縁日とガンプラ

縁日とガンプラ(1/3)


昨年11月にちまた公民館で開かれた縁日の話をしたい。この日は、スタッフさんや常連さんたちが用意した「遊び」が目白押しだった。アロマ講座、ラジコン体験会、恋愛妄想詩人ムラキングの占い、浜松の地図を見る会、メイクを体験できる「ギャル部」、「フェイバリットブックスL」の出張書店、アクセサリー屋さん、プラモデルをつくる会……近所の子どもから高齢者、障害がある人もない人も集まり、まさに大盛況だった。


2階には緑色のシートが敷かれ、常連の松本さんが持参したラジコンで男子小学生が遊んでいたので、私も混ぜてもらった。レッツと交流がある訪問看護師のふうこさんは、アロマの手作り体験コーナーを設けていて、辺りには優しい香りが漂っていた。1階ではムラキングが隅っこに座って「来世占い」をしている。その横で詩を書く人や、缶バッジをつくる人。ひょんなことから「先にサイコロでぞろ目を出せたほうが勝ち」という至極単純なゲームが熱を帯び、歓声が沸き起こる一幕もあった。


遊びに参加せず、自分のペースで過ごす人もいた。ちまた公民館常連の村木さんは「あなたにとって、人生で大切なものは何ですか?」と、一瞬ドキっとする質問を周囲に投げかけていた。近所のおばあちゃんがふらりと立ち寄ったり、レッツの元利用者さんが「安かったから」とキャベツを持ってきたり。外に設置された「フェイバリットブックスL」の出張書店には、多くの通行人が引き寄せられてきた。色々な人の出入りで雑然としていたけど、同時にのんびりした空気が流れていた。


 今更ながら11月のイベントを振り返ったのは、とても象徴的な光景だな、と思ったからだ(そしてこのコラムも今回でラストを迎え、いよいよまとめ的なものを書かなきゃ、と思ったからでもある)。ちまた公民館がどんな場所かを説明するとき、居場所とか、オルタナティブスペースとか、色々な言葉が用いられる。ただ私はこの縁日の様子を見て、「文化施設」という表現が一番しっくりくるな、と直感的に思った。とはいえ「文化ってそもそも何だっけ」と疑問に思い、ひとまずグーグル先生にきいてみたところ、文化を「人間が理想を実現していくための精神の活動及びその成果」と定義した文化庁の審議会資料が出てきた。人間の理想…!すごく壮大だ。


 これに乗じてちょっと大きな話をしてみると、人間は大なり小なり、幸せになりたいという欲望を持って生きているんじゃないかなと思う。いまだに幸せがどういう状態を指すのかは分からないけど、ちまた公民館へ半年間通ってみて、「孤独を和らげる手段を持っている状態は少なからず『幸せ』と呼べるのではないか」と考えるようになった。公民館へやってくる人はよく「ここなら誰かしらいるからね」と言う。家で一人で過ごしているよりは良い、といったニュアンスだ。孤独を和らげることが「人間の理想の実現」だとすれば、ちまた公民館を文化施設だと思うのは、あながち間違っていない気がしてきた。そして文化と福祉と街づくりは、すべて地続きなんじゃないか、と思う。さみしいことに、こういった文化施設はとても少ないのだけど。


縁日とガンプラ(2/3)


 ではそもそも、孤独を和らげるって何だろう。ただ他者と過ごすだけで良いというわけではないと思う(もちろんそれで解消される部分もたくさんあるけど)。そこで、レッツが打ち出している「表現未満、」という考え方を引用したい。「表現未満、」プロジェクトのホームページには、以下の説明が書かれている。


「表現未満、」とは、だれもがもっている自分を表す方法や本人が大切にしていることを、とるに足らないことと一方的に判断しないで、この行為こそが文化創造の軸であるという考え方です。そして、「その人」の存在を丸ごと認めていくことでもあります。


 例えばレッツのシェアハウスの住人で、重度知的障害がある久保田壮さんは、タッパーやお椀に石を入れて音を鳴らす行為を四六時中やっている。学校や社会では「問題行動」とされがちなこの行為を、レッツは表現として再定義している。


 この考え方をお借りして、ちまた公民館での日々をとらえ直してみたい。このコラムの前段で、ちまた公民館を「文化施設」、そして「孤独を和らげるための手段」と勝手に解釈した(文化施設というと、歌や絵を制作・発表したり、作品を鑑賞したりするような場を連想するけど、ここではもっと広義なものとしてとらえたい)。さらに一歩考えを進めてみると、人は自分を表現できる場や手段がないときに孤独を感じるのではないか、と思う。


