081≫  ちなみに「本棚編集」の王道は、なんといっても次の〝編集八段錦〟を試みてみることにある。編集を進めていく八段階のステップを示したものだ。詳しくは『知の編集術』(講談社現代新書)一九九ページを参照していただきたい。  

≪082≫  仕事場の本棚に本を入れるということは、そこで仕事をしているスタッフやゲストの人物像のアクティビティとともに、本の出入りを動的なインターフェースにできるかどうかということである。動的なインターフェースとは、棚が動くとか自動配架ができるといったことではない。棚に並んだ本たちを、利用者が動的にブラウジングできるかどうかということだ。 

≪083≫  このことは、ふりかえると図書館をどう設計して、どのように本を並べるかという歴史とともに始まっている。アレクサンドリア図書館は神の配置とともに本を配列したのである。けれども知識が次々に増殖していくと、新たに「読み」と「学び」の関係を本の配列がこわすようになっていった。一七六三年にローザンヌとジュネーブの図書館に勤務していたエドワード・ギボンは、早くもこういうことを見抜いていた。「図書館にとってはその内部の地理学と社会学が連動しなければならないのではあるまいか」というふうに。 

≪084≫  まさにそうなのだ。本棚はそのポジショニングとともに、その本棚にアドレスされる本と人とが動的な〝社会地理”になっていなければならないはずなのだ。 

≪085≫  というわけで、いまもってぼくにはゴートクジの本棚をああもしたい、こうもしたいという方法が前後左右に跋扈するわけだった。 いま、これを書いているのはクリスマスも間近い師走だ。それなのに本楼や各部屋にいまだうず高く積まれている書物群を前に、ぼくは容易に「知識の社会史」を捌ききれずに、井伏鱒二の名作小説のごとく、ただぽつねんとしているのである。 

≪086≫  最後に一言。「ノート」とか「ダイジェスト」という言葉は十六世紀半ばに英語になった。この言葉はもともとは本のテキストにアンダーラインを引くことや書き込みをすることや印をつけることに始まっていた。そうだとすれば、そのアンダーラインやノートのようなもので構成された本棚があってもいいということなのである。そしてそうだとすれば、それを担うのはもはやぼくではなく、ゴートクジの知識社会学に出入りする内外の読み手たちでもあるべきなのである。 

≪01≫  そもそも「ヴァーチャル」はラテン語やイタリア語の「ウィルトゥス」から派生した言葉で、「潜在性」とか「潜勢力」といった意味をもつ。ということは、ヴァーチャルに対比されるのはリアルではなく、実は「アクチュアル」(現実化された事態)であり、リアルに対比されるのは、実は「ポシブル」(可能的事態)なのである。 

≪02≫  なぜファイルが問題なのか。ファイルというソフトプログラムは、人間が興味をもったり表現したりするものは必ず小さなクラスター(かたまり)に切り離すことができるという考え方にもとづいて設計されている。そのクラスターは必ずヴァージョンがあり、それらを操作するにはファイルのためのアプリとマッチしていなければならないというふうになっている。 これではまずい。人間がファイルに見合うガジェットになっていく。人間にひそむ可能性が切り刻まれて、どんどんマッシュアップされていく。 

1646_img301.jpg.crdownload

≪03≫  なぜ、こんな体たらくになってきたのか。そんな体たらくがいつのまにか、こぞって「ソーシャル」と呼ばれてしまったのだ。おそらくはユーザーたちが相手にしているのが集団意識であるからだ。ユーザーがアクセスしているのは、たいていは「ぼんやりした集合知」なのである。誰も一人ひとりの人間と実質の「感知」をやりとりしてはいない。みんながガジェットになりながらコミュニケーションしているにすぎない。そんなものがソーシャルであるわけがない。そう、ラニアーは告発をする。 

≪06≫  これは一見すると、民主主義や市場経済のよさを語るにはうってつけの強力な説明になる。またネット社会に多様なコメントが乱れとんでいることを容認するにあたっても、強い味方になる。さらにはまた人工知能や学習マシンなどの妥当性もこの味方から援軍をもらえる。 

≪07≫  しかし、集合知が正しい「値」を示しうるかどうかということは、一概には決められない。古来の宗教的知性の動向、選挙結果の歴史、ブームやバブルの破綻、ファシズムや集団的暴挙の問題など、かなりいろいろな集合知がまきちらした実害の事例を吟味する必要がある。そこには「衆愚」が跋扈する。また、これらをサイバネティクスや計算機科学に導入したときの推移を検討する必要がある。残念ながら、まだそういう検証はされていないままなのだ。

≪09≫  それでもなんとか集合知を政治活動や社会活動やマーケティング活動に活用しようとすると、やたらにデータを“総合化”することだけが合目的化されていく。また、うっかりすると脳に電極を差して賛成か反対か保留かのニューロン発火を統計したくなったり、ニューロトランスミッターの出具合を計算したくなる。つまりは集合知の奥座敷の脳や体に手を入れたくなるということにもなる。これはかなりヤバイことになるだろう。 

≪011≫  これは集合知の計算が「集団誤差→平均個人誤差→分散値」というふうになっているからで、ここには「創発」はおろか、個人の「ひらめき」や「まごまご感」や「うろおぼえ」などがまったくない。それらはほぼ排除されてしまうのだ。これではラニアーならずとも警鐘を鳴らしたくなる。もうひとつ老婆心ながら付け加えておきたいのは、この手の集合知と、なんと集合的無意識(Colective unconscius)やセレンディピティ(serendipity)がごっちゃになるときさえあるということだ。これはもっとむちゃくちゃだ。 

≪04≫  とくに最近はプライバシーと匿名性についての技術イデオロギーが重視されるようになって、不透明性を上げていくような方向にインターネットが邁進しはじめた。 

≪05≫  集合知(collective intelligence、collective knowledge)が役に立つと考える研究者や開発者は、集団的に情報や知識を集めていくほうが、集団の中の個人が考える結論よりも穏当あるいは適確な答えを引き出しうるというふうに見るからだ。スロウィッキーは市場(いちば)に出された牛の重さを多くの群衆が推測した平均値は、他の専門家の推測値よりも正解に近かったという例を出して、集団知の正しさの検証につかい、そうなる理由は人々の意見が多いほうが異なる誤差を互いにキャンセルしあうからだと分析した。 

≪08≫  そもそも集合知といっても、これを十把一絡げにはできるはずがない。感覚のレベルなのか、認識のレベルの集合なのか、判断のレベルの集合なのか、言語表現行為のレベルなのか、あるいはすでに影響を受けた者どうしの集合なのか、統計上のファクターに依存した集合なのか、こうしたレベルやプロセスがあきらかにはなっていないのだ。 

≪010≫

  しかしそれ以上に問題なのは、今日のインターネット社会で言われる集合知が、すでに検索エンジンがやっていることやソーシャルブックマーカーがやっていることそのものだということにある。つまり「ソーシャル」(社会的)だとみなされていることが協調フィルタリングを通した集合値(=集合知)でしかないというふうになってしまっていること、このことだ。いいかえれば、個人ユーザーがネットにかかわっているときの相手は、ソーシャル化された集合値という化け物でしかないということなのである。 

≪01≫  マレーはハーバードで英文学を専攻したのちにMITの先端人文科学研究所に入って所長となった。その後はジョージア工科大学のコンピューティング・ラボにいる。ぼくも2度ほど会っている。ふつうのおばさんである。 

≪02≫  ところが、このおばさんは物語と電子の関係に関しては誰よりも情熱的で、しかも世界中の文学事情に詳しいばかりか、デジタル・ナラティブの超専門家ときている。話しだしたら止まらない。そんなことはぼくもとっくに考えていたということも、けっして譲ってくれない。 

≪03≫  一部の人は御存知かもしれないが、ぼくは1990年代に入って「オペラ・プロジェクト」という構想に着手していた。 世界の物語群から100作を選び、これを電子化するだけでなくつなぎあい、それらにレクシア(ホットワード・リンク)をたっぷり入れて、互いに作品間を行き来してもらおうという構想である。100作には文学作品だけでなく仏典も博物学も童話も科学書も入っていて、これならハイパーリーディング(知の横歩き)がそうとう自由になるのではないかと思ったのだ。 

≪04≫  この構想には北海道大学の田中譲さんをはじめ多くの研究者や技術者が加担してくれて、当初はかなり膨らんだ構想になりつつあった。すぐに電子劇場構想をもっていたブレンダ・ローレルやジョセフ・ベイツなどにも知れわたり、いっとき大きな期待も寄せられていた。が、あまりに開発予算が大きくなって挫折した。 けれども、このときに構想した物語研究の成果とナラティヴ・ナビゲーターのアイディアはその後もずっと生きていて、ぼくの編集工学の仕事に役立っている。 

≪05≫  本書もナラティヴ・ナビゲーターではないが、マルチフォーム・マルチプロットの物語をつくってこれを電子化し、自在にデジタルリーディングをさせようという計画を多様な方面から検証する内容になっている。それを「文学的構成の技法」と「コンピュータ的構成の技法」はどこまで重なりあえるかという主題にして、追っかけている。 

≪06≫  しかし、さんざん検証しているわりには、マレーおばさんが出した結論はデジタル・テクノロジーのヒントから得たものではなく、人間がつくりだした物語の構造にひそむ特徴に耳を傾けるべきだというものになっている。 

≪07≫  たしかにマルチメディアやITを駆使して物語世界をつくるにあたって、電子世界にだけひそむ物語の特質があるわけではない。物語は物語なのだ。 

≪08≫  本書にも紹介されていることだが、物語にはもともと基本的なテンプレートというものがいくつも隠されている。電子といえどもこれを活用するのが得策だ。このテンプレートはキプリングなら69の基本プロットとして、ボルヘスならせいぜい12の型として、ロナルド・トバイアスなら20のマスタープロットとして発表されてきた。たとえばトバイアスは、あまり上出来ではないが、次の20のマスタープロットの型をあげ、その組み合わせでどんな物語もつくれると豪語した。 

