まとまらない原稿

まとまらない原稿(1/3)



 私には、文章をまとめようとしすぎる癖がある。美しさの話ではない。明確な起承転結があり、読者をそつなく結論へ誘導する、そんな「分かりやすい」文章を書こうとつい躍起になってしまうのだ。おそらく前職で新聞記事を書いていた影響だと思う。求められるのは、幅広い読者が急いでいる時でも読める、簡潔な文章。とっちらかった原稿を上司に提出すると「で、原は結局何が言いたいの?」とツッコミが入る。頭の中が真っ白になって「えっとですね…」とよくモゴモゴしていたけど、少し慣れてくると、このツッコミを回避するために先回りする知恵を覚えた。「無駄」な要素をそぎ落とし、とにかく結論を明確に。入社から7年がたったころにはツッコミが入る頻度が減り、少しだけ自信がついていた。


 ところが。会社を離れてレッツと出会い、ちまた公民館で見たこと、感じたことをいざ文章にしようとしたところ、ものすごい違和感に襲われた。咀嚼しきれないことが多すぎるし、分かりやすいことなんて一つもない。考えをなかなか掘り下げられず、浅瀬でおぼれている感じがする。脳内で「で、何が言いたいの」と自分ツッコミが入るので、えいやと書いてみるのだけど、「複雑な事象を単純化しすぎてしまっているんじゃないか」「大事なことを見落としているんじゃないか」と思える。自分が中身のない人間だとバレてしまう、と絶望感に襲われた。


 10月中旬、ちまた公民館で「みどノヴァ」が開かれると聞きつけ、浜松市を訪れた。みどノヴァとは、レッツの代表・久保田みどりさんがファシリテーターを務める語りの場だ。ルールは①人の話を聞く②専門家などの話を引用せず、自分のことを交えて話す③話さなくてもOK-の3つ。結論が出ないテーマについてひたすら話す、まさに思考を深める機会だ。大学では授業でディスカッションする機会があったけど、社会人になってからは目的やゴールが明確な「打ち合わせ」が増えた。ちゃんと話せるだろうかと不安を抱えながら、私もみどノヴァに参加させてもらった。


 この日のテーマは「健康って何だろう」。木製のテーブルをふたつ並べ、周りにおよそ10人の参加者が腰を下ろした。ちまた公民館の常連さんもいれば、初めましての人もいる。それぞれがテーブルに置かれたお菓子を開けたり、前を見つめたりしながら、何となく手持無沙汰な様子でスタートを迎えた。



まとまらない原稿(2/3)


 

10月中旬、ちまた公民館で開かれた語りの場「みどノヴァ」のテーマは、「健康って何だろう」。冒頭、レッツの代表であり、みどノヴァのファシリテーターを務める久保田みどりさんが口火を切った。「みなさん、健康って何だと思いますか?概念は?私は、色々あって良いと思うんです」。そもそも論を掘り下げていくのがみそらしい。みどりさんは続ける。「息子のたけしには重度の知的障害があり、健康の概念が通用しません。例えば、彼は石をなめるんです。お腹を壊すからやめさせようとしても、やめない、やめようがない。しかも別にお腹は壊さないんですよ。往々にして、健康って個人的なものだと思うんですよね」。ちまた公民館常連の村木さんが「なめても安全な石ってあるんですかねえ」と、素朴な疑問を投げかける。いや、みどりさんが言いたいのはそこじゃないんじゃないかな、と内心思うけど、黙って聞いてみる。「石をアルコール消毒したことがあるんだけど、味がするのか、なめて変な顔をしてたんだよね」とみどりさんは笑う。あ、消毒したことあるんだ。他のみんなも少し笑う。その後みどりさんの軌道修正によって、健康のそもそも論に戻っていった。


 次第に、他の参加者が少しずつ話し始めた。父親が肺気腫になったのに煙草をやめなかった話、家族との関係性から考える健康、メンタルがしんどいときに筋トレできるか、散歩中に苦手な人と会うと体調が悪くなる、心と体の健康って同じなのかな、など。話は移り変わり、発展し、少しそれて、戻ったり、戻らなかったりしながら、ゆっくりと進んでいく。


個人的に印象的だったのが、レッツのメンバーで「妄想恋愛詩人」として活動しているムラキングの語りだった。一度絞り出すと、言葉がだーっと流れ出て、少し戻ったり、飛んだりしながら話が進んでいく。参加者の中には淡々と話す人もいれば、周りの話にじっと耳を傾け、ここぞというときにぽそっとつぶやく人もいた。当日私はメモを取りながら参加していたので、その一部を引用したい。


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ムラキング:僕は頭がぶっとんでくると、人に見せられないような詩を書く時があるし、記憶力も低下して、今こうやって話していても、誰が何を話したか覚えていられない。トイレへ行けなくて…和式トイレが無理なんです。(※ここからはメモが取れなかったのか、ぐちゃぐちゃっとした筆跡だけが残っている)健康だから良い生活、ではない。

みどりさん:「健康じゃない」というプレッシャーで余計健康じゃなくなるんだね。


村木:僕は「面白いと思えるものがある」状態が健康だと思います。

ムラキング:村木さんは、学んで知識を増やして、人に伝えることが楽しいんだろうね。それで健康を達成できている。

内田:僕はいつも健康かどうかに自信が持てないんですよ。熱みたいに数値があるとわかりやすいんですけど、例えば「お腹は痛いですか」ときかれると、「痛いような気もするけど…」と思ってしまう。自分の心の状態は分かるけど、体のことは分からなくて、気づいたら重症だったということがあります。危険を認識するセンサーがないんです。