 実際ちまた公民館では、絵を描いたり、詩を書いたりと表現活動にいそしむ人たちがいる。一方で、ぼんやりしたり、誰かに自分の考えをひたすら話したり、質問を投げかけたりして過ごす人も多い。レッツ的に言えば、後者も「表現」や「表現未満、」にあたる。そしてこれらを表現として成り立たせるのは、他者の存在なんじゃないかと思う。受け取る人がいるから、表現だととらえ直す人がいるから、表現は表現として存在できる。排除されることなく、当たり前のように表現が許される場は、色々な衝突も伴うかもしれないけど、少なからず孤独を和らげてくれるものだと思う。


 ちまた公民館でそんなことを考えているうちに、あることに気づいた。自分は、色々な人やその人たちの表現を、知らず知らずのうちに排除してきたんじゃないか、ということだ。「おいアンタ、ここから出ていけ」と面と向かって言ったことはないけど、たとえば誰かを「空気が読めない人」とジャッジしたり、白い目で見たり、逆に見て見ぬふりをしたり。間接的とはいえ、誰かをその場にいられなくしてしまったことがあるんじゃないか。孤独を和らげるのも他者だけど、孤独の原因をつくるのもきっと他者だ。自分が持ち合わせた加害性を自覚することは、人との関わりを再考する出発点になった


縁日とガンプラ(3/3)


コロナ禍で顕在化した「孤独」や「孤立」は、しばしば支援の文脈で語られる。ちまた公民館が開かれた背景にもコロナがある。一方で私は、ちまた公民館にやってくる色々な人たちと話していて、「孤独ってもっと本能的なものなんじゃないか」と思うようになった。金銭的な事情や家庭環境、学校や職場にいられなくなった人にとっての居場所づくりは、喫緊の課題だ。でもそもそも孤独は人間にずっとついて回るもので、一時的に消えることあっても、きっとまたひょっこり顔を出す。大小はあれど、誰もがぶち当たるものなんだろう。孤独に自覚的でない私やあなたにも、居場所は必要なんだと思う。もっともっと、たくさんの人と考えたいテーマだ。


よく考えたら、自分は普段から無意識に居場所を探してきた。それは例えば家族やパートナーシップだったり、仕事だったり、友情関係や趣味やエンタメだったりする。そして居場所は、しばしば変わる。Aが居心地悪くなったら、次のBを探す。Bがなかなか見つからないとき、人は孤独を感じ、時には浮上するのが難しいぐらい沈んでしまう。だからこそ選択肢は多いほうが良いし、ちまた公民館のような文化施設が、どんどん増えてほしいと思う。「ちまた」や「コミュニティ」は、居場所を探す生き物の集合体ともいえるかもしれない。


じゃあハコだけ増えれば良いのかといえば、もちろんそうではない。ちまた公民館を公民館たらしめているのは、遊びや企画を持ち込む人たちの存在だ。たとえばレッツのスタッフである内田さんは、「プラモデル部」なるものを創設した。部活は夕方6時、退勤後に始まる。そう、内田さんは仕事ではなく、あくまで趣味の一環としてやっているのだ。12月に見学させてもらったら、アーティストの辻村さんやレッツスタッフの高林さんやキイチさんが、目を輝かせながらガンプラの話をしたり、実際に作ったりしていた。めちゃくちゃ楽しそうで、なんだかうらやましかった。


 内田さん本人は「なんでこんなに盛り上がっているのか、自分でも分からないんですよね」と首をかしげるが、「少なくとも仕事という感覚はないです。普段のレッツの仕事もそうですけど、これで良いんだろうかと思うぐらい、遊びに近い感じがします」と言う。


 人と集まるとき、私はどうしても目的を考えたり、相手の時間を奪っているんじゃないかとウジウジしたりしてしまう。コロナ禍をきっかけに多くの打ち合わせがオンライン化され、いわゆる雑談をする余白が減り、タイパ(タイムパフォーマンス)なんて言葉さえ耳にするようになった。ちまた公民館は「目的がなくても来られる場所」をうたっていて、なんとなく行ってみたいなあと思う人もたくさんいるだろうけど、このご時世、「どうやって目的なく過ごせば良いか分からない」という人も同じぐらい多いのかもしれない。


 スタッフの穂奈美さんは、ちまた公民館での過ごし方を「プライベートをパブリックにするもの」と表現していた。「私自身、そして内田さんもきっとそうだと思うんですけど、自分一人でもできることを、あえてパブリックな場でやるんです。そこに面白さがあるんですよ」と言う。言い得て妙だな、と思わずうなってしまった。


 遊びや文化は、人の「誰か共にいたい」というごく自然な欲を満たす手段になる。じゃあ具体的にどうすれば良いのかというと、普段は自分ひとりでやっていることを、少しだけ開いたり、他の人におすそ分けしたりすれば良いのだ。そう思うと、ちょっとハードルが下がる気がする。自分一人のものだった遊びは、次第に仲間どうしの「内輪」のものになり、やがて少しずつ公共性を帯びていき、コミュニティそのものになっていく。そしてそれは地方に限らず、都市部でもできる。ちまた公民館は、その実証実験をしてきたのだと思った。