≪09≫ 探求 冒険 追求 救出 逃亡 復讐 謎 張り合い 誘惑 負け犬 変身 変型 成熟 愛 禁じられた愛 犠牲 発明 あさましい不節制 上昇 下降 

≪010≫  ホメロスの叙事詩を研究したミルマン・パリーの弟子だったアルフレッド・ローでは、もっと型が絞られている。「結婚と闘い、織り交ぜられた救出と解放」。たったこれだけさえあれば、この“一つの歌”から大半のストーリーが派生すると考えた。 

≪011≫  もっともこれをマルチメディアにするにはシステムのほうの引き取るものが多すぎる。そこで7割くらいは物語の構造に複雑性と多様性をもたせ、残りをシステムが介護する。マレーおばさんのお勧めもそこにある。 

≪012≫  けれども、そこで選択肢があれこれにブレることになるのだが、いったいシステムに埋めこむ物語構造の、どの階層やどの分岐点をシステムが引き取ったらいいのかということである。 

≪013≫  仮にシェイクスピアの『ハムレット』をシステムに入れることにする。そのときまず『ハムレット』をどのような「意味のアーキテクチャ」にしておくか。 

≪014≫  仮にシェイクスピアの『ハムレット』をシステムに入れることにする。そのときまず『ハムレット』をどのような「意味のアーキテクチャ」にしておくか。 

≪015≫  物語は登場人物で分けられたり組合わさったりもする。場面もいくつかに分かれている。会話もそれぞれちゃんとシェイクスピアが用意してくれている。けれども、以上をそのまま入れたのではデジタル・ストーリーテリングになるわけはない。戯曲を読むのと変わりがなくなってしまう。では、場面を選択させるようにする? 会話はアイコンをクリックして出させるようにする? 

≪016≫  そんな苦労をしたところで、シェイクスピアをデジタル・シアターに入れたことにはならないだろう。ここで考えるべきなのは、もともとシェイクスピアの演劇世界をメタレベルで背景にもとうということなのである。  

≪017≫  それならシェイクスピア以前のエリザベス朝の演劇世界をアーキテクチャとしてもっていたほうがいい。それなら、それ以前のルネサンス期のタブロー・ヴィヴァンの構造をアーキテクチャにしてしまったほうがいい。そういうデジタル構造をメタ物語構造にしたものを背後にしながら、そこにシェイクスピアが呼び出され、そこからさらにハムレットが躍り出たほうがいい。マレーおばさんも、ぼくも、そういう考え方なのである。 

≪018≫  これは、コンピュータそのものをストーリーテリング・マシンにしてみようという構想である。ぼくの用語でいえば、ナラティヴ・ナビゲーターということだ。 

≪019≫  実はもともと映画は「フォトプレー」とよばれるものだった。映画が確立する以前、エティエンヌ=ジュール・マレーやエドワード・マイブリッジがしていたことは、フォトプレーとしてのストーリーテリングをどのように実現するかということだった。  

≪020≫  これは今日のマルチメディアが物語をコンピューティングしようとしているときの出発点と酷似する。実際にもフォトプレーには、蓄音機と拡声機能が加わり、ムービー機能が加わり、劇場機能が加わって、映画というものに成長していった。  

≪021≫  デジタル・ストーリーテリングだって同じことなのだ。むしろ大事なことは、映画をつくるにあたって脚本や演出やカメラワークや音楽が大事であるように、コンピュータにおける物語はどんな効能によってより電子的な物語らしくなるかということなのである。 

≪022≫  そして、その「電子的な物語らしさ」というものを追求することが、ほんとうはデジタル・ストーリーテリングの将来を決定づけるのである。 

≪023≫  残念ながら、本書にはその解答は出ていない。その解答はマレーおばさんが出すべきものでもない。諸君のうちの誰かが一人の電子上の手塚治虫になることだけが解答なのである。 

≪01≫ 

 33歳の著者はフリーカルチャーのためのソフト開発や研究をへて、本書ではベイトソンの生命思想などを借りて、インターネットの読み方と今後の進展の姿をスケッチした。

 すこぶる生態的な解釈によるもので、西垣通の基礎情報学的な仮説を援用していた。

 幾つかのウェブコミュニティ用の編集ソフトも手掛けているようだが、本書の記述では、ネット構造の思想史的な捉え返しの試みのほうがずっとおもしろかった。

 今後の連続的起爆を期待する。 

≪01≫ 33歳の著者はフリーカルチャーのためのソフト開発や研究をへて、本書ではベイトソンの生命思想などを借りて、インターネットの読み方と今後の進展の姿をスケッチした。 すこぶる生態的な解釈によるもので、西垣通の基礎情報学的な仮説を援用していた。 幾つかのウェブコミュニティ用の編集ソフトも手掛けているようだが、本書の記述では、ネット構造の思想史的な捉え返しの試みのほうがずっとおもしろかった。 今後の連続的起爆を期待する。 

≪02≫  我田引水から入るけれど、編集工学研究所のモットーは「生命に学ぶ、歴史を展く、文化と遊ぶ」というものだ。創立以来、まったく変わらない。スローガンにするほど麗々しくないが、白地のTシャツに赤で刷るには生真面目すぎるモットーだ。 

≪03≫  わが研究所はここに端緒する。1年ほど前に開所以来四半世紀をへて初めて作った64ページの研究所案内冊子のナカ面にもウラ表紙にも、このモットーを、シンボルマーク「ISIS」(仲條正義デザイン)とともに掲示した。ちなみにこの会社案内冊子で初めて“ドクター・イールズ”(EEL'S=ウナギ先生)が初お目見えした。ご贔屓に。 

≪04≫  ところで、このモットーのうち「歴史を展く、文化と遊ぶ」の二つはなんとか見当つくだろうけれど、化学会社でも製薬会社でもないヘンコーケン(編工研)が「生命に学ぶ」とは何をすることなのかと訝る向きも少なくないかもしれない。むろん、立派な理由がある。 

≪05≫  ヘンコーケンは「情報を編集する研究開発集団」だ。その情報編集というスキルは、その奥にはメディア編集の歴史や表現の歴史がぴったり踵を接している。 

≪07≫  それをさらにさかのぼり、ずうっとその先を尋ねていくと、どうなるか。そもそもは生命が情報高分子を出発点にしたときに、情報編集は始まっていたということになる。もうすこし時計をはっきりさせるなら、RNAワールドが遺伝情報の編集に乗り出してDNAのセントラルドグマを一挙につくりだしたそのときから、情報編集(コードシェアリングと複製編集)は始まっていた。そこにはコピーミスによる「ゆらぎ」も取り込まれた。突然変異だ。その後の分化も進化も、生物情報と環境情報のダイナミックな相互編集によるものだ。 

≪06≫  その編集の歴史をさかのぼれば、言葉や文字や輪郭線が生まれたときに繰り広げられた古代の編集光景が広がっている。洞窟画やギルガメッシュや聖書や仏典は、そうした情報編集作業の大成果だった。 

≪08≫  いや、それだけではない。サケ・マスたちの側線も昆虫の触覚もサルのミラーニューロンも、生物たちの大半の知覚のいとなみは、特異な生命化学的な情報編集によってこそ支えられてきたわけだ。だからこそヒトザルが脳と口唇をつかってヒトの言葉を操るようになれたのである。 

≪09≫  そうであるのなら、ヘンコーケンの編集作業というもの、その原点には本来的に「生命に学ぶ」があってよかったわけだったのである。正確には「生命が創出してきたしくみ」に学ぼうというものだ。 

≪010≫  このことをもっと端的に言いあらわしていた人物がいた。グレゴリー・ベイトソン(446夜)である。 ベイトソンは生命の来歴がその形態やしくみに刻みこまれることを「プロクロニズム」(prochronism)と名付けた。生命システムにはどのようにしてか先行する(pro)時間(chrono)が組みこまれてきたという見方だ。時間が組み込まれたということは、その履歴と、履歴にふくまれるしくみの残響とが組み込まれたということである。 

≪011≫  サンフランシスコの美術大学で講義をしていたとき、ベイトソンは一匹の茹でたカニを学生たちの前に置いて、これが「生物の残骸」であることをカニを知らない者に向けて説明するとしたら、さあ、どうするかというお題を出した。 

≪012≫  学生たちはこの物体が左右対称であること、しかしハサミが非対称であること、けれども甲羅もハサミも同じものでできているといった議論をした。 

≪013≫  ひととおり議論をさせたあと、ベイトソンは対象の構造にひそむ部分的相同性(serial homology)が外見でもわかる一次関係(first-order connections)を形成していること、そこからはたとえばカニとエビの二次関係(second-order connections)を準えることができることなどを説明した。 

≪014≫  ついで一個の法螺貝を取り出して、これについても同じように説明できるかどうかを問うた。学生たちは対称性や部分の相同性からはうまく説明できなかった。ベイトソンは対称性や分節化は「成長」という現象に付随しているもので、成長そのものは個体の形態的な法則にしたがっているので、そこにはより高次な法則があることを類推しなければならないと述べた。そして、その高次な法則には「プロクロニズム」というものがはたらいていると見るべきだと説明した。 

≪015≫  ちょっと余談になるが、このベイトソンの“授業”に触発されて、ぼくは資生堂の幹部研修会「ミネルヴァ塾」において、茹でた伊勢エビを5~6人ずつの各自のテーブルに一個ずつ運ばせ、これを見ながら現況の資生堂の特徴を語りなさいというお題を出したことがある。 