ゆきしま:それは、考えて習得する、訓練みたいな部分もあると思います。


ムラキング:極端にやりすぎないのが良いとされるけど、そもそも「ふつう」がわからない。

山下:「ふつう」の基準って、人によって違うよね。

みどり:社会人として、「ふつう=人に迷惑をかけない」とされがちだね。

ムラキング:周りがふつうだと、ここにいたくないな、と思う。マジョリティの人のレールって、1本まっすぐなものだと思います。マイノリティはまっすぐ進んでいると思っていたのに、「戻ってる?」「斜めに進んでる?」と体感させられる。(略)「レッツに通っている=ふつうじゃない」と思われるのもシャクなんですよね。


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 「その気持ち、すごくわかるな」と思ったり、「そんな見方があるんだ」と目から鱗が落ちたり。自分の頭の中でぐるぐると思考していたら、いつの間にか話が次へ進んでいた、ということもあった。でも、分からない部分もたくさんあった、というのが正直な感想だ。「こういうことかな」と思っても、すぐに置いていかれる。その人なりに脈絡があるのだろうけど、頭が追い付かない。人の思考は複雑で面白い。周りの参加者を見てみると、うんうんとうなずいたり、前のほうを見つめたりしていた。みんなは分かっているのだろうか。

まとまらない原稿(3/3)



 「誰にでもできる会話術」的なHowTo本を開くと、相手と目線を合わせる、良い具合に相槌を打つ、共感を示しつつ質問してみる、などのコツが書かれている。私はあなたの話にしっかり耳を傾けています、そして共感しています、そんなスタンスが大事なのだろう。私もずっとそう思っていた。思い返せば人の相談に乗るとき、カウンセラー気分で「うんうん」とうなずきながら、自分の心を満たしたこともあった。本当に恥ずかしい。

 うまく言えないけど、ちまた公民館で開かれた語りの場「みどノヴァ」では、そういった小手先のようなものが通用しなかった。通用しないというか、あまり意味をなさないんだな、と思った。みどノヴァの参加者は、特に共感を求めて話しているわけではなかった。それに、私がよく理解できなかったり、うまく咀嚼できなかったりした話もあった。共感以前の話である。逆に、自分の話がどう受け止められたのか、そもそも理解してもらえたのかも分からない。予定調和ではない対話は素朴で、とても難しい。

でも不思議と不安になったり、プレッシャーを感じたりはしなかったんだよなあ。この安心感と緊張感が混在する絶妙な感じは、何だったんだろう。みどノヴァでの体験をどうコラムにまとめれば良いのか分からず、原稿が真っ白なまま1か月が過ぎた。さすがに焦り始めたころ、たまたま書店で『水中の哲学者たち』という本を手に取った。学校などで「哲学対話」を実施している哲学研究者の永井玲衣さんのエッセイ本だ。その中に、以下のような一節があった。


哲学対話では、理路整然と自分の考えについて話せるひともたくさんいる。対話のあとで、書いてもらう感想に、しっかりと今日は明確に答えを導きだせました、と記してくれるひともいる。とてもすばらしいことだ。だがわたしは、対話の中でのひとびとの、よどみ、つっかえ、言葉にならなさ、奇怪な論理、わかりづらさに惹かれる。


ああ、何度も哲学対話を重ねてきたプロの研究者の方でもわかりづらいと思っていたんだ。そしてそれを面白い、と思って良いんだ。みどノヴァの記憶が一気によみがえる。参加者の話には、まとまっていないものや、少し矛盾するものもあった。でも話しながら迷子になったり、止まったりしても、誰も「で、結局何が言いたいの?」とつっこんだりしなかった。そもそも思考って迷子になるものだよね、という大前提に立っているからだと思う。集団で話していると、たまに「建設的な議論をしようよ」と言う人がいるけれど、みどノヴァでの語りはもっと柔らかくて、水のようにサラサラとしていて、平熱なものだった。


みどノヴァに限らず、普段ちまた公民館で過ごしていもそんな感じだなあ、とふと思う。今まで「居場所」と言うと、暖かくて、「うんうん」と優しく話を聞いてくれる理解者がいて、自分をすっぽりと受け入れてくれる、そんなオアシスのようなところをイメージしていた。でもちまた公民館で過ごすようになってからは「互いの違いや理解できない部分をちょっとスルーしつつも、一緒に過ごす場」が居場所なのかもしれない、と思い始めた。


たぶん、「ちょっとスルーすること」と「無関心でいること」「誰かを排除すること」の間には、大きな隔たりがある。相手の全てを受け止めようとすると疲れるし、自分のすべてを受け止めてほしいと期待すると、いつか傷つく。だからこそ少しずつスルーしあうんだけど、お互いの言葉には耳を傾け、例えうまく話せなくても、「それってあなたの感想ですよね」などと切り捨てない。安易に共感するふりもしない。そんな塩梅が、居場所をつくっていくのかもしれない。


みどノヴァでよく理解できなかった言葉たちは、少し引っかかるように私の中に残っている。あとで理解できる時が来るかもしれないし、来ないかもしれないなあ、と思う。そしてこの原稿も、やっぱりまとまらなかった。まがりなりにもライターを名乗っているのに恥ずかしいな、と思う。でも分かったふりをするよりは誠実なんじゃないかな。それにここではきっと許されるんじゃないかな、と勝手ながら思っている。