5%の自己開示

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 『怪人マブゼ博士』をご存じだろうか。警察官や精神科医、犯罪者が繰り広げる心理戦を描いた1930年代のドイツ映画で、心地の良いテンポ感と、90年前とは思えない爆発シーンが魅力の作品である…というのは、映画に詳しいレッツメンバー酒井さんの受け売り(実際にはもっと素敵で詳しい説明をしていた)。9月10日、スタッフの曽布川さんと酒井さんがちまた公民館でこの作品を上映するというので、私も参加させてもらった。前日は4人ぐらいでしっぽりと過ごしていたけど、この日は博士をめがけて12人ほどが集まり、ちまた公民館が少し賑やかなミニシアターに生まれ変わった。

 これは色々な人に取材するチャンスだと思い、訪ねてきた人たちに話しかけてみた。白っぽいさわやかなシャツを着た中年男性は、レッツの久保田代表の知り合いだという。映画好きとしては見逃せないと思い、足を運んだらしい。職業は行政書士。「ここの近所に住んでるんだけど、カフェでもできるのかなあと思っていましたよ」と、ちまた公民館の中をキョロキョロと見回す。

 鮮やかな赤いカーディガンを着こなす女性と、おしゃれな金髪ショートの女性は、静岡文化芸術大の学生。曽布川さんと知り合いで、他のレッツのイベントにもかかわっているそうだ。赤カーデの前田さんは以前、市内の別のオルタナティブスペース(自由に過ごせる、いわゆる「居場所」空間)でスタッフをやっていたらしい。居場所での過ごし方を聞いてみると「漫画を読んだり、学校の課題をやったり。他の人とだらだらしゃべりながら過ごすのが好きなんですよ。カフェに入るとお金がかかるので、無料で利用できるのはありがたいですね」とのことだった。

 他にも市内のオルタナティブスペースに出入りする「常連」の村木さん、レッツのもとでヘルパーも務めている写真屋のスミヤさんなど。映画の途中、スタッフさんがレッツの利用者さんを数人連れてきたりもした。利用者さんがおさえめのボリュームで「はっひふっへほ~」と歌っている横で、十数人が映画にじっと見入っている。速いテンポで進む作品に、いつの間にかほぼ全員が釘付けになっていた。

本来ちまた公民館は「目的がなくても過ごせる場所」だけど、この日は映画を見るという明確な目的を持った人たちが集まった。マブゼ博士という共通点がなかったら、一生揃うことがなかったかもしれない顔ぶれだった。



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 以前マスコミで記者をやっていた時は、取材相手の属性を細かく聞くのが鉄則だった。名前、職業、住んでいる市町。年齢を聞く際は逆算してダブルチェックできるよう、生年月日まで聞く。親切な人でも、この時ばかりは怪訝な顔をする。個人情報に厳しい今、そりゃ当然だと思う。

 具体的な情報を確認して記事に明記することで、正確性が担保でき、その人がどんな人かを想像しやすくなる。そう教えられてきたので、ちまた公民館で開かれた上映会でも、相手の属性を尋ねる癖がつい出てしまった。名前は、職業は、年齢は……でも何人かと話しているうちに、なんだかすごく野暮なことをしているような気がしてきた。「ここでは、そこまで知らなくても良いんじゃない?」と思えてしまったのだ。

 たとえば、レッツに通う利用者さんたちにどんな障害があるのか、私は詳しく知らない。自閉スペクトラム症とか、知的障害とか、統合失調症とか、色々な事情を抱えている人たちだけど、ぱっと見誰がスタッフさんで誰が利用者さんかもよく分からない。だからか、私の利用者さんの第一印象は「音楽が好きなたけしくん」「体が大きくてきれい好きな太田さん」「早口な舞さん」といった具合だった。関わっていく中で気づいたり、本人や他の人にちらっと聞いたりした程度で、未だに何の障害があるのかよく分からない人のほうが多い。あと、例えばたけしくんが外出先で車から降りないハプニングが起きた時、スタッフさんが「たけしくんは場面転換が苦手で、慣れるのに時間が必要なんです」などと説明してくれたのも大きい。障害の特性というより、あくまで彼個人の特徴として紹介してくれたのだ。

 もちろん「障害がある人」という認識はあるし、戸惑うことも多々ある。でも具体的な枠組みが与えられずあやふやのままだから、その人の人柄に目がいきやすくなる気がする。一方、前職で記事を書いていた時は、当たり前に「統合失調症の〇〇さん」などとしていた。文字で情報を伝える以上仕方ない面はあるし、自分の筆力の限界もあり悔しい限りだけど、あまりにも機械的な枕詞で読者に先入観を与えていたのではないかとも思う。