≪017≫  それはともかくとして、ベイトソンがこのような見せ方によって強調したかったのは、どういうことだったのか。 何かをそこに「現出」(monstration)させるということは、そのイメージが触発する「脱現出」(de-monstration)に必ずつながるものでもあるということだ。 

≪016≫  この“授業”はそのとき取材にきていた「フォーチュン」誌によって採り上げられ、翌々月の6ページにおよぶ紹介記事になった。日本企業の研修が海外の大手雑誌にとりあげられたのは、後にも先にもこのときだけだったらしい。この塾は福原義春さんの依頼に応えて、藤本晴美とぼくといとうせいこうがレギュラーのチュートリアルを務めて、9年間にわたったものだった。 

≪018≫  われわれは時代社会の切れ目ごとに、たいていさまざまな「化物」(monstrum)に出会うのだが、そしてそのデモンストレーション(demonstration)を前にして、ロックだ、グラムだ、パンクだ、ポストモダンだ、金融資本主義だ、小さな政府だ、自爆テロだとしばしば驚くのだが、それはいつだってカニや法螺貝のモンストレーションとデモンストレーションのダブルページ開示のようなものだったのである。 実はインターネットもそういうものだった。本書はそういう視点で綴られている。 

≪019≫  この本は著者(版元)から送られてきて、すぐ読んだ。それなりの編集性に富んでいた。 ドミニク・チェン(Dominique Chen)のことは、日本のクリエイティブ・コモンズの創成期にかかわった一人としてその名を仄聞していたが、まとめて読むのは初めてだったので、前著の『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』(フィルムアート社)にも目を通してみた。 

≪021≫  そこには、ダーウィン以前の博物学者ジョルジュ・キュヴィエや血液循環説を説いたクロード・ベルナール(175夜)以来の艶やかな生気論(vitalism)の香りも漂っている。フォン・ユクスキュル(735夜)の「生物から見た目」も動いている。これらはいずれも「在る」(being)より「成る」(becoming)を重視する思想だった。 

≪020≫  すでに察せられたと思うけれど、本書はベイトソンのプロクロニズムをインターネットにあてはめて理解するという見方を貫いた一冊である。1981年生まれのチェンは東京生まれのフランス国籍らしいが、日本のイノベーティヴな事情をよく理解していて、読んでいると今日の日本のICTの現状からの脱却のため、ベイトソン流の見方をインターネットの活動にジャックインさせようとしていることが、よく伝わってくる。 

≪022≫  この「在る」より「成る」に向かうということの重要性は、ドミニク・チェンもそれなりに自覚しているようで、自分の考え方が先駆的模倣論のガブリエル・タルド(1318夜)、エラン・ヴィタル説のアンリ・ベルクソン(1212夜)、貨幣と自由の相互関係を論じたゲオルク・ジンメル(1369夜)、さらにはジル・ドゥルーズ(1082夜)、キャサリン・ヘイルズ、『猿と女とサイボーグ』のダナ・ハラウェイ(1140夜)などに、どこかでつながっていることを告白していた。 

≪023≫  インターネットはたんなるコミュニケーションのツールではない。カメラや電話や印刷とは異なっている。インターネットは個体と環境をつなげて情報の網目にしていった。 

≪025≫  インターネットが分解能をもっているということは、ここにはウンベルト・マトゥラーナやフランシスコ・ヴァレラ(1063夜)が言うような「オートポイエーシス」がはたらいて、インターネットにひそむものから情報の自律性が発揮されてくると見てもいいだろうという見方を引き出すし、ヴァン・トンプソンやエレノア・ロッシュが提案した「エナクティブな認知科学」にもとづいて、インターネットの中では世界は個体によってエナクティブ(enactive)に立ち上がっていくというふうに見ることもできるということだ。 

≪024≫  巨大なネット時空のそこかしこに夥しい「情報」を孕ませるかのように共有させていったのである。だとすれば、そこには情報の生態と形態の分解能が含まれていると見るべきだ(分解能という言い方はチェンのお気にいりだ)。 

≪026≫  それだけではない。もっといろいろかぶせられる。たとえば、環境と知覚の相互的関係を追ったジェームス・ギブソンの「アフォーダンス」(1079夜)の考え方にベルクソンやベイトソンの見方を積極的に加えて、「インターネットのアフォーダンスはICT環境のプロクロニズムから生じうる」とか、またそこにゲシュタルト心理学者クルト・レヴィンらの「誘因特性」の考え方を導入して、「情報的な個体はインターネットとのプロクロニズムの中で共進化する」とかと見たって、いっこうにいいはずなのである。 

≪027≫  ぼくならば、ここにニコラス・ルーマン(1349夜)やリチャード・ローティ(1350夜)の「ダブル・コンティンジェンシー」なども加えたい。 

≪028≫  このような観点からすると、いまインターネットの各所に花咲いているいわば占有的(proprietary)ともいうべきソフトウェアの数々は、その多くが表面的な機能だけで見るしかない顕花植物のようなものなのだということになる。たとえば代表的にはマイクロソフトのウィンドウズOSはそういう表だけが華やかな顕花植物じみていて、内部が見えないものになっている。 

≪029≫  これに対してフリーソフトウェアはコードの大半がオープンソース化されているぶん、表面機能を作動させている内部論理(アルゴリズム)までもがよく見える。地衣的に、隠花植物的につながっているからだ。そのため、そこにアクセスする者はアクセスしながら「観察の台頭」をおこすことができる。 

≪030≫  どういう観察が可能になるのかといえば、ふたたびベイトソンふうにいえば生産者と受容者の系統的な相同性(phylogenetic homology)が見えてくるはずだ。その相同性をXとしておくとすると、インターネットとはこのXをめぐる電子的プロクロニズムの相互編集状態そのものだといえるのである。 

≪031≫  本書の後半は、このようなインターネット的プロクロニズムを相互観察できるソフトとして、一種の編集ソフトウェア「タイプトレース」(Type Trace)が紹介され、それを中心にしたページが続く。 「タイプトレース」はテキストエディタのちょっとした発展系のソフトで、記録、休止、再生・停止、再生速度の調整ゲージ、時間差の可視化エフェクト、時間軸スライダーなどが付いている。遠藤拓己・徳井直生らが制作した「phonethica」と松山真也・久世祥三らが開発したキーボード「キネティックキーボード」とが結び付いて生まれていったものらしい。 

≪032≫  これらはウェブ・コミュニティづくりのためのツールでもあった。その後、「タイプトレース」は実際のテキスト生成にもとづいた改良やバージョンアップや付属機能の増殖をともなっているようだが、このデモをいじっていないぼくとしては、この出来ぐあいについては何とも言えない。複雑な編集はほとんどできないようだ。 

≪033≫  そのほか、「リグレト」という対話コミュニティ用のバックエンドの試み、「HIVE」というライセンス設計ツール、「AVMII」というフロントエンド用のデザイニングツールなども開発しているようで、主には協調的フィルタリングとプロパゲーションにもとづいているらしいのだが、このへんの出来具合も本書を見るかぎりではとくに斬新なものとは感じなかった。 

≪034≫  それゆえ本書でおもしろかったのは、前半のインターネット・プロクロニズム論のあたりと、最後半に提起されているネオサイバネティックスについての見方のほうだった。ただし、これらは西垣通君のHACS(階層的自立コミュニケーションシステム)の影響を多分に受けていて、そこはもっと出っ張っていってもよいように感じた。 

≪035≫  まだインターネットが姿をあらわしていなかった1990年前後、ジル・ドゥルーズ(1081夜)は、ちょっとした予言をしていた。これからさらに拡張していくであろう高度高速情報流通社会では、きっと個人的主体(individuals)はどんどん分節的(dividuals)になり、ユーザー(利用者)としての大衆はことごとく標本やデータとなって、市場や銀行にとりこまれていくだろうというのだ。 

≪036≫  まさにそうなった。いや、それ以上かもしれない。アイルランド出身でハーバードに行って西洋古典学を修め、早くからメディアカンパニーを起こして「ウェブ2・0」を予言したティム・オライリーも、インターネットの生態系はユーザー個々の活動そのものがエンジンなのであって、それ以外のものではないと言っていた。 

≪037≫  しかし、蓋のあいたインターネットがウェブとして爆発的に示したことはそれだけではなかった。気が付くと、誰もがグーグル検索エンジンの配下に入っていた。アレクサンダー・ハラヴェの『ネット検索革命』やニコラス・カーの『ネット・バカ』(いずれも青土社)が分析してみせたように、「検索とランキングしか広まらないネット社会文化」が蔓延することになったのである。 

≪038≫  何が問題だったのか。何が足りなかったのか。「相互に観察が頻繁におこっているであろうインターネットというシステムを、その進行とともに同時に観察する」というしくみが起動できなかったのだ。 

≪039≫  グーグルに頼っているだけでは新たな見方はできない。検索エンジンに自動的に導かれるだけでは、そこに自律性はない。隠花植物にまで及べない。自動的であることと自律的であることには雲泥の差がある。ヴァレラやマトゥラーナが『知恵の樹』で重視したのは、そこだった。 

≪040≫  いや、そういう再帰的な見方でインターネットを観察している者たちはいた。本書ではほとんど採り上げられていないけれど、最もラディカルに再帰的にインターネットを見ていたのは、実はハッカーたちだったろう。マッケンジー・ワーク『ハッカー宣言』(1065夜)、ポール・グレアム『ハッカーと画家』(1534夜)、さらにはハキム・ベイ『T.A.Z』(1117夜)などを読まれたい。そこには颯爽たるリバース・エディティングがたえず作動した。 

≪041≫  ちなみにチェンは、自律的な相互観察には「庭」(しま)のようなものが必要ではないかと書いていたが、ぼくもこれには同意する。かつて日韓のあいだで相互編集をおこすために、両者でリアル=ヴァーチャルな「庭」(マダン)を共作するといいとNHKソウル局長に提案したことがあるのだが、「庭」や「祭」はインターネットにこそ必要だろう。 

≪042≫  インターネットをプロクロニズム入りの生態系の目で見て、相互に自律的になるということ、相互に編集的になるということを育んでいこうとすると、ここからはさまざまな可能性が連鎖しうる。たとえばネオサイバネティックスやジェネラティビティの考え方と共振できる。 

≪043≫  本書はそこを西垣通の基礎情報学(Fundamental Infomatics)と関連づけた。この気持ち、よくわかる。西垣はぼくがNTTの「情報文化フォーラム」の議長をしていたときの柔軟果敢なメンバーの一人で、金子郁容(1125夜)、大澤真幸(1084夜)、室井尚(422夜)とともに最も積極的な発言をしてくれていた。当時は明治大で教えていたのだが、その後は東大に移り、また東京経済大学に移って、生命論や集合知を存分にいかした情報コミュニケーション論のためのフレームを提供していった。このフレームは「階層的自律コミュニケーションシステム」(HACS)と名付けられている。 

≪044≫  その後、西垣はこのフレームに「情報デザイン」や「ヴァイアビリティ」のコンセプトワークが出入りできるようにして、そこからネオサイバネティックスの可能性の芽吹きがおこるように仕向けていった。 

≪045≫  ネオサイバネティックスは1960年代後半にハインツ・フォン・フェルスターが提案したものではあるが、その後、オートポイエーシス理論、機能的分化社会理論、エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義認知心理学、ジークフリート・シュミットの文学システム論などが加わった。 

≪046≫  西垣の基礎情報学はこれらをよく組み込んでいる。これはまさに「生命に学ぶ」というにふさわしい見方だが、本書が重んじてきた「観察するシステムを観察する」という多重な見方からすると、ネオサイバネティックス、つまりセカンドオーダーが次々に代入できるサイバネティックスは、まさにインターネットにこそふさわしかったのである。 

≪047≫  ネオサイバネティックスの最もおもしろいところは、情報が産出されるのは主体的な行為にもとづくが、情報コミュニケーションはほぼ擬似的あるいは模擬的に進行するものだとみなすところにあるのだが、チェンはとりわけこのような見方に関心をもったのだったろう。 

≪048≫  ジェネラティビティ(generativity)は発達心理学者のエリク・エリクソンが提案した。エリクソンは「アイデンティティ」の心理学の提唱者でもあったが、人間が幼児期から老年期に向かうにつれて複数の能力や価値観を追求していくとき、ある段階で「次世代を育成し指導することを最も重視する」ようになることに注目し、これをジェネラティビティと名付けていた。 

≪049≫  同様のことを、ジョン・コートルは「自分よりも長生きする生命や活動に投資したいという欲望」と定義した。その後、ジェネラティビティは技術や芸術の分野で議論され、大きくいえば経済文化はジェネラティビティに対する投資と技能のイノベーションとによって発達するというふうに捉えられるようになった。 

≪050≫  これをインターネットにあてはめたのがネット法学者のジョナサン・ジットレインだった。ジットレインはインターネットを充実進化させるのはジェネラティビティが起動するときだろうとみなしたのである。 

≪051≫  ざっとこんなところが本書の後半での議論の余韻にあたるところなのだが、これを書いている途中、『電脳のレリギオ』(NTT出版)という新著が刊行されたので、この本についても一言だけ感想を述べておく。 

≪052≫  こちらは本書にくらべてラディカルな思想言語が後退して、とても優しく綴られている。サブタイトルも「ビッグデータで心をつくる」となっていて、みんながインターネットで「心」を充実させてほしいのだという祈念のようなものが滲み出ていた。それが「レリギオ」という言い方にもなった。 

≪053≫  そのことと、この本の中で紹介されている「ペインキラー」「インスタグラム」「スナップチャット」「ピクシー」といったソフトがどのように重なるのかはいまひつとはっきりしないのだが、きっとそのうち「集合知」が「心」の表象になるソフトも出てくるのだろうと思いたい。 

≪054≫  
それより、この本で最もぼくが気にいったのは「読むことは書くことである」と
ドミニク・チェンが気が付いたと述べていることだ。
まさにそうなのだ。
「読む」と「書く」とはほとんど同じ認知表現行為なのである。
ただ、この二つの行為の実情がいまなお比較されていないだけなのだ。 

読書

≪01≫  90年代半ばすぎにインターネットが登場するまでは「ブラウジング」(browsing)とは、お店で「何かお探しですか」と近寄ってくる店員を追っ払うための言葉だった。「いや、ちょっと見て回っているだけ」(I'm just browsing)と言うためだ。 それでもブラウジングはウィンドーショッピングよりも意図的だ。お店が念入りに検討して並べた衣料品や食品や書物を、意図的に無視するからだ。このブラウジングの特権を駆使する者が「ブラウザー」である。 

≪02≫  勝手に動きまわる客をなんとか商品に引き付けたくて、店舗のスタッフはいろいろ工夫する。しかしたいていは、客のブラウジング(ぶらぶら注目歩き)を制約したり規制したとたんに、売上げがうまく伸びないことも思い知らされる。 

≪03≫  アメリカの事務用品専門店ステイプルズの陳列担当ディレタクターのリズ・マクゴワンは、客にはそもそも2種類しかなく、それは「質問できる客」と「質問できない客」だと言った。アメリカの店舗業界では店内表示に頼る客は24%で、店員に質問できる客は32%ほどで、残りの40%がブラウザーだとみなされている。 それで、どうするか。どうしようもない。なかなかうまい対策がない。 

≪04≫  やむなく日本と同様に商品の置き場を変えたり、POSなどで客の動向を分析するのだが、客が買ったリストや客の動線の分析だけでは変革はおこらないこともわかってきた。 

≪05≫  マクゴワンは「最も遅れている分析は、客が何を気にとめたのかということにある」と言うのだが、POSデータに残らない「何を気にとめたのか」というインビジブルな情報は店側の手に入らない。それには客の視線の動きを観察するしかない。けれども客の視線を記録することなんて、小型監視カメラをくまなく配備しないかぎり、ほとんど不可能なのだ。 

≪06≫  一言でまとめていえば、WWWはこの「ブラウジング」に革命をおこしたのである。自分勝手に見回りたいネットユーザーたちに、それが自由にできる「ブラウザー機能」を提供し、あまつさえユーザーをブラウザーにしたのではなく、ブラウザーをユーザー化した。 

≪07≫  もともとリアルの店舗にはさまざまなやむをえない制約がある。たとえば、①或る商品は別の商品と別の棚にある。②現物は同時刻に一カ所にしかない。③店舗の空間は店員と客の両方が等しく共有している。④人間の身体能力は限られている。⑤店舗内は乱雑ではいられない。 

≪08≫  これらすべてをインターネットは大きく変更してしまった。ブラウジングに役割を与え、それをもって秩序(order)を変えたのだ。どのように変えたのか。「情報」によって変えた。ユーザーを情報ブラウジングする者とみなし、ユーザーのカーソルがそのままブラウザーになるようにした。 

≪09≫  ICT上でのブラウザーとは「情報をまとまった形で閲覧するためのソフトウェア」のことである。だから実際には画像ブラウザー、ファイルブラウザーなどがあるのだが、現状ではウェブブラウザー(ティム・バーナーズ=リーによるWWWブラウザ)がブラウザーの代名詞になっている。 

≪010≫  1993年に登場したマーク・アンドリーセンによるモザイクを筆頭に、その後はマイクロソフトのインターネットエクスプロラー、アップルのサファリ、ネスケのファイアフォックス、グーグルのクロームなどが並ぶ。 

≪011≫  こうしたブラウザーは、ユーザーにいかに情報リソースを提供するかということを全面サポートする。①URIやHTTPにもとづいてサーバーと通信してリソースを取ってくるユーザーエージェントの役割をもつ、②取ってきたリソースをその種類(HTML/XHTML/XML、文書、画像など)に応じて構文解析する役割をもつ、③それらを文字や画像に配置したり色付けしたりする表示の役割をもつ、ということをやる。 

≪012≫  こうしてインターネットはリアルの店ではできないことをやってのけたのだ。実際にもネットショッピングはあっというまに巨きな売上げに達していった。しかしながら、それですべてよろしいというわけではない。むろん問題もある。心配もある。由々しい将来も待っている。  

≪013≫  ネットは商品だけを並べているのではない。あらゆる情報と知識と人物と、そして厖大なガセネタを“陳列”する。 そこにはニュースもあるし歴史事項もある。事典もあるし企業宣伝もある。学術の成果もポルノも“陳列”されている。ユーザーたちの発言も呟きも投稿画像もある。これらすべてが斉しくブラウジングの対象になったのだ。 

≪014≫  当然、このことはブラウジングの意味をすっかり変えて、情報を選択することと欲望を喚起することと買い物をすることを、限りなく近づけていった。それとともにリアルワールドとネットワールドがいったいどんな違いをもっているのかを忘れさせた。 

≪015≫  なかでもインターネット・ブラウジングによって「知の秩序」がどのように変更されたのかどうかということが問題になるはずなのに、実はそういう問題があるということすら抽出できないほどに、ネットブラウジングはあっというまに世の中を席巻した。そしてすべての「評判」(reputation)をアクセス数とランキングで覆ってしまったのだ。 