 ちまた公民館ではどうだろう。スタッフと訪問者の違いはいよいよ分からない(スタッフさんを探してキョロキョロする人は少なくないし、私も一度スタッフさんと間違えられた)。上映会で出会った行政書士の男性は、属性を詳しく確認するまではひとりの「映画好きなおじさま」だった。

居場所でのんびり過ごそうというときに、パーソナルな部分にズカズカ踏み込まれるのは嫌という人もいるだろう。何なら自分も自己開示は超苦手なほうだ。私はこれからちまた公民館でどのように取材しよう。どれくらいの距離感で人と接すれば良いのだろう。そもそもどんな顔でそこにいれば良いんだ?ぐるぐる考えていたら、いつもの悪い癖でドツボにはまってしまった。

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 浜松市のビジネスホテルでコーヒーを飲みながら「属性」や「自己開示」について考えていたら、一時期通った都内の絵画教室のことを思い出した。心身の調子を崩して休職していたころ、さすがにずっと家にいるのはしんどいと思い始め、気分転換に油絵体験をしにいった。平日の昼間から顔色の悪いアラサー女性が訪ねてきても、先生や他の生徒さんは特に何も聞いてこない。時々「この色良いね」「ここに青を入れると立体感が出るよ」などと声をかけてくれるのがちょうど良い。絵を描くという目的がある以上、そこにいることが当然のように許された気がした。あと、毎回自分の状況を説明するストレスがなくて、とにかく楽だったのだ(ちなみに油絵体験があまりにも楽しくて「入会します!」と息巻いたものの、そのあと退職や引っ越しでドタバタして、そのままになってしまった。恩をあだで返す形になってしまい本当に申し訳ない)。

 ちまた公民館を訪ねてくる人の中にもきっと、色々な事情を抱えている人がいると思う。でも「映画を見に行く」「講座に参加する」という目的があると、それらはちょっとした「隠れ蓑」になりうる。共通の目的に関する何気ない会話が、誰かの癒しや救いになることがある。上映会の日は、誰かにとって映画鑑賞を楽しんだ日常の一コマになるかもしれないし、別の誰かにとっては「久しぶりに人とかかわった日」になるかもしれない。もちろん、ちょっと違ったなという人もいるかもしれない(実際、上映会と知らずにやってきて戸惑っている人もいた)。でもそれで良いのだと思う。



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上映会の日、浜松市で活動するスクールソーシャルワーカーの平川さんが来られたので、合間に話を聞かせてもらった。彼女は「最近のキーワードはやはり『孤立』です」と言う。コロナ禍で一時止まってしまったものの、居場所づくりの動きは次第に増えていて、行政側も後押しするようになってきたらしい。でも「ハコ」があるだけではダメで、誰かが一緒に行くのが大切だという。なんと平川さんは休日もひきこもり状態の人の自宅へ出向き、そうした「居場所」まで付き添っているそうだ。

 平川さんが特に強調していたのが「ちまた公民館は『枠』を設けていないのがありがたい」という点だった。生活困窮、不登校、発達障害。孤立するきっかけはさまざまで、支援の枠組みを一つに括ることはできない。

 私は正直、「居場所づくり」ほど曖昧な事業ってないんじゃないかと失礼ながら思っている(これから取材を重ねて考えが変わるかもしれないけど)。平川さんの話を聞き、その曖昧さこそがみそなのだと強く感じた。「支援する側」と「される側」の分類が毎度明確になりすぎると、お互いにしんどくなってしまう。中には「支援される側」へ回るのに抵抗感を抱く人もいると思う(以前支援団体の方に「生活が苦しくても、生活保護を受けるのは嫌という人は多い」と聞いたことがある)。

みんなで映画を見る、コーヒーを飲む、ワークショップをする。そこで生まれる「ごちゃまぜ状態」のコミュニケーションが、もしかしたら誰かの心をほぐして、土壌を作り、困ったときにSOSを出しやすくしてくれる。その小さな可能性にこっそりかけることが、もしかしたら大切なのかもしれない。支援の「きっかけ」を作る方法は、もはやそれしかないんじゃないかとさえ思えてくる。

 ちまた公民館で取材するとき、相手にどこまで色々聞いて良いものか、今でも正直よく分からない。匿名性が与える安心感はあると思うし、実際自分もそれにあやかった経験があるので、できる限り尊重したい。ただ「この映画、おもしろかったね」「私はあんまり好みじゃなかった」程度の、5%ぐらいの自己開示から始まる何かもあるのかなあと思う。