016≫  リアルとネットの区別がつかなくなったのではない。そんなことは誰だって見分けている。 そうではなくて、ネットの厖大なコンテンツ陳列が示すアクチュアリティと、かつての2000年に及んだコンテンツ陳列がもっていたはずの情報編集力とが分断され、たとえば書籍をリアルな書店で陳列をして売るとか、図書館に何十万冊もの本を収容しておくとかということが、ネットブラウジングの感覚とつながらなくなったのだ。 

≪017≫  そうなると、どうなるか。リアルの図書館や大型書店でどのように「欲知のコンテンツ」をブラウジングすればいいのか、見当がつかなくなっていったのである。館側や店側も、そういうときこそ棚組みや本の並びを大幅変更してみればよかったのだが、そうしなかった。 

≪018≫  ぼくと和泉佳奈子と櫛田理が「松丸本舗」でそういう「欲知のコンテンツ」の並べ替えの“実験”をしたときは、開店中の3年間ずっと大きな反響になったものの、業界は呆れるばかりで、当の丸善やジュンク堂はその“実験”の意図が理解できなかったのである。  

≪019≫  それにしても、この程度のことはあらかじめ予測できなかったのだろうか。みんなが一斉にネットに走ったために、踏みとどまって強く提言できる者がからっきしになったのだろうか。いやおそらくは、少なくともこの二人は気が付いていた。 

≪020≫  一人はポストモダン社会学のジャン・ボードリヤール(639夜)、もう一人は情報アーキテクトのリチャード・ソウル・ワーマン(1296夜)だ。 

≪021≫  ボードリヤールは大量消費社会では「モノの価値」が商品に付与された記号のほうに移ると喝破して、すべての消費欲望が「他の商品とのコードの差異」に転換していくと予想した。また、そのようなモノを記号化するシステムはひたすら自己増殖するしかなくなっていく、それゆえそこでは「準拠」「意味」「方向」が見失われていくとも予想した。 まさに“お化けのインターネット”の出現とその行方を予告してみせたのだ。 

≪022≫  ワーマンのほうはインターネットが登場していないかなり前の1989年の春に、これからは“Information Anxiety(情報不安症)”が頻発するだろうと予想し、この言葉をタイトルとするユニークな本を書いた。どのページからでも読めるようになっていた。日本語版もある。ぼくが監訳した『情報選択の時代』(日本実業出版社)だ。 

≪023≫  ワーマンが予測し、かつ警告したことは、①データ情報にとらわれてばかりいるとナマ情報とのギャップが知的不安を拡張していく、②情報は「理解」のためにその提示のされ方に独自の工夫がなければならない、③既存の伝達ビジネスは新たな「理解ビジネス」(understanding business)に変わるべきだ、④高速処理が可能な情報機器はリテラシー(読解能力と文章能力)を低下させる、⑤メディアの便利度は知的情報の組み立てを促さない、といったことだ。 

≪024≫  すべて当たっていた。ちなみにワーマンはごく最近になって、ぼくとイシス編集学校が構成した『インタースコア』(春秋社)に、「編集とはまさに理解の本質である」というメッセージを寄せた。 

≪025≫  ボードリヤールやワーマンの予告を、別なかたちで変換してみせたのがITベンチャーたちだった。シリコンバレーからだけでなく、世界各地で雨後のタケノコのように出現したが、総じてグーグルとアマゾンに代表されるので、その市場については一括して「グーグル・アマゾン化されたニューブラウジングマーケット」と言われる。 

≪026≫  グーグル・アマゾンが何をしたのかというと、言うまでもない。リアルな店舗のような工夫をいっさいしなかった。店員もおかなかった。24時間365日オープン状態にして、自由に持っていけるコンテンツを含めて大量に陳列しただけなのである。 

≪027≫  最も大胆で最も不埒だったのは、商品も知識も人物も、トークもパフォーマンスもポルノも、そして厖大なガセネタも、まったく同等に扱ってコンテンツとして次から次へとネット陳列したことだろう。つまりはすべてを情報化したのである。そして、こっそりクローラーとサーチエンジンを動かして、ユーザーがすっかりお膳立ての前で御馳走にありつけたかのような、編集化をしていったのだ。 

≪028≫  こんなこと、リアル社会やリアル市場ではとうてい不可能なことだった。 たしかに世間のたいていの都市には、どんな食品もどんな衣料もどんな日用品も置いてある。どんな劇場もどんな金融機関もどんなポルノ展示も用意されている。 光もあれば闇もある。消費都市というものは、そのようにしてできあがったのだ。  

≪029≫  けれども世界中のどんなリアルワールドでも、それらは「店」ごとに仕切られていた。「壁」付き、「人」付きなのである。またたくさんの品揃えができるはずのデパートやスーパーやコンビニであっても、そこには「品」の一貫的多様性が守られていた。魚屋で薬品は買えないし、病院では盆栽を売ってはくれない。学校では旅行チケットは選べないし、スーパーではストリップは見られない。 

≪030≫  だいいち「店」には体と目と足と手を、洋服を着たままで欲望ごと運ばなければならなかったのだ。グーグル・アマゾンはそんなめんどうをいっさい省いたのだ。 

≪031≫  どんなコンテンツも情報化した(かつ、サイト有利の編集化がされていた)ということは、「本」や「新聞」や「雑誌」によって分けられていたコンテンツを、ことごとくパッケージから切り離してばらしたようなものだった。 

≪032≫  加えて、そこにユーザーがどんどこ加われるようにした。コンテンツを取りに行ったという電子の足跡(フットプリント、フットスコア)を記録し、そのユーザーのアクセス行為をコンテンツのパーツに反映させもした。 

≪033≫  多くの成功例がある。たとえば2001年の前半、ビル・ゲイツ(888夜)はベットマン・アーカイブを買収した。親会社のコービスが持っている最も権威のある歴史写真のアーカイブの権利を入手したのだが、このアーカイブでは1枚の写真(イメージ)に付き約10~30の言葉(アイテム)が関連付けられ、そこには約33000の同義語がくっついていた。 

≪034≫  2004年、バンクーバーに本拠があるディコープ社が開設した「フリッカー」(Flikr)は(その後はヤフーに買収され)、ベットマン・アーカイブのネット化を開始して、いまや毎日ざっと100万枚以上の写真を追加しつづけるネットアーカイブに成長させた。けれどもここには当初から専門家による分類なんてまったくなかったのだ。使えるのはユーザーが自分で付けたラベルだけなのである。それで十分だった。 

≪035≫  この、ユーザーが自分で付けるラベルを「タグ」(tag)という。もともとは荷札のことだ。これが「メタデータ」となってフリッカーに出入りする膨大な写真イメージを紐付ける。このとき「オーガナイザー」と呼ばれる管理アプリが使えるようになっている。このアプリは自動的なメタデータの割り振りをしてくれるので、一気に便利になった。やがてウィキペディアの写真とフリッカーの写真は相互乗り入れができるようにもなった。 

≪036≫  いっさいの情報と欲望を「店」で分けず、「品」でも「本」でも分けないネットワールドの手法は、こうしてあらゆるものをマイクロコンテンツとして扱えるようにしつつあるわけである。 

≪037≫  さあ、ここで大きな疑問が涌いてくる。 ひとつには、いったいリアルアーカイブとデジタルアーカイブはどうしてこんなにも違ってしまったのかということだ。 違いはリアル空間の限定性とデシタル空間の無際限性によるのか、それとも提供者が知識の支配権を牛耳っているリアルアーカイブと、ユーザーが「知」を遊弋することの経験の総和がデシタルアーカイブをつくっているという、この違いによるのか。さあどうなのかということだ。 

≪038≫  もうひとつには、世の中がデジタルアーカイブばかりが広大無辺になっていくとしたら(そうなるに決まっているが)、これまで人類が営々と築いてきた学問体系や知識分類や図書分類に代表される「知の秩序」は、いったい今後も保たれるのかということ、いいかえればそうした過去の分類は、そもそもどのくらい有効なものだったのか、あらためてそこを問いたくなるということである。  

≪039≫  本書は、ワーマンが情報アーキテクチャを専門にしたことを受けて登場してきたデビッド・ワインバーカーによるもので、インターネット波及以降の2007年に“Information Anxiety”をあらためて俎上に乗せた一冊になっている。 

≪040≫  著者は情報アーキテクチャの構築や情報仕分けやマーケット・コンサルティングの仕事に従事しているようなのだが、つまりは「理解ビジネス」に従事しているようなのだが、この翻訳書には著者情報や類書情報がまったく提供されていないため、本書とこの著者の位置付けがわかりにくい。 

≪041≫  それはともかく、本書でワインバーガーが注目したのは、インターネットは「知の秩序」を変えつつあるのかどうかということだった。まさに重要な問題だ。ただそのことを議論するには、そもそもリアルアーカイブ時代の情報整理や情報編集がどの程度の「知の秩序」をつくろうとしてきたのか、そこにいったん介入してみる必要がある。ワインバーグはそれをした。そうしないかぎり、インターネットをたんに“おバカ”と言えないだろうという立場を鮮明にしたのだ。 

≪042≫  ぼくが本書を千夜千冊する気になったのは、この検討のために「本」の分類がかつてどのようになってきたのかを採り上げていたからだ。 

≪043≫  メルヴィル・デューイが図書館分類システム(DDC)を公表したのは1876年だった。分類には十進法が選ばれた。  

≪044≫  そんなに厳密なものではない。当時のデューイが一番関心があった哲学の関連書に100番台を付け、宗教を200番台に、次に社会科学(300番台)、数学(500番台)、文学(800番台)というふうに割り振った。いまなお世界の20万の図書館がこの簡単至極なデューイの十進法を使っている。 

≪045≫  1851年にニューヨーク州の500人くらいの町に生まれたデューイは、アマースト大学(内村鑑三が留学した大学だ)で借金返済のために図書館経理のアルバイトをしていた。その後に司書補となったデューイは、ここで「図書館の民主化」と「知識の民主化」のための改革に決然としてとりくんだ。  

≪046≫  デューイには先行するヒントが3つあった。 第1に、トマス・カーライルが1840年代後半に大英博物館の印刷書籍部門のカタログをめぐって、歴史や知識のレパートリー・エディティングに関する激越な議論を展開していたことだ。大英博物館のアントニオ・パニッツィが91の規則にもとづいて使いやすい書籍カタログを提案したのだが、カーライルがこれに反対したので、当時はレパートリー・エディティングの議論が騒がしかったのだ。 

≪047≫  第2に、このパニッツィの規則がスミソニアン博物館の図書館員のチャールズ・ジェウェットを刺激して、彼が1852年に図書カタログ改良案を提案した。ジェウェットはカード登録による整理を案出していた。デューイはカードによるアーカイブ化に関心をもった。だが、カードに「本」の特徴をどのように記述しておけばいいのか。 

≪048≫  第3に、1873年(デューイの学生時代)、ボストン公共図書館の管理主任ナカニエル・シュートレフが「図書館の構成と管理のための十進体系」というお誂え向きの論文を発表した。十進法を「知」に使うなんて、しごく新鮮だ。これならややこしい知識のパッケージである「本」のカード化整理にも役立つにちがいない。  

≪049≫  社会改革については熱情の持ち主でもあったデューイは、さっそくDDC(Dewey Decimal Classification)の作成に踏み切った。 まず10の親コードとしての「類」(class)を置き、そのそれぞれに「綱」(division)を設け、そこにそれぞれ10の「目」(section)を入れる。さらに細かくするときは「目」のあとにピリオドを打ち、その後は小数のように細分する。ざっとこういうルールを思いついた。 

≪050≫  この分類法はデューイがコロンビア大学の司書兼教授となり、コロンビア図書館学校(Columbia School of Library Economy)を設立するに及んで、一挙に権威化され広まった。この司書を養成する最初の学校は、1890年にニューヨーク州立図書学校に衣替えをする。 

≪051≫  デューイの十進分類法は大量な容積を占める図書整理に圧倒的な威力を発揮した。図書館ではこの十進分類に精通する司書を育てることになった。それなら、これは理想的な「知の分類」にもとづいたものだったのか。そこがなんとも怪しいのだ。 

≪052≫  そもそもヨーロッパにおける「知の分類」の基本方針は、プラトン(799夜)の「それが何ものかであるかということは、それを何であると分類する特定力によって説明されるしかない」に準拠してきた。プラトンはどんなものに対しても「そこに何かが参加(participate)してくる」と考えたのだ。  

≪053≫  アリストテレス(291夜)はそこを大きく前進させて、「分類こそが定義にほかならない」と考えた。世界の知識に「ツリー構造」があらわれたのはこのときからだ。 

≪054≫  アリストテレスは世界の知識が今日でいう「まとめ」(Lump)と「分割」(Split)で分布できると考え、ツリー構造が有効なだけではなく、ツリー構造それ自体が世界や宇宙の構造になっているとみなしていた。  

≪055≫  それから1000年後、スウェーデンのカルロス(カール)・リンネがツリー構造の変形ヴァージョンをすべての生物にあてはめることを提唱した。  

≪056≫  すでにジョゼフ・ド・トゥルヌフォールの「まとめ」によって、それまでの6000種類の植物が一挙に600のグループ「属」に集約できることがわかっていた。リンネはこれを借りて「二名法」を思いつく。属名と種小名の2語によって学名を規定しようというものだ。 

≪057≫  こうして生物のドメイン(domain)にある大半の生きものは、界(kingdom)、門(division)、綱(class)、目(order)、科(family)、属(genus)、種(species)に上下分類された複合的ツリー構造であらわされた。「存在の偉大なる連鎖」(the great-chane of being)が確立されたのだ。 

≪058≫  ちなみに世界の分類法として二分的分類を確立させたリンネの『自然の体系』(Systema Naturae)という本は、とてもそっけない。ぼくはがっかりしたほどだ。しかしそのくせ、この分類法は世界の現象をダイコトミー(二分法)で分けることを、デカルト以上に広めたのである。 

≪059≫  図書分類はリンネの分類法にもとづいたものではない。デューイの十進法もリンネの分類法に従ったものではない。もともとはフランシス・ベーコンの『学問の進歩』が提案した「森の森」構想に発祥している。   

≪060≫  ベーコンは知識を「歴史・文学・哲学」の3つにこの順で大別し、それが「記憶力・想像力・推理力」の3大知能を反映していると考えた。このベーコンの分類を発展させたのは意外にもフリードリッヒ・ヘーゲルで、この段階で、知識は「哲学思想→詩文学→歴史観」という順に逆転した。デューイはこれを踏襲したのだ。DDCが「哲学」から始まっているのはそのためだ。 

≪061≫  敬虔な信仰をもっていたデューイはキリスト教的な知を重視してもいた。すこぶる一神教的なのだ。ということは、そうなのだ、デューイ分類に対して反論を唱える者がいてもよかったのである。 

≪062≫  南インドの多神多仏の思想風土に育ったS・R・ランガナタンはマドラス大学で図書館勤務をしたのち、ロンドン留学してヨーロッパの知識体系とアジアの知識の在り方を比較し、新たな「ファセット」(facet)による基本分野の設定を試みた。   

≪063≫  これはなかなかユニークなもので、「パーソナリティ、マター、エネルギー、スペース、タイム」を5つをファセットとして、このファセットから飛び出す特色(それを「独立部分」と呼んだ)によって、柔軟な図書分類ができる可能性を探った。「コロン分類」と名付けられている。分類をコロン「:」によって分けていくという方法だ。1933年にルールブック集『コロン分類法』が刊行された。 

≪064≫  しかし、その「独立部分」による分類のしくみが高度で複雑に見えたため、コロン分類法はほとんど広まっていかなかった。ザメンホフのエスペラント語(958夜)の勇気と宿命を感じる構想だった。 

≪065≫  もっと異色の構想者もいた。ポール・オトレである。 デューイの十進法を発展させて国際十進分類法(UDC)を編み出し(デューイは英語化しないという条件で許可した)、ランガナタンのファセット分類を先取りした。本書には紹介されていないが、ぜひぜひオトレのことはおぼえておいてほしい。    

≪066≫  1866年のブリュッセルに生まれたオトレは30代に書誌学に熱中し、デューイが十進分類を作成したことを知ってからというものは、法学者のアンリ・ラ・フォンテーヌとともに敢然として「世界書誌目録」(RBU)の確立に向かい、19世紀末には40万枚の、1942年には1560万枚のインデックスカードを仕上げた。  

≪067≫  このカードは3✕5インチのもので、世界の有力図書館の書誌情報、学術団体の目録、主要新聞記事、各種のパンフレットなどをことごとく網羅しようとしていた。オトレはこれを「ドキュメンテーション学」あるいは「モノグラフ・プリシプル」にもとづくと主張した。 

≪068≫  が、ここまでだけなら“偉大なるモーラ主義者”であって、異色というほどではない。オトレが異色なのはここからだ。 オトレはやがて、こうした書誌情報の収集にもとづく「知の都市」を構想し、その象徴としての「世界宮殿」(Palais Mondial)を建設して、そこに世界中の知と情報の巨大リポジトリを構築しようとしたのだ。    

≪070≫  当初はノルウェーのヘンドリック・アンダーセン、フランスのエルネスト・エブラールらと交渉したようだが、やがてヴィクター・ブルジョワが、モーリス・ハイマンスが、スタニラス・ヤシンスキーが次々に設計案を出し、ついにはル・コルビジェ(1030夜)と出会うに至って、その構想は「形」をあらわしたのだ。 

≪069≫  これが世界都市「ムンダネウム」(MUNDANEUM)の計画である。計画はベルギー政府にも申請され、ブリュッセルのサンカントネール公園の左にあった政府建造物が候補となったのだが、オトレはこれを有能な建築家に設計してもらいたかった。 

≪071≫  オトレと建築家たちの夢は、折からの第二次世界大戦の戦禍のなかで潰えていった。それでも1988年、ベルギーのモンスに「ムンダネウム」の青写真を展示するミュージアムができた。 

≪072≫ このように書誌の分類といっても、そこにはさまざまな可能性があったはずなのである。 だから、デューイの分類はずっと安泰だったのか、理想的だったのかといえば、むろんそんなことはなかったのだ。図書館管理者以外は誰も満足していたわけではなかったと言うべきだろう。ごく最近でも2005年の情報アーキテクチャに関する国際会議で、矛盾を露呈した。 

≪073≫  矛盾を暴いたのはニューヨーク市立大学のクレイ・シャーキーで、彼は最近は「思考の余剰が世界を変える」という構想にもとづいてSNSによる社会改革活動をしている。で、そのシャーキーが指摘したのは、デューイの宗教分類では296番をユダヤ教が占め、297番にイスラム教とバーブ教とバハーイ教が一緒に押し込められ、仏教がいまだに294番でインド宗教と呉越同舟させられるといった差別的分類性だった。 

≪074≫  494番にはウラルアルタイ語・旧シベリア語・ドラヴィダ語についての言語関連の書が集まっているのだが、これに匹敵する中国語関連の分類ができていないということも指摘した。 

≪072≫ このように書誌の分類といっても、そこにはさまざまな可能性があったはずなのである。 だから、デューイの分類はずっと安泰だったのか、理想的だったのかといえば、むろんそんなことはなかったのだ。図書館管理者以外は誰も満足していたわけではなかったと言うべきだろう。ごく最近でも2005年の情報アーキテクチャに関する国際会議で、矛盾を露呈した。 

≪073≫  矛盾を暴いたのはニューヨーク市立大学のクレイ・シャーキーで、彼は最近は「思考の余剰が世界を変える」という構想にもとづいてSNSによる社会改革活動をしている。で、そのシャーキーが指摘したのは、デューイの宗教分類では296番をユダヤ教が占め、297番にイスラム教とバーブ教とバハーイ教が一緒に押し込められ、仏教がいまだに294番でインド宗教と呉越同舟させられるといった差別的分類性だった。 

≪074≫  494番にはウラルアルタイ語・旧シベリア語・ドラヴィダ語についての言語関連の書が集まっているのだが、これに匹敵する中国語関連の分類ができていないということも指摘した。 

≪075≫  これらはデューイ分類の枠組に対する根本批判にはとうてい当たらない。むしろデューイの図書分類に従った図書館という図書館は、めんどうくさいほど内部拡張がおこっているとはいえ、リアルアーカイブの処理管理としてはいまなお可もなく不可もないといったところなのだ。 

≪076≫  なぜ可もなく不可もなし、なのか。ありていにいえば、やむをえないからだ。新たな図書分類が見いだせないでいるからだ。ベーコンのように理想な分類に新たに取り組むにも、他方でネットワールドのデジタルアーカイブが圧倒的な“進撃の巨人”ぶりを見せていて、いまさら新規まき直しに向えないでいるからだ。ましてネットのようにユーザー参加をさせるわけにもいかないわけである。 

≪077≫  しかしそれなら、このまま「知の秩序」をネットまかせにしておいていいものか。本書はデジタル社会が「無秩序」をエンジンにした以上は、それもとういて期待できっこないだろうということを示した。 

≪078≫  それでは、どうするか。ほっておくのか。ネットビジネスに向かう者たちはそれでいい。けれども図書館や書店や音楽業界にいる者たちはほってはおけまい。ではどうするか。 おそらく答えは二つしかないはずだ。 

≪079≫  ひとつは、リアルアーカイブにもデジタルアーカイブにも共通する「識別子」を束ねて革新することだろう。これにはたとえばUPC(統一商品コード)、バーコード、ISBN(国際標準図書番号)、ICタグ、フォグ指数(読みやすさに関する標準指標)、シンクリンク、H2O(ハーバード大学開発の指標)、EAN(EUの欧州統一商品番号)、DDC、NDC(日本十進分類法)、LCC(アメリカ議会図書館分類法)、カメレオンコード、RFID(無線ICタグ)、uBio(統一生物学索引)、LSID(生命科学識別子)‥‥などなど、これはという識別子の優劣を片っ端から判断して、最も効能の高い「識別の束」を発想することだ。  

≪080≫  そしてもうひとつには、リアルアーカイブにもデジタルアーカイブにも共通する、新たな「知のメタアーカイブ」の構想に立ち向かうということである。 

≪081≫  ただ、ときどきギョッと驚かされることはあった。ワールブルク研究所のイコノロジーに富んだ図書館、ポール・オトレの「ムンダネウム」、あるいはアメリカ議会図書館だ。 

≪082≫  ぼくも3度訪れ、1度はカンファレンスでキーノートスピーチをしたアメリカの議会図書館(LC)には1億3000万点のアーカイブがあって、その中に総延長85万キロメートル分の書棚に収容された2900万冊の本が含まれる。2900万冊は300人ほどの分類担当者とともに80分野に分かれ、「アメリカ議会図書館分類法」(LCC)にもとづいて図書館スペースの285000棚に配架されている。  

≪083≫  まことに壮観ではあるが、LCCはきわめてアメリカっぽい分類で、ヨーロッパが築き上げた知の歴史と枠組をなんとかアメリカのほうに引き寄せようとしたり、改変しようとしている意図があらわれている。 

≪084≫  その証拠に、アーカイブからウェブに「アメリカン・メモリー」(アメリカン・ヒストリー)の名のもとに毎日700万ページが公開されていて、しばらく前に総計10億ページを超えた。これは「アメリカのための知識」というメタプログラムにもとづいたプロジェクトなのである。 

≪085≫  しかし残念ながら日本には、ワールブルクやムンダネウムや、LCCや認知科学MITのような「メタ」に向かった独創的なものがない。日本はどこかで「メタ」を捨て、グローバルなデファクト・スタンダードに併せながら、少しずつ“日本化”にとりくむほうを選んだのだ。 

≪086≫  1980年2月、ぼくは「遊」の片隅に『国家論インデックス』というメタインテリジェントな目録を提示した。 とくに狙いがあったわけではなく、オトレのような野心もなかった。当時のぼくの編集的世界観や知的なパースペクティブをノーテーションしておきたかっただけだった。序の「誰も書かなかったシナリオ」に続いて「生物の国家」「追憶の国家」から「結界の国家「契約の国家」「論理の国家」などをへて「内側の国家」「無名の国家」に及ぶという12のステートを、親コード・子コード・孫コードによって示したものだった。 

≪087≫  その後、これを30年後に『目次論』に発展させ、イシス編集学校の「離」のみで配信することにした。その「離」も10期をへたので、「離」の学衆諸君とともにそのつど『目次録』の改修を試みた。現状は次のようになっている。  

≪088≫ 
 01物質の国家、02生命の国家、03環境の国家、04記号の国家、05追憶の国家、06結界の国家、07相伝の国家、08契約の国家、09論証の国家、10機械の国家、11浪漫の国家、12技芸の国家、13階級の国家、14資本の国家、15情報の国家、16心身の国家、17代償の国家、18自由の国家、19無名の国家、99方法の国家。 

≪089≫  これらも親・子・孫の3段階に構成されているのだが、それぞれが30〜80項目を構成する孫項目には、項目ごとに10冊前後のキーブックがぶらさがるようになっている。つまり「目次の目次の目次」を、ぼくなりの構想にもとづいてメタデータ化するマザープログラムになったのだ。ただし、まだ工事中である。 

≪090≫  電子図書館を構想してもみた。これは千夜千冊を日々書いているうちに思いついたもので、ハンス・ジェニングス(248夜)の「パンディモニアム」、オトレの「ムンダネウム」、ヴァルター・ベンヤミン(908夜)の「パサージュ」、フランセス・イェイツ(417夜)の「世界劇場」、パウル・クレー(1035夜)の「造形思考」、杉浦康平(981夜)の「イメージマップ」、高山宏(442夜)の「ピクチャレスク大学図書館構想」などなどに刺激をもらっているうちに、ひらめいた。 

≪091≫  一言でいえば「本棚による街」をつくってみたかったのだ。半年ほど少しずつドローイングをしていって、2002年の正月にプロトタイプが仕上がった。「図書街」(略称NOAH)と名付けた。ヴァーチャル・ライブラリーだからいくらでも本を収容することができるのだが、ざっと“実測”してみたところ、リアルにするには東京ドーム8杯ぶん、約800万冊ほどを配置した“本の街”になった。 

≪092≫  2年後、通産省おかかえのNICT(情報通信機構・長尾真理事長)がプロトタイプの電子化の開発費用を引き受けてくれたので、北大・京大・慶大・編集工学研究所が共同で制作に当たった。田中譲・金子郁容・土佐尚子・太田剛が大活躍してくれた。 

≪093≫  こういう試みをぼくも欠かしてはいないのだが、それが「知の秩序化」になってはならないとも思っている。「知」はもはや秩序を求めてはいない。多様で複雑な生態系になりつつあるだけなのである。だから、新たな図書分類もそういう“動的平衡”をめざしたほうがいい。 

≪094≫  一方、ぼくはネットが「無秩序」になっていくとも見ていない。ネットもしだいに独特の編集が加えられていくはずだ。オハイオ大学から発したOCLC(Online Computer Library Center)を筆頭とする書誌情報の電子ネットワーク化も、どんどん進むだろう。日本でも学術情報センター(NACSIS)がインターネット・バックボーン(SINET)などで強化を計っている。ぼくは利用しないけれど、電子書籍の進展もあろう。OPACのようにすでに使い勝手が悪いものさえ出回った。 

≪095≫  とはいえ、リアルな市場の現場ではいまもってどのようにコンテンツやメッセージを並べておけばいいのか、こちらはこちらでみんなが迷ったままにある。この苦境は見ていられない。  

≪096≫  おそらく大学図書館にも公共図書館にも、おっつけ人工知能やディープラーニングが必要になってくるはずなのである。そのためには、認知科学も編集工学も必要だ。ぼくの目が悪くならないうちに、新たな打開のためになんらかの寄与してあげたいという気分になっている。  

≪01≫  ①エドワード・サイードが亡くなった。最後に見た新聞写真に衰弱の気配が刻印されていたので驚いたのだが、それから数ヵ月後の死だった。ウェブサイトに『戦争とプロパガンダ』を遺した。 

≪02≫  ②イラクで日本大使館員が2人射殺された。ブッシュのイラク戦争はまだ終わらない。日本はいよいよ自衛隊派遣の決断を迫られている。 

≪03≫  ③イスラエルとパレスチナのあいだでは「仮の和解」がまたまた遠のいている。 

≪04≫  ①②③から見て、サイードの死が象徴的だというのではない。象徴的ではないというのでもない。考えることが多すぎると言いたい。考えることが多いのは、①②③を同時に受けとめるのは、現在の日本人の思考ではきっと灼けつくか、ひりつくほどの問題だということである。われわれはたとえば北朝鮮問題ひとつをとってみても、国民として(また政治家や役人や知識人として)、ほとんど灼けつきもしていないし、ひりつきもしていないままにある。こういう問題を文学や映画にもしえないままにある。 

≪05≫  サイードはエルサレムに生まれて、カイロで教育を受け、プリンストンとハーバードで学位をとった。『始まりの現象』(法政大学出版局)、『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)、『文化と帝国主義』(みすず書房)はそのすべての越境的キャリアを賭けた著書であり、告発だった。 

≪06≫  こうしてサイードは西洋知の系譜に「オリエンタリズム」の偽装を見いだして、西洋と東洋の対立は捏造であることを指摘した。ここにはサイード自身が西洋植民地主義の辛酸を嘗めさせられたパレスチナ人として体験してきた「個は類である」「類は個である」という歴史的経緯が含まれている。 

≪07≫  これに対してわれわれは、近代日本が帝国主義の仲間入りをすることによって、やっとこさっとこ「西洋の知の系譜」を学んだという経緯をもっている。そこでは、「個」は西洋的な力を借りたものとしてあらわれ、そのうえ近代自我と日本人とが社会史と個人史の両方でぶつかった。一方、多くの日本人にとっての「類」は人類か、日本コミュニティに住む者かのどちらかなのである。アジアなんて、入っていない。このことは多くの日本人における「公」と「私」に対する認識の仕方を見るだけでも、およそ察しがつく。それゆえぼくが知るかぎりでは、「個としての日本人」を強く打ち出した知識人はめったにいなかった。 

≪08≫  ①②③が同時に並ぶと、問題がきわめて難解に軋んでくるもうひとつの理由がある。それはサイードの指摘したオリエンタリズムにおけるオリエントとは、おおむね中東やアフリカを含むアラブ社会をさしていたということだ。サイードはだから、中東に生きる者は一個の「個」であろうとする前に、「アラブ人、セム族、イスラム教徒、中東の多民族」とみなされてきたことを深彫りしてみせた。この中東感覚が日本人にはとらえにくいものになっている。 

≪09≫  日本には中東やアラブは近代史ではまったく登場しなかったし(むしろ先端的知識人はマルクス主義やエスペラント語のような「世界」を好んだ)、現代史においても石油輸入先であることを除くと、イスラムの社会文化を含めて、やはり疎遠のままだった。日本にとっての中東がいったい何であるのか、われわれは子供たちに説明できたためしがない。 

≪010≫  こういう見方は逃げ口上ではないかとも言われよう。たとえば問題を日本と朝鮮半島の問題に置き直しさえすれば、サイードの提起した問題はわれわれにも理解できるはずだということになる。ユダヤ民族やイスラエルの歴史ほどは古くないが、日本と朝鮮の関係は歴史資料があきらかにしているだけでも、紀元前後にまで、あるいは稲作到来あたりまでさかのぼる。「分かれて百余国」にはアジアが入っていた。清盛は日宋交易を好み、義満は明の皇帝の臣下になろうとした。そういう歴史をうけとめ、近代史における侵略と現代史における戦争の意味を現在化できるなら、われわれにもサイードに匹敵する決断や行動がもっとあっていいということになる。 

≪011≫  おそらくは、その通りなのである。われわれの近現代史は「西洋」の役割を朝鮮半島や朝鮮民族に押しつけたのであって、そうであるなら、われわれのなかにも何人ものサイードや何千人ものサイードがいて当然なのである。 

≪012≫  実際にも、「アジア主義」や「東洋主義」というカテゴリーは近代日本が勝手につくったもので、それは「オリエンタリズム」がもつ意味に近いはずだった。ところが、それが幸か不幸か稀薄だったのだ。岡倉天心の「東洋はひとつ」にも萩原朔太郎の「日本回帰」にも、宮沢賢治がかりそめに使った「東洋主義」という言葉にも、このような自覚は稀薄だったし、近代アジアの最大の研究者であった竹内好にも、朝鮮文化を愛した柳宗悦にも司馬遼太郎にも、この自覚はほとんど芽生えていなかった。 

≪013≫  むろんたくさんの例外はいた。藤原新也の『全東洋街道』(集英社文庫)や394夜にとりあげた甲斐大策の『餃子ロード』(石風社)は、そういう例外のひとつであったろう。こうして、われわれはサイードから学ぶべきことを、あらためて新たな例外をめざして考えこむことになる。 

≪014≫  本書はサイードがアラビア語の日刊紙「アル・ハヤート」に隔週連載した文章をまとめたものである。いまはホームページで英語で読めるようになっている。9・11事件前後からサイードがどのようなアピールをしつづけ、何を思索してきたかが手にとるようにわかる。つづいて刊行された『戦争とプロパガンダ2』は2002年前半期の文章が、『戦争とプロパガンダ3︲イスラエル、イラク、アメリカ』にはそれ以降の文章がピックアップされている。 

≪015≫  これらは日本で編集されたもので、時代の隔たりはあるものの、このような独自の編集が進んでいることに誇りを感じることができる。大半を訳した訳者の中野真紀子さんはサイードの『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)や自伝の『遠い場所の記憶』(みすず書房)の翻訳者でもあって、さすがに訳文も訳注も「あとがき」もまことに適確で要衝を心得ていて、サイードの面目を鮮やかに現出させている。 

≪016≫  それでは、これらのサイードのメッセージに、われわれはどのように呼応できるのか。ぼくは残念ながらここで説明がつくほどの答えをもってはいない。答えをもっているのは、たとえば姜尚中である。1995年の「現代思想」3月号で姜尚中が「東洋の発見とオリエンタリズム」を書いたとき、彼はサイードのメッセージの本質を嗅ぎとっていた。 

≪017≫  もっとも、ぼくにもささやかにできることがある。それは『戦争とプロパガンダ』を、サイードの死のあとになってしまったが、2003年が暮れる前に、イラクに派遣されている自衛隊が解散する前に、サイードの最新の抵抗を磯崎新・カイヨワ・宮沢賢治・土門拳につづいて「千夜千冊」の一冊に加えることである。 

≪018≫  本書でサイードが告発するのは、次のような事情の渦中からのメッセージだった。「パレスチナに少しでもかかわりのある者はみな、いま、気の遠くなるような怒りとショックに打ちのめされている。ほとんど1982年の出来事(イスラエルのレバノン侵攻)の再現ではあるものの、現在、イスラエルが(父ブッシュのあきれるほど無知でグロテスクな指示のもとに)、パレスチナの人々に仕掛けている全面的な植民地制圧攻撃は、シャロンがパレスチナ人にしかけた前2回の大規模な侵略よりも、さらにひどいものである」。 

≪019≫  父ブッシュの無知でグロテスクな指示は、指示だけではなかった。武器と兵士とコンピュータが総動員されて、そこにヘブライ語で「ハスバラー」とよばれるものが大量に投下された。プロパガンダである。かつてジョージ・オーウェルはこのような意図的プロパガンダのことを「ニュースピーク」あるいは「二重思考」と名付けた。犯罪行為を隠蔽するのに、とりわけ不正な殺害を隠蔽するのに、正義や理性の勝利を見せかける意図のもとの広報活動をさす。  

≪020≫  アメリカがハスバラーをしているだけではない。まったく同じことをイスラエルの首脳が世界にハスバラーした。ニューヨーカーでもあるサイードの怒りはそこにのみ徹底して向けられる。そして、イスラエルが強固になればなっただけ、それだけ中東諸国の全体に過激な厄災をもたらすこと、それとともに同時にパレスチナ社会が崩壊することを予告する。 

≪021≫  イスラエル政府の言い分は「イスラエルはパレスチナ人のテロリズムに抵抗して生き残るために闘っている」というものだ。サイードはこれを「グロテスクな主張」「狂ったアラブ殺し」と断罪したうえで、しかしその奥にひそむ本質を抉り出した。 

≪022≫  そのひとつは、イスラエルはパレスチナ人を「他者」として扱うことによって、中東およびパレスチナおよびアメリカに対して、イスラエルを不滅あるいは難攻不落に見せるという欺瞞がそこに作用しているということである。ここでサイードのいう「他者」がどういう意味をもつかについての説明は省く(これはなかなかむずかしい)。しかしながら「他者」の本質ではなくて、どのようにこの「他者」を利用するかという戦略ならば、すでにアメリカが「悪の枢軸」や「テロリスト」の“指名”によって何がやりやすくなっているかを見ればいい。 

≪023≫  アメリカという国は南北戦争に始まって、原住民、ハワイ、ナチス、日系移民、日本、ソ連、共産主義者、黒人、キューバ、イラン、テロリスト、イラク、北朝鮮というふうに、つねに「他者」を挑発し摘発することでアメリカの正当性を強力にプロパガンダし、そのつど戦争力を強化し、戦需経済をチューンアップしてきた国である。その戦略はベトナムを除けばほとんど成功したといってよい。 

≪024≫  ところがイスラエルはこの「他者」を内部に抱えていることを主張することで、アメリカがイスラエルを見放せないようにした。のみならずアメリカの戦略の大半を“タダづかい”できるようにした。こういう国は、現在の地球上ではイスラエルだけではないかというのがサイードの見方なのである(サイードは日本や中国には言及していない)。

≪025≫  このアメリカとイスラエルの異常ともいえるほどに欺瞞的な同盟関係を、いったいどうすれば打ち破ることができるのか。むろんサイードは対抗軍事力や対抗テロリズムを持ち出すのではない。もっと悲痛なものを持ち出した。戦争とプロパガンダに対してサイードが持ち出したもの、それは、「一つのアイデンティティ」によって「他のアイデンティティ」をけっして押しのけないという大義によって成立する「バイナショナル・ステート」(二国民国家)というものだった。 

≪026≫  その提案がはたしてどのように有効なものなのか、サイードはそれを確かめる時をもてずに他界した。われわれはこのメッセージをどう受け取ればいいのだろうか。それにしても、①②③を同時に受けとめることを、自衛隊がイラクで何かを体験しないうちに考えるのは、やけに胸がひりつく問題だ。